(□:座長、〇:委員、●:事務局)
□ 定刻ですので、第4回裁判員制度・刑事検討会を開かせていただきます。御多忙の折お集まりいただきまして、ありがとうございます。
議事に入る前に事務局の方から事務連絡があるようですので、お願いします。
● 前回の検討会におきまして、広く国民の皆様から事務局の方に寄せられました御意見の目録を席上にお配りいたしましたが、その後寄せられました御意見について追加の目録を作成し、席上にお配りしておりますので、この目録を御確認の上、前回同様御覧になりたいものがございましたら、検討会の終了後など、適宜の機会にお申し付けいただければと考えております。
□ ありがとうございました。それでは、早速議事に入りますが、今日は前に御相談したように、刑事訴訟手続への新たな参加制度、いわゆる裁判員制度の導入に関する第1回目の議論を予定しております。
この問題は、非常に幅の広い、検討すべき事項も多い問題でありますので、まずひととおりの議論を行うのに、今日も含めて3回程度は必要ではないかと考えております。
2回目にお配りして、これに沿って議論をしようということなりました当面の論点ペーパーの項目に沿って、議論を進めていくということにいたしたいと思います。
今日どこまでやれるかというのは、どこまで皆さんに協力していただけるか、あるいは私が余り口を挟まないかといったことにも懸かっていると思いますが、とにかく実質的な議論を行いたいと思います。
議論の進み具合とか時間との関係を考え、適当なところで今日の議論を締めくくり、次にまた続けるということにさせていただければと思います。
議論の中身に入ります前に、事務局の方で統計等の参考資料を用意してくれましたので、まずそれについて事務局の方から説明をお願いしたいと思います。
● お手元にお配りいたしました統計資料等は、最高裁の資料などに基づいて事務局において作成したものでございます。いずれも主として裁判員制度の対象犯罪を御検討いただく際に参考になると思われるという趣旨で作成したものでございますが、その内容につきまして、ごく簡単に御説明したいと思います。
まず、資料1-1「罪名一覧」ですが、司法制度改革審議会の意見は、法定刑の重い重大事件を裁判員制度の対象とすべきであるとしておりますが、その例として同意見で言及されている法定合議事件及び法定刑に死刑又は無期懲役・禁錮が含まれる事件に具体的にどのような罪があるのかということを一覧にしたものでございます。
次に、資料1-2「通常第一審事件(地裁)における終局人員数・平均審理期間・平均開廷回数」という資料ですが、通常第一審事件と申しますのは、第一審の事件のうち、通常の公判手続によるものです。この資料は、通常第一審事件のうち地方裁判所で行われた事件の平均審理期間等を、事件全体、法定合議事件、法定刑に死刑又は無期懲役が含まれる事件のそれぞれについてまとめたものであります。
例えば、平成12年についてみますと、地裁全体では平均審理期間が3.2 か月ですが、否認事件に限りますと9.8 か月となり、平均開廷回数も、全体では2.7 回ですが、否認事件に限ると7.8 回になるということでございます。これを法定合議事件について見ますと、平均審理期間は、全体では7.1 か月ですが、否認事件に限りますと12.3か月、平均開廷回数も、法定合議全体では5.3 回ですが、否認事件では9.2 回になるということでございます。
最後に、資料1-3「法定合議事件の罪名別審理期間開廷回数」という資料です。これは、法定合議事件について、個別の罪名ごとに終局人員数、審理期間及び公判の開廷回数をまとめたものです。平均審理期間は、当該罪名の事件全体について、その審理期間の平均値を算出したものです。また、平均開廷回数は、当該罪名の事件全体について、公判の開廷回数の平均値を算出したものです。
なお、この資料1-3等に書いております個別の罪名の表記ですが、資料1-1と資料1-3との間で若干異なっております。これは、資料1-3の罪名が当該統計を作成する上での作業上の分類として用いられている罪名をそのまま記載したものであることによるもので、一部については、例えば、致死罪と致傷罪を合わせて合計を計上するなどしていることによるものでありますので、御了解ください。
以上です。
□ どうもありがとうございました。今の資料ないし説明について何か質問はございますでしょうか。
○ 2点なんですが、この平均審理期間と平均開廷回数の関係ですが、そこはちょっとお分かりでないのかもしれないんですが、例えば、今の地裁全体の資料1-2の最初の地裁全体のところで、平均審理期間3.2 か月、平均開廷回数2.7 回、これはおおむね1か月に1度という開廷でやっているというふうに理解していいのかどうかということ。
もう一つは、一回の開廷においてどの程度の審理時間を費しているのかという問題です。通常傍聴すると、1時間、2時間で終わるということが多かったりもしますので、その辺のところはかなり難しいことなんだろうと思うんですが。
□ 頻度と1回の長さですね。
● 審理期間が平均3.2か月で、平均開廷回数が2.7 回ということですから、平均としては、およそ月1度の開廷ということになると思います。
○ 把握していらっしゃるのかどうかということにもなるんですが。
● 2点目の1回の審理時間につきましては、もちろん、この表からは何も分からないということであります。
(最高裁判所) その統計は、最高裁がとっておりますが、公判が開かれる頻度につきましては、今の平均開廷回数と平均審理期間の関係から、およそ1か月に1回程度という計算になります。
各公判毎の所要時間の方は、申し訳ありませんが、統計を取っておりません。
□ ○○委員、どうですか。公判所要時間は、事件によってばらばらですか。
○ 一番最初に起訴されてから第1回までは、弁護人の選任だとか、被告人への起訴状の送達とかいろいろありますので、若干時間が掛かるのが普通で、起訴後1か月半から2か月近くのところで第1回公判が入っているのが普通です。それからは、その1回を除いて、残りの平均開廷回数で、平均審理期間から1.5 なり2か月引いたものを割ると、大体そのペースでは入っているのではないかと思います。
○ 1回当たりの時間はいかがでしょう。
○ それぞれの事件によって、どのような証人・証拠調べをするかによって違います。1人の証人にかなり掛かる場合には、かなり長い審理時間を取りますし、短いもので済むものもありますので、そこは統計を多分取っていないと思います。
○ 感じとして、法定合議ということになった場合には、通常私たちが傍聴させていただくと、大体1時間とか、せいぜい2時間程度で終わることが多いわけですが、法定合議の場合には午後いっぱいを使うとか、あるいは全日を使うということが多いということになるのかどうかという辺りだと思うんです。統計的には言いようもない話だと思うんですが。
○ 各公判期日の所要時間は、事案の性質とか審理の進行段階によって、すべて個性がありますので、平均1回の開廷時間がどのくらいかということを知ることに意味は乏しいのではないでしょうか。また、個別に統計を取れと言われても、すべての刑事公判に出掛けて行って報告させるということはおよそ難しいように思います。
□ それでは、中身の方に入らせていただきたいと思います。第2回検討会でお配りした資料2の「当面の論点」については、持ってこられなかった方もおられると思いますので、今配っていただきましたが、この「当面の論点」に沿って議論していきますと、最初が「裁判官と裁判員との役割分担の在り方」ということになり、関連する審議会の意見が資料に抽出されて記載されています。審議会の意見書の103ページ、国民の司法参加のところの(1)の基本構造というところですが、そこでは、「裁判官と裁判員は共に評議をし、有罪・無罪の決定及び刑の量定を行うこととすべきである」と述べた上で、本文中の括弧書きで、「ただし、法律問題、訴訟手続上の問題等、専門性、技術性が高いと思われる事項に裁判員が関与するか否かについては、更なる検討が必要である」としているわけです。
したがって、有罪・無罪の決定と刑の量定については、裁判官と裁判員が共に評議をし、共に判断を行うということははっきりしているのですが、括弧の中の部分をどうするかということが、御議論いただかなければならない最初の点だろうと思います。
まず、その中で具体的に例として挙げられております法律問題に裁判員が関与することとすべきかどうかという点から御議論いただこうと思います。
なお、この点、「法律問題」というのは何ぞやという御疑問もあると思いますが、これは審議会の議論の過程では、主に刑事実体法、つまり、適用すべき刑罰法規の解釈、その意味はどういうものかという判断をすることを意味しているという前提で議論をしていたと理解しております。
そういう理解を前提にしながら、それに裁判員が関与するかどうかということについて御意見をお伺いしたいと思いますが、どなたからでも。
○ 基本的にはカエサルのものはカエサルに、キリストのものはキリストにということだと思うんです。法律問題、特に実体法の解釈、あるいは憲法の解釈ということであれば、これは本来プロの世界の問題であって、したがって、ここは裁判員は加わらない。裁判官だけで判断するというのが筋ではないかと思います。
もう少し広く言うと、本来、事実認定、事実の確定については、裁判員の関与する問題かなと思うんですけれども、その事実を前提として、どういう法律を適用するのかということは、例外はあるにしても、基本的には裁判官が判断すべき問題であると、基本的な理解としては、そのように分けることが可能なのではないか。
今回の裁判員制度というのは、プロの裁判官を半分アマチュアにして、セミプロにして、その判断を受けようということではなくて、プロのいいところと、アマチュアのいいところを足して、より良い裁判制度を作ろうということだと思うわけですから、やはりプロの裁判官のいいところを殺す、減殺をするというような仕組みは避けなければいけないだろうと思います。
○ 私もただいまの○○委員の意見と同じ考えです。純粋の刑法の条文の解釈に当たるような問題につきましては、法律の専門家である裁判官にお任せするのが妥当だと思います。法の解釈というのは、法律学の専門的な学識経験に基づいて行うものですから、専門的知識を待たず、法律解釈の訓練を受けていない裁判員の方にやっていただくのは困難であり、適切でもないと思います。
それから、裁判員制度導入の趣旨にかんがみましても、事実認定、すなわち証拠に基づいてどのような事実があったのか、なかったのか、個々の証人の証言内容、被告人の供述内容は果たして信用できるかどうか、という事実関係の認定判断については、一般国民の方の関与を願うとしても、法律解釈につきましては、そこに国民の健全な社会常識を反映させるという必要性は、必ずしも高いとはいえないと思います。
もっとも、刑法なら刑法の条文解釈が確定された上で、それを証拠に基づいて認定された事実に当てはめるという部分につきましては、必ずしも法律の専門家でなくてもできる事柄であろうと思いますので、純粋の法解釈部分は裁判官にお任せするとして、証拠に基づいて事実を認定して、これに法を当てはめた上で、有罪・無罪かどうかを決めるという部分は裁判員にも関与していただくのが妥当だと思います。
□ 御趣旨がいまひとつ分からないところがあります。事実を認定をして法律を当てはめるということですが、その「法律の当てはめ」というのは具体的にはどういうことを意味するのですか。
○ 例えば、刑法39条には、犯罪の成否の一要素である責任能力に関する規定があり、心神喪失者の行為は罰しないという条文があります。その「心神喪失」という法律概念が何を意味しているのかということは、法律の解釈であり、これについては、刑法学説と最高裁の判例等の蓄積により一定の意味内容が法解釈として示されているわけです。そこで、この部分については、法律のプロである裁判官に示していただく。これに対して、例えば、人を殺したとして起訴されている被告人について、彼が幻覚妄想に支配されて人を殺したという事実があったかどうか、そういう部分は、鑑定等の証拠によって裁判官と裁判員の方に認定していただく。そして最終的に、そのような幻覚に支配された行為が刑法39条の心神喪失に当てはまるかどうかを判断し、無罪になるか有罪になるかを決定するのは、やはり全員で評議において相談をして、十分お互いの意見を言った上で、裁判員も判断に関与をする。そういう形になるんだろうと思います。済みません。かえってよけい分からなくなったかもしれません。
□ 分かったつもりです。
○ 今の御趣旨は、実体法の解釈の問題は法律の問題であるが、当てはめて有罪・無罪とするということは、審議会の意見書で言っている有罪・無罪の決定にまさに該当するということだと理解してよろしいんですか。
○ そういうことです。
□ 審議会の意見書が言っている有罪・無罪の決定に参加するということは、裸の事実を認定するというだけではなくて、当然のインプリケーションとして、それが、例えば、正当防衛に当たるか当たらないかとか、心神喪失に当たるか当たらないかといった部分を含めて判断してもらいましょうということだったと私は理解しています。
○ 基本的に○○委員の意見に賛成ですが、ただ、理由付けを若干付加しようと思います。意見書の103 ページを御覧いただきたいのですが、裁判員が関与する意義は、裁判官と裁判員が責任を分担し、法律の専門家と非法律家とが相互のコミュニケーションを通じてそれぞれの知識・経験を共有して、その成果を裁判内容に反映させることにあると書かれています。法律の知識を有している裁判官と、法律の知識を期待されていない裁判員との相互の協働の場面であろうと思いますので、法律問題については裁判員は関与しないというのが相当であろうと考えます。
また、実体法の解釈というのは、我々の専門用語では法的安定性という言葉をよく使うわけですが、要するに、安定して同じ解釈でないといけないわけであって、そういった意味合いからしても、これは専門家に任せた方がいい領域であろうと思うのです。
○ 私も基本的に今の意見と同様、法律の解釈については職業裁判官に任せればいいのではないかと思います。今までの理由も是認した上で更に付け加えさせていただきますと、今回、裁判員制度を導入しても、当初はすべての事件を対象とするわけではなく、裁判官だけによる裁判も残るわけですから、そちらとの解釈の整合性が取れなければ、日本の社会にとって非常に不幸なことであって、そういうことがないようにするためには、法律の解釈については職業裁判官が行うというのでよいのではないかと考えます。
○ 私も基本的にはそう違わないんだろうと思うんですが、場面がなかなかイメージが湧かないものですから、お尋ねということでお答えいただけると大変ありがたいと思います。
裁判員と裁判官が協働して審理に当たっていて、そこで法律問題が生じてくるという可能性があり得るわけです。その場合に、一緒に審理に当たっている裁判員だけを排除して、法律問題については裁判官が判断するということに、同じ場面で判断をするということになるということでお考えでいらっしゃるのかどうかということなんです。
□ だれがですか。
○ 今主張された方。つまり、そこはともかく一緒に法廷にいるわけですね。裁判員も裁判官も、いる中で法律問題が生じたときには、そのところだけ最終的に解釈を確定するについて合議をするときに、裁判員には加わってもらわないで裁判官だけの合議で判断するという御趣旨なのかと。
□ いろんな場面があり得ますね。公判廷だけに限らず、合議の過程で生ずることもあれば、準備手続の過程で生ずることもあるでしょう。
○ 今、私が想定したのは、法廷で審理中に、法律問題が生じてきたというときに、その合議をして、その点について確定する必要があるとなったときには、裁判員の方はその場合には、排除と言うと言葉がきついですが、裁判官だけで合議をして確定するということをイメージしていらっしゃるのかどうかということなんです。
□ 幾つかの場面があると思うんですが、それについてどういうイメージをお持ちですか。
○ 例えば、正当防衛か緊急避難かが問題になった場合に、これは正当防衛です、これは緊急避難ですという振り分けは、裁判官が判断することであり、その場に裁判員がいようがいまいがこれは余り大した問題ではないわけです。これは正当防衛なんです、緊急避難ではありませんということを前提にして、正当防衛について、裸の事実の確定から、当てはめも含めて裁判員も加わってやるというイメージです。
○ 私は、実体法の解釈・適用が行われる場面を想定しておりました。公判審理の途中ではなくて、すべての審理が終わった後の合議、つまり、有罪か無罪かを決定し、刑を決めるという段階の合議の場面を主として考えておりました。したがって、途中で裁判員が退席するという場面については考えていませんでした。もちろん、訴訟手続上の問題はまた別の話かもしれません。
□ どの手続段階で問題になるかによって、幾つかのヴァリエーションが考えられると思うのですが、その点は、判断権があるかどうかということをまず議論した上で、それを前提にして手続上どういう対応が考えられるのかという形で、もう少し後のところで議論した方がよろしいのではないでしょうか。
○ なぜそんなことを申し上げたかと言いますと、先ほど来、法律問題について、裁判官の方たちはプロでいらっしゃるということは多分異論のないところであって、そのこと自体について、裁判員の方たちが異論を差し挟むということができないわけではないかもしれませんけれども、実質的に言えば、裁判官の方たちのおっしゃることで決まるんだろうと思うんです。ですから、あえて何か手続的にそこを排除するようなシステムをつくっておくという必要が法律問題についてあるのかどうかというところがよく分からなかったものですから、確認をと思ったんです。
□ 議論の実体として、法律問題にも裁判員が関与した方がいいという御意見はございますか。
○ 法律問題について、法律専門家の方が判断するというのは、当然だと思うんです。ただ、何が違法なのかと考えたときに、違法である事実というのは最初から明らかでないんだろうと思うんです。つまり、ある状況の下ではこういう行為をしたって許される場合があるかもしれない。それは正当防衛か緊急避難だという状況の下であるかもしれない。そういう状況の中である行為をとらえていくときに、普通はどう考えるべきなのかということになると、これは法律問題でもあり、事実認定でもあるんでしょうけれども、そこら辺りの考え方について、裁判員が意見を述べるということはあってもいいんじゃないか。場合によったら、法律家の判断の仕方、違法性の認識だとか、そういう判定の仕方が、意見を聞くことによってそこで見直されるかもしれない。そういう場面もありそうだなという気が私はするんです。
だから、法律問題、それから訴訟手続上の問題というものが本来法律家の領域だということはそれで基本的にはいいんだと思うんですけれども、そのことによって裁判員の意見などを聞かなくてもいいという結論になるのは、何か変かなという気もするんです。一言、二言、これはどうですか、そんなに非難に値することですかと言う人が場合によってはあるかもしれないという気もするんです。
○ 今おっしゃっていることは、まさに当てはめ、あるいは適用の問題であって、それには当然裁判員も加わるというのが今の議論の前提なんです。
□ 細かく分析すれば、法律の解釈についても、裁判員が何か感覚に合わないと感じる部分というのはあるのかもしれませんけれども、主には、当てはめの問題なんだろうと思いますね。また、裁判員に判断権があるかないかということと、その意見を聴くということがあるかどうかということとは別で、後者の方は、さっきお話しした手続上どうするのかということと関連しますので、次のところでまた御議論いただければと思います。今の部分は大体これくらいでよろしいでしょうか。
次に、もう一つ、審議会の意見書で例示されている訴訟手続上の判断についてですが、これも、「訴訟手続上の判断」と言っても、種々様々なものがあり、いろんな段階でいろんなことが考えられるわけですけれども、この点については、一般的にどういうふうに考えればよろしいのか、御意見を伺いたいと思います。
○ 今、○○委員がおっしゃったように、基本的にこれも裁判員としては関与すべきではない分野という感じがします。つまり、訴訟手続はルールであって、ある事件はこういうルール、この事件はこういうルールというものではなくて、全体として、統一的に適用されるべきものでしょうから、基本的には法律専門家が判断すればよい分野ではないかという感じがします。
○ 訴訟手続と言った場合にはいろんな場面がありますが、これを大きく分けると2つに分かれると思うんです。例えば、証拠の採否については訴訟手続に含まれるのか含まれないのかという問題があり、仮に含まれないんだとすると、話は変わってくるんですが、私なりの議論をすると、訴訟手続上の問題と言った場合には、証拠の採否と、それから狭義の意味での訴訟手続、例えば、裁判官忌避の申立があったときにその忌避の判断をどうするかとか、そういう狭義の意味での訴訟手続とに分けて議論させていただきたいと思います。
狭義の意味での訴訟手続については、まさに○○委員がおっしゃっているように、これは裁判官プロパーの問題ではなかろうかと思います。
しかし、証拠の採否の問題については、議論をする余地はあるんじゃないか。証拠の採否でも、物証と書証と人証の3つに分けて考えなくてはいけないわけですし、書証も、被告人の自白調書と、それ以外の一項二号書面と言われているものに、更に細分化して議論しなてくはいけない。
このうち、一番問題になるのは、私は、物証の証拠能力であろうと思うわけです。例えば、採尿手続が違法だったのかどうかという問題があります。採尿手続に関する事実関係については争いがない場合に、そのような採尿過程が違法だったかの判断は、まさに先ほどの法律解釈の問題と同じようなレベルの問題で、これは裁判官の世界である。これに対し、採尿経過についての事実関係に争いがある場合もあり、例えば、被告人は警察官に殴られたと言っているが、警察官は殴っていないと言っていて、殴ったとすれば、これは違法収集証拠であり、殴っていないとすれば当然正当な採尿であるという場合があります。
このように、証拠能力を与える前提となる事実について争いがあるときに、その事実関係の確定に裁判員を関与させるのかさせないのかというところが一番大きな問題なんだろうと考えています。
書証等については、例えば、自白調書であれば、任意性と信用性の二段階の審査がありますが、最終的には信用性判断で勝負がつくわけで、かつ、その信用性については当然裁判員も関与するということになるわけですから、任意性判断についてはある程度ラフな判断、裁判官だけの判断ということも可能かなと思っているわけです。最後は各論まで話が入ってしまいましたけれども。
○ 話を聞いていると、技術的な点からずっと話が進んでいるような気がしてしようがない。むしろ裁判員にどんな役割を負担してもらうのがいいのかという観点からすると、裁判員は職業裁判官と同じなのかどうかという議論があるわけで、もし、同じだということになってくるとすると、例えば、公判期日においては、これは職業裁判官と同じ権限を持つんだということだって、形としてはおかしくない。そういう意味では、先ほど○○委員が言われたようなところというのは、ちょっと心にとどめておくべき論点だろうという気がするのです。そこのところをまず解決していって、裁判官と裁判員の役割分担というのは、その次に出てくる問題じゃないかと思うんです。
□ 御趣旨をもう少し説明していただけますか。
○ つまり、例えば、ドイツで参審員が入ってきたときの議論を見ていると、陪審と同じような形で入ってきているんですが、その際に役割分担を考えたとき、参審員というのは職業裁判官と同じと考えていこうということを前提にした。したがって、公判手続で職業裁判官ができることは、少なくとも参審員も全部できる。こういう発想がその前提にあるんですね。そうだとすると、今までのところで法律問題あるいは訴訟手続の問題、こういうものに関しても、参審員ができるということを前提に話が進んでいくということはあり得るはずであるということなんです。
今はそうじゃなくて、何が一番適当かという形から議論が進んでいて、裁判員は法律問題を解釈するには適しないんじゃないかという形から行っているけれども、進み方がどうも逆じゃないかという気がするのです。
□ その点については、審議会の意見書の中で、基本的に、本案部分については両方が協働して行うのがあるべき姿だろうとされていますが、その場合に、裁判官と裁判員が全く同じだという前提に立っているかというと、必ずしもそうではないと思うのです。それぞれ違うものが集って、一緒にやることによって、更にいいものになるのではないかということが前提になっているわけです。本案部分については一緒にやろう、ただし、専門的、技術的なものについては、事柄の性質上、考慮の余地があると思われるので、そこのところを更に検討すべきだという枠組みなものですから、その大前提部分は結論が出ているという前提で、ここでは特化した部分について御議論いただいているということなのです。
○ もしそういう形になるんだとすると、訴訟手続上の問題については、議論の余地がないんじゃないかという感じもしないでもない。
□ そうでもなくて、法律解釈の問題についても訴訟手続上の問題についても、関与説と不関与説両方の考え方がありうるし、現にあったわけです。それで、それらの点については、より突っ込んだ議論をして決めていくべきだろうということで、今みなさんに検討していただいているということです。最初から決着が付いているということではなく、いずれの方にもそれぞれメリット、デメリットがあると思うのです。
○ 法律上の問題というときに、例えば、法律の適用の問題については前から議論があって、確かに法律と事実というのは、理論としては分けることはできるけれども、実際になったらごちゃごちゃになって分からないんじゃないかというのがかなり強い意見として出てくると思う。これは、ともかくそういう問題を含んでいるけれども、それ以外の問題というのは、言ってみると、ほとんど法律上の問題、あるいは訴訟手続の問題という技術的なもので、全部外すことというのはできるわけじゃないですか。
○ そうでもない。前提として事実認定が問題になることは、実務では幾らでもあるわけです。例えば、前提問題として、取調官に殴られたのか、殴られていないのか、脅されたのか、脅されていないのかというのがあるわけですから、それは必ずしもそういうふうにはならない。
○ 証拠採否というのは、これは事実に絡んでくるわけです。ですから、むしろそっちの観点から議論するということはもちろん可能なわけです。
□ ○○委員がおっしゃったように、証拠能力の判定と証拠調べの要否の判断とは異なった事柄だと思いますね。要否の判断というのは、まさに心証形成と密接不可分に結び付いていることがあるわけですが、そのことと証拠能力の判定、あるいは先ほど狭義の訴訟手続上の問題と言われた訴訟の進行とか、被告人や弁護人との関連でいろいろ処置しないといけない問題というものとは、性質が違うように思われます。
○○委員の御意見は、基本的には裁判官と同じにすべきじゃないかという発想でしょうか。
○ そんなに違わないんですけれども、要するに、考え方というのはもう一つあるんだということをちょっととどめておいた方がいいのかなということです。
□ それでは、ほかの方、どうぞ。
○ 裁判員制度が、いわゆる陪審制度ではなく、独自の制度として提案されている中身は、共に評議し、有罪、無罪の決定及び刑の量定を行うという際の対等性と協働性というところにあると思うんです。対等性、協働性を、どこに一番力点を置いて保障していくかというと、意見書によれば、共に評議し、有罪・無罪決定の及び刑の量定を行うこと、裁判官と裁判員が、まさに証拠を共有し、事実認定を協働して行い、そして量刑を行うこと、そこに一番力を入れていく必要があるわけです。そのためには、いわゆる訴訟手続というのが、もちろん、事実認定とか刑の量定に非常に影響を及ぼすということは承知しているんですけれども、例えば、裁判官と弁護士の方、検事の方とのやりとりの中で、異議の申立があったときに、それが異議として妥当なのかそうじゃないのかの判断だとか、これは手続と事実認定とが私の中でごっちゃになっているかもしれませんけれども、法に基づけば、人を殺したる者云々と書いてあるだけですけれども、人を殺したということと、傷害致死と区別をするためには、どういう証拠があればいいのかとか、そういうことも含めて、裁判官の方が、いわゆる法律解釈以外のところについても裁判経験の中から示してほしいと思います。あるいは今までの文字化されていない訴訟手続の慣例があり、こういう手続の判断というのは裁判官と裁判員が一緒に協議する中で、多分、まざってはくると思うんです。けれども、純粋の訴訟手続上のことというのにまで、余り裁判員の方が細かく勉強しながら関与すべきとしてしまうと、本来、協働すべき、共に評議し、有罪・無罪の決定及び刑の量定を行うというところに十分力点を置けないほど負担が掛かり過ぎるようであれば、訴訟手続上の問題についてはプロにお任せしてもいいのではないかというところはあります。つまり、あくまでも対等性、協働性が大前提で、その上で役割分担があるとしたら、分担すべきところというのは、裁判官が訴訟手続の役割を分け持つということです。裁判官はあれをして、裁判員はこれをしますという分担の仕方ではなくて、ほとんどが重なるんだけれども、いわゆる難しい法律解釈や訴訟手続上の問題においては、プロフェッショナルである裁判官の方に果たしていただいて、それを裁判員が理解するなり、承認するなり、あるいはこの部分はお任せするなりという仕分けなのかなと思うんです。ですから、○○委員が最初におっしゃったように、何がこの裁判員制度の特徴かと言えば、対等性、協働性をいかに保障していくかということだと思いますので、その点を優先すべきだという順位をまずは確認したいと思いますし、そのために、もし法律問題、訴訟手続上で余りに専門性、技術性が高いと思われることに限っては、プロの裁判官にお任せしてもいいんじゃないか。その仕分けがどこにあるかというのは、まだよく分からないんですけれども、そういうふうに思います。
○ 手続的な問題と言ってしまうと、それは法律家に任せるべきだという話になると思うんですけれども、法廷を傍聴していて、最近は荒れる法廷などはありませんけれども、かつては退廷命令が連発されるような法廷とか、傍聴しているわけです。
そうすると、裁判長の訴訟指揮が、これはちょっと厳し過ぎるんじゃないかと思うような場合もあるんです。例えば、傍聴席から声が上がるとすぐ退廷命令が出る。これは手続上の問題と言えば手続上の問題だと思うんです。そういう訴訟指揮の在り方だとか、そういうところを裁判員の人がそばで見ていて、裁判長やり過ぎじゃないかとブレーキを掛けるとか、そういうことも必要なことなのかなと思ったりもするんです。そういう面もあるかもしれない。
もし、そういう場面があるとすれば、純粋に手続上の問題だから、それは裁判官に任せればいいじゃないかと言い切れてしまうかどうか。いろんなことがあり得るんじゃないかと思うんです。だから、手続的な部分については法律家の判断にお任せする比重が非常に高いと思うんですけれども、審理をうまく進めていき協働の実を挙げるためには、ここでどういうことをやったらいいのかと、それを考えるときに、裁判員の人が、ちょっと意見を述べるとか、そういう組み方というのは必要かなという気も私はしています。
□ 先に○○委員のおっしゃったことと共通しているように思うのですが、最終的に判断権を持ち、その責任をだれが負うのかという問題と、その判断に至る過程で適宜意見を述べる機会があるとか、あるいは意見を求めることができるとか、そういうことも考えた方がいいのではないかという問題と、そういう2つの問題があるということだと思いますね。
○ 全く同じ権限でという、○○委員が言われた御指摘は、私は非常に重要なことだと思っていて共感するんですけれども、全く同じでなくても、少しレベルの違う問題なのかもしれないですけれども、少なくとも、そういう意見を述べたりするような役割を裁判員は担っていく必要があるんじゃないかなと思います。
○ 私も○○委員に賛成です。最終的には餅屋は餅屋にということで、法律問題は裁判官の判断が尊重されるということに収斂していくとは思うんですけれども、だからと言って、プロの領域には素人立ち入るべからず、といったような形の仕分けまでしてしまうと、裁判員制度の理念から少し外れてくるんじゃないかと思います。居候がここのところだけいなさいというニュアンスが出てくるのは、制度の理念からしてややまずいんじゃないでしょうか。その辺は運用でおのずと仕分けはされてくるんだろうと思うんですけれども、あくまで理念というか、建前上は両者対等、共に評議しということにしておくべきじゃないかなと思います。
□ 御意見は、決定にも参加させるべきであるということですか。
○ 最終決定に参加するのがいいのか、意見を申し述べることでいいのか。少なくとも、意見も述べられないというのは、ちょっと区分けのし過ぎじゃないかなというだけでございます。
○ その点は、先ほど来おっしゃっているように、協働の世界ですから、裁判官側において、意見を求める必要がある場合には聞けばいいんじゃないですか。適切だと思われるならば。ただし、最終決定まで必ず裁判員が関与するという枠組みで入るということになると、実際問題として手続が動かないし、迅速な決定ができないし、もっと技術的に言うと、期日外での手続がすべてできなくなってしまうんじゃないですか。なおかつ、準備手続については後で議論になるんですけれども、ちょっと細かなところに入って恐縮ですけれども、準備手続に裁判員が入ると、準備手続が動かなくなることもあると思われます。
そこは、○○委員がおっしゃったように、意見書の考え方というのは、裁判官と裁判員という固まりがお互いに対立しているんじゃなくて、お互い足りるところ、足らざるところ、持っているところ、持っていないところがあるので、お互い協働しながらやりましょうという世界なので、裁判官の側において意見を聴することがいいなと思われたらどんどん聞かれたらいいんじゃないでしょうか。ただし、最後の決定まで裁判員が加わるとおっしゃると、冒頭出たような、訴訟が動かないというか、迅速な審理ができなくなる可能性があると思うのです。
○ どこの場面を想定するかによって異なると思われ、特に法廷でやっているときに、多分、裁判官が、あんた方要らないよと言うとは思えないんですが、そんな人がいたらそれこそ資格のないような人だと思うんですけれども、逆に、絶対に裁判員も入った形で何事も決めていかないといけないとなると、訴訟は動かなくなるんじゃないか。要するに、法廷外でやるべきことというのはかなりあるんです。期日の指定、期日の変更を求められたときに変更を認めるかどうか、準備手続で証拠について採用していくかどうか、身柄を勾留するか保釈するかなど、法律的な問題で、法廷外でやらなきゃいけないこともかなりあって、そういうことができなくなるというのでは、多分、訴訟として立ち行かないし、また、逆に、裁判員にそれもやれということになると、裁判員になっていただく人に対してものすごい負担を掛けなければならなくなると思います。したがって、裁判員の意見を聞くとかということはもちろんあると思いますし、そういうことはあるべきだと思うんですが、裁判員が入らないと決められないというような形は望ましくないのではないかと思います。
もう一つ、公判廷の段階でも、今、○○委員の言われたような法廷警察権というのは、確かにいろいろ考え方があるところですけれども、今の訴訟法では、合議体であっても、裁判長は、陪席の意見を聞かなくても、法廷警察権を行使できることになっているんです。裁判官が3人いても一人でできるとされているのは、一人でやらないと、迅速にその場で対応していけないからなのです。要するに、今傍聴人が発言したという場合に、それに対して黙らせるのか、そのまま続けさせるのかを決められめなかったら、法廷は無秩序に陥ってしまいがちなんです。そういう迅速な判断が求められるところというのはありますので、そういう面での配慮も必要かなという気はいたします。
○ 私も、○○委員や、○○委員がおっしゃっていた部分で、裁判官と裁判員が協働する、コミュニケーションを取るということは非常に重要ですし、仮に裁判官の権限とされるところでも、例えば、説明をして理解を得る、その説明の必要性ということも、座長もあちこちでおっしゃっているように記憶していますけれども、その、説明して理解を求めるということと、両者が権限と責任を持つということは別じゃないかと思うんです。
意見書を見る限り、裁判官と裁判員の役割についてまず出てくるのが、有罪・無罪の決定ということと、刑の量定ということですから、これは明らかに判決をまず想定しているんだろうと思うんです。そのことが一つ。
それから、あらゆる訴訟手続に関与するということになりますと、例えば、訴訟手続が法令に違背したというときには、上訴理由になるわけです。そうすると、国民の代表が入った手続上の決定を上訴でどう取り扱うのかというのもなかなか悩ましい問題が出てくるような気がいたします。
そのことと、意見書が提言している裁判員という人々がどのように選ばれて、どんな仕事をするかということも併せて考える必要があると思うんです。
意見書では、無作為に抽出する、そして、その事件1件だけを担当する、という仕組みですので、いろいろな手続上の問題について、習熟していくということは予定されていないのではないかと思うんです。
それこれ考えますと、基本的には口頭弁論で行われる判決に直接結び付くような事柄について、裁判員が関与するということが望ましいのではないかと思います。
ただ、さっき申し上げたように、裁判官が、きちんと裁判員に、裁判員の権限外とされることでも説明をして、理解を求めるということは重要なことだと思いますし、逆に、口頭弁論で行われることに、すべて裁判員が関与すべきかというと、またここはややこしい、難しい問題があるように思います。
さっき○○委員が出された証拠能力と言われる、証拠を法廷に出すことを許すかどうかという問題については、さっき言った裁判員の選び方とか、担当する事件の回数を考えると、なるべく証拠能力に争いがあるものには、触れさせないことがベターではないかという気もするわけです。そういうことも考えて、関与すべき範囲と権限というものは検討する必要があるんじゃないかなと思うんです。
□ 「次に」というふうに申し上げていた部分にかなり入って議論が進んでいると思いますが、皆さん言っていることはそんなに違わなくて、公判廷でやるべきこととそれ以外のところでやるべきことがあり、後者には、準備手続でやるべきこともあれば、厳密な意味での準備手続ではなくて、さっきおっしゃったような、期日の指定などのそれ以外の手続上のマターの処理ということもあって、その仕分けというのがまずあるべきだろうと思います。その上で、裁判員が同席しているところでやることについては、最終的に裁判官が権限を持つとしても、裁判員に説明したり、適宜意見を聞くということは、当然やっていくべきだろうというところでは大体皆さん一致しているという感じがするのです。裁判員が同席しているところで、あえて「自分たちだけの権限事項だからあんたたちは出ていってくれ」ということには、恐らくならないんじゃないでしょうか。
ほかに御意見がございませんか。ひとまずの議論としては、このくらいでよろしいでしょうか。
その他、特に審理の過程で裁判員がこういう権限を持つべきではないかということについて御意見があれば伺っておきたいと思います。意見書では、質問権を持つ等、実質的に対等な地位と言いますか、対等の関与の仕方をすべきだということを言っておりますけれども。
○ 準備手続との関係もあるのかもしれませんが、さっきちょっと出た、証拠の採否とは別の、証拠の要否の点は、むしろ御意見を伺いたいなと思ったんですが。
□ それは結局採否の問題ですね。証拠調べの請求があって、それを認めるかどうかということですから。
○ 証拠能力とは全然別の問題としてという意味なんですけれども。
□ その点、○○委員はどういう御意見ですか。
○ 準備手続がどんなようなものになるかにも大きく原因すると思いますが、当初は、御意見を伺ってから考えようと思っていましたけれども。
□ それは、ちょっとずるいですね。
○ 準備手続を充実させるという意味では、原則としては、そこで要否も含めた意味での採否の決着がついているべきではないかというふうに個人的には思っています。ただ、公判手続が始まった後で出てきたものについて、どう取り扱うということがあると思うんです。これは、さっきおっしゃったように、心証形成に直接結び付く部分ですが、私の今のところの意見は、それについても一貫させて、さっきのように、裁判官が裁判員と協議をしたり、意見を求めたりということはもちろんあるし、またあるべきかもしれませんけれども、最終的には採否は裁判官が決めるというのが私の意見です。
□ 基本的には同じ扱いにすべきだということですね。ほかの方でその点につき御意見ございますか。
○ 準備手続の話に踏み込んでいるから、ここでするのが妥当かどうか分からないのですが、例えば、その証拠が採用されたらそれで勝負ありという事件は結構あるわけです。例えば、覚せい剤の自己使用なんていうのは、採尿手続が適法であり、尿の鑑定書が出たら、もうそれで、少なくとも有罪・無罪は決まっているわけです。今の○○委員の意見のような形にして、その辺のことを準備手続でやってしまうと、では肝心の公判で何やるのということになってしまうのではないか。そこで争いがなければいいんだけれども、証拠の採否、尿の採尿手続を争っていたというようなときに、それが準備手続で決まってしまったら、公判で一体何をやるのか、量刑だけかという話になってしまって、覚せい剤取締法違反が、裁判員裁判の対象になるかは別にして、主たる争点が準備手続のところで終わってしまっているというような制度設計というのは、いかがなものかという気はしますね。
○ 確認ですけれども、○○委員がおっしゃったのは、今の例のように証拠能力の問題が絡む採否の話ではないのでしょう。
○ そこはそこでまた一つ大きな議論だと思います。
□ 証拠能力の問題だけではなく、証人調べをするのが必要かどうかという判断をだれが行うべきかも、基本的には同じにすべきではないかというのが先ほどの○○委員の御意見でしたが、今○○委員が言われたのは、むしろ準備手続で何をどこまでやるべきかという、準備手続と公判審理との振り分けの問題ですので、これはもう少し後で議論をしていただければいいように思います。
○ 私が、今、気になっているのは、意見書には対等の権限とありますけれども、プロの裁判官と一般国民がなぜ対等なんだということです。要するに、プロの裁判官、検察官、弁護士を育てるために、国家は多大な税金を使っているわけです。投資をしているわけです。そういうプロの法曹実務家と、国民がなぜ対等なんだということです。別に審議会の意見に異を申し立てるつもりはないんですが。
そうすると、やはり事実認定というところは対等かなと思います。それは、一般市民でも、例えば、取引をしているときに相手にだまされないように、相手の言っていることが本当かどうかを常に判断しながら生活しているわけで、そういう意味では裁判官が法廷でこの証人が言っていることが本当かどうかを判断することと余り変わらない。そういう意味での事実を見るという目は、一般国民もそれなりの生活の中で養われているわけですから、それは対等でしょう。別に司法試験通っているから、事実を見る目があって、通ってないから事実を見る目がないということにはならないでしょう。
しかし、法的な問題、純粋に言えば法律解釈の問題等は、やはりそれだけの違いがあるわけで、審議会の意見は、そこまで対等だというところまで言おうとしているわけではないんでしょう。そうすると、事実認定は一緒にする、それには法律適用も含めてもいいですけれども、それ以外のについては裁判官だというように、大きく分けたらそういうふうになるんではないか。
そういう観点から言うと、今のような2つが重なり合っている部分が、何度も繰り返しますけれども、物的証拠の証拠能力について争いがある場合で、しかも、事実認定に争いがあって、証拠能力に争いが出てくる場合には、その判断は果たして裁判官の領域なのか、裁判員も入るべき領域なのかという、その辺のことが、この役割分担をどうするかという大きな命題の中では、一番シビアな問題になって出てくる問題ではないのかと思うので、そこをやはりここでもう少しきっちりと議論してもらった方が、問題の所在なり方向性なりがよく見えてきていいのではないかと思います。
□ 審議会の意見書も、何もかもすべて一緒だということを言っているわけではないのです。協働ではあるのですけれども、やはりそれぞれバックグランドは違うわけですし、違いに応じて役割というのはおのずと違ってくるだろう。そういった違いは認めながら、しかし、一緒に協働して本体部分はやっていくこととにし、それを実効的にできるように、基本的に同等の地位・権限を与えようという構成だと思うのです。ですから、違いはもちろんあるということだと思うのですが。
そろそろ次に移らなければと思うのですが、一点伺いたいことがあります。事実認定と評価ないし法律の当てはめと法律の解釈ということを言われたのですが、同じことは実体刑法についても言えると思うのです。その実体刑法の部分では、当てはめまで裁判員がやるということになっているわけです。証拠能力については、御趣旨だと、事実認定のところと評価のところを分けて、評価のところは裁判官、事実認定のところは裁判員も加わっていいということだと聞こえたのですが、そうなるのですか。例えば、違法収集証拠の問題については、殴った殴らないというだけですと比較的簡単なのですけれども、現在の最高裁の判例ですと、重大な違法があってそれを証拠として用いることが適切でないということと、それを用いないことによって将来の違法捜査を抑止するということが要件とされていて、その点を認定することで証拠能力があるかないかの判断ができるということになっているわけですが、その重大性の判断と違法捜査の抑止という判断というのは、かなり専門的なものだといえます。それは、事実認定とかなり密接に結び付いていると思うのですが、そうなってくると、最終的な判断からなかなか切り離しにくいと思うのです。そういう意味で、どっちに引き付けて考えるかという問題のような気がするのですけれどもね。
○ 結論的に言えば、今、座長がおっしゃった理由で、その問題は裁判官が判断すべき問題なんですね。ただ、例えば、殴ったというのははっきりしているけれども、小突いたのか、つかんだのかという場合に、いや俺は何も触ってないよと言っているのと、この程度はやりましたというのは違うわけで、どの程度のことをしたかについては、やはり裁判員が入ったっていいではないかと思うのです。その上で、その程度のことだったら、重大な違法とは言えないから、採用してもいいですよというのは裁判官の世界ではないか、そういう切り分け方もできるんではないかと思います。
□ そういう切り分け方もできるとは思いますね。そのことと、準備手続でどこまでやるのかということとは別の問題だと思います。問題点はかなりクリアーになったように思います。
○ 私のさっきの意見に一つだけ付け加えておきたいのは、今度、裁判員が入って一緒に心証形成をするということですから、仮に裁判官が証拠の採否については最終的な権限と責任を持つとしても、今とは採否というものも大きく変わってくるのではないかと、つまり自分自身の心証との関係で考えるのではなく、ほかの参加者、すなわち裁判員の心証をも考慮して採否を決定していくということですので、そのことも含めての私の考え方ということで御理解いただきたいと思います。
□ それでは、そろそろ次に移りたいと思います。2番目の柱が裁判体の構成・評決の方法ということでございます。これにつきましては、意見書の104 ページの、イ「裁判体の構成・評決の方法」というところでまとめられているのが審議会の意見です。
御承知だとは思いますが、読ませていただきますと、「一つの裁判体を構成する裁判官と裁判員の数及び評決の方法については、相互に関連するので、併せて検討する必要があるが、裁判員の主体的、実質的関与を確保するという要請、評議の実効性を確保するという要請等を踏まえ、この制度の対象となる事件の重大性の程度や、国民にとっての意義、負担等をも考慮の上、適切な在り方を定めるべきである。」このように、まず最初の文章で述べられております。
そして、それを更にブレイクダウンして、「裁判員の主体的、実質的関与を確保するという要請からは、裁判員の意見が評決結果に影響を与えうるようにする必要がある。この関係で、裁判員の数も一つの重要な要素ではあるが、公判審理の進め方や評決方法などとも関連するので、これらと合わせて裁判員の主体的、実質的関与の確保を図るべきである。評議の実効性を確保するという要請からは、裁判体の規模を、実質的内容を伴った結論を導き出すために、裁判官及び裁判員の全員が十分な議論を尽くすことができる程度の員数とする必要がある。その数がどれ程であるかについては、評議の進め方や評決方法とも関連するので、これらの点をも合わせて検討すべきである」とされているところであります。
また、その点との関連で、107 ページの「公判手続・上訴等」というところの、イ「判決書」というところで、「判決の結論の正当性をそれ自体として示し、また当事者及び国民一般に説明してその納得や信頼を得るとともに、上訴による救済を可能ないし容易にするため、判決書には実質的な理由が示されることが必要である。裁判員が関与する場合でも、判決書の内容は裁判官のみによる裁判の場合と基本的に同様のものとし、協議の結果に基づき裁判官が作成することとすべきである」とされていることも、今の点との関連において留意すべき点であろうと思われます。
こういう意見書の考え方を踏まえまして、本日は大きな骨組みの話として、具体的な人数を何人にするといったことよりは、むしろまず裁判体の構成を定めるに当たっての、基本的な考え方について御意見をお伺いしたいと思います。さっきは座長が要らないくらい議論が弾みましたが、どなたからでもどうぞ。
○ 次の論点と密接に関連してくるので、こういう問題提起の仕方は、座長を悩ませて申し訳ないと思うのですが、法定刑の重い重大事件を対象とするということを度外視して、裁判体の構成の問題は考えにくいだろうと思います。つまり、意見書は、「法定刑の重い重大事件」と書いているわけで、具体的に中身自体は後で議論することになるわけですが、仮にそれが法定合議事件とすれば、先ほどの資料1によれば、四千数百人、それから、死刑又は無期懲役が含まれる事件だとすれば二千数百人となります。こういうものが対象となるということを前提としておかないと、この議論ができないのかなと思うのです。
と申しますのは、地裁事件の場合、合議体でやるのと、単独でやるのがありまして、合議事件は、3人の裁判官の合議体でやることになるわけです。そうしますと、今後の議論にもよることですが、法定刑の重い重大事件の範囲の決め方いかんによっては、合議事件の中で、裁判員制度対象事件というくくりができ、これが一番重い部分になると思うのですけれども、その下に、裁判員制度の対象とならない事件というのが相当数出てくる可能性があるのです。つまり、裁判員制度対象外事件で、しかも裁判官3人でやる事件と、その上に裁判員制度対象事件というのが乗っかるというイメージを前提としてお考えいただいたらいいのではないかと思うのです。
仮に今の前提を御承認いただくとすると、一番重い事件の下にあたる事件のときには、常に3人の裁判官がやることになりますが、当然この2つの境界域にある事件があるわけで、あるところから下がると裁判官3人の事件になり、あるところから上がると裁判員が加わって構成された裁判体の事件が入るということになるわけです。
そうしますと、境界域のところを想像しながら、裁判官の数を見ていただきたいんですが、裁判官の数を3人より少なくするのが妥当かどうかという問題が前提にくるのではないかと私自身は思うのです。先ほどの議論によれば、法律問題や訴訟手続上の問題は、大方の意見では、裁判官にやってもらいましょうということでしたが、仮に一番重い、裁判員制度の対象となるクラスのところが3人より少ない裁判官ということを考えますと、比較的軽い事件は3人の裁判官が法律問題とか手続問題をやるにもかかわらず、より重い方になるとそれより少ない人数でやることになってしまいますが、それが果たして妥当なのかどうかというところがまず一点、分水嶺として分かれるのかなと思います。積極的に自分の意見を申しますと、3人より少なくするという選択肢はないのではないか、より軽い罪の段階でも3人でやっているのだから、その上に乗っかる裁判員制度対象事件というのは裁判官3人ということを前提とした上で、裁判体の構成という問題を次に考えていくのかなという具合に考えます。まずここら辺りから御議論いただくのはどうでしょうか。ちょっと座長の進行のじゃまにならないかと危惧はするのですが。
□ 座長を交替していただいて結構なのですけれども・・・。今おっしゃったアプローチというのも一つの論理的な筋道ではあるかと思うのですが、それと違う発想で問題にアプローチするということも可能ですし、第1ラウンドですので、今の御意見をも踏まえて、幅広く議論していただければと思います。
○ やはり合議ですから、真っ当な合議、あるいは議論ができる人数というのは自ずから制約があるわけで、その人数の中に収まってなければいけないと思います。その人数をどうするか意見はいろいろあると思いますが、例えば、20人、30人という意見は多分出てこないと思うんです。
もう一つは、特に一般市民、裁判員が自分の意見を主体的に述べられる数、それは数によるのか、裁判員の個性によるのかよく分かりませんが、いずれにしても裁判員の意見が反映されるに必要かつ十分な裁判員の人数が必要であろうと。
裁判官については、一人という選択肢はないだろうと思います。今の○○委員の意見とは若干異なって、二人という選択肢はあるにしても、一人という選択肢はないんではないかというふうに思います。
□ 最後の点の理由はどういうことですか。
○ これは、逆の効果を生む場合ももちろんあるわけですけれども、プロが一人しかいないということは、プロの意見が割れないということですね。そうすると、裁判員が自由にものを考え、それから、主体的にものを言うときに、裁判員の選択肢が少なくなる。裁判官が二人で一致団結すれば、素人さんが7人、8人いたって、すぐに粉砕できるということになるのかもしれませんが、そうではなく、今でも合議において裁判官の意見が割れているという前提であれば、複数の裁判官がいて、裁判員の目の前でA裁判官とB裁判官の意見が違うというのが、やはり望ましいというふうに思います。
そうでないと、常に裁判官の意見は一つだけであって、ある意味では非常に強力な比重を持つということになって、妥当ではないというふうに考えます。
□ 今の御意見は、○○委員のおっしゃったこととは、理由がちょっと違うように思います。○○委員がおっしゃったのは、裁判官の数というのがまず起点になるべきではないかという御意見で、それに対して○○委員は、それも一つの要素だけれども、全体の数、規模ということがもう一つの要素であり、その中で裁判員はどのくらいの数が必要でかつ十分かということだということですね。
それだけではなくて、意見書が指摘しているように、評議の仕方とか評決の方法というものもそこに密接不可分に関係してくると思いますが、それらのことをも念頭に置きながら、御自由に議論していただければと思います。
○ いろんなアプローチはあると思いますが、やはり、私は、最初に座長が指摘された、意見書の言っているところを出発点にして、これを実現するのに妥当な員数、規模はどうすべきかという方向で考えていくアプローチが基本であろうと思います。
意見書の核心となる点は三つあると思います。一つは裁判員の主体的、実質的関与の確保。もう一つは、評議の実効性。そして、評議の実効性に関わることとして第三には、先ほど座長が指摘された意見書の部分に出ておりますけれども、現在の日本の裁判の判決書のあり方、すなわち詳細に理由を検討して、当事者の納得及び上訴にも備えて実質的な理由付けを書くという点だと思います。裁判員制度対象事件は、重大な事件の中でも、とりわけ死刑とか無期が問題になる事件であることが見込まれます。このような事件については、これまでも3人の裁判官の合議体で十分な評議をした上、詳細な理由づけをする判決をしていたわけです。したがって、それと基本的に同様なスタイルの判決が書ける程度の、緊密で、精緻な、具体的な詳細にわたった評議ができるような規模の裁判体でなければならないだろうと思います。そうしますと、評議の実効性・具体性・緊密性という観点からは、全体の規模は余り大きな員数にはならないと思います。現在の重大な事件は3人の合議体でやっているわけですから、それに若干の数を加えたぐらいの規模が考えられるだろうと思います。いわばコンパクトな型の裁判体が想定されるのです。
一方、初めに申しました、一般国民たる裁判員の方が主体的に、実質的に評議に関与するという要請の観点から考えてみましても、裁判体の規模はやはりコンパクト型が適切ではないかと思います。素人の裁判員が小人数では、プロに対抗して議論できないではないかという意見を聴くことがありますが、そもそもプロの裁判官と、一般国民の方が全然違ったグループとして対立して関与するということを、なにか当然の前提にして議論するのはおかしいと思います。意見書は、法律の専門家である裁判官と、一般国民の方が、それぞれ専門的知識と健全な社会常識をもって、有罪・無罪の決定と刑の量定に関してお互いに協働すること、それぞれの知識・経験を突き合わせて、事件について徹底的に討論した上で結論を出すこと、そういう緊密なコミュニケーションを想定していると思います。ですから、一般国民の方が、自らの判断やそれまでの経験を踏まえて主体的に、実質的に関与するということそれぞれの個人が詰めたところまで真剣に自らの意見を忌憚無く述べ、プロの裁判官であるか裁判員であるかを問わずに、相互に議論して結論を練り上げていくというようなコミュニケーションを図ることは、余りの大人数では不可能だと考えます。
以上の次第で、裁判員の主体的・実質的関与及び評議の実効性という両方の観点、さらに、最初に言いましたが、上訴に備えてというだけではありませんけれども、現在と同程度の具体的な理由を付した判決を書くところまで評議を行うということを考えますと、具体的な数字はまだ分かりませんけれども、裁判体全体の規模はコンパクトな形、現在の3人の合議体に更に一般人の方が若干名加わったぐらいの規模のものが適当だと考えております。
□ ほかの方いかがでしょうか。
○ 基本的に今の○○委員の発言とほとんど同じことになりますけれども、私もまず一つのポイントというのは、裁判員制度というのは、今までの制度を前提にして、この制度をより良いものにするためにどうしたらいいかという観点があるのではないかと思います。そうだとすると、対象犯罪として、重い事件を想定すると、職業裁判官というのはおのずから人数は決まってくるだろうと思われ、裁判官3人という前提を余り崩さない方がいいと思います。この意味では○○委員と同じ考えです。
それに加えて、一つ考えておかなければいけないのは、裁判員に意見を述べやすいようにするということだと思うんです。これを考えるとすると、裁判員の人数が何人いるかというと、少なくとも複数だけれども、実際だと職業裁判官よりもちょっと多いぐらいというのが、一つの選択肢として出てくるだろうと思います。
もう一つの観点は、これも○○委員が言われたように、合議ということが必要ですが、余り裁判員の数が多くなると、合議がかなり難しくなってくるという意味で、上の制約が出くるだろうという感じがします。
そういうことを前提にすると、裁判官を3人にして、それより少し多いぐらいというところがいいか、あるいは同じぐらいがいいのかということを主張したいと思っております。
□ ほかの方、いかがですか。
○ 言い方が、今の枠の中ではかなり微妙にならざるを得ないので、なかなかよく分からない部分もあるんですが、今のお話を伺っていますと、先ほど座長が指摘された同じ意見書の部分を前提としながらも、やはり違う考え方も当然あるだろうというふうに思うわけです。ですから、主体的・実質的にということ、それから規模を問題にしてみても、合議が実効的に行われるかどうかということを考えてみても、やはり範囲はかなり広いのではないか。ですから、そんなに多くない方がいいという場合であっても、限度というのはどの辺かというのは、かなり微妙だなという感じがするわけです。
そうなってきますと、健全な常識を反映するということが、もちろん意見書が裁判員制度を導入する一つの大きなポイントにはなっているわけですけれども、その場合に健全な常識というのはどの範囲で、どういう形で反映するのかということはポイントとして考えてみる必要があるだろうという気がするわけでして、そうしますと、素人の方、国民が入ってくるというのは、多様な意見というものをそこに吸収していくということを考えているんだろうというふうに思うわけです。ですから、合議の効率性ということも、もちろん一つの重要なポイントかと思いますけれども、規模ということとの関係でいくと、そこはなかなか微妙な部分であって、果たして現実にいろいろと行われている陪審制、もちろんこれは陪審制ではないということが前提かもしれませんけれども、しかし10人程度の議論というものが、効率性において問題があるということになるのかというと、必ずしもそうはならないんではないかという気がしますし、裁判官を何人にするかというのは、なかなかここも悩ましい部分がありますけれども、いずれにせよ全体として10人ぐらいの数字というのは、決して規模として大き過ぎるというふうなことには、先ほどの議論からは直ちにはならないのではないかと。
ですから、私も、20人、30人というのは、それは余りにもという感じがするわけですけれども、むしろ国民が参加するということの意味というものを実効的に確保する、それは主体的、実質的に、しかも国民の間でもちゃんと議論ができて、いろいろな意見をそこの中で反映することができて、なおかつ裁判官との間でも十分議論ができてというようなことがやはり必要なんではないかという感じがするんです。
そういうことからしますと、まだ具体的に言う必要はないでしょうけれども、最大の人数ということでいけば、やはり12人ぐらいまではありかなという感じはしますね。
□ 御趣旨は、主体的、実質的に関与するという観点からは、仮に裁判官が3人だとすると、裁判員はそれくらいの人数でないとそれが確保できない、発揮できないということでしょうか。
○ ですから、トータルな意味での裁判体として国民が参加する意味というものを、実質的、主体的というところも含めて勘案した場合に、どの程度の規模が有効に機能する数なのかという問題だと思うんです。
□ 主体的、実質的ということの意味なのですけれども、ちょっと御発言の趣旨をクリアーにするためにうかがうのですが、裁判員の数が裁判官に比べてかなり多くないとそういうことが確保できないということでしょうか。
○ 絶対的に確保できないというつもりもありませんけれども、それの方が確保しやすいだろうと。なぜかと言えば、先ほど来議論もありましたけれども、やはり裁判官の方たちは日常的に事件に関わるわけですし、審理を担当されるわけですし、当然、今、想定されている裁判員の方たちというのは、一回限りの、その事件にのみ関わるということで想定されているわけです。その限りでは、いろいろと出てきたときに、議論をするときにも、やはり専門家である裁判官と対等に議論ができるかどうか、これはよく言われていることですけれども。
□ ありていに言えば、人数は多い方がやりやすいだろうということですか。
○ そうです。
○ 今のお話はちょっと違うのではないですか。先ほどもちょっと申しましたけれども、この意見書の言っているのは、まさに協働の概念です。私の意見は、裁判官3名であり、これを原則として考えた方がイメージがつかみやすいので、冒頭そのことを申し上げたのですが、裁判官3名がいて、それに対抗するものとして裁判員の集団が何人かいて、それがお互い団体交渉をやりながら物事を進めていくものではないと思うのです。
要するに、裁判官の中でもいろいろ意見が分かれるだろうし、裁判員の中でも分かれるだろう。そこから、お互いに、「あなたは法律は知っているかもしれないけれども、私は素朴な正義感があるよ」、「あなたはいろんなバランスを考えて相場が分かっているかもしれないけれども、自分としてはこう思うんだ」、あるいは、「こう言っているんだけれども、最後はこれが正しいんではないの」というように、まさに健全な社会常識を、一人ひとりの裁判員が発揮し、裁判官も、そういう意見を引き出すように努力して、そこでいい結果が出ていくというイメージなのではないかと思うのです。
○ 私もそれは全然否定していません。
○ したがって、そこでまず人数ということを考えるならば、裁判官と裁判員の両方の人数をそれぞれどうすべきかというよりも、むしろ、○○委員がおっしゃったように、膝突き合わせて、「あなたどう思うの」、「私はこう思うのよ」、「いや、それはおかしい」、「実は、法律はこうなっているから、こうなのよ」と、こういう本当に意味のある行き帰りの議論が、なめらかにいく全体の数はどれかということを、我々それぞれの社会経験の中で考えていって、そうするとそこで自ずから全体の数、規模が決まってくるのではないかというのが、私のイメージなのです。
それで、私のイメージから言うと、この意見書に反論するわけではないんですけれども、3というのは、昔から3人寄れば文殊の知恵と言って、非常にやりやすいので、したがって、我が日本においても、伝統的に合議というのは3になっているわけです。ただし、○○委員の言われるように、裁判官の数を3から若干減らすという考え方もあるのかもしれないけれども、私は、冒頭申したように、法律問題や手続上の問題については裁判官だけが判断するということを前提にして、それから、裁判員制度の対象となるかならないかの境界にある事件が両方に分かれるものですから、これから考えると、裁判官の人数は、やはり3から減らすべきではないのではないか、それは維持するべきではないかと思うのです。そうすると、あとどれぐらい、3人寄れば文殊の知恵にどれだけ加えても、なおかつ実効的な合議ができるのかという観点から議論すべきであって、それが10人になるのか12人になるのかというと、そうではないと思います。この検討会での議論を見ても、そうでありまして、1回発言してしばらく待たないと次の発言ができないわけですね。
そういうことがあって、裁判所というのは、地裁では3人で合議体を組んでいるわけで、次に、どういう合議体を構成しているかというと、5人です。最高裁の小法廷が5人でやっていますから。私のイメージから言うと、小法廷の5というのが、一つなのかなという感じを持っているのです。
□ その点は、○○委員の方は、全体が10人くらいでも実効的な議論はできるだろうという御意見であり、意見が分かれるところだと思いますね。
○ 質問なんですけれども、○○委員がおっしゃった、実効的な議論をすることイコールコンパクトというのが、私にはなかなかすんなり来ないんですけれども、そこの理由が分からないんですけれども。
○ 評議の実効性の確保ということを意見書は言っているわけですね。
○ イコールコンパクトという結論になるわけですか。その理由がちょっと。何となく今までたくさん言われてきたんですけれども。
□ 今、○○委員が言われたのと同じことなんでしょう。そういうふうに聞きましたけれども。
○ 重大事件の有罪・無罪の決定と量刑という極めて重要な事柄について、それまで調べられてきた証拠に基づいて事実を認定して法律を当てはめて刑まで決めるわけです。こういう事柄について、現在の裁判で行われているのと同じ水準の、ちゃんとした具体的理由に基づいた判決を書くためには、個別の論点について相当緻密な議論をしなければいけない。これは、私は、当然の前提になっていると考えるわけです。
それをするためには、合議体のメンバーの全員が、相互に緊密な議論をしなければいけない。これがまさに評議の実効性ということであり、それは同時に裁判員の主体的・実質的関与でもある。そのためには、自ずと合議体全体の人数は限られてくるであろうという趣旨です。
○ 実は、私が第2回に申し上げたことと関係するんですけれども、まさにこれは、社会心理学でいうグループダイナミックスの問題であり、どのぐらいの人数で、どのぐらいの実効的な議論ができるのかとか、あるいは、その構成員の間の地位とか知識の差が、どういうような影響を与えるのかとか、そういった研究実績があるわけで、そういったものを抜きに実効性と規模の問題を議論するのがいいのかなという気がちょっとしているんです。これは、実は、先週末九州大学で開かれた法社会学会でも、法律判断における専門家との協働というテーマでしたか、そういうシンポジウムがあって、その中である若い社会心理学の研究者が、この点の報告をしていたんです。
私が申し上げたいのは、一つのお考えとしては分かるんですけれども、少なくとも我々は、このグループダイナミックスについては、皆さん御勉強してらっしゃるということなのかもしれませんけれども、専門ではないということです。そうだとすると、少なくともここら辺は重要な部分だと思いますので、議論をするのであれば、そういった科学的な知見というものを十分吸収して議論をする必要があるんではないかというふうに思っております。
□ その点は、前にも申し上げたように、まず○○委員が吸収されて、それに基づいてここで意見を言っていただきたいのです。「科学」と言いましてもいろいろなものがあり、これはどうで、あれはどうだという判断をここですることは難しいので、○○委員が、御自分が信頼できると思われるものを踏まえ、御自分の意見として言っていただきたいと思うわけです。
○ ちょっと違う観点を。もちろん裁判員が参加する制度ですから、裁判員が発言しやすく、役割、責務として重要な、事実認定なり刑の量定なりにきちんとした判断ができるということが一番大事ですから、その観点から人数の問題を考えるべきであるという、今まで出てきた皆様の御意見が軸になることは重要だということが一点です。
もう一つは、最初のころ○○委員もおっしゃったんですけれども、裁判員が関わらない事件との整合性というか、そういうのを考えていかなければいけないと思います。そういう意味では、もちろん先ほど来、○○委員の御指摘がありましたような、法定合議の事件のすべてを扱うかどうかはこれから決めるにしても、裁判官が3人というのはきっと基準になるということは、私もすごく理解するところなんです。
そうであれば、裁判員がどう関わるかというときに、もう一つの論点は、今日いただいた資料1-2で、平均的な開廷回数が、法定合議事件のうち、否認事件では9.2 回で、全体では5.3 回だとなっていますが、刑事事件全体の審議の迅速化というのも非常に重要な観点になるとしたら、裁判員は一般国民で、訴訟を専務としていないわけですから、そういう一般国民がさける時間であるとか、あるいは集中度であるとか、そういうことも考えたいと思うんです。そうすると、円滑に準備が進めば、週2回出て6回なら3週で終わると、9回、10回なら週2回出れば1か月ぐらい裁判員が関われば、自分たちの責務を1件果たすことができるということになります。そういう集中度で考えますと、普通の仕事を持ちながら、あるいは他の役割を持ちながら、週2回関わったとしても最低1か月前後は関わるような仕事に、どのぐらい裁判員の人が主体的に関われるか、そういう観点からの事件数という考え方も必要だと思うんです。
そうすると、規模については、もちろん裁判員が10人関わっても20人関わってもというふうに議論を広げることはできるんですけれども、実質的に裁判の迅速化ができ、有効な議論ができるようにするということを考え、そして、一人は一つの事件にしか関わらないという原則を考えますと、余り大きな規模のものは考えにくいのかなということも考えてみました。
もちろん一番集中して考えなければいけないのは、裁判員が加わることによって、プロの裁判官がなさる裁判に、より有効な視点が加わるということでしょう。そう考えますと、グループダイナミックスの研究についても、今、○○委員から御指摘がありましたけれども、これもいろいろございまして、例えば、1年間関わるという中でのグループダイナミックスと、短期に2回あるいは5回位、初見のメンバー、初対面のメンバーが関わって、ある一定の議論をするという中でのグループダイナミックスは、違うということを考えなければいけないのです。また、もう一つ重要な要件は、人数が10人であれ20人であれ、だれがコーディネートするかということです。この会議においても座長は非常に御苦労されておりますように、やはり非常に多様な意見・背景を持った方がいっぱい集まってくるわけですから、その中でコーディネートしていく能力というのが、どれだけ重要かというのは、私は市民参加の活動をしておりますので、本当に語り出したら止まらないぐらいですのでやめますが、重要です。要するに、従来だったら合議制の3人の裁判官の中で裁判長が果たしていらした、コーディネート能力をだれが果たすかということとも関わるんですが、コーディネートは極めて難しいんです。そう考えますと、グループダイナミックスの知見を考えても、そんなにたくさんの人数にはならないだろうと思います。
しかし、ここが大事なところで、プロの裁判官と対立はしない、協働なんだと言ったときに、○○委員がおっしゃったように、一般国民が勇気を持って、どのぐらい本音で、そして自分の価値観を披瀝して語れるか、そういう人数を考えますと、これもそんなに多くはないんだろうなということは言えるかと思います。
ですから、2つ付け加えますと、審理期間とか開廷回数という要件と、それからグループダイナミックスの観点から言っても、コーディネート能力、コーディネートの責任の所在と位置付けの観点からも考えた規模を検討しなければいけないというふうに思います。
□ どうも座長としてコーディネートする能力がなく、卓越もしていないものですから、たじろいでいますが、ちょっと疲れましたので、少し休憩をしたいと思います。
(休 憩)
□ それでは、再開させていただきます。
裁判体の構成に関する基本的な考え方については、かなりの方から御意見を伺いましたが、ほかに御意見を伺ってない方、どうぞ。
○ 最近、刑事の裁判については、精密司法と言われて、半ば冷かしぎみに言われてはいるんですが、裁判所の判断がかなり細かいものになっています。決してそれをすべての事件で全部やる必要があるとは思わない人もいるし、思っている人もいるわけですけれども、それでも、今までそれを続けているのは、やはり裁判というのが何なのかということによるのだと思います。裁判というのは、争いごとに対して、一つの判断を示すことで、そのために、どちらか自分の主張が入れられなかった方には不満が残るわけで、それに対して、きちっと説明できなければいけない、そのための理由というのは、やはり大事だということだと思います。その理由については、かなり詳しいものを判決には書いてある。どうしてこの人の話が信用できて、どうしてこの人の話が信用できないのか、そうだとすると、こういう解釈については、どうしてこういう解釈を取るのか、これがどうしてそうなるのか、いろいろの場面、場面でそういう議論をするわけですけれども、そういう詳しい、そして、その当事者にとって納得いくであろうという判断を示すためには、かなりしっかりとした合議ができて、みんなが同じ判断になってないと到底それは示せないわけです。
ある論点について結論的にこうだというだけで満足していただけるのであれば、それはそれなりの合議もできると思うんですが、今と同じような程度の質のある判決を書く、そのための合議だとなると、それなりに人数というのは限られてくるだろうと思います。
合議においては、みんながそれぞれ、この辺りは自信を持って言える論点、この辺りは若干疑問があるけれども、こうではないかと思っているようなところ、あるいは、自分の自信がないところ、疑問だと思っているところ、それを持ち寄って、そして自分らの疑問を出し合いながら、ほかの人のそれについての考えを聞いて、それで疑問が解消することもありますし、逆にその疑問が深まることもある。そういう中で議論を重ねていって、みんなでできるだけ納得して、多くの場合には3人の合議で多数決で決めるということはまずなくて、私の経験でも30年間やっていて、そういう多数決で決めたというのは本当に1、2件しかありませんけれども、その中でみんなで納得できる結論に至るまで合議を重ねるわけですけれども、そういう合議をしていくためには、みんなが考えている疑問点を率直に出し合えて、それについて意見を交わし合える、そういう必要があるのではないか、そのための人数というのは、やはりコンパクトなものになってくるのではないかというふうに思います。
○ 私も、例えば、○○委員のおっしゃった、他の裁判体の構成だとか、○○委員や○○委員がおっしゃった、今と同じ質の判決を書くための合議、その合議の必要性について否定するものではないです。ただ、いずれも、私から見れば、技術的な理由のように思われます。
意見書では、判決書は裁判官が書くものと同程度という表現ですけれども、少なくとも今と同じとは書いていない。私が思うのは、裁判官だけが裁判する手続も、これからは準備手続とか争点整理、連日的開廷という新しい刑事訴訟システムの下で裁かれ、また判決も書かれていくわけで、今とは変わってくる要素も相当にあるのではないかと思っています。
裁判体の構成を考えるときに、もちろん今御指摘のあった技術的な点も重要だとは思いますが、意見書がそもそも国民に刑事裁判に参加してほしいと言っている、基本的な理念というものを常に考えておく必要があると思います。意見書は、協働ということも言いながら、根本的には国民主権ということも言っておりますし、健全な社会常識の反映ということも言っております。いろいろなバックグラウンドを持った、いろんな人の社会常識を取り入れることは裁判をより良くする、ということは、この意見書に関わられた座長もおっしゃっていることですし、この健全な社会常識というものがどのような仕組みのときに初めて反映されるかということを考えてみる必要があるだろうと思います。
私が思うところ、健全な社会常識というのは、アプリオリに存在しているというよりは、確かめ合う、あるいは確認するというような性質のものではないかと思うわけです。つまり常識というのは言ってみれば普遍性を持った経験とか、普遍性を持った知識、感覚といったものだと思うんです。そうだとすると、それを普遍性があるものとして確認するためには、自ずから必要な事柄があるように思います。
日本もアメリカほどではないとしても、人の属性というのはいろいろあるわけで、例えば、余りに数を絞ることによって、男ばかりになるとか、余りに数を絞ることによって、一定の年齢層の人だけになる、あるいは、職業が公務員だけになってしまうということがあり得る仕組みというのは、やはり普遍的な感覚とか、普遍的な経験を確認するという意味では、正統性を持たないのではないかと思います。満遍ではないけれども、いろいろな属性がそこに反映されるという仕組み、それだけの規模というものが必要ではないかと思います。
さっき○○委員から、文殊の知恵という話がありまして、私たちが司法修習生になると、必ず読めと言われた、短い論文ですけれども、岩松三郎判事の「民事裁判における合議」というすぐれた論文があります。その中にも文殊の知恵のことが出てくるんですけれども、3人集まればいいというものではないというふうに岩松判事はおっしゃっています。つまり、合議の本質は、個人個人の異なる主観性を持ち込んで、批判し合って、そのことが裁判に客観性を与えるのだというふうにおっしゃっているわけです。同時に、その主観性をいたずらに累積しても意味はないというふうにおっしゃっています。これは、恐らくは共通の同じような主観性あるいは属性というものをただ集めるのではなく、ぶつかり合うものを、という御趣旨なのではないかと思います。そうだとすると、やはり多数の、ある程度異なった主観性というものを、累積にならないような形で集めて、お互いに批判をさせるというような仕組みと規模というものが必要なのではないかというふうに思います。
□ それは、どのくらいの規模ですが。
○ 相当な規模ということです。
□ 何十人という規模ですか。
○ いえ、私が個人的に思うのは、審議会では、私の記憶が正しければ、同程度かそれよりプラス1ぐらいというところから、12名ぐらいまでという意見があったという理解でよろしいでしょうか。
□ 審議会では、裁判官の数よりちょっと少ないくらいの数から12名くらいまで出ましたけれども、別に全員が具体的な数について意見を表明したわけではありませんので、それに余り拘束される必要はないと思います。
もう一点だけ、審議会の模様をお伝えしますと、多様な意見を反映させるという点については、必ずしも意見が一致したわけではなくて、政治的な意見の反映ではなく、世論調査をするようなこととは違うという意見も、私も含めて表明されました。ですから、その辺は必ずしも一致した考え方ではなく、いろんな考え方があるということだと思います。
○ 先ほどの御意見につき、若干異論があるのは、一つは、裁判員制度の趣旨として国民主権そのものの出てくる話ではないだろうという点です。要するに、選挙で裁判員を選ぶわけではなくて、無作為抽出という、意見書に書かれているような方法でやる以上、そこは違うのではないかというのが第1点です。
第2点が、確かに抽象論としては様々な意見の反映というのは分かるわけですが、今、座長の御紹介にあったように、裁判員の数が仮に最大10名ちょっとぐらいだということになると、母集団との関係において、意見書の言う選出方法を前提にして、本当の意味で、○○委員がおっしゃったような、いろいろな属性が反映されるということが可能かどうかというと、私は統計学の専門家ではないんですが、多分数学的に見て無理な話であろうかと思います。
○ 要するに、政治的な主義主張を集約するわけではなくて、例えば、ある人間が、ある場所で、ある男を殴ったのか殴らないのか、それについて、殴ったという証言をする人がいて、殴っていないと証言する人がいて、どちらが本当かを判断するということになるわけです。
そもそもそういう意味での作業なんだという前提で考えると、多様な意見を反映させると言っても、それはおのずから一定の範囲内に収まるというか、それほど多様なものではないということになる。ですから、各階層から、老若男女合わせて、そこへそろえておかなければ、うそか本当かの判断が的確にできないというものではないということだと私は思います。
○ 私が申し上げているのは、うそか本当かを判断するために必要だと言っているんではなくて、国民がこの制度をどう見るかということなんです。意見書は、健全な社会常識を反映させるということを、重要な趣旨として言っているわけで、なるほどそれは健全な社会常識を反映していると、個々の事件についてどうかは別にしても、反映させる仕組みだと国民が受け取る、あるいは、座長がおっしゃっているように、これは私たちの裁判だと、司法は私たちのものだと、私たちが担っているんだという気持ちを持つ仕組みにする必要があること、これは意見書の立場から導かれるんではないかと思います。
□ そのことと、多様な見方を反映させるべきかどうか、あるいは、反映させるにはどのぐらいの規模が必要かということとは、視点が違うと思いますね。しかも、価値観が違うとか、立場によってものの見方が違うということが意味を持つのはどういうところかということについても、審議会でも意見があって、規範的な評価の部分、例えば、わいせつかどうかといった点では、そのことが意味を持つかもしれないけれども、○○委員がおっしゃったような、証拠の評価とか、信用性の評価については、価値観とか立場の違いで意見がそんなに違うものだろうか。これに対して、プロで平生慣れている人の見方と一般の社会の人の見方とは確かに異なるかもしれない。そういう意味での健全な常識の反映というのが国民参加の主旨ではないかという意見がありました。
○ 意見書の枠外に書いてありますけれども、私は大事だと思っているんですが、102 ページのところに、「一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるようになることによって、国民の司法に対する理解・指示が深まり、司法はより強固な国民的基盤を得ることができるようになる」という指摘があるんです。裁判員制度の目的というのは、このことだと思うんです。司法がより強化な国民的基盤を得ることなんだと思うんです。制度目的から考えると、一般の国民が参加する制度が、そういう目的を果たすようでなければ導入する意味がないと思うんです。
しからば、どの程度であれば、そういう役割が果たせるかということになるんでしょうけれども、私は、ある程度の人数が参加するという形を取ってほしいと思います。これは、具体的に言えと言われてしまうと思うんですけれども、私は、裁判官の数と一般の国民とが対立的な意味で言っているんではないんですけれども、一般の国民の数が裁判官の数より少なかったりするような状態では、国民の司法参加という意味が果たせないんではないかという気がしています。
今日いただいた、事務局で作ってくれた資料を見ますと、法定合議事件というのが、4,569 人の終局人員数なんですね。これに仮に10人裁判員が参加するとすると、4万5,000 人ぐらい要るのが、2人だったら9,000 人で済むんだというようなことですね。
そうすると、訴訟経済というと変ですけれども、国民の負担ということだけでなくて、財政的な負担もあるでしょうし、いろんな問題があって、どのくらいのところで線を引くのがいいのかなということを考えるんですけれども、ちょっと思っていることは、他の国で参審制度を取っている国は、いろんな制度の仕組みがありますね。裁判体の構成にしても、裁判官が単独のところもあれば、2人のところも3人のところもある。○○委員は、3人の裁判官というのが、当然の前提だというふうに言われたけれども、そうではないかもしれないという気が私はしているんです。裁判官一人で、それに複数の市民が参加するという裁判体をつくっても、おかしくはないのではないかという気がしているんです。
例えば、法定合議事件が4,569 人、そのうち、法定刑に死刑又は無期懲役が含まれる事件になるとその半分になるという数字が出ていますけれども、死刑又は無期懲役が含まれる事件は、かなり大きな規模の裁判体でやる、だけれども、有期の懲役刑でとどまるような事件は、もうちょっと小さな裁判体でやるというような選択があったっていいであろうというふうに思います。
ヨーロッパの一部の国では、単独の裁判官に複数の市民が参加してつくっている裁判体が、もし事案の重大性から見てこれでは大変だというふうに考えたときには、裁判官の数を増やすこともできるし、参審員の数も増やすことができるという仕組みを取っている国もありますから、それは事案によって大法廷と小法廷というような形で考えることがあったって、いいのかもしれないなという気がしているんです。
ただ、私は、余りヘビーな制度をつくることは賛成ではないんですけれども、だからと言って、余り小さいものにしてしまったら、国民の参加という意味がないんではないかというふうに考えています。
□ 数の点から言いますと、実際に裁判員になる人だけではなくて、候補者に選ばれて裁判所に呼び出され、選任の手続の対象となるということもありますので、その候補者の数がどれぐらいかということが問題になりますし、また、おっしゃっているような対象事件の範囲、これは広げれば広げるほど参加する人の数は増えるので、その辺との見合いもあろうかと思います。
後の点は、恐らく○○委員とは意見が違うのかなと思いますが、裁判官一人に参審員二人ないし3人というところももちろん比較法的にはあると思いますし、裁判官二人をベースにしているところもあるわけですか、ただそれが我々が想定しているような重い事件を対象にした場合の数かどうかですね。その辺は○○委員が専門家ですけれども。
○ 今の法定合議事件ということを前提にして、特に法定刑の重い重大事件ということを言っているということになると、法定合議事件というものを残すかどうかというのが一つの問題になってくると思うんです。法定合議事件を残すとすると、法定合議事件については職業裁判官が3人であるということについては変わりはない。そのときにそれより重いものを職業裁判官一人にやらせて、裁判員の数を増やしてという形にするのは、形としてはおかしいかなという感じがするんです。
ですから、もし、今のような御意見を出されるんだとすると、もう法定合議を全部裁判員制度でやるけれども、軽いものには職業裁判官を少なくして、重いものについては裁判官3人でプラス裁判員という発想だといいと思うんですけれども、それをやっていくと審議会の意見に抵触しないのでしょうか。
□ 意見書は、法定合議の制度自体をどうこうするということには全く言及しておりません。法定刑の重い罪について国民が参加する裁判員制度を取り入れるべきだということしか言っていないのです。
○ 私が言いたかったことは、いろんな制度設計があり得るんではないか。つまり、国民の負担だとか、財政的な負担だとか、そういういろんなことも考えて、いろんな制度設計をもうちょっと考えてみたらどうかという気がするということなんです。
□ 御趣旨は、国民が参加する意義があるようなものを対象にすべきだということでしょうか。
○ 私は、もともと軽い事件に導入するべきだというような意見なもんですから、これは明白に意見に反することになると思っているんですが。
□ 意見書も、まず重い事件から始めようということなので、将来そういう可能性を封じているということではないと思います。
○ まだこの論点はしばらく続けていいですか。
□ そろそろ次に進まないと・・・。
○ 先ほど○○委員の御意見、○○委員の御意見の中で、健全な一般国民の社会常識がどのような形で反映されるのが望ましいか、そこのところが大事だという観点が、それからもう一つ、意見書の中で言われている、国民の司法に対する理解、あるいは、司法がより強い、強固な国民的基盤を得ること、これが基本理念だという観点が出されました。まさにそのとおりなんですが、私は、そのことから直ちに、裁判員の数が多くなければならないという結論、あるいは、合議体全体の人数が多くなければならないという結論にはならないと思います。健全な社会常識を反映する仕方とか、国民的な基盤を裁判員制度に与えるということを考えると、そこに関与することになった個々の国民が、責任を持って、有罪・無罪の決定あるいは量刑という、一人の被告人の運命を左右するような重大な決定に関与するというところがポイントになる。意見書にもあるように、一般国民の方が裁判官と相互のコミュニケーションを通じてお互いの知識経験を共有する、そういうプロセスが大事なわけです。健全な社会常識を反映し、あるいは国民的な基盤を与える、そして、外から一般の方が見てもそうなっているというふうにするためには、実のある合議ができなければいけない。
そうだとすると、むしろ結論は逆で、余り多数の方が一緒になっても実のある議論はできないので、私は、そういうことを踏まえた上で、コンパクトな合議体が望ましいのではないかと考えております。
○ 個々の選ばれた国民が責任を持ってやることはそのとおりだし、またそのことを全然疑ってはいない一人なんですけれども、これは、今回裁判員がどのように選ばれて、何を担当するかという仕組みとも深く関わると思うんです。さっき別の点で出ましたけれども、無作為に選ばれて、選ばれた事件だけを担当して、また社会に戻っていくという仕組みですので、こういうふうに選ばれてくる人だということを合わせて考える必要があると思います。そうだとすると、選ばれる国民の方が相当多くなければいけないというふうに思うわけです。
もう一つは、さっき○○委員から出ましたけれども、確かに今は裁判官の数は合議では3人ですし、明治以来ずっと続いてきたことですが、これは、考えてみれば、裁判官だけが裁判を担当していて、そして、その合議つまり刑罰権の行使を慎重にしろという趣旨で3人にしたということでは、十分理解できるわけですけれども、これは裁判官だけが裁判をするという仕組みの下での合議制だと思うんです。
さっき岩松判事のことに触れましたけれども、もし合議の本質が、裁判官が集まるということよりは、異なった主観性を集めて客観性を担保するというところにあるとすれば、まさに今度の裁判員制というのは、むしろ違う主観性を入れて合議をするという、新しい合議の仕組みですので、そこで裁判官が3人というふうに当然に前提とされる必要があるのかということは、考えてみる必要があると思います。
また、3人を割る合議というのが、非常にペキューリアなものかというと、実はそうではなくて、例えば、最高裁も、これは民事についてだったと思いますけれども、昔2人合議制というものを通達で提言したことが確かあったと思います。だから、裁判員制は新しい合議制ということから、裁判官の数も新しく発想してみたらいいんではないかと思います。
□ だんだん話が大きくなってきたのですけれど、その点は対象事件をどのくらいの範囲に設定するかということとも関連すると思うのです。その辺の議論もした上でまた、ということにしたいと思いますが、一点、岩松判事がおっしゃった、違う主観を入れるというのは、複数の裁判官による合議体のことを念頭にして述べておられるものであって、裁判官以外の人を入れるということまで意味しているわけではないのではないでしょうか。
○ 今の裁判所法の精神を書いていらっしゃいますので、それはその前提です。
□ ですから、元々の趣旨を拡大されるのはいかがなものかなと思いますね。
○ 私はそこまで読んだんですけれども。
□ ここの議論を続けていますと、まだまだ何日も続けられると思いますけれど、ひとあたりの議論としてはこの辺にして、次に移らせていただきたいと思います。
余り時間がないのですが、次も、今の問題と密接に絡む問題で、評決の在り方という点について御意見をお伺いしておきたいと思います。
この点も、裁判官と裁判員の数だけの問題ではなく、評議の在り方や評決の方法と密接に関係しているので、そのことを念頭に置いて検討することが必要だと、さっき御紹介した意見書にも書かれているところです。ただ、意見書では一つだけ条件を付けていまして、それは、104 ページのただし書きですが、「裁判官と裁判員とが責任を分担しつつ協働して裁判内容を決定する制度の趣旨、裁判員の主体的・実質的関与を確保するという要請を考慮すると、少なくとも、裁判官又は裁判員のみによる多数で被告人に不利な決定(有罪の判定など)をすることはできないようにするべきである」と提言しているところです。
このことを前提にして、御議論いただきたいと思います。
どなたからでもどうぞ。
○ 意見書のただし書きの部分はひとまずおきまして、まず大原則から考えていきますと、現在の裁判所法の定める合議体の評決方法の基本は単純多数決です。例外は、憲法に書いてある、法廷の公開を停止する場合の全員一致だけで、あとは全部単純多数決になっております。裁判員制度も同じように合議体による裁判という方式を採ること、そして、ここに他の合議体の裁判内容の決定方式と異なったものを持ち込む積極的な理由は、特に認められないと思いますので、原則は単純多数決という形でいくのがよいと思います。
もちろん、合議体全体の構成員数に絡んで、裁判官、裁判員のどちらかのみの多数で被告人に不利な決定をできないようにするという条件は入ってくるわけですけれども、その大前提は単純多数決とすべきであり、他の合議体の裁判の決め方と、特段変わったものを持ち込む積極的な理由は考えられないということです。
□ ほかの方、いかがですか。
○ 意見書の103 ページにありますように、裁判官と裁判員はともに評議して、評議において裁判員は基本的に裁判官と対等の権限を有すると書かれているわけですから、基本的には単純多数決ということになるんではないでしょうか。
□ ほかの方は、いかがですか。
○ 私は、少なくとも裁判官又は裁判員のみによる多数で、被告人に不利益な決定をすることができないようにするという趣旨は、これは、もともと3分の2にする趣旨なのかなと見たんですが、どうも必ずしもそうではないようで、要するに、一方的な意見だけで決めてはいけないということですね。この字義どおり取らなければいけない。
□ 受け取り方は様々だと思いますが、合意したのはそういうことです。その理由としては、一つは、裁判員が参加する意味を保つということであり、もう一つは、憲法論が絡んできまして、その点については、また追って御意見を賜りたいと思いますが、幾つかの理由から最終的に、こういうことでいいだろうということになったのです。
○ そのことを一つ踏まえながら、今までの沿革的なものを見ていると、裁判官制度を廃して、とにかく素人裁判官を入れようというときには、その結論に慎重を期すようにということで、過半数ではなくて3分の2というのが出てくるのだと思われます。例えば、ドイツ、フランスなんかだと3分の2、有罪・無罪の決定については3分の2というのは、そういう背景が恐らくあるんだと思います。
ところが、今の職業裁判官の制度というのが良くできていて、それにいわゆる裁判員を入れるというときに、どうも今までの発想と違うような感じがする。だから、むしろ、過半数というのは全然動かさないで、そのままでいくというのが筋かなという気がしているということです。
ですから、これを3分の2というのも一つの考えですけれども、過半数というのは先ほど○○委員が言ったような意味で、ちょっと大きな原則なんで、ここはいじらない方がいいのかなというふうに思いました。
○ これは裁判官と裁判員の数をどうするかと連動してくるから、これだけでは余りね。
□ この段階で結論を出す必要はなく、他の論点も一通り議論してからまた議論していただこうと思います。ここだけ取り出してどうこうというのは、確かにおっしゃるように、難しいと思いますね。
○ 非常に単純に過半数としておいても、少なくとも裁判官又は裁判員のみによる多数で、被告人に不利な決定をすることはできないとするという修正は考慮に入れないといけないですね。
基本的に、我々のマンデートというのは、この意見書の枠内においてできるだけ知恵を出し合って、使い勝手のいいものを考えていきましょうということなのだから、単純過半数と言ってみても、このただし書きが入るという前提での単純過半数です。
○ 先ほど、「いわゆる職業裁判官と裁判員の数が同等あるいは」と言った、「同等」というのは、過半数を前提にすると、同等しかあり得ないかなという感じがちょっとしまして、それで同等という言い方をしたんです。
□ 「基本的に対等」の権限というのは、評決の仕方は単純多数決以外の形もあり得るので、もしそうなると、1票の持っている意味が裁判官と裁判員とでは違ってくるかもしれない。そういうことも含んでいるのですけれども、それだけに限らず、先ほどの訴訟手続上の事項についての判断権が仮に裁判官のみに属するとすると、裁判官と裁判員は完全に同じではあり得ないといったことなど、いろいろな点で違いはあり得る。しかし、重要な部分においては実質的に同等の権限を持つということなのです。
皆さんお疲れのようで、もう少し先まで議論しておいていただきたかったのですけれど、これから次の論点に入りますと、さらにかなりの時間を費やすことになると思いますので、積み残しで申し訳ないのですが、今日はこのくらいでおしまいにするのが穏当なところかなという感じがします。よろしいでしょうか。
○ 1点だけいいですか。
□ はい、どうぞ。
○ 先ほどの御意見に関連してちょっと思ったことなんですけれども、この裁判員制度をどうしていくかというのが、少なくとも当検討会では、中核部分になるわけです。そのときに、意見書102 ページにありますけれども、この制度が所期の機能を発揮するためには、国民の積極的な支持と協力が不可欠になること、制度設計の段階から、今の段階から、国民に対して十分な情報を提供して、国民的な議論をしていかなければいけないこと、こういうことが提起されているわけで、このことは我々は念頭に置いておかなければいけないと思うのです。そのことだけ付加して申し上げます。
そうしませんと、制度はできました、しかし、動きませんでしたというのは、最大の悲劇で、多分、治安とか法秩序に対する影響がものすごく甚大になると思いますので、このことだけを発言させていただきます。
□ そのことは審議会でも、委員のすべてが意識していたところでして、せっかく良い制度を提案しても、国民のみなさんがそれを自分たちのものとしてやってみようというふうに思っていただかないと、そもそも法律も通らないかもしれませんし、仮に通ったとしても、実際に動かないと思うのです。それはおっしゃるとおりでして、我々も十分それを意識していかなければならないと思いますね。
○ ここでの議論も、ここだけの議論で終わるのではなくて、各委員はそれぞれ国民とのチャンネルを持っておられるわけですから、国民がこの裁判員制度に対してどういう形で受け止めているかということを十分考えていって、国民の方々が、国民の義務にはなるんでしょうけれども、自分たちがやるべきだということで、司法に参加してきてくれる制度設計を我々は考えていくべきだろうと思います。
□ このくらいでよろしいですか。
それでは、これで本日の議事は終了したいと思います。次回は7月10日、午後1時30分からでございますので、よろしくお願いいたします。
どうもありがとうございました。