別紙3
2000年9月12日 日本弁護士連合会 |
(2)国民の司法参加制度の導入についての日弁連の考え方
導入の方法等についての日弁連の考え方は、意見書の28頁以下に記載していますので、ご参照ください。
(1)「真実発見の後退」「誤判のおそれ」などについて
しばしば陪審制度に対する批判として、陪審制度の採用により、真実発見に重きを置くわが国の刑事裁判が変質し、ラフジャスティスになるとの主張が述べられます。
しかし、この批判が前提としているわが国の「精密司法」の実態は、「調書裁判」という評価があるように、(法廷外で)多くの調書を読み込んで心証を取り、相互の矛盾のないように調整していく作業が中心であり、本当に精密なのかどうか疑問があると指摘されています。現に死刑再審無罪4事件を含めて、少なくない数の冤罪事件が発生しています。わが国の冤罪発生の主たる原因は、自白偏重、調書中心の構造にあり、法廷の審理によって真実を発見するという公判中心主義、直接主義、口頭主義に改革されなければなりません。直接主義、口頭主義は、フランス、ドイツも含めて世界の趨勢であり、陪審はそれに最も適合する制度です。
また、裁判官は、法律の専門家ではあっても事実認定について特別の能力を持っているわけではなく、少数の専門家(しかも、キャリア制度の場合は、均質の狭い社会経験しかない)よりは、多様な経験を持つ12人の陪審員の常識の方が信頼できると考えます。陪審制度は、事実認定を素人である陪審員が行うことを前提にして、訴訟手続が厳格に定められており、徹底した証拠開示が行われたり、疑問のある証拠等が排除されることも、正しい事実認定に寄与します。
アメリカやイギリスで陪審裁判に関する多くの研究がありますが、誤判の原因として指摘されているのは、警察・検察の不正(証拠の隠匿など)、弁護人の無能、科学的証拠の誤り等がほとんどであって、陪審制度そのものが原因であるとの研究結果は見当たりません(資料15 P.88以下)。具体的に誤判の例として挙げられている事例の多くは、判決後に新たな事実や証拠が判明したものです。最高裁が意見書に記載している研究報告についても、必ずしも陪審制度に誤判が多いことを示すものではありません。
もちろん、陪審制度でも誤判が生じることはあり、無辜を誤って処罰することのないように工夫することは必要なことです。日弁連は、陪審裁判についても、事実誤認を理由とする被告人の上訴を認めることを提言しています。人権を考慮したとき、アプリオリに陪審裁判には事実誤認を理由とする上訴制度を認めることはできないとする必要はないし、裁判の経過は逐語的に記録化されますので、上訴審が事実認定の当否について判断することもできます。また、デンマークで採用されているように、陪審が有罪の評決をしても裁判官が無罪であると考えた場合にこれを破棄できる制度(「二重の保障」)を採用することも考慮に値します。このように、様々な工夫によって冤罪を極力少なくすることは十分可能です。
(2)「国民性論」について
陪審制度に対する消極論として、日本人の国民性が挙げられることがあります。
国民性の意味が、「お上の裁判をありがたがる」とか「自分の意見を言わない(大勢順応)」ことを指すとすれば、それを是とするのではなく、「統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体」となっていくために、そのような現状を変える必要があるはずです。
わが国に陪審制度がなじまないわけではありません。1928(昭和3)年から1943(同18)年まで陪審法に基づいて484件の陪審裁判が行われ、市民は立派に陪審員の役割を果たしました(資料11 P.75以下)。これが停止された主な原因は、戦局の悪化によるものであり、国民性は全く問題とされていません。復帰前の沖縄における陪審裁判の経験や、すでに40万人以上が経験し定着している検察審査会の実績を見れば、制度をつくれば日本人は十分その職務を果たすことのできる資質をもっていることを示しています。
また、国民意識については、50年以上実施されていないため、これまで陪審制度に対する関心が必ずしも高くなかったとしてもやむを得ないところですが、検察審査員経験者に対するアンケートでは77%が陪審制度の導入に賛成しており(資料5 P.37)、これはその体験の中で、司法に市民が参加することの意義と実現可能性に確信を持つようになったことによると思われます。なお、検察審査員経験者のアンケートは、検察審査協会のご協力を得て全国の弁護士会で行ったもので、本年8月31日までのアンケート送付数は約5,800通で、そのうち2,315の回答を得ました。
貴審議会の公聴会でも陪審制度の導入を求める意見が相次ぎました。マスコミの多くも陪審制度の導入に賛意を示していることは、周知のとおりです。陪審制度の導入が具体的な形で方向づけされれば、国民意識も大いに盛り上がるに違いありません。
(3)「国民の負担論」について
陪審制度は、裁判官の裁判に比べて、陪審員となる市民や勤務先などに対して、一定の負担を課すことになることは事実です。しかし、統治主体として参画する社会をめざす以上、ある程度の負担はやむを得ないことだと考えます。
陪審裁判の多くを行っているアメリカにおいても、有資格の市民の中で過去に陪審員を務めたことのある人の割合は10数%にすぎないとの報告もあり、一生で何度も陪審員を務めなければならないといったような負担ではありません。日弁連の提案では、日本では段階的に限られた範囲から導入することにしており、現実に陪審員を務める市民の数はそれほど多いわけではありません。
陪審裁判は、戦前の経験では平均審理日数1.7日であり、アメリカでも多くは3日以内に終了していることから、拘束される期間の点でもそれほどの負担ではありません(戦前は予審制度があったが現在は当事者主義なので同一に論じられないとの主張は、当事者主義の徹底しているアメリカでも3日以内で終了する事件が多いことからして、失当です)。
検察審査員のアンケートでは、72%が「陪審員の負担について、国民の理解を得られる」と回答しています(資料5 P36)。
もちろん、できるだけ陪審員の負担を軽くすることは望ましいことであり、「1日1公判制度」、一日の審理時間の限定、陪審員に対する経済的保障、勤務先との関係の制度整備等についても検討する必要があります。
なお、陪審員に対する危害等についての危惧も指摘されることがありますが、小説や映画の世界はともかく、現実にはほとんど起こっていません(資料14 P.85)。
以上のとおり、「国民の負担論」は、やや過度に喧伝されていると思われます。
(4)「弁護士の体制」について
陪審制度が導入され、集中審理が実施されると、弁護士がその間当該事件に集中しなければならなくなります。
しかし、日弁連の提案のように当面刑事重罪事件の否認事件について選択的陪審制度を導入したとしても、予想される事件はそれほど多数ではなく、特に大都市に多いことからして十分対応できると考えられます。特別な事件では、弁護団体制を組むこともあります。今後、弁護士人口が増え、法人化を含めて事務所機能の強化が図られていくので、より対応は可能となります。
訴因の絞り込み、徹底した証拠開示、準備手続、準備期間の確保などが必要ですが、弁護士・弁護士会は、全力で陪審制度に対応します。
(5)その他
このほかにも様々の論点があげられていますが、ここでは割愛します。陪審制度を導入することに伴う関連法規の改正が必要となる部分もありますが、それは導入を前提に今後検討すればよいことであり、導入それ自体の障害になるものではありません。
(1)最高裁判所判事国民審査制度の在り方
日弁連は、すでに1986年、国民審査を〇×方式に改めることなどを内容とする国民審査法の改正案を作成しています。この改正だけでも、この制度や最高裁判所の在り方に大きな改善をもたらすと考えます。
また、最高裁判所発足当時存在した「任命諮問委員会」を復活させる必要があります。
(2)下級裁判所裁判官任用手続への国民の参加について
日弁連は、下級裁判所裁判官の新任・再任についてブロック単位で裁判官推薦委員会を設置し、最高裁判所に対して、市民代表も加わって推薦していくこと、及び最高裁判所の指名名簿の登載手続にも市民代表が参加する制度を提案します。
いずれも、裁判官任用手続の透明性を確保し、国民の裁判官に対する信頼感を高めるものです。
意見書に書きましたように、アメリカ、イギリス、ドイツ(州による)、フランス、オランダなど主要国ではいずれも何らかの形で市民あるいは裁判所以外の法曹関係者が裁判官の任用手続に関与するのが潮流であり、わが国のように最高裁判所事務総局が一手に管理運用している国はほとんどありません。
(3)裁判官の職務評価への国民参加について
これまで全く不透明に運用されており、貴審議会にようやく提出された資料などについても、なお不透明です。
この現状を改革するためには、①内部改革として、評価権者・基準・根拠の明確化・本人への開示・不服申立機関の設置、②外部評価の実施、が必要です。国民が参加することにより、人事についての透明性・客観性を保持し、裁判官の独立性に対する国民の信頼感を高めることになるのです。
(4)裁判所運営への国民参加と情報公開について
意見書に詳述しましたので、ご参照下さい。
以 上