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裁判員制度・刑事検討会(第6回) 議事概要

(司法制度改革推進本部事務局)
※速報のため、事後修正の可能性あり

1 日時
平成14年9月3日(火)13:30~18:10


2 場所
司法制度改革推進本部事務局第1会議室


3 出席者
(委 員)
池田修、井上正仁、大出良知、清原慶子、酒巻匡、四宮啓、髙井康行、土屋美明、平良木登規男、廣畑史朗、本田守弘(敬称略)
(事務局)
山崎潮事務局長、大野恒太郎事務局次長、古口章事務局次長、松川忠晴事務局次長、辻裕教参事官

4 議題
「刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入」について


5 配布資料
資料1: 統計資料
資料2: 裁判員制度に関する当面の憲法上の論点(補充)


6 議事
 「裁判員制度・刑事検討会における当面の論点-刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入-」(第2回配付資料2)に沿って、刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入に関する当面の論点について議論が行われた。
 議論の概要は、以下のとおりである。

(1) 公判手続の在り方

 前回に引き続き、公判手続の在り方に関して、主として以下のような意見が述べられた。

ア 鑑定について

  •  今の刑事裁判では、精神鑑定等を行う場合、審理の途中で鑑定人の選任が行われ、鑑定作業が終わるまで相当の期間審理が止まってしまう。裁判員が審理に加わるとなると、その中断はできる限り避けなければならないから、公判開始前の新たな準備手続において鑑定人の選任を済ませ、鑑定の結果が出たところで公判を始めるという工夫が是非必要である。一般の刑事事件についても集中的に審理を行う必要から同様のことがいえるが、とりわけ裁判員が入った事件についてその必要性が高い。
  •  審理が中断すると、記憶が薄れ、記録の読み直しという大変な努力が必要になるから、中断は出来る限り回避すべきである。これまでは、第1回公判前の事前準備でどこまでのことができるか疑念があり、鑑定の要否までは判断できなかったが、裁判員制度を導入する場合には、実体問題に踏み込んでもその点を判断できるような仕組みが必要となろう。後の公判の証拠調べの結果、前提事実が違ってくるような場合もあり得るが、そういう場合でも、鑑定人に対し、このような証拠が加わった場合にはどうだろうか、と口頭で意見を聞くなど、簡易な方法で済ませることが望ましい。
  •  前提事実、例えば、犯行の動機や態様につき争いがある場合は、公判で、書証が同意され、あるいは、証人尋問をした段階で、初めて鑑定が可能になるのであって、準備手続では鑑定ができない場合もあると思う。鑑定により審理が中断する場合の対処も考えておかねばならない。
  •  前提事実に争いがあっても、前提事実についてできる限り争点整理を行い、鑑定を前倒しにするのが望ましい。
  •  第1回公判前に鑑定の必要性を判断することが困難な場合も少なくない。当事者の主張のみによっては判断できないし、準備手続の段階で、相当の判断資料が得られていることが前提となろう。例えば、責任能力に疑問がある事件では、捜査段階で鑑定が既に行われていることが多いと思われ、再度鑑定をやる必要があるか否かとなると、公判で事実を調べていって初めて判断できるという場合も多いと思われる。また、公判開始前に判断するとなると、鑑定を広く認める結果となる可能性が高く、審理の中断は回避できるにしても、判決までに必要以上に時間がかかってしまうという面もある。
  •  証拠を調べてみないと鑑定の必要性が分からない面があるのは確かだが、事件によっては、今よりも前倒しで証拠調べをすべきではないか。精神鑑定には非常に時間がかかるので、現在の実務では、それだけの時間をかけるに値する、必要性の高いものしか認めていないが、前倒しでやることになると、両当事者間に争いがある場合には、もう少し広めに鑑定を認めることになるのではないかと思われる。
  •  準備手続で鑑定をした場合、その結果をどう扱うべきか、また、その段階で再鑑定を行うことも可能なのか。準備手続においてどこまで実体問題に踏み込めるかに関わってくるので、検討する必要がある。

イ 説示について

  •  争点整理、公判審理の結果を踏まえて、評議に入る前に、裁判長が何らかのまとめを公判廷で行うべきではないか。評議自体はオープンではないので、評議の後に出された結論との関係で、評議の過程を評価できるようにする必要がある。裁判員にとっても、判決の前提としての評議の枠組みを共通認識とできるような手続的保障があった方が望ましい。
  •  そのようなまとめを公判廷で行わなければならないという理由が理解できない。
  •  職業裁判官が公判廷で説示しなければならないという考えは、意見書が提言している裁判員制度の基本的な構造と両立しないと思われる。現在の職業裁判官による合議体は、各審理期日ごとに合議を重ね、徐々に意見を詰めていくという評議の仕方をしており、これは裁判員が加わっても変わらないと思われる。特に、意見書は、プロの裁判官と裁判員とが協働してコミュニケーションしながら判決を導いていくことを求めているのに、なぜ、最後の段階で突然プロの裁判官が公判廷で裁判員に説明をしなければいけないという話が出てくるのかが理解できない。
  •  1日で結審する事案もあるし、夕方に審理が終わり、裁判員が裁判官室に残ることができない場合もあろうから、期日ごとに評議を重ねるというのは必ずしも裁判員にはあてはまらない。協働についても、裁判員と裁判官の協働の保障措置が必要であり、密室で議論が行われた場合、法廷での審理との関係でどのような評議をしたのか、外部からは推測できないという問題がある。
  •  裁判員のための措置ということであれば、説示を公判廷でやる必要はないのでないか。比較法的に見ても、法廷で説示しているのは陪審を採用している国のみであり、陪審が独立して判断するのに裁判官が不当な影響を与えてはいけないということから法廷で説示がなされることになっている。これに対し、裁判官と参加する国民が一緒に合議を行って判決を作る参審制の国では、公判廷での説示などはなされず、対外的にも、合議の結果作られる判決の理由で説明するというやり方になっている。しかも、公判廷での説示が必要という考えを貫くと、説示が終わるまでは、裁判官と裁判員は一切評議をしてはならないということになるのでないか。
  •  公判廷での説示には反対である。当事者がここが争点と思っていても、裁判所としてはそこは全く関係ないとの心証を固めている場合があり、そのような場合には、裁判所は心証を開示して裁判所が争点と考えるところを争わせるわけだが、裁判官と裁判員とが公判の中間でも評議することができないとするとそのような心証開示もできなくなり、全く無駄な審理を重ねてしまうことになりかねない。また、そういった評議の内容は判決の理由としてきちんと表現され、それが間違っていたら控訴審で破棄されるわけで、その過程の検証は十分できる。さらに、公判廷で説示を行うとなると、仮定的な議論についても裁判所の判断を示さなければならなくなる。すなわち、非常に難しい法律問題ではあるが、この事件では前提事実が異なるから踏み込まなくてもよいと裁判所が考えている論点がある場合、当事者がそれを争点の一つとして争うと、裁判所としては、判決を書く上で何ら必要がないのに、その点についての裁判所の解釈を示さなければならなくなってしまう。

ウ 判決書について

  •  判決は、誰がどの程度のものを書くのか、という点も議論すべきである。裁判官が判決を書くとしても、その内容は裁判員にも分かりやすい簡略なものとすべきでないか。また、裁判員による判決内容の確認が必須であるが、手続的にどう担保すべきか。
  •  審議会意見が、裁判員制度の下での判決書につき、現在の判決書と基本的に同様のものとすべきとしている趣旨には3つある。第1に、判決書に事実認定及び量刑につき実質的な理由を示すことによって、それ自体として、その正当性を明らかにするということ。第2に、判決の理由を両当事者に納得できるような形で示すということ。第3に、当事者に不服がある場合、判決に示された理由が上訴の手がかりとなり、また、それが上訴審での審査の対象ともなる。これらの理由から、現在の判決書とレベルとして同程度のものが必要というのが審議会の一致した意見であった。
  •  判決書に裁判員の署名押印が必要とすると、言渡し時に原本が出来上がっていなくてはいけないということになる。逆に、裁判員の安全確保という観点からすると、裁判員の署名押印を要求しないということも考えられる。
  •  現状では判決言渡し時の判決原稿と呼ばれるものを作成するのに数か月かかる例もあり、かなり時間を要している。裁判員は言渡しにも立ち会う必要があると考えられるから、裁判員は評議終結後裁判官が判決を作成する間は仕事等に戻り、言渡しの日だけまた出てくるということになろうが、それでよいのか。例えば、裁判員の負担の観点から、言渡しはある程度簡略なもので行って、その後、裁判官が現在のように詳細な判決書を書くということも考えられよう。
  •  終結後、評議を経て判決を言渡すまでの時間は2、3週間程度にすべきである。しかも、言渡し時に原本ができており、裁判員にも署名押印してもらうのが本来であろう。問題は、今程度に綿密な判決書がその程度の時間でかけるのか、という点で、もしそうするのであれば、毎日審理後に合議をみっちりやっていることが必須の前提となる。
  •  裁判員に判決書の内容を確認してもらう必要があるとしても、各裁判員に1回見てもらい、それを何らかの形で記録に残しておけば足りるわけで、必ずしも、署名押印や、言渡し時の列席が必要ということにはならない。判決書の作成に時間がかかる事件があることも考慮し、その辺りの制度の組み方は柔軟に考えてよいのでないか。
  •  裁判員の立場からすれば出てくる回数は少ない方がよく、セレモニーみたいな判決言渡しにまで出てこなくてもよいのではないか。評議の結果が何らかの形で記録されるのであれば、判決書への署名押印も必要ないのではないか。
  •  現在のやり方では合議の過程・内容は裁判記録に残されない。裁判員による裁判書への署名押印を要求しないのであれば、合議の記録化を検討すべきとの考えもあるかもしれないが、そこは裁判官を信頼するという考えもあり得よう。

エ その他

  •  量刑手続を事実認定手続と分離する必要がないか、についても議論する必要がある。
  •  裁判員制度と今の手続二分の考えとの間に論理的な結びつきがあるあるのか、よく分からない。
  •  日本の裁判では純粋に量刑のための証拠というのは少ない。罪体に関する事実関係が即量刑資料ということになっており、日本のような量刑の仕方からすれば、手続を二分することはできない。
  •  例えば、前科の証拠が裁判員にどのような影響を与えるのか、といった点は議論してもいいのでないか。

(2) 上訴の在り方

 上訴の在り方に関して、主として、以下のような意見が述べられた。

ア 控訴審の構成について

  •  裁判員を控訴審に関与させる必要はない。控訴審は、一審の当否を判決書、証拠、審理過程に基づいて吟味するもので、裁判員にはなじまない。また、高裁の管内から広く裁判員を集めることになるとすると、例えば、新潟や静岡から東京に出てきてもらわなければならず、負担が重過ぎよう。裁判に健全な常識を反映させ、司法の国民的基盤を確立するというのが裁判員制度の趣旨であるとすると、どの程度関与してもらえばよいかという話であって、一審にしっかり参加してもらえば足り、職業裁判官のみで控訴審を構成しても、裁判員が一審に参加した意義は十分あると考えられる。現実に円滑に動く制度として裁判員制度を設計し、導入することを重視すべきである。
  •  裁判員が控訴審に加わる必要はない。職業裁判官による一審判決に対する上訴審は現行のまま事後審として維持されようが、裁判員裁判についてのみ、これとは別の性格の控訴審を作るというのはおかしいから、後者もやはり事後審とすべきである。一審の記録を読んでその判決の当否を検討するという事後審の作業は、裁判官でも大変だが、非法律家には一層大変な作業と思われる。控訴審では法律問題だけが主張されている事件もある上、事実誤認といっても、かなりのものは事実認定上の法則違反による破棄が多いから、職業裁判官だけで判断してもよいのでないか。
  •  裁判員が一審に入った意味を考えると、控訴審にも裁判員を入れることを検討すべきであり、その場合、控訴審は覆審とするほかなかろう。控訴審の判断を優越させることの正当性は、一審よりも裁判体の構成員数を大きくすることによって根拠づけられるのではないか。
  •  人数を多くすればその判断が優越することが正当化されるというのは見かけだけのことにすぎないのでないか。意見書は、裁判員が関与した一審判決にも誤りがあり得るので上訴によりチェックする必要があるとしているが、どのような構成の裁判体や審理方式が誤りをチェックするのに適したものかということが問われているのではないか。
  •  職業裁判官による事後審的な審査についても、なぜ裁判員が入った一審の判決に対して正当性を持ち得るのかという問題がある。
  •  覆審というのは、ドイツの例を見ても、歴史的に、一審についての危惧感から出発しており、上級審で裁判をもう一度やり直させるという性質のものであるが、現在の我が国の制度は、一審を重視しており、今回の改革もそれをさらに強化しようとするものであるから、それを繰り返させるのは合理的でない。むしろ、控訴審は一審判決に対する批判的検討を行うべきものであり、そこから事後審性が導かれる。このような現在の制度はかなりうまく機能しており、事後審であることを前提として議論すべきであろう。
  •  控訴審においてはルール違反の有無を判断するというのであれば、職業裁判官のみがそれに当たるというのも説明可能と思われるが、控訴審が自ら心証をとり一審のそれと比較するとなると、職業裁判官だけの心証が裁判員が関与しての判断よりなぜ優越するのかということが問題となろう。
  •  その点は上訴制度というものはそういうものだというほかないが、実質的にも、証拠を積み重ねて判断していく一審と、判決書という既に出来上がったものを前提に批判的に吟味する控訴審とでは、判断方法がかなり異なるから、構成も一審と二審とで異なってもよいと考えられるのではないか。
  •  控訴審の作業の実態、裁判官のみによる裁判に対する控訴審との均衡等からすると、控訴審に一般国民を入れることが適切とは思われない。一審に裁判員が加わって司法の国民的基盤がより強固になることに中心的な意味があるのだから、控訴審は現行どおりの職業裁判官のみによる構成でもいいのでないか。ただ、裁判員が関与した一審判決を尊重するという意味では、裁判員が関与した事件の控訴については、控訴理由を加重することも考えられる。例えば、重大な事実誤認又は著しい量刑不当がある場合に限り、破棄できるとすることも一案ではないか。
  •  控訴審が心証をとり直すという立場に立つと、破棄要件を絞ったとしても、なぜ後のプロの裁判官の判断の方が優れているのかという問題が生じる。自判もできるとなると、問題点はより鮮明になる。
  •  量刑については判断に一定の幅があり、それを大きく逸脱しているかどうかで分けるということで、破棄要件を加重するということもできるだろうが、事実認定については、判決に影響する可能性がありながら、なお「重大」ではないとして破棄されなくてよいというような場合が考え得るか。
  •  例えば、現行法では、一審が未必的な殺意と認定しているが、二審は確定的な殺意を認定すべきと判断した場合に、判決に影響する事実誤認として一審判決を破棄すべきかという点については争いがあるが、破棄理由を「重大な事実誤認」とすると、そういったものは破棄理由に当らないということになろう。
  •  裁判員の負担という点から考えると、一審判決を維持する控訴棄却の裁判をする場合にまで裁判員を入れる必要性は認められない。とすると、破棄することが予想される場合に裁判員を入れることになるが、その場合には、破棄すべきだと考える裁判官の心証が裁判員に伝わり、裁判員が独自に判断する余地が小さくなってしまうという問題が生じよう。
  •  控訴審に裁判員を入れる必要はないが、破棄する場合には自判できず、すべて一審に差し戻すということにすべきである。量刑不当については、数か月刑を短くするだけのために差し戻すのかという訴訟経済の問題もあるが、自判してよい範囲を区分けするのは理論的に困難なところがあり、すべて差戻しとせざるを得ないのでないか。
  •  職業裁判官のみによる控訴審の破棄自判は、第一審への国民参加を軽視するものと見られるところがあるかもしれない。ただ、まずは一審での裁判員制度を始動させ、確立することが最も大事であり、最初の制度設計の段階から、控訴審の裁判員の在り方に余り比重を置きすぎることには疑問がある。むしろ、当面、控訴審は職業裁判官に委ねつつも、現状では自判が余りに多いので、破棄の場合は差し戻すという形で一審を可能な限り尊重してもらうようにするのが望ましい。また、控訴審は一審とは全く違う裁判形態であり、これに裁判員を関与させると一審の記録の読み込みといった別の負担を負わせることにもなる。まずは一審での裁判員制度の実現を優先し、一審での裁判員制度が確立した時点で、控訴審での裁判員制度を検討する方がよいのでないか。
  •  判断の性格として、白か黒かという事実認定と幅の問題がある量刑とは、質的に異なるから、純粋に量刑不当の場合は破棄自判を認めてもいいのでないか。
  •  量刑を争う場合にも、反省の程度等、量刑の前提となる事実関係に争いがある場合もある。量刑判断と事実認定の判断が質的に異なるとは考え難い。
  •  一審に裁判員が関与する趣旨が事実認定と量刑で違うのか、また、それに対する控訴審のチェックの仕方が質的に違うのかどうか、という問題であろう。実際的な側面としても、事実誤認は深刻な問題だが、量刑は幅の問題だからそこまでやらなくてもという感覚もあるかもしれない。
  •  迅速な裁判は国民が望んでいることであり、被告人にとっても利益になるから、破棄自判は認めてよいと思う。差戻審に裁判員を入れるというのは負担が重過ぎる。他方、国民参加の一審の判断を覆すのはやはり国民参加の制度でないといけないのではないかという気持ちもあり、正当性は裁判体の構成に求めるほかないように思われるので、高裁段階で、限定的にでも裁判員を控訴審に入れる制度があってもいいのでないか。ただ、全部の控訴事件についてそうするのは重すぎるから、裁判官が破棄すべしと考えた事件についてのみ、裁判員を控訴審に入れて自判させればよい。裁判官の心証が裁判員に伝わってしまうとの意見もあったが、伝わってもかまわないのではないか。プロの裁判官の目で見たことにはそれなりの理由があると思うし、問題は、素人がそれに納得するかどうかであろう。
  •  裁判員が入った一審でも誤りがあり得るからそれをチェックしなければならないとしても、それも一審と同じシステムでなければいけないかというと、別問題であろう。裁判員を入れてはいけないとまではいえないにしても、現実問題として、そこまで重い手続にする必要があるのか。覆審という意見もあったが、証人の負担、記憶の減退、迅速な裁判等の観点から、審理を全部やり直す覆審は到底採り得ない。自判か差戻しかという点については、量刑についての破棄自判は理屈が通りやすいと思う。同種事例の均衡という問題であるから、同種事件を扱っている裁判官に判断適格が認められ、その意味で裁判員を入れる必要もない。
  •  裁判員が参加すると、事実認定がより正しくなるという主張もあるが、審議会としてはそのような見解はとっておらず、裁判が正しくなるかどうかは分からないが、健全な社会常識が反映されること自体に意義があるとの立場である。そういう意味で間違いの可能性もあるから、その間違いを上訴によってチェックするということなのであるから、一審と同じ構成ややり方でなければならない必然性はなく、間違いを的確にチェックでき、是正できる方式であるとうことがむしろ重要なのではないか。
  •  裁判員を控訴審に入れる必要はない。今の控訴審は手続的な性格、技術的な要素が極めて強く、そこに裁判員を入れるのはどうかと思われる。また、裁判員の視点をどこかに入れなければならないとなった場合に、一番重要な一審に入れておけば、それはやがて控訴審にも反映されると考えられる。
  •  理念的には、国民参加の観点から控訴審にも裁判員を入れるべきとの考えに分があるが、裁判員制度そのものを高裁にまで持ってくる必要はないだろう。また、現実に制度を円滑に実施させるという観点からは、とりあえず一審の充実強化から始めるべきであって、高裁をどうするかは将来の宿題としておいてよいのでないか。

イ 差戻し後の手続について

  •  裁判員対象事件については差戻審にも裁判員の関与が必要である。今の実務では、高裁の記録を引き継ぎ、破棄判決の拘束力もあるということになっているが、それを前提とした審理は裁判員には困難である。差戻し後は一からやり直すという覆審とし、拘束力も認めない制度にすべきではないか。
  •  覆審とすると控訴審判決の拘束力を認めようがないが、そうすると、差戻審の判決に対し、再び控訴がなされ、また破棄されて差戻されるといった具合に、際限なく訴訟が続く可能性がある。
  •  裁判員の対象事件については、差戻審にも裁判員を入れることになろう。公判手続の更新から始める続審の手続となり、裁判員には、それまでの証拠がどうなっていたかを裁判員に説明することが必要だが、工夫次第で十分分かりやすく説明することができる。旧一審等における証言は書証となるが、その要点を分かるように告知することも、公判手続の更新の中で十分行うことができる。
  •  裁判官が記録を読んで裁判員にアドバイスできるという利点もあり、続審が妥当である。
  •  続審とし、破棄判決の拘束力も認めるべきである。素人の判断を取り入れる一審とプロの裁判官から成る控訴審との調和点として良い落ち着きどころである。

(3) 憲法との関係

 資料2について事務局より説明がなされ、これを手がかりとして、裁判員制度と憲法との関係について議論が行われ、主として、以下のような意見が述べられた。

ア 司法機関としての「裁判所」の在り方について

  •  (b)説は、憲法76条以下の解釈を根拠に憲法32条、37条を解釈し、そのようにして解釈した32条、37条を根拠に改めて76条以下を解釈しているにもかかわらず、あたかも、32条及び37条が、76条以下とは別個の外在的な制約原理として76条以下の解釈に影響するかのような説明をしており、いわばぐるぐる回りの議論になっている。76条以下の規定について、素人が入っても憲法上の「裁判所」となり得ると解するのであれば、32条、37条も、76条以下が規定する裁判所の裁判を受ける権利を保障したものと解し、そのような裁判所が評決した結果多数意見となった結論であれば、憲法上の「裁判」であると考えるのが筋でないか。
  •  (b)説は、裁判官の多数が無罪の意見の場合には有罪としてはいけないとの結論が憲法から直接導かれるとするが、十分な理由があるとは思えない。その実質的な根拠は、要するに、一般国民は判断を間違うおそれがあるという考え方にあるのでないか。
  •  (b)説等がいう評決の対象は、有罪・無罪の結論だけなのか。現実の訴訟では論点ごとに成否が問題となり、一つ一つ判断を積み重ねていかざるを得ないのであって、最後の結論部分だけについて評決要件を設けるのはいかがなものか。
  •  身分保障に関する憲法の規定は、裁判によって生活の糧を得ている職業裁判官に対し、それを奪う形での圧力がかけられることを排除しようとしたものであって、職業裁判官のみにしか適用されない。沿革的にも、陪審員や参審員は名誉職であって報酬や補償は考えられていなかったので、身分保障の規定が及ぶとは考えられず、これらの規定が存在するがゆえに、参審員・陪審員が憲法上排除されていることになるとは思えない。裁判員については、裁判の本質から要請される、広い意味での独立性、中立性・公正性が確保されていれば足りるというべきである。
  •  裁判員の中立性・公正性については、刑事事件については、憲法37条の「公平な裁判所」の文言も根拠となろう。
  •  議論のための議論であるが、職業裁判官の身分保障等に関する手厚い規定の仕方からして、憲法は、制度化・組織化され、日常的に事件処理に携わり訓練を受けている職業裁判官でなければ、公正性・中立性が担保できないと考えているとの解釈も成り立つのではないか。民間人を裁判体に入れる場合、(a)説が言うように、中立性・公正性を確保することは不可能と憲法は考えており、実際、無作為抽出だとすると公正性が保たれるとはいえないし、とりわけ、内面・心情の中立性という点で、裁判官の場合は裁判所内で常に私心に囚われないよう鍛えられているのに対し、裁判員にはそこまでのことが担保され得ないといえないか。また、現代は、行政以外にも色々な権力が存在しており、行政からの独立性、中立性等の保障のみでは不十分である。裁判所という国家組織内にいることによって、国家機関以外からの様々な圧力から守られているという面もあり、その意味で、(a)説のような考え方を仮に取るとしても、そこでいう中立性・公正性については極めて手厚く整備する必要があり、国家組織内にいるのと同程度の保護ないし「よろい」がないと、裁判員制度は合憲とはいえないのではないか。個人的には、意見書の言う裁判員と裁判官の「協働」が文字通り実現できる制度になれば、裁判員制度は合憲といえると考えているが。
  •  憲法制定時を考えてみると、裁判官は、天皇の官吏として裁判をし、司法省が司法行政的な権限を持って影響力を行使するということで、官僚制の下で苦労してきたという事情があった。したがって、職業裁判官であるからこそ、行政からの圧力を排除する規定が必要だったと考えられる。
  •  裁判官の身分保障の規定は、サラリーマンである職業裁判官についての規定であって、一般国民の司法参加については何も言及していないと思われる。無作為抽出で1事件のみを担当することが想定されている国民は同様の圧力を被るおそれがないというのが前提であろうし、また、理念的には、俸給をもらっている裁判官と異なり、無作為に選ばれる国民というのは、独立、中立、公正であるとの発想が憲法にはあると思われる。いずれにせよ、裁判官と同様の「よろい」が裁判員に必要とは思われない。
  •  裁判員について、職業裁判官と同程度の独立性、中立性・公正性が確保できるか疑問もある。憲法には、いわゆる「人民裁判」によりリンチのようになってしまってはまずいという考えがあり、だからこそ、制度的にそういうことにならない裁判官を裁判体の構成員として想定しているわけで、完全に職業裁判官を無視したような形の構成や評決の在り方は、憲法の趣旨に反することになるのでないか。
  •  32条、37条から「公平な裁判所の裁判」は要請されており、危惧されたような事態を憲法は当然容認していない。職業裁判官が入っていないからといって、直ちに公正性に疑問を差し挟まなければならないとは思わない。現行憲法の下でも、職業裁判官が必須の構成要素ではないとの解釈も成り立ち得ると思う。
  •  独立性、中立性・公正性が必要ということには争いはなく、その確保が容易かどうかという点で議論が分かれていると思われるが、裁判官が一人も裁判体に入らなくてよいのかという点はまた別の問題と思われる。仮に裁判官が裁判所の基本的な構成要素との考えに立っても、職能分担による解決もあり得るところで、例えば、アメリカのように、有罪・無罪の判定は陪審が担当し、量刑と法の適用は裁判官がやるとしても、全体として「基本的な構成要素」との要請は満たされているとの考えもあり得よう。
  •  職業裁判官が裁判所の基本的な構成要素であることは否めないとしても、裁判員が入ったからといって憲法76条以下がいう「裁判所」でないということにはならず、32条、37条の「裁判所」との関係でも同様である。とすれば、そこでの多数決について、(b)又は(c)説のような結論までが憲法から直接出てくるとは思えない。裁判員が入っても憲法の定める「裁判所」の判断である以上、それが裁判官の多数の意見と一致しないからといって違憲ということにはならない。被告人の利益になる方向での安全装置という実質論が背景にあるのだろうが、それは憲法論でなく立法政策の問題である。裁判官と裁判員とが評議を尽くした結果、評決でどの裁判官の意見も否定されたとしても、憲法が裁判官を裁判所の必須ないし基本的な構成要素として想定していることと矛盾するものではなく、(a)説が筋ではないかと思う。
  •  文理からして司法への国民参加が違憲とは思わないが、憲法の規定ぶりからして、裁判官が入らない裁判体というのは想定していないといえる。他方、裁判員制度導入の趣旨からすると、少なくとも、裁判官あるいは裁判員の一方だけで、有利不利を問わず判断できるというのはおかしい。(b)説は、まず、被告人を有罪にする方向では裁判員の評決権を奪ったに等しい点で賛成できない。また、無罪にする場合に同じ要件を要求しない点も納得がいかず、かといって、これを双方向にしてしまうと、裁判員の評決権を全く無視することになってしまう。憲法論としても、有利不利を問わず、裁判官の一人の賛成を必要とするというのが説明しやすいのでないか。
  •  少なくとも裁判官が一人は評決に参加していないと憲法上の裁判所の裁判とはいえないと思うが、評決における個々の構成員の意見は裁判官と裁判員の意見が止揚されたものと考えられるから、結論が裁判官の意見と同じでなくても合憲と考えるべきである。
  •  審議会では、憲法の規定からすると職業裁判官が意味ある形で裁判体に入っていなくてはいけないということが前提にあって、では、意味ある形というのは具体的にどういうことかという点で議論が分かれ、少なくとも裁判官の一人が結論に賛成していなくてはいけないという考えと、裁判官の多数が賛成していなくてはいけないという考えが示された。ただし、審議会意見自体については、憲法論か政策論かは明らかにされていない。被告人に有利な方向の判断でも国権の作用としての裁判である以上、本来同様に考えるべきであろうが、有罪判断のみならず無罪にも同様の要件を満たすことが必要とすると、有罪・無罪いずれの方向でも結論が出ない場合が生じる。この場合、もう一度裁判をやり直すという考えも理論的にはあり得るかもしれないが、それは適切ではなく、やはり無罪とせざるを得ないだろうから、評決要件を書くとすれば有罪方向のみしか書けないということもあって、意見書では片面的な書き方となったという事情がある。また、(c)説については、判決理由を裁判官に書いてもらうとすると、少なくとも一人の裁判官が賛成していることが必要だろうという発想もあった。
  •  結局、憲法が職業裁判官に求める必須性とか基本性は何かという問題であろうが、個人的には、職業裁判官を全く排除した裁判体、例えば、無作為抽出された人が手続主宰からすべてやるという制度になると、憲法の要請を損なうと思う。しかし、あとは立法政策の問題であって、(b)説なり(c)説の結論までを憲法が要求しているとは考えられない。諸外国を見ても、裁判官と国民が共に裁判体に加わる制度において、裁判官であるがゆえにその評決について憲法上特別な扱いをするといった例は承知していない。また、陪審であっても、裁判官が手続を主宰している以上、憲法の要請を満たすと考えている。
  •  裁判員だけの意見で裁判できるとした場合に憲法問題が一切生じないというところまでは踏み込めない面がある。どのような裁判体の構成でもよいということだと、極論になるが、例えば、裁判員は希望者から選び、結果として被害者あるいはその遺族ばかりが入ってきたということになると、違憲状態にならないとまでは言い切れない。しかし、そういうことにならないように、裁判員について独立性、公正・中立性を要求し、評決についても「協働」する形のものにしようと議論してきているわけで、憲法問題を生じさせないですむような制度設計は可能だと思う。
  •  (b)説は採らないほうがよい。裁判官と裁判員の評議の過程における相互のコミュニケーションを信頼して制度設計すべきと考えており、裁判員と裁判官との対立は起こらないと信じている。もちろん、対立した場合に備えて制度を作らなければならないのだろうが、自分の考えは(a)説に最も近い。

イ 司法参加を求められる国民の基本的人権について

  •  合理的な理由がある場合に辞退を認める制度にしておけば憲法問題はクリアできると思う。
  •  合理的な範囲で辞退を認めるべきである。例えば、信条として死刑に反対の人に死刑があり得る事件を担当させてよいかは微妙な問題であり、しかも、裁判員として務めることを刑罰で強制するとなると憲法違反の問題も出てくるかもしれない。現実には、そのような人はセレクションの過程における忌避等で排除されることになると思われるが、辞退する合理的な理由がない場合であっても罰則による強制は疑問である。罰則があっても現実に適用しない国も多いのであり、それは妥当とはいえないからではないかと思う。
  •  憲法が想定している「苦役」とはいえないと思うが、実際上、個人の負担とはなるから、十分な補償とか本業への配慮といった制度的な裏打ちが必要であろう。選挙権についても行使しない人が多くいるわが国の現状からすれば、罰則で強制するというよりは、セレクションの段階で意欲のある人を選ぶほかないのでないか。
  •  実際の運用に当たっては、どうしてもいやだと言う人を無理やり連れて来て、裁判員制度の目的を達成できるのかという問題もある。例えば、辞退を認める合理的な理由がない場合に、無理に引っ張ってくることまではしないとしても、それなりのサンクションをかけるといった考え方もあり得よう。
  •  罰則で強制するといっても難しい面がある。国民は1億人もいるのだから、出て来ない人にはこだわらなくてもよいのでないか。
  •  沿革的に見ると、司法参加は権利という発想があるので、通常の苦役を課すというのとは意味合いが違うのでないか。

(4) 次回以降の予定

 次回(9月24日)は、ヒアリングを行う予定である。

(以上)