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裁判員制度・刑事検討会
裁判員制度・刑事検討会(第28回) 議事概要
(司法制度改革推進本部事務局)
※速報のため、事後修正の可能性あり
1 日時
平成15年10月28日(火)13:30~18:05
2 場所
司法制度改革推進本部事務局第1会議室
3 出席者
(委 員)
池田修、井上正仁、大出良知、清原慶子、酒巻匡、四宮啓、髙井康行、土屋美明、樋口建史、平良木登規男、本田守弘(敬称略)
(事務局)
山崎潮事務局長、大野恒太郎事務局次長、古口章事務局次長、松川忠晴事務局次長、辻裕教参事官
4 議題
「刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入」について
5 配布資料
資料1 考えられる裁判員制度の概要について
資料2 考えられる刑事裁判の充実・迅速化のための方策の概要について
資料3 「考えられる裁判員制度の概要について」の説明
資料4 刑事裁判の充実・迅速化についての意見募集の結果概要
6 議事
配布資料1「考えられる裁判員制度の概要について」(以下「座長ペーパー」という。)に沿って、刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入について議論が行われた。
議論の概要は以下のとおりである。
(1) 裁判官の員数
裁判官は1人ないし2人とすべきであるとの意見の理由として、「新たな制度を採用するのだから新しい発想で制度設計すべきである」ということが挙げられているが、そのこと自体は、裁判官を1人ないし2人とすべきという積極的な根拠にはならないと思われる。これ以外に、そのような結論を導けるだけの積極的かつ実質的な理由があるのか。
裁判官を1人とすると陪審制度に近くなり、裁判官を3人とすると現行制度の改良というイメージになると思うが、裁判官を2人とするのは、妥協案を採るということではなくて、独自の意味、理念があると思う。裁判員制度において裁判官が果たす役割は、裁判の進行整理と判決書の作成が中心になると考えれば、その二つの役割を2人の裁判官で分担するという考えには合理性が認められるのではないか。裁判員制度の対象とならない法定合議事件では、法律判断を3人の裁判官が行うこととの整合性が取れないとの指摘があるが、裁判官の数ではなく意見の質が重要なのであって、裁判官が3人から2人に減ったからといって、判断が甘くなることはないだろう。
裁判官を2人とする「独自の理念」とは何か。
裁判員制度の理念は、裁判官と裁判員が協働して妥当な判断に至るということであり、裁判官の人数の多少だけが制度の在り方を左右するわけではないだろう。
それでは裁判官を2人とする独自の理念の説明になっていないのではないか。
今の意見の趣旨は、裁判員制度における裁判官の役割から、裁判官の員数を2人と導くという考え方を述べられたということではないか。
私は、司法制度改革審議会意見の趣旨から裁判官の員数を考えるべきという立場であるが、座長ペーパーの説明の4ページで引用されている審議会意見の趣旨から、裁判官を3人とする結論が導かれるのかどうか疑問である。座長ペーパーは、裁判官のみの合議体が3人で構成されることとのバランス、適正な判断の確保、裁判官を2人とした場合には意見が分かれたときの解決に窮することなどを理由に、裁判官の員数を3人とする案を示したのだと思うが、私の理解では、審議会意見は、法律のプロである裁判官がプロとしての知識・経験を裁判員に提供することを期待しているのであって、基本的には、ベテランの裁判官が1人いれば十分であるし、1人では負担が重いということであれば、2人で役割分担することもあり得ると考えている。つまり、裁判官を2人とするのは、現在の3人から1人減らすという考えではなく、新しい制度にふさわしい員数を考え出したということである。
裁判官のみの合議体とのバランスに関しては、そもそも、現行制度における合議体と比べるのが相当であるのか疑問であり、むしろ、第一審の役割は何であるかということを考慮すべきである。第一審の役割は、事実認定をきちんとして、適正な量刑を決定するということであり、だからこそ、現行制度の下でも、法定刑の重い事件については、裁判の結果の重大性にかんがみ、事実認定と量刑判断に慎重を期すために、法定合議事件として裁判官3人で審理することにしているのだろうが、新たに導入される裁判員制度では、第一審に相当数の国民が参加することになるのだから、今までのように裁判官を3人とする必要はなくなるだろう。他方、法律問題に関しては、法定刑が重いからといって法律問題が難しくなるとは言えないし、法律問題の判断に当たっては、判断材料として用いる資料に制約がないから、法律のプロである裁判官2人が徹底した議論をすれば、適正な判断に到達できるだろう。また、法律問題は、上訴審での審査の対象になることも、裁判官を3人とする必要性のない理由となるだろう。
座長ペーパーの説明で審議会意見を引用したのは、裁判官を3人とするという結論を導くためではなく、一部の委員が主張する、「裁判員制度の下では裁判員が中心となって裁判を行い、裁判官はそれをサポートする」という考えが、審議会意見の考えとは異なることを示すためである。審議会意見が提言している裁判員制度は、裁判員と裁判官とが、お互いに異なるバックグラウンドを持ち寄って一つの裁判体を構成し、協働して裁判を行うというイメージであることは、引用部分から明らかであると思う。
今の御意見は、結局、「新しい発想をすれば」裁判官は2人でもよい、という意見を繰り返しているだけである。
裁判官のみの合議体とのバランスに関しては、座長ペーパーの説明では、既存の制度とのバランスについて論じているのではなく、裁判員制度を導入した後の、我が国の新たな裁判制度全体の中で、裁判員裁判での裁判官を2人とするのが整合的であるのかということを疑問としているのである。
また、今の御意見では、第一審の機能を、事実認定と量刑に絞っているが、そうは言えないだろう。現行の法定合議事件で裁判官の数が3人とされている趣旨は、法定刑の重い事件では、裁判の結果として重い刑が科され得ることから、事実認定、量刑判断と法律判断のいずれをも慎重に行う必要があるということであり、そうだとすると、法律問題の判断は裁判官のみで行うこととされている裁判員裁判で、裁判官の数を2人とするのが相当なのか、という問題を提起しているのであるが、これに対して、裁判官は2人とするのが相当であるという積極的な理由はなお示されていない。
裁判員制度では、法律判断は裁判官のみで行うこと、裁判員が加わらない法定合議事件が残ることなどを考慮すると、裁判官は3人とするのが適切だと思う。
裁判官の果たすべき役割は、裁判の進行整理と判決書の作成だけではなく、法律判断もかなり大きな割合を占める。法律判断があるからこそ、それを前提とした事実認定や量刑判断もできることになるし、また、裁判官は、第一審から違憲立法審査権を行使して、法令の憲法適合性を判断するという重要な役割も担っている。訴訟の進行についても、裁判官は、単に進行役を務めるだけではなく、例えば、違法収集証拠の問題など、裁判の結論を左右する重要な判断を行っている。さらに、裁判官を2人とすると、意見が分かれた場合に評決に窮することにもなるから、裁判官を2人とするのは適当でない。
意見書の趣旨に関して、裁判官を裁判員のサポート役とみなす解釈はとても承服できないし、裁判官が2人でなければならないとする積極的な理由は未だ示されていないように思う。
また、諸外国における裁判官の人数や陪・参審員の人数は、それぞれの国の刑事司法制度の中で、異なる前提条件の下で定まっているわけで、単に結果の部分だけを比較して、ドイツでは裁判官が2人であるなどと指摘しても、全く説得力がない。ドイツの参審制度では、参審員も法律問題の判断に加わっているのであり、法律判断は裁判官のみで行うこととされている我が国の裁判員制度の設計に当たり、参考とすることはできない。
裁判官が2人でなければならないとは言えないとしても、2人でもよいということは言えるのではないか。法律問題の判断について、裁判官が最終的な判断を下すとしても、裁判員の意見を聴取することは排除されておらず、必要に応じて裁判員の意見を求めるという協働の在り方もあり得ると言える。協働の在り方として、裁判官と裁判員に求められる役割がそれぞれ何であるのかをトータルで考えるべきであり、そういう観点から裁判官と裁判員の員数のバランスを考えていけば、裁判官が3人でなければならない積極的な理由はないだろう。裁判官を2人とした場合、意見が分かれた場合の評決が困難になると指摘されているが、評決方法について一定のルールを決めておけば解決できるのだから、裁判官2人説を否定する決定的な論拠とはならないだろう。
御意見は、事実認定と量刑判断だけでなく、法律問題の判断についても、裁判員が裁判官を代替できるという趣旨に聞こえるが、その点については議論が必要だろう。また、法律問題の判断について、裁判官が3人いる必要はないと主張されているが、果たしてそう言えるのだろうか。
私は、裁判官を2人としてはならず、3人としなければならないと思う。法律問題の判断についても裁判員が裁判官を代替できるという意見は、これまでの我が国の司法制度を否定するものであり、暴論と言わざるを得ない。
経験上、2人で議論する場合には、すべての論点を網羅することは難しいのに対し、3人で議論する場合には、論点の見落としが少なくなると言える。したがって、2人の議論による結論は、信頼性に欠ける不安定なものであって、法定合議事件は裁判官3人で合議することとされていることは、理由のあることと思う。法定合議事件は、その判断の及ぼす影響が、単独事件よりもはるかに大きいのだから、論点の見落としが少なくなるような仕組みで行わなければならず、裁判官の員数は3人でなければならない。
法定合議は、事実認定、量刑判断及び法律判断のそれぞれを慎重に行うための制度として、これまでうまく機能してきたのであり、これを変更して裁判官を2人とする積極的な理由はない。法律判断は、誤りがあっても上訴審で審査できるとの指摘があったが、第一審で確定する事件も多いのだから、その点が裁判官を2人とすべきとの理由にはならない。
現在でも、単独事件では法律問題の判断を1人で行っており、それが機能していないわけではないだろう。そうしたことをも前提としながら、裁判員制度における裁判体の構成をトータルで考えるべきであり、場合によっては裁判員から法律問題について意見を聴くことも前提として、裁判体の構成を考えるべきである。
裁判官の意見が分かれるような難しい法律問題について、裁判員から意見を聴けば解決できるという見解は、全く了解不能である。
法律問題について、最終的には裁判官が責任を持って判断しなくてはならないという点を重視するのか、それとも、法律問題についても市民の声を反映させれば自ずと適正な判断に至ると考えるかで、意見が食い違っているのだろう。しかし、現在の法定合議の制度は、判断の結果が重大であるから、法律問題も含めて慎重に判断すべきという考えに基づいており、単独事件では裁判官が1人で法律判断をしているから、というのは、現在の法定合議の制度の考え方そのものを否定するものであり、積極的な反論になっていない。
法律問題について、国民の意見を聴くということが、どれだけの重みを持ち得るかという問題だろう。
複雑な法律問題について争いになった場合に、国民の意見を聴くことで解決できると、本当に考えているのか。
法律家が法律問題を国民にどう説明するかにかかわる問題だろう。
例えば、法律解釈について、複数の説のいずれを採るかが争いになった場合に、A説、B説、C説とすべて裁判員に説明して、それを前提にして事実認定をしてもらうということはできないだろう。最終的には、裁判官がいずれの説を採るかを決定しないと裁判できないのであって、裁判官が2人では、法律問題について適正な決定ができないのではないか、ということが問題とされているのである。
私は、法律問題についても、国民に議論に参加してもらうことによって、適正な判断に至ることができると考えている。
そう考えるのであれば、法律問題についても、裁判員に最終的な判断権を与えればよいのではないか。なぜ、与えられないのか。
私は、裁判員に法律判断の権限を与えることに反対しておらず、権限を付与することもあり得るだろう。
私は、裁判員の加わる裁判体については、裁判官は2人でよいと主張しているのであり、現在の法定合議事件についても裁判官の数を2人にすべきとは言っていない。私は、裁判官は法律のプロであるから、法律問題の判断は2人でできると考えているが、法定合議事件では、法律問題の判断だけでなく事実認定と量刑判断という重要な役割もあるので、3人必要となる。
プロだから法律問題の判断は2人でできるという根拠は何なのか。
裁判官は、法律のプロなのだから、1人でも大丈夫なはずである。
その見解は、現在の法定合議制度の重要な部分を否定することになるのではないか。
否定することにはならないと思う。法定合議事件は、法定刑の重さを基準に決められている。
法律解釈が有罪無罪を左右することもあるという点を軽視しすぎているのではないか。
抱いている裁判官像が違うのかもしれない。私の理解では、日本の憲法は、裁判官が一人前であることを想定している。
それは別問題であろう。委員がよく援用される、「主観性を持ちよることによって客観性に到達する」という考えは、法律問題についての合議にも当然に当てはまるのであり、個々の裁判官の価値観や体験を反映したそれぞれの解釈をぶつけ合うことによって適正な結論に到達するという点では、事実認定も法律解釈も違いはないのではないか。
それは違う。法律問題についての多様な視点というのは、判例や学説など、多くの資料を参照すれば得られるのであって、個々人のバックグラウンドは重要にならないだろう。
法律の解釈について、徹底的に議論をして、相手を説得するという苦労を経験したことがあれば、そのようなことはとてもいえないと思う。
裁判官が2人では、議論の際に論点が見落とされるおそれがあるとの指摘があったが、裁判員事件では、準備手続であらかじめ争点が整理されるので、論点の見落としを懸念する必要はないだろう。
我が国の司法制度の中で、法定合議事件は裁判官3人で合議することとされていることの趣旨を踏まえつつ、重大事件を対象とする裁判員裁判で裁判官を2人に減らすことができるかを考えると、法律問題の判断について裁判員は裁判官を代替することはできないのだから、裁判官を2人にすることはできないということになる。
事実認定と量刑判断について、裁判員と裁判官とは代替可能なのかという点についても疑問とする余地がある。事実認定の能力は皆同じで、裁判官と裁判員とは代替可能だという単純な見方もあるが、両者はバックグラウンドが異なり同じではない。しかし、そうであるからこそ、異質のものが組み合わさることによって、より良いものが産まれると考えるべきなのではないか。
裁判官も個々人は異なっているけれど、職業は同じなのだから、裁判員が加わる裁判では、3人いる必要はないだろう。
裁判官は法律のプロだから3人いる必要はないという議論を突き詰めると、裁判官は1人でもよいということになるが、裁判官が1人となると、裁判官及び裁判員のそれぞれ1名以上の賛成を必要とする評決要件と併せて、事実上、1人の裁判官に拒否権が付与されることになってしまい、適当でない。
それは、裁判官を1人とすることの帰結ではなく、裁判官及び裁判員のそれぞれ1名以上の賛成を必要とする評決要件の帰結ではないか。
なぜそのような評決要件が必要とされるかというと、裁判官と裁判員とは代替不可能であるということが前提となっているからである。私は、事実認定と量刑判断についても、両者は代替不可能であると思うが、裁判員制度は、プロの視点だけで判断することによる弊害を除き、アマチュアの視点を採り入れることでよりよい裁判制度にするという発想で導入されるのだろう。私は、裁判官による事実認定は、裁判員の事実認定によって代替可能だということが広く言われることで、裁判官の責任感やプロ意識が鈍磨していくことを危惧する。
現行制度の下でも、法定合議事件の裁判官が3人とされているのは多すぎるという意見もあるようだが。
裁判官のみで審理するのであれば、3人でよいだろう。
基本は裁判官2人として、難しい法律問題がある場合、あるいは意見が分かれて評議が行き詰まった場合には3人に増やせばよいという議論もあるようだが。
難しい法律問題の有無が審理の前から分かるわけでなく、そのような制度は不安定であり不適当である。また、途中で裁判官を1人加えるという制度では、手続の更新が必要になるなど、迅速な事件処理ができなくなり、現実的でない。
裁定合議事件のように、単独事件を合議事件とすることはあり得るが、手続の途中で裁判官を増やすのは問題だろう。
途中で問題が発生したら裁判官を1人加えるという制度は、手続の更新に要する手間を考えると現実的でないし、そのような便宜的な発想で制度を考えること自体がそもそも適当でない。
法定合議事件で裁判官が3人とされている趣旨は、事実認定と量刑判断について慎重を期すことであるとの発言があったが、そのように考える根拠は、法定合議事件が法定刑を基準に定められているから、ということか。
法定刑が基準になっていることと、第一審の主要な役割が事実認定と量刑判断であることである。私の理解では、事実認定と量刑判断については、第一審の判断が尊重されるべきであるのに対し、法律判断というのは、上訴審の判断が重視されるべきものである。
法定刑が基準になっているから、というのも理由になっているのか。
法定合議事件は、法定刑の重さが基準になっているということも一つの理由である。
法律判断の誤りは上訴審で正せばよいのであって、第一審を合議体にしている趣旨は、もっぱら事実認定と量刑判断について慎重を期すためであるという趣旨か。そして、事実認定と量刑判断については、裁判員が加わるのであれば、裁判官の員数を減らしてもよいということか。しかし、法律問題についても、上訴審があるからということで済ませられるのか。
そこは、見解が相違する点なのだろう。
法律問題については、必ずしも合議制を採る必要はないという理解だとすると、高等裁判所はなぜ合議制となっているのか。
高等裁判所では、色々な法律問題について、統一的に判断しなければいけないからだろう。
委員の意見によれば、裁判官1人でも判断を統一できることにならないか。
全国の地方裁判所から集まってくる複数の判断を最終的に統一していくのだから、裁判官が複数の方がよいのではないか。
高等裁判所では、裁判例が分かれている場合に判断を統一するということだけではなく、一つの地方裁判所でしか判断していない問題についても判断することがあるのだから、高等裁判所の機能は複数の判断の調整や統一に限られないのではないか。
そのような判断も判例法としての価値を持つことになるので、高等裁判所は合議制とされているのではないか。
そうすると、裁判官はプロだから法律判断は1人でできるという、先ほどの説明と矛盾するのではないか。
第一審の法律判断と、上訴審の法律判断は意味が違うということだろう。
上訴審の判断には規範性、一般性があるということか。
そうである。
それは、第一審を軽視する考えではないか。
第一審の機能として、事実認定及び量刑判断と、法律解釈とを、そんなにはっきりと区別できるのか。法律解釈で有罪・無罪が決まってしまうこともあるだろうし、上訴審があるから法律解釈については上訴審で争えばよいというのは、制度としておかしいのではないか。そんなことでは、当事者はたまらないだろう。
感覚が違うということだろう。
裁判官2人説を採った場合に、意見が分かれたときの評決方法については、以前の議論で、裁判長が決めるという方法と、被告人に有利な意見を採ればよいという案が示されているが、この点についてもう少し議論をしていただきたい。
先ほど、裁判官2人の意見が分かれた場合の対処方策として、評決方法のルールを決めてしまえばよいとの指摘があったが、どのようなルールを決めるのか伺いたい。私は、ルールを決めることはできないと考えている。
最終的には、裁判長の判断に従うということでよいのではないか。
そうすると、法律問題については、議論の前から最終的な判断が決まることになってしまうが、そのような制度は不合理である。
議論をして裁判長を説得すればよいのだから問題ないだろう。
裁判官は一人ひとりが同じ立場であるはずなのに、どちらも相手を説得できなかった場合に、一方の意見が必ず優越することになってしまうということが問題視されているのである。
裁判官は、憲法上、裁判長であろうが判事補であろうが、法律解釈については、完全に独立した地位にあるのだから、裁判長の判断を常に優先するような制度は不合理である。
合議により結論を出す以上、意見が分かれた場合には、個々の裁判官の意見は最終的に通らないこともあるのだから、それと同じことではないか。
誰の意見が通るか分からないという前提で議論をして多数決で結論を決めるのと、裁判長という肩書きによって意見の優先順位が決まってしまうのとでは、事柄の性質が全く異なっている。
最初から議論の行方が決まっていては、評議の場で活発な議論が期待できない。そのようなことになるなら、最初から裁判官を1人とした方がましだろう。
裁判官の独立が保障されているからこそ、そのような評決方法をとっても議論が成り立ち得るのではないか。
理念だけで議論せずに、もっと現実的に物事を考える必要があるのではないか。
裁判官を2人とした場合の評議のルールは、まず、立証責任で解決できる問題は立証責任で解決し、それで解決できない問題であれば裁判長の意見を採ればよいと思う。例えば、自白の任意性の有無について意見が分かれた場合は、任意性があることの立証責任は検察官にあるから、検察官に不利な結論を採るということになるだろう。そして、そういった方法で解決できない問題については、裁判長の判断に従うということもあり得るだろう。この問題は、合議体で議論をして、意見が一致しなかった場合にどう解決するかという問題であり、そうした場合の解決方法としては、全員一致制、多数決制など様々な方法が考えられるが、この場合には、裁判長が決定するという仕組みとすることもあり得るだろう。また、裁判官が意見を言わなくなるのではないかという指摘は、裁判官に対して失礼ではないか。評議の結果として意見が通らないとしても、それは裁判官の独立とは別の問題だろう。
委員は、結局、評決のルールを決めればよいということしか言っておらず、そのルールの中身の合理性・正当性に対する疑問には何も答えていない。自白の任意性については、その定義がはっきりしているのであれば、挙証責任がある方が挙証しなければならないのは当たり前のことだが、仮に、自白の証拠能力についての法解釈が分かれたら、それは挙証責任では決められないだろう。そういう場合はどうするのか。
挙証責任で解決できなければ、裁判長の意見に従うことになる。
そうすると、結局、裁判長の意見に従うとする制度に合理性があるのかが問題となる。
合議において裁判官の独立が保障されていることが、良い裁判に結びつくということを理解してもらいたい。合議では、理屈で相手を説得しなければならず、お互いが、相手を説得するために努力をするから議論が深まるのであって、最初からどちらの意見が優越するか決まっていたら、議論は決して深まらないだろう。また、立証責任の有無で解決できない問題も数多くある。
昭和30年代に、民事裁判で2人合議制の採用が検討されたことがあるが、結局これは見送られているし、昭和40年代に参与判事補制度を開始した際には、弁護士会から、2人合議制に近い制度であり問題であると反対された経緯がある。それにもかかわらず、今となって、2人合議でもよいと主張されるのは理解に苦しむ。
法律解釈の問題の多くは挙証責任では解決できないし、「疑わしきは被告人の利益に」という基準を適用することもできないので、こうした基準をもとに評決のルールを定めることは適当でない。
(2) 裁判員の員数
裁判体の構成は、刑事司法制度の核心部分であり、合理的に説明できるものであることが望ましい。裁判官と裁判員とは、事実認定と量刑判断について同等の能力で判断し、両者が対等な立場で協働して裁判を行うという裁判員制度の前提を基に考えると、両者の数は同数として、裁判官3人に対して裁判員も3人とするのが合理的である。裁判員の数をそれ以上増やすというのは、素人である裁判員がプロである裁判官に意見を言いやすくするため、という、感覚的、政策的な意見であり相当でない。裁判員が意見を言いやすくするという観点は重要であるが、これには、裁判官がそのような評議の環境の醸成に努めることで応えるべきだろう。
論理的にも、裁判官と裁判員とが対等だということから人数も同数とすべきだということまでは導けないだろう。確かに、両者の員数に余り差があると、「対等」とは言いづらくなるだろうが、全く同数でなくてはならないという必然性はない。また、裁判員の員数については、同じ立場の人がある程度いた方が発言しやすいという議論もあり得ると思う。座長ペーパーは、そうしたことをも考慮して、一つの案を示したものである。
裁判官が3人であることを前提として、裁判員の員数は3人又は4人程度とするのが適当と思うが、評決要件を多数決とすると、合議体全体の人数は奇数が望ましいから、裁判員は4人とするのが適当ではないか。
座長ペーパーの説明では、評議の実効性を確保するために適当な合議体の規模についての様々な意見が、極めて感覚的なものであることが認められているようで喜んでいる。
また、控訴審に対する判決内容の説明に関し、事実認定ないし推論の道筋が明示される必要があると指摘されているが、控訴審に対する判決内容の説明が、裁判員の員数が増えることによって不十分となるのか疑問に思う。この問題は、裁判員の員数にかかわる問題ではなく、裁判長が評議の論点整理、進行をいかに管理するかにかかわることであって、プロである裁判官がしっかりしていれば、裁判員の数がある程度多く、10人程度となっても大丈夫だろう。
座長ペーパーの趣旨は、合議体の人数が8~9人となると評議の実効性を確保することは難しいかもしれないという危惧をも含んでおり、個人的な感覚では7人でも大変だと思われる。経験上、合議により詰めた事実認定をして、それを文章化する作業は、大変時間がかかり容易ではないというのが実感である。
私の経験に基づく個人的感覚では、逆の印象である。
例えば、12人で構成されるフランスの参審裁判の例などを考えれば、大勢で詰めた評議を行うことが困難であることが理解できよう。フランスの参審裁判では、おおまかな設問につき、各人が意見を固めた時点で、無記名投票による多数決で結論を導いており、判決書にもその結論に至る実質的な理由は示されない。このような例を踏まえると、合議体の規模を大きくした場合に、判決の結論に至る事実認定や推論の筋道につき詰めた評議ができるのかは疑問である。
その点については、見解が違うということだろう。
緊密な合議をした上で、上訴に備えた判決書を書くためには、合議体の人数は余り多くない方が望ましい。私の知る限り、フランスの判決書は極めて簡潔なものであって、これに基づいて上訴することは不可能だろう。
評決の方法を、多数決、かつ、裁判員及び裁判官のそれぞれ1人以上の賛成を要するものとすることからして、裁判官と裁判員とを、それぞれ3人とするのが最も自然である。裁判員をそれ以上増やすとしても、評議の実効性を維持するためには4人が限界で、5人、6人というのは難しいと思う。3人の合議体での評議に、4人の司法修習生を加えて議論することがあるが、4人が加わっただけでも、個々のメンバーの考えをすべて把握するのが難しくなって、実効的な評議が困難となる。合議体の人数が8人、9人となっては、議論を深めることができなくなって、判決書で実質的な判断を示すことが困難になるのではないか。
この問題については、裁判員となる一般の国民についてどういうイメージを持つかということと、裁判員制度における裁判書についてどういうイメージを持つかによって、相当見解が違ってくるだろう。日本の司法制度は精密司法と言われていて、詳密な事実認定が行われており、それを前提とした評議が行われている。そういう意味では、前提の異なる外国の制度に言及しても余り意味がないのではないか。それでは、どれくらいの規模であれば詰めた議論ができるかというと、私は8人くらいが限界かと思う。また、裁判官と裁判員とでは、事実認定の能力は対等であっても、論理的な議論をして相手を説得する能力は一般的に対等とは言えないので、裁判員の数を多少多くして、5人とするのがよいのではないか。
裁判官の員数を3人とすることを前提として、評議の実効性を確保するためにも、裁判員の員数は裁判官と同数程度にすべきだろう。また、評決方法を多数決とするのだから、合計人数は奇数が望ましく、裁判員4人というのは有力な考えだろう。また、裁判員制度を実際に動く制度とすることが肝要であり、検察審査会制度で検察審査員を集めるのに苦労していることをも踏まえると、多くの国民に裁判員を務めてもらうことは容易でないという現実をしっかりと見据えた上で制度設計をしなければならず、さもなくば、裁判員が集まらずに裁判体が組めないという事態にもなりかねない。
合議体の人数についての意見は、どうしても感覚的なものにならざるを得ないのだろうが、私は、10人前後までは許容範囲内だと思う。裁判員は、一人ひとりが裁判官と同じ量の発言をするのは難しいのだから、裁判員のトータルでの発言量が、裁判官と同程度となるように、裁判員の数を増やすべきだろう。
評議のまとめ方についてのイメージが、各委員で異なっているのではないか。意見が分かれた場合に、投票して決めてしまえばよいと考えるのか、それとも、お互いに納得するまで議論を突き合わせるのかということで、前者のイメージであれば、合議体の規模がある程度大きくなっても大丈夫ということになるのだろう。
判決書の在り方が、今のままの詳細なものでよいのかということについても検討が必要だろう。上訴に耐え得る判決書の内容である必要があるとしても、議論を詰めていくための手段として、投票と、全員から意見を聴くこととを併用するという方法もあり得るだろう。
今、議論しているのは、評議でどのように議論を詰めていくかということであり、最後は投票で済ませてしまえばよいと割り切れるのかどうかということである。
評議のまとめ方と人数の問題とは直接には関係しないのではないか。私は、裁判員が10人前後であっても、議論を十分に詰めることはできると考えている。
合議体の人数の問題を検討する上で、判決書の書き方を再検討するというのはどういう意味か。
合議体の人数が多くなると上訴審の審査に耐え得るだけの詳細な判決書が作成できるのかという点を懸念する見解が示されたので、現在のような詳細な判決書を前提とするべきなのか議論の余地があるということを申し上げたのである。
評議の実質が上訴に耐え得るほど詰められていなければ、判決書の書き方を工夫したところで上訴に耐え得るものになることはない。
証拠の評価について、現在の判決書ほど詳細に理由を書く必要があるのだろうか。
評議の内容を実質的に詰めなければいけないという問題と、判決書の書き方を工夫する問題とは別問題である。
評議の実質についてはきちんと詰めるべきという前提は共有されているのだろう。
評議で議論を詰めておかなければ、上訴審での検証を可能とするだけの実質的な理由を伴った判決書を作成することは不可能であるということが問題とされているのであって、判決書の書き方は、それとはまた別の問題だろう。
裁判官の員数については、現行の合議制の人数を改める理由は見当たらず、3人とするのが適当である。裁判員の員数については、裁判官と裁判員とが、対等な立場で協働するのだから、素直に考えれば同数程度ということになるだろう。
裁判員の員数は、6人とすべきと考えている。裁判官の員数については、法定合議事件との整合性を考え、3人が適当である。仮に、裁判員の員数が4人で動かないということならば、裁判員として参加する国民が、法律専門家である裁判官から圧迫感を受けないような比率の構成にするという意味では、裁判官を2人とすることも考えざるを得なくなる。
(3) 評決
裁判員裁判について評決要件を加重して、合議体の3分の2以上の賛成とすべきであるが、その理由は、裁判員が加わる判断に不安があるからではなく、合議体の構成員が増えることに伴い、単純多数決で決してしまうと、少数説が増えることになって、「合理的疑いを超える証明」の基準に照らして問題が出てくるのではないかと考えるからである。これに対する批判として、最高裁や、高裁の特別管轄事件では、5人又は15人による合議制が採られているのに多数決が評決要件とされているとの指摘があるが、「合理的疑いを超える証明」の基準は、基本的に事実審たる第1審で問題となると思われるので、法律問題を専ら扱う最高裁は同列に論じられないし、高等裁判所の特別管轄事件は実際にほとんど例がなく参考にならないので、評決要件は3分の2としてよいのではないか。
「合理的疑い」基準をクリアするためには、なぜ3分の2以上ということになるのか。委員の論法で行けば、3分の1以下でも異論がある以上、「合理的な疑い」が残っているということになるのではないか。
全員一致制とする考えもあり得るだろう。
現行の裁判制度の評決要件が過半数制とされているのは、合理的疑いを超えた証明がされたかどうかについての判断は、個々の構成員それぞれが行うのではなく、合議体として多数決で意思決定をして、それが合議体の判断になるということを前提としているのだと思われる。そうだとすると、少数説が増えるから合理的疑いを超えた証明がされないことになるというのは、理屈が通らないのではないか。
ドイツの参審制で、評決要件が3分の2以上とされていることと、「合理的疑い基準」とはどういう関係にあるのだろうか。
関係ない。ドイツの参審制では、素人が加わることに対して、評決要件を加重することで裁判の安定性を保っていると言われている。
要するに、合議体として、「合理的な疑い」を超えたかどうかを判定するルールが過半数なのか3分の2なのか、あるいは全員一致なのかということが問題になるのであって、その点を変更する積極的な理由は示されていないのではないか。
評決方法と、刑事裁判における合理的疑いの基準とは、論理的には関係がないだろう。
(4) 対象事件
裁判員制度が早く定着するために、できるだけ多くの人に参加してもらいたいので、対象事件数はできるだけ多い方がよい。
できるだけ多くの人に参加してもらうために、対象事件数は多い方がよいが、制度のスタートとしては、座長ペーパーのとおりでもよいだろう。ただし、一定の期間が経過した後に、国民の関心が高い罪種の事件を対象にするという観点から対象事件を見直してもらいたい。
審議会意見で、法定刑の重い重大事件が裁判員制度対象事件とされたのは、そのような事件は一般的・類型的に国民の関心が高いという考え方に基づくものである。
制度がスタートした後に、新たな観点から対象事件を見直すことはあり得るだろう。
審議会意見を前提とすれば、座長ペーパーの案が適当と考えるが、本来は、簡易な事件から対象にするのが妥当ではなかったかと思う。
座長ペーパーのとおりでよい。できるだけ多くの国民に参加してもらいたいので、そうした観点から、将来的に対象事件を見直してもよいだろう。
(5) 事件の性質による対象事件からの除外
「その他の事情」とは何か。
「裁判員又はその親族の身体若しくは財産に危害を加え又はこれらの者の生活の平穏を著しく侵害行為がなされるおそれがあること」に限らず、この例示と実質的に変わらない場合をカバーするためのバスケット条項である。例えば、恋人や親友に対して侵害行為がなされるおそれのある場合は、例示と実質的に変わらない場合として対象になり得るだろう。
「平穏」とは、物理的な平穏だけでなく、精神的平穏も含むのか。
両者をはっきり区別することはできないのではないか。
例えば、プライバシーを暴くという行為は対象になるのか。
特定の裁判員に対して侵害行為のおそれがあるというだけでは足りず、その事件を裁判員に担当してもらうことがおよそ不適当であると言えないと、対象にはならないので、現実に、プライバシー侵害という方法により、そのような場合が生じるかということだろう。
事件の性質として、プライバシー侵害が起こる蓋然性が高いかどうかで判断するということか。
端緒となるのは1人の裁判員に対する脅迫だけれども、同じことが他の裁判員にも起こり得るということでないと、「裁判員の公正な判断を期待できない」ということにはならないのではないか。
例えば、身体又は財産に対する危害が発生しかねないような事件においては、プライバシー侵害が発生する可能性は常にあると判断することも可能ではないか。
具体例が思い浮かばないが、そういうことが本当に認定できるのであれば、対象となるのではないか。
要件から「民心」が削除されたのは、過剰報道により社会全体が予断偏見を抱いていると思われる場合に、そうした事件は除外しないという趣旨を明らかにしたということか。
「民心」が外れたので、そのような事件は直接には除外の対象とならなくなった。「身体若しくは財産に害を加え」たり、「生活の平穏を著しく侵害する行為がなされるおそれがある」との例示を掲げることで、「裁判員に公正な判断を期待することができない状況」を客観的に認定しやすい表現に改めたということである。
例示で挙げられている原因とは違う原因で、全国的な予断偏見が生じた場合には、「裁判員に公正な判断を期待することができない状況がある」と認められるのか。
基本的に、「その他の事情」は例示に準ずる場面を想定しているが、解釈の問題であるから議論していただきたい。ただ、現実的には、全国民が抜きがたいほどに予断偏見を抱くというような状況は想定しにくいのではないか。
「民心」が削除されたことは妥当であるが、「その他の事情」の部分は、分かりづらい。「裁判員に公正な判断を期待することができないおそれ」の有無の判断は非常に難しく、要件をより明確にしてもらわないと運用が難しくなる。せっかく裁判員が裁判に参加するのに、裁判所の判断で裁判員裁判の対象から除外してしまうのは適当でないのではないか。
法律を作成するに当たり、将来起こりえる事態をすべて予測して法文に要件を書き尽くせるわけではないのだから、「その他の事情」といったバスケットクローズは設けざるを得ないだろう。要件の判断は確かに難しいが、難しいからこそ裁判官が判断することになるのではないか。刑事訴訟法17条及び18条の管轄移転の規定にも「民心」とあり、裁判所の判断で管轄を移転することができることになっているが、この規定は、そういう難しい問題を裁判所に判断してもらうことを前提としているのではないか。難しいから裁判所では判断できないとは言うべきでないし、実際には、誰もが納得できるような根拠がある場合にしか除外できないのではないか。
よほど例外的な場合しか除外の対象とならないという理解でよいのか。
管轄移転の規定も、適用されるのは例外的な場合ではないか。要件を明確にすべきということであれば、代案を出してもらわないと議論が発展しないだろう。
要件を明確にするため、「その他の事情により…」という部分と、「生活の平穏を著しく侵害する行為…」という部分は削除してもらいたい。
判断が難しいと言うが、除外の当否は、具体的な証拠資料に基づいて判断するのだから、そんなに難しいとは思えない。すべての例を法文に書けるわけがないのだから、「その他の事情」という一般条項を設けた上で、裁判官に判断してもらわざるを得ないだろう。
一般論として、例外的な事態では裁判員対象事件から除外する必要があるということを認めるのであれば、どのような要件を設けるべきかを議論すべきであろう。
危害が加えられる具体的な徴候はないのだけれど、裁判員に選ばれた人が嫌がらせを受けるのではないかとの深刻な懸念を抱くことが予想される事件は、それだけで除外の対象とならないのか。
座長ペーパーの案では、具体的な「状況」が認められなければ、除外の対象とはならない。
対象事件から除外する制度は必要と思うが、そもそも、何に価値をおいて除外の当否を判断するのかを考えるべきではないか。国民参加の制度だから裁判員となる機会を奪ってはいけないのか、国民の義務だから義務から容易に逃れさせてはならないのか、それとも、被告人が裁判員裁判を受ける機会を奪ってはいけないのか。そのいずれも当てはまらないのであれば、「裁判員に公正な判断を期待することができない」という懸念がある場合には、単純に除外の対象とすればよく、要件について細かく詰めて厳格に運用する必要はないのではないか。
座長ペーパーの書きぶりだと、対象から除外した方がよい事件が外れなくなるだろう。ほかの委員とは、外した方がよいと考える事件の範囲が違うのかもしれないが、私は、裁判員が深刻な懸念を抱いて正しい判断ができず、しかも、それが表に出てこない状況となることを懸念している。裁判員が深刻な懸念を抱くと思われる定型的な事件は、具体的な徴候がなくとも除外できるようにすべきであり、どのような事件が該当するかは、罪種ではなく犯罪の主体を基準に判断すべきだろう。
公訴事実の中身から、組織的に行われたことが認められるような事件は除外すべきという趣旨か。
裁判員に対して、不安を感じるかもしれないけれど、具体的な徴候がないから我慢してください、と言うのは酷だろう。裁判員制度は、組織犯罪に対して国民が前面に立って闘うことまで求めているのではないだろう。
犯罪の主体が組織的であることを特定するのは困難と思われるし、客観的な状況がないのに裁判員対象事件から除外することは、基準が不明確となって、除外の対象となる事件が広がってしまうので相当でない。除外の規定を設けるのであれば、座長ペーパーのような案が適当ではないか。
私は、座長ペーパーの案に加えて、高度の危険性が想定できる一定の事件については一律には除外すべきという意見である。
要件該当性の認定に当たっては、「裁判員又はその親族」に対する危害のおそれだけが判断されるのか。一般的に、被告人は、被害者、告訴人、告発人などに対して恨みが抱くことが多いのではないか。
危害のおそれが「裁判員又はその親族」につながってくれば、要件該当性が認定されるのだろう。親族に限らず、裁判員に影響が及び得る人への危害のおそれがある場合には認定できるだろうが、被害者や告訴人に対する危害のおそれがあるということから直ちに裁判員又はその親族にも影響が及ぶとは、当然には言えないだろう。被告人が、自分を処罰する方向で協力する者に対しては、一般的に危害を加えるおそれがあると言えるような場合であれば、認定できるかもしれないが。
そうすると、除外の対象となる事件は、相当限定されることになるだろう。
事件の類型だけを理由として、裁判員に危害が加わるかもしれないといって除外するのでは、かなり多くの事件が除外の対象となってしまい、適当でない。
現実に危険が生じるかどうかということよりも、裁判員が深刻な不安を抱くかどうかということが重要である。裁判員が不安を抱いていては、正しい判断は期待できないと思う。裁判員が著しい不安を抱くおそれのある定型的な事件については、除外する規定を別途設けるべきだろう。現在検討されている裁判員制度の案は、裁判員の氏名を明らかにするなど、裁判員の保護のレベルが低いのだから、テロ事件など、裁判員が抽象的に不安を抱くおそれのある事件については、具体的な危険の徴候がなくても対象から除外するのが相当である。
仮にそのような必要性があるとしても、適切な要件の書き方を検討しないと、必要以上に多くの事件が除外の対象になってしまうことになるので、具体的な要件の案を提示していただきたい。
座長ペーパーの案に加えて、裁判員が不安を抱くような一定の類型の事件は除外するという案に賛成する。
事件の類型に従って除外の対象となる事件を規定することができるのであれば、その方が簡明だが、そのように一般的に除外することを正当化するだけの立法事実があるといえるのか、また、そのような規定が作れるのかということが問題であろう。
(6) 次回以降の予定
次回(11月11日)は、引き続き、刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入及び刑事裁判の充実・迅速化に関する検討を行う予定である。
(以上)