司法制度改革審議会

司法制度改革審議会第5回議事録

日時:平成11年10月26日(火)12:57~17:40

場所:司法制度改革審議会審議室

出席者

(委員)
佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、曽野綾子、鳥居泰彦、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本勝、吉岡初子

(説明者等)
臼井日出男法務大臣、佐伯啓思京都大学大学院人間・環境学研究科教授、庫山恆輔仙台市民オンブズマン事務局長、藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授

(事務局)
樋渡利秋事務局長

  1. 開会
  2. 法務大臣あいさつ
  3. 佐伯啓思京都大学大学院人間・環境学研究科教授からの説明
    「『市民』概念を考える」
  4. 庫山恆輔仙台市民オンブズマン事務局長からの説明
    「市民が司法に期待するもの」
  5. 藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授からの説明
    「法に頼る社会、人に頼る社会-法文化の比較」
  6. 意見交換等
  7. 閉会

【佐藤会長】 それでは、ただいまから「司法制度改革審議会」第5回会合を開催いたします。

 本日は御承知のように、先の内閣改造で、当審議会の担当大臣でもあります法務大臣に臼井日出男衆議院議員が御就任なさいました。大変お忙しいところ恐縮でございましたけれども、今日お越しいただきました。一言御挨拶を頂だいしたいと思います。

 よろしくお願いします。

【臼井法務大臣】 このたび法務大臣に就任いたしました臼井日出男でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

 会長、会長代理を始め、委員の皆様方には御多忙の中、7月の本審議会設置以来熱心に審議を行われていることに対しまして、敬意を表したいと存じます。

 本審議会の審議等につき、国会対応が必要となる場合は、法務大臣が担当するものとされております。よろしくお願いを申し上げる次第でございます。

 改めて申し上げるまでもなく、司法は近代国家の基本である法の支配を現実のものとする役割を担っており、国民の権利の実現を図るとともに、国民の基本的人権を擁護し、安全な国民生活を維持するなど、国民生活にとって極めて重要なものでございます。

 私もかねてから司法についてはいろいろな議論があると承知をいたしておりましたが、就任以来、法務省において検討が進められている数多くの懸案事項に触れ、また、これに対応する職員の奮闘ぶりを目の当たりにする中で、司法の重要性、司法に対する国民の期待の大きさというものをひしひしと感じております。

 そこで、21世紀に向け、司法の機能を社会のニーズに応え得るように改革するとともに、その充実・強化を図っていくことがまさに不可欠であると考えられますが、本審議会におかれては、このような司法制度の改革と基盤の整備についての必要な基本的施策に関し、熱心な審議が続けられているところと承知をいたしております。

 今後は各界の有識者の方々のヒアリング等を経て、具体的な審議項目の選定が行われ、来年からは各論の論議に入られる予定と伺っておりますが、広く国民的見地に立って、充実した審議が行われることを期待するとともに、法務省といたしましても、本審議会の審議には最大限協力してまいりたいと考えております。

 また、法務省では、本審議会の御審議と並行して早急に実施することが必要な施策につきましては、審議会の審議状況等も踏まえつつ、適宜・適切に実施いたしてまいりたいと考えているところでございます。

 とりわけ民事法律扶助制度の充実につきましては、来年度予算の概算要求において、民事法律扶助関係予算として約22億円を要求するとともに、次期通常国会に同制度の整備充実のための法律案の提出を予定するなど、その充実に努めてまいりたいと考えております。

 この民事法律扶助制度につきまして、次の司法制度改革審議会において御審議いただけるものと承知をいたしておりますが、このように早期にお取り上げいただけることにつき、同制度を所管いたします者といたしまして、感謝申し上げる次第でございます。

 今後とも法務大臣として、また、司法制度改革審議会の担当大臣として、その職責を十分果たしてまいりたいと考えておりますので、どうぞ各委員の今後ともの御指導をよろしくお願い申し上げる次第でございます。

 ありがとうございました。

【佐藤会長】 大臣、どうもありがとうございました。

 なお、大臣は公務の御都合で御退席なさいますが、本日はどうもお忙しいところありがとうございました。

【臼井法務大臣】 どうもありがとうございました。どうぞよろしくお願い申し上げます。(臼井法務大臣退室)

【佐藤会長】 それでは、本日は既に御案内しましたように、佐伯啓思京都大学大学院人間・環境学研究科教授、それから、庫山恆輔仙台市民オンブズマン事務局長、それから藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授の3名の方々においでいただきまして、お話をお聞きするということにいたしました。

 佐伯教授からは、「『市民』概念を考える」、庫山さんからは、「市民が司法に期待するもの」、藤倉教授からは、「法に頼る社会、人に頼る社会-法文化の比較」というタイトルでそれぞれお話しいただくことにしております。

 また、本日は意見交換等ということで、今後の論点整理に向けた審議の在り方について御相談申し上げたいと存じております。

 それでは、早速佐伯教授からお話を頂だいしたいと思いますけれども、本日のスケジュールといたしまして、まず佐伯教授から30分程度お話しいただき、その後30分程度質疑応答を行います。続きまして、庫山さんからも、同じように30分程度お話しいただいて、30分程度質疑ということを予定しております。それから、10分ほど休憩をはさみまして、藤倉教授に30分程度お話しいただいて、同じように30分程度質疑というように考えております。

 では、佐伯教授のお話を頂だいしたいと思いますけれども、簡単に御経歴を御紹介しますと、先生は昭和24年に奈良県にお生まれでございます。東京大学経済学部を御卒業されまして、同大学院経済学研究科博士課程を修了されました。その後、滋賀大学の助教授を経て、現在、京都大学大学院人間・環境学研究科教授をお務めでございます。御専門は社会思想史、社会経済学ということでございます。

 では、佐伯先生、よろしくお願いいたします。

【佐伯氏】 それでは、私から多少レポートさせていただきたいのですが、まず最初にお断りしておいた方がいいと思いますが、今、御紹介にありましたように、私は、政治学の専門家でもありませんし、法の専門家でも全くありません。ただ、西洋の社会思想に多少関心があるもので、その観点から私なりに市民とか市民社会とか、あるいは近代社会とかいうふうなことについて多少お話しさせていただきたいと思います。

 我々、社会科学をやっている者にとりましては、近代の市民社会というのは非常に重要なキーワードになっているわけです。ところが、近代市民社会というのは一体何なのかということになりますと、余りきちっとした議論がなされている状況とは言えません。人によって随分使い方が違いますし、多少、我田引水的な使われ方をするときもあります。我田引水的なというのは、言いたいことが先にあって、それにうまく合わせる形で市民という観念を持ってきたり、市民社会という観念を持ってきたりという使われ方がするときもあるように感じられるということです。

 私の関心は、現代日本の我々が何となく漠然と考えている市民とか市民社会という観念と、多分、西洋人が考えているものとの間にかなりギャップがあるんじゃないかということです。つまり、西洋の思想史なり西洋の歴史と日本の市民なり市民観念が入ってきた歴史の間にギャップがあって、このギャップをどういうふうに理解したらいいのかということです。

 我々、戦後の日本人が、特に日本の社会科学者が市民とか市民社会と言ったときには、漠然と次のような了解があるように思うのです。

 それは、市民というのは、私から出発すると。私の利益とか私の権利から出発する。その私の権利とか私の利益に対して非常に敏感で、そのことに対して極めて意識的であるような存在、そういうものをまず市民というふうに考える。

 そうすると、こういう市民というものは、多くの場合、いわゆる国家権力と対立すると考えられがちです。市民運動がいつも国家権力と対立しているというのはちょっと言い過ぎなのですが、例えば市民運動というのは国家権力と対立するものだという傾きがどうしても出てきてしまいます。

 そうしますと、例えば市民こそが民主主義をつくるんだというように言う。このとき、民主主義の担い手は市民であるといったときには、民主主義と国家というものがどうしても対立的にとらえられがちである。私は市民運動は個人的には余り知りません。しかし、戦後の日本の、少なくとも社会科学においては、かなり漠然と共通に持たれている理解だろうと思います。

 そのことが、ここで今間違っているとか何とかということを言っているのではないのです。そのことのうちに幾つかの問題というか、特徴があるだろうということです。

 一つは、国家というものを、言わば上から我々に対して何かを命令すると言いますか、あるいは何かを要請してくるような権力機関だととらえる。そういうふうな前提がそこにはある。

 それから、更に国家権力と市民が対立すると言ったときには、国家権力が市民の自由を制限してくる。したがって、市民は国家権力に対抗する形で私の自由を拡大する存在である。その個人の自由が拡大していくことが歴史の進歩である。したがって、市民観念が成立して、市民が自由を拡大することは歴史の進歩である。こういうふうな観念がそこに付属してくる。これは我々の戦後持っている市民とか市民社会という観念の一つの特徴だろうと思います。

 さて、果たして、そういう市民社会概念図式によって、現代の我々の問題を理解していいのかどうかというのが私の関心で、一般論として言えば、現代の日本の様々な問題、もちろん、政治制度の問題がありますし、経済が市場化していないという問題もありますし、教育の問題ですね。高校生がモラルが欠如しているとか、様々な問題があります。そういう日本の現在の様々な問題を理解する場合に、とりあえずどういうふうに考えればいいかということです。

 今、お話ししました市民とか市民社会とかいう観念を前提にすれば、一つの考え方は、現在の日本では、まだ、個人の自由とか民主主義とか、つまり市民意識というものが成熟していない。むしろ欠如している。その結果として、日本の政治は、体裁は民主主義ですけれども、事実上は民主主義になっていないとか、官僚が事実上政治を動かしている、あるいは、市場経済が未発達で、事実上、日本には自由競争市場はないという話が出てくるわけです。

 私の印象では、現在のこの10年くらいの日本の改革論というのは、基本的に、今、言ったような考え方をベースに置いているのだろうと思います。

 ところが、もう一つ、別の考え方があるんじゃないかという気もするのです。それは、もしも、今、お話ししましたような民主主義や市民社会という理解が、仮にその理解が一面的であるとすれば、現代の日本の問題も少し違う角度から論じることができるだろう。

 端的に言ってしまいますと、むしろ、日本的な意味での個人の自由や、あるいは日本的な民主主義というものは実現している。競争という意味でも、アメリカでの意味での市場競争とは違いますけれども、日本の企業は決して競争していないわけではなくて、随分、競争しているわけです。過当競争という言葉もあるくらいです。ですから、日本的な意味での経済競争はやっているわけです。それが西洋のものとはちょっと違うかもしれない。

 それと同じような意味で、日本的な、ある意味での個人の自由とか民主主義は、実はあり余るくらいあって、しかし、その使い方がうまくないと言いますか、そのベースにあるべき何か民主主義というものをうまく機能させるような精神的なもの、あるいは個人の自由というものを生きた形で実現するような何か精神的なもの、とりあえずマックス・ウェーバーの言葉を借りてエートスと言っておきますと、そのエートスというものが欠如している。そこが問題だというふうにとらえる。そういう二つの理解の仕方が出てくるのだろうと思うのです。

 私は、個人的にはどちらかと言えば、このレジュメの(1)の方が問題ではないというつもりは毛頭ありませんが、(2)の方が、私個人の関心でもありますし、個人的には(2)の方の問題の方が、今の日本の切実な問題ではないかという気がしております。

 そこで、西洋における市民とか市民概念というのは一体何なのかということを、私なりにスケッチしておきますと、多分こういうふうなことになるのではないかと思います。

 先ほど言いましたように、国家を権力機構と考えて、その国家イコール権力機構に対して、個人の自由を開放して、民主主義的な制度をつくっていく。個人の基本的な権利というところから出発する。そういうふうな私というものをベースにして、市民というものを考える。これは、いわゆる近代的市民観念、近代的市民社会というもので、西洋で成立したと言われており、西洋は市民革命を経てこういうものをつくったと言われている。確かにそういうものがあることは認めますが、そうすると、幾つか問題が出てくると思うのです。

 西洋においては、あれほど強い個人主義の意識が存在していると同時にある種の国家意識というものが非常に強く存在している。あるいは自分の住んでいる共同体なり地域なり、更に国家、そういうものに対する感情的なアタッチメントも含め愛国心や愛郷心も非常に強い。個人主義的な個人意識が非常に強いのと同時に、そういう国家なり共同体に対する意識が非常に強い。この二つのものはどういう形で両立しているのか。もちろん、私という個人の権利という意識は非常に強いですけれども、同時にパブリックなもの、公共的なものに対する感覚も非常に西洋社会では強いのです。こういうことは一体どうして出てくるのか。そのことはやはり説明を要することだろうと思うのです。

 その場合にとりあえずこういうふうに考えてみたいと思います。

 よく言われますが、西洋社会の精神的な源泉として、一つはキリスト教文化、あるいはキリスト教的精神。もう一つは、古代ギリシア、古代ローマ的な精神。そういうふうなものがあるだろうということはよく指摘されます。恐らくそれが何らかの形で現代の西洋の市民なり市民社会にも反映しているだろうと私は考えてみたい。

 キリスト教の方で言えば、例のマックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という極めて有名な本の中で、西洋の資本主義を生み出したものはプロテスタンティズムの倫理だったと。特にカルバン派の倫理だったと、そういうふうな理論を展開しています。

 あそこでマックス・ウェーバーは余りきちんと書いていないのですが、あの議論の中で隠されているもう一つの面があります。それはどういうことかというと、こういうことです。

 ウェーバーはプロテスタンティズムの倫理が非常に強い個人の内面というものをつくっている。つまり、プロテスタンティズムというのはカトリックと違って、個人が神と直接対面するわけです。教会だとか牧師さんだとか司祭制度を媒介にしないで、個人が、直接、聖書を通して神と対面している。したがって、神は個人の世俗的日常生活全体を常に監視している。個人の側から言えば、個人の日常生活は常に神によって監視されている。したがって、日常生活の中に非常に強い倫理が生まれてくる。これがマックス・ウェーバーの理論です。

 こういう形で個人の中に極めて強い内面的な倫理というものが形成される。この個人というのは、この限りでは、社会とか共同体からは切り離されているわけです。あくまでも神との対話と言いますか、神との対面において個人というものが定義されているわけです。

 そういう人間が神との対面において定義されている。ではこのような自立した強い内面性を持った個人が、どういう形で一つの共同体社会をつくるかというと、これは契約によるのです。何らかの利益的に結び付いた人たちが一つの契約を行って、それで一つの社会をつくる。少なくとも社会というものをそのように解釈しようとする。そこから近代の社会契約論のような発想も出てくるわけです。

 そうしますと、今の神との関係で定義された個人は、確固とした内面生活を持っている。これはプライベートな領域です。しかし、一度契約を行ってほかの人たちと合意の上で一つの社会を形成した場合には、その社会の場というのはパブリックなものなのです。そういう観念がある。

 こういう形で近代国家、あるいは近代社会をつくり出した社会契約論、あるいは広い意味で契約論的な社会の考え方。そういう社会と個人との関係。それから個人イコール、プライベートな存在で、個人が社会に出た場合にはすぐパブリックな存在になる。契約によって社会をつくっていますから、個人はその社会に対して何か契約義務を果たさなければならない。そのような義務を果たすと同時に利益を受けているという関係です。

 こういう関係は、恐らく、今、言ったようなキリスト教的な文化、特にプロテスタント的な文化的背景の下で理解できると思われます。ウェーバーは、正面から書いていませんが、あのウェーバーの理論のもう一つの論点はそういうことだろうと思います。

 ところで、実際に西洋で近代社会ができた場合に、一つの契機は、今、言ったようなプロテスタント的な精神を母体としているということ。

 もう一つは、こういうふうにでき上がった社会というものを西洋人たちは、古典・古代的な概念で再解釈した。つまり、古代的なポリスの考え方をもう一度そこに再発見と言いますか、ポリス的なものを再構築するという形で近代社会を理解したということです。

 これは、学者で言えばハンナ・アレントという人がアメリカについてそういうふうな議論をしていますけれども、古代・古典的なポリス観念が近代社会にもう一度植え付けられた。そこで古代的なものをもう一度近代に合わせた形で復興させようとした。そこに近代社会がある。

 古典・古代的なポリスにおける市民というのは、まずどういう存在かと言いますと、古典・古代のポリスは一つの共和主義です。共和主義というのはレス・プブリカという言葉からも分かるように、公的なるものを中心にして政治領域が構成されている。人々はそういう公的なものに参与して、政治的なアクションに参加する。そのことによって市民となる。あるいはそういうことができるのが市民である。これは権利であり同時に義務です。政治的なものに対する参加、それから公的なるものに対する参与、公的なるものに対してある責任を負うということです。

 かなり強固な場合には、古代ギリシアのポリスの場合には兵役義務が非常に重要なものとしてあって、したがって、兵士であるということが市民の非常に重要な要件でした。

 もちろん、古代ギリシアのポリスも奴隷社会、身分社会ですから、しかも市民身分というのは限定されています。大体、最盛期のアテネでも市民であったのは全人口の3分の1くらいです。ですから、市民であるということは、ある意味では特権階級なのです。世襲的だという意味は、出自によって決まってきます。たまたま例外的なものもありますけれども、そういうふうに固定された身分概念であったということです。

 もちろん、近代社会はそんな身分概念をそのまま、出自によって云々というものを取り入れたわけではありませんが、近代ヨーロッパでも、市民というのは、やはり、幾分、特権的な階級を指す観念であったことは間違いない。それは、市民というのは、例えばブルジョアという言葉と対応しているわけですから、それなりに財産を持っていて、それなりの仕事をしており、それで多くの場合にはプロテスタント的な倫理に支えられているという、かなり強い特権意識、選良意識を持った人たち。こういう人たちが市民というものを構成していったわけです。それがだんだんと概念が拡散していって、拡大適用されていくことは事実です。しかし、元をたどれば、市民概念というのは、一つは、ある身分概念であり、多少特権的な身分的なものを含んだ意識であったと理解できるんじゃないかと思うのです。

 もう一つは、今、お話ししましたように、むしろ西洋における市民は公的なるものを非常に重要だと考える。プライベートな領域、私の領域というのは、私の日常生活の中の話で、あるいは家の中の話で、これは市民でも何でもない。そういうふうなことになっているだろうと思います。

 すなわち、一方でキリスト教的文化によって、あるエートスを注入され、他方で古典・古代的なポリスの市民精神をもう一度再解釈し、その二つのベースの上に、近代的な市民社会というものは構成された。

 ですから、西洋の人たちと話しても、人によって、例えば何人かの人に私は市民とは一体どういう意味だということを聞いたりしましたけれども、彼らもうまく答えられないのです。余りきちっとした答えは出てきません。ある者は我々と同じようにプライベートな権利を持っている者だと言ってみたり、ある者は国家から干渉を受けない者だと言ってみたり、ある者は、いや、そうじゃなくて非常に強い国家意識を持っているんだと。つまり自分たちの場所を、あるいは町でも構いません。都市でも構いません。そういうものを自分たちで守ろうとする人たち。あるいは政治に参加する人たち。そういうふうなことを言ってみたり、余り一義的ではないです。それは西洋の市民観念そのものの中に二つか三つくらいの構造が入り込んでいるからで、余り単純な概念ではないだろうと思います。

 ここで私が言いたかったことは、要するに、市民とか市民社会、あるいは近代社会というものを考える場合に、特に社会科学者は最初に言いましたように、私から出発して私、プライベートな個人というのは、私的な権利の主体である。この私的な権利、とりわけ基本的な人権というものは普遍的に与えられているんだと。だれがどういうふうに与えたのかよく分かりませんが、とにかく与えられているんだと。そこから出発しようということになっているわけです。

 つまり、個人はそういうプライベートな権利をベースにして自分の利益を追求する。その利益は対立するし、権利も対立する。対立した場合には、それが経済的な場合には、マーケットで調整するし、それからもう少し日常的なものに関しては、訴訟なり法によって調整する。こういうふうにやっていくのが近代社会だというのが、私などが従来考えてきた社会科学的な理解なのです。それが間違っているわけではないけれども、それを機能させる、先ほどから言っている、ヨーロッパならヨーロッパの伝統に基づいたエートスというものがある。その部分は、ヨーロッパの人たちにとってほとんど当たり前の前提になっていますから、彼らは一々口に出してしゃべりませんけれども、しっかりしたエートスが前提になっていて、その上で先ほどお話ししましたような近代的な個人意識とか人権とか市場とか民主主義とか、そういうものが機能していくという印象が強いのです。

 問題はやはりその潜在的な部分ですね。制度改革は制度改革で私は必要だろうと思います。では、どういうふうに制度改革したらいいのかということについて私はアイデアもないので、そちらの話はしませんが、問題なのは制度改革云々と同時に、我々の社会が持っているエートスというものをどういう形で理解したらいいか、どういう形で引き出せばいいか。そこが問題だろうと思います。

 いずれにしても、社会的なエートスというものは、その社会によってしか定義できないのです。あるいはよそから借りてくるというわけにいかない。日本は、基本的に、明治以降、西洋的なものを借りてきて、あるいは西洋的なものを学習して、それを日本に植え付ける。植え付ける場合に、相当、日本化して植え付ける、そういうことをずっとやってきたわけです。ですから、日本の中にある様々な西洋から借りてきた観念というのは、西洋的なものとも違うし、かといって日本の伝統的なものとも違う。何か奇妙なブレンド状態ができているということだろうと思います。それについてのきちっとした説明なり、我々が自信を持って、これでいいんだという観念、少なくともそういう自信というのがそこに持てていない状態だと思うのです。

 一般的に言えば、人間関係を構成しているものは、一つは、法的なルール、もう一つは、社会的な信頼関係です。その二つの次元が必ずある。法的なものは、あらゆることを調整できるわけじゃない。少なくとも日本の場合には、法的なものに訴えるよりも、できるだけ社会的な信頼関係によって調整してきた。これは中国でもそのようですけれども、その面が強いのです。

 信頼関係で調整するときには、背後にお互いに共通しているような価値観、エートスなどが必要なのです。

 確かに、我々は一体どういうエートスを我々のものだと打ち立てればいいかというと、明瞭に述べることはできないし、そもそもそうした種類のことではない。ただ、私がここでお話ししたかったのは、西洋の場合には、西洋の文脈の中でつくられてきた、あるいは再び発掘されたり、伝統的に受け継がれてきたものの中から非常に強い個人意識と、それから社会、あるいは国家についての意識、その二つの対立するものが同時に出てくる。そこにプライベート、パブリックという二つの領域が整然と区分された形で出てくる。そういうふうな構図をとっている。ですから、そのことだけを日本に持ってこようとしても、それは無理だろうと。

 個人の自立ということが言われますが、西洋と同じ意味でそれを持ってこようとしても、それは無理だろうと私は思います。ただ、日本の中に何かそれに対応するような意識がなかったのかというと、そんなことはないと思うのです。ここから先はよく分からない話だし、それぞれ人によって考えていることが違ってきますので、もう話はしませんけれども、日本の中に西洋の市民意識に対応するようなものがなかったわけではないだろうという気がするのです。先ほど申しました古典的なポリスの市民意識に対応するものがなかったわけではないだろうという気がするのです。今はそれは非常に薄れてきていて、そのことを議論すること自体が難しくなっている状況ですが、その辺りに問題があるだろうというのが私の考えです。

 役に立つような話なのかどうかよく分かりませんが、一応、私の報告にさせていただきます。

【佐藤会長】 どうもありがとうございました。

 私の専門は憲法学ですが、日本国憲法13条には、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」というように、幸福追求権が規定してあるのですけれども、日本の従来の発想は、私的な幸福ということのみで説明してきました。私は、私的幸福は非常に重要だけれども、公的幸福というものも含まれているのだと主張したのですけれども、余り評判がよくありませんでした。先ほどのお話を伺いながら、いろんなことを学ばせていただきました。大変興味深いお話ありがとうございました。

 どうぞ御質問いただければと思います。

【鳥居委員】 途中から参りましてすみせん。二つ質問があるのです。

 一つは、先生のお話を伺いながら是非教えていただきたいのは、11世紀から12世紀にかけて今日の大学の原形の大学がイタリアのボローニャやフランスのシャルトルにできあがったころの歴史を見ますと、基本的な学部は4学部なのです。第1が神学。第2がアーツ、今日のリベラル・アーツに近いものです。3番目が法律。4番目が医学です。初期の大学の基本はこの4学部なのです。何で神学、アーツ、法律、医学なのか。特に法律が基本の学問として最初から組み込まれた理由をどういうふうに解釈したらいいのか。もし何か先生に御意見があったら伺いたいのです。

【佐伯氏】 私は、専門家でも何でもないですから、答えるべき立場に本当はないのですけれども、やはり神学から分かれた形で自然法というものをベースにして、法というものに対する観念というのは非常に強かったような印象は私にはあります。

【鳥居委員】 次に、キリスト教のエートスでもない、ギリシアのそれでもない、日本の何かとおっしゃいましたが、具体的に先生は何か考えておられますか。

 例えば、山岡鉄舟は明治20年に、武士道についての講義録を残していますが、彼によると、日本人の個人の価値観と社会的使命感の両方の価値の根源は、神道と儒教と仏教を一体としたものだということを言っています。それから、新渡戸稲造が『武士道』という本を書いたのは、彼はアメリカ人の奥さんから、「学校でキリスト教を教えない日本人のあなたが何でこんなに立派なのか」という質問を受けて、日本人はこういう価値観を持っているということを、説明しようとしたのです。戦後、形成された日本人の価値観はアメリカから輸入したものですが、いつの間にか、戦後50年以上経ちました。山岡鉄舟や新渡戸稲造のいう日本人の精神が欠落したと考えるべきでしょうか。先生、何かお考えがありますか。

【佐伯氏】 私個人は、今おっしゃったように、多分、新渡戸さんの言うような意味での武士道というのが日本人の精神的なものの核になっているんだということは個人的には思っております。

 それは、山岡鉄舟のところでお話しになったのですが、新渡戸さんの場合にも、武士道というのは決して正面から論じられるようなものではなく、そこに仏教の無常観のようなものも入っているし、神道的なものも入っているし、何か儒教的な日常倫理も入っているし、そういうものがミックスチャーになっていて、日常の生活作法、生活様式、人間関係をうまくやっていくための知恵のようなものだと、そういうようなことを書いていたと思います。そういう意味での武士道というものは、やはり核になって、今でもどこかで核になっているはずだという気が私はしております。

 最初の法の話は、ヨーロッパは一つは中世から来る自然法の観念と、それからローマ法というものがミックスされて近代的な法になっていくわけですけれども、例えばアダム・スミスのような人でも法律について講義をやったりしている。面白いのは、法の背後に法というものが出てくる人間の道徳的背景、ヒューマン・ネーチャー、人間性みたいなものがどこにあるのか、そういう議論なのです。そこでは私の話と同じように、一方で形式的な法の話があり、しかし、形式的な法の背後に道徳感情という少し潜在的な目に見えない部分がある。その二つをどうやって結び付けるかというのが、少なくとも西洋の、よく道徳哲学者と言われますが、モラル・フィロソファーと言われる人たちの関心で、それ自体が一つの学問になっていたということもちょっと付け足しておきたいという気がします。

【佐藤会長】 先ほど鳥居委員がおっしゃった、戦後入ってきたアメリカ的なるものは、日本の社会にどういうように受け止められ、どういう姿として今あるのか、評価すべきものはあるのか、その辺についてちょっとお聞かせ願えればと思うのです。

【佐伯氏】 直接のお答えになるのかどうか分かりせんが、アメリカという国はかなり特異な国だという気が私はするのです。

 というのは、例えばアメリカというのは、よく言われますが、理念で成り立っている国である。自由とか民主主義とか、人間の基本的権利とか、そういうふうなものを国の柱にして、まさにそれによって国家統合をやっている国です。こういう種類の国というのはちょっと類を見ないです。アメリカ人にアメリカ人であることは一体どういうことだというふうに聞けば、大体すぐ答えが返ってきます。それはアメリカン・デモクラシー、それから個人の自由、そういうふうなものを守る意思のある者はみんなアメリカ人になれるんだと。こんなふうな答えが割とすぐ返ってきます。こんな答えが返ってくる国というのはほかにないだろうと思うのです。

 アメリカ人はそういうふうな観念は普遍的だというふうに考えている。普遍的だという意味は、世界中に多分広げることができるし、広げる使命を自分たちは持っているというふうに考えている。そういう点でも極めて特異な国だと思います。

 戦後の日本は、アメリカ的な理念をほとんど全面的に妥当なものだと受け入れようとした。ただ、先ほど言いましたように、実はこういう理念の背景には、ヨーロッパが生み出したキリスト教的な伝統とか古典・古代的なものがあったはずなのですが、アメリカは、今、お話ししたような理念で国を統合したときには、その背景にある部分は一応遮断してしまったわけです。少なくとも見えない形です。抽象的な理念として、デモクラシーとか基本的人権は世界に普遍化できると。我々はその部分だけを取り入れてしまったから、非常に奇妙な取り入れ方をしたという印象がどうしても強いのです。例えば民主主義とか自由ということを我々が言った場合に、価値というものがみんな主観的に定義できます。つまり、社会的に共通に持っている客観的な価値というものは存在しない。何が良くて何が悪いかということは、それは個人がみんな主観的に決めることができる。それが自由とか民主主義の意味だと我々は考えた節がかなり強いと思います。どういうことをやりたい、Aという人は国家が大事だと考える。Bという人は、自分の住んでいる町が大事だと考える。Cという人は、家族が大事だと考える。Dという人は個人が大事だと考える。これは全部個人の勝手であると。これは別に社会的に共有されるべきものは何もない。国家が大事だと思う人は国家活動すればいいし、家族が大事だと思う人は専ら家族のために働けばいい。こういうふうな形で自由とか民主主義を受け止めたと思うのです。

 それはちょっと違うだろうと思います。先ほど言いましたように、西洋の場合には、ベースになっている、何が大事で何が余り大事でないか、こういうことは正しい、こういうことは余り適当でないということについての、ある共有された価値の体系があって、そこは簡単に揺るがない。その前提の下で、個人の自由とか民主主義という話になる。そこが、随分、アメリカの影響で-アメリカの影響というのはアメリカが悪いわけではないと思いますが-何となく我々はアメリカの理念の普遍性みたいなものを受け入れることによって、随分失敗したと私は思います。

 戦後日本のアメリカからの影響のもう一つの面は、やはり物質的な幸福と言いますか、そういう一種の消費文化だと思います。これは後戻りすることのできないところまで入り込んでしまっていて、現代のコンビニエント的な消費文化というもの、これは簡単には逆転することはできない。そういうものは良いか悪いかよく分かりません。良い部分もあるし、悪い部分もあると思うのですが、それはそれで使いこなしていくというふうに考える以外にないだろうなと思います。

【曽野委員】 私は、日本人でしかないわけですから、日本の社会と日本人である私がどのように法を考えるかということを教えていただき、かつ、ときどき自分で考えていこうと思って座っているわけでございますけれども、私は19日にアフリカから帰ってきたのです。コンゴ、チャド、カメルーン、エチオピア、マリという国を歩いてまいりました。そこには簡単に言うと危ないのですけれども、アフリカには非常に他というものがない。そうとしか思えないのです。

 例えばほんの一例だけ申し上げますと、チャドという国に入ったのは、私は2度目なのですけれども、毎回飛行機をチャーターしないと350キロ奥に入れないわけです。そこに日本人のシスターがいらっしゃいますので。最初に入りましたときに私は救援をする人たちのためにだけ提供されている非常に安い飛行機をチャーターしました。出発の時のことです。チャーターしたセスナ機の脇に、ガソリン車がまいりました。ガソリン車にゴムぞうりを履いたぼろぼろの服を着た男が乗っておりまして、その人がまず何をしたかというと、ビーカーにガソリンを取って捧げるわけです。それはパイロット自身に、これが本当にガソリンかどうか確かめさせるためです。

 その次に飛行機に入れるガソリンはパイロット自身が入れなきゃいけない。それはなぜかというと、満タンにしたと言っても入れないのです。つまり、それらは、もしこれがガソリンでなくて水だったら、もし満タンでなかったら、この飛行機は落ちるであろうということを考えていないということです。そういう社会には、つまり、民主主義というものなんかあり得ません。私がいつも考えていることですが、電気のないところには民主主義はないのです。

 そういたしますと、彼らがやっているのは部族支配でございまして、個人のチョイスというのは全くなくて、部族の考え方、イコール彼の考え方として生きるほかはないだろうと思います。私は、それはそれとして認めたいと思います。

 そういう膨大な地域が、少なくともアフリカ大陸のどこかと、それからそのちょっと上の段階ですが、南米の多くの土地に広範に広がっているということに対して、我々はどう考えたらいいのか。そこまで考えますと辛くなるので、それから先は考えないんでございますけれども、その辺をいつか先生に教えていただきたい。

【佐伯氏】 今の話との関連でよく思いますのは、西洋は、他人に対する、あるいはシステムに対する不信感が非常に強いのです。例えばフランスでも、ちょっと大きなお金を出したら、簡単に受け取らないで、こうやってじっと見ていますね。イギリスでさえもそうですね。イタリアなどは、大体おつりはちゃんとくれないのは当たり前だというところがあります。そういう意味での不信感というのは非常に強いという気がするのです。

 逆に言えば、日本はどういうんでしょうか。日本の場合には、ある意味では非常に甘いと言いますか、何か人をそのまま信頼してしまうようなところがあって、必ずおつりはちゃんとくれているだろうと思って全然おつりを数えたりしません。良かれ悪しかれ、信頼というものが秩序のベースになっている。

 私はひょっとしたら法律についての強い意識というのは、人に対する不信感がある程度ないと出てこないのかなという気もするのです。逆にそういう不信感が非常に強いから、利害の調整は完全に中立的な法でやらないと駄目だという話になってしまう。我々はいろいろなものを、ありのままに信頼してしまうようなところがあるから、先ほどの社会的信頼がちょっと行き過ぎてしまうぐらいありますから、逆にそういうところでいろんな話が付いてしまって、法というところにいかない。

 しかし、それはそれで、それも日本の一つの文化だと考えないとしようがない。良かれ悪しかれ、それが日本の文化だと思うのです。

【山本委員】 これからの日本的社会というのは、経済のグローバル化はきちんとした対応をしなきゃいけない。これは幸か不幸か、アメリカ的な資本主義のやり方というのは、世界の共通的なものになっているわけで、これに対応できる社会の構築というのはもっと大事だと思うのです。

 さはさりながら、先生がおっしゃった日本的なエートス、今、お話に出たように、信頼感というのはあると思うのです。日本的な信頼感、それは逆の見方をすると、もたれ合いみたいになって、相互のもたれ合い社会になり過ぎているんじゃないかという批判が出ると思うのですけれども、その辺のいい面を伸ばし、かつ助長しながら、必要な改革をしていくというのが現実的なのかなという感じが私などは特にしているわけです。これからの社会は信頼というのがうんと大事な資源になっていくということも何か書かれているのを読んだことがありますけれども、先生はどんなふうにお考えになりますか。

【佐伯氏】 私も大体似たような感じを持っております。まず、グローバル市場とよく言われるものは、実際には余り実態はないと思うのです。アメリカの経済の構造、ヨーロッパでもイギリス、フランス、ドイツ。イタリア、スペインまで来ると随分違います。アジアは中国でも違うし、マレーシアは独特だし、インドネシアもまだ混乱している。ですから、マーケットといったって、グローバルに共通のマーケットが世界中にできているわけでは全然ないのです。

 抽象的な意味での公正なマーケットは、先ほど言いましたように、それ自体がアメリカ的なもので、アメリカはそれを一つの理念にしている。そこで始めて自立した個人の自由な競争が行われるというのがアメリカの理念ですから、そういう考え方でアメリカは世界のマーケットを解釈しようとしている。それはアメリカの考え方であって、現実にできているマーケットというのはそんなものじゃないと私は考えます。

 日本について言いますと、もちろん、世界の経済がどんどん一体化する。資本の動きが情報化に乗って非常に早くなってくる。このことは間違いないことです。ですから、いわゆるグローバライゼーションみたいなものが徐々に進行していることも間違いない。

 例えば日本の中で、経済でも我々の生活でもみんなそうだと思いますけれども、どの部分はグローバライゼーションに対して適応していく。つまり、グローバル・スタンダードでやっていく。どの部分はそうじゃない。どの部分はもっとローカルな地域に根差していくか。そういうふうなことをかなり区分して考えていかないと駄目だと思うのです。それを全部一緒くたにしてグローバル・スタンダードであるとか、市場の自由競争に任せようというふうに、全部一つの話にしてしまうのは、間違っていると思います。

 ですから、一方でそういうグローバル・スタンダードに適応して、グローバルな形でやっていかないと駄目な部分はある。その部分はそういう形で改革していかなければならない。しかし、同時にその逆で、むしろグローバルなものからできるだけ距離を置いて、ローカルな生活空間みたいなものに密着したところで経済をつくっていく。そういう部分ももっと必要になってくると思うのです。そういう部分を逆に今度はうまく守らないと、そういう部分が、例えばグローバルな外国から来た資本や規制緩和の動きによってほとんど破壊されてしまうということだってあり得るわけです。そうだとすると、そういう部分は逆に規制を強化するなり、地方自治体に大きな権限を与えて、何らかの形で保護していったり規制していったりする。そういう部分も必要である。つまり市場経済を幾つかのレベルに分けて考えないと駄目だというふうに私は思います。

【中坊委員】 今、おっしゃるように、日本人としては、信頼関係というものが一つの大きな事実として、日本社会そのものを構築してきた。そのとおりだと思うのですけれども、ただ、お上(かみ)というものに対しての関係において、やはりお上(かみ)依存というか、自分自身が考えないで、私、それを自分では観客民主主義だと言っているんですけれども、いつも批評したりするということはしても、自分が当事者として物を考えるということが、日本国ではやや乏しいのではなかろうかと思うんですけれども、そういう物の考え方はいかがでしょうか。

【佐伯氏】 先ほどの公という意識が、西洋の場合には、非常に強い内面を持った個人というものがいて、そういう人たちが集まってそれで公的空間をつくったという話をしましたが、日本の場合にはどうもそういうふうになっていないので、日本人の場合には、多くの場合には公というものはお上(かみ)なのです。上にあるのが公的なもので、そこに従っておけばそれでいいやという話。下の方は下の方で、私で勝手に楽しんでおればいいという話になってしまっております。ただ、本当にそういうことが日本の社会構造なり文化的なものの中で、がんじがらめにそういう構造ができ上がってしまっているのか、そうでないのかというのは私にはよく分かりません。

 ただ、人によっては、例えば徳川幕府の末期に、人々は最初は徳川幕府がお上(かみ)だと考えていたけれども、どうもそうじゃないと。徳川幕府も一つのプライベートな、つまり統治を委託されている一つのプライベート・セクターにすぎないわけで、実際の公というのは国であると。だから、黒船が来たり、外国が押し寄せてきたときに、そこで公は国であって、公は自分たちで守らなければならないという非常に強い意識を下級の武士たちは持って、それが明治維新につながったということを言う人は割といらっしゃいます。

 もしそういう説も正しいとすれば、公はお上(かみ)であるというふうにだけ考えてきたわけでもないだろうという気もするのです。しかし、私もよく分かりません。

【藤田委員】 政治的、社会的、法的な制度の改革ということを考えるときには、その社会の根底にあるエートスとのマッチングというのを考えなければいけないということになるんでしょうか。

【佐伯氏】 大体そういう趣旨です。

【竹下会長代理】 先ほど山本委員がお聞きになられたことと同じことになるのかもしれませんが、グローバル・スタンダードであるかどうかは別として、現在、私ども法律家の世界では第3の法整備期と言われて、明治の初年にたくさん法律がつくられた。それから第二次大戦後新しい理念の下にいろいろな法律がつくられた。現在、また非常にたくさんの法律が、新しい社会状況に対応するためにつくられているわけです。これは現実としてそうなっている。そうすると、我々、これから社会を統制していくということを考えた場合には、そういった法のルールに頼らざるを得ないという面があるわけなのですが、そのことと、今日、お話しの日本社会固有のエートスというものを重視していくべきだというお考えとがどう調和するのか。あるいはそういうお考えから見ると、現代の日本の新しい、しかもかなりいろいろ難しい複雑な法律ができている状況というのは、どう評価されることになるのでしょうか。ちょっとお聞かせいただきたいと思います。

【佐伯氏】 社会がどんどん複雑になって、利益関係が入り組んで云々ということになってくる。そうすると、もちろん、法はそれに対応する形で法の方も複雑化していくし、法というのはいろんな個別のケースではなくて、個別ケースを一度一般化するわけですが、その一般化の仕方がかなり難しくなってくるという問題はあると思います。

 私は、社会がこうやって複雑になって、人間の活動が多様になればなるほど、もちろん、一方で法的なものに頼る必要というのはあるのですが、他方では法化できない、法にならない部分をどうするかということは極めて大事になってくると思うのです。

 ですから、一般的にルールと言った場合には法的なルール、それから行政指導的なもの、それから慣習的なもの、大体その三つくらいに分けられると思うのです。それをどこかに持ってくるのではなくて、どういう部分は法でできる。しかし、それは法でできるのはせいぜいこの範囲である。ある部分は行政に任せる。行政指導でやる。行政指導は最近評判が悪いですけれども、行政指導というのは、うまく使えば決して悪いことではないと思う。こういう部分は行政がやる。こういう部分はもっと慣習的にやっている、先ほどの人間関係とかいうところで自然にやっているものをうまく使う。そこの色分けと言いますか、区分と言いますか、もちろん、具体的なケースで全部違いますけれども、いろんなケースにおいて、その三つのレベルをうまく組み合わせていくという発想でやっていかないとうまくいかないんじゃないかという気はいたします。

【佐藤会長】 今日、公的なものの重要性ということをおっしゃったように思うのです。そして、西洋には古典古代以来のそういうものがあると。けれども、同時に、社会契約説について言及されました。確かに、西洋における公というものは相当人為的に苦労してつくり出したところがありますね。日本においてこれから公というものも真剣に考えないといけないというとき、日本における公というものをどういう方法、手段によってつくり出したらいいとお考えでしょうか。

【佐伯氏】 それは強引かつ端的に言ってしまうと、今の日本では国家意識というものをベースにする以外にないだろうと思うのです。戦後の日本は戦前の反動で国家について議論したり、国家意識について議論することはほとんどタブーのような形になってしまって、国家意識というと調子が悪いのですけれども、今こういうグローバルな時代にこそ、一種のナショナル・アイデンティティーと言いましょうか、そういうものについての自覚は必要になってくると思うのです。

 したがって、そこはかなりオープンに議論していって、日本の持っているアイデンティティーを、アメリカやイギリスやらアジアとはちょっと区別した形で、しかもオープンな形で、彼らも分かってくれるような形で表現するには一体どうなればいいのか。それは国家意識の問題だと思います。そういう意味での国家意識について論じる以外にない。オルテガが言っていることですが、国家とはここに固定されてあるものじゃなく、常に変わっていくもので、どういうふうな方向に変わるかというのは、それは我々がつくっていくものだと。国民がと言いますか、人民がと言いますか、人々がつくっていくものです。だから、日本をどういう国家にしていくのか。高度産業国家にするのか、それとも平和な静かな国家にするのか、外に開いた住みやすい田園国家にするのか、そういうことについて何らかの形でオープンな議論をしていく。そこで初めて国家というものをベースにして、公というものの意識が出てくるんじゃないかと思うのです。

【水原委員】 私にとりましては大変力強いお話を伺いました。私は、元、検事をやっておりました。刑事事件を通じて世の中の動きを見てみますと、この法律の目的はということで、刑事訴訟法には個と全の調和の下に、すなわち公共の福祉の維持と基本的人権の保障を全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を迅速かつ的確に実現するということを目的に書いておるのですけれども、刑事事件について論じられることは、公共の福祉ということはまず第2に考えられて、基本的人権ということが常に言われる。その基本的人権も、被疑者、被告人の人権はうんと言われるけれども、被害者、一般国民の人権というものは余り議論されない。私は常にパラレルに物を考えていかなければいけない。しかし、先生のお話を伺ってみますと、基本的には国家意識をどういうふうに考えるかということが先だということでございましたので、そういうお考えがもう少し世の中に浸透してきますと、秩序の維持も非常にうまくいくんじゃなかろうかという感じを受けました。だからと言って、人権を尊重しないというわけではございませんが、大変今日はいいお話を伺いまして、ありがとうございました。

【佐藤会長】 よろしゅうございますか。まだ、いろいろおありだと思いますけれども、ちょうど時間もまいりましたので、佐伯教授からのお話はこれで終わりたいと思います。

 なお、佐伯先生は、この後、御都合で御退席になられます。

 本日は本当に貴重なお話ありがとうございました。(拍手)

(佐伯京都大学大学院人間・環境学研究科教授退室)

【佐藤会長】 続きまして、庫山仙台市民オンブズマン事務局長から、「市民が司法に期待するもの」というタイトルでお話をしていただきたいと思います。

 簡単に御経歴を御紹介しますと、庫山さんは昭和20年にお生まれでございまして、東北大学大学院文学研究科修士課程を修了された後、昭和50年から地方自治研究会事務局長、60年からは宮城地域自治研究所事務局長として御活躍です。仙台市民オンブズマンの活動には、平成5年の結成時から参加していらっしゃいます。

 それでは、庫山さん、よろしくお願いいたします。

【庫山氏】 庫山です。

 佐伯先生の大変高尚な議論の後に、私の話は経験に基づいたお話ですので、そういうことであらかじめ御了解いただきたいと思います。

 私は、今、お話のありましたように、1993年6月に私どもがつくった仙台市民オンブズマンの一員として、6年以上活動してきたわけですけれども、その経験を基にいろいろ感じていることを今日はお話しさせていただきたいと思います。

 今日は皆さんの手元に我々の活動の記録をまとめた本も配らせていただいておりますけれども、これは、後で、何かの折にでも御参考に御覧いただければと思います。

 簡単に、我々がどんな思いでつくったのかということからお話しさせていただきたいのですが、私どもの組織は、今、お話ししましたように、1993年6月24日に誕生しました。6月29日に皆さんも御承知のように、仙台市長が収賄罪で逮捕されるということがありまして、その5日前に誕生したわけです。よく私ども、あのゼネコン汚職騒ぎの後にできたんじゃないかと言われますけれども、実はその前から準備をしておりまして、タイミングとして時期が重なったということがあるわけですけれども、そのような経緯でございます。メンバーは大体創立の時から20人前後、最初は15人から出発して、一時期、22人くらいまでなりましたけれども、その後、今は19人で活動しております。

 メンバーには、弁護士、税理士、不動産鑑定士、建築士、研究者、歯科医師と比較的専門的な職業に従事している方が多く入っておられます。

 その中でも弁護士が比較的多いのが私どもの組織の特徴の一つであります。12人ほど参加していただいております。いずれも仙台弁護士会所属の弁護士です。私ども一般市民から言うと、大変頼もしい存在でありまして、どうしても私たちの活動は、いろんな法的な問題にまで発展する要素が大変大きいものですから、そういうときに専門的な知識を駆使して、いろいろアドバイスをしていただく。それと同時に、自らが市民の一員として活動に参加しているということで、私はかねがね、仲間ぼめになりますけれども、弁護士の活動には敬意を表しているところであります。

 ただ、今お話ししましたように、20人前後というと、何か好きな者がただ勝手にやっているんだろうという印象を持たれるかもしれませんけれども、そのほかに300人ほど、私たちの活動をいろいろ支援したり、あるいは一緒になっていろんな調査活動に参加したりするグループがあります。これはタイアップ・グループというふうに私ども称しております。サポーターでも応援団でもなく、タイアップと言っているのは、一緒に行動するという趣旨でそういうふうに命名しているわけです。

 この存在が、私たちがいろいろ活動していく上で、ややもすると小人数で活動して、尖鋭的になったり、一面的になったりするところを、タイアップ・グループが300人ほどいて、言わば市民の縮図と言いますか、いろんな階層の方、年齢幅もいろいろありますし、そういう方から常に意見を聞きながら、市民の感覚だったらこの問題どう考えるだろうということを常に自問しながら考えていく、そのときにいいアドバイスをしてくれる存在として、私たちは、このグループを評価して、頼もしく感じているわけです。

 直接、私ども、どうしてもこういう組織をつくらなければならないと思ったのは、レジュメに、大変失礼な表現ですけれども、「眠る議会、死せる監査委員」というふうに書いておきましたけれども、地方自治体は、御承知のように、自治体自ら、言わば執行部をチェックする機関として、議会と-議会はチェックだけではなくて、いろんな条例制定権を持っているわけですけれども-、独自の監査委員という制度がございます。ただ、いずれも私どもが活動を始めたころには、まさに議会は眠っていると言いますか、つまりオール与党という現象が進行していたわけです。例えば仙台市の場合ですと、議会の定数が64人中58人が、私は与党だという立場を宣言する。本来地方自治は首長と議会、議員とは、与党という概念が成立するような形ではないのです。議院内閣制ではありませんから。いずれも住民から選ばれるわけですから、本当は、是は是、非は非という形で議員さんが行動するのが望ましいわけですけれども、もう首長の方に寄って、与党化というのが非常に進んでいたわけです。宮城県議会だと62人中61人が、私はこの知事の与党ですという立場で議員活動をやっている。そうすると、議会というのは、つまり執行部の提案する議案を右から左へすすっと流すような機関でして、何にも本質的な議論とチェックは果たせないという実態があったわけです。これは私ども相当深刻に受け止めていたわけです。

 もう一方、監査委員というのは、地方自治法上、都道府県とか政令都市とか、そういう規模の大きいところは4人設けることになっています。1ないし2名を議会から選ぶ。残りを学識経験のある方、識見委員という言い方をしているわけですけれども、当時、仙台市も宮城県も大体メンバーの構成は議会から2人、これはもちろん、与党会派から出ています。非常勤報酬が出るという関係もあって、議長、副議長に続く名誉職的な役職が、監査委員ということになっているわけです。それからもう2人は、大体、両方とも県庁と市役所の言わば幹部職員のOBです。つい最近まで部長とかをやっている方が監査委員になるということですから、これも言ってみれば身内が身内を監査するようなことでして、ほとんどチェック機能を喪失しているという中で、私ども市民から見ますと、行政がやりたい放題というか、開発事業にしても環境問題に関連することにしろ、非常に心配なことが横行するようになった。

 そういう中で、これはどうしても後は頼れるのは自分たちしかない。それなら自分たちが市民として、結局、議員を選んでいるのも、首長を選んでいるのも私たちですから、そこが駄目であれば、自分たちでそこを変えるしかないだろうということで、先ほど言った時期に、オンブズマンをつくるということになったわけです。

 そして、結成以来6年間くらいいろいろ活動してきたわけですけれども、私、その間にいろいろやってきて感じているのは、本当に行政というのは、この本にも私ども『官壁』という題を付けましたけれども、本当に我々の前に立ちはだかる大きな壁、なかなか突き崩せない大きな壁だという実感を持ってきました。

 私ども誕生以来、情報公開制度、これを駆使していろいろ調査をして、公金の不正支出、御承知のように、食糧費、官官接待の問題やら、カラ出張の問題やら、いろんな公金に関わる不正支出の問題、これを全部、情報公開の仕組みを使いながら言わば摘発するということをやってきたわけです。ただ、私たちは行政の不正を摘発すれば済むという考え方は毛頭持っておりませんので、では、そういう問題がなぜ起きるのか、その根源が何なのかということで、そこを変えていく、システムを変えようと、そういう提言をして変えていこうということをやってきているわけです。

 一番大事に思ってやってきたのは情報公開の推進ということです。

 幸い、宮城県、私どもの住んでいるところは全国的にも情報公開の先進地域ということで評価されるようになっているわけですけれども、やはり行政の中に腐敗とか不正とかがはびこる原因というのは、行政に、言ってみれば情報公開の光が照らされていない。つまり、闇の部分には、必ずそういう腐敗菌が増殖するということがあるわけで、やはり行政のすみずみまで情報公開の光を行き届かせる。これが、一番、不正や腐敗をなくす根本問題だろうということで、これには、相当、力を入れてまいりました。

 同時に先ほどの監査委員の制度の改革ということもいろいろ提言して、今、宮城県や仙台市、特に宮城県では、民間からの監査委員、公認会計士、あるいは元裁判官の方とか、そういう民間の識見のある方が入って、そして今までと違った行政の監査に実績を上げているというふうになってきているわけです。

 そういうふうに摘発する、暴露すると同時に、それが起きる原因を考えて、そして、システムの改善につなげていくという活動を、この間、ずっとやってきたということになります。

 ただ、行政の腐敗の実態については、私ども宮城県の例だけではなくて、私たちは全国的な組織をつくっていろいろ運動してきたわけですけれども、昨年の段階で自治体が自ら不正支出があるということで調査して発表しただけでも、25都道府県で436億円に上っています。北海道の80億とか福岡の60億を先頭に、いろんなところである。これは内部調査の結果ですから、まだ相当低く見積もった額だろうと思いますけれども、そういう意味では私たちの活動がああいう形で展開されなければ、恐らく未だに全国の自治体になれ合いの構造と言いますか、それから不正を生み出すような構造、これがまん延していたのではないかという気がします。

 国の場合はまだそこまでやられていませんけれども、いずれ情報公開法が施行されるようになれば、私たちはそういうことができないように、その手段を駆使しながら活動をしていきたいと思っております。

 ただ、そういうふうに、今、簡単にこういうことをやってきたというふうにお話ししましたけれども、本当に何と言いますか、それを突き崩すというのは並大抵のことではなかったというのが実感です。

 宮城県の場合ですと、1995年の2月に私たちが、宮城県の財政課の食糧費問題というのを摘発して、それから全国に飛び火していくわけですけれども、大体終結するまで、丸2年間かかりました。この間に物すごい行政当局と私たちとのし烈な攻防があったわけです。今でこそ、宮城県の浅野知事というのは、情報公開のリーダー、あるいは自治体改革のリーダーというふうに評されているわけですけれども、当初、私どもがそういう問題を指摘したときには、いや、不正などというのは全然ないというコメントを堂々と出すような状態だったわけです。それから、懇談会について、出席者の氏名を全部墨塗りにして、公開しない。それに対して、私たちが、そんなことではこれが本当にやっているかどうかも県民は検証できないじゃないか、それは当然公開すべきだということで、いろいろ申入れや質問をしましたけれども、これについても頑として応じない。そういう初期の段階から、先ほど言ったようにだんだん公開を進めて、そして不正の支出も認める。そして、何よりも私たちが最終的にいろいろ追及してきたのは、何であれだけの不正に自治体の職員が関わりながら、だれ一人として首が飛ばないという、これは一体どういうことなんだろうと。もし、民間ですと、金に手を付けたとなれば、即、懲戒免職だろうと思うのです。ところが、自治体の場合には悪しき慣習という言葉で、上から下まで、上の命令で下の者がやったまでという、そういうなあなあの関係の中で、やむにやまれずそういうふうにやっていた人もいるんだということでかばい合うような形で、だれ一人として首が飛ばない。もちろん、幹部職員は減給とか何とかという処分はありますけれども、それで事を済まそうとする。

 それに対して、私たちは、これではまた同じことが起きるのではないか、つまり、幹部職員が責任を取ってくれる。こんなことをやったって自分の身は安全なんだということでは同じことが繰り返されるのではないか、どうしても個人の責任を明確にしなければいけないのではないか、私どもは、知事に再三にわたってそこをはっきりさせろという申入れもして、最終的には知事の方も、今度、同様の行為があれば、それは懲戒免職も含む厳罰に処するということは当然やりますというところまで言明するに至ったわけです。

 そこに至るまで、本当に、後で述べますけれども、労力も体力も、それからお金の面でも、いろんなコストを、これを市民が払わなければ、そこまで行政が変わらない。そのくらい行政の持っている体質的な、保守的と言いますか、自分で改革を遂げようとしない体質というのは私たちは身を持って感じてきたわけです。

 ですから、私が実感として持っているのは、100%言い切れますけれども、行政は自らの力で、自らを変えていくということは、不可能に近いんじゃないか。もし、行政改革が実を上げていく、行政システムが変革をされていくということになるとするならば、それは絶えず不断に外部からの監視と、問題提起、これを市民が不断に続ける。それしかないんじゃないか。それくらい、私は、この数年間、行政といろいろやり合ってくる中で強く感じているわけです。

 これは個人的な、宮城県の例ですけれども、恐らく全国で同じような形で活動している人たちは、同じような思いを持っているんじゃないかと私は思っています。

 さて、そういうふうに私たちが行政といろいろ渡り合ってくる中で、私たちは主に武器として使ったのは三つくらい挙げられると思います。

 一つは、情報公開請求ということです。情報公開の制度というのは、私たちが考えている以上に市民の監視のためには威力を発揮する制度だということを実感として持っています。そして、どんどん請求をして、調査をして、分析をして、問題提起を続けていく。この公金不正支出、先ほど2年間の攻防戦があったと言いましたけれども、大体2年間で私どもコピー代を支払ったのは何と300万円を越えました。当時1枚30円というのが宮城県のコピー代でしたので、つまり10万枚ということになります。10万枚の資料を入手して、そして集団的にいろいろ分析をして、問題提起を続けるということをしたわけです。

 私は、事務局の仕事をしていましたので、大体、情報公開請求となると、私が行って資料請求したり、もらってきたりということをやったわけですけれども、計算してみたら、1年間に90日くらい県庁に行ったり、市役所に行ったりしている。そうすると、大体、官庁が開いている日数から見ますと、3日に一度くらい行ってやりとりしたような計算になるわけです。そのくらいのことをやらなければ、ああいう形にはならなかったというふうに私は思っているわけです。

 もう一つは、ここから司法に関わってくるわけですけれども、情報公開訴訟というのを提起しました。これは、要するに、いろいろ文書は開示するけれども、大事なところは見えないようにしている。非公開です。当時私どものところは大体墨を入れているわけですけれども、1枚のペーパーをもらってくると、墨の部分の方が圧倒的に多いという資料を、それこそ何千枚ももらってくるわけですけれども、それに対して、情報公開というのは市民にそういう行政の在り方をチェックさせる機能を持っている仕組みなんで、是非これは公開すべきだということで裁判所に提起して、情報公開訴訟というのをやったわけです。これは今まで食糧費問題に限らず、情報公開訴訟だけで7、8件提起してきています。これはどう考えても、条例解釈として誤っているということについては積極的に問題提起する。そして、司法の判断を仰ぐということをやってきました。

 それからもう一つは、これは地方自治法が認めていて大変すばらしい制度だと思っているのですが、住民監査請求と住民訴訟という制度があるわけです。似たような制度が国の方にないのは残念なんですけれども、地方自治は日本の場合には直接民主制と言いますか、そういうものを認めている面が多くて、その中の一つとして、住民監査請求、それが却下されたり、棄却されたりする場合には、住民訴訟を提起できるということになっているわけで、それを私たちはどんどんやってきました。

 この場合、先ほど言ったように、監査委員に監査請求を出しても、大体、けられることが通例です。ですから、儀礼的にそこを通過しないと訴訟に行けないものですから、監査請求はするわけですけれども、監査請求したものはほとんど訴訟まで行くという形になってしまうわけです。

 ですから、この情報公開訴訟と住民訴訟というのは、先ほど情報公開請求訴訟は7件か8件と言いましたけれども、住民訴訟を入れますと、もう20件以上の訴訟をいろいろ提起してやってきた。

 実はこの訴訟の提起というのは、行政にとっても私たちにとっても大変意味が大きいのです。判決に行った例というのは余り数が多くないのですけれども、提起されること自体が行政にとっては大問題なのです。いずれ司法の公開の法廷の場でいろいろ実態が明らかにされるということもありますので、この情報公開訴訟でも住民訴訟でも提起されると、それに対応して問題解決を図ろうとする機運が行政の内部に出てくるわけです。

 ですから、判決まで行かずに、途中で行政側が、ではその問題はこういうふうに変えますという形で改善策を提起して、和解という形で終結した例も多いわけです。いずれにしても、そういう大きな意味を持っている。

 それから、私たち市民から言うと、先ほど言いましたように、自治体が独自に持っているチェックの機能が発揮されていないという現状になりますと、最後の頼る手段みたいなものなのです。司法の場に問題提起をして、そこで問題をもう一つ先に前進させようという形で訴訟を提起してきたわけです。

 そういう意味で私たちにとっては、司法がどういう判断をするのかというのは、私たちの考えているように行政を変えていく、あるいは行政が変わってもらうためには、物すごく大きな役割を果たしているというふうに言っていいと思います。

 これは裁判所や裁判官の方がどう考えているかは分かりませんけれども、私どもはとにかくそういう意味では司法がどう行政チェックという役割を果たすのかということについては、考えている以上の大きな意味を持っているんじゃないかと考えています。そういう意味で司法に対する市民からの期待も大変大きいというのが実感です。

 では、裁判所は市民が最後のよりどころとしてそこに持ち込むということに対してどういうふうに応えているのかという話になりますけれども、私は、今も言ったように、司法の判断は良くも悪くも、行政に対して大変大きな影響を与えると思っております。

 最初に悪い例ばかり言っても何ですので、いい例を言いますと、このレジュメにも書いておきましたが、判決が行政システムの改革を促した事例ということで、宮城県の財政課の食糧費の情報公開訴訟についてふれます。これは簡単に言えば、いつ、どこで、だれが集まって、どういう懇談をやったのかという情報の主たる部分が全部墨塗りされているものを、全部出しなさいということを求めた訴訟ですけれども、これについて裁判所は私たちが予想している以上に、私たちが120%勝訴という評価をした判決を出しました。1996年7月に仙台地裁において、今言ったようなことをすべて開示しなさいという判断が示されたわけです。

 このときの判決は、なかなか私もすばらしいと思っております。公務員情報をどう扱うかというのは、この判決以降日本の行政の中で扱いが変わってきますので、その判決を読ましていただきます。

 「公務員について言えば、その職務執行に際して記録された情報に含まれる当該公務員の役職や氏名は当該公務を遂行したものを特定し、場合によっては責任の所在を明示するために表示されるにすぎないものであって、それ以上に右公務員の個人としての行動ないしは生活に関わる意味合いを含むものではない。したがって、その限りにおいて、プライバシーが問題になる余地はない。」こういう初めての判断を示したわけです。

 つまり、公務員の氏名や役職名というのはプライバシーとして保護されるべき個人情報ではないという判断を初めて示されたわけです。

 しかも、その判決は、そういうことが開示されるというのは、県民が県政を検証する、あるいは当否を判断する、そのためにも不可欠なんだという判断を示したわけです。この判決以降、皆さん御承知だと思いますが、各地裁、あるいは各高裁、東京高裁とか福岡高裁、大阪高裁を含めて、ほぼ全面的に公務員情報については、当然名前というのは公開して、市民がそれによって、いろんな公務員の行為について検証できる、簡単に言えば納税者として税金の行方をチェックするということをするためには、そういう情報というのは当然開示すべきだという流れが大きく広がっているわけです。これは物すごく大きいと思います。

 大体、そういうことで出張者の氏名、あるいは公務員の懇談のときの出席者の氏名、これについては圧倒的多数の自治体が公開に踏み切っている。まだ非公開としているのは非常に少ないと言って差し支えないと思います。

 この議論とこの判断の流れは、情報公開法にも大きな影響を与えたと私は思っています。

 つまり、情報公開法も公務員については、全部を開示するというふうにあれからは読み取れませんが、少なくとも課長相当職以上については、情報公開法においても、国のレベルで公務員の氏名については、公開対象になるという形になっているわけですから、こういう各地の司法の判断が国の法律にも影響を与える。そして、行政の情報公開というものにも大きな影響を与えていると言って差し支えないんじゃないかと思います。

 ただ、残念なから、こういう判断というのは、私も経験上はこれ一つだけなのです。

 2番目に書いたもの、逆に市民感覚からかけ離れた判断で市民の訴えを却下した事例ということで、私どもが取り組んでいた大年寺山住民訴訟の例を御紹介したいと思います。

 大年寺山というのは仙台の中心部に割と近いところにある風致地区で、伊達家の4代藩主以下のお墓などもあって、大変いいところなのですけれども、そこを公園にするということで、その公園用地の売買をめぐる問題で私たちが起こした住民訴訟なのです。大体、時価の4倍くらいで仙台市が買収したということが明らかになって、当然それは不法な売買行為だということで、買った側と売った側を訴えて、損害賠償を求めるという住民訴訟を提起したわけです。

 提訴以来5年くらい、実質的な審理まで入って、いろいろやってきたのですが、今年の3月15日の判決では実質まで踏み込んだ審理をしておきながら却下、いわゆる門前払いの判決だったのです。

 これはどういうことかというと、売買時より1年を経過しているということで、却下されたわけです。住民監査請求というのは、言わば財務行為があったときから1年以内に提起しなければならないということになっていて、正当な理由、やむにやまれず遅れて提起するということについて相当な理由がないとそれは駄目なんだということになっているわけですけれども、このケースは1年間経っている。しかも、正当な理由もないということで、私たちの請求は却下された。

 それはなぜそういう判断が示されたかと言いますと、買ったときの仙台市の予算書、ないしは決算書に、公園全体の面積と、買収の総額が記載されている。そうすると、そのときに平米単価幾らというのが分かる。そうすると、当然高いか低いか、市民はそのことを分かったはずだと。こういう理屈なのです。

 ただ、これは私は非常に不満でして、判決を聞いたときに本当に怒りがこみ上げてきたのですけれども、実はこれは実際の現場を見ていただくと決してそういうことを市民に言えるものではないのです。というのは、当該地域には市街化区域もあります。市街化調整区域もあります。ですから、すぐにでも開発できるところもあれば、急斜面地で地目が山林になっていたりして、調整区域に入っているところもある。ですから、その場所によって相当値段が違うわけです。先ほど言った予算書や決算書類というのは、言ってみれば地目とか地番は記載されていませんから、どこを買って、それが幾らだったのかというところまでは分からないわけです。その後、仙台市が再鑑定した結果によると、大体買った範囲の中で平米当たり3万5,000円から14万9,000円までの開きがあるんですね。そうすると、総面積と総額が示されているだけで、ここの買収地が不当に法外な値段だということを市民が、すぐに分かるということにはならない。ある程度それを追跡調査をしないと、これは分からないのです。

 ところが、その判決というのは、すぐには分からないことを市民に要求するというものであったわけです。ですから、私たちは、これは非常に実情を踏まえない、観念的と言いますか、そういう一つの判断で市民の請求が退けられた例ではないか。あの裁判官に一度現場をよく見てもらえば、あるいは私たちの言うことをよく聞いて、一市民として自問自答してもらえば、そういうふうな判断が出なかったのではないかと私は考えているわけです。

 実際、この土地の買収については、決裁を与えた市の幹部職員も、議会も、それから監査委員も一切問題にしなかったのです。それが数年経って、あることから明るみに出て、それからすぐ私たちは監査請求したという事案なのです。そのことから言っても、これは分からなかった方が悪いと言わぬばかりの判断というのは、市民の方から言うと、市民に大変無理を強いる判断ではないのかと私は思わざるを得ない。

 今、二つの対照的な事案を御紹介しましたけれども、残念ながら、私もいろいろ聞いてみたりしますと、住民訴訟はもちろんそうですけれども、行政訴訟をめぐってはどうも後者のような、門前払い的な市民の訴えを却下する事案というのが大変多い。あるいは却下しないまでも審理に至っても、棄却される例が多い。どうも行政訴訟の原告勝訴率は10%程度にすぎないというふうに言われているようですけれども、これはやはり私たちにとっては相当問題だと感じているわけです。

 つまり、公金不正支出に限らず、街づくりについて、あるいは公共事業の在り方について、いろいろ問題を感じることが非常に多いわけです。ただ、それを司法の場に問題提起をしようとしても、いわゆる原告として適格性があるかどうか、あるいは処分性がどうかとかいうことで、どうも実体まで入らないで、却下される例が多いと私は聞いているわけです。

 ですから、私たちとしては、もっと行政の行為を司法がチェックするという立場に立つとするならば、現行の行政事件訴訟法がその辺のところは原告に非常に厳しいということも聞いていますけれども、できるだけ市民の側に立ったような法解釈をしていただくということと同時に、もしそれができないのであれば、法律そのものをもっと市民が行政に対して問題提起をしやすいように改正するところまで、これは踏み込んでいただく必要があるんじゃないだろうかと考えているわけです。

 時間がありませんので、最後に裁判所、裁判官に、そういう経験を通して、私なりに望みたいということを二、三お話しさせていただきます。

 第1点目は、やはり裁判官である前に一市民として自立した存在であってほしいということを強く望みたいと思うのです。

 やはり司法が立法、行政のチェックという本来の役割を果たすというためには、一人ひとりの裁判官が自立した市民であるという存在であることが前提となると思うのです。

 また、その裁判所の中でそういう自由な雰囲気でいろんなことが言える、意見交換ができる、そういう雰囲気が私は前提として必要だと思うのです。

 これは当たっているかどうか、私自身が裁判所の実態を深く知っているわけではありませんので、巷間伝えられるところによりますと、いろいろ人事や昇給や、そういうことにいろいろ気を遣いながら、しかも普段から、200件とか300件という事件を抱えて、判決を書くのにきゅうきゅうとしているというのが今の裁判官の実態だということもよく聞くわけです。

 そうなると、非常に余裕を持って、いろんな市民とも接したり、いろんな社会の動きに目を配りながら、市民の常識とかけ離れないような形での感覚を養いながら判断していくということは相当難しいのではないかと私は思うのです。

 ですから、裁判官の人数を増やすということも当然そうでしょうけれども、やはりそういう自由な、裁判官の独立性と言いますか、自由と言いますか、そういうものが保障できるような裁判官の任用のシステムと言いますか、それは当然検討課題にしてもらう必要があるんじゃないか。

 キャリア・システムか法曹一元かという議論があるようですけれども、法曹一元という言葉は私も理解するのに相当苦労いたしましたけれども、勉強すると、実際の実務経験を経た上で、市民の感覚もよく理解できるような形で、そういう実務経験を経た人が、裁判官に弁護士その他から任用される仕組みだと聞きましたけれども、そういう方向も一つの今の裁判官の在り方を変えていく上では大事な仕組みなのではないかと思っています。

 もう一つ、先ほどのような裁判官、裁判所になってほしいという意味で、私が問題提起したいのは、特に行政に対して私たちは市民の監視と、それから参加できるシステムを行政につくってほしいということを強く要求してきたわけです。そのことから言うと、私は裁判所にとっても、市民が監視できる仕組み、それから市民がそこに参加できる仕組み、これをどうつくるのかというのがこれからのポイントの一つじゃないかという感じを持っているわけです。

 その監視ということから言えば、先ほどの情報公開のところでお話ししましたけれども、情報公開を裁判所ももっと積極的に進めるべきじゃないか。裁判は確かに公開されています。私も相当多く傍聴していますけれども、まず、よく分かりません。公開されている裁判を幾ら聞きに行っても、行ってすぐ5分もすると、では、次の期日をいつにしましょうかということで終わってしまうのです。その間に実質的にどういうやり取りがあるのか。書面交換をしてそれで終わりなのです。陳述ですね。はい、そうですと言って、後は、次はいつにしましょうと。これをもっと市民に分かりやすいようにできないものか。そういう裁判の公開手続の透明性をもっと高めてもらいたい。

 同時に、司法行政というのがあるわけです。その面は情報公開法ができても対象にならないはずです。国会と裁判所は対象機関から外れているはずです。そうしますと、やはり裁判所の情報公開を裁判所のいろんな仕組み、運営の仕方、そういう人事のことも含めて、どういうシステムで動いているのかということを市民に分かるようにして、それに対して市民が意見を言えるようなシステムを裁判所も持つべきではないか。

 今、あらゆる行政機関やあらゆる分野でディスクロージャーということが叫ばれている時代に、裁判所だけ聖域であっていいということはないと思いますので、そこをきちんと考えるのが一つ大事ではないか。

 もう一つは、市民の参加です。私は行政でも何でもそうですが、どんな立派なシステムをつくっても、これに対して市民が物を言えて、市民がそこに参加していくというシステムをつくらないと、これはいつか制度疲労を起こして問題を持つということになると思います。

 ですから、裁判の仕組みの中にも、是非、市民が参加できるシステムを考えてほしい。議論としては、陪審制の問題とか参審制の問題が出ているわけですけれども、私はどれが最もふさわしいのか、あるいはどの組合せでいくのがいいのか、そういうことまで十分勉強しているわけではありませんけれども、少なくとも市民が裁判の場に直接参加していくシステムをつくること、それが必ず裁判所と裁判を国民の利用しやすい、国民にとって非常に意味のあるものに変えていく契機になるんじゃないかと思うわけです。

 是非、今、言った情報公開、それから参審制、陪審制を含めた市民参加の制度をつくっていただく。そのことが私どもが司法に対して期待し、司法がそれに応えていくような道を切り開く上で大事なポイントじゃないかと、そんなふうに考えます。

 どうもオーバーしましたが以上です。

【佐藤会長】 御経験を踏まえた大変興味深いお話でございました。どなたからでも御質問をお願いいたします。

【井上委員】 最後におっしゃった市民参加という点なのですけれども、特に例にあげられました陪審とか参審とかは、一般に刑事に傾いて議論されているのです。今日のお話の流れからしますと、むしろ行政訴訟とか民事訴訟とか、そちらの方への導入をお考えであるのかなという気もします。その点をまずお聞きしたいと思います。

【庫山氏】 話の流れとして、私は行政を相手にしたということでお話ししてきましたので、そういう点から言いますと、是非、行政訴訟なども、私は参審制を導入するということになると、これは相当今までのような形でない、裁判官が市民の直接意見を聞きながら、同時に議論をしながら判断していくということで、大変プラスの方向に向かうんじゃないかと感じております。

 ですから、参審制については、行政訴訟などでもどんどん導入するという方向で考えていただけるとありがたいと思います。

 ただ、陪審については、これは刑事に主に導入ということを考えられていることだと思いますので、それは全体としての司法改革の中で、市民参加ということを言う場合には、その問題も避けて通れないだろうという意味で申し上げたということです。

【山本委員】 大変貴重なお話ですが、地方政治とか地方の行政、まあ地方だけではないのですけれども、そういったものの監視をしたり、改めさせたりするのに、裁判の制度というのは非常に大事だというのはよく分かるのですが、それと同時に、行政そのものに、あるいは政治そのものに市民がきちんとした参加をするというのがまず大前提としてあるのですけれども、先生は、両者についてはどういうふうに今お考えですか。市民が政治や行政に積極的に参加していくということの現状については、どういうふうに御覧になっていますか。

【庫山氏】 現状については、必ずしも積極的な形でやられているというふうに思っておりませんけれども、私たちがやっていることは、まさにそれをやろうということなのです。そして、それを通して、行政については今までにない市民参加のシステムを是非つくりなさいということでいろいろ働き掛けています。

 例えば、公共事業などを決める際に、今までですと、非常にでかい事業が、ある日、突然、議会にぱっとかけられて、何百億という事業が進んでいく。市民から見ると、どういう議論をしてきて、その事業が県民に対してどういうふうに、費用対効果という関係で意義があるのか、あるいは、それをつくった後どう管理をしていくのか、そこにどういうコストがかかるのかと、そういうことが一切分からないままに、どんとつくられて、その後いろんな問題が出てくるというケースがあるわけです。

 ですから、私たちは事業の決定の過程に、情報公開をして市民が参加できる仕組みをつくるべきだということでいろいろやっていまして、そういう方向で若干動いてきているわけですけれども、これは国のレベルでもそういう議論が今出ています。

 当然そういう仕組みをつくって、そこに市民が参加できるような仕組みをまずつくらせる。それが大事ではないかと考えて、そういう運動もやっているところです。

【山本委員】 そのためには裁判の制度を変えないと駄目なんだと。そういうふうにお考えなのですか。

【庫山氏】 それはそれでやっていきますけれども、しかし、それですべて解決がつくとは思わないのです。必ず司法の判断を問わなければいけない事案も出ると思うのです。むしろそれはこれから増えるんじゃないでしょうか。参加のシステムができればそっちは要らなくなるというわけではないだろうと思っています。

【山本委員】 ありがとうございました。

【水原委員】 1993年に仙台市民オンブズマンが発足なさった。いろいろな面における市民参加の必要性を力説されて、いろいろな活躍をなさったということはよく分かりました。ところで、一般市民のオンブズマンに対する反応と言いましょうか、それは変わってきたんでしょうか。それともそんなに変化はないものなんでしょうか。率直に伺いたいと思います。

【庫山氏】 それは相当大きな変化があると思っています。と言いますのは、私たち当初やっていることに対して、いろんなところからこういう問題をやってくれと来るわけです。しかし、私たちはそういう要求をただ受け付けて、それを処理する機関ではありませんので、むしろあなたたち一人ひとりがそういう問題をどういうふうに取り上げてやるか、これが大事なんだということで、ボールを投げ返すということをやっています。

 ですから、宮城県下でも、相当、私たちの運動以降は、先ほど言った住民監査請求とかいうことをやる人たちの数が増えて、そういう請求事例も増えている。また、訴訟に発展する事例も増えていると思っています。

 ただ、やはりだれかに依存してやってもらいたいという意識が相当強いわけで、そこは先ほど言ったように、むしろあなたたちがやることが大事ですよということで私たちはボールを投げ返しているということです。

 市民全体から言えば、これは手前味噌になりますけれども、相当、期待もされ、また、励まされてもいるというのが実情だと言って差し支えないと思います。

【水原委員】 私は、仙台で2年3か月勤務したことがございまして、大変なつかしくお話を伺いましたけれども、先ほど先生から陪・参審、これは避けて通れないとおっしゃいましたが、その前提はあくまで市民がそれに対する意欲と熱意があるかどうか。そういうことだと思うのです。

 先生は約6年間活動なさって、そこから見て避けて通れない問題ではあるが、日本の国にそういう制度は定着するというふうにお考えなのかどうか。誠に端的に伺って恐縮でございますが、その点についての感想はありますか。

【庫山氏】 私は、今、これは司法に限らず、すべていろんな行政の各部門も含めて、やはり、今、市民参加というシステムをどうつくるかという問題が検討課題として上がっていると思うのです。私は制度と実質的な市民の参加意識との関係というのは、どっちが先という問題ではないと思うのです。確かに市民意識が醸成していかないと、幾ら仕組みをつくってもうまく機能しないという問題はありますけれども、逆にそういうものをつくることを通して、あるいはつくる議論を通して、市民の方にそういうものに積極的な参加を促す契機にも私はなると思うのです。

 ですから、私は日本の社会というのは、どの場面においても、そういうものの必要性を大きく訴えて、そして国民の意識もそこに向かって大きく醸成されていくようなことが必要とされている時期なんじゃないかなという感じがします。

 ですから、私はやはりこの時期にその議論をきちんとされて、むしろ積極的にそういう方向での導入を図っていく方が、これからの日本の社会を、言わば国民のため、市民のためという仕組みに変えていく上で大きな役割を果たすんじゃないか、そんなふうに思っています。

【曽野委員】 二つの素朴な質問をお許しいただきます。一つは仙台と東京と違うのかなと思ったのでございますけれども、私は東京の地裁にこんにちはとある日行って、裁判を聞かせてくださいと言いました。私みたいな老年の司法研修生はいないでしょうから、ちょっとおかしいと思いましたけれども、物すごく親切に、何がいいのと、私が刑事事件を、などと首をすくめながら申しますと、何号法廷に行ったらどうだと教えてくださいまして、息をのむ面白さでした。それで私は、老後は霞ヶ関まで定期を買って、毎日、法廷というただのお芝居を見ようと、老後の計画まで立てたぐらい面白かったのです。

 まず第1の質問は、仙台はどうしてそういう面白いのがないのでございましょうか。

【庫山氏】 それは、たまたま面白い事案にちょうど紹介もされてぶつかったということではないでしょうか。

【曽野委員】 交通事故だのいろいろございます。

【庫山氏】 普通はなかなかそういうふうなものには巡り会えないです。それはそういうのもあると思います。例えば証人尋問などで双方がいろいろやり合っているなどというのはやはり面白いです。だけど、大半はそうではないもので終わってしまうことが多いです。私の経験ではですが。

【曽野委員】 それから第2でございますけれども、私は実は陪審制とか参審制かとよく分かっているわけではないので、もしポイントが狂っていましたらお許しいただきたいのでございますけれども、私は小説書きでございまして、うそをつくのが商売なのです。しかし、うそにせよ何とかごまかして世間に通る程度にまで勉強しなければならないのです。霞ヶ関に通って地裁を傍聴させていただいたというのも、そこである程度のリアリティーを肌身に付けるために通い詰めていたわけで、あの下に本屋もございますし、あそこの食堂で酢豚ライスが幾らかということも全部分かるようになりました。つまり、随分時間をかけました。

 しかし、そういう時間が市民のだれにあるんでございましょうか。そこまでやろうとするとでございますね。それで、裁判の参審をしてどの程度の力をそういう人たちが持つのか私は全く分かりませんけれども、それをやるとしたら自分の仕事を放棄するほどやらなければなりません。その点については先生はどういうふうにお考えですか。

【庫山氏】 ただ、それは日本だけが新しく導入しようという議論ではありませんので、やはり諸外国のそういう例を私は研究していけば、日本に合った形でそういう問題は解決できるだろうと思うのです。

 だから、では一般の市民がどういう形でおっしゃるようにできる人がいるのか。できるためにはどうしたらいいのか。それは私は十分に例を研究すれば可能だろうというふうに思います。

【曽野委員】 必ずいらっしゃると思うのです。しかし、それはそのために時間を割いてお好きな方だけがおできになるという形になりますね。

【庫山氏】 必ずしもそうではないんじゃないですか。例えば、今、裁判ではありませんけれども、検察審査会というのがあります。あれは有権者の中から無作為に抽出してなっていただけませんかということでなっていただいてやるわけでしょう。あれはあれで機能しているわけで、私はそんなに難しいことじゃないというふうに思います。

【井上委員】 もう一つよろしいですか。今の検察審査会の実情などについては、今後検討する機会もあるかと思いますけれど、陪審や参審については、もう一つの面として、英米、あるいは西欧などでも、事実認定は陪審ならば陪審、参審ならばその参審の入った裁判体に任せて、その場合にどちらに転ぼうと自分たちの仲間が認定したんだからしようがない、といった一つの割り切りというものを前提にしているところがあると思うのです。その結果、事実認定についての上訴が非常に制限され、やろうとすれば、また同じような裁判体か、あるいは一般市民がより多く含まれる裁判体でもう一度最初から裁判をやり直さざるを得ない。そういう仕組みになっているわけですけれども、我が国でそういう割り切りが果たしてできるものだろうかという疑問があります。割り切りができればそれはそれでいいと思うのですけれども、その辺が私などには見えないものですから、率直な御感想をお聞かせ願えませんか。

【庫山氏】 そこまで私もちょっと考えていませんので、そういうときにどうなるかということは今お答えしかねます。

【竹下会長代理】 大変興味あるお話をありがとうございました。20件ぐらい訴訟を御経験になって、この食糧費の情報公開訴訟では大変大きな結果が挙げられて、司法に対する信頼ができた。それに対して大年寺山住民訴訟、それからどちらかというとこのレジュメによると市民感覚からかけ離れた判断を示されることが多かったというお話で、よく現在の裁判官ないし裁判官制度に対する批判として、市民感覚から離れたという表現が使われるのですが、一体それはどういうことなのか。

 つまり、それは裁判官も3,000人からおられますから、個人によっていろいろな問題があるのは別といたしましても、若い裁判官が経験不足からくる、一般の成熟した市民の判断とは違うような判断をしてしまうというようなこともあり得るでしょうし、それから先ほどちょっとお話があったように負担過重のために裁判官が十分、先ほどのような事情があるのに、その点についてまで審理を、あるいは考慮を及ぼさないで判断を下したというようなことも考えられる。実際の御経験を通じて市民感覚から離れたというのはどういうことを言うのか。そしてまた、どこからそういうことが出てくるとお考えなのか。ちょっと感覚だけでもお聞かせ願います。

【庫山氏】 私は、裁判官の方と交流があるわけでもありませんので、実際にお話しした形でそういう理解をしているということではないのですが、先ほども申し上げましたように、一つはやはり物すごく、これはどなたも言いますよね、処理件数が多くて残業、残業だと。それから、官舎と裁判所の行き来するような生活、あるいは休みの日まで残業するというふうな事態が一つあるということ。

 それから外との社会、仙台ならば仙台の一般の市民が生活している社会と、そういう時間的な問題もあって、なかなか交流するなどということはできないということがあるようにいろいろ聞いております。そういうこともあると思います。

 それから、先ほどちょっと言ったように、どうしてもここには2年ぐらい、また3年ぐらいという形で動きながら昇進していくという中で、何かそこに落ち着いていろいろ交流しながらいろいろ考えていくという一般の市民と同じような形の生活をしながら、自分の感覚を磨いていくといいますか、そういうこともできる条件がなかなかないのではないかというふうなことも含めて、そうでない形でもう少し自由にフランクにいろいろなことができるふうにならないものかなというふうな感じで申し上げていたわけです。

【竹下会長代理】 どうもありがとうございました。

【藤田委員】 私も、平成5年から7年にかけて仙台におりましたが、着任した途端に県知事と市長が逮捕されました。オンブズマンとして活躍していらっしゃる弁護士の方々とも親しくさせていただいて、いろいろと伺いました。地方自治体の機構を相手にして違法な会計処理を追及するというのはなかなか大変なことだし、そのためには相当程度の技術的なレベルも必要だと思うのです。その前提としては、庫山さんのおっしゃるように、情報公開の点が非常に大きいと思うのです。東京都でも知事の交際費や海外出張の旅費などに関してたくさんの住民訴訟が起きているのですが、その前提としては、情報公開で資料が得られている。そういう意味では、おほめにあずかった食料費についての情報公開訴訟、これは個人の名前を公開せよと言った最初の判決でしょうか。

【庫山氏】 そういうふうに理解しております。

【藤田委員】 先生の方から時代感覚にマッチした判決ということでおほめにあずかったのですが、仙台地裁は最近時代に即応した判決を出しておりまして、セクハラ訴訟で七百数十万円という今までにない高額の判決を続けて2件出したということで、世間から評価されているのだろうと思います。しかし、それはそれとして会計上の問題点をチェックするのにはかなり組織的に常時監視するということが必要と思います。住民訴訟には、期間制限の問題もありますから、常時技術的にも相当なレベルで監視していく組織的な対応が必要ではないかと思います。20人のオンブズマンと300人のタイアップ・グループがいらっしゃるということなのですが、そういうような点については何か工夫をしていらっしゃるのでしょうか。

【庫山氏】 これだけのことをやらなければいけないというものは、そもそも私たちには何もないのです。とにかく自分たちがそれぞれ仕事をしていて、そして時間の許す限り共通のテーマで議論をして、ではこの問題は是非取り上げる価値があるからやろうということを決めて、そしていろいろ分担しながら調査したり、書面を書いたりということでやっているわけです。その限りでは負担感を別に感じながらやっている仕事ではありませんので、ここまでやらなければ私たちの活動がやったことにならないということはありませんので、そういう意味ではやれることを限られたグループでやるということでやっているわけです。先ほど言いましたように私たちがそれを専売特許でやるというのではなくて、違うグループがまた5人でも6人でもいて、それはそれでやる。それで今ちょうどリタイアした方で元気な方は世の中にたくさんいるわけです。私たちのタイアップ・グループにも参加していただいていますけれども、そういう方などは本当に全国各地でそういうグループをつくって今、動き始めています。そういう形でやっていけば、そして草の根にそれがたくさんできていけば、それ自体が行政にとっては相当すごい抑止効果を発揮することになるのではないかと、そんなふうに思っていて、それをどう広げていくかということかなと思っております。

【藤田委員】 問題として取り上げる端緒は、それぞれ皆さんが関心を持っていて、何か問題が発見されたときにそれを討論されて取り上げていくということでしょうか。

【庫山氏】 例えば新聞にある記事が載ると、その関連の資料を請求する。あるいは、議会で何か質問で問題が起きると、その関連資料を取り上げる。あるいは、時には情報が来ることもある。その情報を取ってくるということで、情報公開を請求して分析して問題点をまとめて、そして申入れなどをして、なかなかうまくいかなければ監査請求をするとか、そういう繰り返しなのです。それを一過性みたいにぱっとやってすぐ終わってしまうということになるとなかなか変わるところまでいきませんけれども、繰り返し、繰り返し継続的にやるというところに意味があるのではないでしょうか。市民の方もやはりそこまである意味では腰を据えて、私はそれを市民の責任だと言っているわけですけれども、最終的には自分の方に全部はね返ってくる問題ですから、そこまでやろうと。

 しかし、それを義務感でやるのではなくて、それぞれの小グループがそういうつもりで動き始めたら、相当やはりいろいろな意味でインパクトを与えていくんじゃないかと、そんなふうに思います。

【藤田委員】 ありがとうございました。

【佐藤会長】 議長の特権で一つだけお尋ねします。先ほど来の御質問にも関係するのですけれども、さっき例えばコピー代300万円というようなお話がございましたね。それで、ボランティアでおやりになるとしても財政的にいろいろな問題がおありなんじゃないかと思いますけれども、その辺に対する市民の応援とか、そういうものはおのずからできていくのですか。

【庫山氏】 先ほど言ったようにまずオンブズマンが自分たちで年会費を出すのです。我々の場合は3万円出していますけれども、それからタイアップ・グループというのは年会費1万円ずつ出していただいて、その30%は自動的に私たちに支援金としてきます。

 そのほかに、こういう大きな仕事をするときには一般の方にマスコミなどを通じて募金の訴えをしましたから、300万円かかったと言っても半分以上は募金でそのときは集まっているということです。

 要するに問題がそういうことで先ほどパブリックというふうに言いましたけれども、市民が公のものに関わっていって、そしてそのことに意味があるというふうに判断される県民や市民の方が多くいますので、それに支えられながらやっていく。その代わり、団体とかからは一切募金は受けない。全く個人的な形でのつながり、拠金をいただくという形でやっています。

【佐藤会長】 長時間にわたり本当に貴重なお話ありがとうございました。(拍手)

(庫山仙台市民オンブズマン事務局長退室)

【佐藤会長】 では、10分間休憩にしたいと思います。

(休憩)

【佐藤会長】 それでは、審議を再開させていただきたいと思います。

 では、藤倉帝塚山大学法政策学部教授から、先ほど御紹介しましたように「法に頼る社会、人に頼る社会-法文化の比較」というタイトルでお話しいただきたいと思います。

 御経歴を簡単に御紹介しますと、先生は、昭和9年大阪市にお生まれでございまして、同志社大学法学部を御卒業後、ハーバード大学大学院を修了されて、昭和38年に同志社大学助手、47年に同志社大学教授をお務めの後、56年からは東京大学教授、それから、御定年後、早稲田大学に行かれまして、早稲田大学教授を経て、現在、帝塚山大学法政策学部教授ということでございます。御専門は英米法でございます。

 大変長らくお待たせして申し訳ありませんでしたが、それではよろしくお願いします。

【藤倉氏】 藤倉でございます。私のレジュメだけ2枚になっておりますけれども、ちゃんと30分以内で終えたいと思います。

 どういうお話をすればいいかお伺いしましたときに、アメリカと日本の比較ということがいずれ問題になるので、アメリカと日本を比べて考えていることを言えということでございました。それで、まだ総論をやっているから余り細かい話はしても仕方がないと私は理解いたしましたので、こういうテーマで考えようということにしたわけです。

 「法に頼る社会」というのはアメリカのことを頭においていますし、「人に頼る社会」というのは日本のことをおいております。この二つの社会は一応言わば対極にあるようなものでして、その法文化の比較をしてみようということです。先ほどのお話にエートスという話も出てまいりました。法文化というのは私はここでその社会に住んでいる人たちが法に対してどんな期待を抱いているのか。そして、その期待をどのように行動に表すのか。そういう期待が表れてきたところに何かの形があるのかといったことを法文化の問題として考えてみようと思います。

 端的に申しまして、アメリカは非常に法に頼る社会を建国以来つくってきたわけでして、その社会の問題は余りにも法に頼り過ぎる。余りにも法に頼るので、非常にそのためのコストが高くなり過ぎてどうにもならないというところまできている。どうにもならないとは、ちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、それが問題となるところまできている。

 それに対して、日本の社会は、人に頼る社会、これも後で少し説明を要すると思いますけれども、言わば少数の裁判官、少数の検察官、少数の弁護士で明治以来、非常に効率的に司法制度を動かしてきたという意味ではコストが余りかかっていない。つい私は大阪の生まれですので、安上がりという言葉が出てきてしまうのですけれども、アメリカの法に頼る社会が非常に高くつくのに対して、日本の社会は少なくとも今までは安上がりで司法制度を担い、動かすということをしてきた。それが現在、日本ではいろいろな社会的変化、国際的な変化、そして市民の要請に対応し切れなくなってきている。ですから、まさにこういう司法制度改革審議会が置かれたという次第になっていると思うのです。

 アメリカでも法に頼り過ぎる、法に頼ることのコストが大き過ぎるということで、これをやはり改めなければならないといった議論が出てきております。それで、このレジュメの流れと申しますか、筋は、この二つの社会を比べて何が言えるかということにつながる項目を上げております。最後にこの二つの社会を比べた上での幾つかのコメントをさせていただきたいと思っております。

 法に頼る社会の特色。アメリカを見ますと、特に外からアメリカを見ますと、法が多い、法律家が多い、そして訴訟が多いということがすぐ目につきます。法が多いと言っても一体どんなふうに量的に計るのか、数をどうして数えるのかという問題はありますけれども、そもそもアメリカは制度の成り立ちからして50の州にそれぞれの州の法律がございますし、それから連邦政府にも連邦議会が制定する法律、それから連邦の裁判所が下す判決というふうに、大まかに言えば51の法の単位がある。50州プラス連邦ということですし、その法の内容も議会が制定する法律に加えて裁判所が下す判決から発展したいわゆる判例法がございますから、大変、法が多い。法文化という大まかなとらえ方で法が多いと言って間違いないと思います。

 法が多いわけですから、それを使う人、その法の使い手、法律家も多いわけでして、これは現在ほぼ100万人の法律家がいるということになっております。

 私は、アメリカで学生で勉強をしておりましたころ、1960年代でしたけれども、法律家の数を調べたときに、たしか40万人前後だったと思うのですけれども、これが30年の間に2倍以上になっておりますから、アメリカが法に頼る社会であることがこういうところに端的に出ている。単純に計算しますと、アメリカでは250人に1人は法律家ということになるわけですね。よくアメリカの友達を冷やかすのですけれども、アメリカではますます法律家が増える、調べるたびに法律家が増えて、そのうち2人に1人は法律家ということになって、二千何年かには全部が法律家ということになったら大変幸せな社会になるだろうと言うと、いやな顔をするのですけれども、とにかく法律家が多い。

 法律家が多いということは、法律家は食べなければいけませんから訴訟が多いということになります。もちろん、訴訟で食べている法律家ばかりではありませんけれども、訴訟にならなければ法律家は生計が立たないということで、数字の上ですけれども、アメリカの法律家は結局250人のお客を相手に生計を立てなければいけない。それに対して日本の弁護士は8,000人に1人ですから、8,000人という顧客となる可能性のある人を対象にして弁護士業を営むというわけで、私に言わせればこれぐらい保護されている専門職業はほかにないと思うのです。アメリカに比べると、日本の弁護士は大変恵まれた地位にあるということになります。

 訴訟が多い、法律家が多い、法が多いというのはみんなつながっているわけです。こういう社会では何もかもが法に関わることになる。そこでどういうことが起こるかということですが、これは当然弁護士がそれだけいるとまさに生計を立てるための競争が非常に激しくなります。いろいろな価格で弁護士のサービスを提供するということで、法曹の中での階層化が進みます。『フォーチュン』に載るような大企業をお客に持つ恵まれた法律家の層から、個人でやっている、遺言とか、離婚とか、交通事故というふうな事件を引き受けて、それで生計を立てる個人営業の弁護士まで非常に階層化している。いろいろなサービスを提供し、いろいろなお客を相手にする弁護士の層ができ上がる。上の方はどんどん組織を大きくしていって、依頼人である大企業に匹敵するような、1,000人を超える弁護士を抱えたいわゆるロー・ファームというのがたくさんできてきております。

 こういうふうに弁護士という職業、弁護士のサービスを大きく組織化してしまうと、当然これは企業と同じことになりますから、組織の論理でもって一番重要な目的は利潤をいかに大きくするかということになっていくわけでして、こういう大ロー・ファーム、それから組織化が進む弁護士業について、一体それでいいのか、先ほども公という概念について議論がありましたけれども、一体、弁護士という職業には公のために働く、公益のために資するという倫理がなくてもいいのかといった議論が出てきております。

 こういうふうに法が多い、法律家が多い、訴訟が多いということになりますけれども、どうしてそこまで法律家が増えるのか、あるいは法が多くなるのか、訴訟が多くなるのか。これは全く市場の原理と申しますか、需要と供給の関係で弁護士の活動領域、あるいは法の関わる領域がどんどんと広がっていったということで、それをどこかで規制しようとか、あるいはそれをどこかである一定数にとどめよう、制限しようという考え方は、アメリカの社会あるいは司法制度の中には見られません。ですから、全く市場で弁護士のサービスが求められるのに応じてそれを提供する弁護士が増えていくという関係になっております。

 なぜこういう社会をつくることになったのか。それは御存じのように歴史的にも社会的にもアメリカは移民の国で始まりましたから、まずお互いの共通の行為規範、お互いに理解できるものをはっきりさせるということで、それが法に求められたわけでして、やはり建国の初めから、法を中心にしていろいろな規範を組み合わせていく、それによって社会の秩序を保つということから始まったと言えます。

 こういうふうに法に頼る社会に生活しておりますと、市民は一体どういうことを期待するのかということですけれども、これはアメリカの学者がアメリカの法文化について論じた本がありまして、その中で非常に興味のある二つの傾向を挙げております。

 こういう法に頼る社会に住む市民というのは、一つは自分に何かの損失が生じた場合、何かの損失を被った場合、これは不幸、不運、事故、病気、何でもいいわけですけれども、どうも自分が考えていなかったような出費を強いられたというような場合、当然だれかが埋めるべきであると考える。だれかがということは自分以外でありまして、それは加害者である場合もありましょうし、コミュニティーである場合もありましょうし、あるいは生活保障のような制度から当然の支給を受けるということでありましょうし、あるいは訴訟をしてでも取るということでもありましょう。とにかく何らかの損失が生じた場合には法に訴えて、それを埋めさせるということが当然のこととして市民感覚の中に生じているというのであります。

 2番目の傾向は、これもやはり法に関わることとして、自分の主張について法の公正な手続が保障されるべきだ、自分が何かを主張する場合には、それはちゃんとあらかじめ定められた手続にのっとって、手続を踏んで、自分の主張を十分展開し、それを聞かせる、そして、それに反論があればその反論を十分聞いた上で、利害関係のない第三者に自分の主張の当否について判断をしてもらうことができる。そういう手続が保障されるという期待、これが強くなる。これはアメリカ独特のデュー・プロセスという考え方ですけれども、こういう二つの市民の期待が非常に強いということを指摘しております。

 私も、これはなるほど当たっているなと思うわけですけれども、市民が法に対してこういう期待を持つ、こういう要求を持つということになると、それはどんどんそういう主張をし、手続を踏んで、そして損失を埋めろと訴えるということになるわけですから、これは社会の法化という現象、法社会学の専門家が言う法化の現象がどんどん進んだということがアメリカで見られます。

 1960年代ですと、まだアメリカには伝統的に法が立ち入らない領域とされてきたものが幾つもありました。家庭、夫婦の寝室、そして学校、教会、そうした領域で行われたことについては、これは法は関わらない、法は立ち入らないということであったのですけれども、60年代、70年代にかけて、そして80年代になればなおのこと、こういう領域にどんどん法が入るようになった。そういう領域で何らかの損失を受けた、あるいは自分の権利を否定された、不利益を受けたと考える人が弁護士を立てて文句を言う。

 私にもアメリカ人の友達で学校で先生が何人かいますけれども、本当に近ごろはやりにくくなったと言います。教室でかつては自分の責任で教育ができたのに、すぐそこへ父母が、しかも弁護士を伴ってやってきて、これこれについてはけしからぬと言う。そうすると学校の方も弁護士を雇って、そして手続を明らかにして、そこでその苦情を処理しなければならない。こういう法化の現象が、言い換えれば法の関わる領域の拡大がどんどん進んできております。

 こういうふうにごく普通の市民が、本来ならば、あるいはかつては、話合いによって片付けていたことに、専門家、弁護士のサービスを求める、専門家が関与する、しかも、それを司法制度に訴えて解決してもらうということになれば、当然そのための費用がかかるわけでして、法化の費用が非常に大きくなってきた。これは間違いないことであります。

 それはいろいろなことに現れております。ブッシュ前大統領時代にダン・クウェールという副大統領が委員長になって、アメリカの国際競争力が落ちた、それはアメリカで余りにも法化が進んで、法化のための費用が製品に織り込まれる、あるいは、いろいろな形で社会的な負担になる、これをどうするかということを委員会を作って正式に取り上げた。法化の費用を何とか抑えなければならない、あるいは改善すべきことを改善して法以外の紛争解決手段について考えなければならないという議論が出てきております。この法化の費用というのは法制度を利用する費用、専門家のサービスを買う費用はもちろん含まれるわけですけれども、アメリカで日本と比較してやはり一番費用のかさんでいるのはどこかというと、それは法を強制する、法を実行する、法が定めるところを実行するための法制度のいろいろなメカニズムを動かすための費用、これが一番大きいと思うのです。

 アメリカのような社会では、いやだと言えばそのいやだと言っている者に、法に訴えてそのいやだと言っていることをやらせる、そのための強制手段というのが非常に大事なのであります。私は、アメリカ法の勉強をしていて、そしていろいろな際に日本法にアメリカの法概念を移そうとするのですけれども、一番困るのはエンフォースメントという言葉なのです。日本ではエンフォースメントというと強制執行、それは一番狭い意味なのですけれども、アメリカでエンフォースメントということが使われるのは、法に従って相手がいやがろうとどうであろうと法の定めることを法の定めるとおり行う、これがエンフォースメントでありまして、まさに法の働きです。いやだと言っているものに法に従わせるための費用、これが大きいのです。

 それからもう一つ困るのはコンプライアンスという言葉でして、これも法を守る、法を遵守するというのですけれども、アメリカで使われるのは守っているかどうかをだれかが責任を持って絶えず監視して、そして守らせる。そのためにコンプライアンス・オフィサーという監視するための肩書を持った人がたくさんいる。こういう二つの言葉が日本語になかなか移らないというところを見ても、アメリカには法を強制、実行するための手続、手段で日本にないものがあると言えると思います。

 こういう費用のかかる法制度を動かしていくためには、そのための人材、そして公的な金あるいは社会投資、インフラの整備といった出費が要るわけで、これもアメリカでは非常に大きな額がそれに充てられることになります。裁判所のための費用の日米比較をやると面白いと思うのですけれども、いろいろな違いがありますからなかなかぱっと比べられるような数字は出てまいりませんが、しかし、アメリカでも裁判所であるから自動的に予算が付くということではないようです。議会のテレビ中継を見ておりますと、最高裁判所の裁判官が2人ぐらい組になって、毎年予算の時期に連邦議会に出まして、最高裁の建物は建って長いので屋根が漏るとか、コンピュータを入れたけれども配線の管がないとか、そういうことを議会の予算委員会の前で言っておられるのを見たことがあります。予算を取って充実するというのは大変な努力で、これはどこの国でも同じことでしょうが、こういう費用の手当が当然必要になってまいります。

 法に頼る社会の一番基本的な思考方法は何かと考えると、これはいわゆる対決主義なのです。対決主義というのは、決められた手続にのっとって自分の主張を徹底的に展開する。そして、その前提は自分の言うことは100%正しいのであって、相手の言うことは100%間違っている。これがぶつかる。そして、主張を尽くすことによって、証拠を出し、証人を呼び、そして第三者に判断してもらうことによって事の決着をつけよう、白黒をはっきりさせようというのが、このアメリカの法に頼る社会、そしてその司法制度の根底にあると思います。

 こういう対決思考というのを改めろと言われても、にわかに改まるとは思えませんけれども、いろいろな紛争の場で、こういうことではなしに、お互いの利害関係が一致するのはどこだろうかという辺りから話を始めてはどうか、そのために弁護士がいては邪魔になるから、弁護士をまず外して、ビジネスの紛争ですと経営者がいきなり出ていって相手と一体利害相通ずるところはどこだろうというところから話を始めよう。そのためのいろいろな試み、パイロット・プラン、モデルづくりが始まっております。これは、訴訟以外の紛争解決手段を活用しようというところにもつながるわけでして、仲裁であるとか、調停であるとか、あるいは和解といった当事者の話合いを主とした解決を求めることを制度的にもっと整備していこう。アメリカ人から見ると、日本はそういう制度をたくさん持っていてうまくやっているらしいということで、日本にそういう点から注目するアメリカ人学者もいました。裁判以外の紛争解決手法が本気で検討されております。

 これも大変基本的なことになりますけれども、アメリカではこういう対決思考、そして法に頼るしかないということが、結局、共同体の崩壊に因る、だから、人は法に訴えるしかないということになるので、もっと共同体でお互いの話合いができればという反省があるようです。つまり、共同体を見直そう、それを復活しようということです。クリントン大統領の夫人が『ワン・ビレッジ』という本を書いて、そしてそれが大変売れたということですけれども、それもこういうところにつながると思います。

 「人に頼る社会」。これは日本についてのことでありますので詳しく申し上げる必要はありません。日本の今までの物事のやり方が、あらかじめ根回しをして関係者に意見を聞いて、そしてどの辺でまとまりがつくかということを基にして物事を決め、動かしていくということが基本にあったと思われます。それで、これは社会学者が既に指摘しているように、日本の村社会的な物事の決め方、アメリカ人の日本研究者に言わせると、日本ではそういう村社会的な物事の決め方が大企業の大きな組織の中でも、さらに政府の中にも持ち込まれて同じことをやっているという批判があるわけですけれども、こういうやり方が通らなくなってきた。それは、そのコンセンサスの外側にある人、コンセンサスづくりに呼ばれなかった人、加わらなかった人に、一体どんな手続でどういう話合いが行われてどう決まったのか、そしてそれはだれが責任を持ってどの範囲に及ぼすのかという辺りの説明が、往々にして欠けるということであったわけです。

 コンセンサス社会が非常に効率的であったのは、少なくともコンセンサスづくりに加わった人はそこで決まったことは守るというのが前提ですから、守らなければそれこそ村八分にされるというようなことになる。この方法が非常に効率がよかったのは、それに加わった人の間では決まったことを実行する、それを法に訴えて実行させるという必要がなかったからです。普通はそんなことは考えなくてもよかった。

 ですから、法を動かす、法に訴えるということのコストを考えずにこういうやり方をしてきたということになります。それが、結局、現代に至ってこの決定過程の不透明性とか、一体だれが責任を負うのかとか、集団の責任か、個人の責任か、あるいは合意に加わらなかった人やそういう話合いの場にいなかった人にとって、そこで決まったことは公平であるのかといった問題が吹き出してきて、特に日本に外から入ってきた人たちに対する配慮、あるいは政策の上でもそういう配慮をしなければならないということになると、はやりの言葉で言えば日本での物事の決め方、進め方がアカウンタビリティーがない、説明が何もないままで結論を押し付けられるという批判につながっているわけです。

 こんな話に結論はないのですけれども、二つを組み合わせるとすると、法に頼り、人に頼るような社会が設計できれば、これが一番いいということになるのだと思います。レジュメの7に書きましたことは、既にここでいろいろな方々がおっしゃっていることになります。

 実は私が一番言いたいこと、日本の会議では議題に挙がっていない、最後の「その他」というのが一番大事で、私はレジュメに載っていないことをこれから申し上げるのですけれども、アメリカと日本のこういう法制度、司法制度を考えてみて、どこが一番違うんだろうかと考えるわけです。その手掛かりとして、日本にはあるけれどもアメリカにはないもの、逆にアメリカにはあるけれども日本にないもの、司法制度についてそれは何だろうを考えるのです。時間がありませんから、一つだけ申し上げますと、はっきりと日本の司法制度というのは官僚が今までコントロールしてきた、官僚が担ってきた、そして動かしてきた。明治以来ずっとそうであったと言えます。

 それで、非常にうまく動いてきたという評価ももちろんあるわけです。効率的な制度であったということになる。アメリカでは司法制度を官僚が担い支配することはなかった。アメリカの司法制度をだれが動かしているのかということになると、アメリカの裁判官、弁護士、あるいは検察官といった名前が挙がりますけれども、しかしその実を見ると、裁判官にしても日本の裁判官のようにキャリアシステムはとっておりませんし、いろいろなバックグラウンドを持った人がいろいろな方法で裁判官に任命される。これは連邦と州によって違いますから、詳しく見ていくときりがないのですけれども、終身の身分保障が連邦の裁判官には与えられていて、全く独立であって、一旦、地裁レベル、高裁レベル、あるいは最高裁に任命されるとまず動かない。それで、昇進というような考え方は裁判官についてはないということですから、裁判官自体が官僚化するということはアメリカでは考えられないわけです。

 次に、弁護士ですけれども、弁護士は先ほども申しましたように日本では人数が少ない。非常に保護された専門集団である。法廷中心の実務をやるということですけれども、これに一番欠けているのは競争にさらされていないということだと思うのです。弁護士を頼もうとしても、大体、料金の設定からしてよく分からない。非常に弁護士を頼みにくいという状況が続いている。アメリカでは広告が認められておりますし、近ごろニューヨークに行って地下鉄に乗りますと一番目立つのは弁護士の広告なのです。車内のつり広告で、遺言25ドルでやりますとか、交通事故に遭えばこの番号にすぐ電話してくれとか、そういう広告がやたら目に付く。徹底した価格競争がそこで起こっている。司法と競争とは無縁だという議論があることは承知しておりますけれども、しかし少なくとも弁護士サービスを市民に提供するという点では大いに競争があってしかるべきだろうと思うのです。

 最後に、私はここ30数年大学で法学教育に携わってまいりましたので、司法制度改革の一環として法学教育、法曹養成が挙がっておりますから、この点について一言だけ申し上げさせていただきます。これも私は反省を込めて申し上げるわけで、この年になって反省してもしようがないのですけれども、つくづく日本の戦後の法学教育、法学教育を行っている大学は90あると申しますけれども、戦後の大学で行われてきた法学教育というのは本当に安上がりな教育だったと思います。それは一般教養なのか、専門教育なのか、教えている我々がはっきりした議論もなしに、はっきりした定見もなしに、どちらでもいいだろう、つぶしがきけばいいだろうということで50年間続けてきた。それがまさにこういう事態になっていて、ロー・スクール構想というのが方々で打ち上げられておりますけれども、しかし、こういう構想の底にも私は安上がりという考え方が見えていて、改革に本当につながるんだろうかという心配をいたしております。

 端的に言えば、文部省主唱の大学院構想が出てきているわけですけれども安上がりなのです。大学も教えなさい、そして身分だけは大学院教授ということに格上げしましょう。大学院も教えなさいということなのですから、二つを一つの給料で教えさせようという、これぐらい安上がりなことはないのです。ですから、今の教育改革についてもこういう安上がりの思想から抜け切れないことを大変心配いたします。

 法学教育がそういう状態で50年経過したというのも、これは大学間に競争が全くなかったからです。これまた官僚支配になりますけれども、文部省が予算を配分する。少なくとも国立大学については予算を配る。私学については文部省はあまり考えていないわけですから、私学は御自由におやりなさいと言いながらいろんな規制をするということで、大学の創意、教育現場でやりたいことに金が付かないっていうシステムで50年やってきた。だから、こういうことになって、安上がりな法学教育を安上がりなままでやってきた。

 大阪人としてのコメントを最後に付け加えさせていただきますと、大学の法学教育がなんぼのもんじゃと問われると、なんぼのもんでもない法学教育をやってきたのです。これは、反省いたします。

【佐藤会長】 どうもありがとうございました。いろんな思いをそれぞれの委員の皆さんお持ちだろうと思います。どうぞ御質問いただければと思います。

【井上委員】 私も大学で法学を無自覚に教えてきた者としては多々反省させられますが、システム自体が安上がりなもので済まされてきたという点では強い共感を覚えます。

 ところで、アメリカの制度では、裁判官についても官僚化する要素が少ないということなのですが、同時に、そういう裁判官であっても、これを全面的には信頼しないシステムになっているのではないかと思います。陪審制度がその顕著なあらわれだと思うのですけれども、なぜそうなのでしょう。裁判官も、連邦を除けば、選挙によって選ばれるところがまだ多いわけで、そういう民主政による選任の形になっている。連邦の場合も、議会での承認が要るということで、その議会で候補者は時として非常に厳しい審問のようなものを受けることもあるわけで、そういう意味では全部が民主政の仕組みの中で選ばれるようになっていると思うのですが、そうでありながら同時に、その裁判官には全面的には任せない。その辺は、なぜそうなのでしょうか。

【藤倉氏】 裁判官にもいろんな種類がありますし、州の裁判官では選挙で選ばれるところもありますから、裁判官が選挙運動をやる、資金を集めるということで裁判官になるところもあるわけです。裁判官がどういう仕事をしているか、どういう裁判をしているかということに対するチェックの機能というのは、いろんな形であるわけでして、裁判官の仲間うちの仕事の評価、それから、それは首席裁判官が主にやるようですけれども、事件を抱え込んだままなかなか処理できない人については、いついつまでに判決をという指導をしたりですね、配置を変えたりということが行われるようですし、また州によっては裁判官が受理した事件を、何か月以内に何%こなさなければならないという非常に詳細な条文まで置いた法律をつくっているところもあります。

 そういう裁判官に対するチェックというのはいろんな形で働く、一番厳しいのは弾劾にかけるということですけれども、これは大変な手続ですからそうやたらあるわけではない。連邦については終身の身分保障なので、だれでも年を取ってくると辞めたくないわけです。いつまでも残るわけです。これを身分保障がありますから辞めさせるわけにはいかないです。そこで、どうするかっていうと辞めた方がいいという、いろんな条件をつくるわけです。辞めても給料はそのまま終身続くと、仕事はしなくてもいい、そういうこともあるのです。

 あるいは、仕事も少々したいんだと言えば、それでは3分の1の事件担当数で年のうち3か月やりなさいというようなことで、それでは一応身を退こうと、それで後任をちゃんと入れて。しかし、補助裁判官のような形で仕事は続ける。非常に柔軟な対応がありまして、何とか大変な量の事件を処理していくというシステムになっているようです。更に思い切ったことは、裁判官として正式に任命された人でない人を裁判の補助にどんどんと使っていく、専門家をどんどん使っていく。マスターと呼ばれますけれども、それを裁判官が任命して事実に関すること、和解交渉に関すること、すべて任せて、そしてちゃんと案ができたところで裁判官に連絡して必要であれば最終判決を下すといったことが行われてますから、司法制度の中に多様な要素が取り入れられていて、多種多様な背景を持った人が専門家として裁判に携わるというシステムになっております。おかしな判決については市民からも相当厳しい批判が出てまいりますし、新聞もたたきますし、そういうチェックも非常にあると思います。

【竹下会長代理】 大変興味のあるお話を聞かせていただいてありがとうございました。私も、最後のところ、今、お話がありました裁判官にいろいろなバックグラウンドのものが任命されるということなのですが、実際にはどういう人が選ばれるのか。連邦の場合には大統領の指名ということになっておりますけれども、大統領とはいってもどういう機関がどういうことを基準にして選んでいるのかということが一つです。

 それから、州の場合に選挙であるというと、一体、社会的な実態としてどういう弁護士が立候補して裁判官に就任することになるのか、その辺りのことをもし御存じでしたらお伺いしたいと思います。

【藤倉氏】 第1点の連邦の裁判官への任命ですけれども、連邦には地方裁判所、中間の控訴裁判所、それから最高裁とありまして、基本的には大統領が指名して、そして議会の承認を得て任命されるシステムになってます。その名簿を一体だれがつくるかっていうことなのですが、これは、司法長官が大統領のために裁判官候補者の名簿を準備しますが、大統領はだれの意見を聞いてもよいことになっています。

 御存じのようにアメリカでは4年ごとに、特に政権が代われば省庁のトップ30%はがらっと顔ぶれが代わりますから、名簿もある程度政党性を考慮したものになる。ですから、ときの政権を握っている大統領と同じ党のものが、名簿の上ではたくさん出てくる。もちろん、反対党の支持者を任命する例もままありますけれども、そういうことになる。

 その名簿は公表されて、(最高裁の場合は政治的に影響が大きいものですから、大統領が絞って1人にするまでは出てきませんけれども)、アメリカ弁護士会(ABA)、が厳しい評価を加えます。評価は4段階に分かれていまして、エクセプショナリー・クオリファイド、異例にこの人は資質がある。次がウェル・クオリファイド、仕事を十分できる。次がクオリファイド、勤まるだろう。最後がノット・クオリファイド。これも公表されるわけです。ですから、そういうノット・クオリファイドとされたような人が任命されると、やはり政治的な問題になりますし、そういうことはしないということになる。ですから、その名簿作成の段階でいろんな人の働きかけがあるんでしょうし、また、広く中立的な立場からチェックがある。

 そこがアメリカの特徴だと思うのですけれども、そういう決定あるいは選考をするのが一元的でないのです。必ず一つの責任を持つ機関があれば、それに対抗する機関があって、それはおかしいとか、いや、これはこっちの方がいいという議論が必ず起こるシステムになっているわけです。

 それから、州の裁判官で選挙で選ばれているところですけれども、自分の支持者が実際に訴訟で自分の前に来るということが起こるわけです。その場合は自分から担当を辞退することはできますが、しかし、選挙のときにたくさん資金をくれたような人が当事者として出てくると、これは随分具合が悪いだろうと思うのです。そういうことは起こらないことではない。しかし、それはシステムとして読み込み済みといいますか、それでも自分は公正な判決をしたんだということで説明が付けばそれでいいという考え方だと思います。

【竹下会長代理】 ついでなのですが、私、余り詳しいことを知らなかったのですが、州については、多くの場合、弁護士資格が裁判官の任命の要件とされているのでしょうが、連邦の裁判官については、実際は弁護士がほとんどなのでしょうけれども、法律上そういうことは定められていないということを最近読んだのですが、そのとおりなのでしょうか。

【藤倉氏】 ないと思います。ただ、法律の訓練のない者を裁判官にするというのは、これは非常に危険なことでありますから、まず、起こらないと思います。

【鳥居委員】 たまたま、私、ゆうべ遅くニューヨークから帰ってきたんです。ニューヨークの郊外のライトアーム・ヒルトンという田舎のホテルに泊まっていたら、ABAの総会をやってたんです。それの後でニューヨーク・ステート・バー・アソシエーション、最初ぼくはバーの経営者の総会かと思ったんですが、そうではないんです。弁護士会なんです。それで蝶ネクタイで夫妻同伴ですごいパーティーなんです。それで、質問したんです。実際にはここで何をやるのですかと。ほとんどのことはここで決まる。これを年中やっているから自分たちはいろんなことを決められるんだって言ってましたね。たまたま、一昨日それに当たったんです。

【井上委員】 連邦地裁の裁判官の選任過程は藤倉先生がおっしゃったとおりなのですが、実際には、所在地である当の州から出ている与党の上院議員の推薦が非常に力があると聞いてます。

 もう一つ、いま触れられたABAの評価委員会のことなのですが、この委員会はかなり独立性の高い機関で、必ずしもABAの意向を受けて動いているわけではありません。それから、その委員会も、最近は、その権威というか、それがないがしろにされるような、その評価と食い違う裁判官の指名が実際にはなされるということで、かなり大きな問題になっているようです。

 ついでにもう1点だけ質問させていただきますと、弁護士さんの世界も競争社会で市場原理に任されているというお話でしたが、質のコントロールはどうなっているのか。ひどい弁護士に当たった場合にはひどい損害を受けることになると思うのですが、その辺のコントロールの仕組みはどうなっているのでしょうか。

【藤倉氏】 これは全く自由競争です。100万人ぐらいいるわけです。それは食べていける弁護士もいれば食べていけない弁護士もたくさんいるわけでして、その質をコントロールするというのは、アメリカの弁護士会は強制加入でない州も多いので難しい。先ほどから名前が出ているアメリカン・バー・アソシエーションも任意団体ですから、これは弁護士の質のコントロールというのは難しい問題なのです。各弁護士会の自律に任せるしかないわけです。ですから、司法試験に通れば弁護士になれるということで、あらゆる弁護士がおります。

【佐藤会長】 ABAは、どういう組織になっているのですか。

【藤倉氏】 ABAは任意団体です。アメリカ中の会員になりたいという人が入るわけで、弁護士、それから法学の先生も入れる。たくさんの部会があって活動するという形です。

【佐藤会長】 必ずしも、いわゆる法律家が全部入っているわけではなくて。

【藤倉氏】 全部入っているわけではなくて、強制加入ではありません。全くの任意団体です。

【佐藤会長】 それが、いろいろな問題があるとしても権威を持っているというのは、どこにその根拠があると考えたらよいんでしょうか。

【藤倉氏】 とくに根拠はないと思います。

【佐藤会長】 権威はおのずからできてくるかもしれないけれども、なぜおのずからできてきているのか。

【藤倉氏】 それはある程度の数がまとまったということで、いろんな政治的発言力があるということですし、いろんな勧告・意見とか、それから、法の整備、改革など、いろんないい活動をしているからだんだんと社会的信用が付いていくということだと思うのです。法学教育についても、ABAの発言力というのは大変大きいです。

【中坊委員】 1点だけ。一つは今おっしゃる強制加入団体である弁護士会というのは、アメリカには全く存在しないのですか。それとも存在した、あるいは現にしているのですか、過去にしたことがあるのか、そういう点はいかがなものでしょうか。

【藤倉氏】 インテグレイティッド・バーというのがいわゆる強制加入の弁護士会なのです。半数を超える州がこの制度を採用しています。

【中坊委員】 やはりあることはあるのですね。

【藤倉氏】 それも州によって州単位です。

【中坊委員】 それから、もう一つは、先ほど井上さんもお尋ねになったことと同じことなのですが、広告というのは基本的に利潤追求のために自分の情報を出すことですね。そのことと弁護士に関する情報を客観的に知らせるということの間には、やはり差があるように思うのです。そこで利潤を追求するということになってくると、本当に弁護士にとって必要なことが、本当に市民に知らされるだろうかと。例えば非常に正義感が強いだとか弱いとかいうようなことは、今はもう藤倉先生のおっしゃったように遺言とか委任手続とか、そういうふうに定型的なことは、確かにおっしゃるように、定型的な仕事ですから広告になじみやすいのですけれども、本当の意味における弁護士のいろんな能力とか正義感とか、いろんなことは、ある意味において非常に競争に利潤を追求する広告には、必ずしもなじまないように思うのですが、そういう点に関する議論というのはアメリカにはないのでしょうか。

【藤倉氏】 全くおっしゃるとおりでして、その点が一番難しいと思うのですけれども、やはりアメリカでも事情をよく知っている人の紹介によって弁護士を探す。あるいは、会社関係ですと長い付き合いのある弁護士事務所に依頼をするという基本的な信頼関係というのが非常に大事でして、広告したから広告を見てというのは、少額事件とか、どの弁護士が付いてもこれだけのことはやるだろうという類型の事件については、それでいけると思うのです。

【藤田委員】 大変幼稚な質問で気恥ずかしいんですけれども、勇を鼓して伺いますと、アメリカの裁判関係の記事を読んでいると不思議に思うことがあるのですが。例えばもう大分以前のことになりましたけれども、テキサコとベンゾイルの事件ですが、一流の石油会社同士の営業妨害の事件で、二百数十億ドルの損害賠償を命ずる判決が出ました。懲罰的損害賠償でしょうけれども、その執行を停止するために敗訴した全額に利息も含めて供託しなければならないということになり、テキサコが、会社更生の申立てをして、保全命令によって供託しないで済ませようとした。つまり、倒産してしまったわけなのですが、日本の法律家から見ると非常に不思議な判決と感ずるわけです。

 それから、ドライブ・スルー・レストランでホット・コーヒーをひざにこぼしてやけどした奥さんがレストランを訴えるとか、あるいは雨に濡れた猫を電子レンジで乾かそうとしたら死んでしまったので、そのレンジに猫を乾かすのに使ってはいけませんと書いてなかったからというので損害賠償請求をして、数十万ドルの損害賠償を得たとか。日本の法律家から見るとどうしてそんなことになるのかなという気もするのですが、そういう判決というのは現実にあるのでしょうか、あるとすればどうしてなのでしょうか。

【藤倉氏】 最後の猫ですけれども、私、調べたことがあるんです。いろんなデータベースを調べましたけれども、そういう訴訟は起こったかもしれませんけれども、判決に至った例ではないと思うんです。猫をレンジに入れる方が悪いですね。

 テキサコのケースですけれども、懲罰損害を認めるという考え方の基本にあるのは、それで会社がつぶれてもそれは当たり前だと、それはまさに懲罰なんだという考え方ですから、陪審がその額を認定するんですけれども、まさに懲罰してやれということで会社がつぶれるのが一番徹底した懲罰であるという考え方ですから、そういうケースが出てきても不思議ではないシステムになっている。

【藤田委員】 国民は別にそれを不思議とも思わないということですね。

【藤倉氏】 思わないです。

【山本委員】 非常に興味のあるお話でしたけれども、1960年代から現代に至る30年強の間にかなりドラスティックにアメリカ法化社会というのが進行したのではないかと。先生おっしゃるように聖域であった家庭とか、夫婦の秘密とか、学校までずっと入ってきた。これはアメリカに建国200年の歴史があるわけですが、この200年の中で初期のころはいろいろあると思いますけれども、アメリカの司法の在り方というのは、基本的に大きな変化はなかったのではないかと、一旦形ができてからはですね。にもかかわらず1960年代以降どうしてこんな急速な法化社会になったのかというのが疑問なわけです。

 先生がおっしゃった中に、アメリカのベーシックな文化的歴史の背景を除外しますと、一つは、弁護士の先生の間に競争がある。

 それから司法制度そのものをコントロールするようなセクションはないんだと、例えば裁判官は非常に多様な人たちが裁判制度を担っている。こういうおっしゃり方をされたわけですけれども、その後者の方の、数が弁護士さん上だったいうのは、需要と供給の関係で相当な法化社会を進めるのに大きな影響あると思いますが、裁判制度の方の多様さというか、もっと端的な言い方をすると日本の場合はキャリアが司法制度をある程度コントロールしてきたと、先生、安上がりだとおっしゃいましたけれども、こういう制度がないために一段と法化社会を質的に浸透させた、高いものにするような、そういう部分もあったのではないかとも思うのですけれども、その辺はいかがでしょうか。

【藤倉氏】 確かにおっしゃるように、まず、人数が日本の場合はうんと限られていますし、それから品質管理ができているわけです。裁判官ならこの程度のことは間違いがないというところがあるのですけれども、アメリカのように非常に多様な背景を持った人が裁判官になる。特に州レベルではですね。となるとこれは能力・資質の点でどうかと思う人はたくさん入ってくる。しかし、それは仕方がないというのが前提でありまして、それは任命過程で任命する責任を持つ人が目がなかったということになるでしょうね。

 ですから、こういうふうに法化がどんどん進んでいって、コストが大きくなり過ぎて、どうにかしなければならないということはみんなが言うのですけれども、それをだれが、どこを抑えて法化のコストを下げるのかということになると、アメリカの社会は今のところ特効薬はないのです。だから、やはり法化はどんどん進むだろうと思うのです。それで、コストが非常に上がる。端的に言えば非常に住みにくい社会になっていくだろうと思います。それでもいいと言うならそれでいいのですけれども。

 法を使い過ぎると、費用と、それから本当に人間同士の理解でもって動いていく部分がどんどん少なくなっていくと思いますし、住みにくい社会になるだろうと思います。ただ、そういう反省はアメリカでも十分あるわけでして、まさに共同体の復活などと言われているのは、やはり人間関係で人間を信頼して、任せるところはそれでいくべきだっていう考え方が出てきたのだと思います。

【吉岡委員】 法化社会が非常にコストがかかるというのは、確かにそういう面があるのだろうと思ってお話を伺っていたのですけれども、アメリカの特徴といいますか、多民族国家で英語をしゃべれない国民もいらっしゃる。そういう中で生活していこうとすると、全く第三者的に合理的な判断ができないと、やはり生活がしにくい。日本のような同質社会とは大分違うのではないかなという、そんな感じをもっております。

 それから、競争の導入と言いますか、アメリカの弁護士の場合に広告されて競争がある、それが価格競争にもつながっていて効率的になっている。消費者の方はそういうのを見て安い弁護士を選ぶこともできるという、そういうことでの競争の効果というのは確かにあるのだろうと思うのですけれども、利用する国民の立場というか、そういうので言いますと、企業とか大きいところは資本力もありますから、そういう広告を見て、あるいはそれ以外のいろんな情報を得ていい弁護士さんを付けることができる。だけど、個人、しかも資産のない個人の場合には競争社会の中ではいい弁護士を付けることが非常に難しくなりはしないか、そうなると、法の下の公平性というのをどう考えたらいいのかと、お話を伺いながら思ったのですけれども。

【藤倉氏】 おっしゃるとおりの問題は、まさにアメリカで出ておりまして、ただ、それではだれが何を基準にして選ぶのか、推薦するのかということになると、もうアメリカではそういう基準もない。結局、市場で店を開いていて、これだけのお金でやりますという人を、それではこれだけのお金を払ってやってもらいましょうということで選ぶしかないという考え方が基本にあって、しかしそれは危険が大き過ぎると考える人はいろいろ問合せをしたり、友達に聞いたり、あるいは知っている法律家に聞いたりというふうなことで弁護士さんを選ぶということはもちろんあるんですけれども、そういうことができるのはある程度生活に余裕のある中産階級以上ですから、低所得者で法律問題に巻き込まれて、弁護士が要るという場合にどうするか、これはもうアメリカではちょうど医療保障制度と同じように最低限の生活保護を受けているような人のためのリーガル・サービスというのは、それは公的なものが一応あるんです。各州に任意のものもありますけれども、その部分はカバーされている。

 それから、お金持ち、あるいは大企業は選び放題ですから、十分いろんな情報を持ってて一番いいのを選ぶことができるんです。中産階級が一番問題なんです。いい弁護士を選ぶ、間違いのない弁護士を選ぶ、この問題はアメリカでもまだ解決されてないと思います。

【佐藤会長】 よろしゅうございますか。今日は貴重なお話を本当にどうもありがとうございました。(拍手)

(藤倉帝塚山大学法政策学部教授退室)

【佐藤会長】 それでは、配付資料について事務局から御説明を願います。

【事務局長】 それでは、本日お手元に配付いたしました資料について、御説明申し上げまますが、この配付資料一覧の3番目の「各界の提言等に現れた司法制度改革に関する論点」といいますのは、以前にお配りしました、各界からの提言及び国会における質疑の中に現れている、司法制度改革に関する諸論点につきまして、第2回会議において確認をされました制度的インフラと人的インフラという2本柱に沿いまして、事務局で機械的に整理したものであります。もちろん、制度的インフラと人的インフラへの振分けも、以前に審議会で整理していただいたことに依拠したものでありますが、厳密な分類というわけには到底まいりませんことは、御了解いただきたいと思います。

 4番目の「諸外国の司法制度概要」は、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの司法制度の概略をまとめたものであります。今後審議を進めるに当たりましては、諸外国の司法制度についてまとめたものが必要であるとの会長の御指示もありまして、事務局で作成いたしました。第1回会議においてお配りしました日本の司法制度と併せて御参照いただければと思います。

 なお、このペーパーの内容につきましては、御要望がありましたら、後ほど、各担当者に若干の説明をさせたいと思っております。

 なお、5番の「各界要望書等」には、21世紀政策研究所から出ております「提言:民事法律扶助制度検討の視点」というのが入っておりますので、次回の会議に予定されております民事法律扶助制度に関する審議の御参考にしていただければと存じます。

 また、その中に「司法制度改革に関する一試案平成11年3月」というペーパーが入っております。これは通産省が部内の検討に資することを目的としまして、本年3月に作成した暫定的な一試案ですが、省としての公式見解ではないとのことです。先般、一般専門誌、具体的には『法学セミナー』1999年11月号の田川和幸氏のインタビュー記事でございますが、その中で本ペーパーに言及がなされていることもありまして、審議の際の御参考までに通産省の了解を得まして、本日、委員の皆様限りで配付させていただくということでございますので、その点、御了解をいただければと思います。

 そのほかのものにつきましては、いつもどおりのものでございますので、よろしくお願いします。

【佐藤会長】 ありがとうございました。ただ今、御説明いただきました資料のうち、「諸外国の司法制度概要」につきましては、せっかくこのように取りまとめていただきましたので、今後いろいろ考えていく際の参考になるのではないかとも思い、時間も余りないのですが、ちょっと説明をいただいておいた方がいいのではないかと私は思うのですけれども、いかがでございましょうか。

(「はい」という声あり)

【佐藤会長】 では、すみませんがお願いします。

【事務局長】 分かりました。これらを担当いたしました参事官と主任専門調査員に順番に説明させます。アメリカからお願いします。

【早野主任専門調査員】 それでは、お手元の「諸外国の司法制度概要」のアメリカ編について、御理解の便に供するために若干説明させていただきます。

 アメリカの司法制度の特徴というのは、先ほどから出ておりますが、その社会の在り方に規定される地域主義に由来する多様性にあると考えられます。先ほど出ましたように、アメリカの場合、50の州と一つの連邦ということで、51の司法制度があると御理解いただければと思います。ここに書きましたのは、連邦でございます。連邦はその意味では51分の1でしかないわけでありますけれども、連邦であるだけにそれなりの影響力を持っていることは事実でございますので、これですべてでないにしても、おおまかなことが分かるという意味で連邦を中心に説明させていただいております。

 第1は、裁判所、裁判官でございます。連邦の裁判組織は基本的に三審制をとっております。州の方はかなり個性豊かな構造の裁判組織を持っておりますが、大体五つくらいのタイプに分かれると言われております。

 法制度上、州裁判所の管轄が非常に広いために、実際上もアメリカにおける訴訟の大半は州裁判所の方で処理されております。1998年の概数ですけれども、一般的管轄権を有する事実審では、州で3,000万件、連邦になりますと30万件と言われております。

 裁判官でございますけれども、アメリカの裁判官は連邦であろうと州であろうと、基本的に弁護士資格のある者から、正確に言えば実務経験のある法曹資格のある者から選ばれております。もっとも法律上は、連邦では弁護士資格を要求はしておりません。州レベルではかなりの数の州が弁護士資格のあることを要求しております。

 アメリカの裁判官の選任方法の特徴は、一つは政治性、二つ目は地域性ということだと思います。

 政治性というのは、政治家あるいは選挙民の意向がその選任過程に反映をするという意味でございます。

 地域性ということに関して言うと、連邦の裁判所に関しても、基本的にはその裁判官が執務する管轄区域内の土地から裁判官を選ぶという意味では、その地域性が徹底されていると言われております。

 アメリカ合衆国の裁判官の選任方法は、連邦の裁判官に関してみれば、大統領の任命ということになります。州に関しては、立法部による選挙、それから執行部による任命、及び裁判官の公選という三つのやり方がございます。ただ、この三つのやり方のうち、公選以外の執行部と立法部によるところの選任、これは連邦もそうですけれども、これは何らかの意味で裁判官の指名リストを作成する組織的な仕組みが何らかの局面で関与しております。先ほど御紹介のありました州の連邦地方裁判所に関しては、大統領と同じ党派に属している上院議員が自分の出身の州の者を候補者として意見を具申し、それを大統領が尊重するということになっておりますけれども、その上院議員が個人的に諮問委員会などをつくっている例が多いようであります。

 州に関しては、その諮問委員会というのが幾つかの州でつくられております。

 その諮問委員会の構成メンバーが弁護士とか議員、市民で、ときどき裁判官も含められるということですけれども、その諮問委員会の発想としては、法律家の独善を排するという観点で、非法律家を委員会に入れるという傾向が強く出てきているようであります。

 アメリカの裁判官の人事制度に関しては、連邦にしても、州にしても、裁判の独立の保障という観点で構築されております。いわゆる身分保障が一つであり、先ほど御紹介のありましたように、昇任あるいは昇給という制度がないことになっております。

 第2でございますけれども、検察官、司法省に関して、日本との比較でいきますと、アメリカの検察官制度の特徴は、まず連邦と州の二重構造になっているということでございます。そして、刑事犯罪の大半の部分は州法違反でございますので、州の検察官の在り方ということが、アメリカの刑事司法のかなり大きな部分に影響を及ぼすことになります。

 2番目の特徴は、アメリカの検察官は政府に属する弁護士というふうに観念されており、検察官が民事事件を担当したりすることがあります。捜査と公判に関しては、基本的には公判に重点を置いた形で活動しているようでございます。

 3番目の特徴は、キャリア性が極めて稀薄であるということでございます。これも先ほど御紹介がありましたけれども、10年も10何年もいるということではなく、数年間、自分のキャリアの1ステップとして検察官の職にあるというのが一般的な状況のようであります。

 4番目の特徴は、州の検察官が顕著な地域性を持っているということであります。検察官も選挙で選ばれる州が多いようでありますが、そうなってきますと、言わば選挙民に自分の地域の治安に関してどうやるかという公約を提示して、それを実践するという形で地域性が顕著になってきます。

 第3の弁護士、弁護士会でございますけれども、御存じのように、弁護士の数が多いこと、及び活動領域が広く、しかも政治や経済に能動的、かつ深く関わっていることがアメリカ弁護士制度の特徴として指摘されております。

 この弁護士の数が多いということに関しては、共通認識でございますけれども、注意すべき点が2点ございまして、一つは、全国的に多いのではなくて、部分的には過剰と過少があると言われております。つまり、弁護士過疎地域がアメリカにおいても問題になっているということでございます。2番目は、巨大ロー・ファームのことが言われますけれども、事務所規模の割合という意味では個人と、小人数の弁護士事務所の方が圧倒的でございます。

 それから、弁護士の数が過剰であるために弊害が生じているかどうかに関しては、アメリカ国内ではかなり厳しい意見の対立がございます。これはしばしば政治的な立場の相違を背景にしているようでございます。

 それから、アメリカの弁護士の在り方について、最近の動きとしては、一方では大都市を中心にビジネス化をめぐる弁護士像の揺れが指摘されていますけれども、他方でアメリカの弁護士の場合において、依然として地域社会とかコミュニティーへの責務意識、奉仕精神というのが日本と比べると非常に強いということが、現在においても一つの特徴になっていると思います。

 第4の法曹養成制度に関しては、ロー・スクールが特徴的な存在でございます。日本との比較で申し上げれば、法曹資格を得るためにはロー・スクールへ進むことが事実上強制されております。2番目に、日本の司法研修所のような実務訓練機関がございませんで、その分、ロー・スクールが一定程度、つまり基礎的な範囲で実務訓練的な機能を担っていること。第3番目に、日本のように法学部というのがない。第4番目に、以上の結果、ロー・スクールでは、一応、理論教育と一定の実務教育が統合された形で行うということになっております。

 ロー・スクールに対しては、アメリカでは基本的には積極的な評価がなされていますけれども、その課題も少なくないとされております。しばしば、ロー・スクールの教育が必ずしも実務の実践に役立っていないという実務訓練機関としての不十分さ、あるいは多様な実務の法的需要に応え切れていないという教育の多様性の乏しさ、あるいはロー・スクールの学費の高額化のために進学できる学生が限定されてしまうという危険性があるという形の指摘もなされております。その点に関する改善努力もロー・スクール側でやっておられるようであります。

 第5の裁判手続でございますけれども、民事裁判手続に関しては、日本との比較において、その特徴は、いわゆるディスカバリー手続、民事における陪審手続及び不法行為によるピューニティブ・ダミッジ、いわゆる懲罰的損害賠償、この三つが重要だろうと思います。

 このうちディスカバリー手続というのは、証拠開示というふうに訳されておりますけれども、しばしば改革の対象になっており、現在もこの改革が継続的に進められております。また、懲罰的損害賠償に関しては、ここ10年ほど一種の政治問題化しておりまして、これについても、議論はごく最近でもいろいろと続いております。

 このディスカバリーに関して若干補足いたしますと、ディスカバリーというのは、本来の立法趣旨は、不意打ちの防止、事実審理の短縮及び和解の促進という三つでございます。この事実審理の短縮や和解の増加、不意打ちの防止という目的に関しては、一応、達成されていると思われますけれども、しかしながら、このディスカバリーを巡って、これは訴訟前の手続になりますけれども、かなり時間を要し、その中で大変な費用がかかってしまうということで、ディスカバリーの乱用をどうするかという形で、1980年以降のアメリカの民事司法改革が、これを中心に進められていることも事実でございます。もちろん、これに対してディスカバリーの乱用という事実自体は一般的ではなくて、普通の事件では問題ないという指摘もございまして、ディスカバリーの問題をどういうふうに取り上げていくか、あるいは改革していくかということに関しては、未だに議論の視点が必ずしも明確になっているわけではないとは言えると思います。ただ、連邦最高裁の方としては、ディスカバリーの乱用をいかに防止するかという観点から着々と改革を進めているというふうに聞いております。

 刑事裁判手続に関しては、六つの特徴がございます。一つは、逮捕手続に関しては、広く無令状逮捕が行われているということ。2番目に、初回出頭手続という手続がございます。それから、予備審問という手続によって、証拠開示等の手続や事件回付などが行われている。それから、いわゆる司法取引、有罪答弁の制度、陪審手続という形になっています。

 それぞれ論じれば大変議論がありますし、日本にも類似の制度がないわけではございませんけれども、アメリカの場合は独自な展開をしていると言っていいと思います。

 今申し上げた罪状認否手続、いわゆるアレインメントの段階、またはその前後において、大体刑事事件の80%から90%が処理されて、いわゆるトライアル、事実審理に行くのはその10%前後であるというふうに指摘されております。

 陪審というのは、やはりよく知られた制度でございますけれども、アメリカにおいても絶えず議論の対象になっております。陪審が地域の公正な代表になっていないとか、陪審の負担が多いとか、コストがかかる、あるいは誤判が多いんじゃないかという批判が常に行われ、それに関してはアメリカ内においても、陪審制度に対する様々な改革の議論が行われています。

 それから、裁判外紛争処理手続ということでADRでございますけれども、アメリカ合衆国のADRの特徴というのは、三つ挙げることができると思います。

 一つは、市民レベルの運動、つまりコミュニティー・レベルの運動が先行したものであったということ。これは現在でもそういう傾向がございます。つまり、コミュニティーで自らの事件を処理していくという発想がまだ残っているということです。

 2番目に、非常にADRの形態が多様であることです。

 3番目に、訴訟手続に対する代替的な処理であるにもかかわらず、アメリカにおいてはかなり重要な一類型である訴訟付属型ADRという形で、いわゆる対審構造を持ったADRが開発されて、これがかなり利用されているという面があるようでございます。アメリカ合衆国では、1998年10月に連邦ADR法ができて、民事法改革の一貫として連邦地裁を中心にADRを拡充しようという動きが出ております。

 その他、ADRに関しては、仲裁とか調停などというインフォーマルな形態のADRに関しては、手続保障の観点から、AAA(アメリカ仲裁協会)で、プロトコールをつくるなどして改良が試みられているようであります。

 以上でございます。

【小島参事官】 続いて、イギリス連合王国の司法制度の概要をポイントだけに絞ってお話をさせていただきます。

 まず最初に申し上げたいのは、連合王国と言いますと、我が国では一つの国というふうに見えるのですが、司法制度に関しましては、イングランド及びウェールズ、それからスコットランド、北アイルランドという3地域におきまして、別個、独立した司法制度をとっておるということです。これは歴史的な統合経緯等からそういう形になっております。したがいまして、司法制度の面におきましては、統一はなされていない、言わば昔の地方分権の状態が現在も残っていると言ってもいいかと思います。本資料はその中のイングランド及びウェールズに関して記載しております。

 続いて、裁判所の構成でございますが、英国におきまして、通常、国民が利用しております裁判所には、我が国と同様に、ドイツ、フランスのような行政裁判所という司法権に属さないという裁判所はございませんで、基本的に全部司法権に属しております。

 我が国の最高裁判所に該当いたしますのが、貴族院でございまして、それを頂点といたしまして、我が国の高等裁判所、地方裁判所、簡易裁判所に該当する裁判所がそれぞれ置かれております。

 ただし、英国では、我が国の地方裁判所に相当いたしますのは、高等法院と刑事法院というふうになりますが、高等法院では民事関係の事件を中心として扱っておりまして、他方、刑事法院は刑事関係の事件のみを扱っております。また、簡易裁判所に相当いたしますところが、強いて言いますと、県裁判所と治安判事裁判所になりますが、県裁判所ではやはり民事関係の事件を中心に、治安判事裁判所では刑事関係の事件を中心にという形で、刑事と民事ということで、取り扱う裁判所が分かれているという特徴がございます。

 この裁判所のうち、県裁判所より上の裁判所におきましては、裁判官はいずれも法曹有資格者でございますが、一番下の治安判事裁判所、この裁判官であります治安判事のほとんどは、実際は法曹資格を有しておりません。そういう意味では全く法曹の専門的教育を受けていない方が裁判官として仕事をしておりまして、しかも、その仕事を無給でやっているという点に英国の特徴がございます。

 なお、貴族院でございますが、これは皆様御承知のとおり、イギリスの国会の一院でございます。したがって、立法機能も有しております。また、我が国で言う最高裁判所でございますので、その長官に当たりますのが大法官という役職でございますが、この者は議会としての貴族院の議長でもありますし、更に閣僚の一員でもございます。そういう意味では、我が国のような、厳密な意味での三権分立というのは実際には英国には存在していないというのが現状でございます。

 続いて、英国の法曹資格に関しましては、その歴史的経緯等から、バリスタ(法廷弁護士)とソリシタ(事務弁護士)の2種類が存在しておりまして、これは先進諸国の中ではイギリスだけでございます。

 バリスタとソリシタとの違いでございますが、依頼者との関係、裁判所における弁論権の2点にございます。

 依頼者との関係におきましては、ソリシタは、当事者から直接事件の法律相談を受けまして、事件の依頼を受けることができるのに対しまして、バリスタは直接事件の当事者から法律相談を受けることができませんし、また、事件の依頼を受けることもできません。また、裁判所における弁論権に関しましては、ソリシタは、先ほど御説明いたしました裁判所の中の県裁判所、治安判事裁判所という一番最下級の裁判所における弁論権しかありませんが、バリスタはすべての裁判所における弁論権が認められております。

 このようなソリシタ、バリスタの違いから、弁護士に事件を依頼したいと一般の方が思いますと、まず最初にソリシタのところに事件相談に行き、当該事件が高等法院、刑事法院以上の裁判所に係属する場合には、そのソリシタがバリスタに改めて事件を依頼することになります。これは依頼者から見ますと、時間も費用もかかるという制度になっております。このようなことから、英国では、現在、裁判所の利用者、司法制度を利用する者の利便を考えまして、このバリスタとソリシタの違いを解消する方向に進めつつあります。

 更にソリシタの業務と言いますのは、先ほども申し上げました裁判所における訴訟関係業務だけではございませんで、不動産の登記関係の手続、各種契約書の作成、行政機関への提出文書の作成等、我が国の司法書士、行政書士等が行うような業務も幅広く行っております。ただし、これらの業務に関しましては、必ずしもソリシタに独占させる必要はないのではないか、司法制度を利用する者の利便を考えるということから、既にソリシタの法律業務独占というのは英国では廃止をされておりまして、現在、自由競争になっております。

 このようなソリシタとバリスタの違いがございますけれども、その両者の間には制度上全く上下関係はございません。収入面におきましても、バリスタの方がソリシタより上というわけではございません。ソリシタの中には、いわゆる大規模なロー・ファームに勤務している者もおりまして、その者の収入はバリスタよりもはるかに上というケースもございます。

 次に、英国の法曹養成制度は、端的に申し上げまして、バリスタとソリシタでそれぞれ別個の法曹養成制度をとっております。したがいまして、両者統一した司法試験制度というものはございません。なお、アメリカのロー・スクールとは異なりまして、最終的な法曹資格を取得するためには、このバリスタ、ソリシタともそれぞれ実務研修が必要とされております。

 続いて、裁判官と検察官の御説明をさせていただきます。

 裁判官は、先ほど申し上げました無給の治安判事を除きましていずれも法曹有資格者でございまして、検察官も同様に法曹有資格者でございます。いずれもバリスタ、もしくはソリシタから任命されております。

 裁判官はバリスタもしくはソリシタとして実際に法律実務を行ってきた者から、主として40歳以上の法律家の中から任命されております。そういう意味では我が国と異なりまして、法曹一元制度が採用されております。ただし、当初から常勤の裁判官というわけではございませんで、当初は非常勤裁判官、その後の勤務状況を踏まえまして、常勤の裁判官やより上位の裁判所の裁判官に任命されるという仕組みになっております。従前は上位の裁判所の裁判官はバリスタが独占しておりましたが、最近はソリシタも上位の裁判所の裁判官になれるようになってきております。

 他方、検察官につきましては、裁判官と違いまして、法律実務の経験は必要とされておりません。バリスタもしくはソリシタになった直後の者でも、直ちに検察官になることができます。ただし、その中でも検察庁の長官だけは10年以上の実務経験が必要とされております。

 続いて、訴訟手続関係でございます。まず、英国の訴訟手続において、我が国と最も異なっておりますのが陪審制が採用されているという点でございます。先ほど米国の説明の中にも陪審制が触れられておりましたが、英国では、現在、米国と異なりまして、実際に陪審が行われておりますのは、刑事事件の事実認定に関する小陪審のみです。一部、民事陪審も名誉毀損等では残されておりますが、米国と異なりまして、起訴、不起訴を決定するという大陪審は既に廃止されております。したがいまして、英国で陪審と言いますと実際は刑事の小陪審のみを指して話をされております。

 続きまして、民事訴訟手続につきましては、英国の民事訴訟におきましても、我が国と同様、当事者主義が採用されております。訴えの提起後、割と米国に似ておりまして、当事者間におきまして、争点整理、証拠収集等の準備手続を行いまして、これらの準備が整ってから初めて法廷における正式審理、トライアルということを行って集中審理、更に判決という手続を取っております。

 ただし、トライアルが行われるまでは、従来、英国におきましては、比較的、裁判所が関与しておりませんで、当事者の交渉に任せていたという点がございます。我が国も現在、争点整理という手続で裁判所が非常に関与しておりますが、英国では、従前は裁判所は関与していなかったという点に我が国との違いがございます。

 そのように、トライアル前の準備手続が当事者間に任されているということが、結局、準備手続に時間がかかり過ぎてしまうということで、英国におきましても、民事訴訟に時間がかかり過ぎるという批判がございました。また、それに伴いまして、訴訟にかかる費用、特に弁護士費用、これは英国でもいわゆるタイムチャージ制で弁護士料が決まっておりますことから、費用がかかり過ぎるという批判がございました。結局、英国の民事訴訟手続は一般人にとって利用しにくいという批判がございました。

 そこで、これらの問題点を解決するために英国では民事訴訟手続の改正を検討いたしまして、1999年4月から裁判官による積極的な事件管理制度が導入されました。さらに、いわゆる民事事件を請求額に応じまして少額訴訟、ファースト・トラック、マルチ・トラックという3種類の手続に振り分けて手続を行うようにしております。ただし、今年の4月からでございますので、まだその効果はどれぐらい上がっているかは定かではないところだろうと思われます。

 続いて、刑事事件の手続でございますが、その前に、犯罪捜査・訴追の特徴を少しお話しいたします。

 我が国におきましては検察官のみが犯罪の訴追権限を持っておるのですが、英国では、いわゆる私人訴追主義を現在も採用しております。端的に言いますと、犯罪の被害者が、この者が犯人と思料すれば起訴ができるという仕組みでございます。ただし、そうは言いながらも一般私人が捜査を行うことは非常に困難でございまして、一般には警察が犯罪捜査を行いまして、警察が私人の立場で被疑者の訴追を行っております。

 また、英国の検察官というのは、そもそもイングランド及びウェールズで全国的な検察庁組織ができましたのがつい10年ほど前にすぎません。ということもありまして、検察官には犯罪捜査権限は認められておりませんし、また、訴追の権限も検察官としては認められておりません。単に、警察により訴追された事件の手続を打ち切る権限等が認められているだけでございます。

 また、被疑者の逮捕は、我が国と異なりまして、原則として警察による無令状逮捕でございます。逮捕後の被疑者の身柄拘束時間は無令状逮捕ということもございまして、最長でも96時間でございます。その期間内に警察は被疑者を訴追できなければ釈放せざるを得ません。また、被疑者には当番弁護士が付けられておりまして、取調べには弁護人の立会いが認められておりますし、取調べ状況はテープ録音がされております。

 英国の刑事裁判手続は犯罪の罪名によって3類型に分かれておりますが、このうち陪審裁判が行われておりますのは、刑事法院における審理だけでございます。刑事法院における刑事裁判手続では、起訴状の朗読後、被告人による罪状認否、アレインメントという手続を行いまして、その結果、有罪答弁がありますと、たとえ幾ら重大な事件でありましても、一切の証拠調べは行わずに、すぐに判決の言渡しの手続に入ります。

 他方、被告人が無罪答弁をしたときに限りまして陪審による審理が行われることとなります。その際には、検察側の冒頭陳述、証人尋問、更に弁護側の同じ手続、最後に検察・弁護側双方の最終弁論、裁判官の陪審員に対する説示、その後、陪審による評議を経て、陪審が有罪か無罪かの評決を言い渡す。その後、有罪であれば裁判官の判決言渡し手続ということになります。なお、この陪審の評決、すなわち有罪か無罪かという判断には何ら理由は付されておりません。また、その陪審の評決の結果である有罪か無罪かについて、これを不服とする控訴は原則としては認められておりません。

 このように英国の刑事陪審手続、一般的に英国は刑事陪審裁判と言われておりますが、刑事法院における審理のみに、しかも被告人が無罪答弁をしたときに限って行われておりまして、実際には大部分の事件というのは陪審を経ることなく被告人の有罪答弁等で処理されておるというのが現状でございます。

 また、英国の陪審制度につきましても、種々見直すべきではないかという批判が、アメリカと同様に行われております。特に大規模な経済事件については、一般民衆は経済取引等が理解できるのだろうかという疑問は従前からずっと言われているところでございます。

 以上でございます。

【古財参事官】 フランス共和国の司法制度につきまして説明させていただきます。

 まず前提のお話ですけれども、御承知のとおり、フランスは王政からフランス革命を経て共和政、帝政等を経て現在第5共和政権にございます。総人口は我が国の約2分の1であり、フランス法の特徴といたしましては、英米法の基礎が今日でも判例法であるのに対し、ドイツ法始め他の大陸諸国と同様に制定法中心の法構造を持っております。

 また、フランスの統治機構は中央集権性が強く、大統領の強大な権限を背景としつつも、三権分立の原則に立ち、司法権の独立の原則は憲法上維持されております。それでは、以下、この資料の記述に従いまして説明させていただきます。

 まず裁判所ですが、我が国の裁判所は弾劾裁判所を除いてすべて司法権に属する司法裁判所であるのに対し、フランスではこうした司法権に属する司法裁判所のほかに、司法裁判所から独立し、行政権に位置づけられている行政裁判所がございます。更には、司法権にも行政権にも属さない機関としての憲法院がございます。

 司法裁判所と申しましても、第一審だけでも幾つかの種類のものがございます。我が国の簡易裁判所に相当する小審裁判所や、我が国の地方裁判所に相当する大審裁判所、重罪院といったものがございます。そのほかにも少年の犯した刑事事件を扱う少年裁判所、少年重罪院、商人間の紛争関係事件や企業等の倒産を扱う商事裁判所、労働契約上の個別的紛争事件を扱う労働審判所がございます。

 このうち、商事裁判所では、商人により選挙された3人の非職業裁判官の合議による審理が行われております。もっとも、1998年の閣議声明によりますと、2002年までには、職業裁判官と、非職業裁判官のいわゆる参審の形態による紛争解決システムに移行するということが予定されているようでございます。

 それから、労働審判所でも、使用者及び労働者双方から選挙された非職業裁判官の合議による審理が行われますが、判決が可否同数のときは、新しい口頭弁論期日が開かれ、そこで職業裁判官が関与の上、全審判官の評議の後に判決を下すということになっております。

 少年裁判所では、職業裁判官とともに非職業裁判官が加わって審理が行われております。

 次に、行政裁判所ですが、行政事件一般の一審である地方行政裁判所、その上訴審である行政控訴院、行政控訴院の判決に対する上告審であるところのコンセイユ・デタというものがございます。

 フランスの裁判官でございますが、司法裁判所の裁判官は検察官と同一の職業集団としての司法官を構成しております。国立司法学院というところの卒業生から任命され、定年までその職にとどまるキャリアシステムが採用されております。大学教授や弁護士、公務員から直接採用される道もあるようです。

 他方、行政裁判所の裁判官は、これは司法官ではなくて行政官でございまして、その中核部分は中央官庁等の最上級公務員と同様に国立行政学院の卒業生から採用されております。

 検察官、検察局でございますが、検察官の職務内容は基本的に我が国の検察官と同様でございます。ただ、検察局というのは、これは司法裁判所である大審裁判所、控訴院、破棄院にそれぞれ所属している点において、行政機構に属する我が国の検察庁とは異なった特徴を持っております。

 弁護士の職務内容につきましても、基本的に我が国とよく似ております。また、弁護士会が大審裁判所の所在地ごとに自治組織として設けられており、必ず弁護士会に登録しなければ、その職務を行うことはできないという点においても、我が国と同様であると言えます。

 次に、法曹養成制度ですが、我が国の制度と最も大きな違いは、司法官である裁判官・検察官と弁護士とを別々に養成するという分離養成制度を採用していることであります。

 司法官につきましては、選抜試験の合格者が毎年200名でございます。合格後、国立司法学院で2年7か月の研修を受けます。この研修ではマン・ツー・マン方式での裁判実務など各種の実務修習が行われております。

 次に、弁護士でございますが、州の弁護士研修センターへの入所試験に合格した後、同センターにおいて共通基礎教育と実務修習から成る研修を1年間行い、その研修修了後に、弁護士職適格証明を取得するための試験を受けることが必要となっております。この試験の合格者は1,300人から1,400人です。

 この弁護士職適格証明の取得後、弁護士会に研修弁護士として登録し、通常の弁護士とほとんど同等の権限を持って2年間の実務修習を行い、研修センターから研修修了証明を得て、弁護士会に本登録をすることになっております。

 最後に、裁判手続でございますが、まず民事事件についての特徴を申しますと、次の3点になろうかと思います。

 一つ目は、大審裁判所では必ず弁護士を選任しなければならないという弁護士強制主義がとられていることであります。

 二つ目は、法定額の範囲内の弁護士報酬は、訴訟費用として敗訴当事者の負担になるという制度をとっていることでございます。

 三つ目は、証拠の取扱いでございますが、書証が極めて重視されておりまして、我が国と異なり、人証の取調べが行われるということはまれなことでございます。

 なお、迅速性ある解決を志向したフランス特有の制度としてレフェレというものがございます。これは公開の法廷で両当事者が対席の上、通常1回の弁論期日で審議が終了いたします。申立人が相手方を特定の期日に呼び出せるため、弁論期日が開かれる間までの期間が短いことが特徴でございます。そこでの判断は、あくまで仮の性格のものであり、本案訴訟の結論を拘束しませんが、レフェレ発令後、本案訴訟が提起されることは少ないということ、それから、レフェレの申立件数が多いということからしますと、実質的な紛争解決機能を相当果たしているものと考えられます。

 次に、刑事事件でございますが、検察官が訴追するほか、被害者も私訴原告として予審判事に予審開始請求ができるという点が特徴として挙げられると思います。

 また、被害者は、被告人を、直接、大審裁判所の刑事部に相当する軽罪裁判所に呼び出すこともできます。

 それから、その犯罪から生ずる民事不法行為責任について刑事手続において同時に損害賠償請求ができる、いわゆる、附帯私訴というものをとっていることが特徴として挙げられるかと思います。

 また、職業裁判官が、予審というものに関与する予審制度というもの、これは事実上は重大または複雑な事件に限られておりますけれども、こういう予審制度を設けているということも特徴の一つとして挙げられると思います。

 少年重罪院では、国民から選出された陪審員が審理に参加するという説明がなされておりますけれども、この陪審員というのは、実は、裁判官とともに審理、評決を行うというもので、実質的には参審制でございます。したがって、フランスでは、いわゆる講学上の陪審ではなく参審制が一部に採用されているということでございます。

 以上でございます。

【丸島主任専門調査員】 最後のドイツでございます。我が国との違いなど、ポイントを絞って御説明いたします。

 第1に裁判所・裁判官の制度についてですが、ドイツは、日本とほほ同じ面積で、人口では、日本の約3分2の国でございます。連邦制の国家でございまして、全国の16の州から成り立つ国であります。したがって、裁判所も、連邦の裁判所と州の裁判所という構成になっております。

 まず一つの特徴は、憲法裁判を行う憲法裁判所が連邦と州のそれぞれにある。それから、一般の事件については、民事、刑事などを扱う通常の裁判所、これは区裁判所などがありますが、この分野のほかに、労働事件の労働裁判所。それから行政、これはかなり広範な様々な公法に関わる事件を扱う行政裁判所。健康保険やそのほか社会保険に関する事件を扱う社会裁判所。税金に関する事件を扱う財政裁判所というように、それぞれの分野の裁判所が下級審から連邦の上級審まであるというところに特徴があります。

 裁判所の庁数などを見ますと、かなり多くの裁判所が設けられているようであります。

 連邦の各裁判所は、首都に集まっているということではなくて、大体五つくらいの都市に、国内各地に分散して設置されております。

 憲法裁判所は、我が国では具体的な事件を判断する上で憲法判断というものが行われますが、ドイツにおいては、具体的な事件を離れて法令一般の憲法適合性を判断する、これは抽象的法令審査権と申しますが、そうした判断権を持っております。

 また、公権力から基本権を侵害されたとして、国民から申し立てる場合でありますとか、自治体などが自治権への侵害を理由とする訴えなども憲法裁判所で行われているようであります。

 一般の裁判所でありますが、通常事件の裁判所、これは「概要」に詳細を書いておりますので、お読みいただければと思います。地方裁判所では民事事件は原則として3人の職業裁判官で審理いたしますが、一定の事件では1人の職業裁判官と国民の中から選ばれる2人の名誉職裁判官で審理されるということであります。

 通常裁判所以外の労働裁判所、行政裁判所、社会裁判所、財政裁判所などでは、職業裁判官と国民の中から選ばれる名誉職裁判官の一定数の組み合わせで審理を行うというシステムがあります。

 刑事事件につきましては、第一審では、3人の職業裁判官と国民の中から選ばれる2人の参審員で行われます。刑事裁判では名誉職裁判官のことを参審員と言います。

 裁判官は、一般の公務員とは異なる官職とされ、独立した地位にあるとされております。先ほど申し上げましたとおりに、裁判官には職業裁判官と名誉職裁判官がありまして、職業裁判官の数は、およそ2万人余といわれております。

 キャリアシステムの職業裁判官につきましては、いわゆる司法試験に合格し、司法修習修了後の国家試験に合格した者から任用されます。最初は試用裁判官ですが、その後、終身の裁判官に任命されます。終身制であり、裁判官の転勤がないこと、あるいは人事について裁判官人事委員会が設けられていることや、給与や市民的自由の保障の点など、独立した地位を保障するための様々な制度が設けられているようであります。

 名誉職裁判官、これはキャリアではなく一般国民から選出される裁判官の呼称ですが、それぞれの裁判所ごとに一定の年齢以上の国民から選任されます。任期は通常4年程度とされております。その選任にあたっては、例えば名誉職裁判官が年間12日の通常開廷日を超えて招集されることがないよう人数が定められるなどの配慮がされているようです。職務の遂行に対しては、一定額の費用補償がされるということであります。名誉職裁判官も審理や合議においては、職業裁判官と同様の権利義務を持って活動しております。

 検察官につきましては、我が国と同じく捜査、訴追、公判の維持等に当たります。

 検察官は、公判手続において公益を代表して刑罰の請求を行い、捜査に当たっては、被疑者に不利な事情だけでなく有利に働く事情も捜査するなどとされています。いわゆる検察官の客観義務などとして論じられているところであります。

 検察官の数は約5,000人とされております。

 次に、弁護士、弁護士会であります。

 弁護士も裁判官と同様に司法修習を経て二回試験に合格しなければなりません。ドイツの特徴は、一つは、地方裁判所以上の裁判所の民事事件では、当事者は弁護士を代理人として付けなければならない、弁護士強制主義がとられているということです。しかしながら、他方、労働裁判所や行政、社会、財政裁判所などでは、必ずしもこのような強制主義はとられておりません。

 もう一つは、民事事件では、弁護士は一定の地域、例えば自分の事務所所在地の裁判所で許可を得て、その範囲でしか活動できないという制約があります。しかしながら、近年の法改正で、法人組織を設けて弁護士業務を行えるようになりました。この場合には全国の複数の裁判所で民事事件の代理人となることが可能となっております。

 なお、刑事事件では弁護士はいずれの裁判所でも弁護人として活動できます。

 十分な資力を持たない方も裁判手続を利用できるようにするために、訴訟費用援助法や法的助言援助法などが整備されています。これによって弁護士費用を含む訴訟費用についての援助、あるいは法律相談に対する援助などの制度が行われているということであります。

 弁護士の数は近年急速に増加し、9万人を超えているようであります。その背景には欧州の統合等の諸事情があるようですが、相当数の弁護士が兼職をしていると伝えられております。

 法曹養成制度ですが、司法試験や法曹養成が各州ごとにそれぞれ実施されております。

 法曹の資格要件としては、州立大学の法学部で4年程度の課程を修了しまして、司法試験に合格します。その後、約2年の司法修習を終えて、国家試験に合格して資格を取得します。いずれの試験も合格率は7割、8割とかなり高うございます。司法試験は司法修習生の採用ということだけでなく、法学部卒業試験の機能も有しているということであります。また、資格試験に徹しているため、このように合格率も高いということであります。

 司法修習生は公務員として給料を支給されておりますが、日本で言うところの司法研修所というのはないとのことです。修習は法曹三者のそれぞれの実務修習のほかに、行政部門や、場合によっては外国での修習を選択することも可能だということであります。

 特徴的なことは、二回試験の合格者からは、法曹三者だけではなくて、行政官や企業などの多様な分野にも法律専門職として進出しているということであります。法曹三者と行政官、企業の法律専門職も含め、統一法律家という概念で説明されております。民間企業、行政官庁には数万人規模の試験合格者がいるとされております。

 なお、裁判官、弁護士など、一定の勤務をするためには、二回試験の成績がかなりよくなくてはならないということで競争は厳しいようであります。

 民事事件につきましては、裁判の迅速・効率、あるいは口頭主義や直接主義で審理を充実させることを目指した簡素化法というものが施行されております。できるだけ準備手続を充実させて、1回の期日に集中して証拠調べをして判決をするというような手続が施行されているということであります。

 その実際の運用については、様々な評価もあるようです。

 ドイツでは区裁判所は原則的な第一審裁判所と考えられるほどに、多数の、かつ日常生活の多くの事件が持ち込まれているとのことであります。

 民事事件については、裁判所の役割がかなり大きいようです。証人尋問などでも裁判官が主要に質問し、弁護士は証人との事前打合せなどは原則として行わないほか、証拠収集などの行動を積極的にとることはしないというふうに、我が国における民事裁判の弁護士の活動スタイルとはやや趣を異にするものであるとのことです。

 刑事事件でありますが、捜査手続、公判準備手続(中間手続、公判開始決定手続)、主要手続(公判準備と公判)の3段階から成ります。一つの特徴は起訴法定主義ということでございまして、事実関係について、十分な証拠がある場合には、原則として検察が公訴を提起し、裁判所の判断を仰がなければならないとされております。ただ、例外が少しずつ増えているとのことです。

 また、公判では、実体的な真実の解明のため、職権主義的な審理が進められるとのことであります。

 刑事手続のそれぞれの段階で一定の要件に該当する場合には、必要的に弁護人が選任される国選弁護人制度がございます。

 刑事事件の審理の特徴は、参審員ということでありまして、25歳から70歳未満の国民から、地方自治体が作成した推薦名簿に基づいて参審員の選定委員会を経て選出されます。これらの参審員も職業裁判官と同様の諸権利を持つということでございます。

 その他は、この「概要」に書かれたとおりでございます。

【佐藤会長】 御苦労様でした。それぞれの国の歴史的背景・事情は複雑ですけれども、非常に要領よくまとめていただいて大変ありがとうございました。

 今日どうしても尋ねておきたいということがあったら別ですが、もしありませんでしたら、これは資料としていろいろ使えると思いますので、報告者に後でお尋ねいただければ結構じゃないかと思います。今日特に聞いておきたいというのはございますか。よろしゅうございますか。

 事務局の皆さん、どうもありがとうございました。

【中坊委員】 希望ですけれども、いただいた資料とお話ししていただいた資料とでは、むしろお話ししていただいた方がかなり量が多いですね。そうすると、今日は現に4人欠席でしょう。議事録と合わせればいいんでしょうけれども、皆さんも恐らくこれで今聞いて、頭に入った人はいらっしゃらない。ほぼ不可能に近いようなことで、しかも突然出されて、もう疲れ切っている人に、またこういうことというのは極めて私はよくないと思います。こういうことをしていたら。

 もし書かれるなら、資料というものをもう少し、今日お話しになったものもある程度詳しく書いていただいたら、私たちが読んで頭に入ることであって、何も口頭弁論ではあるまいし、ここでみんな直接に聞かなくてもいいわけですよ。だから、もし可能ならば、資料と今日お話ししていただいたのでは、今日の話の方が詳しいわけですから、その詳しいものをちゃんと一つの資料として、現に4名もこの時間帯には欠席の委員もいらっしゃるわけでしょう。その二つを切り離して二つ読めばいいというような不親切なことにせずに、これは事務局として二つを合わして、もう少し詳しいものであれば、我々でも読もうと思えば読めますから、読めるようにしたものを委員に配付していただくと。そうではないと、外国の事情ということに関しても、一人ひとりが恐らく頭に入らないと思います。その点は会長におかれても、事務局におかれても、もう一度よく御配慮いただいて、確かに重要な一つの資料なのですから、諸外国の例ということは。それが委員の頭に入るような、単に形式的にやったというんじゃなしに、実質的に頭に入るような取扱いをしていただきたいと思います。

【井上委員】 基本的には資料の中身を要約されたお話で、これよりは詳しくなかったように思うのですが。

【中坊委員】 詳しいところもありました。

【井上委員】 この資料だけでも、初めての方には読み通すのも難しい。それはしようがないところがあるのです。このような外国法制の研究も一つの柱として飯を食ってきました私なども、随分時間をかけて勉強してきたので、何とか分かるのですから、何度もうかがわないと難しいと思います。今後また海外調査などの予定もありますから、その前にまたうかがう機会でもあればよいのではないでしょうか。

【中坊委員】 今日のこの資料で、今日の話を聞いた分と、それから今いただいたものと二つ合わせれば分かるというのではなしに、全部載った分を一つにしてあげれば、だれでも読もうと思えば読めますから、読めるような状況にしてあげないと。二つに切り離して、私らは今日聞きました。あれだけ早口で話しされて頭に入ったかというのは問題でしょう。しかも、この時刻に突然出してやって、頭に入りませんよ。だから、実質的に意味のある審議をしなければ、この審議会はそうでなくてもそう言われているんだから、やはり私らが本当に分かるような審議をすべきだと思います。

 だから、こういう状態で、これで一応諸外国の例は事務局もちゃんとやって、要領よく説明していただいて、委員が分かりましたということを前提にして議論を進めていくと、こんなになる。

【佐藤会長】 御趣旨はよく分かりました。この資料はこの資料として、全体を通して見るのも大変なのです。1ページに要約したものが出ていますけれども、今日の話と併せて、お読みいただければよい。

【井上委員】 今日の説明を起こしたものと資料を1冊に綴じればいいのではないですか。

【佐藤会長】 書き直す必要はないから。

【事務局長】 何とか考えてみますけれども、これだけの要約だけでも随分手間がかかりまして、今日、このサマリーの説明をしてもらいたいという要請がありましたから、その説明をしろということで、5分くらいでまとめろと言ったら、やはりまとめ切れずに10分くらい。あれもこれも説明したいという参事官たちの気持ちも分かるんでありまして、それで早口で10分間でまとめたということでございましょう。その辺りの事情をひとつよろしくどうぞ。

【中坊委員】 せっかくみんなのしてくれはったことが、みんなと連結せんとあかんやろ。だから、連結するような努力は、これは事務局においても、会長さんにおいても、会長代理におかれても、よく連携していただかないと、委員がみんなが頭に入るようなやり方でやっていただくというふうに一つお願いしますということを言っているだけです。

【佐藤会長】 だから、起こしたものを一緒にすればよいのではないか。さっきも申したように、これ一遍読んでもなかなか分からんのです、私だって。しかし、その都度その都度自分の問題意識で読むとよく分かるときがあります。そういうとき、なお分からないところは事務局に聞いていただきたいということを申し上げているわけです。何度もやらないと、これは入りません。

【中坊委員】 何回もやるように、ひとつよろしく。

【佐藤会長】 そういうことで用意してください。

 それでは、意見交換ということですが、時間も随分オーバーしてまいりました。論点整理の公表に向けての審議の進め方ということなのですけれども、前回各委員から意見ペーパーを10月半ばから11月半ばまで御提出いただきたいということを申しましたけれども、できれば締切りを11月9日と決めていただければ有り難く思います。その日に各委員から御提出していただいたペーパーに関して、お1人10分くらいずつでプレゼンテーションをお願いできればと思います。それによって、全員の大体の共通のイメージを我々として持つことができるのではと思っておりますけれど、その辺はいかがでしょうか。

 本来、時間があれば、それぞれ時間をたっぷり取ってやりたいところですけれども、行革会議のときもそうでしたけれども、非常にタイトな中で審議を進めていかなければなりませんので、その辺は御理解いただきたいと思っております。一応、ペーパーの締切りを11月9日まで、当日10分くらいずつその趣旨についてお話をいただくということにできればしたいと思いますけれども、よろしゅうございましょうか。ペーパーも、前にも申しましたように、1枚のものでも結構ですし、長いものでも結構でございますが、お話の方は最大限10分、短くてもよろしゅうございます。

【吉岡委員】 9日に締切りというのは、9日に持ってきてもいいということですか。

【佐藤会長】 結構でございます。それに基づいて10分ほどお話をいただくということです。

【事務局長】 できましたら、当日皆様にお配りできるように、当日で結構ですけれども、コピーさせていただけるような量にしていただければと思います。その前なら結構でございますけれども、当日でしたら、直ちにコピーしてお渡しできるようにしていただきたいと思います。

【佐藤会長】 と言いますのも、論点整理を12月21日にすると決めております。そして公表するということでございます。12月8日に素案のようなものを御相談したいということ、これも既に申しましたけれども、可能であれば、11月24日にも、非常に粗削りのものかもしれませんが、お示ししたいと思っております。11月24日、12月8日くらいにかなり実質的な議論をしておかないと、という趣旨です。21日にけんけんがくがくやっておったのでは、なかなか大変でございますので、できるだけ2日にわたって実質的な御議論をいただきたいという思いもございまして、お急がせして申し訳ありませんけれども、そんな趣旨でございますが、よろしゅうございますか。

 そして、まとめるについては、前にナレーションが必要だとか、どういう形でまとめるかという問題があるということを申しましたが、本当は、今日その辺、少し御意見を伺いたいところなのですけれども、時間がほとんどありません。御意見がありましたら、今日、少し承っておけば参考になるかと思いますが、いかがでしょうか。こういう形にすべきだというような。

【井上委員】 次回、各委員から論点案につきプレゼンテーションがなされるときに、柱のようなものを皆さんお話しになると思いますので、その上で議論した方がよろしいのではないでしょうか。いま一般的に議論しろと言われても難しいと思います。

【佐藤会長】 前回も、論点項目をばらばら並べただけでは、論点整理としていかがなものか、少し有機的にと言いますか、なぜこういう論点を取り上げて、これからどういう形で議論するのかということが少し見えるようにしておく必要がある。そうでないと、なかなか皆さんの、世論の納得が得られないんじゃないかと思いますので、その辺のことも考慮しながら論点整理をしたいと思いますが、限られた時間の中で、事務局も含めて大変だろうと思いますが、次回、また、御相談したいと思いますので、今日はこの辺で。

【中坊委員】 その点にも関係しまして、第4回の議事録を見せていただいたのです。これが確定版として出されておるわけですが、この第4回の議事録に事務局の方にもお尋ねしたいと思うのですが、これには私が説明したときのメモとか図面というのは全然添付されていないじゃないですか。

【佐藤会長】 それは公表のときには当然添付されるのです。

【中坊委員】 いただいた表の中には、添付されていないし、まさにこれが問題ですと。今まさに会長のおっしゃるように、いかに有機的にいろんな問題がどういうような状態で結合しておるかというためにやったのに、クラークさんの方はちゃんとここに示してあって、この中で援用して私が言うているわけでしょう。メモに基づいてだとか、一番重要だとか、図面。本当にそういうのを見ると、別にさっきから事務局じゃないけれども、それでこれほど論点整理が大事で、みんな委員がやりなさいと言うていて、それを私にしたら心をこめて、一生懸命書いてきているのに、これが議事録にも綴られていない。本当に私は不愉快です。こんなものは。こんなもの、みんなに配付しているのにね。ほんまに失礼ですよ。

【事務局長】 今、聞きましたら、議事概要の方に付けて出しておりましたので、これには付けなかったということです。直ちに議事録の方にも付けさせます。

【中坊委員】 人が一生懸命に書いてやったやつは、やっぱり載せたるべきですよ。こんなもの事務局がさっきからおっしゃるけど、やっぱりどこかに無理がありますよ、今の話を聞いておっても。事務局としてよく反省してくださいよ。そんな馬鹿なことを公然とされているということは非常に私も。さっきから見ておってもね。ミスでいいことと、ミスで悪いこととありますよ。注意してくださいよ。

【事務局長】 はい。

【佐藤会長】 時間の関係もありますので、以上にとどめたいと思います。次回は民事法律扶助についても御議論いただくことになっております。先ほどお話ししましたように、各委員からお1人10分くらいずつ御発言いただくということでございまして、時間的に非常に窮屈なものですから、これも大変恐縮ですけれども、次回は2時ではなくて、また1時開始ということにさせていただきたいと思います。最初2時にしておって、だんだん1時が恒常的になってしまったのは大変心苦しいのですけれども、ちょっとやむを得ないかなと思いますが、その辺、よろしゅうございますか。

 どうもありがとうございました。

 本日は地方公聴会、あるいは海外調査の実施についても時間を取れませんで、次回回しということにさせていただきますが、少しお考えいただいて、次回に臨んでいただければと思います。

 次回の日程は11月9日、1時から5時ですね。

【事務局長】 髙木委員の方から、ヒアリングの相手方を1人出してこられましたので、日程を考えますと、11月24日しかあいていないと思われます。

 お相手の方は、元共同通信社論説委員の米沢進さんという方でございます。よろしければ、今日、髙木委員はいらっしゃいませんけれども、髙木委員の方から論点整理までにヒアリングをしていただきたいという御要望も来ておりますので、24日、また皆様お忙しくて恐縮なのですが、午後1時から始めさせていただいて、3人のヒアリングをということでいかがでしょうかと思っています。どうでしょうか。

【佐藤会長】 また盛りだくさんになりますけれども。

【井上委員】 時間は大丈夫なのですか。

【佐藤会長】 9日は法律扶助もやるわけですね。

【井上委員】 それに加え、10分ずつ我々が話すのでしょう。

【佐藤会長】 それもタイトです。

【井上委員】 佐藤先生を除くみんながやるわけですから、120分、2時間ですね。それに議論もするわけでしょう、法律扶助について。

【佐藤会長】 聞いて、要するに決めないといかぬわけです。

【井上委員】 そうしますと、4時間ではかなりきついですね。

【佐藤会長】 今日も5時半ですから。

【中坊委員】 確かにちょっと考えないとね。おっしゃるように、これだけハードな日程になってきたらという根本問題は、先ほどからも私が言っているように、少し何か考えておやりにならないと、形だけは予定どおり進めていくことと、実際とは無理がありますよ。そりゃ皆さん一生懸命やっていただいているし、会長も会長代理も一生懸命やっていただいているんだろうけれども、これだけ日程がハードになってきて、それぞれ仕事を持っている。その上にこういうことになってくると、そこで問題があるから、法律扶助に関することかて、今おっしゃるように、1人10分もしゃべり出して、意見を交換して、また法務省の人を呼んで聞いたって、その場で聞くわけでしょう。この日にこの予定だったらね。非常に問題もあるし、だからこそ事務局主導になりかねない。だから、審議会中心の審議は無理かということにもなってくることにもなるんで、そこをどうやっていかれるのか。やはりもう少し会長や会長代理、事務局で、もう一度よくお考えいただいて、このままの形で予定どおりやっていくと、どういうことになるのかということをもう一度よく、私は先ほどからのこれを見て、皆さん一生懸命やっていただいているんだけれども、さっき言うような私のような手違いも起きているし、あちこちであれが起きているんじゃないですか。これ以上のこともまた無理だろうし、それじゃどうするかということ。

 例えば、今の一人について30分聞いて、30分の質問というのは非常にいいんです。むしろよく分かるんだけれども、理想的なんだけれども、それがこのまま全部いけば、これだけで1時間掛かるでしょう。ほとんど精力がそこへ投入、まあ、するだけの値打ちはあるんだけれども、その辺をどうするか。もう一度よくお考えいただいて。

【佐藤会長】 ヒアリングは欲張り過ぎたところもあったんだろうと思います。けれども、一応もう決めたことですから、これはもうやっていただかないと困ります。その前提の上ですが、論点整理までが一つの山ですので、皆さんに非常に御無理を申しておることを私も重々承知していますけれども、論点整理まではちょっと御辛抱いただきたい。この論点整理を踏まえた御審議の仕方については、前から申しているように改めて御相談したいと思っています。今は一般的なヒアリングで、できるだけ欲張って、皆さんの御希望を聞こうとしたものですから。

【中坊委員】 そういうやり方もあるわけだから、別に私も固執はしませんけれども、無理も発生してくる。

【佐藤会長】 無理があることは確かだと思います。1人10分と言っても、場合によっては5分くらいで収まるかもしれませんし、そこは皆さんの御良識の下でお話しいただくということにしたいと思います。

 本日の議事は以上で終わりなのですけれども、2回の見学はそれぞれ実り多いものだったと思いますが、委員の皆様、大変御苦労様でございました。

【井上委員】 これ以上日程を入れるのも大変なのですけれども、今後も、また現場を見る機会を設けていただければと思います。地方に行くときに見せていただくということはあるようですが、例えばこの前の見学の際、少額訴訟でかなり実績をあげておられるというお話がありました。そのようなところも、肌で触れてみたいなという感じがいたしましたので、お考えいただければと思います。いつでも結構ですから。

【佐藤会長】 司法研修所は既に予定しています。それから地方の公聴会。9か所が多いかどうかという問題もあるんですけれども、その辺との兼ね合いで、地方だけではなくて、必要に応じて考えたらいいかと思います。

 記者会見でございますが、大分遅くなりましたが、どなたか御希望の方いらっしゃいませんか。

 それでは、今日は会長と会長代理でやります。

以上です。

配付資料一覧