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裁判員制度・刑事検討会(第6回) 議事録

(司法制度改革推進本部事務局)



1 日時
平成14年9月3日(火)13:30~18:10

2 場所
司法制度改革推進本部事務局第1会議室

3 出席者
(委 員)
池田修、井上正仁、大出良知、清原慶子、酒巻匡、四宮啓、髙井康行、土屋美明、平良木登規男、廣畑史朗、本田守弘(敬称略)
(事務局)
山崎潮事務局長、大野恒太郎事務局次長、古口章事務局次長、松川忠晴事務局次長、辻裕教参事官

4 議題
「刑事訴訟手続への新たな参加制度の導入」について

5 議事

 (□:座長、○:委員、●:事務局)

□ 所定の時刻になりましたので、第6回裁判員制度・刑事検討会を開かせていただきます。非常に暑い折、また、御多忙の折、御参集いただきまして、ありがとうございます。
 議事に入ります前に事務局の方から事務連絡があるということですので、お願いします。

● まず、メンバーの交替がございましたので、御報告させていただきます。前回まで御参加いただいていた中井最高検察庁検事が、法務省矯正局長に異動されました関係で、中井検事に替わり最高検察庁の本田検事に新たに検討会に加わっていただくことになりました。

□ それでは、本田委員から一言ごあいさついただきます。

○ 本田でございます。9月1日付で最高検の方に配置替えになりまして、中井検事の後を継いでこの検討委員を務めさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。

□ 事務局から、ほかに何かありますでしょうか。

● 前回の検討会におきまして、事務局の方から、現在当検討会における議論の対象となっている当面の論点について、広く国民の皆様からの意見を募集することを考えている旨御説明いたしましたが、これに関して御報告申し上げます。
 事務局では、8月1日より本検討会における当面の論点につき、意見募集を始めております。期間は8月1日から本年10月31日までの3か月間としており、電子メール又は郵送によって御意見をお寄せいただいているところであります。
 この意見募集につきましては、司法制度改革推進本部のホームページにおいて、その旨のお知らせをしているほか、各種の媒体を通じて広くお知らせすることとしており、既に幾つかの法律関係の雑誌には意見募集広告が掲載されるなどしているところであります。事務局といたしましては、今後ともできるだけ多くの国民の御意見をお寄せいただけるよう広報してまりたいと考えております。意見募集の結果につきましては、いずれ本検討会において御報告をさせていただきたいと考えております。
 なお、本検討会の検討テーマに関する意見募集とは別に、以前から、広く国民の皆様から事務局に寄せられた御意見につきまして、これまでの検討会でもその目録を席上にお配りしているところでありますが、本日も、その後更に寄せられた御意見について追加の目録を作成したところであります。目録に目を通していただいた上、御覧になりたいというものがございましたら、検討会の終了後など、適宜の機会に事務局の方にお申し付けいただければと思います。

□ それでは、前回に引き続き、刑事訴訟手続への新たな参加制度、いわゆる裁判員制度の導入に関する議論を行いたいと思います。
 前回同様、第2回検討会において配布し、御承認いただきました論点ペーパーに従って、そこに記載された論点を中心に順に議論を進めるということにしたいと思います。
 前回は、項目5の「公判手続の在り方」というところの途中で議論が終わっておりますので、本日は、その残りの議論をまず行い、その後、順次先に進んでいきたいと思います。
 なお、これまでにも御説明しているとおり、本日の会議で裁判員制度の導入に関する第1ラウンド目の議論を最後まで行いたいと考えております。御案内のとおり、非常に盛りだくさんの内容で、中身の濃い議論になると思いますので、できるだけ合理的な時間内で終了したいとは思いますが、推移によりましては、少し時間の延長をお願いするかもしれません。いつも申し上げることですが、議事がスムーズに進行するよう、御協力いただければと存じます。
 最初に御紹介しておきますけれども、前回の会議において、公正な裁判所による公正な裁判を確保できるような適正な仕組みということに関連して、報道の在り方についての話題が出ましたけれども、裁判員制度とメディアとの関係について○○委員の方から意見書が提出されております。お手元に渡っていると思いますが、この論点につきましては、前回既に一応の議論を済ませているところであり、また、本日は、今申しましたように時間の都合もございますので、本日のところは、○○委員から意見書をいただいたということにとどめて、これについての議論はしないこととさせていただきたいと思います。これを各自が読んだ上、その内容を踏まえて、第2ラウンドの議論に活かさせていただくということで、御了承いただければと思いますが、よろしいでしょうか。

○ 結構です。

□ せっかくの御労作ですので、心して読ませていただきたいと思います。
 次に、本日の議論のために事務局の方で統計等の参考資料を用意してくれたということですので、事務局の方から、これについて説明をお願いしたいと思います。

● お手元に配布いたしました資料のうち、資料1-1から1-4は統計資料でありまして、最高裁の資料に基づいて当事務局で作成したものです。いずれも主として裁判員制度の下での上訴の在り方を御検討いただく際の資料にしていただく趣旨で作成したものですが、内容について簡単に御説明いたします。
 まず、資料1-1「控訴申立人員及び控訴率(地裁)」ですが、ここで「通常第一審事件」と記載しておりますのは、第一審事件のうち、通常の公判手続によるものを言います。この資料は、通常第一審事件のうち、地方裁判所で判決がなされた事件全体のほか、裁判員制度の対象事件の例として司法制度改革審議会意見が言及している、法定合議事件、法定刑に死刑又は無期懲役が含まれる事件のそれぞれについて、控訴申立人員及び控訴率をまとめたものであります。
 例えば、平成13年について見ますと、地裁全体では、控訴申立人員が8,293 人、控訴率が11.8%となっておりますが、法定合議事件については、控訴申立人員が1,390 人、控訴率が31.0%、これが法定刑に死刑又は無期懲役が含まれる事件になりますと、控訴申立人員が828 人、控訴率が34.9%ということになります。刑が重くなるにつれて、控訴率が若干高くなっていることが見て取れるかと思います。
 次に、資料1-2の「控訴審における終局人員の控訴理由別内訳」ですが、控訴審における終局人員について、控訴申立人別に控訴理由の内訳を明らかにしたものです。毎年量刑不当を理由とする控訴が最も多くなっております。下の方の注の2の記載からお分かりいただけるように、複数の控訴理由を主張して控訴する場合もありますので、この表の各控訴理由の占める割合を単純に合計しますと100 %を若干超えてしまいますが、例えば、地裁が第一審の事件についての平成13年の統計を見ますと、被告人側控訴の約74%、検察官側控訴の約65%が、量刑不当を控訴理由の一つとしていることが分かります。
 次に、資料1-3の「控訴審における終局人員の終局区分」を御覧下さい。これは控訴審における終局人員の終局区分を示したものでありますが、地裁が第一審の事件についての平成13年の統計を見ますと、控訴の取下げにより約20%が終局しているほか、控訴棄却に終わったものが約64%であるのに対し、原判決が破棄されたものは約16%にとどまっていること、原判決が破棄された場合、自判される事件が圧倒的に多く、差戻し等は5件にとどまることがお分かりいただけると思います。
 最後に、資料1-4の「控訴審における破棄理由別人員」ですが、これは控訴審における終局人員のうち、原判決が破棄された人員について、その破棄理由の内訳を示したものです。地裁が第一審の事件についての平成13年の統計を見ますと、通常の量刑不当が21.7%となっており、これに第一審の判決後の情状による破棄を含めますと、量刑を理由とする破棄が約86%に上り、破棄人員の大部分を占めていることがお分かりいただけると思います。
 次に、資料2の「裁判員制度に関する当面の憲法上の論点(補充)」との表題の資料は、裁判員制度と憲法の関係を御検討いただく際の参考にしていただく趣旨で、当事務局で作成したものでありますが、内容については、憲法との関係を御検討いただく際に改めて御説明させていただくこととしたいと存じます。
 以上です。

□ ありがとうございました。今の説明につき、何か御質問はございますでしょうか。よろしいですか。それでは、内容に入りまして、関連のところで御疑問があればまた出していただくということにさせていただきたいと思います。
 それでは、早速中身に入っていきたいと思います。既に前回もかなり議論していただきましたが、論点項目5の「公判手続の在り方」について前回議論できなかった点に関して御意見があれば伺いたいと思います。どなたからでも結構ですが、どうぞ。

○ 公判手続の在り方とともに、第1回公判前の、いわゆる新しい準備手続の設計にもかかわる事柄ですが、私が承知しているところでは、今の刑事裁判で、途中で審理がしばらく止まってしまう一つの大きな原因、ひいては審理の長期化の原因になっている鑑定の問題があります。特に精神鑑定ですとか、難しい工学的な鑑定の必要が生じますと、審理が始まってからある程度進んだところで、裁判所が、鑑定人尋問という手続を行って鑑定人に鑑定をお願いする。それから、選任された鑑定人に詳しくいろいろ検討していただくことになり、その間は裁判の手続は止まってしまうということが多いわけです。しかしながら、今後、裁判員制度を導入して連日的に審理を進め、裁判員の方にも効率的に事件の中身を理解してもらい、裁判内容を決定していただくことになりますと、このような公判の途中での審理の中断はできる限り避けるべきであろうと思います。したがって、特に定型的に審理の中断が見込まれる鑑定につきましては、むしろ思い切って公判審理を開始する前の段階で、鑑定人を決め鑑定をお願いしておく、具体的には将来設計されるであろう新しい準備手続の段階で鑑定人尋問というような手続は全部済ませて、鑑定をお願いし、結果が出たところで、本番の審理をスタートするというような工夫が是非必要であろうと思います。これは公判審理の進め方・その中断を回避する仕組みとして考えておかなければならない論点だと思っております。

□ 今の御意見は、裁判員制度を導入した場合に、その対象となる事件についてそのようなことが問題となるということですか。それとも、刑事事件一般についても問題になるけれども、裁判員制度の対象となる事件については特に重要だという御趣旨でしょうか。

○ 審理を集中して進行させるという要請は、裁判員が入っている事件について特に強く求められるわけですけれども、他の刑事事件についても、中断を避け、迅速・効率的に審理を進める要請は基本的に異ならないという意味で、同じ問題であろうと思います。

□ 今、○○委員から出された点について、他の方の御意見はいかがでしょうか。

○ 私も、今の○○委員の意見に賛成です。できるだけ集中的、効率的な証拠調べをするため、そして、裁判員に入っていただいて、その人たちの事件に対する理解が深まって、継続するためには、今のような配慮が必要なのではないか。中断した場合には、その間に記憶が薄れるということがありますし、また、中断するともう一度記録を読み直さなければいけないという大変な努力が必要になりますので、そういうことが避けられるなら避ける方がいいのではないかと思います。
 確かに、今までは、第1回公判前というのは、事前の準備でどこまでできるかという議論があって、そのために、なかなか実体問題に踏み込めず、鑑定の要否というのが判断できなかったわけですけれども、そこはもっと実体に入ってでも判断できるような仕組みが必要なのではないかという気がします。
 もちろん、そうはいっても、新たな証拠がその後出てきて、前提事実が違ってくるということがあり得るわけで、その場合に、再度鑑定する必要が出てくるかもしれないのですが、できれば、そういう前提事実が違ってきて、もう一度鑑定人の意見を聞かなければならないとしても、それは口頭での鑑定のようなもので済ませてはどうか。前に鑑定を行った鑑定人に対して、後でこういう証拠が出てきているが、それを加えたらどうなのかということを簡易な方法で意見を聞けるような工夫も必要ではないかという気がします。

□ お二人からそういう御意見が出ましたけれども、いかがですか。

○ 私も基本的にお二人の意見に賛成です。現在のように途中で鑑定のために数か月中断するということは、特に裁判員制度の下では避けなければいけないと思います。ただ、そうなると、事前に両当事者がそれぞれ鑑定を準備するということが必要になるのだろうと思うのです。両当事者が事前に、どれだけ納得のいく鑑定を準備できるかというところが大事で、一つは、捜査側が持っている客観的な証拠の開示ということとも関係するでしょうし、被告・弁護側が一体どのような専門家にアクセスできるのかという点も問題になってくるのではないかと思います。
 それは、今後考えなければいけないことですけれども、そういったものを踏まえた上で、公判が連日的に行われるようにする努力ということが関係者に求められると思います。

□ ちょっとよく分からなかったのですが、両当事者がそれぞれ自分の責任で鑑定を依頼するという御趣旨ですか。現在の我が国の鑑定制度とは違いますね。

○ そうですね。私が鑑定と申し上げたのは、裁判所が行う鑑定ということのほかに、第三者である専門家の意見を求める証拠の収集という広い意味で使ったんですけれども。現在でも、例えば、実際どのくらい行われているか分かりませんし、それが証拠としてどのように採用されるかという別の問題はありますけれども、各当事者がそれぞれ専門家に頼むということもあり得ると思うんです。
 今後ますます審理を集中的に行うということになると、専門家の意見の採用の仕方が裁判所の鑑定になるのか、あるいは、それぞれの当事者が用意したものを別の形で証拠として使うことになるのか、それはいろいろあると思いますけれども、いずれにしても、専門的な知見の収集過程というものへの工夫が必要だと思います。

□ 両当事者が各自鑑定を依頼するというのはアメリカの制度ですね。それと現在の我が国の場合のような、裁判所が命じて行わせる鑑定とはもちろん両立し得ないものではないと思うのですが、最初のお二人がおっしゃったのは、むしろ裁判所が命じて行わせる鑑定のことだと思います。それについても、賛成だという御意見ですか。

○ はい。

○ 大きな争点がなければそれでいいと思います。けれども、大きな争点があって、極端なことを言うと、犯行の動機だとか、態様そのものについて大きな争いがある、検察側の請求証拠がどれだけ法廷に出るか分からないというような状況の中で、鑑定も全部準備手続でできるかというと、それはできないと思います。やはり、公判を開いて、証言なり書証類が同意その他によって法廷に出てくるというところまで進んで、初めて鑑定ができるという場合もあると思うんです。
 ですから、その辺の調整が難しいなと思うのです。

○ 難しい事件があるのは分かるんです。しかし、第1回公判期日前の段階で、前提になる事実についておおまかな部分だけでも争点整理ができた場合には、できる限り鑑定を前倒しにするのが合理的であると思います。

○ その部分に反対しているわけじゃないんです。

□ 鑑定の前提事実に争いがあるような場合ということですね。

○ ですから、公判段階で鑑定をし、そこで中断をしてしまうという事態がどうしても避けられない場合もあるのでないか。そういう場合には、どういう手続が必要かということも考えておく必要があるということです。

□ 中断された場合に、どういう対応をするのかということですね。
 まぜっ返すようですが、現在の公判段階で行う鑑定ですと、公判期日に、例えば、被告人質問が行われたり、関連する証人の尋問が行われ、それを鑑定人も聞いていて、そこで得られた情報を参考資料にして鑑定を行うということがあると思うのですが、新しい準備手続の中でそこまでできるとお考えですか。それとも、そういったことはあきらめざるを得ないということでしょうか。

○ そこまではちょっと無理なんでしょうね。

○ 第1回公判前に鑑定の必要性が分かるということは難しいですね。ですから、相当程度何らかの形で準備手続の段階で心証をとっているというか、あるいは、それについての判断できるだけの資料があるということが前提になるだろうという気はします。
 ですから、私は反対じゃないんだけれども、むしろ第1回公判前に限らず、公判準備でできることは、できるだけそちらの方でやるという趣旨だと理解すると、非常にこれが生きてくるかなという気がします。

□ もう一点、現在の実務では、ある程度心証をとった上で鑑定の要否を決めていると思うのですが、当事者の主張だけを基に鑑定の要否を決めるということはできないものなのでしょうか。

○ かなり難しいだろうと思います。両当事者が一致しているならいいんですけれども。やはりこういう問題になる事件というのは、検察側で捜査の段階で何らかの形で鑑定をやりますね。ですから、それに重ねてやるということになるわけですね。そうすると、捜査側がやっている鑑定に対するもの、あるいは、それに念を押すものということになってくるはずだと思うんです。そういうものの必要性が、いわゆる第1回公判が始まる前にはっきり分かるかというと、これは分かるものもあるけれども、分からないものもあって、後者は、最終的に事実を調べていって、その上でこれについてはやはり鑑定をもう一回やろうよと、こういうことになるんじゃないかという気がするんです。

○ 検察官としては、被告人に責任能力があると思うけれども、当然弁護人から何か言ってくるなという事件は大体想像はつきます。ですから、鑑定の要否の判断が、実際に公判をやってふたを開けてみなければ全く分からない、ふたを開けてみて初めて、これは鑑定が必要だと分かるということはむしろないと思っていいと思うんです。責任能力が最終的にあると判断するか、ないと判断するか、それは様々ですけれども、この事件は、公判段階にいけば、必ず責任能力が問題になるなという判断は、おおむね捜査の段階からつくと考えて議論してもいいと思うんです。

○ 問題は、当事者というか、訴追側と弁護側は鑑定の必要性が分かるかもしれないけれども、裁判所は、公判前の段階ではよく分からないわけですね。けれども、採用するかどうか判断するのは裁判所でしょう。

○ 結局、最終的にその必要性というのを調べてみないと分からないということはあると思うんです。しかし、今よりはもう少し前倒しで証拠調べをすべき事件もあるんじゃないかと思います。現在、精神鑑定についてはかなり時間がかかっていて、それだけの時間をかけて審理を中断するなら、結果としてどういうものが出てくるか、それが結論にどの程度まで影響するかを考えることによって、やらなくてももういいという判断がされている事件もあるわけです。このように鑑定に時間がかかるものですから、ぎりぎりのものしか鑑定を採用していないんですけれども、第1回公判前にやれば、もう少し広めに、両当事者に争いがあるような事件についても鑑定を行うことはできるだろう。そういうものは早い段階で採用すれば、審理の中断ということがなくなるんじゃないか。そういう意味では効果はあるんじゃないかと思います。

○ 恐らく鑑定を広く認める方向で判断することになるかもしれませんね。

○ 無駄になるかもしれませんけれども、鑑定を広く認めることそれ自体が悪いことだとは思われないわけで、むしろ前倒しで鑑定をやって審理を効率化できた、そういう結果が出た方がはるかに望ましいと思います。

○ 逆に言うと、鑑定自体が事件の審理を伸ばしている、審理に影響を与えているということだとすると、そこを広げるというのは逆のことになりかねない感じもする。つまり、普通の事件だったら半年で終わるところが、鑑定がえらく長引いてしまって、全体としてかえって長引いてしまうということはあり得ると思うんです。ある意味では、鑑定の採否がかなり慎重になされてきた背景には、そういうところがあると思うんです。ただ、鑑定を前倒しで行うことに反対ではない。

□ 他の方の御議論では公判審理が中断するということが懸念されていたわけで、そのおそれと、起訴後終結までにかかる期間全体が長くなるかもしれないということのどちらへの対応を優先させていくかという問題なのでしょうね。

○ その場合に、準備手続で鑑定を採用してだれかにお願いしますね。その結果についての処理はどういうふうに考えているんですか。準備手続のところで、更に鑑定を積み重ねるということも、場合によっては必要になる可能性もありますね。ですから、準備手続のところでどこまでやるということでお考えになっていらっしゃるのか。
 先ほどちょっと○○委員からも出ましたけれども、やはり実質に踏み込むということになったときに、準備手続をどうするかということとの関係抜きには議論できない部分があると思うんです。そこのところを、いずれ準備手続については議論するんでしょうから、そこでもう一度ちゃんと議論する必要があると思うんです。

□ いろいろアイデアを出していただきましたが、それについてもなお検討しなければならない問題があるという御指摘であったと思います。第一回公判期日前の新たな準備手続の中身については今後議論する機会がありますので、この段階では、今のようなご意見や問題点のご指摘を踏まえて、更に議論をするということでよろしいでしょうか。
 それ以外の点で、公判手続の在り方について、何か御意見があればお示しください。

○ 判決手続と言いますか、判決の関係で、判決をどの程度のものにするのかということも含めてですけれども、一応準備手続があって争点整理が予定されているわけですので、公判審理を経た後で、それに基づいて何らかの整理ということがあるのかどうか。それを説示という言い方をするのが正確かどうかはともかくとして、公判審理の結果を踏まえて、評議に入るときに、両当事者がやるまとめ以外に、何らかのまとめをするのかどうか。それも御議論いただければという趣旨ですので、そういうことをお聞きいただければと思います。
 あと、判決を、一体だれが、どの程度のものとして書くのか。それは、言渡しの時期と判決書との関係、その辺については多分議論が必要だと思うんで、今日は当然それは無理だと思うんですけれども、その点についてはほとんど触れられていなかったんじゃないかという気がしますので。私の意見は今は言いませんが。

□ 説示といわれましたが、両当事者が論告、弁論をしますね。それと別にということは、裁判所のだれかが、どの段階かで問題点等を整理をして示すということですか。

○ 裁判員が入っての評議ということになるわけですので、判決をどう作るのかということにもかかわっていると思うんですけれども、つまり、争点整理が行われて公判が始まるわけですね、その審理の結果、裁判所側が、そのポイントをどう見て、評議のときにどこを、どう議論するのか。それは判決の作り方にかかわってくる可能性があると思うから申し上げているんですが。

□ ちょっと意味がよく分からないのですけれども。おっしゃっている「まとめ」とか「整理」というのは、公判廷で行うということですか。それとも合議の中で行うということですか。

○ いいえ、公判廷です。

□ 裁判所側がというのは、だれが行うのですか。

○ ですから、そのことも含めて議論いただけばと思うんですが。

□ いや、御趣旨をお伺いしているのですが。

○ それは裁判官が行うということは考えられると思うんです。つまり、最終的に今の議論からして、可能性として、判決書自体、裁判官がお書きになるということも想定としてはあり得ると思うんです。それ以外の方法というのももちろんないわけではないと思うんですけれども。その場合に、評議のところで、裁判員の方たちが一体どういう点について、どう議論する必要があるのかということです。しかも、評議に入ってしまった場合には、もちろん、それはオープンではないわけですので、そこで出てきた結果というものを、審理との関係で、言ってみれば評価するということが可能なような方法を採る必要がないのかどうかということです。

□ もう少し具体的に言いますと、まず、手続の段階ですけれども、証拠調べが終わり、両当事者が論告・弁論をする、その前後に、裁判長が行うという御趣旨だと思うのですが、こういう論点があり、検察官の方はこう主張しており、弁護側はこう主張しているというふうに整理する。更に踏み込みますと、イギリスのように、各論点についてはこういった証拠が提出されましたと、そういうことも公判廷で説示ないし説明する。そういうことをお考えなのですか。

○ そういうことがあり得ないかということです。

□ その段階でそういった説示を行うとしますと、それ以前には、裁判官は裁判員に一切説明をしてはいけないということでしょうか。

○ そこまでは含んでいません。中間的に整理をするということはあり得るかもしれません。

□ 現在は公判の進行と併行して随時、合議を行っていると思いますが、それとは随分やり方が違いますね。

○ それは、裁判員が入って、審理過程というものができるだけ共通の認識によって進んでいくとか、あるいは、評議に入っているときに議論をしやすい、それから最終的には判決を作るときに、判決を作りやすい方法との関係ということになると思うんです。

□ それはだれにとってのことでしょうか。

○ 裁判員にとって、あるいは裁判官にとってもということになるんですけれども。

□ まだご趣旨がよく分からないところがありますが、他の方、どうぞ御意見を。

○ 公判廷で説示しなければいけないという趣旨なんですか。

○ そうです。

○ なぜそうなるんでしょう。

○ ということにならないかという趣旨です。先ほど申し上げましたけれども、判決自体をどう作るのかということにかかわっているというふうに私は思っているわけですけれども、つまり、今と同じような、どういうふうに申し上げるのが正確か分かりませんけれども、場合によっては長文にわたる、一々証拠をすべて挙げて、それについてすべて理由を記載するという判決形式というものを採るということが可能かどうかという問題があると思うんです。ですから、そういうことになったときに、できるだけ簡略な判決書というものを想定するということもあり得るだろうと思いますし、そうなった場合に、そこでどういう争点について、どう議論が行われ、判決が作り上げられるのかということについて、判決の結果と審理の関係というものについて、客観的にある程度その関係というものを内部にいて議論に加わった人間でなくても想定できるような手続的な保障があっていいんではないか、というふうに私は考えているからです。

□ ということは、要するに、裁判員にとってというよりは、合議の外にいる人にとってということですね。

○ も含めてです。つまり、対外的な説得力の問題です。

□ おっしゃっていることの趣旨がよく分からないのですけれども、判決を簡略なものにするにしろ、しないにしろ、それは公開の法廷で説示を行うことが必要だということには、どうも結び付いてこないように思われますし、少なくとも、その点の御説明がないと思うのです。公開の法廷でやるということは、当事者、傍聴人ないし対世間的にトランスペアレントになるようにするということを言おうとしておられるように思われるわけで、そうだとすると、ちょっと問題が違うのではないかという気がするのですけれども。

○ 要するに、裁判官が論告あるいは最終弁論で提示された論点と全く違う論点で評議をするのではないか。それをチェックするために、その評議の枠組みを公開の法廷ではっきりさせるべきだという趣旨ですか。

○ そうです。裁判員が加わって評議をし、最終的に判決という形でまとめるときに、裁判員がその問題について理解し、最終的に共通の認識の下に判決の前提としての評議を終えることができるような保障措置というものを作る必要があるんじゃないかということです。

○ それは裁判書の書き方とは若干違うんじゃないですか。

○ しかし、私は、絶対にと、今の段階でというつもりはありませんのでその点は留保させていただきますが、裁判官に判決書をお書きいただくにしても、裁判員による判決内容についての最終的な確認が必要だろうと思いますし、そのためには、裁判員が内容について理解できるもの、しかも、それが分かりやすいものということになってくれば、できるだけ簡略なものにする必要がある。そして、それを内容的に担保するものとしては、記録を残す必要があると思いますので、これも一つの論点だと私は思います。つまり、記録をどう残すかという問題も多分あると思うんですが、いずれにしろそのことを前提としながら考えますと、公判廷で一体どこをどう争点として確認する必要があるのかということについて、当初の争点整理から、その後の審理経過というものを踏まえた形でのまとめというものがあって評議に入るということができれば、それに越したことはないんではないかということです。
 私も最初に申しましたように、絶対的にそうだということを言っているんではなくて、その辺について議論をする必要がないかということを申し上げているわけです。

○ 最終答申は、判決書の内容については、今程度ということを言っていますね。ですから、簡略化ということは前提になっていないんですよ。

○ ですから、今程度ということですけれども、今程度というのはどの程度かというのはかなり議論があるところだと私は思いますので。

○ それは程度問題だということでしょうが、けれども、簡略化という方針は出てきていない。

□ むろん、その点も御議論いただいていいと思うのですが、少なくとも私が理解するところでは、審議会が、基本的に今と同様の判決書にすべきだと言っている趣旨は三つあると思うのです。一つは、その判決書の記載自体でその判決の正当性を明らかにする。つまり、実質的な理由が示されていて、それを読めば、どういう証拠に基づいてどういう証拠のとらえ方をして、そういう事実が認定されたのか。また、量刑についても、どういう事情を考慮して、そういう量刑が導かれたのかということが、判決書自体によって十分示せるということです。もう一つは、両当事者に対してそのことが納得してもらえるような形で十分説明できているということです。 第3番目は、その上で、両当事者に不服がある場合には、上訴をする、そのための第1の手がかりとるよう理由がちゃんと示されているということです。それはさらに、上訴審に行けば、それを手がかりにしてチェックをすることが可能だということも意味します。裁判員制度との関係で、作成の仕方や濃淡に一定の違いは出てくるとしても、質的には同じレベルの判決理由が示されているということが必要だろうというのが、審議会のほぼ一致した意見であったと、私は、そういうふうに理解しています。
 そこのところも御議論いただいていいとは思うのですが、いずれにしろ、その話と説示の話とは事柄が違うような気がするのですが。

○ 全般的な意見を申しますと、今、座長も言われていましたとおり、判決書の書き方と、公判廷で説示をしなきゃいけない、しかも、裁判官が説示をしなければいけないという制度の話との間には、論理的に関係はないと思います。
 それから、公判廷でプロの裁判官が、だれに対して何のために行うのかも私にはよく分かりませんけれども、仮に裁判員の方に説示をしなければならないという考え方と、意見書の言っている裁判員制度の基本的な構造である裁判官と裁判員の協働という考えとは両立し得ないように思います。
 前回の議論にあったとおり、現在の合議体によるプロの裁判官の意見の形成過程というのも、審理が全部終わってからいきなり評議を始めるということではなくて、○○委員がご説明されたと思いますけれども、それぞれの審理が終わるごとに合議して、徐々に心証を詰めていくのが通常の過程だと思います。それは裁判員が入ったとしても、合議体による裁判内容の決定の在り方として、基本的に異なるところはないと思われるわけです。特に、意見書は、プロの裁判官と裁判員がお互いに責任を分担しつつ協働して、すべての問題について議論してコミュニケーションしながら判決を作っていくと言っていますので、それを前提にするにもかかわらず、審理の最後のところで、プロの裁判官が素人の裁判員の方に公判廷で説明をしなければならないという話がなぜ出てくるのかが全然私には分からない。
 意見書が基本的に想定している合議、裁判の形成の方法とは、それはどうも相容れない仕組みであるように思うんですけれども。

○ 今の裁判官の方たちの評議というものに裁判員が単に加わるだけだという発想からすればそうなるだろうと思いますけれども、実際の審理からしてみても、例えば、1日で終わる事件を考えてみれば分かりますように、裁判員と裁判官の方たちが一体どういう形で評議というものを積み重ねていくのか。それは何日間にわたるにしてみても、裁判員の方たちは、その日終わって自宅へ帰るということを前提にした場合であっても、裁判官室に裁判官の方たちが戻られて、日常的な、例えば、よく出てくるのはお弁当を食べながら雑談的なことを含めて評議を積み重ねていくということは非常に想定しにくいわけですから、そういうことでいったときには、今の○○委員のおっしゃったようなことというのは、必ずしも当てはまらないだろうと思うんです。そういう状況の中で素人が参加していった場合に、できるだけその評議というものを、専門家であるという言い方がいいかどうかはともかくとして、裁判官の方たちと議論をするときに、まさに協働だとか実質化するための保障措置というものをいろいろと考える必要があるだろうと思うわけです。
 そのことが、しかも評議の場で、密室という言い方は適切でないかもしれませんけれども、表に見えない形でそこでの議論というものが行われた場合に、実際上、裁判官と裁判員の間の議論というものが法廷での審理との関係でどういう展開をしたのかということについて、最終的に裁判官が判決書をお書きになるとなった場合にはますますということになると思うんですけれども、外的に上訴をするにしても、何するときもそうですけれども、どこまでどう我々として客観的に想定するというか、推測するということが可能なのかということについては、やはり問題が残る可能性が私はあると思っているものですから。

□ その保障措置というのは、だれに対する保障措置ですか。

○ 国民に対して、あるいは被告に対してという、対外的な部分もありますし、裁判員が評議に参加するときにできるだけ問題をクリアーにした形にするということもあります。

□ 後者の方は、必ずしも公判廷で説明しなくても、合議のときにその都度説明するということでは足りないのですか。

○ しかも、判決にその理由は書くわけですよね。

□ 判決の形成の仕方というのは、合議の中で裁判体の構成員がいろいろな角度から自由かっ達に意見を交わし合う、これは職業裁判官であっても裁判員が入ってもそれほど変わらないと思うのですけれども、そういう過程を経て最終的にでき上がった判決を宣告、告知することにより、その判決の内容自体で対外的には十分説明をし、それについて責任を取るという形になっているわけですね。したがって、その過程が不明朗で、信用できないということになるのだろうか疑問に思うのですけれども。比較法的に見て、公判廷で裁判官が説示を行ってているのは陪審制度を取っているところですが、それは、そういった評議の過程についての担保というよりは、むしろ、陪審員が独立して判断するのにその過程に加わらない裁判官が不当な影響を与えてはいけないから、裁判官が陪審員に対して指示することはすべて公開の法廷で述べさせようという趣旨のものだと思います。これに対して、裁判官も一緒に判断する参審形態のところでは、そういうことはやらないのです。職業裁判官だけで構成される裁判体の合議の場合と同じような形でやっていって、対外的には、その結果できあがった判決書で説明をするということになっているわけです。
 仮に裁判員制度の下でも、裁判官から裁判員に対して不当な働きかけがなされないようチェックするために公判廷で説示させることが必要だということだとしますと、さっきどなたかが指摘されたように、それ以外の形では裁判官は裁判員に対して一切説明等をしてはいけないということにならないでしょうか。例えば、審理が続いている間も、あの点はどうだろうか、こうではないかと裁判官と裁判員の間で話し合うこともできない、そこまでのインプリケーションになるのでしょうか。

○ そこまでは含まなくてもいいと思うんですけれども。

□ しかし、公判廷での説示を必要とするということになると、裁判員が公判の途中で、「こういった点は法律上どうなんだろうか。あそこで当事者からこういう質問が出たけれども、これはどういう意味を持っているんだろうか。」と疑問に思ったときにも、裁判官は、適宜適切な形で裁判員に対して解説するといったことはできない、ということになりはしないでしょうか。

○ そんなことはないんじゃないでしょうか。それは審理の過程の中で、さっきも言いましたように、中間的にいろいろと議論というのはあり得るわけですから。ただ、終結したときに、これから評議に入るときに、裁判員としては、一体どのポイントについて議論する必要があるのかということについて、当然いろいろと連関する部分もありますから、絶対その段階でこうだということは言いにくいという意見もあり得るかもしれせんが、しかし、評議に入ったときに、できるだけ協働して議論するためにも、実質的な議論をするためにも、裁判員自体が、何をどう議論する必要があるのかということについて理解をする必要があるわけですね。そのための方法として、どういう方法を取り得るかという問題ですね。

○ 終結するまでは、実質的な評議をしてはいけないということですか。

○ そんなことは言っていませんよ。

○ それだったら余り意味がないでしょう。

○ どうしてですか。だって、実際に最終的な評議において、まず結論を出すために評議に入るわけですから。それまでは、もちろん、最終的な結論を出すための過程の中でいろいろと理解を共通にするということでの議論というのはあり得ると思いますし、それを私は否定する気は全くないわけです。ただ、そういうことが必要ないのかどうかということについて御議論いただければということです。少なくとも前回、全くその辺について触れられていませんので。

□ そういう御意見であるということは分かりました。その点は大体御議論が出たと思いますが、判決書と言渡しの関係というのは、簡単に言うとどういうことですか。

○ つまり、判決の宣告と、判決書を書く順序なり時期なりをどうするか。今の判決というものをどう見るかということにもよるわけですけれども、今は、大体判決書は後で出てくることになりますね。つまり、宣告だけが行われて、後で判決書が出てくる。

○ ほとんど同じものができていなければ、言渡しは当然できないわけですから、それを言い渡した後で作っているかのように言われると、心外です。

○ もちろん、○○委員はそんなことはないと私は信じていますが。

□ とにかく、言渡し時に実質はでき上がっていて、判決書の原本は後から出てくることが少なくない。そういうことを前提にして、裁判員の場合はどうするのがいいのかということでしょうか。

○ 判決書が、判決宣告と同時に交付されるなり、直ちにオープンにされるということであれば、それで問題はないんだろうと思いますけれども、その辺をどうするかということ、法的に何らかの措置が必要なのかどうかという問題です。

○ それは、例えば、判決書に裁判員の署名・押印が要るとしたら、判決書は言渡しのときにでき上がってなくちゃいけない。

○ そのことを含めてです。

○ 逆に、裁判員の安全確保ということから言うと、裁判書に裁判員の署名・押印を求めていいのかという意見もあると思うんです。そこは余り技術的なところで議論にならなかったが、議論しておく必要はあると思います。

○ もう一つは、さっき○○委員がおっしゃったように、言渡しのときに判決原本の、既に完成した原稿のようなものができているわけですけれども、それを作るまでに時間をかけていらっしゃるわけですね。証拠調べが終わり、論告・弁論が終わり、弁論終結という段階から判決の原本を作成するまでの間に、現在の制度では一定の期間を要しているわけなんですけれども、裁判員が入った裁判でも同じようにするのかどうかという点は議論すべきだと思うんです。
 裁判員が判決の言渡しに立ち会わないということは、私には、ちょっと考えられない。つまり、裁判員は、評決権を持って結論を出した以上、言渡しにも立ち会うべきだと、私は思うんですが、そうだとすると、裁判官が判決原本を作成する間、裁判員は、仕事へ戻っていて、言渡しのときにもう一回来てもらうというふうにするのかどうかということです。そこは議論しておくことが必要だと思うし、その議論によっては、さっきの判決書をどのようなものにするのか、さっき座長がおっしゃった判決書の必要性に関する三つの点は、意見書もはっきり言っているとおりですし、そのとおりだと思うんですが、その三つの要請を満たす判決書というものは、やはり一定の期間をかけてプロの裁判官が書かなければならないものであるのかどうかということは考える余地があると思うんです。そこも併せて考えて、いつ、どの程度のものを書いて、いつ、それを言い渡すのか、だれが言い渡すのか、ということは裁判員制度の下では重要な議論すべき点だと思うんです。

□ 判決原本と言われたけれども、原本じゃないわけですね。実質的に成立していれば、正式の書面が出来ていなくても言い渡すわけでしょう。その上で判決書の原本を作って、それを謄本にして交付するということではないでしょうか。

○ 実務では何と呼んでいるんですか。

○ 言渡し原稿です。原稿と言うといかにも単なる走り書きのように取られますが。

□ 問題は、その原稿と呼ばれる、実質の部分が形成されるのにどのくらい時間がかかるのかという点ですよね。それで、御意見は、時間をかけてやるのがいいということですか、それとも、そんな時間をかけては良くないということですか。

○ 私の意見は、裁判員の負担を考えれば、評議が熟して評決をした後に、二つあり得ると思いますけれども、一つは、言渡しはある程度簡略なもので行って、その後裁判官が判決書を書くということはあり得るだろうと思います。もう一つは、言渡しのときには、先ほどの判決書の趣旨を最低限満たしているものを、裁判員に待っていてもらって書いてしまう。その程度のものが書けるだけの濃密な、そして、めりはりの効いた審理が前提になるわけですけれども、その程度のもので言渡しをやって、後からは書かないという、二つのやり方があると思います。いずれにしても、今は、特に争いのある事件では、弁論終結から数か月、言渡期日を待つことが珍しくないわけで、弁論終結から数か月後に裁判員にもう一度来てもらって言い渡すということはすべきではないと考えています。

○ 私は、基本的には、終結をして、評議をして結論が出たら、直ちに言渡しをすべきではないか。それも含めて2週間なり3週間なりの期間にすべきではないか。そのときには判決原本ができ上がっていなくちゃいけない。本来、原則であれば、裁判員に署名をしていただく、それに基づいて言渡しをするというのが本来あるべき形ではないかと思うんです。
 そうすると、最終答申が言っているように、今程度のちゅう密な裁判書が果たしてでき上がるのか、その期間に書けるのかということを懸念します。
 同時に、仮に今程度のものを書くとなったら、合議は、審理が始まったら、毎日毎日やらなくちゃいけない。結審しました、それから○○委員がおっしゃったように説示しました、さあ、合議を始めますということをやっていたのでは、とても判決書は書けないだろう。もしそれで出来上がってきたら、本当は裁判官だけで勝手に書いていたと考えざるを得ないと思うんです。
 そういう意味では、理念は分かるんだけれども、2週間なり3週間の中でやると決めたときに、今程度のちゅう密な裁判書というのは果たして本当に書けるのかなという点は非常に心配します。

○ その場合の確認ですけれども、そういうことはあり得ないという趣旨で質問するんじゃないですが、連日開廷して、ある程度の期間審理することになったときに、今、○○委員がおっしゃったような形での評議をどういう形で裁判員に保障するんですかね。

○ その日の審理が終わってから、例えば、その日の審理についての合議タイムを何時間か取るという形になるでしょう。5時に終わったから、帰ってください、というわけにはいかない。

○ その辺を議論した方がいいですよ。ただ、そのときに評議をすることと、さっき私が申し上げた、終結したところでまとめをするということとは、決して矛盾しないと思うんです。

○ まとめは構わない、必要なことだと思うんです。でも、それを公開の法廷でやらなくちゃいけない必然性はないでしょうということを言っているわけです。

○ さっき言った、判決をどういうものにするのかとか、中身というものをどう審理の結果に基づく評議の結果として示すかということとのかかわり等を考えたときに、もう少し考えてはみますが、説示というのは決して無駄だと思いませんし、むしろ必要だと私は思っています。

□ そこはさっきの繰り返しですので、先に話を進めたいと思います。

○ 裁判員をそんなに長期間拘束できないというのは、○○委員のおっしゃるとおりだと思うんです。裁判書を書くのにある程度長くかかるものもあるでしょう。簡単に書けるものもあるでしょう。長くかかる場合どうするかという話ですけれども、必ず判決宣告のときに、裁判員の人に来てもらって、そこに立ち会ってもらわないといけないのか、制度的にどうしてもそうしなきゃいけないのかというと、それは別問題だろうと思うんです。
 評議が終わって、その評議に基づいて裁判書を作って、それを裁判員の方に一回見てもらうべきではないかという意見は当然ある。では、一回見てもらうだけ見てもらうということなら、その間ちょっと解放できるわけです。実質的には裁判員としての仕事はそこで終わっているわけで、そこで意見を述べさせるのかどうか、いろんな考え方はあると思うんですけれども、それはどこまでどういう形で裁判員に関与してもらうかということであって、裁判員制度をせっかく作ったんだから、判決宣告までちゃんと立ち会って、判決書にも署名しろという意見も当然あるかもしれませんけれども、署名しなくてもいいじゃないかという意見があるかもしれない。そこは、判決内容を確認したことを何かの記録に残しておくという意見もあるかもしれない。いろんな考え方があると思うんですけれども、そこは柔軟に考える必要があるという気がします。

○ 出てくる裁判員の立場にしたら、出てくる回数は少ない方がいいんです。私は、判決言渡しという、セレモニーみたいなところに出てくる必要はないだろうと思うんです。○○委員のおっしゃった、言渡しのときは立ち会うべきだという御意見はもっともではあるんですけれども、忙しくて、なかなか来られないということはあろうかと思います。評議の内容が実際固まっていて、それに基づいて言渡しが行われているならばいいんだと思うんです。
 判決書にしたって、裁判員が全部署名する必要はどこまであるのかというところも、私は疑問に思っています。むしろ、裁判員が署名する必要もないんじゃないか。つまり、合議がきちんと、裁判員の意見を反映したものとしてまとまったという記録が作られるならば、どういう形のものなのか分かりません、○○委員の言われる原稿みたいなものかもしれませんけれども、そういうものができて、皆さん合議に加わった方たちが納得したものであるという証明があれば、署名そのものは、裁判官の署名だけに基づく判決であってもいいのではないかという気が私はするんです。判決言渡しのためだけに呼び出されて丸一日使わないといけないということは、来る人間にとっては不合理じゃないかという気が私はします。

□ 今二つのことをおっしゃったと思うんですが、一つは、判決の言渡しに裁判員が立ち会うかどうかという問題であり、もう一つは、署名するかどうかは別として、裁判員が判決書を読んで内容を確認するという段階が必要かどうかという問題ですね。○○委員は、判決内容の確認についても、何らかの形の記録が残っていて、それで確認できればいいということなのですが、そのメモみたいなものは、今の実務だと記録に残るんですか。

○ 残らないですね。

□ 合議については記録を取らないですよね。

○ はい。裁判員が入ってどこまで作ったかということは、裁判員が最後に署名をするのであれば、今の制度と同じでもいいとして、署名しないとしたら、何らかの記録の方法が必要なのかもしれません。しかし、あるいは、そこは裁判官というものをどこまで信頼するかということかもしれないですね。

○ これは裁判員の数が何人かということとも関係してくると思うんですけれども、今、○○委員がおっしゃったような、合議の段階、あるいは判決の原稿に関して裁判員が同意する手続など、一貫して裁判員としてこの事件を担当するという人が、必要なときにどのくらい一堂に会していなければいけないかということともかかわると思うんです。つまり、裁判員がどこまでかかわるかということと、かかわるならばどこまで一堂に会していろいろ確認していなければいけないかということです。
 なぜこういうことを申し上げたかと言いますと、これは裁判員の数にもよるんですけれども、場合によっては一堂に会せない場合があります。何らの事情で出席できないということで、補充員の方に出ていただかなければいけないということがあったときに、裁判の一貫性というんでしょうか、公判をずっとしていくときに常に同一の裁判員の方がかかわるということになってきたときに、どういうポイントで必ず裁判員がかかわり、必要であれば署名などをして、かかわったということを明確に残していくかということなんです。
 それは、先ほど鑑定の問題のときに中断した場合どうかとか、長引いた場合どうかとか、再鑑定の場合どうかということともかかわるんですが、職業裁判官の場合には、一貫してその事件にかかわれるかもしれませんし、異動があった場合には、それはそれで対応して、ある一定の一貫性を保っていかれるかもしれないんですが、裁判員の数にもかかわると申し上げましたのは、数が多くなればなるほど、休まれる方とかがいることも増えるでしょうから、ある一定の時期に何らかの形で集合できなくなってしまった場合の手続なども考えますと、今、問題提起されている合議は全員参加だと思いますし、判決に対する話し合いは裁判員の方がかかわらずして決定は見ないと思うんですけれども、それを一つ一つ、かかわった裁判員の方が確認していく、責任を取っていく、そのプロセスについては定めておかないといけないのではないかと思うんです。

○ 出たり入ったりはないという前提ですよ。

□ 1度抜けたら終わりなのです。1回お休みして、次回出て来たら再び一緒にやれるかというと、そうではないのです。そのための補充員がいて、補充員が入ったら、以後その人が引き続き裁判員を務めるのです。

○ それはもう、補充員の方が入っても最初からやり直さないということは、この検討会では議論されているんでしょうか。

□ 補充員で補充がなされて、裁判体の構成員数が充たされている限り、そのままの形でずっと進行していくということです。

○ ですから、短期であれば、あるいは人数が少数であれば、私はそれがある程度完全にできると思うんです。しかし、長期になる可能性、鑑定の問題が出てきました、あるいは合議をしていく段階が出てきました。いろんな事情で欠席せざるを得ない方が増えて補充員の方が足りなくなる可能性が、私には今何となく見えてきたんです。ですから、交替してしまうかもしれないという可能性が感じられたときに、例えば、元の構成に戻るという議論になる可能性はあるわけですよね。

○ それはないんです。おっしゃるように補充員が足りなくなる可能性はあるんですけれども。

○ 私などは途中から補充員になったときには、ここのところどうだ、こうだというのをよほど読み込んで説明を事前に受けないと、その点を聞いてしまいそうなんです。私が確認したいのは、公判手続上、それはもう一貫して、補充員の方が後に入っても、元の構成には戻らないのかという点なんです。

○ 今日はだめだけれども、次からまた僕が出ますということはないんです。Aさんは今日は出られないから、Bさんが出ますと、そういうことはない。

○ もし裁判員が6人ならば、3人の補充員の方は最初から出ていてくださるとして、このうちの一人、二人が欠けても入ってこられるということですが、その補充員の方がもし補えなくなったら、欠けたままで審理を進めるということですか。

□ そういう仕組みも考えられないわけではないと思いますし、また、裁判官が交替したり、裁判官が病気になったり亡くなったりする場合と同じように、新たな人を付け加えて、その人がいなかった間の手続を適切な形で補完するという組み方あり得ると思います。だから、そういった場合にどうするかはこれから検討しなければならない問題ではあるのですけれども、いずれにしろ、補充員の場合は、最初からずっと公判に臨席していますし、また、1度抜けた人はもう戻れないというのが前提です。

○ 分かりました。いずれにしても、一貫性ということが気になりまして、要するに、補充員の方は最初からいて、一貫して通っていくわけだから、例えば正式な裁判員になっても、先ほどの判決に至る合議の段階でも何でも加わっているので、首尾一貫性は保てる。公判手続の一貫性が保たれるべきで、戻ったりしないのかどうかということが気になったものですから。時間的一貫性とメンバーの一貫性ということが公判手続上担保されるということが分かれば結構です。ありがとうございました。

○ 先ほどの点でちょっと1点だけ。説示の関係なんですが、説示というのはどうしても理解できない。反対なんです。まず、中間評議というのをしていかないと、到底審理というのは進められない。要するに、当事者がここが争点だと思っていても、裁判所はそこは全然関係ないと思っていることがあるわけです。裁判所としては、もちろん、そういうことは言いますし、こういう問題じゃないかということを当事者に言って争わせるわけですけれども、中間評議もできないと、それすらできないわけです。そうすると、全く無駄な審理をして終結しました、しかし、これは何をやっていたんですかね、何のためにこれだけ審理に時間をかけたのか分からないですねということになるわけです。そういう事態は絶対避けなければいけない。
 今と同じように、当事者に対して、審理途中で何が争点なのかを伝える、例えば、そんなところを争っているけれども、こういう証拠があったらそんなもの通らないですよ、争点はむしろここじゃないですかということを言えなければいけないわけです。それを言うには、裁判官だけでは言えないわけですから、裁判員の方とみんなでこうじゃないですかということを評議しなきゃいけない。そうすると、審理の終結前に、時間を割いてでも、それは弁当食べながらでもしようがないですけれども、評議しながらみんなで意思を統一していくわけです。
 では、評議の中で話していたことはどうなるのかといったら、それは判決の中にきちっとその論理というのは示されるわけで、それは検証されるわけです。その考え方が間違っていたら、控訴審で破れますし、その担保はちゃんとあるわけです。
 それから、両当事者がここが争点ではないかということについて、説示で裁判官がどういう判断をするのかということを、常に、あらかじめ裁判員に話をしなければならないとなったら、仮定的な議論、無用の議論にまで法律的な見解を示さなければ示さなければならなくなるわけです。裁判所としては、ここは理屈としては非常に面白いところだけれども、この事件では全然事実関係は違うから関係ない、非常に難しい論点ではあるが、幸いこの事件は前提事実が違うから、ここには踏み込まないで済むだろうと思っているような法律上の論点について、両当事者がまだそれは当然論点だと思って議論しているということもあるわけです。説示を行うとなると、そのような論点についてまで、公判廷で無駄な説明をしなきゃいけなくなるんですね。しかし、それができないと判決できないのかというと、そんな話ではない。このように、説示というのは無駄なものが一杯あるわけですから、そこはきちっと判決で担保されていれば、そういう無駄な手続は要らないんじゃないかということなんです。

○ 議論するつもりはありませんが、ただ、おっしゃることは分かりますけれども、私が申し上げていることと少し違う感じもしますので、それは改めて。
 もう一点、これは論点を出すだけということで構わないんですが、量刑手続をどうするのか。今の議論の中では量刑手続というのは、今と同じようなものとして考えて議論されているようなんですが、そこは議論の必要があるんじゃないかという気がするんです。つまり、量刑手続を分離する必要がないのかどうか。

□ それはなぜですか。

○ 今と同じように量刑関係の証拠というものも併せて出してしまうと考えるのかどうかです。つまり、量刑をどの段階でどうやるとか、それは今の裁判と同じように事実認定と併せてやるということでいいという前提で議論が進んでいるのかどうかということの確認も含めてなんです。

□ それは裁判員制度に特有の問題として議論すべきだということですか。

○ もちろん、通常の手続でもそうですけれども、裁判員が入って、量刑にももちろんかかわるということになっていますから、量刑についても、証拠関係等、確認を公判でする必要があるわけですけれども、それを、今と同じような事実認定のために出てきた証拠も量刑に使うということで、全体として統合された手続として全部進めるということでいいということになるのかどうかです。その点はそういう前提ですか。

□ 委員の問題提起に共通しているのですけれども、できれば、なぜそういう問題提起をされるのかを説明していただきたい。異なった扱いをすべきだという含みで発言されているのだと思うのですが、その理由をお話しいただかなければ議論は進まないと思うのです。ただ一般的に、その点も議論した方がよいのではないかというだけでは・・・。この段階で議論しなければいけない問題ですか。

○ そんなことはない。ただ、公判手続の問題としては、その点についての議論の必要があるのではないかというふうに私は思ったものですから。

□ その必要を裏付ける理由というのをお伺いしたいのです。

○ それは現行の手続についてもいろいろと議論があるところなわけですし、事実認定と量刑というものを共通の証拠でやるということによって起こってくる問題というのは、いちいち全部は指摘しませんけれども、既に指摘されているところでもあるわけです。直ちに、そのことが手続の分離を絶対的に必然化するものかどうかということについては、もちろん、議論があると思いますけれども、やはり事実認定がある程度固まったところで、つまり有罪だという前提になった段階で、量刑ということを考えるべきだという議論は当然あり得ると思うんです。

□ 意見書の想定している裁判員制度と、量刑手続を別途考えなければいけないというところの論理的な関係がよく分からないのです。そこを説明していただくといいのですが。何度も繰り返しますが、裁判員は量刑も事実認定もやるというのが前提ですよね。

○ それが絶対だと申し上げませんけれども、正当化の一つの根拠として、やはり職業裁判官の方たちがおやりになっているということが、手続として、量刑資料と事実認定資料というものを共通のものとして利用することに正当性を与えているという議論もあったと言っていいと思うんです。それが果たして裁判員が加わったときに同じような脈絡の中で、証拠の利用について制約を加える必要なしに、同じものとして手続を構成することでいいのかどうかというのは議論はあり得ると私は思っています。

○ 日本の裁判では、純粋に量刑のための資料というのは少ないんです。大体、計画的であるとか、犯行の動機はどの程度確実だとか、罪体に関する事実関係、それが即、情状のための資料になっているわけで、そういう意味では、日本のような量刑の仕方から言うと、手続を二分するなどというのは基本的にはできないと思いますよ。だからといって、それが理論的におかしいということにはならないと思いますが。

○ 例えば、争いのある事件において、前科の証拠というもの、それは罪体と関係する場合は除いて一般的な話ですけれども、それが裁判員にどういう影響を与えるのかということは議論しておく必要がある。今、○○委員がおっしゃった手続を分ける必要として、例えば、一つはそういった点があり得るのではないかなと思います。

○ 今でも、前科調書は一番最後に取り調べられているんじゃないんですか。

○ 例えば冒頭陳述です。冒頭陳述には前科が書いてありますね。

□ それは今でも議論のあるところですね。職業裁判官による裁判についても。

○ 私が申し上げているのは、今の制度を変えていくという方法もあり得るわけですけれども、今度は裁判員が加わるということですので、裁判員との関係でそういった点も考えていく必要はないかという趣旨です。

□ 分かりました。一応問題点の御指摘を受けたということで、ただ、これは公判手続一般の問題でもあると思いますので、そういう御指摘もあったということを踏まえて、そちらの方で論点を構成していきたいと思います。
 先を急ぐようで申し訳ないのですが、次の論点に移りたいと思います。項目6の「上訴の在り方」についてですが、この点に関して、審議会の意見書は、「裁判員が関与する場合にも誤判や刑の量刑についての判断の誤りのおそれがあることを考えると、裁判官のみによる判決の場合と同様、有罪・無罪の判定や量刑についても当事者の控訴を認めるべきである。控訴審の裁判体の構成、審理方式等については、第一審の裁判体の構成等との関係を考慮しながら、更に検討を行う必要がある。」と述べているところです。この上訴という問題については、かなり専門性、技術性の高い領域で、細かな点を今ここで議論し出しますと、際限がありませんので、第1ラウンドであることや時間の関係も考えまして、裁判体の構成の在り方等、基本的な大きな枠組みについての論点について、御意見を伺えればと思います。
 まず、控訴審の審理にも裁判員を参加させるという考え方があり得ると思うのですが、そういうことが必要かどうか、適当かどうかについて、御意見を伺えればと思いますが、いかがでしょう。

○ 基本的には控訴審に裁判員を参加させる必要はないんじゃないかという考えです。第一審で裁判員制度を採ったから、必ずしも上訴審も同じ方向を採らなきゃいけないということには、恐らく審議会の意見もなっていない。ただ、趣旨として裁判員も参加した一審の判決を裁判官だけで覆すとなると、どうも気分的に一貫しないのかなという気がしないでもない。
 しかし、控訴審というのは事後審査審ですから、一審の当否を判断するために、判決書に基づいて、主張・証拠、審理過程を審査していくんで、裁判員制度にそんなになじむものかなという気が一つするわけです。
 もう一つは、これは現実的な問題なんですけれども、控訴審になると、高裁の管内から裁判員を広く集めることになるんでしょうけれども、東京に、新潟、静岡といった遠方から来てもらうことになると、負担がかなり大きくなりはしないか。それが現実的だろうか、現実に動く制度になるんだろうかという気がするんです。
 仮に、控訴審に裁判員を入れないと裁判員制度の趣旨が損なわれてしまうということになると、これはまた別問題だと思うんですけれども、裁判員制度の趣旨が、国民の健全な常識を反映させて、国民に司法を理解してもらい、司法の国民的基盤を確固たるものにするということにあるのなら、それはどの程度裁判員に関与してもらえばいいかという話であって、これは一審でちゃんと裁判員に参加してもらい、そういうシステムを前提として、事後審査審である控訴審の裁判官がきちっとそれを審査するということになれば、一審に裁判員が参加した意義というものは十分尊重されるシステムとして動くんじゃないかという気がするわけです。まだいろいろ理由はあるんですけれども、そうすると、現実に動く制度になるかどうかという難しい問題があるときに、あえて控訴審にまで最初から裁判員を入れてる必要はないんじゃないか。
 一審の裁判員制度についても、円滑な導入のために、全部の事件ではなく、重大な事件から始めるということを、審議会はおっしゃっているわけですし、円滑に本当に動く制度として制度設計してくためには、やはり、そこは考えておくべき大きな要素ではなかろうかという気がします。

○ 今、○○委員は事後審査審であるということが当然の前提であるというニュアンスのおっしゃり方でしたけれども、そこはそうなんでしょうか。審議会の意見書は、そこのところについてはオープンですね。

□ そこはオープンです。

○ それはいろいろ書いてありますけれども、自判の場合もありますし、事実の取調べもやりますけれども、基本的な法律の構造を見れば、恐らく事後審査審だろうという理解です。

□ 現行はそうですね。

○ 私も、裁判員が控訴審に加わる必要はないのではないかと思うわけです。確かに、現在の控訴審は事後審で、裁判員が入った一審に対してこれからどうするかというのはオープンなわけですけれども、他方で、裁判員が加わらない裁判官だけでの一審判決もあって、それに対する上訴審というのは、多分これは変わらないのではないか。そうすると、別の性格の控訴審というのを作るというのはいかがなものか、今の事後審でいいのではないかと思うわけです。そして、事後審の審査として、実際にやっている作業というのは、結局、一審判決が正しいかどうか、控訴審の目から一審の記録を検討するわけですけれども、それは裁判官にとっても大変な作業ですけれども、法律家でない方には非常に大変なもので、裁判員として一番力を発揮していただけるのは、やはり一審なのではないかと思います。
 控訴審では、控訴理由として法律論だけが控訴理由になる事件もありますし、事実誤認といっても、かなりのものは事実認定上の法則の違反、すなわち、こういう証拠とこういう証拠があっても、もう一つ別のこういう証拠があれば、別の結論になるんじゃないか、これまでの多くの経験則から言うと、そのように考えられるところ、この一審判決はそこの検討が足りない、あるいは間違っているという、非常に法的なレベルでの破棄が多いのではないか。したがって、そういう審理をする以上は、職業裁判官だけで足りるのではないかと思うわけです。

○ 確認ですが、お教えいただきたいんですが。

□ できれば御意見を伺いたいのです。

○ それを聞かせていただいてということなんですが、つまり、その場合に控訴審としての判断として自判があり得るんですか。今、○○委員のお考えでは、差戻しということになるんでしょうか。

○ そこは現行と同じですね。破棄差戻しも、自判もあり得るということです。

○ 破棄差戻しのときには、その裁判体はどういうことになりますか。

○ 一審の裁判体ですか。

○ つまり、裁判員が加わった裁判体ということですか。

○ そういうことになると思いますね。同じ裁判員の対象事件になっているわけですから。そこでは、裁判官も裁判員も替わるはずですので、公判手続の更新という、今の認められている手続をすることになると思います。

○ つまり続審的に運用するということですか。

□ 運用というより、そのように構成するということですね。

○ つまり、破棄差戻しで裁判員の入った裁判体に戻るということで、控訴審を事後審として構成するということは、考えられないではないと私も思うんですけれども、ただやはり、先ほど○○委員もちょっと触れられていましたけれども、裁判員が入って一審が構成されているということの持っている意味を考えたときには、やはり原則的には裁判員が加わった控訴審というものを構想してみる必要があるんじゃないかという感じはしているんです。ただ、そうなった場合には恐らく覆審的な構成が必要になってくるでしょうから、手続が重たくなってしまうんじゃないかとか、時間的な関係とか、いろいろと障害が出てくるという可能性はないわけじゃないという感じがするわけですけれども、しかし、どうもそれが原則じゃないかなという感じがしています。ただ、今言ったように、一審に破棄差戻しで戻して、裁判員の入った裁判体が審理をするとして、それを覆審的に構成するという方法もあり得るなと思うわけで、また、そのときに、控訴審が事後審として自判をするということができる場合について、やはり今と同様に考えるわけにはいかないんじゃないかという感じもしているんです。とりあえずの意見ですが。

□ いろいろ言われたのですけれど、差し戻した場合の裁判体の構成とか、その審理が続審なのか覆審なのかという点はさておいて、今、直接的には、控訴審の裁判体の構成ということを議論していて、○○委員は、控訴審にも裁判員を入れるのが筋だろうと言われたわけですが、その場合に控訴審はどういうことをするのですか。

○ 覆審ということになると思います。

□ 第一審と同じような審理をもう1回やり直すということですか。そうすると、後の判決の方が正しいという保証はどこにあるのでしょうか。

○ それは内容的なところでの正当性ということについて、我々が判断するということはできないと思いますので、構成上の正当性根拠をそこに見出すしか多分手がないと思います。

□ 構成上というのはどういうことですか。

○ 一審よりも裁判体を大きくするとかですね。

□ しかし、その判断の方が正当である、そっちの方が正しいという保証はどこにあるんですか。

○ それなりの体制をつくって処理をするということで。

□ それは見掛けの問題ですよね。

○ そういう形式的な判断要素というものを。

□ 審議会の意見では、一審に裁判員が入れることには大きな意味があるとしつつも、それでも判断に誤りがあり得る。誤りがあったら困るので、それを上訴によってチェックしようということになっているわけですが、覆審というのが、そのようなチェックにふさわしいシステムなのかどうか、そこが問題だろうと思うわけです。

○ というよりも、それは2回繰り返すということ自体が、その要請に応えているということにもなるわけです。

□ ですから、本当にそう言えるのでしょうかということなのです。

○ 私の方もむしろ確認したいわけですけれども、職業裁判官のみによる事後審査的な構成による控訴審が、どうして一審に対して正当性を確保し得るのかという問題もありますね。そこは同列だと私は思います。

□ 一番大本の問題としては、どうして一審判決を覆すことができるのだろうか、というところに行き着くように思うのですが。

○ そこはいずれにしても難しい問題だと思います。

○ 覆審というのは、歴史的に見ると、要するに一審に対する現実の批判というか危惧というか、そういうところがあって、例えば、ドイツなどで軽い罪について控訴審を認めてこれを覆審にしようというのは、一審が危ないということだったんです。だから、もう一回繰り返してやらなきゃだめだという出発点があったはずなんです。ところが、今の我が国の制度というのは一審を重視していこう、強化していこうということですから、それをもう一回やるというのは、いかにも無駄なことなんで、むしろ、控訴審が一審判決を見るのであれば批判的な考察ということが方法として正しいと思うんです。そういう批判的な考察を加えるということだとすると、これはやはり事後審しかあり得ないんで、現実の制度というのは私はかなりうまく機能しているんじゃないかなという気がしています。
 ですから、ここでの議論も、できれば事後審ということを前提にして議論をしていった方がいいんじゃないかと思います。

□ 事後審の中身なのですけれども、事後審といっても、一審に出された証拠を控訴審裁判所が自らもう一度調べ直して心証をとり、一審の認定と比べてみるという形の事後審と、さっき○○委員がおっしゃったような、むしろ経験則とか論理則とか、事実認定のルールのようなものがあって、それに照らして一審の認定が逸脱していないかどうかをチェックするという形の事後審と、二通りあり得ると思うのですが、どちらをイメージされているのでしょうか。

○ 私はどちらでも構わないと思うんです。どっちでなければいけないということはなくて、例えば、一審の判決があって、それに対する控訴理由を見て、その控訴理由を中心にして判断をしていくというのは、やむを得ない。その意味で言うと、論理法則とか経験則、こういうものに反する場合というのがすぐ見つかる場合もある。
 しかし、そういった法則違反が見つからない場合であっても、記録全体を見てみたら、何となくこれおかしいなという場合だってあり得る。そのときに放っておけというのも一つの方法だけれども、恐らくそうはしない。やはり控訴理由がおかしくても、場合によっては職権判断で示すことだって、幾らでも今だってあり得る。そうすると、両方のやり方というものを考えていかなければいけないだろう。ぎりぎりまでいったら、自分で心証をとり直すというのは一番いい方法だろうと思うわけです。

□ 私の質問は、事実認定のルール違反ということですと、一審の裁判体の構成員とは違う立場で、職業裁判官のみが審査するというのも分かるのですが、自分で心証をとって一審の心証と比較するとなると、職業裁判官だけの心証がなぜ裁判員も入った一審のそれに優先するとい言えるのだろうかということなのですが。

○ そこのところは、そういう制度にしているというほかない。本当にそうかということになると難しいところがある。

□ 上訴審として設定した以上、そちらの方を尊重しようということでしょうか。

○ ある意味ではね。ただ、第一審というのは、始めから証拠を積み重ねていく。ところが、控訴審では、既に出来上がった一審の判決書があって、その判決書がいいかどうかという批判的な考察が前提になるんで、方法論的にかなり異なる。その意味では、一審と二審の判断方法は違うと言えると思います。

□ したがって、構成も違ってもいいということになるのですかね。

○ 私も、控訴審に裁判員を入れる必要性は乏しいと考えます。さっき○○委員がおっしゃいましたけれども、他の裁判員でない事件については、今までどおりの控訴審が維持されるということとの整合性が必要である。それから最初に○○委員がおっしゃいましたとおり、現在、控訴審がやっている主要な仕事の内容から見ると、そこに一般国民の方に関与していただいて、何かをしてもらうのは余り適切でない、意味が乏しいのではないかと思います。むしろ、第一審の重大な事件について裁判員の方が審理に加わって、司法の国民的基盤がより強固になる、そこに重要な意味があるので、基本的には控訴審は今までどおりの職業裁判官による形態でいいのではないかと思っています。
 ただ、第一審に一般国民の方が関与されて、職業裁判官と緊密なコミュニケーションを行って判決を作り上げているという点を重視するという観点から、これは全くの思い付きですけれども、例えば、裁判員事件に限って、その事実認定と量刑判断を制度としてそれなりに尊重するような形にすることは考えられるのではないか。技術的には、例えば、控訴理由を少し加重することが考えられると思います。事実の誤認とか量刑の不当について、今の控訴理由は単純に事実誤認が判決に影響を及ぼす、あるいは量刑の不当とされていますけれども、最高裁の上告理由はもっと厳しいわけです。例えば、重大な事実誤認があるときに破棄できるとか、著しい量刑の不当のときに破棄できると、このように控訴理由を少し改変することによって、一般国民の関与された第一審の裁判体の判断を制度としてより尊重する、そういう格好にするというのがあり得るかなと思っております。これは私自身の意見というよりは、そういう方策もあるんではないかということです。

□ 今のは、上訴の間口を狭めることによって一審を尊重しようということですか。

○ はい。控訴理由を若干厳格にする分、破棄がしにくくなるということです。

○ 今の御意見にあった、一審を尊重する、裁判員が入った判断を尊重するというのは賛成なんですけれども、仮にその制度を採ったとしても、さっき座長のおっしゃった、控訴審が何をするのかという問題は残るわけです。
 また、プロの裁判官、仮に3人の合議体が心証をとり直して判断するのか、さっきおっしゃったルール違反、法律審に純化していくという形でやるのか、という問題がありましたね。少なくとも、前者の心証をとり直すということになると、今の御意見のように控訴理由を絞ったとしても、いや絞れば絞るほど、なぜ後のプロの裁判官の判断の方が優れていて、裁判員の入った判断を破ることができるのかが問題となり、しかも自判もできるということになると、よりその問題は鮮明化するわけです。控訴審の裁判体の構成というのは、そこで、何を、どうやるのか、ということと非常に関係するだろうと思うんです。

○ 私が、要件を狭めるといったのは、控訴審が心証をとり直して一審と比べるというのはやはり変であるという考え方・建前を前提にしております。基本的に控訴審のやることは事後審査であって、これが法の建前であるし、それが理念だから、やはりそれは心証のとり直しではなく、一審がやっていることが経験則や合理的な判断からずれていないかどうか、それを審査しているんだというのが前提で、プロはそういうふうにやってもらいたい。しかし他方で、一般国民の関与という基盤を得た一審の判断を尊重しようという要請をも考慮すると、今述べたとおり上訴理由を少し厳しくするという道もあるんじゃないかという議論です。

□ 量刑の方は分からないでもないのです。量刑については幅があり、それを大きく逸脱しているかそれほどでもないかという区別はつけられる、という意味で。ところが、事実認定の場合には、本当にそういうことが言えるのでしょうか。いずれも判決には影響するとしながら、著しい誤認の場合と著しくはない誤認の場合があると。事実認定については、判決に影響する以上、致命的な誤りのような気がしないでもないのですけれども。

○ 私はあり得るだろうと思っているんです。つまり、一審のやられたことは、証拠を総合して、ある合理的な判断、経験的な法則に従った判断に基づいてある事実を認定している、しかし、それを別の裁判官が、プロが改めて見たときに、確かに自分ならそうは認定しないかもしれないけれども、しかし、完全に間違ってはいない、不合理ではないという幅の中に入っていれば、それは重大な事実誤認ではない、しかし、その幅からはみ出していれば、重大な事実誤認である、とすることは考えられるのではないでしょうか。

□ 判決に影響はするのでしょう。それを放置していいと、本当に言えるのでしょうか。

○ 重大な事実誤認に限るというのは、考えられると思うんです。例えば、未必的な殺意か確定的な殺意かという争いがあって、一審では未必的な殺意だと認定している。しかし、控訴審は確定的な殺意だという心証のときに、判決に影響せず破棄しないという考え方も一方ではあるんですが、それは判決に影響する事実誤認だとして破る説もあるわけです。多分、破棄理由を重大な事実誤認ということにすると、そういった認定のずれはそれには当らないということになるんでしょう。

○ 余り理論的な話ではないんですけれども、裁判員の負担という観点から考えてみますと、一審の判決書を読んで控訴棄却する場合に、控訴審に裁判員を入れなきゃいけないかというと、恐らく入れなくていいんだろうと思うんです。入れなきゃいけない必然性というのは出てこない。では、破棄することが予想される場合に、裁判員を入れるということになると、裁判所の心証が最初から裁判員に伝わってしまうじゃないかという話にならないだろうか。ここはちょっとそういった懸念がある。
 数の方から言うと、控訴棄却の方が多いわけです。しかも、破棄が予想されるということで控訴審に裁判員を入れた場合に、それでも控訴棄却の件数が圧倒的に大きくなるのであれば裁判員を入れた意味があったと言えるかもしれないけれども、ほとんど変わらないということになったら、破棄するために、権威付けのために裁判員を入れたのかという批判が考えられなくはない。若干、へ理屈になるかもしれませんけれども、そんな気がしないでもないです。
 だから、裁判員の負担とか現実の制度をどうやってうまく動かすかという観点は、絶えず考えておかなければいけないんだろうという気はします。その上で、これは政策の問題ですから、理屈はいろいろ整合性を取らなければいけませんけれども、そういった観点からの考慮というのも絶えず頭に置いておく必要があるだろうという気がします。

□ さっき言われた、どの範囲から裁判員を選ぶのか、そういう問題ですね。

○ 私も、控訴審には裁判員は要らないというふうに考えています。ただ、一審で裁判員を入れて事実認定もやっているわけですから、控訴審は、控訴を棄却するか破棄差戻しをするか、いずれかしかしない。自判はせずに、事実審理は全部一審に戻してやってもらう。そして、裁判員事件の差戻審は、また裁判員を入れてやってもらうと、そういうことでいいんじゃないかと思います。

□ 明らかに無実な場合でも同じことが言えますか。

○ 裁判官だけで判断できるという前提が果たして成立し得るのか疑問があるわけです。

□ 現行の控訴審も、控訴理由があるかどうかを審査する、その判断に必要な審理を通じて既に心証が十分形成されているという場合には、自判してよろしいというのが建前ですね。それも維持すべきではないとお考えですか。

○ はい。それは裁判員を重視するということです。

○ 量刑不当だけの上訴の場合でも自判しないで差し戻すわけですか。そのためだけにもう一回審理をやるんですか。

○ まあ、制度としてはそうならざるを得ないでしょうね。この範囲は自判していいよ、この範囲は差戻しじゃなきゃだめだというのは、むしろそういう制度の方がおかしくないかと思います。確かに、訴訟経済的には、たかだか6か月くらい刑期を短くするためもう一回戻して、また審理をやり直すというは大変とは思うけれども、それはそれで戻したときの仕組みを多少考えれば、何とかなるんじゃないかなと考えています。

○ 私も、今の御意見に近いんです。つまり、上級審の判断というのが下級審を拘束するということであれば、意見書にもあるように、裁判員制度の導入により、せっかく一審の判決に一般国民の社会的な意識、常識というものを反映させたのに、たとえ法律的な理由であっても、その判断を現行の職業裁判官の方のみによる控訴審が破棄し、自判してしまうということになると、第一審に国民を参加させた意義というものに対して、専門裁判官の方の判断による圧力が加わるかのように、一般的には感じられてしまうと思うんです。
 けれども、私は、個人的には、まずは第一審での裁判員制度の確立、つまり、とにかく裁判員制度を開始して、蓄積することに第一義的な意味があると思っておりまして、そういう私の個人的な考え方から言いますと、控訴審の裁判員制度の在り方について、議論をすることは構わないと思うんですけれども、いきなり最初の制度設計の段階で、そこに余り比重が行き過ぎてしまうと、第一審での制度の実現との整合性からして、難しい面も出てくるかもしれない。むしろ第一審の裁判員制度の尊重を考えるならば、今、○○委員がおっしゃったように、職業裁判官が高裁で判断されるときも、今は圧倒的に自判が多いようなんですが、差し戻す、あるいは控訴棄却という判断で、裁判員制度を活用した第一審の尊重を図れる制度設計を可能な限り考えていただきたいと思っています。
 もう一つは、国民の負担というのがどのくらいなのかというのがまだ見えていないところがありまして、ですから先ほども、ずっと同じ裁判員の人が続けないかもしれないなどと消極的なことを申し上げたのは、私は国民を信頼している立場なんですけれども、やはり控訴審の場合は、先ほどおっしゃった覆審でない限り、一審とまた違う裁判形態となるわけで、かなり高度な専門知識、法律知識、あるいは第一審の記録を読み込んでいくという作業が必要でしょうから、第一審とはまた違う負担なりがかかってしまうかもしれない。
 私は、できれば、制度設計のときに、最初からある程度完成したものを考えていただくよりも、まずは、第一審の実現について優先順位を考えていただきたい。一定期間裁判員制度が第一審で実施され、確立したら、国民の力量が付いて、あるいは役割が明確化されて、将来的に控訴審での裁判員制度が考えられる可能性は必ずあると思っておりまして、控訴審への裁判員制度の導入の可能性を閉じるという意味ではないわけです。ただ、今の自判がこれだけ多いのはいかがなものかと思いますので、これを第一審の裁判員制度を尊重する形で差し戻すというような制度の在り方をできる限り考えていただければと思います。
 以上です。

○ 最初に申し上げたように、私も、控訴棄却あるいは破棄差戻しということであれば、職業裁判官による控訴審というのはあり得るだろうと思っているわけでして、その限りで○○委員のおっしゃったのに近いわけですが、ただ、その場合に、量刑不当だけという場合には、別に考える余地がないわけではないだろうとは思っています。

□ もう少し説明していただきたいのですけれども、事実認定と量刑不当との性質の違いという点に踏み込ないと、説明がつかないと思うのですが。

○ さっき申し上げた量刑手続というものを分離するということが考えられないかどうかということも関係ないわけではないと思っていたんです。
 ただ、先ほどの統計資料を拝見しますと、幾つかはもちろん、純粋に量刑不当だけで上訴するというのがどの程度なのかというのは実態として必ずしも私承知していないのですが、判断の性格として、事実認定を争っている場合と、量刑を争っている場合というのは、質的な違いがあるというふうに私などは思うわけです。その辺はむしろ実務家の方に御意見を伺った方がいいだろうと思うんですが、量刑は、判断として、資料的な面から言ってみても、そこはある意味では白か黒かという判断ではないわけですから、一定の幅のある判断ということになってくると思いますし、事実認定上の争いがないわけですから、一定の結論の上に、刑の持つ意味というものを考えながら、判断をするということになるわけですから、事実認定とは必ずしも一致するわけではない。
 それはある意味では専門性ということが要求されてくる部分もあると思いますし、例えば、手続としては、職業裁判官が御判断になるときに、そういう専門的な観点からのサポートというものを取り込んでいくということも当然あり得ると思うんです。例えば、プロベイション・オフィサーみたいなものが入ってくるということもあり得るかもしれませんし、そういった形で、必ずしも通常の事実認定手続とは一緒でなくてもやれる性格のものではないかと思っているということなんです。

○ 量刑の前提となるべき事実関係についての争いがある場合もあるんです。どの程度反省しているかとかね。量刑の判断と事実認定の判断が質的に違うとは考え難いと思います。

□ 要するに、一審に裁判員が入ることの意味合いが、事実認定と量刑で違うのかどうか、また、それに対する上訴審のチェックの仕方が違うのかどうか、そういうことだと思うのですね。いずれも健全な社会の常識が反映されることには違いがないのですけれど、一方は、証拠の評価だとか、証拠の意味付けとか、そういうところに社会常識が反映する。もう一方は、どのくらいの量刑が相当なのか、どういう要因を重視して刑を決定するのか、というところに社会常識が反映する。そういうところが違うと言えば違うわけです。そして、それを上訴審でチェックするときに、違う視点でチェックするのかどうか、また、チェックをした結果、誤っていると判断したときに、果たして控訴審で直ちに新たな判断を下すのが適切かどうか、そういうことだと思うのです。○○委員は、それらの点で両者に質的な差はないというご意見なのですが、他の何人かの方は、差があるのではないかというご意見のようです。
 それに加えて、実際的な面での感覚がちょっと違うのかなという感じもします。つまり、事実誤認ですとそれこそ大変な問題だけれども、量刑の場合は結局、幅の問題だから、差し戻してやり直すということまでやらなくても、という感覚があるのかなという感じがするのですけれども。

○ 私、この控訴審のことは非常に悩んでいて、まだ確定的な意見はとても言えないという条件で聞いていただきたいんです。
 国民参加の一審の結論を覆す場合というのは、やはり国民参加の制度でなければならないんだろうという気はしているんです。そこのところが引っ掛かっています。それをプロの裁判官だけで引っ繰り返すということは、制度的にどういうふうに整合性が取れるのかなと。先ほど○○委員が言われた何が正当性の根拠なのかというのは非常に重要な点だと思うんですけれども、それを言うならば、国民参加の一審を、どういう裁判体で覆せるのかということなんだと思うんです。
 今日いただいた資料を見ていくと、破棄のケースが16%くらいですね。○○委員の意見と違いますけれども、私は、破棄自判していいんだろうと思うんです。それは、国民が裁判の迅速化ということで望んでいることでもあると思いますし、被告人にとっても利益かもしれないですしね。それをもう一回一審に差し戻して、裁判員制度でやるというのは負担が大きすぎるんじゃないかという気が私はします。
 そういうふうに考えると、高裁段階で限定的にでも裁判員制度の形、国民参加の裁判体をつくって、もう一度第一審の裁判を吟味し直すという制度があってもいいのかなと思います。
 ただし、それを全部やるとすると、非常に重たいものになってしまいます。だから、そうでなくて、ある程度絞れないかなということを考えたりするんです。
 そうしますと、事実誤認とか量刑不当の判断というのは絡み合っているから、そこをきれいに分けるのは非常に難しいのではないかということはありますけれども、でも、国民の目から見ると、つまり一審があって二審があって、また最高裁がある。つまり、誤判の可能性というのは、3回やることによって救われるんだという意識というのはあると思うんです。それに応えるような制度設計というのが、控訴審のところでもって、例えば重大な事実誤認、著しい事実誤認という形でうまく絞れるならば、そういう狭い範囲で新しい裁判体を構成して、これはそんなに重い構成でなくてもいいのかもしれないけれども、そこで破棄自判することは考えてもいいんじゃないかなと私は思います。
 先ほど○○委員が、そういうふうに言うと、裁判所の心証が裁判員に伝わってしまうんではないかと言われましたけれども、私はそれは構わないと思うんです。そういうものであったっていいと思うんです。一審判決がおかしいと、プロの裁判官が見て、そういう判断を一旦下すならば、それはおかしいだけの理由があるんだろうと思うんです。問題は、そういうプロの裁判官の目で見たものが、普通の国民が加わって、一緒に話をしていくときに、やはりそうだなと思うかどうかということなんですから、そこを説得できるかどうかという話だと思うんです。私は構わないと思うんです。

□ 事前の審査は裁判官がやる。そして、これはどうも破棄すべき事件ではないかと思われるときに、裁判員を入れてやるという御趣旨ですね。

○ もちろん、国民的基盤の拡充のために裁判員という制度を入れるということで、これはいい制度ですねという前提で話が始まっています。しかし、その制度でも判断の誤りはあるということも当然の前提になっているわけです。そして、新たに事実を認定するのではなく、その一審の判断をチェックする場合にやはり同じシステムでなければいけないか、というと、これはまた別問題だろうと思うんです。それは、もちろん裁判員を入れてはいけないということを言っているわけではないんです。ただ、制度を作っていく上で、本当にそこまで重たいものにする必要があるのかということが一つあるので、そこは理屈で言えばチェックする機関だから必要ないと考えることも可能だと思います。事後審査審ということを前提にして考えればですね。私は、覆審というのは、余りにも負担が大きくなり過ぎてだめだと思うんです。もう一回全部やり直すということは、証人の負担とか、記憶の減退とか、迅速な裁判の観点から到底取り得ないと思っています。そういう観点から言うと、裁判員を入れてはだめだという話ではありませんけれども、現実論として考えた場合は、そこはちょっと考えた方がいいかなと思います。
 もう一つ、量刑の場合、自判できないかという問題ですが、量刑の場合は、高裁での自判はむしろ理屈が通りやすいのかなと思っています。これは、ほかの事件の量刑との均衡という問題がありますね、同種事例と著しく違っていては困るわけで、それは控訴審に事件がいっぱい来ているわけで、彼らの方がむしろ判断はしやすいんではないか。したがって、そこには裁判員を入れなくても、そういう切り口で見るとなじむ面があるんではないかという気はします。

□ 最初におっしゃった点がまさに出発点でして、裁判員が入ることによってどういう意味があるのか。一つは、国民が参加することによって、国民の意識が変わっていくということだと思うのですが、ここでの問題は、むしろ、裁判そのものにとってどういう意味があるのかということだろうと思うのです。
 ある考え方によれば、事実認定がより正しくなる。そういう主張もあるところなのですが、審議会としては必ずしもそういう考え方は採っていない。むしろ、健全な社会常識が反映されること自体が良いことなのであって、判断内容が正しくなるか悪くなるかは分からない。そういう意味で、間違いもある可能性があるので、その間違いを上訴によってチェックする必要がある、という考え方なわけです。そうすると、ちょっと切り口が違ってくるのかもしれないのですね。
 整理しただけで、私の意見を言ったつもりはありませんが。

○ 裁判員を控訴審で入れるかというと、私も、さっきから述べているところから明らかだと思いますけれども、これは入れる必要がないと考えております。今の控訴審の手続を前提にすると、手続的な性格とか、あるいは技術的な要素とか、こういうものが極めて強い。そうだとすると、そこに裁判員を入れるのはいかがなものかという気が、まず一つするということ。
 また、いわゆる裁判員の視点というのを入れなければいけないというときに、どこかで入れないといけない。それなら第一審の一番重要なところで入れておけば、それはやがて控訴審でも裁判員の視点は反映されることになるだろう、したがって、必ずしも控訴審の段階で入れる必要はないだろうというように思っているということです。
 それから、ちょっと先ほどのところに戻りますけれども、事実誤認と倫理則・経験則のところの関係で、簡単によろしいですか。これは、ドイツでも、例えば、第一審で事実誤認が問題になっているときに、上告できないかというと、論理則・経験則違反となって、法令違反ととらえて上告するというやり方をやっていますけれども、そのドイツでも事実誤認を上訴で認めてくれという議論がある。これはやはり論理則・経験則でやってしまうと、どうしても狭くなってしまう。だから、もっと広く一般的に事実誤認を認めてくれということなんで、先ほど私が、論理則・経験則、あるいは心証の優劣というのはどっちでもいいと言ったのはそういう意味で、論理則・経験則違反ということですべて解決できるならそういう言い方をしてもいいけれども、だけども本当にぎりぎり、これが有罪か無罪かという紙一重のような事件については、これはやはり慎重の上にも慎重を期すために、恐らく控訴審の裁判官というのは心証をとって大丈夫かと、こういう見方をするんではないかということなんです。

○ 私は、理念的には○○委員のおっしゃることにも分があり、第一審のみならず上級審においても国民参加の何がしかの理念を加えることは意味があるんだろうと思うわけでして、例えば、最高裁の場合ですと、十分かどうかは別として、国民審査という格好でのものがありますから。ただ、何も裁判員制度そのものを高裁段階にまで持ってくる必要はないんだろうとも思うわけであります。
 また、現実に制度を円滑に発足させるということからすれば、とりあえず第一審の充実・強化というところから始めればいいんであって、高裁段階でどういうふうにしていくかというのは、将来の宿題として少しペンディングにしておいてもいいのかなということで、やや理念と現実とのかい離があるわけですけれども、現実的なものとしては、とりあえず第一審だけでスタートさせてはいかがかと思います。けれども、第二審に何がしかのことをしなくても全くいいんだと言い切るのもちょっといかがなものかという気はいたしております。

□ 大分時間が押し詰まってきたのですけれども、あと一点だけ、さっき言われたように、控訴審の裁判体に裁判員を入れて覆審の形でやれば別ですが、仮に、そこで職業裁判官だけで審査して、しかも破棄できるとした場合、自判の可能性があるかないかは別として、差し戻すということがあり得るとすると、差し戻した場合の第一審の手続が問題となります。覆審説というのが出ていましたが、続審というのもあると思いますので、その点について、御意見を承っておいた方がいいと思うのですが、その点はいかがでしょうか。これは仮の議論ですので、二審で全部自判してしまうんだということになれば、この議論は要らなくなるわけですけれども。

○ まず一つは、差し戻された場合は、裁判員が関与する事件であれば、やはり裁判員が関与するのであろうということです。差戻審が職業裁判官だけでいいというのは、ちょっと考えにくいというのが一つ。
 それから、仮に裁判員が、一番最初の裁判員裁判、第一審の裁判と同じように加わるとしますと、恐らくそれはもう全く別の構成になるわけでしょうが、今の差戻審の考え方ですと、記録を全部引き継ぐわけですね。記録も引き継がれ、そして破棄した高裁の判断が、どの範囲かは別にしても一定の拘束力を持つということになっている。
 そうすると、2番目の一審の裁判員は、記録をまず全部読まなければいけない、そして、その判断は高裁が判断を示した範囲内でしなさいということになるわけです。恐らく重大事件で高裁まで行った記録ってすごい量なんですね。裁判員として来てくださいと言って来てもらって、さあ、記録を読んでください、そして、あなたの判断はこの枠の中でしなければいけませんと、これはなかなか難しいんではないかと思うんです。
 それで、私が魅力を感じるのは、さっき○○委員のおっしゃった差戻し後の覆審という考え方、つまり、審理を一からやり直すというやり方で、確かに時間がたっているので記憶の減退とかの問題はありますが、差戻し前の裁判そのものも連日的な開廷で相当早く行われる、高裁も、そういったことも考慮して、恐らく今よりは相当早く差戻しの時期が来るのではないかということも考えて、2番目の裁判員を助けるいろんな方法を工夫することによって覆審でやったらどうかという気がしております。

□ 今の御意見を整理させていただきますと、論点は二つあって、一つは、控訴審の差戻し判決の拘束力を認めないというお立場なのんですけれども、それがいいかどうかということと、もう一つは、差戻し後の一審をどういう審理方式にするか、今のような続審方式ではなくて覆審にすべきなのかどうかということです。両方一緒に言われたわけですけれども、一応別個の問題なものですから、その2点について御意見を伺えればと思います。

○ 一つだけ質問させていただきたいんですけれども、後の方です。差戻し後の一審を覆審にしたとき、それにまた上訴があったら、もう永遠に続くということにならないですか。そこはどうやって止めるかというか、正当化ができるか。

□ 破棄判決の拘束力との関係ですか。

○ 覆審でまた一審を完全にやり直すわけですね。

□ はい、それは続審でも同じことではないでしょうか。

○ 要するに聞きたいことは、覆審にしてまた一からやり直した場合には、それに対してまた上訴をし、また戻ってきてやり直しという現象が起こったとき、どうすればいいんだという、そこを何とかしてくれないと困るんではないかということです。

□ それは、むしろ最初の論点ではないですか。破棄判決の拘束力の問題にむしろ絡む問題ではないですか。

○ 覆審で一審をやってしまいますから、一審にまた戻ったら、破棄判決の拘束力を認めようがないわけですよね。

□ ○○委員のお考えでは、原理的には何度でも上訴はあり得るということになるんですか。

○ いろいろと考えないといけないですね。

□ 余り時間がないものですから、簡単に御意見を、簡単にと言っても重要な論点ですので、簡明にお願いしたいと思います。

○ まず、破棄判決の拘束力の問題に関して言うと、恐らく実務的な問題なので、○○委員に答えてもらった方がいいのかもしれないけれども、事実誤認に関して言うと、新一審で証拠調べを何かすると、もう拘束力はなくなるという考え方ですね。ですから、事実誤認に関して言うと、拘束力はかなりフリーだと考えた方が恐らくいいと思います。
 そのことが前提ではないんですけれども、一審の手続をどうするかということになると、私も、最初に○○委員が話されたように、続審でやるべきだろうという気がしております。というのは、記録をもう一回とにかく裁判官が読んで、それで裁判員に対して、いろいろアドバイスというか、説明をすることはできるので、続審を前提にして手続を進めた方がいいだろうというふうに考えています。

□ ほかの方は、いかがですか。

○ 私も、続審にして、一応破棄判決の拘束力は認めるという意見です。基本的には、一審はどちらかというと一般市民、一般国民の意見を反映するのに対し、高裁は、プロの判断の場である。そのプロの判断と一般国民の判断とをどこで調和させるかという問題だと思うんです。そういう観点から言うと、今申し上げたようなところが落ち着きどころではないかというふうに思います。

□ ○○委員、何か。

○ 私も、最初に言ったとおり、破棄判決の拘束力を認めた上で続審でやればいいのではないかと思います。
 そのときに、新しい裁判員が入るわけですから、それは当然それまでの審理を分かりやすく、どういう証拠になっていたかということを、もう一度裁判官が当事者の聞いているところで提示をし、そして、当事者も、その争点が何だったのかということをもう一度主張することが必要だと思いますけれども、その手続を工夫すれば、十分それまでの争点と、今までの証拠関係はどうなっていたのか、どこを更に調べなければいけないのかということは裁判員にも分かってもらえるのではないかというふうに思います。

○ 従前の証人の尋問調書などは、どういう扱いをするんですか。

○ それは判断者が変わるわけですから、公判調書は書証として証拠になるわけですけれども、しかし、その中でどういうことが言われていたのかという要点を、裁判員に分かるように示すということは可能だと思うんです。
 今の公判手続でも、そこは工夫の余地の範囲内でできるわけですけれども。

○ 公判手続の更新ですね。

□ その点は更に詰めて検討しないといけないところがあると思いますが、一応1ラウンド目ということで、このぐらいにさせていただいて、後に非常に重い話題が残っておりますので、予定より随分ずれ込んでしまったのですが、この辺で10分ぐらいリフレッシュの時間を置かせていただきたいと思います。

(休 憩)

□ 次は項目7の「憲法との関係」ということですが、まず、ここで「憲法との関係」について議論する趣旨について、若干御説明しておくのがよろしいかと存じます。
 国民の司法参加と憲法との関係につきましては、御承知とは存じますけれども、司法制度改革審議会におきましても、ある程度議論を行いました。そして、憲法に抵触しないような形で国民参加の制度を導入することは可能ではないかという一応の見通しに立って、裁判員制度を提案したのでありますけれども、審議会は、その性質上、あるいは委員の構成などからしても、憲法問題について結論を出す場では必ずしもなく、また実際出したわけでもありません。
 しかし、これから具体的な形で裁判員制度を立法していくに当たりましては、果たして具体的に提案するような形の司法参加の制度が、現行憲法の下で正当化され得るのかを確認するということが必要であり、さらにまた、どのような条件や形なら現行憲法に適合するかは、具体的な制度設計を左右する問題であると考えられます。逆に申しますと、具体的な制度が憲法に適合しているかどうかは、その制度の具体的内容にかかってくるところが大きいと考えられますので、具体的制度設計を行う上でも憲法との関係を詰めて考えておくということが必要となるように思われます。
 御承知とは思いますけれども、意見書が、「具体的な制度設計においては、憲法(第六章司法に関する規定、裁判を受ける権利、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、適正手続の保障など)の趣旨を十分に踏まえ、これに適合したものとしなければならないことは言うまでもない」というふうに述べているのは、まさにそのような趣旨によるものと言えるだろうと思われます。
 本検討会でも、これまで制度の大枠について一通りの議論が進んできましたので、この段階で、これまでの議論を踏まえまして、具体的な制度設計を視野に入れながら、憲法との関係を議論し整理しておくことは、今後制度設計を進めていくために必要かつ有用なことだと思われます。
 本日の議論は、そのような趣旨でお願いしたいというふうに考えておりますので、そういう趣旨であるということを御承知おき下さればと存じます。
 まず、冒頭でも触れましたように、この論点については、第2回検討会で配布されている論点ペーパーを補充する資料が配布されておりますので、その内容について事務局の方から説明してもらい、それを踏まえて議論をさせていただきたいと存じます。

● 「裁判員制度に関する当面の憲法上の論点(補充)」という表題を付しました資料について御説明いたします。
 先ほども申しましたように、この資料は、裁判員制度に関する憲法問題について御議論いただく際の参考として、事務局において作成したものでありまして、裁判員制度の具体的な制度設計を進めていく上で、憲法上問題となり得る主要な論点を掲げたものでございます。そして、これに関連する見解で、本日これからの議論の参考になると思われるものを抜粋して、「資料編」として添付しております。
 なお、資料の中では、制度の憲法適合性に関する特定の考え方を御紹介している部分もございますが、これは議論のために有益と思われるものを御紹介したものでありまして、もとより推進本部あるいは事務局として、現時点で憲法上の各論点につき特定の考え方を採っているというわけではございません。
 内容について、順に御説明いたしますと、まず、1として「司法機関としての『裁判所』の在り方について」であります。これは、司法権を行使する機関としての裁判所の在り方は、どのようなものであることが憲法上要請されていると考えるか、そして、それを踏まえて、裁判員制度、あるいは裁判員制度の下での裁判所をどのように制度設計すべきことが、憲法上要請されていると考えるか、という観点からの論点であります。
 御承知のとおり、憲法は、第6章第76条以下に司法に関する規定を設けており、その中では裁判官の独立や身分保障等が規定されておりますが、他方、裁判員制度はもとより、いわゆる陪審・参審制度に関する規定は設けられておりません。
 憲法が、このような規定ぶりをしていることもあり、(1)に記載しましたとおり、憲法第76条以下に規定する裁判所は、裁判官によって構成されることが基本的に想定されているという考え方があります。そこで、まず、このような考え方の当否が問題となると考えられます。
 「資料編」で「A 国民の司法参加の合憲性について」と題しました項目のうち、仮に「(1)違憲説」あるいは「(2)制限合憲説」として分類した各見解は、このような考え方、あるいはそれに類似した考え方に基づくものと思われます。
 他方、「(3)合憲説」としました(ア)や(ウ)の説は、こうした考え方には立たないのではないかと思われます。
 次に、1の(2)ですが、「裁判員を憲法上の『裁判官』とみることができるか」という論点であります。憲法は、最高裁判所と下級裁判所の裁判官について、その独立や身分保障、あるいは任命方法等を規定しているわけですが、憲法にこのように規定されている裁判官に裁判員が該当すると見ることができるかどうかということです。
 この点について、裁判員は憲法上の裁判官に該当しないものと解すると、裁判員制度は、憲法上の裁判官ではない者が裁判所の構成員となるという制度ということになるわけでありまして、そのことは、(1)の論点についてどのような立場を採るかによってもその意味合いは異なってくると思われますが、次の(3)の論点についての考え方に影響してくると思われます。
 また、この問題を考えるに当たっては、憲法は、憲法上の裁判官がどのような存在であることを想定しているのかという点の検討も必要であろうと思われます。
 例えば、「資料編」の4ページに記載してありますとおり、「独立性が保障され、中立、公正性が担保された法律の専門家である裁判官というものを基本的に想定している」との考え方があると思われます。
 また、「資料編」の1ページの(ア)の見解は、専門的裁判官だけを前提として規定されているとし、2ページの(ウ)の見解も、専門の裁判官のみを予想しているというふうに言っております。その趣旨は、これだけでは必ずしも明らかではなく、「法律専門家」という趣旨とも解される一方で、任期、報酬、身分保障に言及していることからすると、「職業裁判官」という趣旨とも解されるところであります。すなわち、憲法上、裁判官に関しては、10年間という相当長期間の任期や定年が定められ、身分が保障されていることなどから、高度の独立性、中立性・公正性が制度的に確保され、職業として繰り返し裁判実務に従事する、いわゆる「職業裁判官」が憲法上想定されているという見解も考えるところであります。もとより、「法律専門家である職業裁判官」が想定されているという見解も考えられるところであります。
 このように問題となるわけでありますが、司法制度改革審議会の意見を前提といたしますと、裁判員については、例えば、憲法が規定するように、任期が10年ということにはならないと思われますので、この点だけでも、裁判員を憲法上の裁判官と見ることは困難ではないかと思われるところではあります。
 そこで、3番目の論点として、(3)の「法律により、裁判官以外の者を裁判体に加えることについて、これを憲法に適合したものとするために検討すべき事項」ということであります。具体的な制度設計を進める上では検討すべき点は少なくないと思われますが、この資料では、一例として、「例えば」以下に記載した事項を挙げております。
 内容を若干詳しく御説明いたしますと、①の「独立性、中立性・公正性が確保されているか」及び②の「構成、裁判官と裁判員の役割分担及び評決の在り方」は、言わば、具体的な制度の在り方との関係で検討すべき点という趣旨で掲げたものであります。そして、こうした諸点の検討に当たっては、刑事司法の目的からして、被告人の人権保障に欠けることはないか、刑罰権の適正な実現の観点から要請されることはないかという、両面の視点からの検討が必要ではないかという趣旨での記載であります。
 すなわち、裁判員制度の下での裁判所の在り方が、被告人の人権を侵害するようなものであってはならないことは、言うまでもないことであります。しかしながら、それと同時に、国の統治機構の一部としての裁判所の在り方としては、被告人の人権保障だけではなく、これに加えて刑罰権が適正に実現されるような裁判所でなければならないという視点からの検討も必要と思われるところであります。
 更に具体的に申し上げますと、①の「独立性、中立性・公正性が確保されているか」という点に関しましては、憲法が身分保障を含め裁判官の独立に関する詳細な規定を置いていることからしても、裁判員の独立性、中立性・公正性の確保は、憲法上特に重要な点ではないかと思われます。
 この点に関連いたしまして、先ほども若干述べましたように、司法制度改革審議会の意見を前提とすると、憲法が規定する裁判官の身分保障と全く同一の身分保障を裁判員が有するということにはならないと思われますが、その点についてどのように考えるかという点も一つの論点であろうと思われます。
 ②のうちの、「構成の在り方」については、例えば、憲法上、裁判所は裁判官によって構成されることが基本的に想定されているとの考え方に基づき、職業裁判官を全く除外して裁判員だけで裁判をする制度とすることは、憲法上問題があるという考え方があります。司法制度改革審議会の議論の過程でも、同趣旨の意見が述べられており、「資料編」6ページの下の方に記載してあります。そのような考え方を含めまして、憲法上、裁判体の構成について要請される点があるかという問題であります。
 「裁判官と裁判員の役割分担の在り方」については、例えば、(注1)に記載しましたように、「裁判員に違憲立法審査権の行使をはじめとする、法律問題の判断についての権限を与えるか否かについて憲法上検討すべき問題はないか」という論点が考えられるものと思われます。この点に関し、具体的には、「国民全体から選挙で選出された国会議員から成る国会が制定した法律を、無作為抽出で選ばれた裁判員が違憲であるという判断をすることを認めるのは、憲法の採る国民代表制と合致せず、憲法上問題がある」という見解があります。これにつきましても、司法制度改革審議会の議論の過程で、同様の意見が述べられており、「資料編」5ページのCの(1)に記載してあります。
 違憲立法審査権の行使は、選挙された国民の代表が制定した法律の意味を確定するという作業であるという点では、法律解釈一般と異なる点はないようにも思われますので、そうしますと、国民代表制との整合性を問題とする立場からは、違憲立法審査権にとどまらず、法律問題一般についても、裁判員が関与することは憲法上問題があるという見解も考えられるところであります。そこで、本資料では、「違憲立法審査権の行使をはじめとする法律問題」の判断に裁判員が関与することと憲法との関係という形での論点としたものです。
 また、今、申し上げました国民代表制との関係とは、若干切り口が異なりますが、「法律問題の的確な判断には法律知識を要すると考えられることから、法律問題の判断に関し、裁判員が裁判官と同等の権限を有することとするのは、被告人の人権保障及び刑罰権の適正な実現の観点から、憲法上も問題がある」という見解もあり得るように思われます。
 特に、司法の本質あるいは主要な役割は、法律の適用・解釈にあるとし、加えて、先に御紹介したように、憲法は法律専門家たる裁判官を基本的に想定しているという見解を採れば、そのような問題意識は非常に強くなるように思われます。
 もっとも、仮に、具体的な制度として、違憲立法審査権の行使を含む法律問題については、裁判官の権限とするという制度を採るのであれば、この問題をあえて憲法上の論点とする必要はないのかもしれませんが、制度設計のいかんによっては論点ともなり得るという意味で記載したものです。
 ②のうち、「評決の在り方」は、憲法上、評決の在り方に関し要請されることはないかという問題であります。議論の便宜を考えまして、(注2)に幾つかの考え方を記載しておりますが、これは、評決の在り方につき、被告人の人権保障に欠けることはないかという観点から検討した場合の考え方を御紹介したものであります。
 先にも申し上げましたとおり、ここの五つの見解のどれかを事務局として採っているということではありませんし、もとより、あり得る見解がここに御紹介した五つに尽きるということでもありません。
 記載しましたそれぞれの考え方の趣旨を御説明いたしますと、いずれの考え方も前提としまして、仮に、裁判員が裁判体に加わり、裁判官とともに多数決で評決を行うとした場合を前提としたものであります。
 順番はやや異なりますが、まず、(b)の考え方から御説明いたします。五つの考え方のうち、(a)から(c)は、いずれも、有罪の評決の要件に関する考え方でありますが、そのうちの(b)の考え方は、「裁判官の多数が無罪の意見である場合には、有罪の裁判を行うことは許されないとの考え方」であり、これと同趣旨の意見が司法制度改革審議会の議論の過程でも述べられております。「資料編」の5ページの下の方のDの(2)であります。
 この考え方の基本的な発想は、次のようなものだと思われます。すなわち、憲法第76条以下に規定する「裁判所」は、裁判官によって構成されること、すなわち、「裁判官が裁判を行う裁判所」が基本的に想定されており、他方、国家の統治機構は憲法が保障する人権を侵害するようなものであってはならないことは当然であることから、憲法第32条・第37条が保障する「裁判を受ける権利」を侵害するものではあってはならないと考えられ、裁判を受ける権利というのは、具体的には、刑事事件については、「裁判所による裁判によらなければ、刑罰を科されない」という、被告人の権利を意味することから、結局、憲法第76条以下の規定は、「裁判官が裁判を行う裁判所による裁判によらなければ、刑罰を科されない権利」を保障する制度であることを要請していると解すべきであるということになります。そして、「裁判官の多数が無罪の意見である場合に、有罪の裁判を行うこと」は、裁判官による裁判によらずして刑罰を科すことにほかならないから、憲法上これを許容する制度は許されない。
 概略、以上のような考え方ではないかと思われます。つまり、憲法第76条に規定する「裁判所」としては、「裁判官が裁判を行う裁判所」が基本的に想定されていると考えられることから、憲法第32条・第37条は、それを受けまして、「裁判官による裁判によらなければ刑罰を科されない権利」を保障したものだと解するもので、その権利を侵害するような制度とすることは、裁判員制度を導入するに当たって憲法上許されないという考え方であると思われます。
 また、この考え方の背景と申しますか、基本的な問題意識としましては、裁判官による裁判であれば無罪となっていた事件が、裁判員が関与することによって有罪となってしまうおそれがあるのであれば、そのような制度は被告人の人権保障に反するのではないか、という発想があるものと思われます。
 次に、(c)の考え方ですが、これは、「裁判官全員が無罪の意見である場合には、有罪の裁判を行うことは許されないとの考え方」です。憲法第76条以下に規定する「裁判所」は、裁判官によって構成されることが基本的に想定されていると考える点は、(b)の考え方と同様であると思われますが、このことから、裁判官の意見を全く反映させない形で有罪の判決を下すことは許されないので、裁判官全員が無罪の意見である場合には、有罪の裁判を行うことは許されないと考えるものと思われます。「資料編」の6ページの(3)に記載した意見は、これと同趣旨のものと思われます。
 (b)の考え方と(c)の考え方は、同じく、憲法第76条以下に規定する裁判所は、裁判官によって構成されることが基本的に想定されていると考えながら、その具体的な表れとして、憲法がどこまで要求していると考えるかという点で見解を異にするものと言えると思います。
 なお、司法制度改革審議会の意見は、評決に関し、「ただし、・・・少なくとも裁判官又は裁判員のみによる多数で、被告人に不利な決定をすることはできないようにすべきである」としており、このうち、「裁判員のみによる多数で被告人に不利な決定をすることができないようにすべき」との点は、(c)の考え方と同趣旨の考え方となりますが、司法制度改革審議会の意見自体は、この条件を明示的に憲法と関係付けて言及してはおりませんので、同意見が、憲法論として(c)の立場を採っているか否かは、明確ではないと思われます。
 次に、(a)の考え方ですが、「裁判官の全員又は多数が無罪の意見である場合に有罪の裁判を行ったとしても、裁判員の独立性が保障され、その中立性・公正性が確保されるなどの条件が整っていれば、許されるとの考え方」であります。
 この考え方は、(1)の論点につき、憲法第76条以下に規定する「裁判所」は、裁判官によって構成されることが基本的に想定されていると考える立場と、そうではないと考える立場の、いずれの立場からも採り得る考え方だと思われます。
 いずれの立場であっても、裁判員の独立性が保障され、その中立性・公正性が確保されていなければならないということは異論はないと思われますが、「裁判所」が裁判官によって構成されることが基本的に想定されているとは考えない立場からは、「裁判員の独立性、中立性・公正性が確保されていれば、裁判員と裁判官を憲法上同等に扱うことができ、裁判官の全員又は多数が無罪の意見であっても、裁判体全体の多数が有罪の意見であれば、有罪の裁判を行うことが許されるという考え方」があり得ると思われます。
 他方、「裁判所」が裁判官によって構成されることが基本的に想定されていると考える立場を前提とした場合でも、「裁判員の独立性が保障され、中立性・公正性が確保されることに加え、裁判体の構成、裁判官と裁判員の役割分担及び評決の在り方といった点についての諸条件によって、裁判所が裁判官によって構成されることが基本的に想定されているという憲法の趣旨に反しない形での制度設計が可能である」という考えもあり得るものと思われます。この考え方は、憲法の規定ぶりから、憲法は裁判所が裁判官によって構成されることを基本的に想定しているということは認めつつも、そこから具体的に要請される内実は、それほど明確なものではなく、(b)や(c)の考え方のように、評決の在り方が一義的に導き出されるとすることは困難であって、むしろ、評決以外の制度の在り方も総合考慮して憲法の趣旨に反しないと言うことができれば足りるとの発想に基づくものと思われます。
 次に、(d)の考え方ですが、これは、(a)から(c)までの考え方とは異なったアプローチによるものと思われます。この考え方は、「裁判員の加わった裁判体の裁判を受けることを、被告人の選択に委ねることとすれば、被告人の人権保障に欠けるところはないとの考え方」ですが、これは(1)の論点について、憲法第76条以下に規定する「裁判所」は、裁判官によって構成されることが基本的に想定されていると考えた上で、「仮にそうであっても、被告人の人権、ここでは、主として、裁判を受ける権利を想定しているものと思われますが、その権利を被告人が自己の意思に基づいて放棄することは可能である」と考える立場と思われます。
 最後に、(e)の考え方ですが、これは、「裁判官のみから構成される控訴審での裁判を受ける機会が保障されていれば、被告人の人権保障に欠けるところはないとの考え方」ですが、この考え方も、やはり(1)の論点につき、憲法第76条以下に規定する「裁判所」は、裁判官によって構成されることが基本的に想定されていると考えた上で、「憲法上、裁判を受ける権利は、最高裁判所と下級裁判所の2段階で保障されており、かつ、それで足りるものと解して、控訴審及び最高裁判所での裁判を受ける権利が保障されていれば、憲法上の保障に欠けるところはないと理解する立場であると思われます。
 (d)及び(e)の考え方は、反面から言えば、被告人の同意があれば、あるいは第一審に限っては、憲法上の裁判所の裁判とは言えない手続によって、被告人を有罪にすることを容認することが前提となる立場であると思われます。
 (d)及び(e)の考え方につきましては、「資料編」の7ページの(6)に記載しました考え方の後半部分も御参照ください。
 以上は、被告人の人権保障の観点から検討した場合の考え方ですが、先にも触れましたように、「刑罰権の適正な実現の観点から要請されることはないか」という面からの検討も必要と思われます。
 例えば、(注2)に記しました(b)の考え方は、(1)の論点について、憲法第76条以下に規定する「裁判所」は、裁判官によって構成されることが基本的に想定されているという考え方を採り、その具体的な表れとして、裁判官が裁判を行うこと、つまり、結論が裁判官の多数の意見と一致していることが要請されていると解し、被告人の人権保障の観点から、裁判体全体の多数が有罪の意見であっても、裁判官の多数が無罪の意見であれば、有罪の判決を下すことは憲法上許されないと解するわけです。
 しかし、「仮に、そのように結論が裁判官の多数の意見と一致していることが、「裁判所」あるいは「裁判」の在り方として憲法上要請されていると解するのであれば、刑罰権の適正な実現の観点からすると、逆方向、すなわち、無罪の判決についても、「裁判所」の在り方に関する憲法の要請として、裁判体全体の多数の意見が無罪であっても、裁判官の多数が有罪の意見である場合には、無罪の裁判を行うことは憲法上許されないとしなければならないという考え方」もあり得ると思われます。
 「資料編」の7ページの(4)に記載しましたように、司法制度改革審議会の議論の過程におきましても、被告人に不利な決定、有利な決定を問わず、考え方は同様でなければいけないという意味で、同趣旨の意見が述べられております。
 次に、2の「司法参加を求められる国民の基本的人権について」ですが、司法制度改革審議会の意見は、裁判員制度においては、「原則として国民すべてが等しく司法に参加する機会を与えられ、かつ、その責任を負うべき」であるとし、さらに、「裁判員選任の実行性を確保するためには、裁判所から召喚を受けた裁判員候補者は出頭義務を負うこととすべき」としております。したがって、この制度の下では、資料に記載しましたように、「国民に対し、司法権の行使という公務に従事するものとして、裁判に参加することを義務付ける」こととなるため、こうした義務を国民に負わせることと、当該国民の基本的人権の保障との関係が問題となると思われます。
 憲法の規定としては、資料にも記載しましたとおり、憲法第18条から第22条までや、第29条等が問題となると思われます。資料においては、議論に際して具体的にどのようなことが問題となり得るかを考える際の御参考として、「(1)裁判員として役務を提供することを義務付けることは、『その意に反する苦役』に服させることに当たらないか」ということと、「(2)裁判員としての職務を行う際に、個人的な信条や宗教的信念に反する判断を強制するおそれはないか」という例を挙げております。
 もちろん、問題となり得るのは、ここに例示した場合に限定されるものではないと思われますが、具体的な制度を設計していく上では、裁判員となる国民の権利が制約されることとなるのか、さらに、仮に制約される可能性がある場合には、それが憲法上許容される制約なのかという観点からの検討が不可欠であろうと思われますので、資料において論点として掲げたものです。
 長くなりました上に、複雑な説明で申し訳ございませんが、以上で説明を終わります。

□ ち密と言えばち密なのですが、理解するのが少々難しい構造になっていると思いますので、まず、今の説明について御質問があればお伺いしたいと思います。いかがですか。どうぞ。

○ 今の説明の中で、憲法上、裁判官が法律専門家であるということが想定されているという見解があるということを紹介されましたけれども、一般論としてはよく理解できるんですけれども、憲法上というからには憲法のどこかに根拠があるということですね。具体的にそれはどこということになるんですか。

● 「資料編」でそういう見解もあるということで御紹介をしておりますが、残念ながら、そこには根拠が明示されておりません。したがって、当方で考えるしかないわけでありますが、おおよそ次のようなことではないかと思われます。
 一つは、裁判所は、法による正義の実現という機能を期待されているということが憲法の全体から言えるということではないかと思います。そして、違憲立法審査権という高度の法律判断を要請される立場にあることからしても、裁判官の重要な職責は、違憲立法審査をはじめとした法の解釈あるいはその適用にあると言うべきであること、要するに、裁判官の仕事は法律の解釈・適用ではないかということであります。
 2点目は、裁判官は、憲法及び法律に拘束されるとされておりますので、法律に拘束される以上、法律の素養を有することが前提とされているのではないかということが考えられます。
 このようなことから、裁判官は法律専門家であることが想定されている、あるいは、法律専門家であることを要すると考えるべきであるという見解が示されているのではないかと思います。

□ それで、よろしいですか。

○ 意見はまた後にしまして、関連して言いますと、今の考え方によれば、法律問題の判断についての権限を裁判員に与えることには憲法上問題があるということですけれども、これは、被告人に有利になる場合、不利になる場合、どちらの方も含むという趣旨ですか。

● 我々が目にした範囲では、見解として公にされたもので、その点をはっきりさせたものはありませんが、両様の考え方があり得るのではないかと思います。
 一つは、これが憲法が想定する裁判所の在り方の問題であるというふうに考えますと、そのような法律専門家が法律問題を扱わなければならないという要請は、単に被告人の裁判を受ける権利の問題ではなくて、裁判所の在り方自体の問題であることから、被告人に有利であるか不利であるかを問わず、すべて裁判官が判断する制度でなければならないという結論となることが考えられます。
 他方、資料の(注2)の(b)に記載しました見解と同様に、法律問題について法律専門家である裁判官が扱わなければならないというのは、専ら被告人の人権保障の観点からのものであると考えるとすると、被告人に不利な判断を行う際にのみ、それが働いて、例えば、裁判官の多数の賛成を要するといったような見解になることもあり得るのではないかと思われます。

□ 御意見があるような感じですけれども。

○ 意見は後で述べることにいたしまして、とりあえず、以上です。

□ 分かりました。それでは、ほかの方で事務局の説明についての御質問ございますか。どうぞ。

○ (注2)の(b)という見解は、裁判官の多数が無罪だという場合には、裁判員を含めた合議体全員の多数決の結果が有罪であっても有罪にしてはいけない、しかも、それが結論として憲法から導き出されると言っている。その根拠付けとしては、さっき事務局の方が何度も言った「憲法76条以下の司法権のところに出てくる裁判所というのは、裁判官によって構成されることが基本的に想定されている」という考えから出発するわけですね。そこから出発するんだけれども、形式論理としては、今度は、憲法32条とか37条の裁判を受ける権利というのが出てきて、この(b)説の論理によれば、76条以下の規定ぶりからすれば、その裁判を受ける権利にいう「裁判所」というのも、やはり裁判官によって構成されることが基本的に想定されていると解されるから、被告人の不利益な方向では、裁判官による判断でなければ被告人の「裁判を受ける権利」を侵害すると言うわけです。
 しかし、(b)説によっても、76条以下にいう裁判所は、基本的には裁判官によって構成されることが想定されていると言うけれども、他方で、裁判員は入っても構わないというのが論理的な前提になっているわけですね。そうは言いながらも、76条以下を用いて解釈した32条を、何か別の外在的な制約原理であるかのようにして持ってきて、76条以下は、結局、被告人を有罪とする方向では、職業裁判官の意見が通らないような格好になってはいけないと言っていて、どうも私にはぐるぐる回りの議論をしているように見える。
 しかも、それがあたかも憲法の論理から必然的に出てくるような形の説明をしているんですけれども、別の論理もあると思うんです。確かに憲法76条以下は、基本的には裁判官、プロがいなければいけないとしているけれども、しかし、素人が入っていたとしても、それは憲法上の「裁判所」だというふうに考えることは十分論理的にあり得るわけで、実際、(b)説もそこは否定していないわけです。そうだとすれば、憲法32条や37条の言っている裁判所も、そういう76条以下の認めた憲法上の「裁判所」である、そして、そのような裁判所が、適正な審理手続を経て、有罪方向であれ、無罪方向であれ、評決した結果多数になった場合には、それが憲法上の「裁判」であるという理屈も十分あり得ると思うんです。
 繰り返しになりますけれども、(b)説は、被告人の不利益方向については、職業裁判官の多数が無罪の意見である場合には、有罪の裁判はできないんだという結論を、憲法の要請であるかのように言っているんですけれども、そうではない結論を導くのがむしろ自然に思えるのでありますし、憲法76条以下を根拠として32条や37条を解釈し、それを根拠にまた76条を解釈しているというのは、結局、論理としてはぐるぐる回りになっているんではないかと、言いたいのはそういうことなんですが。

□ 御意見ですか、御質問ですか。

○ 質問です。論拠がよく分からないということなんですが。

□ 分からないとだけ言われても、答えようがないと思いますが。

○ 何でそういう結論が憲法が出てくるのかが、よく分からないということです。

● なぜそうかと言われると、それは答えようがありませんが、「資料編」の5ページの(2)の意見というものを参考にして、先ほど申し上げたような説明をさせていただいたわけです。(2)の考え方は、まず、憲法は、身分保障のある裁判官に関する規定を置いていて、他方、裁判所の裁判を受ける権利を保障しているということで、裁判所の裁判を受ける権利を解釈して、それが被告人の権利であると言いつつ、さはさりながら、76条以下は裁判員を排除はしていないと言っていて、ぐるぐる回りと言われるとそうかもしれませんが、事務局としては、要するに、そこに記載している考えを参考に御説明させていただいたということであります。

□ 結局、この考え方は、憲法76条以下が想定している裁判所の裁判というものと、32条ないし37条が保障する裁判との間に、差を認めているのですね。なぜかというと、32条、37条にいう「裁判」を受けることは被告人の人権として保障されているものである以上、不利益を受けるときについて保障したものというべきであり、しかもそれは、やはり、裁判官による裁判を保障したものなのだ。私が理解する限りでは、こういう解釈だと思うのです。それと憲法76条以下を根拠にして言っておられることに、違いがあるということは確かでしょうね。

○ 今の座長がおっしゃったことの確認ですが、座長の御意見ではないんだろうとは思うんですが、憲法32条が、被告人に不利益な判断は裁判官のみによって行われなければいけないと保障しているというのは、どこから解釈論的に出てくるんですか。

□ そこが、話が戻ると変なことになると○○委員がおっしゃったところだと思うのですけれども、基本的には、憲法というのは職業裁判官が裁判所を構成するということになっていて、そういう裁判を憲法32条ないし37条で保障しているのだという論理だと思うのですね。私自身の意見ではありませんので、それ以上は説明できませんが。

○ 座長の御意見だというふうに伺っているつもりではないんです。ただ、そうすると、結局○○委員が言われたように、論理が行ったり来たりしてしまっているということではあるわけですね。

□ そうですね。

○ 私もお伺いしたかったのは、(b)説における、憲法32条・37条と憲法76条以下との関係の理解について、事務局はどのように整理されているのかということを伺いたいんですが。

□ 事務局に問われても、困るのではないでしょうか。

○ ですから、事務局の御意見ではないということも承知の上で。そうしないと議論が錯綜してしまうかもしれないので。

□ これ以上解説するのは難しいのですけれども、やはり被告人の方から見ると、裁判官によって構成される裁判所によって裁判を受けるのとそれ以外の人が入った裁判体による裁判を受けるのとでは質的に差があるというのが、(b)説の暗に意味しているところかなという感じがしますね。

○ その質的な差というのは、憲法76条以下で裁判官には身分保障があり、独立性が保障されていると、そういう質的な一定のクオリティーが確保された人たちに裁判をしてもらうというのは、被告人の権利としてあるのではないかという論理ですか。

□ そういう想定ではないかと思われるのですけれども、そこは、そのような解釈を取られる人にうかがってみないと確かなことは言えませんね。

○ しかし、その人たちは我々のところにいないわけですから。それで、その意見をどうするかをここで議論するわけですから。

□ そういうことが被告人の利益だという想定ではないか。そういうふうに考えると、そのような解釈も一応説明できるような感じがするということです。

○ それと、今は、憲法32条の原則には民事も入っていると考えられていますね。(b)の考え方によれば、民事裁判を受ける権利と刑事裁判を受ける権利で、分けて考えるということになるんでしょうか。

● そこも端的にお答えになった方はおられませんので、何とも申し上げようがないんですけれども、一つの考え方としては分けるというのもあり得ましょうし、分けないという考え方、すなわち、裁判官が基本であるというためには、裁判官の多数の意見が尊重されなければいけないということであれば、裁判を受ける権利というのは、民事の場合は、刑事とは違って被告人の権利だけではないでしょうから、両様に働く、つまり、両方向で裁判官の多数の意見が尊重されなければならないという結論もあり得るとは思います。

□ 専ら刑事事件の文脈の中で言われているものですからね。

○ 「補充」という書面の1の(1)なんですけれども、この問題を巡っては、昔から違憲論、合憲論たくさんあるわけですが、国民が裁判体に入ることは憲法上当然許容されているという、仮に一番広い考え方を取ったとしても、裁判所というところにプロの裁判官がいなくていいという考え方は一つもないという理解でよろしいですか。
 何を言いたいかというと、裁判所という建物に行ったときに、国民しかいないということはだれも想定していない、つまり、ここの資料で言っているだれもが、当然にプロの裁判官は裁判所というところにはいるんだという前提で、みんなが議論しているという理解でよろしいでしょうか。

● 恐らくそうではないかと思います。「資料編」の3ページの「合憲説」も、陪審・参審とおっしゃっていることからすると、当然、裁判所には裁判官がいるという前提かと思われますが、その論理を徹底するとどうなるかという問題は別途あるという気もします。

○ 今、事務局がおっしゃったことで、見解をいろいろお示しになられている方たちの認識としては、裁判官がいないことは想定してないかもしれないけれども、論理としては、裁判官がいないということもあり得るんでしょう。つまり、憲法32条の解釈からすれば、裁判所であればいいわけですから、その裁判所の構成要素として、職業裁判官が絶対いなければいけないということになるかどうかは、議論の余地があるんでしょう。もちろん議論はいろいろとあり得るとしても、論理としては。

□ 「論理」と言われるのですが、それもどのレベルでとらえるのかによって違うと思いますけれども、現行憲法を前提にした場合に、32条と37条を76条以下と切り離して考えられるか、ということだろうと思うのです。確かに、32条にいう「裁判所」というのは場所のことであって、裁判をする裁判体はそれとは別でいいのだというとらえ方も、その条文だけで見る限りは理屈として成り立たないわけではないのですが、76条以下で司法権の作用は裁判所に属するとされ、かつ、職業裁判官についての一連の規定が置かれていることを前提にした場合、32条にいう「裁判」というのもまさに司法作用そのものであるのに、その76条以下と全く切り離して考えられるものかどうかですね。考えられるとすれば、おっしゃったような理屈も成り立たないわけではないですが、しかし、同じ憲法の中で、司法というものをこういう形で、こういう権限があると規定しているわけですから、法解釈の仕方としては、そこを結び付けて考えるのが普通だろうと思いますね。この資料に挙がっている人たちも、その点を特に明示して書いてはいません、恐らくそのことは当然の前提としているように思います。

○ ただ、そうしますと、例えば、イギリスにあるマジストレート・コートで、レイ・マジストレートしかいないようなコートは違憲だということになるわけですか。

□ それは、まさに○○委員がおっしゃった、「裁判官」というのは法律専門家であることまで要するかどうかという問題だろうと思うのです。法律家でない人も「裁判官」と言えるかどうかですね。

○ そういう言い方もできるということですね。

□ しかし、それが「裁判官」ではないとすると、現行憲法の下で果たして、法律家でない人のみにより構成される裁判所というものが認められ得るのかという問題になってくる、そういうことだろうと思いますね。

○ ちなみに、民事の調停でも、裁判官が肝心なところはいなければいけない、裁判官が中心になって調停というのは構成されているという考え方ですよね。

□ そこも、「裁判」というのはどこまでのものをいうのかによって違ってきますね。一般的には、狭い意味での「裁判」というのは、国の権力によって事の黒白を付けるというものであり、それについては裁判官の関与が必須だけれども、それ以外の紛争解決の仕方についてはそうではない、といった仕分けではないでしょうか。

○ 訴訟事件か非訟事件かということですね。

□ 一般には、「裁判」というのは訴訟事件的なものを主に念頭に置いているように思うわけですが、非訟事件まで含めて「裁判」だということになれ、そこにも裁判官の関与が必須だということになるかもしれないですね。
 ほかに御質問はございませんか。

○ 裁判官の多数が無罪の意見の場合には有罪にしてはいけないという、(b)説のさっきの理屈も私はよく分からない、形式論理としてもちょっと変だと思ったんですけれども、憲法がそれを絶対要請しているという実質的な根拠があるんですかね。
 せんじ詰めていくと、これは結局、職業裁判官でない一般国民は、判断を間違うおそれがあるということに帰着するようにも思うんですが、どうでしょうか。

□ それは、事務局としては答えにくいと思いますので、あえて口を挟みますと、そういう説を取っておられる方の根本には、あるいはそういうお考えがあるのかもしれませんけれども、裸の形でそうだと考えておられるのではなくて、現行憲法がそういう価値判断をしていると考えておられるのではないかと思いますね。その根拠は、要するに、現行憲法は職業裁判官を念頭に置いたような規定しか置いていないということで、そういった憲法の規定ぶりから、そういう解釈を導いておられるわけで、裸の実質判断としてそこまで思っておられるのかどうか、その点については断定を避けなければならないと思います。

○ 今の考え方で、多数というのは、有罪・無罪の結論についてなんでしょうか。論点ごとにどういうふうにすればいいのかも問題と思うんですが。現実の訴訟では、論点ごとに問題となっていって、そしてそこで判断を積み重ねていかざるを得ないわけですけれども、最後の結論についてだけ確保されればそれでいいのかどうか。

□ 確かに、評決の具体的な手続を考えていく場合、その点も重要な論点になるところだと思いますね。
 以上の議論を整理しますと、私なりの理解では、問題は要するに、国の統治機構の一角を成し、司法権の作用である裁判を担う裁判体というのは、どういうものであるべきなのかということで、しかも、それは、裸の議論というよりは、現行憲法はどういうふうに考えているのか、ということだと思うのです。特に、現行憲法が76条以下では職業裁判官を念頭に置いた規定しか置いていないということの意味をどう考えるのか、ですね。それを、職業裁判官だけで裁判所を構成しないといけなくて、他の人を入れる余地はないというふうに考えるのか、それとも、そうではなくて、他の人を入れることは十分可能だというふうに考えるのか。そして、可能だとしても、職業裁判官についての規定が置かれてあり、身分保障その他いろいろなことが定められているのだから、職業裁判官が裁判所の必須の要素ないしは基本だというふうに考え、そこに国民から選ばれた人も加わって、一つの裁判体を作るということも可能だというふうに考えるのか、それとも、職業裁判官は必須の要素ではない、職業裁判官から成る裁判体もあることは確かだろうけれど、そうでない裁判体もあっていいんだというふうに考えるのか、これはさっき○○委員が示唆された解釈ですが、そういうことだと思うのです。
 また、裁判官が裁判所の必須の要素ないし基本と考える場合も、必須ないし基本というのはどこまでの関与を意味するのか、が問題になる。さっき説明された(b)説というのは、その点で、裁判官の多数が結論に賛成しているということが必須ないし基本ということの意味だという考えなのでしょう。そしてそれは、本来被告人に有利な方向にも不利な方向にも両方に働くことなのかもしれないのですけれども、特に、憲法32条や37条の保障との関係があるので、被告人に不利な方向では絶対要件なのだという考え方だと思われます。
 それとやや違う考え方は、(c)説で、私の名前も入っていますが、審議会の当時そういう考え方を披瀝したことがあります。今もそう考えているかどうかはあえて申しませんが、裁判官の多数が結論に賛成しているということまでは必要ないが、少なくとも一人の意見は反映しているということがあって、初めて参加している意味があると言えるのではないか。これは、裁判員についても、参加している意味があると言えるのはそういう条件が満たされる場合であり、それと同じだと考えたわけです。しかし、さらにそこまでも必要ではなく、合議体に参加して、実質的に議論に加わり、評決をしたのであれば、結論としてはその意見どおりにならなくてもいいのだという考え方もあり得るところで、それが(a)説の考え方だろう。そういう位置づけだと思うのですね。
 その上で、更なる問題は、裁判官以外の人が加わるとして、その人がどういう人でもいいのかどうか、ということで、そこで、先ほど話が出た独立だとか中立だとか、公平という職業裁判官について必要とされている要素が、裁判官以外の参加する人にも要求されるものなのかどうかという話になり、さらに、それらが必要だとしても、裁判官の場合と同じ形での担保が必要なのかどうか、可能なのかどうか、それとは違う形もあり得るのかどうか、といったことが問題になる。そういうことだろうと思いますね。

○ その点確認ですけれども、76条以下において、裁判所の構成が、職業裁判官によらなければならないんだと、それが全員であるか一部であるかも含めてですが、そのことが、76条以下で、解釈論的に明確に示されているというわけではないですね。

□ 解釈論というより、規定上そこまで明示的には規定されていないことは事実です。

○ つまり、陪審、参審の規定が設けられていないのと同じような意味で、そこは規定はないですね。

□ 同じ意味かどうか、現行憲法には司法権に関する一群の規定が置かれ、裁判官一般についてのほか、「下級裁判所の裁判官」の任免等について定められていますから、裁判所はその裁判官によって構成されるものと想定されていると捉えるのが自然だと思いますが。

○ 考え方はいいんですけれども、文理としてそのことが明確にされているわけではないですね。

□ 文言としてはですね。しかし、憲法学でも、それが普通のとらえ方でしょう。

○ そして、憲法32条には明確に裁判所という規定があるわけですね。

□ 「裁判所において裁判を受ける権利」とありますね。

○ ですから、言ってみれば、裁判の主体としての裁判体についての規定ということでいけば、32条に「裁判所」とあって、そこの構成についてそこでは明確にされていないと、76条以下でもそのことについて32条を埋め合わせるような規定はないと、そういうことですね。

□ だから、そこは解釈と言えば解釈ですよ。

○ 解釈でもいいんです。私が確認したかったのは明文自体ですから。

□ 既に「質問」の形で御意見が入り込んでいるような御発言もあったと思いますが、これから議論に入りたいと思います。最初の「司法機関としての裁判所の在り方」と、後の「司法参加を求められる国民の基本的人権」という、二つの視点に大きく分けて整理されておりますが、それぞれの中の論点は相互にかなり関連しておりまして、余り細分化して1のAの何とかについてどうですかという形では議論がしにくいと思いますので、この資料を参考にしながら、2つの大きなくくりで議論をしていただければと思います。
 先ず、最初の「司法機関としての裁判所の在り方」という点から、御自由に御議論いただければと思いますが、どなたからでもどうぞ。

○ ここの身分保障に関する規定というのは、職業裁判官だけに適用があるということ、これはもうそうとしか読みようがないだろうと思うんです。何でこんな規定があるかというと、もちろん簡単なことで、要するに、職業裁判官は裁判をすることによって生活の糧を得ているわけで、それを奪うという方法で圧力を加えるということが考えられるんです。それを排除しよう、一番生活の基本になるところに圧力を加えることを予防しようという観点があったわけで、それを考えると、これが職業裁判官についての規定だということは当然のことだと思うわけです。
 一方で、沿革的に陪審とか参審とかいうのを見ていると、例えば、ドイツでは名誉裁判官だというように考えられていて、一種の名誉職だと言われていたわけです。だから、それに対する報酬とか補償とかということは全然考えていなかったわけです。
 そういうことを前提にすると、身分保障の規定が、いわゆる参審員、陪審員に及ぶという議論はおよそ出てくる余地がない。
 一方では、それをいわゆる職業裁判官について保障しているからと言って、そのことが同時に、参審員、陪審員を排除することにはならないだろうというようにも思うわけです。
 ちなみに、その後、一定の補償をしようという考えが出てきたときに、その補償についてどうするかということを憲法で定めた時期もある。ドイツの憲法に関しては、ドイツ憲法集というものをつぶさに見てもらうと分かりますけれども、いろいろな規定をしている。
 例えば、これについて、今のドイツの基本法がどういう言い方をしているかというと、ドイツでは、参審員も陪審員も全部裁判官というふうに考えられておりますから、その裁判官の独立というのは、これを裁判官全部に及ぼしていると。

□ 「参審員」ですね。原語では元々2つの異なった言葉でしたが、実体は。

○ 他方で、いわゆる身分保障等については、職業裁判官についてのみ及ぼすという規定をしている。ドイツでは、こういうきめの細かい配慮をしているんだけれども、例えば、日本でも、陪審とか参審とか、こういうものがもし憲法制定当時あったとすると、同じような規定になったかもしれない。だけど、当時は、そういう実態がなかったものだから、それについてあらかじめ規定しておくというのは憲法上あり得ないだろうと、立法技術としてあり得ないだろうと考えられるわけです。そう考えてくると、身分保障の規定は、むしろ職業裁判官についての規定であって、他の人についてはフリーということになると思われる。
 では、裁判員について何を考えたらいいのかというと、先ほどから出ておりましたけれども、やはり独立性、中立性・公正性というのが、広い意味で確保されているということが必要になってくる。ここのところは、及ぶと言わざるを得ないと思います。

□ 裁判員について、独立性、中立性・公正性というものが裁判官の場合と同じように要求されるのはなぜなのでしょうか。

○ これは、裁判の本質というか、司法権の行使に関与するわけですから、今の身分保障というものについては裁判官にしか及ばないとしても、それ以外の者についても、ほかのところから、ほかの形で圧力を加えられるということは避けるべきだということだと思います。裁判の本質は何かというと、公平性ということがあるので、独立性、中立性ということを前提にしていかざるを得ないだろうということです。

○ 恐らく刑事事件については、憲法37条で「公平な裁判所」と書いてありますから、公平な裁判所ということから、恐らく独立性、中立性・公正性というのが導き出されてくる。文理的にも全く根拠がないという話ではないような気はします。ちょっと思いつきですけれども。

□ それに加えて、司法制度改革審議会の意見書でも触れられているように、民主社会における司法の役割は、多数決原理だけですべてが律せられるのではなく、法や理にかなう場合には、少数者であっても保護するというもので、そういう司法の役割からすると、多数に支配されるとか、そういうことであってはいけない、そういうところから出てくる要請だということなのでしょうね。
 ほかの方、いかがですか。

○ あえて議論のために、というか、半分は本音かもしれないんですけれども、憲法は、今議論があるように、裁判官の独立性だとか、身分保障だとか中立性だとか、非常に強調していますね。それは、裁判官でなければ、そういう形で制度化して組織化した裁判官で、日常的にトレーニングするという職域の人でなければ、公正さ、中立さとか、そういうものは担保できないというふうに考えていると、そういう解釈はできないですか。

□ 現行憲法はそう考えているのではないか、ということですね。

○ はい。それは手厚い規定の仕方から見ると、ということです。したがって、一民間人を裁判所の中に連れてきたときに、(a)説は、公正さとか中立性とか、そういうものが担保されればいいんじゃないかと言っているわけだけれども、果たして、それは可能なのか、憲法はそういうことは不可能だと考えているのではないかと、そういう解釈はできないですか。

□ 議論のための議論、ということなのだろうと思いますが。

○ 3分の1くらいは本音です。

○ 私も議論のための議論をするつもりではないんですが、それは今○○委員のおっしゃったような解釈というのはもちろんあり得ると思いますけれども、憲法32条と76条以下を併せて考えたときに、そうでない解釈というのは当然あり得ると思うわけです。それはどういうことかと言えば、憲法が制定された時期において、裁判官について危惧されていたことは一体どういうことだったのかということにもなると思うんです。今の時点で考えてみれば、なるほど、○○委員のような見方もあり得るかもしれませんけれども、当時の時代状況等の中で考えられていたことということで言ったときに、官僚制というものによって裁判官の方たちが苦労していたという時代背景はやはりあるわけで、天皇の官吏として裁判をされるというようなことで、しかも、司法省が司法行政的な権限を持って、裁判官の方たちにいろいろと影響力を行使するということもあったかもしれないわけです。ですから、そういう観点からしますと、むしろ、裁判官がそういった、現に司法権の独立という観点からしてもそうだと思うんですが、他の行政権的な力というものとの関係において、中立性だとか独立性とかというものを保障される必要がある。先ほど○○委員もおっしゃいましたけれども、まさに、裁判官の身分保障というのも、そういう形で司法行政的なものによって奪われるとか影響を受けるということがないということが、言ってみれば非常に重要なポイントとして考えられていたわけです。
 そういうことになってくると、裁判官であるからこそ、職業裁判官であるからこそ、そういった規定が必要だったんだという解釈もあり得るだろうと思うんですね。

○ 身分保障についてはそうかもしれませんね。国から生活費をもらっているという意味で、それはやはり保障しなくてはいけないということはあったかもしれません。ただ、裁判官の独立と言ったときに、対行政的な力との関係だけで独立性を論じればいいかというと、過去はともかくとして、権力が分散している、特にいろいろな形の権力とかパワーがある今のこの世の中で、そういう行政権力等との関係だけで、独立だとか公正とか中立性とかを考えていいのかとなると、必ずしもそうでないと思うんですね。
 そうすると、私は折に触れて申し上げていますけれども、一定の国家組織の中にいることによって守られている、国からのプレッシャーではなくて、国以外のいろいろなパワーからの、不当な圧力から守られている、あるいは命の安全を守られているという部分もやはりあるわけです。ですから、そこは両方から見なくてはいけないと思うんですね。

□ 「よろい」を着ているというわけですか。

○ そういう意味では、私は3分の1は本音で、あとは議論のための議論だと申し上げましたけれども、少なくとも、この裁判員制度が合憲だと言うためには、(a)説が言う条件を極めて手厚く慎重に整備しない限り難しいのではないかと思っているんです。
 ですから、国家組織に属しているのと等価値とまでは言いませんけれども、それと同等程度の「よろい」を着せられるというような制度にして初めて、裁判員制度が合憲だと言えるのではないかというふうに思います。

□ 逆に言いますと、「よろい」を着せることができれば合憲だということでしょうか。

○ 確認なんですが、○○委員の御意見は、76条以下の規定は、裁判官ではない法律の素人が司法権の行使に関与することを全面的に否定はしないと、しかし、プロが守られているのと同じぐらい、独立性、中立性・公正性が保障されれば、憲法76条以下が想定している法律専門家である裁判官の場合と具体的な形は異なっていても、それと機能的に同価値の独立・中立・公正が保たれるような立法的手当がなされる格好になれば、裁判官ではない人たちが司法権を行使して構わない、そういう構造ですね。

○ およそ公正さとか中立性だとかが制度的に担保されないような人たちに司法権を行使させるということは憲法は想定していないんじゃないか。だから、逆に言えば、そういうことが担保されていれば、そういう人たちが司法権を行使するということは、憲法の想定の範囲内ではないか、そういう意味では合憲ではないかと思います。

○ 私は、裁判官の身分保障の規定について、○○委員がおっしゃったことに賛成なんですけれども、憲法学者の長谷部教授はもっとはっきり「サラリーマン」という言葉を使って、サラリーマンだからこそ身分や給与で内外の圧力を受けないようにする必要がある、だから、身分保障が必要なんだということを確かおっしゃっておられたと思います。
 だから、裁判官については身分や給与で保障しなければいけない、ということだけを言っているだけで、国民については何も言及をしていない、それは国民の司法参加を否定をする趣旨ではないという考えに賛成です。
 それはなぜかというと、例えば、今度の裁判員制度もそうですし、陪審もそうですが、無作為抽出によって1回だけ裁判所に来ることが想定されている国民というのは、もともと圧力を被るおそれがないということが前提なんだと思うんです。では、その国民は全部圧力を被るおそれがないか、あるいは、無作為に選べば、独立、中立・公正か、ということですけれども、理念としては、無作為に選ぶ国民は、俸給をもらっている裁判官と違って、独立、中立・公正である、ということは理念として多分ある、憲法のもともとの考え方としては、そういう理念があると思うんです。
 ただ、それが具体的な事件を担当する、ある裁判体を構成するメンバーとしてどうか、ということはまた別の問題だろうと思うんです。それは、前にも選任のところで議論しましたけれども、そういった欠格なり除斥なり忌避なりという制度で確保していけばいいわけで、無作為に来てもらう国民は、独立、中立・公正でないということではないと思うんです。

○ 確かに、無作為に選ばれる国民は、公平でもないし中立的でもない、偏ぱな心を持っているとは言えないわけだけれども、無作為抽出だから、全員公平無私であるとか、偏ぱでないとか、極めて中立的な心情の持ち主であるとも言えない。だから、それはどちらでもないわけだから、そういう意味で、いろいろな制度的な仕組み・枠組みによって、そういう公正さなり中立性なりというものを担保するような制度でないと憲法は受け入れないのではないかと私は思っています。

○ ですから、裁判員にもよろいを着せるというふうにおっしゃったので、裁判員と、身分保障を受ける裁判官とでは、独立性、中立性・公正性の担保の仕方が、つまりよろいが同じではないだろうということなんです、言いたかったのは。

○ それは同じよろいだというつもりはないです。

○ 仮に、憲法が裁判官によろいを着せているからといって、よろいを着ていない裁判員なり陪審員なりというものが、そのことだけから独立性、中立性・公正性を否定される趣旨ではないのではないでしょうか、ということなんです。

□ お二人の御意見はよく分かりました。

○ 今の関連で、独立性、中立性・公正性が保たれる人を入れればいいという議論なんですが、本当にそれが職業裁判官と同じぐらいのものまでできるんだろうか。そこまで一緒でなくてもいいんだという考え方もあり得ますけれども、司法についての今の憲法の考え方の中には、いわゆる人民裁判といいますか、そういったものはまずいという考えはないんだろうか。リンチのようになってしまってはこれはまずいと。
 そういう意味で、制度的にそういうことにならないような人を裁判所の構成員として考えているわけです。したがって、完全に職業裁判官を無視したような形の構成なり評決の在り方のようなものというのは、この憲法の趣旨に反してくる可能性があるのではないか。だから、そういうことにならないように、憲法に抵触しないようにするにはどうしたらいいのかという制度設計をこれまで議論してきているんだろうと思うんですけれども、そういう憲法上の問題は確かにあるのではないかという気がしています。

○ 今の○○委員のお考えに対して、人民裁判が何を意味するかよく分からないんですが、ただ、先ほど○○委員がおっしゃったように、32条、37条ということでいけば、公平な裁判所の裁判ということには当然なるわけですから、その限りにおいては、多分、危惧されておられるような事態を憲法は当然容認はしていないというふうに私も思います。ただ、その構成が一般的に国民だけから成る、それは現にそうあるべきだということを直ちに言うつもりはないわけですが、つまり、職業裁判官が入っていなかったからといって、直ちに公正性というものに疑問を差し挟まなければいけないかというと、そうではないと思うんです。
 さっき○○委員も言われたように、よろいの着せ方にはいろいろとあるわけですし、公正さを確保するための方法はいろいろあり得るという前提で考えれば、さほどそこは危惧する必要はない問題だというふうに私は思うんですけれども。

□ 御趣旨は、現行憲法の下でも、作り方によっては、職業裁判官が必須の要素となっていないというような裁判体もあり得るということですか。

○ 今、それを作るべきだと言うつもりは全くありませんが、憲法論としてはあり得るということです。

○ 例えば、立場上の中立というものが外形的に分かったとしても、心の中の中立というのがあります。自分は本当はこの立場ではないんだけれども、自分が裁判員という立場になった以上は、立場が違う、心情が違うけれども、この人の言っていることを虚心坦懐に聞かなければいけないとか、そういう内面の問題がありますね。ある意味では裁判の中立性という中核的な問題なのかもしれないんだけれども、そういう内面の中立性について、これはいろいろな御意見があると思いますが、裁判所の中で裁判官は常にトレーニングされていると私は思うんです。自分の個人的な心情から離れた裁判官としての心情で物を見る。それは、されているはずがないという意見もどこかにあるかもしれませんけれども、私は、そういうトレーニングで鍛えられている部分もあると思うんです。
 ところが、裁判員の人たちについて、そういうふうなトレーニングで鍛えられてくるところの内面の自立性あるいは中立性というものが、どこまで期待できるかということになると、今○○委員が言われたように、中立性というものが保障されればいいでしょうといういきさつがあるんだけれども、果たして本当にそれが保障されるのかしらという疑念がやはりあると思うんですね。

○ ○○委員とだけ議論するつもりはないんですけれども。

□ なるべく同じことを繰り返さないようにしていただけませんか。

○ 今の○○委員の御意見というのは、考え方としてはあり得るかもしれませんが、ただ、だからこそ、職業裁判官の方と裁判員とは選び方も違うわけですし、チェックの仕方も違ってくるということになるわけで、そのことによってまさに先ほどおっしゃった独立性、公正性・中立性というものを保障するということ、○○委員もそこは理念的にはそうだとおっしゃいましたけれども、私もそうだと思うわけでして、当然それは違うわけで、違うなりの選び方なり保障の仕方というのはあっていいわけで、直ちに○○委員の言うようにはならないというふうに思うんですが。

□ そこは御意見が分かれるところで、繰り返しますと水掛け論になってしまうような感じがします。
 いずれにしろ、独立性、中立性・公正性が確保されることは必要だということにはお二人とも異論がないわけで、それが果たして十分担保できるのかどうかという問題だと思います。そして、担保するには相当のことがないといけないというのが○○委員のお考えで、そこまででもないだろう、十分可能だというのが○○委員のお考えだと思うのですけれども、その問題と、現行憲法の下で、職業裁判官が全く入っていない裁判体というものが考えられるかどうかというのは、また別の問題だと思います。あえて付け加えるならば、なぜそういうお考えを主張されておられるのかは分かるのですけれども、仮に裁判官が裁判所の基本的な構成要素であるとしても、職能分担ないし役割分担で、アメリカのように、事実認定、すなわち有罪・無罪の判定は陪審員が行って、量刑ないし法の適用は職業裁判官が行うというふうに分けても、全体としては、裁判官が裁判に関与しており、「基本的」という要請は満たされているのだというとらえ方もあり得る。そういうとらえ方も解釈としてはあり得るわけです。むろん、それに大しては、刑事裁判においては有罪・無罪の判定こそが命なのであり、そこに裁判官が全く関与しないのに裁判に関与したというのはおかしいという見もあり得て、意見が分かれるところだとは思いますけれども。
 いずれにせよ、陪審的なものを念頭に置いた場合の憲法論をどう考えるのかという点では、今ここで直ちに、全く違憲だとも断定できなければ、合憲だというふうに断定することも難しいので、その点は、そういう制度を取り入れようということになったときに、真剣に議論し、考えるべきことではないかと思うのです。
 我々が、今求められているのは、むしろ、司法制度改革審議会が提案したような形態の裁判体というものを前提に考える場合に、果たして、そしてどういう条件なら憲法との適合性を説明し、正当化できるのかということだと思いますので、そろそろ、そういう方向に絞って議論を進めていたただきたいと思います。

○ 内面における中核的な公正さであるとか中立性というものは、基本的にはトレーニングで養われる部分があると思っているんですが、そういう観点からすると、要するに、この最終答申が、プロの裁判官と一般国民との協働によってやるべきとしているところが非常に重要であって、この協働というのが文字どおり実現されれば、おまけに、今言われた公正さや何かを担保する制度が加わっていけば、それで合憲だと、中核的な意味を含めて合憲だというふうに言えるのではないかと思っているんです。
 ですから、この協働するというようなシステムをどうやって実際に作っていくかということが重大だと思っているんです。

□ 私自身かなり疲れてきたものですから、5分ほど休憩してよろしいですか。合理的な時間の範囲内で終了させていただきたいと思いますけれど、憲法論は大事な問題ですので、ちょっとリフレッシュしましょう。

(休 憩)

□ 傍聴されておられる方々から、声が小さくて聞き取れないという御注意がありましたので、公開の趣旨をくれぐれも念頭に置いて、聞こえるような形で御発言いただければと思います。
 先ほどは、ちょっと独立とか公正・中立という点についての議論に終始し過ぎたきらいがありますけれど、審議会の中などでも、今の憲法の書きぶりからして、職業裁判官の規定を専ら置いているということからすると、職業裁判官を基本的な要素というふうに考えざるを得ないが、そうだとした場合にも、それ以外の裁判員というものの関与の可能性を全く排除しているとまでは言えないだろう。しかし、それでは、どういう条件なら憲法との関係で正当化できるのかが問題になる。こういった枠組みで、私などは説明をし、また、それに基づいて議論がなされたということは御承知のとおりだと思います。そして、そういう議論の流れの中で、評決の在り方という問題が出てきて、先ほどの(b)説とか(c)説といった意見が示されたわけですので、そういう点についても御意見を承っておいた方がよろしいように思います。先ほど、何人かの方々から質問という形で、実質的には御意見のようなことを既に伺っているわけですが、今後、評決の在り方等を具体的に考える際の前提になると思いますので、その点についてももう少し議論しておいていただけませんでしょうか。

○ 今の座長の整理を前提にして意見を言わせていただきますが、今、我々が設計しようとしている裁判員制度は、少なくとも、そこに職業裁判官がいることは間違いないわけです。そこに、法律専門家でない一般国民が関与し、先ほど来話があったとおり、裁判員が憲法が予定している職業裁判官と機能的に同じような程度に公正・中立、独立の司法権の行使ができる仕組み・制度を設けるという前提を採った場合には、憲法76条以下が定める司法権を行使する裁判所というのは、そこに裁判員が加わっていても差支えないのであって、それは、憲法32条や37条との関係でも同様であり、裁判所にプロでない裁判員の方が加わっていたとしても、それも憲法の定める「裁判所」であると考えることができると思います。そうだとすれば、そこで多数決によって出される結論について、(b)説や(c)説が言うように、一定の場合には、裁判官の多数と同じような結論にならないときは、裁判体全体の結論を取ってはいけないというようなところまで、憲法から直接言えるとは思えない。むしろ、多数決で出された意見である以上、それこそが憲法の定める「裁判所」の判断すなわち憲法上の「裁判」なのであり、それが裁判官の多数の意見と違っているからといって違憲だということにはならないと考えます。憲法の解釈として(b)説や(c)説の結論が要請されるという理屈にはならないと思います。
 (b)説や(c)説の背景には、もちろん、被告人の利益の方向での一種の安全装置というような、多分実質論があるんだろうと思いますけれども、それは立法政策の問題にすぎないのであって、そうしなければ違憲であるということにはならないのではないかと思います。

□ それは、(b)説も(c)説もでしょうか。

○ (c)説は座長の御意見かもしれませんけれども。

□ 私は別に、審議会当時の自説にこだわっているわけではありませんよ。

○ (b)説も(c)説も、論理の構造としては同じでしょう。結局、職業裁判官と一般の方との関係において、職業裁判官の判断の関与を担保する仕方が違うわけですけれども、独立・公正・中立が担保された人間によって構成された裁判所は憲法上の裁判所であり、その判断は、被告人に有利であれ不利益であれ、全く憲法上問題がないというのが論理的に筋ではないかと思います。

□ 裁判員が加わっていることの意味がないような形の評決はおかしいだろうということで、裁判員の一人は少なくとも賛成していないといけないというのが、裁判官の多数のみによって不利の決定をしてはいけないという立場の一番基本にある考え方だと思うのですが、仮に、職業裁判官が裁判所の基本であるとの前提に立った場合、裁判員についてと同じことが裁判官についても言えませんか。
 つまり、職業裁判官がいなくても決定できるというか、一人も賛成していなくてもいいということになれば、それは、必須だとか基本という要請と矛盾はしないかということなのですが、どうなのでしょう。

○ 合議体として裁判が形成される過程で、プロであろうが素人であろうが、司法権を行使するため、事実認定などについて、相互に説得し合って、コミュニケーションした結果であれば、多数決の結論に一人もプロが賛成していないとか、逆の場合であっても、それはやむを得ない。そうであったとしても、これは公正な判断であって、結論に至る過程において裁判官が関与している以上は、それを憲法の認めない判断だとは言えないと思います。

○ 私は、文理的に見ても、裁判員制度が憲法に違反するとは思わない。憲法は、最高裁については裁判官により構成すると定めているけれども、下級裁判所については法律に定めるとしているわけです。しかし、とは言いつつ、司法権のところには職業裁判官のことだけがいろいろ書いてあるので、裁判官が入らない裁判体というのは、恐らく憲法は予想していないということは言えると私は思うんですね。
 その上で評決の問題等が若干絡んでくると思うんですけれども、少なくとも、裁判員制度を取り入れた審議会意見の趣旨から言えば、裁判官だけあるいは裁判員だけで、被告人の有利・不利を問わず、どちらかに判断できるというのは制度としてやはりおかしいだろうというのがまずあるんです。だから、どっちにしてもどちらか一人入らなければいけない、裁判官だけでも判断してはいけないし、裁判員もだれか一人入らなければいけないでしょう。どちらかの意見だけで決めてしまうのはやはりおかしい、という結論が先にある。
 そういう意味で言うと、例えば、さっき言った(b)説というのは、裁判官の多数が賛成していなければ有罪判決ができませんよと言う、では、無罪の場合どうなるんだと、これは無罪にはしても構わないという結論に恐らくなるんだと思うんです。しかし、これでは、裁判員を入れたんだけれども、有罪にする方向においては裁判員の評決権を奪ったのと一緒ですね、裁判官の多数が賛成しないとだめになるわけですから。そういう制度はやはりおかしい。それから、もう一つは、さっき事務局の方からもちょっと説明があったんですけれども、憲法32条、37条から、被告人に不利な裁判については裁判官の多数の賛成がなければいけないというんですけれども、やはりそれは無罪にする場合だって、それは同じような考えをしなければいけないはずです。(b)説に立った場合に、それを片方からだけ言うというのはどうしても納得できないところがあるんですね。
 だからといって、それを両方にしてしまうと、完全に裁判員の評決権は無視してしまうことになる。突き詰めていくと、(b)説は片面的に言っているんですが、両面的に言えば完全に裁判員の評決権はなくなってしまう。であれば、審議会意見には、対等の権限ということが書いてありますが、それにも反するのではないかと思います。憲法上も、少なくとも裁判官が一人は賛成していることを要するとした方が説明はしやすい気がします。

○ まず憲法上の要請と見るかどうか、単なる立法政策の問題と見るかどうかの問題ですけれども、私は立法政策としてはいろいろあろうかと思うんですけれども、憲法論としては、結論的には、私は、裁判官が一人は加わっている評決でなければ、裁判官の裁判、要するに、憲法上の裁判所の裁判を受けたことにはならないと思うんですね。だから、結論的には同じなんですがね。
 要するに、裁判所の裁判あるいは裁判官の裁判を受けたと言えるかどうかというのは、その裁判官の意見が反映された評決を受けたかどうかではなくて、仮に、裁判官は有罪だと言い、裁判員は無罪だと言い、それはずっと協議をしていった結果、有罪になりました、裁判官と同じ意見になりました、そうしたら、それは裁判官の意見なのかと、それはそうではないと思うんですね。要するに、それは止揚されている意見で、最初の裁判官の意見ではないと思うんです。
 そういう意味では、仮に、裁判官は有罪である、裁判員は無罪であると言って評議・評決して、最終的にはこれは無罪になったとしても、それは裁判員の意見が通ったのではなくて、それはやはり裁判官と裁判員の意見が止揚された意見だというふうに考えるので、そういう意味では、憲法上はそれは合憲だと考えるわけです。だから、評決をこういうふうに分けなければ、合憲にならないというような世界の問題ではないだろうと思っているんです。ただ、立法論として、どうするかということになると、それはいろいろあると思うんですね。

□ ちょっと弁明させていただくと、審議会での議論も、どこまでが憲法論かというところは意見が分かれるだろうと思いますね。そこでの議論は3段階で構成されていまして、1段階目はさっき御説明したように、今の憲法の規定から見ると、職業裁判官というのは裁判所の必須の要素だろう、それも意味がある形でそこに入っていないといけないだろうということ、そして、2番目は、そのことを前提にして、意味があると言えるためにはどこまでの関与が必要なのかということで、そこはいろいろな考え方があり、少なくとも一人の意見は反映していないといけないだろうという考え方と、裁判官の多数が結論に賛成していないといけないという考え方があった。
 その二つの考え方が示されたわけですが、それは、あるいは憲法論ではなくて政策論なのかもしれない、しかも、それは被告人に有利か不利かを問わず、両方向に働く議論なのかもしれないのですね、おっしゃっているように。本来は、被告人に不利な方向だけではなく、無罪の判決をするときだって、国権の作用としての裁判であるわけですから、そういう形で決めないといけないということかもしれない。しかし、先ほどから度々言及されている(b)説の、少なくとも職業裁判官が多数でないといけないという意見は、そこに憲法32条・37条を根拠として持ってこられて、被告人の権利であるので、少なくとも被告人に不利な方向についてはそういうことが要求されるものと思われると、こういう御意見だったわけです。
 他方、(c)説的な考え方は、政策論と言えば政策論なのかもしれないのですが、例えば、裁判員と職業裁判官が同数の場合、単純多数決で、有罪とするには過半数の賛成がなければならない、そして、無罪の方向でも過半数でないといけないとなりますと、有罪・無罪が同数の場合、宙ぶらりんになってしまう。無論、そのような場合、新たな裁判体でもう一回裁判を初めからやり直すということも理論的には考えられないわけではないのですけれども、これはいかにも不適当だろう。そうすると、無罪とせざるを得ないわけで、そのことを考えますと、一方の方向でしか書けない。また、その時点では、評決の仕方も単純過半数にすると決めていたわけではありませんので、仮に特別多数が必要だということになった場合、単純多数決でいくと有罪票が過半数を占めているのだけれども、特別多数には達しないので有罪にできないということがあり得る、そういう場合にも同じ問題が生じるのですね。それで、書くとすれば被告人に不利な方向でしか書けない、という事情があったのです。
 もう一つは、実質的な判決理由をちゃんと書いてもらう必要があり、それは職業裁判官に書いてもらうしかないので、一人は賛成していないと書いてもらうのが難しいのではないかという考慮もありました。本当を言えば、無罪の場合であっても、理由を書いてもらわないといけないのですけれども、少なくとも被告人に不利な判決については、そういった配慮が必要なのではないかと思われた。少なくとも私などはし、そういうことも念頭に置いて議論したということでして、それは政策論と言えば政策論なのかもしれません。従って、憲法論としてぎりぎりどこまでのことが言えるのかは問題だと思います。

○ 今、恐らくは、憲法76条以下に定める裁判所に、裁判官以外の国民が入ることは問題がないと、日本国憲法上の裁判所の構成として問題がないということは、前提になっているんだろうと思うんですね。
 私は、憲法論としては○○委員の考え方に賛成なんですが、問題は、仮に職業裁判官が裁判所の基本的なあるいは必須の構成要素だという場合、憲法が要請する、職業裁判官が一部でなければいけない必須性とか基本性というものは一体何なのかということにあるんだろうと思うんです。
 国民が、具体的な裁判体の中に入って、今度の審議会の提言のような裁判員制度という形で評決権を持つ場合、職業裁判官の評決権が、特に被告人に不利な方向では、決定的なものにならなければ、基本的あるいは必須な存在と言えない、憲法が要請するレベルでの基本性とか必須性というものを満たさないのか、という問題だろうと思うんです。
 私も、個人的には、職業裁判官を全く排除した裁判体、さっき○○委員から人民裁判という言葉がありましたけれども、無作為に選ばれた人たちが、手続も主宰し、証拠による有罪、無罪の判定までの全部を判断するという形であれば、これは憲法が要請するという必須性ないし基本性を損うということが言えるかもしれないと思うんですね。その意味で、審議会の議事録の中に出てくるように、裁判官を全く排除して国民だけで裁判することとか、職業裁判官の存在が実質的に意味を持たないような形で裁判が進められるというようなことは、憲法が職業裁判官を基本的、必須のものと考えているとすれば、問題が出てくるだろうと思います。
 では、今ここで議論されている(b)とか(c)などの考え方にまで行かなければ、憲法のその要請を満たさないかというと、私は、憲法論としては○○委員のおっしゃった考え方に賛成で、憲法はそこまで要求していないと、あとは立法政策の問題だと考えます。その意味で、例えば、さっき陪審のことがちょっと出ましたけれども、陪審というのは、確かに評決に裁判官は入りませんけれども、手続の主宰、つまり、法律的な問題及び手続の部分については、まさに職業裁判官がすべて取り仕切るわけですから、私はその意味で、陪審制度も、日本国憲法が要請している職業裁判官の必須性とか基本性というものを満たしているというふうに思うんですね。
 これに対して国民参加の趣旨からは、例えば、裁判官だけで結論が決まっていいのかという問題もありますけれども、ここはなかなか厄介なところで、実は、数の問題とも関係するだろうと思います。国民参加の趣旨というものを、例えば、裁判官3対裁判員2として、そしてその中で国民参加の趣旨を生かすというふうにやるのか、つまり、国民の意思が反映するような仕組みというときに、評決方法でいくのか、あるいは参加する数の制度設計としていくのかというのはこれは大きな選択の問題ですし、私は、数の方向でこの問題は解決すべきだろうというふうに思うんです。
 それから、あともう一つ。さっきの憲法論の関係で言えば、諸外国を見ても、例えば、国によって参審員と言ったり陪審員と言ったりしていますけれども、裁判官と国民がミックスした裁判体の場合に、裁判官の判断であるがゆえに、何かそういった、今ここで議論されているような特別な扱いが憲法上議論されているかというと、そうではないように、私の狭い知識ですけれども、思います。それこれ考えて、憲法論としては(a)説に賛成したいと思います。

□ 1点諸外国と違うところは、諸外国で、国民参加の裁判体を採っているところでは、憲法にそれについての規定が置かれているのが割と普通なのですね。ところが、日本の場合、そのような規定がないので、そこが、日本特有の議論の出発点になっているところがあるのですね。

○ ドイツもフランスも、憲法には国民参加の規定はありませんね。

□ ドイツにはあります。

○ フランスにはないですね。

□ ドイツは名誉職裁判官というカテゴリーで、その中に読み込めるような憲法の規定になっているのです。

○ いや、ドイツでも。時代によって。今は、おっしゃられたとおりですけれでも。

□ いずれにしろ、私が申し上げたかったのは、諸外国の多くのところでは憲法に国民の司法参加についての規定が置かれているのに、日本の憲法には規定がないものですから、規定が置かれていないのは国民参加の制度を採らないということを意味しているのではないかというのが、これまでの議論の出発点になっている。そうである以上、その点についても丁寧に議論しておく必要がある、しかも、単なる文言解釈にとどまるのではなく、国の統治機構の一角としての裁判所ないし司法権というのはどういうものであるべきかということを踏まえた議論を、やはりきちっとしておかなければいけない、ということなのです。

○ 私も余り詰めて考えていないところがあるんですが、職業裁判官が評決に加わっているとはいっても、本当に裁判員だけの考えで裁判ができるとして、全く憲法違反の疑いがないのかというところまでちょっと踏み込めないんです。それは、どういう構成にしてもいいということになったら、例えば、先ほど憲法37条の公平な裁判所の問題だと言われたので、それはそうかもしれないんですが、本当に希望者を裁判体に入れる、そして、それは被害者とか被害者の遺族とかそういう関係者ばかりだったと、そういう人たちだけで本当に裁判をやって本当にそれでいいんだろうか。それで全く違憲の状態にならないようなものになるんだろうか。というのは、本当に極論すると、違憲の可能性はまだ残るのではないかと思うんです。ただ、そういうようなことがないように、今、裁判員については、独立、公正・中立性のある人を選んでいこうではないかと、それから、評決にしても、そういう協働するような形のものにしていこうではないかと、そういう話ですので、憲法論に行かなくても済むような制度設計というのはあり得るのではないかというふうに思うんですが。

○ まだ(a)から(b)(c)(d)(e)に至るそれぞれの詳細について熟考が済んでいるわけではないんですけれども、私自身は、意見書の理念であるとか、あるいは憲法の条文を読ませていただいて、やはり(b)という考え方は採っていただかない方がよいのではないかなと、関連して(c)というふうなこともちょっと裏腹の御意見だと思うんです。いろいろな条件を考えて、このような主張があるとは思うんですけれども、私としては、裁判官と裁判員の方の評議の過程のコミュニケーションでありますとか、相互の協働の取組に関して、強い信頼を持って制度設計をすべきだと思っているものですから、このような対立が最終的な評決のときに余り起こらないのではないかと信じています。
 ただ、制度を考えるときには、当然、そのような対立も考えて取り組まなければならないと思うのですが、私は限りなく(a)説に近いというか、とにかく(b)とか(c)あるいは(d)、(e)というような、裁判員と裁判官とがそんなに対立する構図ではなく、むしろ、より公正な裁判に向けて共に取り組むという裁判体を想定しているものですから、そのような観点には立たない方が望ましいのではないかと、それが私の意見です。

□ 審議会での多くの方の意見も、そういうルールが問題になるのは本当に極端な場合であって、基本的に、両者が協働しコミュニケーションを取り合い、お互いに知恵を出しながらやっていくのがあるべき姿だ、というものでした。そういうことからすれば、まさに今おっしゃっられたとおりだと思います。ただ、ぎりぎり詰めた場合に、それぞれが参加している意味というのをどうやって確保するのか、しかも憲法との関係でどう考えるのか、そういう観点から評決の在り方という問題が出てきて、少なくとも被告人に不利な方向では、どちらか一方のみの意見で決めてはいけないということにした、ということなのですね。大体皆さんから御意見を伺いましたので、第1ラウンドとしてはこのくらいにさせていただきたいと思います。
 よろしければ、2の論点について、皆さん余り立ち入って議論されていないところなのですが、参加する国民の視点から見ると、やはりゆるがせにできない論点であり、やはりきちっと議論をしておかなければいけないと思いますので、御意見をいただければと思います。いかがでしょうか。
 具体的には、出頭を義務づけられて、本当は嫌なのに参加することを強制されるのは、憲法で禁止されている「苦役」を強いるものではないかということ、あるいは、場合によっては自分の良心や宗教上の信念に反して、裁判体の一員として裁判に携わることを強制されるのは、基本的人権を侵害するものではないかということ、そういった点が中心になるかと思うのですけれども。

○ どんな場合も、辞退を絶対認めないと、あるいは辞退した場合にとんでもない重罰を科するというふうにすれば、これはやはり憲法に違反すると思うんです。ですから、合理的な範囲内で辞退をする道を残しておけば、一応、「意に反して」ということにはならないわけですから、何とかクリアできるのではないかというふうに思うんですが。

□ 自分では合理的な理由があると思ったけれども、そうは認めてもらえないという場合、それはやむを得ないということでしょうか。

○ 制度としてはそうですね。あとは個別の案件でそれぞれ別途、高裁その他で争う以外にないと。

○ 私も○○委員と似たような意見ですけれども、やはり合理的な範囲内ということだと思いますね。罰則を用意して、引っ張り出すような制度は反対だと前に言いましたけれども、それと同じことで、そういう制度によるとすれば、やはりその意に反する苦役であるという主張が出てくるだろうと思います。ですから、その辺りは非常に緩やかに制度設計としては考えるべきだろうというふうに思うんです。
 また、実際、裁判員の選任の段階で、そういう条件について神経を配る制度設計をすれば、クリアできるのではないかというふうに、私は現実的には思います。
 それから、実際、もし例えば、心情として死刑に反対の人が来た場合に、死刑が最高刑としてあり得る事件の裁判員になることは、例えば、その人が宗教的な理由で死刑に反対だという信念を持っているとしたら、これは非常に微妙な問題になりますね。だから、そこを刑罰などを科すような形で引っ張り出すというのは、私はまずかろうと思うんですね。それだと憲法違反の主張が出てきてもおかしくないんだと思うんですけれども。ただ、現実問題としては、そういうような意見を言う人が実際いるとしたら、それは選任の過程のところで、現実的にははじかれてくるような制度設計ができるのではないかと思うんです。それは、いろいろ忌避だとか、○○委員は非選任という言葉を使っていらっしゃって、その方が私はいいと思うんですけど、そういうような制度の設計のところで、問題をクリアできるような仕組みも可能なのではないかなというふうに思うんです。そういう工夫をすべきだろうと思います。

□ 二つのことをおっしゃったのですが、一つは、罰則のような厳しい制裁で義務付けを強制するのはいけないのではないかということで、もう一つは、内容的にもっともな理由があれば免除ないし辞退を認めればいいのではないかということですね。そして、その他の問題がありそうなものは忌避のような形でほとんど除外、排除されていくのではないかということですが、合理的な、もっともな理由がある場合に免除だとかあるいは忌避だとかを認めるとしますと、残ったものは辞退にしても免除にしても、そのためのもっともな理由がないということになるはずですけれど、そういう場合についても、罰則で強制するのは憲法上問題があるというふうにお考えなのでしょうか。

○ そこら辺り、私は消極的に考えているので、余りそこは罰則を強くすべきではないのではないかと思うんです。
 というのは、現実に罰則があっても、それを適用していない国もありますから。例えば、参審員について辞退をした場合には処罰するという規定を置いている国もありますが、ただ、実際、いろいろ話を聞いてみると、それに違反したからといって、現実的にその罰則をそのまま忠実に適用しているかというとやっていない国もありますよね。その程度の問題なんじゃないかというふうに思うんです。制度作りの段階でこういうことを言ってはいけないのかもしれないんですが、実際、そういうところがあるということは考えておかないといけない。

□ 分かりました。

○ 理念論としては、司法プロセスへの参加というのはそもそも憲法が予定しているような苦役とかというものとは違うと思うんですよね。ただ、実際上、裁判員になることによって、一人一人には負担といったものが生ずるわけですから、その負担への十分な補償、日当とか、それから勤務を持っている人への何がしかの法的な手当てといったものは十分に考える必要があると思うんです。制裁とか罰則で引っ張り出すことも議論しなければいけませんけれども、むしろ、そういう補償とかといった法的な裏打ちとか、そういったものを優先して考えるべきではないかと思うんですけれども。

○ ○○委員がおっしゃるように、確かに制度として合理的な理由があれば辞退を認める、それで憲法上は問題がない、それはそうだろうと思うんですけれども、実際に運用するとき、どうしても嫌だという裁判員を連れてきて、本当に裁判員制度の目的を達成することができるのか。投げやりにやられたのでは何もならないわけですよね。罰則とか何とかいう話も出てきましたけれども、そこは、うまく働く制度を作るという観点から、その辺を含めて検討しておかないといけない。果たして罰則までかけるのか、しかし、そうしないと、嫌な負担を嫌う人はみんな辞退してしまって、制度自体が成り立たないのではないかというおそれも出てくる。合理的な理由がない場合は、無理に出なくてもいいけれども、合理的な理由がないのに出てこない場合には、刑罰とは言わなくても、ある程度のサンクションがありますよというようなことも、あるいは考えられるのかもしれないですね。

□ 制度としては、選ばれた人が正当な理由がないのに出てこない、あるいは審理の途中まで来ていたのに出てこないために審理が流れたような場合には、それにかかった費用をその人に負担させるといった例も他の国にはありますけれども。

○ 何らかのことは手当てはしておかないといけないと思うんですけれども、無理やり引っ張り出しても仕方がないかなと思うんです。

□ ほかの方はいかがですか。

○ 基本的には御意見のあったところとそう変わらないと思うんですが、私も、罰則でと言ってもなかなかそれは無理があるわけですし、制度設計として立法的手当てができる範囲で考えるということでいいと思うんです。それから、今おっしゃったように、選んで出てこないということには必ずしもならない。もちろん、審理が始まって途中で来なくなってしまうということももちろんあり得ると思うんですけれども、やはり選任の当日にはかなりの数の方たちを招集して、その中から選ぶということに多分なるんでしょうから、そこに来るか来ないかということでは、現実的には最初の段階で支障がないようなやり方をする必要があるということだと思いますけれども。そこはいろいろと配慮しながら手当てをするということでいくしかない。憲法上の苦役に当たるということは私はないと思います。

□ 余計なことですが、アメリカの陪審の例などを見ていますと、質問票に答えないとか、呼び出したけども出頭しない、というのがほとんどなのですね。しかし、いったん選ばれますと、選ばれるまでのプロセスが結構大変なものですから、責任の自覚ができてきて、ずっと続けて来てくれるというのが一般的ではないかと思います。ただ、そもそも出てこないという人がかなり多いということは事実ですね。

○ 実際見たことからしますと、それは巧妙で、それはそれでやむを得ないと思うんですが、つまり、出たくない人間はいろいろとそのとき理由を言いますし、実際に選ばれたって出てこないぞみたいなニュアンスの言い方をして、事実上排除されるということをねらう人も中にはもちろんいるわけですね。実際に私がニューヨークで見たケースなどでも明らかにそうだなというのがやはりあったりしますし、ただ、それはやむを得ないという言い方は妥当かどうか分かりませんけれども、人口は1億人いるんですから、余りそこにはこだわらないで、ともかく、立法的に手当てできる範囲で手当てしていくということでとりあえずいくのが一番合理的だろうと思いますけれども。

○ 選挙権は国民の重要な基本的権利だとは言うもののやはり投票しない人もいる。国によっては、制裁とか罰則やらもある国もあるようですけれども、日本の場合は、特に制裁的なものは定められていないわけです。今回の裁判員制度も全くどうでもいいよというわけにいきませんから、何がしかの形は整えなければいけないんでしょうけれども、それで無理無理引っ張り出しても実際に機能はしないんでしょうから、おのずから、先ほど○○委員が言われたように、セレクションの過程で意欲のある人を選出するということになるのではないでしょうか。

○ いわゆる司法参加というのは、沿革的に見ると、権利という発想なんですね、元々は。つまり、自分たちのことを守るために自分たちでやる、裁判権をそのために自分たちの手に取り戻すという発想があったはずなので、元々それは権利の発想です。そのことを考えると、今、ちょっと○○委員が言われたように、普通の、いわゆる苦役を課すということとはちょっと意味合いが違ってくるんだろうと思うんですね。
 つまり、自分たちの権利というものを行使するわけだけれども、勝手に抜けてはだめだよということに対する制裁だと思うんですよ。その意味で義務だと言っているので、全然何もないところに苦役を課するというのとは意味合いがかなり違うんだと思うんですね。そういうことから言うと、これは、一定の義務を課すことが、直ちに苦役にということに当たるかどうかというのはやはり考えた方がいい。
 ただ、そのこととは別に、司法参加をする裁判員がどうやったら出てきやすいのか、余り無理なく出てくるような方法をつくっていくべきではないかと、こういうことを考えたらいいんじゃないかと思いますけれども。

□ ほかに御意見はないようですし、憲法論としては一通り御意見を伺いましたので、これを念頭に置きながら、具体的な制度設計のところでまた、もう少し突っ込んで議論していただければと思います。
 私がひそかに予想していたのよりは早く終わったのですけれども、一応予定した議事がカバーされたと思いますので、今日はこのぐらいにしたいと思います。
 次回は9月24日午後1時30分から、既に御案内のとおり、ヒアリングを予定しておりますので、よろしくお願いいたします。

○ 実は、ちょっとこれは座長より、事務局及び皆様にも聞いていただきたいのですが、私、この会議にかかわらせていただいて、委員の方のお声を正確に聞こうと思うと、○○委員、○○委員あるいは○○委員の意見を聞くときには、どうしても体を乗り出さないといけないというちょっと聞けない環境にございまして、大変申し上げにくいんですが、例えば、委員の方がこういうふうに、座長さんをここにして並んでいただくと、少なくともお顔を見ながらお話が聞きやすくなるので、御検討いただけないかなと思います。

□ 声の問題ですか、それとも顔を見たいということでしょうか。

○ 両方でございまして、やはり顔を見ながらお声を聞くとお話も理解しやすいですから。
 また、もう一つの提案は、事務局の方のお立場なんですが、従来資料説明にとどまっていらして、非常に遠慮されておられて、第1ラウンドは、私は全く本当に素人なので、本当にこういう委員の方同士で論点整理をしていただくのは大変ありがたくて、事務局主導かのような運営は好ましくないと思っていたのです。ただ、第2ラウンド目ぐらいになってきましたら、幾つかというオルタナティブを出していただくことも有効と思います。つまり、これでなければだめだという出し方は拒否しますけれども、選択肢というようなものについては、事務局の方にも御発言いただいた方がいいのではないかと。この2点を是非御検討いただけないかと思います。

□ 1点目は、事務局の方とも御相談しまして、物理的な限界もあるかもしれませんけれど、できるだけ、少なくとも声だけはもうちょっと聞こえやすいようにし、なるべくなら相互に顔が見えるようにするという方向で検討させていただきます。
 2番目の点につきましては、初回にも申し上げましたけれども、この検討会は、事務局と一緒に具体的な制度設計を考えるという趣旨の会ですので、事務局の方にも適宜議論に参加していただくということにはしているわけですが、遠慮されているのだと思います。しかし、せっかくの御注意がありましたので、これからは自由に議論に参加していただくことにして、その上で、2ラウンド目をどういう形にするかということについては、御意見も踏まえまして検討し、また御相談させていただきたいと思います。

○ 大変失礼いたしました。聞いていただいてありがとうございます。

○ お願いが二つあります。一つは今、国民から意見を募集していますね。それでどのぐらい来ているのかまだ私ども分からないんですが、結構来ていますか。

● 結構かどうかというのは評価にもよりますが。数はまだ10前後ぐらいです。

○ あと2か月ありますね。本当にお忙しい中恐縮なんですけれども、せっかく寄せていただくものですので、例えば、この問題についてこういう意見があったというような形で整理して、委員に配付していただけると大変にありがたいというわがままなお願いが一つです。
 もう一つは、ようやく冗談も出るぐらい皆さん顔なじみになってきて、議論も大分深まってきているんですが、同時に、国民の関心も相当高くなってきているように思うんです。それで、今どうこうということではなくて、例の議事録の書き方の問題、顕名かどうかというような問題、当時ああいう形で決まって今やっておりますけれども、また、そんなことも議論していただけたらと思っています。

● 先ほど御報告、御説明したように、意見募集の期間が終わった時点で整理して何らかの形で御報告したいとは考えております。

□ 2点目については、議論の流れというか節目というようなことも考えながら、また御相談させていただきたいと思います。
 では、本日はどうも長時間ありがとうございました。

(以上)