- 1 日時
- 平成14年11月21日(木) 13:30〜17:30
- 2 場所
- 司法制度改革推進本部事務局第1会議室
- 3 出席者
-
(委 員) | 塩野宏座長、市村陽典、小早川光郎、芝池義一、成川秀明、福井秀夫、福井良次、水野武夫(敬称略) |
(事務局) | 松川忠晴事務局次長、古口章事務局次長、小林久起参事官 |
- 4 議題
- 論点についての検討
- 今後の日程等
- 5 配布資料
- 資料1 行政訴訟の類型に関する検討資料(補充)
- 6 議事
- (1)論点についての検討(□:座長、○:委員、△:外国法制研究会委員、■事務局)
- □今日の議事日程は、取消訴訟についての検討を訴訟類型の検討と関連させながら、議論を深めるということだ。訴訟類型そのものについては、既に前々回に一応の議論はいただいている。訴訟類型と取消訴訟をどう設定するかについては、非常に深い関連がある。そこで今日は他の訴訟類型について、事務局の説明があるが、その過程において、取消訴訟についての前回の議論も踏まえながらの検討もよろしくお願いしたい。
■資料1は、(1)として「抗告訴訟という訴訟類型の意義」という項目を設けてございます。抗告訴訟は、「行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟」をいうとされておりまして、第8回のときに事務局からもご説明申し上げたように、行政事件訴訟法は抗告訴訟と当事者訴訟を主要な訴訟類型として、まず最初にそれを併せたものが行政訴訟であるというような形の行政訴訟の定義がされている、ということで、この抗告訴訟が非常に大きな意義をもっているわけです。その抗告訴訟について、「公権力の行使に関する不服の訴訟」と定義をしたことから、そういったことと行政庁の第一次的判断権の尊重と関連させて論じている極めて有力な見解として田中二郎先生の教科書を参考に掲げたものでございます。これは司法制度改革審議会の意見書におきましても、行政庁の第一次的判断権の尊重というものをどう考えるかという問題の指摘がありましたので、抗告訴訟と行政庁の第一次的判断権の関係について、ご検討をいただきたいということでございます。田中二郎さんの教科書を読みますと、1頁のところにありますように、「抗告訴訟の抗告訴訟たるゆえんが、行政庁の第一次的判断が明示的にしろ黙示的しろ公権的に下されていることを前提として、これに抗議し、それによって生じた違法状態を排除することにあるとすれば、単純に行政庁の第一次的判断を求める給付訴訟とか、行政庁に第一次的判断をすべき義務があることの確認を求める義務確認訴訟とか、さらに行政庁の権限の不存在の確認を求める訴訟のごときは、少なくとも抗告訴訟の範疇には属さないといわなくてはならぬ。」と、こういうような考え方を述べられておりまして、下から8行目の(注)のところで、「司法権は、行政権の第一次的判断権を尊重すべきものであって、ただ、それが違法に行なわれた場合に、これを取り消し変更し又はその無効の確認をするに止まるべきであって(行政庁はこれに拘束されて何らかの行為をすることになる)、司法権が行政権に代わって一定の処分をするとか、行政権に対して具体的な特定の処分を義務づけることは、行政権の第一次的判断権を侵し、行政権に不当に介入するものとの非難を免れない。それは司法権と行政権の本来の機能の差異を無視し、行政責任の原則を紛糾させ、ひいては、司法権万能に陥らせるおそれもないではない。」と、このような考え方を述べられているわけでございます。
他方で、取消訴訟以外の抗告訴訟、つまり抗告訴訟一般についてどういう特色があるのかということを法律の規定から探してみますと、それが2頁の1行目から挙げられておりますように、被告適格として、「訴えは行政庁を被告としなければならない」ということと、管轄の問題として、「行政庁を被告とする抗告訴訟はその行政庁の所在地の裁判所の管轄とすること」、それから3番目に「当該処分又は裁決に係る事務の帰属する国又は公共団体に対する損害賠償その他の請求への訴えの変更ができること」、それから4番目として「訴訟の結果により権利を害される第三者の訴訟参加ができること」。この4つが条文の規定のみから見ると、こうした特色が挙げられることになるわけでございます。④の「第三者に対する効力」ということになりますと、取消訴訟以外は法律上は第三者に対して効力を有するとはされていませんので、こういう規定をする必要があるかどうかというのはなお検討をする必要があるのではないかという問題と、それから②と③で挙げましたところは、行政庁が被告になっているということと密接な関連を有する規定であるということからすると、前回ご検討いただきましたように被告を行政庁から行政主体、国または公共団体に改めるような方向で検討するとすれば、こうした規定の見直しについても検討が必要になってくるのではないか。さらにこのような取消訴訟以外の抗告訴訟一般というものを考える必要性というのは、それについてどういう規定を設ける必要があるかということから、さらに検討していく必要があると思いますので、今後の取消訴訟以外の訴訟類型というのはまずどういうものが必要かということを考えていった上で、さらに抗告訴訟という訴訟類型の要否というのも検討していく必要がでてくるのではないかと、このような問題意識をここに掲げた次第でございます。
次に、無効等確認の訴えにつきまして、(2)にありますけれども、この無効等確認の訴えは、抗告訴訟とされておりますので、公権力の行使の無効確認、したがいまして、行政庁の処分に対する無効確認を念頭に置いているということでございます。その問題点につきましては4頁の③という項目のところに、「無効等確認の訴えの限界及び問題点」として掲げてございます。11頁に、別紙1という形で、それを図解した資料もありますので、参考までにご覧頂きますと、事務局の方で整理しました無効等確認の訴えの限界及び問題点というのは、一つは「対象」の問題。つまり処分に限られるということ。それから2番目に「原告適格」の問題として、訴えの利益を有するものの制限がされているわけですが、これが一般の民事上の訴えの利益との関係で、やや狭いと解される可能性があるのではないだろうかという、そういう問題点を指摘しているわけでございます。戻りまして、4ページのところでございますが、この無効等確認の訴えについてご検討をいただくに当りましては、前回の検討に当っても、取消訴訟には出訴期間があるすると処分を広げていった場合に、逆に出訴期間の制限を受けることになるのではないか。一方、処分に当らない、取消訴訟の対象とならない行政行為で、何らかの法律上の効力があるようなものに、出訴期間をかけないで、当然無効になる行政作用、そういったものを考えたときに、その効力の確認というものができるような、そういうことはどうだろうか。それを考えるような場合については、現在の無効等確認訴訟というのは対象が処分ということに限られ、取消訴訟の対象と全く同じ仕組みで考えているけれども、さらにその範囲を広げて、争うことができる場合も考えてもいいのではないかということを問題として指摘しているわけでございます。
他方で、そう考えてまいりますと、どこまでが対象になるのか、ということが次に問題になりまして、法律上の効力のあるものとして、例えば規則であるとか、政省令であるとか、条例であるとか、あるいは行政計画であるとか、こういったもので処分に当らないものをどう考えるのか。さらには行政指導のように、これは行政手続法上は効力は有しない、とされているのですが、実際上、行政指導を受けたことによって、経済活動や国民の自由という観点では自由な活動が阻害される場合もあり得るのではないかと、そういったご指摘もあるということですので、どういった場合にそれではそういうことを裁判所に確認を求めることができるのだろう、ということを検討しなければならないのではないか。それを検討しようと思いますと、それでは通常の民事訴訟において何らかの行為、効力、あるいはその適法性、そういったようなものを確認を求めるという場合は、どこまで許されているのだろうか。その場合の確認の対象なり、確認の利益といった問題と、行政訴訟でそれを仕組んだ場合の確認の対象なり、確認の利益というのは同じなのか、違うものなのか。もし同じとしたら、それを行政訴訟で書く意味は何なのか、ということを検討していく必要があるのではないか、ということをここに掲げたものでございます。その無効等確認の訴えの原告適格については、要件が絞られすぎているのではないかというような問題意識が事務局なりにはお示ししているところでありまして、これはどういうことかと申しますと、4頁にありますように、無効等確認の訴えにつき原告適格を有する者を、①当該処分又は裁決に続く処分により損害を受けるおそれのある者、と、②その他当該処分若しくは裁決の無効等確認を求めるにつき法律上の利益を有する者で、当該処分若しくは裁決の存否又はその効力の有無を前提とする現在の法律関係に関する訴えによって目的を達することができないものとして、現在の法律関係に関する訴えによって救済が得られる場合を除いていますが、確認の利益は必ず現在の法律関係に関する訴えに還元できるときはおよそ確認の利益がないということが通常の民事訴訟の原則であれば、これは民事訴訟と同じことを定めたと言えるのではないかと思うのですが、これが一般の民事訴訟の確認の利益と全く同じかと言うと、行政事件訴訟法が制定された後に出された最高裁の判決として、別紙2の12頁に掲げてある昭和45年7月15日大法廷判決で、反対意見がかなり多い、それだけ論争になる案件ですが、その中の大隅健一郎裁判官の補足意見で、12頁の下から4行目以降に書いてありますように、「確認の訴は、その対象とする法律関係につきいわゆる確認の利益がある場合においてのみ許されるものであるが、かかる利益は、当該法律関係に関して当事者間に法律上の紛争が存し、これがためその訴の原告の法律上の地位に不安、危険があり、判決をもつてその法律関係の存否を確定することが、右の不安、危険を除去するために必要かつ適切である場合において認められる。そして、このような法律関係の確定は、事の性質上、右の目的のために最も直接的かつ効果的になされることを要するのであつて、通常は、紛争の存する現在の法律関係について確認を求めることが適当であるとともに、それをもつて足り、その前提となる過去の法律関係に遡つてその存否の確認を求めることは、その利益を欠くものと解せられる。しかしながら、このことは、現在の法律関係において確認の利益が定型的に顕著に認められるから、それが確認の訴の通常の対象とされることを意味するものであつて、過去の法律関係であれば当然に確認の訴の対象として適格を欠くことを意味するものではない。過去の法律関係であつても、それによつて生じた法律効果につき現在法律上の紛争が存在し、その解決のために右の法律関係につき確認を求めることが必要かつ適切と認められる場合には、確認の訴の対象となるものといわなければならない。すなわち、現在の権利または法律関係の個別的な確定が必ずしも紛争の抜本的解決をもたらさず、かえつて、それらの権利または法律関係の基礎にある過去の基本的な法律関係を確定することが、現に存する紛争の直接かつ抜本的な解決のため最も適切かつ必要と認められる場合のあることは否定しがたいところであつて、このような場合には、過去の法律関係の存否の確認を求める訴であつても、確認の利益があるものと認めて、これを許容すべきものと解するのが相当である」。つまり過去にされた処分の無効の確認という、過去の法律関係の確認ということであっても、現在の法律関係の訴えに全て置き換えて解決しなければならないというものではなくて、それが紛争の直接的かつ抜本的な解決のために最も適切かつ必要と認められる場合もある、とすると現在の法律関係に関する訴えで解決できないことが厳密な意味で必要かと言うと、今の通常の民事訴訟では必ずしもそうは言い切れないのではないか。それで平成4年9月22日の最高裁の判決が5頁に掲げてあるわけですが、最高裁の判決も比較的それを柔軟に解しようとしているのではないかと思われるのですが、立法上の問題として、そのような制限を課すことが現在の民事訴訟の一般原則との関係で、狭すぎることがないだろうか。仮にそれがもし狭いのだとすれば、そういうものを存置する必要性をどのように考えるのか、ということについてもご検討していただく必要があるのではないかと、このように考えている次第です。
それから6頁の(3)の「不作為の違法確認の訴え」の問題点につきましては、7頁の④に、「不作為の違法確認の訴えの限界」という項目を立ててございます。「不作為の違法確認の訴えができる場合は、「法令に基づく申請」をした場合に限られる(行政事件訴訟法第3条第5項)。「法令に基づく申請」がない場合、行政の不作為が違法でも、不作為の違法確認の訴えによってその違法の確認を求めることはできない。」。他方で、「国家賠償では、行政の不作為が違法になるのは申請をした場合に限られない。そこで、①行政の不作為が違法である場合に、「法令に基づく申請」がないときでも、現行法で救済が可能かどうか、②現行法で救済が可能であるとすればどのような救済が考えられるか、③新たな救済方法を認めるべきであるかどうか、また、④その場合どのような救済方法が認められるべきか」、このような問題点について検討する必要があるのではないか、ということです。
それから7頁の下から5行目は、救済方法の問題です。「不作為の違法確認の訴えの救済方法は、「処分又は裁決をしないことについての違法の確認」に限られる」ということでございます。したがいまして、判決で違法の確認がされても、特定の内容の処分をしなければならないという拘束力は生じない、ということでございます。
そこで問題点は8頁ですが、行政法の仕組みの中で行政が国民に対して何か特定の内容の処分をしなければならないという法律上の義務が発生する場合はあるのかないのかという問題があり、そういう特定の内容の処分をしなければならないという法律上の義務が具体的に発生する場合もあり得るのではないだろうか、という点についてご検討いただきたいとともに、その場合に①としまして、そういった特定の内容の処分をする義務が行政に発生するとしたら、そういった特定の内容の処分をしないことが違法であるということの確認を求めたり、あるいはその給付、その処分をして下さいという給付請求をする、そういった権利というのは、国民にとって発生するのだろうか、してもおかしくないのではないだろうか、とも考えられるわけですが、そういったことが現行法上、可能なのかどうか、そういった問題があろうかと思いますし、その場合にも違法であることの確認を越えて、さらに給付まで命ずる必要があるのかどうか、といった問題もあろうかと思います。
それから②で、そういった法律上の義務が発生するとすれば、現行法でも命ずることはできないのか、そういったことについて、法律上明文で規定する必要があるのかどうか、というのが②の問題でございますし、さらに先ほど田中二郎先生の教科書を引用しましたように、行政の第一次的判断権とか、司法と行政の役割分担という観点から、行政に対して何かを命じたりするような訴え、そういったものを三権分立の観点から、どう考えるのかということもご検討いただきたい、ということでございますし、その裏返しの問題ではあるんですが、処分の給付を求めるような訴訟を明文化した場合に、いろんな行政について、多様な国民からその処分の給付を求めるようなことも可能になってくるわけですので、そういった場合に何か弊害が生じないだろうか、という問題。
それから5番目の問題としては、そういった給付を命ずるということをもし認めたという場合に、先ほどの不作為の違法確認の訴えとの関係はどのように整理するのか。田中二郎先生の論文を見ますと、不作為の違法確認という範囲で認めたのであって、義務を命じたり、その処分の給付を命じたり、そういった義務付けをするようなことは予定してないのではないか、という考え方もあるようですので、そのような関係について、違法確認の訴えを認めた趣旨とこの給付の訴えとの関係をどういうふうに考えるのかという問題点を整理していただきたい、ということでございます。
それから(4)は、その他の抗告訴訟ということで、抗告訴訟という枠組みで考えるかどうかということは別問題として、なるべく行政と国民の間で生じてくる多様な紛争をなるべく訴訟制度の中で幅広く実効的に救済していこうじゃないかというのが、これまでの検討の中で述べられてきた大きなご意見だろうと思われるわけですが、そういった救済の必要性に応じて、その多様な救済方法を考えるに当って、行政庁の違法な処分、その差し止めを求める請求というものはどのように考えられるべきなのかという問題も指摘しています。ちなみにそこに最高裁の判例と独占禁止法と住民訴訟に関する地方自治法の規定を引用してありますが、問題としては9頁の17行目にありますように、「行政庁の違法な処分その他の公権力の行使に当たる行為の差止めを請求する訴訟の類型」と書いてあるのですが、およそこの差止めの請求というようなものを考えるときに、独占禁止法なり住民訴訟なり、あるいは商法で株主による取締役の違法行為の差止めというのもありますが、対象となる行為というのは一体何と、何を差し止めるのかということをまず考える必要があるのではないかと、ということと、その場合に差止めというのは、権利義務関係の確認で、事前に救済を得られる場合もあるでしょうが、何らかの不作為の給付、行為の差止めを中心に考えていって、権利義務関係の確認というようなことになると、先ほどの確認訴訟との関係で考えていけばよろしいと思うのですが、そのような整理でよろしいのかどうかというような問題であるとか、差止めを事前に行うということになりますと、他の取消訴訟や確認訴訟などの救済方法でも救済が可能であるとすれば、そういった差止めまで認める必要がどこまであるのかという問題と、それから民事上の差止め請求権もありますので、行政訴訟として差止めを認める場合は、民事上の差止め請求との関係をどう考えるのか。
それから4番目の問題としては、違法な行政処分の差止めを求める請求について、原告側で重大な損害が発生するというようなことを要件にするということが、考えられるのかどうか、というような問題や、5番目としては、あるいは行政側の問題として、公共の福祉を阻害するおそれがあるような場合にどう考えるのか。このような問題点、事務局で考えたところをご指摘しているところです。
それから当事者訴訟につきましては、9頁の2でまとめてございます。当事者訴訟について、どのように考えるかということですが、10頁の(3)「当事者訴訟についての検討の視点」で、当事者訴訟については職権証拠調べの根拠が定められているものではありますけれども、訴訟要件が限定されているわけではないのではないか。そうすると当事者訴訟自体の可能性というのは訴訟の一般原則によって決まる。それから当事者訴訟におきましては、10頁の5行目以降で指摘してありますように、多様な訴訟が考えられることから、そういった特色と機能があることなどについて、検討する必要があるのではないかということです。ちなみに事務局で差止め訴訟と当事者訴訟と確認訴訟との関係で、気付いた判例として、最高裁昭和41年7月20日大法廷判決(民集20巻6号1217頁)があり、これは、旧薬事法のもとに登録を受けて薬局を開設していた薬剤師が、昭和35年法律第145号による薬事法の改正により、同法により薬局の開設の許可を受けたものとみなされた上、その開設の許可は、この更新を受けるか又は改めて許可を受けなければ昭和37年12月末日限りその効力が失われ、以後薬局の営業をすることができなくなることになったため、その薬事法の規定自体が憲法に違反して無効であるという主張をして、「原告は薬事法第5条に基づいて許可又は許可の更新を受けることなく昭和38年1月以降薬局の開設をなし得ることを確認する。」という確認判決を求めて訴えた、という事案がありまして、最高裁判決は、その薬事法の規定自体は憲法には違反しないという判断をしていますが、その訴えそれ自体は当然適法だという前提で実体上の判断をしている。その場合の最高裁判決の考え方について、担当調査官の解説を見ますと、「本件訴は、旧行政事件訴訟特例法のもとで提起されたものであり、一種の公法上の地位、資格を保有することの確認を訴求するいわゆる公法上の権利関係に関する当事者訴訟として認められよう。行政処分の無効を前提として権利関係の確認を求める訴は一般に許されるが、その前提が行政処分の無効でなくて、抽象的法規の無効である場合には、その訴訟の実体がそのような法規の無効確認訴訟たる性格をもつものとも考えられるので問題があるわけである。しかし法規を訴訟の対象とできないというのは、具体的な争訟事件性を欠くためであるから、法令の実施によって直接に具体的な法律上の地位の侵害が考えられるような場合であれば、これに事件性が認められてよいように思われる。」といわれています。そういった確認訴訟を当事者訴訟として利用するということが実際にも行われていて、それが法令の違憲審査のような形で利用されている、ということも当事者訴訟の機能としては考えていただく必要があるのではないか、このように考えている次第です。以上です。
□本日の議論の順序は、まず、抗告訴訟という訴訟類型の意義について、第一次的判断権との関係で議論をしていただき、第2に、無効等確認の訴えについての一まとめの議論をお願いし、第3に、不作為の違法確認の訴えを始めとする行政の違法な不作為に対する救済方法に関する論点につきご議論をいただき、第4に、差止めの請求と、当事者訴訟について、議論を進めていただきたいが、よろしいか。
(委員了承)
- 【「抗告訴訟という訴訟類型の意義」について】
- □第一の論点である抗告訴訟という類型の意義について。田中二郎氏の行政庁の第一次的判断権の尊重の理論との関係の説明があった。同説は、今では少数説かと思うが、非常に有力な説でもあり、行政実務あるいは裁判実務もこれにかなり影響を受けているというところもあるので、どう処理をするか。
○事務局の資料は、取消訴訟という訴訟類型を定める他に、それを含む上位概念として、抗告訴訟という類型を作っておくことが必要かどうか、との問題意識で書かれているが、その前提として、「司法権は行政権の行為を取り消し変更し、またはその無効の確認をするに止まるべきである」という田中教授の行政庁の第一次的判断権の尊重の見解が書かれているが、これは抗告訴訟は取消訴訟プラス無効確認訴訟以外の何でもないとする説で、そのような田中説を引いて、最後に取消訴訟以外に抗告訴訟が必要かという問題提起をしていることの意味がよく分からない。この田中説は取消訴訟イコール抗告訴訟ではないかという理解もできる。
自分は、昭和37年に至る立法過程の議論を繰り返す必要があるかどうか、それがどの程度意味があるか分からないが、ただ、ここで田中説を引くのであれば、それと違う抗告訴訟についての当時の考え方を比較参照する必要があるのではないか。典型的なのは白石判事の抗告訴訟についての考え方であり、取消訴訟だけではなく行政上の権限の存否の確認が抗告訴訟の本質であるということを述べていたものだ。そういう考え方も出すべきだ。
□自分の理解は、田中説がかなり有力なので、それ以外の訴訟類型について整理をして、取消訴訟、無効確認訴訟の他にもいろいろな類型があるとなったときに、さらにそれでは抗告訴訟という上位概念を作るかどうか、という議論の出し方ではなかろうかと思う。そして、この田中説で整理しないということになった後で、条文で抗告訴訟として上位概念を作るか、どういうふうに並べるかは、後の法制的な問題として考えればいいのではないか。
○だとすれば、抗告訴訟から議論をするのはちょっと順序が違うのではないか。
□行政庁の第一次的判断権という考え方は、特に田中教授の行政法を学んだ方々にとっては非常に染み込んでいると思う。この抗告訴訟という言葉については、美濃部先生が行政裁判法という昭和4年の本で「権利毀損に基づく抗告訴訟」と呼ぶと言っている。ただ、抗告訴訟という言葉を使って、行政権限の不存在の確認の訴えも含まれるという説もあるし、義務付け訴訟、差止め訴訟等もこの類型で認められる、とい説明ももちろんある。
○結局、行政機関が与えられた行政権限をまず行使した上で、それによって法律上の権利利益が侵害されたとする者の取消しの訴えを待ち、そして司法が初めてそこへ発動する、関与していくという仕組みだと思うが、第7回の検討会で、フランスについて橋本教授から「言葉遣いとしての行政庁の第一次的判断権の尊重という言葉はないと思うが、決定前置主義は原則であるから、ある種、そういう考え方がある」との説明をいただいたし、中川教授から「第一次的判断権に関しては行政機関が権限を与えられているのだから、まずなるべく判断をせよ、その後から裁判というのが一般的な理解としてある」との説明をいただいたことから見ると、仕組みとして順番にやっていくのが一応の原則だということは何も日本だけではないのではないかと思う。実際上も、三権分立の基本的な構造からすると、まず行政権の発動があった後、それを司法審査していくということが分かりやすい、あるいは、その守備範囲に一番叶うものであるという考え方が一つあると思う。また実務的にも、行政が持っている行政裁量的なものが留保された段階で、司法権がある仮定的な対象というものを持って、ある、また仮定的な前提を置きながら判断するということは技術的に非常に難しいという気もするので、取消訴訟中心主義と言われている現行の考え方は、原則的な形態としては非常に合理的なものではないかと思う。ただ、あまりにもこれを強調しすぎるから、その裏返しとして、そこからこぼれ落ちるもの、例えば義務付け訴訟のようなものの救済が狭かった、という指摘については、本当に必ず反省して、考えなくてはいけない。
○抗告訴訟についての田中教授の論法は、抗告訴訟というものがあり、抗告訴訟がなぜ抗告訴訟と呼ばれているかというのはこういう面だった、そうだとすればこういうものは入らない、という論法であるが、今はこのような議論は通らないのではないか。行政の処分というのがまず適法にあり、それを国民が訴訟で取り消しなり無効確認なり、何か公権的な判断をしてもらえなかったら効力がなくならない、という考え方は是非改めるべきだ。
それとは別個に、やはり三権分立なので、行政権の第一次的判断権は一定程度尊重するのは当然だと思うが、現実に、訴訟になってくるケースにおいて、第一次的判断権が侵害される、あるいは第一次的判断権がなされていない、というケースはほとんどないのではないか。つまり、実質的には第一次的判断権がなされているから訴えが出てくるのだと思う。例えば、何らかの不利益処分がされたときに、取り消しだけではなくて義務付け訴訟にするケースであってもいい。例えば情報公開の非公開決定が違法である場合に、非公開決定の取り消しではなく公開せよと言ったらいい。税金について、更正の請求をしたが、処分庁が更正の請求を棄却したときは棄却処分の取消訴訟だが、そんなものは裁判所がさっさと更正すると言えば、一回で済む話だ。今、漠然と第一次的判断権で駄目だと言われている訴訟について、かなりの部分は第一次的判断権というのは減ってきている。それから何らかの処分を求める訴訟についても、今は不作為の違法確認だけだが、一定程度の、裁判所が違法と考える期間処分をしない場合はそれなりに第一次的判断権がある程度示されていると言えるので、申請の中身によっては裁判所が処分の給付を命ずる給付判決をしても良いようなケースがたくさんあるのではないかと思う。
それから、申請に基づかない処分を求める、規制措置請求のようなものについて、大気汚染防止法で規制してくれとさんざん行政庁に言っても規制しない状況の中で、規制措置請求を求める裁判をしたときに第一次的判断権が侵害されているのかといったら、決してそんなことはないと思う。だから、行政庁の第一次的判断権は最大に尊重するべきだと思うが、現在、訴訟の場で言われているような、現実に第一次的判断権が侵害されるようなことになるのはケースとしてほとんど考えられないのではないだろうか。第一次的判断権をあまり強調するのは如何なものかと思う。
△ドイツでは、昔は、第一次的判断権と言った者がいたが、今は一般原則の形では言わない。あくまで手続との関係で、その事前の訴訟を起こすということは、取消訴訟の制度にくっ付いている申立前置の制度をスキップすることになるので、それは駄目だろうという議論はするが、一般的におよそ第一次的判断権うんぬんという議論はしない。
△アメリカでは、行政活動の違法があるから司法審査をするので、行政活動がそこになければ訴訟がない、というのが一般的な考え方であり、第一次的判断権のようなものを大きく打ち出す議論はない。日本で言う取消訴訟的なものが多いが、それに限らなければいけないとのような強い言葉で表していないところが日本と大きく違う。日本の第一次的判断権という場合に私達が受けるニュアンスと、アメリカで当然、行政活動があって、その違法性を審査するという場合のニュアンスとは随分違う。
○だから、日本で第一次的判断権というのはそんなに強く一律に言われているだろうか。田中教授だけではないか。実際上、行政というのは、まず何か行政が動いて、それに対して、あるいは行政と市民との間で何かやり取りがあって、そこでごたごたが起きるからそれで訴訟にくるというのは極当たり前の話であって、そういうものをどういう訴訟形態で受けたらいいかということで議論されているわけであり、最初から第一次的判断権はどうかという形で議論しているわけではないと思う。
○第一次的判断権というのは権力分立の国ではある意味では当然のことであると思っている。問題はどういう訴訟を認めるかということだ。抗告訴訟の概念・範疇をどう考えるかだが、今後の議論で問題になってくると思われるのは義務付け訴訟や予防訴訟であり、ただそういうものは作為義務なり、不作為の義務の確認訴訟になっている可能性があり得、そうすると、当事者訴訟に近づいていく可能性がある。今の段階で抗告訴訟という範疇を設け、その枠内で議論するということはしない方がいいだろう。
○第一次的判断権については、実体上、これが効率的な判断順序だと扱っている原則的形態を言っているのであり、何も第一次的判断権というのを絶対不可侵な、権利が絶対どこかにあるんだということを主張しているつもりは毛頭ない。どれだけ効率がいいか、あるいは救済に最適かという議論で進めていただけたらいいと思う。
○第一次的判断権の尊重自体はそのとおりだと思うが、それが取消訴訟中心主義を導き出す前提で、一人歩きしているところに前から大変違和感を感じている。第一次的判断権を尊重するのだから取消しまでしかできない、という回路が極めて短絡的という気がしており、熟度が高ければ、もう給付を求めるのと同じだと思う。それをなぜ、最後の形態でやらせていけないのであろうか、他の選択肢はないのか、という場面が多々あると思う。取消訴訟中心主義の前提でこの第一次的判断権のドグマが流通してきたところは、田中学説を捉える上での反省、批判的に検証すべきところではないか。
○この点だけは言っておきたいが、処分を取り消した結果、取り消されたところに基づいて、行政庁が再度処分をする場合にはさほど難しくない。ある判断について裁判所から枠をはめられれば、行政庁はそれまでの専門的な知識等を使いながらやるわけで、それでもう一回トラブルが起こって、さらに義務付けの訴訟が起こるとか、取消訴訟が起こるというのはほとんどなく、拘束力にしたがって、そのまま流れていく。ところがこれを裁判所が、例えばある給付について、取り消したついでに具体的な給付をやりなさいと言われると、そのときにはどういう基準でどういう評価でやらなければいけないか、裁判所はそういうものの個々の専門家ではないので、その点の審理をすることに無駄な時間がかかる。素人である裁判所の方にそれをやらせることはないだろうという気がする。そこは拘束力にしたがって流れていっており、あまり今、現実のトラブルにはなっていないと思うので、そこはミニマムのところで判断するのが適当だろうと思う。
○今の話を聞いていて思いつくのは、例えば滋賀県で裁判所が情報公開条例の非公開決定を取り消したが、滋賀県は公開せずに、別の理由でもう一回非公開決定をしたケースがある。それに類似した裁判例も何件かある。裁判所は、これを公開するのに何ら問題はないという判断ができれば、それをするのが直截的であり、それをやってはいけない理由はどこにあるのか。裁判所がそれをやるのは大変だとのことだったが、ケースによって取消しに止めるべきケースもあり、全ての場合に給付判決をしろと言っているわけではない。前回申し上げたが、取消訴訟というのは形成訴訟と考えるべきではなく、違法確認訴訟の一つの類型として捉えるべきだと考えている。行政庁が一旦決定してきたけれども、行政庁に差し戻すというケースがある一方で、裁判所が判断したって何らおかしくないケース、つまり、差し戻してもどうせそういう処分をするしかないから、もうここで処分を命じるという自判があってもいいだろう。取消訴訟、義務付け訴訟などという訴訟類型ではなく、訴訟類型としては、行政の違法を争う裁判、その熟度に応じて、判決主文としては差し戻しをするか、あるいは自判をするか、という考え方でいいのではなかろうか。今、高裁の運用はそのようにされており、最高裁でも一緒である。それと同様に考えればいいのではなかろうか。それは、例えば建築施設の許可を求める仮処分なんかだと、ごみ焼却場について期間を限って停止したケースがあるが、そのように柔軟に考えて、事案に応じてやっていけばいいのではないか。
□市村委員の意見は、判決が熟していればいいが、そうでない場合には拘束力でもう一度戻して、ちゃんと行政庁に責任を持って判断をさせる、その責任を持って判断させるような訴訟資料が十分に整っていないのに、裁判所が勝手にやるわけにはいかないだろう、というものであり、水野委員の意見は、もう既に熟しているのだから、裁判所がもう判断できるだろう、というものだ。
○大半のものは拘束力でよく、蒸し返しが予想されるものについては、その紛争の形態として、最初からそういうものをその枠で大きな訴訟物としてやるということはありうる。
○権利がついているんだったら、もう受け取ればよく、もう一遍行政にじっくり考え直す必要があるというもの、裁判所が自分の判断でやってしまうのはちょっと躊躇するというケースについては、差し戻しもよろしいんじゃないかと思う。
○拘束力でいいか、あるいは義務付け判決がいるかについて、典型的な事案の方が分かりやすいのではないか。
○例えば、年金の支給要件が存在しているかどうかについて、行政庁側の認定と当事者の言い分が食い違っていて、行政庁側の認定が間違っている時に、裁判所がその資料を貰って、その計算をするというのはあんまり意味がないことだと思う。それはその点だけを指摘して、処分を取り消せば、正しい計算を社会保険庁なりなんなりはやる。だから、原則、全部、給付型にしなくても、取り消すというところ、要のところをきちっとやれば、実際は行政は動いてくるということが多いということだ。ただ、ぐるぐる回りになるような例は避けなければならず、そういうものに対しては何らかの手法を考えるべきだし、成熟度に応じて、そういうものも乗っかってくると思うが、原則、形態をそこまでやる必要はほとんどないんじゃないかと申し上げたい。
△ドイツでは、裁量があれば、その裁判所の判断を示した上で、処分をやり直してきなさいという判決が出るから、義務付け以外の場合には、裁判所がいわば差し戻しのような判決をすることができる規定があったと思う。
□抗告訴訟について、自分も現在の学説の状況の認識は小早川委員と全く同じだ。立法時点でこういう意見が非常に強かったことを踏まえて今度は立法を変えようという話だから、法律をきちんと整理したいというのが事務局側の前提であり、自分もそれなりに理解したので、こういう出し方をした。先ほど来の議論にあるように、色々な意味での行政庁の第一次的判断権の尊重の考え方は比較法的に見ても存在していないし、現在はそういった学説はないということを前提にしたい。さらに取消訴訟以外にどういう訴訟があるかについて、まず議論をしていただきたい。
- 【「無効等確認の訴え」について】
- □無効等確認については、必ずしも行政処分だけではなく、行政指導、あるいは通達なども、視野に入れて議論をしていただきたい。取消訴訟との関係も押さえながら、現在の無効等確認の訴えという制度、それ自体の問題点、さらにそれからはみ出るような問題点について検討をしていただきたい。
○現在の行訴法の無効確認訴訟というのは公権力の行使たる行政処分を前提とし、まず取消訴訟があって、取消訴訟には出訴期間があるので、その後に出訴期間を例外的に排除する道として、無効確認訴訟を作っている。それとの関連で、他の行政訴訟以外の民事訴訟などとの関係をどうするかということで、36条の訴えの利益の制限も出てくる、というそういう閉じた世界になっている。取消訴訟を、かっちりしたものではなく、もっと広い違法確認の訴えみたいなものにするのだとしたら、また違ってくる。行政処分にならないものについては、法律効果、法的効力の有無にあまり拘らずに事実上の不利益を受ける人から違法確認の訴えができるというぐらいの、入口は一つでも行く先はいろいろ有る、というようなことでいいのではないか。
○行政指導などの無効確認というのは、今の無効等確認訴訟は抗告訴訟の一類型であるから、この類型には入らず、別枠の問題ということになる。行政処分の無効等確認訴訟の話に絞ると、出訴期間を長くし、申立の前置主義をなくしてしまうという改革をすると、無効等確認訴訟の必要性はかなり小さくなるだろう。その場合には残すのであれば、その実益を考える必要があるだろう。
行政事件訴訟法36条で、訴えの利益と言うか、原告適格についての規定が置かれており、これは確認の利益に関する民事訴訟法の理論を受けたものであると言われているが、行政訴訟の場合は民事訴訟の場合と同じに議論できないと思っている。その意味ではこの無効等確認訴訟を残すとすれば行政事件訴訟法36条の抜本的な改正が要るだろう。
○無効等確認訴訟が行政事件訴訟法に設けられている必要性は全く理解できない。この規定がなかったら何らかの不都合があるのかといったら何にもないと思う。むしろ36条があるために民事訴訟の確認の利益を狭めているという結果になっていて、何の意味もない訴訟類型であると思う。必要があるのなら、どういう点なのか、是非教えてもらいたい。最高裁で、課税処分の無効確認を認めたケースがあるが、仮に行訴法に無効確認訴訟という類型がなければ、当事者は債務不存在確認訴訟を起こしただろう。それによって、もちろん滞納処分を未然に防ぐことができる。それがこういう行政処分の無効確認訴訟という類型があるばかりに課税処分の無効確認訴訟という選択肢しかなく、それが訴えの利益があるかという議論になった。現在、納税義務が不存在であるという、権利義務の確認の訴訟が本筋であり、わざわざそれは行政処分の無効確認訴訟でないと困るという必要性は全くないだろうと思う。それからしても、この類型を行訴法に残すというのは全く意味がないと思う。
□この点は歴史的な経過があり、行特法時代に農地買収を巡って、無効確認訴訟が随分多くでてきていて、これは一種の実務の知恵ではないかと思う。他方、無効確認的なものは時期に遅れた取消訴訟であるというのが自分の理解だ。出発点は、行特法時代の実務の知恵を行政法学者としてどう生かそうかという、田中二郎先生や雄川一郎先生の考え、そして兼子先生の民事訴訟法の考え方があり、確認訴訟は過去の事実関係の確認ではなく、現在の法律関係を中心にする訴えだという縛りをかけたその論争の結果が現行法だと理解している。これは何も行政側が何かの都合で作り上げたという訴訟ではなく、むしろ実務の知恵だと推察していることだけは申し上げておく。
○一応、処分に出訴期間なり排他性なりを設けることを肯定すると、この訴訟は、実際上、時期に遅れて出された取消訴訟ということになる。そして、要件が過重されることによって、バランスが取れており、安全弁になっている。仮に、これを外してしまい、例えば当事者訴訟で、現在の確認訴訟と置き換えられるという議論もあると思うが、そうすると処分について区切りがなくなるというか、歯止めがなくなって、出訴期間がかかるのは無視して、後でその当事者訴訟の中で具体的な事実関係を主張することになり、折角取消訴訟の体系で排他性とか出訴期間を設けてやろうとした意味が薄れてしまうので、やはり、あまり使われないが、安全弁としての無効等確認訴訟は存続している方が実際上の実務的にはいいと思う。
○行政処分自体の無効を主文で言ったもらった方が、抜本的な解決としていいというケースはあるかもしれないと思っているが、そのときに行訴法に規定がないとやれないのかということがある。つまり行訴法がないと仮定して、例えば仮処分など、早い段階で処分を争った方が現段階の権利関係で一つ一つやるよりも抜本的な解決になるというケースは無効確認で争ったらいいと思う。そのときに裁判所はこれは行訴法にも規定もないし、民訴では無理だとは言えないと思う。だから、わざわざ行訴法に訴訟類型として、行政処分に限った無効等確認訴訟を置く必要性はないだろう。もともとは行政処分を争うということで、行政庁を被告としてやりなさいということで設けられていると思うが、被告適格を行政主体にしてしまうのであれば、益々行政処分の無効確認訴訟という類型を置く必要はないだろうと思う。
□また、現在の法律関係に引き直しにくいという場合に、一応この規定を置いておけば、無効確認訴訟というのがあるというサインになるのではないか。
○それは民訴でも一緒だ。民訴の世界も、一々そういう規定を置かなくても裁判所はやっている。
○無効確認をするということは十分機能的な意味があり、その要件にはいろいろと議論があるが、行訴の場合には取消訴訟というものをまず前提にしていて、それの後ろ側にこの無効確認という類型があるので、それは民事訴訟と事情が違う。そういう意味で存続していることは十分な意味があると思う。
○水野委員の趣旨は無効確認は民事訴訟だってできるということであり、市村委員の趣旨はできるだけ訴えにくくさせるために類型として残しておかないといけないと聞こえるが、それはちょっと違うと思う。無効確認訴訟がなければできないのであれば別だが、民事で争いうるということであれば、類型を残す必然性は必ずしもない。それから、濫訴の可能性のようなことを言っていたが、もともと無効確認の対象行為というのは排他性・出訴期間・公定力の問題がないから、無効を争えるとなっていて、その点で十分に差違があると思うので、おっしゃったような根拠で残すべきだということは全く理解できない。
□例えば、農地買収処分で、民事関係になった時に、審査の関係で、行政庁は説明責任があるということをはっきりさせるためには、むしろ無効確認訴訟という類型を置いておいた方がいいということが一つある。また、民訴に引き直した場合、本当に大丈夫なのか心配だ。邪魔だったら別だが、民訴でうまくいかないときを考えてこういうルートを残しておくということになるのではないか。
○どういう点で必要性があるのかという点をはっきりさせておきたい。行政処分は無効であるという確認をする裁判をする場合、裁判所は拒否しないと思う。
○今あるものをなくす理由はわからない。
○自分は直ちになくすべきだと言っているわけではない。この類型があるから訴訟が抑制されるというのは必要性の論理としては誤った根拠だということだ。また、通達などについても一種の違法確認訴訟類型として争えるようにする方が、自然な解決という気がする。
○資料で引用されているもんじゅ訴訟の最高裁判決の前に、換地処分についての最高裁判決があったと思う。換地処分の区分けの仕方が、従前の土地に対して与えられた土地が照応の原則に反して、区分けが不服である、もう一度やり直せと、まさにやり直せということを求めた訴訟だった。無効確認訴訟が認められれば、拘束力が働く。無効確認訴訟にわざわざ拘束力をつけてあるのはそのためだと思う。これは多分、無効確認訴訟がそれなりに効果を発揮する事案である。そういう働かせ方を最高裁は理解をして、従来の学説判例よりもやや広めに36条の訴えの利益を認めた。そこは現在の法律関係に引き直せないとは思わないが、どっちが分かりやすいかというと、現状でもいいのかなというのが、自分の考えだ。無効確認訴訟は、結論としては、桎梏でしかないので、なくすか、もっと分かりやすいものを作るかだと思う。
○換地処分を現在の法律に引き直すというのはほとんど不可能だろうと思う。
□水野委員の意見は、現在の法律に引き直しにくいものがあるだろうということ、また、行政過程全体の話だから、無効確認訴訟に乗せた方がうまく行くだろう、ということは、否定されてないと受け止めた。つまり民訴の場合と違い、行政過程全体で動いているので、間に行政処分が入っている時に、民訴の頭でポキポキポキポキ切っていいのか、ということがある。行政過程に適した無効確認訴訟というのはあるかな、というのが一つと、36条は点の打ち間違えか、あるいは意識して点を打ったのかもしれないが、昔だったらあれはリコールの対象になるのに、法律であるゆえにリコールの対象にならないのはおかしい。そして、もう一つひっかかるのが、第三者効を考えるべきだとか、事情判決を加えるべきだという議論があるが、今日は判決の効力までは入らずに、確認判決の既判力とはどういうものなのかは、あらためて議論することにしておきたい。
それで、行政庁の内部行為について、取消訴訟を絞っていった時に、どういう扱いになるか、だが、最近の法律で、勧告をして、公表して、従わないと処分をするということがあり、その勧告は、行政手続法の行政指導にあたる、と整理されていて、行政処分にならない、ということになっている。そうした時に、確認訴訟というようなものがきくか、きかないか。それは、差し止め的な機能として、きくのではないか。BSE関係の指導をどう見るか、それについては、民訴の損害賠償で見るのがいいのか、それとも、行政過程での、違法であることを前提としたチェックが必要なのか、どういう手法が必要なのか、あるのかという問題がある。
○行政指導一般になると、私人間での勧告なり、指導なり、助言なりとどう違うかということがあり、それを特別の訴訟制度に乗せる必要があるのか、民訴一本でいいんじゃないか、という気もしないでもない。そこは、民訴とするのか、それとも、行政訴訟の中で、取消訴訟とは違う民訴に近い形にするのか。そこは整理の話だ。一般の行政指導ではなく、法律に基づいて勧告するとか、また、行政指導に限らず、法律が行政機関にミッションを課し、基準まで示している場合、それをきちんと守らないで、一般の人が利害関係を持っていて、行政庁がその趣旨に反している行為をした、という時、それは行政庁のミッションに反しているということを、具体的な法律の規定との関係で審査してもらう、という道を整備しておけば、市民にとって有効なのではないか。それが民訴でできるかというと、恐らく、確認の利益なりなんなりの問題がある。もちろん民訴には訴訟類型問題というのはないが。ただ、ある程度、権利義務関係みたいな具体性を持ってこないと、民事訴訟には乗りにくいと思う。それに対して行政庁が法律違反の行動をとっている場合に、多少早めの段階で、これは行政訴訟だからということで、判断をしていくという類型を取ることには、意味があるのではないか。
○通達については、墓地埋葬に関して最高裁の判例が出ており、異教徒の埋葬を拒むことは正当理由には当たらなという通達について争えないという確定判例があるが、もしその通達がおかしいと思ったら、刑事事件を犯し、起訴されてから、有罪無罪で争うしかなく、これは酷だと思う。通達について、直接刑事手続でないと違法適法か決まらないようなものについてまで、通達段階の熟度が決まらない、というのはいくらなんでもひどい。少なくともこういった通達については、事前に、有効無効を確認できるような手立てがあった方がいい。これに関連して、今ちょうど衆議院で審査中の、構造改革特区法案では、ノーアクションレターといって、事前に解釈を文書で示せる、というものもあり、こういうものは一つの解決にはなりうるが、通達で実質的に後々のことを規定していて、あとで権利関係に影響を与えるようなものについては、少なくとも何等かの形で是正できる手段が必要だ。また、例えば外形標準課税のように、課税処分の前で、条例の段階で課税されることが決まっているようなものは、実際に賦課処分がなされるまで、手をこまねいていなければならないというのは、必ずしも合理性がない。似たようなことは計画についても言える。最高裁の判例で、土地区画整理事業計画はあの段階では熟度はないとされたが、後から、実際に権利利益に関係する処分、規制が行われることは間違いないので、こういった間違いがないようなものの前提段階については、争わせないとおかしい。
□小早川委員からもあったが、確認の利益について、民事訴訟の確認の利益の基本的なものと、行政訴訟特有の確認の利益が違うということが言えるかどうか。基本は、民事の場合と同じ確認の利益なのではないか。表れ方が違うということではないか。
○こういう事実関係だから、確認の利益があるでしょう、という判断を一つ一つしていけばいい。
□例えば、武蔵野市のマンションの問題。あの例は、老人夫婦がマンションを作ったが、教育負担金を、納めないと建築確認をくれないという行政指導を受け、支払ってから、損害賠償請求をした、ということだったが、あの場合、そういった権限が行政にないという確認の利益は、民訴ではないのだろうか。それとも、今まで、あまりそういう訴訟を使わなかった弁護士の問題か。行政指導で負担を求めてきたときに、そういう確認は、通常の民事訴訟では認められないのか。
○それは、債務不存在確認の裁判になるのではないか。
□債務不存在確認になるのかどうか。払って下さい、という行政指導をしているだけだ。
○それは、無視すればいいのではないか。債務不存在確認の裁判は認められると思う。利息制限法の例だと、利息を超えた部分についての債務不存在の訴えは認められている。
○債務不存在で争える場合はあると思うが。
□受け皿として行政事件訴訟法に置いておいた方が、弁護士も使いやすいのではないか。
○今あるものを何でなくすのか、という議論はあるが、それは無効確認訴訟という類型を置いて、それ以外の色々な手続を制約するものではない、ということならかまわないのではないか、ということにはなる。ただ、36条の規定は訴えの利益が明らかに判例よりも狭いものとなっているから、それをそのまま使う必要はない。
○もんじゅの事件などを見ていると、紛争の抜本的な解決のために有効な手段であれば、確認の利益は認めていくという立場で運用されているから、あとはその文言をそういうものにフィットさせていく方がよい。
○この事務局の資料では、無効確認訴訟の議論について、行政通達なども入っているか。
■行政計画、それから、法令ですよね、政省令を含めて、法律上効力があるわけですから、その効力を受けることによって不利益を受ける、あるいはそれに続く処分によって不利益を受ける恐れがあれば、今の法律でも確認の利益がある場合があるのではないか、ということです。
○この事務局の資料で考えているのは、取消訴訟は、従来のように行政処分を対象とする、それ以外の部分は、無効確認訴訟、当事者訴訟などで争う、ということか。
■方向性を示しているつもりはない。
□色々な議論が出たが、今日、基本的な方向をまとめるつもりはない。事務局からこのペーパーを出したのは、この前取消訴訟の議論をしたが、取消訴訟の対象を広げれば無効確認訴訟の範囲も広がっていくのかどうか、という連動の話が一つ、さらに、無効確認訴訟ということで、通達などの無効確認訴訟、計画に処分性があるとすると、計画の無効確認訴訟、というものがあり得るのか、といった問題提起があると思う。違法確認というか、無効確認というか、はまた別の話だ。
また、それを当事者訴訟の中で読んでいくのか、それとも、民訴に全部任せておけばよく、行訴は知らん顔をしておけばいいという議論が一つある。もう一つは無効確認訴訟の定めの仕方について、現在の民訴の立場から考えると、少し確認の利益を絞り過ぎているのではないか、という指摘があったということになろう。こういう二つの問題提起がある。
現在の無効確認は、公権力の行使に限られ、抗告訴訟のかさのもとにあるということが一つの前提となっているが、今後無効確認を考える場合、あえて、抗告訴訟の中に考えなくてもいい、いろいろな受け皿で考えていけばいい、という方向にもなるということもあり、そういった問題点が明らかになったということで、議論をしていただきたい。
また、訴えの利益については、いろいろ議論があり、一番心配しているのは、民訴に任せると、そんなに行政法的な議論、行政過程的な議論は、民訴では認められない、と頑張られてしまうことだ。民訴に任せてほっといても大丈夫だ、という意見については、もう少し情報を収集してから考える必要がある。
- 【不作為の違法確認の訴え」について】
- □行政の違法な不作為に対する救済について、救済の範囲を、法令に基づく申請をした場合に限るかどうか、とか、義務付け訴訟などの他のより効果的な救済方法の採用の当否、それから、行政庁の第一次的判断権の尊重との関係などの問題について、検討していただきたい。
現実に、不作為訴訟というのは、東京地裁でもあるか。
○起こるが、非常に少ない。訴えを提起している間に、処分をするなどの問題はあると思うが、やっぱり、これがあるということは、一番最後の、行政に対する歯止めにはなっていて、それなりの意義はあると思う。それに対して、申請以外のものに対して同じような違法確認を認めるかは、非常に大きい問題だと思う。申請に基づかない形での不作為の違法確認を認めることは、義務付け訴訟を認める一歩手前であるので、それがどういう場合に認められるのかは、行政裁量の問題等々を勘案しないといけない。ただ、あるケースにおいては、こういう手段があり得ても悪くはないという感じはする。
□不作為の場合、既に国家賠償関係の訴訟は出ているが、それよりもう一つ進んで、請求権を行使して、何々をせよ、という作為を求める訴訟は、まだ、あまり出ていないと思う。裁判官としてどうか。自分は、実体法の解釈の問題で、およそ日本法としてそういう実体法ができているのかどうかよくわからないが。
○指摘の通りだ。一番の問題は、自分が、行政に代わって行政をやっていいということならば、自分の考えでやれるだろうが、自分に与えられた規範として、これでなければならない、違法になる、というものとしてまで実体法が組み立てられていることは、非常に稀な場合だと思う。ただ、稀な場合があるということは、十分承知しているが、現実の訴訟で出てくる作為請求は、ほとんどそういう実体法の場面は無視して、行政の裁量についても、特にあまり吟味せずに出てくるものが多いから、なかなかそういう請求は通らない。一義的なものでないと、裁判所が行政に代わるということは、基本的にはできない、という認識でやっている。
○先ほど申し上げた議論の延長だと思う。何らかの処分をすべきなのにしない場合、それが違法であるといって裁判を起こすが、その場合、裁判所が、違法であることの確認までしか今の段階ではできない、と判断した場合には、不作為が違法である、という判決をすればいいし、何らかの作為をすべきだということがある程度一義的に判断できる場合は、裁判所は義務付け判決をすればいいのではなかろうかと思う。やはりこれも、不作為の違法確認、義務付け訴訟という訴訟類型という議論ではなしに、不作為の違法を争う裁判の中で、違法であることを確認のレベルで判決をするのか、あるいは一歩踏み込んで、何らかの処分をせよ、という義務付けの判決までするのか、というのは、ケースごとによって、裁判所が判断すればいい。もちろん、どういう場合にできるかの一般的な要件を法律に定めておく必要があるだろうとは思うが、仮に義務付け訴訟で請求をしてきても、裁判所が、これは違法確認にとどめるべきだと判断すれば、いわゆる一部認容という形で、違法確認で判決をしてよろしい、というふうに考えるべきではないか。
□先ほどは、取消訴訟の話だったので、申請権があることを前提に議論をしたが、今度の場合は、申請権がない状態、例えば、違法建築の除却命令を出してほしい、といった類の事件を前提にしているということでよろしいか。
○もちろん、申請に基づく不作為の場合と、申請がない、規制措置請求みたいなケースと、両方あり得ると思う。場合により判断の要件が違ってくることがあり得ると思うが、いずれもにしても、違法の確認にとどめるか、義務付けまで命じるか、裁判所がその事件に応じた判断でやればいいと考えるべきではないか、と思う。
○不作為の違法確認訴訟の件数について、1989年の論文では、毎年20件ないし30件程度で、行政事件訴訟の総件数の、2〜4%となっている。不作為の違法確認訴訟については、従来、中途半端なものであるとか、迂遠な訴訟形態であるとか、学説上は批判のあったところだ。確かに不作為の違法確認訴訟に勝っても、また拒否処分が行われ、さらにそれを争わなければいけない、ということがある。自分は、この訴訟は残してもいいが、それに代わる制度として、是非、義務付け訴訟ないし義務確認訴訟を法定すべきである、と考えている。先ほど、市村委員から、現在、裁判所は義務付け判決のようなものを出しにくい、という話があったが、それは、現在義務付け訴訟が法定されていないことと、関わっているのか。
○今おっしゃられたことで、確かに、法定されていれば、あるいは、我々が考えている要件とは違うものが出てくるかもしれないから、その意味では影響があるのかもしれないが、基本的には、義務付けができるというのは、司法が、積極的に行政行為を、他のいくつかの選択肢の中から一つ選び得る、という、一義性という前提がないとなかなかできないと思う。少なくとも、裁判をするときに、行政裁量のようなものが残っている場合は、そういう意味では裁判所は行政にとって代われない、という制約がすごくある。座長も指摘していたが、実体法から見てこれしかない、となっている規定は非常に少ない。そういう意味で、不作為の違法確認訴訟で、申請があったときに、それに対して応答しなければいけない、というのははっきりしているので、客観的な事実は判断しやすいが、申請権がないところである行為をしなければいけないというのは、これは創設的に考えなければならず、その時に、実体法規が義務付けているかどうかを、実際に考えてみると、なかなか一義的、明白に、義務づけている、といえるものにぶちあたらないのが実情だ。
○自分もそうだが、義務付け訴訟の導入を主張する人は、行政庁に裁量がある場合は、その点を尊重して何らかの行為をすべきである、という判決になると思う。
□今の主張を、もう少し整理しないといけないと思うが、公衆が持っている請求権についてはまた別の議論としてあり得るが、自分に何も申請権が与えられていないときに、ある措置要求をしろという請求権は、どこから導くのか。制定法から読み込むのか。もう少し背後の、法治国、法の支配、基本的人権などの道具立てがが必要だと思う。
○それは、例えば公害規制などのように、不作為のために、自分の権利利益が侵害されている、という場合には、人格権なりなんなりから、裏付けられるのではないか。
□自分もできるだけそうもって行きたいが、素朴な質問からすれば、公害の相手方に対して、人格権を当然、主張できると思う。
○そうだが、規制権限を持っている行政庁が、本来規制する義務があるにもかかわらずしないために、原告の権利利益が侵害されているという場合には、大気汚染防止法には直接そういう規定はないが、自分の人格権なりが侵害されている、ということで、規制を求める裁判が認められてもいいのではないか。
○規制する義務、というものが肯定できてしまえば、答えが出たようなものだが、例えばどういう状態で規制する義務が発生するか、そこらあたりが実際上は非常に難しいし、そこまで言える法規がそんなにあるのか、という判断が実際上難しいのではないか。
○裁量などの問題があって難しいというのはわかるが、そこがクリアーでき、そういう場面があるとすれば、当然そうなるのではないか。
△ドイツの場合には、請求権の問題は、取消訴訟の場合と同様に、根拠法規から読み取れるかどうか、という基準がある。形式的に取消になるか、義務付けになるかは、あまり区別しないと思う。
○例えば、大気汚染防止法上、飛行場に対して規制をしなければならない場合に、被害を受けている住民が、規制措置を求めて訴えるとき、一つは、規制措置をしないことが違法であるという確認・判決をする、二つには、もう少し踏み込んで、こういう規制をすべきだ、という義務付け訴訟・判決をする、ということがあるが、これについてはドイツでは認められるのではないか。
△そうだ。ドイツ行政裁判所法113条5項で、もし一義的に義務がない場合は、もう一回やり直せという判決を出し、一義的に義務がある場合には、はっきりした義務付け判決になると思う。
○ドイツの場合には、義務付け訴訟そのものを訴訟形式として認めており、あとはもう本案で、義務があるか、請求権があり得るか、の問題になり、その義務をどこまで認められるかによって義務付け判決がされることになるが、それに対して日本では、そもそも裁判所が行政庁の懐にまで立ち入っていいのか、そもそもそういう権限があるか、ということがあり、ドイツでは解決されていることが、日本ではまだ入り口のところで解決されていない。そこで、三要件で、なんとか司法権と行政権の間の線引きをやろう、ということだと思う。日本の場合はドイツと違って、行政裁判所がないということとも関係があるかと思うが、行政裁判所ということを回避するとすれば、義務付け判決、給付判決を求める訴訟ではなくて、すでになされた行政庁の判断なり行動なり、の違法性の認定を求める、というところをメインに訴訟を組み立てれば、入り口としては入れるのではないか。もう一つ、現在ある申請に対する応答がない場合の訴訟形式については、やはりこれは遠回りなので、今のような訴訟で、もっと優れた救済を提供できるならそれでもいいし、そうでない場合は、みなし拒否処分の取消訴訟の方が、多少とも、迂回しない、直接の救済になる、と思う。
△アメリカでは、不作為であることによって、本当に対立が尖鋭化してるのか、というところは最初に見るが、そうであれば本案に入り、違法であれば、不作為が違法なのか、義務付けられるような事案なのか、ということを審査し、どこまで本案審理できたかによって、義務付けがされたり、不作為であることが違法とされたり、という形になる。
△ドイツでは、裁量がどの程度あるかという問題ではないかと思う。判決の形式に関していうと、ドイツの場合には、行政庁に対する間接強制が認められているので、給付判決か確認判決かというのは、そこのところが違ってくる。ただ、給付訴訟とか確認訴訟ができる場合に、給付訴訟を絶対に起こさなくてはいけないかと言うと、行政機関の場合には、確認判決だっていいだろう、という形で整理がされているが、日本の場合にはそこまで議論がいっていないので、形に関しては、ドイツ法の場合とは違うという気がする。
○申請権がない場合の一つの典型が、建築物の除却命令だと思う。自分も昔、代執行のテーマで調べたことがあったが、年間だいたい2万件ぐらいの違法のうち、是正されるのが8,000件ぐらい、残りが12,000件で、除却命令まで行くのがせいぜい3,4件、代執行だと0か1、と、大抵野放しになっている。条文上、効果裁量が非常にあるし、実体上も、除却命令などというめんどくさいことはほとんど発動しないというふうになっており、違法をやってやり得というかなり悪質な事例も中には混じっている。そういうところを念頭に置くと、一定の場合、いくら何でもひどいという時には、申請がなくても除却命令の発動義務があるという類型は、ないとおかしい。いくら効果裁量を置いていても、こういう場合にまで不作為を認める趣旨ではない、と基準法上読みとれるという領域は、明文になくても存在している、というような考え方を裁判所が果敢にとることはできないか。この場合、除却命令を出す場合でも、いろいろな選択肢があるので、そこまで裁量を絞るのは難しいが、少なくとも何らかの形で是正に寄与する除却命令を出してないことが違法だ、という確認まではあり得るのではないか。そうでないと、今本当にザル法の最たるものなので、何のための除却命令制度かということになり、被害者がうかばれない。全部勝手に民事でやれというのは行政のあり方としておかしい。
□不作為の違法確認で、法令に基づく申請を前提としているものについては、もう少しうまく救済に役立つような仕組がとれるかどうか、議論し、事務局でもそれなりに考えていただきたいと思っているが、弊害を起こしていなければ、なんか返事をしろという訴訟を原告が選ぶというときに、そういうものは認めないんだ、ということを言う必要はない。
○現在の不作為違法確認訴訟という訴訟類型の存在は、弊害を起こしていると思っている。あのために、申請書を返戻された時に、拒否処分取消訴訟で行くのか、不作為の訴訟で行くのか、間違えて、悲しい思いをする、という人が、行政手続法ができた今でもあり得る。できるだけ訴訟類型の数は減らして、間違いを少なくした方がいい。
□その点は、色々と議論がある。せっかく行政手続法ができたのからちゃんと浸透させてほしいという気持ちと、訴訟類型を間違えた時に弊害が起こらないように、という考えだ。色々な訴訟類型が出てくるかもしれないので、その時にあらためて議論したい。なお、小早川委員がかねてから「みなし拒否処分説」をとっていることはよく承知しているし、論点の中にも出ているので、また議論をしていただきたい。また、行政裁判所だから義務付け訴訟ができるという議論は、田中説、雄川説で非常に強かったが、憲法が、司法裁判所によって行政を統制すると割り切っただけであり、日本と同じように司法裁判所による統制をとっている国でも義務付け訴訟を認めているというところもある。行政裁判所のあるなしは一つの論点かとは思うが、現段階でそれだけで説明できるかどうかは、やや疑問がある。この点はまた、議論を積み重ねていきたい。
もう一つ、ドグマティッシュなことにこだわるかもしれないが、その当人に対して権力を発動する義務の一義性ということと、その当人が請求権を持っているということはちょっと別の話で、ドイツ人が何でそこをうまくすりぬけたのかということはもう一度確認したい。
△日本の場合、国家賠償からまず出てきたが、ドイツの場合には逆に義務付けから出てきた。おそらくドイツ人の目から見たら、日本では、国家賠償では、個人に対する賠償があり得るということになっているのに、義務付けというのは、事前にやればできないのか、という疑問を持つかもしれない。
□ドイツの場合、損害が起きているのだから、という話だな。
△損害が起きたが、行政機関が違法に何かしなかったことが原因ということなので、やはりそれは、行政機関の違法な行為とつながった話ということだ。
○補足で紹介するが、法令に基づく申請がある場合の話だと、自分自身も、不服申立て、審査請求の裁決に関して裁決が遅すぎるという不作為の違法確認、不作為の国家賠償を担当したことがあったが、こういうケースでは、行政庁は、訴えの気配があったり、訴えの提起があると大慌てで最優先で処理をする。確かに、別の形の救済もあると思うが、不作為の状態について顕在化させる手段があるのが、行政庁に対する相当大きなプレッシャーになる、ということはあると思う。
○事務局の文章だけだと、こういう論点が何故上がってくるのか、わからないところがあったが、議論を聞いてると、それぞれちゃんと議論しておかなきゃいけない、と思う。
□今日直ちに方向性を出すというつもりはないが、色々な論点を指摘していただいた。これからの司法と行政の役割分担が、一番基本的な問題として横たわっているので、今日出た論点を、さらに司法と行政の役割分担という角度からも深めて行ったらどうか。この点、不作為の違法確認について、何か他に、注文あるいは意見等はあるか。
(特に委員から意見等なし)
場合によっては、総務省から、不服審査法上の不作為の違法確認が一体ちゃんと動いているのかどうか、等の点についても、資料を提供していただくことがあるかとも思うので、よろしくお願いしたい。統計的な資料はとっておられたか。
○最近は膨大な調査になるので、7、8年間隔でやっており、割合古い資料しかないが、事務局と相談したいと思う。
○もし、統計をとれるようだったら、変更裁決がどのぐらいあって、義務付け訴訟とどのような関係があるかを教えてほしい。
○今はないが、事務局と相談したい。
- 【「差し止め請求」及び「当事者訴訟」について】
- □もう一度事務局から説明を。
■差止めの請求については、抗告訴訟という訴訟類型を作ったからといって、公権力の行使に対する争い方が、事後的救済というか、抗告的な救済に限られるか。つまり第一次的判断権を、この訴訟類型自体が前提として仕組んだ、というように、そこまで厳密に考える必要があるかどうか、そこをご検討いただいていたわけですが、そういう意味で、立法当時の立法担当者の考えでは、必ずしも、明文の規定のない抗告訴訟を否定する趣旨ではない、と説明されているわけです。ただ、差止めの請求ということになりますと、民事では一応、実体法上は、こういう場合についてこういう差止めが請求できる、というのが、一般的な法律はないですが、今までの判例の中で、明確に人格権に基づく差止めと考えられているわけです。ただ、行政の違法な行為に対する差止めというのが、何を要件にして、どういう場合に差止めができるのか、というのは、先ほどの義務付けの場合も、似たようなところがあろうかと思うのですが、必ずしも、明確な基準というのもないし、そもそも認められるかどうかというのもはっきりしていないのではないのではないか。その点について、そうであるとすると何らかの規定を置いていかなければならないのではないか。その時に規定するとしたら、基準は何があるのか。対象となる行為というのは、行政処分もあれば、事実行為もあるでしょうし、様々な対象について、念頭に置く必要があるのか、例えば株主による取締役の違法行為の差止めといったら、違法行為の差止めとしか書いてない、と思いますし、逆に、住民訴訟などでしたら、公金の支出とかかなり限定した対象で書いてあるでしょうし、そういった対象をどういうふうに区切っていくのか、あるいはそういうのは、一般的な訴訟法で決めるべき問題なのか、個別の実体法で差止め請求権を規定していくべきなのか、というような問題も出てくるのではないか。差止めの対象というのは非常に設定の仕方というのが難しい、と思ったわけです。それから、その時に、原告側の損害というような要件をつくるのがいいのか、あるいは被告側の行政側の公共の福祉というような要件も考えていくべきなのか、それから、差し止めの要件をどうつくるか、との関係で、通常の訴えの利益とそれはどう違うのか、とか、他の確認訴訟等での救済方法との関係をどういうふうに考えていくのか、一応そういったところを詰めた上で考えていく必要があるのではないか、という問題意識を持っております。
□差止めについて、一応置かれた状況を見ると、違法確認、あるいは無効確認が間に入ってくると、かなり差止め効果を持つ。例えば、勧告、公表、処分ときたときに、処分を止めようと思うときには、処分の差止めではなく、勧告の違法確認で止まるということがあるので、実際に動かして見ると、抽象的に考えるよりは、働く場面は狭いかもしれない。ただ、およそありえないかというと、いろいろな場面を分けて考えてみないといけないが、その時の要件について、事務局の方では、民事関係の場合と比較して、かなり心配をしているところがあるので、ドグマティッシュに何か考えなければいけないのかどうかという点があるかと思う。
○手前の方の処分について、違法確認がなされても、なおかつ差止めをしないと止まらない可能性がある行政行為類型は、何か、想定されているか。
○差止めについて考えてみると、まず、普通であれば、基本となるべき取消訴訟のようなものは、処分があり、執行停止がある。それ以外では、人格権に基づくようなタイプのものは、それで可能という見方がされているので、行政独自のものを考えるとなかなか難しい。例えば、外形標準課税のようなものが出た時にどうするかという対応として、そんなことも議論には上るのか、ということぐらいしか想定できなかった。
□こういう時の典型事例としては、昔から、刑務所の受刑者についての丸刈りの差し止め訴訟というのがある。これは白石判決が、訴訟自体は、入り口は認めた、という事例だが、あれが出てきたらどうなるか。その場合でもいろいろ議論があり、確認訴訟、無効確認訴訟で、そういった丸刈りを定めている慣行などの規律の無効確認ができれば、あえて丸刈りの差し止めまで行かなくて済む、ということはある。
○しかし、そのへんも、端的に民事の予防訴訟でできそうな気がする。
□そこは、ここでもずっと底流に流れている議論の一つで、少なくとも田中先生なんかの頭では民事ではないと思っている。あるのなら公法上の当事者訴訟だが、それは公権力の行使なので、公法上の当事者訴訟には当てはまらず、法定外抗告訴訟の問題。だが、法定外抗告訴訟の問題は、なかなか厳しい。ただ、田中先生は、差止めの方は割合緩やかというか、そういうこともあるとお考えだったと思う。それは、人権侵害については、自由権の侵害であり、それは差止めるのは、裁判所の機能としてあり得る。しかし、行政庁をして、ある行為をやらせるということは、権力分立に反する。その意味では、美濃部、田中理論は、自由主義的な行政法理論のちょっと徹底した姿かなと思っている。その点からすると、差し止めの方は日本法でいうと理論的には人格権ないし自由権と割合つながりがある。
○丸刈りを民訴で止められないかというのは、自分も考えるが、恐らく仮処分まで認めていいかという話だと思う。それでもいいというのであればいいが、あまり簡単に、民事裁判官に勝手に止められては困るという感覚をクリアーできるかどうかだ。
○よく、仮処分で簡単に止められたら困るという議論が出るが、実際にはそんな簡単なものではない。例えば、ごみ焼却場などの嫌忌施設の建設については、これは全部民事でやっているが、仮処分のケースが結構ある。民事の仮処分で、人格権の侵害を理由にごみ焼却場をストップさせることが、民事の仮処分だからすっと出るかというと、とんでもない話で、人格権の侵害だけで、決定がでるかというと、そんなことはない。やはり公共性を十分斟酌して、その上で決定なり判決がなされるのが実態だ。民事の仮処分だから、簡単に出て、公共性などが排除されるから、行政にからむやつは、民事の仮処分がだめだ、というのは、誤解に基づくことだと思う。
□民事でもやれるとか、行政ではどうとか、などの話は、抗告訴訟という観念を置くかどうかの問題と関係している。仮に抗告訴訟という観念がなくなれば、それはまさに当事者訴訟であろう、当事者訴訟というものをどこで引き受けるかについては、行政訴訟法の外に置くのか、行政訴訟法の中の当事者訴訟というところで引き受ける、そこには職権証拠調べもある、と落ち着かせるか、という問題はある。
丸刈りのようなものについて、人格権で差し止めるということは認められると思うが、人格権の侵害ではなく、地位を失わせしめる等、営業の関係などで差し止めていくのか、一遍処分をさせてから、その取消しで行くのか、という問題があるように思う。
○基本的なところは処分前提型だと思うが、ものによっては、事前差止めでなければ全く効果がないというものもある。その時に、どういう要件のもとに差し止めをするかという要件の中身の議論はあるが、そういうものはありえないという発想は自分にはない。
□しかし、判例を見てると、結果的にあり得ないような判例が多いようにも思う。長野勤評事件を見ても、最高裁も結構厳しかったのではないか。
○なんかの利益につながらなければいけないとか、成熟性の問題とか、他のものがあると思う。満足的な仮処分では、高いものを要求するのは事実であり、何か言えば止まるというものではなく、そういう点で、実際上通りにくいことはあると思う。民事の場合と比べて行政だから、極端に差止めが認められないかというと、それは、あてはめの問題に過ぎないのではないかという気はする。
○自分は、丸刈りみたいなものについては、まさに人身の自由にかかわる話であり、それについて、仮処分を制限して行政庁の判断を優先させる、ということは、今の日本国憲法の人身の自由に対する考え方からして、おかしいのではないか、行政庁よりはむしろ裁判所が正面に出て判断権を持つべきではないか、そういう領域ではないか、と思っている。仮に今後、行政処分と取消訴訟、出訴期間付きの取消訴訟という、その対象をしぼっていくような話になれば、その種の、人身の自由、人の収容などの領域については、本当に行政訴訟にしていいのか、それともむしろ、裁判所が直接出てくるべきなのか、そんな別の考え方があり得ると思っている。ただ、一般論として、公共的機関の場合に、仮の救済の問題はある、ということを先ほど申し上げた。
□同じことを言うかもしれないが、行政訴訟としていいのか、というときに、それではもう全部民訴に丸投げということでいいかどうかが、これからの議論になると思う。何のために行政訴訟を置いておくのかという議論の時に、一つは、権限行使の裁量問題があり、裁量統制の道具が、通常の民訴にあるか、という問題がある。また、行政訴訟の専門部を設けたときに、そこは取消訴訟だけで、他のものは全部民訴でやる、ということになるのか、行政の専門性に対する裁判所の切り込みというものが必要だからこそ、専門部を設けてやっているわけで、それが取消訴訟だけで、きちんとした司法による行政のチェックシステムになるか、という問題があり、それは、行政裁判所ではないが、専門的な、習熟した裁判官が、行政に対する司法チェックを行うというシステムができているとすると、そこにも道をつけといた方がいいのではないかという問題がある。
○その場合、請求の構成は、どのようになってくるのか、おっしゃる趣旨はわかるが、民事訴訟でいう要件と、行政訴訟として構成した場合の独自の要件、あるいは、民事訴訟では要求されるが行政で構成したから、これが要らなくなった、という部分がどこか出てくるのか。あまりイメージができず、ほとんど同じに重なってしまうように思うが。
□そこは、行政の行為規範がどれほどきちんとあるかの問題だ。民々の間にはない行為規範が行政に課せられている時に、その行為規範の統制をするのが、民事第二部だと思う。
○行為規範の源泉を、公法的な、行政上の行為規範と理解していき、その充足なり欠缺なりをよく見なさい、ということで結論が決まってくるものであれば、行政訴訟として任せるべき、となると思う。
○専門部がやるから行政訴訟なんだという議論は、ちょっと順序が逆だと思う。例えば今でも国家賠償訴訟は地裁の二部・三部に限られないではないか。国家賠償訴訟でも、行政の不作為や違法とかが議論になる。そうすると、公法のための訴訟か、私法のための訴訟か、区別ができないのではないか。だから、行政部に集中させるために、行政事件訴訟法で、行政事件をきちっと書くというのは、逆ではないかという気がする。もしやるとすれば、行政を当事者とする裁判は全部行政部に集中させる、というふうな議論になるのではないか。
□自分は、行政専門部の専門管轄にして、統一的な行政裁判、あるいは、フランス的な行政裁判に、全面審判訴訟みたいなものを全部コンセイユ・デタに取り込め、それが日本にもモデルになる、などということは、言ってるつもりは全くない。そういう道を開いておく必要はないのかということだ。原告の方でやっぱり行政専門部でやってほしいと来た時に、それは行政訴訟、取消訴訟ではないんだから、民事訴訟に行きなさい、ということをせっかく作った民事第ニ部として、言っていいものか。そこに、行為規範というものがあるとすれば、民事関係のようなごった煮の議論で決めるのではなく、きちんと適法性の審査をするのが、行政訴訟の専門部であると思っている。ただそれを、独り占めにするという意味で言っているわけではない。また、嫌忌施設、あるいは普通の建築請負でも、入札の問題など全くの民事とは違う色々な要素が入ってくるので、そうすると一種の主体説になって、被告が行政であれば全部、専門部に任せるというのも、選択肢としてはあり得る。
当事者訴訟などはもういらないということになるのか。
○これは、元々、公法関係か私法関係かという議論だが、今は、公法と私法の区別をつけないのがほとんど通説なのではないか。
○そういうことはない。基本的に受け付け段階でわかればそこで判断している。また、通常部に行き、公法上の請求ではないかという形で、行政部の方に来て、行政部で議論をして決めるという難しい限界のものは結構ある。
○だから、公法関係か、私法関係かという、ものすごく難しい議論をしているということだ。
○勘違いで回ってしまったり、解釈に迷ったりすることで、こぼれはあるが、必ず区分けしている。
□立法論としてはどうか。
○実際のところは、違和感がない。むしろ、当事者訴訟でやってるテーマは、取消訴訟と連続している部分があり、取り扱っている時に、そういう違和感がない。考え方も、取消訴訟で考えるテーマと働かせ方は違うが、扱う部分が非常に似ている。むしろ、通常事件の部に放り込んだ場合の違和感はもっと強烈にあると思う。
○当事者訴訟と民事訴訟か、という区別をあえてしなければならないのか。
○当事者訴訟に係属している事例としては、国籍確認、公務員たる地位の確認、俸給の支払い、補助金の交付請求のほか、社会保障関係は結構多く、給付自体を求めるものがある。そのほか、納税義務の確認の訴え、不存在確認の訴え、とか。それからあとは、形式的当事者訴訟になっていない形での、損失補償請求。こういうものが、現実に係属している。
□行政の行為規範があって、それに基づいて審査をする、ということだな。
○そういう意味では、むしろその枠の中でやるのに、非常に馴染んでいると思う。
○公法上の当事者訴訟という類型を廃止し、民事訴訟だと言っても、判断は一緒になるのではないか。公益性とかいろいろな判断はするわけであるから。問題は、今の違いは、職権証拠調べなどだが、このレベルでは民訴と違いがあるか。
○実際上は職権証拠調べをすることはほとんどない。ある程度サジェストすれば、当事者の方で立証活動を活発にやってくれるので、まずそこを使うことはない。それ以外の面での審理のやり方自体は、例えば、行政庁のやるべき分担と、当事者のやるべき分担が、取消訴訟と非常によく似ている。
○民事訴訟だといったからどう、公法上の当事者訴訟といったからどう、ということではなく、行政庁、行政主体が訴えられている、という次元から来ている話だ。だからそれを民事訴訟と言ってみたって、当事者訴訟と言ってみたって、違いはないではないか、ということだ。今、違いがあるのは、裁判所の管轄、支部でやれないということ、それから、職権証拠調べの若干の違いだ。しかし、職権証拠調べは、今おっしゃったように、我々の感覚でもあまり区別はない。民事訴訟か、行政訴訟かと言って見ても、ほとんどなんの意味もない。そうすると、そういうものをわざわざ置いておく必要があるのか、というのが、廃止論を主張する方の大方の意見だと思う。
□そうすると、東京地裁の民事第二部・第三部もいらない、ということか。
○行政を相手にしている裁判だから、民訴かどうかはともかく、2部なり3部なりに係属させればいい話で、あえて民訴か行訴かの議論をする必要はないのではないか。
□取消訴訟の排他的管轄というのは、裁判所の専門部とは全然関係のない話だが、今後色々な環境整備をしていくときに、取消訴訟をもう少し専門的にやらなければいけないのではないか、とか、行政訴訟に専門性が足りない、とか言っているわけで、そのときに今の民事裁判そのままで全部いいかというと、なかなかそうはいかないだろうし、行政訴訟の専門家を育てよう、というときに、取消訴訟の専門家を育てるということなのか。
○いや、行政に関わる訴訟の専門家ではないか。
□そうだ。そうすると、そういうものは一応、民事訴訟の中に入れといて、しかし行政に関わる訴訟だから注意せよと整理するのか、それとも、行政訴訟という中に、例えば当事者訴訟というふうに入れておくのか、という仕分けの仕方になると思う。田中先生、雄川先生の議論は、抗告訴訟以外にも、何か公益に関するものがあるので、それはそれとして一括りにし、実体法もどんどん作り、行政事件の特質を公益判断というところで特性、そういう意味での受け皿を作った方がいい、ということだったと思う。
○公営住宅の明渡し請求などはどうか。
○これは通常の民事訴訟でやっている。
○通常の民事訴訟で、別に、2部、3部に集中しているわけではない、ということだな。
○そうだ。
○その辺、公法関係か、私法関係かとなると、従来の学説では、あれは私法関係だ、と言ってきて、それが通常の扱いで認められているということだと思う。ただ、問題の性質からすると、やっぱりそれも、行政のあり方の問題というのは・・・。
○家賃の滞納などは、どちらかというと、アパートの家賃など、民々のケースと非常によく似ているので、それは通常部が非常に得意なところだと思う。
○この当事者訴訟の守備範囲は、現在は「公法上の法律関係」となっているが、別に、公法という言葉にこだわる必要はないと思っており、公益という文言を使って守備範囲を画する、という方法はあるだろう。また、公法私法の区別の否定論と、この当事者訴訟の存在可能性との関係について、自分も否定論に与しているが、それは適用法規の問題、つまり公法関係には公法しか適用しないという考え方を批判しただけで、法律関係の種別として、公法関係と私法関係というのがあり得る、というところまでは否定していない。
□そこはなかなか微妙な発言だが、理論的には誰も否定はしないというのが、宮沢論文以来の話だ。この辺も色々な角度からの議論の整理が必要なので、もっと詰めていかなければいけない。
公権力の行使というのは何かというと、行政が立法権から権限行使を委託されて、それを誠実に執行するのがまさに権限行使なので、それが誤っているのならたださなければいけない。そのただし方は取消訴訟でもあると同時に、無効確認訴訟でもあり、他の確認訴訟でもあり、差止め訴訟である、というストーリーを描くとすると、抗告訴訟というものがあるのではないかというふうに推測されることがある。ただ、抗告訴訟というものが必要であるとは全く思って ない。そのようなものがなくても、権限行使に関する訴訟について国民の権利利益の救済と適法性の統制をきちんとやるべきだということさえ押えればよく、あえて抗告訴訟というカテゴリーを作る必要はない。ただ、官庁が請け負わせてとんかちやるのとは違う、という行政の権限行使の審議の仕方については残るのではないかという感じが漠然としており、どのように受け皿を作ったらいいのかということはある。だから、今日のところは、公法上の当事者訴訟として残せということではなく、やはり両方の意見があるということだ。全部民事でもいいじゃないかという意見もあったことは承ったが、このところでやった方がいいという意見もあるように承った。
○抗告訴訟という言葉ないし概念が必要かどうかということもあるが、当事者訴訟という言葉も、必要かどうか。適法性判断であると考えれば、抗告訴訟と言われてきたものとの連続性が出てくるが、そこを当事者訴訟という言葉を使うと、むりやりぶったぎることになる。
□おっしゃるとおりだ。今日我々が議論してこれは当事者訴訟だ当事者訴訟だと言っていた、先ほどの丸刈りも、田中、雄川説だと、あれは抗告訴訟になってしまうのではないか。
○処分性なり公権力の行使なりの外延を、今まで一生懸命広げてきたので、今我々は、そこをもう一度狭めるような感じで議論しているところもある。
□そうだ。権限行使で、当事者訴訟というのは、それこそ、当事者、武器対等のところだが、取消訴訟は、武器不対等なので、行政の方にそれだけ説明責任が課せられている訴訟であるということであれば、何も上下関係のものでも何でもないということになる。呼び方は確かに、問題があると思う。
○フランス的に言えば、当事者訴訟というのは、両方原告被告がいて、越権訴訟というのは、行為に対して攻撃があるだけで被告はいないということだ。だから、当事者訴訟というものをそういうものだとすれば、一つの考え方だが、日本ではそのような被告のない訴訟は、およそ、常識に合わないと思う。
□ドイツやアメリカでは、当事者訴訟というのは、カテゴリーとしてあるか。
△ドイツの場合には、公法上の法律関係に関する訴訟が、行政裁判所の管轄に属する、ということだから、その意味では、どちらかというと、公法上の当事者訴訟に近い感じになっている。あとは、取消訴訟と義務付け訴訟に関する特則がある、ということで、抗告訴訟というカテゴリーはない、ということになっている。命名の仕方としては、現行法上は、公法上の法律関係に関する訴訟、だけだ。
△アメリカには、そもそも、ない。
□そのような外国法の状況があるので、あまり命名の議論、名前の議論をしてるときりがないが、抗告訴訟というのと、当事者訴訟を対峙させたわけだから、概念としては、きちんと整理をしておく必要があると思う。
もう一つ、公権力の行使という言葉は、現在あちこちで使われているが、行政手続法にも使われており、そういった言葉を、今度の行訴法でどうするか。別の表現で書くというやり方もあるが、現行法で使っている公権力の行使という意味はどういう意味であるかという点も、細かな点に入ってくる段階では、詰めておかなければいけない。
○この検討会の議論が佳境に入って来たが、行政法学にとって大変なことである、と感じている。これは、行政手続法、不服審査法と当然、連動する。行政手続法、行政不服審査法、の同時見直しということが、立法作業としてあり得るのか、ということと、それが逆に、行訴法の見直しの外在的な枠になるのか否かということがある。
■現段階ではなんとも、言いかねるところはある。総合的多角的検討はするということになっているが、ここの課題は、司法救済、司法審査、行政に対する司法のチェック機能の充実というテーマになっており、司法のチェック機能との関係では議論していくことになると思うが、それそのものが、ターゲットにはなってはいない。ただ、併せて、どうしても、行政手続法の中でどういう救済をしていくか、行政手続法をどう仕組んでいくか、という指摘を前からしているので、併せてご検討をいただき、その上で、司法救済はどうあるべきか、ご議論いただければいいのではないか。
○それは柔軟に考えたらいいのではないか。ADRにも触れているはずだ。柔軟に考えてここで決めていけばいい。
○ただ目的の実現をちゃんと果たさなければいけないと思うので、限られた期間の中でできるだけ集約的に議論をしたらいい。そういう意味で、非常に勉強にはなるが、全部これだけ広げて、最後に収斂するだろうか、という疑問を持ちながらやっている。一読の段階だから色々な意見が出るのはいいが、やはり何か成果は上げたい。
- (2) 今後の日程等(□:座長、■:事務局)
- ■次回は、論点については「第4 行政訴訟の審理等」について検討をお願いしたい。また、参考までに、以前事務局から国民の意見募集の紹介をしたが、それ以外にも随時、国民から寄せられている意見については、ファイリングをして、いつでも委員の方には見ていただけるように準備している。
□議事概要が、かなり早い時期から、ホームページに出ている。だんだん回を重ねると、前にどういう議論をしたかが、かなり重要なポイントになる。場合によっては手元に議事概要をお配りしていただいた方がいいのかと思うので、事務局の方で用意しておいていただきたい。ホームページを開くと簡単に出てくるが。議論が積み重なってくると、あまり、同じ議論を、同じような角度からするよりは、発展的にしていきたいと思うので、よろしく準備をいただきたい。
○次回の検討会では、第4だけでなく、第5まで行く可能性があれば、そこまで準備してほしい。
■ご意見があったことを承っておく。
- 7 次回の日程について
- 12月17日(火)13:30〜17:30