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行政訴訟検討会(第25回)議事概要

(司法制度改革推進本部事務局)
※速報のため、事後修正の可能性あり



1 日時
平成15年11月7日(金) 13:30~17:45

2 場所
司法制度改革推進本部事務局第1会議室

3 出席者
(委 員) 塩野宏座長、市村陽典、小早川光郎、芝池義一、芝原靖典、成川秀明、萩原清子、福井秀夫、水野武夫、深山卓也(敬称略)
(事務局) 山崎潮事務局長、松川忠晴事務局次長、古口章事務局次長、小林久起参事官、村田斉志企画官

4 議題
  1. 論点についての検討
  2. 今後の日程等

5 配布資料
資料1 取消訴訟の原告適格の拡大(検討参考資料)
資料2 義務付け訴訟の法定(検討参考資料)
資料3 差止訴訟の法定(検討参考資料)
資料4 確認訴訟における救済の可能性、行政訴訟の対象(検討参考資料)
資料5 ドイツにおける確認訴訟の実例(山本隆司東京大学助教授作成)

6 議事

(1)論点についての検討(□:座長、○:委員、△:外国法制研究会委員、■事務局)

□本日の検討の順序としては、「取消訴訟の原告適格の拡大」、「義務付け訴訟の法定」、「差止訴訟の法定」、「確認訴訟による救済の可能性及び行政訴訟の対象」の3つに分けて進めていったらどうかと思うが、それでよろしいか。

(委員から異論なし)

○昨日、事務局から、今日の議題について説明をいただき、前回に当面4点の重要な課題があるということで、4点に絞って重点的にまず審議をしていただき、時間があれば他の課題についてもやってもらいたいという意向があり、そういう方向でやろうということで賛成をした。4点については、座長が何度も言っているように、「なお検討」という表現のものについては、成案を得たいという趣旨だということを言っており、他からもこの4点について実現するからということを聞いていたので、必ず実現されるものだと理解をしていた。ところが、原告適格については、これまでの判例が到達したものを規定上確認するというレベルのことでは、何も拡大にはならない。「行政訴訟制度の見直しのための考え方と問題点の整理(今後の検討のためのたたき台)(第24回検討会資料)」(以下、「たたき台」という。)には、原告適格が実質的に広く認められるような規定を作ると書いてあるが、その趣旨とも反するのではないかということが1つ。処分性・確認訴訟のテーマについては、原告適格の拡大と、処分性、訴訟の対象の問題は行政訴訟改革の目玉商品と言うか、2大テーマであり、しかも、これは何も今に始まった議論ではなく、ずっと学会でも議論されてきて、判例も積み重ねてきている。このテーマについては、これまで検討会でもいろいろと議論してきたところであり、それをいわば現状のままで何もしないで先送りにするということになると、今までこの検討会は何をしてきたのかということになる。4つの論点は必ず実現する、法制化する、こういう説明で来たわけであり、今回のペーパーは、事務局が作ったものと聞いているので、必ずしも座長の意向でもないだろうと思う。今日、もちろんこの検討会で議論して、物事を決めていくわけだが、是非、少なくともこの4つについては実現するということで、そういうことを世間にもオープンにして、是非前向きの議論を賜わりたいと思っているので、座長の方でよろしくお願いする。処分性と確認訴訟の問題は、確認訴訟の問題だけではなくて、処分性の問題も併せて裏腹の問題であり、たたき台の3頁の「③ 確認訴訟による救済の可能性」、4頁の「④ 訴訟の対象」の2つは、いわば裏腹のテーマになっているということで併せてやっていこうということだったと思う。前回の検討会でも「④ 訴訟の対象」の問題については、「十分な検討を行う」という形になっており、「③ 確認訴訟による救済の可能性」と比べて一段低いわけだが、「④訴訟の対象」の可能性を捨てわけではない。確かに「③ 確認訴訟による救済の可能性」と関連する部分であり、「④ 訴訟の対象」がどうしても難しければ「③ 確認訴訟による救済の可能性」でも仕方がないのかなという思いはある。座長が前回おっしゃったように、要は、実質的に救済されればいいわけであって、処分性の問題について、とことん固執するわけではないが、今回の問題に関するペーパーでは、私が見るところ、「④ 訴訟の対象」の問題は落ちてしまって、「③ 確認訴訟による救済の可能性」の問題だけがテーマになっているという形になっているのではなかろうかという印象である。今日、この訴訟の対象、確認の利益を議論する際には、前回確認したように、「④ 訴訟の対象」の問題についても併せて議論いただきたい。

□訴訟の対象と、確認訴訟の関係は、たたき台の方でニュアンスを付けて書いてあり、訴訟の対象は「十分な検討を行う必要がある」でとどめており、その点については御了解いただいている。しかしながら、「③ 確認訴訟による救済の可能性」の問題を議論していくときに、「④ 訴訟の対象」の問題について何の目配りもしなくていいかというと、そうではなかろうということで確認訴訟と訴訟の対象を併せて書いたという趣旨であり、この枠組みの中のニュアンスを取っ払い、両方全く同等に議論することにはならない。

【〔取消訴訟の原告適格の拡大〕について】

■〔資料1に沿って説明〕

○現行の解釈論の域を余り出ていないというのが率直な印象だ。現行法の解釈、あるいは確定した最高裁判例に何か問題があるのではないかという前提で立法論になっており、この検討会が立法論を前提に検討するのであれば、現行判例は、それ自体が何か基準を提示するという考え方自体が間違っている。「法律上の利益」の文言はそのままにして、その他の考慮事項で何か出来るのかどうかというアプローチに見えるが、「法律上の利益」が、いわば確定した概念としてあるのだとすれば、その概念自体を変えないと法解釈は論理的には変わらないので、「法律上の利益」という用語はまず変えるべきだという前提で議論すべきである。それを前提にして、個別のコメントだが、第1の1の①、②に書いてあることは当たり前であり、本来、憲法や、あるいは法体系全般で保護されている利益を保護するのが行政訴訟の目的のはずであり、こういう些末な議論をしなくても、本来、憲法と関連する行政法規の保護範囲に入れば、それが直接に具体的に保護していなくても法律上の利益があるというような概括的なとらえ方が妥当ではないか。2番の「目的を共通する関連法規」も同じような意味があり、これも最高裁は明文を引っくり返して探し出そうというアプローチをしており、苦労は分かるが、そういうアプローチをしないと原告適格を基礎づけられないという体系自体、解釈自体に問題があるのではないかということが、この検討会の原告適格に関する出発点でもあったと理解している。個別具体的という観点で明文を引っ張り出すというアプローチ自体に対する批判なり、別のもっといい形はないのかということが、出発点として妥当ではないか。3番の「利益の内容、性質」ももんじゅ判決の解釈論としてあえて申し上げれば、ここでいう「当該行政法規の趣旨・目的、当該行政法規が当該処分を通して保護しようとしている利益の内容・性質等を考慮して判断」という判決の前提に立つとしても、内容・性質等というのは、結局は最高裁判例から一貫して言っている個別性、具体性だと考えれば足りるのであって、例えば生命・身体ならいいが、財産権は駄目なのかというような意味で言っているわけではないと理解している。生命・身体というのはもちろん大事かもしれないが、およそ財産的な利益でも、あるいは生命や健康や身体でも法体系が保護しているなら、それに対して行政訴訟で救済が与えられないということはあり得ないわけであり、それは憲法上の裁判を受ける権利からいっても当然で、利益の性質、内容いかんによって救済の必要がない場合があるというかのごとき前提で議論するのは、出発点として間違っている。法体系で保護されているのに行政訴訟で保護されないものが存在するという前提をとること自体、不合理ではないかという趣旨である。第2の部分だが、①、②に関して、特に自己の法律上の利益に関係のない違法、それから当該処分を通して保護すべきもの以外の利益も、保護すべき利益以外に、当該法体系で遵守すべきとされたことを遵守するということは、いわば単純な考え方ではないか。10条1項の主張制限は、改正して第三者の利益以外は公益的なものであっても原告適格があるとされた以上は、適法性の統制の観点からも主張出来るようにすべきだということが、むしろ方向ではないかと思う。③の議論も、処分権者が考慮すべきことは、適法か違法かということが肝心であり、原告適格はそれを争う資格がどこまであるかという問題で、実体的に違法かどうか、それを誰に争わせるかという問題は、一応別問題であり、処分権者がそこまで考慮する必要があるのかどうか、果たしてこの問題設定は何か意味があるのかどうかということを感じた。

□最後のところがよく理解出来なかったので、もう一度言っていただきたい。

○処分権者が処分の際、考慮することが出来ない利益で、原告適格を認めて取消しを求められるということは、誰か他の人の利益を阻害することになるのではないかという指摘に関してだが、処分権者が考慮すべきことは適法か違法かということであり、原告適格でどこまで認められるかということと、実体上の違法の存在する領域は論理的には違うので、考慮する必要があるかどうかという問題提起自体が果たしてはまっているのかどうか、あるいはかみ合っているのかどうか疑問があるという趣旨である。

□今の考えは、考慮すべきでないもの、あるいは処分要件に入ってきていない利益を主張してきた人が出てきた場合には、どうするのか。

○実体上、違法があれば考慮してよいと考えてよいのではないかという趣旨である。

□そうすると誰でも本案に入れることになる。

○原告適格がある者が入れる。

□原告適格があるかどうかは、どういうふうに決めるのかが、ここでの問題である。

○ただ、原告適格は本人に関わるかどうか。

□本人に関わることであり、それをどこで決めるのかということだ。この問題設定は、およそ当該法体系で保護していない権利利益が侵害されるということで出てきた人を原告適格を認めることになるのか、それでいいのかという問いかけであり、いつか話に出たように、文化財保護の取消しでお寺の前のお店の人が、お客が減るからそれはいけない、困るといったときに、およそ文化財保護法をどう引っくり返してみても、お寺の前のお土産物店の経済的な状況を勘案しろということはどこにも書いていない。それで、それは認められませんと答えられたというふうに理解している。

○そういう意味で、本人の主観的利益に限定して議論するのであれば、誤解だったかもしれないが、そうではなくて何か別物の範囲があるということだとちょっとということであり、今の整理になれば、理解する。

□事実上の利益があれば誰でも認めるべきだ、競業者の利益は全部認めるべきだという御議論もあるので、確認した。

○そういう趣旨ではない。

□ここで言っているのは、法体系全体から見るときに、法体系とは何ですかと聞かれたときに、判例らしく、きちんと一応それを細かく答えたということだと思う。例えば、ドイツだとすぐ基本権が出てくるが、日本の裁判所はそう簡単に基本権を持ち出さないが、これから考えている趣旨は、やはり基本権的なものも読み込めるようなものにしたいという気持ちで、全体が出来ていると思っている。

○新潟空港訴訟の考え方は、他にこれらの関する原告適格を認めた裁判例を並べてみると、最高裁の判例の中では、ぐっと出ている部分、張り出している部分であり、そこを全部つかまえていこうということだから、恐らくそれと伊達火力訴訟ともんじゅ訴訟とを全部並べて、これを全部取り込んで、仮に要件化出来るとすると、結果的に見れば、今の原告適格を一般的に認めている範囲よりは、かなり広がるのではないかと思う。

○私も今の意見と同じ意見であり、新潟空港訴訟、もんじゅ訴訟の最高裁判決は、かなり広く原告適格を認めようという方向のものであり、こういうものを参考にして新しい規定を作ることは、単なる解釈論ではない、一つの立法的な決断の問題に関わっていると思う。

○新潟空港判決も結局は航空法には正面からは書いていないが、他の法律も併せて考えると、騒音被害について余りにも無視したような免許をしたら、航空法違反になるということは言っているので、航空法の免許要件の解釈において非常に柔軟であったということは言えるかもしれないが、航空法が一般公益としてではなくて、著しい騒音被害を受ける周辺住民の範囲に限って、その範囲では航空法の柔軟な解釈によれば保護していることになると思うので、その柔軟さ、あるいは最高裁の一般の水準からして飛び出ているというのは、航空法の解釈においての柔軟さが飛び出ているのであって、原告適格を認める基準が飛び出ているということではないのではないかという気がしている。

○ただ判例なので、当然それまでの判例との整合性という枠を超えられないわけで、その中でどうやって説明出来るかというやり方でやった結果、航空法に反映させる形で説明したと思う。それまでの裁判例から読み取るところだと、目的を共通する関連法規の規定をこのように跳ね返らせるという例は、それまでほとんどなかったと思う。それを航空法そのものの中に、もう一回戻してきたというところでは、それは解釈のテクニックだと思うが、少なくとも目的が共通する関連法規まで目を向けて、そこに手掛かりを見出だしたという点では、それまでのものと違い、もしこの裁判例がなければ、例えば下級審の我々の考え方でいけば、なかなか思い切ってそこまで踏み出せない、そういうものを手掛かりに出来なかったと思う。そういう意味で、この判例はその後の判例と比べてもかなり張り出している判例だと思っている。

○新潟空港訴訟も、最高裁の枠組みで言うと、保護範囲ではなくて、個別保護要件というものを維持しながら、しかし個別保護の有無を関連法規を見ながら柔軟に広く解釈したということだと思う。その点はもんじゅ訴訟のような場合だと、人の命に関わるので、割り合いそこは簡単にいく。新潟空港訴訟の場合だと、現地を知らないが、命に関わるような話でもないので、著しい騒音ということで切りながら、かつそれだけでも足りないので、関連法令を補助に使ったということかと思う。問題は個別保護要件について、本当は法令の趣旨ではなく、実体に即した判断をしているにもかかわらず、枠組みとしては個別保護要件は残っている。今日、大変良い判決であるということを出発点に据えられた伊達火力訴訟も個人の権利利益を保護することを目的として、ということは確実に言っているわけで、今日の資料について言えば、そういう要件の立て方自体については、それこそ立法論としては飲めないなということを申し上げたい。

□3の方だが、その利益というものを組み込むことによって、多少その人だけ見ると、薄い利益でも集団的に見る、それは非常に大きな被害であるというような場合には、その集団の中の一員の人について、それが保護の利益だと読めるようなオープンな形の条文ということも1つ考えていいのではないか。そのための資料としてこれが出ているという理解だ。幾らつくっても解釈者の方で、そんなことは絶対に駄目だと言えば、それはそれまでだが、そういう新しいパラダイムを作ろうと思う人、あるいは裁判官にとって一つの素材を提供するという意味では、解釈論ではなくて、立法論を今やっているのだと理解をしている。

○新潟空港訴訟については、踏み出した印象がある判決であることは間違いない。直接担当した最高裁判事に話を聞いたことがあるが、最初に何とかこれを認めたいという結論があって、この判決になった。そのときに幸いだったのは、まず1つは、航空法が改正されたときに航空法の目的の中に騒音の防止が入っていたということで、それまでは入っていなかった目的が入っていたということがとっかかりになった。もう一つは、免許権者の運輸大臣と航空機騒音障害防止法の規制権者が同じ運輸大臣なので、大阪国際空港の航空行政権みたいなもので、何とかこれが認められたということだが、これだけいろいろ苦労して認めないと、今の最高裁の基準には合わないということになる。もしどれかの要件が、つまり航空法の目的の中に、まだ騒音の防止が入っていなかった、あるいは航空機の騒音の防止の規制権限者が運輸大臣ではなくて、別の人であったということであれば、こういうことであったかどうかというのは、分からないわけであり、そういう意味で、この判例を条文化したらいいというのは、ちょっと賛成しかねる。

□新潟空港判決を固定化して、あるいはこのときの状況でこれを条文化しましょうと言っているのではなく、最高裁も行政法規の解釈についてこれだけのことをいろいろ考えているので、それはいただき、しかし、これはやはり個別利益のことしか考えていないので、それをもう少し膨らませた集団的、あるいは地域の利益、あるいはもう少し言うと公益だが、公益にはいろいろな幅があって、ある種の公益の中それ自体として見れば、多少狭い公益は公益だが、個別にもなかなか重いものでないかというときに、今までのものは、この新潟国際空港でもなかなか拾い切れないのではないかというのが先ほどの指摘だが、そういうものも拾えるような形のものが出来ないか、あるいは拾おうと思えば拾える、拾いたくなければ拾えない、これはしょうがない話だが、そういうものとして議論をしていただきたい。

○今、言われたような意味で、判例を固定化するという前提でないというところは、そういうことで是非やっていただきたいと思うが、ただ、これが本当に先進判例かどうかという点では、小早川委員と水野委員と全く同感で、ある意味では苦肉の策であることは認めるが、理論の枠組みを変えているようには見えない。判決自体が同一の行政機関である運輸大臣が行う免許審査と騒音の審査、両方をたまたま同一人格の行政機関がやっているからだということを明示した判決であり、他方において、たまたま騒音の方もやっているからだということで、まさにこれは偶然の一致である。騒音等だと、今の行政機関の権限配分だと、環境大臣がやっていても全くおかしくない。そうすると、免許は運輸大臣がやっていて、騒音規制は環境大臣がやっているというときには、多分この判決の射程には入らない。もう一つあり得るのは、例えば自治体が条例で何らかの騒音規制を仮に自治体立法でやっていた場合には、行政機関どころか行政主体も違うという場合はますます射程には入らないということになると、まさに判決の意図は分かるが、かなり無理しているというのが率直な印象であり、無理しているという意味では画期的かもしれないが、個別利益からは一歩も出ていないという意味では、しょせん保守的なものという印象で、そういう意味では、立法論の重要性はますます大きいと思う。

□我々は立法論をやっているので、この判決の射程には余りこだわらないでいただきたい。つまりいい知恵をいただくということだが、それを今度はうまく裁判所が展開出来るような形のものを作りたい。では野放図に広げられるかというと、そうではないということで第2の考え方として整理している。第3の②で、こういった議論をせずに、すぐ正当な利益とか、利害関係ということを言ってしまうと、それは野放図になるのではないか、あるいは逆にずっと狭くなってしまうのではないかということがある。今のような第1、第2の点についての議論を踏まえた上で、第3をどう理解していったらいいか、ここはまさに立法論であり、括弧書きで法律上の利益としてあるのは、先ほどの指摘では法律上の利益というのは、確固として判例法でがちがちに固まっているので、それを前提にすることはまかりならんというが、それを言い出したら憲法は、がちがちに固まったものをどんどん壊していくわけで、やっぱり変えた方がいいのであれば変えてもいいという意味で、むしろ②について十分に議論していただきたい。できるだけ裁判官にとって使いやすい、裁判官を縛るものではなくて、いろんな状況に合わせて、あるいは社会の変化に合わせて裁判官が使えるような規定が書けないかということが基本的な考え方である。

○①の後段の補助参加の利益の判例は、抗告訴訟の中でやっており、参加出来るかどうかは原告適格があるかどうかということに必然的になる。そうすると、その次に行訴法の原告適格を前提にすれば、法律上の利益になり、したがって、法律上の利益があって、行訴法上原告適格が認められるということが、民訴法の利害関係に当たるかどうかの判断になるのだという判例だと思うので、この問題の立て方は、必ずしも正確ではなく、議論が逆転している。前段の原告適格が実質的に広く認められることになるといえるかという点は、我々がいろいろと知恵を絞ってA、B、C案を出したわけで、つまり法的利益はどうだ、利害関係はどうだ、事実上の利益はどうだというような形で、今の法律の文言に代わるべきものとして、広げるためにこれはどうだと言っているわけで、どの文言を取っても広がることは間違いないと考えている。文言を広げるために変えるということなので、これは広がらないという議論は理解出来ない。

○文言が変わっても実質は変わらない。利害関係に変えたところで、当然法律上の利害関係と解釈されて、これについて何ら解釈規定も置かずに、ただ法律上の利益という文言を利害関係に置き換えれば、何か画期的に原告適格の範囲が広がるなど、法律では考えられない世界の話で、普通に解釈すれば全く同じになるのではないか。私がそうではないと、ここでみんなの前で発言したからということを裁判所に考慮しろと言っても、それは一意見としては考慮されるだろうが、そう解釈される保障はない。むしろ、素直に解釈すれば、利害関係と書いても、今の法律上の利益に置き換えるだけであれば、何も範囲は変わらない。②の、一種の解釈規定を置くというアイデアだが、今の法律上の利益は非常に抽象的な書き方で、それであるがゆえに、様々な解釈を生んで、最高裁がとった形式も一つの解釈論といえば解釈論である。その抽象的な要件について解釈が分かれる、どれかが裁判所のとっている解釈であるということになっていたとしても、その解釈を変えたいというときに、解釈の幅を狭めるような解釈規定を置くということは、立法の技術としてしばしばあることで、この場面で、この問題について、そういう法的な手当をするということは、一つの有力なやり方ではないか。今のまま、単に抽象的な文言を置き変えれば、広がる、狭まるという議論をするのではなく、今の概念でもいろいろ解釈の余地があって分かれているところを、その解釈の幅を一定の望ましい方向に狭めるような解釈規定を置く。3つの裁判例の要素を解釈規定として盛り込むと相当広い解釈規定というか、一般的に原告適格の範囲について狭い狭いと言われている古典的な最高裁の立てている様式から見ると、相当広いものになるし、逆に言うと、裁判所の原告適格が争われた場合の負担は非常に大きくなる。しかし、それは広げる方向で考えるべきだという議論の反映なので、やむを得ないとして、裁判所の方には我慢していただくしかないのではないかと思うが、しかも、これも俗に判例の評釈などで言われている、最高裁判例がここまでくると、古典的に言われた法律上保護された利益説なのか、法的保護に値する利益説なのかという対立で言うと、法的保護に値する利益説の方に紙一重まで来ているというふうに学説上評価されるような規定になるのではないか。法律上保護されている利益説の古典的なものから見ると、むしろ法的保護に値する利益説に非常に近いような解釈規定を置くという提案に結果としてなるのではないかと思うので、これでいいと思っている。

○今、指摘されたように、解釈規定を置くことは、もちろん望ましいことだと思う。ただ、条文を変えても全く変わらないかというと、やはり条文が変わったということは、立法者は何か意図があって条文を変えたわけなので、意図を探求するということをやれば、まさか狭める方向で立法者が条文改正をしたわけはないだろうということは多分、自明の前提で、少なくとも、どれぐらい劇的に広がるかはともかくとして広げる方向で読んだ方がいいという程度のメッセージは伝わる。更に言えば、解釈規定はもちろんあってもいいが、だったら何も今の根幹的な要件をそのままにした上で解釈規定で凌がなくても、根幹的な部分を変えてしまえば、解釈は変わらざるを得ないということが前提であり、その上で、たとえその文言だけ見れば論理的にはどう変わったかということは、必ずしも概念的に明らかではなくても、変えた上で解釈規定を付けるのなら、なお明確ではないだろうか。だから、両方やればなおいいというのが私の意見で、個別具体的というところから最高裁も四苦八苦無理しているところはあるので、そういうところを排除するような文言であれば、逆に言えば何でもいい。根幹規定を変えるとともに解釈規定を置けば、より万全なので、万全なものをあえて排除する必要はないのではないかという趣旨である。

□最高裁は法律上の利益を文言解釈しているわけではなく、根幹規定といっても、なければないでいい。文言でぎちぎちやっている場合には根幹規定と言うが、逆に言うと、それを壊さなければ動かないということになるので、この法律上の利益はそういうものではないと理解している。雄川一郎先生の回顧談だと、法律上の利益が問題になるとは思わなかったという程度の規定の仕方と理解しているので、文言をどうするかという点は余り時間を取りたくない。むしろ、どういうふうに変わったのかということについて、この検討会の意見を出したい。その意見は、今の解釈規定ということになると理解している。

○第3の②で、第1の1ないし3の観点などを考慮すべきことを規定したらどうかと書いているが、これは解釈基準かと思うが、第1の1、2、3を見ると、3つの判決がそれぞれ出ているわけだが、懸念されるのは、それぞれここまで広げるということで注目された判決ではあるが、その判決に沿って解釈規定を置くとすると、逆にその3つの反対解釈で、それ以外のものは駄目ということになり、その突出した部分はいいけれども、後は突出するなというふうにとられると困る。第1の3の①、②なども、生命はいいが、生命でなければ駄目かとか、直接的かつ重大な、という意味が必ずしもはっきりしないところがあるが、因果関係が極めて直接でないのは駄目だとか、地域指定の結果、地価が上がった下がっただけでは駄目だと反対解釈をされるおそれがあるので、そこはもし書くとしても注意すべきである。その意味では、この3つの判決の他にもし書くとすれば、処分の際に、たまたま第2の③のところに似たような文言が出ているが、こことはちょっとベクトルの違う話で、処分権者が処分の際にいかなる利益を考慮すべきであるかというところは重要なファクターになり、その際に、行政なので、広く救う利益も考慮しなければならないわけで、しかし、それが個別に保護されているのかと言われると、はねられてしまうかもしれないが、それだけではなく、およそ広く薄くも含めて、何をどんな利益を考慮すべきなのかという点が重要だということを一つ書いてみたらどうかと思っている。もちろん、解釈規定なので、そこから白黒直ちに答えが出てくるわけではない。

□ここで、もんじゅ訴訟を引き出した意味は、利益の性質等々を考慮しなさいということで、その利益の性質の中に薄くても広く及んで侵害が及ぶ場合もある、これをどう考えるか、それぞれの裁判所で考えてくださいというアナウンスメントであって、出来た解釈規定が、ここは新潟空港訴訟でいくかとか、ここは伊達火力訴訟でいくかとか、そんなことを考えてもらっては困る。

○原告適格は、法的判断の問題であると思っており、以前、法的利益と言ったが、それが余りよくないとすれば、法律上の利益になるのかなという気はしている。今、意見があったこととの関係で言うと、行政処分の際の考慮事項ないし考慮利益と、それから原告適格の判断の際の考慮事項ないし考慮利益の問題があり、そこが違ってくるのかどうかという問題は1つある。戦前の行政裁判所の時代には、権利侵害が要件になっており、現在の行政事件訴訟法では、法律上の利益に変わって、その理解としては、法律上の利益の中には権利を含むということになろうと思う。ジュース訴訟の最高裁判決は、そういうことを言っている。この権利と言うものは、これをどう考えるかという難しい問題があるが、権利が常に処分の際の考慮事項の中に入っているわけではないと思っているが、それにもかかわらず権利侵害があれば、原告適格が認められるということだと理解しているので、原告適格の判断の際の解釈基準、そういう指針を書く場合には、その点についてもまさに考慮すべきである。

□今の発言は、要するに、要考慮事項としても公益として保護されたと言われてしまったらお終いなので、そうではなくて、要考慮事項の中に、公益なのか、それとも薄いけれども、やはり個々人の利益として原告適格を認めるべきだという領域が2つあるのではないか、それはかねてから指摘されている保護範囲の問題と個別利益の問題だと思うが、そういった問題について裁判所は考えて、今は個別保護利益一本槍で来ているので、そうではなく、処分要件を非常に広く範囲を見ると、その中には全国民に関わる公益的な利益もあるし、あるいは集団的な利益だけもあるし、それが非常に個別の保護もあるという中の一番の問題は、やや薄いけれども広い問題について、これを単に公益だといって切り捨てていいかどうかが一番の問題だと思うが、それは条文にはなかなかうまく書けないので、今のところは、もんじゅ訴訟の利益の性質云々の解釈の問題だというふうに整理は出来るのではないか。これは私の委員としての発言というふうに御理解をいただきたい。

○確かに文言だけでは解決しないという指摘はそういう面もあるかと思うが、今の法律上の利益でも広く解釈出来るのに狭くしか解釈していない、それを変えるためにはどうするかということである。もう一つは、解釈規定を置くという議論は、一つの有効な方法ではないかとは思う。座長が今おっしゃったようなところも含めて、取り込むのだということでやるのであれば、これはかなり広がるというふうに理解するし、それはいいのではないか。ただ、この判例が多少広く認めているから、その判例の範囲で規定を置くということであれば、これは現在、判例が認めたものの追認に過ぎないわけであって、何も広げたことにならない。

○判例が認めているものだと言われるが、この中で今抽出した幾つかのファクターは、判例の今までの中心的な軸になっている部分ではなくて、かなり踏み込だ部分の、先進的な、と言われた部分の要素をここに抽出しているわけで、これを更に3本の判例を、少なくともこの判例をつないでいって、解釈の指標にしようということであれば、これを扱う現場の裁判官にとっては、これらが解釈の指標だというふうにはっきり明示されれば、それらの使い方1つで、かなりまた広がった判断が出てくると思っている。先ほどから指摘されているように、公益か私益かという分け方、あるいは個々的に保護しているものか公益かということで、確かに今、完全に二分するという形で説明しているが、公益という形で当然考えてもいるだろうけれども、座長の先ほどから御指摘のように、薄く、それでもやはり個人に関するものとして保護しているのではないかというタイプのものがあって、この辺りの領域は今から問題になってくる。そういうところで、例えば生命・身体は、そんなことの代表的なもので、そういうアプローチもあるのだということを示すことは、非常に解釈上有効な指針になると考えている。ただ、1点気にかかることとして、処分の際に考慮すべき利益という角度からも入れるべきではないかという指摘の部分だが、例えば今まで挙がってきたいろいろなファクターは、まさにそういうファクターを具体化したものであって、先ほどベクトルが違うということも前提に置かれたが、ベクトルの違うものを入れたときに、どうやってまとめ上げていくかということは、もし条文の中に一緒に入れるのだとすると、非常に難しいことになってしまうのではなかろうかなと思っている。

○これまで原告適格を拡大するということには、是非そうしていただきたいと思っており、ただ文言をどのように変えたらというときに、いろいろな案が出てきたが、どれもよく分からなくて、何かあればと思っていたら、ちょうどこういう形で解釈規定というような形で出てきたので、非常に分かりやすく、これを座長がおっしゃるように、解釈というところで、本当にそういう形で規定が出来てくるのであれば、かなり期待出来るものではないかと思っている。

□ここは大変難しいところだが、標語的に言えば、従来の判例を固定化した閉じた解釈規定ではなくて開かれた解釈規定を作っていただきたい。

【「義務付け訴訟」・「差止訴訟」について】

■〔資料2及び資料3に沿って説明〕

○義務付け訴訟の第1の「1 行政裁量との関係」、「2 一定の手続を経る必要がある場合」、「3 一義性の要件の性質」で、冒頭から行政庁に裁量の余地が残されているかいないかとあり、3のところまで行くと、「判決の時点で、裁量の余地なく直ちに特定の処分をすべきであると認められる」かどうかという裁量の余地が残されているかいないかという言い方だが、これが実体法上、行政庁に裁量権が認められている場合かどうか、あるいは実体法上何らかの事実があるために、その裁量権がいわゆる収縮により法的になくなっているかどうかという意味に取るのが1つだが、ただ、学説はそういう裁量権があるかないかという話では必ずしもない。具体的にどういう場合にはどういうことをすべきなのかということが、ある時点で一義的に定まっていると見るべきかどうかという具体的、相対的な話である場合が多いのではないか。ただこれも具体的な行政庁の判断、あるいは訴訟になった場合の裁判所の判断形成のプロセスで、事実関係が明らかになった以上は、こういう処分をするしかないという、いわば判断の固まり方で、事実問題ではないから、ここでは裁判官の判断の固まり方を表わす表現であると取れば、私としても概念上、理論上も特に異を唱えることもないと思うが、裁量の余地という言葉が引っかかるということは、引っかかる。そのような枠組みで言うと、「2 一定の手続を経る必要がある場合」は、確かに義務付け判決する際のネックになりそうな話だが、後の方で出てくる3頁の上から3つ目のiii)にある、要するに審議会に諮るという手続が決まっている場合に、裁判官として、これは審議会に諮らなくても処分はこれしかないという判断に達するべきなのかどうかということで、慎重な裁判官であれば、自分は事実認定すればこうだから、処分はこうなりそうだと思うけれども、でも法律が審議会に諮れといっているのだから、もう少し何かあるかもしれないということになるということも考えられ、それは不利益処分についての告知・聴聞についても同じことであって、この辺は今のところは、手続を経るために差し戻せとか、そういうことを一定の要件を書いて仕分けをするのではなくて、裁判官の判断形成の度合に任せて、そこは裁判官を信頼してもいいのではないか。法律に審議会を経ろといっても、明らかに今すぐ義務付けして原告を救済する必要の方が明らかに大きいということであれば、そういう判断をすればいいことではないか。

□今の意見の中で裁量という言葉が条文の中に出てくるかということはなかなか作業してみないと分からないが、裁量権の収縮というドイツ法的な説明をする必要はないのではないかと思う。ただ、日本の学説は割合裁量権の収縮というものが好きな人もいるので、どの言葉で書くのかということは、なかなか微妙なところがある。

○2の②の第三者の訴訟参加についてのパラグラフだが、第三者に対する不利益処分の義務付けを求める場合に、そもそも第三者が訴訟に参加しない、あるいは知らないうちに、第三者に不利益処分をしてくれと言われてしまっていて、肝心な処分を受ける人が知らない間に判決が確定して、行政庁が不利益処分をしてくると、それまで自分は何も知らないということで、そもそもいいのかという問題がまず前提としてある。訴訟告知で参加を促すようなことを制度的に保障するということが当然考えられてしかるべきではないか。ここで書いたのは、それとは少し違って、行政手続上、告知・聴聞の機会が不利益処分だからということで与えられているときに、訴訟に参加している、していないといろいろあるが、訴訟告知を仮に義務付けるとすると、新たに不利益処分を発してくださいということを第三者であるAさんが行政庁に義務付け訴訟を起こしました、参加するならどうぞということで、機会を与えるわけで、その場合に、参加しているか、していないかによって、第三者に対する告知・聴聞の手続は行政手続上要求されているものが飛ばせるかどうかが左右されるということになると、みんな参加しないので、何か結論としておかしいような気がする。ただ、訴訟告知によって行政手続上の第三者の告知・聴聞の手続が飛ぶとするなら、それも告知して、その上で法的に行政手続上は告知・聴聞の手続が別途必要であっても、それをしないで他の要件が整えば義務付け判決が出来るという仕組みを何か手続的に作っておけば、それはそれで仕方がないという感じで、少し技術的に工夫が要るところだろうと思う。

○これは、参加した場合だけであろう。

○しかし、そうしたら参加しない。

○参加しなかったら、しょうがない。

○そうすると義務付け出来ない。

○それは義務付けをしても、手続を踏んでやったらいい。

○そこは今の取消訴訟の場合の第三者の参加の問題とパラレルで、現行法は告知を義務付けてなく、その代わり再審の訴えを認めている。それは一つの立法政策だが、逆に告知を義務づけて参加しなければ不利益を受けるという仕組みも当然考えられたが、現行法の立法者はそれを採用しなかった、なぜか採用していない。ちょっと変ではないかとは思っていたが、いずれにしても、今の発言の問題は、それと併せて考えるべき話ではないか。

○審議会とか、第三者に関して、義務付けは確かに一義的には難しいという議論もあるが、例えば審議会なら、裁判所の見解に沿って審議会に諮って判断したらどうかというような一種の性能保障的な判決もあり得るのではないか。また、第三者も裁判所の見解に沿って、かつ第三者への手続は手続として踏まえた上で行いなさいという一種の指令ないし性能判決のようなものがあり得るのではないかと考えると、第三者が訴訟に参加しているのなら聴聞は不要だという特別規定を置けば足りる。

○義務付け訴訟をやるということになれば、どういうものか、いろいろなシミュレーションををやってみているのだが、その中で、これはどうやって解決していったらいいだろうという難問が幾つかある。1つは、審議会などに諮るという手続的なことが設けられている場合どうするかということだが、その他に、例えば難民認定申請のような場合は、行政庁であれば必要ならば難民認定調査官が調査をするということで補っていけるわけだが、そういうことは、一方で申請者とその処分行政庁という形が、その状態のまま原告、被告という形になったときに、今のように調査権能はどうするのか、特に裁判所が例えば義務付けをせよと、もし言われることになると、そういうふうな適切な専門官を使ってやるということで、実体的な処分要件の判断に至ることが予定されている手続などはどうしたらいいのか、それなら裁判所が代わってやりますといっても道具がないという部分がある。審議会の意味もいろいろあり、専門的な意見を伺うというものもあって、それがあることによって、より慎重ならしめ、妥当な処分を引き出すという部分があると思うので、例えば裁判所としては、今の資料から見ると、こういうことは考えられるとは思っても、やはり今のようなことで仕組まれているときに、たまたま裁判所にダイレクトに来たようなものは、それをバイパスしてしまっていいのだろうかということも疑問である。今のは第三者の場合だが、申請の拒否処分が既にあった場合、これは、まず理屈の問題として拒否処分があるので、今までだったら取消訴訟でそれをなくしていくというプロセスがあると思うが、そのパターンを義務付けるということになるときにも、やはり思考の順序としては取消事由があって、まず取り消されるべきなのか。そして、その次に正しい処分は何だったのだろうという順番になるかと思う。しかし、そういうふうに整理していくと、取消訴訟のところに、まず集約的に審理をして、そういう事由があると思ったら進めていくということになると思うが、もしそれをやらないで、例えば、これは義務付け訴訟で来ているものだから、被告行政庁としては取消事由だけでとどまらず、もし取り消されたら、この処分要件があるのか、ないのかはっきりしなさいということになると、例えば手続的な意味で、この資料を出さないときは判断出来ないという拒否処分をしているような場合には、背反することを要求することになるし、取消事由自体が認められないという結果に終わったものについては、エネルギーとしてもかなり無駄な部分の攻防をやるということになるので、そこの辺りをどうやって整序していくかということもあろうかと思う。取消訴訟の対象の拒否処分といってもいろいろな段階があって、実体判断までやって間違えたというパターンと、もっと手前のところで間違えたというものがある。それで、実体判断までやって間違えたというときは、一気に後まで行きましょうということでやりやすいが、入口しかやっていないときは、行政庁もこれからまた調べなければいけない。そうすると、そういうものを果たして裁判所と原告、被告という形でやることが、訴訟経済ということもあり、それから当事者の迅速な救済に役立つのかという疑問点もある。それから、取消しの部分と、義務付けの部分が必ず表裏には簡単にはならない場合がある。在留資格の変更不許可処分について、不許可処分を取り消すことは、手続で何か取り消すものではない限りは裏返して申請にあったものを許可せよというふうになると思う。そうではなくて、例えば難民認定申請の場合だと、取消しの審理にある程度相当の期間を要し、そうすると、情勢の変化があって、新たな処分をやるということは処分時なので、例えば裁判所が口頭弁論を終結するということになろうかと思う。そうなると、追いかけっこになってしまい、1年半ぐらい前に行われた難民認定不認定処分の取消しを一生懸命やっていることになり、これは結論出た、だけどこの資料が即使えないということが、こういう変動が激しい場合には起こる。そのときはどうしたらいいのだろうということがあって、実効性のあるものというのを抽出していく、あるいは逆でもいいのだが、義務付けをやることで、迅速な救済が図れるものは何だろうという辺りを少しつめて、ケースによっては要件化をするという形で反映していくべきではなかろうかということが当面の意見である。

○裁量のとき、やりにくいと言えばやりにくいが、一種の、限定された範囲での判決というのはあり得るのではないか。建築確認で言えば、要するに適法にすればよいというところまでは言える、だけどどこまで切り取るべきか、建て増すべきかというところまでは言わないというのはあり得る。これも一種の性能判決だが、そういう意味での義務付けはあり得るのではないか。第1の1の②で、処分をしないことが裁量の逸脱、濫用である場合には義務付け出来るのではないかということはある意味では当たり前ではないだろうかという印象である。3番の一義性の要件は疑問があり、先ほどから申し上げているような意味での、再度何らかのことをやるべきだというようなことが、もしあり得るとしたら、義務が完全に一義的に決まらなくてもあり得るとするなら、一義的に定まらない限り、訴えが認められないという無駄な訴訟になりかねないので、その訴訟で判明した範囲では、行政庁を拘束して、その枠内ではやらせると考えると、ここまで縛ることも必然的ではないように思う。

○根本的な疑問だが、こういうことを仕組んだ場合に、行政庁自体の処分権というものは、争訟になった状態でどういうふうに理解したらいいのかという問題がある。

□これはいろいろ議論あると思うが、調査権限は残ると思っている。

○調査権限はあって、かつ処分が出来るのか。例えば、不作為と拒否処分と両方掲げているが、今までだと、例えば不作為の違法確認をやっていれば、そういう訴えが起こされたからといって、何も行政庁は出来なくなるわけではなくて、むしろ迅速にやればいいという形で、すぐやっている。拒否処分の方だが、話の順序としては、やはり前にした処分が間違っているのかどうかというところからまず入っていくのだろうと思う。これが審理の過程で、これは間違っているというふうにしたら、それを切り離して、一旦そこで取消判決のようなことをするかということはある。整序するために何らかやらなければいけないと思うが、そういうことをして、行政庁がなるほどと、あるいは仕方がないと思ったときに、こうこうの義務付け訴訟の中で争うのではなくて、行政庁自身がそれまでした調査の結果に基づいて、例えば認める処分だったらさっさとしてしまえばいいということもあり得ると思うが、それは制限されないのだろうかと思う。

□そこは、自分で考えてきた限りでは、調査権限も処分権限も残る。

○今のように肯定的な結論で終わるなら、それが一番原告にとっても満足で終わるからいいのだが、行政庁がその時点で否定的な判断を更にしたとなると、テーマがまたぐらつくので、そこら辺をどうやって調整していくのかという辺りはかなり難しい。行政庁の権限が、それはそれで争訟とは別途に残ってやれるというのは、その方が便宜だと思うが、争訟との兼ね合いをどうするかという辺りも整序する必要がある事項と考えている。

□昔からよく出ている教科書的な設例で言えば、取消訴訟の間に職権取消をすることは出来る。そのときの裁判の訴訟費用をどうするかという形での設例問題としてはやっていたわけで、職権取消は可能だというふうに一般的に考えていた。ただ、今度の場合はもう一つ、義務付け訴訟も出ているときにどうかという問題があって、そのときに今までの訴訟はかなり無駄になるし、いろいろな不都合な点があるかと思うが、基本的には、処分権限は残る。

○ベンジジン判決みたいなケースがあり、行政庁は最初は法令の適用関係でもって申請を拒否したが、その適用関係の解釈が間違いだということになって、では今度は、業務上災害ではないという問題が出てくるというときで、まさに、今言われたような取消訴訟で今まで問題になっていたような訴訟物は何かとか、処分の同一性は何かとか、同じような種類の問題だと思うので、いずれにせよ整理は必要である。

○今の取消訴訟の場合だと、恐らく訴訟物が違うという説明は出来ると思うが、難しいのは義務付け訴訟だと、かぶっている義務付けの方の、つまり申請に対するこういう義務付けをせよ、こちらの方のもっと上からかぶっているものが、これは動かないから、その意味で後からされたものが、後からされた処分をどのように取り込む、あるいはその訴訟の中につなげていくか、あるいはそれさえ許さないという形にするのか、肯定的な方だったらやっていいと思うが、否定的な方は許さないとなると何か変な話で、やはり肯定、否定両方入れて、起こり得るということで、それなら自在に乗り換えていけるような仕組みにしないと、訴訟が無駄になってしまう。有効なものの範囲というものをよく見定めて要件化していただきたい。

□そこは、非常に重要なポイントで、学者の方でこの際、取消訴訟中心主義をやめようということで、この検討会でもずっと議論をしてきて、そこはもう乗り超えたと思っているが、そのことが本当に義務付け訴訟を正面に出したことが本当に実効的な救済になるのかどうかはまだ決まっていないので、論点として出していただいて、本当に国民の救済に役立つようなシステムをつくり上げるということの提案だと思う。
 先ほどのところの一定の手続を経る必要がある場合は、いろいろな考え方があるが、第三者に対する2の②は仕掛けの問題がどうしても出てくるが、①は、割切って言えば、個別法の解釈問題ではないか。ただし、個別法では、やはり審議会を通るべきだということに原則としてなっているが、誰が見てもこれしかない、あるいは判決にも熟している、そこに十分資料も出てきているということであれば、それは裁判所の判断でやればいいので、ここは一律に審議会に戻すべしとか、一律に裁判所が判断すべきとかということではなくて、まず、個別法の解釈、それからそのときの状況に応じてという扱いになると理解している。

○今の点も一定の手続がある場合、義務付け判決が出来ないということではないので、判決を受けた行政庁が手続を経た上で処分するというふうに理解すればいいのではないか。御指摘のとおり、手続を経なくてもいい場合もあると思う。

□その場合は大体は手続違反で裁判所が決めるべきだと思うが、後の方で出てくる義務付け訴訟と取消訴訟が両方出てきたときに、裁判所の方は義務付け訴訟をとことんまでやらなければいけないのか、両方出てきた場合には早目に取消判決をして、それで義務付けは気の毒だけれども棄却にするといった芸当をしないといけないのかということがある。
 2の必要性は、取消訴訟中心主義があったときは、何が何でもまず取消訴訟、これでどうしても駄目な場合にはという意味での必要性だったが、今までの審議の理解だと、義務付けと取消しと差止めがパラに並んでいるときに、実効的な救済というものはどういうものかという理解である。そうしないと、改めて取消訴訟中心主義から必要性を議論し出したら、今までの2年間の議論が無になるので、そういう整理でまず議論をしたい。先ほどの発言も、そもそも取消訴訟中心主義はまだあるので、昔の3要件で行きましょうという話ではないということか。

○そういう趣旨で申し上げたのではなく、ただ実際にシミュレーションを幾つかやってみると、取消訴訟をやってしまえば、行政庁に処分権限が残っているので、あとは行政庁がばっと走ってやってしまう方が先ではないか、現実に出来てしまう方が先ではないか、そんな場合まで、何でも訴訟を起こされたら、取消し処分の方を凍結しておいて、訴訟で全部決着つけましょうということでは非効率ではないか、そういうようなコース分けをしていく方がいいのではないか。

○そういう訴訟運営は、裁判所にとってそれほど負担ではないということか。

○まず慣れていないということで、最初は非常に負担だろうと思う。もう一つ大変だと思うことは、例えて言えば、医療過誤訴訟で誤診があるかどうかということを判断するとき、過去に起こったあるテーマだけを絞り込んで誤診があるかということに集中して判断することは、割合何とか助けを借りながら容易だが、それでは誤診があった、ではどういう診療をすべきかという先々その変化を見て何をすべきかという、いろんな時点の変化に対応して、司法機関がやれと言われたら、恐らくまず出来ない。今、考える難しさはそういうところであって、具体的に、例えば年金なら年金の体系を隅々まで目配り落とすことなく見つめてやらないと、なかなか出来ないので、それはそれで大変だ。ただ、裁判所は大変だからといって、それが救済に必要なら決して逃げるつもりはない、恐らくどの裁判官もそうだろうと思う。ただ、やることが、余りプラスではなく、行政がやったらすっと終わってしまうのに、裁判所が下手にその真似事をするという形で追っかけていって、時間ばかり掛かるのでは足を引っ張るということで、それがどうやったら効率的かということ、あるいは先ほどのように当面並走させるということも1つのアイデアだと考えたので、先ほどのような発言をした。

□それについては、裁判所は適当にやりなさい、そのままだと、今までどおり、では取消しでどんどんやりましょうということにならないような仕組みはやはり必要で、例えば情報公開関係だと、多少特別のことがあるかもしれないが、開示請求権という請求権一本で来ているので、全部そこで勝負し切ったらどうですかという問題もあり、面倒くさいので常に取消訴訟でやりますという仕組みでは困る。

○取消訴訟の判断が出来て、先ほどの在留資格変更不許可処分の取消しのように、単に主文だけを変えれば、その判断の中でぽんと行くものもあるだろうが、それしかやらないということでは恐らく本来の目的は遂げないと思う。ただ、例えば裁量が何段階かあるとか、今のような特別な専門調査官の活用をしないと、適切な結論が出ないとか、そういうものもあると思うので、そういうものをまた洗ってみて、そういうものの類型がどんなものかということを見て、これは最初の入口のところで少し見て、それが全部要件に出来るかどうかはともかくとして、十分目配りしていただきたい。

○第2の2の申請に対する不作為の場合と申請拒否処分がなされた場合について、制度設計をする場合、もちろん取消判決に逃げ込む姿勢が一般化するということは、せっかく義務付け訴訟を作る以上は好ましくないと思うが、それでもその方がいかにも効率性から見て、みんなにとって良いということはあるわけで、その場合に義務付けの申立てがあったが、処分の取消判決で応えるということを訴訟手続上出来るようにしておくことが、原告の申立てを待たないと出来ないということだと、ちょっとまずいかもしれないが、裁判所の判断でそれが出来るようにしたらいいのかなという気はする。いずれにしても、義務付け訴訟の枠の中で、原告の申立てに拠るか拠らないかはともかく、一旦取消判決で行政庁に戻す場合にも、それで訴訟が終結することになるのか、それとも中間判決みたいなことで、結局義務付け訴訟がまだ残っているということで、行政庁に対して、脅しではないが、そういう土俵はちゃんと残しておくということにすればいいのか、どっちということではないが、両方あり得ると思う。

○申請に対する不作為とか、申請拒否の件だが、申請に対する処分は、不作為も拒否も基本的には義務付けで争わせて、もし判断しないことが違法だという点が分かれば、それは不作為が違法だという点で何らかの判断をせよという義務付け判決になるし、あるいはある程度特定されないということだと、これこれの違法がないように配慮して判断せよということで足りるのではないか。2の②のii)で、「不作為の違法確認の訴えや取消訴訟による救済との関係で、原告の不利益の程度が小さいため、又は他に適当な方法があるため、義務付け訴訟による救済の必要性がない」という議論だが、これも義務付けと不作為は、基本的に包含関係だと考えれば別物だと考えて、一々ぎりぎり要件を詰める必要はなく、義務付け訴訟の中に、そこまで熟しないものは不作為が含まれると考えれば足りる。

□申請不許可の場合は義務付け一本ということだが、それでやると裁量があると義務付けが棄却して、もう一度今度は取消しで改めて出直していらっしゃいということになるので、やはり両方ということになるのではないか。義務付けだけで出てくると、それは判決に熟さないと、一義性がないということで棄却になってしまい、そうするともう一度出直さなければならないということになり、出訴期間がなくなってしまう場合がある。

○拒否処分の場合も取消しを含んでいるということか。

□そこは請求の特定性の問題があるので、ただ義務付けだけでというわけにはなかなかいかない。

○それはそうだが、概念的な話としてはそうではないかという趣旨である。

○要するに申請権を有しない者の場合、義務付け訴訟までは難しいが、不作為の違法確認だったらいいという場合がある。申請権を有しないでも、是正命令をしないことが違法であることの確認、いわゆる無名抗告訴訟が認められた市村判決がある。是正命令をすべきことははっきりしているが、いつの時期にどういう是正命令を出すのかは裁量の余地があって、そこまで踏み込めないという場合で、そういう場合に、今回義務付け訴訟を認めるということであれば、そこに行かない場合、不作為の違法確認のレベルで判決が出せるという場面を用意しておく必要がある。今は、無名抗告訴訟だが、義務付け訴訟を明文で認める以上は、義務付けまで行かない場合の不作為の違法確認を制度として設けるべきではないのか。それから、2頁の「① 原告の不利益の程度の考慮」で、申請権がない場合は申請権がある場合と違って、「原告の不利益の程度が極めて大きく、そのため義務付け訴訟による救済の必要性が高い場合に限られるべきではないか」と書いてあるが、申請権がない場合には、こういう要件が別個に要るのか。一義性で縛りをかけているのだから、申請権のあるなしによって、こんなに大きな差をつける必要があるのか疑問である。

○今の論点は私も同感で、必要性の議論で、特に1の①で「申請権を認めたのと同じ結果となる」とか、あるいは「必要性が高い場合に限られるべきではないか」ということは、やはり過重であり、例えば原発が危険だといって、設置許可を争う原告が許可された後で非常に老朽化していて危ないというときに改善命令を求めることが出来るということは、ある意味では同じ利害であり、バランスが取れていない。この要件を形式的に当てはめると、本当に後ろの方が大丈夫だろうかというところがあり、取消訴訟の原告適格のときには、もともと申請権は要らないので、義務付け訴訟で申請権ということは、むしろ申請に対する処分の場合で、第三者に対する処分を求めるということであれば、そこは関わりがないと考えていい。

□原発の運転停止命令を出してくれというときには、まさに重大な損害でぴたり当てはまるのではないか。

○それが大きいかどうか。

□それは大きい。

○それはそうかもしれない。

□申請権のある方は、この2の①だが、ここはもう済んだ話で、原告の不利益の程度は、別に考慮する必要は本来ない話で、これは取消訴訟中心主義でもう終わった。ただ、先ほど来、指摘がある、あるいは説明があったように、紛争解決の合理性あるいは効率性というところからいったならば、やはり義務付けだけで行くよりは、二本柱の方がいいでしょうという形で整理出来たと思うが、この前の方の①はもう一つこの場で余り議論が出来てないと思うが、一体実体法上の請求権なのか、救済上の制度なのかという根本問題があって、仮に実体法上の請求権だとすると、一義性だけで第三者に対して公権力の行使をしろという実体法上の請求権を認めることが出来るのかどうかという難問が出てくる。第三者に対して公権力の発動を求める、それも申請権のない者というのは、法治国原理から言うとかなり例外な場合になり、そういったときの侵害の程度というものも全然考慮しなくて、ただ一義性で判断していいかどうか、特に実体法上の請求権という構成からすると、ちょっと考え込んでしまうところがあって、この問題提起を理解したわけである。

○その場合の必要性の中身なり程度にもよると思うが、余り重いものを課すと結局実効性がないということはある。

□それはおっしゃるとおりである。

○請求権の要件論と別のアプローチだが、昔、貸し倒れの事件があって、その当時は更正の請求の対象にならないケースで、しかしいかにもこのまま税金を返さないことはおかしいということで、不当利得で救えばいいではないかと私もその当時は思ったが、最高裁はそこまでは言わずに、一義的に明白であるなら不当利得で返せということを言っている。ここで第一次判断という言葉が出てきてしまうが、こういう申請の仕組みは、行政庁にとにかく第一次判断をさせる仕組みであり、そういうものがあれば裁判所としてはそれを後から適否をもう一度判断することがしやすいけれども、今のケースで言うと、更正の請求に乗らないものについて裁判所が不当利得を認めるかどうかは、やはり一歩退くという判決だったと思う。だからこれは、個別実体法、行政作用法で申請権を与えるか、与えないかによって違ってくるというのは、泥棒に刑法を作らせるようなものだということかもしれないし、それは社会学的には当たっているとは思うが、ただ法解釈としては、ちょっとしょうがないところがある。一方でそういう仕組みを作っているか、作っていないかで、行政と司法との役割分担というのは、それで規定されてくるところがあるのではないかという気がするので、その意味で差を付けることはやむを得ないという気はする。ただ、そうではあるにしても、その特定の第三者に対する関係で、やはり行政庁としては何らかの配慮義務を負っているわけなので、申請権が立法で認められていないにしても、いかにも第三者に対して、この仕打ちはひどいということであれば、規制権限の不行使が権限の消極的濫用になるとか、そういう話で、義務付け訴訟の要件としても、そういう場合には認めてもいいというような話なのではないかという気がする。

○規制権限の不行使の場合にも義務付け訴訟を認めるべきであるという提案を前からしており、その点は結構だと思う。ただ、その場合の実体法上の請求権の要否については、よく分からないところがある。昔の話で言うと、原田尚彦先生が公権論について書かれたときに、取消訴訟については法的な保護に値する利益で足りる、しかし、義務付け訴訟については、確か権利が要るというふうに言っていたと思う。そういう考え方があるところであり、問題としては割と難しいところだと思っている。ただ、②の方との関係で言うと、公害の場合の規制権限の不行使を想定すると、直接事業者に対して民事訴訟が出来るのではないかと思う。

□出来る。それはもんじゅ訴訟などでやっている。

○その点では義務付け訴訟の要件を制限しても代替措置はあるのではないか。

□逆に言うと、他に民訴で争えばいいのではないかと言われては困る。ここはもんじゅ訴訟の最高裁でも割切ったところである。

○建築確認とか、開発許可の場合が典型的だが、確認の取消しの利益等が建物が完成すると失われるということが、今の確立された判例なので、そうすると中途段階は争えるが、実体上違法にもかかわらず竣工してしまうと行政訴訟で争えなくなる。民事訴訟で行けばいいではないかというと身もふたもないが、やはり不合理な部分が残っている。訴えの利益を取消訴訟で喪失するのは仕方がないが、その場合に行政訴訟としての司法判断の許否について補うという意味で、やはりこういう場合の監督権限の発動を求める義務付けは、大変意味がある領域である。

□結果除去請求権という立派なお手本があり、判例、学説が積み重なっているのに、学者全体がそれに取り組まなかったということで、ここは私も大いに反省しているが、それを今更急に、実体法上に切り変えても無理な話で、それをどういうふうに解決していったらいいかということは1つの大きな問題だと思うが、この議論で、そこまで入ってしまうと、なかなか難しいので、そこはまた別に考えさせていただきたい。
 それから、先ほど来、市村判決をどうするという話があるが、あれも義務付け判決の内容というふうにも理解出来るか。無名抗告訴訟は出来るだけない方がいいと思うので、今度は取消判決、義務付け、差止めと出てきたときに、更に義務付けに関する無名抗告訴訟もあり、これは論理的には必ずあるのだが、出来れば今の新しいものの中に入ればいいなという気持ちはあるが、市村判決も中に入れるか。

○私の意識としては、やはり義務付けの系列の中の、トップからいくと必要限度ぎりぎりの中なので、ここの系列に当然入るものだと思っている。

○義務付けを認める条文を置くだけで、一種、一部請求、一部認容みたいなことになるのか。

○条文を作れば、そうなる。

□それは出来れば作りたいということで、あるいは条文に書けなくても、そういうものとして理解をするということでよろしいのではないか。

○2頁の真ん中に、租税の3つの例が出ているが、こういうものは一義的明白性が別に問題になったケースではない。このi)の例は、更正の請求をしないで、というケースを想定しているが、そうではなく、更正の請求をした上で、更正の棄却処分の取消しではなくて、義務付けを求めるという場合、iii)のケースで言うと、出訴期間経過後に、というのを置いてあるが、出訴期間内に職権取消しの義務付けを求めた場合を想定しなければいけない。だから、更正の請求の制度がある以上は、まずそれをやれということは仕方がないことだが、それを経た上でやるときはどうか、あるいは出訴期間を守らなければならないということはしょうがないことだから、守った上で義務付けをやるときにどうか。それは義務付けは駄目、取消訴訟でないと駄目ということを言わなければならないこともないのではないか。その場合には義務付けを認めてもいい。

□ここは、本気になって考えたらいろいろな問題が出てきてしまったということで、これを一々要件に書くべきではないと思うが、非常に大きな問題を我々は議論しており、ただ大きなだけということではなくて、実際に運用していくと裁判上いろいろな問題があるという例として考えている。

○他に適当な救済方法があるかどうかということの配慮については慎重な配慮が必要だということだ。

○特定はどうか。

□特定は、今のところいろいろな形があり得るというところで、市村判決も飲み込むということになったと理解しているが、ただやはり請求のときに、ただ何とかしてくれでは困るということだ。

○いわゆる請求の趣旨の特定の問題で、民事の関係では差止請求のときに、いわゆる抽象的不作為請求が認められるかどうかという議論があって、つまり原告所有地に何ホーン以上の騒音を侵入させてはならないという請求の趣旨が特定しているのか。これは、その判決が求められた場合にどうやってやればいいか、方法はいろいろあって、いろいろなことが考えられるから特定していないという議論がずっと昔にあった。最高裁判例で、それはそれでもう特定しているのだということになったので、それと同じように考えれば、例えば是正措置、是正命令が出ている場合に、抽象的に建築基準法何条に基づく是正措置をせよということを言えば、具体的にどういう形でやるかということについては、行政に任せればいいという判決が出来るのだということになろうと思うので、一義性もそれと同じように、パラレルに考えなければいけない。

○今の特定だが、この例は、一番最後の効果裁量のところについて決めを打てないから、この範囲でどれかの措置を取るべきだという判決をする。これは、仮に原告個人が、自分はこれが一番適当だと思っても、そこまで一義的な認定は出来ないということならば、一部認容でこういう判断をするということも許容する趣旨になると思う。これはどこまで下がるかという問題があって、形式要件だけは満たしていると裁判所が判断して、実質要件については裁量はいろいろあって、ちょっと決め難い、認定し難い、形式要件だけは満たしている前提で、実質要件を今後ずっと判断して行政庁は処分をしなさいという判決まで一部認容という形で認めるのかというと、そこはいろいろな考え方がある。最初の1つの要件だけでも一部認容だというものもあるかもしれないが、まさにこの典型例で書いてある効果裁量のところに限定するのが限度としては1つの合理的な切り方ではないか。申請拒否処分があったときに、取消判決と両方併存するという話が先ほど来あって、論理的には、申請拒否処分があった場合の義務付けは民事訴訟的に考えれば、訴訟物は2つあるという話で、まず取り消して、取消しの判断の基準時は処分時で、義務付けは口頭弁論終結時で義務付けをするのだから、普通なら併合が強制されるか、あるいは包含されているということになる。ただ、これは一部認容で取消判決をするということは、義務付け訴訟の方を給付訴訟ととらえれば、形成判決を一部認容でするということも妙だし、そこはいろいろ異論があって、私は義務付け訴訟も給付判決でなくていいと思っているが、別途の訴訟類型を作って、あえて言えば形成判決だと言ってもいいが、それにしても形成訴訟において、一部認容判決は聞いたことはないので、いずれにせよ、一部認容と同じような意味で、取消しにとどめる場合を許容すべきである。ただ、それは一般論に委ねると駄目なので、規定を設けざるを得ないと思うし、そのときに先ほど話が出たかもしれないが、裁判官が嫌がって、みんな面倒くさいから取消しまで判断したから全部ここで終わらせようということを許すべきではない。ただ、面倒くさいのではなくて、制度の合理的な振り分けとして、誰が見ても取消しに止めた方がいいというケースは、取消しで止めていい。実質的な一部認容である取消判決が出来るときの要件を、義務付けを求めているのに、取消しでサービスが十分だと裁判所が認めることが出来る類型というものを、要件を課して、設けるという必要があるのではないか。

□理屈ではそうだと思うが、ただ類型を今から分けてやるといっても、到底無理な話で、動かしていって、やはり類型できちんともう一度そこは整備した方がいいという御議論だと承る。

○今のような形で、例えば棄却判断ということが可能であるという、今の話だと、とりあえずそういう制度を設けて、そういう中で運用しなさい、運用してこういうものは棄却類型になるというものを積み重ねなさいという趣旨だと思うが、例えば調査権限があるときとか、あるいはもっとそういうものを抽象化して、要するにそれだけでは一義的な判断に至らないし、あるいは適切でないとか、困難とか、裁判所としては、出来ればそういうものを幾つか類例を挙げておいていただいて、要件化というところまで出来れば一番ありがたい。取消訴訟、拒否処分があった場合の先行している場合に、取消しという部分については、やはりきちんと分けておかないと、中間判決という手法ではちょっとまかないきれない。そういう意味で、明らかに請求は2つであるということにして、ちゃんとつかまえられるようにしておいた方が後が混乱しないだろうと思う。

□その点については、ドイツでいろいろ議論のあるところである。義務付けのときに一番難しいのは、判決時説を取るか、処分時説を取るかで、そこで非常に大きな、第一次判断権ではなくて、要するに行政庁に一遍判断させてみろというところで非常に難しい問題があるが、そこの処分時説をとるか、判決時説を取るかということまで立ち入るとなかなか難しい、そこは裁判官にお任せする以外にないのかなと思う。従来の違法判断の基準時の問題を適切に当てはめていただく以外にない。
 差止めの方について、御意見を承っておきたいのは、第2の③に長野勤評事件があって、これは先ほど随分高いバリアだというふうにコメントがあったが、これは取消訴訟中心主義の基礎の上に出来た最高裁判例なので、そこの基礎が外れると、こんなに高いバリアを一律に課すということにはならないのではないか。

○長野勤評訴訟にしろ、もう一つの河川区域の横川川訴訟にしろ、それぞれの事件そのものが抗告訴訟だったのか、当事者訴訟だったのかというところもはっきりしないところがあり、今回の立法論としても、これは差止訴訟として考えるのか、次の確認訴訟のところで用意をするのかというところもあるが、いずれにせよ訴訟形態の問題はともかくとして、利益があるかないかという判断のバリアの高さの問題を考えれば、この最高裁の2つの判決は、多分抗告訴訟と考えて、抗告訴訟なら取消訴訟が本筋だと考えて、普通の民訴とは違う高いバリアを設定したのではないかと考えた方が、今度訴訟類型に手を付ければ、そこは当然、この判決の考え方は違ってきますということで、戦略的にもいいのではないか。

○差止訴訟を認める個別のケースで、差止訴訟を認める前提は、行政庁が行う処分が決まっているとき、許可なら許可をするということが決まっているときだが、実務上、そんなに早く処分内容、許可不許可どちらか、あるいは付款を付けないとか、そういうことで決まるのか。極端に言えば、処分が行われる前日に処分の内容が決まるということがあり得るわけで、そういう場合は使えないかなという気はしている。

□そういう場合は使わないが、例えば反復継続というのは、割合乗りやすい。

○坊主頭の丸刈りの件とかは使えると思う。

□ここは、④のところで、「特定の処分又は裁決をする蓋然性がある」ということを一応要件として書いている、そういう場合が具体的にどうなのかということは、あり得る例としては「問題となり得る事例」の①)なり②)に典型例として浮かび上がる。

○長野勤評はいかにも要件としては重過ぎるので、緩めるべきだということは全く同じ意見である。

○私もその点は同じだが、この要件は、今の執行停止の要件とちょっと似ているが、執行停止と違うのは、こちらは基本的に本案の話で、少なくともやれば違法だというところに熟せば、本案で認容され得るのだとすれば、やったら違法だということでも足りるのではないか、基本的にはやったら違法なことは差し止めるということで大方のことは尽きているのであって、執行停止なら本案でけりがついていないからいろいろ間違えたときのことも考えると配慮が要るというのは分かるが、これは本案の事件なので、基本的にはそこで片がついている。余り過重するのはバランスが悪い。 【「確認訴訟による救済の可能性、行政訴訟の対象」について】

■〔資料4に沿って説明〕

□確認訴訟については、ドイツがかなり蓄積しているところがあり、山本助教授が既に「ジュリスト」の1238号に論文を書いているので、今日、改めて一表に整理してもらい、ドイツではこういう事例があるということを説明していただきたい。

△どういう事案があるかを説明する。ここで整理をしたものは、事案の性質を見て整理したものであり、全く理論的なものではない。したがって、項目が重複していたりするが御容赦いただきたい。
 まず、前提として、確認訴訟に関する規定は行政裁判所法の43条という規定があり、1項は、「原告が即時確定について正当な利益を有する場合、訴えによって、法関係の存否あるいは行政行為の無効の確認を求めることができる(確認訴訟)」。2項として、「原告が形成訴訟あるいは給付訴訟によって権利を追及できる、あるいは追及できたであろう場合、確認を求めることはできない。但し、行政行為の無効確認が求められる場合を除く」となっており、この2項の方が、先ほど話にあった補充性の要件だが、連邦行政裁判所は、1970年に既に判決を出しており、この2項は緩やかに解釈をすべきで、要するに、取消訴訟や義務付け訴訟の出訴期間や、あるいは不服申立ての前置が決まっているが、これを先達するような趣旨の確認訴訟を許さないということである。しかし、それに限られると、それ以上に確認訴訟を制限する趣旨ではないのだということを言っている。なお、ドイツの場合には、先ほどの抗告訴訟か、当事者訴訟かという区別は、現行法においてはないので、これが抗告訴訟か当事者訴訟かという議論にはなっていない。
 具体的な事案だが、一番最初に「サンクションを課される可能性がある場合」ということで、①として、「原告の事業に関して許可が不要であることの確認訴訟」。幾つか例を挙げているが、判決文を以下、部分的に抜き出している。これは、小売業の許可が必要であるかどうかが争われた事案だが、「当事者間の法状態が明らかでない限り、原告は、彼の見解によれば有するはずの権利を行使してはならないか、もしくは、無許可営業活動が小売業法9条により罰金刑に処される危険に晒されなければならない。このような状態を原告に受忍させることはできない」ので、確認訴訟が認められる。
 次の判決は、動物実験に許可が要るかということが問題になったのだが、特にこの事件においては、既に見解の対立があり、しかし、行政庁の方が何か具体的な処分をするというようなことは何も言っていないということで、差止めが非常に難しい、それで結局確認で行くべきだといった事案である。
 「② 違反行為が懲戒事由になるおそれがある義務の不存在確認訴訟」は、日本で言うと、先ほどの長野勤評事件に対応するものだが、ここで連邦行政裁判所は、懲戒手続において初めて争えるということにすると、ここでは裁判官の服務規律が問題になったのだが、裁判官が違法と考える計画に、自らのリスクで違反するということをせざるを得ない。しかし、それでは余りにも酷であるというので確認阻止を事前に求めるべきだと言った。
 ③番目の事件はやや面白い事件だが、「原告の行為が違法である旨の行政指導が執拗に、法的なサンクションを課されないまま継続している場合の、原告の地位確認訴訟」で、「被告[手工業職能団体]は原告に対し繰り返し、原告が手工業登録簿に登録せずに違法に手工業を営んでいるとの見解を主張し、こうした理由により、まず市の営業担当機関、後に郡庁に対し、被告の見解を考慮して営業看板を変更することを原告に求めるよう働きかけた。原告は被告のこの見解に常に反対し、それゆえに、勧告された営業看板の変更も何度も拒否した。当事者が原告の営業活動に関する法的判断について基本的に相反する見解を非常に明確な態様で表現し、見解の一致に達することができなかった後には、裁判所が確定できる具体的な法関係の存在を……否定できなくなった」、要するに、確認の対象になる法関係があると言ったわけで、更に、その後のところで、何か原告は自分を処分をしてくれ、そうしたら訴訟が出来るようになるからということまでどうも言ったようだが、それでも被告はしなかったという事件である。
 「2 申請前に資格または請求権を確認する訴え」について、事案を見ていただくと、市が原告で、これはやや国粋主義的な政党だが、その催しのためにホールの利用を許可する義務の確認を求める訴えをしたが、これが適法とされ、本案でも原告が勝っている。原告は、過去に何度も市のホールで政党の催しを行おうとし、その年もそれを計画していたという事案だが、そこで裁判所は「確認訴訟は、権利保護が他の訴訟類型によって同様の範囲で実現できない場合には、なお許される。……確かに原告は給付訴訟によって、特定の日時に、または複数の日のうちの一つを選んでホールを貸し出すよう求めることもできたであろう。しかしこの判決の既判力が生ずる前に、この日時は確実に過ぎてしまったであろう。行政裁判所法113条1項4文による継続確認訴訟も、判決主文が過去[の処分の違法確認]に関わるため、完全な権利保護にならなかったであろう。被告の態度から考えて、被告がそのような判決主文を、原告に対する将来の関係も拘束するものと見たであろうことを、当然の前提にすることはできない」と言って、確認訴訟を認めたもので、一般的に言うと、①と②に書いたようなことになるのではないか、つまり拒否処分が反復される可能性が高い。それから拒否されることが確実であるが、処分後に争うのでは、もはや間に合わないという事案であったということである。
 「3 その他、処分の前提要件に関する確認訴訟」で、まず、一番最初にあるのが、「行政機関が態度を明らかにしており、事業者が既に経済的なリスクを負っている場合」。これは、「原告(鉄道事業者)が、被告(地方自治体)の区域における3箇所の踏切に新たな安全技術を施す工事の費用の3分の1を、鉄道・道路交差法により被告が支払う義務を負うことの確認を求める訴訟」で、鉄道・道路交差法という法律により、負担の区分が定まっていたが、鉄道事業者の方は、とにかく3分の1は支払ってくれと言ったが、地方自治体は、自分には義務はないといった事件である。ここでは、確かに請求金額をこの段階で特定することは出来ないが、「原告が、被告が費用を分担すること[自体]を拒否していることから、事業が完了する前にも、場合により全費用を一人で負担しなければならないかどうかを明らかにし、そのことから早期に、当該工事の継続および続く工事の準備について結論を出せるようにしようと考えるのは、当然である」とし、確認訴訟を認めるべきだと言った。
 次の事件の「② 同種の処分が反復される可能性が高い場合」について、事件自体は、やや古い感じの事案で、省略する。
 「③ 個別の処分を争うのが紛争の実体に即しない場合」は、原告(「オショー」運動の団体)に対する参加人(新興宗教問題に取り組む団体)の活動を援助する補助金を、被告(ドイツ連邦共和国)が支出することの違法性の確認を求める訴訟で、因みにこの判決は、特定の宗教団体の活動について公衆に警告する私的団体に国家が補助金を交付する場合、侵害作用として法律の根拠を要する旨を明確に述べたものとして、有名で、「原告が参加人への補助金交付に対し権利を防護するために、被告がそれに関して行う個々の交付承認決定の取消しを求めるよう強いるべきではない。むしろ実効的な権利保護を達成するために、原告が被告による補助金交付の慣行全体を裁判所の審理対象とすることが許される」と言っている。
 次は「4 行政立法や条例が違法に原告の権利を侵害することの確認」だが、2つほどある。1つは「立法不作為を争う場合」で、これは「自営業者が議員として郡議会に出席する場合の休業補償を定めていない条例が、自営業者たる議員である原告の権利を違法に侵害していることの確認を求める訴訟が、適法とされた」もので、この中で、裁判所は、要するにほかに争いようがないと言っている。「休業補償支払請求権を正に直接裁判で実現させ、要求されている確認を放棄することはできない。……支払請求訴訟は訴訟上および実体法上、確認されるべき義務が履行されて補償条例が原告の有利に改正されることを前提にして成立する。したがって要求されている確認に代えることはできない。規範制定を求める給付訴訟に対してもまた、確認訴訟は劣後しない。……概して確認請求の形式はむしろ、裁判所は法制定機関の決定の自由に対して市民の権利保護に不可欠の範囲に限って働きかけるべきであるという、権力分立原則に基礎を置く考え方に適合する」ということを言った。
 最後は「② 第三者が即時に不利益を受ける場合」で、これは夏にドイツに行ったときに確認訴訟で適当な例はないかと言ったときに、まず挙げられた割と最近の例だが、「空港から(へ)の離着陸航路を確定する法規命令に対して近隣住民が騒音を理由に提起した違法確認訴訟が、適法とされた」事例。要するに、原告適格も認められているもので、訴訟は適法だと言われた。この前半のところは、要するに行政裁判所法47条の定める規範統制訴訟と独立にこのような訴訟は可能であるということを言っている。つまり、規範統制訴訟は、行政裁判所法47条に定めがあるが、これは主観訴訟で、権利保護の訴訟ではないわけで、例えば規範を違法とする判決には対世効が認められるということがあるし、日本流に言うと、行政事件訴訟法10条1項に対応するような違法理由の主張の制限のようなものも基本的にはない。この47条は、あくまで特別な訴訟ということで、これとは全く別に確認訴訟は出来るということを言っている。この47条の規範統制訴訟の対象として非常に重要なのは都市計画で、都市計画はほとんど47条を使って争われるので、一般の確認訴訟の場面ではなかなか出てこないという事情がある。
 最後に、これはやや特殊であるが、行政行為が完了した後に、行政行為の違法確認を求める訴えが、行政裁判所法113条1項4文に認められている。これは、同種の処分が反復される危険性が高い場合などに認められるものである。

○資料4の1頁の第1の⑤の3行目に、抗告訴訟の確認訴訟と当事者訴訟の確認訴訟ということが言われているが、この抗告訴訟としての確認訴訟というものはどういう意味か。

■処分そのものについて、何らかの確認を求めるような場合である。

○今、無効確認訴訟というのがあり、抗告訴訟の後ろの確認訴訟、これはいい。それとは別個の話で、どんなことを考えているのか。

■1つは、市村判決。

○処分の違法確認というタイプは、抗告訴訟の方になるか。

■当事者訴訟ということはない。

○不作為の場合はそうだ。

□ドイツで言えば、わざわざ抗告訴訟と言わず、その方がいいと思う。それから繰り返しの場合がある。先ほど日本の例としては差止めが効くのではないかと言ったが、ドイツでは割合と反復的なものについては確認訴訟という形を用いている。そうすると繰り返しが行政処分だと、従来の日本流の考えで言うと、抗告訴訟類似となる。ただ、それはどのように整理するかは、いろいろあり得るが、それが本当に、そんなに真面目にやる意味があるのかということが、⑤の意味だと理解している。

○最高裁の41年の薬事法の判決は、法令自体が直接国民の権利義務に影響を及ぼす場合という設定で、この場合には、この法令自体に処分性が認められる場合になるのか。

■①で処分に当たるという場合があるといっても、これは実はそんなに多くはない。一般的には処分に当たらないという前提で、国民の権利義務に影響を及ぼすとしても、かなり一般的、抽象的に影響を及ぼすので、かなり幅広く影響を及ぼすような法令というものは、取消訴訟の対象というよりは、それ自体の無効確認か、権利義務の確認で争う方がいいというのが一般的ではないか。

□条例と行政立法については、杉本解説でも処分性を認める場合があり得る、取消訴訟が効くというが、法律の取消訴訟は、一種カテゴリーとして排除しているということも付け加えておく。

○法令の無効確認、あるいは法令に基づく権利の存在等の確認とあるが、法令の無効確認はどういう訴訟になるのか、抗告訴訟としての無効確認訴訟を念頭に置いているのではないか。

■処分ではないから当事者訴訟である。

○確認訴訟が出来るか。

□確認の利益がある限り出来るのではないか。

■法令によって、そういう権利義務関係があるかないかが争いになるので、その基となる法令の無効確認することも公法上の法律関係だと考えている。

○私の理解では、法令を処分ととらえて、行訴法上の無効確認訴訟を念頭に置いているのだと思った。その処分が無効で、その処分に続く後続的なものとして、その場合には、後の法律関係の無効確認訴訟をやることは、ある意味では当然で、仮に基の処分が無効ではなくて、取り消すべきものだとした場合に、同じ結論になるのかどうか。

□それをやると、今の取消し、重大明白の問題が出てくることがあるので、法令の無効確認の場合には、そういうことを議論する必要はない。

■資料の②は「国に対し」と書いており、第一審の東京地裁の判決は、明確にそういうふうに書いてあるので、これは当然、当事者訴訟だと考えている。

○当事者訴訟で出来るというのは、どういう理屈か。

□余り抗告訴訟と当事者訴訟というふうに2区分しないで、現在のところ用意しているのは、取消訴訟という形成訴訟が1つあって、更に取消訴訟の対象となる処分の差止め、あるいは義務付けを求める義務付け訴訟というものがあるというふうにお考えいただき、抗告訴訟というカテゴリーがあって、それに排他的管轄が及ぶのだということは今は考えない方がいい。要するに、救うべき状態が起きたときに、確認訴訟がどの程度効きますか、あるいはどういう活用の仕方がありますかということを議論していただきたい。これは、確認訴訟、確認訴訟と言うが、どんなことがあるのか全然分からないで、抽象的に議論していてもしょうがないという意見が幾つか私の耳にも届いたので、具体的な場合について、こういう活用方法があるということをまず確認、あるいはまず議論をしていただき、それから抗告訴訟と考えるか、当事者訴訟と考えるか、どうするかという話に移っていただきたい。

○薬局のケースは、無効であることを前提に請求しているわけで、その場合には認められるということは、当たり前だが、例えば、これは法令だが、仮に通達か何かで、処分性があるときに、無効とは言えないという場合であれば、取消訴訟でやってこいという話になるのではないか。

□むしろ通達や何かについては、処分性があるとは言わない方がいい。

○それは次の議論だ。

□確認ということで、当事者訴訟を通して解決した方が、いろいろな余計なものを引っ張り込まなくて済むという問題があり、それから、今まではとにかく取消訴訟でないと救済出来ないのだという固定観念が学説にもあったし、あるいは裁判所にもあったが、その固定観念を取っ払うと、割合自由にいろいろな議論が出来る。ドイツがその例ではないか、アメリカはもっと最たるものだが、ドイツでも行政行為という非常に固い議論があるのだが、それを拡大してどうこうということではなくて、いろいろな救済方法を考えましょうというモデルとしては参考になる。

○この場合に、一番問題なのは、行政処分的なものがあり、それに基づく何らかの確認訴訟を想起するときに、権利ないし法律関係が生ずる場合には、確認訴訟に乗っかってくるが、そういうものとして構成出来ないような場合にどうするのかが一番問題である。例えば、権利義務ないし法律関係ということでなくてもいいのだという議論をすれば、例えば処分自体の違法性を確認出来るのだといったことが出来れば解決するが、通常の民事訴訟の確認訴訟は、権利義務ないし法律関係の確認という前提であり、過去の行政処分の確認、過去の事実なので、その確認は出来ないという原則である。それ自体の違法性の確認を求めるということであれば、特別規定が要るだろうということになるので、行政事件訴訟法の無効確認訴訟もそういう説明になる。普通の民事訴訟の感覚では出来ないわけで、わざわざ行訴法であの規定を置いたから出来たのだということで、そこの問題である。

□昭和37年の行訴法の立法者は、せっかく下級審が無効確認訴訟を判例でどんどん認めているときに、民訴法のドクマチックで、それは本来認められないとして、36条を作って、非常に範囲を狭めた。ドクマチックとしては大変立派なものだが、紛争の解決としては、あれで良かったのだろうか、その反省を今しているところである。
 ドイツはいろいろな権利義務関係があるわけだが、例えば行政指導の場合も地位確認というふうに引き直してみたり、行政立法だと、無効確認を言っているのか。

△違法確認である。

□違法確認をストレートに認めていて、疑問なのは、ドイツの確認訴訟は、日本の親元で、親元が民訴で、ドイツの確認訴訟の訴えの利益を特別に行訴法で規定しているわけではない。単に補充性のことを書いているだけで、ここまで言っているのに、何で日本だと立法が必要だということになるのかというのが、根本的な疑問の1つである。民訴法の山本教授にお伺いしたところは、民訴でもいろいろ動いているところで、なかなかそこは難しいが、自分の学説としては、行政指導の、この場合は無効確認と言われたが、正確に行政法的に言えば、違法確認だと思うが、行政指導の無効確認あるいは違法確認も認められる場合もあるというふうに言っていた。ただ、民訴自体も非常に動いているところで、行訴法でそれをそう簡単には乗り超えられるとは思っていないが、こういう形で取消訴訟に固執しないで、どんどん権利救済を図っている例が外国法にあり、また昔の日本の裁判官も結構やっていた、あるいは昔の無効確認訴訟をどんどん提起した弁護士が今よりもちゃんとやっているのではないかという気がする。何で、もっと確認訴訟を使いこなしてこなかったのかという気持ちがある。

○例えば、都市計画決定で、地域指定の変更をした、緩めたという場合、その当該本人は規制が緩んだが、緩めたために隣りに高い建物が建つと、その変更自体が違法であるという争いをしようとしたときはどうなるか、確認訴訟でやれるということになるのか。

□確認訴訟ではうまく解決出来ないと思う。やはり行政計画立法でやらないといけない。ドイツのように、他の訴訟を排除するとか、いろいろなことまでやるかどうかは別として、それなりのきちんとしたものを手続と救済の両方について、計画立法で作らなければいけない。その意味で、たたき台でも、行政計画立法は十分検討するという方向で書いてあるが、そこがきちんと行かない限りは、確認訴訟で幾らやってもそういい解決は認められない。

○そうすると、処分性を広げる方向で救済に乗っけていくという方がいいのではないか。

□処分性を広げても、大変難しい話がいろいろあり、判決の効力とか、いろいろな部分が出てくる。それがきちんと計画立法で判決の効力、遮断効、あるいは違法性の承継を遮断するかどうかということをきちんと定めなければいけない。それは早急にやらなければいけない。あえて言えば、この改正行政事件訴訟法と同時に本来は走るべきだが、それが遅れているので、一種の遅行法であると思う。

○今、挙げられたもので、緩める計画、地域指定のようなものについて、第三者から確認を求める利益はあるのか、ないのか。この41年の薬事法の訴訟も、自分が許可なしに開業してよい地位という地位の確認を求めたわけだが、その場合、自分なら法令の無効に基づく現在の法律関係の確認を求めるのだが、他人が地区計画なり最高裁の都市計画に関する用途地域に関する判例で、あれは法令と同じだと言っているわけで、その法令が違法なんだから、一見何とか不動産は建てていいように見えるけれども、本当は建ててはいけないのだということは出来ないという理屈は何か。

□それで基本的に解決するかという疑問だと思うが、処分性を与えたからといって、うまく全部解決出来るかどうか、違法性の承継も含めて、そういう問題が残る。私も確認訴訟が万能だとは一言も言っていない。

○出来ないのだろうかというのが私の疑問で、水野委員は、それは多分出来ないから処分性を拡大して取消訴訟という未練を持っている。確認訴訟では駄目だと言われるが、なぜ駄目なのか。

□駄目だとは言っていない。それで都市計画という用途地域指定というものがうまく全体として、システムとして収まり切るか。確認の利益がある限り出来ると思うので、カテゴリーとして出来ないということはないはずだ。確認訴訟を認めても全体としての合理的なシステムとして、都市計画を実現するのには余りふさわしくない道具ではないかという意味である。

○なぜ、41年の薬事法みたいに、本人の地位確認なら出来るが、第三者の地位確認は難しいということになるのか。

□難しいとは言っていない。

○それは認めていいのではないかと思う。

□認めてもいい。

○薬事法違憲訴訟と同じように、都市計画違法訴訟があってもいいのではないかと思うが、どこがまずいのか。

□あってもいいが、それで都市計画がうまく動くか、そこは都市計画の仕組みをもう少しよく考えなければ分からないが、判決の効力とか、それからいろいろな人がいるから、そういう点を全体として、システムとして考えてみた場合に、いいかどうかということである。

○対世効の問題か。

□それもある。

○違法確認訴訟みたいなものを条文に置いて、過去の事実だが、処分の違法性を確認出来るとすれば、あとは原告適格の問題だけなので、原告適格を認めて、中に入らせればやれるという議論にはなる。

○何とか建設は建てられないよということの確認ではなく、この地域に、この都市計画に従って建てようと思っている人は、そうはいかないという確認はなぜ出来ないのか。

□何で条文が要るのか。

○違法性の判断は、過去の事実に対する確認ではないか。

□過去の事実で認められないというドクマチックは、今でもあるのか。

○あるのではないか。

□段々、崩れているのではないか。

○そうだ。

○結局、ドクマチックな考え方に実務家が毒されているせいもあって、しかもそれが崩れつつあるのも、ある程度は分かりつつも、なかなかかみ合わないと思うのだが、確認訴訟は、よく民訴の教科書に書いてあるように、どんな法律関係でも事実関係でも誰がどう確認しても一応論理的には確認は出来る。しかし、国家組織で裁判所の確認判決という形で求めることを許すには、隣りの人の持ち物があるかないかの確認をしても困るから、紛争解決の手段として国家機関を使う合理的な理由があるものに限定しましょうということで、原則は現在の法律関係と権利義務関係である。ここは少し民訴のつたない知識だが、学説上の変遷はあるが、紛争の抜本的解決になるなら、過去の法律関係でもいいでしょう、最近はまたそういう考え方が強まってきているので、現在の法律関係に引き直すことは可能であっても、より抜本的な解決に資するなら過去の法律関係の確認でもいい。しかし、ここは権利義務関係の存否と無効・有効の話までで、違法ということは、そこから出てこない。山本教授が言われたのは、紛争の解決のために現在の法律関係の確認を前提としながら、過去の法律関係を許すなら、より合理的なら過去の事実行為の違法確認、法的な効果、有効・無効は確認の対象に来にくいのであれば、そういうことがあっていい。要するに、憲法上の裁判を受ける権利の保障からすると、最もふさわしい紛争解決の裁判制度の助けになることは認めていいのではないかと言われたのだと思う。それは1つの考え方で、そこまで行くというのは、大分思い切った考え方だと、民訴のカテゴリーからすると思う。ただ、現在の法律関係に必ずしなければいけないという昭和30年代、40年代に非常に強く言われた考え方は、今は少しきつ過ぎて過去の有効・無効まではいい、更にこれは行訴であり、学説の方向はそちらに遡って、確認の利益があるかどうかで結局全部考えればいいではないかという方向に行っているので、先ほど言われたようにどんどん動いていって、ただそれを法定するとかという類いの話ではない、つまり確認訴訟の確認の利益がどういう場合に認められるかということは、延々たる議論があるが、一つも条文はないと言っては言い過ぎだが、ほとんど条文はない。証書真否確認の訴えがどうかとかぐらいか。だからこそ確認の利益に収斂させるという議論が正しく書きようがない。

○難しいのかもしれないが、出来るだけはっきり分かるように書いた方がいいと思うが、先ほどの計画の場合、例えば用途地域の変更や区画整理事業計画の話題も出ていたが、例えば用途地域の変更だと、緩くなって得する人と損する人がいる、そうすると二面性があるので、後で、例えば工業地域に変わったから工場進出した、それでいざ建築確認の段階でアウトだというと大変なことになるし、工業地域に変わって静ひつな環境を奪われてたまらないという人が、いざ工場が出てからでないと争えないということも不合理だと考えれば、やはり手前で争える、しかもそれに対世効を持たせるような手立てをしておかないと、実質的には混乱が深まる。別に処分でなくてもいいが、確認訴訟で明確に根っこのところを叩けるようにして対世効を与えることが出来ることがはっきり分かるようにしておくことは非常に大きな意味がある。区画整理事業計画について言えば、元々あの事件は長年放置されっぱなしで仮換地になかなかいかないということが不服の中身だったので、後で差止めとか取消訴訟に移行するという問題ではない。こういうものは、やはり計画自体の失効なり、違法なりという形で認めておかないと、結局救済にはならないということがある。あと、病院の開設申請で医療法に、もっとベッド数を減らせという減床勧告があるが、これも無視して建てたとしても、開設は許可されるが、結局保健医療機関の指定がなされないことになるので、指定の拒否処分を受けてから、例えば指定せよという義務付け訴訟では間に合わない、ハイリスク過ぎるので、病床の勧告ということ自体をとらえて争える。そこの違法の確認だけでいいという方が多分、紛争解決の手段としても合理的であろうと思う。もう一つ、医療費の値上げの職権告示があるが、値上げされては困るということをかかる予定の病院相手にやるとすると、無数になる可能性もあるわけで、それで告示をやっている厚生労働大臣相手に、告示自体が違法だと確認出来れば、しかも対世効を持たさせておけば一挙に解決する。この種のものは多いと思うので、それがはっきり出来るのだということを、立法で具体的に書いておくことには意味がある。

□職権告示の場合は取消訴訟が働く。

○今、言われた、はっきりさせるというのは、何をはっきりさせるのか。

○出来るということ、対世効を持つということである。

○確認訴訟でか。

○そうである。

○確認訴訟は別にあってもいいという感じだが、ただ現在取消訴訟において、今の職権告示であるとか、あるいは行政計画について一定の限界ラインにおいて、争うことが認められている。そういう裁判例の流れに確認訴訟を法定することがマイナスの効果を持つのは困る。個人的には、今でも取消訴訟活用論でいいと思っており、確認訴訟を何らかの形で法定とまで行かなくとも、明確化されるのは結構だが、マイナス効果が他に波及しないようにお願いしたい。

○職権値上げ告示の問題は、確かにちょっとクルーシャルで、確認訴訟を認めることによって、あの東京地裁の解釈はもう要らないという整理もあると思うが、あれは、いわば分解して特定の健康保健組合に対しては、この告示はしっかりした法律効果を及ぼしているではないかというふうに短冊型に切って、それは確かに巧妙な解釈だが、告示そのものは公定力も何もなく、立法行為である。だからそれが違法だったら無効ではないか、だから違法の確認を求めるということがもし出来るのであれば、それでもいいという気もして、私は先ほどの意見とはちょっとニュアンスが違う。先ほどは、対世効が要るのかなと思ったし、そういうふうにおっしゃる方がいるが、単に過去の立法行為なり、計画決定行為なりの違法を確認して、それを預かる行政庁としては、もうそれを適法として執行しては駄目だよというだけのことであれば、対世効は要らない。対世効を付けるとなると、立法として大変なので、この確認訴訟一本で、そういうこともひょっとして出来るというぐらいのところも立法政策としてはあり得る、ただ解釈論はいろいろ残るかもしれない。

□今の問題は当事者訴訟に、今の条文で行くと、拘束力が働くので、行政庁として放っておけない、何らかのことをしなければいけないということになる。
 もう一つ、ここは民訴法のドクマチックだが、無効確認訴訟に第三者効を認めるべきということで、田中二郎先生、雄川一郎先生が迫ったが、兼子一先生はがんとして受けなかった。それはやはり非常に民訴法の一番のプリンシプルで、一番大事なところではないかと思うので、それをそう簡単に立法化しろといってもこれはなかなか通らず、慎重に考えなければいけない。それから、ある特別の類型でもって、例えば特許無効確認だと、別に条文を引いていなくても第三者効ありということで、今、動いているようだが、そういう特別のものとか、それから今度は都市計画や何かでの、場合によっては無効確認を認める、それは第三者効を持つという仕組みは出来ると思うが、一般論としては、なかなか辛いなという感じがする。

○先ほどの用途地域指定のような場合だと、結局都合のいい人と悪い人がいるという二面性がある場合に、対世効がなくて、両方の適法確認と違法確認が、例えば併存したりして、判決が矛盾抵触するとか、あるいは参加も出来ないうちに、いつの間にか下っていた違法判決で指定が変わって、もちろん対世効はないかもしれないが、判決の拘束力で指定換えがあったというときに、不測の被害を被る人が出てくる。そこの混乱をどう解決するのかという問題はある。

□それは、都市計画なり計画立法で、個別法できちんと対応すべきではないか。ドイツ人はそれを一般法的にやっている。

○いわば計画的な実体法の方のシステマチックな改変がないときに、確認訴訟が個別に出てくる、しかも対世効の問題や判決の効力のことを余り気にしないで、認められることを前提に制度が変わってしまうと、実質的には混乱があるのではないかと心配する。

□それは早くやらないと、大変な混乱が起こりますということは申し上げた。

○都市計画の例で言えば、この線引きが合理的かどうかということで、裁判所で違法確認判決が出るということは余りなく、手続問題の方が多いのかなと思うが、そうだとすれば、拘束力というものももう一度やり直せという意味の拘束力になるので、行政庁としてはもう一度やり直すということで、余り混乱は起きないと思う。

□ただ最近、そう簡単にかなり実体法に踏み込んで、いろいろ判決が出ている。

○小田急判決とか、圏央道決定だと、今のような問題が顕在化する。

○確かに手続に限って言えば、それだけに本当に限定された訴えであればいいが、恐らく違法事由としては、どこまでも言えるという舞台の中でやることなので、そうなると、やはり先ほど指摘されたように二面性があって、逆の利害関係人が、むしろ原則的に入ってこれるような舞台装置というものがどうしても必要だと思う。それは、計画に応じて、どの人までをどういうふうに引き込むかということを一つ一つ考えざるを得ない場面だと思うので、適切な解決としては、やはり先ほど言われたように、個々の計画の中で少し実体規定を整備していくことを促すという方法をやらざるを得ない分野だろうと思う。

□今日は、いろんな確認訴訟の事例が考えられるということで、こういったものを前提にして、今後どういうふうに図っていったらいいか、これはまた事務局なりにいろいろ考えていただくことになろうかと思うが、確認訴訟を活用することは、日本法としても考えていいのではないか。また、民訴法の基本的なドクマチックがあるが、民訴法も揺いで、多少変わっている段階において、行政訴訟なりの確認の利益というものも考えていいのではないか。山本教授の説もあり、そういう方向の学説もあるということで、私としてもそういうものを考えてもいいのではないかというふうに思う程度の総括ということでよろしいか。

○今の確認訴訟は、結局類型として作る方向で一歩踏み出そうということか。聞いていて、いや要らないというような感じにも聞こえたが、その辺がよく分からない。

□類型は既にあるが、それを条文上、書くのかどうかということで、まだそこは今日は詰めていない。訴訟のルートは普遍的なものとしてあるということである。

○ドイツを見ていても、ここまでかなり本格的に中身をこういうレベルまで認めるかは別にしても、確認訴訟としては、かなり牽制機能としては有効に思うので、牽制機能としての効果を持たせたような確認訴訟は、もっとあってもいいのではないかなという感じがして、取消しとか、何かやや重いというイメージではなくて、もう少し軽いイメージのものが日本らしくあってもいいのではないかという感じを受けた。

○大体座長のまとめで理解出来たが、原告適格の拡大については開かれた規定で、解釈規定を是非設けていただきたいと思うし、原告適格が義務付け訴訟なり、差止訴訟の、また原告適格とほぼそれを利用するということなので、その点においても、それが何らかの制約にならないような形の定めを是非お考えいただきたい、こんな感想を持った。

(2)今後の日程等(□:座長、○:委員、■事務局)

○今後だが、どういう形でまとめていくかという問題があるが、あと1回だけ決まっている。それで12月と1月、2月までの辺りまでは一応入れておく必要があるのではないか。

■今後の立法のスケジュールを考えると、この議論の骨格は、相当早く詰めないと立案作業が進まないと考えており、そういう意味では、なるべく早く検討を詰めていただきたい。では次回で、全部出来るかどうかということは、今日の検討状況もよく踏まえて、事務局でもよく検討させていただきたいが、そんなに先まで延ばすということは、立案上難しい。

○次は、仮の救済の議論をやるのか。

■その点もあるが、今、2月とおっしゃられたが、2月だったら法案としては出来ない。

○12月、1月はどうだ。

■1月の下旬にいろいろな手続が全部出来るような状況になっていなければ、はっきり言って完全にアウトである。必要であれば、12月、それから1月の真ん中より前、どこかに入れるということは、熟度の関係であり得る話かもしれない。

○これがあと1回だけだと、もうどうしょうもない。だから、もう少し何回か入れないといけない。今日だって結論が出ていないわけだから、ある程度最終的にこういう形でという結論を確認することは少なくとも必要で、そうでないと今までやってきたことは意味ない。

■御指摘を踏まえ、早急に検討する。

□私としても、司会をしている関係から言うと、出来るだけ意見は、ここで十分言ったという満足感を味わって報告書をまとめたい。どこか、たまっていると、それは大変その方にとっても不幸で、検討会の報告書としても不幸な問題だと思う。そういう意味では議論を尽くしていただきたいと思うが、立法作業に取りかからなければならないこともあり、そこはバランスの問題があるので、なかなか難しいと思う。

○今、報告書とおっしゃったが、イメージ的には、この次議論して、最終的にはどういうものを作るのか、どういうイメージをお持ちか。

□検討会としての報告書ということになるのかどうかということは、まだ事務局も私も詰め切っていない。この検討会は、非常に一種独特なもので、普通の審議会とは違うことは、御承知のとおりで、それを報告書という形でとりまとめるのかどうかという形式的な問題は別として、要するに、言いたいことは言ったという検討会にはしたいと思っている。

○それはいいが、言いたいことは言ったけれども、何も実らなかったのでは困るので、やはり検討会をやってきた成果は、こういうものだったということは残さないといけない、そういう報告書という形ならそれでいいかもしれない。

□検討会の横並びの問題もあるので、事務局の方で検討していただきたい。

■検討会によっても、様々な報告書と言うのか、最後の整理と言うのか、これは様々あるので、その実態に合わせていくほかはないだろうと思っている。

○例えば、簡裁の事物管轄をいくらにするかという話とは違って、ある程度これだけの議論をしてきたので、その成果はきちんとまとめて残すような形にして、あとは立法作業に一定の方向付けをきちんとしなければいけない。

■この前から申し上げているのは、本当に時間がないので、立法作業に向けてまとめをまずしていただかないと、全体について、ではまとめを云々という話とか、それはもう今の段階では不可能だ。

○不可能なことを言っているわけではなく、可能な話をしている。

■可能なのは、この立法に向けてのコアで、こういうものをどういうふうに整理出来るかという問題はある。それを今、我々としてまず中身を詰めることを先決にさせていただきたい。それいかんによってやり方は決まってくる。

7 次回の日程について

11月28日(金)13:30~17:30

以 上