配付資料

別紙5

国民の司法参加に関する裁判所の意見

最高裁判所



(司法手続に関するもの)

第1 国民の司法参加の意義

1 司法参加制度の意義と位置づけ
 裁判は,国民の権利,義務を左右する最も直接的な国家作用であり,その裁判の正統性についてどのように国民の理解を得ていくかということは,司法制度にとって最も重要な課題の一つである。
 英米における陪審制,大陸法国における陪審・参審制の採用は,歴史的に見ると,独立,革命などの国家の形成や変革と深くかかわっており,これらの制度が司法制度であるとともに優れて政治的な制度であると言うことができるであろう。
 司法制度としての陪審制は,後に述べるとおり誤判の危険性が強く,費用も掛かること等から,フランス及びドイツでは順次参審制に移行し,イギリスでも大陪審の廃止,民事・刑事事件における陪審対象事件の縮小がなされてきた(注1)。現在,世界の刑事陪審事件の8割は,アメリカ一国で行われている状況にあると言われている。

(注1)
 フランスでは,革命を契機として,1791年の憲法により陪審制が導入された。しかし,陪審裁判の無罪率が高く(1903年には重罪被告人の33%が無罪判決を受けている。),陪審裁判に対する批判から,1941年に,裁判官が事実問題についても陪審員とともに評決に加わることに改められ,陪審員の人数が6人に減らされた(陪審員の人数は,1945年に7人に,1958年に9人に変更)。陪審の名称は維持されているものの(起訴陪審は1808年に廃止),実質的に参審制に移行した(佐藤篤士・林毅編著「司法への民衆参加」167頁)。
 ドイツでも,フランス革命の影響を受けて陪審制導入の議論が高まり,1848年の3月革命以後,ドイツ各地で刑事事件について陪審制が導入されていった。しかし,種々の難点が指摘され,1850年にハノーファーで参審制が導入されるなど参審制への移行が見られ,1877年の刑事訴訟法,裁判所構成法による陪審制,参審制及び職業裁判官による裁判との併存を経て,1924年,司法大臣エミンガーの改革によって陪審裁判が完全に廃止され,参審制が確立した(前掲「司法への民衆参加」189頁)。
 イギリスでは,陪審裁判の対象は徐々に縮小されている。刑事事件については,1977年,1988年の法律によって,多くの公的秩序罪が,クラウンコートの管轄から除外されることに伴い,陪審裁判の対象から除外された。民事事件については,1883年,1933年の法律により順次縮小され,現在では,陪審裁判は名誉毀損など一定の特殊な事件で当事者が請求した場合に限られることになった。

 我が国では,大正12年,当時の大正デモクラシーを背景として陪審法が制定され,昭和3年から昭和18年までの間に484件の陪審裁判が実施された。この制度の評価や現行憲法の下で陪審法が停止されたままとなっている理由については様々な意見があるが,基本的には,我が国においては,この制度を復活させるだけの政治的,社会的エネルギーがなかったということに帰すると思われる。一方,戦後,大陪審に類似する制度として検察審査会制度が設けられ,不起訴の判断について審査するという限定的な権限を与えられたが,刑事司法に民意を反映させるほとんど唯一の制度として,それなりの機能を果たしてきている。
 我が国における国民の司法参加制度として,調停委員,司法委員,参与員といった制度が存する。その特徴は,国家の裁判権の行使を規制するというよりは,国民の智恵を裁判の場に活用し,裁判官の判断を補完する点にあり,また,これらの制度は大きな成果を上げてきた。

2 検討の基本的視点
 裁判作用をどこまで直接国民の手にゆだねるべきかということは,司法の本質にかかわる問題であり,最終的には主権者である国民が判断すべき問題である。
 国民の生活様式が急速に変化し,価値観の多様化が進行する中で,裁判に対する国民の信頼を確保していくことは,これまでにも増して重要な課題となっている。様々な分野における国家の作用に対し国民の直接的な意思を反映させようという流れの中で,国民が司法に参加することにより柔軟で社会常識に富んだ判断が確保され,これを通じて司法に対する幅広い国民の理解が得られることは,大きな意義がある。
 他方,裁判は多数の者の利害や感覚によって左右されるべきものではなく,論理と証拠に基づいた理性的かつ合理的な判断でなければならない。近年,裁判の対象とする事象はますます複雑化し,専門的な知識が一段と重要となっており,実効性のある国民の参加はどのようなものかということも十分に検討されなければならない。
 現行憲法は,陪審制,参審制といった重要な国民の司法参加に関する規定を欠いている。このような憲法の下で,上記のような各種の要請を考慮しつつ,望ましい司法参加の形態について検討していく必要があろう。
 この意見書では,これらの問題を概観しつつ,裁判所の基本的な考え方を明らかにしたい。

第2 陪審制

1 陪審裁判とはどのような裁判か

  •  陪審制,特にアメリカの陪審制は,多民族国家であるアメリカにおいて,裁判の正統性について国民の信頼を確保するための機能を果たしている制度であると言ってよいであろう。それは,「裁く者と裁かれる者とが,同じ次元の国民であり,かつ双方の当事者が裁く者を選ぶことによって,そこで出された結論についてはやむを得ないものとして受け入れる。」という,正に「手続的な自己責任の原理」の下に成り立っている。
     我が国では陪審制の導入を主張する立場から,しばしば,1人又は3人の職業裁判官による裁判よりは12人の一般市民による裁判の方がより真実を発見できるとか,無実の者が処罰されるおそれがないといった意見が述べられている。しかし,これは著しく陪審制を美化した発想であり,現実に陪審裁判を行っているアメリカにおいても,イギリスにおいても,陪審裁判の実態がそのようなものであるとは理解されていない。陪審員の判断はしばしば不安定であり,かなり高い比率で誤判が生じていると考えられており,これを裏付ける多くの研究結果が明らかにされている。
    (注2)
     陪審員の判断の精度について,次のような研究が発表されている。
  •  ロスキル委員会の研究(英)  1986年
     1983年に内務大臣によって召集された委員会が,重大詐欺事件の審理に携わった経験のある裁判官,バリスター,ソリシター,警察の詐欺捜査グループなどから意見を聴取したもの。その結果,複雑な取引に関する専門的知識を必要とする重大詐欺事件について,一般人から無作為抽出された陪審が審理することは満足のできる制度ではないという結論が出された(The Roskill Committee on Fraud Trials, Improving the Presentation of Information to Juries in Fraud Trials(1986))。
  •  ボールドウィン・マッコンビルの研究(英) 1979年
     1975年から76年にかけて,実際の陪審裁判370件に関して,裁判官,双方のソリシター,警察官,被告人にアンケート調査を実施し,その結果を分析したもの。これによると,有罪の評決のあった256件について,2人以上の回答において明確かつ一義的に疑わしいという意見が表明された「疑問のある有罪評決」は15件,全体の6%となっている(J. Baldwin & M. McConville, Jury Trials(1979))。
  •  マッカーブ・パーバスの研究(英)  1974年
     1968年から70年までの間に行われた実際の陪審裁判30件について,正規の陪審と同様,選挙人名簿から30の影の陪審を選び,その協力の下に,実際の陪審と同時進行的に法廷で審理を聞き評議を行うという,言わば対象実験を行ったもの。これによると,正規の陪審と影の陪審とでは,どちらか一方の評議が一致しなかった6件を除く24件のうち,6件について有罪と無罪の結論が逆になった。4分の1の事件で結論が異なったわけである(S. McCabe & R. Purves, The Shadow Jury at Work(1974))。
  •  カルヴィン・ザイゼルの研究(米)  1966年
     3576件の陪審裁判について,事件を担当した裁判官にアンケートを行い,陪審の事実認定と裁判官のそれとを比較して分析,研究したもの。これによると,両者の判断の一致率は70%であり,残り30%は食い違っている。不一致のうち,26%は陪審の判断が被告人に利益であり,残り4%は裁判官の判断の方が被告人に利益である(H. Kalven, Jr. & H. Zeizel, The American Jury(1966))。
  •  こうした事態については,アメリカの学者自身によって,端的に「我々の司法制度は,罪を犯した者を有罪とすることも,無実の者を無罪とすることも,そのどちらも保障していない。我々の司法制度が保障しているのは公平な裁判ということに尽きる。」と述べられているところである(G.Louis Joughin & Edmund M.Morgan,The Legacy of Sacco and Vanzetti,Preface,p.6(1948))。
     アメリカの実務家と話をすれば,陪審裁判に予測可能性が乏しいこと,陪審が多くの間違いを犯すことは当然の前提として考えられている。それにもかかわらず陪審制が確固たる制度として機能しているのは,アメリカ人にとって国家としての一体性を確保するための不可欠な制度であるという一種の信念があるからであると言ってよいであろう。アメリカにおいては,正に陪審制は優れて政治的な色彩を持っていると言うことができるであろう。

  •  次に,陪審裁判は国民に分かりやすい裁判であるということが言われる。確かに法廷での審理は一般人が理解しやすいように,双方の当事者ができる限り陪審員に配慮した活動を行うため,審理が分かりやすいことは間違いないところである。
      しかし,審理の結果から明らかとなるのは,有罪か無罪かという結論のみであり,その理由も陪審員による評議の過程も,全く明らかにされることはない。しばしば相矛盾するように見える証拠の中から,なぜ有罪あるいは無罪という結論が出されたのかということは,陪審員以外は全く知り得ないことなのである。陪審員が具体的にどのような事実を認めたのか,どうしてその事実を認めたのかといった点は全く不明であり,裁判によって真相を解明するという機能を構造的に持っていない。したがって,事実誤認を理由とする上訴ができないのは,単に陪審の結論を職業裁判官が見直すことはできないという理論上の問題だけでなく,実際上も事実誤認の理由を提示することができないという事情もあるのである。

  •  民事陪審についても同様の問題がある上,民事事件については適用すべき法律が複雑化し,専門的知識を要する訴訟類型が増加しており,陪審制の限界がより端的に認識されてきている。
     近年,イギリスでは民事陪審の対象とする事件類型が縮小され,現在では名誉毀損等ごく少数の例外的事件に限定されている。また,アメリカでも,独占禁止法事件,証券取引法事件等の複雑な民事訴訟では,当事者からの陪審裁判の請求について,陪審員の能力を超えるという理由で排斥する裁判例(注3)が出されている。また,陪審による審理が予定されている事件についても,陪審の評決が予想し難いところから双方当事者がトライアル前に和解で解決する例が多く,実際に陪審による審理がなされているのは,全民事事件のわずか数パーセントにすぎない状況にある(注4)。
    (注3)
    In re Boise Cascade Sec. Litig., 420 F.Supp.99(W.D.Wash.1976)及びBernstein v.Universal Pictures, Inc., 79 F.R.D. 59, 66(S.D.N.Y.1978)参照
    (注4)
     連邦地裁における刑事事件の陪審利用率は,全事件の5.2%,同じく民事事件の陪審利用率は,全事件の1.7%である(いずれも1997年10月1日から1998年9月30日までの統計)。
  •  陪審裁判は,我が国の裁判,すなわち「真実を解明し,その結果を国民の前に明らかにすることが期待され,それに向けて審理と判断が行われている裁判」とは,全く異なった制度である。このように,陪審制を導入するかどうかということを検討するに当たっては,まず,この基本的な裁判の在り方(裁判観)の相違を明確にしておく必要があると言えよう。

    2 陪審制を行うためにはどのような条件が必要とされるか
     陪審制は,それぞれの国の歴史に根ざした司法制度ないし政治制度であり,多くの社会的条件によって支えられている。そのすべてに触れることはできないが,制度運営のための直接的基盤について概観してみたい。

  •  国民の負担
     陪審員となることは,国民にとって大きな負担を伴う義務である。その程度は陪審事件の数と審理に要する期間によって左右されるが,公平な陪審員を選定するという観点から,年齢,性別,職業等に関係なく無作為に抽出された者が,自分の仕事,家事等もなげうって審理の期間中はその義務を果たさなければならない。もとより一定の免除事由を設けることができるが,これを緩やかに認めてしまうと,陪審員の構成から一定の社会的階層の者が除外されてしまうことになりかねない。暴力団関係事件,マスコミの関心が強い事件など陪審員に対する働きかけが予想される事件については,陪審員の隔離も必要とされる。陪審員として選定された者が所属する会社,各種組織等の業務上の負担の問題もある。
     このように,陪審制は国民に極めて大きな負担を求める制度であり,この点に関する国民の理解と承認が不可欠である。
    (注5)
     我が国でかつて行われた陪審の経験からも国民の協力は十分期待できるという見解がある。
     戦前の制度では,事件数が16年間で484件と少なかったこと,陪審員の資格として30歳以上の男子で引き続き2年以上直接国税3円以上を納めているという要件が課せられていたこと(当時の該当者は約180万人,総人口の約3%であった。),また,国民の義務の遂行に関する感覚も今日と大きく異なっていたことなどの事情を考慮しなければならない。
     現在,検察審査員・補充員の出頭確保については,検察審査会の事務局員が選定された者を訪問し,場合によっては事業主や上司に面談するなど様々な形をとって協力を求めている。検察審査員が係属事件を審理するための負担は,1件当たり通常2,3日程度の拘束期間にとどまるが,それでも出頭率は約70%である。

    (注6)
     アメリカでも,少数ではあるが,公判開始ないし無罪答弁から評決まで長期間を要する事件が見られる。例えば,シャロン・テート事件では9か月半,O.J.シンプソン事件では約1年2か月,ロドニー・キング事件では州裁判所で約4か月,連邦裁判所で約2か月を要しており,O.J.シンプソン事件では陪審員は265日間にわたって隔離された。

    (注7)
     陪審制を採っている国においても,陪審制に伴う国民の負担の大きさが問題となっている。最近の報道でもイギリスでは召喚を受けた国民の3分の2が陪審義務を免れていると報ぜられたし,アメリカでは陪審義務を回避するためのマニュアル本が出版されている。

  •  集中審理を実現する弁護態勢
     陪審裁判では,国民の負担を軽減し陪審員の記憶を持続するため,公判の開始から終了まで連日開廷するなど,集中した審理を行うことが必要である。このためには,裁判所や検察庁の態勢を整備する必要があるが,それ以上に弁護態勢の整備が極めて大きな課題である。
     周知のとおり,我が国においては,現在の弁護士ないし弁護士事務所の態勢では,集中して期日を確保することが極めて困難な状況にあるが,このような状況を改善しない限り,陪審裁判を実施することはほとんど不可能であると言わざるを得ない。
    (注8)
     戦前の陪審裁判の実績等から見て証拠調べに必要なのは3日程度であるから,陪審裁判を実施しても弁護士にそう大きな負担にはならないとの意見がある。
     しかし,戦前の刑事手続では,職権主義の下で予審制度が設けられ,裁判官が記録を検討し,証拠を整理して審理が行われていたため,事件全体が極めて迅速に処理されていたという事情がある。陪審制の導入は当然に訴訟法の見直しを必要とするものではあるが,当事者主義をベースとして戦前と同様の迅速な審理を確保することは難しいであろう。

    (注9)
     陪審事件を限定して一定程度の事件数とすれば,ある程度の集中審理に応じることができるという,特に弁護士サイドからの意見もある。しかし,迅速な裁判の要請はすべての事件について言えることであり,陪審以外の事件については2週間に一度程度しか期日を受けられないが,陪審事件であれば連日開廷も可能であるという意見は,余り説得力があるとは言えないであろう。

  •  実体法及び手続法の全面的見直し
     刑法を始めとする我が国の実体法は,法律専門家の間でも解釈が分かれる観念的,理論的な内容となっており,法律への当てはめが難しい面があるため,陪審裁判となれば,一般国民が理解し事実認定を容易にできるよう簡明なものに全面的に改める必要があろう。また,どのような陪審制を構築するかにもよるが,捜査の構造や証拠法など手続法についても,陪審裁判の進行に適したものとするため,根本的な見直しが必要になると考えられる。

  •  報道の規制
     陪審制においては,陪審員が外部からの情報等によって影響を受けることがないよう,犯罪報道についての厳しい規制が必要とされる。現在,我が国ではこのような規制は全く設けられておらず,テレビ,新聞等ではかなりセンセーショナルな報道がされている。陪審制の下では,実効性のある制裁措置を伴う厳格な報道規制が必要とされるであろう。

    3 陪審制と我が国の裁判の在り方
     我が国の裁判に対し,時間と金が掛かりすぎるとか,国民にとって分かりにくいといった種々の批判があるが,公正な手続の下で真実を明らかにするという面で大きな機能を果たしていることは,余り異論のないところであろう。
     陪審制の導入は,司法に対する国民の関心を高めるという大きな意義を持つことは明らかである。しかし,反面,真実解明の場という今後ますます重要になると思われる司法の機能を大きく後退させることは否定できない。また,その結果として,誤判のおそれは現行制度よりも決して小さくなることはないであろう。

    第3 参審制


     参審制は,裁判官と国民から選ばれた参審員とが一つの裁判体を構成し,共同して裁判を行う制度であり,参審員の数,権限などその形態によっては,真実の解明という裁判に対する要請を損なうことなく,国民の意識や感覚を裁判に反映させることが可能になると思われる。また,国民が参加する意義についても,事件の類型に応じて,様々なものが考えられる。

    1 刑事事件における参審制
     我が国における参審制の導入について考える場合に,まず検討されるべき分野であろう。現在のように,真実を解明し,これを国民の前に明らかにするという刑事裁判の機能を維持しつつ,国民の意見を一定の限度で裁判に反映させるために,一つの有効な方策であると思われる。その形態としては様々なものがあり得るが,例えば,ドイツのように裁判官3名に対し参審員2名の裁判体とし,対象事件は,基本的に国民の関心が高く,社会的にも影響の大きい重大事件(例えば,法定刑に死刑又は無期懲役を含む事件)とし,参審員には一定の任期を設けるといった制度が考えられる。ただ,後に述べる憲法上の問題を考慮すると,参審員は意見表明はできるが,評決権は持たないものとするのが無難であると思われる。

    (注10)
     評決権を持たない参審制は,厳密な意味では参審制とは言い得ないという意見もあろう。しかし,参審員が裁判官と共に審理に加わり,その意見を裁判,特に判決の中で表明することができるとすることは,大きな意義があると思われる。裁判官はもとより各訴訟関係者も,参審員に事件の内容とその主張を理解してもらうために,分かりやすい訴訟活動を行うよう心掛ける必要があるため,審理の在り方が大きく変わることになろう。また,裁判官も参審員と意見を交換することにより,個々の事件についての国民の関心と問題意識を把握できるばかりでなく,こうした過程を通じて国民の意識や感覚を共有することにより,それを裁判に反映させることができるといった長所が期待できると思われる。

     もとより,参審制の導入を考える場合には,大なり小なり陪審制と類似の問題点があり得るところである。例えば,参審員となる者は相当長期間の拘束を覚悟せざるを得ないし,参審員の選定については,選出方法,任期など陪審制以上に様々な要因を検討する必要があろう。

    2 民事事件における参審制
     民事事件においても参審制を導入することが考えられる。ただ,民事事件は,基本的に原告と被告間の私益に関する争いであって,刑事事件のように刑罰権の発動の局面における国家対個人という対立関係になく,その必要性について刑事事件とはおのずから差異があること,民事事件は事件数が極めて多く,審理に要する期間も刑事事件に比して長いため,その負担がより大きなものとなるという問題がある。また,民事事件の中には,法律関係,事実関係が極めて複雑であるため一般国民が理解するには相当の時間を要するなど,負担が大きすぎると思われる事件も存する。諸外国でも民事事件全般を参審制の対象としている国は見当たらないというのもこのような事情を反映しているものと思われる。
     ただ,民事訴訟事件においても,名誉毀損等による慰謝料請求,あるいは近隣者間の争いや借地借家に関する紛争のように,一般国民の意見を反映させることが適当と考えられる事件もある。現に,簡裁の民事訴訟事件については,司法委員が関与しているが,制度的にこれらの手続を利用できない紛争も多く,今後,この種の事件についてより広く国民の参加を求める分野と方法について具体的に検討していくことが望ましい。
     民事事件のうち,医療過誤,建築紛争,知的財産権など,適切妥当な解決を図るために特殊の専門的知識を必要とする分野の紛争もある。これらの事件の審理に当たり,裁判官以外に専門的知識を有する者の関与を求めることができれば,迅速,的確な解決のために極めて有益であるという点については,これまでも述べてきたところである。このような専門家の関与の方法としては,現在,鑑定あるいは調査官制度が採用され効果を上げているが,これらの制度との役割分担を考慮しつつ,専門参審制の導入について具体的な検討を行う必要があろう。
     労働参審制については,これまで述べてきた参審制とは異なり,参審員に言わば利害調整的な役割を期待するものと言えよう。厳格な手続に従った中立,公正な紛争解決を旨とする裁判手続に利益代表的な参審員を加えることが適当かどうかという点,調停,各種ADR等との機能の分担という点,労働委員会制度と重複することにならないかという点も問題となろう。

    第4 国民の司法参加の憲法上の問題

     陪審制,参審制を採用する国では,憲法上これを保障又は許容する旨の規定が置かれている国が少なくない。しかし,我が国の憲法では,司法権の担い手としての裁判官について身分保障等の詳細な規定が置かれている一方,陪審制又は参審制を想定した規定はなく,果たしてこれが憲法上許容されるかどうか問題である。
     この問題については,様々な点を論拠としつつ,合憲論と違憲論の双方があり得るところである。この点は,第一次的には立法機関において,また最終的には司法権の行使の主体としての最高裁判所によって判断されるべき事柄であろう。もっとも,陪審制について憲法問題を回避するためには,旧陪審のように陪審員の事実認定に裁判官に対する拘束力を認めないような形態のものが考えられるであろう。また,参審制について憲法上の疑義を生じさせないためには,評決権を持たない参審制という独自の制度が考えられよう。このような参審制であっても,裁判官と同様に審理に加わり,法律問題,事実問題について意見を述べ,これらの意見に対しては裁判官が判決の中で説明を行うという制度を考えれば,実質的に国民の代表が裁判に直接関与しているのと同様に,分かりやすく,国民の疑問にこたえ,国民の意識や感覚を反映した裁判を実現することが可能になると思われる。

    第5 現行制度の充実・強化

    1 検察審査会
     検察審査会制度は,現在,刑事事件に関するほとんど唯一の国民の司法参加の手続である。これまでに約46万人が検察審査員又は補充員として選任され,約13万2000人の被疑者に対する不起訴処分について審査し,2288人(全体の1.7%)について「起訴相当」,1万3820人(同10.5%)について「不起訴不当」の議決をし,これらのうちの約6.8%については,起訴され,その9割以上が有罪となっている。
     既に述べたとおり,我が国では起訴が極めて抑制的になされていることを考慮すると,その意義は決して小さくないが,更にこの制度を充実するという観点からは,例えば,「起訴相当」の議決や,検察審査員の全員一致で「不起訴不当」の議決がされた場合には,検察官は公訴を提起しなければならないとするなど,その議決に一定の拘束力を認めることが考えられる。
     また,現在,検察審査会は全国201か所に設置されているが,都市部と地方とで事件数に著しい差があり,配置のアンバランスが顕著になっているので,設置後の交通事情の変化等も考慮し,実情に合ったものに見直すことなども検討する必要がある。

    2 調停委員,司法委員,参与員
     これまでにも述べたとおり,これらの制度は,家庭裁判所及び簡易裁判所において,極めて多くの事件の妥当な解決に貢献するなど,大きな機能を果たしており,我が国の司法制度の特色の一つをなしている。
     今後,調停事件の多様化,専門化等が一層進行すると予想されることから,その充実・強化を図るため,不動産鑑定士,建築士,公認会計士,税理士,医師を始めとする専門家の関与をより充実させるなどの方策を講じていく必要がある。また,司法委員の関与する事件の範囲の拡大(地裁民事訴訟事件への関与等),参与員の権限の拡大(審判手続における事実調査権限の付与等)を検討する必要があろう。 (注11)
     平成11年の調停事件数は,民事調停と家事調停を合わせると約37万件に達し,民事訴訟事件に匹敵する紛争解決機能を発揮している。司法委員は,平成11年には全簡裁民事事件(既済)の23%に当たる約7万件に関与し,特に少額訴訟では半数以上の事件に関与しており,大きな役割を果たしている。参与員は,平成11年に家事審判事件(既済)の14%に当たる約5万7000件の事件に関与している。

    (その他の制度に関するもの)

    第1 裁判官選任過程等への参加

     裁判官の選任過程等への国民の関与をより深めるべきではないかという指摘がされているが,この問題は,基本的には,裁判官制度の在り方の問題の一環として検討するのが適切ではないかと思われる。これは様々な角度から検討すべき問題であるが,現時点において,裁判所としては次のように考えている。

    1 裁判官任用手続への参加等について

  •  下級裁判所の裁判官の任命について,最高裁判所の名簿提出の参考とするため,裁判官推薦委員会を設け,これに国民の代表を加えるべきであるという意見がある。先の集中審議においても,今後,裁判官に多様な人材を得ていく必要があることが指摘されたが,優れた資質・能力を備えた者を確保するためには様々な工夫をしていく必要があり,そのような制度も一つの方法として考え得るであろう。ただ,裁判官に必要とされる資質・能力は極めて多面的,総合的なものであり,どのような委員会にすれば専門性の高い職業である裁判官の適格性を適切に判断できるのか,また,そのような判断を可能とするような方法をどうするのかなどについて,十分に検討する必要があると思われる。

  •  裁判官の能力・適性の評定は,裁判官の職務とは何か,また,これを適切に遂行するとはいかなることかということを踏まえて,個々の事件における判決の結論や法廷における裁判官の言動等の印象だけにとらわれることなく,総合的な視点から相当の時間を掛けて行われる必要がある。裁判官の能力・適性の評定について一般国民の意見を反映させるというのは,その性質上,裁判官の選任にも増して難しい問題があると思われる。
     いずれにしても,評定の結果が裁判官の再任等の資料になり得ることからすれば,前段の問題と併せて検討する必要があろう。

    2 国民審査制度について
     現在行われている国民審査は,憲法の予定した制度の趣旨に従って運用されており,それなりの機能を果たしているものと思われる。もとより,この制度について様々な批判があることは承知しているが,国民審査制度の在り方については,最高裁判所の裁判官の任命方式との関連を十分に視野に置いた検討が必要であり,最終的には国民が判断すべき問題であろう。
     最高裁判所としては,現行の国民審査制度の下で,国民にとって分かりやすい情報提供を心掛けるとともに,国民審査を離れても,重要な裁判における各裁判官の意見など,最高裁判所の裁判官の人物や考え方を国民にもっと良く知っていただくよう,インターネットを活用して最新の情報を提供していくなど,平素の広報活動の充実に努めていきたい。

    (注1)
     国民審査制度の性格については,国民が最高裁判所の裁判官を罷免するか否かを決する解職の制度であり,裁判官の任命を完成させるか否かを審査するものではないとされている(最高裁判所大法廷昭和27年2月20日判決,民集6巻2号122頁)。また,罷免を可とする裁判官に×の記号を記載する投票の方式についても,憲法の規定する制度の趣旨に合致するとされている。審査公報の掲載事項等は法令等で定められているが,審査に付される裁判官がその定めるところに従って掲載文を作成しており,中央選挙管理会の管理の下に審査に関する事務が進められている。

    第2 裁判所運営への参加について

     国民が利用しやすい裁判所を築き,裁判所が国民により身近なものとなっていくためには,裁判所の運営について国民の意見をよく聞き,その意見を反映していくことが重要であると考えている。先のプレゼンテーションにも記載したとおり,司法制度については,継続的な改革,改善の努力を積み上げていくことが何よりも重要であり,そのためには,法曹三者のみならず,広く国民の意見を反映し得る制度的な枠組みが必要である。
     裁判所の運営についても,このような制度的な枠組みの中で,あるいは少なくとも,それとの関連において検討されるべきであろう。