□本日は「本案判決前の仮の救済の制度」についての検討、前回検討いただいた原告適格、義務付け訴訟・差止訴訟、確認訴訟についての検討、さらに、既に検討の方向性がある程度固まったものと思われる「処分の理由を明らかにする資料の提出」、「行政訴訟をより分かりやすく、利用しやすくするための仕組み」についても確認をしていただきたい。その順序でよろしいか。
(委員から異論なし)
〔【執行停止の要件】について〕
■〔資料の1に沿って説明〕
○事務局の資料は「回復の困難な損害」という文言はそのままにして、損害の性質及び程度、処分の内容及び性質を考慮して決定すべきだという解釈規定を置いたらどうかという提案と受け止めた。執行停止の問題は、「回復の困難な損害を避けるため緊急の必要があるとき」という要件が非常に厳格になっており、これまで執行停止が十分機能していなかったというのが弁護士側の実感であり、要件を緩和することは何より重要である。「回復の困難な損害」という要件が非常に狭く、ダムの建設によって生活本拠が水没するといったケースまで回復困難な損害ではないと言われたりしており、判例が全部で12出されているが、この中で肯定されたものはわずか3つにすぎず、そのほかは全部否定という状況である。要件は「手続の続行により生ずる損害を避けるため、緊急の必要があるときは」ということでよく、「回復の困難な損害」という要件は外すべきではないか。3項に、「執行停止は、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき、・・することができない」という規定があるが、この「公共の福祉」という概念が非常に抽象的であり、これによって執行停止ができないケースがあるので、公共の福祉という抽象的な概念ではなく、「① 国の安全が害されるおそれががあるとき」、「② 他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあるとき」、「③ 犯罪の予防、鎮圧又は捜査、公訴の維持、刑の執行その他の公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれがあるとき」といった要件を掲げ、この場合には執行停止が認められないという具体的な要件を書くべきではないか。また、暫定的執行停止制度が必要という意見が検討会でも出ていた。執行停止の要件があるかどうかについて判断するためには、少し時間がかかり、そういう場合には、とりあえず一定期間だけ裁判所の判断で暫定的に執行停止が出来る制度を導入すべきではないか。これにより、かなりの事件が適切に解決されることがあると思うので、実現してもらいたい。
○処分の中身や損害の中身を総合的に勘案して執行停止をするかどうか決定する仕組みは賛成であるが、そういう総合的な利益衡量の仕組みと「回復の困難な損害」という文言を残すという方向は理解出来ない。「回復の困難な損害」は非常に限定的で、それを残して、その上で総合的な利益衡量しても、うまくいかないのではないか、その点では「回復の困難な損害」をもう少し柔らかな表現にするという考えを提案したい。「公共の福祉」だが、昔から抽象的だという批判が学会でもあるが、執行停止で問題になるのは行政側の利益だけでなく、第三者である私人の利益であることもある。マンションの建築確認について、周辺の人が取消訴訟を起こして執行停止を求めた場合、原告の利益に対するのは公益ではなく、むしろ建築主の利益、つまり私の利益で、そういう意味で、この「公共の福祉」という文言との関係を見ると、公共の福祉だけでなしに、ほかの利害関係人の利益も考慮に入れるべきである。もし、法律で書くのであれば、利害関係人の利益も書くべきである。もう一点、生命、身体、自由、名誉などは賠償可能であると書いているが、生命はそういうふうに言うべきではない。実際その生命被害が出て損害賠償が行われる場合は、執行停止との関係で言うと、そういう利益に一旦、後ろに下がってもらえるかどうかという話なので、そのときに生命というのは出さない方がいい。
○今、最後に言われた点は、別の言い方をすれば書き方の問題ではないか。民法710条を引いて金銭賠償は可能というのは確かで、生命についても金銭賠償が可能だが、金銭賠償によって償いが付くかどうかは別の話で、そこを書き分けないと、この書き方では誤解を生ずる。
原告の受けるべき損害の性質・程度、処分の内容、性質云々を比較衡量せよということだが、基本的にはいい方向ではないか。それに関連して「回復の困難な損害」という語句を残すかだが、損害の性質を調べる際には、回復困難かどうかは一つの視点になることは確かだが、唯一絶対要件のようになると誤解を生ずるので、回復困難ということを例示的に残すか、あるいは他の言い方で全体の文章を補うことで、損害の性質の中に読み込んでしまうか、いずれにせよ、回復困難ということが一人歩きするのは好ましくない。
損害の性質・程度という場合に、一つの観点は、原告適格問題とも共通するが、原告個人にとって著しい、かつ耐え難い存在かどうかということと、原告個人にとってはどうか分からないが、社会全体として見れば、その処分が執行されてしまうと回復困難な損害が生ずる、取り返しのつかない結果が生ずるという場合、環境問題や文化財保護の関係で差し当たり考えられるが、原告個人だけではなくて、社会的に見た利益そのものの評価ということも排除しないような、そういう受けるべき損害の性質・程度という解釈、あるいは書き方に、幅を持たせていただきたい。
○本日の資料で提案いただいた案は、現状で実務が解釈をかなり広げて、先取りしてやってしまっている標準とほぼ一致していると思うので、このようにやっていただければ今の運用は理論面からもしっかりと支えられていることになって、非常にいい。実務では、回復困難な損害ということの解釈を、その損害の性質だけを見て結論を決めていることはまずなく、現実にまさに総合的に判断している。特に昨今、執行停止は非常に数が多く、1年間で30から40ぐらいの執行停止事件等をやるが、全部、執行停止を認めなかったという事例は、そのうちの2件ぐらいである。認容率という点では、普通にある程度は認容するので、決して著しい損害というものの解釈が今の文言のために制約されていて、動いていないという点はない。
○「回復の困難な損害」という文言は大変きつい。柔軟にという方向は実務では出ているという話があったが、資料1の別紙に挙がった執行停止の事件だけ見ても、個別の事案を精査しないと一概には言えないが、退学処分が回復困難でない、あるいは換地の執行停止が回復困難でないとか、単に処分の性質だけから見れば金銭賠償によって償えるということは民法の大前提にもなっているわけで、法令用語の回復困難は相当厳しいという観念が一般的には流通している。判決でどの程度、緩和されてきているのかは、資料を見る限りでは必ずしもないし、やはり文言を変えることによって、執行停止の要件について、過度に厳格な運用を改めるというメッセージを放つという意味は非常に大きいので、立法的にこういう文言でない形で、まさに総論的な趣旨でお示しになられたようなことがはっきりと読めるような条文に変更するべきである。
○資料1の第1の③は、公共の福祉が一方で比較衡量の要素として書いてあり、第2の①と②では、損害の性質・程度と処分の内容及び性質を考慮して、いわば比較衡量して判断するといった条文を置いたらどうかというふうに読めるが、2項及び3項の前段を併せて変えるという趣旨か。
■そういう趣旨ではない。
○2項で、公共の福祉も一方で斟酌要素だとしながら、3項でまた公共の福祉に重大に影響を及ぼすおそれがあると言ってるが、3項の条文は残すのか。
■そう考えている。
○そうすると、整合性がない。3項の前段も併せて、2項を修正するのであれば理解出来なくはない。3項後段の、「本案について理由はないと見えるとき」は別項で残してもいいが、2項で公共の福祉がまた出てくるのであれば、3項の公共の福祉とどう関係があるのか。
■3項は、公共の福祉に対する重大な影響で、極めて限定されたものと考えるのではないか。
○重大な影響があるときには駄目だというわけで、これは2項も絡む。2項で「処分の内容及び性質(公共の福祉に重大な影響を及ぼすを除く)」と書くのであれば別だが、そこの整合性の問題がある。
□2項で言っている処分の性質の内容と、3項で言っている公共の福祉は違った側面であるという感じもする。
○違っていると言えるかも知れないが、資料では、「当該処分の不停止によって維持される公共の福祉とを具体的事情の下で比較衡量し」、と書かれている。
□それは最終的な判断で、条文にしてみないと分かりにくいところがあるが、ここでずっと前からお伺いしているのは、現在の条文でも結構、地裁レベルで運用されていて、実際上、圏央道も止まっているという状況がある。しかし、今の条文は、また別の意味で非常に動かし難いところがあって、これを弾力的に運用出来るようにすることが基本的な考え方であり、今日は2項について中心的な説明があったが、そのことは全体として弾力的な運用、相互衡量して決めるといった判断の下に出来あがっている。では条文上どうなるのかというと、もうちょっと丁寧にお示ししないと分かりにくいということもあるかと思うので、次回、最終的にまとめの案を出すときには、もう少し丁寧な書きぶりをすることになろうかと思う。
「回復の困難な損害」の言葉の問題について、私の感じでは「法律上の利益」と違って「回復の困難な損害」はかなり内容のある概念で、議論の仕方はおのずから違ってくる。事務局が説明したのは、条文の立て方を変えると、「回復の困難な損害」をクリアーしないとどうにもならないというものではないのではないかということと理解している。
○条文の書き方の問題は、積極要件と消極要件を別個に書くという一時期よくあった法律の書き方に従っているわけだが、積極要件と消極要件を同じ条文に書くことは今では幾らでもあり、まさに書き方の問題である。公共の福祉については別個に消極要件になっているが、先ほど、公共の福祉の概念の明確化ということで3つに限定したらどうかと言われたが、この3つは、情報公開法で特別席と言われている行政庁の第一次判断を尊重した形での審査を行うと言われている類型で、公文書の文書提出命令でも同じようにシステムを取っており、情報公開法の開示、不開示、あるいは、文書提出命令の場合には、公務秘密に当たるかどうかということだが、この3つの類型は国防、外交、治安のような秘密、不開示事由は、その判断に高度な政策的な要素から、将来の専門的予測判断、外交に与える影響とか治安に与えるといった将来の予測的判断をしなければ、なかなか適切な認定ができないという特殊な事項であるということで、まずはそれらの所管省庁の意見を述べさせて、その意見がどうかを国民の目から司法裁判所が審査をするという形ですべきであるということで、情報公開法でも公文書の文書提出命令でも、特別な扱いをされている重要な、あるいは特殊な公益である。ただ、そういう観点から選ばれた3つの公益であって、公共の福祉はこれに尽きるとか、公共の福祉の中で重要なものはこれなんだという趣旨ではない。公共の福祉はまさに抽象的で、いろいろなものが入っているが、その中に含まれる問題であることは間違いないが、その切り口が今、言ったように判断に特殊性がある、なかなか司法裁判所がいきなり判断するのになじまない要素があるということで、広く国際的に公認されたような要素ばかりで、これに限定をしてしまうと、例えば、周辺住民の健康とか生命身体も入っていない。治安でも国防でも外交でもないから入っていないが、3つに限定してしまうと周辺住民が死んでしまうというようなときでも、そんなことでは公共の福祉を害さないとなるが、それは誰が考えても、おかしいのではないかということで、切り口が違う概念ではないか。
○今、言われたように、限定列挙という意味だと、確かに狭いかなということはあるが、重要な要素のメルクマールとして考えれば、周辺住民の健康というようなものも当然横並びだという一種の法的了解はあるはずで、こういった重要なものに出来るだけ限定していくという試みが可能であれば、出来るだけ明確化ということでアプローチした方がいい。これに関連するが、公共の福祉の、2項、3項の要件は、先ほど指摘があったように消極要件、積極要件を完全に書き分けるという割合オールドファッションのスタイルなのでそうなったので、条文の立て方にもよると思うが、このアプローチは、まさに事務局の資料の問題意識にもあるように、積極要件がどの程度ならあるデシタル的な、定量的なところを超えたらクリアーされ、消極要件は消極要件でまたある量、臨界点を超えればクリアーされる。それぞれ相互独立に判断するかのごとく立て方をしていながら、実際には恐らく裁判官の思考回路では、両方を天秤にかけながらということは必ずやっているはずで、立て方自体が不自然だということは、多少反省を持って、ながめた方がいい。そういう意味で、公共の福祉に重大な影響というのも、結局は得られる公共の福祉と執行停止することで得られる個人の利益、その処分を受ける人の利益との利益衡量だということは、極めて常識的なまっとうな判断だと思うので、相対的な意味での大小関係で決めるのだということをはっきり描いた方がむしろフェアだ。公共の福祉が裸で出てくるというような議論があらかじめ立ってしまうと、本当に公共の福祉はこれだけかという議論につながるので、結局はその相対関係で費用対効果を考えて判断するのだということを条文上明確にしていくことは、重要な課題の一つだ。
○「回復の困難な損害を避けるため緊急の必要があるときは」という要件をそのままにして、その考慮要素として損害の性質及び程度だけではなく、処分の内容と性質も考慮するということを持ち込み、3項で公共の福祉に重大な影響を及ぼすときは駄目だというのを残すのであれば、最低の改革で、改革にならない。当然、裁判所は2項、3項はともかくとして、執行停止決定を出すときに、そういう要素を考慮してやっていることは間違いない話で、2項と3項の前段、場合によれば3項の後段も併せて、統一的な形で条文にするのであれば、一番すっきりする。
○1頁の③の公共の福祉の意味だが、これと3項に言う公共の福祉とは違った意味で使われているのではないか。1頁の③は「当該処分の不停止によって維持される」という修飾が付いているわけで、どちらかと言うと、3ページに(3)があるが、ここに「不停止によって維持される行政目的の達成とその停止によって申立人の免れる損害とを比較衡量」とあり、中身的に意図しているところは似ているのではないか。まずは当該処分をそのまま遂行することによる行政目的の達成、それから達成されることによって社会一般に与えられる影響効果というものと、逆に当該人に生ずる損害、こういう比較衡量は、まず最初に来て、そういうものの外側から更に周辺住民の環境、あるいは生命は普通に考えられている公共の福祉への影響だと思うが、そういうものと性質が違っているので、そういう意味では分けてやっていくことは、必ずしもおかしくはない。
□今までの議論から受けた印象は基本的な考え方のベースは同じで、法制化するときにどうするかということで、公共の福祉よりも、むしろ原告の救済に重きを置くべきだというようなニュアンスの意見と、公共の福祉という点についても、いろいろな問題があるので、十分に慎重に考慮しなければいけないというニュアンスの問題があった。ただ、検討会では2条に分けるかとか1条にまとめるかという議論はなかなか出来にくいので、基本的なベースになることを確認した方がいい。ぎりぎりのところ、「回復の困難な損害」という文言を残すか残さないかは、かなり問題になるところだが、もう少し条文を整理して、頭の体操をした上で、回復困難な損害というものが果たして、非常に支障になるかどうかという点について考えた上で、次回、まとめた御提案をさせていただきたい。それから、公共の福祉で、3つの例を見た途端に、情報公開法だと思ったが、情報公開法とは筋が違うので、このままにはならない。金融の場合はどうかとか、やたら公共の福祉が広がってしまう。むしろ、広げる工夫よりも狭める工夫はどういうものかといった方向で考えた方がいい。こういった列挙は案外広がる危険性があるというふうに御覧いただきたい。情報公開法の場合には、全体の条項があって、その上に更に裁量の問題として区切ろうという仕掛けを持った。
〔【執行停止以外の仮の救済[仮の義務付け・仮の差止め]】について〕
■〔資料2に沿って説明〕
○要件について、執行停止より程度の高い要件が必要ではないかということはそのとおりである。「償うことができない損害を避けるため緊急の必要があるとき」という提言があるが、「償うことができない損害」はかなり狭くなる、ゼロかも分からないという気がするので、現在、執行停止の要件に使われている、「回復の困難な損害」という用語を持ってきて、「回復の困難な損害を避けるため緊急の必要があるとき」という程度にしてはどうか。あとの、「本案について理由があると見えるとき」の要件は必要だろう。
○1の②の保育所の入所や通学校の指定処分は類型に入っていると思うが、高校の入学や開発事業を行う場合の第三者への改善命令といったものも念頭に置いたものにしていただきたい。要件だが、「償うことができない損害」はきつ過ぎる。執行停止の場合より要件を厳格にすべきだという議論はあり得るが、実例を見ると、本当にそんなに厳格に考える必要があるのかというケースが多い。公会堂の使用許可申請で一旦許可されたが、職権で取り消されたときには執行停止が働くが、不許可については仮の義務付けは難しいというようなことに単純に当てはめることになりかねない。一旦許可したかどうかは、現場のちょっとした運用の差にすぎないとも考えられるわけで、生活保護の場合でも一旦減額されたら、すぐに執行停止が働くが、新規申請の場合には非常に厳格に審査しないといけないというほどの差を付ける必要が本当にあるのかと考えると、理論的にはあり得るにしても、それを重んじすぎると現場の実態や常識と合わない判断になりかねない。厳格に解されないようにもう少し緩める方向で検討した方がいい。執行停止と同じような「回復の困難な損害」も一つだと思うし、「償うことが容易ではない損害を避けるため」というやり方もある。そういう意味で「償うことができない」は、ほとんどそんなことはあり得ないのではないかという判断を招きかねないので、厳しすぎる。「本案について理由があると見えるとき」は趣旨は分かるが、理由があると見えるまで言い切ってしまっていいか。「理由がある可能性がある」とか、あるいは「蓋然性があると見えるとき」といった緩め方もあり得るのではないか。
□言葉の表現は難しく、執行停止の「回復の困難な」は、まだ執行していないのに回復困難だと言うのはなかなか難しいという日本語の問題がある。保育所の入所はそうだし、高校の入学が入るかどうかは難しいところだが、検討会としては、こういうものは一つの例として考えているということが重要である。
【〔執行停止決定に対する不服申立て〕について】
■〔資料3に沿って説明〕
□第1の①の点は実務はこのように動いていると理解してよろしいか。
○知っている限りでは、そのようなことが行われている。特に緊急なもので、過ぎてしまったら効力がなくなる、意味がなくなるという場合には、地裁が判断に入るときに併せて高裁にも、こういう事件が地裁に今、出たということで、高裁のある特定の部が待機をするという状態である。
□今後もそういうものとして期待してよろしいか。
○そういう動かし方をしていくのだろうと思う。
○第1に書いてあることは、このとおりだ。第2は、違憲ないし違憲の疑いがある制度だと思われ、現実に30年間異議が述べられてこなかったことは、必要性もないということで、廃止すべきである。
○第1に書かれていることは、ある意味では当然であり、行政庁の一方的判断で一審の決定を差止めることが出来る制度も問題がある。第2だが、この資料の趣旨が余り使われていない国会への報告義務がプレッシャーになっているから、置いておいてもいいではないかと見えなくもないが、逆ではないか。使われておらず、使う実益がないことが歴史的に検証されたのであれば、何に使われるか分からないのであるから、差し当たり緊急な必要性のある活動場面が想定されないのであれば、一旦は廃止しておくのが普通の発想ではないか。もともとは行政権が司法権のした仮の救済に対して問答無用で阻止するのが事の本質、制度の本質なので、仮の救済は、もともと行政権限だということを前提にしないと説明出来ないが、仮の救済はもともと司法権の本質的な内容だと思われるので、こういう議論をすること事態がやはり無意味で、そもそも高裁、最高裁の判断で、司法権の内部で完結するような仕組みにしてしまうのが筋ではないか。
○現行の制度がいろいろ工夫を凝らして濫用出来ないようにしているのは、確かだろう。建前の問題になるが、行政権の行使に対しては司法のチェックの可能性を必ず確保する点から見れば現在の制度は多々問題があって、違憲の疑いがあるという評価も出てきている。そういう制度をどうするかということで、一つは廃止もある。もう一つは、内閣総理大臣の異議があった場合に、司法審査が及ぶように制度をつくることであり、理由が付けられているかどうかの形式的な審査とか、あるいはその内容についての実質的な審査とか、そういうことを学説の方では整理をしているので、そちらの方向も考慮するに値するだろう。
○今の意見は、もし内閣総理大臣の異議の司法審査がうまく機能すれば一案だと思うが、恐らく内閣総理大臣の異議が述べられるような事件は、かつてあったようにデモ行進とか極めて政治色の強い問題になる可能性が非常に大きいので、そういった問題について内閣が覚悟を決めて伝家の宝刀を抜いたときに司法審査が入ったとして、本当に躊躇なく、その異議は問題であると、バイアスなく判断出来るかかということを想定すると、厳しいので、裁判官にやや酷な審査を強いることになりかねない。
□学会では違憲論が非常に強く、あるいは先ほどご指摘のように疑義があるといって提案を出しておられる、非常に丁寧な意見もあるが、ただ、この段階で先ほどの御提案について十分な議論をする時間的余裕がなかった。もう一つは、この時代は国会周辺のデモ行進が、かなり中心的な課題であったが、それから大分時間が経ち、一体、内閣総理大臣の異議を発動するような伝家の宝刀の事態はどういうものかということについて、デモ行進を前提にして、議論するわけにはいかないという問題がある。かねてから違憲論の意見、あるいは疑義があるということを申し上げてきたが、検討会全体として現段階でまとめるのは、きついかなと率直に思っている。資料に書かれているような、国会に報告することになっている事例も、いろいろな政治責任を負うときのやり方として出ているもので、デモ行進とはかなり違うことは御承知のとおりである。この検討会としては内閣総理大臣の異議は全然検討しないで、このまま置きましょうということになるかというと、生煮えのところがあるが、この1月の立法段階でどちらかに決めるのは、いささか問題がある。少なくとも今日の段階では、廃止すべきということで踏み切れという御意見でまとまるということであれば、それはそれとして一つの考え方だが、緊急の事態について、どういう緊急事態を考えてもう要らないと言ったのかと言われたときに、一般的に説明するのに躊躇するものがあり、そういう意味で、もう少し詰めた議論をしていきたい。緊急事態に外国法はどうなっているのかということについて、ヒアリングのときに警察庁にお伺いしたが、必ずしも適切な答えは返ってこなかった。察するところ、外国では緊急事態について、別の緊急事態の法令があって、そのときの司法権と行政権の関係、特に行政権ではなくて執行権そのものとの関係をどう調整しているのかという点についての制度的な仕組みも見てみないと、簡単に結論は出せない。これでもう打ち切りということでなく、続行することがあるべしというような取り扱いではいかがか。
○結論としては今、座長が言われたところに近い。どちらかと言えば、違憲説だが、どこがまずいかというと、何にでも使える。現に過去に使われたデモ行進関係の場合はこういう仕掛けでなければ対処できなかったのかを考えると、かなり疑問がある。濫用の危険が常にあるということで合理化するとすれば、これからの時代に法の支配の原則を歪めてまで、執行権が乗り出さなければならないのは、どういう場合かということについての国民的な議論をきちんとやって、緊急事態法制がいかにあるべきか、あるいはあるべきでないかという議論を十分やって、本当に必要な部分について、制度を考えるのが筋である。現行法は非常に問題があると思っているが、検討会としては、現行法には問題があるというところまでの議論がされた程度で収まってしまうのではないか。
○内閣総理大臣の異議の制度は今、御指摘のように濫用の恐れ、あるいは法の支配という中で見ると、なぜこういう制度がなければならないのかをこの法律、この文言だけでは理解できない立て方になっており、検討会でそういうことを議論した、問題ありという意見が強かったと思うので、更に検討しなければならない。当面の法改正には間に合わないかもしれないが、検討の課題であることは、確認をこの検討会として出来たらいい。
【〔取消訴訟の原告適格の拡大〕について】
■〔資料4に沿って説明〕
○前回の検討会で事務局が示したメッセージは「法律上の利益」という条文をそのまま置いて、伊達火力と新潟空港ともんじゅの3つの判例の到達点を確認するという印象であったが、それでは原告適格の拡大にはならない。現在到達している判例の文言を考慮事項として条文に入れても拡大にならない。逆に今後の判例の発展による拡大の方向を阻害する要素ですらある。第1のAの(a)(b)、Bの(a)(b)という整理はもんじゅ訴訟の判例に沿った形の文言であり、関連法令という意味では新潟空港の判例にそった形の文言であり、判例の域を一歩も出ていない。タイトルが「原告適格の拡大」となっているが、何の拡大にもなっていない。事務局としては拡大になっている、判例の到達点よりも更に踏み出していると考えているのか、お聞きしたい。
■2頁にあるように、この考え方自体はそういう判例の考え方を出ているのかという個別事案について、どう考えているのかを申し上げられるものではない。具体例の冒頭に挙げているように、考慮されるべき利益を幅広く解釈することが原告適格を拡大する基礎である。考慮されるべき利益がこれまでの判例で往々にして狭く解釈されるおそれのあるような解釈手法が取られていたので、そのことが起こらないように、解釈手法を法的に担保することで、個別の法規に当たって、そのときどきの法令がどのように作られてきているかを考えながら、考慮されるべき利益を広く解釈して、原告適格を広く認めるという基本方針が書かれている。
○今回の提案では、前回お示しになった3つの判例の域を超えているのかどうか、超えているのだったら、どの点で超えているかを端的に説明いただきたい。
□私の理解は、①と②で考えていくと、どんなことが起こるか。判例の域を超えていないと読もうと思えば読めるかもしれないが、現在、いろんなバリアーに穴を空けていると読もうと思えば、無限の可能性を持っている。
○判例を照らし合わせてみれば、資料に掲げている文言は前回示した3つの判例の中で確認されていることは明らかで、このままであれば、原告適格の拡大にはならず、現状固定の条文を作るといったことになりかねない。これでは、これまで検討してきた現状では狭いから原告適格を拡大していこうではないかという大方の一致した意見とはそぐわない。
□考え方を示したものだが、そんなに固定したと考えるか。後から提案される意見と基本的にはそんなに違わないのではないか。固い枠を作るのではなく、やる気のある裁判官、あるいは裁判所がやる気になれば、とっかかりになる条文にしたい、法律構造にしていただきたいということを事務局にお願いし、いろいろ考えて、こういう形にしたわけで、かなりオープンな規定だと読める。今までのものを固定化するつもりはなくて、かなり広がる。
○文言を照らし合わせてみれば、資料に書かれていることは、もんじゅの判例が認めていることで、判例の域を一歩も出ていない。
□考え方の問題で、もんじゅの判決を一歩も出ていないというのは論理的にも無理があるのではないか。
○もんじゅのケースの抽象論だ、例えば、当該行政法規の趣旨、考え方をもんじゅは示しているわけで、当該行政法規の趣旨、目的、当該法規は当該処分を通じて保護しようとしている利益の内容、性質を考慮して判断すべきであるという一般論を述べている。要するに被害の重大についても、原子炉設置法の解釈ではあるが、その被害の程度とかが非常に重大であることからして、その保護しようとしている利益に入るという判断をしている。関連法規は新潟空港判決で、判例の追認である。
□もんじゅの判決を前提にして、もんじゅの域を出ていないと言われるのは困る。もんじゅと違った場合の適応も考えて作られていると思う。
○第9条で、「処分の取消しの訴え及び裁決の取消しの訴えは、当該処分又は裁決の取消しを求めるにつき、当該処分若しくは裁決の根拠となった法令及びこれに関連する法令又は条理若しくは社会通念に基づき、直接又は間接に保護されるべき現実の利益関係を有する者が提起することができる」という提案をしている。原告適格を拡大することは大方の一致した意見で、これまでいろいろと議論をしてきた。「行政訴訟検討会における主な検討事項」(第19回検討会資料1)はこれまでの検討会の意見として原告適格を拡大するために、A案、B案、C案で、現実の利益、法的利益、利害関係といった具体的な案を提示して、そしてパブリックコメントないし行政に対する意見聴取をしてきて、そこの議論は「法律上の利益を有する者」という文言を変更することが必要ではないかということが基本にあった。「法律上の利益を有する者」という文言は、いかようにも解釈が可能であり、現在の判例は解釈が狭いので、もっと広い解釈が出来るのだという議論があることは承知しているが、これまでずっといろいろな学者が、これでは困る、狭いと言ってきたのに、判例は頑として変更しない。若干拡大していた例があるが、やはり「法律上の利益を有する者」という現行法の文言を変更することが不可欠ではないか。これは国民に対するメッセージ、あるいは裁判官に対するメッセージという両面があるが、検討会では現行よりも原告適格の範囲を拡大することで、こういった改正をしたということが必要ではないか。A、B、C、Dの案のうちA案を提案していたが、実際、法令に乗せられるかといった議論だとか、さまざまなな配慮をして、現実にはC案でどうだろうか。「利害関係を有する者」という文言はいろいろな法律に使われている。C案に変えれば「法律上の利益を有する者」よりも広がるのかといった議論が一部にはあるが、広げるというメッセージで文言を変えるわけであり、「法律上の利益を有する者」ということで現在の判例が解釈している内容よりは広がることは間違いない。「利害関係を有する者」だけでは、少し漠然とするという意見もあるので、「利害関係を有する者」という文言の頭に、「現実の」を吹き込んだ。
○事務局の説明でも「考慮されるべき利益」、「守られるべき利益」という言葉が何度も出てくるが、特定の処分をするに当たって考慮されるべき利益と考慮されるべきでない利益を線引きをして、前者であれば原告適格を認める、後者であれば認めないという趣旨か。私の理解では、もしそうなると、ジュース訴訟みたいなものは、景表法は当然、消費者の利益は考慮して立法されているし、それを適切に運用することは消費者の利益を保護することになるので、公正取引委員会の処分は消費者の利益を考慮しつつ行われたことになるし、そうあるべきものだ。もしそうだとすると、消費者全部に原告適格が認められることになるのか。もしそうではないとすると、最高裁はそこではたと思いついて、当該法律が個別に保護しているかどうかという、その法律の趣旨を見ろという最後の決め手を発見し、そうせざるを得なかったのではないか、事務局はそこをクリアーされたのか。
■そこは決めていない。
○決めていないということは、今までのようなわけの分からない限定もされるということで、何らの歯止めもない。
■考慮されるべき利益がどこまでの範囲かとか、公益的な利益をどう考えるのかを決めている趣旨ではない。
○個別の法令で、当人が考えることになると思うが、私が言っているのはもっと抽象的な枠組みである。
■一般的な枠組みとしては、考慮されるべき利益の範囲で原告適格が認められるということで、それがまた個人の権利利益であるということは変わらないのではないか。
○そうすると、景表法にとって消費者の利益は考慮されるべき利益ではないということになるのか。
■具体的な事例についてどう解釈されることになるかは、裁判所が考えることだ。
○どういう考え方がその場合にあり得るか。
■いろいろな考え方がある。
□一般的な保護利益と、最高裁判決の個別保護利益というのと別に、一種集団的な利益を分け持っている人たちの利益があり、そこは切り分けるのはどうかということは何度か提案があったと存じており、私も出来ないかと考えてみたが、ドクマティッシュにこういうものであることをまず決めて、それを条文化して、裁判所に対する要件として書き込むのは大変である。この資料の提案は、先ほど提案されている学説に乗って裁判所が判断しようと思えば出来る、そういうオープンなスペースを提供しているのだと理解している。
それから、個別具体でも、保護利益といっても、資料に書いてあるような利益を考慮してくださいと言っているので、従来の原告適格を個別の条文の根拠のあら探しをするような形でなく、もっと広く個別保護利益の範囲は広がる。更に意欲ある裁判官であれば、今の委員の見解にも乗れるような条文になるのではないか。特定な集団、あるいは特別の資格を持った人を原告適格の要件で切り分けるとなると、どこまで特別か、その特別という範囲がどこまでかということを条文の中で示せればいいが、示されないことになると、難しくなってしまう。そういうものも入るのだという場を提供することがぎりぎりかなと思う。この資料の提案はそういうツールを提供しているという趣旨である。
○先ほど言った趣旨は、この事務局案の考え方が、結局は法律の解釈は柔軟に広くやれということだが、論理構造としては、原告の利益があって、それと法律とを比べて、法律はその利益を保護しているのかどうか、その人の利益をその利益として保護しているのかどうか、あるいは考慮すべきものとしているのかどうかという形の法解釈でもって、原告適格の範囲が決まってくるという基本枠組みがあるように見える。これはドイツ流の、法律に基づいて、その人の保護された権利なり利益が出てくるという、いわゆる法律に保護された利益説ないしは保護規範説の考え方であると見えるが、そこを乗り越えたい。
□特定の利益をどう判断するかという点は非常に広がりを持っている。近鉄特急事件だと、定期券を使っている人たちは最高裁判所は原告適格はないと言ったが、それを認めてみようという方向にいざなうことが出来る仕掛けではないかと言っているわけだが、それが更にどんどん進んでいって、土産物店はどうかとなると、そこは首をひねる。
○土産物店も認めるべきだという論文を前に書いたことがあり、そこへ何とか結び付けたい。
□そこまではなかなか行かない。
○それは保護規範説に立っているからではないか。
□いや、そうではない。土産物店も保護利益と言うが、法律上要件にはなっている。
○土産物店の利益から出発するのではなく、史跡名勝の価値そのものに着目し、それを守るのは誰が適しているかということである。
□訴訟法の訴訟管理者か。
○紛争管理だ。
□そこを検討会で認めろと迫られても困る。今の発言は非常に先見的なものがあるし、私も日本法がそういう方向に運ぶとことにはかなり賛同する。
○その足を縛らないでいただきたい。
□縛らないように出来ている。
○考慮事項を非常に強調されたが、やはり条文をどう書くかというときの話になるわけで、その点で言えば、第一のAやBに書いてあることが、条文作りにおいては基準になるのではないか。前々から法的利益がいいと言っていたが、法律上の利益も法的利益も同じ意味だと言われると、法的利益にこだわることは出来なくなってくる。その前提で言うと、現在の「法律上の利益」についての判例の解釈をどう書いていくかという問題があって、その場合「法律上の利益」という文言自体を変えるという方向が1つあるが、どうもこれまでの作業では難しいとなっている。そうすると、「法律上の利益」を裁判所なりが解釈する上での考慮事項を条文に書くやり方は、1つの原告適格を拡大する方法としては、あり得る。そのときに、第1のA、Bに書かれているようなことが入ってくるが、その点について、もんじゅとか新潟空港の判決は、他の裁判例を比較すると、非常に優れているところがあり、そういう考え方が一般的な形で法律に書かれれば、裁判実務上大きな影響を与える。
○先ほどの指摘の問題は、かねがね感じており、どうやって乗り切るべきかは大きな問題である。公益という形で保護されているものにも、一様に原告適格を与える、個別的というところを特にはねないで、保護されていると思われれば皆与えるとした場合には、やはり原告適格が個々人を区別する、この人には原告適格があり、この人はないという区別する指標としては非常に稀薄なものであって非常に判断がしにくくなる。その問題は、今の解釈の在り方が、公益と私益、個々的に保護された権利を余りにも截然と区別しすぎて、公益として保護しているときには、一方はあり得ないという区別の仕方に陥りがちだというところにあるのかなと思う。本当に救済すべき事案については、公益としても確かに検討はしているが、ある一定の範囲の人については、個々的な意味でも二重に保護しているというものをもっと実体法的に観察する領域があっていい。そういうことが進んでいくのであれば、例えば、事務局が示したようなメルクマールであっても、同じような保護に到達するのではなかろうか。
○基本的な立案の仕方がおかしいと思うが、検討会は立法論を行う場であり、立法論は、今までの判例の解釈について何か問題があるとすれば、最高裁、下級審も含めて、学説も含めて、学説に混乱があったとか、判例が必ずしも統一されていなかった、あるいは原告適格が狭過ぎたという、解釈の実体に問題がある場合に、立法的解決を与える、それは政策判断で立法的解決を行うために営む行為だから、立法論で想定されている条文の結果、どの判例が変わるのか、あるいはどの解釈がどのように変わるのかということを、判例や学説の蓄積に委ねるというのは誠に無責任な態度である。裁判官ではないから、精密にある要件効果を厳格に特定することなどは出来ないが、その条文にしたときに、今までの運用や判例や解釈と一体何が異なることと見込まれるのかを立案担当者自身が分かりませんということがあっていいのか。立法論の解釈論あるいは判例評釈と言われるが、かみ合っていない。立法の場であり、立法で想定するものについての見込み事項なり想定事項なり、変更事項なりということがあるのかないのかということは議論の前提として進めていただきたい。
□行政に権限を与える場合には、要件をきちっとし、その効果はどういうものであるかを決めていかなければならない、これは法治主義の基本原則になる。その権限を行政が誤ったときに、救済を求める人が出てきたときにどうするかは、憲法上最高裁判所ないし裁判所以下の裁判所に委ねられている。アメリカあるいはコモンローの国はまさに司法のやることであって、アメリカでも確認訴訟は判例がどんどん積み重ねてきたのを立法が整理する。まず、宣言判決訴訟があって、それをどんな宣言の訴訟が出てくるかアメリカ人は考えて、それについて緻密な議論を展開した結果、宣言判決の今の蓄積があったというのは、アメリカ人に言わせれば、とんでもない間違いだということになる。まず判例が出て、それでいろいろなことが起きたので、整理をした。ドイツの行政手続法も同じだ。裁判、あるいはデュープロセスの実現の場で、一番真剣に取り組まなければならないのは裁判官であり、裁判官が適切にその職責を果たせるような形での支えをするのが立法ではないか。要件や効果を決めて、裁判官に動けというのは、裁判官に対する侮辱である。司法法、あるいは裁判法に対する認識が、そうではない。裁判官にも、救済を求める原告にも、あるいは弁護士にも適切に権利主張し、適切に救済を図るための武器を与えることなので、そのときに要件効果で縛るのは基本的には反対である。裁判所が、こういった考え方でやれば、もっと適当に裁判の救済の武器を働かせることが出来るのではないかということで、示しているのが今日出した事務局の案の基本的な私の考える理念である。この武器はどういうふうに使えるかということは、過去の事例について言えば、こんな場合にはこうなりますと言っているが、これからどう発展しますかという判例蓄積、学説を待ちますということより、むしろ裁判法に対する法規の当然の事柄であって、ここが先ほどの指摘と根本的に違う。行政に対する行為規範と、裁判所に対しての規範とは違って当然ではないか、あるいは立法権としてもそのことを十分理解の上、臨むべきではないか。
○日本は制定法準拠主義の国であり、アメリカでも判例を変える場合に、制定法がある判例の傾向に歯止めをかけるために立法することが広く行われており、もし判例の蓄積に対して司法チェックの場で、立法が別の流れをつくることが出来ないとなると、行政訴訟検討会で、今まで議論してきた営々たる蓄積は、ほとんど立法は出来ないことだということになりかねない。
□制定法準拠主義はいけないと言っている。これを最高裁判所以下が破ってくれなければ、これまでの蓄積は全く外れる。いつまでたっても制定法準拠主義なら、日本は法の支配の国から離れて、法律の支配になる。それをやめてくださいと言っている。
○立法を新たに果敢につくられることは全く異論はないが、今までの判例は救済範囲が原告適格に関して狭かった。まさに実体的に行政に権利侵害されたときの権利回復が出来なかったことは、あらかじめ行政庁の権限を拘束する実体法を作るときと、その回復の場面とで次元を異にする立法態度があるべきだという発想は理解出来ない。救済をするのであれば、実体権の統制と同じような意味で、立法権が司法権にどのぐらいまで救済の範囲を求めるべきかというメッセージをつくり得ることは当然であり、司法権を追随することしか立法が行えないのだということであれば、行政事件訴訟法について全部判例の蓄積に委ねないとおかしいということになりかねない。
□司法権は行政統制のためにあるのだということであれば、そういう形で立法することはもちろん可能だが、それに対して、やはり憲法上の問題があるということは憲法学者も言っている。何でもすべて客観訴訟に持ち込むということは出来ない。
○客観訴訟とは言っていない。
□もう一つ、原告適格を議論する場合には、原告の権利、利益の保護ということで考えていき、その場合の原告の権利利益の保護は、余り厳密に、あるいは細かな形で議論しているから、なかなか原告適格の範囲が広がらないので、その場合の考え方の筋道をこういうふうに整理したらもっと広がるのではないかというのが、この資料の提案である。
○原告適格を広げられたいというメッセージなり、方向性については全く異存はないが、今、あえて問題提起しているのは、一体どういう手段で行うのかということに関して、判例が、いわば呪縛に陥ってきた一定の原告適格のドグマがあり、憲法の裁判を受ける権利に照らしても狭過ぎたということが憲法上何らかの形で疑義があるとすれば、憲法に照らして広げるように判例自身が自助努力で広げることが出来なかったのであれば、立法の出番であるということになるだけのことだ。学説や判例が熟するまで立法が出張るべきではないという議論には、全くくみすることは出来ない。
□私も全くくみしない。現に立法は出張ろうとしており、義務付け訴訟、差止訴訟、その他のことにもどんどん出張っている。原告適格が今問題になっているが、出張り方はいろいろあるが、立法として、こういう形で出張れば裁判所はもっと原告適格の範囲、あるいは権利救済ということの実効的な確保をすることが出来るのではないかという形での提案である。
○そういう形でしか立法が出張れないのはドグマではないか。
□ドグマでも何でもなく、提案をしている。どういう御提案をされるのか。
○具体的に条文で想定される領域を見込み事項なり、想定事項としては頭に置きつつ、こういう場合は、ここまで広がるとか、こういう条文なら、例えば近鉄特急であれば、まさに先ほど言われたように、考慮事項によって、近鉄特急が救えるようになるはずとか、そういうことを1対1で具体的に対応するシミュレーションが不可欠ではないか。もう一つは、今までの「法律上の利益」は、かなり確たる呪縛概念として流通していることは、検討会でも共通認識だと思う。まさにいろいろな形があって、たった5文字か6文字の言葉から演繹的に外枠の概念が固まるなどということはありえないと思うが、少なくともこの言葉に対応して、今までの最高裁判決や、下級審判決が営々と築き上げてきた一種の基準があるわけで、それの相対が狭いという議論をしているのであれば、言葉を変えなければ解釈は非常に変わりずらいというのも、理路当然ではないか。
○「法律上の利益」という文言を変えるのが一番いいが、それはなかなか難しい。一つの選択肢として、「法律上の利益」を解釈する場合の考慮事項を示すという方法があり、それがいいかどうかという話である。先ほどの水野委員の提案だが、法令云々に基づきとあるが、これは法的判断をしなさいということだと思うが、その後に、現実の利害が出てくるが、これは矛盾ではないか。法的利益と現実の利害はどう結び付くのか。
○利害関係があるという意味では、無限に広がる可能性があり、ある程度縛りが当然必要だということである。
○そこは法的判断でいいわけではないか。
○法的判断でいい。
○そうすると、現実の利害は要らないのではないか。
○要らないかもしれない。
○法的な判断だということで合意が出来るのであれば、用語としてはいいものではないかもしれないが、法的利益とか、そんな話になってくるが、法律用語ではないという意見があるので、そうすると、「法律上の利益」になってしまい、これは全然前と変わらないではないかという話になってきて、それなら「法律上の利益」という文言を解釈する場合の考慮事項を新しい法律で書くという方向が出てくる。今の最高裁の判例を素材にして、この解釈基準を作るということについて、かなり抵抗があるようだが、もんじゅ訴訟は、ちょっと表現に困るが、優れた判決であり、そういう基準が一般化されればかなりよくなる。
○「法律上の利益を有する者」という文言を変えるのが難しいと言ったが、なぜ難しいのかよく分からない。難しいということに検討会はなったわけでもない。A、B、C、D案は、「行政訴訟検討会における主な検討事項」まではまとまっていた。その後に、「行政訴訟制度の見直しのための考え方と問題点の整理(今後の検討のためのたたき台)」(第24回検討会資料)の段階から文言は変えないというのが出てきたわけであり、変えようと思ったらいつでも変えられる。変えても広がらないのではないかという意見があるのは承知しているが、ここは広げるために変えたということが必要だ。もう一つ、今の判例が進んだ判例だから、追認することでいいのではないかという意見だが、それでは原告適格の拡大と言う必要はない。我々が検討している最中にたまたま最高裁の判例が出た、ここまで最高裁が広げてくれるので、法で変えなくてもいいのではないかという話なら分かるが、もんじゅの判決は平成4年の判決で、判決が出た後も、やはり狭いという議論は変わっていない。もんじゅの判決の要件が条文に書き込まれれば、やりやすいのではないかということは、我々弁護士の感覚としてはありえない。弁護士は、あらゆる判例を使い、例えばもんじゅの判決が使えるということであれば、これを一言一句そのまま引用して、裁判所は、それと違う判決は原則的に書けない。もんじゅの判決がこういう言い回しをしているというところまでは確定しているわけで、だからそれと同じことを書いても、何にも拡大にならない。これは間違いないところだと確信している。1点だけ申し上げておきたいが、今の事務局の案は根拠となった法令というものが基本になっているが、例えば里道廃止処分のように根拠となる法令がない判例は、根拠となる法令みたいなものを言わずに、法律上保護された利益に当たる場合があるという言い方をしている。もしも根拠となる法令というような条文を明文で置いた場合、根拠となる法令がない場合のケースについて救えるのか。こういう案をきちんと書いてしまえば、それは救えなくなるのではないかという気もする。今の判例よりも場合によれば狭くなる可能性もあるし、少なくとも今後の判例の発展を阻害する。
□里道は、今度は地方団体に移管されたので、法制は変わってくるが、その当時の考え方からすると、法定外公共物ということで、明治以来の法があり、条理でも社会通念でもない公物法があるので、法はある。条理もしくは社会通念は、その辺のことをお考えかとも思うが、なかなか分かりにくいのは現実の利害関係で絞ろうというときに、現実の利害関係とは何かというのが、また出てきてしまう。広過ぎるから現実の利益で絞ろうということで、広がり過ぎないようにと言っているが、そうすると間接的保護された利害関係のうちの現実の利害関係という、これは一体どういう基準で決めるのか。もしかするとこれは条理及び社会通念かと思ったが、条理がそうなると法源かという話も出てきて、法令用語にはなく、明治時代の裁判所の規則辺りで、条理に従って判断すべきとあるが、いまだに学説上は条理というのは法源なのか何なのかは議論になっている。
もう一つ、社会通念によって判断しようということは盛んにいろいろなところで出てくるが、条文に親しむのかどうか。社会通念というと、チャタレー事件の田中耕太郎判決を思い出すが、常に社会通念というのは、社会の進歩にブレーキをかける役目も負わされている非常に恐ろしい概念で、行政法では社会観念という言葉だが、社会観念という言葉を使って判断しているのが、神戸税関の懲戒処分の事例で、社会観念に著しく反しないということで、社会観念を裁判所が勝手に想定している。チャタレー事件では社会通念は、裁判官が判断するものだということで、その当時の裁判官がああいう判決を下したということになるので、なかなか条文化には難しいなという感じも持っている。現実の利害関係ということでいくと、そんなに事務局で考えていることと違わないのではないかという感じがする。検討会の御意見をどういうふうにまとめていいか苦労するところだが、日本法としては、従来の法律の在り方等も考えて作っていかなければいけないときに、どうすれば一番効果的に裁判官に訴えることが出来るかということで、考え方について、ここら辺を考慮してください、あるいはこういう考慮をすることは出来ますよと言えば、意欲のある裁判官だったら、かなり行けるのではないかという感じもして、いろいろ事務局とも相談して整理をしていきたい。
○先ほどもんじゅの判例を超えない、超えるとか言っていたが、我々から見れば、平均値の議論だ。裁判例が幾つもあって、平均値が今はここで、もんじゅがやや突出しており、そこまで平均値を上げるという規定になるのだろうと思うが、平均値が上がるということは、更にプラスマイナス、全体が上がるので、そういう意味では、かなり平均値を上げる議論で前進ではないかという感じはしており、平均値が突出点を超えるか、超えないかは、我々から見ると社会通念上違うという感じで聞いていた。もう一点確認したいが、私の感覚からすれば、集団訴訟とか、団体訴訟が非常に難しいということであれば、集団訴訟が一番高いハードルがある、あるいは、その次に団体訴訟の難しさ。そうすれば、原告適格のところが一番ハードルが低く、広がりを持たすという意味では、原告適格のところで出来るだけそういうものを受け止めてほしいという感じがしており、そういうものがもう少し読めるようなものにしてほしいし、それが積み重なっていけば、将来の団体訴訟なり、集団訴訟につながるようなダイナミズムを醸し出せれば有り難い。
○確かに原告適格を拡大するということで、事務局の資料の文言を読んでいる限りにおいては非常に分かりやすく、これで平均値が上がるのであれば、非常にいいと思ったが、その一方で、いわゆる用語で言うと、分散になるのか、ぶれが大きくなるということは、国民にとってかなり不満が残るものになる。先ほど意欲のある判事という言い方をされたが、国民からすれば、意欲あるなしは関係なく、やはり自分にとって、一番いい判決をもらいたいので、たまたま意欲のない裁判官に行ったお陰で、結果が思わしくなかったとか、そのぶれがあるということは非常に不満があり、幾ら平均値が上がってもぶれが大きいということは、相変わらず不満が残る。何とか、ぶれがないような形でいくような文言を考えていただきたい。
□この事務局案では、平均値が今より上がる。元気な裁判官と言ったのは、乗り越えようと思えば、乗り越えられるという場はあるのではないかという意味である。それを今度は、どういうふうに受け止めていくかはケース・バイ・ケースの話になり、最高裁まで行って、このケースならばいいだろう、このケースならば駄目だろうということで、最終的には最高裁判所が判例政策で決まってくる。ただ、一審の裁判所に当たりはずれがあるのは、しようがないと言うか、そういうことはあるべしということだが、基本的な平均値までは持っていける。もっと元気がいい裁判官がもっと出てくれば、もっと行きます、そういう趣旨である。検討会のとりまとめの方向に進んでいるときに、この検討をどういうふうに進めていいか、なかなか判断し難いところがあるが、前回事務局の方で考慮事項という形で示され、それについては積極的な意見もあるし、真正面から消極的な意見もあった。ただ、できれば何とか考えを統一して、どれを核にしてまとめていったらいいかについて考えていかなければいけない。私としては、かなりいろいろなことを考えて、要考慮事項を置いてみようということで、一応、宿題をこういう形で出したので、更に補うべき点は補うということでよければ、こういう形のものをまとめたいと思っているが、いかがか。
○「法律上の利益」という文言を置いておいて、2項にそういった規定を設けるということか。
□もう一つ、「法律上の利益」の問題が残っているが、これを本質的、根幹的な規定と読む人もいるが、そんなに根幹的な規定と思って、元々は書いていない。雄川一郎先生の行政事件訴訟法制定の回顧録を読むと、法律上の争訟がこんな問題になるなんて全然思っていなかったのであり、この言葉に何か従来の固い判決が凝縮しているとは認識出来ないところがあり、では、他の文言がいいかというと、利害関係も、この前、御紹介あったが、凝縮している判例、固まっている利害関係というのもある。全く新しいことだったらまだいいが、利害関係をこういうふうに理解しますというのがどんどん出てきているので、そうすると別の法文の利害関係と、こちらの法文の利害関係は違うというのもなかなかしんどいところがあって、ここは両方の御意見があったということで、今日は締めさせてていただきたい。
○解釈規定というか、運用規定というのか分からないが、そういう規定を置くことに絶対反対というわけではない。ただ、現在の判例をそのまま持ってきた、判例の追認みたいな規定では困る。先ほどから、平均値を上げるみたいな議論があるが、判例は、そういう平均値ではない。判例は、古い時代の判例から世の中の動きに従って変わってくるわけで、例えばもんじゅ訴訟が仮に一番突出しているとすれば、それ以後の判例は、必ずそれを踏襲する。それを最高値だという表現をすれば、最高値がそういう判例を形成していく、これは紛れもない事実なので、平均値を上げるからいいという議論は、少しおかしい。どういう文言になるのかは、今日のペーパーだけではもう一つよく分からないので、例えばこういった文言だったらどうかというものを提示していただき、それを基に少し議論する方が具体的な議論になるので、出来れば次回に事務局の方からお示しいただきたい。
□文言というのは、どこの文言のことか。条文にしてみるということか。
○条文がどんな条文になるのかということだ。
○行政法の場合には、全てが個人の利益から出発しているわけではないので、社会的に共有された利益をまずは立法の対象にして行政活動が行われる。それが個々人の生活に対してどういうインパクトを与えるか、そういう話がしばしば出てくる。この資料で書かれている利益は、基本的にはそういう立法が考えている、守ろうとしている、確保しようとしている利益のことであり、個々人がどれだけ損害を受けるかとか、直接にはそういう話ではないと考え、例えば、一番最後のところ、利益の内容及び性質並びにこれが害される態様及び程度を考慮すべきことを定めることはどうかとあるが、これが害される場合に、害されることで原告にとっていろんな態様、程度のインパクトが生ずるのかということを考慮すべきというような書き方にしていただけると少し安心出来る。
□利益論はなかなか難しい。社会共有の利益と個人の利益は分かれないと思っており、すべてアナログでいっていると思っている。アナログのものの難しさがここにある。デジタルだったらもっとどんどん切れている。最高裁はすべてを二分法で、これは近代法治国家の発想が最高裁に残っているので、それはそうではなく、やはりアナログの世界、だからこそアメリカ人はあれほど苦労して判例を行きつ戻りつしている。判例は、なぜ行きつ戻りつしているかというと、それはやはりアナログの世界である。公共の利益は、そういうものではないか。
【〔義務付け訴訟・差止訴訟〕について】
■〔資料5及び6に沿って説明〕
○質問だが、いわゆる抽象的な義務付け、要するに何らかの規制権限を行使すべきことは明らかだが、具体的にどういう権限行使すべきかは必ずしも明らかではない場合は、この一義性の中に入っているという理解でいいか。よく見ると、義務付け訴訟は一定の処分と書いてあり、差止訴訟は特定の処分と書いてあるので、そこでちゃんと区別をしていると読めるとは思ったが、確認したい。
■特定の問題は、請求である以上特定されなければいけないということであって、そこは前回の検討会の資料で、民事訴訟の請求の趣旨の特定と同じではないだろうかと考え、ただこの場合は、一義性が判断できる程度の特定でなければいけないという、訴訟特有の民事訴訟のアプリケーションはあるかと思うが、一般論の問題ではないかと考えたので、この要件の中には書いていない。今、指摘のあったような、それは一義性の中のとけ込みなのかと言われたのは、むしろ我々の方の考え方では、一義性という要件が定められるわけで、その要件が運用できる程度の特定が必要で、ではどこまでが必要かというのは、訴訟法の一般論の問題ではないか。
○何らかの是正命令を行使すべきだといった義務付け訴訟は出来るのか。
■それは具体的な場合に応じる。
○出来るか出来ないかはきちんと書いておかなければいけないのではないか。この要件で、一定の処分をすべきことが一義的に定まることを、いわば狭く解釈して、例えば何らかの是正命令でも具体的にやらなければいけないということまで、いわゆる一義性があるというところでなかったら義務付け訴訟が出来ないということになると抽象的な義務付け訴訟が出来なくなるので、もしそうだとすれば出来ることを分けて書く必要があるのではないか。
○今の抽象的な作為行為の義務付け訴訟ないし判決は、ドイツ流に言えば義務付け訴訟の枠内で出てくるが、不作為の違法確認訴訟とは違うのか、あるいは不作為の違法の判決とは違うのか、その辺の関係がよく分からない。不作為の違法確認判決は、何らかの義務があるという、義務の確認判決だと思うが、そうすると、今、言われたような場合もカバーしてくるのではないか。
□前回もいろいろ議論した前回の資料の中で、処分の内容を一定の範囲で特定できれば、抽象的内容の義務付けもあり得る、これは義務確認とやるか、あるいは義務付けとやるかはいろいろ考え方があると思うが、特定としてはそういうものであるということで、前回お示しして御了承をいただいた。
○処分が最後の最後まできちんと一義性がないと出せないとなると、非常に硬直したところを出ないので、ある程度抽象的な義務付け訴訟を認めるような書きぶりにすべきではないか。どこまでが具体性で、どこまでが抽象的かということはまた議論が分かれると思うが、ある程度裁判に応じて、不作為の違法確認でもいいが、抽象的な義務付け判決も出せるような形にすべきではないか。
○全体としては、概ねいいような気がするが、細かなところで、義務付け訴訟及び差止訴訟の原告適格に関する要件で、自己の法律上の利益を害され、または云々とあるが、この言い方は、何となく法律上保護された利益が侵害されたというようなニュアンスもあって、理論上の混乱を招く恐れがあるので、取消訴訟と表現を合わせた方がいいのではないか。単純に義務付けを求めるについて法律上の利益を有するとか、差止めを求めるについて法律の利益を有するでいいのではないか。その他、B、Cが訴訟要件と本案の要件がどうなのか、そこの整理も多少絡んでくるかもしれないが、お考えいただきたい。
○③に、救済の必要性に関する要件とあるが、不要ではないか。一定の処分をすべきことが明らかだということであれば、義務付け判決を出してもいいではないか。処分がされないことで重大な損害が生じ、または生ずるおそれがあり、他に適当な方法がないことという厳格な要件を設けると、まさに義務付け訴訟は、法定したが、ほとんど出来ないことになりかねないので、③の要件は外すべきである。
□救済の必要性に関する要件は、第三者が義務付けを求めてくるときがあり、これは一種の介入行為請求権で、昔流の日本法でいくと、そんなことはあり得ない。かなり特別な場合ということで、通常の場合とは違うのではないか。第1の③は一般的要件で、申請に基づく場合には、第2の③で全部外れている。
○そう読むのか。
□そうだ。
■申請に基づく場合は第1の③は要らない。
○一般的要件と書いてあるが、申請に基づかない場合のものか。
■申請に基づく場合は、第1の③とか①ではない。
○第1と第2の書き方が、分かりにくい。むしろ逆の方が分かりやすい。
□条文を書いていくと、まず申請から書いていくと書きにくいということで、内容的にはそのように御理解いただきたい。申請に基づく場合には、第2の③でいくということである。
○第三者がやる場合でも、そんなに重たい要件が要るか。
□なかなか難しいところで、日本では第三者に請求権があるかどうかまで、行政法で議論していない。ドイツでは盛んに議論をしたが、日本は取消訴訟ばかりに熱中していて、その意味での請求権か、それとも一種の形成訴訟的なものかということは整理せずに終わっているという状況で、請求権が、もしあれば、先ほど言われたように、請求権がそのまま完成すればいいではないかということになるが、なかなかそうはいかない。ただ、これを機会に、日本でも実体法上の請求権が発展してくるかどうかということが問題になる。
○両方で違いを設けるべきかどうかもう一度考えるが、第1の③の要件は、いかにも書きぶりが重い。
○第三者が救済処分をしろという話だから、重いに決まっている。
○重過ぎるということだ。
○第2は、立法者がある人に一定の権利を与えようという判断をしているわけで、第1は、その判断が立法上余りないということなので、先ほど請求権が確実に生じていないと言われたのだと思うが、そうなると、第1の方は、やや立法がいかにあるべきかということを考えながら裁判所が非常的な救済に乗り出すという話かと考える。
□事情によってはかなり動き得るものだと思う。ドイツでよく例に挙げられるのは、原子力施設の稼働停止、あるいは直すことを求めるというのもあるし、例えば雑居ビルの中で階段のところに変なものが置いてあるときに、それを除却してもらうときに、民民で行けばいいではないかということも一つのアイデアで、それを貫くとそういう必要はないが、ただ民民で本当に行けるか、どの地区ではどんな人が住んでいるか分からないというときに、民民でやりなさい、おれは知らないと言えるかというと、それは知らないとは言えないというルートはここにあるということだと思う。
○第1の③の「他に適当な方法がないこと」は、やはり引っかかる。つまり、民民で行けるからいいではないかという議論になり、例えば公害を発生しているから規制してくれというときに、直接工場相手に差止訴訟をやろうではないかという議論になりかねないので、だから「他に適当な方法がないこと」というのは、どういうことを念頭に置いて書かれているのか分からないが、もしそういうことであれば非常に困るので、外すべきではないか。
□基本的には、民民の紛争だという問題がある。
○民民の紛争だと言っても、例えば規制の相手がたくさんある、公害工場が幾つもあるという場合に、全部に裁判を起こさなければいけないのか。しかも、大気汚染の場合だと、原告に到達する寄与率がどれだけであるかとか、そんな議論がいっぱいある。それだったらきちんと大気汚染防止法に基づいて規制をしてもらえばいいではないかとも考えられるので、「他に適当な方法がないこと」という要件は必要ないのではないか。
○差止訴訟だが、第1の②に「本案に関する要件(一義性)」とあるが、これは処分してはならないというところに力点を置くと、違法性の問題で、本案の問題だろうと思う。差止訴訟が認められるために、どういうことが必要か考えると、一定の処分をすることを行政庁が意思決定をしている、あるいは、一定の処分が行われる蓋然性がある、あるいは可能性が高い、そういう場合だと思うので、ここで特定の処分と一義的というのが2つ入っているが、特定の処分だけでいいのではないか、あるいは特定の処分が行われる蓋然性があることとか。
■そこは、柱書きの方に入っており、特定の処分をしようとする場合に、差止めを求める訴訟ということで、そもそも訴訟の構成要素ではないかなと思ったので、ここに書いてある。
○本案に関する要件とあるが、勝訴要件だという意味か。
□そうだ。本案に関する要件というのは、訴訟要件ではなくて勝訴要件である。
【〔確認訴訟〕について】
■〔資料7に沿って説明〕
□前回の検討会でドイツにおける確認訴訟の例をお示ししたが、今日はアメリカ、そしてフランスにおける確認訴訟の例を御説明いただく。
△資料10、1枚目の「I.宣言判決の制度」の「1)宣言判決における判例と立法の関係」。1933年に連邦最高裁が宣言判決を認めようと、それまでは憲法違反ではないかという議論があったが、判例変更をして、翌年に法律が立法されている。なぜ立法されたかということについて、この連邦以前に州での前史というのがあり、判例上宣言判決を認めようという動きはあった。しかし、宣言判決は憲法の司法権を超えて違憲ではないかという反論もあった。権利の存在だけなのか、それとも不存在も言えるのか、あるいはインジャンクション等の関係で劣後をするのかどうか、あるいは、裁量として認めないこともあり得るのか、あるいは既判力があるのかというところでいろいろな議論があった。この点について立法がなされるという動きがあったという、20世紀初頭の話であるが、この当時も学者はかなり活躍したそうで、当時の立法データが出てくるが、そこで立法を行うという1つのパターンが出来た。それがそのまま連邦法でも取り上げている。
「2)宣言判決の特徴」だが、A既判力を持つ。それから②ほかのタイプ、例えば損害賠償であるとか、差止め、インジャンクションであるが、そういうものが請求されているか、あるいは請求され得るかとは無関係に宣言判決をすることが出来るということが立法で明言でされている。③その結果、唯一問題になるのは、現実にそこに紛争があるのか、何でもかんでも宣言できるので、現実の紛争があるかどうかに限定されるということが重要で、ここが唯一問題のあるところである。
「3)宣言判決の利用のされかた」、これは具体例であるが、①民民の訴訟であれば、これこれの権利がある、契約は有効であるとか、特許は無効であるとか、こういう形で使う。「② 国・地方公共団体に対する訴訟の例」だと、これは非常に広く使われている。現在では法律や条例等の違憲性を争うタイプ、あるいは行政決定を争う際に極めて多用されている。
4)だが、こういった宣言判決を、日本ではどういうことになるのかということを一番下に絵に書いておいた。インジャンクション・宣言判決、これは行政上の決定を争う場合には、いつでも使える。判例法令上の司法審査ということで、かつて紹介したが、ただし個別制定法で別の審査方法を書いてあればそちらを優先するというものとの関係である。これを無理やり日本に引き付けると、個別制定法上の司法審査が抗告訴訟、処分がある場合の訴訟。それ以外の場合について、何らかの請求権があるということで給付訴訟として確認訴訟が出来るという関係で御理解いただければいい。
具体例は4ページ以降で、要するに全ての場面で使われるということである。宣言判決とそれからインジャンクションが全ての場合で使われる。基本的な場面に分けてみた。申請があった場合で、1)申請が拒否されたので相手が訴えた。この場合には、A拒否が無効である、あるいは申請に係る事業を行う権利が自分にあるのだということの宣言をする。それに加えて、あるいはそれだけではなくて、またはということでインジャンクションだけのこともあるが、許可をするよう命ずる、義務付け訴訟である。こういうパターンでやっていかれる。2)は、申請が認容されたときに第三者が訴える。同じように、宣言判決とインジャンクションがある。申請に対して不作為がある。この場合も同じように申請について処理を受ける権利があるということを宣言する。このようにやっている。6ページに事例が書いてあるので御覧いただきたい。
今度は「不利益処分」の場合だが、やはり同じように、1)不利益処分に対して相手方が訴える、宣言判決が無効である。あるいはインジャンクション、その不利益処分をやるなという、続行するなというインジャンクションである。2)だが、なされる見込みのある不利益処分に対して、先ほどあった差止め訴訟の事案であるが、これは例があるのだと思うが、探してみても実際に例がなく、発見できなく、その理由は、多くの場合、アメリカではその前提となる通達等を、違法宣言をするということがよくやられているようである。反復する場合には、既に前の処分を争っていて、それが期間満了等があっても、ムートとならないということであり、そのまま前の処分について違法確認をする。3)が、先ほど義務付け訴訟で扱われた場面であるが、これも宣言判決が使えるはずだが、私が見た限りでは、端的にインジャンクションするという判決ばかりであった。
その他、1)行政立法等々は、これこれについて宣言判決を用いて、他のインジャンクションも可能であるが、いわゆるプリエンスフォースメント訴訟ということで紹介したが、行われる。この場合も、紛争の成熟性があれば認めるということであり、宣言判決の現実の紛争と同じことで、一回的に判断される。行政立法の場合、あるいは立法の不作為、あるいは行政指導という形で紹介してあるが、すべてまったく同じように、そして、宣言は何を宣言するのかというと、無効というものもあれば、違法という判決もあるし、それからこういう権利がある、権限がない。非常に直観的な言葉で表現しており、言い方が悪いといって却下になるということは皆無であるところが特徴かと思う。
□入り口が広いということは分かったが、出口は、インジャンクションと宣言とどっちか。
△インジャンクションが認められると宣言判決も認められることになっている。例えば不利益処分が違法であると、違法を宣言して、不利益処分を執行するのとインジャクションを同時にかけるということである。これは別に宣言判決だけでもいい。宣言判決とインジャンクションの違いは、インジャクションはもし行政が言うことを聞かなかったら、罰金刑とか、強制力があるというので、安心のために原告は両方やるようであるが、片方だけでもよい。
□日本のように過去の行為の確認はいけないとかはあるのか。
△ある。過去の行為であっても、確かにこれを確認すると、紛争は解決すると思えれば、すべて認める。確認の利益は既に紹介した紛争の成熟性だ。例えば行政指導とか通達などが出ている。守らないと、結局、倒産をするという話がある。こういった商品は認められません、しかし、それはおかしいというので、あえて立法すると倒産をする。その危険を冒してまで頑張れというのは酷である。だから、この段階で訴える。日本で言うと審査の対象性の問題だが、アメリカでは対象性を全部認めた上で、タイミングの問題でやる。言葉の違いだが、実際待てと言っても、これでは合理的な訴訟行動として無理だろうと考えると、アメリカ的だなと思う。
△「フランスにおける無効確認訴訟について」に沿ってまず、行政決定について、それが無効であるという議論と似たもの、これはフランス行政法でも一般的にある。これは1950年代の後半以降認められており、通常、フランスでは不存在の行政決定という言い方をするが、日本の言い方では無効ということになるかと思う。その場合、出訴期間の制約は外れるし、民事訴訟でも訴えが可能になる。この無効の行政行為について、越権訴訟が提起されたらどうなるかということだが、その場合に、行政裁判官は職権によって訴えの性質の変更を行った上で、本案に理由があると認める場合には、当該行為の無効を判決で宣言することが一般的であり、この場合は、無効宣言訴訟という類型が用いられている。この無効宣言訴訟のほかに、行政契約の無効確認訴訟、あるいは金銭支払い命令の無効確認訴訟が訴訟類型として存在していることになる。実例はいずれも少ない。
他方、この検討会で議論されているような取消訴訟の対象拡大の代替物として、無効確認訴訟を利用するという発想は、フランスでは非常に稀薄である。行政決定の概念が広く、そもそも処分性が広いので、そういうことをやる実益がない。行政訴訟において、決定前置主義が大原則であることになっているので、決定を経ない訴えは非常に例外的だということが理由であると思われる。しかし、それを正面から否定するという理屈は多分ない。しかし、フランス行政訴訟でも、取消訴訟での救済が不十分であって、法律関係の確認、あるいは権利義務関係の確認という形で訴訟的救済を拡大すべきではないかという議論は存在する。この問題については、1980年代以降、我が国の言う当事者訴訟的な構造を持つ、越権訴訟と並ぶもう一つの行政訴訟類型である完全裁判訴訟により救済の拡大をしていて、この現象をとらえて、権利関係の確認訴訟ということで再構成すべきである、こういう議論がある。統一的構造を取るということも1つであるし、行政裁判官が行政機関に対してインジャンクションを命令するといったタイプのものが増えてきているということもある。この議論は恐らくドイツの議論を参考にしたものと思われるが、フランスにおける完全裁判訴訟の再評価といった傾向について、こういったものを発展すれば、ドイツで言うような確認訴訟といったものになっていくのではないかという主張があるということになる。これはあくまで学説の主張ということになる。
もう一つ、民事訴訟の先決問題として行政決定の違法性を行政裁判所で確認する「適法性評価訴訟」がある。この「適法性評価訴訟」の判決に対世効があるという理解がされるようになっていることも、この検討会での議論との関係では頭に浮かぶことである。一番有名な判決としては、1986年の民事の判決だが、当時は国営企業であるエールフランスの就業規則が女性を差別するものであったということが問題になったときに、その規則に関する適法性評価訴訟で、行政裁判所が違法宣言判決を出した。その効果が、それに基づく労働契約全体に及ぶということを認めたという判決が出ており、こういったタイプの訴えであると、規則というものの違法を確認するということがまず行われて、それが対世効を持つことになり、事実上その違法を確認することによって、紛争を解決するという効果をあらかじめ持たすことになる。
○元来、処分性の拡大をしていくべきだというのが本来的な議論だと思うが、なかなか難しい面もあるので、確認訴訟でその代替をしようとしており、その方向は理解出来るが、だからと言って、今の法令でやれるから、何も規定を置かないということであれば、対裁判所、対国民に対して、改革したということは言えないのではないか。仮に出来るとしても、出来るのだったら出来るという規定を置くべきであって、出来るから規定を置かないというのでは改革の名に値しないのではないか。そこで、どういう条文を置くべきかということで考えてみたが、この段階で条文の規定を置くとすれば、いわゆる当事者訴訟の一貫として違法確認訴訟が認められるのだということを明文で明らかにすべきではないか。第4条として当事者訴訟の規定の案を考えたが、1号、2号とあるが、これはいわゆる形式的当事者訴訟と、実質的当事者訴訟について、条文が長過ぎるので、こう分けたらどうかという形だけの問題である。変わっているのは、公法上の法律関係に関する訴訟というところに括弧書きを入れて、「抗告訴訟によることができない国または公共団体若しくはこれらの機関の行為の違法の確認を求める訴えを含む」と書く。この括弧書きを書き込むことによって、そちらで救済が出来るという明確なメッセージになるのではないかと思っており、確認訴訟は、過去の事実の確認は、例外的にしか出来ないというのが今の民訴法の理論であり、確認訴訟を特に認めるという場合には、明文の規定を置いて、それが確認の利益と言わなくても、明文の規定があれば、やれるということで、幾つかの条文が置かれている。例えば株主総会の決議無効とか、婚姻無効といったさまざまな確認訴訟があり、確認の利益という難しい議論をしなくても、大本のところで確認させることによって、根本的な解決が図られるので、認めるという趣旨である。行政事件訴訟法で行政処分の無効確認訴訟が36条で認められているが、36条の規定が置かれたのは、3条4項で当然にどんな場合でも確認の利益があると解釈されたら困るので、36条で確認の利益に関する規定を置いたのではないかと理解している。いずれにしても、確認訴訟についての規定を置くべきだと思い、1つの案として提案した。
□質問だが、この括弧書きを入れるという趣旨は、それだけでどんな行政指導でも確認の利益を個別に判断しないで認めてしまうという趣旨か。
○そこが実は問題であり、確認の利益についての条文を36条に類似の条文を置くべきかどうかが1つのポイントになる。場合によったら置いた方がいいのかも分からないが、置かなくても、それだけで当然に確認の利益が認められるということに必ずしもならないのでないかという気もするので、そこら辺りは少し詰めなければいけない。
□これだけでは確認の利益を当然に認めたことにはならないということか。
○解釈は可能である。
□そういうふうに承ってよろしいか。
○よろしい。
○第一として、いわば確認にすぎないかもしれないが、括弧書きで注書きみたいなことを書いて、こういうものも入っていますよという理解をしてくださいという趣旨のことを書きたいと言われたのだと思うが、立法の在り方として、前回事務局の方からも行政計画の場合はどうだ、行政立法の場合はどうだ、行政指導の場合はどうだとか、それぞれ確認訴訟で争うことを認めた場合には、どういう要件の下で認めるのかということを個別的にいろいろ考えないといけない、随分たくさんの課題があるということを示され、相当程度の手当をしなくてはいけないということは一見で明らかなくらいいろいろ考えなくてはいけないと思うが、一部分だけあえて明示的に特出しして書くと、そのこと自体はおかしいとは思わないが、こういう規定を使おうと思ったときに、行政計画だったらこういう点が要件にならざるを得ない、行政通達だったらこういう点を要件にせざるを得ない、それを、全部解釈に投げる、あるいは個別法で手当してくださいというのは、行政指導だと個別の手当になるかどうか分からないが、いずれにせよ、非常に大変なことで、法律の作り方としていささか不親切ではないか。今出来ると一般的に言われていることを特出しして、では、どういうふうにして出来るのかということまで検討して書くなら、それはそれで1つの進歩だと思うが、今は全部出来ることは解釈で一般的に認められて、その際どういう要件がかぶさるかも解釈、そこは一切触らないで、ここだけ書くというのはいささか不親切な立法ではないか。
○対象ごとにいろいろ書けるかと言ったら、それは書けないと思うが、そうしたら、何も書かないで全く白地でおやりくださいというのはもっと不親切ではないか。少なくとも違法確認訴訟は、本来は過去の事実の確認だと理解しているから、違法確認訴訟は、出来るか出来ないかという議論があり得るところだが、違法確認訴訟も、公法上の当事者訴訟としてやれるのですよということを明文化することによって、一歩前進する。具体的な行政計画なり行政指導が訴訟で明らかになったときに、どんな場合にどうなるかということでいろいろ議論が出てくる。そこのところはやはり判例なり何なりがなければしようがない。
○違法確認は確かにそこに焦点を当てて言えば、普通の公法上の当事者訴訟では、普通は有効・無効まで、権利義務関係の存否の確認か、せいぜい有効・無効までで、違法の確認は法的効力のないものについて、法律違反があるかどうか。そういう確認までは、ごく古典的に考えれば、認められない。そこを際立たせたいということで、この違法の確認を求めることを書くのだとすると、この違法の確認をせざるを得ない類型というのは確かにある。法的な効果がない行政指導には有効も無効もないから、ただし、法律違反ということはあり得る。そこに焦点を当てて書くと、全てのものについて、権利義務関係の存否でやるのが適切なものも、有効・無効でやるのが適切なものも、あえて言えば違法で言うしかないものもある。それらのうち、違法のところだけ特出しして書くところに普通認められにくいところを認められますよということで、強調したいということか。
○権利義務関係の存否だとかは出来る。ところが、処分的なものの違法性の確認というのが出来るのかどうかということは、過去の事実の議論だけではなく、そもそもそういうことが出来るのかという議論があり得る。それは出来ると書くというのは、その部分では創造的な部分がある。
○「抗告訴訟によることができない」という修飾が付いていて、これを読むと、行為に公権力性がある抗告訴訟、取消訴訟等々の無名抗告訴訟も含めた抗告訴訟で争うべきものではないもの、公権力性がないものを考えているのか。
○抗告訴訟で争えるものは抗告訴訟でやるべきである。
○抗告訴訟でも処分性がないために確認の利益でしか争えないものもある。
○それは、今、提案している当事者訴訟に入ってくる。
○当事者訴訟によることはできない。抗告訴訟は無名抗告訴訟も入っている。行為の公権力性がないことを言っているのだから。
○何らかの処分を求める義務付け訴訟は、いわゆる無名抗告訴訟で、今回有名になるか分からないが、今の段階では無名抗告訴訟で、当事者訴訟に入ってこない。
○公権力性のある行政庁の行為だから、処分ではないが、抗告訴訟で争うべきだと思われるような類型のものについては、一体どっちでどう扱われるのか。
○抗告訴訟で争えるものは抗告訴訟でやらざるを得ない。
○無名抗告訴訟でもか。
○そうだ。いわゆる非処分について公法上の法律関係に関するものについては、非処分が違法であることの確認訴訟が出来る。
○今のやり取りは、実質的には事務局案に対してもあるわけで、特出ししていないが、1頁の下の方に行為の違法性が書いており、そういうものも入ってくるというわけで、一体どの範囲で入ってくるのか、その場合の訴訟要件は何かという問題はある。
○この事務局の資料の違法性は非常に気になったが、ここは手当をしないで解釈に委ねるという前提だから、際立たない。
□確認の対象については、現在の法律関係の確認が大原則だが、それよりもむしろ例外的な確認の利益が容認される場合もあり得る。その意味では過去の行為の確認訴訟はおよそ認められないという議論は、あるいは判例はもう過去のものであるという認識の下に、第19回検討会において山本教授も報告されたし、また、中野貞一郎大阪大学名誉教授の「民事訴訟法の論点」2でも、確認対象となる権利関係は、現在のものか、過去のものであるかは請求適格のものではなく、確認の利益の問題であるということが共通の認識となったものであるという記述があり、私としては、この検討会も、民訴法の判例、理論の発展過程の上に立って議論をすべきではないか。行訴法は民訴法とは違って大原則に忠実に動かなければならないという議論はないのではないか。ただ、そうは言っても、中野論文においても、将来の確認訴訟までやっている。それについてはもっと厳密にいろいろ考えなければいけないので、簡単に現在から始まって過去・将来に野放図に広がるべきではないが、カテゴリーとしてはあり得る。その場合の確認の利益等々についてはきちんと考えなければいけないということで、我々もこういった考え方に立つべきではないか。恐らくその点は水野委員の提案も創設的規定で、過去の行為の確認というものは解釈論上一切成り立たないということを言っているわけではないと理解している。あとの問題は、行政活動、あるいは行政と私人の間にいろいろな紛争があるときに、確認が一番ふさわしいという場合はどういう場合なのか、あるいはその要件はどういうものなのかということだが、どういうものを念頭に置いて確認の利益があるものと見るかというのは、ほんの幾つかしか挙げられない。むしろ外国法の例で挙げられることがあるが、日本の場合だと、例えば行政指導だとか通達といったものもあるが、他にどんなものがあるか分からないという状況が1つある。
もう一つは、行政法は従来、取消訴訟に対象性、処分性を拡大して救済すべきではないかという方向に議論をずっと行っており、そうではなくて、例えば実体法上の請求権があるのではないかというのは、例えば法令の根拠のない補助金、地方団体の補助金については、契約でやれるのではないかということを随分前に論文で書いたが、それをフォローする人が余りいない。なかなか実体法的な頭が働いていない。だから、確認の利益がどういう場合にあるかということも、今すぐ列挙してみろと言っても、これはなかなか難しいことで、まさに将来の学説、判例の発展に委ねる以外にはない。そこはうまく使いこなしていただきたい。その場合に一番危惧するのは、行訴法36条は行政処分の取消訴訟と一対になった、時期に遅れた取消訴訟という理解で1つのシステムなので、それはそれとして成り立つと思うが、そうではないものについて、変な規定を置いて、せっかくの学説、判例の発展を阻害するようなことはしないでほしいということでいろいろ議論を重ねて、事務局はこういう案を出している。
○行政指導などについては、確認訴訟を当事者訴訟として位置付けるという話のようだったが、現在の無効確認訴訟とか、不作為の違法確認訴訟は、当事者訴訟に入ってくるのか、入らないのか。
□制定法の作り方が問題で、何とも言えないが、抗告訴訟というものはこういうものだということで書いてしまえば、不作為の違法確認、無効確認も抗告訴訟に入るというだけの話である。
○その他の確認訴訟ということか。
□そうだ。要するに、包括的な救済が出来るように受け皿をきちんとそろえておけばよろしい。行政指導の場合で言うと、先ほどのアメリカの紹介では宣言判決は出来ると言っている。ドイツの場合も、なかなか認め難いが、そういう場合はあり得るということで、その場合、行政指導の違法確認と言うのか、行政指導の無効確認と言うのか、あるいは行政指導による不利益のある地位に置かれないようにということで、無理に実体法関係に構成するか、いろいろなやり方がある。
○これまで処分性が余り認められずに、したがって取消訴訟が認められなかった行為として問題なのは、行政立法とか行政計画だ。行政指導とか通達は、それほどたくさん問題になった例は、判例集を見る限りはなく、今後、確認訴訟を推奨する場合に問題になるのは、今言った行政計画なり行政立法だと思うが、もし法律で何も規定しないとすると、出訴期間もないということになり、ダイレクトに、いつでも争うことが出来るということになるのか。
□放っておけばそういうことになる。そこで行政官庁からのヒアリングの際に国土交通省の都市計画課長が出てきて、いろいろ説明したときに、放っておくと都市計画はずたずたに切れるので、都市計画なら都市計画できちんと事前手続とそれから救済手続を1つのシステムとしてお考えいただきたいと申した。行政立法手続もきちんと対応しないと、どんどん使われるようになると、行政庁は運用に齟齬を来す恐れがあり、行政立法、行政計画、ともに早目に手当をしていただきたいということが、何度も申し上げているとおりで、また、この検討会としても、今後十分に検討すべきものとして、掲げてあるので、この検討会でどの程度まで取り上げるかというのは、これからの議論の話だが、今のままだと、いろんな問題が起きてくると思うし、また、そういった点で使い勝手が悪いということで、裁判所がシュリンクされても大変困ることがある。
○どういう使われ方をするのかまだ一向によく分からないので、先ほどのようなものが特出しで出てくるのだと思う。従来、比較的これで認められるかなというものが、横川川訴訟とか長野勤評訴訟である。事務局への質問だが、従来の最高裁判例では、抗告訴訟事項であると考え、その上で、確認の利益はかなり厳しく絞って、それはまだ駄目だよというふうに言った。それを、今度は3条ではなくて4条に移し、かつ確認の利益は特別の抗告訴訟と言うか、そちらの方の特別な話ではなくて、一般の民訴と大体共通の一般原則に依るというのか、そうすると、認められやすくなるというのか、という考え方なのかということと、その場合には、法的には、もし3条と4条の条文を変えないとすると、かつての最高裁判決は間違いで、あれは4条で判断すべきものだったということになるのか、それとも、最高裁は、そこは明言はしていなかったのだから、調査官解説などでほのめかしていることが間違いなので、この判決はやはり4条だったと読むべきだとなるのか。
もう一つは、それよりもうちょっと認められにくいかなと思うが、都市計画関係とか、地域地区の指定は、従来は処分性がないとされて抗告訴訟では争えないと言われていたが、違法である、あるいは無効である、あるいはここは何々を建てていいところである、建ててはいけないところであるといったような確認訴訟が今後は出来ると、この検討会として推奨することになるのか。もし、そうだとすると、それは従来だと、都市計画の線引きとか、色分けとか、色塗りとか、あるいは事業計画の決定とか、これは公権力性がないと考えられていなかった。公権力性はあるが、処分ではないということで、事項としては抗告訴訟事項で、しかし、その中で取消訴訟では争えませんというふうに考えられたのではないかと思うが、事務局の整理では、そこはそうではなくて、かちっとした処分は取消訴訟なり義務付け訴訟なり、とにかく3条の問題だが、そうでないものはこれは広く4条の方で行けるという解釈論というかドクマティックというか、そういうものがこの案の前提にあるのか。確認の利益なり何なりが認められるかどうかというのはまた先の話だが、理論的にどう整理するのか。
○横川川訴訟の話が出てきて、その後の最高裁の理解がどうなのかという発言だが、実は、横川川訴訟の二審判決に私は関与しており、第二審としては、あの問題は4条の中で解決するのが妥当だと思った。ただ、大きな問題があり、被告が今議論しているところと違い、県知事を被告であるという態度を変えない、何度言っても、原告代理人が、あくまで県知事を被告とするという考えだった。あのまま行っても、結局4条の処理としては、結論的には、被告を間違えているということで不適法とせざるを得ないし、予防的な無名抗告訴訟と考えると、従来から言われた成熟性の問題で、どうしてもぶつかってしまう、どちらで行った方がいいのかという形の問題だった。二審は、原理的には4条が使える可能性がある部分ではないかと考えたので、こういうふうになればという趣旨で書いた部分がある。ただ、最高裁判所としては、当事者があくまで県知事を被告としていることを考えれば、この訴訟の趣旨は予防的な無名抗告訴訟として理解する方が正しい、当事者の趣旨にかなっているのだろうという判断から、今度は成熟性を問題にして不適法だというふうに至ったのだろう。そういう意味で、あのケースにおいて、間違ったのかということは必ずしもそういうことにはならないで、あの事案のつかまえ方をどちらで具体的に当事者の意思を見るのかという形で言ったのだろうと思う。むしろ、それよりも、判決を出した当時には、4条の当事者訴訟を使うということについては、その後の判例批評で非常に批判的な意見が多く、こんなものを想定していないという批判がたくさんあった。無名抗告訴訟以外には行く道はないのだというものまであったと思うが、そうしたことに比べると、ここで議論いただいたように、当事者訴訟がもっと使い道がある制度であるという、確認訴訟の中ではまだまだやれる部分があるのだという意見も多数いただいたと思うので、そうした議論の中では、これから裁判所が、もしそうした議論が支えられるならば、裁判所がやれる範囲は、4条を使ってやれる範囲は相当広がるのではないか。ただ、裁判所の中にも、4条の理解はまだ未開拓なので、いろいろな意見がある。特に抗告訴訟との関係でどう整理するかは非常に難しい問題であり、訴えの利益も民事訴訟とのつながりでも考えなければいけない。そういう意味で、非常に難しいので、一気に、何でもこういう構成をすれば全部通るのかというと、必ずしもそんなことはないと思うが、今の制度の中で使える範囲は、こうした議論を踏まえて使うならば、相当広がるのではなかろうか。
□抗告訴訟かどうかという点については、今発言があったように、被告が抗告訴訟の行政庁となっていたので、その問題があったが、今度は被告の点が解消されたので、実は抗告訴訟も当事者訴訟である。そうすると、あとは条文の準用の仕方の問題になって、大体全部準用していくことになると、取消判決固有のものは別として、そんなに従来の垣根はさほどにはならない。あと、学問的にどう処理するかは、出来てから考えてほしいというのが率直な気持ちで、今、国民の権利利益をどうやって確保しようか、そして、確認の道がありますよというときに、抗告訴訟だと確認の道は狭いとか、当事者訴訟になると広いとかということではなくて、とにかく国民の救済を広げられるような方向は何かということで考えていただき、それを抗告訴訟に振り分けるかどうかは、最後の法制的な詰めがあるが、救済に穴があることになると、大変なことなので、そこは救済に穴がないようにするのがプロの役目ではないかということで、常々お願いしているところである。実は理論的には大変悩ましいので、一体どうなるのかということをよく聞くが、抗告訴訟なんてやめてしまえばいいではないかとまで言うが、なかなか難しいところがあるようで、これはその制度設計のプロにお任せする以外にないと思うが、プロが見落としていけないのは、国民の包括的な権利救済という理念だけは常に頭に置いていただきたい。要するに、確認訴訟の活用と言うか、そういうことが出来るということをまず検討会できちんと整理していただくことが1つある。あるいは出来たのにやらなかったのだということだと思う。ただ、それを推奨するかどうかというのはこれまた別の問題で、それを使うかどうかは弁護士の力量と裁判官の頭の働かせ方いかんによるということになる。他方、確認訴訟だけではなかなかうまくいかない領域は行政計画、行政立法があり、そこも十分にらみながら考えていくことになるが、ただ、出だしはとにかく道があるということを明確にすることだと思う。そこまでは恐らく意見が一致していると思っているが、あとはその次で、出来ますというのをせっかくこれまで議論したのだから、条文に書くのかどうかということだが、その点は検討会でここまで議論したので、検討会のメッセージとしては、明確に国民に伝えるべきだと思う。ただ黙って確認訴訟という道がありますよということでは済まないが、ただ、そのメッセージをどういう形で国民にお伝えするかは、いろいろな方法があるわけで、下手なメッセージは一番困る。過去の行為はやっとこれで認められました、万歳というようなメッセージは絶対したくない。しかし、他方余り欲張って行政指導も確認の利益は当然にありますよというメッセージは、これまたそういうことを国民にお伝えするのは大変不確かなメッセージを送ることになるので、我々の今までの議論をどういう形でメッセージとして国民にお伝えするかという点については、最終的な報告、これからのこの検討会のとりまとめをするについて、事務局には十分考えていただきたい。今日のところは、括弧書きにするのか、括弧書きをもう少しリファインするのか、あるいはもっと別なところに書こうと思えば書けるところが、考えればたくさんあるが、しかし、書かない方がいいといったメッセージも十分あると思うので、そこはもう少し時間をいただきたい。
【〔処分の理由を明らかにする資料の提出〕及び〔行政訴訟をより分かりやすく、利用しやすくするための仕組み〕について】
■〔資料8及び9に沿って説明〕
○「処分の理由を明らかにする資料の提出」だが、「処分の理由を明らかにする資料」は、既存の資料だけではなしに、新規に作成まで求めるという趣旨か。
■既存の資料ということになる。
○情報公開だと既存のものだが、あとは自分でもう一遍作り直すとかどうか。
■それは、民事訴訟法一般の説明を求めるという釈明のようなものになり、現行の民事訴訟法で行うことになる。現行の民事訴訟法でも出来ることなので、むしろ明確に資料を提出するというところで、既存の資料の提出を求めることを明示したらどうかということである。
○抗告訴訟の管轄裁判所のところだが、現行の行訴法12条の管轄裁判所に加えて云々という説明があるが、12条1項だと行政庁の所在地だが、国の所在地も入るのか。
■法制的に検討する必要があると考えている。
○東京の裁判所に訴え提起が出来るのは、ある意味でメリットなので、そういう方向でお願いしたい。
○出訴期間の特例とか、被告適格者の特例で、「個別法の規定の趣旨を個別に検討する必要があるのではないか」という表現になっているが、これは具体的にどうすることになるのか。各省庁でもう一遍見直せということになるのか。
□そこはなかなか難しい。私の理解だと、整備法の範囲になる。整備法を作るときにどうするかは、各省庁にどうするかと、こっちはこうなっているということで問い合わせをして、出来るだけ統一するという方向で動かなければいけない。これは情報公開法、行政手続法で3年やって、行政手続法は大失敗をして、特例が多過ぎて、情報公開法の方はかなりびしびしと進めていったので、整備法は割合きれいにいった。この辺も十分注意をしていきたい。
■今回の改正の趣旨では、むしろ6か月に延ばすということで、従来3か月でやってたものは3か月に残す特例を新たに作ることを認めるのはよほどのことがないと、まず認めるべきではないのではないかと思っているが、既存の特例は特別に作っているわけで、それはその法の趣旨はかなり重視しなければいけないと思う。
□私が申し上げたのは、一応説明は聞かなければいけないだろう。およそ説明になってなければ押し返すということになるだろうという趣旨で申し上げた。
○今回6か月に延ばすので、出来るだけ特例はそれに合わせるような方向で検討してもらうということか。
□説明を求めることはするだろうと思うが、ただ、これは本当にこれからの短い期間に整備法というのがおよそ大変なことなので、どれだけのことが出来るかどうかという問題はある。
○先ほどの管轄だが、例えば現在の12条では行政庁の所在地だが、今回被告適格者を変えることによって、国にも入るようにしたらどうかというのは、12条を超える話だと思う。現在の管轄裁判所に一律、国の処分については全部霞が関、東京地裁ということになるわけだが、確かに原告の便宜には、管轄裁判所が1つでも2つでも増えることは便利になることは間違いないが、管轄はまた原理原則を言えば、被告の利益である。原告が起こす方で被告は起こされる方で、いかに強大な国であっても、被告が、例えば北海道の支分部局でやった処分について、たまたま東京の知り合いの弁護士さんがいるからということで起こすと、被告の行政庁の資料とかは全部北海道にあるというときに、そういう選択を認めることが、若干の利益になることは分かるが、管轄を考えるときの一般的なものの考え方で、被告の利益をまず考えるというところからすると、やはり比較考慮した上で、最終的にどうするかはお任せするが、考えるべきではないか。
■結局そこは被告適格を変えたということの話で、被告適格を変えたというこの検討会での検討の趣旨は、管轄を東京に持っていけという検討をしたという趣旨ではないと考えているので、今までの検討の趣旨の積み上げの上で当然、国を東京で認めなければいけないというところで立法を進めるということにはならないのではないか。そういった被告の利益も考慮した上で、もう国がみんな東京でもいいというのだったら、またそれは別かもしれないが、今までの検討の積み上げとは、また別の問題として法制的に検討すべきではないかという趣旨である。