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裁判員制度・刑事検討会(第6回) 議事録(司法制度改革推進本部事務局)
(□:座長、○:委員、●:事務局) □ 所定の時刻になりましたので、第6回裁判員制度・刑事検討会を開かせていただきます。非常に暑い折、また、御多忙の折、御参集いただきまして、ありがとうございます。
● まず、メンバーの交替がございましたので、御報告させていただきます。前回まで御参加いただいていた中井最高検察庁検事が、法務省矯正局長に異動されました関係で、中井検事に替わり最高検察庁の本田検事に新たに検討会に加わっていただくことになりました。 □ それでは、本田委員から一言ごあいさついただきます。 ○ 本田でございます。9月1日付で最高検の方に配置替えになりまして、中井検事の後を継いでこの検討委員を務めさせていただくことになりました。よろしくお願いいたします。 □ 事務局から、ほかに何かありますでしょうか。 ● 前回の検討会におきまして、事務局の方から、現在当検討会における議論の対象となっている当面の論点について、広く国民の皆様からの意見を募集することを考えている旨御説明いたしましたが、これに関して御報告申し上げます。
□ それでは、前回に引き続き、刑事訴訟手続への新たな参加制度、いわゆる裁判員制度の導入に関する議論を行いたいと思います。
○ 結構です。 □ せっかくの御労作ですので、心して読ませていただきたいと思います。
● お手元に配布いたしました資料のうち、資料1-1から1-4は統計資料でありまして、最高裁の資料に基づいて当事務局で作成したものです。いずれも主として裁判員制度の下での上訴の在り方を御検討いただく際の資料にしていただく趣旨で作成したものですが、内容について簡単に御説明いたします。
□ ありがとうございました。今の説明につき、何か御質問はございますでしょうか。よろしいですか。それでは、内容に入りまして、関連のところで御疑問があればまた出していただくということにさせていただきたいと思います。
○ 公判手続の在り方とともに、第1回公判前の、いわゆる新しい準備手続の設計にもかかわる事柄ですが、私が承知しているところでは、今の刑事裁判で、途中で審理がしばらく止まってしまう一つの大きな原因、ひいては審理の長期化の原因になっている鑑定の問題があります。特に精神鑑定ですとか、難しい工学的な鑑定の必要が生じますと、審理が始まってからある程度進んだところで、裁判所が、鑑定人尋問という手続を行って鑑定人に鑑定をお願いする。それから、選任された鑑定人に詳しくいろいろ検討していただくことになり、その間は裁判の手続は止まってしまうということが多いわけです。しかしながら、今後、裁判員制度を導入して連日的に審理を進め、裁判員の方にも効率的に事件の中身を理解してもらい、裁判内容を決定していただくことになりますと、このような公判の途中での審理の中断はできる限り避けるべきであろうと思います。したがって、特に定型的に審理の中断が見込まれる鑑定につきましては、むしろ思い切って公判審理を開始する前の段階で、鑑定人を決め鑑定をお願いしておく、具体的には将来設計されるであろう新しい準備手続の段階で鑑定人尋問というような手続は全部済ませて、鑑定をお願いし、結果が出たところで、本番の審理をスタートするというような工夫が是非必要であろうと思います。これは公判審理の進め方・その中断を回避する仕組みとして考えておかなければならない論点だと思っております。 □ 今の御意見は、裁判員制度を導入した場合に、その対象となる事件についてそのようなことが問題となるということですか。それとも、刑事事件一般についても問題になるけれども、裁判員制度の対象となる事件については特に重要だという御趣旨でしょうか。 ○ 審理を集中して進行させるという要請は、裁判員が入っている事件について特に強く求められるわけですけれども、他の刑事事件についても、中断を避け、迅速・効率的に審理を進める要請は基本的に異ならないという意味で、同じ問題であろうと思います。 □ 今、○○委員から出された点について、他の方の御意見はいかがでしょうか。 ○ 私も、今の○○委員の意見に賛成です。できるだけ集中的、効率的な証拠調べをするため、そして、裁判員に入っていただいて、その人たちの事件に対する理解が深まって、継続するためには、今のような配慮が必要なのではないか。中断した場合には、その間に記憶が薄れるということがありますし、また、中断するともう一度記録を読み直さなければいけないという大変な努力が必要になりますので、そういうことが避けられるなら避ける方がいいのではないかと思います。
□ お二人からそういう御意見が出ましたけれども、いかがですか。 ○ 私も基本的にお二人の意見に賛成です。現在のように途中で鑑定のために数か月中断するということは、特に裁判員制度の下では避けなければいけないと思います。ただ、そうなると、事前に両当事者がそれぞれ鑑定を準備するということが必要になるのだろうと思うのです。両当事者が事前に、どれだけ納得のいく鑑定を準備できるかというところが大事で、一つは、捜査側が持っている客観的な証拠の開示ということとも関係するでしょうし、被告・弁護側が一体どのような専門家にアクセスできるのかという点も問題になってくるのではないかと思います。
□ ちょっとよく分からなかったのですが、両当事者がそれぞれ自分の責任で鑑定を依頼するという御趣旨ですか。現在の我が国の鑑定制度とは違いますね。 ○ そうですね。私が鑑定と申し上げたのは、裁判所が行う鑑定ということのほかに、第三者である専門家の意見を求める証拠の収集という広い意味で使ったんですけれども。現在でも、例えば、実際どのくらい行われているか分かりませんし、それが証拠としてどのように採用されるかという別の問題はありますけれども、各当事者がそれぞれ専門家に頼むということもあり得ると思うんです。
□ 両当事者が各自鑑定を依頼するというのはアメリカの制度ですね。それと現在の我が国の場合のような、裁判所が命じて行わせる鑑定とはもちろん両立し得ないものではないと思うのですが、最初のお二人がおっしゃったのは、むしろ裁判所が命じて行わせる鑑定のことだと思います。それについても、賛成だという御意見ですか。 ○ はい。 ○ 大きな争点がなければそれでいいと思います。けれども、大きな争点があって、極端なことを言うと、犯行の動機だとか、態様そのものについて大きな争いがある、検察側の請求証拠がどれだけ法廷に出るか分からないというような状況の中で、鑑定も全部準備手続でできるかというと、それはできないと思います。やはり、公判を開いて、証言なり書証類が同意その他によって法廷に出てくるというところまで進んで、初めて鑑定ができるという場合もあると思うんです。
○ 難しい事件があるのは分かるんです。しかし、第1回公判期日前の段階で、前提になる事実についておおまかな部分だけでも争点整理ができた場合には、できる限り鑑定を前倒しにするのが合理的であると思います。 ○ その部分に反対しているわけじゃないんです。 □ 鑑定の前提事実に争いがあるような場合ということですね。 ○ ですから、公判段階で鑑定をし、そこで中断をしてしまうという事態がどうしても避けられない場合もあるのでないか。そういう場合には、どういう手続が必要かということも考えておく必要があるということです。 □ 中断された場合に、どういう対応をするのかということですね。
○ そこまではちょっと無理なんでしょうね。 ○ 第1回公判前に鑑定の必要性が分かるということは難しいですね。ですから、相当程度何らかの形で準備手続の段階で心証をとっているというか、あるいは、それについての判断できるだけの資料があるということが前提になるだろうという気はします。
□ もう一点、現在の実務では、ある程度心証をとった上で鑑定の要否を決めていると思うのですが、当事者の主張だけを基に鑑定の要否を決めるということはできないものなのでしょうか。 ○ かなり難しいだろうと思います。両当事者が一致しているならいいんですけれども。やはりこういう問題になる事件というのは、検察側で捜査の段階で何らかの形で鑑定をやりますね。ですから、それに重ねてやるということになるわけですね。そうすると、捜査側がやっている鑑定に対するもの、あるいは、それに念を押すものということになってくるはずだと思うんです。そういうものの必要性が、いわゆる第1回公判が始まる前にはっきり分かるかというと、これは分かるものもあるけれども、分からないものもあって、後者は、最終的に事実を調べていって、その上でこれについてはやはり鑑定をもう一回やろうよと、こういうことになるんじゃないかという気がするんです。 ○ 検察官としては、被告人に責任能力があると思うけれども、当然弁護人から何か言ってくるなという事件は大体想像はつきます。ですから、鑑定の要否の判断が、実際に公判をやってふたを開けてみなければ全く分からない、ふたを開けてみて初めて、これは鑑定が必要だと分かるということはむしろないと思っていいと思うんです。責任能力が最終的にあると判断するか、ないと判断するか、それは様々ですけれども、この事件は、公判段階にいけば、必ず責任能力が問題になるなという判断は、おおむね捜査の段階からつくと考えて議論してもいいと思うんです。 ○ 問題は、当事者というか、訴追側と弁護側は鑑定の必要性が分かるかもしれないけれども、裁判所は、公判前の段階ではよく分からないわけですね。けれども、採用するかどうか判断するのは裁判所でしょう。 ○ 結局、最終的にその必要性というのを調べてみないと分からないということはあると思うんです。しかし、今よりはもう少し前倒しで証拠調べをすべき事件もあるんじゃないかと思います。現在、精神鑑定についてはかなり時間がかかっていて、それだけの時間をかけて審理を中断するなら、結果としてどういうものが出てくるか、それが結論にどの程度まで影響するかを考えることによって、やらなくてももういいという判断がされている事件もあるわけです。このように鑑定に時間がかかるものですから、ぎりぎりのものしか鑑定を採用していないんですけれども、第1回公判前にやれば、もう少し広めに、両当事者に争いがあるような事件についても鑑定を行うことはできるだろう。そういうものは早い段階で採用すれば、審理の中断ということがなくなるんじゃないか。そういう意味では効果はあるんじゃないかと思います。 ○ 恐らく鑑定を広く認める方向で判断することになるかもしれませんね。 ○ 無駄になるかもしれませんけれども、鑑定を広く認めることそれ自体が悪いことだとは思われないわけで、むしろ前倒しで鑑定をやって審理を効率化できた、そういう結果が出た方がはるかに望ましいと思います。 ○ 逆に言うと、鑑定自体が事件の審理を伸ばしている、審理に影響を与えているということだとすると、そこを広げるというのは逆のことになりかねない感じもする。つまり、普通の事件だったら半年で終わるところが、鑑定がえらく長引いてしまって、全体としてかえって長引いてしまうということはあり得ると思うんです。ある意味では、鑑定の採否がかなり慎重になされてきた背景には、そういうところがあると思うんです。ただ、鑑定を前倒しで行うことに反対ではない。 □ 他の方の御議論では公判審理が中断するということが懸念されていたわけで、そのおそれと、起訴後終結までにかかる期間全体が長くなるかもしれないということのどちらへの対応を優先させていくかという問題なのでしょうね。 ○ その場合に、準備手続で鑑定を採用してだれかにお願いしますね。その結果についての処理はどういうふうに考えているんですか。準備手続のところで、更に鑑定を積み重ねるということも、場合によっては必要になる可能性もありますね。ですから、準備手続のところでどこまでやるということでお考えになっていらっしゃるのか。
□ いろいろアイデアを出していただきましたが、それについてもなお検討しなければならない問題があるという御指摘であったと思います。第一回公判期日前の新たな準備手続の中身については今後議論する機会がありますので、この段階では、今のようなご意見や問題点のご指摘を踏まえて、更に議論をするということでよろしいでしょうか。
○ 判決手続と言いますか、判決の関係で、判決をどの程度のものにするのかということも含めてですけれども、一応準備手続があって争点整理が予定されているわけですので、公判審理を経た後で、それに基づいて何らかの整理ということがあるのかどうか。それを説示という言い方をするのが正確かどうかはともかくとして、公判審理の結果を踏まえて、評議に入るときに、両当事者がやるまとめ以外に、何らかのまとめをするのかどうか。それも御議論いただければという趣旨ですので、そういうことをお聞きいただければと思います。
□ 説示といわれましたが、両当事者が論告、弁論をしますね。それと別にということは、裁判所のだれかが、どの段階かで問題点等を整理をして示すということですか。 ○ 裁判員が入っての評議ということになるわけですので、判決をどう作るのかということにもかかわっていると思うんですけれども、つまり、争点整理が行われて公判が始まるわけですね、その審理の結果、裁判所側が、そのポイントをどう見て、評議のときにどこを、どう議論するのか。それは判決の作り方にかかわってくる可能性があると思うから申し上げているんですが。 □ ちょっと意味がよく分からないのですけれども。おっしゃっている「まとめ」とか「整理」というのは、公判廷で行うということですか。それとも合議の中で行うということですか。 ○ いいえ、公判廷です。 □ 裁判所側がというのは、だれが行うのですか。 ○ ですから、そのことも含めて議論いただけばと思うんですが。 □ いや、御趣旨をお伺いしているのですが。 ○ それは裁判官が行うということは考えられると思うんです。つまり、最終的に今の議論からして、可能性として、判決書自体、裁判官がお書きになるということも想定としてはあり得ると思うんです。それ以外の方法というのももちろんないわけではないと思うんですけれども。その場合に、評議のところで、裁判員の方たちが一体どういう点について、どう議論する必要があるのかということです。しかも、評議に入ってしまった場合には、もちろん、それはオープンではないわけですので、そこで出てきた結果というものを、審理との関係で、言ってみれば評価するということが可能なような方法を採る必要がないのかどうかということです。 □ もう少し具体的に言いますと、まず、手続の段階ですけれども、証拠調べが終わり、両当事者が論告・弁論をする、その前後に、裁判長が行うという御趣旨だと思うのですが、こういう論点があり、検察官の方はこう主張しており、弁護側はこう主張しているというふうに整理する。更に踏み込みますと、イギリスのように、各論点についてはこういった証拠が提出されましたと、そういうことも公判廷で説示ないし説明する。そういうことをお考えなのですか。 ○ そういうことがあり得ないかということです。 □ その段階でそういった説示を行うとしますと、それ以前には、裁判官は裁判員に一切説明をしてはいけないということでしょうか。 ○ そこまでは含んでいません。中間的に整理をするということはあり得るかもしれません。 □ 現在は公判の進行と併行して随時、合議を行っていると思いますが、それとは随分やり方が違いますね。 ○ それは、裁判員が入って、審理過程というものができるだけ共通の認識によって進んでいくとか、あるいは、評議に入っているときに議論をしやすい、それから最終的には判決を作るときに、判決を作りやすい方法との関係ということになると思うんです。 □ それはだれにとってのことでしょうか。 ○ 裁判員にとって、あるいは裁判官にとってもということになるんですけれども。 □ まだご趣旨がよく分からないところがありますが、他の方、どうぞ御意見を。 ○ 公判廷で説示しなければいけないという趣旨なんですか。 ○ そうです。 ○ なぜそうなるんでしょう。 ○ ということにならないかという趣旨です。先ほど申し上げましたけれども、判決自体をどう作るのかということにかかわっているというふうに私は思っているわけですけれども、つまり、今と同じような、どういうふうに申し上げるのが正確か分かりませんけれども、場合によっては長文にわたる、一々証拠をすべて挙げて、それについてすべて理由を記載するという判決形式というものを採るということが可能かどうかという問題があると思うんです。ですから、そういうことになったときに、できるだけ簡略な判決書というものを想定するということもあり得るだろうと思いますし、そうなった場合に、そこでどういう争点について、どう議論が行われ、判決が作り上げられるのかということについて、判決の結果と審理の関係というものについて、客観的にある程度その関係というものを内部にいて議論に加わった人間でなくても想定できるような手続的な保障があっていいんではないか、というふうに私は考えているからです。 □ ということは、要するに、裁判員にとってというよりは、合議の外にいる人にとってということですね。 ○ も含めてです。つまり、対外的な説得力の問題です。 □ おっしゃっていることの趣旨がよく分からないのですけれども、判決を簡略なものにするにしろ、しないにしろ、それは公開の法廷で説示を行うことが必要だということには、どうも結び付いてこないように思われますし、少なくとも、その点の御説明がないと思うのです。公開の法廷でやるということは、当事者、傍聴人ないし対世間的にトランスペアレントになるようにするということを言おうとしておられるように思われるわけで、そうだとすると、ちょっと問題が違うのではないかという気がするのですけれども。 ○ 要するに、裁判官が論告あるいは最終弁論で提示された論点と全く違う論点で評議をするのではないか。それをチェックするために、その評議の枠組みを公開の法廷ではっきりさせるべきだという趣旨ですか。 ○ そうです。裁判員が加わって評議をし、最終的に判決という形でまとめるときに、裁判員がその問題について理解し、最終的に共通の認識の下に判決の前提としての評議を終えることができるような保障措置というものを作る必要があるんじゃないかということです。 ○ それは裁判書の書き方とは若干違うんじゃないですか。 ○ しかし、私は、絶対にと、今の段階でというつもりはありませんのでその点は留保させていただきますが、裁判官に判決書をお書きいただくにしても、裁判員による判決内容についての最終的な確認が必要だろうと思いますし、そのためには、裁判員が内容について理解できるもの、しかも、それが分かりやすいものということになってくれば、できるだけ簡略なものにする必要がある。そして、それを内容的に担保するものとしては、記録を残す必要があると思いますので、これも一つの論点だと私は思います。つまり、記録をどう残すかという問題も多分あると思うんですが、いずれにしろそのことを前提としながら考えますと、公判廷で一体どこをどう争点として確認する必要があるのかということについて、当初の争点整理から、その後の審理経過というものを踏まえた形でのまとめというものがあって評議に入るということができれば、それに越したことはないんではないかということです。
○ 最終答申は、判決書の内容については、今程度ということを言っていますね。ですから、簡略化ということは前提になっていないんですよ。 ○ ですから、今程度ということですけれども、今程度というのはどの程度かというのはかなり議論があるところだと私は思いますので。 ○ それは程度問題だということでしょうが、けれども、簡略化という方針は出てきていない。 □ むろん、その点も御議論いただいていいと思うのですが、少なくとも私が理解するところでは、審議会が、基本的に今と同様の判決書にすべきだと言っている趣旨は三つあると思うのです。一つは、その判決書の記載自体でその判決の正当性を明らかにする。つまり、実質的な理由が示されていて、それを読めば、どういう証拠に基づいてどういう証拠のとらえ方をして、そういう事実が認定されたのか。また、量刑についても、どういう事情を考慮して、そういう量刑が導かれたのかということが、判決書自体によって十分示せるということです。もう一つは、両当事者に対してそのことが納得してもらえるような形で十分説明できているということです。 第3番目は、その上で、両当事者に不服がある場合には、上訴をする、そのための第1の手がかりとるよう理由がちゃんと示されているということです。それはさらに、上訴審に行けば、それを手がかりにしてチェックをすることが可能だということも意味します。裁判員制度との関係で、作成の仕方や濃淡に一定の違いは出てくるとしても、質的には同じレベルの判決理由が示されているということが必要だろうというのが、審議会のほぼ一致した意見であったと、私は、そういうふうに理解しています。
○ 全般的な意見を申しますと、今、座長も言われていましたとおり、判決書の書き方と、公判廷で説示をしなきゃいけない、しかも、裁判官が説示をしなければいけないという制度の話との間には、論理的に関係はないと思います。
○ 今の裁判官の方たちの評議というものに裁判員が単に加わるだけだという発想からすればそうなるだろうと思いますけれども、実際の審理からしてみても、例えば、1日で終わる事件を考えてみれば分かりますように、裁判員と裁判官の方たちが一体どういう形で評議というものを積み重ねていくのか。それは何日間にわたるにしてみても、裁判員の方たちは、その日終わって自宅へ帰るということを前提にした場合であっても、裁判官室に裁判官の方たちが戻られて、日常的な、例えば、よく出てくるのはお弁当を食べながら雑談的なことを含めて評議を積み重ねていくということは非常に想定しにくいわけですから、そういうことでいったときには、今の○○委員のおっしゃったようなことというのは、必ずしも当てはまらないだろうと思うんです。そういう状況の中で素人が参加していった場合に、できるだけその評議というものを、専門家であるという言い方がいいかどうかはともかくとして、裁判官の方たちと議論をするときに、まさに協働だとか実質化するための保障措置というものをいろいろと考える必要があるだろうと思うわけです。
□ その保障措置というのは、だれに対する保障措置ですか。 ○ 国民に対して、あるいは被告に対してという、対外的な部分もありますし、裁判員が評議に参加するときにできるだけ問題をクリアーにした形にするということもあります。 □ 後者の方は、必ずしも公判廷で説明しなくても、合議のときにその都度説明するということでは足りないのですか。 ○ しかも、判決にその理由は書くわけですよね。 □ 判決の形成の仕方というのは、合議の中で裁判体の構成員がいろいろな角度から自由かっ達に意見を交わし合う、これは職業裁判官であっても裁判員が入ってもそれほど変わらないと思うのですけれども、そういう過程を経て最終的にでき上がった判決を宣告、告知することにより、その判決の内容自体で対外的には十分説明をし、それについて責任を取るという形になっているわけですね。したがって、その過程が不明朗で、信用できないということになるのだろうか疑問に思うのですけれども。比較法的に見て、公判廷で裁判官が説示を行ってているのは陪審制度を取っているところですが、それは、そういった評議の過程についての担保というよりは、むしろ、陪審員が独立して判断するのにその過程に加わらない裁判官が不当な影響を与えてはいけないから、裁判官が陪審員に対して指示することはすべて公開の法廷で述べさせようという趣旨のものだと思います。これに対して、裁判官も一緒に判断する参審形態のところでは、そういうことはやらないのです。職業裁判官だけで構成される裁判体の合議の場合と同じような形でやっていって、対外的には、その結果できあがった判決書で説明をするということになっているわけです。
○ そこまでは含まなくてもいいと思うんですけれども。 □ しかし、公判廷での説示を必要とするということになると、裁判員が公判の途中で、「こういった点は法律上どうなんだろうか。あそこで当事者からこういう質問が出たけれども、これはどういう意味を持っているんだろうか。」と疑問に思ったときにも、裁判官は、適宜適切な形で裁判員に対して解説するといったことはできない、ということになりはしないでしょうか。 ○ そんなことはないんじゃないでしょうか。それは審理の過程の中で、さっきも言いましたように、中間的にいろいろと議論というのはあり得るわけですから。ただ、終結したときに、これから評議に入るときに、裁判員としては、一体どのポイントについて議論する必要があるのかということについて、当然いろいろと連関する部分もありますから、絶対その段階でこうだということは言いにくいという意見もあり得るかもしれせんが、しかし、評議に入ったときに、できるだけ協働して議論するためにも、実質的な議論をするためにも、裁判員自体が、何をどう議論する必要があるのかということについて理解をする必要があるわけですね。そのための方法として、どういう方法を取り得るかという問題ですね。 ○ 終結するまでは、実質的な評議をしてはいけないということですか。 ○ そんなことは言っていませんよ。 ○ それだったら余り意味がないでしょう。 ○ どうしてですか。だって、実際に最終的な評議において、まず結論を出すために評議に入るわけですから。それまでは、もちろん、最終的な結論を出すための過程の中でいろいろと理解を共通にするということでの議論というのはあり得ると思いますし、それを私は否定する気は全くないわけです。ただ、そういうことが必要ないのかどうかということについて御議論いただければということです。少なくとも前回、全くその辺について触れられていませんので。 □ そういう御意見であるということは分かりました。その点は大体御議論が出たと思いますが、判決書と言渡しの関係というのは、簡単に言うとどういうことですか。 ○ つまり、判決の宣告と、判決書を書く順序なり時期なりをどうするか。今の判決というものをどう見るかということにもよるわけですけれども、今は、大体判決書は後で出てくることになりますね。つまり、宣告だけが行われて、後で判決書が出てくる。 ○ ほとんど同じものができていなければ、言渡しは当然できないわけですから、それを言い渡した後で作っているかのように言われると、心外です。 ○ もちろん、○○委員はそんなことはないと私は信じていますが。 □ とにかく、言渡し時に実質はでき上がっていて、判決書の原本は後から出てくることが少なくない。そういうことを前提にして、裁判員の場合はどうするのがいいのかということでしょうか。 ○ 判決書が、判決宣告と同時に交付されるなり、直ちにオープンにされるということであれば、それで問題はないんだろうと思いますけれども、その辺をどうするかということ、法的に何らかの措置が必要なのかどうかという問題です。 ○ それは、例えば、判決書に裁判員の署名・押印が要るとしたら、判決書は言渡しのときにでき上がってなくちゃいけない。 ○ そのことを含めてです。 ○ 逆に、裁判員の安全確保ということから言うと、裁判書に裁判員の署名・押印を求めていいのかという意見もあると思うんです。そこは余り技術的なところで議論にならなかったが、議論しておく必要はあると思います。 ○ もう一つは、さっき○○委員がおっしゃったように、言渡しのときに判決原本の、既に完成した原稿のようなものができているわけですけれども、それを作るまでに時間をかけていらっしゃるわけですね。証拠調べが終わり、論告・弁論が終わり、弁論終結という段階から判決の原本を作成するまでの間に、現在の制度では一定の期間を要しているわけなんですけれども、裁判員が入った裁判でも同じようにするのかどうかという点は議論すべきだと思うんです。
□ 判決原本と言われたけれども、原本じゃないわけですね。実質的に成立していれば、正式の書面が出来ていなくても言い渡すわけでしょう。その上で判決書の原本を作って、それを謄本にして交付するということではないでしょうか。 ○ 実務では何と呼んでいるんですか。 ○ 言渡し原稿です。原稿と言うといかにも単なる走り書きのように取られますが。 □ 問題は、その原稿と呼ばれる、実質の部分が形成されるのにどのくらい時間がかかるのかという点ですよね。それで、御意見は、時間をかけてやるのがいいということですか、それとも、そんな時間をかけては良くないということですか。 ○ 私の意見は、裁判員の負担を考えれば、評議が熟して評決をした後に、二つあり得ると思いますけれども、一つは、言渡しはある程度簡略なもので行って、その後裁判官が判決書を書くということはあり得るだろうと思います。もう一つは、言渡しのときには、先ほどの判決書の趣旨を最低限満たしているものを、裁判員に待っていてもらって書いてしまう。その程度のものが書けるだけの濃密な、そして、めりはりの効いた審理が前提になるわけですけれども、その程度のもので言渡しをやって、後からは書かないという、二つのやり方があると思います。いずれにしても、今は、特に争いのある事件では、弁論終結から数か月、言渡期日を待つことが珍しくないわけで、弁論終結から数か月後に裁判員にもう一度来てもらって言い渡すということはすべきではないと考えています。 ○ 私は、基本的には、終結をして、評議をして結論が出たら、直ちに言渡しをすべきではないか。それも含めて2週間なり3週間なりの期間にすべきではないか。そのときには判決原本ができ上がっていなくちゃいけない。本来、原則であれば、裁判員に署名をしていただく、それに基づいて言渡しをするというのが本来あるべき形ではないかと思うんです。
○ その場合の確認ですけれども、そういうことはあり得ないという趣旨で質問するんじゃないですが、連日開廷して、ある程度の期間審理することになったときに、今、○○委員がおっしゃったような形での評議をどういう形で裁判員に保障するんですかね。 ○ その日の審理が終わってから、例えば、その日の審理についての合議タイムを何時間か取るという形になるでしょう。5時に終わったから、帰ってください、というわけにはいかない。 ○ その辺を議論した方がいいですよ。ただ、そのときに評議をすることと、さっき私が申し上げた、終結したところでまとめをするということとは、決して矛盾しないと思うんです。 ○ まとめは構わない、必要なことだと思うんです。でも、それを公開の法廷でやらなくちゃいけない必然性はないでしょうということを言っているわけです。 ○ さっき言った、判決をどういうものにするのかとか、中身というものをどう審理の結果に基づく評議の結果として示すかということとのかかわり等を考えたときに、もう少し考えてはみますが、説示というのは決して無駄だと思いませんし、むしろ必要だと私は思っています。 □ そこはさっきの繰り返しですので、先に話を進めたいと思います。 ○ 裁判員をそんなに長期間拘束できないというのは、○○委員のおっしゃるとおりだと思うんです。裁判書を書くのにある程度長くかかるものもあるでしょう。簡単に書けるものもあるでしょう。長くかかる場合どうするかという話ですけれども、必ず判決宣告のときに、裁判員の人に来てもらって、そこに立ち会ってもらわないといけないのか、制度的にどうしてもそうしなきゃいけないのかというと、それは別問題だろうと思うんです。
○ 出てくる裁判員の立場にしたら、出てくる回数は少ない方がいいんです。私は、判決言渡しという、セレモニーみたいなところに出てくる必要はないだろうと思うんです。○○委員のおっしゃった、言渡しのときは立ち会うべきだという御意見はもっともではあるんですけれども、忙しくて、なかなか来られないということはあろうかと思います。評議の内容が実際固まっていて、それに基づいて言渡しが行われているならばいいんだと思うんです。
□ 今二つのことをおっしゃったと思うんですが、一つは、判決の言渡しに裁判員が立ち会うかどうかという問題であり、もう一つは、署名するかどうかは別として、裁判員が判決書を読んで内容を確認するという段階が必要かどうかという問題ですね。○○委員は、判決内容の確認についても、何らかの形の記録が残っていて、それで確認できればいいということなのですが、そのメモみたいなものは、今の実務だと記録に残るんですか。 ○ 残らないですね。 □ 合議については記録を取らないですよね。 ○ はい。裁判員が入ってどこまで作ったかということは、裁判員が最後に署名をするのであれば、今の制度と同じでもいいとして、署名しないとしたら、何らかの記録の方法が必要なのかもしれません。しかし、あるいは、そこは裁判官というものをどこまで信頼するかということかもしれないですね。 ○ これは裁判員の数が何人かということとも関係してくると思うんですけれども、今、○○委員がおっしゃったような、合議の段階、あるいは判決の原稿に関して裁判員が同意する手続など、一貫して裁判員としてこの事件を担当するという人が、必要なときにどのくらい一堂に会していなければいけないかということともかかわると思うんです。つまり、裁判員がどこまでかかわるかということと、かかわるならばどこまで一堂に会していろいろ確認していなければいけないかということです。
○ 出たり入ったりはないという前提ですよ。 □ 1度抜けたら終わりなのです。1回お休みして、次回出て来たら再び一緒にやれるかというと、そうではないのです。そのための補充員がいて、補充員が入ったら、以後その人が引き続き裁判員を務めるのです。 ○ それはもう、補充員の方が入っても最初からやり直さないということは、この検討会では議論されているんでしょうか。 □ 補充員で補充がなされて、裁判体の構成員数が充たされている限り、そのままの形でずっと進行していくということです。 ○ ですから、短期であれば、あるいは人数が少数であれば、私はそれがある程度完全にできると思うんです。しかし、長期になる可能性、鑑定の問題が出てきました、あるいは合議をしていく段階が出てきました。いろんな事情で欠席せざるを得ない方が増えて補充員の方が足りなくなる可能性が、私には今何となく見えてきたんです。ですから、交替してしまうかもしれないという可能性が感じられたときに、例えば、元の構成に戻るという議論になる可能性はあるわけですよね。 ○ それはないんです。おっしゃるように補充員が足りなくなる可能性はあるんですけれども。 ○ 私などは途中から補充員になったときには、ここのところどうだ、こうだというのをよほど読み込んで説明を事前に受けないと、その点を聞いてしまいそうなんです。私が確認したいのは、公判手続上、それはもう一貫して、補充員の方が後に入っても、元の構成には戻らないのかという点なんです。 ○ 今日はだめだけれども、次からまた僕が出ますということはないんです。Aさんは今日は出られないから、Bさんが出ますと、そういうことはない。 ○ もし裁判員が6人ならば、3人の補充員の方は最初から出ていてくださるとして、このうちの一人、二人が欠けても入ってこられるということですが、その補充員の方がもし補えなくなったら、欠けたままで審理を進めるということですか。 □ そういう仕組みも考えられないわけではないと思いますし、また、裁判官が交替したり、裁判官が病気になったり亡くなったりする場合と同じように、新たな人を付け加えて、その人がいなかった間の手続を適切な形で補完するという組み方あり得ると思います。だから、そういった場合にどうするかはこれから検討しなければならない問題ではあるのですけれども、いずれにしろ、補充員の場合は、最初からずっと公判に臨席していますし、また、1度抜けた人はもう戻れないというのが前提です。 ○ 分かりました。いずれにしても、一貫性ということが気になりまして、要するに、補充員の方は最初からいて、一貫して通っていくわけだから、例えば正式な裁判員になっても、先ほどの判決に至る合議の段階でも何でも加わっているので、首尾一貫性は保てる。公判手続の一貫性が保たれるべきで、戻ったりしないのかどうかということが気になったものですから。時間的一貫性とメンバーの一貫性ということが公判手続上担保されるということが分かれば結構です。ありがとうございました。 ○ 先ほどの点でちょっと1点だけ。説示の関係なんですが、説示というのはどうしても理解できない。反対なんです。まず、中間評議というのをしていかないと、到底審理というのは進められない。要するに、当事者がここが争点だと思っていても、裁判所はそこは全然関係ないと思っていることがあるわけです。裁判所としては、もちろん、そういうことは言いますし、こういう問題じゃないかということを当事者に言って争わせるわけですけれども、中間評議もできないと、それすらできないわけです。そうすると、全く無駄な審理をして終結しました、しかし、これは何をやっていたんですかね、何のためにこれだけ審理に時間をかけたのか分からないですねということになるわけです。そういう事態は絶対避けなければいけない。
○ 議論するつもりはありませんが、ただ、おっしゃることは分かりますけれども、私が申し上げていることと少し違う感じもしますので、それは改めて。
□ それはなぜですか。 ○ 今と同じように量刑関係の証拠というものも併せて出してしまうと考えるのかどうかです。つまり、量刑をどの段階でどうやるとか、それは今の裁判と同じように事実認定と併せてやるということでいいという前提で議論が進んでいるのかどうかということの確認も含めてなんです。 □ それは裁判員制度に特有の問題として議論すべきだということですか。 ○ もちろん、通常の手続でもそうですけれども、裁判員が入って、量刑にももちろんかかわるということになっていますから、量刑についても、証拠関係等、確認を公判でする必要があるわけですけれども、それを、今と同じような事実認定のために出てきた証拠も量刑に使うということで、全体として統合された手続として全部進めるということでいいということになるのかどうかです。その点はそういう前提ですか。 □ 委員の問題提起に共通しているのですけれども、できれば、なぜそういう問題提起をされるのかを説明していただきたい。異なった扱いをすべきだという含みで発言されているのだと思うのですが、その理由をお話しいただかなければ議論は進まないと思うのです。ただ一般的に、その点も議論した方がよいのではないかというだけでは・・・。この段階で議論しなければいけない問題ですか。 ○ そんなことはない。ただ、公判手続の問題としては、その点についての議論の必要があるのではないかというふうに私は思ったものですから。 □ その必要を裏付ける理由というのをお伺いしたいのです。 ○ それは現行の手続についてもいろいろと議論があるところなわけですし、事実認定と量刑というものを共通の証拠でやるということによって起こってくる問題というのは、いちいち全部は指摘しませんけれども、既に指摘されているところでもあるわけです。直ちに、そのことが手続の分離を絶対的に必然化するものかどうかということについては、もちろん、議論があると思いますけれども、やはり事実認定がある程度固まったところで、つまり有罪だという前提になった段階で、量刑ということを考えるべきだという議論は当然あり得ると思うんです。 □ 意見書の想定している裁判員制度と、量刑手続を別途考えなければいけないというところの論理的な関係がよく分からないのです。そこを説明していただくといいのですが。何度も繰り返しますが、裁判員は量刑も事実認定もやるというのが前提ですよね。 ○ それが絶対だと申し上げませんけれども、正当化の一つの根拠として、やはり職業裁判官の方たちがおやりになっているということが、手続として、量刑資料と事実認定資料というものを共通のものとして利用することに正当性を与えているという議論もあったと言っていいと思うんです。それが果たして裁判員が加わったときに同じような脈絡の中で、証拠の利用について制約を加える必要なしに、同じものとして手続を構成することでいいのかどうかというのは議論はあり得ると私は思っています。 ○ 日本の裁判では、純粋に量刑のための資料というのは少ないんです。大体、計画的であるとか、犯行の動機はどの程度確実だとか、罪体に関する事実関係、それが即、情状のための資料になっているわけで、そういう意味では、日本のような量刑の仕方から言うと、手続を二分するなどというのは基本的にはできないと思いますよ。だからといって、それが理論的におかしいということにはならないと思いますが。 ○ 例えば、争いのある事件において、前科の証拠というもの、それは罪体と関係する場合は除いて一般的な話ですけれども、それが裁判員にどういう影響を与えるのかということは議論しておく必要がある。今、○○委員がおっしゃった手続を分ける必要として、例えば、一つはそういった点があり得るのではないかなと思います。 ○ 今でも、前科調書は一番最後に取り調べられているんじゃないんですか。 ○ 例えば冒頭陳述です。冒頭陳述には前科が書いてありますね。 □ それは今でも議論のあるところですね。職業裁判官による裁判についても。 ○ 私が申し上げているのは、今の制度を変えていくという方法もあり得るわけですけれども、今度は裁判員が加わるということですので、裁判員との関係でそういった点も考えていく必要はないかという趣旨です。 □ 分かりました。一応問題点の御指摘を受けたということで、ただ、これは公判手続一般の問題でもあると思いますので、そういう御指摘もあったということを踏まえて、そちらの方で論点を構成していきたいと思います。
○ 基本的には控訴審に裁判員を参加させる必要はないんじゃないかという考えです。第一審で裁判員制度を採ったから、必ずしも上訴審も同じ方向を採らなきゃいけないということには、恐らく審議会の意見もなっていない。ただ、趣旨として裁判員も参加した一審の判決を裁判官だけで覆すとなると、どうも気分的に一貫しないのかなという気がしないでもない。
○ 今、○○委員は事後審査審であるということが当然の前提であるというニュアンスのおっしゃり方でしたけれども、そこはそうなんでしょうか。審議会の意見書は、そこのところについてはオープンですね。 □ そこはオープンです。 ○ それはいろいろ書いてありますけれども、自判の場合もありますし、事実の取調べもやりますけれども、基本的な法律の構造を見れば、恐らく事後審査審だろうという理解です。 □ 現行はそうですね。 ○ 私も、裁判員が控訴審に加わる必要はないのではないかと思うわけです。確かに、現在の控訴審は事後審で、裁判員が入った一審に対してこれからどうするかというのはオープンなわけですけれども、他方で、裁判員が加わらない裁判官だけでの一審判決もあって、それに対する上訴審というのは、多分これは変わらないのではないか。そうすると、別の性格の控訴審というのを作るというのはいかがなものか、今の事後審でいいのではないかと思うわけです。そして、事後審の審査として、実際にやっている作業というのは、結局、一審判決が正しいかどうか、控訴審の目から一審の記録を検討するわけですけれども、それは裁判官にとっても大変な作業ですけれども、法律家でない方には非常に大変なもので、裁判員として一番力を発揮していただけるのは、やはり一審なのではないかと思います。
○ 確認ですが、お教えいただきたいんですが。 □ できれば御意見を伺いたいのです。 ○ それを聞かせていただいてということなんですが、つまり、その場合に控訴審としての判断として自判があり得るんですか。今、○○委員のお考えでは、差戻しということになるんでしょうか。 ○ そこは現行と同じですね。破棄差戻しも、自判もあり得るということです。 ○ 破棄差戻しのときには、その裁判体はどういうことになりますか。 ○ 一審の裁判体ですか。 ○ つまり、裁判員が加わった裁判体ということですか。 ○ そういうことになると思いますね。同じ裁判員の対象事件になっているわけですから。そこでは、裁判官も裁判員も替わるはずですので、公判手続の更新という、今の認められている手続をすることになると思います。 ○ つまり続審的に運用するということですか。 □ 運用というより、そのように構成するということですね。 ○ つまり、破棄差戻しで裁判員の入った裁判体に戻るということで、控訴審を事後審として構成するということは、考えられないではないと私も思うんですけれども、ただやはり、先ほど○○委員もちょっと触れられていましたけれども、裁判員が入って一審が構成されているということの持っている意味を考えたときには、やはり原則的には裁判員が加わった控訴審というものを構想してみる必要があるんじゃないかという感じはしているんです。ただ、そうなった場合には恐らく覆審的な構成が必要になってくるでしょうから、手続が重たくなってしまうんじゃないかとか、時間的な関係とか、いろいろと障害が出てくるという可能性はないわけじゃないという感じがするわけですけれども、しかし、どうもそれが原則じゃないかなという感じがしています。ただ、今言ったように、一審に破棄差戻しで戻して、裁判員の入った裁判体が審理をするとして、それを覆審的に構成するという方法もあり得るなと思うわけで、また、そのときに、控訴審が事後審として自判をするということができる場合について、やはり今と同様に考えるわけにはいかないんじゃないかという感じもしているんです。とりあえずの意見ですが。 □ いろいろ言われたのですけれど、差し戻した場合の裁判体の構成とか、その審理が続審なのか覆審なのかという点はさておいて、今、直接的には、控訴審の裁判体の構成ということを議論していて、○○委員は、控訴審にも裁判員を入れるのが筋だろうと言われたわけですが、その場合に控訴審はどういうことをするのですか。 ○ 覆審ということになると思います。 □ 第一審と同じような審理をもう1回やり直すということですか。そうすると、後の判決の方が正しいという保証はどこにあるのでしょうか。 ○ それは内容的なところでの正当性ということについて、我々が判断するということはできないと思いますので、構成上の正当性根拠をそこに見出すしか多分手がないと思います。 □ 構成上というのはどういうことですか。 ○ 一審よりも裁判体を大きくするとかですね。 □ しかし、その判断の方が正当である、そっちの方が正しいという保証はどこにあるんですか。 ○ それなりの体制をつくって処理をするということで。 □ それは見掛けの問題ですよね。 ○ そういう形式的な判断要素というものを。 □ 審議会の意見では、一審に裁判員が入れることには大きな意味があるとしつつも、それでも判断に誤りがあり得る。誤りがあったら困るので、それを上訴によってチェックしようということになっているわけですが、覆審というのが、そのようなチェックにふさわしいシステムなのかどうか、そこが問題だろうと思うわけです。 ○ というよりも、それは2回繰り返すということ自体が、その要請に応えているということにもなるわけです。 □ ですから、本当にそう言えるのでしょうかということなのです。 ○ 私の方もむしろ確認したいわけですけれども、職業裁判官のみによる事後審査的な構成による控訴審が、どうして一審に対して正当性を確保し得るのかという問題もありますね。そこは同列だと私は思います。 □ 一番大本の問題としては、どうして一審判決を覆すことができるのだろうか、というところに行き着くように思うのですが。 ○ そこはいずれにしても難しい問題だと思います。 ○ 覆審というのは、歴史的に見ると、要するに一審に対する現実の批判というか危惧というか、そういうところがあって、例えば、ドイツなどで軽い罪について控訴審を認めてこれを覆審にしようというのは、一審が危ないということだったんです。だから、もう一回繰り返してやらなきゃだめだという出発点があったはずなんです。ところが、今の我が国の制度というのは一審を重視していこう、強化していこうということですから、それをもう一回やるというのは、いかにも無駄なことなんで、むしろ、控訴審が一審判決を見るのであれば批判的な考察ということが方法として正しいと思うんです。そういう批判的な考察を加えるということだとすると、これはやはり事後審しかあり得ないんで、現実の制度というのは私はかなりうまく機能しているんじゃないかなという気がしています。
□ 事後審の中身なのですけれども、事後審といっても、一審に出された証拠を控訴審裁判所が自らもう一度調べ直して心証をとり、一審の認定と比べてみるという形の事後審と、さっき○○委員がおっしゃったような、むしろ経験則とか論理則とか、事実認定のルールのようなものがあって、それに照らして一審の認定が逸脱していないかどうかをチェックするという形の事後審と、二通りあり得ると思うのですが、どちらをイメージされているのでしょうか。 ○ 私はどちらでも構わないと思うんです。どっちでなければいけないということはなくて、例えば、一審の判決があって、それに対する控訴理由を見て、その控訴理由を中心にして判断をしていくというのは、やむを得ない。その意味で言うと、論理法則とか経験則、こういうものに反する場合というのがすぐ見つかる場合もある。
□ 私の質問は、事実認定のルール違反ということですと、一審の裁判体の構成員とは違う立場で、職業裁判官のみが審査するというのも分かるのですが、自分で心証をとって一審の心証と比較するとなると、職業裁判官だけの心証がなぜ裁判員も入った一審のそれに優先するとい言えるのだろうかということなのですが。 ○ そこのところは、そういう制度にしているというほかない。本当にそうかということになると難しいところがある。 □ 上訴審として設定した以上、そちらの方を尊重しようということでしょうか。 ○ ある意味ではね。ただ、第一審というのは、始めから証拠を積み重ねていく。ところが、控訴審では、既に出来上がった一審の判決書があって、その判決書がいいかどうかという批判的な考察が前提になるんで、方法論的にかなり異なる。その意味では、一審と二審の判断方法は違うと言えると思います。 □ したがって、構成も違ってもいいということになるのですかね。 ○ 私も、控訴審に裁判員を入れる必要性は乏しいと考えます。さっき○○委員がおっしゃいましたけれども、他の裁判員でない事件については、今までどおりの控訴審が維持されるということとの整合性が必要である。それから最初に○○委員がおっしゃいましたとおり、現在、控訴審がやっている主要な仕事の内容から見ると、そこに一般国民の方に関与していただいて、何かをしてもらうのは余り適切でない、意味が乏しいのではないかと思います。むしろ、第一審の重大な事件について裁判員の方が審理に加わって、司法の国民的基盤がより強固になる、そこに重要な意味があるので、基本的には控訴審は今までどおりの職業裁判官による形態でいいのではないかと思っています。
□ 今のは、上訴の間口を狭めることによって一審を尊重しようということですか。 ○ はい。控訴理由を若干厳格にする分、破棄がしにくくなるということです。 ○ 今の御意見にあった、一審を尊重する、裁判員が入った判断を尊重するというのは賛成なんですけれども、仮にその制度を採ったとしても、さっき座長のおっしゃった、控訴審が何をするのかという問題は残るわけです。
○ 私が、要件を狭めるといったのは、控訴審が心証をとり直して一審と比べるというのはやはり変であるという考え方・建前を前提にしております。基本的に控訴審のやることは事後審査であって、これが法の建前であるし、それが理念だから、やはりそれは心証のとり直しではなく、一審がやっていることが経験則や合理的な判断からずれていないかどうか、それを審査しているんだというのが前提で、プロはそういうふうにやってもらいたい。しかし他方で、一般国民の関与という基盤を得た一審の判断を尊重しようという要請をも考慮すると、今述べたとおり上訴理由を少し厳しくするという道もあるんじゃないかという議論です。 □ 量刑の方は分からないでもないのです。量刑については幅があり、それを大きく逸脱しているかそれほどでもないかという区別はつけられる、という意味で。ところが、事実認定の場合には、本当にそういうことが言えるのでしょうか。いずれも判決には影響するとしながら、著しい誤認の場合と著しくはない誤認の場合があると。事実認定については、判決に影響する以上、致命的な誤りのような気がしないでもないのですけれども。 ○ 私はあり得るだろうと思っているんです。つまり、一審のやられたことは、証拠を総合して、ある合理的な判断、経験的な法則に従った判断に基づいてある事実を認定している、しかし、それを別の裁判官が、プロが改めて見たときに、確かに自分ならそうは認定しないかもしれないけれども、しかし、完全に間違ってはいない、不合理ではないという幅の中に入っていれば、それは重大な事実誤認ではない、しかし、その幅からはみ出していれば、重大な事実誤認である、とすることは考えられるのではないでしょうか。 □ 判決に影響はするのでしょう。それを放置していいと、本当に言えるのでしょうか。 ○ 重大な事実誤認に限るというのは、考えられると思うんです。例えば、未必的な殺意か確定的な殺意かという争いがあって、一審では未必的な殺意だと認定している。しかし、控訴審は確定的な殺意だという心証のときに、判決に影響せず破棄しないという考え方も一方ではあるんですが、それは判決に影響する事実誤認だとして破る説もあるわけです。多分、破棄理由を重大な事実誤認ということにすると、そういった認定のずれはそれには当らないということになるんでしょう。 ○ 余り理論的な話ではないんですけれども、裁判員の負担という観点から考えてみますと、一審の判決書を読んで控訴棄却する場合に、控訴審に裁判員を入れなきゃいけないかというと、恐らく入れなくていいんだろうと思うんです。入れなきゃいけない必然性というのは出てこない。では、破棄することが予想される場合に、裁判員を入れるということになると、裁判所の心証が最初から裁判員に伝わってしまうじゃないかという話にならないだろうか。ここはちょっとそういった懸念がある。
□ さっき言われた、どの範囲から裁判員を選ぶのか、そういう問題ですね。 ○ 私も、控訴審には裁判員は要らないというふうに考えています。ただ、一審で裁判員を入れて事実認定もやっているわけですから、控訴審は、控訴を棄却するか破棄差戻しをするか、いずれかしかしない。自判はせずに、事実審理は全部一審に戻してやってもらう。そして、裁判員事件の差戻審は、また裁判員を入れてやってもらうと、そういうことでいいんじゃないかと思います。 □ 明らかに無実な場合でも同じことが言えますか。 ○ 裁判官だけで判断できるという前提が果たして成立し得るのか疑問があるわけです。 □ 現行の控訴審も、控訴理由があるかどうかを審査する、その判断に必要な審理を通じて既に心証が十分形成されているという場合には、自判してよろしいというのが建前ですね。それも維持すべきではないとお考えですか。 ○ はい。それは裁判員を重視するということです。 ○ 量刑不当だけの上訴の場合でも自判しないで差し戻すわけですか。そのためだけにもう一回審理をやるんですか。 ○ まあ、制度としてはそうならざるを得ないでしょうね。この範囲は自判していいよ、この範囲は差戻しじゃなきゃだめだというのは、むしろそういう制度の方がおかしくないかと思います。確かに、訴訟経済的には、たかだか6か月くらい刑期を短くするためもう一回戻して、また審理をやり直すというは大変とは思うけれども、それはそれで戻したときの仕組みを多少考えれば、何とかなるんじゃないかなと考えています。 ○ 私も、今の御意見に近いんです。つまり、上級審の判断というのが下級審を拘束するということであれば、意見書にもあるように、裁判員制度の導入により、せっかく一審の判決に一般国民の社会的な意識、常識というものを反映させたのに、たとえ法律的な理由であっても、その判断を現行の職業裁判官の方のみによる控訴審が破棄し、自判してしまうということになると、第一審に国民を参加させた意義というものに対して、専門裁判官の方の判断による圧力が加わるかのように、一般的には感じられてしまうと思うんです。
○ 最初に申し上げたように、私も、控訴棄却あるいは破棄差戻しということであれば、職業裁判官による控訴審というのはあり得るだろうと思っているわけでして、その限りで○○委員のおっしゃったのに近いわけですが、ただ、その場合に、量刑不当だけという場合には、別に考える余地がないわけではないだろうとは思っています。 □ もう少し説明していただきたいのですけれども、事実認定と量刑不当との性質の違いという点に踏み込ないと、説明がつかないと思うのですが。 ○ さっき申し上げた量刑手続というものを分離するということが考えられないかどうかということも関係ないわけではないと思っていたんです。
○ 量刑の前提となるべき事実関係についての争いがある場合もあるんです。どの程度反省しているかとかね。量刑の判断と事実認定の判断が質的に違うとは考え難いと思います。 □ 要するに、一審に裁判員が入ることの意味合いが、事実認定と量刑で違うのかどうか、また、それに対する上訴審のチェックの仕方が違うのかどうか、そういうことだと思うのですね。いずれも健全な社会の常識が反映されることには違いがないのですけれど、一方は、証拠の評価だとか、証拠の意味付けとか、そういうところに社会常識が反映する。もう一方は、どのくらいの量刑が相当なのか、どういう要因を重視して刑を決定するのか、というところに社会常識が反映する。そういうところが違うと言えば違うわけです。そして、それを上訴審でチェックするときに、違う視点でチェックするのかどうか、また、チェックをした結果、誤っていると判断したときに、果たして控訴審で直ちに新たな判断を下すのが適切かどうか、そういうことだと思うのです。○○委員は、それらの点で両者に質的な差はないというご意見なのですが、他の何人かの方は、差があるのではないかというご意見のようです。
○ 私、この控訴審のことは非常に悩んでいて、まだ確定的な意見はとても言えないという条件で聞いていただきたいんです。
□ 事前の審査は裁判官がやる。そして、これはどうも破棄すべき事件ではないかと思われるときに、裁判員を入れてやるという御趣旨ですね。 ○ もちろん、国民的基盤の拡充のために裁判員という制度を入れるということで、これはいい制度ですねという前提で話が始まっています。しかし、その制度でも判断の誤りはあるということも当然の前提になっているわけです。そして、新たに事実を認定するのではなく、その一審の判断をチェックする場合にやはり同じシステムでなければいけないか、というと、これはまた別問題だろうと思うんです。それは、もちろん裁判員を入れてはいけないということを言っているわけではないんです。ただ、制度を作っていく上で、本当にそこまで重たいものにする必要があるのかということが一つあるので、そこは理屈で言えばチェックする機関だから必要ないと考えることも可能だと思います。事後審査審ということを前提にして考えればですね。私は、覆審というのは、余りにも負担が大きくなり過ぎてだめだと思うんです。もう一回全部やり直すということは、証人の負担とか、記憶の減退とか、迅速な裁判の観点から到底取り得ないと思っています。そういう観点から言うと、裁判員を入れてはだめだという話ではありませんけれども、現実論として考えた場合は、そこはちょっと考えた方がいいかなと思います。
□ 最初におっしゃった点がまさに出発点でして、裁判員が入ることによってどういう意味があるのか。一つは、国民が参加することによって、国民の意識が変わっていくということだと思うのですが、ここでの問題は、むしろ、裁判そのものにとってどういう意味があるのかということだろうと思うのです。
○ 裁判員を控訴審で入れるかというと、私も、さっきから述べているところから明らかだと思いますけれども、これは入れる必要がないと考えております。今の控訴審の手続を前提にすると、手続的な性格とか、あるいは技術的な要素とか、こういうものが極めて強い。そうだとすると、そこに裁判員を入れるのはいかがなものかという気が、まず一つするということ。
○ 私は、理念的には○○委員のおっしゃることにも分があり、第一審のみならず上級審においても国民参加の何がしかの理念を加えることは意味があるんだろうと思うわけでして、例えば、最高裁の場合ですと、十分かどうかは別として、国民審査という格好でのものがありますから。ただ、何も裁判員制度そのものを高裁段階にまで持ってくる必要はないんだろうとも思うわけであります。
□ 大分時間が押し詰まってきたのですけれども、あと一点だけ、さっき言われたように、控訴審の裁判体に裁判員を入れて覆審の形でやれば別ですが、仮に、そこで職業裁判官だけで審査して、しかも破棄できるとした場合、自判の可能性があるかないかは別として、差し戻すということがあり得るとすると、差し戻した場合の第一審の手続が問題となります。覆審説というのが出ていましたが、続審というのもあると思いますので、その点について、御意見を承っておいた方がいいと思うのですが、その点はいかがでしょうか。これは仮の議論ですので、二審で全部自判してしまうんだということになれば、この議論は要らなくなるわけですけれども。 ○ まず一つは、差し戻された場合は、裁判員が関与する事件であれば、やはり裁判員が関与するのであろうということです。差戻審が職業裁判官だけでいいというのは、ちょっと考えにくいというのが一つ。
□ 今の御意見を整理させていただきますと、論点は二つあって、一つは、控訴審の差戻し判決の拘束力を認めないというお立場なのんですけれども、それがいいかどうかということと、もう一つは、差戻し後の一審をどういう審理方式にするか、今のような続審方式ではなくて覆審にすべきなのかどうかということです。両方一緒に言われたわけですけれども、一応別個の問題なものですから、その2点について御意見を伺えればと思います。 ○ 一つだけ質問させていただきたいんですけれども、後の方です。差戻し後の一審を覆審にしたとき、それにまた上訴があったら、もう永遠に続くということにならないですか。そこはどうやって止めるかというか、正当化ができるか。 □ 破棄判決の拘束力との関係ですか。 ○ 覆審でまた一審を完全にやり直すわけですね。 □ はい、それは続審でも同じことではないでしょうか。 ○ 要するに聞きたいことは、覆審にしてまた一からやり直した場合には、それに対してまた上訴をし、また戻ってきてやり直しという現象が起こったとき、どうすればいいんだという、そこを何とかしてくれないと困るんではないかということです。 □ それは、むしろ最初の論点ではないですか。破棄判決の拘束力の問題にむしろ絡む問題ではないですか。 ○ 覆審で一審をやってしまいますから、一審にまた戻ったら、破棄判決の拘束力を認めようがないわけですよね。 □ ○○委員のお考えでは、原理的には何度でも上訴はあり得るということになるんですか。 ○ いろいろと考えないといけないですね。 □ 余り時間がないものですから、簡単に御意見を、簡単にと言っても重要な論点ですので、簡明にお願いしたいと思います。 ○ まず、破棄判決の拘束力の問題に関して言うと、恐らく実務的な問題なので、○○委員に答えてもらった方がいいのかもしれないけれども、事実誤認に関して言うと、新一審で証拠調べを何かすると、もう拘束力はなくなるという考え方ですね。ですから、事実誤認に関して言うと、拘束力はかなりフリーだと考えた方が恐らくいいと思います。
□ ほかの方は、いかがですか。 ○ 私も、続審にして、一応破棄判決の拘束力は認めるという意見です。基本的には、一審はどちらかというと一般市民、一般国民の意見を反映するのに対し、高裁は、プロの判断の場である。そのプロの判断と一般国民の判断とをどこで調和させるかという問題だと思うんです。そういう観点から言うと、今申し上げたようなところが落ち着きどころではないかというふうに思います。 □ ○○委員、何か。 ○ 私も、最初に言ったとおり、破棄判決の拘束力を認めた上で続審でやればいいのではないかと思います。
○ 従前の証人の尋問調書などは、どういう扱いをするんですか。 ○ それは判断者が変わるわけですから、公判調書は書証として証拠になるわけですけれども、しかし、その中でどういうことが言われていたのかという要点を、裁判員に分かるように示すということは可能だと思うんです。
○ 公判手続の更新ですね。 □ その点は更に詰めて検討しないといけないところがあると思いますが、一応1ラウンド目ということで、このぐらいにさせていただいて、後に非常に重い話題が残っておりますので、予定より随分ずれ込んでしまったのですが、この辺で10分ぐらいリフレッシュの時間を置かせていただきたいと思います。 (休 憩) □ 次は項目7の「憲法との関係」ということですが、まず、ここで「憲法との関係」について議論する趣旨について、若干御説明しておくのがよろしいかと存じます。
● 「裁判員制度に関する当面の憲法上の論点(補充)」という表題を付しました資料について御説明いたします。
□ ち密と言えばち密なのですが、理解するのが少々難しい構造になっていると思いますので、まず、今の説明について御質問があればお伺いしたいと思います。いかがですか。どうぞ。 ○ 今の説明の中で、憲法上、裁判官が法律専門家であるということが想定されているという見解があるということを紹介されましたけれども、一般論としてはよく理解できるんですけれども、憲法上というからには憲法のどこかに根拠があるということですね。具体的にそれはどこということになるんですか。 ● 「資料編」でそういう見解もあるということで御紹介をしておりますが、残念ながら、そこには根拠が明示されておりません。したがって、当方で考えるしかないわけでありますが、おおよそ次のようなことではないかと思われます。
□ それで、よろしいですか。 ○ 意見はまた後にしまして、関連して言いますと、今の考え方によれば、法律問題の判断についての権限を裁判員に与えることには憲法上問題があるということですけれども、これは、被告人に有利になる場合、不利になる場合、どちらの方も含むという趣旨ですか。 ● 我々が目にした範囲では、見解として公にされたもので、その点をはっきりさせたものはありませんが、両様の考え方があり得るのではないかと思います。
□ 御意見があるような感じですけれども。 ○ 意見は後で述べることにいたしまして、とりあえず、以上です。 □ 分かりました。それでは、ほかの方で事務局の説明についての御質問ございますか。どうぞ。 ○ (注2)の(b)という見解は、裁判官の多数が無罪だという場合には、裁判員を含めた合議体全員の多数決の結果が有罪であっても有罪にしてはいけない、しかも、それが結論として憲法から導き出されると言っている。その根拠付けとしては、さっき事務局の方が何度も言った「憲法76条以下の司法権のところに出てくる裁判所というのは、裁判官によって構成されることが基本的に想定されている」という考えから出発するわけですね。そこから出発するんだけれども、形式論理としては、今度は、憲法32条とか37条の裁判を受ける権利というのが出てきて、この(b)説の論理によれば、76条以下の規定ぶりからすれば、その裁判を受ける権利にいう「裁判所」というのも、やはり裁判官によって構成されることが基本的に想定されていると解されるから、被告人の不利益な方向では、裁判官による判断でなければ被告人の「裁判を受ける権利」を侵害すると言うわけです。
□ 御意見ですか、御質問ですか。 ○ 質問です。論拠がよく分からないということなんですが。 □ 分からないとだけ言われても、答えようがないと思いますが。 ○ 何でそういう結論が憲法が出てくるのかが、よく分からないということです。 ● なぜそうかと言われると、それは答えようがありませんが、「資料編」の5ページの(2)の意見というものを参考にして、先ほど申し上げたような説明をさせていただいたわけです。(2)の考え方は、まず、憲法は、身分保障のある裁判官に関する規定を置いていて、他方、裁判所の裁判を受ける権利を保障しているということで、裁判所の裁判を受ける権利を解釈して、それが被告人の権利であると言いつつ、さはさりながら、76条以下は裁判員を排除はしていないと言っていて、ぐるぐる回りと言われるとそうかもしれませんが、事務局としては、要するに、そこに記載している考えを参考に御説明させていただいたということであります。 □ 結局、この考え方は、憲法76条以下が想定している裁判所の裁判というものと、32条ないし37条が保障する裁判との間に、差を認めているのですね。なぜかというと、32条、37条にいう「裁判」を受けることは被告人の人権として保障されているものである以上、不利益を受けるときについて保障したものというべきであり、しかもそれは、やはり、裁判官による裁判を保障したものなのだ。私が理解する限りでは、こういう解釈だと思うのです。それと憲法76条以下を根拠にして言っておられることに、違いがあるということは確かでしょうね。 ○ 今の座長がおっしゃったことの確認ですが、座長の御意見ではないんだろうとは思うんですが、憲法32条が、被告人に不利益な判断は裁判官のみによって行われなければいけないと保障しているというのは、どこから解釈論的に出てくるんですか。 □ そこが、話が戻ると変なことになると○○委員がおっしゃったところだと思うのですけれども、基本的には、憲法というのは職業裁判官が裁判所を構成するということになっていて、そういう裁判を憲法32条ないし37条で保障しているのだという論理だと思うのですね。私自身の意見ではありませんので、それ以上は説明できませんが。 ○ 座長の御意見だというふうに伺っているつもりではないんです。ただ、そうすると、結局○○委員が言われたように、論理が行ったり来たりしてしまっているということではあるわけですね。 □ そうですね。 ○ 私もお伺いしたかったのは、(b)説における、憲法32条・37条と憲法76条以下との関係の理解について、事務局はどのように整理されているのかということを伺いたいんですが。 □ 事務局に問われても、困るのではないでしょうか。 ○ ですから、事務局の御意見ではないということも承知の上で。そうしないと議論が錯綜してしまうかもしれないので。 □ これ以上解説するのは難しいのですけれども、やはり被告人の方から見ると、裁判官によって構成される裁判所によって裁判を受けるのとそれ以外の人が入った裁判体による裁判を受けるのとでは質的に差があるというのが、(b)説の暗に意味しているところかなという感じがしますね。 ○ その質的な差というのは、憲法76条以下で裁判官には身分保障があり、独立性が保障されていると、そういう質的な一定のクオリティーが確保された人たちに裁判をしてもらうというのは、被告人の権利としてあるのではないかという論理ですか。 □ そういう想定ではないかと思われるのですけれども、そこは、そのような解釈を取られる人にうかがってみないと確かなことは言えませんね。 ○ しかし、その人たちは我々のところにいないわけですから。それで、その意見をどうするかをここで議論するわけですから。 □ そういうことが被告人の利益だという想定ではないか。そういうふうに考えると、そのような解釈も一応説明できるような感じがするということです。 ○ それと、今は、憲法32条の原則には民事も入っていると考えられていますね。(b)の考え方によれば、民事裁判を受ける権利と刑事裁判を受ける権利で、分けて考えるということになるんでしょうか。 ● そこも端的にお答えになった方はおられませんので、何とも申し上げようがないんですけれども、一つの考え方としては分けるというのもあり得ましょうし、分けないという考え方、すなわち、裁判官が基本であるというためには、裁判官の多数の意見が尊重されなければいけないということであれば、裁判を受ける権利というのは、民事の場合は、刑事とは違って被告人の権利だけではないでしょうから、両様に働く、つまり、両方向で裁判官の多数の意見が尊重されなければならないという結論もあり得るとは思います。 □ 専ら刑事事件の文脈の中で言われているものですからね。 ○ 「補充」という書面の1の(1)なんですけれども、この問題を巡っては、昔から違憲論、合憲論たくさんあるわけですが、国民が裁判体に入ることは憲法上当然許容されているという、仮に一番広い考え方を取ったとしても、裁判所というところにプロの裁判官がいなくていいという考え方は一つもないという理解でよろしいですか。
● 恐らくそうではないかと思います。「資料編」の3ページの「合憲説」も、陪審・参審とおっしゃっていることからすると、当然、裁判所には裁判官がいるという前提かと思われますが、その論理を徹底するとどうなるかという問題は別途あるという気もします。 ○ 今、事務局がおっしゃったことで、見解をいろいろお示しになられている方たちの認識としては、裁判官がいないことは想定してないかもしれないけれども、論理としては、裁判官がいないということもあり得るんでしょう。つまり、憲法32条の解釈からすれば、裁判所であればいいわけですから、その裁判所の構成要素として、職業裁判官が絶対いなければいけないということになるかどうかは、議論の余地があるんでしょう。もちろん議論はいろいろとあり得るとしても、論理としては。 □ 「論理」と言われるのですが、それもどのレベルでとらえるのかによって違うと思いますけれども、現行憲法を前提にした場合に、32条と37条を76条以下と切り離して考えられるか、ということだろうと思うのです。確かに、32条にいう「裁判所」というのは場所のことであって、裁判をする裁判体はそれとは別でいいのだというとらえ方も、その条文だけで見る限りは理屈として成り立たないわけではないのですが、76条以下で司法権の作用は裁判所に属するとされ、かつ、職業裁判官についての一連の規定が置かれていることを前提にした場合、32条にいう「裁判」というのもまさに司法作用そのものであるのに、その76条以下と全く切り離して考えられるものかどうかですね。考えられるとすれば、おっしゃったような理屈も成り立たないわけではないですが、しかし、同じ憲法の中で、司法というものをこういう形で、こういう権限があると規定しているわけですから、法解釈の仕方としては、そこを結び付けて考えるのが普通だろうと思いますね。この資料に挙がっている人たちも、その点を特に明示して書いてはいません、恐らくそのことは当然の前提としているように思います。 ○ ただ、そうしますと、例えば、イギリスにあるマジストレート・コートで、レイ・マジストレートしかいないようなコートは違憲だということになるわけですか。 □ それは、まさに○○委員がおっしゃった、「裁判官」というのは法律専門家であることまで要するかどうかという問題だろうと思うのです。法律家でない人も「裁判官」と言えるかどうかですね。 ○ そういう言い方もできるということですね。 □ しかし、それが「裁判官」ではないとすると、現行憲法の下で果たして、法律家でない人のみにより構成される裁判所というものが認められ得るのかという問題になってくる、そういうことだろうと思いますね。 ○ ちなみに、民事の調停でも、裁判官が肝心なところはいなければいけない、裁判官が中心になって調停というのは構成されているという考え方ですよね。 □ そこも、「裁判」というのはどこまでのものをいうのかによって違ってきますね。一般的には、狭い意味での「裁判」というのは、国の権力によって事の黒白を付けるというものであり、それについては裁判官の関与が必須だけれども、それ以外の紛争解決の仕方についてはそうではない、といった仕分けではないでしょうか。 ○ 訴訟事件か非訟事件かということですね。 □ 一般には、「裁判」というのは訴訟事件的なものを主に念頭に置いているように思うわけですが、非訟事件まで含めて「裁判」だということになれ、そこにも裁判官の関与が必須だということになるかもしれないですね。
○ 裁判官の多数が無罪の意見の場合には有罪にしてはいけないという、(b)説のさっきの理屈も私はよく分からない、形式論理としてもちょっと変だと思ったんですけれども、憲法がそれを絶対要請しているという実質的な根拠があるんですかね。
□ それは、事務局としては答えにくいと思いますので、あえて口を挟みますと、そういう説を取っておられる方の根本には、あるいはそういうお考えがあるのかもしれませんけれども、裸の形でそうだと考えておられるのではなくて、現行憲法がそういう価値判断をしていると考えておられるのではないかと思いますね。その根拠は、要するに、現行憲法は職業裁判官を念頭に置いたような規定しか置いていないということで、そういった憲法の規定ぶりから、そういう解釈を導いておられるわけで、裸の実質判断としてそこまで思っておられるのかどうか、その点については断定を避けなければならないと思います。 ○ 今の考え方で、多数というのは、有罪・無罪の結論についてなんでしょうか。論点ごとにどういうふうにすればいいのかも問題と思うんですが。現実の訴訟では、論点ごとに問題となっていって、そしてそこで判断を積み重ねていかざるを得ないわけですけれども、最後の結論についてだけ確保されればそれでいいのかどうか。 □ 確かに、評決の具体的な手続を考えていく場合、その点も重要な論点になるところだと思いますね。
○ その点確認ですけれども、76条以下において、裁判所の構成が、職業裁判官によらなければならないんだと、それが全員であるか一部であるかも含めてですが、そのことが、76条以下で、解釈論的に明確に示されているというわけではないですね。 □ 解釈論というより、規定上そこまで明示的には規定されていないことは事実です。 ○ つまり、陪審、参審の規定が設けられていないのと同じような意味で、そこは規定はないですね。 □ 同じ意味かどうか、現行憲法には司法権に関する一群の規定が置かれ、裁判官一般についてのほか、「下級裁判所の裁判官」の任免等について定められていますから、裁判所はその裁判官によって構成されるものと想定されていると捉えるのが自然だと思いますが。 ○ 考え方はいいんですけれども、文理としてそのことが明確にされているわけではないですね。 □ 文言としてはですね。しかし、憲法学でも、それが普通のとらえ方でしょう。 ○ そして、憲法32条には明確に裁判所という規定があるわけですね。 □ 「裁判所において裁判を受ける権利」とありますね。 ○ ですから、言ってみれば、裁判の主体としての裁判体についての規定ということでいけば、32条に「裁判所」とあって、そこの構成についてそこでは明確にされていないと、76条以下でもそのことについて32条を埋め合わせるような規定はないと、そういうことですね。 □ だから、そこは解釈と言えば解釈ですよ。 ○ 解釈でもいいんです。私が確認したかったのは明文自体ですから。 □ 既に「質問」の形で御意見が入り込んでいるような御発言もあったと思いますが、これから議論に入りたいと思います。最初の「司法機関としての裁判所の在り方」と、後の「司法参加を求められる国民の基本的人権」という、二つの視点に大きく分けて整理されておりますが、それぞれの中の論点は相互にかなり関連しておりまして、余り細分化して1のAの何とかについてどうですかという形では議論がしにくいと思いますので、この資料を参考にしながら、2つの大きなくくりで議論をしていただければと思います。
○ ここの身分保障に関する規定というのは、職業裁判官だけに適用があるということ、これはもうそうとしか読みようがないだろうと思うんです。何でこんな規定があるかというと、もちろん簡単なことで、要するに、職業裁判官は裁判をすることによって生活の糧を得ているわけで、それを奪うという方法で圧力を加えるということが考えられるんです。それを排除しよう、一番生活の基本になるところに圧力を加えることを予防しようという観点があったわけで、それを考えると、これが職業裁判官についての規定だということは当然のことだと思うわけです。
□ 「参審員」ですね。原語では元々2つの異なった言葉でしたが、実体は。 ○ 他方で、いわゆる身分保障等については、職業裁判官についてのみ及ぼすという規定をしている。ドイツでは、こういうきめの細かい配慮をしているんだけれども、例えば、日本でも、陪審とか参審とか、こういうものがもし憲法制定当時あったとすると、同じような規定になったかもしれない。だけど、当時は、そういう実態がなかったものだから、それについてあらかじめ規定しておくというのは憲法上あり得ないだろうと、立法技術としてあり得ないだろうと考えられるわけです。そう考えてくると、身分保障の規定は、むしろ職業裁判官についての規定であって、他の人についてはフリーということになると思われる。
□ 裁判員について、独立性、中立性・公正性というものが裁判官の場合と同じように要求されるのはなぜなのでしょうか。 ○ これは、裁判の本質というか、司法権の行使に関与するわけですから、今の身分保障というものについては裁判官にしか及ばないとしても、それ以外の者についても、ほかのところから、ほかの形で圧力を加えられるということは避けるべきだということだと思います。裁判の本質は何かというと、公平性ということがあるので、独立性、中立性ということを前提にしていかざるを得ないだろうということです。 ○ 恐らく刑事事件については、憲法37条で「公平な裁判所」と書いてありますから、公平な裁判所ということから、恐らく独立性、中立性・公正性というのが導き出されてくる。文理的にも全く根拠がないという話ではないような気はします。ちょっと思いつきですけれども。 □ それに加えて、司法制度改革審議会の意見書でも触れられているように、民主社会における司法の役割は、多数決原理だけですべてが律せられるのではなく、法や理にかなう場合には、少数者であっても保護するというもので、そういう司法の役割からすると、多数に支配されるとか、そういうことであってはいけない、そういうところから出てくる要請だということなのでしょうね。
○ あえて議論のために、というか、半分は本音かもしれないんですけれども、憲法は、今議論があるように、裁判官の独立性だとか、身分保障だとか中立性だとか、非常に強調していますね。それは、裁判官でなければ、そういう形で制度化して組織化した裁判官で、日常的にトレーニングするという職域の人でなければ、公正さ、中立さとか、そういうものは担保できないというふうに考えていると、そういう解釈はできないですか。 □ 現行憲法はそう考えているのではないか、ということですね。 ○ はい。それは手厚い規定の仕方から見ると、ということです。したがって、一民間人を裁判所の中に連れてきたときに、(a)説は、公正さとか中立性とか、そういうものが担保されればいいんじゃないかと言っているわけだけれども、果たして、それは可能なのか、憲法はそういうことは不可能だと考えているのではないかと、そういう解釈はできないですか。 □ 議論のための議論、ということなのだろうと思いますが。 ○ 3分の1くらいは本音です。 ○ 私も議論のための議論をするつもりではないんですが、それは今○○委員のおっしゃったような解釈というのはもちろんあり得ると思いますけれども、憲法32条と76条以下を併せて考えたときに、そうでない解釈というのは当然あり得ると思うわけです。それはどういうことかと言えば、憲法が制定された時期において、裁判官について危惧されていたことは一体どういうことだったのかということにもなると思うんです。今の時点で考えてみれば、なるほど、○○委員のような見方もあり得るかもしれませんけれども、当時の時代状況等の中で考えられていたことということで言ったときに、官僚制というものによって裁判官の方たちが苦労していたという時代背景はやはりあるわけで、天皇の官吏として裁判をされるというようなことで、しかも、司法省が司法行政的な権限を持って、裁判官の方たちにいろいろと影響力を行使するということもあったかもしれないわけです。ですから、そういう観点からしますと、むしろ、裁判官がそういった、現に司法権の独立という観点からしてもそうだと思うんですが、他の行政権的な力というものとの関係において、中立性だとか独立性とかというものを保障される必要がある。先ほど○○委員もおっしゃいましたけれども、まさに、裁判官の身分保障というのも、そういう形で司法行政的なものによって奪われるとか影響を受けるということがないということが、言ってみれば非常に重要なポイントとして考えられていたわけです。
○ 身分保障についてはそうかもしれませんね。国から生活費をもらっているという意味で、それはやはり保障しなくてはいけないということはあったかもしれません。ただ、裁判官の独立と言ったときに、対行政的な力との関係だけで独立性を論じればいいかというと、過去はともかくとして、権力が分散している、特にいろいろな形の権力とかパワーがある今のこの世の中で、そういう行政権力等との関係だけで、独立だとか公正とか中立性とかを考えていいのかとなると、必ずしもそうでないと思うんですね。
□ 「よろい」を着ているというわけですか。 ○ そういう意味では、私は3分の1は本音で、あとは議論のための議論だと申し上げましたけれども、少なくとも、この裁判員制度が合憲だと言うためには、(a)説が言う条件を極めて手厚く慎重に整備しない限り難しいのではないかと思っているんです。
□ 逆に言いますと、「よろい」を着せることができれば合憲だということでしょうか。 ○ 確認なんですが、○○委員の御意見は、76条以下の規定は、裁判官ではない法律の素人が司法権の行使に関与することを全面的に否定はしないと、しかし、プロが守られているのと同じぐらい、独立性、中立性・公正性が保障されれば、憲法76条以下が想定している法律専門家である裁判官の場合と具体的な形は異なっていても、それと機能的に同価値の独立・中立・公正が保たれるような立法的手当がなされる格好になれば、裁判官ではない人たちが司法権を行使して構わない、そういう構造ですね。 ○ およそ公正さとか中立性だとかが制度的に担保されないような人たちに司法権を行使させるということは憲法は想定していないんじゃないか。だから、逆に言えば、そういうことが担保されていれば、そういう人たちが司法権を行使するということは、憲法の想定の範囲内ではないか、そういう意味では合憲ではないかと思います。 ○ 私は、裁判官の身分保障の規定について、○○委員がおっしゃったことに賛成なんですけれども、憲法学者の長谷部教授はもっとはっきり「サラリーマン」という言葉を使って、サラリーマンだからこそ身分や給与で内外の圧力を受けないようにする必要がある、だから、身分保障が必要なんだということを確かおっしゃっておられたと思います。
○ 確かに、無作為に選ばれる国民は、公平でもないし中立的でもない、偏ぱな心を持っているとは言えないわけだけれども、無作為抽出だから、全員公平無私であるとか、偏ぱでないとか、極めて中立的な心情の持ち主であるとも言えない。だから、それはどちらでもないわけだから、そういう意味で、いろいろな制度的な仕組み・枠組みによって、そういう公正さなり中立性なりというものを担保するような制度でないと憲法は受け入れないのではないかと私は思っています。 ○ ですから、裁判員にもよろいを着せるというふうにおっしゃったので、裁判員と、身分保障を受ける裁判官とでは、独立性、中立性・公正性の担保の仕方が、つまりよろいが同じではないだろうということなんです、言いたかったのは。 ○ それは同じよろいだというつもりはないです。 ○ 仮に、憲法が裁判官によろいを着せているからといって、よろいを着ていない裁判員なり陪審員なりというものが、そのことだけから独立性、中立性・公正性を否定される趣旨ではないのではないでしょうか、ということなんです。 □ お二人の御意見はよく分かりました。 ○ 今の関連で、独立性、中立性・公正性が保たれる人を入れればいいという議論なんですが、本当にそれが職業裁判官と同じぐらいのものまでできるんだろうか。そこまで一緒でなくてもいいんだという考え方もあり得ますけれども、司法についての今の憲法の考え方の中には、いわゆる人民裁判といいますか、そういったものはまずいという考えはないんだろうか。リンチのようになってしまってはこれはまずいと。
○ 今の○○委員のお考えに対して、人民裁判が何を意味するかよく分からないんですが、ただ、先ほど○○委員がおっしゃったように、32条、37条ということでいけば、公平な裁判所の裁判ということには当然なるわけですから、その限りにおいては、多分、危惧されておられるような事態を憲法は当然容認はしていないというふうに私も思います。ただ、その構成が一般的に国民だけから成る、それは現にそうあるべきだということを直ちに言うつもりはないわけですが、つまり、職業裁判官が入っていなかったからといって、直ちに公正性というものに疑問を差し挟まなければいけないかというと、そうではないと思うんです。
□ 御趣旨は、現行憲法の下でも、作り方によっては、職業裁判官が必須の要素となっていないというような裁判体もあり得るということですか。 ○ 今、それを作るべきだと言うつもりは全くありませんが、憲法論としてはあり得るということです。 ○ 例えば、立場上の中立というものが外形的に分かったとしても、心の中の中立というのがあります。自分は本当はこの立場ではないんだけれども、自分が裁判員という立場になった以上は、立場が違う、心情が違うけれども、この人の言っていることを虚心坦懐に聞かなければいけないとか、そういう内面の問題がありますね。ある意味では裁判の中立性という中核的な問題なのかもしれないんだけれども、そういう内面の中立性について、これはいろいろな御意見があると思いますが、裁判所の中で裁判官は常にトレーニングされていると私は思うんです。自分の個人的な心情から離れた裁判官としての心情で物を見る。それは、されているはずがないという意見もどこかにあるかもしれませんけれども、私は、そういうトレーニングで鍛えられている部分もあると思うんです。
○ ○○委員とだけ議論するつもりはないんですけれども。 □ なるべく同じことを繰り返さないようにしていただけませんか。 ○ 今の○○委員の御意見というのは、考え方としてはあり得るかもしれませんが、ただ、だからこそ、職業裁判官の方と裁判員とは選び方も違うわけですし、チェックの仕方も違ってくるということになるわけで、そのことによってまさに先ほどおっしゃった独立性、公正性・中立性というものを保障するということ、○○委員もそこは理念的にはそうだとおっしゃいましたけれども、私もそうだと思うわけでして、当然それは違うわけで、違うなりの選び方なり保障の仕方というのはあっていいわけで、直ちに○○委員の言うようにはならないというふうに思うんですが。 □ そこは御意見が分かれるところで、繰り返しますと水掛け論になってしまうような感じがします。
○ 内面における中核的な公正さであるとか中立性というものは、基本的にはトレーニングで養われる部分があると思っているんですが、そういう観点からすると、要するに、この最終答申が、プロの裁判官と一般国民との協働によってやるべきとしているところが非常に重要であって、この協働というのが文字どおり実現されれば、おまけに、今言われた公正さや何かを担保する制度が加わっていけば、それで合憲だと、中核的な意味を含めて合憲だというふうに言えるのではないかと思っているんです。
□ 私自身かなり疲れてきたものですから、5分ほど休憩してよろしいですか。合理的な時間の範囲内で終了させていただきたいと思いますけれど、憲法論は大事な問題ですので、ちょっとリフレッシュしましょう。 (休 憩) □ 傍聴されておられる方々から、声が小さくて聞き取れないという御注意がありましたので、公開の趣旨をくれぐれも念頭に置いて、聞こえるような形で御発言いただければと思います。
○ 今の座長の整理を前提にして意見を言わせていただきますが、今、我々が設計しようとしている裁判員制度は、少なくとも、そこに職業裁判官がいることは間違いないわけです。そこに、法律専門家でない一般国民が関与し、先ほど来話があったとおり、裁判員が憲法が予定している職業裁判官と機能的に同じような程度に公正・中立、独立の司法権の行使ができる仕組み・制度を設けるという前提を採った場合には、憲法76条以下が定める司法権を行使する裁判所というのは、そこに裁判員が加わっていても差支えないのであって、それは、憲法32条や37条との関係でも同様であり、裁判所にプロでない裁判員の方が加わっていたとしても、それも憲法の定める「裁判所」であると考えることができると思います。そうだとすれば、そこで多数決によって出される結論について、(b)説や(c)説が言うように、一定の場合には、裁判官の多数と同じような結論にならないときは、裁判体全体の結論を取ってはいけないというようなところまで、憲法から直接言えるとは思えない。むしろ、多数決で出された意見である以上、それこそが憲法の定める「裁判所」の判断すなわち憲法上の「裁判」なのであり、それが裁判官の多数の意見と違っているからといって違憲だということにはならないと考えます。憲法の解釈として(b)説や(c)説の結論が要請されるという理屈にはならないと思います。
□ それは、(b)説も(c)説もでしょうか。 ○ (c)説は座長の御意見かもしれませんけれども。 □ 私は別に、審議会当時の自説にこだわっているわけではありませんよ。 ○ (b)説も(c)説も、論理の構造としては同じでしょう。結局、職業裁判官と一般の方との関係において、職業裁判官の判断の関与を担保する仕方が違うわけですけれども、独立・公正・中立が担保された人間によって構成された裁判所は憲法上の裁判所であり、その判断は、被告人に有利であれ不利益であれ、全く憲法上問題がないというのが論理的に筋ではないかと思います。 □ 裁判員が加わっていることの意味がないような形の評決はおかしいだろうということで、裁判員の一人は少なくとも賛成していないといけないというのが、裁判官の多数のみによって不利の決定をしてはいけないという立場の一番基本にある考え方だと思うのですが、仮に、職業裁判官が裁判所の基本であるとの前提に立った場合、裁判員についてと同じことが裁判官についても言えませんか。
○ 合議体として裁判が形成される過程で、プロであろうが素人であろうが、司法権を行使するため、事実認定などについて、相互に説得し合って、コミュニケーションした結果であれば、多数決の結論に一人もプロが賛成していないとか、逆の場合であっても、それはやむを得ない。そうであったとしても、これは公正な判断であって、結論に至る過程において裁判官が関与している以上は、それを憲法の認めない判断だとは言えないと思います。 ○ 私は、文理的に見ても、裁判員制度が憲法に違反するとは思わない。憲法は、最高裁については裁判官により構成すると定めているけれども、下級裁判所については法律に定めるとしているわけです。しかし、とは言いつつ、司法権のところには職業裁判官のことだけがいろいろ書いてあるので、裁判官が入らない裁判体というのは、恐らく憲法は予想していないということは言えると私は思うんですね。
○ まず憲法上の要請と見るかどうか、単なる立法政策の問題と見るかどうかの問題ですけれども、私は立法政策としてはいろいろあろうかと思うんですけれども、憲法論としては、結論的には、私は、裁判官が一人は加わっている評決でなければ、裁判官の裁判、要するに、憲法上の裁判所の裁判を受けたことにはならないと思うんですね。だから、結論的には同じなんですがね。
□ ちょっと弁明させていただくと、審議会での議論も、どこまでが憲法論かというところは意見が分かれるだろうと思いますね。そこでの議論は3段階で構成されていまして、1段階目はさっき御説明したように、今の憲法の規定から見ると、職業裁判官というのは裁判所の必須の要素だろう、それも意味がある形でそこに入っていないといけないだろうということ、そして、2番目は、そのことを前提にして、意味があると言えるためにはどこまでの関与が必要なのかということで、そこはいろいろな考え方があり、少なくとも一人の意見は反映していないといけないだろうという考え方と、裁判官の多数が結論に賛成していないといけないという考え方があった。
○ 今、恐らくは、憲法76条以下に定める裁判所に、裁判官以外の国民が入ることは問題がないと、日本国憲法上の裁判所の構成として問題がないということは、前提になっているんだろうと思うんですね。
□ 1点諸外国と違うところは、諸外国で、国民参加の裁判体を採っているところでは、憲法にそれについての規定が置かれているのが割と普通なのですね。ところが、日本の場合、そのような規定がないので、そこが、日本特有の議論の出発点になっているところがあるのですね。 ○ ドイツもフランスも、憲法には国民参加の規定はありませんね。 □ ドイツにはあります。 ○ フランスにはないですね。 □ ドイツは名誉職裁判官というカテゴリーで、その中に読み込めるような憲法の規定になっているのです。 ○ いや、ドイツでも。時代によって。今は、おっしゃられたとおりですけれでも。 □ いずれにしろ、私が申し上げたかったのは、諸外国の多くのところでは憲法に国民の司法参加についての規定が置かれているのに、日本の憲法には規定がないものですから、規定が置かれていないのは国民参加の制度を採らないということを意味しているのではないかというのが、これまでの議論の出発点になっている。そうである以上、その点についても丁寧に議論しておく必要がある、しかも、単なる文言解釈にとどまるのではなく、国の統治機構の一角としての裁判所ないし司法権というのはどういうものであるべきかということを踏まえた議論を、やはりきちっとしておかなければいけない、ということなのです。 ○ 私も余り詰めて考えていないところがあるんですが、職業裁判官が評決に加わっているとはいっても、本当に裁判員だけの考えで裁判ができるとして、全く憲法違反の疑いがないのかというところまでちょっと踏み込めないんです。それは、どういう構成にしてもいいということになったら、例えば、先ほど憲法37条の公平な裁判所の問題だと言われたので、それはそうかもしれないんですが、本当に希望者を裁判体に入れる、そして、それは被害者とか被害者の遺族とかそういう関係者ばかりだったと、そういう人たちだけで本当に裁判をやって本当にそれでいいんだろうか。それで全く違憲の状態にならないようなものになるんだろうか。というのは、本当に極論すると、違憲の可能性はまだ残るのではないかと思うんです。ただ、そういうようなことがないように、今、裁判員については、独立、公正・中立性のある人を選んでいこうではないかと、それから、評決にしても、そういう協働するような形のものにしていこうではないかと、そういう話ですので、憲法論に行かなくても済むような制度設計というのはあり得るのではないかというふうに思うんですが。 ○ まだ(a)から(b)(c)(d)(e)に至るそれぞれの詳細について熟考が済んでいるわけではないんですけれども、私自身は、意見書の理念であるとか、あるいは憲法の条文を読ませていただいて、やはり(b)という考え方は採っていただかない方がよいのではないかなと、関連して(c)というふうなこともちょっと裏腹の御意見だと思うんです。いろいろな条件を考えて、このような主張があるとは思うんですけれども、私としては、裁判官と裁判員の方の評議の過程のコミュニケーションでありますとか、相互の協働の取組に関して、強い信頼を持って制度設計をすべきだと思っているものですから、このような対立が最終的な評決のときに余り起こらないのではないかと信じています。
□ 審議会での多くの方の意見も、そういうルールが問題になるのは本当に極端な場合であって、基本的に、両者が協働しコミュニケーションを取り合い、お互いに知恵を出しながらやっていくのがあるべき姿だ、というものでした。そういうことからすれば、まさに今おっしゃっられたとおりだと思います。ただ、ぎりぎり詰めた場合に、それぞれが参加している意味というのをどうやって確保するのか、しかも憲法との関係でどう考えるのか、そういう観点から評決の在り方という問題が出てきて、少なくとも被告人に不利な方向では、どちらか一方のみの意見で決めてはいけないということにした、ということなのですね。大体皆さんから御意見を伺いましたので、第1ラウンドとしてはこのくらいにさせていただきたいと思います。
○ どんな場合も、辞退を絶対認めないと、あるいは辞退した場合にとんでもない重罰を科するというふうにすれば、これはやはり憲法に違反すると思うんです。ですから、合理的な範囲内で辞退をする道を残しておけば、一応、「意に反して」ということにはならないわけですから、何とかクリアできるのではないかというふうに思うんですが。 □ 自分では合理的な理由があると思ったけれども、そうは認めてもらえないという場合、それはやむを得ないということでしょうか。 ○ 制度としてはそうですね。あとは個別の案件でそれぞれ別途、高裁その他で争う以外にないと。 ○ 私も○○委員と似たような意見ですけれども、やはり合理的な範囲内ということだと思いますね。罰則を用意して、引っ張り出すような制度は反対だと前に言いましたけれども、それと同じことで、そういう制度によるとすれば、やはりその意に反する苦役であるという主張が出てくるだろうと思います。ですから、その辺りは非常に緩やかに制度設計としては考えるべきだろうというふうに思うんです。
□ 二つのことをおっしゃったのですが、一つは、罰則のような厳しい制裁で義務付けを強制するのはいけないのではないかということで、もう一つは、内容的にもっともな理由があれば免除ないし辞退を認めればいいのではないかということですね。そして、その他の問題がありそうなものは忌避のような形でほとんど除外、排除されていくのではないかということですが、合理的な、もっともな理由がある場合に免除だとかあるいは忌避だとかを認めるとしますと、残ったものは辞退にしても免除にしても、そのためのもっともな理由がないということになるはずですけれど、そういう場合についても、罰則で強制するのは憲法上問題があるというふうにお考えなのでしょうか。 ○ そこら辺り、私は消極的に考えているので、余りそこは罰則を強くすべきではないのではないかと思うんです。
□ 分かりました。 ○ 理念論としては、司法プロセスへの参加というのはそもそも憲法が予定しているような苦役とかというものとは違うと思うんですよね。ただ、実際上、裁判員になることによって、一人一人には負担といったものが生ずるわけですから、その負担への十分な補償、日当とか、それから勤務を持っている人への何がしかの法的な手当てといったものは十分に考える必要があると思うんです。制裁とか罰則で引っ張り出すことも議論しなければいけませんけれども、むしろ、そういう補償とかといった法的な裏打ちとか、そういったものを優先して考えるべきではないかと思うんですけれども。 ○ ○○委員がおっしゃるように、確かに制度として合理的な理由があれば辞退を認める、それで憲法上は問題がない、それはそうだろうと思うんですけれども、実際に運用するとき、どうしても嫌だという裁判員を連れてきて、本当に裁判員制度の目的を達成することができるのか。投げやりにやられたのでは何もならないわけですよね。罰則とか何とかいう話も出てきましたけれども、そこは、うまく働く制度を作るという観点から、その辺を含めて検討しておかないといけない。果たして罰則までかけるのか、しかし、そうしないと、嫌な負担を嫌う人はみんな辞退してしまって、制度自体が成り立たないのではないかというおそれも出てくる。合理的な理由がない場合は、無理に出なくてもいいけれども、合理的な理由がないのに出てこない場合には、刑罰とは言わなくても、ある程度のサンクションがありますよというようなことも、あるいは考えられるのかもしれないですね。 □ 制度としては、選ばれた人が正当な理由がないのに出てこない、あるいは審理の途中まで来ていたのに出てこないために審理が流れたような場合には、それにかかった費用をその人に負担させるといった例も他の国にはありますけれども。 ○ 何らかのことは手当てはしておかないといけないと思うんですけれども、無理やり引っ張り出しても仕方がないかなと思うんです。 □ ほかの方はいかがですか。 ○ 基本的には御意見のあったところとそう変わらないと思うんですが、私も、罰則でと言ってもなかなかそれは無理があるわけですし、制度設計として立法的手当てができる範囲で考えるということでいいと思うんです。それから、今おっしゃったように、選んで出てこないということには必ずしもならない。もちろん、審理が始まって途中で来なくなってしまうということももちろんあり得ると思うんですけれども、やはり選任の当日にはかなりの数の方たちを招集して、その中から選ぶということに多分なるんでしょうから、そこに来るか来ないかということでは、現実的には最初の段階で支障がないようなやり方をする必要があるということだと思いますけれども。そこはいろいろと配慮しながら手当てをするということでいくしかない。憲法上の苦役に当たるということは私はないと思います。 □ 余計なことですが、アメリカの陪審の例などを見ていますと、質問票に答えないとか、呼び出したけども出頭しない、というのがほとんどなのですね。しかし、いったん選ばれますと、選ばれるまでのプロセスが結構大変なものですから、責任の自覚ができてきて、ずっと続けて来てくれるというのが一般的ではないかと思います。ただ、そもそも出てこないという人がかなり多いということは事実ですね。 ○ 実際見たことからしますと、それは巧妙で、それはそれでやむを得ないと思うんですが、つまり、出たくない人間はいろいろとそのとき理由を言いますし、実際に選ばれたって出てこないぞみたいなニュアンスの言い方をして、事実上排除されるということをねらう人も中にはもちろんいるわけですね。実際に私がニューヨークで見たケースなどでも明らかにそうだなというのがやはりあったりしますし、ただ、それはやむを得ないという言い方は妥当かどうか分かりませんけれども、人口は1億人いるんですから、余りそこにはこだわらないで、ともかく、立法的に手当てできる範囲で手当てしていくということでとりあえずいくのが一番合理的だろうと思いますけれども。 ○ 選挙権は国民の重要な基本的権利だとは言うもののやはり投票しない人もいる。国によっては、制裁とか罰則やらもある国もあるようですけれども、日本の場合は、特に制裁的なものは定められていないわけです。今回の裁判員制度も全くどうでもいいよというわけにいきませんから、何がしかの形は整えなければいけないんでしょうけれども、それで無理無理引っ張り出しても実際に機能はしないんでしょうから、おのずから、先ほど○○委員が言われたように、セレクションの過程で意欲のある人を選出するということになるのではないでしょうか。 ○ いわゆる司法参加というのは、沿革的に見ると、権利という発想なんですね、元々は。つまり、自分たちのことを守るために自分たちでやる、裁判権をそのために自分たちの手に取り戻すという発想があったはずなので、元々それは権利の発想です。そのことを考えると、今、ちょっと○○委員が言われたように、普通の、いわゆる苦役を課すということとはちょっと意味合いが違ってくるんだろうと思うんですね。
□ ほかに御意見はないようですし、憲法論としては一通り御意見を伺いましたので、これを念頭に置きながら、具体的な制度設計のところでまた、もう少し突っ込んで議論していただければと思います。
○ 実は、ちょっとこれは座長より、事務局及び皆様にも聞いていただきたいのですが、私、この会議にかかわらせていただいて、委員の方のお声を正確に聞こうと思うと、○○委員、○○委員あるいは○○委員の意見を聞くときには、どうしても体を乗り出さないといけないというちょっと聞けない環境にございまして、大変申し上げにくいんですが、例えば、委員の方がこういうふうに、座長さんをここにして並んでいただくと、少なくともお顔を見ながらお話が聞きやすくなるので、御検討いただけないかなと思います。 □ 声の問題ですか、それとも顔を見たいということでしょうか。 ○ 両方でございまして、やはり顔を見ながらお声を聞くとお話も理解しやすいですから。
□ 1点目は、事務局の方とも御相談しまして、物理的な限界もあるかもしれませんけれど、できるだけ、少なくとも声だけはもうちょっと聞こえやすいようにし、なるべくなら相互に顔が見えるようにするという方向で検討させていただきます。
○ 大変失礼いたしました。聞いていただいてありがとうございます。 ○ お願いが二つあります。一つは今、国民から意見を募集していますね。それでどのぐらい来ているのかまだ私ども分からないんですが、結構来ていますか。 ● 結構かどうかというのは評価にもよりますが。数はまだ10前後ぐらいです。 ○ あと2か月ありますね。本当にお忙しい中恐縮なんですけれども、せっかく寄せていただくものですので、例えば、この問題についてこういう意見があったというような形で整理して、委員に配付していただけると大変にありがたいというわがままなお願いが一つです。
● 先ほど御報告、御説明したように、意見募集の期間が終わった時点で整理して何らかの形で御報告したいとは考えております。 □ 2点目については、議論の流れというか節目というようなことも考えながら、また御相談させていただきたいと思います。
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