- 1 日時
- 平成15年6月13日(金) 13:30〜18:00
- 2 場所
- 司法制度改革推進本部事務局第1会議室
- 3 出席者
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(委 員) |
塩野宏座長、市村陽典、小早川光郎、芝池義一、芝原靖典、成川秀明、萩原清子、福井秀夫、水野武夫、深山卓也(敬称略) |
(事務局) |
松川忠晴事務局次長、古口章事務局次長、小林久起参事官、村田企画官 |
- 4 議題
- 論点についての検討
- 今後の日程等
- 5 配布資料
- 資料1 主な論点【審理手続・証明責任・判決、裁量の審査】
資料2 主な論点【費用の負担、行政不服審査法等の他の法令との関係・個別法上の課題】
資料3 主な論点【行政訴訟の目的・行政の適法性を確保するための訴訟】
資料4 行政訴訟検討会において検討されている主な検討事項
資料5 行政官庁等からのヒアリング等の実施について(案)
- 6 議事
- (1)論点についての検討(□:座長、○:委員、△:外国法制研究会委員、■事務局)
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□本日の検討の順序としては、前回残った論点である、前回資料4「主な論点【取消訴訟の対象・取消訴訟の排他性・民事訴訟との関係、出訴期間】の5「排他性又は出訴期間を伴う処分を限定する考え方」と、6「出訴期間の延長」、及び前回の資料5「主な論点【原告適格・訴えの利益・団体訴訟】についてご議論をいただき、そして本日の資料1から3の論点について、順次検討をすることにしたいと思うが、それでよろしいか。
(委員から異論なし)
それでは、「排他性又は出訴期間を伴う処分を限定する考え方」から議論していただきたい。
○取消訴訟の対象として、行政処分を中心にして、後はその他の行政立法、行政計画、あるいは通達などをいわばプラスアルファのような形で考えている。法律で書くとすると、「行政処分その他の行政決定」、または「行政処分その他の行政の行為」になると思う。以前、行政決定を取消訴訟の対象にすべきであると申し上げたが、行政処分は行政の行う様々な行為の中で、特に裁判によって争う必要が大きいと考えるに至り、行政処分を中心に、後はプラスアルファの形で取消訴訟の対象を考えるということである。
順序を変えて、出訴期間については、以前、個別法で定めるが新しい行政訴訟法でガイドラインのようなものを定めてはどうかという発言をしたが、これはなかなか難しい話なので、現在思い切って出訴期間を1年にすることを考えている。1年にすると、かなり従来出訴期間について言われていた弊害が少なくなると考えている。排他性については、取消訴訟の排他性を訴訟法に書くことは非常に難しいと思うので、将来の課題とするという意味において、排他性について新しい行訴法で規定をしないことにするのがいいと思っている。なお、出訴期間が妥当するのは行政処分だけであり、その他の取消訴訟の対象になる行為については、裁判所が個々のケースにおいて、取消訴訟の対象にするかどうかを考えるものなので、例えば民事訴訟で争う場合には出訴期間はかかってこないということになると思うが、取消訴訟を起こそうとすると、1年という出訴期間はかかってくると思う。
○今のご意見だと、いわゆるプラスアルファの部分は裁判所が取消訴訟の対象とするかどうかを考えて、取消訴訟の対象になるとすると出訴期間がかぶるというご意見か。
○取消訴訟を起こそうとするとそれは1年なら1年という出訴期間はかかってこざるを得ない。
○民訴で起こしたときに、裁判所が、これは民訴ではなくて行訴でやるべきだ、と考えた場合に、1年が過ぎている場合は、出訴期間はかぶらないということか。プラスアルファの部分は民訴でもやれるのだから、民訴でやったきた場合にはそれでいいではないかということか。
○例えば、行政指導などについては、それは考えられる。
○プラスアルファの部分はいわゆる排他性や出訴期間はかぶらず、民訴で起こしていればそれで受け入れ、行訴で起こしてきた場合には、1年間の出訴期間があるからだめということになるという整理か。
○そうである。ただし、行政立法、行政計画については、それぞれの独立の訴訟の問題があり、それはまた別の問題だと思うので、触れていない。
○排他性や出訴期間については認めるべきではなく、もし認めるとしても、その領域について必要であれば、個別法で例外として定めるべきである。それに対する反論的な意見として、アの「行政の円滑・効率的な遂行による国民の利益を検討すべきである」というご指摘については、検討をしても、排他性や出訴期間を廃止することによって、行政の円滑・効率的な遂行に支障が生じることにはならないだろうと思う。今までは何ら検証なしに、行政の早期安定のような漠然としたもので、無反省に設けられてきたのが問題だろう。それはイも同じである。ウについては、例外を設けるのであれば条例で設けるべきであろう。
○出訴期間を廃止して、出訴期間が必要な処分については個別法で書けという話だが、いくつあると思っておられるのか。処分かどうか争われるような類型の行為も多々ある中で、すべての処分について、それぞれの所管省庁が取消訴訟の提起の可能性を検討して、その場合に出訴期間の特例を設ける必要があるかどうかを個別的に考えるということは非常に大変なことである。出訴期間が設けられていて、法律関係を早期に安定することのメリットは検証されていないと言われたが、検証するためにまずやめてみるという実験的なことを法制度で行うことは難しいことである。ある程度予測的な判断で、どちらが予測として妥当かという形で考えるしかないと思う。出訴期間について、個別法で定めるというのが、全部やめてしまって、必要なものは全部個別法で手当てするというのなら、今いったような問題がある。今でも出訴期間については特例を設けている個別法はたくさんあるで、仮に期間を延ばしたり、縮めたりする特例を設けることを個別法でやるべきだという趣旨であるとすれば、それは今と同じで、大いに結構なことである。
第三者の権利義務に変動を及ぼす処分に限って出訴期間を設ければ十分ではないかという考え方については、第三者の権利義務関係に変動を及ぼす処分かどうかの判断は、一つの処分が誰の権利利益にどういう影響が及ぶかがそう簡単なことではなく、明確になるのかという点で、法制度化するに当たっては難しい問題がある。
出訴期間の延長については、教示制度が整備されれば3か月でもそう短くはないと言っていたが、6ヶ月、あるいは1年というような説が強いようなので、そこはあまり固執しない。ただし、教示制度を整備するという方向でほぼ一致しているのだとすれば、出訴期間を延長する必要性はあまりないのではないか。
○自分が言ったのは、行政コストが増えるか、行政の効率・円滑的遂行に支障が生じるかどうかを今回の法律改正で実験をしようと言っているわけではない。出訴期間が廃止されたことによって、本当にそういう弊害が生じるのかについて検証が必要だろうと申し上げている。個別法では、例えば、消防法などで短い出訴期間を定めている例や、国税の場合、2か月の異議申立期間で、異議申立前置主義により実質的には出訴期間は2か月である、といった例がある。これは、それぞれ必要性があるかどうかについては異論もあるが、そういう必要性があるということで個別法が設けられているとすれば、それはそれでいい。そういったものが設けられていない一般的な行政処分について、本当に3か月の出訴期間を置いておく必要性があるのかということについては十分に検証する必要があり、おそらくはないだろうと自分は思っている。
○今のご意見に対してお尋ねしたいが、原則的に排他性は意味を持たないのではないかという部分で、行政訴訟において量的に言えば中心的なものをなしているのが課税処分の取消訴訟があるが、そうしたものについて排他性がないという考えでは、例えば増額更正処分がされたときに、増額更正処分取消訴訟に拠らずして、ダイレクトに不当利得返還、あるいは債務の不存在確認訴訟を民事訴訟で起こせばよろしいというお考えかどうかお伺いしたい。
それから、出訴期間の廃止はあまり影響がないというご指摘だが、例えば、最近の税金に関わる訴訟というのは非常に高額化しており、1千4百億円の増額更正の取消訴訟もあるが、異議申立まではやったがそれから先はどうするかを数年ペンディングにしておくことは許容されてよいのかどうか、それは非常に影響が大きく、予算的に組み込めるかどうかは大きいことだと思うが、そうした点についてはどのようにお考えか。
○1番目の点は、現行法で言えば当事者訴訟になると思うが、税金を返せという給付訴訟はやれる。税金の還付請求というのは5年間という時効制度があるので、5年経つと、判決をもらっても還付を受けられないということになるから、そこでの制約はかかる。つまり時効制度によって、一定の期間制限的なものは生ずることは仕方がないが、それを2か月という極めて短い期間を定めて、そして出訴期間にするということをする必要性は全くない。証拠の散逸などと言われるが、課税庁は3年間更正ができ、さらに脱税の場合には7年間更正ができることになっている。一方は、3年ないし7年間やれると言っているにもかかわらず、納税者の方は2ヶ月過ぎてしまったらもう争えないという今の制度は誰が考えてもおかしい。
2番目の税金の高額化で、異議申立てをして、ほっておいていいのか、という議論だが、例えて言えば、東京都の銀行税の訴訟を考えていただければわかるが、争っている期間というのは何年間かあり、それも同じようにペンディングである。出訴期間内に出訴をしたなら、それによってずっと何年かはペンディングになるわけで、結局、一審判決ような判決が確定したなら、すごい還付加算金を付けて返さなければいけないという事態が何年か後に起きる。それは今の制度でもあり得るわけで、出訴期間を設けたら裁判が1年以内に決着つくということではないから、それは問題にならないのではないか。
○後者の問題について言えば、訴訟が係属するということがちゃんとノーティスになっている。それに比べて、あらゆる部分について、出訴期間を外すということは、極端に言えば、徴収した全額について、不安定なものを抱えているという形になると思うが、その異同というのはどうお考えか。
○そういう意味では、全てが不安定と言ったらそうであり、積極的に課税処分をしたものについては、全てが不安定になる。しかし、世の中にはたくさんの課税処分があり、現実に、それが確定しないことによって、実際上何か不都合が生じるかと言ったら、それはないと思う。何となく確定していないから不安定だという、極めて抽象的な話であり、現実には課税処分をして、問題になりそうな部分だけ争いになっている。
○出訴期間の問題は、実体上、本当は違法があるかもしれないものを一体いつまで争わせるのが妥当かという、手続的な一種の制約だから、出訴期間を設けて非常に短くするということは、実体上、違法なものを結局は確定させてしまうという発生確率を高める。これは一種の政策判断だが、本当に違法だったらできるだけ是正させた方がいいと考えれば、例えば、第三者が迷惑を被るということでなければ、行政庁、国、自治体にとってお金で後始末が付くような問題であれば、一定程度、例えば時効の期間内に争われて戻ってくるということで、別に実体上支障はない。債務負担行為は、手続上、こういう場合何の問題もなくできる。とすると、いつ遮断するのがいいのかを考えると、抽象的な法的安定とか、行政の効率だけからは演繹的には結論は出ない。実際になくなったときに誰がどのように困るのかということの、具体的な指標を検証してからでないと結論は出ないという印象を持つ。だからこそ、具体的に出訴期間が、例えば半年なり1年なりに延びたときに、誰の利害が、どれだけ損なわれるのかということは、行政庁を呼ぶことになっているから、そこでじっくり聞いた上で判断してもいいのではないか。もし、行政庁が代弁する国民の利益が損なわれるような領域が出たら、それはそれに対応するように気を付ける。だけど、逆に出なかったとしたら、やはり今の3か月は非常に短いという感覚はある程度は流布していると思うので、原則として1年ぐらい、個別法でより短く定めることがあるかもしれないが、何も書いていなければ原則1年というような方向は、現在のニーズにも合っているし、もし支障があるのなら、個別対応できるということからすると、リーズナブルな方向ではないか。
□前から疑問に思っている点を申し上げる。韓国で行政訴訟の検討をしたが、排他性と出訴期間は一切問題にならない。むしろ行政立法をどうするかといった点に中心がある。日本については、提訴件数が少ないのは日本のシステム、あるいは官と民のシステム、そこに根本的な問題があるのではないかという論調なので、3か月を短くという議論はそのシンポジウムの場には出てきていない。また、外国法の検討でも、3か月の出訴期間があるために国民の出訴権が侵害されているという議論はあまりない。むしろ日本よりもずうっと高いバリアーがあるにもかかわらず、何十倍という出訴件数がある。そこは一体どう説明するのか。日本が基盤整備が足りないので、この際国民に元気をつけるために、あるいはもっと出訴をしてもらうというインセンティブを与えるために出訴期間を外す、排他性をなくす、あるいは出訴期間をもう少し短くするという議論をしているのかどうか、その辺がまだ未整理かと思う。およそ、出訴期間があると国民の権利の制限をして、国民は萎縮して出訴がなくなるということだと、フランスであれドイツであれ、ヨーロッパ大陸諸国は日本よりずうっと出訴率が低くなければいけない。そこをどう説明するか、これから世の中に一般的に訴えていくためには整理をしておかないといけないと思う。
○先ほどの提案は、資料の③、つまり1年というのは処分があったことを知った日という切り方は外して、処分の日から1年という画一的にするというご意見か。確かに、実務的には、処分があったことを知った日というのは、現実に知った日と解釈しており、それが争いになったときには非常に立証しにくいテーマである。要件として、難しいハードルを設けてまでやらなければいけないかどうかも考えてみたらよいと思う。
○裁判が少ないことについてはいろんな要因があると思う。ただ、弁護士としていろいろな相談にかかわっている経験からすると、相談を受けて話を聞いてみると、行政訴訟として訴えを提起しておかなければならなかったのだが、出訴期間が過ぎているから結局は争えないということを言わざるを得ない場面がある。弁護士に聞いてみれば、そう言っていわば断念させたというケースはかなりあると思う。それは実感である。3か月より前に弁護士のところに行って相談すればいいではないかと言うのは簡単だが、それが行政訴訟として起こさなければならないものなのかどうかということさえ分かっていないケースも結構ある。だから、出訴期間については、少なくとも1年ぐらい延長することぐらいはやってもらわないと困る。
○原告予備軍の人達が行政庁にいろいろ相談に来て、その応対も一手にやっていたが、収用だと、裁決の中の補償部分とそれ以外の部分とが、完全にルートが分かれているので、本当は金に文句があるのだけれども、たまたま教示制度があるから不服審査を使って、その後取消訴訟に移行し、弁護士さんも付いているのだけれども、どう考えても主たる争点は金目にしかないのに、取消訴訟だけやっているうちに、損失補償の当事者訴訟の出訴期間は徒過して、結局は争えなくなる、こういうものが随分散見された。ルートが截然と分かれている割には、実際に収用された人にとってみれば、どの部分を何で争ったら、しかもいつまでに争ったらいいのかが、さっぱり分からないというので、かなり混乱している。幸いに直ぐに相談に来られた方には、かなり親切に教えていたが、時間が経ってからだと取り返しがつかないという例は、現実にかなり経験したので、もちろん教示は非常に大事だが、教示に必ずしも乗らない第三者効のある処分などもあることを考えると、実体上違法なのに残ってしまったという可能性を小さくしておくことは良い政策ではないか。
それからもう一つは、法曹人口の人口比率がドイツ、フランスは日本に比べ膨大だから、行政訴訟にかかわらず、訴訟的件数からしても、行政訴訟に習熟した弁護士の数というのは日本に比べものにならないほど多い。今のところ、残念ながら、日本では行政訴訟に関する弁護士過疎の問題は依然解消されていないので、出訴期間でそれと釣り合いを取る形で、ある程度救済を広げておいた方がいいのではないか。
□基本的には、自分の権利を主張したいと思っている人に、それを妨げるのは大変よろしくない、それは近代国会ではない、という前提で、行政手続法、情報公開法の制定に関与したが、行政訴訟についても、そういったアクセスのルートをきちんとしておくことは必要である。しかし、あえて国民に、是非これを使ってくださいということを、一種の国際的な標準以上に、なぜ日本の場合にそういった手を差し伸べなければならないのかという点がもう一つここでは十分に議論がされていないのかと思って、あえてお伺いした次第である。
○排他性については、あらかじめ少なくともはっきりと境界線が決まっているということは重要だと思う。交通整理の意味での訴訟選択にできるだけ迷いがないようにすることが重要である。排他性がある部分についてはどこに排他性があるのかが分かっていた方がいい。
○行政処分という形で切るのがいけないのか。
○それは、決めておけばそれで全然構わない。
○取消訴訟を設けておいて、例えば、国税で、課税処分についてはまず取消訴訟を提起しなければいけないと決めておけば、決めること自体が合理的であれば、それは特に反対ではないということか。
○自分は完全撤廃論ではないので、排他性の割り振りが外目に明らかで、割り振りに合理性があれば、それはそれで支持する。
- 【「原告適格・訴えの利益・団体訴訟」について】
- ■前回の資料5「主な論点【原告適格・訴えの利益・団体訴訟】」で、1で「原告適格の拡大」、2で「自己の法律上の利益に関係のない違法の主張制限の規定の削除」、それから2頁の3で「団体訴訟の導入」、この3つの論点を掲げている。この論点についての考え方で、1の「原告適格の拡大」については、①、②、③とあるが、「処分又は裁決の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」という現在の行政事件訴訟法第9条の定める原告適格の規定について、根拠となっている行政法規が原告の利益を個別具体的に保護していることを原告適格があることの判断基準にしている、これが現在の判例であるというのがこれまでの理解であり、この現在の判例で認められる範囲よりも原告適格を拡大すべきであるという意見がある。そして、その観点からの意見について、具体的にそれではどういう規定をすべきかということになると、様々な意見があり、例えば①として、「現実の利益を侵害され又は侵害されるおそれのある者」について、原告適格の範囲を拡大してはどうか、これは、いわゆる法律上保護された利益ではなくて、事実上の利益にも拡大すべきだということである。②の「法的利益を有する者」は、法律上保護された利益ではなく、法的に価値があるものと評価されるべき利益という意味だと思われるが、そういう範囲のものについて、要するに個別具体的に行政処分の根拠となっている法律で保護されているかどうかということは必要ではないという考え方である。③の「処分又は裁決につき利害関係を有する者」は、民事訴訟等において、通常の裁判に対する不服申立て等の利益を有する者について、「利害関係を有する者」と規定されていることから、このような形で考えることによって、個別具体的に行政法規が原告の利益を保護しているかどうかという判断基準ではないという趣旨を明らかにしてはどうかという趣旨である。
これらの考え方については、アからエまでの指摘を掲げている。アの指摘は、処分の根拠となっている行政法規によって、法律上保護されているかどうかという基準と比べた場合に、判断基準としての客観性や予測可能性を確保することができるかという問題である。イの問題については、判例で認められている現在の範囲について、条文の規定を変えることによって、どの範囲が拡大するのかというのがある程度明確にならないと、立法ができないのではないだろうかという考え方である。ウの考え方については、「法律上の利益」という現在の法律の規定そのものが、規定の解釈自体についても、そもそも法律上保護された利益という意味ではないとしても、侵害を受けた利益がどの程度のものであっても全ての場合に原告適格がある、ということを意味することにはならないのではないだろうか、あるいは法律上の利益という規定を変えるにしても、そこで言う利益の判断基準というのは法的に評価したという形での利益、法的に評価されるべき利益という意味での、法的な利益という範囲にはいずれにしても限られるべきではないのだろうかという点について、では規定を変えた場合に、そこはどこが変わるのかということを考えなければいけないのではないかという問題である。エの問題は、判例で今解釈されている法律上の利益を法律上保護された利益として考える考え方について、具体的な適用を仮に広くあるべきであるという考え方を取った場合に、実はそれが法律上の利益という現行の規定の問題であるのかどうか、むしろ現行法の規定を柔軟に解釈して、その法律上の利益というのはむしろ法的利益と同じような意味合いのものを意味して規定しているのだという趣旨で解釈すれば、柔軟に解釈、運用することによって、原告適格を広く認められることもできるのではないか、判例の解釈が狭いということが、立法課題になるのか、それとも解釈上の問題なのかということを問題として指摘している。
2の「自己の法律上の利益に関係のない違法の主張制限の規定の削除」については、そこに掲げた考え方は記載のとおりであり、その考え方に対する指摘については、例えばアの考え方については、そもそも原告適格があれば全ての違法を主張できることになると、取消訴訟が主観訴訟であるという性質が変容するのではないだろうかという懸念があることと、イの指摘については、手続に関する軽微な違法で、処分に影響を及ぼすおそれがないときというのを考慮し、そのようなときには取消しができないということを規定した例が他の法律にもあるが、そのようなときにも全ての処分を取り消すことにもしなるとすれば、それは適切ではないのではないかという考え方もあろうかという指摘である。
3の「団体訴訟の導入」については、意見として出ているのは、歴史的・文化的な遺産や自然環境、つまり一旦損なわれてしまった場合に回復が不可能な価値というのがあるのではないか、そのような価値を保全するという観点からは、原告適格という厳格な訴えの利益の規制ではなくて、団体訴訟の制度を導入することによって、その価値を保全するための訴えをしやすい仕組みを考えるべきではないかというような考え方が出されている。その具体的な方策として、これまでの検討会の中で出ている意見として、①と②の考え方が掲げられており、①は元々個人で原告適格が認められる、つまり、ある意味で訴えの利益がある場合についても、その原告適格が認められる個人の訴える権利というのを、団体が代わって訴訟するというような形で、団体について、一種の訴訟担当の形で原告適格を認めるという団体訴訟の制度の考え方もあるのではないかという意見である。②は、個人に原告適格が認められない場合、ある意味で、非常に薄まった利益であって、いわば公益について、個人の訴えの利益が認められる場合ではないと認められるような場合であっても、そのような特定の利益を保護することを目的とするような団体にはその利益を守るための訴訟の原告適格を認めるような団体訴訟の制度を設けてはどうかという考え方がある。この団体訴訟を導入すべきであるという考え方に関しては、次の指摘のうちのアは、「団体訴訟については、法分野ごとに、個別の実体法において、その法律の目的やその法律が保護しようとしている権利、利益等を考慮して検討されるべきである、との指摘」や、それからイの「原告適格を広く解釈運用することも考えた上で、なお団体訴訟が必要な場合がどういう場合かを検討する必要がある」、このような指摘がある。
○原告適格を拡大せよというのは、おそらく、行政訴訟改革を考えるほとんどの方のご意見だと思う。行政訴訟の改革と言ったときに、まず1番に出てくるのは原告適格、処分性の拡大とである。この2つはいわば行政訴訟改革の象徴のような意味合いで語られているのではないか。だから原告適格を拡大することは、当然のことだろう。1のエという意見があり、「法律上の利益」という現行法の規定が悪いのではなくて、それを狭く解釈している裁判所が悪い、もっと批判して最高裁の判例を変えるべきではないか、法律はこのままにしておいてよい、というご意見があるが、これは今まで散々やってきたが、最高裁は変わらないから、今求められているのは、最高裁に解釈を変えろということを言うのではなくて、解釈を変えざるを得ない形で、法律を変えるしかない。考え方③の「処分又は裁決につき」というのは、これは要らない。①も②も同じである。要は、現実の利益か、法的利益か、利害関係かという、3つである。日弁連の意見は①を提案しているが、どれがいいかは必ずしも固執するつもりはない。一番通りやすいという意味では、③の「利害関係を有する者」かと思う。「利害関係を有する者」で法令用語を検索するとたくさん出てくる。会社更生法、民事再生法の関係では即時抗告ができるかどうか、例えば民事再生に関して再生開始決定が出たという場合に、誰がそれに対して即時抗告ができるのかという議論があり、再生手続に関する裁判につき利害関係を有する者は即時抗告ができるという規定になっている。これは、裁判所に即時抗告という形で訴え出るということについて、利害関係を有する者という形で縛りをかけている。いろいろな議論がされて、結局最後はそこに落ち着いたということだったのではないかと聞いている。そういう意味からすると、前例もあるので、③だったら通るのかと思う。それに対して、ア、イ、ウで、利害関係を有する者という書き方にしたときに、それをどこまでの範囲なのかはっきりするのかという反論があり得るが、これはどんな文章を書いてもあり得る。倒産法の即時抗告ができるかどうかという極めて重要な場面でも使われているのだから、少なくと③で書けば、いわゆる外縁がはっきりしないではないかという反論は通らないのではないか。
○今のご意見に近い。要するに文言の問題である。もちろん原告適格が広がるようにという前提があるが、通りやすい文言になればいい。③の文言でも結構である。③の「利害関係」に「法律上」と付けてはだめか。
○いや、「法律上」と付けてはいない。
○付けているものもある。付けているものと付けていないものの違いは、当たり前だから付けないというものと、当たり前のことでも確認的に書いておいた方がいいだろうということである。倒産関係は当然のことだから書いていない。感情が害されたなどの事実上の利害関係はあるかもしれないが、そういうことを言っているわけではなく、法律上の利害関係を意味して、「利害関係を有する者」としている。
○行政手続法の18条の文書の閲覧の関係で、「自己の利益を害されることとなる」参加人という表現がある。「法律上」というのは出ていない。解釈としては両方あり得るのではないか。
○③でいいのではないかというご提案の中身をはっきりお伺いしたいが、「法律上の利害関係」と読まれるものを含めればいいということでは、「現実の利益」との間には当然開きがあると思うが、それはそれでやむを得ないということでよろしいのか。
○「利害関係を有する者」という規定でもいいと申し上げている。それが「法律上の利害関係」でないとダメだと解釈されるかどうかは、次の段階の話である。
□しかし、他に「法律上」という言葉があるのとないのがあるときに、立法段階で、「利害関係」とは何かの説明をする場面に追い込まれる。そのときにはこれは解釈に委ねる、というご提案として承ってよろしいか。
○「法律上の」と限定する必要はないと思う。「法律上の」というのは、私が見た限りではない。
○「利害関係」という言葉が出てくる法律の解釈においては、「法律上の利害関係」と解釈するのが一般的であって、「現実の利害」も含むという解釈をするのが解釈手法として一般とは言えない。たくさんの法規が「利害関係」を今のような意味で使っているので、もし「現実の利害」を是非含みたいという趣旨であれば、判然とする形で提案した方がよいのではないか。
○言葉の問題よりは、実質を議論すべきではないか。「法律上の」というものを付けた場合に、あるいは当然だという場合にも、何が法律上であり、何が法律上でないかということがまさに問題であって、言葉だけで全員一致しても問題の解決にはならない。一つは、行政手続法第10条を作るときに相当議論した点だが、近鉄特急事件の例で、現在の判例では原告適格は認められないけれども、行政手続法第10条は申請者以外の者の利害を考慮すべきことが当該法令において許認可等の要件とされているものについては、行政庁がそういう権限を与えられている趣旨は一定の広い範囲の利害も考慮して、値上げを決めろということである。最高裁の言うように、それは個別にその人たちの利益を保護する趣旨かどうかというところまではここでは問題にしないということだった。処分の名宛人と第三者を分ける必要があり、名宛人は不利益を受けていれば大体問題ないが、第三者については、原告適格については、法律の保護範囲に入っていれば一般的には認めていいのではないか。最高裁判例の言うような、それプラス個別保護要件というものは課する必要はない。ただ、もちろん保護範囲が多くて薄いという場合があり、そういう場合は誰でも訴えられるかというと、それはそうではないだろう。その中で十分に利益の濃い人を選別しなければならない。ただそれはそんなに大変な話ではなく、別の面から言えばおよそ行政庁が何らかの決定をするということを法令で定められている場合に、国民にとってどうでもいい話というのはあるはずはなく、行政庁の決定はどうでもよくはないのだから、法的に何らかの縛りがあるはずで、それがきちんと守られているかどうかというのは誰かが訴訟で訴えることができてしかるべきであろう。もちろん、行政庁の決定であっても、これは全くの政治的な問題であって、法廷ではなくて、投票所で決着をつけるべきものはあるので、全くの政治的な事柄は別だと思うが、そうでなければこれは誰かが訴えることができてしかるべきではないかという観点から、適当な人が出てくるような絞り方はすべきだろう。文言としては、行政手続法第10条を睨みながら、これをもう少しリファインし、かつ今のようなことがどこまで表現できるかというのは、そこは考え方さえ定まれば、裁判所が適当に運用してしていただくのがあるべき姿ではないか。広がったといっても、伊場遺跡のようなものは政治的な問題ではなく、法的にきちんと国民の利益が守られているかどうか、国民共有の利益が守られているかどうかということなので、それを争うのに一番ふさわしい形が、あの事件では出てきていたと思う。それでも認められないのはおかしいのではないか。考古学者というのは法律など分かっていない、訴訟などうまくやれないということであれば、それは弁護士がいればいいし、後は団体訴訟の問題になってくるのではないかと思う。
○原告適格の拡大はする必要はあるのではないかと考えている。それは、現実に今までの判例を見ますと、ほとんど却下されているということなので、それをどうやって救うかということで、ア、イ、ウといろいろなご指摘があり、この辺はどうするかは考えないといけないと思うが、エの、今でもできる解釈の問題ではないかということについては、現実になかなかできてこなかったということがある。
■問題は、法律上の文言を変えようとする場合に、変えることによって、今後新たに救済される、原告適格が拡大される典型的、具体的な例がはっきりしないと、それが妥当かどうかは判断できない。行政庁にとってもとても怖くて判断できないと思う。こういう場合を主として念頭に置いているということであれば、その程度ならいいという判断をされるかもしれないし、いやそれは困るというかもしれないが、そこはもう少し明確にしていただきたい。
それから、それとの兼ね合いで、たとえ文言を変えたとしてもここまでは広げすぎだと考えている、だから外縁について、ある程度、解釈の指針がないと、結局は文言を変えてみてもはっきりしないということになれば、今の使い勝手の良い判例の理論により近づいた解釈に行われる結果になって、文言を変えてみてもあまり変わらないということになるので、少なくとも文言を変えるとするならば、どこの部分を念頭に変えようしているのか、もう少し明快にご示唆いただきたい。
○それは原告適格だけの話か。ほかの場合も改正案を出す場合に、例を挙げろというお話か。
■原告適格の場合は、文言が必ずしも固定的な運用になっていないから、過去の判例でかなり固定的に狭く解釈していた例も多々あることは承知しているが、弾力的な判例の例もあり、まだ固いというものもあり、いろいろある。その判断は非常に難しいと思う。具体的にどうするかはこれから議論して考えていくが、その際の判断の拠り所としては、原告適格は非常に抽象的な文言であるだけに、もう少しどのところを念頭に置いて、議論されているのか明瞭にしないと、特に行政庁辺りは答えにくいと思う。
○原告適格だけの話か。
□差し当たりそうである。具体的な判例を挙げてほしいということか。
■判例でなくてもいいが、こういう事例の場合は、従来の判例を当てはめると否定される例になるのではないかと思われるけれども、これは救済すべきだから、変えるべきだというのなら議論はやりやすいということである。
○近鉄特急の例で、特急料金の場合の適当な人というのはどういうものが適当な人か、例えば定期券を持っていればいいのか、あるいは具体的に先予約していて、その頃には増額運賃を払わなければいけない立場にある人だとか、そういう適当な人とは何ぞや、ということがもう少し議論になればいいのかと思う。狭いというご指摘を受けている部分について、誰かに争わせるべきだというご意見はよく分かるつもりだが、そのときに、ある種の偶然によって獲得した地位にある人に代表させて争わせるのが本当にいいのかという点が少し引っ掛かる。手続における公聴会制度と同じように、例えば環境なり、広く薄い公共的な経済的な利益も含めて、そういうものに対しては、何かもう少し制度を作って、そういう団体なり何なりに争わせる団体訴訟のようなものも一つの連動する対案として考えうるのではないか。だからこの適当な人の選び方というのが、主観訴訟の中で本当に主観訴訟に帰属する適当な人が選べるのであれば、そういう道もあるが、それが非常に選びにくく、適当な人が本来主観訴訟的な属性をほとんど持っていないということになるならば、客観訴訟の中で上手に仕組んでいくということで、同じ目的を達しうるのではないか。
○各委員の頭にある、この例はひどいから救おうといった例を、次回ぐらいまでに持ち寄っていただくのと同時に、事務局の方でも、今までの議論で出ている判例について、例えば、この①、②、③の書き方をしたときに、それぞれごとにどこまで広がることになりそうかという、普通の解釈を前提としたときの対照表みたいのをお手伝いただくのはどうか。
■それがなかなか難しいので、むしろ具体的な提案をされている方にお伺いしたい。
○事務局で分かる範囲については整理していただけると、手掛りがあってやりやすい。
□資料的には今までの中でかなり出ているのではないか。日本の判例、最高裁の判例があり、それを外国法に照らし合わせたときに一体どうなるか、外国法の専門の方に整理していただいている。それぞれご覧いただいた上でのご発言だと思うが、さらには議論を細かくしていくためには、あるいはこれから法制的に向かっていくためには、具体的なことを少し明確にしながら議論する必要があるのではないかと思う。
■原告適格については、具体的な事例をいくつか挙げて、改めてご検討いただけるような準備をしたいと思う。
○具体例は一つ問題だと思うが、従来判例に不満を持っているのは、木で鼻をくくったような形で原告適格の判断が行われている例が割合とある。例えば、以前馬券売り場の開設許可について、周辺の住民が取消訴訟を起こした事例があったが、下級審の判決で、競馬法や下位の政令・省令を見ても、どこにも周辺住民の利益を保護をしている規定は存在しないとして結論を導いている。そもそもそうした判断を許容するような法律の仕組みというのはまずいのではないかと思う。
○次回と言わずに、例を出したい。近鉄特急事件では、個別保護ではないと言われれば、そういう読み方もできるかもしれないが、法文には何も書いていないわけで、非常に主観的、悪く言えば恣意的な、結果を見てから議論するような最高裁のスタイルだろう。それは良い方に出ていることもあるが、いずれにせよ、あの場合で言えば従来そこに住んでいて、従来から通勤に使っていて、これからも使うであろう人が原告団の中の大きな部分を占めていれば、それでいいのではないか。
それから伊場遺跡の場合では、その遺跡の研究を生業にしていて、営利目的でもなく本当に好きでやっているという学者たちであれば、それはいいのではないか。
ジュース訴訟では、あらゆる人たちがジュースを飲む可能性があるということだと、外国人も日本に観光で来て飲む可能性があるからということになるが、それは多分ダメで、その場合は利益は非常に薄くて、拡散しているけれども、しかし全体を合わせれば大きなものであって、それを従来から実績をもって主婦連という団体が消費者の利益を擁護している、そこがこれを問題にして訴訟を起こすのが認められるような、団体訴訟の穴を空けるのがいいと思っている。環境であれば、当該事項について実績がある環境保護運動をやっている団体は見れば分かるから、それでいいのではないか。法技術的に諸外国がやっているように、団体訴訟を認める場合に何らかの政府の認可承認、資格付けのようなものを別途考えることはなくはないと思う。それは今後必要に応じて考えればいいが、あるべき大まかな方向はそういうことではないか。それでなお、この人なら、あるいはこの団体なら大丈夫だというのがいないケースは仕方がない。何らかの意味での利害関係はあるよと言ってきても、その人に訴訟をやらせるのがいいかどうか、裁判所がどうしても自信が持てないというケースは却下されても仕方がない部分はある。
○適格者を選び出すときの一つの要件として、法律の保護の範囲に入っていればという留保があったが、その場合の法律は、当該根拠法規のことを言っておられるのか、それとも法的という意味か。
○行政訴訟だから、行政庁の行為規範があって、それに適合しているかどうかが主たる課題になるの。行為規範は、成文の法律、法令の規定であればはっきりするが、そうでない規範もあるが、いずれにせよ、ある利益との関係で行政庁に拘束がかけられていることが前提になる。馬券売り場のようなケースでは、そこは微妙で、競馬法は周辺住民のことは何も考えていない。そこは一般民事法の世界に任せているということであれば、それは民事差止めでできるという筋になるのではないか。
□エの議論をするときに、最高裁の判例が全然変わらないという前提で議論しなければいけないのかがもう一つのポイントである。最高裁判所は微妙に玉筋を変えている。ただ、どうしても引っ掛かるのは個別利益という、個別と公益という仕分けがそれほどできないのではないかというのが行政法の傾向にあるときに、最高裁判所は個別の利益については、新潟空港判決は別として、制定された個別根拠法で迫るとして頑張っていると、なかなかここでみんなが議論していたようなことにはいかないと思う。最高裁も、この点について最近の判例は、個別利益と言いながら実はかなり踏み切った議論をしているという段階にあるということも一つの情報である。
○原告適格は基本的には広げた方がいいと思っているし、広げるに当たってはできるだけ明確に書いた方がいい。先ほど指摘があったように、この事件のこの人は救うべきだという議論があった方がいいと思うので、自分も整理して表明したいと思う。
資料の指摘のエについては、最高裁の解釈自体を行政庁がこうあるべきだと言っても変わらないものは変わらないから、現時点で立法でできる範囲はできるだけ先取りして、最高裁に対する一種の要請という意味で、立法的解決をしてしまう方がよろしいのではないか。
ア、イ、ウとあるが、これだけ出るといかにも難点がいっぱいあるように見える。現在の原告適格の実定法上の基準だって、権利を侵害された者としか書いていないから、それをどう解釈するかについて、最高裁の判例を補えば分かるけれども、条文だけ見れば分かりにくいということであれば、五十歩百歩だと思う。そう考えると、できるだけ明確に書く努力をするのは当然だが、新しい案と比べて、今の形がそれほどいいかどうかということもあり、そういう問題も指摘しておいた方がよろしいのではないか。
行政庁の行政法規の立案者の感覚として、行政法規を作るときに、最近は第三者効を持つ条文を作るときに、一般国民や周辺住民のことを配慮する規定を設けるのは最近では主流になっているが、一昔前だとあまり考えず、処分を下した相手方の権利保護は、古典的な行政法理論の枠内であるから、かなり考えて書くが、他のことはあまり熟考した上で条文を作らないという場面は多い。そう考えると、今の最高裁のアプローチの根本的におかしいところは、救いたいものを救う手掛かりを、いわば行政庁が多少思いつき的に書いた要件の中をひっくり返して探すところがあって、やや滑稽な感じがある。行政庁の作った法律の要件の細部に、作る方はそんなに意味を持たせて作っているのではないというのは、昔の法律にはたくさんあるから、それを原告適格の根幹的な拠り所にするというのは、元々ミスマッチである。所詮その程度の雑な前提で作った行政法規も多いのだと割り切って、条文の中に第三者に影響するようなところの手掛かりがあるかどうかというアプローチよりは、法的な利害関係なり、あるいは現実の利益の侵害なりという明確な基準で割り切った方が実質的な法的な常識には合うのではないかと思う。
法的な利害関係という意味だが、侵害の評価が法律上救済に値するかどうかという一つの側面と、もう一つは、その当該処分に因果関係の根源があるのかどうかというような意味での、一種の因果関係論の意味での法的評価という意味もありうる。後者について言うと、例えば、収用などで出てくるのは、起業地外の人が環境を理由に訴えることがあり、これは原告適格なしというのが通説判例だと思うが、こういうところまでは広がらない方がいいと思っている。ただ、一方では、小中学校統廃合のように、よほど苦痛のある者だけ原告適格を認めるというのは是非直していただきたい。
□2の方に移りたい。
○2の関係では、日弁連の試案では、今の10条に代わるべき法律の文言として、もっぱら第三者の利害に関わる違法事由を主張することはできないというような形で、逆の方向で書き、但し、公益に関する事由についてはこの限りでない、という但し書きも入れるという形で、積極的に逆の方向で変えるべきではないかという提案をしている。これについては、アのように主観訴訟という性質が変容するのではないかという反論があるだろうと思うが、行政訴訟の目的をどう考えるかに関連する。原告適格で絞りをかけている限りは、行政の違法性を正す訴訟という意味で、主観訴訟という枠をはみ出ることにはならないと考えている。
イはここの指摘として適切なのかどうかよく分からない。場所が適切ではないように思う。そこまで規定するのが無理ということであれば、少なくとも10条は削除すべきだという意見である。
○今の発言については、ほぼ同様に思っている。公益に関する規定と言われるものの中には、私的な利益に関するものも含まれているのではないかと思っており、以前大阪であった事件で、病院の開設の許可だったと思うが、周辺の住民が争った。その理由は、換気扇のようなもので外部に向けて空気が流れるのが、外部との関係で衛生設備の不備に関することを理由にしていたが、裁判所はそういう衛生に関する規定は公益に関する規定であると言って、原告適格の段階で認められなかった。しかし、それが公益であるとしても、同時に周辺住民の利益を汲んでいるものであると思うので、それについての違反があれば、周辺住民も違法を主張できるということでないとおかしいと思っている。公益に関する規定が、全て原告側が主張できるかというと躊躇するところがあるが、内容によっては私人である原告が違法を主張できる公益保護規定はあるだろうと思い、そういう意味で現在の規定は少し狭いと思う。
○問題点は、むしろ自己の法律上の利益に関係のない違法という、現在の定義であっても、それが自己の法律上の利益に関係がないという結論付けをしたことがいいのかどうかにまずあるのではないか。確かに、この規定は狭く解されやすい。逆に言うと理由を制限しやすい傾向を持つというご指摘はもっともなところがあると思う。ただ、純粋な形で捉えると、もっぱら第三者の利益である、かつそれは公益であるから、違法事由として主張できるとなると、客観的な性格を持ってしまうのではないか。今いわれたのは、むしろそこは自己の法律上の利益に関係がある部分だというところで、間違った解釈をするなというご指摘だと思う。そういう意味で、間違われないように適切な文言に改めていこうという方向であれば、基本的には賛成であるが、ただ、その中に、もっぱら第三者であり、かつ公益であるから私が言う、というところは主観訴訟からははみ出ていると思うので、それは文言を変えるというものではなくなって、性格を変えることになる。
□今の話の公益の点も、例えば土地収用の場合には、まさに公益が本当にあれば自分の土地が取り上げられても構わない、違法ではないという意味で、公益についての問題は今の場合でも排除されていない。どの程度のものが本当に排除されるかという点について、それぞれ考えるところが違い、それが今の法律の案文の作り具合が必ずしも適切でないので、そういった誤解を生じているとすれば、それを改めるのにやぶさかではないという考えだと思う。
次に、「団体訴訟の導入」について、ご発言をお願いしたい。
○団体訴訟の導入自体の問題の是非は別途問題だが、「回復不可能な価値を保全するなどの観点から、団体訴訟の制度を導入する」ということを行政事件訴訟法でやろうとしている趣旨ではないのか。文化財保護なり、環境保護なり個別法があるが、一定の団体はその法律で決めるということで原告適格を付与して、一定の処分を争わせるということを個別法で書けば、それは是認していいということであるとすれば、何ら問題もなくて、あるとすれば判決効などについて、行訴に特殊な規定を置いておくということを考えるかどうかという論点なのかと思っていたが、この資料の書き方は、個別法のことを言っているのか、何か特殊な行政の分野については行政事件訴訟法に類型化して何か書くということを言っているのか、今ひとつよく分からない。
○それは今から一つの論点になりうると思う。つまり、行政事件訴訟法でどこに書くか、どこまで書くかということが一つの論点になり得る。全部個別法に委ねてしまうと、いつまでたっても団体訴訟の導入は図られないだろうということもあり得るので、手掛かりになる規定は新しい行政事件訴訟法に書き込む。後はどういう分野で、どういう団体に原告適格を認めるかは個別法に委ねざるを得ないと思う。
○手掛かりになる規定というのは、例えば判決効に関する規定でもいいが、それを置けば、団体訴訟があり得ることになって、作れば受けられるということになるのか。
○極端に言えば、「団体訴訟については、別に法律で定めるところによる」とか、判決効などもそれは言える。
□それはこれから議論するところだと思う。
○そこはまだ詰める段階ではないと思う。個別法なしには団体訴訟なしと割り切るか、そうでなくて、薄い利益でも基本的に原告適格なしということにはならないが、薄い利益の持ち主一人一人に原告適格を認めるよりは、裁判所として、こういう団体が出てくれば、その利益を代表しているものとして、それは認めるという形で、一種の法定訴訟担当かもしれないが、そういう裁判所の選択の余地を認めるような穴を一般法で空けておくか、そこは両方あると思う。もちろん前の方の選択で、個別法が全然動かないで、絵に描いたもちで、何も意味がないというのはつまらないから、行訴法なりに書くときには、それなりの見込みをもって、ちゃんとお土産が出るような形で進めていくべきだろうと思う。
□団体訴訟は認める方がいいのではないかということはずっと出ていたが、それを行訴法でどう受け止めるかという、ある種法技術的な点については、まだ議論は詰まっていない。その段階で、パブコメ、あるいは行政庁の意見を聞こうという段階だと思う。
○団体訴訟という場合に、いわゆる法人格がある団体、ないしは法人格なき財団、社団、そこまでは訴訟適格がある。要するに、法人格なき社団でも行政訴訟の原告になりうる。問題は、団体についての原告適格の認め方というのは個人と少し違うから整理しようかというところが一つある。もう一つは、人格なき社団とまではいえない個人の集まりのようなものについても、例外的に訴訟適格を認めるのかという議論があり、ここで言っている団体というのは訴訟主体になり得る団体を前提にしているのか、していないのか、そこの区別があるだろうと思う。今でも、例えばNPOみたいなものが、伊場遺跡の裁判をやるときに、それは訴訟の当事者適格はあり、問題は原告適格という、訴えの利益が特に要件を定める必要があるかどうかという議論なので、そこを整理しないといけないのではないか。
- 【「審理手続・証明責任・判決、裁量の審査」について】
- ■本日の資料1で、審理手続・証明責任・判決、それから裁量の審査に関する項目を掲げている。論点については、1で「主張・立証責任を行政に負担させること」、2で「処分の理由等の変更の制限」、3で「事情判決の制限」、4で「裁量の審査の充実」を掲げている。
1の「主張・立証責任を行政に負担させること」については、行政訴訟では、行政の説明責任や原告の主張・立証の負担を軽減する観点から、国又は公共団体がその行為が適法であることの主張・立証責任を負うことを定める規定を行政事件訴訟法に設けるべきであるとの考え方がある。これについては、原告の主張・立証責任を軽減する観点から国や公共団体の費用で事実の調査をする制度を設けてはどうかという意見もある。この考え方については、アとイの指摘を掲げており、アについては、証明責任というのは、法律に定める要件ごとに実体法の解釈によって定まるものであるということから、それぞれの実体法の規定の趣旨や要件の内容などを個別に検討することなく、訴訟法において一律に定めることは適切ではないのではないかというご指摘、イの指摘は、処分又は裁決の理由の説明や記録の提出等を行政庁に命ずることなどで原告の主張・立証の負担を軽減するということが今検討されているので、そのことを考えながら証明責任に関する実体法まで変更するかどうかは、慎重に検討する必要があるという指摘である。
次に、2の「処分の理由等の変更の制限」は、処分の理由等が訴訟の前やその初期の段階で示されたものからその後に変えられることによって、原告の主張・立証の負担が増大することがないように、そういう観点から、例えば行政手続法で理由の提示が要求されている処分については、訴えが提起された後に理由を変更することができないことを規定するなど、処分の理由等の変更を制限すべきでないかという考え方である。この考え方については、例えば、アで、行政手続法で理由の提示を定めた趣旨は行政処分が慎重にされることを担保するためであり、その後の理由等の変更を制限する根拠にはならないとの指摘、イで、処分の理由等の変更を制限すべき範囲を一概に定めることは困難ではないか、それからウで、民事訴訟法の一般原則でタイミングに後れて出された攻撃防御方法は却下することができるという民事訴訟法157条の規定があるが、そういった民事訴訟法の一般原則と異なる主張の制限を規定する必要があるかどうか、この点については慎重に検討する必要があるという指摘である。
3は「事情判決の制限」で、これは事情判決の制度によって国民の権利救済が必要以上に制限されないようにする観点から、損害賠償等の代替措置を講ずることができない選挙訴訟などでは、事情判決をすることができないものとする考え方である。この考え方については、事情判決があるということで、行政の違法の判断がされやすい面もあるのではないか、という指摘もあり、事情判決の制度は濫用されているとはいえないのではないかという指摘もある。
4の「裁量の審査の充実」で、行政の裁量については、現在行政事件訴訟法30条で、「裁量権の範囲をこえ又はその濫用があった場合に限り、裁判所は、その処分を取り消すことができる」とされているが、これによって行政の裁量に対する裁判所の審査というのが必ずしも充実してはいないのではないかという指摘を基に、それを充実させようという観点から、①から④のような考え方が指摘されている。考え方の①については、現在の「裁量権の範囲をこえ又はその濫用があった場合」、つまり権限の逸脱、濫用の場合に限って処分を取り消すことができるという趣旨を定めた行政事件訴訟法第30条の規定については、決してこれらの場合に本来限られるべきではないのではないか、比例原則や合理性の基準など、裁量処分が違法になる場合を他にもあり得ると規定すべきでないかという考え方である。②は、そもそも今のような権限の逸脱、濫用に限って、裁量処分が違法になる、取り消すことができるという行政事件訴訟法30条の規定は、その規定のあり方からして、裁量審査を抑制する効果を持つおそれがあるから、それを削除すべきではないかという考え方である。③は、さらに積極的に、費用便益分析手法などの客観的科学的な基準で裁量の審査をすべき旨を規定してはどうかという考え方であり、④は、裁量基準及びその基準の適用の合理性を行政庁に主張立証させて行政庁の判断過程を明確にし、その判断の方法又は過程に誤りがある場合には処分が違法になるとの規定をしてはどうかという、こういう訴訟手続的な規定をすべきだという考え方である。
これらの考え方に対する指摘として、アからエまであり、アは、裁量は実体法の解釈の問題であって、裁量の司法審査の幅は多様であるから、考えられるものをすべて規定することは困難であるとのご指摘である。イは、社会の熟度や社会の流れによって裁量の幅が変わることに法律の規定がどういうふうに対応できるか検討する必要があるのではないかという指摘で、ウは、費用便益分析手法など、まだ未熟で進歩していくような過程の技術を審査の基準とすることは適切でないのではないかという指摘で、エは、裁量の審査は、実体法の趣旨に沿って個別具体的に検討する手法が判例では確立しているのではないか、したがって、行政事件訴訟法第30条の規定が裁量審査を抑制しているとはいえないのではないかという指摘である。
○主張・立証責任について、行政は行政処分になる理由とか、根拠になる事実、あるいはそれを主張する資料を裁判所に出すことは別に議論している。ここで書かれているのは、審理不明の場合の負担を原告、被告どちらに負わせるかという立証責任だと思うが、立証責任については学説はばらばらであり、判例でもあまり出てきていないように思う。規定できるような形で議論がまとまるかどうか、はなはだ疑問に思っている。
○冒頭の、行政事件訴訟法の原則規定を設けるという考え方に対し、アとイの反論があるが、アについて、行政事件訴訟法の一般法に原則を定めておいて、後は個別に別の規定を設けることは、何ら問題はないと思うから、一律に定めることは適切でないという指摘は当たらない。例えば国税通則法116条という規定で、原告が行うべき証拠の申出という規定がある。これはいわば例外を定めたものであり、原告が「必要経費又は損金の額の存在その他これに類する自己に有利な事実につき課税処分の基礎とされた事実と異なる旨を主張しようとするときは、相手方当事者となつた税務署長又は税関長が当該課税処分の基礎となった事実を主張した日以後遅滞なくその異なる事実を具体的に主張し、併せてその事実を証明すべき証拠の申出をしなければならない」という規定があり、一種の例外を定めている。原則をまず訴訟法に定めておいて、個別法に例外を定めるというのはあっていいのではないか。
イがよく分からないが。
□ほかにしてきた議論を踏まえて、もう少し深く検討をしたらどうかということだと理解している。この点もまだまだ学説も何だか分からないところが多い。この際、行訴法に1条、いかなる取消訴訟についても行政庁に立証責任がある、それを客観的に見て、主観的に見るのではなく、書くということまでは学説も判例も固まっておらず、まだ混乱の状況にある。
○ただ、行政処分をした行政庁が、行政処分の根拠となった理由を主張して、それを基礎付ける事実を立証する、これは一致しているのではないか。
□ここでの議論は、そういう主観的な問題ではなく、客観的な、それこそ審理不明というときになったときにどうするかという立証責任である。
○そこは行政庁に立証責任があるというのが、一致しているのだと思う。つまり行政庁が処分をした根拠をきちっと書いておくことは必要なことではないか。
○立証責任は、真偽不明の状態になるような要件についての負担はどちらが負うべきかということで、そのレベルで言えば、例えばこういうことで自分は免除が受けられるべきであるというようなことで免除申出をした者に対して、免除に必要な要件について何ら資料を出していないので、これについては免除の要件はなく認められないという処分が不服だった人が、その取消しを求めたときに、ある何かの免除を求める、それがどちらも何も出さなかったときに、どちらを勝たせるかということだろうと思う。受益的な処分であれば、それを求める人が主張・立証責任を負っているのだという理解で、実務ではやっているのではないか。逆に、課税処分のような侵害処分と呼ばれるものについては、その要件の具備をそれを負担させることを命ずる側がやるということであり、ここで一律に定めると言ったときに、大きく括って、侵害処分はどちら、受益処分はどちらということも、乱暴すぎてとてもできないというのが実情ではないか。
○第一次的には受益処分であっても、拒否する場合は行政庁に主張・立証責任があるのではないか。
○もし両方出さなかったら、例えば、課税庁は免除の要件を満たしていることが分からず、そういう事実が資料から認められなかったら、免除をすべきだということになるのか。そうはならないと思う。フラットなところより、有利なことを求めるなら、有利な側にやらせるのは、一般的にはそちら側に資料もあり、その人が求めるのだから、そちらに負わせる方が適当だという考え方で現実の分配をしているのだと思う。
○そうだろうか。つまり原告の方でまず、こういう理由だと特定し、それに対してそういう理由がないということで拒否処分をする。そのときに、あるかないか分からないという状態になったときに、原告に負担になるのか。
○それはそうである。
○この論点については、自分なりの考え方を書いたことがあり、最終的にはその場合でも行政庁が証明責任を負うといいつつ、しかし申請の場合には申請人が、行政庁の調査義務は非常に軽いものなので、行政庁が証明すべき事項というのはごくごく単純な話でいいという筋で書いたことがある。ただ、裁量処分の場合は行政庁の担当職員が、ねじくれた心でもって、意地悪したのではないかという事実が問題になったときに、それについてどちらが証明責任を負うのかなど、そこはいろいろあり、ここはまだ一般ルールを明文化するには、時期尚早ではないかという感じがしている。
○1のイの前半部分は、この話を独立にやるという選択肢はないという整理か。要するに資料提出等を行政庁に命ずることができるというのが対立論点になっているように見える。それはそれでやるという議論もあったと思うが。
□それは、そうである。
○アの説明について疑問があり、証明責任が実体法の解釈で定まるということだが、法律を作るときにそういうつもりで作れば、例えば民事法でならいいが、行政法規で、一々挙証責任の配分を考えながら立案するということは聞いたことはない。行政庁の立案する法律で、実体法の解釈によるのだということが裸で出てくると、これは大分ミスリードになると思う。アのようなことを書くのなら、今申し上げたようなこともフェアに並べておいていただかないと、かみ合わない。
それから、義務付け訴訟の義務付け要件の立証要件で、生活保護拒否処分のような場合には、立証責任はどちらにあるのか。
□そういう難しい問題があるということである。
□アも整理が難しい。民訴の人は実体法上の問題だとおっしゃるが、行政訴訟法関係のコンメンタール、あるいは教科書を見ると、民訴の実体法の作り方が違うので、なかなか簡単にはいかないだろうということで、通説はない、そういう状況である。
2に進む。
○処分の理由等の変更の問題も、前に散々議論して、座長から、要するに結論が出なかったというまとめがあったと記憶している。
□結論が出なかったということではなく、今の段階では整理をしたレベルかという趣旨である。
○結論的には、これも新しい行訴法では規定しないということでいいのではないかと思う。
○これは規定すべきだと思う。反論として、アが書いてあるが、行政手続法で理由の提示を定めた趣旨は行政処分が慎重にされることを担保するためで、その後の理由等の変更を制限する根拠にならないという指摘だが、変更を認めるというのであれば、慎重にする必要はない。後で理由の変更を制限されるからこそ、処分をされる段階で、慎重にすることになるのであって、後でいつでも変更ができるということであれば、慎重にされることの担保にはならないと思う。
□いい加減なことをやっておいて、後で変更した場合には、それは前の理由付記が不備であったということになると思う。あるいは慎重に検討をしていなかったということになる。一生懸命調査をして、一生懸命理由を書いたにもかかわらず、さらに新しいものが発見されたときに、変更ができるかどうかがここの問題である。行政手続法は慎重に相手方の意見を聞くなりして、きちんと理由を書いて決定をしなさいというのが、行政手続法の立案に関係した者の考え方だが、その考え方はおかしいというご批判は十分に承る。
○批判ではなく、要するに行政処分が慎重にされることを担保するというのは、判例が昔から言っている話である。そういう趣旨からすると、その後に理由の変更ができるということであれば、行政処分が慎重にされることを担保するということにはならないのではないか。全く処分理由をつけないで、処分をしたら、これは取り消される。しかし、慎重でなく、これでとりあえず行っておけといったが、後になってもう一遍調べてみたらこっちで行こう、というのは有効になる。その点からもおかしいのであり、慎重にされることを担保するための制度であるというのであれば、変更に一定の制限を設けることは当然の論理的帰結だと思う。
イの「制限すべき範囲を一概に定めることは困難である」というご指摘があるが、これはつまり、例えば青色申告の事件で最高裁まで行った事件があるが、あれは処分の理由に当たらないと言った。譲渡所得の取得費が問題になったが、その後に譲渡代金に変えたというケースで、最高裁の判例は両方とも同じ譲渡所得で、取得費か譲渡代金かが争いになったので、処分の範囲内で理由の変更には当たらないとなったと思う。刑事事件の公訴事実の同一性と同じ考え方で、処分の同一性の範囲内であれば変更に当たらない。しかし、処分が違えば変更に当たるわけで、その処分が同一かどうかは、どこで判断するのかは、それぞれの判例で判断をしていけばよく、イは必ずしも反論にはならない。
ウの民訴の時機に後れて提出された攻撃防御方法については、民訴の場合は両当事者間で主張を出し合ってやっている裁判である。今問題になっているのは、とりあえず第一次的な行政処分の違法性があるかないかが問題になっているから、この民訴の時機に後れた攻撃防御方法の却下の問題と違う制度を設ける必要があるのかということは、必要があると言わざるを得ないので、反論になっていない。
○解釈論としては、アのところは私も座長と同じで、そこの議論をしようと思えば大いにやるが、解釈論を離れて考えた場合には、訴訟の早い段階で、行政庁に理由を特定させ、その後よく調べたら、結局行政の立場はこうだということを訴訟の早い段階で確定させ、土俵をそこで決めてしまうということが、むしろ両当事者間の公平という観点からもしてもバランスがいいのかなという気がしないでもない。だが、技術的に今度は理由を特定したといっても、理由の同一性がその後の訴訟の中で、また問題になるということはあり得る。そうすると技術的に難しいかなという気もしていて、結論は出ない。
○理由変更は、原告側にとってみると、被告が理由を変更する度に振り回されるという意味で、防御権が実質的には損なわれるのは間違いないから、今のように変更自由というのは、全く行き過ぎだと思う。そういう意味で、何らかの理由変更の規制は当然に必要ではないか。行政手続法との関わりはともかくとしても、立法論で考えれば、訴訟の段階で簡単には理由が変更できないというのは、当然に処分庁に対する注意義務を高めようというインセンティブを与えることになり、処分段階での適正な、あるいは適法な行政処分をもたらす上で、何らかの実質的な寄与をすることは間違いない。そういう意味でも、手続法でもまさに慎重にということであれば、精神はそう異ならないから、訴訟法でも、政策判断としての理由の変更のコントロールはやった方が現段階ではベターではないか。イ、ウが当てはまりにくいというのは先ほどの意見と同じであり、これだけを出して、外に出すというのは若干バランスが悪い。
係争中の処分の変更なり追加という論点もあると思うが、そちらも規制した方がいい。例えば、課税処分の取消訴訟の係争中に、更正、再更正といった新しい処分が次々に出るという場合に、新しい訴えを提起させるのかどうかという、あるいは新しい訴えを提起して、その負担を負えということを常に要求するのは必ずしもフェアではなく、こういったものについても、例えば当初の処分を適法に争っていれば十分だという扱いにすることが十分考えられるのではないかと思う。
○補足だが、理由付記を要求されている根拠のもう一つは、原告に対して不服申し立てをさせるかどうかの判断をさせることにある。その点も考慮する必要がある。自分が経験したケースで、控訴審になってから、理由を追加するというケースがあったが、一審の段階で、その主張をするのかといって、問い詰め、釈明したが、それは主張しないと言って、一審では負けてしまい、控訴審で予備的に、その主張をしてきたケースというのはたくさんある。一定程度歯止めをかけないと、調査権もあり、どんどん調査をして、いつまでも理由を追加していくということにもなりかねない。例えば、第1回口頭弁論では答弁書が出て、処分の理由が分かり、第2回ではそれに対する反論が出るので、少なくとも第3回目ぐらいまでなら変更を許すけれども、それ以後はダメだということでも、かなり原告側としては負担の軽減になるのではないだろうか。そういった点も考えていく必要があるのではないか。
□拘束力はどこまで働かせるのか。その段階で敗れたとしても、別の理由が見つかった場合にもう一度処分できる。ところが、理由の変更を認めることになると、その拘束力ないし既判力は全部に及び、一時的な解決が担保できる。変更を許さずという意味が、拘束力も既判力も全部、訴訟物に及ぶというのか。
○当然、差し替えを制限するからには拘束力も、処分そのものに及び、繰り返しはできないとして、それがまさに行政との間の公平ではないかと思いつつ、しかし結論は留保する。
検討会ではいわゆる訴訟物論は今までされていなかったと思い、それはどうするのかという気がしている。
○今の前段の整理で、既判力も拘束力も差し替え制限をする以上は当然、処分全体の違法に及ぶという理解をしている。
□いろいろな処分があるときにそういう形で一律に整理していいのかどうかが問題である。
○例えば増額更正決定処分であれば、前提があることで、ほとんどその要件は全体が分かるが、一つの処分で、例えば手続的なものだけしか考えない、手続的に何か既に瑕疵があると判断したから、実体的なところまで踏み込まないで、 そこに対する行政的な判断は何もしないで拒否という判断が仮にあったとして、そうしたときに、そういう理由でやった処分の外縁とは何かという辺りはなかなか難しい問題だと思う。手続と実体がクリアーに切り離せるか、あるいはどこまで行政庁が見たかということを基準にできるか、それも何か変で、処分の1個単位というのがなかなか難しいところがあって、制限するということと裏と表になると思う。今の意見のように考えたとしても、大きい問題は残ってしまうと思う。
それから、先ほどの一つの例に対しては、まさにウの、時機に後れた攻撃防御方法という民訴一般のものが、そのまま使えると思う。
□3の「事情判決の制限」について、何かお考えはあるか。
○選挙訴訟というのはどういう趣旨で書いてあるのか。
□それはかねてより意見があるように、選挙訴訟などに使われているという趣旨である。
○しかし、それは何とかの法理というものである。
□その議論はしており、検討会として、こういう問題提起があり、この考え方については、こういう指摘があったということを客観的に書いてある。
○事情判決は代償措置の問題が重要なので、例えば、裁判所が事情判決を下すときに、当事者の意見を聞かねばならない、しかも原告はその場合に損失補償請求を追加的に併合できるとか、そういった措置まで手続的に入れておけば、かなり制度の趣旨が生かせるのではないか。
○今言われたのは、判決する前に事情判決をするからと言う訳にはいかないが。
□中間判決がある。
○言ってもいいのではないか。事情判決というのは、結局敗訴の自認のようなところがあるので、当事者からはなかなか言い出しにくい。だから、裁判所がある程度、音頭を取ってあげる実益はあると思う。
□同意見である。いろいろと話し合って、このままだと負けそうだという判断をせざるを得ないが、こういった点で賠償問題、あるいは補償問題などについて準備をするならば、ということで事情判決に、実際の運びはそうなると理解している。およそ裁判官は頭の中でずうっと考えていて、最後になって事情判決だということにはおそらくならないのではないか、そういう例ができたのは最高裁のこの選挙訴訟の例なので、それはおかしいということではないか。
次に、裁量の審査について。裁量処分、裁量権という概念自体が、オーストリア系の先例、アメリカの例を引かれて、こんな例があるではないかということで、行訴法に入れられた。小委員会等の議論の過程を見てみましても、あまり詰めた議論はしていない。つまり、それは19世紀あるいは20世紀の始めの頃の裁量処分、裁量権という概念が、そのまま学説上固定されているので、我々は20世紀の議論をしているときに、こういう古典的な概念をそのまま維持した立法を維持するのかどうかという論点がある。
○基本的に行政裁量ないし、裁量という言葉自体を廃止した方がいいのではないか。行政はそもそも法律にのっとって判断して、しかも判断や行動の選択の余地がある場合でも、全く自由ではないということが大前提である。そうすると、それぞれの処分ごとに具体的なふさわしい判断が求められているとすると、権限ある行政庁は判断の根拠を説明する責任を元々、法治国家では負っているのだと考えるべきだと思う。そうすると、具体的な事案では、少なくとも処分の基準や考え方が説明できないはずはない。それは覊束処分と言われているものでも、いわゆる裁量処分でも、同じ事情だと思う。そういう意味では裁量処分という範疇自体を残して、何かマジックワードとして意味を持たせることはあまり実益もないと思うし、連動して行訴法の30条も廃止した方がいいと思う。立証のために膨大な資料を用意しないといけないということがあるが、本来は被告がまず当初の段階で、処分の根拠として用意すべきであり、原告は疑問点を挙げて、裁判所が争点整理をする、被告に釈明して進行するというような手続きが原則になるべきで、そうすると別に裁量という独自の領域を残す実益もないし、むしろ実害の方が多いと考える。
○今の発言は理解できない。法律が抽象的な概念を使って規定している場合について裁量という。それは、具体的な文言で規定している場合に比べ、それなりの自由、判断の余地のようなものが行政にあって、その認識の枠組みとして裁量という言葉を使って、表現している。それがなぜいけないのか。
○認識概念として、裁量的な領域があることは全く否定しない。しかし、裁量処分に道具性があり、特殊な効果があるかのごとき、解釈や判例が現実に流布しているのは間違いない。裁量と言っても言わなくても、要は法律にしたがって判断するという観点から見ると、道具性を持たせた概念として、こういう区分が本当に必要だろうかという趣旨である。裁量処分であれば、逸脱、濫用に限り、取り消せるというのは一種の道具的な概念である。
○逸脱、濫用というのは、従来の枠組みである。その他に、憲法原則があって、法律による拘束が及ばないところで、昔で言うと条理を使って審査をした。法律ないし、法令による拘束がないところが裁量というだけで、それ以上なぜ害があるのか、よく分からない。
○結局、比例原則とか専門技術性とか、個別に還元できる要素があるのなら、それに着目して判断すれば良い。別に裁量という言葉自体が何か実益を持って、何か具体的な効果をもっているわけではないということである。
○実益は持っていない。法律の拘束の弱さを示しているだけである。
○裁量が認識概念と言われれば、そうなのかもしれない。ただ、本条はまず裁量処分という言葉自体を使っている。ということは裁量処分を裁判権の対象外に置き、行政裁判所の法制に根ざしているもので、そこはおかしい。ある処分の中で裁量の部分もあるだろうし、ない部分もあるだろう。裁量権という言葉は誤解を招くのであって、立法がきちんと指図を最後までしていない部分を行政庁がきちんと立法の趣旨を忖度して補わなければいけないという、むしろ裁量の義務である。それをきちんとやっているかどうかということをまさに行政訴訟の重要なミッションとして審査をするのではないか。裁量権の範囲内だからということで、その裁量権の範囲内では何をやってもいいだろうというイメージを持たせるのはよろしくないので、文言を直すか、それとも条文をなくすか、いずれかの必要はあると思う。
○30条についてはいくつかご提案があったが、大きく分けると、30条を廃止し、新規規定を全然置かないという選択肢が一つと、新しい何らかの規定を置くという、2つの選択肢があるのではないか。
○資料の反論的なアからエで、これもやや書き方に疑問がある。例えばアについて言えば、「考えられるものをすべて規定することは困難」というのはそれはそのとおりだが、立法論の度に考えられることを全て規定することを求められたら、およそ立法などできなくなるから、これもあまりにも極端な懸念だと思う。ウの「費用便益分析手法など、まだ未熟で進歩していく技術」とあるが、これも大分認識が異なる。未熟で進歩していくということは事実認識として誤りである。現在まさに行政評価などでも、現実に行政庁が行政決定にあたって、現にその手法を用いて、しかもそれに対して第三者的評価もやって、現実に行政システムに組み込まれているから、未熟で進歩していくものであれば、そういうことをやること自体がおかしいということになり、こういう見解がそのまま一人歩きすることはまったく問題である。もしこれを掲げるのであれば、今申し上げたことも並べて書いていただくべきであるし、またこういう議論はやらない方がより良いのかということにつながり、それはおかしいと思う。しかも、この費用便益については、③で一律に使うかのように書いてありますが、例えば土地利用計画とか環境訴訟とか馴染む領域というのは一定の限界があるのは当然のことであり、馴染む領域だけやるのだということをむしろ書いていただかないと、全部に使えるわけはないではないかという、当たり前の反論を招く。そこは正確に書いていただきたい。なお、米国等で使われているという事実があり、米国で使われる場合も裁判所がこれをやるわけではなく、行政庁がやったことを裁判所が、いわば分析手法のプロセスに齟齬がないかをレビューするのであり、裁判所があたかもこれを自分自身が習熟してやる専門家にならないといけないかのごとき出回り方をするのは本意でない。正確に書いていただきたい。
□この資料で、再論、あるいはそれに対する反批判等々、これから付け加えるのはなかなか難しい。ここはどうしてもというところは、またご意見を賜るとも思うが、反論も随分なされたので、それを全部入れ込まないとダメだということになると、事務的にも無理かなという感じもある。
○これはホームページにも出すのか。
□そうである。
○だとすると、全部が全部ではなくてもいいが、少なくとも今日の議論で論点になったことぐらいは、簡潔で結構なので、入れていただきたい。
□それはまた後でご相談したい。
- 【「費用の負担・行政不服審査法等の他の法令との関係・個別法上の課題」について】
- ■本日の資料2で、「訴えの提起の手数料の軽減」が第1の論点であり、これについては①、②、③というような考え方が指摘されている。①は一律に定額の手数料、それから例えば②は、取消訴訟については財産権上の請求でない請求に係る訴えとみなしてしまってはどうかということ、③については複数の原告が同一の処分の取消しを求める場合は、各原告について訴えの利益が共通していると考えて、一人分の手数料でいいのではないかという考え方である。それに対する指摘については、アからウまで掲げてあるが、なおご参考までに民事訴訟一般について、訴え提起の手数料の額の見直しを図るために、現在、司法制度改革のための裁判所法等の一部を改正する法律案を国会に提出して、ご審議をいただいているところである。
次に、「弁護士報酬の敗訴者負担の取扱い」については、行政訴訟の訴えの提起を不当に萎縮させないとの観点から、例えば①のように、行政訴訟については、弁護士報酬の敗訴者負担の制度を導入しないものとしてはどうかという考え方や、あるいは②のように、原告が勝訴した場合について原告の弁護士報酬を被告に負担させ、被告が勝訴した場合には被告の弁護士報酬は原告には負担させないという片面的敗訴者負担の制度を導入すべきであるとの考え方がある。これに関する指摘については、次のア、イに掲げたようなものがあるが、なおこの点に関しては、弁護士報酬の敗訴者負担の取扱いについて、司法アクセス検討会で現在検討を進めているところである。
「不服審査前置による制約の緩和」については、①で、不服審査前置をそもそも定めることはできないこととしてはどうかという考え方と、②で、不服審査を経ないで訴えを提起することができると考えて、訴えを提起した場合に、そのときにも不服審査請求をするなど必要な補正をすれば訴えを却下しないで訴訟手続を中止しておいて、そのまま不服審査手続を経て、裁判を受けることができるようにしてはどうかという考え方がある。
○1の訴え提起の手数料の軽減については、①、②、③いずれも賛成である。①にするか②にするかという選択があるが、どちらでもいいのではないか。③については、かつてはこういう考え方で裁判一般が行われていた時代があるが、それが段々変わってきて、最高裁が判決を出したという事情がある。だから、③は是非立法で明確にすべきだと思う。
○手数料が高くて困るというのは税務訴訟の他にどういう分野の訴訟か。許認可などの場合は算定不能で処理しているのか。
○許認可でも、ものによるが、一般的には算定不能である。
○算定されるとしたら社会年金関係がある。実は算定するのは非常に難しく、例えば平均余命はどうだとか、あまり現実的なことでないことを特定させないといけないというのが現状である。
○一応計算するのか。
○それは経済的利益だと計算する。
○違法な行政を是正するから一律でいいのではないかというのは、非常に説得的な理由があると思う。そうすると、例えば銀行税訴訟のようにすごい利益を得るのに一律でいいのかという議論は当然あり得ると思う。ただ、そこは割り切ってしまって、行政訴訟については一律にするということでいいのではないか。これは要するに、違法な行政を是正するわけだから、もちろんその人の利益もあるが、それでいいのではないか。
□一般的にこれからか弱い国民と強大な国家という対立ではなくて、おそらく多くのものが都道府県、あるいは市町村レベルでの訴訟になると思う。つまり、処分権が下りており、そうすると、力の強い市町村というのはあまりなく、そこで大企業の問題が出てきたときに、今の手数料も一律になっていいのかという問題がある。強力な行政主体、つまり国家だけではなく、むしろこれからの問題は大企業と市町村の問題ということも考えて、議論しないといけないという感じを持っている。
○その点の考え方はわかるが、強い原告で、弱い行政庁であっても、印紙の問題は直接には関係ない。強い原告で、弱い行政庁だから印紙を高くてもいいという議論ではないと思う。
□強い弱いに関わらず、行政として、こうあるべきだというご議論であればそれはそれでいい。つまり、説明責任でも理由付記でも、それは弱い市長村だから理由がいい加減だといってはいけない。どんなに弱い市長村でも、権利利益を侵害しようものなら、それなりの作法を守らなければいけない。
○手数料は国庫に入るという前提で考えれば、昔確か行政裁判所時代には訴訟費用もなしにすべきだという議論が真面目にされていたと伝説的に伺っており、行政の側で、特に公定力など行政の権力性を必要と認めた上での行政訴訟が残るのであるとすれば、その部分については、権力行使、権力的な行政の執行がきちんとできているかできていないかというところは、公共側が、できれば税金でもって面倒を見るべきではないかというのが一つの筋ではないか。その後は、弁護士報酬は、当事者が実際に訴訟をどうやるかと関わってくるので、また別かもしれないが、そこは基本的に税金を投入していい世界ではないか。かなり今までの考え方からの大幅な転換になるかもしれないが。
○印紙代は一律少額というので構わない。理由も今の意見に共感する。違法是正という機能がある、しかも行政は適法に振舞う実体上の義務があるのだと考えると、あまり訴えのハードルで、金銭的なものを高くしない方がいいのではないか。もう一つの論点で、民訴法の主張する利益が各請求について共通する場合に一人分にできるという論点があるが、最高裁は林地開発行為許可処分取消訴訟で、原告の水利権、人格権、所有権等の利益は原告がそれぞれ有するもので、全員に共通ではないから合算だ、という判決を出しているが、これと逆の判決が大阪高裁で2つばかり出ている。これも、解釈論はともかくとして、政策論としては、最高裁の判断はやや行き過ぎではないかと思われる。元々この林地開発の訴訟でも原告が主張しているのはあくまでも開発許可自体が違法だということで、だからこそ訴訟物も違法だということになっているから、開発許可のない状態の回復が、訴えで主張する利益だと解釈すべきであり、そうするとそれは原告全員に共通だと考える方が素直だと思う。水利権、人格権などの権利の主張というのは原告適格があることの説明、本案の違法の問題の根拠に過ぎないわけで、この最高裁の議論で言うと、結局みんなが印紙代を出さないといけないということになって、実質的にはちょっと行き過ぎではないか。最高裁でこういう判決が出た以上、あとは立法でしか出番はないから、吸収説を明確にとるような立法をした方が妥当ではないか。
○訴訟費用は、行訴に限らず民訴も含めて、裁判手続一般にあるが、各国まちまちの伝統を持って、およそ取らないという国だってある。日本の訴訟費用の一般的な考え方が今の行訴に反映しており、経済的利益を問題にする場合には、それはそれに応じた応能負担の形で取る。算定不能のときは仕方がないから、一定の額でみなす。それを機械的に行訴に持っていくというのが今の状況である。それが問題だとしたときに、特例を設けるという話だが、その特例の根拠を何に求めるのかが、他の訴訟制度と無関係に決まっているものでは元々ないから、ある場面ではそういう特殊性が処分の取消訴訟にはあるのではないかという形で、国の収入が減るなり増えるなりということについて、合理的な説明を第三者にできるような切り口や論拠というものが十分用意できなければ、原則でもいいのではないかということになってしまう。そこが非常に重要で、何となく気の毒だから一律下げようということでは通らないし、違法を是正するからいいではないかと言っても、勝った場合には戻ってくるから、結果的に違法が是正できた場合には全部戻ってくる。結局訴訟費用の負担が重いというのは訴訟に勝てなかった場合、つまり違法でなかった場合であり、こういう場合に負担させられるのを気の毒かどうかという話であることも考えると、そこの説明はそう簡単ではないのではないか。
○基本的にはそのとおりだが、ただ、今の行政訴訟は全体に渡って、訴えてみて、しかも裁判所にかかってみても、なかなか違法か適法か分からない。本案に乗ってからでも裁量の問題もあり、なかなか事前予測可能性がない段階で、必ずしも自信がないが勝っていることも結構ある。そうすると、今のような構造を前提にしたときに、入口自体で、ひょっとしたら勝てるかもしれないのがシュリンクして退いてしまい、結果的には違法を是正する機会を逸するということにもなるので、現在のような非常に有利不利の構造がはっきりしている段階ではあまりハードルを上げない方がいいという政策判断として考えた方がよいのではないか。
□2の「弁護士報酬の敗訴者負担の取扱い」についてのご意見をいただきたい。
○この問題については司法アクセス検討会の方で検討が行われていて、現在は、弁護士報酬の敗訴者負担制度を導入する訴訟としない訴訟の区分けが行われていると聞いているが、それはそうなのか。
■そのとおりである。
○そのときに、行政訴訟は議論の対象にはなっていないのか。
■現に議論されている。まさに、いろいろと除外すべきではないかと議論されている。現状のままでいいのではないかという意見、片面的敗訴者負担にすべきではないかという意見、それから片面的敗訴者負担というのは慎重に検討すべきであって、なかなか難しいのではないか、というような多様な意見が出ている。まさに検討しているところで、我々としてはここでのご意見ももちろん承るが、基本的には司法アクセス検討会で検討を進めたいと考えている。
□ここで出たご意見は記録に残るが、多少時間が掛かるようなら、出たご意見はなるべく早く向こうの方にも伝えていただけるか。
■そうする。
○原告が勝つ場合を考えると、訴訟になる前の段階で行政がきちんとやっていればこういうことにならなかったはずだと思われるので、私人間で両方の権利主張を戦わせて裁判所で決着をつけようという民民関係とは違うのではないか。行政に対して、行政側が結果的には間違っていたから、原告の方が、国民の方が余計に金を払わないといけないというのはおかしいのではないかという気がする。他方、行政の側は、行政訴訟段階に至っても適正な行政を客観的に、真面目に追求すべき立場にあり、そのためには訟務検事を用意しておく。これは別に勝つためにやるわけではなくて、行政訴訟を通じて最終的に適正な行政を担保することだろうと思うし、自治体では弁護士に依頼することになるかもしれないが、それは行政の本来必要なスタッフとして、アウトソーシングしていると考えた方がいいのではないか。
○反論のア、多様な行政過程で様々な紛争が生じるから、一律に取扱いするのは適切かというのは、なぜこういう疑問が出てくるか理解できない。それからイの意味がよく分からない。これはどういうことを言っているのか。
■これは、訴訟費用そのものはむしろ敗訴者負担の制度が導入されれば、相手側から取れることになり、勝訴する見込みが多いのであれば、敗訴者負担が導入されることによる司法アクセスの効果もあるのではないかということで、司法制度改革審議会の意見が出ているので、そういう効果も一方ではある。後段については、敗訴する場合であっても、相手側の弁護士報酬を負担しなくてもいい場合を設ける方がいいのか、勝訴をした場合に相手側の弁護士報酬を取れるようにしてあげた方がいいのか、どちらがいいのかということは、両方のメリット、デメリットがあるから慎重に検討すべきでないかということだと思う。それはむしろ、訴訟費用全体についてそう言われている。冒頭の「敗訴者負担が導入されても勝訴した場合には相手方の弁護士報酬を負担しないから」という点については、相手の弁護士報酬を負担するのは敗訴した場合で、むしろ勝訴した場合には自分の弁護士報酬を相手から取れるので、相手の弁護士報酬を負担するわけではない。相手の弁護士報酬を負担するかどうかというリスクは、勝訴する可能性と敗訴する可能性を当事者がどう評価するかによって、司法アクセス効果あるいは提訴萎縮効果というのは変わってくる。どういうふうに当事者が予測するか、そういったことによって変わってくるものではないか。そうすると、これを導入するとすれば、勝訴すると予測して訴える方にとっては逆にメリットではないかという評価も可能だし、仮に敗訴者負担をしないことによって、敗訴するかもしれないと思って訴える方にも、ある程度の機会を与えるべきだと考えるという考え方もあるだろうし、そこはどちらを重視すべきかは慎重に考えるべきではないかという考え方である。
○今いわれたようなことがはっきりと分かるように書いて欲しい。
□ここは委員のご発言をできるだけ書いたということなので、分かりにくいところはできるだけ分かりやすいように考える。
3のところは如何か。
○①は賛成である。②で、訴えを提起して、第1回の裁判が行われる頃には異議申し立ての審査請求の期間が過ぎている場合が多いのではないか。
■議論したときにも委員からその指摘があったかと思うが、具体的な制度設計についてまで触れているわけではない。もしこういう制度設計をするのであれば、不服審査前置であることによる不利益についての対応も必要ではないかと考えると、補正すれば不適法な訴えにはならないようにするということも考えられる。
○②は分からないでもないが、現実問題として解決になるのかという気がする。税務訴訟などでは、出訴期間は3ヶ月だが、異議申し立ては60日だから、訴えを起こして、第1回期日には既に遅いので、どういう場面で、どれだけ意味があるのかよく分からない。
○基本的には前置を義務付けるのはやめて、選択ができるようにした方がいい。不服申立前置というのは言い換えれば、行政の判断を必ず司法に行く前に仰げという、一種の強制的な措置だから、それが適切な判断の担保になるかどうかは、機能しているかどうかによる。一種の独占的な判断なので、判断の適否が第三者の評価にさらされない。前置が正当化されるのは、実質的に考えてもその前置段階で事件が精選されて、裁判所に行く事件を適切なものに絞り込むのだという効果がある場合だと思うが、3か月待つと、結局出訴ができることになってしまうから、現実には、不服申立てをして3か月後はとにかく出訴するというケースがある。そうすると、不服審査庁は放置し、裁判で片が付くということになるので、そうした制度は無駄が多いということになる。前置をやっているものは調べて、単にスルーするだけになっているものがあるのかないのか、あるとしたら何件ぐらいあるのかということを具体的なデータとして出してもらい、機能していない前置主義は基本的には当然廃止と考えるべきである。基本的にはあってもいいが、自由選択にして、制度間で訴訟に行きたい人、あるいは不服申立を経由したい人と、競争ないしは選択ができるようにし、どちらを選んだ人が多かったかということで、場合によっては制度の存続をやめてしまうこともあり得るのではないか。
○あまり機能していない制度等を見直すというご意見には賛同する。例えば、国税関係の不服申立てを調べてみたが、平成13年の統計で、異議申立てが5,071件起こって、そのうち一部取消しが624件、全部取消しが132件、両方合わせると750件ぐらいで、パーセンテージで15%ぐらい、3,294件が審査請求に進み、そのうち一部取消しが324件、全部取消しが135件、異議申立ての段階で132件の全部取消し、審査請求で135件、270、280件取消しという形になっている。同じ年で訴訟の数を見ると、約390件ぐらいである。自由選択にした場合、取り消された事件のうちどの程度が来るか分からないが、ダイレクトに来たとすると、かなり課税事件の数を押し上げることは事実だと思う。15%、15%ぐらいの2段のスクリーニングが意味がないと考えるのかどうかは人によって違うと思うが、絶対数から見ると、ある程度の働きはしていると見てもいいのだろう。全くそういうことをやっていないのではないかと思われる前置があるのか、そういうものについての見直しの方に重点を置いた方がいいのではないか。
○弁護士の感覚からすると、率直に言って、裁判所よりも不服審判所の方が救済の可能性が高いという認識がある。本当は3か月裁決が出なかったら直ぐに訴訟に移行できるが、裁判所に訴えて勝てるかといったら、これまでは裁判所では勝てないという認識があり、少なくとも不服審判所で最後まで頑張るということになっている。
国税の場合、前置でもいいではないかという議論は、例えば最初から明らかにやってもムダなケースはある。例えば、この間の、通達を変えたストックオプションが典型的なものである。これまでの通達を変えて、さらに課税し、それで訴訟が起きた。確かに国税通則法では、不服審判所が通達と違う判断は一応できることになっているが、国税不服審査会にかけて、かなりの手続を経てやるから、今変えたばかりの通達に反する裁決を出すはずがなく、審判所でやっているのは無駄な手続である。いきなり裁判所に持ち込んだ方が手っ取り早くていいというケースがあるから、選択性にしておくべきだというのは非常に実際上も理由がある。
□この問題は、立法政策は議論できるが、①のように、およそ定めることはできないということを法律上書いてどういうことになるのかはもう少しよく考えさせていただく。
○通達、法解釈の対立などについては、多分現行法でも正当な理由だということで直に救われるのではないか。また、どうしても不服前置が必要だという場合は、かなりの部分は裁決主義にしてしまった方がいいのではないか。社会保険や労働保険というのはそういうものではないかと思うが、税の場合は違うのかもしれない。とにかく、できるだけ刈り込んでほしいというのは前から言っているが、この検討会の問題ではないということで、①が出ている。①は確かに、何かおかしい。だから、どうするかといわれると困るが、不服審査前置が、本当にどういう趣旨で必要なのかを行政庁に聞いて、正直なところを言ってもらう必要はあるだろうと思う。
□この検討会は国民の権利利益の実効的な確保ですから、不服審査前置の制度が実効的な権利利益の救済の確保に役立っていないということがあれば、多少踏み込んでも、議論を重ねていただきたい。おそらく外国でも、いわゆる裁決手続というものが結構あり、アメリカはそれで成り立っているような国だから、アメリカ人にみんな自由選択にしろと言ったら、アメリカ人は引っくり返るかもしれないが、そういった点も考え、また、行政審判制度との関係も目配りをしておかなければいけないと思う。
- 【「行政訴訟の目的・行政の適法性を確保するための訴訟」について】
- ■本日の資料3で、論点を2つ掲げている。1の「行政訴訟の目的規定の新設」については、行政訴訟の目的を明確にする観点から、例えば行政による国民の権利利益の侵害の救済と行政の適法性の確保、この2つをいずれも目的とすることを明らかにする規定を設けるべきであるとの考え方があり、この考え方に対する指摘として、アとして、行政訴訟の目的は基本的に権利侵害の救済にあり、適法性の確保は行政訴訟の独自の目的ではなく、法に定められた権利の侵害を救済することを通じて適法性が確保されているとの指摘がある。イは、権利侵害の救済を目的とする行政訴訟と適法性の確保を目的とする行政訴訟、これは主観訴訟と客観訴訟という趣旨だと思うが、これを分けて考えるべきであるとの指摘である。
2「国の公金の支出の適法性を確保するための納税者訴訟の創設」では、国の公金の支出に対し、訴訟による行政の適法性の確保の機能を拡充する観点から、例えば公金の支出に違法があると思われるときに国民が会計検査院に対し公金検査の請求をして会計検査院の判断に不服があれば国民が訴訟で争うなど、国の公金の違法支出に関する納税者訴訟の制度を創設すべきであるとの考え方がある。この考え方に対しては、例えば、アで、会計検査院の憲法上の位置づけを検討する必要があるとのご指摘、イとして、会計検査院と裁判所の役割分担を検討する必要があるとの指摘がある。
○1の目的規定の新設で、特に障害がなければこういう規定を入れることは結構なことである。ア、イに、違う考え方が書いてあるが、権利救済と適法性の確保というのは、アやイのような形には尽きない。例えば、原告適格を判断する場合に、権利保護に加えて適法性統制の見地を入れて考えるとか、そういう形で適法性統制の考え方が働く場合もあるし、あるいは、行政計画に対する訴訟を考えると、権利救済的な訴訟もあるだろうし、適法性統制を強く指向するような訴訟もある。一つの訴訟で訴訟に参加する人によって、力点の置き方が異なってくるという場合もある。要するに権利救済と適法性確保とは、訴訟形式の問題に尽きることではなく、様々な局面で両者がかみ合っていると考えている。
○行政訴訟の目的の規定を置くべきであり、国民の権利利益の救済と行政の適法性の確保というのは2つの目的だと考えるべきだと思う。主観訴訟である現在の取消訴訟の訴訟物は行政処分の違法性であり、違法な行政が行われたときに、それが違法であるかどうかの判断をするのは、本来は司法の役割だと思う。違法性の是正を求める裁判を起こすのに、どういう人が適しているのかということが原告適格の問題である。原告適格をクリアーして、裁判所が本案に入ったら、あとはそれが違法かどうかを判断すればいい。権利利益の侵害の救済はその結果についてくる。これが行政訴訟本来の姿であろう。権利利益の救済だけではなく、行政の適法性の確保も独立の目的として掲げるべきであろうと思う。取消訴訟で、適法性の確保が目的だと言うと、主観訴訟の枠をはみ出るではないか、客観訴訟になるではないかという議論がある。これは必ずしもそれは客観訴訟と言う必要はなく、主観訴訟の枠で考えたらいいのではないか。
客観訴訟として考えられてきた住民訴訟などは、外国法の報告を聞くと、必ずしも純粋の客観訴訟と考える必要はなく、主観訴訟として考えられている国もある。取消訴訟でも本来的には主観訴訟であるが、客観訴訟的なものはあってもいいし、民衆訴訟についても本来客観訴訟として規定されているけれども、主観的なものは当然入ってきてもいい。その辺りは少し柔軟に考えたらいいのではないか。
○今の意見でよくわからないのは、権利利益の救済だけではなく適法性の確保を強調すべきであると言うと同時に、客観訴訟と言っても主観的なところがあるということも言い、2つが違うから強調しろというところと、いや両方共通している、ということを言っている。目的規定を置くことに反対ではないが、行政訴訟の主目的は権利利益の救済にあるので、そもそも行政に対する法の体系全体が国民の基本的人権その他の諸権利利益の適正な保護のためにあるわけで、それを離れて、抽象的な法があり、適法性の確保の必要があるということではないだろう。ただ、純粋な客観訴訟も政策的に必要かもしれないし、それは行政訴訟の体系の中に入ってくるかもしれないが、それが本体ではないので、何が本体かということを十分踏まえた上であれば、こういう書き方でもいいと思うが、いろいろな方がいろいろなことを言われるので心配である。
○今の意見に全く賛成である。目的規定を入れても入れなくても、ということで入れることにあえて異議を唱えないという点でニュアンスはほとんど同じだが、これをてこに違う解釈が出てくるということだけは懸念しているので、その議論を十分にやった上でならば異議を唱えない。
○結論としては、入れた方がいい。ただ書き方はさらっとしたものにならざるを得ないと思う。アの書き方に近いのかもしれないが、権利救済するときに反射的に違法が是正されるという側面は、元々主観訴訟として整理した以上は否めない点がある。しかし、権利侵害の救済のときに、訴訟物が違法性である以上は、そこは徹底的にきちんと審査できる体制ができていないといけないし、そういういわば対等性も確保できていないといけないという意味で、別に書く必要はないのだろうが、権利侵害されたときには常に適法性が確保されなければならないという意味において、両方が目的だという整理で考えている。
もっと重要なのは解釈指針ではないかと思う。行政訴訟法なり行政法規自体が、権利の包括的で実効的な保障や権利救済方式を明確にするという要請、あるいは当事者の実質的な対等性を確保するという、一種の原則のようなものを、目的に沿うような形で、そういうものとして解釈されなければならないというのが入るのであれば、それに越したことはないと思う。
□事実として、法律に目的規定を書くのは、やや日本法、東アジア法系統の考え方である。ドイツの行政裁判所法、情報公開法、行政手続法、あるいはアメリカの情報公開法等々を見ても、目的規定は書かない。では彼らは目的について議論しないかというと、散々議論して、詰めに詰めた上で議会を通すというやり方をしている。目的規定があるのが当然だというのは日本人の発想である。目的規定について解釈が分かれたときの問題がもう一つあり、解釈が固定されてしまう危険性を常に持っている。仮にアで書くとイが出てこないという問題があり、非常にコントラバシーな議論をしているときにどれか一つで目的規定を書いてしまうと、そこで解釈が固定される。最近都市計画法で目的規定を書きながら、最高裁判決の中では、目的の中には入っていないけれども、根拠条文で利益を探求するということもやっており、裁判所も目的規定があるために拘束されて解釈が少し幅が狭まっているところもあるので、外国の法令のことも含めてお話しした。ただ、目的は何かということは徹底的に議論すべきだ。それについて完全に議論の一致を見れば、目的規定を書くこともそれはそれとして結構である。日本では刑事訴訟法がやや訴訟法の中では独特で、第1条に理念的なことが書いてある。しかし、その他民訴法等々については目的規定はない。民訴法に目的規定がないから、民訴法の解釈はおかしいという議論はおそらくないだろう。そういう意味で、ここで出ている権利救済と適法性については十分議論していただきたい。
○行政訴訟では、処分の違法性だけではなく、権利利益の侵害をやっぱり言わないといけないということになると、民事訴訟とどう違うのか。民事訴訟はまさに権利利益の救済を求め、ストレートに権利を主張している。それ以外に行訴法を置いた意義はどこにあるのかという議論はあると思う。行政訴訟が処分の違法性を訴訟物として、その監視を裁判所にさせるという制度である以上は、権利利益の救済だけではなく、法律の目的として、適法性の確保は考えるべきである。今の制度を言っているわけではなく、新しい制度としてはそうあるべきだというのが自分の意見である。
□独立の目的という意味がよく分からないところがある。全然別にあって、民衆訴訟もまさに行政訴訟の目的かということになると、違和感を感じる方もおられると思う。1条にどう書くかということではなく、行政訴訟にどういう機能を持たせると考えるかを徹底的に議論したい。
各論として、2の「国の公金の支出の適法性を確保するための納税者訴訟の創設」に入っていただきたい。
○この辺りについて会計検査院からのヒアリングはあるのか。
□予定されている。
○納税者訴訟という言葉は、こういうふうに使うのか。
■一般的に教科書にはそういう表現がある。
○地方自治法もかつては納税者訴訟と言っていたのを、あえて制度改正して、趣旨も違うということで、住民訴訟になっている。ここはあえて、納税者ということを制度のコアに置いた制度設計を予定しているのか。
□そういうご主張と承って、こう書いたと思う。
○一般的にはいろいろな用語が使われている。納税者訴訟というのはタックスペイヤーズシュートの翻訳で使っているのではないかと思うが、大阪弁護士会の提案では公金検査訴訟というネーミングをしていた。納税者訴訟と言うと、納税をしていない人は訴えを起こせないような感じの反論があって、必ずしもネーミングが適当ではないという意見がある。国民訴訟、公金検査訴訟、あるいは国民訴訟(公金検査訴訟)とすべきか。
○納税者訴訟と言うと納税をしていない低所得者は関係ないのかという、妙な誤解を招きかねないと思うので、住民訴訟という言葉が定着していることからすると、国民訴訟と言う方がいいのかもしれない。
□今回はぼかして出した方がいいかと思う。制度設計についてはいろいろと理念があり得る。ここでは公金の支出ということで絞り込んでいるところがある。消費税も含め、税金を全く払っていない人はいないと思うので、自分の税金の使い方の問題だともいえる。そういう意味で、納税者として、国民の声を吸い上げているのかと思う。ここは言葉にあまりとらわれない。
○国民一般からの訴訟とか。
□国民一般からと言うと、外国人はどうなるのかということになる。
○国民訴訟とすると、そういう反論、意見が出てくる。
○国民訴訟というのはこの検討会として定着した言い方ではない。
○公金検査訴訟はどうか。
○その場合には公金だけに限定されるのか。国有財産は対象にしないのか。
○公金と言っても広い。
□あまり個別のところに突っかかって、議論を詰める必要はないと思う。
○納税者訴訟でいいかもしれない。
□そうする。
- 【今後の日程等について】
- ■資料4と5を用意しており、資料の4については、注に書いてあるように、行政訴訟制度の見直しについて行政訴訟検討会の検討状況を踏まえて広く意見等を募る際の資料とするために、第16回行政訴訟検討会において「行政訴訟制度の見直しについて検討の方向性が概ね一致していると思われる事項」として確認された事項と更に検討が必要な点を掲げるとともに、その他の主な検討事項について検討会で意見が出されている考え方と更に検討が必要な点ないし指摘されている問題点を掲げたものである。16頁の「取消訴訟の排他性又は出訴期間の限定、行政決定の違法確認訴訟の創設」について、前回の検討資料で、2と5のところに行政決定を確認する排他性のない訴訟の創設という論点と、排他性又は出訴期間を伴う処分を限定する考え方が分かれて記載されており、これでは論点が分かりにくい、排他性の問題と出訴期間の問題、そういった問題の論点をまとめて書いた方が分かりやすいのではないか、ということで、論点を明確にするためにそれを一体化した上で、選択肢を増やしてある。それから、18頁の(4)の「取消訴訟の排他性の拡大解釈の防止」という項目が、従来の「取消訴訟の排他性の縮減」という項目として書いてあったが、それでは趣旨が分かりにくいということで、排他性の拡大解釈がされることがないようにという趣旨を明確にするように改めている。それ以外のところは検討資料と同じである。
資料5の要領で行政官庁等からのヒアリングを実施したいと考えている。
ヒアリングの実施時期は、大変対象が多いこともあり、集中的に実施する観点から、7月24日を検討会の日として追加した上で、翌25日については午前10時から午後5時30分まで、検討会を開催したい。
参考事項として、行政等へのヒアリングに並行して、「行政訴訟検討会において検討されている主な検討事項」を踏まえ、行政訴訟制度の見直しに関して国民からの意見も募集することにしたい。
併せて7月4日の検討会については、前に委員からのご指摘もあった民事訴訟法の関係の方からお話を伺ってはいかがと思っており、民事訴訟法の山本和彦一橋大学教授からお話を伺ってはどうかと考えており、民事訴訟との関係において、検討すべき論点も多々あろうかと思う。それと、今日、原告適格の議論が抽象的なところで止まってしまったというところがあり、できれば今日ご指摘いただいた判例なども次回準備して、特に訴えの利益や民事訴訟とのバランスといった問題もあろうかと思うので、その点の検討も深めていただいてはどうかと思っている。
○昨日日弁連で説明に来ていただき、いろいろとご意見を申し上げ、昨日の夜から今朝の間にいろいろと手直しをしていただいて、大変ご苦労さまだと思う。体裁は多少整理されているが、基本的に資料4について疑問に思うのは、体系的な並べ方になっていない点である。なぜそうなっているかと言えば、目次を見たら分かるが、第1と第2の3まではいわゆる概ね一致した事項ということで整理されたもので、4以下はいわゆる第2トラックと称したものである。それを機械的にくっつけただけなので、例えば被告適格の見直しとか管轄の後に原告適格が出てきたり、出訴期間等の教示については1の(3)で出てくるけれども、後にもまた出訴期間は出てくる、5の(5)には「出訴期間の延長」が出てくる、という形でばらばらになっている。概ね一致している事項だけ並べて、それ以外の事項を後ろに回すというのも一つの整理かもしれないが、行政官庁ないし広く一般国民に意見を求める場合には、これでは非常に分かりにくいと思う。概ね一致している事項であるという注記をするのは構わないと思うので、体系的に並べて、これについては概ね一致している、これについてはそう書いていないから一致していないという形で、体系的なまとめをすべきでないか。これは明らかに第2の3までが第1トラック、4以下が前の言い方で言うと第2トラックというのが分かる形になっており、それがよくない。
第2の4以下でも、4と5以下ではニュアンスが違う。例えば3のところは「必要な制度の整備を図る」になっている。ところが、4の冒頭では、「範囲を拡大すべきであるとの考え方」と違えている。これは意見が一致していないからという趣旨なのだろうが、それは仕方がないとしても、この考え方については、「次のような更に検討が必要な問題がある」という書き方である。これは、導入を前提として、更にこういった点について検討をしていく必要があるということが書いてある。ところが、5以下は、同じく枠の中は考え方であるが、その後は、「この考え方については、例えば次のような指摘がされている」ということで、やや反対論が書いてある。そう見ると、これはまさに4が第2トラックで、5以下が第3トラックだということが、この書面で提示されたと受け取られても仕方がないのではないかと思う。体系的に並び替えて、きちっとした形にしないと、この書面というのは我々が2年間議論してきた現時点での、一種の成果だと思う。当初は第6回の検討会で、参考資料としてあらゆる論点を網羅した書類を作っていただいた。これはあの当時言われているものを全部網羅したものである。あのフリートーキング参考資料に基づいて、ずうっと議論してきた。その結果、現時点で我々としては論点整理として、こういうものを提示したい、国民の前に提示したい、あるいは行政に提示して意見を求めたいというふうに出す書面であるから、この体裁でははずかしいという気がする。だから、そこをもう一遍考えて直していただけないだろうかと思う。
5以下の書き方についても、一応、こういう考え方ということで枠囲いの中で提起して、その後に反対論を並べている。この反対論を詳細に検討していけば、必ずしもそうではないところもないわけではない。具体例をいうと、24頁の下の方のウの費用便益分析手法などは適切でないという記載がある。委員の発言では、適切でないとまでは言っておられないと思う。それを適切でないと言い切って、こういう形で載せるというのはいかがなものか。それから、枠で囲った提示に対する反論が書いているが、その反論の反論がない。これだけ見ると、いかにも問題があって、要は消極であるという、国民に対するメッセージを出しているような印象を与える。もう少し工夫をしていただき、反対意見に対する反論もまたあるわけだから、それも公平に載せて、意見を求める形にしていただかないと具合が悪いのではなかろうか。時間的な制約の中でどうするかという点があるが、そこは、他の委員の意見も聞いて、よく考えていただきたい。
○名宛人は、ヒアリング対象者、パブリック・コメントも両方だが、その両者によって違うかとも思うが、この書き方では、後の方は今の意見と同じような感じを持つ。こういう考え方が出されているけれども、こういう問題点がある、と終わってしまうと、これはやはり問題なんだなと。国民の方はまだいいが、行政庁の方は、意見を言わせるためにヒアリングをするのではないにしても、試験問題を出すのに模範答案を最初から書いているようなこういう反論は、向こうは喜んで、そのとおり、そのとおり、となるのではないか。ここまで書かなくとも、検討会として一部にこういう意見が出ている、それにはそうでない意見もある、というくらいでおさめた方がよかったとも思う。
■事務局で用意させていただいた趣旨は、行政庁からのヒアリングをし、国民一般に意見を募集するための資料の提供ということで、そのためには検討会のこれまでの議論の経過なり、議論の状況を反映させつつ、かつ、国民一般にとっても何が論点になっているかわかりやすい資料を作るべきだと考えて、作成させていただいたつもりである。個別事項についていえば、そうなっているかどうかというのはご意見があろうかと思うので、直せるところは直したいと思うし、個々の論点について、例えば、一つの考え方の提示とそれに対する反論という単純なものだけではいけないということであれば、必要に応じて補足的なことが必要な事項が仮にあるとすれば、今日の議論も参考にして再検討させていただくが、全体の構成については、いろいろとご意見はあると思うが、事務局としては、体系的というのは学者向けであればよくわかるが、行政庁なり一般国民のことを考えると、むしろ今までの議論の経過をある程度踏まえ、それで濃淡を付けたつもりは事務局としては全くないので、それがわかりつつ、体系的でなくとも、ある程度関連性があるものとして議論されてきた経過がわかるような並べ方の方がむしろわかりやすいと考えたということである。論点についてはある程度大括りにしなければいけないので、基本的な考え方と、それに対し考慮すべき事項を並べるというのは、ある程度やむを得ないのかと思うし、誤解がある点があるとすれば表現ぶりは工夫するが、大まかな構成はできれば尊重していただきたい。
○構成については、もともと議論した順番は論理的整序を追ってやってきているのだから、それをあえて変えるというのは、価値の軽重を付けられていると周りが見るのはやむを得ない。もちろん、全員一致したかどうかという事実の違いがあるのはそのとおりだが、それは、例えば、目次に印を付けるとか備考を付けるとかいろいろなやり方があると思う。論理的な整序関係でいえばもとのような体系を守っていただいて、本文の中では、あるいは目次の中では、それについて何らかの印が付いているというのならまだわかる。明らかに資料作成者の非常に主観的な害意が感じられる資料になっているというのが率直な印象であり、「次のような指摘がされている」として悪いことだけをひたすら針小棒大に並べているのが後ろの方、前の方については、あとここだけ詰めればもう一息だと、こういう資料を公表するべきではないということで、断固反対である。今のご指摘を聞いて、全く同感か、それ以上にひどい資料だ。この反論の列記については、少なくとも今日出た議論だけでもずいぶん違う意見があるということは明らかであるから、それはきっちりと、分量の多寡はともかく、全部盛り込んでいただきたい。国民に聞くというときにもミスリードがあり得、意見分布が違うということは事実だから結構だが、議論そのものを誘導するような資料の作り方は抜本的に改めていただくということが、公表する上で了解できる絶対の前提である。
■議論の仕方については、この検討会で委員の発意で行われた順番に従ってやってきたことがある程度わかった方がいいと考えて準備させていただいたので、論理的に戻す作業は不可能ではないが、そうすると、最初に用意した資料ということで昨年7月の時点に戻ってしまうことになる。その方がわかりやすいとあえていわれるのであれば、全体の意思なのでそのように作らさせていただくが、そうすると、たぶん、フリートーキング参考資料に沿った参考意見を単に並べるもので、それだと判断がしにくくなる点があるということをご留意いただきたい。並べ替えた意見のここがやや中立性に欠けるのではないか、趣旨が間違っているのではないかという点は指摘を受けて調整させていただくので、全体の構成としては、私どもが用意した配列の順番にはそれなりの意味があるということを一応斟酌していただきたい。
○全然書類を作らないわけにはいかないのであり、パブリック・コメントにかける必要はある。最初、話を聞いていて、論理的に並べた方がよいと思っていて、出訴期間の話が何か所かに分かれているのはまずいと思っていたが、これを見てみると、枠の中だけだが、何々するものとする、というように断定的に書いてあるところと、こうこうこういう考え方、と書いてあるところとがあり、分けるというのは一つの在り方だろう。つまり、概ね一致している事項とそうでない事項とを分けて書くというのは、一つの書き方だろうと思う。ただ、それは、その旨がわかるように、第1と第2の見出しの作り方を変えた方がいいのではないか。ア、イ、ウというのは確かにわかりにくいのはわかりにくいので、むしろ、パブリック・コメントにかけるときには、もう少しわかりやすい書き方ができないかと思う。
■具体的にはどういう方法か。
○枠の中にA案、B案、C案と書けないか。
○パブリック・コメントに関連するが、一般国民に広く、というときに、もしこのままこれを示した場合に、おそらく専門的にかなり理解している人でないと意見は言えないのではないか。今日の議論でなかなか発言ができなかったというのは、先ほども言われたように、原告適格の場合について、①、②、③とあって、これはどういう違いなのかというのが本当によくわからない。具体的な判例が示されて、これが①の場合だとこう変わるとか、②だとこう変わるというようなことが示していただければ分かりやすいということもあり、もし広く本当に一般の国民の意見を求めるというのであれば、もう少し、そういうようなことも含めた分かりやすい表現があったらいいと思う。
○このペーパー自体は、何について意見を言ってくれというのかがはっきりせず、現状はこんな議論だということをいってもむしろ分からないのではないかと思う。ただ、一方で、今、指摘があったように、国民に知らしめるときに、これだけで分かるのかということがあるから、むしろ、各行政官庁などに回答を求め、意見を求めたいことはこういうことだというように、あまりたくさんのものを付け加えないこの形のものを出しておいて、パブリック・コメントをかける部分には、そのほかその資料としてこの議論の過程に出たこういう資料があり、各項目について、この点については、第何回のここで議論した、あるいは、インターネットで出しているこういう資料に詳細がある、というような少し親切な解説を付けるというような手立てでもしたらよろしいのではないか。これ自体をあまり、さらに反論だとか、あの意見はもっと小さいものではないか、というようなことをいったら、これはなかなか収まらないことだろうと思うので、ここはテーマだというように考えたらよろしいのではないか。
○要するに、検討会として何を外に対してここで発信するのかということである。この枠の中をいいたいのだと、とにかく示すということが今回のやることの本体だと思う。後は、その枠の中についての説明なり、あるいは付属資料なり、こういう意見もあるけれども、検討会で既に議論していてこういう論点、問題点も出されているということであり、枠の意味がはっきりしていればいいのですが、必ずしもそうではないということで、構成は別にこだわらないし、このままでいいと思うが、せめて、枠の外の字をポイントを小さくするとか、注にするなど、メリハリを付けていただいたら、大分趣旨がはっきりするのではないか。もちろん、わかりにくいところは今日の議論を踏まえて補足していただきたい。
○後ろの方の賛否の両論だが、結果的に、枠で理由もあまり書かずに非常に簡単な命題で書いたものが並び、批判はずらっと並べてあるという、このバランス自体に問題がある。枠の中を支持する議論についても、こういう賛成の論拠があり得るとか、あるいは、いくら枠で囲っても、後ろの方で山のように反論が出ていたらフェアな提示にはならないから、そこを徹底的にきっちりやっていただくということであれば、構成自体は、順序を変えるということはそれほどこだわらない。
○自分は順序にこだわっている。概ね一致している事項と、そうでない事項というのをを書いていただくのは構わない。ただ、そのためにバラバラになっている。一般の人が見て、意見を書くのは非常にやりにくいと思う。ある程度きっちり体系的に並べておかないと、一般の人から見れば、あるいは行政庁から見れば、検討会の意見が概ね一致しているかどうかということは、はっきりいってあまり関係がない。自分はこれを言いたいということであり、我々だって、一応一致しているが、いろいろな意見を踏まえてもう一度修正することもあり得るし、聞かれる方の立場から考えると、自分たちはこれだけは決めた、それ以外はこうである、というような聞き方よりも、体系的にきちんと並べていく方がよいのではないか。
○問題意識を四角に囲っていただいたのは非常にいいが、行政庁にどこを聞くのか、全部細かい後の説明についてもいちいち回答を求めるのか、そうではなくて何を聞きたいのかというのが、もう一つはっきりしない。特に後段の方にいろいろな意見があるというのが羅列して出てくると、どれとどれの関係がどうなのかというのが、非常に頭の中で整理しにくい形になっている。こういう意見が出たことは事実だが、検討会で意見が出ている中で、次に何を明らかにしなければいけないというところまで出ていない。その段階で聞くというときに、聞かれる方にもわかりやすく、ここについて是非お答えをいただきたい、という点を明らかにするように工夫をしていただきたい。
□座長としての率直な感想を申し上げると、これは、ここまでの運営の成果物ではないというように考えている。今までこういう議論をしてきて、この段階でご意見を承りたい、というのがこの趣旨だと思うので、最初、フリートーキング参考資料で議論をしてきたが、その後どういうような議論の仕方をするかということで、第一段階では大体まとまったものと、それからまだ併行して詰めていくものというようにやってきたのは、これは事実である。我々としては、一生懸命やって、まとまるところはまとまってきた、まだ議論をどんどん詰めるところは詰める、という状況を率直にお示しするというのが、透明性の確保ではないか。ただし、それでは何のことだか分からないというご指摘は確かにあると思うので、書き方の問題として、どういうような議論をしてきたかを国民の皆様にはホームページできちんと書いて、今ではこういう段階である、ということを示すことになろうかと思う。構成の点については、我々が歩んできた道を率直に出すということでどうか、と思っている。バイアスについては、国民として見ると、ここはまだやっていないのか、それではここは手助けしたい、ということで発憤されることもあると思う。前の方は大体決まったのか、しかし、自分はこういう反対意見がある、後の方でまだなかなか問題があるのだとすると、では私もということで、ご意見をお出しいただく、ということもあろうかと思い、それが真ん中に散らばっていると、そこがかえってわかりにくくなるということもあるのではないか、ということで、体系としてはこのままでいかがか。
○それと、個別に書き方をどうするかとはセットで決めていただきたい。
□第二段目の点についは、まず第一に、行政庁のヒアリングとして作った資料ということであり、これと、国民一般に対してこのままの形でお出しするのはいかがなものかというご意見は、十分に参考にしなければいけないと思う。行政庁に対してヒアリングをするときの資料としてどうかという点については、これで行政庁に手助けをしたということにはならず、きちんとした勉強をした行政庁であれば、これを材料にしていろいろ考えると思う。それから、問いかけについては、行政庁であれば、四角で括った問いかけについて何が自分に聞かれているのかということが分からないような行政庁はないと思う。この程度の書き方で、問いかけとしてはこれで一応成り立っていると思う。もちろん、全部について行政庁が答えてくるということにはならないし、関心のあるところをねらい打ちしてやってくることもあり、全部にベタで答えろといっても、これはなかなか無理な話だと思う。問いかけの中の点は、それぞれのご意見でご不満のあることをいじくり出すと大変なことになる。指摘があり、それに反論があると、その反論もまたあり、どこまでの反論をこの段階でお示しすべきかということがある。そこで、国民に対するバージョンについては、もう少し何日間か余裕をいただいて、ご意見を承りながら作っていったらどうか、というのが、もう一つの私の提案である。問題は、行政庁に対してこのままでいいかどうかという点については、ここは譲れないと、いう点について、どういうように取り運んだらいいかということがあり、これは、事務局の時間に追われた作業ということになり、事務局の方で、今日のご意見を承った上で、一遍作業をしなければならず、来週早々までにできてそれを皆様方にまたお目にかけなければいけないという問題もある。そうすると、勝手に直された他の人が反論して、もう一遍会議をやらなければいけないかというような、技術的な問題があるので、一つの便法としては、できるだけはやく、ここは譲れないのでこうしてくれ、というのをいただき、早急のうちに行政庁に対するヒアリングのペーパーをまとめたい。国民に対するバージョンについては、もう少し時間をとり、委員の皆様方の個別の意見も聴取しながらまとめていったらどうか。
○順番についてはですね、もうあまりいわない。ただし、ここで、第2の1から3までが第1トラックで、4が第2トラックで、5から9までが第3トラックであるというような前提で作られているものではないということを、まず確認しておいていただきたい。
□第1トラック、第2トラックというのは、自分がたぶん司会のときにいった言葉だと思う。審議の順序として、一応意見の統一されたものは統一されたもの、しかし、それについてだけ議論していたのでは、せっかくの他の論点が落ちてしまうではないか、だから併行して第2トラックを走らせましょうということを言ったわけで、第2トラックだから疎かにしようなどということは、一切言っていない。
○座長がどう言ったかではなく、これを、第三者、つまり国民が見たときに、あるいは行政が見たときに、第2の1から3まではやる、4は大体やる、5以下は出すけれどもやらない、というようにとられる恐れがあると申し上げている。だから、そういうことではないということはまず確認してもらいたい。それから、もう一つは、5以下の点について、これをとりあえず行政に出すという文書であれば、ア、イ、ウと書いてある反論は、出さなくとも行政はいろいろといってくると思う。そういう意味からすると、このア、イ、ウというのを全部カットして出すのが一番いいのではないか。
○本来ならば条文の案のような形になったもので、その時に載っているものはある程度までここまで進んでいる、載っていないものはそこまでいっていないのだと分かるが、今回の場合、そこまでいかなかったから、みんな、この状態で、とにかく出てるものは皆出そうというのだから、ぜひこの程度の指摘があるということは残していただきたい。もしこれを全部カットされ、自分の言っているところは他の意見を聞いてもらえないのということになったら、非常に寂しい結果になるので、全部カットということはいわないでいただきたい。
○質問だが、先ほどの座長の整理ではと、行政庁向けの資料と国民向けのは別にするというご提案か。
□内容的には一致していないとおかしいし、体系的にも一致していないとおかしいが、国民にこれだけで本当に分かっていただけるか、あるいは国民に対してここまでいちいち書いて、かえってわかりにくくなっているのではないかということは、思い切って取った方がいいということがある。例えば、3頁の終わりの方の第11条関係の問題などとして、事務局が一生懸命勉強したところが出ているが、ここまでいちいち国民にお知らせしてご意見を承る必要もないし、むしろ、行政庁に対してもここまでやらなくてもいいではないかという趣旨で申し上げている。それから、行政庁ならば当然分かる事柄について、例えば、国民の皆様には、わかりやすいような表現と注を付ける、あるいは、この辺の点についてはホームページのここをご覧くださいというようないろいろなやり方もあろうかと思う。それは工夫させていただく。
○それは、行政向けのは公表しないということか。
■ヒアリングの資料になるから、どういう資料になったかというのは次回検討会の資料にして、公表したい。
○そうすると、議論は振り出しに戻る。要するに、行政庁向けといっても、行政庁と密室で何か議論するということではなくて、議論自体がオープンだということは、もう既に作った時点で国民に対して一種説明責任を負う資料ができあがったということを意味するから、もちろん補足資料として国民向けにわかりやすいものを作るというのは、それはそれで意味があると思うが、行政庁向けだからといって、それを国民が誰でもアクセスできる形で自動的に公表されてしまうことになる資料であれば、先程来ご指摘申し上げているような、少なくとも内容上の配慮はした上でないと、やはりまずいと思う。内容上の配慮としては、詰めた方がいいと思う。再反論、再々反論はエンドレスだという点はあるが、自ずとある程度論点は絞られているから、出す以上はきっちりと検討会内部で合意した形で、異論については、少なくとも、こういう大きい論点があるという事実は知らせるのが検討会の責務だと思う。そういう意味では、あまり拙速にせずに、せっかく行政庁にも国民にも聞くというのであれば、今日の資料は資料でこれ自体が公開されているから、行政庁にまだ暫定版というような形で配り、例えば、1週間とか10日とかの間に、本日具体的に議論があったようなものについては、できるだけ事務局で作業していただいて、それを確認する作業と同時に、この点についてはもうちょっとこう整理した方がいいのではないかとか、こういう反論があり得るというものについては、メールなりで、来週前半とか期限を切っていただいて、委員からの意見として集約していただき、それをある程度すりあわせた上で、本来のホームページに載せる、あるいは行政庁に正式に聞く書類にするという手続をやっておいた方が、後々の議論もスムーズに行くのではないかと思う。期日を入れる必要はなく、メール等のやりとりでまとまれば、それで十分だと思います。
□ある程度、事務局と私にお任せいただけるか。
○それは、最後一人一人に確認を取る必要がある。意見が分かれたら、分かれた意見をそのまま載せていただければよく、集約する必要はないと思う。
□ここを削れという意見と、ここは残すべきだという意見が出たらどうするのか。
○自分の意見でない意見を削れということはできない。少なくとも、これにはこういう意見があり得るというものについては、できるだけ集約した方がいい。今から意見を補充するというよりも、少なくとも、今日出たような意見は盛り込むということである。
□多少の時間をいただけるということだが、自分の方で今日こういう意見を言ったのだから、ここはだしてくれ、という形で、まずご提言をいただき、そして、それについて自分が事務局と見て、入れられない場合にはもう一度お返事を申し上げる、入れる場合にはそのままですます、というのはどうか。
○我々はしゃべりながら自分の発言をメモを取れる環境にないから、今日の発言のポイントは事務局でまずご呈示いただくのが筋である。
○行政庁向けの暫定案はこれでいいのか。
□とりあえずである。
○行政庁向けにせよホームページ向けにせよですね、そういう前提で見るのであれば、いろいろ見方があり、そんなに拙速に決める必然性はないと思う。
□行政庁にはまず暫定版を配って、最終的なバージョンについては、少し時間をいただけるならば、事務局の方で、これはというのをまず書いてお目にかけるということはあり得る。
○時間も限られているから、これは絶対だというものがあれば、一定の短い期間切っていただいて、一応集約していただく。
○今回のもので完璧な集約をするということではなく、中間での資料を広く一般に提供するということだから、一定の期間を区切って、事務局としては、今日の議論でここが間違っているということがもしあれば、そこは直していただいて、それとともに、事務局任せではなく、どうしても直したいということを早急にメールしていただいて、後は座長にお任せすることでいいのではないかと思う。
□国民向けのバージョンも委員の皆様方それぞれに、お示ししながら、ということになると思う。
○原告適格の拡大のところは、少し、判例など工夫して、改善したいという話があったが、それは、各省庁向けのものにはどういうふうに反映させるのか。
■基本的に、場合によって補足が必要であれば、補足するような資料を作って、この項目の議論については第何回の検討会のこの部分とか、どこの資料のこの辺にあるというような、そういう補足を付けることも考えている。国民向けの資料にこれに似たようなものを作った上で、若干の説明資料として、この論点については第何回のこの検討会でこういう議論がされているというところをご紹介するような補足を作ると、なにしろ、これまでの検討会でかなりの資料が出ておりますし、かなりの議論も出ておりますので、それを、どこにあるのかというぐらいは明らかにした方がよろしいかと思っている。
○そういう点だけでなく、例えば、原告適格についての書きぶりの中で、もう少し、この課題については、具体的な判例の論点が出ているではないか、そこを補った形にした方がわかりやすいと思われるという話になった。そうすると、原告適格については、そういうようなものについても、省庁に聞くときに、聞かれた方が、返事も、そこまで考えた上でのご意見を求められたのかな、となると思う。
○次回4日に、原告適格問題についての追加資料が出れば、その資料はすぐに公表されるし、24日まで時間があるから、追加資料を送っていただけばよい。
○基本的には、今整理されたような方向で結構だと思うが、意見の集約の仕方については、資料の作成は事務局の専権事項であって委員の意見を盛り込むわけではない、というような経緯があったように記憶してますので、今回はそういうことはなさらないでいただきたい。最終的には、十分意見を聴取していただいて、事務局の方で各委員と十分なすりあわせ、調整を、誠実にやっていただくという前提で、その後の資料については、差し当たり時間がないのであれば、やむを得ずお任せするということはあり得ると思う。
○24日、25日は、非常に時間が限られているので、委員は皆いろいろ聞きたいことがあると思うが、事前に各省庁からペーパーが来るということであれば、それを事務局で整理し、メリハリを効かせて、各省庁に、聞くべきことを絞った方がいいのではないかと思う。できれば、事務局でペーパーを整理していただいて、座長がまずはポイントになる質問をするとか、そういうことをしていただいた方がいいのではないか。
□ご提案として承る。それから、普通、審議会、あるいは検討会等でヒアリングをするときには、必ずしも常時定足数を満たしていなければならないというものではないので、多少の出入りということはあり得べしということで、ご参加いただきたい。その代わり記録はきちんととってご覧に入れる。さはさりながら、できるだけご参加をいただきたい。
- 7 次回の日程について
- 7月4日(金)13:30〜17:30