・ 「直接主義・口頭主義」の意味を確認しておくと、一般的には、直接主義とは、裁判を行う裁判所が自ら証拠を調べて事実認定をするという原則であり、口頭主義とは、公判期日における手続を口頭で行うという原則である。そういう観点からみると、我が国の刑事訴訟法は、直接主義・口頭主義の原則を充たしていると考えられる。
なお、直接主義は、ドイツなどでは、人の供述を証拠とする場合、裁判所は、原則としてその人を証人として取り調べなければならないということを意味するとも考えられており、そういう考え方によると、公判廷外における供述を録取した書面を証拠とすることは原則としてできなくなるが、我が国の刑事訴訟法は、いわゆる伝聞法則を採用することにより、原則として供述録取書の証拠能力を否定している。
・ 審議会意見が「非法律家である裁判員が公判での証拠調べを通じて十分に心証を形成できるようにするために、口頭主義・直接主義の実質化を図ることも必要となる。」としているように、裁判員が、法廷で、原則として、見て、聞いて分かる裁判にする必要がある。書面の証拠能力を認めるべき場合もあるだろうが、特に裁判員が関与する審理を考えると、裁判員の判断を誤らせるような資料が証拠とならないようにするため、検察官面前調書に関する刑訴法321条1項2号等の伝聞法則の例外を見直すことも必要となろう。
・ 現実問題として、法廷での緊張、記憶の減退、関係者への配慮、被告人の面前であること、自己保身等の理由から、証人が、法廷で真実の供述をしないということがよくある。また、不同意とされた検察官面前調書等の書証は、公判廷で、相反性や特信性等の厳格な要件を充たすかどうか審理され、それが認められた場合にはじめて証拠として採用されているのであり、伝聞法則の例外を見直し、そういった書証まで証拠として使用できないことになると、実体的真実の発見が困難となり、適当でない。
・ 公判廷における供述以外の資料によって、事実の究明が必要な場合があることを否定するものではないが、それは、現在のような検察官面前調書でなくとも、例えば、起訴前の証人尋問制度や、取調べそのものをビデオ化することによっても対応することができるのではないか。
・ ビデオ等であるにせよ、伝聞証拠であることには変わりはないはずであり、公判廷外における供述を証拠として利用できるというのは、伝聞法則の例外を見直すべきという意見と整合しないのではないか。また、直接主義・口頭主義の実質化ということと、裁判員の判断を誤らせるような証拠を排除するということとは、問題の性質が違うのではないか。
・ 裁判員が関与する事件と、裁判員が関与しない事件とで、証拠法則が異なることになるのか。
・ 証拠法則が異なることになってもおかしくない。ただ、二つの証拠法則を作るべきであると言っているわけではなく、むしろ、裁判員制度が導入される機会に、刑事事件全体について、証拠法則を見直すことも必要ではないかという趣旨である。
・ 裁判員が証拠調べを通じて独自に心証を形成することができず、裁判官の心証を聞いて、そこから議論が始まるというのでは、直接主義に反する。検察官面前調書等の証拠能力を認める必要はあると考えるが、現在のような供述調書では、裁判員がこれを読んでも、信用できる部分、捜査官に迎合ないし押しつけられた部分等の切り分けの判断をすることは難しいのではないか。供述調書は、裁判員が読んで、独自に判断できるような、分かりやすいものとして、裁判官の指導がないと裁判員が判断できないということにならないようにすべきである。
・ 現在の実務でも、検察官面前調書だけを読んで、その信用性を判断しているわけではなく、供述者の証人尋問を行い、その証言が調書と矛盾していれば、供述調書作成時の供述経過を聞くなどして、公判供述と調書のどちらが信用できるのか分かるような審理をしている。同様にすれば、裁判員も、供述調書の信用性を判断することができるのではないか。
・ 供述調書の中に、虚偽の部分が混在している場合もあるだろうが、それは、法廷での証言にも当てはまることである。だからこそ、証人の証言が、供述調書と矛盾していれば、相反性、特信性の立証を行い、その上で、供述調書を証拠として採用するかどうかが決められている。さらに、その供述調書だけで、最終的結論が決まるわけではなく、他の証拠も総合して事実認定がなされている。
・ 裁判員には、事実の解明に必要なものであっても、供述調書を理解する能力がないという趣旨であれば、そもそも、裁判員制度自体が成り立たなくなるのではないか。
・ 直接主義・口頭主義の実質化の観点からすると、証拠はオリジナルなものがよく、証人を尋問するのが最も望ましいが、公判の供述に代えて、捜査時の供述を証拠として用いざるを得ない場合もあるだろう。ただし、その場合でも、代替的に用いる証拠はオリジナルに近いものがよいはずである。ところが、現在の供述調書は、一問一答式ではなく、捜査官が物語的に整理したものであるのみならず、本当に供述したとおりのことが録取されているとも限らない。そのようなものを証拠として用いることは避けるべきではないか。
・ それは、直接主義・口頭主義の問題ではなく、証拠能力の問題ではないか。供述調書を証拠とすることができるかどうかということは証拠能力の問題であるのに対し、直接主義・口頭主義の問題は、証拠能力のある証拠から、どういう形で心証を得ていくのがよいのかということであり、この二つは別の問題であろう。また、供述調書には、供述者が述べた一語一句がそのまま録取されているわけではないかもしれないが、録取内容を供述者に読み聞かせ、間違いがなければ署名押印を得るということで、録取内容の正確性を担保するというのが、現行制度の考え方であろう。
・ 取調官が勝手に供述調書を作成しているわけではない。録取内容を筆記者に口授し、更に読み聞かせて、間違いないかどうか確認している。
・ 審議会意見は、裁判員関与事件だけでなく、刑事事件一般について、公判廷において、当事者が、争点に集中して活発な主張立証を尽くし、それに基づき、心証を得ていくということが基本であり、これを実現することによって、刑事裁判全体の充実・迅速化を図るということを提言している。また、審議会意見は、そのようにすることが、裁判員が、裁判官の見方に依存することなく、実質的に審理に関与し、主体的に判断することを担保することになるものととらえている。刑事事件全体として、その公判をどのように活性化するのかということを中心に考えていくべきである。
・ 刑事事件全体について、直接主義・口頭主義を実質化して、公判を活性化すべきであるが、裁判員が関与する事件について、直接主義・口頭主義を実現すれば、自ずと、裁判官のみが審理する事件についてもそうなるであろう。裁判員が関与する事件に軸を置いて考えるべきであろう。
・ 直接主義・口頭主義は重要であろうが、争いのない事件で、その原則をどの程度貫く必要があるのかということや、争いのある事件で、その原則を貫くことが、迅速な裁判の実現にかなうのか、という懸念がある。
・ 審議会意見書が提言しているように、新たな準備手続において十分に争点整理を行うことにより、争いのある事件でも、メリハリのある公判審理を実現できるのではないか。
・ 膨大な供述調書が証拠として出てくる事件があるようだが、調書の概要なりポイントなりを示してもらう必要があるのではないか。
・ 現行制度でも、有能な当事者であれば、そのようにして、ポイントが分かるようにするだろう。
・ 調書を証拠に使う必要が全くないと考えているわけではないが、調書が信用できるかどうかという問題から離れて、証人調べにもっと力点を置くようになるべきである。
・ 裁判員に分かりやすい公判審理が必要であり、例えば、書証の要旨の告知も工夫が必要である。同意された書証でも、鑑定書、検証調書など、書面を見ただけでは分かりにくいものについては、その作成者を証人として尋問し、その要点の説明を受けたり、当事者に証拠説明書を提出させる必要がある場合もあるであろう。
また、争点に絞った証人尋問なり被告人質問をしないと、長時間になる上、焦点がぼやけて、裁判員には分かりにくい。刑事訴訟規則では、証人請求をした当事者が尋問事項書を提出することになっているが、これをもっと義務的なものとして、争点整理の段階で、関連性が薄いなどとして、尋問事項の一部を制限することも考えられる。
・ 尋問事項書よりも、争点整理の段階で、検察官、被告人側とも、証人が証言すると期待される事項を記載した陳述書のようなものを提出し、主尋問で何を言うかが分かるようにした方がよいのではないか。
・ 証人尋問がだらだらと行われることがあり、争点中心の尋問を行うなど、尋問方法の工夫が必要である。そのように、証拠調べの方法に議論をしぼるべきであり、証拠法則の議論に入っていくのは相当ではない。
・ だらだらした尋問では、裁判員は聞いてくれないから、当事者も、自ずと工夫した尋問をするように変わることになるだろう。
・ 直接主義・口頭主義を貫くと、鑑定書の解説は、鑑定人に証人として法廷に来てもらうということになるだろうが、法廷に来てもらうことが困難なこともあるだろうから、鑑定人の解説をビデオ撮影して、それを法廷で上映することも考えられるだろうし、鑑定人に最寄りの裁判所に行ってもらい、ビデオリンクで証言してもらうことも考えられるだろう。
・ 直接主義・口頭主義の実質化につき、最も重要であるのは、争点中心の公判審理を行うことであり、そのためには、争点整理をきちんと行うことが大前提となる。そこで、審議会意見も新たな準備手続の創設を提言している。
・ 書証を法廷外で閲読することはできないこととすべきかについては、朗読や要旨の告知は書証の取調べ方法にすぎず、書証自体が証拠になるのであるから、法廷での証拠調べによって心証をとり始めることになるだろうが、その後、公判期日外に、その書証の記載内容を読み、そこから更に心証を形成することに、特段の制約はないはずである。それは、裁判員制度を導入しても変わらないと考える。また、直接主義・口頭主義の意義からして、書証を法廷外で読んでそこから心証をとったとしても、直接主義・口頭主義には反しない。
公判期日における証拠調べは、それにより、裁判所が一応の心証をとり、それを次の証拠調べを進めていく素材にするという意味があろうが、公判期日における証拠調べだけでしか心証をとってはいけない、朗読又は要旨の告知として聞いたことだけですべての事実を認定しなければならないということにはならないのではないか。
・ 我が国では、書証の存在とその内容が証拠になる。他方、ドイツでは、書証を朗読した音声が証拠となる。その違いを意識しておくべきである。
・ 法廷で心証をとるということが原則である。法廷外で調書を読んで心証をとることを認めるのは問題がある。記憶喚起等のために、事後的に調書の内容を確かめることが必要な場合もあるだろうが、法廷での証拠調べを重視し、法廷で心証がとれるような証拠調べの方法を考えるべきである。法廷外での書証の利用方法については制限が必要である。
・ 証拠になるのは書証であり、公判廷で聞いたことだけが証拠になるわけではない。
・ 公判廷での証拠調べに加えて、証拠の評価を法廷外で行うことは差し支えないのではないか。法廷外で、証拠を精査し、どちらの言い分が信用できるのか判断するということは当然あり得ることだろう。それができないと、評議ができなくなる。
・ 法廷での証拠調べの際にとった心証が、評議により変わっていくということは当然あり、それが正常な評議のプロセスである。法廷でとった心証が、そのまま評議の結論にならなければならないというのはおかしい。
・ 書証が要旨の告知によって取り調べられる場合、公開の法廷に顕出されたものと、評議室に持ち込まれるものとが違ってくることになり問題ではないか。
・ 法廷で証拠として認められたものであれば、評議室に持ち込んで精査することができるというのは、そのとおりであろう。ただ、現在、直接主義・口頭主義の形骸化ということで指摘されるのは、証拠調べの方法、特に、要旨の告知である。直接主義・口頭主義を実質化するとともに、傍聴している一般の国民にも分かるようにして公開の要請を満たすためには、要旨の告知は相当ではなく、全文朗読を原則とすべきである。
・ 複雑で長文の供述内容のものを全文朗読するというのは、その内容を理解するためにも必ずしも適切なことではないのではないか。
・ 裁判員に、法廷外で、多くの供述調書を読み直すことを求めるのは酷であり、書証の取調べの在り方を見直す必要はあろう。その場合、公判廷でどれだけ心証がとれるようにするかということを重視すべきであり、それを意識しておけば、要旨の告知でも、全文朗読でも、構わない。
・ 現状では、当事者が裁判所の訴訟指揮に従わないため、審理が遅延したり、審理の焦点が定まらないという事例が数多く見られる。適切な訴訟指揮がなされないと迅速な裁判は不可能である。訴訟指揮に従わない当事者に対し、裁判所が、必要に応じて、過料のような、一定の制裁を科し得る制度を積極的に検討すべきである。また、私選弁護人が辞任戦術によって訴訟指揮に従わないことに対応するためには、必要的弁護事件に限らず、私選弁護人が選任されているときでも併せて国選弁護人を選任できる制度を導入すべきである。
・ 従来、指摘のような事例があったことは否定できない。しかし、裁判員制度が導入されれば、裁判員という、国民の監視の下で、公判審理が行われることになるから、自ずとそのようなことはできなくなると思われるので、裁判員制度導入後も、同じ現象が繰り返されるということを前提にして考える必要はないのではないか。
・ 裁判員関与事件だけではなく、刑事事件全般について考えるべき問題である。
・ 確かに、すべての事件が裁判員関与事件になるわけでないが、裁判員関与事件において規範が形成されれば、それが、それ以外の事件にも及んでいくことにもなろう。ただ、だからといって、制裁が不必要といっているわけではなく、法廷侮辱のような、裁判所が直接制裁を科す制度には反対であるけれど、懲戒手続によるなり、間接的に、当事者のイレギュラーな行動を制限することは考えられる。また、私選弁護人と国選弁護人を併存させることもあり得る。
・ 裁判員制度の導入のほか、争点整理のための新たな準備手続を充実させれば、これまで公判段階で生じていたような紛議を回避することができることになるだろうから、それ以上の措置は不要であろう。
・ それで、すべての事件がうまくいくのかという疑問がある。
・ 基本的には、弁護士倫理、法曹倫理の問題として対処すべきである。法廷侮辱罪は、公正公平な裁判の維持というのが制度趣旨であるから、それを導入すると、制裁を科される対象者が広くなるのではないか。
・ 弁護士倫理で対応できるのであれば、現在生じているような問題にも対応できているはずであるが、それができていない。弁護士のみを裁判所による制裁の対象として考えているわけではなく、もちろん、検察官も制裁の対象になり得る。
・ 私選弁護人と国選弁護人を併存させるという案に賛成である。大きな事件では、私選弁護人の辞任・解任によって長期間審理が中断するという事例があるようだが、私選弁護人と国選弁護人を併存させれば、そのような事態を避けることができるだろう。ただし、どのような場合に併存させることができるのか、その要件を明確化する必要がある。
また、刑事裁判を何件か傍聴したが、弁護士の日程が合わないため、裁判所の提案する期日が入らないということが多いし、裁判官は、当事者の重複尋問等をなかなか制限しようとしない、といった印象を受けた。
・ 現在でも裁判所には訴訟指揮権がある。ただ、裁判所は事件自体についての判断をしなければならず、その判断の前に、当事者から「裁判所は自分の言い分を聞いてくれない。」という印象を持たれると、事件自体の判断の説得力が弱くなるのではないかという懸念があり、訴訟指揮の行使を自制しているという面があると思う。
もっとも、裁判員が入ってくると、当事者も大分変わってくるであろうし、裁判の迅速化を促進するための法案では、2年以内に第一審の裁判を終局させることが求められているが、そのためには、当事者の協力が極めて重要である。同法案でも、裁判所だけでなく、当事者にも、2年以内に第一審の裁判が終局するように努力する責務が課されることになるようだが、そのように義務が課されても、それを守らない、あるいは、守ることができない当事者が出てき得るから、それに対処する手だては必要である。その一つとして、私選弁護人だけでは集中審理に対応することができないというときに、それを補うために、国選弁護人を併せて選任するということや、そもそも、私選弁護人が義務を守ろうとしないときに、国選弁護人も付するということが考えられる。
・ 欧米のように、裁判所の訴訟指揮に当事者は従わなければならないという倫理が確立されることが重要であるが、ただ、その最後の担保として、訴訟指揮に従わない当事者に対する、ある程度の制裁措置が必要であろう。
・ そのような制度を整えておく必要があるだろう。ただし、私選弁護人と国選弁護人の併存については、納税者としての感覚からすると、資力要件にかかわりなく、私選に不都合があるから、更に国選を選任するというのは、いかがなものかという感がある。
・ 国選弁護の費用を訴訟費用として被告人に負担させることはできる。
・ 被告人によっては、一人の私選弁護人は選任できるが、二人以上選任するのは、資力的に無理であるという場合もあるだろう。
・ 訴訟指揮に当事者が応じないときに、これをコントロールする手段が必要であり、裁判所がそのような当事者に過料の制裁を科すということは検討に値する。また、いわゆる「荒れる法廷」は、必要的弁護事件以外の事件にも見られた現象であったから、私選弁護人と国選弁護人の併存については、必要的弁護事件に限らず、それ以外の事件であっても可能となるようにすべきである。
・ 「荒れる法廷」は、過料の制裁ではコントロールできず、私選弁護人と国選弁護人の併任でしか解決できないのではないか。
・ 法廷侮辱罪の導入には慎重であるべきであろう。確かに、法廷傍聴をしていると、当事者が理由の通らない抵抗をしており、裁判所がもっと適切に訴訟指揮をすべきであると感じたこともあるが、法曹三者の倫理によって解決して欲しい。
・ 我が国の捜査は、被疑者が自白していても、公判で否認することを想定して捜査を尽くしている。そして、多くの被疑者は公判でも自白していることから、捜査のかなりの部分が結果として無駄であったことになる。このような部分を省力化することにより、余力を裁判員関与事件の裁判等に投入できるようにすべきである。
例えば、弁護人が選任されており、かつ、被疑者も事実を認めているような、争いのない軽微な事件については、検察官は、身柄付き送致を受けた後、起訴した上、裁判所に、検察官、被告人、弁護人が出廷し、被告人が公訴事実を認めると、裁判所は、執行猶予付きの自由刑の判決を行うという制度を導入することが考えられる。そのような制度では、被告人、弁護人において、検察官の証拠を検討しなくても、犯罪事実に間違いがないといえる事件を対象とするべきであるから、被告人や弁護人がそのような制度での事件処理でよしとするかどうか判断するための証拠開示は必要ないであろう。
・ それ以外にも、被告人の権利保護をより充実させつつ、略式請求手続によって一定の自由刑をも科すことができるようにすることも考えられる。
・ 争いのない事件をスクリーニングすることは重要であり、アレインメントや司法取引を導入することが考えられる。ただし、そのための条件として、記録の閲覧が必要であろうし、弁護人と被告人との自由な接見も不可欠であり、刑訴法39条3項の接見指定制度の廃止も含めた検討が必要であろう。
・ 争いのない事件だから、接見指定はなされないのではないか。アレインメントの話から接見指定の廃止ということにつなげるのは論理の飛躍だと思う。
・ 簡易な手続の対象としては、不法在留や、覚せい剤の自己使用のような、定型的な量刑のできる事件を想定すべきであろう。
・ 従来のアレインメントの議論は、23日間きっちりと捜査をした上での話であったことから、捜査機関としてはメリットが感じられなかった。しかし、提案されているように、その時期が前倒しされるのであれば、メリハリのある捜査の実現につながり、検討に値する。
・ 争いのある事件に力を集中することができるよう、争いがなく、かつ、軽微で定型的な事件については、もっと簡易な手続によって対処すべきである。我が国の刑事事件は、自白事件であっても量刑の面で争いがあり、ある程度証拠調べを行わないと適正な量刑ができないというものが多い。そのような事件にアレインメントを導入してもあまり意味がないが、提案されているように、軽微で定型的な事件であれば意味があるであろう。
・ 被害者のある事件については、捜査・公判手続の合理化・効率化は、難しいのではないか。
・ 検察官手持ち証拠のリスト化や、取調べ状況のビデオ録画の義務付けについても、公判手続の合理化の方策として議論すべきではないか。
・ 前者は、証拠開示の方法の問題である。後者も、審議会意見は、「取調べの適正確保」の問題として議論した上で、将来の検討課題としており、それを「捜査・公判手続の合理化・効率化」の問題であるとして議論するのは、議論の蒸し返しになり適当でない。
・ そのような問題が「捜査・公判手続の合理化・効率化」の論点に含まれるのあれば、何らかの点で、捜査・公判手続を合理化・効率化する効果を有するものと考えられる方策は、すべてこの論点に含まれるということになってしまう。例えば、主観的要件の審理に時間を要することがあるから、実体法の主観的要件の見直しや、その要件の推定規定を設けるといった問題も、「捜査・公判手続の合理化・効率化」の問題に含まれ得るということになる。しかし、ここで議論できる範囲には自ずと限界があるはずである。
・ 「捜査・公判手続の合理化・効率化」の問題は、争いのない事件について、どれだけリソースやコストを節約して、それを争いのある事件に投入するかという問題であり、取調べの可視化の問題とは、趣旨が異なる。