- 1 日時
- 平成15年9月11日(木)13:30~18:20
- 2 場所
- 司法制度改革推進本部事務局第1会議室
- 3 出席者
-
- (委 員)
- 池田修、井上正仁、大出良知、酒巻匡、四宮啓、髙井康行、土屋美明、樋口建史、平良木登規男、本田守弘(敬称略)
- (事務局)
- 山崎潮事務局長、大野恒太郎事務局次長、古口章事務局次長、松川忠晴事務局次長、辻裕教参事官
- 4 議題
- 「刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入」について
- 5 配布資料
資料1 | 朝日パブリック・コメント集計結果報告書 |
資料2 | 通常第一審における法定合議事件、法定刑に死刑・無期(懲役・禁錮)を含む事件及び故意の犯罪行為により被害者を死亡させた事件の地裁管内別終局人員 |
資料3 | 「裁判員制度の取材・報道指針」について(日本新聞協会編集委員会) |
資料4 | 裁判員制度に伴う取材・報道上の自律的取り組みに関する考え方について(日本民間放送連盟報道委員会) |
- 6 議事
- 第13回配布資料1「裁判員制度について」(以下「たたき台」という。)に沿って、刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入につき、前回までの議論を踏まえ、なお議論すべき点についての議論が行われた。
議論の概要は、以下のとおりである。
(1) 裁判官と裁判員の人数
たたき台の「1(1)裁判官と裁判員の人数」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
- ア 合議体の構成について(たたき台1(1)アの関係)
(ア) 裁判官の員数について
- 裁判官は3人が相当である。法律解釈と訴訟手続上の判断は裁判官が最終的に判断しなければならないが、重大な事件の裁判では、法律解釈が深刻な争点となり得るし、手続上の問題も常に控えている。現行の裁判制度では、3人の裁判官で判断するということで適切な客観性のある判断が担保されると考えられてきたのであり、そのことは変わらないはずである。また、裁判員制度導入後も、裁定合議事件や裁判員制度の対象事件の範囲によっては法定合議事件の一部も裁判官3人で審判することになり、法律解釈や訴訟手続上の判断を裁判官3人で行うことになるが、それとのバランスから考えても、裁判員制度の対象となる事件の裁判においても裁判官を3人とすることが不可欠である。さらに、裁判官二人とした場合、法律解釈で二つに判断が分かれたときは、どちらにも決められないことになり、大変問題である。憲法判断もしなければならない場合があり得ることを考えると、裁判官3人は欠かせない。
- 原則として裁判官は一人とするのが相当である。裁判員制度は国民の自律、自治の制度であるというのが審議会意見書の理念であると考えるが、これを踏まえると、これまでの裁判官だけの裁判を所与の前提とするのではなく、新たな発想で制度設計をすべきであり、新たな裁判体を構成するときにプロの裁判官を何人入れるべきかを考えるべきである。裁判官に期待されることは、プロとしての知識、経験を提供してもらうことであり、経験10年以上のベテラン判事であれば、一人でも十分その役割を果たすことが可能であろう。法律問題の難易は法定刑の重さとは必ずしも直接結び付かず、現に第一審では単独審が原則とされていることは、ベテラン判事であれば法律問題の判断は十分可能であるということである。また、法律問題については上訴が可能であり、上訴審の判断が優越するので、第一審では適正な事実認定と量刑が重要な任務であることを考えると、法律問題は一人の裁判官で判断していくことで十分ではないか。裁判官一人では負担が重いということであれば、裁判員のお世話、資料の調査、判決の起案に従事する裁判官をもう一人増やすことも考えられる。裁判官3人の場合でも、3人が三説を唱えれば多数決で決めることはできないのであり、その解決方法は裁判所法で示されているのであるから、裁判官二人の場合も特別のルールを定めておけばよい。
- 現在の法定合議事件と同じく、裁判官3人とすべきである。裁判員制度は、裁判官の代わりに一般国民を裁判に関与させようとするものではなく、現在の裁判官による合議体に健全な常識を持った一般国民を加えて新たな裁判体を構成させて、裁判に当たらせようというのが、審議会意見書の趣旨である。現在法定刑の重い事件は3人の裁判官の合議体で裁判されていることからすると、裁判員を入れたからといって裁判官を減らす合理的理由はない。また、裁判員制度の対象事件の範囲によっては、裁判員制度の対象とならない法定合議事件もあり得るのであり、その裁判を裁判官3人で行うこととの対比においても、裁判官の数を減らすのは相当でない。職業裁判官と一般国民である裁判員とは異なったものであり、異なったものが代わりになることはあり得ないので、裁判官を減らすことは不合理である。
- 裁判官は、3人とすべきである。裁判官又は裁判員のみによる多数で被告人に不利な決定をすることはできないようにすべきであるという審議会意見書に従えば、裁判官を一人とした場合、その一人の裁判官が評決の決定権を握ることになるが、これでは、裁判官と裁判員が協働して裁判内容を決定するという裁判員制度の趣旨に却って反することになろう。
- 審議会意見書の評決方法に従えば、裁判官を一人にすれば、その裁判官に拒否権を与えるということにならざるを得ないが、それはそれで意見書の意図する制度設計としてあり得る。
- 裁判官は、二人とすべきである。二人であれば、一人の裁判官が評決の決定権を握るという問題は生じない。裁判員制度は、国民が裁判に参加し、司法に対する国民的基盤を確保することを目指して、これまでとは違った裁判の有り様を追求するものである。これまでの裁判官だけの裁判体に単に一般国民を付加することで正当化することはできない。現在の裁判体が裁判官3人で構成されることが合理的であるということは必ずしも証明されておらず、裁判官を減らしても不合理とは言えない。
法律問題や手続上の問題も常識的に判断すべき内容が含まれている場合がある。法現象は社会現象であるから、裁判官二人の意見が異なるときにも、裁判員の意見を参考にすれば解決できるだろう。また、法律問題は上訴で判断され、そこで決着がつけられることになっているし、判断が分かれた場合のルールを作っておけば済むのではないか。一つの方法としては、裁判長の意見に従うという方法も考えられる。
- 法律問題の判断材料は法廷に出たものに限られないのだから、まずは徹底的に議論することになるのだろう。結論が分かれたときは、裁判官が裁判員に意見を求めることもあり得るし、それでも決着がつかないときは、被告人に有利な解釈によることにしたり、裁判長の意見によるという決め方もあり得る。
- 現行制度は、三段階の審級制度が採られているが、第一審を重視しており、重大事件は、裁判官3人で行うこととされている。これは外国でも多く採用されているわけであるから、合理性があるといえる。例えば、事実認定について裁判官を外して裁判員だけで決めるということならば裁判官は何人でもいいということになるかもしれないが、そうではなく両者が協働で裁判をするということである以上、裁判官3人に裁判員を加えて裁判体を構成するというのが筋である。
- 裁判官は3人とするのが相当である。裁判員制度の対象事件の範囲によっては、法定合議事件でも3人の裁判官で裁判する場合があることになり、その場合、法律問題や憲法問題は3人で判断するということになるが、それより重大な裁判員対象事件では、二人の裁判官でそれらの問題を判断するというのは、論理的におかしい。実際上も、裁判員が加わることにより裁判官の事務量は増えるだろうし、その上、集中審理ということになるので、裁判官の数を減らした場合、適正な事実認定を行うための審理・評議に裁判官の集中力が耐えられるか不安がある。
- 裁判官が3人という現在のスタイルは、国民になじみがあり、安心感がある。もっとも、裁判官を二人にする制度もあるだろう。ドイツの参審制では、裁判官3人が原則であるが、現実にはかなりの事件は二人で行われているようである。ドイツの裁判官に話を聞いても、伝統的に裁判官が3人であるからそれが安心できる制度だとする説明が多く、論理的な説明はあまりなかったので、3人としなければならない必然性は必ずしもないのではないかという印象を受けた。東西ドイツの統合で東側へ裁判官を派遣する必要が生じたため西側の裁判官が減ったということと、財政上の負担を軽減するということが、二人で審理するケースが増えた原因ということであったが、そうすると、裁判官の数は政策的な選択の問題であり、二人では動かない制度になってしまうということはないのではないか。ただ、日本では合議事件は裁判官3人で裁判しており、それより重い事件を扱う裁判員裁判で裁判官二人になると、国民の目から見ていかがなものかという懸念があるのも事実である。
- ドイツの参審制度では、参審員が裁判官とともに法律問題についても判断することとされており、いま我々が検討している裁判員制度と同列に論ずることはできないのではないか。
- 裁判官は3人でよい。新しい制度の導入によって裁判制度の円滑な運営が損なわれてはならない。
- 裁判官二人とし、法律解釈に争いが生じたときは裁判長の判断に従うとすると、裁判官が1人の場合と変わりがない。裁判員の意見を聴いて法律解釈をすればよいとの論があるが、難解な法律解釈について裁判員から意見を聴くというのは非現実的である。
- 裁判官二人とし、法律解釈に争いが生じたときは被告人に有利な方の解釈をすればよいとの論があるが、実体法や手続法の法律解釈において被告人に有利か不利かは一律に決められるものでは必ずしもない。裁判長の判断に従うとの論についても、法律解釈については裁判長も陪席裁判官も対等であるはずであり、そのようなルールはおかしい。
- 裁判官二人であれば、議論の余地があるので、裁判官一人と同列に考えることは適当でない。裁判官3人で法律解釈に争いがある場合にたとえ2対1に分かれたとしても、二人の方の解釈に必ずしも合理性、優位性があるとはいえないのであるから、裁判官二人の場合であっても、あらかじめ法律で決め方のルールを作っておけば足りる。
- 問題は、その決め方のルールが合理的であるといえるかどうかである。裁判長の判断に従うということは、憲法の定める裁判官の独立ないし対等ということに反することになるのではないか。
- 事実認定は「疑わしきは被告人の利益に」のルールで決められるが、法律解釈にはそのルールが妥当しない。
- 裁判長が決めるという考えは、裁判官の基本的な心構えに対する理解が欠如している。裁判官は相手が先輩であっても議論の上では対等であると教育されているため、どうあるべきかを自分の頭で常に考えており、それが裁判官の独立が保障されていることの基となっている。先輩裁判官の判断で決まってしまうということになれば、誰も考える努力をしなくなってしまい、そのような気質自体を変える帰結をもたらすことになり、危険である。
- 法律解釈は論理の世界であり、どちらに合理性があるかで決せられる問題である。それによって、裁判の公正中立や人権保障が担保される。被告人に有利な解釈であるとか、経験が豊富、あるいは期が上の裁判官の判断で決せられるべき問題ではなく、このような考え方は、裁判の公正や人権保障という裁判の本質をないがしろにするものであり、危険である。
- 法律解釈で上訴審の判断が仰げれば、最終的な担保措置が講じられているといえるし、また、議論を尽くした上であらかじめ定められたルールで決めるのであるから、危険とはいえない。もっとも、裁判長が決めるというのは考えられ得る一つのルールであり、他にも方法が考えられよう。
- 控訴審で判断されるからよいというのは、第一審軽視の考え方である。基本的には第一審を重視すべきであり、制度設計の段階から控訴審があるからいいというのはおかしな議論である。
- 裁判官は一人でいいと考えているが、二人の場合はどうかについてコメントしたい。法律解釈について裁判員の意見を聴くことは非現実的であるとという意見は、素人には法律が分からないという発想であり、これ自体が、分かりにくい裁判を国民に分かりやすくし、司法と国民との接地面を広くしようという裁判員制度の趣旨に反する。また、裁判長の判断で決めることとしても、裁判長と陪席裁判官の評決権そのものに差を設けるわけではない。数によって決めることと数以外の要素によって決めることの合理性にどの程度の差があるのかということが問題である。数で決めるということも合理的であるが、訴訟指揮もそうであるように、裁判長という経験豊かな者に最終的な判断を委ねることも、合理性がある。
- 例えば、誤想過剰防衛が誤想防衛か過剰防衛かということが問題になったときに、裁判官がそのような問題について分かりやすく説明することは当然としても、法律の専門家でない裁判員が理解して、適切な意見を述べることができるか疑問である。数で決めるのと特定の者が決めるのとは、本質的に違う。裁判長とどちらかの陪席裁判官、あるいは、右陪席と左陪席の意見で決まるのと、始めから裁判長の意見で決まるのとでは全く異なる。
- 法律問題について裁判官だけで決められない場合に、裁判員に意見を聴いて決めるということに意味を見出そうとすると、裁判員に決めてもらうということ、すなわち、法律問題についても裁判員に判断権を与えるということに近くなるが、裁判官のみで法律問題を決めるということと論理的に整合するのか。
- 裁判官の再度の議論に裁判員の意見を参考にしてもらうということであり、それでも決まらなければ、裁判長の判断に従えばよい。
- 初めからどちらかが勝つか決まっている議論は、本来の議論ではなく、裁判長の判断が優越するというのは、評議の公正さや深みを否定するものである。
- どちらの主張が法律解釈として常識的であり、合理的なのかは、裁判員の意見を聴けばはっきりする場合はあるし、そのような形で裁判員が裁判体の構成員として協力することはあってしかるべきである。また、一般国民に裁判に参加してもらい、裁判体の機能を充実させようとするのであれば、そのような意見聴取は想定されてしかるべきである。それでもなお決まらない場合は、あらかじめルールを決めておけばよい。
- 日本の裁判官は一人でも、二人でも十分対応できると考えているので、この議論は不思議な気がする。現行どおり裁判官3人でうまくいっているということを前提にすると、なぜ罰則の負担を負ってまで一般国民が参加するのかということにならないか。
- そのような認識は、審議会の意見書を否定することになる。審議会意見書は現在の裁判がうまくいっていないという前提には立っていない。
- 従来の裁判を前提として国民を付加するという前提は、意見書にはないのではないか。
- 裁判員制度については、専門家である職業裁判官に国民の健全な常識を付加することによって新たな裁判体をつくるものであるというのが、意見書の趣旨である。
- 意見書に国民の主体的、実質的な関与と書かれていることが、そのような意味としてとらえることができるのか疑問である。
- 意見書は、現在の職業裁判官のみの裁判に国民の健全な常識を反映させることによって、新たな要素が付加されて裁判がよりよいものになるという趣旨に読める。また、主体というのは、裁判員が中心であるという意味ではなく、参加の仕方が主体的だという意味で使われているととらえるべきである。
- 審議会意見書の英語訳では、オートノマスという言葉が使われている。これは、意見書の総論の理念の部分、つまり、国民の自治、自律という意味ではないのか。
- オートノマスという訳語が当てられているのは、個人がそれぞれオートノマス(自律的)という意味であり、個々の裁判員が自律的・主体性に裁判に関与するということを言おうとしているものである。
また、国民主権の下で国民は自律的な存在であるから裁判に直接関与すべきだというのが審議会意見書の趣旨ではない。あらゆる統治作用は国民の主権に由来する以上、司法も国民主権を前提としていることは当然だが、そこから直ちに司法参加ということが導かれるわけでは必ずしもなく、その点は意見書も慎重な書き方をしている。むしろ、司法も国民一人一人のものであり、国民が自ら責任を分担するという自覚を持っていただくために裁判に参加してもらおうという趣旨である。
- 裁判員が中心となった裁判であるべきだとの考え方は、憲法に違反するのではないか。
- 意見書には、「主体的」の後に「実質的」という言葉が入っており、裁判員が中心でなければならないという意味ではないが、裁判員自身が主体として実質的に評議なり、裁判の運営にかかわることができることが保障されている必要がある。
- 個々の裁判員が自律性のある主体として実質的に裁判に加わることができるようにしようということは、誰もが当然の前提にしているのではないか。
(イ) 裁判員の員数について
- 健全な社会常識を持つ一般国民は、証拠に基づく事実の認定と量刑について裁判官と同程度に常識的な判断ができると言えるので、裁判官が3人であれば、それと同数の3人というのが合理的である。合議体全体の人数がどうあるべきかという視点からは、多人数になると、裁判員の主体的、実質的な関与という要請も評議の実質性という要請も満たされないことになるので、それほど多くない方がよく、その意味でも、裁判官3人、裁判員3人として、全体として6人とするのが合理的である。裁判員を裁判官より相当多くすべきという意見は、裁判員の事実認定と量刑の能力が裁判官のそれらよりも劣っているということを前提にしない限りは出てこない考え方であり、それ以外に合理的な理由は見当たらない。
- 裁判官と裁判員とでは他人を説得する能力に歴然とした差があるので、その差を埋め、仮に裁判官と裁判員とで意見が割れた場合でも、対等な議論ができて、合理的な結論に達するよう、裁判官3人に対し裁判員5人とすべきである。他方、裁判官と裁判員各人が主体的に緻密な議論をすることができるようにするには、合議体を構成する数が多すぎてはいけない。トータルの数は10人を超えるべきではない。
- 裁判員の数は、3ないし4とするのが相当である。裁判員は事件ごとに選任され、言わば一回限りの裁判参加になるので、十分に意見を言えるような環境を整える必要があり、裁判官の数より少ないとなかなか意見を言いづらいだろうから、裁判官の数と同数かそれよりやや多い数にするのが適当である。他方、数を多くし過ぎると、裁判員を確保するための負担が大きくなるし、合議の実効性の点で支障が生じる。
- 模擬の裁判員裁判の結果では、発言回数や発言のボリュームは、裁判員を4人とした場合と10人とした場合では相当に違う。裁判員と裁判官の数が同数に近い場合、裁判員の発言はどうしても裁判官との間のものになるが、10人の場合は裁判員の間で議論が成立し、その議論がおかしな方向に行かないように裁判官がチェックするという形態であった。健全な社会常識を裁判に反映していくためには、裁判員がトータルな意味で実質的、主体的に議論に参加していくことが大切であり、その意味で模擬裁判員裁判の結果は参考になる。裁判官の発言回数の裁判員のそれに対する倍率は、裁判員4人の場合は4倍近くになっているが、裁判員10人の場合は約2.5倍である。事実認定と量刑において、裁判員と裁判官の能力は違わないにせよ、数の上での配慮は必要である。裁判員は10人ないし12人とするのが、相当である。
- いま紹介のあった模擬裁判員裁判の結果を見ても、裁判員4人とした場合の方が裁判員10人とした場合より裁判員一人当たりの発言回数は却って多いということになっている。裁判員を10人とした場合の方がトータルの発言量が多いのは、員数が多いのだから当たり前のことではないか。裁判員裁判では、実質的な評議ができることが大事であり、そのために裁判員が自由に意見を言える場をつくることが必要であるから、裁判員の数は裁判官の数と同程度とすべきである。裁判員の数を裁判官のそれより多くしないと、裁判員が裁判官の議論に圧倒され、負けてしまうのではないか懸念されるという意見があるが、裁判官は人の意見を聴くのもうまい。裁判官は若い頃から評議では自分の意見を述べることを求められるが、その意見は先輩の裁判官にも必ず尊重されるので、自分が経験を積めば、同じように人の意見を聴こうとするのである。裁判官は、争点について論理的に説明し、また、裁判員がその説明に納得しないのであれば、その理由を自分でも考えた上で聞き出していくことになるので、裁判官側の発言数が多いのは当たり前であるが、そのプロセスを経て裁判員自身が納得のできる判断を形成することが可能になる。そして、裁判の質を低下させないためには判決に実質的な理由が示されることが必要であり、評議において細かな事項まで詰めて議論するからこそ、そのような理由を書くことができる。実質的な評議ができるためには人数は限られざるを得ず、裁判員の数は裁判官のそれと同程度とすべきである。
- 裁判員の数は裁判官の数と同程度とするのが相当である。裁判員制度を現実に動かすことを考えた場合、裁判員の数を多くすると、検察審査員の出席状況から考えても、裁判員の数が集まらずに裁判体が組めないおそれも出てくる。勾留されている被告人がいるのだから、裁判体が組めないから裁判ができないということは許されない。
- 審議会意見書の国民像、あるいは裁判員制度の趣旨から、裁判員の数は、B案を軸に検討すべきであり、9人から11人とするのが相当である。また、国民の健全な社会常識を裁判に反映させようという場合、その健全な社会常識は普遍性、客観性をもつことが必要であり、より多くの人の間で共通する考え方の方がふさわしい。裁判官にとっても、より多くの裁判員の意見を聴くことが適切な判断に資する。評議の実質性は重要であるが、10人程度ならば議論できるという取締役会経験者からの意見もあったし、準備手続が必要的となるので、争点・証拠を整理して裁判員に提示していくことが可能である。裁判員の人数が多いと裁判体が組めないとの懸念があるとの意見があるが、朝日パブリック・コメントによると、8割程度が裁判所に行ってもよいとしており、結局のところ、情報がどの程度正確に分かりやすく国民に提示されていくかという問題である。裁判員の負担に関しても、裁判員が11人だとしても、一生に一度あるかないかという程度であることも考えるべきである。プロとノンプロという異質なものを組み合わせるのだから、評決権が対等だからといって数も対等にすべきだということにはならない。プロとノンプロの間での実質的な対等性、あるいは参加の充実感を考慮すべきである。
- 別のアンケートでは、異なった結果が出ているものもある。また、朝日のパブリック・コメントでも、裁判員として従事できる許容期間については、大部分の人が2,3日程度までとしているが、2,3日で終わる裁判ばかりではない。いろいろな要素を加味しておかなれば、現実に動く制度とはならない。
- 裁判員の数は裁判官の数と同程度とすることが相当である。裁判員の主体的、実質的な関与を確保するという観点から数を導き出そうとするのはおかしいのではないか。多様な意見を裁判に反映させるために裁判員の数が多ければ多いほどいいことはそれなりに理解できるが、裁判員は、裁判員の固まりとして意見を言うわけではなく、個々人で意見を述べるのであるから、裁判官に言い負かされることなく、裁判員の常識的な意見を裁判に反映させることを担保するためには、数が問題なのではない。裁判員の主体的、実質的な関与は、裁判官が裁判員の意見をよく聴いて、参考にし、説得、説明をするということで担保されるべきものである。評議の実効性を確保するという観点から、裁判体はコンパクトである必要があるし、外形的に裁判官と裁判員が対等、協働の関係で運営される制度であることが見えるという観点から、両者の数は同数程度ということになろう。
- 非法律家が法律家の中で意見を言うのは相当大変である。素人が何人かいれば、異なった角度からユニークな考え方も出てくるのではないか。裁判員がものを言いやすい状況をつくるには、一定の規模が必要である。裁判員が無作為抽出で選ばれるとなると、いろいろな経験、資質を持った人が裁判体に入ってくることになるので、そのことから生じる問題を自ずから除去する制度設計にすべきである。偏った考え方の人が入ってきた場合に、その意見があまりに決定的な役割を果たさないような制度的な担保が必要である。例えば、死刑相当の事件の場合に、死刑制度に反対する意見の持ち主がいたがために死刑判決ができないことになれば、制度として欠陥があるということになるのではないか。裁判員の数は6人とするのが相当である。その根拠は、経験的なところから判断するしかないが、外国では6人のところがあるし、市民団体の活動からすると6人という人数が必要という意見もある。
- 無作為抽出方式を採るにしても、選任の過程で偏った考え方の持ち主が裁判員になることをかなりの程度排除することが可能である。裁判員は健全な社会常識で判断することになるのだが、裁判員の職務は、証拠に基づいてある事実があったかなかったか、証言が信用できるのかどうかを緊密に議論することを通じて判断することであり、社会集団の多様性を反映させるのがいいという性質の事柄ではなく、また、裁判は世論調査の場ではない。したがって、数が多くなければならないということにはならず、緊密な議論ができることが決定的に重要である。
- 偏った意見の持ち主が入ってきてはまずいという点は、選任手続で排除することを考えるべきである。
- 当事者が裁判員候補者に関する資料を選任の当日に見て、裁判官が中心となって質問をする仕組みの中では、どの程度排除の実効性を確保できるのか疑問である。無作為抽出方式であれば、偏った意見の持ち主が選ばれることを前提にして、裁判体の中で偏った意見が排除される仕組みをつくるべきであり、数を多くする必要がある。
- (2) 裁判員、補充裁判員の権限
たたき台の「1(2)裁判員、補充裁判員の権限」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
- ア 裁判員の権限について(たたき台1(2)アの関係)
(ア) 裁判員が訴訟手続又は法令解釈に関する意見を述べることについて
- 裁判員が訴訟手続又は法令解釈に関する意見を述べることを欲する場合には、述べることができるようにすべきである。
- たたき台1(2)ア(ウ)のような規定振りであっても、裁判員が意見を言わせてくれといった場合に、裁判官がそれを制止することはないであろうから、意見を言う機会は十分与えられるといえる。
- 意見を述べることができるということを明確にしておく必要がある。
- 法律問題について、法的素養のない人が独自の見解を延々と述べた場合に制限ができないということになると、困った事態になる。最終的な判断権限を裁判官に与えるという仕組みをつくる以上、裁判官が必要な限度で聴けばいいわけであり、責任のないところに権利として意見を言うことができるとするのは、制度としておかしい。
- 法律問題について裁判員が意見を述べることができるという規定を設ける法律的な意味があるのか。
- 裁判員が入っていることを全体として裁判に反映させるためには、法律問題についても裁判員の意見を聴く機会があってもいいわけであるし、意見を述べたいという以上は遮ることがあってはならないだろう。
- 訴訟手続に関する判断をするために公判廷外で一定のことを行う場合も、裁判員を立ち会わせる必要があるということまで考えているのか。
- 裁判員が立ち会っている場合は、意見を述べることができるとすればよいのではないか。
- 事実認定は裁判員も判断する権限があるが、法律問題は不得手であろうから裁判官だけで判断するというのが大枠の仕切りである。そこがゆるがせになると裁判全体がおかしくなる。たたき台1(2)ア(ウ)のような規定はなくてもよいが、実際の運営の場面で裁判員が意見を言いたいという場合に裁判官がこれを封じることは適当でないから、このような規定を設けるものと理解している。これ以上に裁判員に意見を言う権利を与えるということになると、制度の輪郭がぼけてきて、裁判が不安定化することにつながりかねない。
(イ) 裁判員の証人尋問及び被告人質問について
- 証人尋問についての現行の刑訴法の建前と異なり、実務では当事者の主尋問と反対尋問が終わってから補充的に裁判官が尋問しており、陪席裁判官は、裁判長に告げて尋問できることになっている。裁判員の証人尋問についても、実務を前提にして当事者の主尋問と反対尋問が終わった後に補充的に尋問してもらうことにするのがよい。現行実務は裁判官が当事者の尋問の組み立て等を尊重し、証言により事実を引き出す責任を当事者に与えており、これと同様にするのが相当である。
- 現行実務の根拠は、起訴状一本主義にもある。すなわち、裁判官は、手元に一件記録等はないため、事前に証人がどのような供述をするかを知り得ず、刑訴法の規定どおりに裁判官が率先して尋問するということは実際上行いようがない。また、当事者主義の訴訟構造の理念が根拠となっているのだろう。
- 当事者からすると裁判官に対しては異議は言いづらく、裁判員だとなおさら言いづらくなると考えられる。アメリカの陪審改革で陪審員に質問権を認める方向が拡大しているが、その場合でも裁判長に紙を渡してチェックしてもらってから質問してもらうことになっている。裁判員にもこのような手続を踏ませることは考えられないか。
- アメリカでは、陪審員には質問権が元々認められていなかったので、認めるとしても混乱が生じるおそれがあるから、そのような手続を踏ませることとしているのではないか。フランスでは、参審員席から直接どんどん質問している。
- 証人尋問の順序は、制度化しなくても、現在の実務を踏襲することになるのではないかと思われる。
- (3)評決
たたき台の「1(3)評決」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
- ア 評決要件について(たたき台1(3)アの関係)
- 被告人にとっての有利、不利は明確でない場合があるので、A案が、相当である。現行の裁判は、最高裁の憲法判断というごく例外的な場合を除き、単純過半数で決着をつけるルールになっており、これを変更する理由はないので、特別多数決とする合理的な理由を見出し難い。
- 現行は3人の裁判官の単純多数決で判断しているが、この場合は少数説は一人となり、それを採用しなくとも不合理とは言えないとして処理している。裁判員裁判では裁判体構成員が増えるので、少数説が相当数増え、少数説であっても検察官の立証に合理的な疑問が残るとする者が複数生じる。少数説がどの程度の数であれば、裁判体が合理的な判断をしたといえるかというのは政策判断であるが、3分の2という特別多数決は、少数説を合理的でないと排除する要件として刑事裁判としては合理性のあるものではないか。裁判所法第77条には、裁判は過半数の意見によるとしているが、例外がないわけではなく、裁判員裁判についても過半数の例外として3分の2というのも合理性があるといえる。
- 事実認定で意見が分かれたときに過半数で決めるということと、刑事裁判における合理的な疑いを超える証明が有ったかどうかということとは、論理的には無関係である。
- A案が、相当である。現在の裁判も過半数によることとされており、これを改める特段の理由はない。裁判員が入ることによって評決の要件が加重されるというのは、裁判員の判断は信頼性が低いということを意味することになってしまい、不適切である。
- 単純過半数とするのが、相当である。
- A案が、相当である。
- 裁判員の能力に問題があるということではなく、裁判の有り様を変えていくということであれば、評決の在り方も考え直す必要もあるだろう。その点から、慎重を期するという意味で3分の2が適当とも考えられるが、それ以上の合理的理由も見あたらないので、A案とするのもやむを得ない。
- (4) 対象事件
たたき台の「1(4)対象事件」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
- ア 対象事件について(たたき台1(4)アの関係)
(ア) 原則について(たたき台1(4)ア(ア)の関係)
- A案とするのが、相当である。国民の司法参加の制度を導入する以上、それがある程度見える形で機能していることが必要である。C案だと、対象事件が一桁にすぎない裁判所が25もあり、それらの裁判所ではごくわずかの市民しか裁判にかかわらないことになる。BプラスCとしても非常に少ない。
- A案とするのが、相当である。
- B案プラスC案とするのが、相当である。審議会意見書が裁判員制度の対象とすべき重大な事件について示すところによれば、基本となるのは法定刑の重さであり、それで行けば死刑又は無期に当たる罪の事件ということになろうし、一般国民が関与する前提として、国民一般の関心が高いこととか、社会的に重要であるということもあろうから、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた事件も対象とすべきであろう。
C案だと未遂の場合が対象事件から外れてしまい、他方、法定合議事件まで広げると、一般国民に関与してもらうのにふさわしいとはいえない文書偽造事件や薬物事犯が入ってきて、望ましくない。
- B案プラスC案とするのが、相当である。最初から対象事件を広げ過ぎて制度の運営がうまくいかなくなることは、避けるべきである。
- 法定合議事件の中には、裁判員裁判にふさわしくない事件もある。B案あるいはB案プラスC案で始めるのが相当である。
- 法定合議事件には、文書関係事件、薬物事犯など裁判員に判断してもらう必要のない事件も多く含まれているので、B案プラスC案が相当である。
- B案が、相当である。裁判員制度の趣旨を損なわない範囲内でできるだけ絞るべきである。準備手続が必要的になり、証拠開示が行われるなどの事情にかんがみると、緻密な裏付け捜査をする事務負担が非常に増えることが予想されるので、できるだけ少ない数にすべきである。対象事件の範囲の問題は数の問題であり、被告人に裁判員裁判を受ける権利を認める筋合いはないのだから、適当な数となる事件の分類が裁判員裁判にふさわしい事件であればよい。
- 制度を設ける以上ある程度の数は必要であるが、政策的な配慮も加えるべきであり、実施しやすい数がよいので、B案プラスC案とするのが相当である。
- 対象事件の範囲は、裁判員の数をどの程度確保できるかにかかわる。この点から、大きな裁判体を構成して、対象事件を絞るという考え方もある。理想論としては、法定合議事件とするのがよいが、現実的に裁判員の確保や財政的な問題を考慮すると、対象事件を絞ることもやむを得ない。裁判員6人程度とすると、制度を円滑に運営するためには、B案プラスC案とするのが相当である。
イ 事件の性質による対象事件からの除外について(たたき台1(4)ウの関係)
- A案とするのが、相当である。裁判員が恐怖のために裁判に参加できないという場合が刑事事件にはあり得ると思われ、そのような場合には、国としてその恐怖を除去する努力をすべきではあるが、それでも参加できないような例外的な場合については、裁判員裁判の対象事件から外す必要がある。そのようにしないと、裁判員に大変な精神的負担がかかるし、また、裁判員がそのような精神的負担を負った状態で参加しても、公正な裁判が行われているのか疑義が生ずるおそれが大であり、刑事司法全体にとっても望ましくない。ただし、A案の(ア)のままでは対象事件が広いようにも読めるので、要件の書き方については検討の余地がある。
- A案とするのが、相当である。裁判をすることは、犯罪と闘うという側面を持っている。犯罪と闘うというのは本来国家の仕事であるのだから、一般国民に必要以上の負担を負わせて裁判に参加させるのは、妥当でない。また、裁判員が恐怖を感じる心理状態で公正妥当な判断ができるのか疑問である。これらの点からすると、組織犯罪、暴力団犯罪など、報復や嫌がらせのおそれのある事件は対象外とすべきである。報道などにより社会に一定の予断、偏見が形成されているおそれのある事件も、公正な判断が期待できないので、除外することが必要である。ただし、要件の表現振りについては検討の余地がある。要件を明確にしないと、被告事件を対象事件から除外するに当たり当事者の意見を聴くにしても、的外れの意見になることになってしまう。
- 裁判員の負担等を考慮すると、除外事件をつくることはやむを得ないが、要件を明確にしないと、裁判官が除外すべきか否かを判断する場合に困ることになる。「民心」という表現で、報道によって社会的に事件に対する偏見が生じているという場合などを除外するのは困難ではないか。また、暴力団事件というだけで当然に除外事由に当たるとすると、かなりの数の事件が除外されることになってしまい、適切でない。他方、司法関係者を被害者とする事件や被告人が明確に報復を宣言している事件などは除くべきである。
- B案とするのが、相当である。裁判員に対する危険があってはならないと思うが、諸外国の陪審員、参審員に対する保護策を参考として、原則は保護、警備で対処すべきである。反社会性の強い事件は、一般国民に裁判参加してもらって、裁いてもらうことが妥当である。A案は要件があいまいで、多くの事件が除外事件に該当し、対象事件が減ってしまうおそれがある。
- 除外は設けるべきである。確かに、安易に除外を認めるべきではないし、明確な基準を立てることは必要であるが、具体的にあり得るケースをすべて書き切ることは不可能であり、ある程度の例示は可能であるとしても、一般条項を設けざるを得ない。保護で対処すれば足りるという意見があるが、組織的に報復がなされるような場合、裁判員を保護しようにも不可能なときがある。自分の身に直接危害が生じなくとも、例えば家族が脅されたような場合など外部的な状況によって公正な判断が期待できない場合は、除外事件とすべきである。
- 個人情報の保護の在り方との関係を考慮すべきである。
- 個人情報の保護だけで報復などが防げるとする考えは、非現実的で甘すぎる。
- 脅し程度のことで除外とすべきなのか。脅迫状を一本出せば除外事件になるというのでは、裁判員制度が成り立たないのではないか。捜査機関が体制を整えて、別途の対処策を講ずればよい。また、そのような事態がそれほど生じるとは思えない。A案のような要件では、除外事件を設けるべきではない。
- 一般国民に恐怖心を抱かせ、精神的負担を負わせてまで裁判員の職務を行わせる合理的理由があるのか。保護しようにも保護できない事件というものは確実にある。個人情報をいくら保護しても、裁判は公開されているのだから、審理の後に尾行すれば、どこの誰かはすぐに分かる。裁判官や検察官を襲えば国家と敵対することになるので、犯人側は攻撃を躊躇するだろうが、裁判員は民間人であり、危害を加えられるおそれがより高い。
- 除外事件を設けるかどうかの問題は、裁判員に恐怖を与える事件がどれくらいあるかではなく、そのような事件が現にあった場合に裁判員裁判の対象から除外すべきなのかどうかという問題であり、また、除外要件を絞り込んで除外事件を設けるべきなのか、絞り込んでも設けないこととするのかという問題である。
- 除外事件を設けないという考え方は、裁判員となった国民の犠牲の上に裁判員制度を定着させようとするものであり、かえって裁判員制度の定着を妨げるものである。
- 報道から著しい予断、偏見が生まれていると考えるのは、適当でない。そのように考えることは、無限定に除外事件を広げることにつながる。A案の要件は漠然としていて、広すぎる。具体的に危険が現実化していなければ、除外事件とすべきではない。
- A案は、侵害するおそれがあるとしており、危険が現実化している場合を指しているのではないか。脅迫や嫌がらせは滅多にあるものではなく、除外事件が広がりすぎると考えるのは、杞憂である。脅迫等がなされるのは、犯人の側に相当の覚悟、確たる動機があってのことであり、そのような事態を看過することは許されない。一方、暴力団犯罪ということのみをもって危害のおそれがあるとは言えない。危害のおそれがあるかどうかの判断材料としては、捜査段階で被疑者の具体的な言動があるはずであるから、これを提供することは可能であろう。
A案のような除外規定は必要であり、また、除外要件の該当性の判断も十分可能だと思われる。
- 裁判員裁判の対象から除外した事件については裁判官の数を増やした特別の裁判体で裁判すべきとの考えをもっていたが、実現困難なようなので、要件を厳格にした上でA案とせざるを得ないと考えている。
- 審理を始めてから除外要件に該当することが判明した場合に、除外事件とするのか、除外事件とする場合に裁判員の意見を聴く必要があるのか等の手続的な面についても検討が必要である。
- (5) 裁判員の要件
たたき台の「2(1)裁判員の要件」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
-
- B案が、相当である。裁判員は、国権の行使に当たるのであるから、衆議院議員の被選挙権の要件と同様、25歳とするのが相当である。
- B案が相当である。裁判員は、司法権の行使に直接関与するのであるから、選挙権ではなく、被選挙権に対応する。国民の健全な社会常識を裁判に反映させるという制度趣旨からしても、20歳よりは社会経験をある程度積んだ25歳とするのが望ましく、また、20歳の裁判官はいないこととのバランスも考慮する必要がある。
- A案が相当である。国民主権の観点から、20歳が相当である。また、裁判官はもとより、被選挙権は職業として任務に当たることを前提としているが、裁判員は、無作為に選任されて、特定の事件のみについて、また、健全な社会常識を裁判に反映するために、職務に当たってもらうのであるから、同列に論じることは妥当ではない。裁判員制度に対する若い人達の関心は高いことからしても、選挙権とリンクさせるべきである。
- A案が相当である。25歳と20歳の5歳程度の違いに大きな差があるといえるか疑問である。時代の流れの中では、20歳の人には25歳の人は持っていないものの見方や感覚があり、社会的常識の幅広さを確保することからも20歳とすることに意味がある。
- 25歳以上であれば、30歳もあり得る。選挙権と被選挙権の年齢要件に差を設けていることには意味があり、判断する人を選ぶ能力と自ら判断する能力とでは、やはり差があるということが、経験則上あるのだろう。裁判員の年齢要件を国民主権と結び付けて考えるのはおかしい。また、裁判員は、無作為に選任されて、特定の事件のみについて職務を行うが、その職責の重要性は、職業として行う場合と何ら異ならない。幅広い社会常識を確保することを主眼とすると、年齢の下限が際限ないものとなってしまうので、ある程度人生経験を加味した健全な社会常識というものを基準とすべきである。
- 裁判員は特定の事件のみについてしか職務を行わないとしても、その職務は職業裁判官の職務と同じであり、また、被告人の側からすれば、その特定の裁判によって人生が左右されることになるのだから、一回だけだから要件を緩やかにしてよいということにはならない。
- 年齢要件を20歳以上としても、裁判員が20歳から24歳の者だけで占められることにはならず、また、その年齢でも社会経験のある人はいるので、健全な社会常識を裁判に反映するという観点からは、20歳以上とするのが望ましい。
- C案が相当であるが、B案を支持しないわけではない。被告人の立場からすれば、それ相応の者から裁判を受けたいと思うはずであるので、あまりに若い人が裁判員になるのはいかがなものか。司法権の行使は国権の行使なのだから、被選挙権に合わせるべきである。
- 若い被告人は、同世代感覚を持つ者に裁かれたいということはあるのではないか。20歳と25歳の差に合理的な違いはないとすれば、法律で選挙権を与えているということが基準になるのではないか。
- B案が、相当である。20歳から24歳までの人を除外して裁判員の数を確保できるか若干の懸念はあるが、事実を認定し、人を裁くには一定の社会経験は必要である。ただ、選挙権の年齢要件を18歳に引き下げようとの議論が現実性を帯びてくる中で25歳というのは少し高い気もしないではなく、社会全体の動きとの関連も考慮する必要があろう。
- 20歳とするか25歳とするかは、社会的成熟度のとらえ方の違いであろう。
- B案が、相当である。
- どの案が理由において他より優れているということはない。
- (6) 欠格事由
たたき台の「2(2)欠格事由」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
- ア 裁判員の欠格事由について(たたき台2(2)アの関係)
(ア) 裁判員が中学校卒業又はこれと同等以上の学識を有する者であることについて
- たたき台2(2)ア(ア)の「学識」は「教養」に改めるべきである。「学識」というのは高いレベルの知識が要求されることにならないか。
- ここでの「学識」という言葉は、それほど高い水準のことを意味しているのではないのではないか。
- 義務教育を終えた者という要件は必要である。裁判ではそれなりの表現での主張・立証がなされるし、裁判員には調書をある程度読むという作業もある。また、事実認定には論理的な判断が必要とされる。
- たたき台2(2)ア(ア)の欠格事由は必要である。
- たたき台2(2)ア(ア)の欠格事由に換えて「日本語を理解しない者」とすべきである。年齢要件にも関連するが、選挙権は学歴で区別していないので、裁判だけについて学歴を要件とするのはおかしい。論理的思考力や読解力が中学校を卒業していない者にないとはいえない。
- たたき台2(2)ア(ア)には中学校卒業と同等以上の学識があればよいとのただし書があるから、形式的に学歴だけで区別するのではなく、実質で判断することも可能になっている。日本語を理解するだけではなく、読み書きそろばんと昔から言われているように、多少の学識、具体的には義務教育を終えた程度の学識は必要なのではないか。
- たたき台2(2)ア(ア)とするのが、相当である。裁判で行うべき作業内容との関係で義務教育終了と同等の学識を有していることが必要である。
- 学歴を基準とすることが今の世の中で妥当か疑問があり、たたき台2(2)ア(ア)ただし書のように実質化した欠格事由を考えるべきである。「日本語を理解できない者」ということでよいのではないか。
(イ) 心身の故障を裁判員の欠格事由とすることについて
- たたき台2(2)ア(ウ)は、A案とするのが相当である。心身の故障があるために、裁判という被告人の運命を決する重要な職務の遂行に支障があると客観的に認められる者については、欠格事由とする必要がある。目や耳などに障害があっても、事件によっては職務を遂行することが可能な場合もあるだろうが、その障害のために職務を遂行することができないという場合はあり得る。辞退、忌避等他の方法で職務に就くことから離れてもらう方法もないわけではないが、正面から欠格事由として定めるのが妥当である。精神障害の場合も同様である。
- 心身に障害のある人を一律に欠格とすることには賛成できないが、障害の内容、程度と事件の内容などからみて職務遂行に支障があると認められる場合は、外れていただくのもやむを得ないだろう。具体的な事件との関連で職務遂行に支障があるということを明らかにした上で、たたき台2(2)ア(ウ)のA案のような規定を設けることは必要である。
- たたき台2(2)ア(ウ)のA案のような規定を設けることは必要であるが、心身の故障の内容、程度によって職務を行うことが可能な事件はあり、一律に排除するのは妥当でない。手続を踏んだ上で、可能であれば裁判に参加してもらうという配慮が必要である。
- たたき台2(2)ア(ウ)は、A案とするのが相当である。心身の故障のために公判審理を理解できないなど職務の遂行ができないという場合はあるだろう。職務の遂行が可能かどうかを、個別具体の事件との関係で判断すべきとの論があるが、準備手続を通じて審理事項はある程度判明したとしても、審理の途中で新たな争点が出てくることもあり得ないわけではなく、そこで職務の遂行に支障が生じることも考えられるので、裁判に必要な一般的な能力を基準にして判断せざるを得ないのではないか。
- たたき台2(2)ア(ウ)は、A案とするのが相当である。心身の故障がある方にも幅広く社会に参加してもらう必要があるが、裁判員の職務の遂行に支障があると認められるのに参加してもらうというのは、論理的に無理である。あの事件については職務を遂行できないが、この事件についてはできるということは想定し難いので、一律の基準とすべきである。
- たたき台2(2)ア(ウ)は、A案とするのが相当である。職務の遂行に支障がある者を裁判に関与させるというのは、矛盾である。個別具体的な事件との関係で判断するのは困難なので、類型化せざるを得ないのではないか。
- たたき台2(2)ア(ウ)は、B案とするのが相当である。このような要件を設けることは、心身に障害がある人に対して、きつく、冷たい印象を与えることになり、妥当でない。事件によっては外れていただくしかないものもあるので、その場合は、辞退の理由とするなど他の方法によればよい。
- 辞退は、本人からの申し出が必要であるので、本人がやりたいと言った場合はどうするのかという問題が残る。
- たたき台2(2)ア(ウ)は、A案とするのが相当である。一般国民が参加する権利が奪われてはならないという観点、あるいは制度の円滑な運営のために裁判員の確保に支障が生じてはならないという観点からこの問題を判断するのが適切であるのかは分からないが、いずれにしても、職務遂行に支障があると認められる以上これを欠格事由とするのは当然であろう。
- たたき台2(2)ア(ウ)A案を採るのであれば、具体的な事件との関連で支障がある場合を指すことが分かるような規定振りとすべきである。欠格事由とするのではなく、具体的な事件との関連で忌避事由があるとして職権で外すという対処方法もあり得るのではないか。
- (7) 就職禁止事由
たたき台の「2(3)就職禁止事由」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
- ア 職業上の就職禁止事由について(たたき台2(3)アの関係)
- たたき台の案で基本的によい。地方議会の議員は、国権としての立法権の行使に携わっているわけではないが、裁判員裁判の対象事件と条例違反の事件が併合して審理されるということは考え得るので、条例の立法作業をしていた地方議会の議員が裁判員になるのは適当でない。また、地方議会の議員は、選挙の際に様々な人的つながりができるが、被告人が支持者であるなどのつながりがあるかどうかは調べようがないので、地方議会の議員も就職禁止事由とすべきである。
- たたき台の案の基本的な考え方、方向性でよい。法律家でない一般の国民の健全な社会常識の導入という制度趣旨にかんがみると、法律専門家は就職禁止事由とすべきである。
- 法律の専門家を排除するという観点及び三権分立の観点からの就職禁止事由がたたき台に掲げられているが、相当である。
- 裁判員が司法行政を担当するわけではないので、三権分立を理由とする就職禁止事由はなくてもよい。法律専門家を就職禁止事由とする理由も理解できないではないが、法曹資格を有する者も、当事者から忌避されることがなければ、一国民として裁判員になることを認めるべきである。したがって、就職禁止事由は不要であり、辞退又は忌避で対処すればよい。
- 同じ一人の人間が、法律専門家として加わる場合の意見と一国民として加わる場合の意見を区別して言うというようなことが果たして可能かは疑問である。
- 裁判員の母体は広く確保しておくべきであり、平等に司法を担っていく制度とすべきである。法律専門家を就職禁止事由とする考え方は理解できなくもないが、法律に関係すればすべて除外するのはいかがなものか。大事なことは公正な裁判を行い得る裁判員を確保することであるので、たたき台の案は広すぎる。たたき台に掲げてある事由の下の方ほど不要であり、これらの者が裁判員となっても裁判の公正さを損なうことはないと思われ、適当でない人は、忌避などで対処すればよい。
- 辞退は本人からの申出が必要であり、また、ある職業に就いているからといって当然忌避できるわけではないので、就職禁止の代替策となり得るか疑問である。
- たたき台の案で基本的によい。
- たたき台の案は広すぎる。国会議員、都道府県知事、市町村長といった国民に負託された職業に就いていて時間的な制約がある人達はやむを得ないとしても、それ以外の者は就職禁止事由とすべきではない。裁判所職員、法務省職員、自衛官等公務員が積極的に参加することによって範を垂れるべきであり、理由なし忌避などの他の方法で対処すべきである。法律家も裁判員となってよい。
- 一般国民の目から見ると、就職禁止事由は、権利制限ではなく義務の免除と考える向きもないではないが、本来的には権利制限ととらえるべきであり、それを設けることが否定されるべきではない。
- (8) 辞退事由
たたき台の「2(5)辞退事由」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
-
- たたき台2(5)キの要件については、裁判官が判断しやすいように、より明確にすべきである。家族の養護又は介護の必要がある場合はいいとして、経済的な事情で裁判員の職務を行うことが困難だという場合などはどうするのか。後者に関し、単に仕事があるというだけでは辞退を認めるべきではない一方、他に代わりの人がいず、本人が抜けてしまうと経済的に大きな損失が生じるといった場合には辞退を認めるべきであろうが、どの辺りで線引きすべきなのか、具体的に議論しておく必要がある。
- 被用者が裁判員となり、その義務を果たすことによって不利益な取扱いを受けることがないようにするため、労働法規的手当ては必要である。被用者にはこの手当てによってなるべく裁判員に就いてもらうこととし、一方、仕事を休むことによって経済的に生活ができなくなるおそれがあるような個人事業者については、辞退を認めていくという枠組みになるのではないか。
- 国民に不公平感が生じてはならず、法文に書くことは無理であろうが、何らかの形で辞退の基準が国民に示されるべきであって、内部的な基準のみ、あるいは完全に運用に委ねられることになるのは避けるべきである。
- 国民に不公平感が生じないための方策として、基準を設けることのほか、辞退が認められるためには手続的に資料によって疎明することを求めるという運用をすることが考えられる。また、裁判所の事務負担も考慮しなければならないが、裁判所から示された公判の期日には裁判員を務めることが困難であっても、一定期間経過後の別の時期ならば可能だというときは、その時期に予定される別事件の公判で裁判員を務めてもらうといった工夫も考えられる。
- (9) 裁判員候補者の召喚
たたき台の「2(8)裁判員候補者の召喚」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
- ア 裁判員候補者の召喚について(たたき台2(8)アの関係)
- 召喚する裁判員候補者の数によって質問手続の意味合いが異なってくる。当事者としては比較的・相対的に適格者を選びたいという意識を持っているので、召喚する裁判員候補者の数はできる限り多くすべきであり、最低でも裁判員の数の3倍程度が望ましい。
- 召喚する候補者が増えるほど、裁判員に選任されない人が増えることになる。召喚される候補者の気持ちも考える必要がある。
- 召喚する候補者の数は、抽象的、一般的にあらかじめ決められるものではない。外国でも国ごとに、また一国の中でも、地方ごとに異なるので、試行錯誤でやっていくしかなく、経験を積むことによって、適正な数に落ち着いていくのではないか。
- 召喚する人数は、理由なし忌避をどの程度認めるかによるだろう。
- 裁判員になって欲しい人を選ぶのではなく、なってはまずい人を外していくというのが本来の考え方ではないか。
- なって欲しい人を選ぶのと、なってはまずい人を外すのは、結果的には同じであるが、母数の多い方が相対的に適切な人が残る可能性が高い。
- 理由なし忌避は、ふさわしくない人を排除する仕組みであるので、ある程度の数がいた方が望ましい。職務に就いてもらわずに帰ってもらうのは、失礼といえば失礼な感じはするが、来てもらうこと自体が重要な仕事であり、大事な責務を果たしてもらうということである。その意味で、たたき台2(5)では裁判員経験者と裁判員候補者の経験者とでその後辞退できる期間に差を設けているが、同じ扱いにすべきである。
- 裁判員候補者の数は、選任手続全体をどのように構成していくのかということにかかわってくる問題であり、他の部分との関連で考える必要があろう。
イ 検察官及び弁護人に対する事前の情報開示について(たたき台2(8)イの関係)
- 検察官と弁護人の間で情報量に差が出ないように配慮した上であれば、事前の氏名開示はあってもよい。
- 質問手続で当事者も裁判官の許可を得て直接質問できるという制度であれば、当日に当事者が候補者の情報の開示を受けるとすることでよい。たたき台2(8)イ(イ)は、B案でよい。選定手続は重要であり、当事者があらかじめ豊富な情報を得ておくことが有益という考え方もあるが、裁判員候補者のプライバシーの問題や当事者が実際にできることを考えると、当日に候補者の質問票に対する回答の写しを当事者に閲覧させることでよい。ただ、召喚する候補者の数や事件によっては、一律に短期間としては不都合な場合もあるので、場合によっては、裁判所の判断で、時間的な余裕をもって事前に開示するということもあり得るかもしれない。
- たたき台2(8)イ(イ)は、B案が相当である。たたき台2(8)イ(ア)の事前の氏名開示は、あまり早く行うと、検察官や弁護人が何らかの調査をすることになるだろうが、手続に現れてこないところで、好ましい裁判員を選ぶために調査が行われるということは、妥当でない。基本的には、選任手続は、ふさわしくないものを外していく手続とすべきであり、事前の氏名開示はあまり早く行うべきではない。
- 氏名の事前通知は当然必要であり、ある程度事前に行う必要がある。事件記録などから事件関係者かどうかを見る必要があるので、記録の分量などによってはあまりに短い期間だと形式的なチェックも不可能になる。たたき台2(8)イ(イ)は、B案が相当である。
- 記録との照合は、弁護人は開示証拠についてしかできないが、検察官は非開示のものについてもできるという違いがある。
- 外から見たときに弁護人の方が不利になっていると見えると問題であるが、記録との照合であれば、それほど不公平ではない気もする。
- 大都会と地方とでは事情が相当違うのではないかと思われるので、その点への配慮も必要になるのではないか。
- (10) 質問手続
たたき台の「2(9)質問手続」に関し、主として、以下のような意見が述べられた。
- ア 質問手続について(たたき台2(9)イの関係)
- たたき台2(9)イ(イ)については、当事者としては自分で質問し判断したいはずであり、他人である裁判官の質問に基づいて判断するのは本来の在り方ではない。また、たたき台の案では、当事者が聴きたいことをすべて裁判官が質問してくれるとは限らないので、質問の必要性まで示さないと適切な判断がされないおそれも生じ、手続的に面倒なことになる。当事者が裁判員候補者に直接質問できることとすべきであり、これによって、理由なし忌避の適切な行使が可能になる。当事者の質問を認めると、手続の進行が阻害されるという意見があるが、時間的な制限を設けることなどにより、そのような事態が生じることを防ぐことは可能である。
- 基本的には、たたき台2(9)イ(イ)の案が、相当である。当事者が質問することとすると、どうしても質問手続が長引くし、また、各当事者にとって望ましい判断をするのではないかと想定される裁判員を積極的に選別していく、あるいは、忌避権を戦略的に行使する事態を招くことにつながるおそれがある。質問票と裁判官を通じた質問によって、忌避権を適切に行使するための素材を得ることは十分可能である。
- 質問手続が重いものになり、時間がかかると弊害が生じるので、当事者に直接質問する権利を与えるのは適当でない。ただ、当事者がどうしても質問したいものに限って、適切な理由があれば裁判官が適当なものを選んで、質問することを許すことはあり得る。
- アメリカでは、質問事項は裁判官だけで決めているわけではなく、事前に両者と話し合って決めており、そういう形を取れば、既にそのような要請を満たしていると言えるのではないか。
- 事件の情報は裁判官より当事者の方が持っているのだから、理由なし忌避制度本来の機能を実効あらしめるためには、当事者の質問を認めることが必要である。ただ、質問手続が長引いたり、戦略的になることを防ぐための仕組みは必要であり、裁判官の許可にかからしめることが考えられる。アメリカでは、原則的に裁判官が質問する形になっている所でも、当事者にも質問を許している法域がある。
- 裁判官が許可するという制度の場合、どのような場合に許可するかを定めることは可能か。
- 同じ質問であっても、質問する者によって声の調子や抑揚も違うので、それに応じて被質問者の対応は異なるのであり、こういう場合は当事者が質問した方がいいという問題ではない。
- 証人尋問における主尋問、反対尋問のような場合については、質問する者によって証人の応答が異なり得るということは理解できるが、質問手続は公正な裁判体を構成するために行われるものであり、証人から供述を引き出したり、弾劾したりする証人尋問とは同列に論じることはできない。
- 裁判官が当事者に質問することを許可する場合としては、事件関連の情報は裁判官は持っていないので、事件関連の質問が考えられる。例えば、ドメスティックバイオレンスの事件であれば、その事件の内容との関連での質問である。
- その質問を、あらかじめ当事者が裁判官に申し出て聴いてもらうということでは本当に不都合があるのか、疑問が残る。また、事件関連の質問になると、かなり踏み込んだ質問になり、妥当性を欠くことにならないか。
イ 裁判員及び補充裁判員の選任について(たたき台2(9)ウの関係)
- 裁判員及び補充裁判員の最終的な絞り方については、理由なし忌避を尽くすというやり方にこだわらず、決められた数の理由なし忌避の後に残った候補者を無作為抽出で選定するという方法もあり得る。その場合の無作為抽出の方法としては、くじによる方法、あるいはあらかじめ決めておいた番号順とする方法が考えられる。
- 理由なし忌避を尽くすというやり方は、せっかくくじで無作為抽出したにもかかわらず、当事者による選別を認めすぎることにならないかとの懸念がある。
- 残った候補者はくじで選定することが相当である。理由なし忌避だけで最後まで絞り込んでいくというのは、戦略的になり適当でない。
- 選任手続は、当事者に都合のいい人を選ぶのではなく、ふさわしくない人を外していく手続であるので、理由なし忌避で最後まで絞り込むというのは望ましくない。最終的な無作為抽出の方法は、くじによる方法もあり得るし、あらかじめ決めた番号順とする方法も考えられる。
- 相当数の裁判員候補者を召喚すべきであるので、最後まで忌避で処置するというのは、なかなか困難であるし、忌避の数が多すぎる嫌いがあるので、最終的には、くじあるいはあらかじめ決めた番号順で決めるのが相当である。
- 最終的には無作為抽出、どちらかと言えば、くじで選定する方が望ましい。
ウ 質問手続の出席者について(たたき台2(9)アの関係)
- 被告人にも忌避権があるのだから、被告人同席を原則とし、不相当な場合には同席させないこととすべきである。
- たたき台の案が相当である。質問やこれに対する応答の内容は、すべて被告人に聞いてもらうまでの必要はないし、場合によっては、一般国民である裁判員候補者のプライバシーにわたる事項も含んでいるから、顔を見てもらう必要がある場合など必要なときだけ出席してもらえば足りる。弁護人と被告人との間で意思疎通ができていれば、弁護人がそれに基づき質問を求めることで足りる。
- 被告人に個人情報を聞かせたくないのであれば、裁判官がその場でコントロールすればいいのではないか。
- 質問内容がプライバシーにかかわる事項に及ぶことは多く、その都度、原則として同席することとした被告人に外してもらうのは、原則例外が逆転していることにはならないか。
- 顔見知りかどうかは被告人にしか判断できないのであるから、支障のある場合だけ退席してもらうのが相当であり、原則同席にならざるを得ない。
- 顔を見なければ分からないということであれば、必要性があるので立ち会わせればよい。それ以外の場合には、どうしても同席させなければならないということはないだろう。
- たたき台は、被告人が裁判員候補者の顔を見て確認する場合を2(9)ア(イ)の「必要と認めるとき」の一つの例として想定しているが、顔を確認するためにずっと同席するまでの必要はないという理解に立っている。
- たたき台の案が相当であり、被告人はずっと同席しているまでの必要はない。ほとんどの質問は弁護人を通じてしてもらえば足りるし、裁判員はプライバシーにわたる事項を聞かれたくないだろう。あらゆる場合を想定することは不可能なので、必要と認めるときには同席できることとすればよい。
- (11) 次回以降の予定
- 次回(9月12日)は、引き続き、刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入に関する検討を行う予定である。
(以上)