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中央教育審議会大学分科会

2001/12/25 議事録
中央教育審議会大学分科会法科大学院部会(第8回)

中央教育審議会大学分科会法科大学院部会(第8回)
     
日   時       平成13年12月25日(火)10:30〜13:30
     
場   所       文部科学省別館(郵政事業庁庁舎11階)大会議室
     
議   題
  (1)   法科大学院の設置基準等について/論点を反映した骨子
  (2)   その他
   
配付資料
 
資料1 法科大学院部会(第7回)議事要旨(案)(略)  
資料2−1 法科大学院の設置基準等について/論点を反映した骨子(案)  
資料2−2 法科大学院の設置基準等について/論点を反映した骨子(案)(見え消し版)  
資料3−1 法科大学院の設置基準等について/論点を反映した骨子(案)について  
資料3−2 法科大学院の設置基準等について/論点を反映した骨子(案)について(見え消し版)  
資料4 大学分科会の今後の日程について(略)  
   
(参考資料)  
     法科大学院(仮称)の設置に関する検討状況の調査結果について
      (司法制度改革推進本部事務局資料)
 
     法科大学院(仮称)制度に関する意見募集の結果について
      (司法制度改革推進本部事務局資料)
 

出席者 (委      員) 佐藤幸治(部会長)、高木   剛の各委員
    (臨時委員) 石   弘光、濱田道代の各委員
    (専門委員) 磯村   保、井上正仁、太田   茂、奥田隆文、川端和治、小島武司、 舘      昭、藤川忠宏、藤田宙靖の各委員
    (文部科学省) 御手洗文部科学審議官、結城官房長、工藤高等教育局長、田中総括審議官、清水高等教育局審議官、板東高等教育企画課長、合田大学課長、戸渡学生課長、山根私学行政課長   他

議   事
   
   法科大学院の設置基準等について/論点を反映した骨子(案)について、事務局から説明があった後、質疑応答、意見交換が行われた。
   (○:委員、●:事務局)
   
   
  修了要件が3年以上在学して93単位、短縮で63単位以上となっているが、具体的な中身はある程度決まっているのか。
   
   第5回部会の審議を踏まえ、必修単位数を7単位減らすこととした。必修科目である法律基本科目60単位のうち民事系を36単位から32単位に、刑事系を14単位から12単位に減らし、公法系は10単位のままとし、合計を54単位とした。また、実務基礎科目は要件事実、事実認定の3単位を2単位に減らし6単位を5単位とした。この結果、合計70単位を63単位に減らすこととなり、総単位数100単位を93単位と考えた。
   
   この単位数は、最小限必要なものである。実務関連科目は重要であり、必修70単位を大きく減らすことは適当ではない。トータルの中でこのような単位数として、法律基本科目群をここまで切り詰めるというのがぎりぎりのところだと思う。
   
   単位数の上限が書いていないが、常識の範囲で93単位を上回ってもよいということなのか。
   
   法科大学院の教育が、本来の趣旨のように実質的にできるかどうかは、良質な教育をシステムとしてどう確保するかという問題であり、評価基準として設けるとすればキャップ制のようなものが考えられるのではないか。単位数の修得を青天井に認めることとすると、おそらく詰込み式の授業になるので適切ではないと思う。
   
   大学設置基準では学部にだけ適用している履修科目の上限設定を、基本的には法科大学院にも適用するということであれば、設置基準で上限を書くことが制度的に考えられる。例えば1セメスターに16単位以上の履修を求めるのは好ましくないということを示し、学習内容の充実を図ることが必要であると思う。
   
   学部の履修科目の上限設定というのは、ある種の努力目標というように理解している。したがって、設置基準の中でその要件を書くことは、現行大学設置基準との関係からいっても平仄が合わないと思う。
   
  学部の基準では、学生が履修登録する単位の上限を設定することを大学が定めるように努めなければいけないとしており、そのような基準を法科大学院についても設けることが基本的には適当であろうという趣旨で骨子に示している。
   
   単位の上限設定を各大学の判断で行うという制度を設けることが望ましいというのは設置基準の問題とし、統一的な上限単位数は評価基準の問題として整理すればわかりやすいと思う。
   
   93単位がミニマムであるから、100単位も110単位も取得するというようにならないようにする必要がある。
   
   法科大学院は従来の何百人も相手にして教える授業ではなく、双方向の質疑をやりながらの授業であるとすれば、学生もかなりの予習をしなければならないと思う。当の学生の身になり、いかによい素材として司法試験に臨むことができるかというスタンスで考えるべきと思うが、設置しやすさを優先的に考えた議論になっている印象がある。
   
   単位数については、学生が充実した勉強をして、真に中身を理解するためにはどれぐらいの時間数に抑えるべきかという面と、法曹となるための基礎的なものを身につけてもらわなくてはならないという両面を勘案したものだと思う。設置しやすいということではなく、最初からできるだけ良質な法科大学院をある程度の数を設置できるにはどのような仕組みにすればよいかという方向で議論してきたと思う。
   
   93単位の具体的なイメージは、例えば1年間30単位を3年間取得しセメスター制を前提とすると、8月、9月等の授業のない時期に実務科目を3単位取得するというものである。前期、後期の割り方は16単位と14単位になる。16単位というのは週に8回授業に出席することになるので、ウィークデイの2日間は1つの授業だけを聞き、残りの3日間は2つの授業に出席するというものである。そう考えると、93単位というのは学生の自習時間をむしろ十分にとってい時間設定ということができると思う。
   
   ただ、93単位にいろいろ上乗せされるということになると、学生の自習時間がなくなるのではないか。
     
   上限については、司法制度改革推進本部の法曹養成検討会でも議論になると思うので、懸念するようなことにはならないと思う。
   
   単位数をミニマムにするか、標準的なものにするかという程度の差ではあるが、93単位程度の取得が普通であるというのは同じ考えである。ただし、実際に取得させる単位数が100単位以上になるような構想であるべきではない。
   
   2年での短期修了に関し、その運用に当たっては意見書の趣旨を踏まえることが必要というのは、文章としては趣旨が曖昧である。これは2年での短期修了はあまり認めないという趣旨なのか、短期修了を認める場合であっても、意見書の趣旨に留意しなければならないという趣旨なのか。
   
  3年が標準修業年限ということから、2年制の短期修了を受け入れる割合をどの程度に設定すべきなのかということについては、設置基準の考え方として、数量的な枠をはめるということは困難であると思うが、運用上のねらいとして意見書の趣旨を踏まえることが必要なのでそのような表現になっている。
   
   「その運用に当たっては」ではなくて、「短期修了をするかどうかについては」というように書くべきではないかと思う。また、「その運用」というのは何の運用なのか。
   
   趣旨は、標準修業年限は3年で、2年短縮修了を認めるものであるが、3年制と2年制のどちらが原則か例外かという言い方はしないということであり、3年制と2年制の割合について示すことは難しい。しかし、多様性の確保についても意見書では強調されていることも十分汲み取って運用してほしいということである。
   
   ここで踏まえるべきは趣旨は多様なバックグラウンドの人を入れるということではなく、2年短縮型になると視野の狭い法律ばかりやっている人が入ってくるおそれがあるということなので、意見書の「視野の広い人間をつくる」という箇所を引用すべきだと思う。
   
   視野の狭い人ばかりになるという趣旨ではなく、現行の司法試験制度のオープンな面などを制度にそのまま受け継ごうということだと思う。3年と2年のどちらが原則か例外かという位置づけはせず、法学未修者でも3年で法曹としての基礎的な力をつけられるような体系を組むということから3年制を標準型としている。また、法学部を存置することを前提にしており、そこで基礎を勉強してきた人については、2年の教育を施すことによって3年の教育を受けた人と同じレベルの人をつくり出すということだと思うが、意見の法学部出身者以外の人も幅広く受け入れるべきだという趣旨を踏まえると、2年制がほとんどになってはいけないと思う。
   
   3年制を想定するということが議論の前提であり、圧倒的多数が法学部出身者で2年コースだという仕上がりになるような検討は違うのではないか。法曹養成の今日までの反省点を踏まえているはずなのに、結果的に法学部出身者が多数を含め、また、今の一発試験主義のいいとこどりの論理ばかり組み立てるというのはどのような意図なのか。そういう意味では2年を認めるというのは重複した期間を過ごさせることをやめるということにしか説得力がないことを踏まえると少なくとも3割や4割は他学部や社会人が入って来るというイメージだったと思う。
   
   他学部や社会人の一定割合については、司法制度改革審議会で3割という意見も出ていたと思う。
   
   司法制度改革審議会でその割合については詰めた議論はなかったと思うが、今の司法試験受験者の実績から見ると、受験者の8割近くが法学部出身で、合格者を見ると9割ぐらいが法学部出身だという現実も無視することはできない。その数字と、今後開かれたものになれば様々な人がどんどん増えてくるだろうということの両方を踏まえて、最初の数字としてはある枠を決めて、その後は随時変えていくという趣旨だったと思う。しかし法学部出身者以外の人が実際に入学のときに入ってこれないような制度にするのは、趣旨からして認められないので、法学部出身者以外の人が最低限このぐらいは必要だということが定まれば、入学の際にそのような人が入りにくいような制度になっていれば設置審査の時に指導する必要はあると思うし、第三者評価で厳しく指摘しなければならないと思う。そのような形で担保するということが意見書の仕組みになっていると思う。
   
   その運用に当たっては」については角度から外部の人が読むと趣旨がわからないというところもあると思うので、最小限度の修文は必要であると思う。
   
   事前に厳しく規制するのはどうかということで、ミニマムの設置基準だけを示すとしても、それが曖昧なものであると申請者の側からすると非常に迷うことになると思う。また、設置申請の段階で指導が入るということが望ましい姿かどうかと思う。したがって、一定割合以上入学させる措置等については今後、最終結論までの間に具体的に審議することとし、曖昧でわかりにくい表現は削除していく方向で検討するということではどうか。
   
   司法制度改革審議会で当時考えられていたことは、第三者評価の機構が早くでき、そこで示されたものを受けて設置基準を考えるということだったが、第三者評価機関ができていないため大学等の準備も勘案して、この部会で、とにかく設置基準を考えるということになった。ただし、その際やみくもに考えることはできないので、バックグラウンドや第三者評価のところで考えるべき事柄も議論しなければならないということで、これまで議論してきたと思う。今後司法制度改革推進本部の法曹養成検討会で議論したことを受けて、部会でもさらに議論して、設置基準としての中間取りまとめや最終報告に向けていくことを踏まえると、今の段階でがちがちの議論ではかえって話が難しくなってしまうと思う。
     
   法曹養成検討会では、法科大学院という形態について大学院の仕組みの在り方と法曹養成の在り方ということを、どういう枠組みの中に整合性をもって位置付けていくのかを検討していると思う。、部会の方は、例えば、非法学部出身者の一定割合といっても1から100まで一定であり、ある程度、玉虫色の議論のような印象である。
     
   部会としては部会としての独自な立場で審議すべきものであり、法曹養成検討会で検討が進んでも部会としては国民の反応を見ながら、さらに審議をしていくことになる。
   
   前文において従来の法学部の在り方を所与の前提とするのではないということが明示されたので、相当方向性が見えてきたと思う。全体の趣旨としては、法学部があるという現状は急に強制的に変えることはできないが、将来は法学部の在り方も変わり、法曹養成は法科大学院に集中し、3年制の法科大学院に様々なバックグラウンドを持った人が広く集まるという形で変わっていくと思うので、そのようなイメージのもとに、収斂する方向が常に意識された形で議論しなければならないと思う。そうでないと今の法学部をそのまま固定して、2年制は未来永遠続く制度ということが前提となり、法科大学院が法学部の延長ということになりかねない。2年制は過渡的な制度であるなどのイメージがどこかに出てくるような形の表現が必要と思う。
   
   学部段階で法学を中心に教育をしていく意義は法曹養成とは別にあると思う。そこで教育をしっかり受けた人も法科大学院に入ってくることを前提に考えざるを得ない。法学部は実質的には解消するという議論はおかしいと思う。
   
   法学部の在り方に関しては、現在教養教育の在り方との関連で、学部教育は今後どうあるべきかという大きな議論が、中央教育審議会の別の会議で行われている。
   
   あらゆる分野で働く人たちに共通して、子供のときから培った教養がなければならず、そのことをロースクールの設計の段階でも組み込むというのは大事なことでありる。また、、従来の法曹養成制度において、法律の下地を持った人たちが来るという前提しかなかったという問題から脱却し、例えば、会計をよく知っていなければ民事ができないとか、生命科学のことを知っていないと扱えない訴訟分野もあるということを今後考慮していくことが重要である。
   
   高等教育全体の中で法科大学院を位置づけつつ、その中で法科大学院固有の問題も考えていくことにより議論を収斂するということは、そのような大きな問題の検討の中でこの法科大学院の問題が扱われているということであることを理解する必要がある。
   
   法学部教育が将来どのようになるかについては、法学部独自の問題が多いと思う。例えば、公務員の養成をどうするか、あるいは法曹にならない準法曹的な部分の教育をどうするかということも含めて、現在、各大学で模索中であり、それを考慮せずに固定的な議論を行うのは難しいと思う。そのような意味では、将来、非常に長い目で見るという部分と、もう少し中期的に見る部分は違うと思うので、この段階で、基準を数値という形で明確化したとしても、それが本当に意味のあるものかどうかということを考慮しておく必要があると思う。
   
   専任教員の在り方に関し10年の経過措置は長いと思う。早く立ち上げることの大切さは十分認識するにしても教える側の体制としては、高いレベルでの形態が必要なのではないか。例えば、実務家教員が地方へも積極的に参画していく必要がある。
     
   非常に充実した密度の濃い授業をしないと目標としている法曹は育たないと思う。このため、教員に法科大学院では今までの法学部教育とは全然異なる教育が求められ、自分自身も研修を受けるなど、大変負担の重い任務になることを理解させるということを前提に制度設計をする必要があることを考えると、兼任を認めるということについて、躊躇せざるを得ない。専任教員のうち3分の1は兼担できるということは、法科大学院専任教員の数が少なくてもいいということになるのではないか。兼任を認める場合は、両方で0.5人とカウントし、実際の専任教員の数としては倍数確保しないと認めないということで、できるだけ専任教員を各法科大学院が確保するように誘導するべきと思う。また、経過措置で10年間というのは長いので、せめて法科大学院3年間を2回繰り返す6年間にとどめるべきではないか。さらに、法科大学院の教育に支障を生ずるような兼担をさせてはならないということを明示するべきではないか。実務家教員についても、事実上非常勤を専任教員としてみなすのではなく、0.5人とカウントして、密度の濃い教育をするための専任教員の確保は絶対必要だということをしっかり打ち出すべきではないか。
   
   専任の緩和措置の問題は、ポストの問題ではなく、優れた教員を法科大学院で専任教員として確保することができるかどうかということが最大のポイントだと思う。ここの数を最初から増やすということは、必ずしも十分な水準を満たしていない教員を専任教員として採用するという方向に流れてしまい、むしろマイナスの方向に作用することも考えられる。こういう緩和措置がどのような問題を生ずるかということを試算的に考えると、例えば専任教員が12名の場合、4名が兼担できることになり、また実務家教員については2割程度すなわち、3人と考えると、大学の研究者教員が9名、実務家教員が3名となる。その研究者教員のうち4名が学部兼担ということになると、研究者教員としては5名が完全な専任教員となり、実務家教員としては常勤の専任が1名、非常勤が2名となる。このことを前提として純粋な専任教員が1年間で10単位を持つとすると、常勤の専任教員は研究者教員の完全な専任教員5名プラス常勤の実務家教員が1名で合計60単位の授業を受け持つことになり、一方で残り4名の学部兼担の教員と実務家教員の非常勤2名がそれぞれ6単位を持つことにすると、これらの教員で36単位の授業を受け持つことになるので、専任教員全体で93単位以上の授業をカバーすることができるということになる。したがって、0.5人としてカウントするというような措置をしなくても、授業の負担割合の中で対応することは十分に可能だと思う。
     また、前回の議論では、10年が非常に長いというのには2つの趣旨が含まれていたと思う。1つは10年そのものが長いという発想と、10年と書くと、もっと長くなるのではないかという懸念だったと思う。まず、後者については、「概ね10年程度」というのを「10年を目途とする」と変えたことで、その懸念を排除することができると思う。また、前者に関して、法科大学院の標準修業年限の3年間を2回繰り返す6年間とすべきという意見については、実務家教員になるためには、例えば法科大学院を経て、実務修習を経て、さらに少なくとも5年の実務経験を経るということになると、それだけで7年以上かかることになる。研究者教員についても、実務的な素養を持った研究者を大学で迎え入れる期間を考えると、5年というのはあまりにも短く、むしろ10年でも非常に厳しいという感覚がある。
   
   実務家教員については、実務経験を少し経れば、研修を少しすれば教員になれるというわけではなく、研究者教員についても研究の基礎から経験を積み重ね、一定の実績のある研究をしないと研究者教員とはいえないので、これを踏まえると10年というのはかなり厳しい数字だと思う。
   
   この激動の時代に10年という経過措置の期間は相当長期であり、「やらない」というメッセージとして受け取られかねない。国民各層からの意見を受けるために出す骨子を議論していることを考えると、前回の意見なども踏まえて部会としての考え方を明確にする余地があるのではないか。例えば、端的に「10年以内」と表現するといったことも考えられるのではないか。
   
   0.5人とカウントするのはやめるにしても、せめて学部と法科大学院とで授業を持ち、実質上法科大学院の教育を充実できないということを避けるために、「当分の間」の前に「法科大学院の教育に支障を生じない場合には」と限定をする必要があると思う。
   
   授業負担の問題というのは非常勤の場合も含めて、評価基準のところで考慮される事情だと思うので、設置基準とし取り込むというのは難しいと思う。
   
   「授業方法等」部分で盛り込まれている教員の研修の取り組みについての記述が教員資格の関連でも付け加えたということは、教員として採用する前にもこのような研修や実務に接する機会を設けるということを意味しているのか。
     
   教員資格はあるにしても最初のうちは研修などが必要だという趣旨として、採用した後はこのような配慮が必要だという文章にすればいいと思う。
     
   本来研修などは、自主的、自発的に行われるべきものであり、制度で縛るのは難しいと思う。
     
   実務家教員が実務の経験を話すだけという講義をしてお茶を濁してしまったり、研究者教員が全く実務を意識しない教育を行ってしまったりすることのないように、法科大学院の教員にとっては、研修などは常識だという趣旨をする意味で2箇所に書いた方が適切である。
     
   実務家教員とそれ以外とを区別するために研究者という言葉を使っていることからも象徴的にわかるように既存の学部の教授は研究者であるというような発想があるのではないか。研究者なる教授たちの教育方法というのは人によってさまざまであるが、研究だけしていれば優秀であるが、教壇に立ったらどうしようもないという人が多いことも踏まえると、実務家教員だけでなく、法科大学院の教育に当たる者すべてに研修などは必要だと思う。
   
   研究者教員というのは文部科学省の常用語なのか。
   
  実務経験を有する教員と区別をする上で使ったものである。
   
   専任教員、兼担の問題と常勤、非常勤の問題で、実務家教員のところでは常勤という言葉や、割合なども書いてあるが、研究者教員のほうは専任と兼担の問題だけ出てきており、常勤ということについては一切触れられていないと思うが、そこの関係はどう理解したらいいのか。
   
  専任と兼担、常勤と非常勤というのがそれぞれペアの概念になっている。例えば研究科の教授が学部と研究科の授業を兼ねている場合には、研究科で専任、学部で兼担という言い方をするが、一方、実務と大学への授業を兼ねている場合はむしろ常勤、非常勤という言い方をする。すなわち、本来大学の先生については、専任なのか兼担なのかを問題にしながら他方、実務家については、常勤的な勤務形態か非常勤的な勤務形態かということが問題となるので、大学の中の複数の部局を兼担する場合とは区別して考えられている。
     
   私学の場合には契約書なしで雇われるのが専任教員となり、契約書で雇う教員を非常勤雇や有期任用教員と呼ぶ。運用の目途として契約書は1年単位で更新するが、3年以上雇い続けると定年まで雇ったのと事実上同じことになるので、大抵の大学は3年で一旦切っている。そのような非常勤や有期任用というやり方を各大学は上手に使うと思う。
     
  専任か非専任かというのは本籍と現住所の関係のようなもので、本籍は日本全国1つしかないが現住所というのはあちこちあり得るものと同様である。例えばある大学のある研究科の担当であれば、そこで給料が支給されているということで本籍が1つだが、別で講義などをするということで、現住所は複数あり得る。大学院でいえば、1つを専任としてカウントすれば、他は専任としてカウントしないというルールで今まで運用されていた。しかしながら、専任でないと安易に流れるというのは論理的には必ずしも結びつかないものであり、例えば、勤務時間が40時間の人だけではなく、大学院の充実のために他の大学でも授業を持ち、かつ、法科大学院で責任を持ってやってもらう人がいるということもあり得ると思う。大学の側からすると、専任、兼任をどうカウントするかというのは、どこの教授会に属して人事権を行使するかということと関係があり、ほとんどの大学では、ある学部内の研究科で教授会の構成員として人事権を行使できる投票権があれば他の部局では認めないというのが暗黙のルールとなっているものであるが、法科大学院の教育、あるいは研究指導を実施するために最小限のマンパワーとしてどれぐらい必要かということについてはこれまでも議論してきたはずなので、それにプラスして各大学がどう特色づけして、いい指導者を集めるかというのは、大学毎の工夫にかかっていると思う。
     
   最もわかりにくいのは、単なる非常勤と常勤の専任ではない実務家とは何が違うかということだと思うが、後者は、例えば、授業の時間割りをどのように編成するか、成績の判定についてどのような基準で行うか、入学試験にどのように参画するかという法科大学院の教育の在り方に全体として責任を持つという意味で単なる非常勤とは全く違った形で法科大学院のカリキュラム運営に責任を持つ非常勤と専任の中間的な形態というように理解すれば趣旨が明確になるのではないかと思う。
   
   新しい教育制度を作ろうとしている以上は、基本的には教育目標を達成するための責任体制をまず作り上げた後でゆとりが出てきた場合にほかの部分にも手を出していくというような発想で考えていく必要があると思う。また、法科大学院構想の関係では、連合大学院といった新しいシステムも考えられており、兼担や専任の問題など、従来の大学と大学院との関係だけでは完全に割り切れない、新しい問題もあり得るということに注意する必要がある。
     
   研究者教員という言葉が出ているが、大学の先生の本務は教えることと研究することとどちらなのかという疑問があり、教えることについては力不足の教員が多いのではないかという印象を受ける。また、兼任の場合、きちんと準備をして授業に対応するということについて、意識が専任の場合よりも弱くなると受けとめざるを得ないと思う。
     
   学生数の記述に関し、「例えば、法律基本科目群の講義であれば」とあるが、法科大学院の教育方法として講義方式、演習方式等いくつかがあることを踏まえると「授業であれば」と直すほうが文言として適切だと思う。
   
   法科大学院では、様々な事を理解し人の悩みをわかる人を養成するというものであるのに、教養教育については学部では何もやっておらず、また、法科大学院でも授業科目の例としてそのような部分がほとんど盛りこまれていない、それでは、議論してきた趣旨とは大分違うと思うが、どういう議論でこのようになったのか。
     
   法学部卒であるか、他学部卒であるかにかかわらず、学部段階に教養教育科目を履修してくる人は多いと思う。また、法科大学院においても例えば、法学隣接科目の政治学や法と経済学というの科目については、学部でとっている人もとっていない人もいるかと思うが、広い意味での社会科学の素養という部分に対応するのではないかと思う。
   
   これはロースクールの科目の例であり、法科大学院というのは法律のプロフェッショナルをつくる養成機関なので、ここでは、科目例のような組み方しかないと思う。しかし、この科目例も豊かな教育をするためのプロセスとしては意味を持つと思う。どの専門を勉強して生きても、その専門に傾斜した教養を受けているはずなので、法学部の出身者は法律しか頭にないというイメージだけで議論をしては困ると思う。問題は司法試験の勉強だけをやることにより、それ以外の時間に余裕も興味もなくなっているという人では困るということであり、入試段階の問題である。すなわち、入学の際は法律の科目の成績さえよければ優先的に入れるということではなく、様々な勉強や活動をしてきている等の要素を考慮して、総合的に判断するということが重要であり、趣旨もそこで盛り込まれていると思う。
   
   法学部は教養も専門も教えるということだったが、実際上非常に中途半端になっているということの反省もある。法学教育との関連部分でも盛り込まれているが、法科大学院で集中してプロフェッショナルを育てることとの関連で、法学教育の在り方についても自ずから対応を考えていくことになるだろう。
   
   設置基準に第三者評価(適格認定)と書くことが適当かどうかというのは若干疑問に思う。適格認定というと、一般的には司法試験の受験資格の付与の認定と思ってしまうのではないか。司法制度改革審議会意見書の70ページでは、第三者評価は、教育水準、成績評価、修了認定の厳格性を確保するために実施すべきとなっており、また法科大学院の第三者評価(適格認定)の仕組みはその水準の維持、向上を図るためのものであって、設置認可や司法試験の受験資格とは密接に関連しつつも、独立した意義と機能を有するものであるということも書かれている。問題意識として司法試験をどのように法科大学院とリンクさせていくかということを、法制面で検討している中で例えば、第三者評価機関がまれに不当に不適格の認定をした場合、それに対する不服申し立て、あるいは行政訴訟が提起され得る仕組みとすることも考えられる。さらにこの場合、第三者評価機関が行政機関的なものになる場合と公益法人的になる場合などが考えられるが、それが行政機関的なものになれば、それ自体が行政訴訟の当事者となることはあり得ると思うが、公益法人などの場合そのような仕組みでまかなえるかどうかという問題があり、場合によっては受験資格の認定という関係から司法試験管理委員会側は何らかの当事者とならざるを得ないということも視野に入れて検討する必要があるのではないか。司法制度改革審議会では、そのようなイレギュラーな事態まで想定して議論をしたわけではなく、きちんとした評価を与えれば、それにより当然受験資格が付与されることが意見書に書いてあると思うが、第三者評価機関の在り方と司法試験の関係は、基本的に司法制度改革推進本部で検討していくことになる。このため、この時点で法制面で縛ってしまうような表現になるのは適切ではないと思うので「適格認定」を削るなど、第三者評価機関が受験資格の付与という最終的な公的の意思決定をすることは必ずしも意味していないことが明確になるような配慮が必要だと思う。
   
  第三者評価と適格認定については、これらの中に大学のアクティビティーに対する評価、加盟審査、あるいは適格認証という幾つかの作用が含まれていることを前提とした上で、どのようなシステムを組み立てるかということが、司法制度改革審議会意見書の中では、第三者評価(適格認定)として一体的に書かれている。設置基準の規定内容とは別に、第三者評価(適格認定)が、教育水準の維持向上という側面と、一方で資格とリンクするという2つの側面があるということを踏まえた上で整理したものを、今回踏襲するという考え方である。規制改革委員会において、設置認可、設置基準の簡素化という問題と合わせて、大学における教育研究の質の維持、向上という観点から、第三者による継続的な評価、認証システムを14年度中に制度として結論を出すべきという答申をいただいているが、その中身としては、第三者認証システムを導入した結果、法令違反等の事態が明らかになった場合には、文部科学大臣による是正措置というものを念頭において、全体のシステムとして構築すべきというものであり、将来構想部会においてはその答申を踏まえ、設置認可の問題とアクレディテーションの関係について検討している。法科大学院のシステムをどう組み上げるかという一方で、大学制度全体の中で設置認可の考え方がどのような形で大学に対して通用されるべきかについても検討しているところである。
   
   司法制度改革審議会意見書によると第三者評価(適格認定)、大学院としての設置認可、司法試験の受験資格はそれぞれ別の事柄であるが、相互に関連しているとされていることを踏まえながら、今後検討する必要があると思う。受験資格との関係では、適格性に関する第三者評価機関の評価は実質的に尊重されることであり、それがただちに受験資格の法的決定ではないということで、この表現を変えないとしてもそのような問題があるということは部会として認識しておく必要があると思う。
   
   司法試験の受験資格の認定と第三者評価(適格認定)に関し、その両者は密接に関係するが完全に同一ではないということについては、意見の対立があったわけではないので表現としてはこれでいいと思う。
     
   第三者評価に関し、チャータリングとアクレディテーションとあるが、用語の使い方としては、摂氏認可の審査がチャータリングではないので法科大学院の設立時の設置認可(チャータリング)の審査とした方がよいと思う。また、アクレディテーションと適格認定という言葉の関係が、初めて見た人にはわからないと思うので、アクレディテーションの訳として適格認定という言葉を使っているということがわかる書き方にすれば、司法試験との関係の適格認定ではなくて質の認定ということがわかるのではないか。
     
   意見書では、アクレディテーションのことを適格認定という言葉で表そうということを当然の前提として議論していた。
   
   第三者評価(適格認定)について、このまま各界の意見を聞くという形で出ていった場合に誤解されるというおそれもないわけではないので、表現の工夫が必要。
   
   第三者評価がアクレディテーションというと誤解が生じるかもしれないので、「適格認定=アクレディテーション」などと書けば、はっきりすると思う。
   
   奨学金、教育ローンについては、法科大学院に入る学生のみの奨学金制度をつくるという趣旨で理解しているが、なぜ法科大学院にだけ創設するのかという意見が当然出てくると思うので、日本弁護士連合会などでも全面的に支援し、特にこれからの法曹界の人材養成と一般の学生とは違うという趣旨のことまで踏まえてやらなければ、かなり反発が出ると思う。法学部の学部3年次からの法科大学院への飛び入学の関係では、その表現が「望まれる」を「考えられる」とトーンダウンしているので、かなり慎重すべきという意味だと理解しているが、実際のところは法学部3年で修了し2年短縮型に行けるというのはかなり魅力的であり、そのようなことを売りものにするような私学が出てくるのではないかということが非常に心配であるので、制限的にする方がいいのではないか。
     
   意見書自体がかなり積極的な書き方なので、それとあまり大きく離れた書き方もしにくいと思う。
   
  3年の早期修了というのはあらゆる学部について成績優秀者に認められている制度であり、例えば文学部3年早期修了は認められるが法学部は認められないというのは制度的に整合性がとれないと思う。それぞれの大学の見識と学生の能力の問題ではあるが法科大学院だけ門戸を閉ざすというのもどうかと思う。
   
   3年次からの飛び入学は制度的に認められているが、まだほとんど実施されていないという意味で、法科大学院に入れる場合と単に学部だけ出る場合とでは随分違ってくると思う。飛び級をあらゆる学部で大幅に認める方向でいくのかどうかということではないか。他学部ではあまりやっていない現状において法学部だけ広く行われるということでは法科大学院の教育は非常にルーズになると思う。
   
   奨学金のほうも法科大学院だけということではないが、突破口にせざるを得ない。
   
   学部3年次からの飛び入学という選択肢を相当程度活用することが適当かどうかは大きな問題だと思う。これは専門領域や大学院重点化の度合いなどによっても違うので、現状を固定して考え、あまりそこに踏み込まないほうがいいのではないか。
   
   入学者選抜の部分に関し、法学既修者については法学部出身者ではなくても法学既修者として認められるという趣旨だと思うが、他学部の法学科出身者というのは、非法学部出身者という扱いになるのか。
     
   法学既修者かどうかは試験で認定するということなので、学部あるいは学科によって決まるものではないし、法学部出身者の区別も難しいが、実態としては法律を学んできた人は法学部のほうに入ってくると思う。
     
   法学部以外の学部出身者等を一定割合以上入学させるということから、法学部出身者の定義を示さなくてもいいのか。
     
  例えば、法学部、法学系学科といったような表現があり得るかと思う。
     
   これについては設置基準の問題というよりは第三者評価の問題であり、その検討の中で、社会人で法学部出身者というのも含めて明確にしなければならないと思う。
   
   記述と直接関連するものではないが、従来の大学教育は、研究重視だという反省は正しいにせよ、法科大学院は反研究的教育機関のような誤解が生じているのではないかと思う。むしろ、実務を踏まえて実践的な教育をやっていくことにより、結果として従来より1段高い真の研究が生まれてくるのではないか。そのため、法科大学院の設立は真の意味での研究を達成するという意味においても不可欠であると思う。
   
   前文では司法制度改革審議会意見書の引用部分が相当長いので、前後の文章のインパクトが弱くなると思う。むしろ引用の部分は例えば意見書のページ数を挙げるなりして引用をした方がメッセージとしてはよりよくなると思う。
   
   表現ぶりについては、今回の意見を踏まえ修正した上で、骨子として発表したいと思う。   
   
次回の日程
  次回は日程調整をした上で連絡することとなった。

(高等教育局高等教育企画課)

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