配付資料

別紙3

「国民の司法参加」に関する意見

2000年9月12日
日本弁護士連合会


はじめに


 本日、国民の司法参加について、日本弁護士連合会の意見を表明する機会を与えられましたことを感謝いたします。貴審議会のヒアリング項目に対する意見は、本日付の「国民の司法参加について」と題する書面、及び別冊資料の中で詳細に述べていますので、ご理解をいただきますよう、お願い申し上げます。
 わが国の国民の司法参加制度は、①参加できる領域がきわめて限定されていること、②司法権の最も重要な作用である訴訟手続・判断手続に参加する制度は皆無であること、に特徴があり、いわゆる先進国の中ではもちろん、世界的に見ても著しく不十分な現状にあります。
 貴審議会の設置法2条1項は、「21世紀の我が国社会において司法が果たすべき役割を明かにし、国民がより利用しやすい司法制度の実現、国民の司法制度への関与、法曹の在り方とその機能の充実強化その他の司法制度の改革と基盤の整備に関し必要な基本的施策について調査審議する。」と定めています。今求められているのは、小手先の部分的な改善ではなく、この世紀の変わり目のときにあって、まさに21世紀を展望し、わが国に法の支配を確立し、国際的評価に耐え得る活力のある大きな司法をつくること、すなわち抜本的な改革の方向を示すことであると考えます。本日取り上げられる国民の司法参加こそ、貴審議会でご審議いただいています法曹一元とともに、その柱でなければならないと確信しています。

1 21世紀社会の在り方と国民の司法参加について

 「論点整理」は、21世紀社会の在り方と司法改革の方向性について、「法がこの国の血肉と化」すこと、「国民一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体」となること、「司法(法曹)はいわば“国民の社会生活上の医師”の役割を果たすべき存在」となること、の3つの理念を提起しました。
 21世紀社会の在り方と司法改革の方向性を以上のようにとらえたとき、国民の司法参加はきわめて大切であり、特に陪審制度こそその理念を実現する制度であると考えます。
 陪審制度においては、市民が陪審員として裁判に直接参加し、主権者として司法権を行使することによって社会的責任を果たします。まさに参画を通じて、統治客体意識から統治主体意識への転換を促す制度であり、国民の意識に与える影響はきわめて大きいと考えられます。また、陪審員を体験することにより、市民は司法制度の仕組みと法の役割を理解し、法は生きた法として、すなわち社会の血肉として定着していきます。さらに陪審制度になれば、市民に分かりやすい論理と言葉を使って裁判が行われることになります。陪審制度は、司法を市民に身近なものにするとともに、法曹が「国民の社会生活上の医師」の役割を果たす契機になります。
 しかし、陪審制度は決して専門家の役割を軽視するものではなく、むしろその役割はより重要になります。これまで専門家は専門知識を独占し、ときには閉鎖的な社会を形成することによって優位性を確保してきました。21世紀社会は、公的な決定に市民が参加する社会であり、専門家は手続きに関与し、専門知識を分かりやすく提供することにより、適正な結論に達し得るようにする責任を負担しているのです。陪審制度は、まさに21世紀社会に適合する制度です。

2 国民の司法参加制度、特に陪審制度をめぐる国際的動向

 世界で国民の司法参加制度を持っている国は多数にのぼっています(日弁連参考資料、資料1 P.1以下)。陪審制度についても、適用する範囲などに工夫をしながらも、多くの国で採用されています。決して、英米法系のきわめて限られた国だけで採用されている制度ではありません。
 よく知られているように、国民の司法参加制度の消長は、その国の政治体制、すなわち民主主義の状況と深く関連しており、藤田委員のレポートの資料(1995年現在)と日弁連の資料(2000年現在)を比較すれば、ロシア、スペインなどで陪審制度を復活させおり、中南米諸国の多くでも採用されているなど、陪審裁判の国は増加していることが分かります。一部の国では、効率性あるいは合理的運用の観点から、部分的な手直しを行っていることはありますが、陪審制度を廃止しようという動きはありません。たとえば、イギリスでも、陪審制度は国民的確信によって支えられています。
 このように陪審制度をめぐる今日の国際的動向は、むしろ様々な工夫をこらしながらも、採用している国が拡大している状況にある、ということを是非ともご理解いただきたいと思います。

3 陪審制度と参審制度の評価及び導入すべき分野について

(1)陪審制度と参審制度の評価
 訴訟手続・判断手続に市民が参加する制度として、陪審制度と参審制度があります。しかし、この2つの制度は参加の理念において異なっており、単なる量的な違いとしてとらえるのは不正確です。
 陪審制度は、陪審員が事実判断を担当し、裁判官は法律専門家として法律判断と訴訟手続の進行を担当します。それぞれが役割を分担し、最終判断のイニシアティブと責任が陪審員たる市民に帰属するという点に最大の特徴があります。主体は市民であり、裁判官、弁護士等の専門家はむしろそれを補助する役割を果たします。
 一方、参審制度は、裁判官に参審員が加わって一緒に判断するものであるため、裁判官が引き続き事実認定と法律判断のイニシアティブを持ちます。主体はあくまで裁判官であり、市民は補助者に過ぎないのです。参審員は専門家である裁判官に伍して役割を果たすことは困難だとして「お飾り論」が言われるのも、無理からぬ面があります。
 国民の司法参加制度の一形態として、参審制度の導入の意義を否定するものではありませんが、「主体的役割を職業裁判官が持つか、市民が持つか、その違いはまことに大きい」(新堂幸司東大名誉教授)と指摘されているように、陪審制度こそ国民の司法参加の意義をよく実現する制度であり、「論点整理」の示す改革の方向性に合致するものです。
 報道によると、最高裁は参審員が評決権を持たない参審制度の導入を検討中とのことですが、参審制度自体が不十分な制度であるのに、この案はそれからも掛け離れたものであり、国民の司法参加制度の趣旨から大きく隔たったものと言わざるを得ません。陪審員の事実認定に裁判官に対する拘束力を認めない形態の陪審制度も同様です。
 なお、分野によっては参審制度の方が適するものもあり、そのような分野には参審制度を導入すべきです。

(2)国民の司法参加制度の導入についての日弁連の考え方
 導入の方法等についての日弁連の考え方は、意見書の28頁以下に記載していますので、ご参照ください。

4 国民の司法参加制度に対する消極論について

 国民の司法参加制度、特に陪審制度について様々な消極論が主張されていますので、その主なものについて、日弁連の考え方を述べます。

(1)「真実発見の後退」「誤判のおそれ」などについて
 しばしば陪審制度に対する批判として、陪審制度の採用により、真実発見に重きを置くわが国の刑事裁判が変質し、ラフジャスティスになるとの主張が述べられます。
 しかし、この批判が前提としているわが国の「精密司法」の実態は、「調書裁判」という評価があるように、(法廷外で)多くの調書を読み込んで心証を取り、相互の矛盾のないように調整していく作業が中心であり、本当に精密なのかどうか疑問があると指摘されています。現に死刑再審無罪4事件を含めて、少なくない数の冤罪事件が発生しています。わが国の冤罪発生の主たる原因は、自白偏重、調書中心の構造にあり、法廷の審理によって真実を発見するという公判中心主義、直接主義、口頭主義に改革されなければなりません。直接主義、口頭主義は、フランス、ドイツも含めて世界の趨勢であり、陪審はそれに最も適合する制度です。
 また、裁判官は、法律の専門家ではあっても事実認定について特別の能力を持っているわけではなく、少数の専門家(しかも、キャリア制度の場合は、均質の狭い社会経験しかない)よりは、多様な経験を持つ12人の陪審員の常識の方が信頼できると考えます。陪審制度は、事実認定を素人である陪審員が行うことを前提にして、訴訟手続が厳格に定められており、徹底した証拠開示が行われたり、疑問のある証拠等が排除されることも、正しい事実認定に寄与します。
 アメリカやイギリスで陪審裁判に関する多くの研究がありますが、誤判の原因として指摘されているのは、警察・検察の不正(証拠の隠匿など)、弁護人の無能、科学的証拠の誤り等がほとんどであって、陪審制度そのものが原因であるとの研究結果は見当たりません(資料15 P.88以下)。具体的に誤判の例として挙げられている事例の多くは、判決後に新たな事実や証拠が判明したものです。最高裁が意見書に記載している研究報告についても、必ずしも陪審制度に誤判が多いことを示すものではありません。
 もちろん、陪審制度でも誤判が生じることはあり、無辜を誤って処罰することのないように工夫することは必要なことです。日弁連は、陪審裁判についても、事実誤認を理由とする被告人の上訴を認めることを提言しています。人権を考慮したとき、アプリオリに陪審裁判には事実誤認を理由とする上訴制度を認めることはできないとする必要はないし、裁判の経過は逐語的に記録化されますので、上訴審が事実認定の当否について判断することもできます。また、デンマークで採用されているように、陪審が有罪の評決をしても裁判官が無罪であると考えた場合にこれを破棄できる制度(「二重の保障」)を採用することも考慮に値します。このように、様々な工夫によって冤罪を極力少なくすることは十分可能です。

(2)「国民性論」について
 陪審制度に対する消極論として、日本人の国民性が挙げられることがあります。
 国民性の意味が、「お上の裁判をありがたがる」とか「自分の意見を言わない(大勢順応)」ことを指すとすれば、それを是とするのではなく、「統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体」となっていくために、そのような現状を変える必要があるはずです。
 わが国に陪審制度がなじまないわけではありません。1928(昭和3)年から1943(同18)年まで陪審法に基づいて484件の陪審裁判が行われ、市民は立派に陪審員の役割を果たしました(資料11 P.75以下)。これが停止された主な原因は、戦局の悪化によるものであり、国民性は全く問題とされていません。復帰前の沖縄における陪審裁判の経験や、すでに40万人以上が経験し定着している検察審査会の実績を見れば、制度をつくれば日本人は十分その職務を果たすことのできる資質をもっていることを示しています。
 また、国民意識については、50年以上実施されていないため、これまで陪審制度に対する関心が必ずしも高くなかったとしてもやむを得ないところですが、検察審査員経験者に対するアンケートでは77%が陪審制度の導入に賛成しており(資料5 P.37)、これはその体験の中で、司法に市民が参加することの意義と実現可能性に確信を持つようになったことによると思われます。なお、検察審査員経験者のアンケートは、検察審査協会のご協力を得て全国の弁護士会で行ったもので、本年8月31日までのアンケート送付数は約5,800通で、そのうち2,315の回答を得ました。
 貴審議会の公聴会でも陪審制度の導入を求める意見が相次ぎました。マスコミの多くも陪審制度の導入に賛意を示していることは、周知のとおりです。陪審制度の導入が具体的な形で方向づけされれば、国民意識も大いに盛り上がるに違いありません。

(3)「国民の負担論」について
 陪審制度は、裁判官の裁判に比べて、陪審員となる市民や勤務先などに対して、一定の負担を課すことになることは事実です。しかし、統治主体として参画する社会をめざす以上、ある程度の負担はやむを得ないことだと考えます。
 陪審裁判の多くを行っているアメリカにおいても、有資格の市民の中で過去に陪審員を務めたことのある人の割合は10数%にすぎないとの報告もあり、一生で何度も陪審員を務めなければならないといったような負担ではありません。日弁連の提案では、日本では段階的に限られた範囲から導入することにしており、現実に陪審員を務める市民の数はそれほど多いわけではありません。
 陪審裁判は、戦前の経験では平均審理日数1.7日であり、アメリカでも多くは3日以内に終了していることから、拘束される期間の点でもそれほどの負担ではありません(戦前は予審制度があったが現在は当事者主義なので同一に論じられないとの主張は、当事者主義の徹底しているアメリカでも3日以内で終了する事件が多いことからして、失当です)。
 検察審査員のアンケートでは、72%が「陪審員の負担について、国民の理解を得られる」と回答しています(資料5 P36)。
 もちろん、できるだけ陪審員の負担を軽くすることは望ましいことであり、「1日1公判制度」、一日の審理時間の限定、陪審員に対する経済的保障、勤務先との関係の制度整備等についても検討する必要があります。
 なお、陪審員に対する危害等についての危惧も指摘されることがありますが、小説や映画の世界はともかく、現実にはほとんど起こっていません(資料14 P.85)。
 以上のとおり、「国民の負担論」は、やや過度に喧伝されていると思われます。

(4)「弁護士の体制」について
 陪審制度が導入され、集中審理が実施されると、弁護士がその間当該事件に集中しなければならなくなります。
 しかし、日弁連の提案のように当面刑事重罪事件の否認事件について選択的陪審制度を導入したとしても、予想される事件はそれほど多数ではなく、特に大都市に多いことからして十分対応できると考えられます。特別な事件では、弁護団体制を組むこともあります。今後、弁護士人口が増え、法人化を含めて事務所機能の強化が図られていくので、より対応は可能となります。
 訴因の絞り込み、徹底した証拠開示、準備手続、準備期間の確保などが必要ですが、弁護士・弁護士会は、全力で陪審制度に対応します。

(5)その他
 このほかにも様々の論点があげられていますが、ここでは割愛します。陪審制度を導入することに伴う関連法規の改正が必要となる部分もありますが、それは導入を前提に今後検討すればよいことであり、導入それ自体の障害になるものではありません。

5 国民の司法参加と憲法上の問題について

 日本国憲法は、国民主権を採用しており、陪審の本場のアメリカの強い影響下に制定されたという経緯もあります。国民の司法参加、特に陪審制度は最も国民主権にかなう制度であって、憲法がこれを許容していないとは考えられないところです。現に、憲法及びそれに続く裁判所法制定過程において、立法当局者を含めて合憲論が大勢であり、枢密院審査委員会では「直接に規定せざるも新憲法の下にアメリカ式の陪審制度が実施せらるるものとおもふ」と回答されています(資料13 P.80)。
 憲法32条は「裁判官による裁判」(旧憲法)ではなく「裁判所において裁判を受ける権利」と規定していること、陪審制度を法律で定めれば、憲法76条3項にも抵触しないことなどから、憲法上の問題はないと考えます。
 参審制度についても同様ですが、憲法78条以下は常職裁判官に関する規定で参審員を排除するものではないと解すればよく、憲法問題をクリアーすることは可能です。

6 裁判官任用手続・裁判所運営等への国民参加

 以上は、直接的な国民の司法参加制度について述べてきましたが、次に、裁判官の任用等に参加することによって間接的に裁判に参加する制度について述べます。この項については、貴審議会の夏季集中審議で取り上げられたところを国民参加の視点で見るものであり、今回ご検討いただくとともに、今後法曹一元の検討の中で十分深められることを期待します。

(1)最高裁判所判事国民審査制度の在り方
 日弁連は、すでに1986年、国民審査を〇×方式に改めることなどを内容とする国民審査法の改正案を作成しています。この改正だけでも、この制度や最高裁判所の在り方に大きな改善をもたらすと考えます。
 また、最高裁判所発足当時存在した「任命諮問委員会」を復活させる必要があります。

(2)下級裁判所裁判官任用手続への国民の参加について
 日弁連は、下級裁判所裁判官の新任・再任についてブロック単位で裁判官推薦委員会を設置し、最高裁判所に対して、市民代表も加わって推薦していくこと、及び最高裁判所の指名名簿の登載手続にも市民代表が参加する制度を提案します。
 いずれも、裁判官任用手続の透明性を確保し、国民の裁判官に対する信頼感を高めるものです。
 意見書に書きましたように、アメリカ、イギリス、ドイツ(州による)、フランス、オランダなど主要国ではいずれも何らかの形で市民あるいは裁判所以外の法曹関係者が裁判官の任用手続に関与するのが潮流であり、わが国のように最高裁判所事務総局が一手に管理運用している国はほとんどありません。

(3)裁判官の職務評価への国民参加について
 これまで全く不透明に運用されており、貴審議会にようやく提出された資料などについても、なお不透明です。
 この現状を改革するためには、①内部改革として、評価権者・基準・根拠の明確化・本人への開示・不服申立機関の設置、②外部評価の実施、が必要です。国民が参加することにより、人事についての透明性・客観性を保持し、裁判官の独立性に対する国民の信頼感を高めることになるのです。

(4)裁判所運営への国民参加と情報公開について
 意見書に詳述しましたので、ご参照下さい。

7 おわりに

 国民の司法参加制度には、長所もあれば短所もあります。世に完全無欠の制度はありません。世界の各国は、様々な工夫をこらしながら、充実した司法参加制度を持っています。21世紀を展望し、国民が自律した統治主体として参画していく社会にふさわしい司法参加の在り方は何か、それは陪審制度の導入しかないと考えます。
 思い切って一歩を踏み出すことが今こそ必要であり、法が社会の血肉となり、わが国に法の支配が確立するための大きな礎になると確信するものです。

以 上