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行政訴訟検討会(第19回)議事概要

(司法制度改革推進本部事務局)
※速報のため、事後修正の可能性あり



1 日時
平成15年7月4日(金) 13:30〜17:30

2 場所
司法制度改革推進本部事務局第2会議室

3 出席者
(委 員) 塩野宏座長、市村陽典、小早川光郎、芝池義一、芝原靖典、成川秀明、萩原清子、福井秀夫、福井良次、水野武夫、深山卓也(敬称略)
(説明者) 山本和彦(一橋大学大学院法学研究科教授)
(事務局) 山崎潮事務局長、松川忠晴事務局次長、古口章事務局次長、小林久起参事官、村田斉志企画官

4 議題
  1. 山本和彦一橋大学教授からのヒアリング
  2. 論点についての検討
  3. 今後の日程等

5 配布資料
資料1 行政訴訟検討会における主な検討事項
資料2 民事訴訟法学から見た行政訴訟制度の改革(山本教授説明資料)
資料3−1 原告適格の検討の視点
資料3−2 原告適格の参考判例
資料4 裁量の審査に関する最高裁判所の裁判例 
資料5 行政訴訟検討会開催予定(第22回以降)

6 議事

(1)山本教授からの説明

○自分は、民事訴訟法の研究者であり、行政法については全くの素人。したがって、本日の報告は、三権分立、行政庁の第一次判断権といったような、行政法特有の論理については、基本的にそのような視点は捨象している。つまり純粋に民事訴訟的な観点から見ると、ここでの行政訴訟制度の改革の議論がどのように見え、またどのように整理されるのかということを検討したものにとどまる。そういう意味で議論の射程が限定されているということに留意いただきたい。

○また、私自身は民事訴訟法学者を代表できる立場にはない。承知している限りでは、行政訴訟に関するいろいろな問題について、民事訴訟法の側からアプローチするという研究は必ずしも多くなかったのではないかと思う。したがって、これらの問題について民事訴訟理論一般の水準を語るということは困難である。私自身の勉強も不十分ということで、ここでの話は一人の民事訴訟学者の感想という程度にとどまることをお許しいただきたい。

○本報告の扱う範囲は、今話した事情から、必ずしも「行政訴訟検討会における主な検討事項」の全ての事項に対応はしていない。主として訴訟類型の話を中心とし、原告適格や提訴期間の制限、あるいは請求の特定といったような問題について、簡単に触れるにとどまっている。これらは民事訴訟理論の観点から、最も興味深いという私自身の感心によっている。そういう意味で、議論の対象の選定もやや恣意的なものになっていることもお許しいただきたい。

○その他の問題点についても、もし質問があればできる限りその質問にはお答えしたい。

○まず2「給付訴訟(義務づけ訴訟・差止訴訟)について」という題目で、いわゆる義務づけ訴訟、差止訴訟、あるいは予防的不作為請求訴訟の問題についてだが、この問題の民事訴訟から見た大前提的な議論としては、基本的な制度の構成の選択として、2つの可能性があるのではないか。すなわち請求権に基づく構成と独自の訴訟類型を構成するという考え方だ。

○請求権構成というのは、行政によって国民に対して権利侵害が発生した場合に、その権利侵害に基づいて国民の行政に対する実体法上の請求権を観念するという考え方で、この考え方によれば、さまざまな問題は基本的にすべて請求権の内容の問題になる。訴えの利益、原告適格といういわゆる訴訟要件の問題は基本的には発生せず、ほとんどすべて請求権の内容、つまり本案の問題の中に吸収されることになる。

○この問題について、緊急性、あるいは補充性といったような要件がこのような問題については言われていると理解しているが、それらも請求権の内容の問題になると思う。

○このような発想は、民事訴訟、民事の思考方法においては極めて一般的な考え方であり、そのような考え方に基づいて、この義務づけ訴訟や差止訴訟が構成されるとすれば、それは給付訴訟として構成されるということが前提になると思う。

○他方、これらの訴訟を独自の訴訟類型として構成するということは、つまり義務づけ訴訟や差止訴訟を取消訴訟などとパラレルに、独自の訴訟類型として構成する考え方ということになる。この場合の訴訟類型の分類は、民事訴訟の通常の考え方で言えば、恐らく形成訴訟であり、少なくとも形成訴訟を基本にするという考え方になるだろうと思う。

○取消訴訟などについては、民訴の学説ではこれを形成訴訟とは捉えずに、別個の、独自の訴訟類型、救済訴訟、あるいは命令訴訟などという独自の訴訟類型として捉える考え方もあるが、それは必ずしも民訴では一般的な考え方にはなっていない。したがって、形成訴訟、つまり本来的に行政に義務がないところに一定の義務を形成的に創設するという作用を本質とする訴訟ということになろうと思う。

○勿論そういう義務づけ、義務を創設すると同時に、それに加えて意思表示やあるいは給付命令もそこに請求の趣旨として含まれるということはあり得る。そういう場合、形成訴訟と給付訴訟が合体したような形の訴訟ということになるという理解はあり得るだろうと思う。いずれにしてもこの考えによれば、形成訴訟を基本として考えていくということになれば、緊急性、補充性といった要件は訴訟要件として基本的には書き尽くしていく必要があると思われる。

○このような考え方、あるいは基本的な構成が2つあるとして、いずれの考え方を取るべきかは民事訴訟法の見方から一義的に出てくるものではない。ただ私自身の基本的な考え方は、そこに法的保護に値するような権利、あるいは利益がある場合には、基本的には国家にはそれを保護する義務が観念されるのではないかと考えている。

○請求権、あるいは訴訟類型の構成がその保護に十分でないとすれば、一時的には立法府がそれを整備する義務があり、また、立法府の整備が十分でない場合には司法府が積極的に救済方法を構成していく必要があるという考え方をとっている。これは民事訴訟の目的を何と捉えるかということとも関わる問題であるが、竹下教授などが主唱するこのような考え方は、民事訴訟法学では新権利保護説などと言われることがあるが、このような考え方が妥当ではないかと思っている。それを行政訴訟の場面に適用するのであれば、原則的な考え方としては、請求権を定立することによって、個々の実質権ないし法的利益と対応した、網羅的な救済のスキームを形成することが、本来的には望ましいのではないか、そしてそれが憲法32条の裁判を受ける権利の趣旨にも適合するのではないか。

○しかし、これはあくまでも理論的な話であり、具体的な制度法制の観点、具体的な立法という点から見ると、果たしてこのような請求権というものが行政実体法上現在、十分に定立されていると考えていいのかどうか、あるいはそもそも定立可能であるというふうに考えてよいのかどうかという問題がある。この点は、行政法固有の問題として私の議論の射程外ではあるが、民事法の世界においても請求権の構成というのは、個別のいわゆるアクチオ、個別の訴訟類型がローマ法以来拡大、統合していく長い歴史を経て、最終的に到達した到達点であり、それが必ずしも現時点において十分でないとするとすれば、この請求権構成を前提として制度を構成するということは、実際上相当の混乱をもたらす恐れがあるということは否定できないのではないか。

○「義務づけ訴訟」について私が言えることは余りないが、義務づけ訴訟というのは、私の理解するところでは、行政庁の行為がされていない場面で一定の行為をすることを求める訴えということになると思う。

○義務づけ訴訟が例外的な訴訟類型であると、少なくとも一定の付随的な要件を必要とするような訴訟類型であるというふうに理解するとすれば、それは原則としてはむしろ行政庁に一回行為機会を与えて初めて請求権ないし訴権が発生するという前提を取るということだと思う。

○例外的に、行政庁に対する行為機会を与えないで、直ちに請求を訴求できる要件として、一定の例外的な要件、緊急性、補充性を求めることになるだろうと思うが、民事の世界においては、請求権が存在し、それに対する違反があれば当然に訴求できることが大前提になっており、そういう意味ではこのような考え方は、民事の世界においてはあまり同様の類例はないようにも思う。そのような考え方を取るのであれば、そこには行政の第一次的判断権の尊重等の行政法固有の何がしかのものがあるということなのだろうか。

○「差止訴訟」について。これは行政庁の行為がされていない場面でその行為をしないことを求める訴えとなると思う。この差止めについては、民事の世界でも差止請求権については、一定の議論があり、その差止請求権については一定の限定的な要件、例えば保護対象利益の重要性とか、侵害の恐れの現実性など、それを限定する一定の要件が議論されている。

○そのような限定の根拠として一般に言われるところは、差し止めというのは、私人の行為の自由を事前に奪うことを意味し、それに対しては一定の限定が加えられる、なぜなら民事の世界においては私人がまず自由に基本的な行為をして、その後にその行為の当否を争うというのが自由主義の原理からして原則になると思われるからである。そのような原理が、行政が相手の場合にもなお妥当するかどうかというのが1つの問題だろうと思う。ただ、民事の世界でも、例えば名誉棄損に基づく出版の差止請求については、出版の公益性というものを考慮して、その差止めの要件として違法の明白性、及び著しく回復困難な重大な損害を要件として求める判例がある。これは北方ジャーナル事件についての最高裁判所大法廷判決であるが、そのような判断があるし、また生活妨害に基づく差止めについても、いわゆる受忍限度論という議論の中で、侵害者の行為の公共性や社会的な有益性を考慮するのが最近の民法学説、あるいは下級審裁判例の動向なのだと思う。

○そのような意味で、行政の行為が典型的な公益実現の行為、少なくともそれを目的とする行為であるとすれば、その行政の行為を差し止めるについては、緊急性とか補充性といったような形で議論されている一定の要件をかける方がむしろ民事の議論と整合的であるとも理解される。

○いずれにしても、もし何らかの要件をかけるとすれば、それは明文で規定する必要があると思う。訴訟類型的な構成、つまり形成訴訟として構成する場合には、その訴訟要件という形で規定する必要があるだろうと思うし、仮に請求権構成を前提にするにしても、通常は給付訴訟については訴えの利益ということは問題にならないので、緊急性や補充性等の要件を通常の民訴の世界での訴えの利益に委ねるということは基本的にはできないのだろう。商法272 条が、緊急性と言われるような要件を、請求権根拠規定の中で書き切っているように、恐らく請求権構成を前提にすれば、請求権の根拠の規定の中でそのような要件を定める必要があるのではないかと考えている。

○「抽象的作為・不作為請求」について。これは問題意識としては行政庁に一定の裁量の余地が認められている場合に、その裁量を前提とした形で、抽象的な形で作為請求、義務づけの請求、あるいは不作為の請求、差止めの請求といったようなことができるかという問題意識である。

○したがって、ここでは一義性の要件がなくても、義務づけ、差止めが一定の範囲で認められるということを一応の考察の前提としている。

○行政に裁量が認められる場合も、幾つかあるのだろうと思うが、自分が分類したところでは、第1に要件の認定それ自体について行政の裁量がある場合、このような場合には認定それ自体について行政庁は裁量を持っているから、裁判所がそれを飛び越えていきなり要件の有無について認定するということは、制度上できないということになるのではないか、そうすると義務づけはできないということになるのではなかろうか。

○第2に、効果の判断について行政庁に裁量が認められているが、その裁量について一定の幅が定められているという場合、つまり取り得る効果の種類や程度について、一定の制限があるという場合には、裁判所がその制限の範囲内で義務づけ、あるいは差止めを命令するという可能性はあり得ると思う。

○このような問題については、民事の世界においても、騒音防止等についての抽象的差止請求という問題として議論がされている。例えば騒音被害があるという場合に、その騒音を差し止める、防止を求める方法として、いろんな方法が考えられる。例えば、工場が騒音を出している場合には、その工場の操業をやめてしまうということも考えられるし、何らかの防音装置を工場に施すということも考えられるし、その騒音が入ってくる家に防音装置を施すということも考えられる。いろいろな方法が考えられる場合に、そのどれかということを原告が特定せずに、少なくとも自分の家に何ホーン以上の騒音を入らせるなというような請求を求める。あとは被告側でどういう手段を取るかを考えさせるというような請求方法が認められている。

○これについては、最高裁判所の判例もそのような方法でも請求の特定というものは認められると述べており、こういったことと類似している問題だ。つまり一定のそういう効果の幅がある場合に、その個々の効果を特定せずに、最終的にどのような事態がその行政の行為によって、作為・不作為によって実現されるかという部分だけを特定して請求するということはあり得るのではなかろうかと、民事的な考え方からは思う。

○他方、ある行為をするかどうかということ自体についても行政庁に裁量が認められているという場合は、一定の場合には行政庁が行為をする要件が満たされていることだけを確認し、あとは行政庁が適切な裁量に基づいて処分すべき旨を命じる判決というのも、論理的には考えられるが、果たして適切に裁量して処分をしなさいというような義務づけ命令を出すことが、実際上どの程度の意味があるのかは、やや疑問のようにも思う。こういう場合には、あまり義務づけ、差止めの意味は少なくなるだろうという感じがする。

○2(5)「強制執行の方法」について制度を整備するには、2つの基本的な考え方があり得るのではないか。

○1つは、行政は基本的には司法が判断を下せば、それを尊重するはずであるという前提に基づいて制度をつくるということであある。これによれば、基本的には強制執行の方法は考えなくても、全面的に拘束力に委ねることで足りるということになるだろうと思う。

○現在の制度においても、理論的には司法が取消判決を下した後に、全く同じ理由で、全く同じ処分を行政庁がするという恐れはある。行政庁がそのような処分をした場合には、再び取消判決でそれが取り消されるということになると思うが、行政庁はそれを更に無視することもあり得、これが続けば司法判断は実効性を失われるということになるだろう。しかし、現行法はそれに対する特別の対処は取っていないように見える。そこにはやはり拘束力によって、行政が司法の判断を尊重するという前提があるのではなかろうか。そうだとすれば、義務づけや差止めでも同じ判断をする可能性はあるのではないかとも思われる。

○他方、そのような前提を取らずに、行政は司法の判断に従わない場合があるという前提で制度を組み立てるとすれば、何らかの強制手段が必要になると考える余地があろうかと思われる。強制執行の民事的な観点からすると、強制執行の方法としては、義務づけの場合には行政の意思表示、つまり一定の処分をするという意思表示が執行の対象になるとすれば、民事執行法の基本的な考え方は、意思表示を命ずる判決が確定した場合には、その確定とともに意思表示がなされたものとみなすという、意思表示の擬制の方法ということになる。

○このような司法の判断によって、行政の意思表示が擬制されるというのは、素人目から見ても三権分立の観点からすると、相当の問題をもっていそうにも見える。これは素人の感想なので、よくわからないが、仮にそれがやはり難しいということであれば、強制執行の方法は間接強制という方法が考えられるのであろう。意思表示の擬制の強制執行は、意思表示義務というのは、いわゆる非代替的作為義務、つまりだれかがその人の代わりにすることができない作為の義務だから、本来的な執行方法は間接強制という方法になる。強制金を支払わせて、それによって間接的にその行為の実現を強制するという方法だが、意思表示の擬制は、それがされれば当然に効果が発生するということなので、あえて間接強制で本当に意思表示をさせるだけの必然性はないということで、それを簡易化したものと民訴的には説明されており、意思表示の擬制がダメであるとすれば、原則に戻って間接強制による執行ということになるのかと思う。差止請求についても同じである。

○ただ、行政に対する間接強制が果たして実効性を持つのか、あるいはそもそも相当なものかについては、我々の目から見てもやや疑問がある。行政というのは、いわゆる究極のディープポケットで、税金という無尽蔵に近い資源を持っており、強制金を裁判所に命じられても、理論的には無制限にそれを払い続けるということは考えられないことではない。いずれにしても、その最終的な負担者は納税者になると思うが、結局は政治責任の問題として行政の責任者が責任を問われることになると思う。しかし拘束力という考え方を取っても、最後は政治責任の問題になるのは同じことだろう。金銭的な損害が明確になることによって、政治責任が問いやすくなるということはあるいはあるのかもしないが、他方では納税者に生じる損害という問題も考えていく必要があり、間接強制による執行が、フランスなどではこういう制度が実際に取られているが、それが相当かどうかは相当の議論を要するようにも思う。

○次に3の「確認訴訟について」で、第1に「確認の対象」だが、民事訴訟では、原則として過去の法律関係の確認は許されず、現在の法律関係の確認を求めるべきであるというのが大原則である。一般には、現在の法律関係の確認の方が紛争解決に直接的だからである。例えば、契約の無効確認は、原則としては認められない。むしろ契約に基づく債務の存在確認等によるべきで、その方が定型的に紛争解決の実効性が高いというのが民訴の原則的な考え方である。ただし、例外的に過去の法律関係が現在の法律関係の基礎にあり、それを確定する方が現に存する紛争の直接かつ抜本的な解決のために適切かつ必要であると認められる場合には、例外的に確認の利益が容認される。例えば、これは判例も認めるところだが、遺言無効確認の訴訟、法人の決議無効確認といったような、過去の法律関係についての確認を認めるている判例は多くある。学説も一致してそれを支持している。したがって、例えば、行政立法などについては、その無効確認を求める方が、それから由来する現在の多数の法律関係の個別確認を求めるよりも抜本的な紛争解決を可能にするという場合があるとすれば、そのような場合については、民訴的な観点からは、行政立法の無効確認について確認の利益を認めることに違和感はないのではないかと思う。

○次に(2)「狭義の確認の利益(即時確定の利益)」は、確認の利益の本質というか、最も中心的な、中核的な部分であり、現在は原告の地位に対する危険・不安の存在と、この危険・不安の現実性に分けて論じるのが一般的である。

○まず、危険・不安の存在という点は、確認請求をすることによって、原告が得られる実益があるのかどうかが問題になるということである。ただ、この実益については、事実上の利益ないし期待でも足りるというのが最近の学説の一般的な理解であり、問題はそのような利益の蓋然性がどの程度あるかであるとされている。そういう意味では事実認定の問題と理解されている。

○ここでの問題としては、例えば行政指導があって、その行政指導が当然には法律上の効力を持たないというような場合で、しかし、原告に事実上の不利益を与える蓋然性があるという場合には、そのような蓋然性が認定できれば民訴的にはその行政指導を争う利益というものが認められる余地があるのではないかと思う。そのような不利益が認定できない場合には、民訴的には確認の利益はないと言わざるを得ない。行政の世界においては、行政の適法性統制機能という観点から特に訴えを認めるというような問題はあるのかと思うが、民訴的にはやはり確認の利益を認めることは難しい。その争い方としては、原告の不利益が現在の特定的な法律関係に換言できるような場合には、その法律関係の確認を求めるのが民訴の原則だが、行政指導の効力自体を対象とした方が、抜本的な紛争解決が可能となるような場合、例えば行政指導による不利益が非常に拡散したものであるような場合には、行政指導それ自体の無効確認を直接請求できる余地も、先ほどの判例、学説の理解からはあり得るのだろうと思う。

○(b)「危険・不安の現在性」だが、一般的な議論においては、将来の法的地位については確認の利益は否定されるのが原則である。その理由は、1つはそういう場合には紛争が現実化したときに提訴すれば原告の権利保護に十分であり、将来の問題について今の段階で訴えを提起させる必要はないということである。第2に、事件が予想していたのとは別の展開をすることによって、せっかく確認判決をしたのに、その判決がむだになる恐れがあるではないかということも指摘される。しかし、現在においては、このような理解、理由は、絶対的なものではないと理解されている。まず、学説においては、確認訴訟の予防的機能を重視する方向が一般的であり、紛争予防による行動の自由の確保が特に自由競争を重視する社会においては重要な意義を持っていると言われている。東京大学の高橋教授が挙げられておる例だが、ある製法で生産工場の建設を計画している会社が、別の会社からその製法は自社の特許権を侵害していると主張された場合に、その工場に対して巨額の投資をする必要があり、その投資を安全なものとするために、工場を建設する前に特許権侵害不存在確認の訴えを提起する利益があると言われている。これはまさに確認訴訟の予防的な行動ルールを定める機能を重視する見解である。

○最近の最高裁判所の判例にも、そのような方向を伺わせるものが存在する。一例として、賃貸借契約継続中の敷金債権存在確認の訴えがある。敷金というのは、家屋を明け渡す時点で初めて発生する請求権であり、その時点で家屋が汚損等していれば、確認訴訟をした時点では返還請求権が認められていたとしても、実際には敷金はなかったという場合もある。あるいは、その敷金の額が事後的に争いになって、再び訴訟を提起しなければならない恐れがある。そのような場合であっても、この判決は確認の利益を肯定した。この判決自体は、その理論構成の基本としてあくまでも敷金返還請求権が停止条件付きの権利であるという意味で、現在の法律関係であるということを前提としてはいるが、その実質的な理由としては、その確認をすることによって当事者の事後の行動ルールを形成し、将来の権利関係にあらかじめ予測を付けられるというメリットが挙げられており、仮に再訴の可能性があるとしても、それを上回る実質的な利益が認められるときには、確認の利益があるとされているわけである。

○ただ、このような学説の動向に呼応するように見える判例がある一方、むしろ学説的に見れば確認の利益が認められそうに見える場合でも、確認の利益を否定した例がある。同じ平成11年に出た事件として、老人痴呆、アルツハイマー病に陥った者のした遺言について、その者が生存中に遺言無効確認訴訟が提起できるかという問題で、この判決は仮に遺言者が回復不能であって、将来遺言を取り消すような事実上の可能性が認められないとしても、やはりこれは将来の権利関係であって、それについては確認の利益がないとしている。その意味で、判例の動向は必ずしも確定的なものとは言えないように思われる。

○しかし、いずれにしても、行政訴訟に関する確認の利益に関する、事後的に義務の存否を争ったのでは回復し難い重大な損害を被る恐れがあるかどうかという判例の基準は、民訴における最近の学説や判例の動向からすると、やや狭過ぎるのではないかという印象が否めない。

○次に、4「取消訴訟について」、まず、原告適格については、民訴の通説的な理解は、訴訟物である権利関係について管理処分権を有する者が原告適格を有するという原則である。しかし、形成訴訟における原告適格は、これでは説明できない。これは主として給付訴訟、請求権を前提とした適格の説明であり、形成訴訟は法律で原告適格が規定されるのだということで、実質的な説明は放棄してきていたわけである。

○それに対して最近の有力説は、原告適格の根拠を「訴訟の結果に係る重要な利益」を有している者ということで基礎づける。これは福永教授、中野貞一郎教授の御見解であり、このような最近の有力説は私から見ても相当なものと思っている。自己の権利、利益の侵害を受けた者は、基本的にはその救済を求める適格を有するのが原則であると思われるからである。訴訟類型は、その救済という目的を達成する手段であるとすれば、形成訴訟においてもその背後にある保護の対象となる重要な法的利益が認められれば、原告適格を認めてよいということになるように思われる。

○勿論、与えられる救済によってその保護を求められる利益の範囲が異なってくると思う。例えば、ある利益については、それが侵害された場合に国家賠償を求めることはできても、処分の取消しまでは許されないというような場合も理論的にはあり得ようかと思われるところで、その利益の重大性、あるいはその要保護性によって与えられる救済が区別されるということは十分あり得るのだろう。しかし、その利益が特定の実体法による保護の射程に含まれているか否かを、決定的な要件として問題にする手法は、民訴法的には、個別実体法規が保護しているもののみに訴権を認めるということで、やや古いアクチオ的な発想の残滓があるように見える。

○民事訴訟法的に言えば、当該利益がすべての全法体系の中で、重要なものとして保護すべきものと観念されているか否か、それが観念されているとすれば、それに救済を付与するということになるのが一般的な理解のように思われる。ただし、その法的利益の重要性を考える際の1つの重要なファクターとして、実定法上その利益がどのように処遇されているかをカウントすることは十分にある得るのだろうと思うが、ここではそれが決定的な要件となることの問題を指摘した。

○それから、行政事件訴訟法10条1項の規定については、かねがね疑問と思っているところだが、民事訴訟的には原告適格を認める根拠と、それが認められた場合に争える本案の範囲とは、必ずしも論理的な連続性はないと思われる。例えば、行政訴訟とよく似ている株主総会決議取消訴訟では、株主は他の株主に対する招集手続の瑕疵を理由に総会決議取消訴訟を提起できるとするのが、最高裁判所の判例である。自分に対する招集については瑕疵がなくても、他の株主に対する招集手続に瑕疵があれば取消訴訟を提起できるというわけである。この行訴法の10条が、そういうような理解と整合的なのかどうか、あるいはそこにどういう違いがあるのかというのが私のかねてからの疑問である。事柄の公益性というものが、恐らくは会社訴訟よりも行政訴訟の方が強いとすれば、ここにはややアンバランスがあるような気がする。

○次に、第2点として、排他的管轄と提訴期間の制限の問題であるが、取消訴訟の排他的管轄が認められている理由は、民訴においてある訴訟が形成訴訟と構成される理由とパラレルなのではないかと思うが、それは一般にはその対象となる法律関係が、社会の根本に大きな影響を与える、多数の利害関係人に影響を与える、爾後の多くの法律関係の前提となるといった理由のために、法律関係の画一的な変動の要請があることに求められている。なぜなら、このような場合に、当事者ごと、あるいは訴訟ごとに、その行為の有効・無効の判断が異なることは、ムダな社会的なコストを発生することになるからである。

○取消訴訟の提訴期間の制限については、民訴では早期の権利確定の要請として説明され、提訴期間制限は裁判を受ける権利への制限を内包するが、それを勘案してもなお真に早期の権利確定が不可欠であるか否かが問題とされることになる。

○これらの問題について、行政の優越的地位というような説明が、行政法的に仮に放棄されるべきものであったとしても、以上のような実質的な理由がなお妥当する場面においては、民訴的には排他的管轄や提訴期間の制限の制度はなお維持されるべきものと考えられることになると、一般的には言えるのではないか。

○最後に「請求の趣旨の特定について」、この検討会の議論では、行政訴訟について必ずしも原告が請求の趣旨を特定する必要がないという方向での議論があるが、民訴において請求の特定が必要とされている理由は、3つぐらいのことが言われる。第1に、被告の保護であり、被告に対する不意打ちの防止という点である。第2に、原告の処分権を保障するという点であり、原告は自己に最も有利な措置を自ら選択して、それによって裁判所が拘束されるという点で、原告の処分権が保障されるという説明である。第3に、攻撃防御を明確化することによって、争点整理等、心理を円滑化するという点も挙げられる。これは、そのような攻撃防御の明確化によって、ひいては当事者の手続保障にも資するという点も付随的に言えようかと思う。

○行政訴訟の場合に、これらの理由がどうかということだが、まず被告の保護というのは、あるいは定形的に公権力を行使する主体である被告の保護は必ずしも必要ないという見方があり得るかもしれない。第2点の原告処分権の保障という点は、原告が自ら意識的に不特定な請求を認めているとすれば、それを保護する必要はない、それを保護するのはパターナリスティックにすぎるとの議論があり得るかもしれない。ただ、第3点、つまり請求の趣旨が特定されていないために、審理が拡散して訴訟手続が遅延する恐れというものは、なお民訴の観点から見ると否定できないのではなかろうか。審理の拡散、訴訟手続の遅延の防止は、公益的な側面を含むものであって、当事者が放棄できる性質のものではないと思われるので、民訴的な観点からすると請求の趣旨の特定というのは維持されるべきではなかろうかというのが私の感想である。

○そうだとして、ただ原告の保護を大々的に実現する手段はないかどうかということが問題になるが、恐らくそのような手段としては、裁判所の積極的な釈明によって訴えの変更を認める、請求の趣旨の変更を認めるということが考えられるのではなかろうかと思われる。釈明義務については、民事訴訟法では判例、学説ともに最近ではそれを強化して考えていく方向が一般的であり、そういう意味ではこの釈明義務による対処というのは、十分合理的なものではなかろうかと思う。ただ、行政訴訟の場合には、一定の訴訟については提訴期間の制限があり、場合によっては釈明をした時点では提訴期間が徒過していて、訴えの変更ができなくなってしまっている恐れがあるかもしれないが、それについては何らかの方途でそれを回避していく必要があるのではないかと思う。そういうようなことを前提にすれば、請求の趣旨の特定という制度を維持することは、それほど不合理なことではないのではなかろうかという感想を持っている。

【質疑応答】(□:座長、○:委員、●説明者、■:事務局)

□大きく分けて、1つは訴訟類型のところでひとくくり、取消訴訟についてひとくくり、それから請求の請求の趣旨の特定という最後のところの3区分で質疑応答を重ねていったらいかがか。

(委員から異論なし)

○一番感心を引かれたのは、1と2にまたがる話である。まず感想だが、給付訴訟、確認訴訟、取消訴訟という順序をお立てになったのは、これはいかにも民事訴訟法の方らしいと思う。行政訴訟の場合は、今まではとにかく取消訴訟中心できたので、グローバルスタンダードに合わせるとこうなるのかなという印象を強く持った。そのこととの関連で、最初に請求権構成と訴訟類型的構成ということを、まさに義務付け訴訟等について御説明いただいたが、ドイツの行政裁判所法では、取消訴訟と義務付け訴訟を全く並べて規定しており、ただそれは訴訟の種類としては一方が形成訴訟であり、他方が給付訴訟であるというのが通説的な理解だろうと思うが、条文の上では2つ並んでいる。今日のお話では、ドイツでは、訴訟類型的構成で法律上規定しているようにも見えるが、学説は、義務付け訴訟は請求権の訴訟に基づく給付訴訟であるということを言い、他方、取消訴訟については、一見訴訟類型だけは書いてあるように見えるけれども、これはしかし請求権に基づく訴訟ではないかということを一生懸命議論をしていたという状況がある。1つの言い方としては、この請求権構成と訴訟類型的構成という区別は、果たして実定法のタイプの違いなのか、それとも規定の仕方はいろいろあるけれども、要するにそれを理解し説明するための理論的な視点の違いであるのかというところだが、今日のお話だと、取消訴訟は形成訴訟であり、それはそういう訴訟類型がつくられているということで、訴訟が実際に行われるということであり、それに対して義務づけ訴訟の方は、もし請求権構成を取れば何も規定がなくてもできるだろう。しかし、先ほどの話では、義務を創設する形成の訴訟であるという御理解でしたけれども、日本の現行法がそうなのか、それとももし請求権としてまだ成り立ちにくいので、訴訟類型としてされるのがいいという立法論についての御説明なのか。

●義務付け訴訟について、訴訟類型的な構成をすることが現行法の理解なのか、あるいは立法論的なものかという点については、現行法がどういうような形で義務付け訴訟を観念しているかということは、私は十分知らないところであり、独自の訴訟類型として構成すればこういう考え方になるのではなかろうかということである。勿論、請求権として構成をして、なお義務付け訴訟を実定法で規定するということがいけないかというと、それはいけないということではなく、一種の確認的な規定というような位置づけになるのだろう。通常の給付訴訟であるけれども、その給付訴訟ができるということを法律で書いている位置づけにすぎない。そういう意味では、訴訟類型を書いていくという話と、その背後に請求権による構成というものが理論的な、いわば整理として存在するにとどまるということも勿論あると思う。ただ、請求権と捉えるのか、請求権を前提としてない形成訴訟として捉えるのかということは、完全に1対1で対応しているのではないとは思うが、やはり制度構成に一定の影響をいろいろなところで与えていくことはあり得るのではなかろうか。
 私の今日の御説明は、割と端的に、通常の理解によればこういう形で結び付いていくのではなかろうかということを御説明したということであり、違う結び付け方を違う説明の仕方でするということが、アプリオリに不可能であるというところまで申し上げるつもりはない。

○仮に取消訴訟にしろ、義務付け訴訟にしろ、訴訟類型として法定されているという場合に、できる限り訴訟要件ははっきり書き込むのがいいというのはそのとおりだと思うが、書き込んだ場合に必ずそれが限界として表われてくる。例えば、処分なら処分という言葉を使った場合に、どこまでが処分であるかということが問題になる。そうすると、取消訴訟であれ義務付け訴訟であれ、書かれた訴訟類型では救えないけれども、しかし請求権がこういう場合にはあるというふうに実体法が解釈されれば、その訴訟類型以外に必ず救済の給付訴訟、義務付けであれば、一般の給付訴訟として許されるべきであるのか、侵害的な処分ではないけれども何か不利益を加えられたということであれば、その差止めなり現状回復なりの請求権が構成されれば、それは必ずそういう差止め訴訟なり何なり、給付訴訟になると思うが、そういう道が開かれるべきであるということになるのか、行政に関しても一般的にそれが裁判を受ける権利の帰結だと考えてよろしいか。

●私自身は、基本的にそのように考えている。勿論行政実体法において請求権というものがもし形成されるとすれば、その請求権に対する侵害があった場合には、当然それに対する救済が与えられなければならない、それも請求権という概念からしてそうなのではなかろうかと私自身は思っている。更にその前提として、基本的には私が考える一定の保護されるべき範囲の実体的な利益、ないし竹下先生は実質権という言葉をお使いになるが、そういうものが侵害された場合には、それが救済される必要がある。その実質権について請求権を付与するという構成は民事の実体法の通常のやり方だが、そういう形で救済を図るということもあるし、必ずしも請求権という構成を取らないで救済を図るということもあり得るのかもしれないが、私自身はそこで何らかの救済が図られるべきであろうと思っている。
 ただ、それは先ほど申したように、実際的な点で相当の困難があり得る話で、私自身は行政実体法において請求権を構成していくというのが、どの程度大変な作業かということは必ずしもよくわからないところであるが、民事においても、アクチオの体系から請求権の構成に移転するということについては、やはり大変長い歴史があったのだろうと思うわけで、そこがどの程度実際問題として可能なことかという問題はあるが、基本的な考え方、前提としては、やはり救済は付与されるべきである。

○それは大人になったらそうだが、行政訴訟はまだ長い長い少年時代を彷徨っているということなのか。

●そういうことを申し上げるつもりはない。そこはわからないから、今の時点で日本で私の存じ上げる限りでは、あまり行政実体法について、こういう請求権が発生するというような御議論が一般的であるとも思われないところがあり、それを前提にすれば、直ちに、明日からそういう請求権というものが網羅的に形成されるということが、果たして可能なのであろうかという程度のもので、決して少年時代であるということを申し上げる趣旨ではない。

□例えば訴訟類型的構成を取るとして、具体的にどういうことになるのかなというイメージが湧かないが、要するにたまたま日本では実体法的に請求権構成がまだ十分進んでないという御認識で、私はそれはある程度当たっていると思うが、例えばドイツで結果除去請求権が発展してきているというときに、では日本でも、それを育てていこうというときに、この訴訟法に結果除去請求権と書くのか。

●そこは、民事法の通常の認識から言えば、請求権というのはまさに実体法の問題であり、それを訴訟法の中に書くというのは、非常に異例なのではないか。

□訴訟類型的構成というときに、例えば結果除去請求権のようなものが念頭にあって、ただ日本では実体法があまり進んでいないが、この際これを日本でも取り入れたいというときに、訴訟類型的構成の中にそういうものを書き込むというアイデアもあるのか。

●私自身はあまりそういうイメージは持っていなかった。訴訟類型として義務付け訴訟とか差止め訴訟というような形成訴訟的なものを規定して、そこで拾えないものがどうなるのかということは、私もなかなかよくわからないところだが、それは拾うような訴訟類型を構成していく必要があるのだろうと思う。あるいは、よくわからないが、ドイツなどでは請求権を構成していく前提として、行政によって権利が侵害された場合には訴えを提起する権利があるというような、非常に一般的な条文があるときくが、そういうものが請求権を構成していく理論的な根拠としてあり得るとすれば、全く素人的な考えであるが、そういうこともあり得なくはなかろう。そういうような形で訴訟類型で拾えなかったものを拾っていく道が、どこかで残れば非常に結構なことではないかと思う。

○一点は、請求権の観念だが、今の行政実体法は、取消訴訟中心主義の影響でもあると思うが、行政実体権なる請求権というのは、多分立法のときにもあまり行政庁なり国会は考えてつくってないということがあって、実質的には行訴法がかなり何らかの意味での実体的なところを肩代わりしているという側面があるように思われる。請求権構成という考え方からすると、一体どのような場合に請求権があるのかということの特定は、現在の行政実体法を眺めてもある程度出てくると考えるのか、あるいはかなり抜本的な立法的対応が必要とお考えになるのか。
 二点目は、例えば、給付、確認、取消しなど、さまざまな類型についての優先順序のようなものを、行政訴訟では何らかのイメージとして持っておられるのかどうか、確認訴訟と給付訴訟について、一定の基準をお示しになってるいようにも思うし、また取消訴訟についても社会の根本とか、多数の利害当事者とか、一定の基準があると思うが、一種の優先順位を付けるとしたら、こういう特殊要件が必要な場合にはそれを優先していて序列化するというのが、行政訴訟の場合にも適当だとお考えになっているのかどうか。
 三点目は、強制執行に関して、意思表示の擬制という義務付け、これは行政庁が何らかの形でこの義務付けの判決に従わないという場合に、これに相当するのは例えば行政行為を擬制するという判決を想定しておられるのかどうかということと、それは民事訴訟法的に見て可能なのかどうか。
 最後に四点目だが、間接強制はディープポケットだから納税者に損害を与えても痛みがないという点で、民事訴訟だが、町役場かどこかで、間接強制を払い続けても全然痛みがないというのはあったが、実際問題働くかどうかはともかくとして、建前上は地方自治体ですと住民訴訟があるので、判決に従わないで漫然と間接強制を払い続ける場合には、個人賠償という形で最後は一種の均衡が図られるようにも思われるが、そういう形の解決ではまずいのかどうか。

●最初の、請求権の観念として、現在の行政実体法から請求権が出てくるのか、抜本的な何らかの立法が必要なのかというのは、これはまさに行政実体法の問題であり、私自身、行政法の素人として行政実体法についてよく見たこともないから、それが出てくるのかということは直ちにはお答えはできない。ただ、ドイツなどの議論では、ドイツの行政自体は日本とどの程度似ているのか、これもよくわからないが、ものの本を読む限りではかなりの程度学説の解釈として先ほど座長がおっしゃったような結果除去請求権とか、そういうような議論が出てきていると伺っており、そういう解釈論の中で相当程度のことは、少なくともドイツではできているんだろうと、その程度のことしか申し上げられない。
 第2点として、給付・確認・形成の順序として、一定の序列化が適当かという御趣旨の御質問だったかと思うが、今日の私のお話は、基本的には民訴法上の中での給付訴訟、確認訴訟、形成訴訟について、それぞれ認められている一定の要件なり限定というものを話したつもりである。それが、行政訴訟にどの程度当てはまるかというのは、民訴ではこうなっていて、何も他に特段考慮すべき要素がないのであれば、民訴の議論が一定程度合理的なのだとすれば、民訴と同じことに行政訴訟になってもおかしくないということは言えるのだろう思います。私が言えるのはそこまでで、最初にお話しましたように、行政に特有の考慮要素があって、そこでやはり何か特有の要件が加わるということであれば、それはやはり民訴の今のお話とは、いろんなところで順序とか序列が変わってくるということは十分あり得るだろう。
 3番目の強制執行で意思表示の擬制ということだが、意思表示の擬制と申し上げたのは、行政庁の一定の行政行為がまさに擬制されるという認識で、それが民訴的に可能かという御質問であれば、民訴的には可能であるが、三権分立の憲法違反になるのかもしれない。それは私の領域の外の話なので、民訴的にはそれは勿論可能であると思う。これが仮処分で可能かということになると、またちょっと別の問題があると思うが、本案の請求としては可能と理解している。
 最後の間接強制の御指摘は、確かに言われてみればそのとおりで、そういう形で行政の責任者が最終的には何らかの個人的な責任を負わされて、それよって強制金を支払うということができなくなるような形で圧力がかかる。それによって間接強制が成功するということが十分想定されるのであるとすれば、先ほど申し上げたような私の問題はなくなり、行政に対する間接強制についても一定の実効性はあるということになるのだろう。

○2点目に関する答えを前提にした、私の印象、感想を申し上げると、結局山本先生が排他的管轄のところで想定されておられるような社会の根本とか、多数利害当事者とか、爾後の多くの法律関係、ここが、取消訴訟中心主義の見直しと非常に変動するが、結局ここで提示されたような一種の想定される優先順位というのは、行政訴訟でまさにこれまでも想定してきているし、今も議論になっているような論点とほとんど枠組みは変わらないのではないかなという印象を持った。

○原告適格のところだが、最近の有力説として、「訴訟の結果に係る重要な利益」説というのがあるというお話だったが、確かに生命とか身体について不利益を被る場合に訴えを認めるべきであるというのはわかるが、家の隣にお墓ができると、特段の不利益はないが、何となしに気味が悪いという場合、これは民事訴訟のレベルではどうか、民事訴訟を起こす訴えの利益というのは認められるのか。

●墓ができることを差し止めるということで、それは、具体的な例はなかなか判断が難しい。基本的には、不法行為とかの議論でも保護に値するような法的利益がどういうようなものかということは、若干の議論はあるのではないかと思うが、最終的には社会的な一種の常識的な判断に、判例でも基準は委ねているのではないかと思うので、なかなか帰結を申し上げるのは難しい。個人的な考え方からすると、それはあまり法的保護に値する利益とは言えないような気もする。

○今の質問の設例は差止め訴訟で、その場合には原告適格という問題は起きるのか。それは結局、請求権のあるなしではないかと思うが。

●そういうことだと思う。請求権の問題ということになるだろうと思う。

○そうすると、原告適格で請求権の有無という観点で判断する場合と、取消訴訟の原告適格で判断するという場合について、請求権があるかないかというのも、ある意味では重要な利益の有無というのが、例えば受忍限度論などが前提になっていると思うが、それと、取消訴訟におけるこの説を前提とした場合の原告適格の有無というのは、実体上の一種の常識的な苦痛なり侵害の判断としては、似たようなものであるということなのかどうか。

●結論的にはそういうことになるのではないかと思う。請求権で構成する場合は、基本的には請求権が発生する前提としての実体権として、あるいは実質権として、どの程度の重要性があればその請求権が認められるかという、実体法上の判断の問題になってくるということであるのに対して、形成訴訟の場合にはそういう請求権概念が前提にならないので、その問題がまさに原告適格の問題として出てくるということだろうと思う。
 給付訴訟については、民訴において原告適格を論じる意味はほとんどないわけであり、ここで主として議論の対象とされているのは、いわゆる訴訟担当がどういう範囲で認められるかという給付訴訟でも、要するに自分の権利関係を請求するのではなくて、第三者が人の権利関係を請求する場合に、どういう場合にどういう利益があれば認められるのかということを中心とした議論である。

○そうすると、訴訟担当というのは本来請求権をこの人に主張させても当然であるという人がいて、その周りに関連する利益の当事者がいて、それをどう考えるかと、多分そういうことだろうと思うが、原告適格の実例として出てくるのは、ジュースに関する規制について、消費者が訴えられるかとか、文化財の指定の解除について、観光客や研究者が訴えられるかとか、そのような類いの話が出てくる。そこは行政法と民事法の実体法構造の違いがまずあるのだろうと思うが、およそ1対1のしっかりした法律関係がよく見えないままに、しかし行政法だということで法的規制があることになっていて、それに反した行動がされているようだというようなときに、どういうふうな法律関係をそこに見定めるか、その人に、その消費者なり、観光客予備軍なりに原告適格を認めるかどうかという話になるわけで、その際に最近の有力説、「訴訟の結果に係る重要な利益」という枠組みが有効に働くのだろうか、ちょっと疑問に思う。

●確かにそれはそのとおりかもしれないが、民訴の問題意識からすれば、民訴での最近の議論からすると、例えば伊藤眞教授が言われているのは紛争管理権の議論だとか、あるいは福永教授などが言われいる集団利益訴訟というような概念だとか、要するに問題となっている利益が拡散しているような場合に、それが集団化される場合には、ここで言うところの「訴訟の結果に係る重要な利益」が形成されるという場合に、誰を当事者とするのが最も適切かというような観点からの議論がもう一つ必要になってくるのではないかということはおっしゃるとおりだと思う。先ほどの話から言えば、福永説はこれの延長線上にあるのだろうと思うが、「訴訟の結果に係る重要な利益」というのが一定の範囲の集団に帰属している、その集団の利益を誰が行使するのが適当か、それは団体訴訟になることもあるし、その中から一定の者を何らかの基準で選別して当事者適格を認めるということもあると思う。伊藤先生の紛争管理権というのは、私の理解からすれば恐らくそういう実体的利益と切り離したところで、どの程度紛争解決に寄与して今まで活動してきたかという、そういう手続的な利益の観点から当事者適格を説明する。そういう意味では、福永・中野説とはもはや切り離されたところで原告適格を説明している議論なのだろうと思うが、次の問題としてそういうような議論があり得るということは、御指摘のとおりだと思う。

□墓地の例で、行政法の場合には、そこに制定法として、墓地埋葬法、あるいは条例が出てきて、墓地を建設するときには、こういう点を注意しなさいというふうに、保護利益を拡大しているところがあって、それが原告適格を裏づけるかどうかという問題だから、プラスアルファの要素がある。

○民事訴訟と行政訴訟の選択の問題だが、民事訴訟としても構成可能、行政訴訟としても構成可能という場合に、どちらでも選択していいというお考えなのか、そうではないのか、あるいは他の民訴の先生はどんなふうな議論をしておられるのか。新堂先生は、具体的な例として、供託金の却下処分の取消しを求める行政訴訟をやるか、あるいはそうではなくて、供託金を返せという給付訴訟をやるか、両方可能だというふうにおっしゃって、両方とも適法と解すべきだということを教科書に書いておられるが、その辺りは御意見はいかがか。

●その場合、行政訴訟が形成訴訟として構成されているかどうかということは1つの問題かという感じがする。私の理解では行政訴訟と民事訴訟の選択可能性というよりは、形成訴訟とそれ以外の訴訟の選択可能性という問題になるとすれば、形成訴訟というのは、行政訴訟でいうところの排他的管轄、つまり形成訴訟で一定の形成的な判断がされない限り、それをその他の訴訟における法律関係の前提として主張することはできない、だからこそ形成訴訟なんだと私は理解している。それは普通の理解だと思うが、そういう理解をとれば、形成訴訟が定められている訴訟類型について、その形成訴訟を経ずに、例えば行為が無効であるということを前提に訴えを提起するということはできない。株主総会決議取消訴訟という制度が構成されているとすれば、その取消訴訟を経ずに当該株主総会決議が無効であることを前提に、一定の、例えば相手方の代表権を否定するというようなことができないのと全く同じことではないかと思う。
 新堂先生の例で挙げられた、供託金の却下処分取消訴訟の例がどういうものかよくわからないので、必ずしもお答えができないが、形成訴訟と理解するのであれば、非常に当たり前のことだが、そういうことになる。

○確認だが、形成訴訟としての取消訴訟と合わせて給付訴訟を同時に持ってくることは可能か。

●それは形成判決が確定することを前提とした、将来給付の訴えということになるのではないか。詐害行為取消権の場合は、基本的にはそういう理解がされているのではないか。詐害行為が取り消されることを前提として、一定の給付請求をするというのは、将来の給付の請求として認められるということになると思う。

○形成訴訟かそれ以外かということが、何らかの政策判断で決せられて以降は、形成訴訟と任意的に選択できるということは想定できるということはそのとおりだが、政策的判断として、現在の行政訴訟のいわゆる取消訴訟の排他性に服する領域が、山本基準でいくと、恐ろしく広い範囲をカバーしているということになると思う。要するに、社会の根本とか、多数利害関係人とか、爾後の多くというのではなく、供託金もその例かもしれないが、極めて細かい私的な利益に近いようなものも含めて、すべてを行政処分構成をして、取消訴訟の排他性と出訴期間に、いわば行政の争いのほとんどは無理やりそこに服させているいう、立法的構造ができていると思う。そうすると、今この行政訴訟検討会で主たる議論になっているのは、そういう構造自体をどう捉えるかということでもあるので、現在の行政訴訟の排他性の領域というのは、少なくともこの基準よりは恐ろしく広い膨大な領域をカバーしているのではないかという印象だが、それについて御感想があればお願いしたい。

●その点については、まず第一に、行政処分にはどういうものがあって、そのそれぞれについてどういうような基準で正当化できるかというようなことを十分検討してきたわけではないので、恐ろしく広いかどうかという評価はなかなか難しい。もう一点は、これはあくまでも民訴の基準であり、行政訴訟について別の何らかの付加的な基準等がないかどうかということについても、そこは素人なので、評価ができない。そういう意味では、これは私への質問よりも、是非先生方に御検討をいただければありがたい。

○原告適格に関して、先ほど有力説として、「訴訟の結果に係る重要な利益」が原告適格を基礎づける有力な考え方であると御紹介いただいたが、その「訴訟の結果」というのは、取消訴訟について言えば取消判決という形、処分の取り消しという形で表われてくるが、「訴訟の結果に係る」という部分の判断の仕方として、そこには例えば事実上の影響というものは、「係る」というときには入ってくるのか。

●事実上の利益か法的利益かという判断は、なかなか難しいところがあると思うが、私の理解ではそれは法的な意味での利益である。ただ、その法的利益をどう評価するかは、非常に難しいところで、特定の実体法がその保護を基礎づけているという必要性は、必ずしもないのではないか。全法体系の中でそれを重要なものとして保護されているかどうか、そしてその全法体系は、非常に判断は難しいということは間違いないと思うが、基本的な考え方としては、そういう意味での法的利益なのではないかと思っている。

○10条1項との関係で、株主総会における他人に対する招集手続の瑕疵を違法理由として主張できるといわれたが、私の理解では株主総会というかなり狭いサークルの中での話ではないか、つまりその中で誰か1人の人に対して招集の手続に瑕疵があれば、株主総会の決議の内容にも影響してくるので、別の人にも違法の主張が認められているのではないかと憶測をしており、それとの関係で直ちに10条1項の方にはいかないのではないか。

●直ちにいかないということは、多分おっしゃるとおりなのかと思うが、ただ今御指摘になった点は、要するに当該手続違反が実際の総会決議の結果に影響するという点を考慮したのではないかという御指摘だったかと思うが、もしそうであれば行政訴訟の場合も、当該自分との関係ではない、当該何らかの瑕疵というものが、その行政処分に影響したのであれば、その自分との関係での瑕疵ではないとしても、それをその人が主張するということはパラレルなものとしてあり得るのかと思う。

○影響したかどうかというのが、株主総会の場合は割と簡単に想定できるのではないかと思うが。

●その認定の容易性というのは、確かに株主総会の場合の方が大きいかもしれない。

○行政法でも、行政委員会が何らかの処分を議決するというようなときの招集手続に瑕疵があれば、それはコミットされた人でなくても、処分の結果について法律上の利益のある人であれば、それは合議体が適正に構成されてないわけだから、その処分は当然違法になるのだと思う。10条1項はそれを妨げる趣旨ではないと思う。必ず挙げられる例はそれではなくて、税務署の公売処分の場合に、第三債権者に通知をしないで差押え、公売してしまったというときに、被差押者がそれを主張できないというのが、よくこの10条1項の例で挙がるが、それはもう公売されることが決まっているから、決定の内容がそれで変わってくるわけではなく、議事手続、招集手続の場合は、御心配のことはないのではないかと思う。

●そうであるとすれば、私の誤解かもしれない。

(2)論点についての検討

【原告適格について】

□原告適格について、もう少し具体的な判例、具体的な事件に即して御検討をしてみるのがいいのではないかという御提案もあり、そういった点を意識をして、この時点で集中的に具体的な事件を示ししながら議論をしてみたい。 ■資料3−1「原告適格の検討の視点」それから資料3−2「原告適格の参考判例」を御参照いただきたい。
 原告適格の検討の視点については、これは一応の切り口は幾つかあるかと思い、現実の不利益、不利益を受けるおそれ、利害関係、法的利益というような観点で参考になりそうな判例を分類してみたというようなものである。
 資料3−2に、順次、21の判例を引用してある。4ページまでは、判決の要旨を抜粋したもので、5ページ以降が、それぞれの判決の理由を掲げている。特に、その判決の主な理由と思われるところをゴシックにしているので、御参照いただきたい。
 例えば、質屋の営業許可処分の無効確認訴訟、これは昭和34年で、行政事件訴訟法が制定される前、したがって法律上の利益という原告適格の規定がなかったころの判例である。これは、既存の質屋の営業者が第三者に対する質屋営業許可処分の取消しを求めた事例について、法律上の利益を有しないとして訴えが却下された事例である。判決理由のゴシックのところを見ていただくと、「訴えを提起するには、これにつき法律上の利益あることを必要とするは、訴訟法上の原則であって、行政庁の違法処分の取消しを求める訴についても、これと別途に考うべき理由はない」というふうに判断をしており、その下の方のゴシックの方を御覧いただくと、「質屋営業の営業許可は、質屋営業が庶民金融の重要な部分を占めるものであり、又質物を取り扱うのでその性質上犯罪捜査にも関係があって、社会公共の秩序に影響があるので、一般的に自由な営業を禁じ、許可の申請によって社会公共の秩序を及ぼす虞れのない営業者にこれを許可し、質営業を適法ならしめるもので、右許可によって質屋営業者に独占的な利益を享受する地位を保障するものでも、一定の営業利益を保障するものでもないのである。だから質屋営業者が質屋営業法によって営業方法につき制限される点はあるけれども、その範囲内でいかほどの収益を確保するかということは他の自由な営業者と同様に営業者の全く自由な経済活動に任されているものといわなければならない。従って原告が訴外組合大森支部の開業によって事実上質屋営業による利益が著しく減じたとしても、その営業利益は法律によって保護される利益ということはできないから、原告は本訴について訴の利益がない」、こういう判断をしているものである。
 続いて、6ページ。これは、公衆浴場営業許可処分取消訴訟であり、昭和37年1月で、これも現在の行政事件訴訟法が施行される前である。これは、「既存の公衆浴場営業者は、第三者に対する公衆浴場営業許可処分の無効確認を求める訴の利益を有しないとはいえない」として、訴えは適法であるとされた事例である。
 この事例では、「公衆浴場法は、公衆浴場の経営につき許可制を採用し、第2条において「設置の場所が配置の適正を欠く」と認められるときは許可を拒み得る旨を定めているが、その立法趣旨は、「公衆浴場は、多数の国民の日常生活に必要欠くべからざる、多分に公共性を伴う厚生施設である。そして、若しその設立を業者の自由に委せて、何等その偏在及び濫立を防止する等その配置の適正を保つために必要な措置が講ぜられないときは、その偏在により、多数の国民が日常容易に公衆浴場を利用しようとする場合に不便を来たすおそれを保し難く、またその濫立により、浴場経営に無用の競争を生じその経営を経済的に不合理ならしめ、ひいて浴場の衛生設備の低下等好ましからざる影響を来たすおそれなきを保し難い。このようなことは上記公衆浴場の性質に鑑み、国民保健及び環境衛生の上から、出来る限り防止することが望ましい」と。
 この後ろの方で、「同条はその第3項において右設置場所の配置の基準について都道府県条例の定めるところに委任し、京都府公衆浴場法施行条例は各公衆浴場との最短距離は二百五十米間隔とする旨を規定している。これらの規定の趣旨から考えると公衆浴場法が許可制を採用し前述のような規定を設けたのは、主として「国民保健及び環境衛生」という公共の福祉の見地から出たものであることはむろんであるが、他面、同時に、無用の競争により経営が不合理化することのないように濫立を防止することが公共の福祉のため必要であるとの見地から、被許可者を濫立による経営の不合理化から守ろうとする意図をも有するものであることは否定し得ないところであって、適正な許可制度の運用によって保護せらるべき業者の営業上の利益は、単なる事実上の反射的利益というにとどまらず公衆浴場法によって保護せられる法的利益と解するを相当とする」と、このように判断している。
 次に、7ページは、東京第12チャンネルのテレビジョンの開設に伴う免許の取消訴訟である。これについては、判決要旨にあるように、甲及び乙が競願関係にある、つまり放送局のチャンネルは周波数は1つ、その1つの周波数を争っている場合に、甲の免許申請が拒否され、乙に免許が付与されたときは、甲は乙に対する、つまり他人に対する免許処分の取消訴訟を提起することができるとされたものである。
 続いて8ページ、これはがねがね御指摘のある、主婦連ジュース訴訟であり、これについては、これまでにも何度も資料等に掲げて御説明をしてあるものである。
 11ページの5番の判決は、長沼ナイキ基地訴訟であり、これは「保安林の指定につき森林法27条1項にいう「直接の利害関係を有する者」は、右指定の解除処分取消訴訟の原告適格を有する」とされたものであり、判決要旨の二の項目にあるように、「農業用水の確保を目的とし、洪水予防、飲料水の確保の効果をも配慮して指定された保安林の指定解除により洪水緩和、渇水予防上直接の影響を被る一定範囲の地域に居住する住民は、森林法27条1項にいう「直接の利害関係を有する者」として、右解除処分取消訴訟の原告適格を有する」とされたものである。
 この理由は、12ページにゴシックであるように、「森林法所定の保安林指定処分についてみるのに、右処分が一般的公益の保護を目的とする処分とみられることは前記のとおりであるが、法は他方において、利害関係を有する地方公共団体の長のほかに、保安林の指定に「直接の利害関係を有する者」において、森林を保安林として指定すべき旨を農林水産大臣に申請することができるものとし(法27条1項)、また、農林水産大臣が保安林の指定を解除しようとする場合に、右の「直接の利害関係を有する者」がこれに異議があるときは、意見書を提出し、公開の聴聞手続に参加することができるものとしており(法29条、30条、32条)、これらの規定と、旧森林法(明治40年法律第43号)24条においては「直接利害ノ関係ヲ有スル者」に対して保安林の指定及び解除の処分に対する訴願及び行政訴訟の提起が認められていた沿革とをあわせ考えると、法は、森林の存続によって不特定多数者の受ける生活利益のうち一定範囲のものを公益と並んで保護すべき個人の個別的利益としてとらえ、かかる利益の帰属者に対し保安林の指定につき「直接の利害関係を有する者」としてその利益主張をすることができる地位を法律上付与しているものと解するのが相当である。そうすると、かかる「直接の利害関係を有する者」は、保安林の指定が違法に解除され、それによって自己の利益を害された場合には、右解除処分に対する取消しの訴えを提起する原告適格を有する」、としており、下の方の段落で、「法27条1項にいう「直接の利害関係を有する者」の意義ないし範囲について考えるのに、法25条1項各号に掲げる目的に含まれる不特定多数者の生活利益は極めて多種多様であるから、結局、そのそれぞれの生活利益の具体的内容と性質、その重要性、森林の存続との具体的な関連の内容及び程度等に照らし、「直接の利害関係を有する者」として前記のような法的地位を付与するのが相当であるかどうかによって、これを決するほかはない」と、このような判断をしている。
 13ページ、これは伊達火力発電所訴訟という6番の訴訟であるが、これについては、「公有水面埋立法(昭和48年法律第84号による改正前)第2条の埋立免許及び同法第22条の竣功認可の取消訴訟につき、当該公有水面の周辺の水面において漁業を営む権利を有するにすぎない者は、原告適格を有しない」とされたものである。
 この判決の趣旨等につきましては、そこのゴシックに掲げられているとおりであり、一番下の方にあるように、「漁業を営む者の権利を保護することを目的として埋立免許権又は竣功認可権の行使に制約を課している明文の規定はなく、また、同法の解釈からかかる制約を導くことも困難である」として、原告適格を否定したものである。
 続いて14ページ、里道用途廃止処分取消訴訟。これにについては、かねても紹介した判例であり、この判決は「里道が個別的具体的な利益をもたらしていて、その用途廃止により生活に著しい支障が生ずるという特段の事情は認められないときは、里道の用途廃止処分の取消しを求める原告適格を有しない」とした判例である。
 次に15ページの8番、これは新潟空港訴訟である。新潟空港訴訟については、原告適格の判例として教科書でよく引用される判決で、その判決理由の一般論のところについてもゴシックをしている。15ページのところであるが、「取消訴訟の原告適格について規定する行政事件訴訟法9条にいう当該処分の取消しを求めるにつき「法律上の利益を有する者」とは、当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者をいうのであるが、当該処分を定めた行政法規が、不特定多数者の具体的利益をもっぱら一般的公益の中に吸収解消させるにとどめず、それが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むと解される場合には、かかる利益も右にいう法律上保護された利益に当たり、当該処分によりこれを侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者は、当該処分の取消訴訟における原告適格を有する」としております。
 更にその下のところで、「当該行政法規が、不特定多数者の具体的利益をそれが帰属する個々人の個別的利益としても保護すべきものとする趣旨を含むか否かは、当該行政法規及びそれと目的を共通する関連法規の関係規定によって形成される法体系の中において、当該処分の根拠規定が、当該処分を通して右のような個々人の個別的利益をも保護すべきものとして位置付けられているとみることができるかどうかによって決すべきである」、このような判断をした事例である。
 具体的判断については、15ページの真ん中から下の方で、法制度をさまざま検討した上で、最終的には、17ページの一番最後のところにあるように、「免許に係る路線を航行する航空機の騒音によって社会通念上著しい障害を受けることとなる者は、当該免許の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者として、その取消訴訟における原告適格を有する」とする判例である。
 続いて、18ページの9番の近鉄特急料金訴訟については、これはかねがね御指摘のある特急料金の値上げの認可について、定期券を購入している者で、日常特急を利用していても認可処分の取消しを求める原告適格を有しないとしたものである。
 19ページの10番、伊場遺跡訴訟であり、これもかねがね御指摘のあるように、「静岡県指定史跡を研究対象としている学術研究者は、当該史跡の指定解除処分の取消しを訴求する原告適格を有しない」としたものである。
 この判断の内容については、19ページの下から11行目辺りの段落で「したがって、上告人らは、本件遺跡を研究の対象としたきた学術研究者であるとしても、法律上の利益を有しない」としている。
 その下の一番最後の段落に、また更に別の判断もしており、「論旨は、要するに、文化財の学術研究者には、県民あるいは国民から文化財の保護を信託された者として、それらを代表する資格において、文化財の保存・活用に関する処分の取消しを訴求する出訴資格を認めるべきであるのに、これを否定した原審の判断は、法令の解釈適用を誤つたものである、というのであるが、右のような学術研究者が行政事件訴訟法9条に規定する当該処分の取消しを求めるにつき「法律上の利益を有する者」に当たるとは解し難く、また、本件条例、法その他の現行の法令において、所論のような代表的出訴資格を認めていると解しうる規定も存しない」という判断をしている。
 次に11ページ、これはもんじゅ訴訟であり、判決要旨にあるように、「設置許可申請に係る原子炉の周辺に居住し、原子炉事故等がもたらす災害により生命、身体等に直接的かつ重大な被害を受けることが想定される範囲の住民は、原子炉設置許可処分の無効確認を求めるにつき、行政事件訴訟法第36条にいう「法律上の利益を有する者」に該当する」としたものである。その判断の内容は、詳細に引用してあるとおりである。
 23ページ、風俗営業許可処分取消請求事件は、診療所の設置者の原告適格が問題となったもので、12番の事例であるが、これは、判決理由にあるように、「風俗営業等の規制及び業務の適正化に関する法律4条2項2号、風俗営業等の規制及び業務の適正化に関する法律施行令6条2号及びこれらを受けて制定された風俗営業等の規制及び業務の適正化に関する法律施行条例(昭和59年神奈川県条例第44号)3条1項3号は、同号所定の診療所等の施設につき善良で静穏な環境の下で円滑に業務を運営するという利益をも保護していると解すべきである。したがって、一般に、当該施設の設置者は、同号所定の風俗営業制限地域内に風俗営業が許可された場合には、右の利益を害されたことを理由として右許可処分の取消しを求める訴えを提起するにつき原告適格を有する」としたものである。これは、基準30メートルという基準になっていたと思うが、30メートルを超えている原告でも原告適格はあるということである。
 次に26ページの13番の事件で、これは都市計画法の開発許可取消請求事件で、「開発区域内の土地が都市計画法(平成4年法律第82号による改正前のもの)33条1項7号にいうがけ崩れのおそれが多い土地等に当たる場合には、がけ崩れ等により生命、身体等に直接的な被害を受けることが予想される範囲の地域に居住する者は、開発許可の取消訴訟の原告適格を有する」としたものである。
 それから28ページの14番。先ほどは診療所について風俗営業の原告適格を認めたものがあったが、これは風俗営業制限地域居住者については、原告適格を有しないとした判例である。
 それから、30ページ、これは環状6号線の道路拡幅事業認可処分等の取消訴訟である。これは、判決要旨にあるように、「都市計画事業の事業地の周辺地域に居住し又は通勤、通学しているが事業地内の不動産につき権利を有しない者は、都市計画法第59条第2項に基づく同事業の認可処分又は同条3項に基づく同事業の承認処分の取消しを求める原告適格を有しない」としたものである。
 32ページ、これは16番の墓地経営許可処分取消請求事件で、墓地の経営許可の取消訴訟について、「墓地から300 メートルに満たない地域に敷地がある住宅等に居住する者は原告適格を有しない」とした事例である。
 33ページの17番の事件、林地開発行為許可処分取消請求事件は、判決要旨にあるように、「土砂の流出又は崩壊、水害等の災害により生命、身体等に直接的な被害を受けることが予想される範囲の地域に居住する者は、森林法(平成11年法律第87号による改正前のもの)第10条の2による開発許可の取消訴訟の原告適格を有する」としたものである。
 35ページの18番事件が、総合設計許可取消請求事件で、この検討会でも話題になったものであるが、「総合設計許可に係る建築物の倒壊、炎上等により直接的な被害を受けることが予想される範囲の地域に存する建築物に居住し又はこれを所有する者は、同許可の取消訴訟の原告適格を有する」としたものである。
 37ページの19番の事件、これも総合設計許可取消請求事件だが、これは「総合設計許可に係る建築物により日照を阻害される周辺の他の建築物に居住する者は、同許可の取消訴訟の原告適格を有する」としたものである。
 39ページの20番、これは永田町小学校廃止条例の取消訴訟である。「東京都千代田区内に設置されていたすべての区立小学校を廃止し、新たに区立小学校8校を設置すること等をその内容とする条例は、子が通学していた区立小学校の廃止後に新たに設置され就学校として指定を受けた区立小学校が子らにとって社会生活上通学することができる範囲内にないものとは認められないときは、一般的規範にほかならず、抗告訴訟の対象となる処分に当たらない」というのは、処分性の判断だが、処分が権利義務に影響しないということを判断しているということで、社会生活上通学することができる範囲内にあるかないかということが、権利義務への影響という処分性の概念としての判断で参照されている事例として、原告適格の判断について参考になるのではないかということで、委員の御指摘もあり、加えたものである。
 40ページの21番、これは産業廃棄物処理施設設置不許可処分取消請求事件に対する補助参加の申立事件である。
 これは、補助参加の申立てではあるが、産業廃棄物の管理型最終処分場の設置許可申請が不許可になり、不許可であった方が地域住民としては有害物質が排出されるおそれがないので、不許可処分の取消訴訟の被告になっている行政側に住民が補助参加をしたという事例である。40ページの下の方にゴシックで挙げているように、「廃棄物処理法15条2項2号は、産業廃棄物処理施設である最終処分場の設置により周辺地域に災害が発生することを未然に防止するため、都道府県知事が産業廃棄物処理施設設置許可処分を行うについて、産業廃棄物処理施設が「産業廃棄物の最終処分場である場合にあっては、厚生省令で定めるところにより、災害防止のための計画が定められているものであること」を要件として規定しており、同号を受けた廃棄物の処理及び清掃に関する法律施行規則(平成10年厚生省令第31号による改正前のもの)12条の3は、災害防止のための計画において定めるべき事項を規定している。また、廃棄物処理法15条2項1号は、産業廃棄物処理施設設置許可につき、申請に係る産業廃棄物処理施設が「厚生省令(産業廃棄物の最終処分場については、総理府令、厚生省令)で定める技術上の基準に適合していること」を要件としているが、この規定は、同項2号の規定と併せ読めば、周辺地域に災害が発生することを未然に防止するという観点からも上記の技術上の基準に適合するかどうかの審査を行うことを定めているものと解するのが相当である。そして、人体に有害な物質を含む産業廃棄物の処理施設である管理型最終処分場については、設置許可処分における審査に過誤、欠落があり有害な物質が許容限度を超えて排出された場合には、その周辺に居住する者の生命、身体に重大な危害を及ぼすなどの災害を引き起こすことがあり得る。このような同項の趣旨・目的及び上記の災害による被害の内容・性質等を考慮すると、同項は、管理型最終処分場について、その周辺に居住し、当該施設から有害な物質が排出された場合に直接的かつ重大な被害を受けることが想定される範囲の住民の生命、身体の安全等を個々人の個別的利益としても保護すべきものとする趣旨を含むと解するのが相当である。したがって、上記の範囲の住民に当たることが疎明された者は、民訴法42条にいう「訴訟の結果について利害関係を有する第三者」に当たる」としたものである。実は、この民事訴訟法42条では、訴訟参加の要件として訴訟の結果について利害関係を有する第三者という要件が決められており、その利害関係を有する第三者に当たるかどうかということで、結局その判断においても、その法が個別的利益としても保護すべき趣旨を含むかどうかという要件について最高裁判所が判断しているということである。
 先ほどの資料の3−1に戻ると、少なくとも「1 現実の不利益」というのは、処分が行われたことによって、その処分の結果として、ある程度現実問題として何らかのマイナスが生じているということが言えるのではないかというような事例だが、質屋、公衆浴場で営業利益が低下するのではないか。あるいは東京12チャンネルのように1つしかないチャンネルを争う以上、自分が免許は受けられなくなる、あるいは、6の公有水面埋立があれば、漁業資源への影響があるのではないか。あるいは里道が廃止されれば、ある程度は生活に支障が生ずるのではないか。航空機の運行が許可されれば、それによって騒音が生ずることは間違いないのではないか。それから特急料金が上がれば、自分の払う特急料金が増えると、これは間違いないのではないか。風俗環境、つまり風俗営業が許可されれば、パチンコ屋等が事例になっているが、これは診療所に限らず、その周辺で生活している人にとっての風俗環境に影響があることは間違いないのではないか。それから道路拡幅があれば、そこで交通量が増えて、自分の環境に対して、騒音や震動、煤煙等の関係では、何らかの影響があるということは間違いないのではないか。16の、墓地が設置されると、その生活環境が変わることは、それがどの程度のものかということは別として、間違いないのではないか。それから、日照についても建物が建ったことよって直接日照が増えるか減るかという問題は現実には生ずるのではないか。永田町小学校から麹町小学校に800 メートル通学する小学校が変わったが、その800 メートルを子どもが歩かなければいけないという部分では事実として変化が生じている、つまりここでは現実問題として変化が生じていることはある程度間違いない、では、これがどの程度の変化であれば、これをもって原告適格があると認めていいのかという問題で、例えば永田町小学校の事例では、社会通念上通学が可能かどうかというようなことを1つの基準にしているということが参考になるのではないかと考えた次第である。
 「2 不利益を受けるおそれ」というのは、おそれがあるということ自体を不利益ととらえれば、それは現実の不利益かもしれないが、洪水というのはまだ起こっていない、100 年に一遍、このぐらいの雨が降れば起こるかもしれない、つまり、ある程度の条件を設定した場合、仮定した場合に不利益が生ずる。原子炉事故についても何かこういう条件と、こういう条件が起こった場合には事故が起こるかもしれない、絶対に起こるとは言えるか言えないか、これは何らかの確率で、ゼロに近い確率から高い確率まで、非常に確率には幅があるのではないかという感じがするものである。それから、崖崩れにしても、土砂の流出災害、水害等にしても、100 年に1回のものを前提にするのか、あるいは地震でもものすごく巨大な地震を想定するのか、どの程度の地震を想定するかによって、その範囲が違うのではないか。また、これは委員からの御指摘もあった建物の倒壊、炎上などは実際どのぐらいの確率で起こるのか、その確率というのはかなりの違いがあるのではないか。したがって、こういう不利益を受けるおそれについて考えるときに、ではどのぐらいの確率を考えればいいのか、その確率と、それからその確率によって生ずる場合の被害の種類、内容、つまり生命、身体の問題なのか、財産の問題なのか、そういうことは相関関係的に考えるべきものなのかどうかということが論点になるのではないかということで、こういう仕切りをしている。
 「3 利害関係」の前に、「4 法的利益」を見ると、先ほどの「現実の不利益」に当たると、ある程度のマイナスが生ずるのではないかという場合に、それがどこから法的利益と言えるのかという点で、今までの判例はかなり悩んでいるのではないか。例えば、質屋営業者については、質屋営業者に独占的な利益を享受する地位を保障するものでも、一定の営業利益を保障するものでもなく、許認可を受けた営業であるからといって、許認可を受けて営業できている地位というものが、他の営業者に対して許認可をされたときに、その許認可を争う、そういうことによって保護されるべき利益ではないとしているのだと思う。
 ところが、公衆浴場になると、適正な許可制度の運用によって保護されるべき業者の営業上の利益は、公衆浴場法によって保護される法的利益だと判断しており、では質屋と公衆浴場はどう違うのか、これをどう考えるのかという問題があろうかと思う。
 それから、主婦連ジュース訴訟の判決は、果汁の内容について容易に理解することができる利益というような主張がされているが、こういった利益は、原告適格を基礎づける利益ではないとされ、伊場遺跡の事例では、文化財の学術研究者の学問研究上の利益についても原告適格を基礎づけるものではないとされている。
 里道の廃止により、生活に著しい支障が生ずるという特段の事情、これはまさに特段の事情、生活の支障が著しいかどうかで原告適格があるかないかが変わるということを最高裁は判断しているのではないかと思われ、永田町小学校の事例のように、処分性の判断ではあるが、社会通念上通学することができる範囲内にあるのかどうか、この社会通念については、どの程度の変化が生じているのかという程度問題についても考慮されているのではないかという問題である。
 「3 利害関係」の問題で、利害関係について判断した事例としては、長沼ナイキ基地訴訟で、生活利益の具体的内容と性質、その重要性、森林の存続との具体的な関連の内容及び程度に照らし、直接の利害関係を有する者として、その利益主張をする法的地位を付与するのが相当であるかどうか、つまり直接の利害関係を有する者が手続に参加する地位が与えられている。森林法については、改正前の森林法では、行政訴訟の原告適格そのものを直接の利害関係を有する者として規定していた。ほかの法律では、現行法でも公証人法になると、法務大臣に異議申立てをする資格について、公証人に嘱託した人と、利害関係人は法務大臣に異議申立てをすることができるということになっており、そういう利害関係を有する者というのが原告適格の基準にされた事例があって、そういった事例が、その当時の森林法では手続参加の要件として直接の利害関係を有する者と規定されていたことから、その直接の利害関係を有する者をこのような形で判断しているという事例がある。
 それから、次に補助参加の訴訟の結果について利害関係を有する者について、これは管理型最終処分場から有害な物質が排出された場合に、直接的かつ重大な被害を受けることが想定される範囲の住民は訴訟の結果について利害関係を有する第三者に当たるとしており、利害関係という観点から判断を示した事例としては、こういったものがある。
 これまで判例の基本的な基準、個別具体的な利益として保護する趣旨を含むかどうかという個別法の解釈の指針というところから説明してきたが、今回、少し視点を変えて、不利益の程度、性質の違い、そういったものからどこまで違いなり原告適格の範囲というものを考えていけばいいのかということで、視点を変えて整理してみたので、これ自体が今日の検討の視点としてこれでいいのかどうかは、御検討いただければ結構であるが、事務局なりにこういう視点で整理するということもあり得るのではないかということでまとめてみた次第である。

□原告適格については、「行政訴訟検討会における主な検討事項」の23ページ以下に、今まで議論された御意見を拾っている。ただ、もう少し具体的な事件に即して議論しないと、議論が宙に舞ってしまうこともあるし、また、具体的にこの事案は原告適格を認めないのはどうしてもおかしい、その場合にどういう論理構成を取ればうまく説明できるかといったアイデアもいただきたいということで取り上げた。
 なお、この検討の視点の見方というのは、これは1つの見方として提示したものである。抽象的な「個別的な利益が保護されているかどうか」という最高裁の文言を含んだ具体的な判例に即して、侵害、利益、あるいは不利益の方から見て整理するとこうなっているということなので、重要な視点からの整理だと理解をしているが、これで今後議論を整理するというつもりではない。

○こういう資料が出てきた理由だが、私の理解では、前に原告適格については広げるにしても、具体的にどうなるのかがわからない、行政や国民に理解を得ることができないのではないかという話があって、そこで、「不適切事例」を挙げるということになって、こういう資料が出てきたのではないかと思うが、理解としてはそうではないのか。

□私の理解では、「不適切事例」は大分前に出した。それで、だんだん議論していく間に、またやや抽象的な議論になったので、事務局の方から、もう少し具体的な事件に即して議論をしてみたらいかがかという発言があり、それももっともかと思った。
 特に、「行政訴訟検討会における主な検討事項」の24ページ以下のところは、やや抽象化されているので、もう少し具体的に議論をしていただけると、議論が詰まってくるのではないかという趣旨で出している。
 したがって、ここで不適切な事例だけを取り上げてどうこうというのではなく、もう一つは、時系列で見ると、最高裁の判例も、理論構成は同じだが、実質はかなり動いているところもあって、そこをどう見るかという点の資料としても使っていただきたい。

○若干発言の趣旨を補足させていただくと、立案作業を検討する上で幅広く理解を求めていかないといけないが、法律の条文を変える場合に、それがどういう具体的意味内容を持っているかということがわからないと、なかなか理解を得にくいだろうということで、具体例に即して、どういう考え方の下に、どう変えるべきかということを議論していただきたいという趣旨で申し上げた。
 その中で、不適切な場合だけを取り上げてということではなく、勿論それもあるが、現在の場合だと、ややもすれば、今の書きぶりなり、現在の実際上の結果から見てこういう範囲のものについて原告適格を認めるべきであるけれども、現在の法律の条文なり、現在の判例の運用ではなかなか広がらないという場合には、広げるべきではないかというのはどういう具体的事例があるか、その場合には、どういう考え方で広げるかということも議論していただきたい。
 他方、法律の条文だが、広げた場合には、本来保護されるべき範囲だけではなく、それに付随して、おおよそ訴訟で救済される必要性が薄い人まで入ってくる可能性があるが、そういうおそれがあるので、いろいろな形で反対意見等が出るおそれがあるが、そういう場合には、逆にこういう範囲の者までは原告適格を認める必要はないのではないかという、そういう限界についても一定の考え方をお示しいただければ、大変立案の参考になるのではないか。
 勿論、実際上の当てはめになると裁判官の個別の認定の話だから、当然に1対1対応にすると考えてもらっては困るが、1つの指針としてこういう考え方であれば、具体的には原告適格が広がる可能性がある、あるいは逆に広がるけれども、これ以上は広がらないという議論の目安をいただきたい。

○疑問が1つあり、騒音、日照の判決事例があったが、こういうものについては、基本的に原告適格が認められている一方で、道路法、都市計画法に関わるものについて、道路法区域や、都市計画法で決定をしたエリアの外、やや外にいる人たちは、基本的に認められていない。個別法で制度的に空間を規定したがゆえに、ややその外にいた人が逆に原告適格の資格がなくなっている。騒音、日照というのは、逆にそういう強力な法律、個別法がないために認められているという、制度空間の谷間的なところをどう理解するか、そこのところは本当に原告適格はないのかは、よく理解できない。変に実体法で規定があるがゆえに、逆に救われない原告適格者が出現しているという理解ができるが、これはいかなるものかよくわからない。

○社会通念上とか言われているが、今回の判例を見ると、例えば「1 現実の不利益」と分類されているが、この中で認められているのは非常に少ない。営業利益の低下の2は認めて、3も認められているが、その後の6、7公有水面とか、航空機の騒音の損害は認めているが、特急料金は認めてない、風俗環境についても住民については認めていない、というので、かなり認めていない例がある。
 2については、ほとんど非常に大きな影響があるということで、これは認めている。利害関係についても、認めているが、「4 法的利益」については、法に照らしてほとんど認めていない。公衆浴場については認めているが、ほかについては認めてないということで見ると、例えば特急料金の問題などは、議論の中で認めていいのではないかという話があったが、必ずしも判例の中では、これは当たらない。ただ、素直に読んでもなぜ当たらないのかが必ずしも明確に書かれているとは思われない。
 例えば、私が簡単に見て、公有水面埋立や漁業権との関係でも、近所に漁業権があるからといって、これも当たらないと判断しているが、どうもさっきいった通常の世間的な通念から見ても、どこで判断しているのか、必ずしも基準がすべての判例の中で明解に出ているとは言えない。それが1つの印象である。
 もう一つは、個々の中で、目的を共通する関連法規による法体系の中で判断しているという指摘もあるが、すべての判例が本当にそういう関連法規まで調べて、法体系の中で判断されているのかどうか、よくわからないところがあって、特に拒絶されているところが、そこまでちゃんとやっているのかどうか、例えば果汁の内容等について問題になっている中身についても、これが本当に消費者が果汁の内容までちゃんと知らなくてもいいという中身で書かれているが、どうもそれが本当に全体の法体系の中で、そう判断できるのかどうかというのも少し疑問だと思っており、基準があると言えばあるようだが、かなりその基準は揺れているのではないかという印象を持っている。そういう意味で基準を何らかの形で出すのが好ましいのではないか。

□今の御意見は、法律上、基準の内容はいろいろ議論があるかもしれないが、基準としてもう少し具体的なものを出した方が少なくとも国民にとってはわかりやすいし、その方がいいという御意見だと思う。

○もう一点、「4 法的利益」とあるが、どうも個別実体法の中でも、本当にこれが行政法としてしっかり国民の権利、利益を意識して書かれているかどうかという面から見ても、個別的に問題があるのではないか。それを単純に裁判上の根拠としているところの問題は残っているのではないかという印象を受けた。

○新潟空港の判決は突出している。あれだけは関連法体系というようなことを言って、一種無理やり認めている。通常であれば、あれは一審、二審は却下しているから、最高裁が無理やり認めたと思っている。なぜああいう判決になったかというと、やはり大阪国際空港の事件があり、大阪国際空港では民訴はだめだと言った。これは行訴はともかくとしてといって留保したが、今度は、行訴がだめだと言ったら、これは民訴も行訴もだめになる、行訴をこの事件では認める方向で何とかならぬかということでかなり無理をしてやったんではないかというふうに実は担当の裁判官から聞いている。だから、基準があるようで、実際上ないのではないかという印象は、まさにそのとおりだと思う。例えば、この法律は、個別的利益を保護しているか、保護していないか、という判断についても、保護していると言えば保護しているし、保護していないと言えば保護していないということに過ぎない。要は言うか、言わないか、つまり原告として入口を通過させるかさせないかということである。そこの判断があって、これは通過させようと思ったら、個別的な保護をしているんだという、通過させないと思えば、そうではないというだけの話ではないかと、思っている。
 ここの議論は、要するに訴訟の土俵に上がれるか、上がれないかという議論であり、なぜ上がれるか、上がれないかというところで、これほどあいまいな基準と、それから上がれないというふうな判決が、なぜこんだけ多いのかというのが、これは普通の社会通念から見て、あるいは国民感情から見ておかしいと思うのが当然だろうと思う。訴訟の土俵に上がってから勝ち負けが決まるわけであって、上がったけれども負けるというケースは当然あり、当然勝てるケースという意味で言っているのではないから、とりあえず上げて、そこで判断させるのが本当ではないかと思うケースばかりである。私はこれを全部原告適格を認めるべきだと思う。なぜそういうことにちゅうちょしなければいけいないのか。行政の違法があると、国民がわざわざ費用と時間を使って裁判所に申出をしており、濫訴の議論もあるが、非常に真面目に裁判を起こしているケースが通常であるから、そういったケースについて、せっかく違法な行政だといって言ってきているにもかかわらず、それを判断しないで門前払いをすると、違法な行政がそのまま残ってしまうという結果になる。そういった結果は、今後は残さないように、我々の検討会で十分考えていくべきではないか。
 12番の判例は、結局、原告適格はないという判断だったので、却下でよかった。しかしながら、「審理は既に本案の判断をするに熟しているのであるから、単に右訴訟における原告適格を否定して訴え却下の訴訟判決をするのではなく、本案につき請求棄却の判決をするのが、訴訟の実際にかなうゆえんである」と、いう言い方をしている。つまり、この判決によると、これは原告適格はないというケースだが、それを審理する中で、本案に適するところまで審理が進んだから、却下ではなくて棄却した方が訴訟の実際にかなうゆえんだと言っている。こういう考え方からすると、土俵に上げてやるというのも、これは要するに原告の国民の側からの利益だけではなく、被告とされている行政側についても、ある意味で利益の面があるから、つまり門前払いにされるよりは適法か違法かをきちんと判決してもらいたいというのは、これは何も原告側だけの要求ではなく、それを表しているのがこの12番の判例だと思う。そういう意味において原告適格は、要するにかなり広く認めて、要は土俵の上で勝負してもらうということを考えるべきだと思う。

○たくさん挙がっている中で、今、全部認めろとおっしゃったが、全部は認める必要はないだろうと思うので、まず、認めなくていいと思うのを挙げる。
 まず、1で、これは質屋営業法の保護範囲に入っておらず、競業者のための法律ではないから、こういうものがもしなかったとすれば自由競争にさらされるのが当然なので、これは認める必要はないと思う。それから、せっかく認めた19で、日照阻害というが、事実関係を見ると、1日のうちに何分か影が通り過ぎるだけではないかと思うので、これもどうかなと思っているが、しかしこれは最近の最高裁がせっかく勢いづいて認めているので、ここまで認めたという感覚である。7の里道の廃止。これは著しい支障があれば認めるといっていて、この事案では著しい支障はないといっているので、事実認定の問題で、それはそれでいいかと思うが、支障があれば必ず認めてほしい。新潟空港の場合も、最高裁としては頑張ったというところで、結論としてはいいが、そこはやはり程度の問題で、著しい騒音については認めていいが、著しくなければ認める必要はないのではないか。認めないでいいケースはあるだろう。もう一つは、主婦連ジュース訴訟の場合には、一般消費者に認めていたらきりがないので、一般消費者には認めるべきではないと思うが、それに代えて適切な団体には認めるべきではないかと思う。
 何か基準があるかということになるが、基準を書くのは大変難しい。英語で言えば、クオリファイド・インタレストで、単にインタレストがあるというだけではなく、日本語で言うと特別な利益ということになって、ちょっと固いかもしれないが、今、言ったような意味で、何らかの意味でこの人は一般とは違うというところが言えればそれでいいのではないか。
 「2 不利益を受けるおそれ」のところは、現実の不利益ではなく、単なるリスクだが、しかし、基本的には生命健康に関わる、結果は重大なリスクということで、これも結果の重大さに着目すれば、クオリファイドなインタレストと言っていいかと思う。文化財の場合も、これは学術研究者だからクオリファイドかというところで、真面目で実績のある研究者であればクオリファイドかと思う。

□主婦連は既にクオリファイドだと主張してきたことになるのか。真面目な研究者と同じように、真面目に消費者のためにやっているということだと、団体訴訟ではなくて認めるのか、団体訴訟として処理しろという話なのか。

○そこまで全部引っくるめて1つの条文で団体まで認めていただければ、それはそれでいいと思う。団体というのは、主婦連はジュースを飲まないという屁理屈を言われるのであれば、もう一つ条文が要るということである。

○資料3−1で整備していただいた問題意識は大変よくわかるし、また立法論を考える上で大変参考になる。この整理でも、あるいは資料3−2も含めて概観してかなり明らかになったことがあると思うが、最高裁は、やはり基本的には常識的な判断で、これはかわいそうだというのは、できるだけ救おうとしているのは明らかだと思う。ただ、もともと法律上保護された利益説という特異な考え方を一旦採用してしまったために、それを無理やり当てはめようとして、かなりアクロバティックなことをやっていて、アクロバティックな範囲でも何とか読めるものは認めているけれども、少しのりを超えたものは実質的にどうかと、救った方がいいかもしれないというものも含めて外れざるを得なくなっているのではないかというのが概括的な印象である。
 個別にコメントを申し上げると、1の質屋の判決は、こんなもんだと思う。2の公衆浴場も、結局立法の趣旨に照らすということで、その立法の趣旨自体が自由競争を奨励するものなのか、あるいは同業者の利益も守るとするか、これは立法政策の問題で、その当否というのはあるが、公衆浴場法というのが同業者の利益を保護しているのだとすれば、これはこれでやむを得ない。3番の競願もこれでいい。主婦連ジュース訴訟は、確かに主婦連に認めたり、あるいはジュースを飲む人にだけにでも認めたら客観訴訟と変わらなくなるという気はするが、もともと景表法のような法律の趣旨というのは、そのジュースを飲む人の健康を守っていると考えれば、これは団体と言わなくても個人に認めてもよかったのではないかという印象である。
 5の長沼ナイキは、これでいい。6の伊達火力も、結論はこれでいいと思うが、明文の利益ということは、個別にしんしゃくし過ぎているという意味で、理由が無理がある。7も同様の印象である。著しい支障というのは、全体を通じて、最高裁の判決で多用される概念だが、著しいということを余り言い過ぎると、法的評価で非常にハードルを高くするという傾向が出てきてしまい、最高裁の判決全般に、原告適格に関しては、著しいというところのハードルが少し重目ではないかという印象を持っている。8もそういう意味では、条文解釈を引っくり返し過ぎているという点で、結論は結構だが、ここまで全体の法体系を見ないと判断できないというのは、これでわかる人は、なかなか弁護士でも法学者でもいないのではないかという印象である。
 9は、結論は反対だが、保護された利益説であったとしても、これが定期券を購入して居住している人についても読めないというのは、ここはやはり少し厳し過ぎるという印象である。遺跡訴訟は、解釈論としてはこんなものだと思うが、立法論としてはあった方がいいと思う。
 もんじゅ訴訟についても、これも先ほどの新潟空港訴訟と同じで、理由についてここまで条文をあれこれ引っくり返さないと、直接かつ重大な被害を受ける場合の人に原告適格を認めるという結論を出せないのだろうか、そうではなくて、立法の趣旨自体で、もう少し端的に判断するやり方があるのではないか。個別に条文を引っくり返し過ぎるという1つの標本のように思う。
 風俗営業も12番と、もう一つの14番との対比で言うと、これも非常に細部の条文解釈にこだわり過ぎているという気がする。条例は医院を保護しているが、政令の方では一般居住者を保護していないというふうに意味を持たせて読むべきものかどうかという点で、かなりバランスが悪い。両方とも原告適格ありで全く問題がない事例だと思う。更に、30メートルには収まっていないけれども、請求棄却でいいという判断をしているが、そうであれば似たような話の永田町小学校も同じであり、800 メートル遠くなって、社会生活上通学できるかどうかということは、非常に微妙な判断だから、条例自体は本案に載せておいて、むしろ本案の違法かどうかのところで判断した方がよかったのではないかという印象がある。
 都市計画法の開発許可はやむを得ないという印象である。環状6号についても、これについては認められなかったが、都市計画だから、認めてよかった案件だと思う。ただし、似ているが、ちょっと違うものをあえて問題提起すると、土地収用の事業認定の場合には、起業地になるのは、専ら用地取得のためだけの手続であり、都市計画のように、環境も配慮して事業全体の公益性を判断するという法手続とは違うから、これは個別の条文を引っくり返してということではなく、立法の意図自体が違うと考えて、事業認定などでは起業地以外には原告適格は一切不要で、ただ都市計画の場合は全く事情が違うという印象である。
 墓地経営も、300 メートルに満たないところであってもだめだというのは、結論としては全くおかしく、認めてもいい案件だったと思う。17については、34ページに2種類書いてあるが、前半の方の水害等の災害で直接被害を受けることが予想されるという方はいいが、後ろの方の財産権を持っているだけだとだめだという、この線引きはよく理解できない。財産権だって土砂の流出がないことで守られている利益だというのは、全く連続線上の議論ではないかと思う。
 18の総合設計についても結論はいいが、これもここまで条文を引っくり返さなくても同じ結論はもっとストレートに出していいのではないか。19については、こんなものであろう。
 産廃の21の決定だが、これも直接的かつ重大な被害と、ここまで限定してでないと原告適格を認めないというのは、もう少し緩めないとまずいという印象である。

□そういう印象を持っているとすると、これを変えるのには、条文を改正しないといけないという判断か、それともここまでやれるんだから、今のままだってできるということか。

○最高裁は非常に努力されていて、常識的な線を目指しているという意味では、今の判例は、現行の解釈的に確定した理論の下ではよくやっていると思うが、やはり限界がある。条文としては、24ページのA案に近いが、現実の利益というのは、ここで想定しているのは、法的な因果関係のある現実の利益なり、あるいは侵害されるおそれだと理解しているが、そういう前提で立法論的に解決した方がいい。

□御意見として承っておく。

○山本先生にお聞きしたい。私の印象では、民事訴訟の場合、原告適格のレベルではほとんど問題になることはないと思っている。だから、当事者適格を広く認めて、あと訴えの利益のところで操作をしているという印象を持っているがどうか。

●訴訟類型によって、それぞれ理解が違うのではないかと思うが、給付訴訟については、原則として請求権の構成を民事訴訟は取っているので、どういう人の利益が保護されるかは法案の問題で基本的に解決される。ただ、第三者の利益に基づいて訴えを提起するという訴訟担当、債権者代位などについては一定の当事者適格の問題が生じる場合があり得る。
 それから確認訴訟については、現在の流れは、基本的には確認の利益にすべて一元化され、結局その当事者について本案判決をすることが紛争の解決に適切かどうかということで、当事者と訴訟物を含めて、一体として相関的に判断されるという構造になってきていると思うので、当事者適格それ自体が独立に問題になるということはほとんどないということだろう。
 形成訴訟については、基本的には当事者適格は、まさに形成訴訟を書いている条文の中で書かれていることが原則であるということで、民訴で問題になる場合には、例えば株主総会決議取消訴訟で原告適格を持っている株主とか、それほど解釈論を必要とするような場面というのは余りない。
 総合的に見れば、民訴では問題となり得る場合はそれほどない。先ほど私の紹介したような議論の対立というのは、基本的には説明原理、そして若干議論のあり得る給付訴訟における訴訟担当についての解釈論に関して、そういう議論がなされているというようなことである。

○そうすると、そういう民事訴訟法の立場からごらんになって、行政訴訟で原告適格が非常に大きな問題になっているという状況はどういうふうに評価されることになるのか。

●非常に難しいところだと思うが、行政実体法において請求権という構成が取られていないということで、基本的には形成訴訟としてなされていて、ただ形成訴訟で定めている原告、まさに行政事件訴訟法9条の条文の解釈が非常に難しく、恐らくここに挙げられているいずれの案をとっても解釈の問題は非常に難しいものが残らざるを得ないということで、そういう意味で、民訴ではかなり抽象的なある種の説明原理としての位置づけしかないような議論だが、むしろ行政訴訟の1つの判断の基準として、こういうような考え方が御参考になるかということで紹介をさせていただいた。

○形成訴訟については、原告適格の規定がしてあるという御趣旨か。

●多くの場合がそうだと思う。

○例えば株主総会決議取消の訴えは、株主で、しかし無効確認訴訟は、一応確認訴訟か。

●株主総会無効確認訴訟は、講学上は形成訴訟と理解されているように思う。

○それは少数説で、そういう説もあるが、確認訴訟だと思う。そうなると取消訴訟の場合には、株主以外の者が原告になって決議取消訴訟を起こした場合には却下になって、確認訴訟だったら棄却になるということになるのか。

●仮に株主総会決議無効確認訴訟が確認訴訟だとした場合に、基本的には、どういう人が当事者になっているかということも含めて、その確認判決をすることが紛争解決に資するかどうかという確認の利益の問題として、一元的に理解していくというのが最近の多くの人の考え方だと思うので、やはりその人に確認判決を与えることが紛争解決にとって必ずしも適切なものではないというようなことであれば、それは確認の利益がないという判断で訴えは却下されるということになろうかと思う。

○株主でない者が起こした場合は、確認の利益の点ではねられるということか。

●例えば、全く関係ない私が、全く関係のない会社の総会決議の無効確認をこした場合に、私に対してそういう判決を与えても意味がないということだ。

○民事訴訟の、訴訟の結果にかかる重要な利益説の重要という文言と、最高裁判決の原告適格でよく使われる重大とか著しいという概念とどの程度重なり合う概念として理解されたかという印象があったら教えていただきた。

●最高裁の判例を十分に理解していないので、非常に難しいが、福永先生などが書かれているものによれば、重要なという文言が入っているのは、先ほどの資料3−2の最後の21の決定との関係で、民事訴訟法42条の補助参加の要件として、訴訟の結果について利害関係を有する第三者という文言があり、これは単なる利害関係とだけ書いているが、補助参加ができる資格よりはより重要な利益、それにとどまらない利益がやはり原告になるためには必要だということで、こういう重要なという言葉を使っているのだろうと思う。民事訴訟において補助参加できる利益というのは、最近の判例、学説ではかなり緩やかに理解されて、それよりは重要だが、そんなに強いものを求めているわけでは多分ないのではないかという程度のことである。

□全部原告適格を認めるべきだという意見もあったが、他方、それぞれ若干の星取り表的な御発言もあり、そこの中にはかなり共通する点もあるかと思った。
 今日の御意見を参考にしながら、もう一つの問題は、そういった問題があることを前提とした上で、それでは条文の改正ということになるのか、あるいは改正に踏み切ったとしても、きちんとした基準が書けるかという問題がある。例えば、先ほどの御提案のように、現実の利益を侵害され云々というのが、そのような基準であるのかどうかという点についても、これから議論していかなければいけないことだと思う。
 また、ドイツは利益を侵害一本であれだけのことをやっていて、フランスは条文は何もないということで、外国の裁判所がいかに頑張っているかという点にも注意しなければいけない。また最高裁も頑張っていると見る人と、頑張っていないという見る人と両方あり、時系列的に見ると、論理的には無理しているが、結論的には支持をしているなど、そういったいろいろな角度からの問題があるので、また議論を深めてまいりたい。

【裁量の審査について】

■裁量の審査については、これまで余り具体的な事例の御紹介をしていなかったという思いもあり、資料4として補充した。幾つか裁量の審査に関係すると思われる最高裁の判決を挙げている。その位置づけや理解の仕方は、いろいろな考え方があり得ると思うので、その点も御意見を述べていただきたい。
 まず、1は、広汎な裁量が認められた1つの例として、いわゆるマクリーン事件を挙げている。これは、外国人の在留期間更新不許可処分の関係であり、判決の理由は別紙として付けており、この事件は5ページからが理由になっている。これは、外国人が在留期間の更新を申請したところ、更新を適当と認めるに足りる相当な理由があるものとは言えないとして更新を許可しない処分がされた。それは、在留期間中の無届転職と政治活動というようなことが理由になっていた。これについては、出入国管理令でのこの処分の裁量について、6ページの下からその解釈を展開しており、6ページの一番最後の行から、「出入国管理令が原則として一定の期間を限つて外国人のわが国への上陸及び在留を許しその期間の更新は法務大臣がこれを適当と認めるに足りる相当の理由があると判断した場合に限り許可することとしているのは、法務大臣に一定の期間ごとに当該外国人の在留中の状況、在留の必要性・相当性等を審査して在留の許否を決定させようとする趣旨に出たものであり、そして、在留期間の更新事由が概括的に規定されその判断基準が特に定められていないのは、更新事由の有無の判断を法務大臣の裁量に任せ、その裁量権の範囲を広汎なものとする趣旨からであると解される。すなわち、法務大臣は、在留期間の更新の許否を決するにあたつては、外国人に対する出入国の管理及び在留の規制の目的である国内の治安と善良の風俗の維持、保健・衛生の確保、労働市場の安定などの国益の保持の見地に立つて、申請者の申請事由の当否のみならず、当該外国人の在留中の一切の行状、国内の政治・経済・社会等の諸事情、国際情勢、外交関係、国際礼譲など諸般の事情をしんしやくし、時宜に応じた的確な判断をしなければならないのであるが、このような判断は、事柄の性質上、出入国管理行政の責任を負う法務大臣の裁量に任せるのでなければとうてい適切な結果を期待することができないものと考えられる」。こういうような性質の裁量を持った処分だとしている。併せて、この判決は、裁量について若干一般的な議論も述べている。「ところで、行政庁がその裁量に任された事項について裁量権行使の準則を定めることがあつても、このような準則は、本来、行政庁の処分の妥当性を確保するためのものなのであるから、処分が右準則に違背して行われたとしても、原則として当不当の問題を生ずるにとどまり、当然に違法となるものではない。処分が違法となるのは、それが法の認める裁量権の範囲をこえ又はその濫用があった場合に限られるのであり、また、その場合に限り裁判所は当該処分を取り消すことができるものであつて、行政事件訴訟法三〇条の規定はこの理を明らかにしたものにほかならない。もつとも、法が処分を行政庁の裁量に任せる趣旨、目的、範囲は各種の処分によつて一様ではなく、これに応じて裁量権の範囲をこえ又はその濫用があつたものとして違法とされる場合もそれぞれ異なるものであり、各種の処分ごとにこれを検討しなければならない」と述べている。
 2の事例は、一応合理性の基準に関係するものということで挙げている。原子炉の設置許可関係の処分で、伊方原発事件である。判決の理由を、10ページから別紙2として挙げているが、11ページの上から2段落目で、「右の原子炉施設の安全性に関する判断の適否が争われる原子炉設置許可処分の取消訴訟における裁判所の審理、判断は、原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の専門技術的な調査審議及び判断を下にしてされた被告行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって、現在の科学技術水準に照らし、右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり、あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程にに看過し難い過誤欠落があり被告行政庁の判断がこれに依拠してされたと認められる場合には、被告行政庁の右判断に不合理な点があるものとして、右判断に基づく原子炉設置許可処分は違法と解すべきである」というように述べている。その下に、裁量そのものの問題ではないが、主張、立証責任についても若干触れており、参考までに御紹介すると、「原子炉設置許可処分についての右取消訴訟においては、右処分が前記のような性質を有することにかんがみると、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来、原告が負うべきものと解されるが、当該原子炉施設の安全審査に関する資料をすべて被告行政庁の側が保持していることなどの点を考慮すると、被告行政庁の側において、まず、その依拠した前記の具体的審査基準並びに調査審議及び判断の過程当、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があり、被告行政庁が右主張、立証を尽くさない場合には、被告行政庁がした右判断に不合理な点があることがね事実上推認されるものというべきである」と述べている。結論としては、11ページの一番下で「原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会が本件原子炉施設の安全性について行った調査審議及び判断に不合理な点があるとは言えず」ということで、適法としている。この判決の理由中には、「行政事件訴訟法30条」も、「裁量の逸脱」あるいは「濫用」といった言葉は出てきていない。
 3は、平等原則に関するものとして、昭和30年の判決を挙げている。判決の理由は13ページに記載している。これについては、「『市町村長が、知事に従い、食糧調整委員会の議決を経て、提出割当数量を定め、遅滞なくこれを生産者に通知する』との趣旨の定めがあるにとどまり、その方法として、いわゆる事前割当の方法(生産開始前に予め部落内の生産者相互の協議を経て割当額を決定通知する方法)によるべきかどうか、また割当通知の時期を何時とすべきか等については、何等具体的な定めがなかったことは明らかである。従って、これらの点についてどのような措置をとるかは、一応、行政庁の裁量に任されていたものと解さざるを得ない。もつとも、かような場合においても、行政庁は、何等いわれがなく特定の個人を差別的に取り扱いこれに不利益を及ぼす自由を有するものではなく、この意味においては、行政庁の裁量権には一定の限界があるものと解すべきである」と述べており、具体的な事情を認定した上で、「事情を綜合して考えれば、被上告人が供出割当について上告人を前記の程度において区別して取り扱ったとしても、これをもつていわれのない差別取扱による違法処分というには当たらず、また右措置が上告人に対する人格蔑視に基く違法処分であるということもできないものといわねばならない」という結論になっている。
 4として2つ挙げているが、比例原則に関係するものを挙げており、1つ目は運転免許の取消処分の関係である。最高裁の昭和39年の判決で、理由は14ページからである。「自動車運転手の交通取締法規違反の行為が、道路交通取締法九条五項、同法施行令五九条、昭和二八年総理府令七五号八条一項所定の運転免許取消事由に該当するかどうかの判断は、公安委員会の純然たる自由裁量に委かされたものではなく、右規定の趣旨にそう一定の客観的標準に照らして決せらるべきいわゆる法規裁量に属するものというべきであるが、元来運転免許取消等の処分は道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることを目的とする行政行為であるから、これを行うについては、公安委員会は何が右規定の趣旨とするところに適合するかを各事案ごとにその具体的事実関係に照らして判断することを要し、この限度において公安委員会には裁量権が認められているものと解するのが相当である」ということで、原判決の確定した事実関係に基づいて判断をし、結論としては、第一審、二審の判断は、免許取消しまでいかずとも免許停止処分でよいという判断だったが、最高裁では結論が変わり、最高裁の判決は、14ページの下の方で「されば、本件運転免許取消処分を『比例原則』に違反し、著しく公正を欠く裁量を行った瑕疵ある行政処分として取り消した第一審判決および同判決を正当として是認した原判決は、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背あるものというべく」ということで、結論を変えている。比例原則という言葉が明示されている数少ない判決かと思う。内容的には、Uターン禁止の場所でUターンをしてしまい、それだけでは運転免許の停止事由だが、それ以外の情状、過去にも大分違反をしているということを考え併せると取消しでよかったのではないかという判断がされたというものである。その後に、一審、二審の判断を記載しているので、対比してごらんいただきたい。
 4−2として挙げた判決は、公務員の懲戒免職処分の関係であり、最高裁の昭和52年の判決である。判決理由が、大分長くなっているが、具体的な事実関係に基づかないとなかなか判断がしずらいということもありまして記載をしている。比較的一般的な部分としては、22ページの真ん中から下の方で「(三)裁量権の範囲の逸脱について」ということで判断がされている。「公務員に対する懲戒処分は、当該公務員に職務上の義務違反、その他、単なる労使関係の見地においてではなく、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務することをその本質的な内容とする勤務関係の見地において、公務員としてふさわしくない非行がある場合に、その責任を確認し、公務員関係の秩序を維持するため、科される制裁である。ところで、国公法は、同法所定の懲戒事由がある場合に、懲戒権者が、懲戒処分をすべきかどうか、また、懲戒処分をするときにいかなる処分を選択するべきかを決するについては、公正であるべきこと(七四条一項)を定め、平等取扱いの原則(二七条)及び不利益取扱いの禁止(九八条三項)に違反してはならないことを定めていること以外に、具体的な基準を設けていない。したがつて、懲戒権者は、懲戒事由に該当すると認められる行為の原因、動機、性質、態様、結果、影響等のほか、当該公務員の右行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、選択する処分が他の公務員及び社会に与える影響等、諸般の事情を考慮して、懲戒処分をすべきかどうか、また、懲戒処分をする場合に、いかなる処分を選択すべきかを決定することができるものと考えられるのであるが、その判断は、右のような広範な事情を総合的に考慮してされるものである以上、平素から庁内の事情に通暁し、部下職員の指揮監督の衝にあたる者の裁量に任せるのでなければ、とうてい適切な結果を期待することができないものといわなければならない。それ故、公務員ににつき、国公法に定められた懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、懲戒権者の裁量に任されているものと解すべきである。もとより、右の裁量は、恣意にわたることを得ないものであることは当然であるが、懲戒権者が右の裁量権の行使としてして懲戒処分は、それが社会通念上著しく妥当を欠いて裁量権を付与した目的を逸脱し、これを濫用したと認められる場合でない限り、その裁量権の範囲内にあるものとして、違法とならないものというべきである。したがつて裁判所が右の処分の適否を審査するにあたつては、懲戒権者と同一の立場に立つて懲戒処分をすべきであつたかどうか又はいかなる処分を選択すべきであつたかについて判断し、その結果と懲戒処分とを比較してその軽重を論ずべきものではなく、懲戒権者の裁量権の行使に基づく処分が社会通念上著しく妥当を欠き、裁量権を濫用したと認められる場合に限り違法であると判断すべきものである」とされている。比例原則は、必要性を超えた過剰な規制処分をしてはならないという原則だと思うが、その判断を裁判所がするに当たっては、この公務員の懲戒処分については、こういう判断の手法をすべきだと示した事例ということである。
 5は、他事考慮、考慮すべきこと、すべきではないことに関するものとして、平成8年の最高裁の判決を挙げており、学校の退学等の処分に関するものである。判決の理由は、28ページから記載をしている。高校生で、エホバの証人の信仰を持ち、その教義に従い、格技である剣道の実技に参加すことは自己の宗教的信条とは根本的に相入れないという信念の下で、剣道の実技に参加することができないと言い、レポート提出などの代替措置を認めてほしいと申し入れたが、教員がこれを拒否して、結果的には進級させないという原級留置処分をし、更には退学処分ということになったという事件である。その裁量の性質及び判断については、29ページ一番下の段落に記載している。「高等専門学校の校長が学校に対し原級留置処分又は退学処分を行うかどうかの判断は、校長の合理的な教育的裁量にゆだねられるべきものであり、裁判所がその処分の適否を審査するに当たっては、校長と同一の立場に立って当該処分をすべきであったかどうか等について判断し、その結果と当該処分とを比較してその適否、軽重等を論ずべきものではなく、校長の裁量権の行使としての処分が、全く事実の基礎を欠くか又は社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を超え又は裁量権を濫用してされたと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである」ということで、先例などを引いている。しかしながら、処分の重要性にかんがみて一定の配慮をすべきだということもその後に記載がされており、結論として、この事件は、31ページに4として結論の部分があるが、「退学処分をしたという上告人の措置は、考慮すべき事項を考慮しておらず、又は考慮された事実に対する評価が明確に合理性を欠き、その結果、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものと評するほかはなく、本件各処分は、裁量権の範囲を超える違法なものといわざるを得ない」という判断になっている。
 6は、手続の審査、手続違反に関するものとして、個人タクシー事件と言われている事件を挙げており、最高裁の昭和46年の事件である。この点については、多少一般的な判示としては、33ページの上の方にあり、「おもうに」として「道路運送法においては、個人タクシー事業の免許申請の許否を決する手続について、同法百一二二条の二の聴聞の規定のほか、とくに、審査、判定の手続、方法等に関する明文規定は存しない。しかし、同法による個人タクシー事業の免許の許否は個人の職業選択の事由にかかわりを有するものであり、このことと同法六条および前記一二二条の二の規定等とを併せ考えれば、本件におけるように、多数の者のうちから少数特定の者を、具体的個別的事実関係に基づき選択して免許の許否を決しようとする行政庁としては、事実の認定につき行政庁の独断を疑うことが客観的にもつともと認められるような不公正な手続をとつてはならないものと解せられる。すなわち、右六条は抽象的な免許基準を定めているにすぎないのではあるから、内部的にせよ、さらに、その趣旨を具体化した審査基準を設定し、これを公正かつ合理的に適用すべく、とくに、右基準の内容が微妙、高度の認定を要するようなものである等の場合には、右基準を適用するうえで必要とされる事項について、申請人に対し、その主張と証拠の提出の機会を与えなければならないというべきである。免許の申請人はこのような公正な手続によつて免許の許否につき判定を置くべき法的利益を有するものと解すべく、これに反する審査手続によつて免許の申請の却下処分がされたときは、右利益を侵害するものとして、右処分の違法事由となるものというべきである」と述べている。内部的な基準の意味合いについては、マクリーン事件の判示しているところと比べて違いがあるようにも思われる。
 最後に7は、目的違反に関するものとして挙げており、行政事件ではないものを参考として2つ挙げている。同一の紛争に関するものだが、刑事事件として行政権の濫用というような形で問題になった事件と、国家賠償請求事件の中で、行政権の著しい濫用というようなことが認められた事例として紹介をしている。その要旨としては、4ページに記載しており、「個室付浴場業の規制を主たる動機、目的とする知事の本件児童遊園設置認可処分は、行政権の濫用に相当する違法性があり、個室付浴場業を規制しうる効力を有しない」と刑事事件の中で判断されており、国家賠償請求事件の方でも同じ紛争ですので、「個室付浴場業の開業を阻止することを主たる目的として原判示の事実関係のもとにおいてされた知事の児童遊園設置認可処分は、たとえ児童遊園がその設置基準に適合しているものであるとしても、行政権の著しい濫用によるものとして、国家賠償法一条一項にいう公権力の違法な行使にあたる」とされている。
 児童遊園の設置基準自体には合致していたが、その目的が専ら近くに個室付き浴場業の営業が許可されることを阻止しようという目的で、児童遊園の設置を認めたものであったことが違法だとされた事案であり、国家賠償請求事件については、その具体的事実関係について、第二審の判決も、一番最後に挙げているので、御参照いただきたい。
 以上のような具体的な事例も念頭においていただいた上で、「行政訴訟検討会における主な検討事項」で幾つか挙げられている見直しの考え方、あるいはそれに対する指摘について、それぞれ更にまた議論を深めていただきたい。

□余り具体的な事案をお目にかけて議論していただいたというわけでもなく、多少抽象的な議論に終わっているところもあろうかと思い、具体的な事案で御説明をしていただいた。
 これを取り上げて検討していただくやり方はいろいろあろうかと思うが、先ほどの原告適格の御議論との関係からいうと、やはりこの最高裁の判例の流れ、あるいはそれぞれの個別の判断についての印象を伺うというのも1つのポイントかと思うので、果たして今度はここで検討事項として挙げられているように、30条の規定自体を見直す必要があるのかどうか、そういったところにまで及んでいただければと思う。

○裁量判断については、今もいろいろ紹介があったが、かなり類型化・パターン化してきている。例えば、在留期間の更新、あるいは資格の変更とか、こうしたものが争いになるときは、やはりマクリーン事件の判決の手法というのは非常に重要なものとしてある。
 そういう中で、更にどうやって緻密化させていくかという作業を続けてきて、30条との比較で判断が本当にできるのかというふうな御批判も受けるかもしれないが、現実に例えば更新不許可でも資格変更不許可でも、違法だという判決は幾つも出て、どんどん固まっていっている。違法か適法かの基準というのは、やはりもっと実際に具体的なファクターに落としていかないと、なかなか論じようがない。だから、そういう意味で何かを規制してしまうというふうな意味で30条が働いているなら変えた方がいいという御意見ももっともかと思うが、余りそれに引っかかっているような気はしていない。ただ、言葉の点で先日御指摘になられたように、確かに現代的な理解から言うと、言葉がぴたっと合ってないのかなというところはあるかと思う。

○言葉がぴたっと合ってないんだうということを、前から申し上げており、今日の例の中で言えば、52年の神戸税関事件、これは余り立ち入ってはだめだということを正面から強調する判決だったわけで、それが今の規定の文言にも割合あっている適用例だが、しかし実務はそんなところにとどまってないというのは、今おっしゃったとおりで、今日の例で言えば、5の学生・生徒に対する扱いは、広い裁量が認められるという1つの常識がありながら、しかしそれに全くとらわれずに、ではその裁量において何を考慮するべきなのかということをきちんとフォローしていけば、こういう判断がある。
 その過程で、いかにもおかしなところ、抜けているところがある、偏っているところがあるということになるわけで、こういった種類の判断手法を、地裁できちんとやっていただけばいいが、今の条文からしてこういうことに思い至らないような裁判官がもしおられるとすると、やはりまずいのではないかという気がする。

○この判例も大変参考になり、全体を概観すると、おおむね常識的にそうおかしくはないと思うが、やはり理論の立て方が非常に極端ではないかと思う。というのは、例えば7ページのマクリーン事件の一般則だが、全く事実の基礎を欠き、または社会通念上著しく妥当性を欠くというようなことが、本当にあり得るのだろうか、行政庁がこんな処分をすることは一体あるのだろうかと思う。同じことは、22ページの神戸税関事件で、下から3行目を見ると社会通念上著しく妥当性を欠いて裁量権を付与した目的を逸脱し、これを濫用したという、この著しく妥当性を欠くとか、全く事実の基礎の欠くというようなことを必ず枕言葉に最高裁はするが、実際の判断はもう少し柔軟にやっている。しかし、こういう一般則を提示して下級審にこれが広まったときに、やはり裁判官の方としては、こういう一般則に合うかどうかということを考えると、そういう非常に微妙な判断まで含めて、最高裁のこういう苦労をうまく取り言れられるかどうかというと、かなり疑問がある。そういう意味で、裁量については立法的にもう少し柔軟な判断をより容易に可能にするように立法で解決した方がいい。社会通念上著しく不合理とか、全く事実の基礎を欠くというのは、非常に過酷な立証責任を原告に課すと思う。行政の治外法権ということを促すことにもつながりかねないので、こういう理論が一応あるとすれば、やはりそれを具体的に変えるような立法的対応が要るし、そういう観点ではやはり30条の逸脱、濫用というのも、やはりない方が無難だと思う。

○社会通念に照らし著しく不合理云々という、この文言は、従来は裁量権の行使が違法でないということを言うときに使っていた。裁量権の行使が違法であるという場合には、この文言は使わないというのが従来の最高裁判所の判決であったが、今日の資料で1つ例外があり、それは5のエボバの証人の事件である。ここでは結論的には裁量権の行使が違法とされているが、社会通念上著しく妥当性を欠くという形式が使われており、面白いと思って読んでいた。

○個々のケースについて、一々論評するのは適切ではないと思うが、1つ判例の中で参考になるのは、2の判例である。これは11ページで、いわゆる主張、立証責任について触れている。この判決は、要するに被告行政庁がした判断に不合理な点があることの主張、立証責任は、本来原告が負うべきものであるという点は、動かしていないが、当該原子炉施設の安全審査に関する資料を、すべて被告行政庁の側が保持していることなどの点を考慮すると、被告行政庁の側においてまずその依拠した具体的審査基準等、被告行政庁の判断に不合理な点のないことを相当の根拠、資料に基づき主張、立証する必要があると言っている。一種、立証責任の転換を事実上図っている。しかし、主張、立証責任が原告にあるという点は崩しておらず、したがって被告行政庁がした判断に不合理な点があることが事実上推認されるというレベルにとどまっている。この被告行政庁にすべての資料があるといった事情、つまり証拠の偏在ということが、主張、立証責任の転換の1つの要素だと言われていると思うが、そういった証拠の偏在は原子炉の事件に限らず、すべての行政事件について共通するものである。例えば、先ほどの学校の事件でも、学校はすべての資料を握っており、そのすべての資料が被告行政庁にあるというところは行政事件に特有のことだと思う。したがって、この際いわゆる裁量処分については、被告行政庁がまずどういった基準に基づいて、どういった裁量権を行使したのかということについての主張、立証責任が被告にあるということを明文で書くべきではないかと思う。

○今の同じ事案の、いわゆる合理性の基準のところで、こういう極めて専門性が高いものに対する司法裁量というか、行政裁量を踏まえての司法裁量をどうするかというのは非常に気になるところである。例えばこの原子力について言えば、非常にクローズした専門家集団の中で、委員会が2つあるが、推進側とプロテクトに入る対策側と、同じ村の中で違う集団がいて、議論してつくったいろんなものの中を、どうやってここでいう推認するのかというのは、非常に難しいところである。別にこれだけではなく、こういう非常に高度なプロ的な専門性を要する行政の判断を、いかにして司法が判断し得るのか、これは非常に難しいというのが疑問で、専門性が高いほど逆に言えば恣意性をその行政自体がしている可能性が非常に高い。ある意味においては、だれも見えないから、あるいはチェックできない。この判断基準は、そこのところは問わずに手続論的なところだけ見て判断しようということになっているように見えるが、果たしてそれで裁量性の司法判断が正しくできるのかというところはやや疑問だという感じがしている。社会観念、社会通念上判断できるような行政処分ならいいが、そうではない非常に専門性が高い、社会通念がないものについての裁量はどうするのかという辺はまた別の問題だと思う。

□確かにどうしたらいいか考え、最高裁判所は手続を見るという、1つのやり方を取ったということだと思う。

○裁量と言いながらも、それぞれの判例を見ると、個々に判断すべきとは言いながら、ある1つのルールのような形もあるように読めるで、その辺をどういうふうに、法律的には表現できるのかということを、もう少し考えてみたい。

□裁量については、学説よりも判例の方で裁量統制の道具をつくっていったところがある。学説の方は、裁量権の逸脱、濫用といっていたが、判例はいろんな道具を使っている。それから、学説が要件裁量とか効果裁量といったのを、学説を踏み越えて、判例がそれなりの工夫をしてきているというところで、戦後の裁量統制に関する判例の機能は非常に大きかったと見ている。ただ、それが下級審全般に及んでいるかというと、必ずしもそうではない。ここは行政庁の裁量だからといって簡単に棄却しているものもあって、どうも最高裁の打ち出したいろいろな統制の技術を、完全にうまく使いこなしていないのではないかという印象が率直なところある。最高裁もなかなか日光太郎杉判決の方式を使ってくれなかったが、やっと使うようになり、それからそれを通じて最近の地裁判決を見ても、やはりこういった他事考慮等々の日光太郎杉判決の趣旨を踏まえたような判決が出てきていることは出てきているが、かなりばらつきがあるというのは、事実の問題として認識しておいた方がいいのではないか。学説をどんどん乗り越えた先進的なものもあるということを前提にして30条をどうしたらいいかというのが我々の検討課題の1つと思っている。それから、最高裁がちょっと誤解を招くような表現をしているところもある。全く事実を欠くというようなことで、あれは事実問題を裁判所が判断するというメッセージだと私は思うが、全く事実を欠くなどというから誤解を招く恐れもあり、最高裁の判例自体も誤解を招くようなものもあるということも事実だと思う。そういったいろいろな事情を考慮してこれから検討を進めていかなければいけないと思っている。

○1つ補足で、若干問題判例だと思う最高裁判例だが、1982年4月23日の車両制限令による基準に適合しない車両の特例認定という判決があり、要するに道路法に基づく車両制限令の基準適合でないものは、本来通行してはいけないということになっているが、適合しない場合でも、積載する貨物等が特殊なためやむを得ないと認定した場合には、適合するとみなすというのが争われた案件である。この認定というのは、最高裁の議論では、基本的には裁量の余地のない確認行為の性質を有するが、基本的に許可と同様の行為だから具体的事案に応じ行政裁量が全く許容されないものではないということを言っているのと、結論としてはマンション建築に反対する住民とトラックの衝突を避けるためにした認定の留保は裁量の範囲内であるとしている。これは2つ問題があり、認定が許可と同じだから裁量が許されるという、許可であるかどうかと、裁量が許されるかどうかというのは、一般的な最高裁の最近の基準で言えば、こういう議論はやってないのではないかと思う。要するに、行政処分の性質によって裁量がどの程度になるかということを、一義的に結び付けるという考え方は、恐らく今なら取らないとは思うが、こういうものが現に残っている。ここはやはりこういうものがある以上は、こういう考え方は取らないということを明記した方がいいのではないか。取れないということがわかるような立法的対応に意味があると思う。もう一つは、マンション建築に反対する住民のトラックの衝突を避けるのが合理的な裁量の範囲内だというのも異常な結論ではないかと思う。あくまでも道路法の趣旨は、道路交通なり公物管理なりという観点から出ているから、住民との衝突を避けるのはそもそも法律の目的外であり、ここに裁量があるのはおかしい。

□その判決は、前から理論上大変問題のあるところで、前半は美濃部議論と全く違うことだし、また学説の一般的な考え方とも違うので、許可と裁量は違うというのは普通だと思う。それから、後半部分については、時の裁量がそこに入るのかという考え方も持っているが、そういう問題判決もあることはある。だが、その問題があるから30条を変えてしまうということにはなかなかいかないところもあるようにも思う。重要な御指摘だと思うので、検討の材料にさせていただきたい。

(3) 今後の日程等(□:座長、■:事務局)

■資料5で今後の開催予定を示した。、22回の9月5日の金曜日、11月7日の金曜日、11月28日の金曜日は確定だ。ただ若干調整上御都合の悪い方がいるようで、9月26日と10月17日は、1回留保させていただき、再度調整させていただきたい。   行政官庁のヒアリングについては、「行政訴訟検討会における主な検討事項」を各省に送っているところであり、また地方団体等のヒアリングの日程についても、どういうところからお聞きするか調整しているところなので、これも早く決めて次回7月24日、25日の、もう少し前の段階で日程等をお示しできるようにしたい。

7 次回の日程について

 7月24日(木)13:30〜17:30

以 上