- 1 日時
- 平成14年12月17日(火) 13:30〜17:30
- 2 場所
- 司法制度改革推進本部事務局第1会議室
- 3 出席者
-
(委 員) | 塩野宏座長、市村陽典、小早川光郎、芝池義一、芝原靖典、成川秀明、萩原清子、福井秀夫、福井良次、水野武夫、深山卓也(敬称略) |
(事務局) | 松川忠晴事務局次長、古口章事務局次長、小林久起参事官 |
- 4 議題
- 論点についての検討
- 今後の日程等
- 5 配布資料
- 資料1 行政訴訟の審理等に関する検討資料
資料2 最高裁判所説明資料
資料3 行政訴訟検討会開催予定(第16回以降)
- 6 議事
- (1)論点についての検討(□:座長、○:委員、△:外国法制研究会委員、■事務局)
- □本日の議事日程は、論点についての検討、ということで、行政訴訟の審理等についての検討をしていただくが、今回のテーマは、非常に多岐にわたるとともに、技術的、専門的なので、項目を分けて議論していただきたい。第1の論点は、行政訴訟の管轄、第2の論点は、訴えの提起と請求の特定等、第3の論点は、行政訴訟の審理における職権探知主義の問題、行政訴訟における主張・立証責任等、第4の論点は、処分の理由の変更、行政訴訟における和解、特別の事情による請求の棄却の制度、第5の論点は、裁量処分の取消しに分けてご議論いただきたい。
最初に、事務局から資料の説明をしていただく。
- 【「行政訴訟の管轄」について】
- ■「管轄」については、現在の行政事件訴訟法の前身である行政事件訴訟特例法では、被告行政庁の所在地の裁判所だけに管轄を認め、しかもこれが専属管轄ということで定められていたものを、この行政事件訴訟法の制定時に国民の便宜を図って改めた、というふうにされている。立法担当者の解説によれば、一つは、当事者の合意等によっては変えられない専属管轄とされていたのを改め、当事者間の合意やあるいは被告が任意に応ずることによって管轄が認められるような任意管轄ということに改めたというのが第1点、それから不動産あるいは問題となっている特定の場所の所在地の裁判所にも管轄を認めた、これが第2点。さらには処分等に関して事案の処理にあたった下級行政機関がある場合には、その下級行政機関の所在地の裁判所にも提起することができる、ということにした、これが3点目であるが、このような形で管轄裁判所の範囲を拡げて、国民の権利救済の便宜を図った、というふうに解説されている。この3つ目の下級行政機関の所在地の裁判所というのはどういう場合にこれに当たるかという解釈については、資料1の3頁で最高裁の判決を挙げているが、最高裁判所は柔軟な解釈をとっている、というふうに考えられる。
この検討会においては、行政訴訟の土地管轄については、現行の規定以上に国民の便宜を考慮して、原告の住所地に近い裁判所にも管轄を認めるべきではないかという観点から、資料1の1頁の枠囲いの中にある②のアからエまでのような考え方が挙げられているところであり、その中では立法例として一定範囲で管轄の拡大を図った情報公開に関する法律の定めも参照されている。
他方、これと関連する一つの異なる観点として、行政訴訟の審理については、裁判所の専門的な体制の整備が必要ではないか、こういうご意見も述べられている。
そこで、行政訴訟の管轄の検討に当たっては、民事訴訟で一般に言われる当事者間の公平、あるいは証人などの便宜等の観点のほかに、行政訴訟を取り扱う裁判所の専門的な体制整備という観点、これについてもあわせてご検討いただきたい。そして、この場合、仮に原告の住所地を基準とする管轄を拡大したということになった場合、現在よりも事件を取り扱う裁判所が分散するということが考えられるが、そのような場合に、今申し上げたような裁判所の専門的な体制といった観点から果たして問題が生じるのか生じないのか、あるいは住民訴訟においては専属管轄の定めというものがあるが、そういう個別法で手当てをしている管轄の特例などについても必要に応じて念頭に置きつつご検討いただきたい。
□管轄については、最高裁判所から資料の提出をいただいているので、説明いただく。
〔最高裁判所からの資料説明〕
資料に基づいて、行政事件の現状、裁判所の体制の実状等について、ご説明させていただく。
まず、資料2の①だが、これは平成13年に全国の地方裁判所に提起された行政事件の新受件数、全国の裁判所別に数を示したものだ。全体では、1,495件提訴された、ということになっている。
資料2の②だが、これは行政事件を専門的・集中的に取り扱う部の設置状況、平成14年のものについて示したものだ。東京、大阪等の大都市、あるいはその周辺部の地裁においては行政事件の件数が多いので、これを専門的・集中的に取り扱うよう設置しており、全国で8庁ほど、設置されている状況にある。
資料2の③だが、今回、この検討会で国民がアクセスの観点から、管轄の見直しの要否について、議論されるということで、原告の住所地と提訴裁判所の関係はどうなっているのか、ということを調査して、この資料をまとめた。調査の基になった事件は、本年の7月1日から9月30日までに全国の地方裁判所で受理された行政事件である。全体で、367件あり、このうち、原告住所地の地裁に提訴された分が313件で、全体で約85%である。その余の約15%が原告住所地以外の地裁に提訴されたものである。
資料2の④だが、原告の住所地の地裁に提訴された行政事件について、その事件の種類の内訳を示したものだ。多い順に並べており、住民訴訟、国税、地方税、情報公開(地方公共団体)のものが多いところとなっている。住民訴訟やあるいは租税関係等の身近なところで起こる紛争については、現行のシステムの下でも原告の住所地の地裁に提訴されている状況が見てとれると思う。
資料2の⑤だが、これは原告の住所地以外の地裁に提訴された行政事件54件の事件の種類について見たものだ。これも数の多い順に並べているが、一番多いのが出入国管理・難民認定法関係の事件で、いわゆる入管法に関する事件である。入管法関係の処分については、昨年法律が改正され、従来法務大臣が行っていた処分の多くのものについて、地方入国管理局長に権限が委任され、入管局長が処分を行うことになったので、その入管局長が行った処分については原告の住所地に近い裁判所に提起できることになった。
次の社会保険の関係だが、この事件の中身は年金の支給処分を争うものがほとんどである。社会保険関係の処分については、社会保険庁長官が行うものがほとんど、中心であるが、これらの処分については、地元の行政機関が実際に事務処理を行う場合が多いのではないかと思われる。こういった関係では、事案の処理に当たった下級行政機関の所在地に管轄を認める行訴法12条3項の規定が問題になると思われるが、この点については、先ほど事務局から説明があったが、最高裁の決定でかなり柔軟な解釈を示しているところであり、事案によっては、この手の事件については、地元の裁判所に管轄が認められる可能性がある、ということではないかと思われる。
その他、労働者災害補償等の関係の事件は4件ほどあるが、これはいわゆる労災保険の支給処分を争うものであり、この労災保険の支給処分というのは、当該事業所の所在地を管轄する労基所長が労働基準監督所掌で行うことになっており、基本的には原告の地元、あるいはその近隣の裁判所に訴えが提起できる状況になっている、ということが言えるのではないかと思われる。
また、この中に情報公開(国の機関)が2件あるが、この情報公開訴訟に関しては、行政機関の情報公開法に管轄の特例が置かれているところであり、原告の住所地を管轄する高等裁判所の所在地の地裁に提起することができる。
なお、国民の裁判所へのアクセスを高めるという課題との関係では、裁判所のテレビ会議システムについて、紹介をさせていただきたい。裁判所のテレビ会議システムは平成10年の1月1日から施行された民事訴訟法において、導入されたものであるが、これを受けて全国の裁判所にテレビ会議システムが設置されている。これを利用する証人尋問、弁論準備手続、進行協議期日などを行うことにより、遠隔地に居住する当事者、あるいは訴訟関係人に事件の継続する裁判所に来ていただくことなく、訴訟手続を進めることができる、そういうシステムが整備されている。
□行政訴訟の管轄については、国民のアクセスの容易さという観点と専門的な習熟した裁判所の裁判を受ける利益をどのように調和させるか、自由にアイデアを出していただきたい。
○資料2の⑤で、原告住所地以外の地裁に提訴された行政事件の種類の中に、地方税と地方公務員の事件が入っているのはどうしてか。
(最高裁判所)例えば、地方税の事件の中には、軽油引取税などについて、企業が本店所在地と異なる都道府県で課税された場合に原告の住所地ないし本店所在地と異なるところの裁判所に提訴した場合である。
○この地方税の事件はすべて法人による提訴か。
(最高裁判所)手元の資料では法人と思われるが、確定的には申し上げられない。地方公務員の事件は、原告の住所地が従来就業していた都道府県とは異なるところにある場合で、例えば市立大学の職員が市長相手に原告住所地と異なる裁判所に訴えを提起したような場合である。
○テレビ会議システムのイメージはどのようなものか。どういう形で利用できるのか。
○各地方裁判所にはテレビ会議システムというのがあり、ラウンドテーブル法廷、円形の法廷があり、傍聴席もあって、大きなテレビが1台置いてあり、テレビの上にカメラがある。裁判官がカメラの正面ぐらいに3人座り、一方の代理人は、東京の訟務部であれば、訟務の代理人はその日出頭して、相手方は鹿児島なら鹿児島の裁判所に来てもらう。そうすると、同じような部屋があるので、鹿児島の裁判所では東京のその法廷の様子が、まさに同じ法廷のテレビに映っているわけで、逆に私どもの姿は向こうのテレビに映っている。それで後は普通と同じやりとりで、先に準備書面を送ってきておいてもらい、準備書面でご主張なさりたいところで、この点とこの点については前回釈明したことと少し、ずれているんじゃないかとか、そういうことのやりとり、あるいはこういう補充をもう少ししてほしい、あるいは相手方の代理人がここのところは公開してよいのか、というふうなやりとりをする。それで、普通の弁論で5分で終わるものであれば、やはりそのテレビ画面を見ても5分ぐらいで終わる。電話と違って、顔が見えているので、非常に法廷に近い雰囲気でやれる。今までトリオフォンというのがあり、電話でやることができたが、やれる相手というのはどちらかというと、法律の専門家に限られていた。専門家とならば、あまり大きなずれはないし、表情がなくても分かるだが、本人のときには、分かって答えられないのかどうかということでは表情が見えるというのは非常に助かる。そういう形で使っている。
○提訴裁判所はどちらになるのか。
○今の事件は、鹿児島の人の事件で、東京地裁が提訴裁判所であったが、結局、原告はほとんど鹿児島にいたまま審理ができた。
○裁判官の専門性についても考えてという話もあったが、テレビ会議システムを柔軟に使えるのであれば、原告の住所地の裁判所に訴えを提起し、専門性を有する裁判官がテレビ会議システムで審理すれば、大分イメージが違うのではないか。
○今の例では、鹿児島の裁判所は単に部屋を貸しているだけなのか。裁判官は関与するのか。
○鹿児島の裁判官は関与しない。書記官は手伝いのために関与している。書証の写しなどを送っておくなどの事前の準備をしたりしている。
○その場合、専門性を有する裁判所は東京ということか。
○そのとおりである。
○行政訴訟の管轄については、資料1の1頁目②のアの考え方により、原告の住所地を管轄する地裁にも訴えを提起できる制度とすべきである。現在の制度では、行政庁を被告にしているので、行政庁に近いところにいる原告が訴えを提起する場合、結果的には最高裁の説明のように原告の住所地でほとんどの事件が起こされている。しかし、今回の改革で被告を行政主体に改めるのであれば、国を相手にする訴訟については現行法の規定のままでは今のようにはできないことになるので、原告の住所地の裁判所で訴えを起こせるという原則規定を置く必要がある。現在、国を相手にする訴訟でも、最高裁の説明にあったように、ほとんど原告の住所地で裁判が行われており、地方自治体を相手にする訴訟では当然に原告の住所地で提訴され、税務訴訟でも原告が転居した場合でも原告の住所地で提訴されているが、支障は生じていない。ただし、原告が処分等を受けた後に転居した場合で、地方公共団体を相手にする場合や、企業の支店所在地で課税される場合については別の配慮が必要である。裁判官の専門性という点では確かに問題があるが、むしろ各地裁でもこれから先、専門性を有するようにすべきである。現在専門性が薄いからといって高裁所在地の裁判所に移すのはいかがなものかと思う。
○資料2の③については、東京か地元かという話であれば、原告がその住所地の地方公共団体を訴えた場合を除かないと説得力がないのではないか。原告の住所地の裁判所に管轄を認める考え方があり得るが、テレビ会議システムがあるのであればこれを逆に利用することが考えられる。もう一つは、情報公開法と同様に高裁の所在地の地裁に管轄を認めることが考えられるが、この場合、自分の理解では、沖縄の人が提訴する場合には、第一審は福岡地裁となるが、控訴審は福岡高裁沖縄支部で審理されることになるはずであり、妥当でない。同じようなことは金沢でも起きる。情報公開法の時にも問題となったが、今回はこの点について使いやすくするよう検討すべきである。
○資料2の⑤の原告住所地以外の地裁に提訴された行政事件の種類の中では、出入国管理・難民認定法関係の事件が12件と最も多くなっているが、外国人の不法就労等のこの種の事件の原告は、訴えの提起時には赤羽や茨城県牛久の出入国管理センターに収容されている場合が多いが、住所地は収容される以前に就労していたところであって、千葉県であったり埼玉県であったりして、原告住所地以外の地裁に提訴されることになる場合があるが、住居の固定性という意味では、その後、結局東京に居住することになる人も多いことを申し添えたい。被告適格を行政主体に改めた場合現在よりの集中化が極端になるのではないかという水野委員のご指摘はもっともであり、何らかの対応が必要だと思う。最高裁の説明は現行の制度を前提として、原告の住所地から離れる事件の割合を示したものだと思う。一般論としては、利用者の便宜という点からすると、原告の住所地に近いところに出訴できるというのがアクセスの面から、それに越したことはない。ただ、自分は金沢で勤務したことがあるが、金沢で起こされる事件についての国の代理人は名古屋法務局におり、名古屋から金沢に出張してこれる時間をとれないといけない。東京であれば30分空いていれば期日を受けてもらえるところを、出張のために丸一日あけてもら得る日でなければならず、なかなか次回期日の日が入らないという問題があり、裁判所の問題だけでなく、それに対応する被告行政庁側の体制というのも、管轄を一気に拡大する場合には不便なくやれるか考慮する必要がある。専門性については、扱う行政事件全体の数が少ないと、その中で類似の事件が少なく、対照する事件がない。比較検討できる類似事件をある程度の一時期に扱うことにより比較検討をしてはじめて気がつく問題点もある。ある程度事件の数がまとまってあるというのが専門部を維持していく上での非常に大きな点であることを理解していただきたい。
○利用者の便宜を考えると、原則形態としては、原告の住所地の裁判所に管轄を認める方がよいが、裁判官の専門性については、市村委員ご指摘のような規模の経済の問題があり、その点からすると、高裁ブロックなりにある程度集約してやる方が、迅速化や処理効率に大きなメリットがある。テレビ会議システムの紹介があったが、専門性を有する裁判官を選択できるようにした上で、できるだけ当事者が場所的移動を強いられなくてもよいような仕組みにして、テレビ会議システムを利用し、原告の住所地に近い方がよいという問題をクリアできるようにすべきである。裁判官の専門性の問題は、国民にとって切実な利害がある問題であり、原告の住所地があるいはブロックの高裁所在地かということを原告の方で選択できるようにしておけば、ある程度処理件数もあり規模の利益があってきちんと判決してくれそうだと思えば、すなわち多少遠くて不便だがそれを補ってあまりあるだけのメリットがあると考えればそちらに訴えるし、そうでもないと思えば地元に訴えるし、その場合でも被告の方がテレビで参加すればそれほど移動のコストがいらないということであれば、選択制に委ねてできるだけ遠距離で審理ができるような仕組みを活用するというのが妥当ではないか。
○管轄については、資料にもあるとおり、当事者間の公平を考えるということで、応訴を強いられる被告の利益を考えるのが民事訴訟における管轄の考え方の出発点であるが、その上で、別の基準を用いることもあり得ることである。取消訴訟の被告を行政主体に改める場合でも、管轄のところだけ、事案の処理に当たった行政庁の所在地の裁判所とするという現行法のシステムを守ることも選択肢としてはあると思う。資料2によると、現行法でも相当程度原告の住所地で審理しているということで、これほどとは思っていなかった。国民のアクセスという観点からなるべく近いところで、というのは原則的な考え方として基本的な方向性に異論はないが、現行のシステムでもそれは相当程度実現されているのではないか。管轄を考える際には、裁判官の専門性について考える必要があり、訴訟運営や訴訟指揮は本だけ読んでできるものではなく、行政実体法の知識が相当程度いるという点で行政事件は特殊であり、典型的な処分等について一当たり自分で経験してみることによってある程度自信をもった訴訟指揮ができるようになる。事件の少ないところではたとえ3年いたとしてもこの経験はできない。今後この改革が進んで行政事件が2倍、3倍になったとしても、全国に散らばるとそれほどの数ではなく、2件や3件しか事件のないところに積極的に管轄を認めるのは、全体の司法サービスとしては好ましくないのではないか。行政に精通した裁判官が育つような管轄を考えると、原告住所地への管轄の拡大に対しては一定の制約があってしかるべきである。
○民事訴訟であれば、民・民の争いなので、被告の利益を考えるのはもっともだが、行政訴訟でも同じように考えることには疑問がある。今回の改革で行政訴訟へのアクセスということを考えれば、原告の立場をまず第一に考えるべきである。被告側の訟務検事などの利益は二の次である。裁判官の専門性に関しては、個人的な迷いもあるが、行政事件といっても事実認定が争点となる事件も極めて多いという認識であり、租税事件や運転免許の取消しなどの事件に多いが、その場合には民事事件と同じ感覚でやれるはずである。それを難しくしているのは、処分性や原告適格、被告適格などの行政事件訴訟の桎梏であり、今回の改革でそれらの点は改善され、専門性は低くなるのではないかと思う。
○最高裁の資料の中で、地方自治体の処分の場合は国の場合と意味が異なり、また、国の処分でも地方支分部局に権限が委任されているものと大臣が権限を保持しているものがあって、中央に権限が残っているために裁判管轄が無理矢理東京地裁になっているような場合がどれだけあるのか、そこは資料2の⑤だけでは分からないところがある。そのような点に関する資料を出してもらった上で結論を考えるべきである。行政訴訟への門戸を開くために、東京地裁だけでなく、原告住所地なり高裁単位なりで裁判所が行政訴訟を受け止めるという体制を作るというアナウンス効果は大きい。
○原告の立場と裁判官の立場の話があったが、管轄については、原告にとってアクセスしやすいという方向がよい。国民は、過去の判決などを見て、あまり専門的でないところに訴えた場合にはどういう判断がされるか、この裁判は地方ではなくて東京まで行かなければならないか、といった計算もできるはずなので、とりあえずは拡げておいて、過去の判決の件数などを含めて情報が公開されれば、訴える側の利益は十分確保されるのではないかと思うので、原則はどこででも訴えられるようにすべきである。
○制度は、設けるからには中身が充実している必要がある。結果として何が原告にとって一番よいのか、あるいは国民全体にとってよいのかという点から見ると、必ずしも近いところに出訴できるということだけを見ることはできず、アクセスがよいから結果もよいとは限らないので、仕組みとして考える際には、一定の資源の配分という観点から考えるべきである。
□ここでまとめるということではないが、考えておきたいのは、第一に、被告を改めることは確定したわけではないけれども、仮に行政主体を被告とする場合には現行法の管轄を前提とするのではなく、法政策的に考えることは前提としてよいのではないかと思われる。第二に、国民のアクセスと裁判所の専門的体制という二つの観点をどう組み合わせていくかは難しいところもあるが、いろいろな知恵を出してもっとも国民にとって使いやすい制度にしたい。その際、距離が近いというだけでなく、ちゃんとした裁判をしてもらえるかということも重要な点である。ただちに全国に専門的な裁判官を配置できるものではないし、配置しても事件が一年に一件しかないというようでは資源の活用という点からどうかという問題もある。第三に、選択制、すなわち患者が医師を選択するように、原告が選択するという考え方や、巡回裁判というようなことが日本であり得るのかということもある。基本的な考えはみなそう違わないと考えるので、良いアイデアを出していきたい。なお、地方公共団体を相手とする訴訟で処分後に原告が転居してしまった場合や、営業免許の場合で原告の住所地と異なる場合などもあるので、そういった点も含めて、被告となる立場のものの意見も聞いた上で、さらに検討することとしたい。
○建設大臣の代理人をした経験では、不動産に関する特例の管轄が認められる場合にわざわざ東京で訴える人はほとんどいなかったが、その理由は、やはりいちいち通うコストを考えたからだと思う。テレビ会議システムの話があったが、東京に訴えを起こしても通う必要がなく、処理能力の高い裁判所で審理してもらって有利な判決がもらえるかもしれないという情報開示もされ、たまたま遠いところにある管轄がそれほど支障にならないということができれば大分違ってくると思われるので、そのための技術開発も重要である。
□なお、私がいっている裁判官の専門性は、もうちょっと裁判官に専門性があれば原告が勝てたのに、というニュアンスを考えている。管轄については、被告の立場のものの意見も聞いた上でさらに検討したい。
- 【「訴えの提起と請求の特定等」について】
- ■訴えの提起の方式については、資料1の5頁の枠囲いの中の②で、はがきやファックスによる簡便な訴訟提起を認めるべきであるとの考え方が示されているが、この考え方は、具体的なそういった方式もさることながら、仮にごく簡潔な文書による訴えの提起で、たとえそれが不十分なものであったとしても、裁判所の補正の促しなどにより訴えの提起を適法なものとして認めて行くべきであるとの考え方が背景にあると考えられるので、その意味では、これも含めて③以下の考え方で述べられている、原告の請求の理解等に関する裁判所の対応の在り方と共通する問題提起がなされていると思う。
なお、訴え提起の形式については、民事訴訟法及び民事訴訟規則に定めがあり、用紙の種類についての定めがあるわけではないので、はがきによる訴えの提起も必要な事項が記載されてあるのであれば可能ということが言えるし、逆に訴訟ということで、相手方を巻き込む重要な手続を開始させる書類なので、訴状はファックスの利用は認められていない、というのが細かい点については現状である。
請求の趣旨の特定については、民事訴訟一般にも通ずる問題であり、民事訴訟法246条によると、裁判所は、当事者が申し立てていない事項についてまで判決をすることができないこととなっている一方で、裁判長には、訴訟関係を明瞭にするために質問を発するなどして釈明を求める、という権利がある。そして、訴訟の対象にかかわる法律構成についてまでも釈明をし、場合によっては、問いを発する形式によって具体的な法律構成を示唆して真意を確かめることも許されるものと解される、という判例も資料1の6頁に挙げている。
現在、このように行政訴訟についても、民事訴訟の例によって訴訟手続が行われているが、これについては、行政訴訟だからということで請求の趣旨の特定等について民事訴訟と異なる特別な手続を定めるような必要性、あるいは根拠といったものが、どういったところにあるのかないのか、こういった点を検討する必要がある。
□行政事件訴訟法の改正によるべきものと、現在でもやろうと思えばできるものといった指摘も含めて議論していただきたい。
電子メールによる訴えの提起はできるのか。
■訴状の記名押印といった問題もあり、民事訴訟規則上、電子メールによる訴えの提起は認められていない。
○民事訴訟一般について、インターネットを利用した申立てを認める法改正をすることを法務省は表明しており、来年の通常国会に向けて現在行っている民事訴訟法の改正作業の後に検討することになっている。いつになるかはともかく、そう遠くない時期に、行政における電子申請と同様、裁判所もIT化を図るということで、記名押印の問題についても電子署名があり、インターネットを利用した訴え提起は早晩できるようになる。民事訴訟法の改正がされれば、行政訴訟にも適用されることになる。
○請求の特定の意味は、審理の対象を枠付けることであり、大変重要な意味がある。請求とそれを裏付ける原因事実とで請求が固まるが、原因事実の記載は非常に多岐にわたり、そのうちどれが意味があるかを酌み取る鍵は請求にあるので、請求自体が動いてしまうと、拾える主張を全部拾おうとするならば仮定的な話がどんどん広がってしまって大変である。現実には、不服の核心部分とそれに対する救済方法はそれほど多くあるわけではないので、理由がありそうなものについて補正命令を重ねて、第三次補正くらいまで補正を命じて、これなら立ちそうではないかという形にしてなるべく救済している。審理の中でも、同じように立ちそうなものを取り上げて判断しているのが実務の動かし方である。請求の特定についての当事者の責任はここまでで足りるというような形にしてしまうと、さらに仮定的な話が増えてしまう。裁判官は自分の一方的判断で切り捨てたというような形にはしたくないと思う傾向がある。当事者として、何を望んでいるのかは最低限明確にしてもらいたい。何が当事者にとって有利かは一義的には必ずしも決まらないので、当事者が自分の意志と自分の出し得る証拠などをにらみながら当事者の責任に置いて判断していくという基本構造だけは維持してもらわないと、訴訟が非常に多岐にわたり仮定的な複雑なものになってしまい、それが遅延につながりかねない。懸念されている点については、実務においては、かなりやっていることをご理解願いたい。
○出訴期間の起算日との関係もあるので、何月何日のどの処分というようなことで、どのような行政活動によりどのような不利益を受けているかを素人的にも表現してあれば、あとは原告の不利益にならないように、どのような救済とするかなどは裁判所が助けてあげるというやり方が考えられるのではないか。どの行政決定を争うのかに関しては、出訴期間がはずれるのであれば後々対象を特定したり変えても特に問題とならないと考える。結論としては、行政庁のある決定を争うという建前で考えた場合には、資料1の5頁の③のような考え方で緩やかに入り口を認めて、求める判決の形は後に特定することも考えてよいのではないか。
○補正を命じてもなかなか処分が特定できないような場合には、例えば、裁決を提出させてそれに基づいて補正を求めて考えることもあるが、それでもダメな場合には、第一回目の期日から弁論準備手続にして、被告を呼んで一体何をしたのかを聞き、その上でそのどこに不満があるのかを原告に聞くようなこともしている。そのようにしてはいるが、その責任は誰にあるかという基本は変えてもらっては困る。最後は自分の責任で決めて下さいというようにしないと、裁判所が全部その代わりはやってあげられない。裁判所には、手持ち資料がどれだけあるかとか、どれだけリスクがあるかはなかなか分からない。訴訟類型については、無名抗告訴訟か当事者訴訟かを悩んだこともあったが、被告が行政主体に改められれば、救済の幅は広がると思う。ただ、根本的な責任は民事訴訟と同じように原告にあるという点は動かさないで欲しいというのが実務的な感覚である。
○大阪空港訴訟は、民事訴訟として提起されたために、被告が違うことから抗告訴訟に読み替えるわけにいかなかったということもあったのではないか。訴訟対象をどこに見定めるかということについては、法的に構成するとどんな主張をしていることになるのかという問題もあり、行政訴訟における立証責任、さらには主張責任として、原告の方でどこまでいわなければならないかという問題になるのかと思う。
○どの処分かということはそれほど難しい問題ではなく、表現の問題で、そこまでは整理された後、例えば、侵害処分の取消しの場合、この処分は違法であるとさえ言えばよく、この処分は違法でないというのは被告側が言うわけなので、原告はそれ以上苦労するところはない。
○資料1の5頁③・⑤の考え方に賛成である。処分権主義や弁論主義は、基本的には私的自治の原則に由来するものであり、行政訴訟でも課税処分取消しなどは私的自治が妥当するといえるかもしれないが、そうでない分野もあり、例えば客観訴訟的な公的な訴訟では、民事訴訟と同じように処分権主義や弁論主義が妥当するといってよいかは疑問がある。それを具体的に明文化するのは難しいが、一般法で書くべき部分もあるのではないかと思う。
○資料1の5頁⑤の考え方に関し、特に、出訴期間があって後から取り返しがつかなくなるような仕組みについて、微妙な判断でアウトになるような場合には広く救える仕組みにしておかないと大変問題が大きくなると思う。
○資料1の5頁⑤の考え方については、被告が同じになれば、請求の趣旨が実質において同じであれば、形式を民事訴訟と行政訴訟のどちらでやるか、理論的には原告が決めることではなく、裁判所がどの訴訟形式を適用するかという問題ではないか。そこまでいけば、ある程度従来の問題は解決するのではないか。
○民事では、当事者がこの請求だといっていても、それにこだわることなく、別の請求として立つということであればそれで認めてきたと思うが、今まで、形式に置いて民事訴訟と行政訴訟がダブるようなものがあまりなかったのであまり問題にならなかったが、その考え方が民事訴訟と行政訴訟の間でも言えるかどうかである。
○例えば、民事訴訟として訴えを起こしたが、行政訴訟でないと起こせなかった場合でしかも出訴期間が過ぎていたという場合はアウトになるが、そのような場合は最初から教えてあげればよい。被告を間違えて出訴期間を過ぎていた場合も同じで、取り返しがつかなくなるような場合には、そうならないように入念に手当てしておかないと何のための制度かということになる。
○資料1の5頁は素人でも行政訴訟ができるようにという趣旨だが、③・⑤は法律の専門家でも分からないような場合のことであり、趣旨が違うのではないか。
□この問題については、訴訟類型や被告の問題を詰めた上で立ち返ることがあり得るという問題である。ただ、考え方として、市村委員の考えと水野委員の考えにはやや原理的な違いもあるように思う。弁論主義や職権証拠調べなどの問題もあり、全体で議論していきたい。この点、ドイツでは訴訟対象は裁判所が考えるが訴訟類型は別なのか。
△ドイツでは行政裁判所法88条があり、最初に処分権主義のことをいった上で、それと対比して書いており、対象自体はやはり原告が決めることになっている。
■ドイツ行政裁判所法88条では「裁判所は請求の内容を超えてはならないが、申立ての表現には拘束されない。」と規定されている。
△アメリカでは、訴訟類型の選択と救済の対象とはやや違った話であり、訴訟類型といっても個別法上の司法審査と判例法上の司法審査しかなく、個別法があるのに判例法上の司法審査として訴えてきた場合には、裁判所が当てはめをして、個別法で出訴期間が過ぎていてダメであるということはある。訴訟類型ではなく、どういう決定にどのような不満があり、何を求めるかという点については、基本的には原告が言っていること以上には裁判所は言えないということはあるが、判決の内容については原告は大雑把にしか言わなくてよいとなっており、これは判例による民訴一般の理解である。個別法上の司法審査では、裁判諸規則により請求のフォームが決まっており、この決定は違法であるということを記載するだけでよいことになっている。
△フランスには、訴訟類型を原告が選ぶという考え方は基本的にない。教示がされた行政決定を争うことになるが、その際、原告が取消しを求めるだけなのか、それ以外のものも求めるのか、その請求をみて、裁判所がどの類型になるかを判断している。越権訴訟になる場合には弁護士強制ではないというメリットがあるが、請求からして越権訴訟ではないという場合には弁護士を付けないと却下されることになるので、そのような場合には補正命令がでる。
○現行法では、行政上の不服申立てをすれば出訴期間の進行が停止する仕組みになっているが、いくら裁判所が親切でも、不服申立てを審査する行政庁が不親切だと、結果的に却下されることになることが起こりうる。行政庁段階でも、善意に解釈したり補正してあげることが必要である。少し補正させれば適法なものとなるような場合でも、そうしないで不服申立てを不適法として却下してしまうと、訴えも不適法なものとなってしまうところに問題がある。
□訴えの提起の方法については、深山委員から話のあった民事訴訟法の大改革の成果を待ちたい。請求の趣旨の特定については、訴訟類型や被告の問題が煮詰まってからまた考えることとしたい。請求の趣旨や訴訟類型の特定については、実務の柔軟な運用の話もあったが、そうした実務の運用をエンカレッジするような条文が考えられるかどうかも検討していきたい。
- 【「行政訴訟の審理における職権探知主義の問題、行政訴訟における主張・立証責任等」について】
- ■資料1でいうと、7頁からで、枠囲いの中で、⑥、⑦、⑧というところで考え方が挙げられている。⑥に関連して、職権探知主義を導入すべきであるとの考え方が挙げられている。訴訟の審理において、主張や証拠の提出を当事者の責任とする考え方、これを弁論主義といい、裁判所にもその責任を負わせる考え方を職権探知主義という。⑥では、行政訴訟においてこのいずれの考え方をとるべきかということで、問題提起がされている。
この点に関連して行政事件訴訟法は、24条で、裁判所は、必要があると認めるときは、職権で証拠調べをすることができる、ということを定めている。この規定とこの弁論主義・職権探知主義との関係については、立法担当者の解説によると、行政事件訴訟法が職権探知主義をとることを示すものではなく、弁論主義の下で補充的に証拠調べを職権で行うことを認めたもので、したがって裁判所に職権をもって証拠を収集して事実を探知すべき義務を課したものではない、と解説されている。
行政訴訟の審理において、職権探知主義をとるか否かという問題を検討するに当たっては、現行法が基本としている弁論主義、これについてどのような機能があるか、例えば当事者の主張の範囲内で判断がされる仕組みということになるので、当事者に対する不意打ちを防止するという機能を有している。また利害関係の対立する当事者同士が主張を戦わせることにより、争点を明確にして審理を充実させる、そういう面があることも踏まえた上で、職権探知主義により当事者の主張しない事実、これをあえて判決の基礎とするべき実際上の必要性がどの辺にあるか、こういった辺りについて検討する必要がある。
また、訴訟の一般論として、職権探知主義がとられる必要がある場合というのは、公益の確保について裁判所が配慮すべき場合である、というふうに言われるが、行政訴訟の特殊性としては、当事者の一方に国、または地方公共団体、あるいはその機関といった形で、公益を代表すべき立場にある者が入っている、こういった特殊性があるかと思われる。こういった点も含めて、この点、どのように考えるべきかご検討いただきたい。
主張・立証責任については、資料1の7頁⑦の考え方の関係だが、立証責任というのは、訴訟において判断に不可欠な事実が最後まで審理をしても結局立証ができなかった、という場合に、どちらの当事者がその不利益を負うか、という問題である。民事訴訟において、通常は、個々の実体法規の解釈の問題であると、いうふうに捉えられている。これと若干似て非なる問題として主張責任という言葉も出ているが、これは、立証責任とは異なって、職権探知主義ではなく弁論主義をとる場合にはじめて問題となる。弁論主義の下では、裁判所は当事者の主張した事実の範囲内でしか判断できないので、判断に必要な事実の主張がどちらの当事者からも主張されなかった、ということになると、その主張がないということによってそれについての判断がされない不利益をどちらの当事者が負担するのかという問題、これが主張責任ということになる。したがって弁論主義をとる場合には、一般的には立証責任の所在にしたがってそれぞれの当事者が自己に有利な事実の主張もする、主張負担を負う、というように考えられているのが通常かと思われる。
そこで、行政訴訟において、仮に現行法のように弁論主義をとるということを前提とするならば、立証責任の所在と主張責任の所在を分ける必要は必ずしもないということになるのが一般的な考え方となると思われるので、まとめて、主張・立証責任の問題という形で扱うことも可能かと思われる。
行政訴訟における主張・立証責任について検討していただくに当たっては、行政訴訟と民事訴訟とで異なる扱いをする理由があるかないか、あるとしたらどの辺にあるのか。仮に異なる取扱いをする理由があるとしても、それは個々の実体法規の問題なのか訴訟手続法の問題として考えるべきなのか、さらには、民事訴訟の一般原則では主張・立証責任は、個々の実体法規の解釈によるとされているところがあるので、訴訟法の中で一般的に何かこれについて規定を置くことが必要なのか、あるいは、さらに言うと可能なのか、そしてそれが可能な場合適当なのか、といったことについてもご検討いただきたい。
それから続いて、審理手続ということで、9頁から記載している点について、これは7頁の枠囲いで言うと、⑧としてア、イ、ウの考え方が挙がっているが、この点について記載したものである。資料1の7頁の⑧では行政訴訟の審理について、訴訟関係を明瞭にし、必要な証拠などの資料を収集するために、裁判所の権限や当事者ないし行政その他の関係者の義務を規定する必要があるかどうかという観点から、いくつかの考え方が挙げられている。
この点を検討するに当たっては、裁判長が質問を発したり立証を促したりする釈明権の行使といった制度、それから裁判所が訴訟関係を明瞭にするために文書等の提出を命ずる釈明処分といった制度、さらには釈明処分とは異なって、証拠の段階になるが、文書の証拠調べための方法として文書の提出を命ずる文書提出命令、こういった民事訴訟上の制度に加えてこれらと異なる規定をおくべき実際上の必要性、というのがどのような点にあるのかないのかといった辺りを検討いただく必要がある。
資料に行政手続法上の資料の閲覧や情報公開法令に基づく開示請求の制度についても触れているが、もちろんこれらの制度は、訴訟とは異なる行政過程の透明性の問題であったり、あるいはまた国民の知る権利の問題であるが、ある一面をとらえると処分等に関係した国民が、必要な情報を入手する手段として機能して、その結果として、それらで得た情報が訴訟に用いられるということも事実としてはまま見られるところである。
我々が考えているのは、訴訟手続の枠の中で、この訴訟手続の観点から、訴訟関係を明瞭にし、必要な証拠などの資料を収集するために、新たな裁判所の権限、あるいは当事者ないし行政その他の関係者の義務を規定すべきか否か、ということであり、こうした行政手続法や行政情報公開に基づく国民一般に対する行政の義務の存在ということもあえて横目で睨みつつ、既存の民事訴訟上の制度と異なる新たな制度の必要性ということについてご検討いただきたい。
○職権証拠調べの活用状況については、通常、裁判所から疑問点の指摘があれば当事者が立証の申出をするので、職権証拠調べを活用することはない。職権探知主義を導入するか否かに関しては、公益に関することで弁論主義に任せておくと歪んでしまうと感じるようなことはあまりないので、職権探知主義をとっていないために公益に係ることが歪められてしまったというようなことが具体的にあるならば教えて欲しい。
□人事訴訟などで職権探知・職権証拠調べの経験はあるか。
○戸籍関係などで足りないものがある場合に、当事者の申出を待たずに照会してしまうことがある。
○この点は迷いのあるところであるが、まず、職権証拠調べは活用されていない。実際上は活用しなくとも足りているということであると思う。課税処分など、処分が一見個人的な利害の問題に見えても、行政の違法が争われている点では、客観的・公的な面があるのではないか。そうすると、職権証拠調べが規定されているのも理由があったと思う。その意味では、職権探知主義についても導入してもよいかと思う。実際上どれだけ活用されるか分からないが、職権探知主義を採用すれば、裁判所がより積極的に釈明等をすることになるのではないか。
□職権探知権限であって、義務ではないということか。
○悩ましいところであるが、義務と考えた場合、裁判所は困るだろうか。
○義務だといわれると、裁判所はいろいろと疑問を持って当事者に資料を出させることになり、時間はもっとかかるようになり、それが本当に当事者にとって有益なのか疑問である。今の職権証拠調べの規定を置くだけで足りていると思う。
□ドイツでは職権探知主義が行政訴訟の真髄だと言われているが、実態はどうか。
△実態については、職権探知が当たり前になっているのであまり聞かないが、裁量処分に関しては争点が拡散するので、最近では、職権探知主義に対する批判も出てきている。
□近隣諸国では、台湾が職権探知主義をとっているが、規定どおりの運用をしているかどうかは分からない。
○職権探知主義をとって利益を受けるのは原告だけである。原告にとって有利な制度なので、武器対等の原則からは、導入すべきと考えられる。
○原告に利益だという点は疑問である。弁論主義があるので、争うつもりならば自白をしないで争って被告に立証させれば足りることである。むしろ、当事者が争点を絞って早期の判断を求めても、裁判官が疑問をもつようなところについては立証しなければならなくなるから、職権探知によって拡散して審理が遅延するので、結果として取り消される場合が増えるというだけで原告に有利とは評価できないのではないか。
○裁判官が疑問に思った点は立証させてよいのではないか。あえて争わないという場合はよいが、問題に気がついていないという場合もあるのではないか。例えば、当事者が実体上の問題ばかり主張していて手続上の問題に気がつかないようなこともあるのではないか。
○手続上の問題も、処分の適法性として行政庁側が主張立証することになっているので、原告側は処分は違法であるとさえいえば、問題に気がつかなくとも、争わないと言わない限り、被告に立証の義務がある。
○聴聞の手続の違法などについては、原告が言わないと問題にならないのではないか。
○理論上は、今の制度でも、手続的な点の立証の義務は被告にあり、ただ原告が個々的に指摘しない場合には弁論の全趣旨により認定しているだけで、裁判所が気がつけば弁論の全趣旨では認定しない。裁判所が気がつけば、被告になぜ立証しないのかという指摘をするので、制度を変えてもそこは変わらない。
□職権探知といわなくても釈明権の行使なりで、例えば手続について何も言わないのかというぐらいは言えるのか。
○釈明義務というようなこともいわれており、そうした指摘はしている。むしろ、職権探知義務というようにすると、裁判官が神経質になって、結果的にみてあまり意味のないようなところまでやらざるを得なくなるのではないか。職権証拠調べの規定が置かれている現在の制度の運用で足りているのではないか。職権探知をしておけばよかったという例がたくさん出てくれば考えてみたい。
□主張・立証責任の話にも入っているので、そちらの議論に入っていただきたい。
実務では立証は、被告が行うということでよいのか。
○主張・立証責任の理論上の所在は別として、現実の立証活動としては、まず行政側に立証活動を行わせている。しかし、理論的には、年金などの授益処分の場合には原告側の主張・立証責任があるという整理にはなっている。
○主張・立証責任の問題よりも、国の場合に、釈明権や文書提出の関係で、行政庁はきちんと説明するすべき立場にあると思う。
○主張・立証責任は、すべての場合について行政側にあることを一般法に明示すべきであると考える。
□違法建築の除却命令を求めるような申請に基づかない義務付け訴訟のような場合でも被告側に主張・立証責任があると考えるのか。
○被告側が除却命令を発しなくてもよいこと又は発してはならないことについて主張・立証責任を負うものと考える。そのことを規定すべきである。
○実際の訴訟で立証責任の分配で決まる例はどのくらいあるのか。
○少ないが、ないわけではない。例えば年金の支給に関して重婚関係にあったような事案では、行政庁は内縁関係などのプライベートな部分は分からないので、原告側が主張・立証責任を負っていると考える関係で、立証が足りないという判断をすることがたまにある。基本的には、民事訴訟でもそうだが、全体の比率からすると立証責任で決まる例はそれほど多くない。
○授益処分でも、申請をして拒否処分をしているのだから、どういう理由で拒否処分をしたのかは行政側に主張・立証責任を負わせてもよいのではないか。
○実体法には、申請者はこういう資料を出さなければならないとされ、それに基づいて判断しなければならないこととなっている場合があり、それに基づいて判断してダメだといったときには、少なくとも原告側に立証責任があり、被告としては、そういう資料が出ていないと言えば足りると思う。そのときに、原告側が資料を訴訟で追加してくれば裁判所はそれを認めているが、それは原告が出すということである。証拠への近さからいうと原告に近いところにあるといえる。
□主張・立証責任については、今の話のように実体法上の問題があり、なかなか難しい。行政庁の記録の提出等とも関係するので、その点を検討した上で、今後立ち返ることもあるということで先に進みたい。
審理手続については、一度説明を受けたところではあるが、諸外国の例について確認したい。
△ドイツでは、行政裁判所法99条において、行政庁は裁判所の求めに応じて、審理に必要な書類・文書を提出し、情報を提供することを義務付けられている。基本的には裁判所が主導して手続を進め、そのために裁判所が行政庁に対して求めてそれで出してくる、という形になっている。
△フランスの場合は我が国と近いというか、職権探知ではないが、職権証拠調べではできるということで、条文の体裁もやや似ている。担当裁判官が報告裁判官として、記録の提出を命じることができる。文書提出の関係ではフランスでは行政庁側が提出拒否でき、それは自白したことにならない、ということがある。これは新しく情報公開ができたときの開示しなくてもよい文書の類型とは若干異なっている。これはおそらく行政過程における情報公開の問題の秘密文書と裁判手続において行政庁が出さなくてもよいことになっている文書とは若干性質が違っている、という扱いになっている。
□アメリカは当事者対等ではないのか。
△当事者対等だ。釈明とか文書提出義務等は基本的にディスカバリのところで全部やっているので、ディスカバリは基本的に弁護士だけでやるが、たまに裁判官が同席することも、あるいは当事者間の意見が食い違っているときには、そうしたときには裁判官が中に入っている。これは日本でいう釈明に近い形でお互いの情報の共有をする、これが一つ。もう一つは裁量決定については決定過程が分かるように説明しろと。文書提出とかディスカバリだと事実しか、文書しか出てこないので、どのように考えて、どのような選択肢があったのか、ということを説明しろと。それが分かるような行政記録を全部持ってきて説明しなさいというのがもう一つで、ディスカバリ段階では事実を全部出しなさい。それと同時に決定過程、判断のプロセスを説明しなさいというのを証拠を持って、説明しなさいという2種類に分けられる。
□後の理屈付けは何だ。
△これは判例で出てきた。ここでは現実の行政判断プロセスが正しかったのかどうかを審査するのが仕事だと。結論が正しいかどうかの理由付けを裁判所が発見してやるのではなくて、現実の理由はおかしいかどうか。もしそれがおかしいことになると、取り消すかもう一回差し戻して出直して来いというのもある。
□提出する義務が行政庁側に訴訟の場面でも、裁量の点についてもあるということか。
△そうだ。
■イギリス(イングランド・ウェールズ)は、司法審査はまず許可を受ける段階があり、許可が受けてから本格的な審理になるわけだが、許可があった後の被告には率直性の義務というものがあると判例上認められている。一旦、司法審査の許可が与えられたならば、完全で公正な開示をすることが被告の義務だ。それ以外の制度が必要ないぐらい、これによって開示が行われている、ということが紹介されている。
それからEUについては、EC裁判所法規程21条があり、まず一つは裁判所は当事者に対して、裁判所が望ましいと考えるあらゆる文書を提出し、かつあらゆる情報を提供するよう求めることができる。いかなる拒否についても、公式な記録が残されるものとする。また、裁判所はまた事件の当事者ではない構成国及び機関に対しても訴訟遂行に必要と裁判所が考えるあらゆる情報を提供するよう求めることができる、とされており、もちろんこれには例外があり、6つほど例外として文書の提出を拒否できる場合というのが規定されている。事件に関連性を持たない場合とかあるいは弁護士や医師などの守秘義務であるとか、国家安全保障に関わるものであるとか、こういったものは除外されている。
韓国については、行政訴訟法25条という規定があり、「法院は、当事者の申請があるときは、決定をもって、裁決を行った行政庁に対し、行政審判に関する記録の提出を命ずることができる。第2項として、第1項の規定による提出命令を受けた行政庁は、遅滞なく当該行政審判に関する記録を裁判所に提出しなければならない。」これは行政審判といっても、我が国の行政上の不服申立てに近いイメージかと思われるが、その際の記録の提出を命じる権限が裁判所に与えられている。
□日本の実務では、どの程度積極的に行政庁から資料の提出がされるのか。
○平成13年に民事訴訟法の文書提出命令の制度が改正され、その後、裁決段階の審査資料の提出や行政委員会の記録の提出命令の申立てがあったが、結論としては、一片の書証も出てこない。前提として文書の特定の問題があるが、特定の申立という制度があり特定を命じたが、あまり明らかにならず、提出義務の有無については、民事訴訟法220条1項4号ロの「提出により公共の利益を害し、又は公務の遂行に著しい支障を生ずるおそれ」に当たるとして、一切応じない。この点については、該当性を個々的に吟味しなければならない。審査手続は、裁決で金額を変更した場合など、審判の対象を枠付けるという機能を一部担っているのに、なぜ変更したのかが出てこないのは、非常におかしなことである。行政の審査手続が、一方では第三者的に審査するといい、また一方では行政内部のことであるということを便宜的に使い分けられている。少なくとも、裁決を経てきたものについてはとにかく全部裁決の記録を出させるべきで、それが行政訴訟の審理の迅速化の大きな鍵である。
□行政手続法には記録の閲覧等に関する規定があるが、行政不服審査法にはそのような規定はないという状況である。
○不服申立前置の場合には、不服審査は、法定の前審手続と考えるべきであるから、上訴の場合のように、不服審査段階の記録は訴訟に提出されるべきである。
□アメリカもそのような考え方ではないか。
△そのように無理矢理に説明して、裁判所が必要なものを出させている。
○市村委員の意見に全面的に賛成である。国税についての審査請求で、国税通則法96条2項により書類の閲覧を求めても、答弁書などもともと原告側が持っているようなものしか出てこない。民事訴訟法を改正して文書提出義務を一般義務化したが、公共の利益を害し又は公務の遂行に著しい支障を生ずるおそれがあるといったような一般条項を理由に提出しないことが考えられる。行政訴訟については、資料1の8頁⑧のア・イ・ウを行政事件訴訟法に明記して、資料を裁判所に出させるか、当事者の閲覧を認めるべきである。そうでなければ、行政の透明化はできない。
○不利益処分の場合、行政手続法では、事前に理由を通知し、根拠となっている資料の閲覧もでき、告知聴聞の際に改めて説明を受けることもできることになっている。不利益処分については、手の内を見せて公明正大に処分をすることになっているはずで、それは行政訴訟でも同じことであり、遅くとも、訴訟の段階では出ていない資料を出すべきである。この点は立証責任の問題でもある。私自身は、受益処分の場合でも、拒否する理由があるかないかきちんと調査すべき範囲内では行政庁が立証責任を負うと考えており、その範囲内では同じことだと思う。
○課税処分取消訴訟に関し、国税不服審判所は、審判所が調べた証拠書類を課税庁に対してだけ証拠を渡しており、それが訴訟に出てくる。これが実態である。
□利害関係人も含めて、行政庁は説明責任を負っており、それが訴訟の場にどのような現れ方をするのかも議論の対象である。理屈付けはいろいろあり、詰めなければならず、ストレートに情報公開等の説明責任を訴訟に及ぼすとまでいえるか、説明が異なるかは別として、行政の適法性確保は行政過程だけで訴訟になったらそれはどこかへ行ってしまうというのは説明がつかないのではないかと思う。
○他の委員の意見の基本的な方向には賛成だが、開示しなくてもよい例外があり得るので、それをどうするかが難しい問題である。文書提出命令について、インカメラ審理はしているのか。
○そこに行く前の特定の段階で止まっている。
○裁決の段階の記録を出させることは当然必要だが、それだけ記録を出させることとすると、行政庁は裁決の段階では大した資料を出さなくなるので、裁決の場合だけでなく、処分が実体法上適法だという証拠で行政庁が判断の根拠としたものはすべて明るみに出せというのが出発点だと思う。
○職権証拠調べに関して言い忘れたが、中坊弁護士が豊島の事件で訴訟にせずに公害等調整委員会の公害調停にしたのは廃棄物の調査の費用が問題となったからだった。現在、職権証拠調べの場合その費用は立証しようとする事実について立証責任を負う当事者が予納することになっている。公調委ではその費用で調査をし、調停が成立した。この費用の点が裁判を求める桎梏になっている。したがって、職権証拠調べの中で区になり地方公共団体の費用で調査すべきであるというものについては、国や地方公共団体の費用で調査する制度が必要である。
○公害等調整委員会は、公害の因果関係等の立証が困難であるという特殊性から、裁判所とは別に準司法機関を作ってそこに相当程度の予算を付けて、何億もの調査ができるようにした特殊なADRであって、まさに今言われたような事例に使われるために作られた制度である。だからどうだというものではない。
□今の点は費用負担の問題で議論することもあろうかと思う。今日はご意見の紹介とした承った。
○行政庁は、把握する事実や資料の中で、不利益なものは民事訴訟上の原則で出さなくてもよく、黙っていればよく、持っていないとうそをついたときだけ問題となるということが最大限活用されている部分なので、行政訴訟で適法性が問題となっているときにはそういうことはできないのだという形にしないといけない。また、万が一隠していたものが明らかになった場合のサンクションはよほど厳しいものを置いておかないと意味がない。そうでないとまじめに出すインセンティブがない。
□議論いただいた点は、被告となり得る立場の行政側の意見も聞かないといけないと思うが、今日のところは、当事者対等の原則が必ずしも行政訴訟には及ぶものではないということを前提にして議論を承ったということだと思う。
- 【「処分の理由の変更、行政訴訟における和解、特別の事情による請求の棄却の制度」について】
- ■資料1の11頁からの枠囲いの中にある⑨から⑫までが、その関係だ。まず⑨の関係で、処分の理由の変更・差し替えといった点について、規制をすべきであるとの考え方が挙げられている。行政訴訟においては、取消訴訟を例にとって考えると、審理の対象は、処分の違法性一般であるというように言われることが多いかと思われる。したがって、その処分の適法性が争われている、というような場合に、その処分をどのような理由で行ったのかという点は、この点は異論もあるところかと思われるが、直接の審理の対象そのものというよりは、審理の対象である処分の適法性・違法性を基礎付ける一つの要素といったような捉え方ができようかと思われる。これを訴訟手続という観点から見れば、処分の理由は、審理の対象そのものというよりは、攻撃防御方法の一つ、というふうに整理する考え方が一般的と言えるかと思われる。
そこで、訴訟手続で攻撃防御方法の提出時期についての定めを見ると、行政事件訴訟法上直接の定めはないので、民事訴訟の例によるということになると、民事訴訟法156条によって、攻撃又は防御の方法は、訴訟の進行状況に応じ適切な時期に提出しなければならないとされており、このような制約のもとで、必ずしも訴訟手続の当初、最初の段階ですべての攻撃防御方法が提出されていなければならないというわけではない、ということになっている。
他方、関連する法制として行政手続法を見ると、8条1項によって、行政庁は、申請により求められた許認可等を拒否する処分をする場合には、申請者に対して、原則として、その処分と同時に、処分の理由を示さなければならないこととされている。また、行政手続法14条1項では、行政庁が不利益処分をする場合には、その名あて人に対して、やはり処分と同時に、その不利益処分の理由を示さなければならないということが規定されている。
そこで、行政訴訟において、処分の理由の変更ができるかどうか、ということについて検討するに当たっては、この問題と、変更の可否の問題と、行政庁の理由提示義務を定める行政手続法の規定の効力との関係についても考える必要があるのではないか。もちろん、行政手続法自体は、直接には、処分に理由を示すべきことを規定しているので、訴訟において処分の理由を差し替えてはならないというような直接の定めをしているものではない。しかしながら、行政手続法にこのような規定が置かれていることから、理由の変更について何らかの制約がされると考えるべきなのか否か、他方、別の観点としては理由の変更を制約して、処分に実際に付された理由に基づいてのみ審理をしてある処分を取り消した、とする場合に、それとは異なる理由によってまた処分がされるような可能性、これについてどのように考えるべきか、こういった点も問題としてあろうかと思われる。こういった点を含めて処分理由の変更についての規制についてご検討いただきたい。
続いて、和解についてのご指摘がある。行政訴訟における訴訟上の和解については、行政事件訴訟法には定めがない。したがって行政事件訴訟法7条によって、民事訴訟の例による、ということになる。一般に、行政処分については、その要件や効力が法律によって決まっており、もともと行政庁が一方的に国民に対して行政処分をするということが予定されているものなので、訴訟当事者のお互いが譲歩してそれによって行政処分の内容を決めるとか、変更するというようなことは、なかなか行政処分の性質にはなじまないのではないかというようなことが言われることが多い。その一方で、行政処分の効力を左右しないような内容であれば、行政訴訟であるからといって和解自体を否定する理由は特に見当たらないし、実際にも和解は、数は多くはないにしても、行われている例はある、というところであろうかと思われる。
そうすると、行政訴訟における訴訟上の和解について、何らかの制約があるとすれば、それはそこで問題となっている行政処分等の要件や効果等を定める実体及び手続についての個別法の規定の解釈によるところが大きいのではないかとも考えられる。
そこで、行政訴訟における和解について、検討していただくためにはこのような個別法の規定の解釈による規制のほかに、ごく一般的な訴訟手続上の規制を設ける必要性というのがどのような点にどの程度あるのか、こういった点についてご検討いただきたい。
それから、枠囲いの⑪については、申請拒否処分の取消訴訟の判決についての考え方が挙がっているが、資料ではこの点について特に触れてない。これは内容的には既に訴訟類型のところで前回、あるいは前々回にいろいろな形で既にある程度議論いただいたところかと思うので、あえて特に資料に挙げてない。また、訴訟類型との関係において議論した方が、適切なのではないかと考えた次第である。
それから⑫で挙げた考え方に関連して、これは特別の事情による請求の棄却の制度についての考え方。これは、事情判決の制度、などという形でも言われる。これについて定める行政事件訴訟法31条は、処分又は裁決が違法ではあるが、これを取り消すことによって公の利益に著しい障害を生ずる場合において、原告の受ける損害の程度等を考慮した上、処分又は裁決を取り消すことが公共の福祉に適合しないと認めるときは、裁判所は請求を棄却することができ、この場合、裁判所は、判決の主文において、処分又は裁決が違法であることを宣言しなければならない、と規定している。この制度が適用されるような場合ということで立法担当者がそもそも考えていた例としては、河川の使用の許可を得て水力発電用のダムを建設したという場合に、その許可が違法として取り消されることになると、ダム設備を撤去しなければならなくなるような不都合を避けると、こういった特殊な場合を想定したものだということで、立法担当者の解説の中では、触れられている。この解説では事情判決の制度を必要とするのは、一般に行政処分をするに当たって、事前に関係人の利害の調整がなされないままに処分が行われるという、わが国行政手続法の欠陥に基づくものであるとされている。その点、我が国では平成6年に行政手続法が施行されているが、しかしながらこの特別の事情による請求の棄却の制度の適用が考えられる領域としては、いわゆる計画行政の領域が挙げられるところであり、現行の行政手続法は、行政計画の策定手続についての規定を整備するという形にはなっていないというところがあるので、その意味では、いまだに、この立法担当者の指摘が当てはまる面が残っているのかもしれない、というところがあろうかと思われる。
この制度について検討するに当たっては、処分等が違法であるが、それを前提に事実、あるいは法律関係が積み重ねられてしまっているといった場合に、当事者の権利利益の救済と公益との調和をどのように考えるべきか、また、この制度によれば、取消判決はできないまでも違法の宣言はされるというようなシステムになっている、この意義についてどのように考えるかと、こういった点についてご検討いただきたい。
○資料1の11頁⑨で「処分の差し替え」となっているのは間違いか。
■この点は第6回行政訴訟検討会フリートーキング参考資料そのままである。理由の変更と処分の差し替えは事件の違うものであるという考え方が一般的かとは思うが、その点や処分の同一性の問題を含めてご議論願いたい。
○処分の理由の差替えが許されるという議論は、処分について理由付記の制度がない時代の話である。理由付記が要求されている場合は、理由の差し替えを制限すべきである。理由を付さず場合は無条件に取り消されるが、間違った理由は後で訂正できるとなると、とにかく何でも書いておけということになりかねない。青色申告の場合の更正処分に関する最高裁昭和56年7月14日判決は、この点について正面からは判示していないが、理由付記が要求されている場合には理由の差し替えはできないことを法律上はっきりさせるべきである。今は、行政手続法ができて、処分の理由付記が定められているので、すべての行政処分について、理由の差し替えは認められないと考えるべきである。
○この点についてはいろいろな説が既に出されているが、今の意見には半分賛成で、半分反対である。行政手続法が理由付記を定めた趣旨は、主として行政処分が慎重にされることを担保するためである。何ら調査もせずにいい加減な理由で処分をした場合は別として、誠実に調査をして理由を書いた場合であれば、理由の変更は可能と考えるべきである。他方、訴訟段階で野放図に理由の変更を許すわけにも行かないので、理由付記と別の理由で、当初付していた理由にある程度拘束されるべきで、典型的には、処分の根拠となる条項が違うこととなる場合には制限され、事実であっても全然違う事実で差し替えるのは許されない。課税処分については、いい加減な理由で課税されて後で理由を付けてそれが維持されるというのはおかしいので、その場合にはいったん取り消して、更正の期間が残っていればもう一度やり直すべきで、それにより納税者は何年分かの延滞税を免れる。情報公開のような申請拒否処分の場合については、理由の変更を認めずに処分をやり直させるか、理由の変更を認めて裁判所が一回的に解決するかの選択の問題であると思う。いったん間違えたのだから、ほかの理由はもうダメで、開示しなさいというやり方はないと思う。前二者のうちでは後者かと考えている。
○情報公開でAという理由で不開示決定をしている場合で、これに理由がないと認める場合には、原告が義務付け訴訟を選択していれば、開示せよという判決となり、Bという理由で再処分されることはあり得ず、開示される。ところが、Aという理由の不開示決定を取り消しただけでは、Bという理由で不開示決定をすることができる。何度も裁判をしなければならないという負担は、義務付け訴訟を認めれば解決する問題である。
○義務付け訴訟についてはそのとおりである。
□その場合、Bという理由の主張を被告はできるのか。
○それはできない。
□そうなると行政庁は、理由を全部審査しなければならなくなって大変ではないか。
○それは当然である。
□公益に関することが後から分かることもあると思うが。義務付け訴訟一般にもかかわることなので、ご意見として承る。
○公務員の懲戒処分の場合、万引きをしたという理由で懲戒したのに対し、その事実はないと争っている間に、殺人をしていた事実が見つかった場合、理由を変更することは認められないように思うが、流れとしてはある時までになし得た処分であり、処分の同一性をどのように考えるかについては通説はないのではないか。処分が同一ではないものについては、別の処分になるので、理由の差替えは問題とならない。今の例では、別途に殺人を理由に懲戒処分をすることは可能であると考えられる。また、同一の処分の中で理由を付け加えられるかという問題もある。同一処分であれば、対象は処分の違法一般なのだから、何でも言えるのではないかという議論もでてくる。時機に遅れた攻撃防御方法という訴訟法上の制限もあるが、最初に手続的な要件が問題となって実体的要件の審理に入れない場合に、手続的な要件が欠けているという被告の主張が認められないという見込みになった段階で被告は実体的要件の主張をすることになり、これを時機に遅れた攻撃防御方法とはおそらく言えないのではないか。このように考えると、単に時間が経っているだけでは主張制限はできないのではないか。
○処分の同一性の範囲内であれば、理由を変更してもよいと考えている。懲戒の事案では万引きの日が違っていたとか、本を何冊万引きしたかが違っていたというような場合は理由の差替えの問題ではない。「理由の差替え」が制限されるのは、処分の同一性が変わるような場合である。
○同一処分の中で理由が変えられるかというのが「理由の差替え」であり、処分の同一性がない場合は別の処分になるから、並立するのではないか。ただ、当初から二つの理由を並べられたのに、行政庁が一つ引っかかっているからそれでもうダメであるとして検討を止めていたような場合にどうするか、というように細かくケースを分けて考えていかなければならないのではないか。ある判断がされているために、当然に次の判断にいたらないという場合に、その二番目の判断を最初の判断がぐらついたときに出してくるというのと、最初から並列できた場合とは違うのではないか。
○最初の場合には、また処分ができるのではないか。
○それは処分の範囲を小さく考えているからであり、人によっては同一の日に同じ処分名でなし得る処分は同一であると考える人もいる。また、理由ごとに切っていくという考え方もある。私は、一方は狭すぎ、一方は広すぎで、各行政実体法によって範囲は異なっているのでそれをつかまえるのは難しいが、それを吟味しないと、問題が形を変えて表現されるだけではないかと思う。
○処分の同一性の考え方によると思うが、比喩的には公訴事実と訴因のイメージで捉えており、公訴事実が同一であれば変更は許されるが、公訴事実が違えば別の処分であり、別の処分のことをその訴訟で言うのはおかしい。
○それは言葉の問題ではないか。結論は違わないのではないか。
○別の例として、分限処分の場合は、ある人のある時点における状態が問題だと言われており、その人が職務怠慢だとか病気で執務がとれないというのはすべて分限処分事由として同一だと言われており、その中でどれを理由とするかは理由の差替えの問題である。この人はズル休みをすると言っていたのが、それが危なくなってきたときに、この人の執務能力は著しく劣るということに差し替えられるかという問題である。
□懲戒処分の場合には行為を避難するので行為が違えば処分は違うことになり、分限処分の場合にはその人が職務の適格性を欠いているかというその人の全人格の評価である。これは分かりやすい例であり、処分の同一性の判断基準はなかなか難しく、個々で議論していただきたいのは、同一性とは別に、処分が同一であっても手続的・訴訟的にみて理由の差替えが規制されるべき場合があるかという点である。処分の同一性については、ここで議論するよりも判例・学説に委ねて、同一性の範囲内での理由の差替えを認めるかを議論すべきだが、この点については、議論が尽きないので、難しい問題があるということで整理する。民事訴訟とは別に規定をおくかについては慎重に検討することにしたい。
○和解の例はあまりない。公法上の当事者訴訟について、利率を少し変えるというようなことはあるが、処分の取消しについて裁判所で正面から和解をすることはない。ある申請拒否処分について、ずいぶん時間が経って、今申請をしたならばそれば受け付けられるというような場合、原告が訴訟を取り下げて終わるということはある。
○税務訴訟で一件和解をしたことがあるが、株の評価が問題となった事案で、双方の主張の間ぐらいの鑑定が出て、話合いの結果、課税庁が処分を取り消し、原告は訴えを取り下げることになった。和解調書は作らないので、形式的には和解ではないが、実質的には和解した例である。
○よくあるのは、収用事件などで起業者が被収用者にお金を払って裁決取消訴訟などを取り下げる例である。被告にとっては訴訟が終わり、原告にはお金が入るので、裁判官が推奨するという構図があり、蔓延しているのではないか。
○別の例で、甲子園浜の埋め立て反対の訴訟で埋め立て面積を3分の1にして和解した例がある。
○本当にネゴで決めてよい例もないわけではないと思うが、収用権の行使が違法かもしれないというような例がお金で解決されてしまうと、取消訴訟を提起すること自体がお金を取るための非常に有効な道具になってしまい、これは本来行政訴訟の趣旨ではない。裁判を恫喝の道具に使われないようにすべきであるというのが和解を考える上での重要な視点である。
□ここでは、抗告訴訟で和解が認められるのかという問いかけだが、ドイツでは認められるとのことだが。
△ドイツでは、訴訟上の和解に関する規定が行政裁判所法にあり、訴訟上の和解が認められ、訴訟外の和解についても規定されている。
○私が読んだ文献では、法解釈についての和解はできないが、事実認定については主張立証の程度に応じて和解ができるということだったと思う。
□日本の裁判所ではできないという趣旨か。
○課税処分取消訴訟などで、立証の程度が弱いとして自庁取消しを促すこともあるが、なかなか応じてもらえないという話であり、和解がおよそできないということではなく、できる場合はある。ただ。法の適用において国民は平等でなければならないという点は担保しなければならないので、きちんとした理由が必要であり、民事の和解と同じ次元では考えられない。
○和解をするとしても裏に回っての取引ではなく公正なものであることが分かるように公明正大にすべきである。
○裁量権の範囲内では和解できると書いてあるものもあるが、それはおかしいのであって、裁量権は適性に行使されなければならない。
□この点は、解釈に任せるのかそれとも一条を設けるのかというのは、もう少し具体的な場合や比較法的にも考えることとし、今日のところはこの程度にする。
○事情判決制度はあった方がよいと思う。取り消しても甲斐がないという場合があり、これがないとむしろ損害賠償の機会をかえって得られないということにもなりかねない。しかし、最近活用されている領域で、選挙訴訟で一票の格差について事情判決をしたことについては、何ら損害賠償等の代わりの措置が講じられることはないのに使っているのは、制度の趣旨とは異なっており、事情判決をしてよいのか疑問がある。しかし、最高裁は使ってよいといってしまったので、この点を変えるとすると立法的手当が必要ではないか。この点は大きな論点である。
○土地改良か土地区画整理のような事案で、一部照応違反があったが既に新しい建物が建ち並んでいるような場合に、どうやってそれを是正するかという問題で、そういうときには事情判決を有用だと思う。
○完璧な制度ではないが、理屈としては取消を求める権利が公共の利益のために奪われることはあり得るので、正当な補償があればよく、憲法29条3項で説明することのできる制度である。その意味では、何ら補償がない選挙無効訴訟や近鉄特急事件の第一審判決などは補償がされないのに事情判決制度をしたのはおかしい。ただ、この判断を裁判官にさせるのがよいかは検討の余地があるが、ごくごく例外的な便法的な制度としてはよいかと思う。割増補償までは必要ないと思う。
○要件はともかく、制度としては必要であるし、濫用されているわけでもない。事情判決に伴ってされる救済が損失補償か損害賠償かについては、無過失の損害賠償であると考えている。割増賠償は不要である。
□違法だけれども損害を補償するという約束をするのであれば制度自体は必要であるとする意見が多かったが、東アジア行政法学会での宮崎教授の反対論もあり、さらに検討することとしたい。
○割増賠償については、政策的な意図は理解できるが、民事的な実損填補、差額としての損害という考え方による日本の損害論とは相容れず、懲罰的賠償について論じられているように、制度論としては難しいと思う。
○一般の人にとっては、一票の格差の選挙訴訟でこの制度が使われたことについて非常に評判が悪い。最高裁への信頼を損なっているという印象があり、あのような場合に事情判決をしてよいかについては検討する必要がある。ただ、制度をなくしてしまうのはどうかと思う。
□台湾では事情判決制度があるが止めようという議論が起きている。行政事件訴訟特例法でこの制度が設けられた際の立法の経緯も踏まえ、整理することとしたい。
○この制度があることにより、違法なものを無理に適法と判断するようなことが回避されているという点は評価すべきである。
○フランスの民事の判決で、権利はあるがそれを執行したら暴動が起きるということで、行政当局がそれを執行せず、勝訴当事者には損失補償するということがあった。裁判官に判断させるのではないというような工夫の仕方はある。
- 【「裁量処分の取消し」について】
- ■裁量処分の取消しについて定める行政事件訴訟法30条は、行政の自由裁量事項を含む処分について、外国の立法例に倣い、立法時までに行われていた取扱いを明文化することによって裁判所の審理権の範囲を定めたもの、と解説されている。
法治主義の下においても、行政の目的達成のためには、多かれ少なかれ行政庁がその目的に見合った自らの判断に従って行動できる余地が認められなければならない、ということ自体は現代においても肯定されるところではないかと思われるが、この行政事件訴訟法30条は、こうした行政の自由裁量事項については、この解説によると当・不当の問題はあっても、原則として違法の問題は生じないということを前提にしつつ、自由裁量といっても、法の信託した限度においてのみ存立するものであるから、法の認めない裁量が違法となることを明らかにしたもので、どういう場合に違法になるかということについては一つは、裁量がその範囲を超えるとき、二つ目は、法の認める範囲内にとどまるように見える場合であっても法が裁量権を認めた目的を逸脱し裁量権を濫用して行使する。この二つの場合について、これを違法として取消判決をすることができることを定めたものというふうに言われている。
我が国では、行政裁判所があった当時は、裁量の問題については裁判所の審査権限は、その項目については及ばなかったというふうにされているので、そうした歴史的な経緯を踏まえて、この規定は、行政の裁量行為についても裁判所の審査が及ぶということを明らかにしたという意味を持つものということができるかと思われるが、現代においては、経緯を経た結果、裁量の逸脱や濫用によってされた処分を裁判所が取り消せること自体は、言ってみればいわば当たり前、というふうな見方も現代ではできることであるかと思われる。
現時点における諸外国の立法例を見ても、資料の15頁中程の(注18)として記載しているが、裁量の審査については、訴訟に関する一般的な規定としては定めがない例、あるいは、我が国の行政事件訴訟法30条の規定と似たような趣旨の規定が置かれているというような例が多いという評価が可能かと思われる。
行政の裁量は、法の信託した限度においてのみ認められるので、具体的な裁量権の行使が違法となるか否かについては、基本的に、処分等について規定する各個別の法律が、何のためにどのような限度で行政に対して裁量を与えているのか、これによって決せられるべきもの、ということができるかと思われる。
資料の15頁の上の方に、(検討の視点)を記載しているが、ここにあるように①裁量処分の取消しの可否は、本来的には訴訟手続法の問題ではなく、個々の行政処分ごとにその要件を定める行政実体法の規定の解釈によって違法かどうかが決まるものではないか、そして、この点についての考え方を踏まえて、②として、個別の行政実体法において裁量処分の要件の明確化がされない場合に、すべての行政処分に共通する一般的抽象的な訴訟法の規定を設ける必要があるのかどうか、あるいは規定するとした場合にどのような規定が可能なのか、さらには、③として、訴訟法に一般的抽象的に規定した場合に裁判所がその規定の個別の行政処分にその規定を適用するに当たって何かしら問題が生じるようなおそれがないのかどうか、といった点も念頭に置いて、検討をする必要がある。
□裁判所の実務では裁量処分について判決をする際、常に行政事件訴訟法30条を引いて書いているのか。
○30条をあまり意識していない表現の判決も見受けられるが、基本的には裁判官の頭では30条は強く意識されている。マクリーン判決のように、非常に広範な裁量の場合でも、処分が取り消されて最高裁まで維持されている例がある。裁量判断の仕方としてはある程度固まっているのではないか。判決の書き方としては、通常、30条を引いている。
○行政事件訴訟法30条については、最低限の手当てとして、「裁量権の範囲をこえ又はその濫用があった場合に限り」の「限り」は不要であり、「取り消す」に加えて「義務付ける」も加えるべきである。裁量権の範囲をこえまたは濫用があった場合というのでは内容がないので、比例原則や合理性の基準などを書き込むかどうかが問題である。最高裁は「社会通念に照らして著しく合理性を欠く場合」という言い方をするが、「著しく」としている点は過度の自己抑制的で、不要である。最高裁も積極的に裁量を肯定する場合にはこのような表現は使わない。
○芝池委員の意見には反対ではないが、自分はこの条文は削除すべきであると考えている。行政法学者でも裁量が何かは多分分かっていないのではないか。杉本解説をみても何も答えはでてこない。しかし、裁量権というのはめったやたらとは踏み込んではいけないという気分を、当時の行政法理論は表現していたし、この条文にも表割れていると思う。しかし、実際にはそれぞれの事件で必要な法原則を持ち出して裁判官が判断しているのであり、この条文でそうしたそれぞれの法原則を引くことを遠慮するような効果があるなら有害なので、削除すべきである。
○条文を削除することに賛成である。要件裁量については個別の法律の解釈の問題であり、この条文があるからといって解釈態度が変わるものではない。もともと不確定概念の解釈にどれくらい司法審査が踏み込むべきかということで審査の範囲・限界が決まってくるのであり、それが実態で、あるべき姿でもある。この条文があるから遠慮するような効果はあるし、被告側はこの条文を盾にとって不確定概念をできるだけ30条の問題にするという傾向があって、裁判所に対して無言のプレッシャーを与えている。裁量があるとかないとかではなく、端的に実体法の概念の解釈として考えるという習慣を付けた方がよい。日光太郎杉判決は、判断過程の統制ということで取り消しているが、行政の判断を裁判所が代わりに行っているように読めてしまい、資料1の14頁の④の指摘もある。微妙な判断については、できるだけ客観的評価になじむ、又は掲載でするということに意味があり、特に土地利用、都市計画等の領域については、費用便益分析で判断できるものが随分あるので、そういう領域ではそうした判断手法を用いて、裁判官が決めるよりは数字が決めるという方がよいし、その方が行政庁も予めちゃんと計算してやるようになる。客観性ある判断ができる領域はできるだけそのように制度を仕組むべきである。
□アメリカでわざわざ規定しているのはどういうことか。
△違法事由を並べた判例ででてきたもので、違法事由を全部挙げるのであればその中に裁量の問題もあるだろうという程度のものである。
△ドイツの規定もこれがあるからどうだというものではないと思う。
□行政事件訴訟法の立法当時は、往時のドグマティークがあって、それを確認して明確にすることが必要であるという判断で、要するに自由裁量の壁を破るということに意味があったものと思う。現段階ではそういう壁はもともとないのであるということになったときに、なお、往時のドグマティークに立った30条を置くことに意味があるのかを考えなければならない。
○30条は、かつては意味があったが、今はいらないと思う。むしろ、積極的に主張・立証責任の規定として、資料1の14頁③のイかウのような規定をおくべきである。
○裁量については、実体法の解釈に尽きてしまうことが多いと思う。裁量についての司法審査の幅は非常に多様であって、一言で言い尽くせず、考え得るものをすべて書き切るのは難しい。他方なくしてしまえばいいかというと、なくした後運用がどちらの方向に振れるか分からない。うんと踏み込んでしまったり、引いてしまったりということが出てこないかというところがある。非常に間違えているという批判があればそれを改めるべきであるが、条文の有り様の問題ではないのではないか。
- (2) 今後の日程等(□:座長、■:事務局)
- ■次回は、論点については「第5 執行停止・仮の救済」について、検討をお願いしたい。
- 7 次回の日程について
- 1月15日(水)13:30〜17:30