第30回司法制度改革審議会議事次第
- 日 時:平成12年9月12日(火) 13:30 ~17:20
場 所:司法制度改革審議会審議室
出席者:(委 員、敬称略)
- 佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、鳥居泰彦、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本 勝、吉岡初子
(説明者)
[日本弁護士連合会]山田幸彦副会長、四宮啓弁護士(司法改革推進センター事務局次長)
[法 務 省]房村精一司法法制調査部長、渡邉一弘官房審議官(刑事局担当)
[最 高 裁 判 所]中山隆夫事務総局総務局長、白木勇事務総局刑事局長(事務局)
樋渡利秋事務局長- 次 第:
- 開 会
- 「国民の司法参加」について
(1)日本弁護士連合会・法務省・最高裁判所からの説明
(2)意見交換- 閉 会
【竹下会長代理】それでは、ただいまより第30回会議を開催いたします。
本日は御承知のように、台風の影響で東海道新幹線が止まっておりますために、佐藤会長は、急遽、飛行機に乗り換えられて、大阪を出られたところだそうでございますが、到着されるのは3時過ぎになるかと思われます。したがいまして、それまで、私が代わって司会進行役をさせていただきます。なお、中坊委員も同じ飛行機で来られるそうでございます。
本日の議題は「国民の司法参加」でございまして、内容といたしましては、まず藤田委員から御説明を伺い、その後法曹三者からのヒアリングを予定いたしております。
また、中間報告までの審議スケジュールにつきましても、前回、会長から御示唆がございましたように、本日お諮りしたいと考えております。
【竹下会長代理】それでは「国民の司法参加」について、ただいま申しましたように、藤田委員からの説明、及び法曹三者の方からのヒアリングを行いたいと思います。
レポート担当委員の石井委員、高木委員、吉岡委員からのレポートは9月18日の審議会に行い、次々回の9月26日の審議会では現段階でのとりまとめを目指すことにいたしたいと思います。
法曹三者におかれましては、今回も詳細な資料を御準備いただき、誠にありがとうございました。
まず、本日説明のためにお越しくださいました皆さん方を御紹介させていただきたいと思います。
日本弁護士連合会からは、山田日弁連副会長でございます。
法務省からは、房村司法法制調査部長でございます。
最高裁判所からは、中山総務局長でございます。
以上の皆さん方です。
ヒアリングの最初のプレゼンテーションは、このお三方がやってくださるそうでございますが、質疑応答になりましたら、場合によって適宜ほかの方にお代わりくださるそうでございます。
それでは「国民の司法参加」につきまして、藤田委員からレポートをいただきたいと思います。藤田委員から、海外実情視察の前の第17回審議会、4月17日でございますけれども、一度レポートをいただきましたけれども、これは海外の制度の紹介が中心でございまして、議論すべきポイントの整理や意見交換までは時間的に余裕がなくてできませんでした。
そこで、お手元に「審議用レジュメ」というものを配付してございますが、この「審議用レジュメ」は審議の便宜のため、担当委員が中心になって作成して下さったものでございますけれども、ヒアリングに入る前に藤田委員からこの「審議用レジュメ」に即して議論すべきポイント等を15分程度で御説明していただくことにしたいと思います。
それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
【藤田委員】それでは、お手元のレジュメに基づいて御報告いたします。限られた時間でございますので、本日の法曹三者のプレゼンテーションについて、どの点が問題点、あるいは検討を要する点として意識されているかという点に重点を置いてお話ししようと思います。
「1.国民の司法参加の意義・趣旨」。「論点整理」を引用しての話は、これは4月にも申し上げましたし、ここに書いてあるとおりでございます。
「(1)司法参加の意義・趣旨」は、国民主権、民主主義と統治主体意識、このために必要なことであるということであります。
「立法・行政と司法との機能の相違」。これも説明を要しないと思いますけれども、国民による直接選挙という意思表明に基づいて行われている立法あるいはそれに基づく行政と司法とは、制度の立て方も機能も違うわけでありますが、そういうような前提でどのような形で国民に司法に参加してもらうかという問題意識でございます。
「我が国の司法への国民参加の拡充を求める声が今日出てくる背景」。これも政治改革、行政改革に次いで司法改革が浮かび上がってきた背景を指しているわけであります。
「(2)参加(関与)の対象と態様」でありますが、第1に、裁判手続、訴訟手続への参加、端的に申せば、陪審あるいは参審等の問題であります。
2番目は「裁判官選任過程」の問題です。最高裁判所裁判官については、国民審査という制度がございますが、それも含めまして、下級裁判所の裁判官につきましても、その選任過程に国民の参加ということが考えられるかどうかという問題であります。
「裁判所運営」、これも裁判所の運営について、裁判所が国民から遠い存在となっている、あるいはその運営の実態が不透明であるというような考え方があるわけでありますが、それにどのように対処するかということであります。
「その他(弁護士会運営など)」、これも広い意味では司法の機能に含まれますので、既に弁護士の在り方等について、いろいろ議論はされましたが、弁護士会の運営に一般国民がどのような形で参加していくかという問題であります。
「2.訴訟手続への国民参加」でございますが、「論点整理」でこのように整理されております。
「(1)意義と趣旨」でありますが、国民が訴訟手続へ参加することにどのような意義があるか。最初のヒアリングで佐々木毅東大教授からトクヴィルのお話等がございましたが、国民が訴訟手続へ参加する意義と申しますと、その次にあります陪審制度、あるいは参審制度のメリットとか積極的意義がこれに当るわけでございます。
どのような局面で参加ということが考えられるかということでありますが、まず事実認定がございます。裁判における法律判断の前提となる事実認定です。さらに、それに対して適用される法律判断の局面があります。また、刑事の場合ですと、有罪ということになった場合にいかなる刑を科するかという量刑の問題がございます。この3つの面で参加ということが考えられるということであります。
次に、「(2)参加の具体的方策」でありますが、これについては別紙の概念図を添付いたしました。陪審につきましても、参審につきましても、先進諸国で例がございますし、デンマーク、スウェーデンのように両方を併用している国もあるわけであります。国民の訴訟手続の面での司法参加ということを考えるについて、外国の制度は参考にはなるわけでありますけれども、訴訟手続、あるいはそれに対する国民の司法参加について、歴史的、文化的、社会的、いろいろなその国の拠って立つ基盤と関係があるわけでありますから、諸外国の制度の長所は消化し吸収するにしても、我が国のそういうような文化的基盤の上に確立できるような、根づくような制度を導入しなければならないという趣旨から、どのような形での訴訟手続への国民参加が考えられるかということで分類したものであります。
①と②と分けてございますが、①は事実認定について国民が参加するという方式であります。これも2つに分かれまして、職業Jというのは、職業Judgeすなわち職業裁判官でありますが、一つは、陪審員が職業裁判官から独立して事実認定を行うものでありまして、その答申に拘束力を認める方式と、拘束力を認めない制度とが考えられます。拘束力を認めるのが英米型の陪審制であり、答申に拘束力を認めないのが、昭和3年から昭和18年まで、我が国で行われました陪審法に基づく陪審制度でございます。 我が国の陪審制は多数決で決するという点と、それから裁判官を拘束せず、再審理ということが可能であった点において特色があります。実際の再審理の件数はそれほどあったわけではありませんけれども、法的な拘束力を認めなかったわけであります。そういう2つの方式が考えられるということであります。
それから、事実認定につきまして、職業裁判官と一般国民とが合議体を構成するという方式も考えられるわけでありまして、現実にこのような制度があるわけではございませんが、事実認定のみを参審という形で行うという方式です。現在行われている参審制は、法律の適用、量刑も含めて職業裁判官と参審員とが決するわけでありますけれども、事実認定だけについて、職業裁判官と参審員とが判断をするという形も理念的にはあり得るということでここに掲げました。これも評決権がある方式と評決権を認めない方式の両方が考えられるということであります。
②は事実認定と法律適用、量刑も含めまして、総括的に判断対象として、そこに国民が参加するという方式であります。そのうち、一つは職業裁判官から独立して行うものであって、これもアメリカの一部の州では法律適用まで陪審が行うということもあるようでありますけれども、一般的に英米型陪審では事実認定のみを行っているわけでありまして、一般的制度としてこのような方式が行われているというわけではございませんけれども、陪審で最終的な法律適用、量刑まで判断するという方式も理念として考えられるということであります。
それから、職業裁判官と合議体を構成して事実認定と法律適用、量刑も行う方式、これが通常ヨーロッパで行われている参審制でありまして、そのうちの参審員に評決権があるというのがドイツ、あるいはフランス型の参審制であります。しかし、評決権がない方式もあり得る。ここに参考で司法委員とありますけれども、司法委員は職業裁判官と合議体を構成するわけではございませんが、審理に立会って意見を述べる。したがって評決権まではないわけですが、やや機能的に類似しているということで参考に挙げているということでございます。概念整理図として、概念としてはこのような方式が考えられるというところで挙げたわけであります。
陪審制度でありますが、事実認定を一般人からなる陪審が専ら担当するという制度でありまして、メリットとしても、国民の司法に対する積極的な参加という点が挙げられますし、事実認定は陪審が行うわけでありますから、国民による裁判に基づく責任の分担ということがあるわけであります。
それから、非法律家である陪審員が判断するわけでありますから、分かりやすい裁判を実現しなければ説得力がないわけでありまして、裁判の分かりやすさが実現するとされております。
それから、裁判の迅速化が実現する。一般の国民を陪審員として拘束するわけでありますから、継続審理でやらざるを得ない。
それから、職業裁判官ではない一般国民の新鮮な感覚による証拠評価が行われるということがメリットとしまして、挙げられております。
デメリットと申しますか、問題点も含んででありますけれども、合憲性について問題があると言われております。
これは4月の時点でお配りした参考資料の80ページ以下に違憲説、制限的合憲説、合憲説と掲げてございますが、裁判官による裁判を憲法が保障しているということから、合憲性に疑問を持つ向きもあるわけでありますし、合憲であるという考え方もあり、両方対立しておりますが、その分類はその資料等を御覧いただければと思います。
それから、「判断の不確実性」ですが、これは陪審が証拠以外の他の要素によって左右される面があるということが言われているわけでありまして、四宮啓弁護士が『O.Jシンプソンはなぜ無罪になったか』という大変興味ある本を出しておられますが、その四宮弁護士の考え方によれば、陪審制の判断に不確実性があるということではないということでありますけれども、現在『判例時報』に連載されています西野喜一新潟大学教授の論文では、アメリカの陪審制の判断の確実性についてかなり厳しい考え方を取っておられるようでありまして、ここら辺に考え方の相違があるということであります。
「判断過程のブラック・ボックス化」、これは陪審については理由が明らかにされない。“guilty or not guilty”の結論だけでございますので、判断過程、すなわち、どういう事実認定をして、どういう論理構成によって、最終的な判断が出てきたかということが分からないということで、判断過程のブラック・ボックス化と言われているわけであります。
それから、「感情に流された判断のおそれ」です。報道規制の関係もありますけれども、それぞれの陪審員の人種とか社会的なステータスとかいうものによって、判断が流動化するということも一部の研究では言われているわけでございまして、その問題であります。
陪審制については、国民にかなり重い負担がかかる。複雑重大な事件につきましては、ある程度の審理期間が必要なわけでありまして、O.Jシンプソンの事件などでは、陪審員が8か月余りホテルに隔離されたということがございます。これは特殊な事件ではございますけれども、そこまで至らなくても、国民に生活上の不便を忍んで陪審に協力しなければならないという負担を受け入れてもらわなきゃならないということであります。
それから、陪審は仲間による裁判であって、それまでの専制君主による裁判とは違うというところから、あるいは先ほどの、理由が明らかにされないということもありますけれども、事実認定については上訴が制限されるというのが一般的な制度の現状であります。それを受け入れられるかどうかという問題であります。
次に報道規制の問題です。アメリカとイギリスとでは報道規制の状況が大分違いますけれども、イギリスではかなり厳重な報道規制が敷かれておりますし、アメリカでも、その事件についてのマスコミの報道に接しないようにということを厳重に陪審員に求めるということがあるようでありますから、その問題であります。
続きまして、参審制度でありますが、追加参考資料に「ヨーロッパの参審制度等の比較」という資料が載っておりまして、3枚目以下になります。ヨーロッパでのいろいろな参審制度の紹介がございます。一般人による参審、あるいは専門家による専門参審もありまして、メリットとしましては、陪審制度とある程度共通しているわけであります。参審の場合には法律判断や量刑までやることになりますので、それへの市民感覚の反映が考えられる。あるいは、専門参審につきましては、専門的な知識の活用ができるということであります。
デメリットとしましては、やはり陪審と同じく合憲性について議論がありまして、違憲だという考え方もありますし、合憲だという考え方もあるわけでありまして、この点をどう考えるかということであります。
評議の実効性と申しますのは、職業裁判官と一緒に判断するわけでありますから、フランスの例で言うと職業裁判官3人について9人の参審員が参加するわけでありますけれども、プロの裁判官に引っ張られるのではないか、評議の実効性が保てるかどうかという問題であります。
国民の負担は陪審と共通の問題で、上訴制限も同じでございます。
専門参審については、専門家の中立性をどのように確保するかというような問題もございますし、密室裁判の心配もあるという御意見もありましたけれども、そういう問題があるということであります。
「その他、典型的な陪審・参審制度以外の参加形態」です。まず、司法委員ですが、これは現在簡易裁判所で行われていて、審理に立会って意見を述べるということと、和解の補助をするということで、かなり大きな機能を営んでいるわけでありますが、そういうものがあるということであります。
以上が裁判手続への参加でありますが、「裁判官選任過程への参加」、これは裁判官の選任過程にも、国民の意思を反映すべきではないかという問題意識でありまして、最高裁判所裁判官につきましては、国民審査制度がありますが、これに対しては、いろいろな批判もあるところで、改善の手段はないかということでありますし、下級審裁判所裁判官選任過程へも、民意を反映することはどうかという問題であります。
2番目が、「裁判所運営への参加」でありますが、これも裁判所が庶民から遠いと言われているわけでありますけれども、その運営の透明化、その運営に国民の意思を反映させる方策はないか、その具体的方策はどうかという問題であります。更に現行司法参加制度の改革でありますが、これは「論点整理」にもございますけれども、現在、民事調停、家事調停が非常に大きな機能を営んでいるわけでありますし、ただいま紹介いたしました簡易裁判所における司法委員制度、これも最近非常に大きな機能を営んでおります。それから、家庭裁判所での参与員制度、こういうようなものを更に改善・拡充していく方策はどうか。特に調停制度、司法委員制度、参与員制度は、人によって支えられているわけでありますから、そこに多様、かつ適切な人材を確保するための方策はどうかということであります。
検察審査会につきましては、検察官の起訴処分について一般国民の民意を反映するという制度で、それなりの効果を上げているわけでありますが、更にこれを強化、改善する、議決にある範囲内で法的拘束力を付与することはどうかという問題であります。
組織・権限、運用の在り方ですが、そういうことになりますと、運用についても、あるいは組織についても更に改善・強化する必要があるのではないかということであります。
保護司制度でありますが、日本の保護司による保護の制度、これは大変大きな機能を営んでおるわけでありますが、その保護司に適切なる人材を得て、有効適切に運用していくのにはどのような方策を考えるべきかということになります。
大変駆け足で恐縮でございましたが、一応、問題点、あるいは今後検討すべき課題として、以上のようなことが挙げられておりますので、とりまとめて御報告いたしました。
【竹下会長代理】どうもありがとうございました。短い時間の中で網羅的に問題点の指摘等をしていただきまして、大変参考になったと思います。
ただいまの藤田委員の御説明につきましても、お気づきの点、あるいは御質問になりたいような点もあったかと思いますが、時間の関係で引き続いて法曹三者の皆さん方から御説明を伺いまして、その質疑の中で今の藤田委員のプレゼンテーションに対しても、内容的なお気づきの点、あるいは御質問されたい点も併せて御議論いただければと思います。
そこで引き続いて法曹三者の皆さん方からヒアリングをさせていただきたいと思います。日本弁護士連合会、法務省、最高裁判所の順に、各20分程度で御説明いただいた後、1時間ほどを取って、一括して質疑を行いたいと考えております。
それでは、まず日本弁護士連合会の山田副会長から、よろしくお願いいたします。
【日弁連(山田副会長)】日弁連の副会長の山田でございます。
本日は「国民の司法参加」につきまして、日弁連の意見を表明する機会を与えられましたことを感謝申し上げます。
日弁連からはペーパーを2冊、意見書と参考資料を提出させていただいております。本日は1枚のレジュメを配らせていただきましたので、これの順序に従いまして、述べさせていただきたいと思います。
我が国の国民の司法参加制度につきましては、参加できる領域が極めて限定されているということ、司法権の最も重要な作用である訴訟手続、判断手続に参加する制度が皆無であるという点に特徴がございまして、いわゆる先進国の中では勿論、世界的に見ても著しく不十分な現状にあると認識しております。
この審議会の設置法では、「21世紀の我が国社会において、司法が果たすべき役割を明らかにし・・・必要な基本的施策について調査審議する。」と定められております。
今、求められておりますのは、小手先の部分的な改善ではなくて、まさに21世紀を展望して、我が国に法の支配を確立し、国際的評価に耐え得る活力のある司法を作ること、すなわち、抜本的な改革の方向を示すことであると考えます。
本日取り上げられます「国民の司法参加」こそ、この審議会で御審議いただいております「法曹一元」とともに、その柱でなければならないと考えております。
次に「21世紀社会の在り方と国民の司法参加について」でございますけれども、「論点整理」は21世紀社会の在り方と司法改革の方向性につきまして、「法がこの国の血肉と化」すこと、「国民一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体」となること、「司法(法曹)はいわば‘‘国民の社会生活上の医師’’の役割を果たすべき存在」となること、の3つの理念を提起しております。
陪審制度におきましては、市民が陪審員として裁判に直接参加して、主権者として司法権を行使することによって社会的責任を果たすわけでございます。まさに参画を通じて統治客体意識から統治主体意識への転換を促す制度でございまして、国民の意識に与える影響は、極めて大きいと考えられます。また、陪審員を体験することによりまして、市民は司法制度の仕組みと法の役割を理解いたします。法は生きた法として、すなわち社会の血肉として定着していくと思います。更に陪審制度になりますと、市民に分かりやすい論理と言葉を使って裁判が行われることになります。陪審制度は、司法を市民に身近なものにするとともに、法曹が「国民の社会生活上の医師」の役割を果たす契機になると思います。
しかし、陪審制度は決して専門家の役割を軽視するというものではありません。これまで専門家は専門知識を独占して、時には閉鎖的な社会を形成することによって、優位性を確保してまいりました。21世紀の社会は公的な決定に市民が参加する社会でございます。専門家は手続に関与し、専門知識を分かりやすく提供することによって、適正な結論に達し得るようにする責任というものを負担しているわけです。陪審制度はまさにそのような21世紀社会に適合する制度であると思います。
次に、「国際的動向」について申し上げたいと思います。
世界で国民の司法参加制度を持っている国は多数にのぼっております。これは本日の日弁連の参考資料の資料1の1ページ以下を御参照いただきたいと思いますけれども、陪審制度につきましても、適用する範囲などに工夫をしながらも、多くの国で採用されております。いわゆる英米法系の極めて限られた国だけで採用されているという制度ではございません。
よく知られておりますように、国民の司法参加制度の消長というのは、その国の政治体制、すなわち民主主義の状況と深く関連しており、藤田委員が4月になされたレポートの際の参考資料、これは1995年現在のを集められたものだったと思いますけれども、これと本日の日弁連の、これは2000年現在のデータでございますけれども、それを比較していただきますと、ロシアとかスペインとか、そういうところで陪審制度を復活させておりまして、中南米諸国でもたくさん採用されておりまして、陪審裁判の国は増加しているということがお分かりいただけると思います。一部の国では、効率性であるとか、合理的な運用という観点から、部分的な手直しを行っているということはございますけれども、陪審制度を廃止しようという動きはございません。
このように陪審制度を巡る今日の国際的な動向というのは、むしろ様々な工夫をこらしながらも、採用している国が拡大している状況にある、ということを是非とも御理解いただきたいと思います。
次に、「陪審制度と参審制度の評価」などでございます。
訴訟手続・判断手続に市民が参加する制度として、陪審制度と参審制度がございます。この2つの制度は、参加の理念において異なっておりまして、単なる量的な違いとしてとらえるのは不正確だと思っております。
陪審制度は、陪審員が事実判断を担当して、裁判官は法律の専門家として法律判断と訴訟手続の進行を担当いたします。それぞれが役割を分担して、最終判断のイニシアチブと責任が陪審員たる市民に帰属するという点に最大の特徴がございます。主体は市民であって、裁判官、弁護士などの専門家は、むしろそれを補助するという役割を果たすわけでございます。
一方、参審制度は、裁判官に参審員が加わって一緒に判断をするという仕組みでございますので、裁判官が引き続きイニシアチブを持ちます。主体はあくまで裁判官であって、市民は補助者にすぎないというのが実情でございます。参審員は専門家である裁判官と一緒にやるということから、それに伍してなかなか役割を果たすことができないということで、いわゆる「お飾り論」ということが言われることがありますのも、これは無理からぬ面があるわけであります。
国民の司法参加制度の一形態として、参審制度の導入の意義を否定するものではございませんけれども、「主体的役割を職業裁判官が持つか、市民が持つか、その違いはまことに大きい」と指摘されておりますが、陪審制度こそ国民の司法参加の意義をよく実現する制度でございまして、「論点整理」の示す改革の方向性にも合致すると思っております。
なお、最高裁が評決権を持たない参審制度の導入を検討中という報道がされたわけでございますが、この案は本来の参審制度からも相当離れたものでございまして、国民の司法参加制度の趣旨からは大きく隔ったものであると言わざるを得ないと考えております。日弁連の国民の司法参加制度の導入についての具体的な考え方につきましては、今日提出しました意見書の28ページ以下に記載しておりますので、御参照いただければありがたいと思っております。
続きまして、いわゆる「消極論」について、少し述べさせていただきたいと思います。
しばしば陪審制度に対する批判といたしまして、陪審制度の採用によって、真実発見に重きを置く我が国の刑事裁判が変質をして、ラフジャスティスになるというふうに言われます。
しかし、この批判が前提としております我が国の精密司法の実態は、調書裁判という評価が一方でございますように、むしろ法廷の外でたくさんの調書を読み込んで、そこから心証を取っていく。そして、相互の矛盾のないように調整を図っていくという作業がどうしても中心になっておるわけでありまして、そういう意味で本当に精密なのかどうかという疑問があると指摘されております。現に死刑再審無罪4事件を含めまして、少なくない数の冤罪事件が発生していることは事実でございます。我が国の冤罪発生の主な原因は、自白の偏重、調書中心の構造にあるわけでありまして、法廷の審理によって真実を発見するという公判中心主義、直接主義、口頭主義に改革をしていかなければならないと考えております。直接主義、口頭主義というのは、フランスやドイツなども含めまして、これは世界の趨勢でございまして、これは藤田委員のレポートの際の参考資料にもございます。陪審制度はそれに最も適合する制度だというふうに思います。
また裁判官は法律の専門家ではございますけれども、事実認定について特別の能力を持っておるわけではございません。少数の専門家よりは多様な経験を持つ12人の陪審員の常識の方が信頼できるのではないかと思っております。
陪審制度はまた、事実認定を素人である陪審員が行うということを前提にして、訴訟手続が厳格に定められておりまして、徹底した証拠開示が行われたり、疑問のある証拠などが排除されるということもありまして、そういうことも正しい事実認定に寄与すると考えております。
アメリカやイギリスで陪審裁判に対する多くの研究がございます。むしろ誤判の原因として指摘されておりますのは、警察や検察の証拠隠しなどの不正、弁護人の無能、科学的な証拠の誤りというものがほとんとでございまして、陪審制度そのものが間違いの原因だという研究結果は見当たらないわけでございます。これも今日提出しました資料集の資料15、88ページ以下に記載をしております。そのエキスでございますが、ごらんいただきたいと思います。そして、具体的な誤判の例として挙げられている事例の多くは、ほとんど判決後に新たな事実や証拠が出てきたというものでございます。最高裁の今回のペーパーに記載しておられる研究報告につきましても、必ずしも陪審制度に誤判が多いということを示すものではないと考えております。
勿論、陪審制度でも誤判が生じることはあるわけでありまして、これはほかの制度でもあるわけでありまして、無辜を誤って処罰することのないように工夫するということは必要なことでございます。日弁連は陪審裁判につきましても、事実誤認を理由とする被告人の上訴を認めることを提言しております。また、デンマークで採用されておりますように、陪審が有罪の評決をしても、裁判官が無罪であると考えた場合には、これを破棄できるという制度を取っておる。これは二重の保障と言っておりますけれども、そういう制度を採用するということも考慮に値すると考えます。このようなさまざまな工夫をすることによって、冤罪を極力少なくするということは可能だと思います。
次に、陪審制度に対する消極論といたしまして、日本人の国民性が挙げられるということがございます。その国民性の意味が、「お上の裁判をありがたがる」とか、「自分の意見を言わない」ということを指すとすれば、むしろこれは統治主体になっていくという視点からすれば改めていかなければならないことだというふうに思います。
また、日本に陪審制度はなじまないというわけでは勿論ないわけでありまして、先ほど御報告がありましたように、既に戦前陪審裁判が484件行われておるわけであります。その中で市民は立派に陪審員の役割を果たしております。これも今日提出しました資料11、これは資料集の75ページ以下でございますけれども、そこに当時の裁判所の長官とか、現在で言いますと、検察庁の検事長などの皆さんが陪審制度がスタートした時点でのいろんな評価をされておるものを集めておりますので、非常に高い評価をしておられるということをお分かりいただけると思います。それ以外にも復帰前の沖縄における陪審裁判の経験、既に40万人以上が経験しております検察審査会の実績を見ますと、制度を作れば日本人というのは十分にその職務を果たすことができる資質を持っているんだということを示していると思っております。
なお、今回日弁連は検察審査会の審査員の経験者の方にアンケートを行いました。これは検察審査協会の御協力をいただきまして、全国の弁護士会が行ったものでございまして、今年の8月31日までに5,800通お送りいたしまして、そのうち2,315の回答を得ました。これもやはり資料集の31ページ以下に載せております。今あそこのパネルに貼らせていただいておりますが、陪審裁判というのはこういうビジュアルな分かりやすい形だということで、今日は目で見える形でやらせていただきます。
最初のグラフは検察審査会制度の評価ということでございまして、審査会の委員を体験してよかったと思う方が90%に達しているということでございます。非常に高い評価を経験者はしているということが分かります。
そして、検察審査員を経験された方が、陪審制度を導入することについてどう思うかという質問に対して、77%の方が賛成しております。こういう結果になっているということは、やはりそういう体験をされる中で市民が司法に参加をしていくということの意義と、日本で現実に陪審制度の実現可能性があるということに確信を持たれるようになったということによるのではないかと思っております。
この審議会でも公聴会をしていただきまして、そこでは陪審制度の導入を求める意見が相次ぎました。また、マスコミでもいろんな論評、記事がたくさん出ております。陪審制度の導入につきましては、具体的な形で方向づけが打ち出されれば、国民意識も大いに盛り上がるということは間違いないと我々としては考えております。
次に「国民の負担論」についてであります。
陪審制度は、裁判官の裁判に比べまして、陪審員となる市民や勤務先などに対しまして、一定の負担を課すことになることは事実でございます。しかし、統治主体として参画する社会を目指す以上、ある程度の負担はやむを得ないことだと考えます。
陪審裁判を多く行っているアメリカにおきましても、有資格者の市民の中で過去に陪審員を務めたことのある人の割合は10数%にすぎないという報告もございました。同じ人が一生で何度も陪審員を務めなければならないといったような負担ではないわけであります。日弁連の提案では、日本では段階的に限られた範囲から導入するということにさせていただいておりまして、現実に陪審員を務める市民の数はそれほど多いわけではございません。陪審裁判は戦前の経験では平均審理日数が1.7日、アメリカでも多くは大体3日以内に終わっているということでございまして、拘束される期間の点では、それほど大きな負担ではないわけであります。
次に、国民の負担ということで検察審査員経験者の御意見を聞いているわけでございますけれども、72%の方が陪審員の負担について、国民の理解は得られると回答されております。これも非常に貴重な参考にすべき資料だと思っております。
負担のことではございませんけれども、日本人は感情に流されるとか、報道その他に影響されてきちっとした判断ができないのではないかという指摘がされることがあるわけでありますけれども、そういうことについて影響されるだろうかということをお尋ねしたわけでありますが、「いや、大丈夫だ。そういうふうには思わない。」とお答えになっている方が58%。これはほかの項目に比べれば近づいておりますけれども、やはり日本人はしっかり自分の意見を持って、左右されないと考えた割合が多いということを御理解いただきたいと思います。
なお、それ以外に陪審員に対する危害についての危惧も指摘されることがございますけれども、これは小説や映画の世界はともかくといたしまして、現実にはほとんど起こっておりません。これも資料14ということで、これは審議会の海外調査でお会いになったマンスターマンという方のメールの御返事でございますけれども、そこで説明をいただいております。
次に「弁護士の体制」についてでございますが、陪審制度が導入されて集中審議が実施されると、弁護士が対応できるのかという御指摘をいただくことがございます。しかし、日弁連の提案のように、当面、刑事重罪事件の否認事件について選択的陪審制度を導入するということにいたしましても、予想される事件数というのはそれほど多数ではございませんので、特にまた大都市に多いということからいたしましても、十分対応できると考えられます。特別な事件では弁護団体制を組むということもございます。今後、この審議会で御審議いただきましたように、弁護士人口が増える、そして、また法人化などを含めまして、事務所機能の強化が図られていくという流れになっておりますので、より対応は可能になっていくと考えております。
訴因の絞り込みとか、徹底した証拠開示、準備手続、あるいは準備期間の確保などの措置が必要でございますけれども、弁護士、弁護士会は全力で陪審制度に対応いたします。
このほかさまざまな論点がございますけれども、ここでは時間の関係で割愛させていただきます。陪審制度を導入することに伴う関連法規の改正、その他ございますけれども、これは導入を前提にして今後検討していけばよいことで、導入それ自体の障害になるというものではございません。
次に憲法上の問題でございますが、日本国憲法は国民主権を採用しており、陪審の本場のアメリカの強い影響下に制定されたという経緯もございます。国民の司法参加、特に陪審制度が、最も国民主権にかなう制度であって、憲法がこれを許容していないということは考えられないところでございます。現に憲法とそれに続く裁判所法の制定過程におきまして、立法当局者を含めて合憲論が大勢でございました。枢密院の審査委員会では、「直接に規定せざるも新憲法の下に大体アメリカ式の陪審制度が実施せらるるものと考ふ」という回答も当時行われております。これは資料13、80ページ以下でございますが、当時の立法過程のやり取りについて御紹介をしておりますので、御参照いただきたいと思います。
この憲法は旧憲法のように、「裁判官による裁判」ではなくて、「裁判所において裁判を受ける権利」と規定しておりますし、陪審制度を法律で定めれば、憲法76条3項との関係でも抵触しないと思いますので、憲法上の問題はクリアーできると考えております。
また、参審制度についても、基本的には同様でございますが、少し別の問題がございますけれども、憲法78条以下の身分保証その他の規定につきましては、これは常職の裁判官についての規定であって、特に参審員を排除するというところまでの規定ではないと考えればクリアーできるのではないかと考えております。
時間の関係で端折りますけれども、次に裁判官任用、あるいは裁判所の運営関係についてでございます。
以上は、直接的な国民の司法参加制度について述べさせていただきましたけれども、次に裁判官の任用などに参加をすることによって、間接的に裁判に参加する制度について述べさせていただきます。
この項につきましては、集中審議で取り上げられたところを、国民の司法参加の視点で見るということでございますが、今回、御検討いただくとともに、今後法曹一元の検討の中で十分深めていただきたいと思っております。
最高裁の判事の国民審査制度の在り方につきましては、日弁連は既に1986年に、その方式を○×方式に改めるということなどを内容とする改正案を提案しております。この改正だけでも、制度であるとか最高裁の在り方に対して大きな改善をもたらすと思っております。
また、最高裁が発足当時存在しておりました「任命諮問委員会」につきましても、是非復活をしていただきたい思っております。
次に下級審の裁判官の任用手続でございますが、日弁連は、新任・再任についてブロック単位で裁判官推薦委員会を設置して、最高裁へ市民代表も加わって推薦をしていくということ、それから、最高裁が指名名簿の登載手続をするときに、その段階でも市民代表が参加をするという提案をさせていただきます。これも意見書に書きましたように、アメリカやイギリス、あるいはドイツ、これは州によりますけれども、フランス、オランダなど、主要な国では何らかの形で市民、あるいは裁判所以外の法曹関係者が裁判官の任用手続に関与をするというのが潮流でございまして、我が国のように最高裁の事務総局が一手に管理運用しているというところは見当たらないわけでございます。裁判官の職務評価への国民参加につきましても、大変不透明であるという指摘をされております。この現状を改革するために、内部改革として評価権者・基準・根拠の明確化、本人への開示・不服申立機関の設置、それと外部評価の実施などが必要でございます。これらもまた意見書を御参照いただきたいと思っております。
最後になりますが、国民の司法参加制度は長所もあれば短所もあると思います。この世に完全無欠の制度というのはございません。世界の各国はさまざまな工夫をこらしながらも、充実した司法参加制度を持っております。21世紀を展望して、国民が自律した統治主体として参画していく社会にふさわしい国民の司法参加の在り方は何だろうか、これは陪審制度の導入しかないと日弁連としては考えております。思い切って一歩を踏み出すことが今こそ必要であり、そのことによって法が社会の血肉となり、我が国に法の支配が確立していくのではないかと確信をしております。
少し時間が超過いたしましたが、以上で終わらせていただきます。
【竹下会長代理】どうもありがとうございました。
それでは、引き続き法務省の方からお願います。
【法務省(房村司法法制調査部長)】法務省の房村でございます。
お手元に「国民の司法参加について」という資料をお配りしておりますが、これに基づきまして、国民の司法参加についての法務省の考え方を簡単に御説明したいと思います。
まず「国民の司法参加の意義・趣旨」ということですが、これはこの審議会でも縷々指摘されておりますとおり、21世紀の我が国においては、いわゆる事前規制型社会から事後チェック型社会へ移行していくと。それに伴って、司法の役割がより一層重要なものになっていくという観点と、それから論点整理でも指摘をされました、いわゆる統治客体意識から統治主体意識への変換という2つの動きを踏まえますと、まさに国民が主権者として司法に能動的に参加していくという意義を持ったものがこの司法参加であろうという具合に考えているわけであります。
同時に、具体的な司法参加の在り方であります陪審制度、あるいは参審制度というのは、裁判制度の極めて根本を成すシステムでありますので、民事、刑事の訴訟手続等にも非常に大きな影響を及ぼしますし、また、これを採用しております諸外国においても、種々の歴史的、社会的な経験を踏まえて、少なからぬ変遷が遂げられてきておりますので、この制度の導入を検討するに当たっては、これら諸国の実情や経験というものを十分に踏まえて行うべきではないかという具合に考えているところでございます。
そういう意味で諸外国、特に英米独仏について簡単に見てみますと、そもそもの陪審制度の出発点はイギリスと言われておりますし、そのイギリスにおいては、絶対君主制の下で、陪審が王の命令に盲従する裁判官に抵抗し、国民の利益を守るという機能を果たすことでその信頼を得たというところから陪審制度が定着したと言われております。
アメリカにおいては、イギリスからその陪審制度が導入されたわけでありますが、本国であるイギリスと植民地であるアメリカとの対立に伴って、その陪審制度が植民者の利益を守る役割を果たした。そういうことから陪審制度が憲法上の権利としても保障されるに至ったと言われております。フランスにおいては、フランス革命をきっかけとして、絶対王政下の裁判制度に対する反省から、イギリスにならった陪審制度が導入された。また、ドイツでは1848年のヨーロッパ革命を契機として、フランスにならって陪審制度がそれぞれ導入されたわけであります。
しかしながら、フランス、あるいはドイツにおいては、一旦導入された陪審制度につきまして、種々批判が見られまして、結局、現在は陪審制度を廃止して、参審制度に移行しているわけであります。このフランス、ドイツで陪審制度についてどのような不都合が指摘されたかということにつきましては、4ページに記載しましたが、法律を適用する職業裁判官が極端な厳格な態度を取るのではないかということを恐れて、証拠が十分であるにもかかわらず陪審が無罪を答申するというケースか生じた。それから、陪審裁判はその判断に統一性がないという批判がされる。あるいは証拠の評価に問題がある。外部の表面的な事情に影響を受けやすいという批判がなされたと言われております。特にドイツにおいては、第一次世界大戦後、非常に苦しい国家財政の下で、陪審制度が負担が大きいということも廃止の理由とされているようでございます。
このような経過をたどりまして、現在、英米においては陪審制が、独仏においては参審制が採用されておりますが、アメリカの陪審制について見ますと、民事事件では、契約不履行とか不法行為による損害賠償請求事件など、こういうものに陪審制度が採用されておりますが、実際に陪審で裁判されております事件は、連邦地方裁判所で見ますと、全事件の1.7%程度、刑事事件について見ても、5.2%程度という具合に相当数が絞られている実情にあるようです。
また、イギリスでは、民事事件につきましては、原則的に陪審を廃止いたしまして、現在では名誉毀損など、4種類の限定された類型の事件のみ認められておりまして、陪審で処理されている事件は、我が国の地裁に相当する高等法院で1%未満と言われております。また、刑事事件につきましても、全事件の1%に満たない数が陪審で処理されているという具合に言われております。
次にドイツでございますが、ドイツは参審制度を採用されておりまして、民事事件について見ますと、通常事件は職業裁判官のみで審理をされておりまして、商事、農事、労働、行政、社会、財政という特別な類型の事件について参審制度が採用されているという実情でございます。刑事事件については、我が国で言えば簡裁ですが、それに相当する一部の軽罪を除いて参審制度が採用されているという状況であります。
フランスにつきまして、民事事件について見ますと、全事件の7割を占める通常事件については、職業裁判官が処理をしておりまして、特別な類型の商事、労働、社会、農事というものにつきまして参審制度、あるいは非職業裁判官の判断という形の裁判がなされております。刑事につきましては、重罪院で殺人等の極めて重大な犯罪について判断をいたしますが、それにいわゆる参審制度が用いられておりまして、事件的には0.4%ということになっております。
以上のように、それぞれ実情に応じた処理がなされているようでございますが、必ずしもすべての事件を陪審、あるいは参審で判断をしているということではなく、相当数の限定がされているという実情にございます。
次に陪審制度の特色について申し上げます。
これも従来いろいろ指摘をされているところでございますが、簡単に整理をいたしますと、陪審制の特色としては、何と言っても、一般人から選ばれた陪審員が司法過程に参加するという、司法に能動的に参加するということ。このことによって司法に対する国民の理解と信頼が深まる。あるいは国民にとって司法をより身近なものにするということが言われておりますし、また、そういう法律の専門家でない陪審員が入るということで、裁判手続全体が国民に分かりやすい裁判が実現されるということが言われております。
また、事実認定について、職業裁判官よりもかえって社会の実情に沿った事実認定が陪審員によってなされるんだということも言われておりますし、しかしながら非常に複雑高度化したこの社会現実においては、その陪審員による認定が職業裁判官に比べて必ずしも正確なものとは言えないという指摘もあるところでございます。
次に、特に刑事裁判についてでありますが、陪審制をした場合に、現在の職業裁判官による裁判と相当異なってくるのではないかということが言えるわけでありまして、現在の日本の刑事裁判においては、犯行の背景事情、あるいは犯意の形成過程、犯行の動機、目的、犯行の態様等が非常に詳細に主張・立証されまして、裁判所の方も極めて詳細な事実を認定し、かつ、その事実の認定についてどのような証拠に基づいてこれを認定したのか、あるいはこの証拠がどういう理由で信用できないのかということを判決理由中に詳細に記載いたします。しかし、これが陪審員による裁判ということになりますと、基本的に陪審員は積極的に事実を認定するのではなくて、有罪か無罪かという判断をするという形になりますので、具体的なこのような犯行の背景事情であるとか、犯行の動機、目的というのは、犯罪の立証にとって必要不可欠な場合を除いては、原則的になされなくなると考えられるわけであります。
また、陪審員が有罪、無罪の判断をする場合に、その理由は勿論示しませんし、どのような証拠を用いたとかということも、その結果には示されないということになります。そういう意味で現在の刑事裁判が果たしております非常に詳細な背景を認定し、その犯罪の意義を明らかにするというようなことが陪審員による裁判では必ずしも果たされなくなる。また、理由も非常に分かりにくくなるということは変化としてはあるのではないかと思っております。
それと、今申し上げたような理由で、陪審員は有罪・無罪の理由を示しませんので、これに対する上訴というものも陪審制の下では一般に許されていない。要するに、国民の代表である陪審員がした事実認定については、これは一審限りであって、これを職業裁判官が覆すということは、陪審の性質上許容されていないというのが通常だと思っております。
また、理由が示されませんので、その事実誤認を理由として上訴したり、あるいは再審を請求するということは困難になるということではないかと思います。
そのほか陪審員になった場合には、相当期間拘束される可能性もあるわけでありますし、また、有利な評決を得る目的でさまざまな働き掛けにさらされる危険があるということなど、国民の負担も相当なものがあると思われますし、陪審員の予断や偏見を排除するための事件報道を規制する方策が必要となるということなども指摘されております。
以上のようなことが特色として上げられておりますが、そのほか、陪審制度を導入した場合に、刑事訴訟手続に大きな影響を与えるのではないか。基本的に専門的な訓練を経ていない陪審員に適切な判断をしてもらうというためには、その制度運営に当たりまして、種々の工夫が必要になるだろうと思われます。そのために英米においては、手続等を含めてそれなりの対応策が取られているわけでありまして、我が国においても、陪審制度を導入するということであれば、その適切な判断を確保するための諸方策が必然的に必要になると思われます。
そういう意味でまずは、陪審員の負担を考えた場合に、当然長期間を掛けて審理をするということは許されなくなりますので、集中審理を実現する必要があります。また、陪審裁判ということになりますと、基本的に非常にコストが高い裁判ということになりますので、真に陪審員によって判断されるのにふさわしい事件を選別して、陪審裁判を行うという工夫が必要になります。
特に米国においては、司法取引、あるいは有罪答弁制度などによって、陪審に付する必要のないものは、その段階で処理をするという制度的手当がなされておりますが、日本においてもそのような手続の検討が必要になると思われますし、また、陪審員の審理ということになりますと、公判廷での証言が証拠の中心になりますので、その証拠の価値を保つために偽証罪を実効化して虚偽供述を防ぐ。あるいは被告人が供述をする場合に、宣誓をした上で、証人として供述をするというような仕組みも導入することを検討する必要があるのではないかと思います。
そのほか集中的な審議を実効あらしめるためにも、正当な理由のない証人の不出頭であるとか、証言拒否などの審理妨害行為を防がなければいけませんので、その制裁として英米で採用されております裁判所侮辱罪、これを導入することも検討する必要があるのではないかと思います。
以上が公判の問題でありますが、立証の中心が証人尋問へ移るということは、当然捜査構造にも影響を及ぼすということは不可避でありまして、そういう点を考えますと、現在の取調べを中心とする捜査構造を改めて、真相解明・犯罪摘発の手段として、例えば刑事免責の導入による公判供述の確保であるとか、おとり捜査の拡充、通信傍受の拡充というような種々の捜査手段を検討する必要があるように思われます。
また、刑事の実体法、刑罰法規の問題ですが、これにつきましても、法廷における証人尋問を中心とする陪審の下での立証ということを考えますと、故意であるとか、過失であるとか、例えば販売目的の所持という場合の販売目的、こういった主観的な構成要件、これは本当に内心何を思っていたかというのは当事者の供述がないとなかなか立証できないわけですが、そういったもので主観的構成要件を厳密に立証することを求めていく方向は、陪審制の下ではなかなか難しい。そういった主観的要件を厳密に求めない、英米法系の実体的な刑罰法規に変えていく必要が、少なくともそのことを検討する必要があるのではないかと思われます。
そのように陪審制の導入ということは、単に裁判の在り方のみならず、訴訟手続、あるいは実体法にまで大きな影響を及ぼすということがありますので、そういう点も併せて御検討をお願いしたいと考えております。
なお、民事につきましても、同じような問題がありまして、現在の日本の民事訴訟法というのはドイツを母体としておりまして、陪審を予定しておりませんので、民事において陪審を導入するということになれば、やはり民事手続につきましても、全面的な種々の見直しをする必要があるように考えております。
次に参審制度でございます。
参審制度につきましても、基本的に国民の司法参加、国民が能動的に参加するということで、意義のある制度であろうと思っておりますが、ある意味で陪審よりも参審の場合には、裁判官が参審員と直接議論をするということによって、裁判官にとってもそこから学ぶことを期待することができるという点は多少異なる点ではないかと思います。
また、参審制度につきましては、本日の追加資料にもありますように、種々の類型がございます。陪審制度の場合には比較的一つの形というものが想定されやすいわけでありますが、参審につきましては、参審員になるのが専門家であるのか、一般の市民であるのか、あるいは当事者の一般的な利益を代表するようなものであるのかというような、いろいろな類型の参審制がありますので、そういう意味で多様な制度設計というのは参審制度については可能となるのではないかという具合に思っておりますが、ただ、参審制度につきましても、当然参審員になる国民の負担というのは相当のものがございますし、また、参審員をどのようにして選ぶかということは、陪審以上に困難な問題があるというふうに思っております。
なお、フランスの参審制度の場合には、名前は参審でございますが、参審員が9人と非常に多くて、実質陪審員に近いような機能を果たしておりますので、問題点としては、陪審制度で指摘したような問題が、参審と言いつつも含まれているという点も御注意いただきたいと思っております。
なお、参審制度を導入した場合、訴訟手続にどういう影響を及ぼすかということにつきまして、参審制度自体、種々の形があり得るものですから、どのような形を取るかによってその影響というものも当然異なってくる。場合によれば相当大きな影響を及ぼすということもあるでしょうし、余り影響を及ぼさないような参審制度というのもあるのかもしれません。
以上でございます。
あと、陪審・参審の導入と憲法上の問題という点がございます。これは憲法上、参審制度あるいは陪審制度を想定した規定が置かれていないということから、陪審・参審の制度の在り方によっては憲法に違反するのではないかということが議論されております。
陪審・参審は我が国の憲法には違反するという考え方から、いや拘束力のあるものであっても違反しないというところまで、いろいろな意見はございますが、ここに記載しましたように、裁判官の職権の独立との関係で拘束力を持った陪審、あるいは参審制度を入れた場合には違反するのではないかという御議論もありますし、また、憲法上、裁判権の行使というのは、身分保障等を与えられた裁判官がこれを行うというのが日本の憲法の理解している司法の在り方であって、そういう憲法上予想されていない参審員が裁判官と全く同性質の裁判権を行使することは憲法上認められないという意見もございます。
逆に基本的に民主主義の趣旨を徹底する陪審・参審が、この憲法に違反するわけがない。ある意味で言えばアメリカ型の憲法を採用した日本国憲法の下で、アメリカで許されている陪審が許されないわけはないという、そういう御議論も勿論ございます。ここはいろいろな意見があろうかと思いますが、いずれにしても、この制度をどうするかということは、憲法との関係を抜きにしては決めにくい点がありますので、慎重な御判断をお願いしたいと思っております。
最後に現行司法参加制度についてでございますが、調停委員、司法委員の制度等について、現在非常に大きな役割を果たしていることについては、私どももそのとおりだと思っておりますが、なお、そのような趣旨を生かすために、今後専門的な知見を要する事件へ専門委員制度というものを作って、調停委員、あるいは司法委員の制度の趣旨を更に生かすということは十分検討に値するように思っております。
また、司法委員の制度が現在簡易裁判所でしか認められておりませんが、地裁以上の裁判所においても、この司法委員の制度を活用するということは十分検討に値するという具合に考えております。
次に検察審査会制度でございます。現在、検察官の不起訴に不服がある場合には、検察審査会で更に審査をするということになっておりますが、この検察審査会の議決、現在、法的拘束力が与えられておりませんが、これに一定の拘束力を認めるということが議論されております。確かに検察官の不起訴の決定に対して、一定の範囲で民意をより反映させるという観点からは、意義のあることではないかと思いますが、ただ、そのような拘束力を認めるということであれば、当然そのことによって問題となった被疑者は起訴されるわけでありますので、やはり不当な判断がされないように、検察審査会の判断の適正さを確保するための方策というものも当然工夫する必要があるだろうと思います。そういうものとしては、リーガル・アドバイザーとしての法律家を配置するとか、そういった体制整備、それから、万一起訴されて無罪になったときの国家賠償責任をどうするかという問題がございます。
拘束力を認めて起訴することにした場合に、だれがその公訴を遂行するか。検察官としては不起訴にすべきだという判断をして、不起訴にしたわけでありまして、それを、いや起訴しろと言われたからといって、遂行するというときに問題が生じないか、そういうことを考えますと、例えば指定弁護士というような制度を設けまして、その方が検察官に代わって、検察官役としての訴訟遂行を行うという仕組みも考えられるだろうと思います。そういう諸々の点も合わせて御検討いただきたいと思っております。
なお、この検察審査会の果たしている役割でございますが、先ほども申し上げたように、法的な拘束力はございませんが、やはり不起訴不当あるいは起訴相当の議決がされますと、検察官としてはその事件を真摯に検討いたしまして、再度、起訴するか、不起訴にするかを決定しておりますが、現状としては大体不起訴不当、もしくは起訴相当の議決がされた事件のうち、約30%を起訴しております。全体的に、戦後この制度が発足してからの統計を見ますと、6.7%が起訴されているということになっておりまして、そういう資料が出ておりますが、これは政治資金規正法関係の1,000件を超す集団的な事件があって、ちょっと統計的に、それを入れてやると6.7%になってしまうんですが、そういう例外的なものを除きますと、近年では大体30%程度が起訴されているというのが実情で、それなりに検察官としても、検察審査会の議決については、尊重して判断をしているという実情にございます。
最後に保護司制度でございますが、これは要するに刑務所を仮出所をした人、あるいは少年で保護観察にされた者、そういう人たちをこの保護司の人が改善・更生の手助けをするという民間ボランティアでございます。全国で大体5万人の保護司の方々がいて、そういう罪を犯した人たちの更生に非常に大きな役割を果たしていただいているところでありまして、刑事司法というのは、勿論、裁判が中心ではございますが、最終的に罪のある者を処罰し、更にその改善・更生をさせるというところまで果たして刑事司法としての役割が完結するだろうと思いますので、そういう点では刑事司法の中で、国民の司法参加という意味で非常に大きな役割を果たしていただいております。そういうことで、法務省としてもこの保護司制度の維持発展には努力をしているところでございますが、ここに書きましたように、なかなか社会的に忙しい方が増えてしまって、保護司になるのが高齢の方しかなっていただけないという問題もございますし、また、あくまで民間の方々には協力を願う。それと一緒に仕事をする法務省の方の保護観察官、この役割も重要なわけでありますが、この人たちもなかなか増やせないという状況がありますが、そういう中で大きな意義のある保護司制度の充実のために今後も引き続き努力をしたいと考えております。
以上、非常に駆け足でございました。
【竹下会長代理】どうもありがとうございました。
それでは、最後になりましたが、最高裁判所の中山総務局長からお願いします。
【最高裁(中山総務局長)】それでは、最高裁判所の「国民の司法参加」に関する裁判所の意見を申し上げます。
本日お配りしてある「国民の司法参加に関する裁判所の意見」のとおりでございますけれども、その概要について御意見を申し上げたいと思います。
まず、この問題につきましては、さまざまな考え方があるところであり、裁判所において議論した際に、最高裁、下級裁を問わずさまざまな意見が出されました。本日は、裁判所の中で出たこのような議論における大方の意見に沿って意見を申し上げることにいたします。
まず、「国民の司法参加の意義と位置づけ」でありますが、裁判の正統性について、どのように国民の理解を得ていくかは、私ども司法に携わる者にとって最も重要な課題の一つであり、国民の司法参加という問題は、この裁判の正統性に関わる重要な問題であると認識しています。国民の司法参加との関係で常に論じられる陪審制、参審制について申し上げますと、歴史的に見て、諸外国におけるこれらの制度は、いずれも独立や革命といった国家の形成、あるいは変革と深く関わっており、すぐれて政治的な制度であると言えるように思われます。そのような中で、特に陪審制については、さまざまな理由から各国において次第に縮小される傾向にあり、現在、世界の刑事陪審事件の約8割はアメリカ一国で行われている状況にあるとまで言われております。
翻って我が国の状況を見てみますと、我が国では戦前に陪審が実施されましたが、戦後現行憲法の下で陪審法が停止されたままとなっております。そして、むしろ我が国における国民の司法参加制度としては、調停委員、司法委員等の制度がまずイメージされる状況にあり、これらの制度は御承知のように大きな成果を上げてまいりましたけれども、その特徴は、国家の裁判権の行使を規制するというよりは、国民の知恵を裁判の場に活用し、裁判官の判断を補完する点にあると言っていいように思われます。
次に、この問題を考える検討の基本的視点でございますが、裁判作用をどこまで直接国民の手に委ねるべきかは、もとより最終的には主権者である国民が判断すべき問題であります。現在、裁判に対する国民の信頼を確保していくことは、これまでにも増して重要な課題になっており、国民が司法に参加することにより、柔軟で社会常識に富んだ判断が確保され、これを通じて司法に対する幅広い国民の信頼が得られることは大きな意義があると考えます。
しかし、他方で裁判の対象がますます複雑化する中で、実効性のある国民の参加はどのようなものかという点も考えなくてはなりません。このような要請を考慮しつつ、望ましい司法参加の形態について検討していく必要があるのではないかと思っています。
次に各論に入らせていただき、まず陪審制についての意見を申し上げます。
結論から申し上げますと、陪審制は現在の我が国の裁判制度とは基本的枠組みを全く異にした制度であり、したがって、単に現行法に接木するといった程度の法改正で、有効かつ安定的に機能するものなどとは到底思われないのであって、日本の刑事裁判制度をトータルにとらえる視点を持った上で、導入の可否、当否を慎重に検討いただければと考えております。
陪審制は、例えばアメリカにおいては、同じ国民の中から自分が裁く者を選んだ以上は、そこで出された結論は受け入れるという手続的な自己責任の原理、あるいは手続に絶対的な価値を置く原理の下で成り立っております。真実の発見や、無実の者の処罰の回避という面では、現実に陪審裁判を行っている英米では、実態がそのようなものであるとは必ずしも理解、認識されておりませんし、陪審員の判断が不安定で予測可能性に乏しく、高い比率で誤判が生じていることを裏付ける多くの研究結果もございます。
こうした事態については、アメリカの学者によって、「我々の司法制度は罪を犯した者を有罪にすることも、無実の者を無罪にすることも保障していない。我々の司法制度が保障しているのは、公平な裁判ということに尽きる。」と端的に述べられているところであります。陪審制が確固たる制度として機能しているのは、アメリカ人にとって多民族国家としての一体性というものを確保するための不可欠な制度であるという一種の信念があるからではないかと思われます。
確かに陪審裁判の審理は、双方の当事者ができる限り素人である陪審員に配慮した訴訟活動を行うため、非常に分かりやすいものになります。しかし、審理の結果示されるのは、有罪か無罪かという結論のみであり、そこに至った理由も、あるいは陪審員による評議の過程も全く明らかにされることはありません。その意味で陪審制は裁判によって真相を解明するという機能を構造的に持っていないということが言えるのではないかと思います。
民事陪審についても同様の問題があり、事件が複雑化、専門化してきており、その限界が端的に認識されてきています。イギリスでは、対象事件が名誉毀損等、ごく少数の例外的事件に限定され、アメリカでも一部の複雑な民事訴訟で、陪審員の能力を超えるという理由で当事者の陪審請求を排斥する裁判例も出されています。
このように、陪審裁判は真実を解明し、その結果を国民に明らかにするという我が国の裁判とは全く異なった制度であります。その導入を検討するに当たっては、この裁判の在り方、あるいは裁判観の相違というものも明確にしておく必要があるのではないかと思います。
次に陪審制を行うためにはどのような条件が必要とされるかについてお話しさせていただきたいと思います。
陪審制は各国の歴史に根差した制度であり、多くの社会的条件によって支えられています。ここで制度運営のための基盤について概観してみると、まず第一は、国民の負担であります。実際に陪審員となる国民の理解と協力が得られなければ、この制度は成り立ちません。陪審員となることは国民の義務であり、一旦陪審員に選ばれれば、仕事の繁忙や稼業等といったプライベートな面を犠牲にしても、その責務を果たさなければなりません。裁判が続く限り連日、裁判所に出頭することは勿論、事件によっては外部からの影響を受けないように、ホテルなどに隔離されることもあり得るわけであります。このような極めて大きな負担を求める点について、国民の理解と承認が不可欠であります。
次に、集中審理を実現する弁護態勢であります。
陪審裁判では、陪審員の負担をできるだけ軽減し、かつ、陪審員が証拠の内容を忘れないうちに審理を終える必要があることから、集中した審理を行うことが必須であります。そのためには、裁判所や検察庁の態勢を整備する必要がありますが、それ以上に弁護態勢の整備が極めて大きな課題となります。この点に関する我が国の弁護士、ないし弁護士事務所の態勢を改善しない限り、陪審裁判を実施することはほとんど不可能であると言わざるを得ません。
そのほか、陪審制を行うためには、刑法などの刑事実体法を、一般国民が理解できるよう簡明なものに改めるとか、あるいは手続法の根本的な見直しが必要になりましょう。
また、陪審員が外部からの情報等によって影響を受けることがないよう、犯罪報道について実効性のある規制が必要とされるのではないかと思います。
我が国の裁判は種々の批判はありましょうが、公正な手続の下での真実の解明という面で大きな機能を果たしていることは、あまり異論がないのではないかと思います。陪審制の導入は、司法に対する国民の関心を高めるという大きな意義を持つ反面、真実解明という司法の機能を大きく後退させることは否定できず、誤判の恐れは現行制度より小さくなることはないという点も十分に考慮する必要があるのではないかと思います。
次に、参審制について申し上げます。
参審制は、その形態によっては、真実の解明という裁判に対する要請を損なうことなく、かつ、国民の意識や感覚を裁判に反映させることが可能になるというふうに考えられます。また、国民が参加する意義についても、事件の類型に応じてさまざまなものが考えられると思います。我が国における参審制の導入について考える場合、まず、刑事事件における参審制の導入ということが検討されるかと思います。私どもとしては、その形態としてさまざまなものが考えられますが、例えばドイツのように裁判官3名に対し、参審員2名の裁判体とし、対象事件は基本的に国民の関心が高く、社会的にも影響の大きい重大事件とし、参審員には一定の任期を設けるといった制度が考えられます。
ただ、憲法上の問題を考慮すると、参審員は意見表明はできるけれども、評決権を持たないものとするのが無難ではないかと思われます。
もとより、陪審制と同様の検討課題もあり、参審員となる者の拘束期間や、参審員の選定方法、任期などについても幅広く検討する必要があります。
次に、民事事件は原告と被告間の私益に関する争いであって、国家の刑罰権の発動が問題となる刑事事件とは、参審制導入の必要性に差異があるように思います。
また、刑事事件と比べて事件数が極めて多く、審理期間も比較的長いというだけでなく、事件の中には極めて複雑で国民の負担が大き過ぎると思われる事件もあります。諸外国で民事事件全般を参審制の対象としている国が見当たらないのは、このような事情を反映してのことかと考えられます。
もっとも名誉毀損等による慰謝料請求などのように、民事事件の中には一般国民の意見を反映させることが適当と考えられる事件もあり、今後、この種の事件についてより広く、国民の参加を求める分野と方法について具体的に検討していくことが望ましいと思います。
更に民事事件のうち、医療過誤など、専門的知識を必要とする分野の紛争では、専門家の関与が極めて有益でありますが、その方法として、現在の鑑定、あるいは調査官制度との役割分担を考慮しつつ、専門参審制の導入について具体的な検討を行う必要があるのではないかと思います。
労働参審制については、裁判手続に利益代表的な参審員を加えることが、中立公平を旨とする裁判手続になじむのか、調停、各種ADRや労働委員会との関係をどのように考えるのかなどの点で問題があるのではないかと思っております。
次に、陪審制・参審制についての憲法上の問題について簡単に述べたいと思います。
陪審制、参審制を採用する国では、憲法上、これを保障または許容する旨の規定が置かれている国が少なくありませんが、我が国の憲法では、陪審制、または参審制を想定した規定はありません。これについては、さまざまな点を論拠として、合憲論と違憲論の双方があり得るところでありますが、この点は第一次的には立法機関で、最終的には司法権の行使の主体としての最高裁によって判断されるべき事柄であります。
もっとも陪審制について憲法問題を回避するためには、旧陪審のように、陪審員の事実認定に、裁判官に対する拘束力を認めないような形態が考えられましょう。
また、参審制について、憲法上の疑義を生じさせないためには、評決権をもたない参審制という独自の制度が考えられるのではないかと思います。
このような参審制であっても、裁判官と同様に審理に加わり、意見を述べ、これに対しては裁判官が判決の中で説明を行うという制度を考えれば、実質的に国民の代表が裁判に直接関与しているのと同様に、国民の意識や感覚を反映した裁判を実現することが可能になると思われます。
次に「現行制度の充実・強化」という観点から、検察審査会、調停委員、司法委員、参与員について申し上げます。
検察審査会制度は、現在、刑事事件に関するほとんど唯一の国民の司法参加の手続であり、起訴が極めて抑制的になされている我が国において、その意義は決して小さくありません。更にこの制度を充実するという観点からは、例えばその議決に一定の拘束力を認めることや、事件数の格差から見た配置のアンバランスの見直しを検討する必要があるのではないかと思います。
また、調停委員、司法委員等の制度は、これまでも述べてきたとおり、大きな機能を果たしてきており、我が国の司法制度の特色の一つを成しています。今後、調停事件の多様化、専門化等が一層進行する中で、その充実強化を図るため、各種専門家の関与をより充実させるなどの方策を講じていくことが必要です。
また、司法委員の扱う事件の拡大や、参与員の権限の拡大を検討することも必要ではないかと思います。
つぎに、裁判官選任過程等への国民の参加の問題であります。
まず、裁判官の選任過程等への国民の関与をより深めるべきではないかという指摘がなされておりますが、この問題は基本的には裁判官制度の在り方の問題の一環として検討されるのが適切ではないかと思われます。これはさまざまな角度から検討すべき問題でありますが、現時点においては次のように考えております。
(佐藤会長、中坊委員入室)
【最高裁(中山総務局長)】続けてよろしゅうございますでしょうか。
【竹下会長代理】どうぞ。
【最高裁(中山総務局長)】下級裁判所の裁判官の任命について、すぐれた資質を備えた者を確保するため、最高裁判所の名簿提出の参考として、裁判官推薦委員会を設け、これに国民の代表を加えるといった制度も考え得るところであります。ただ、裁判官に必要とされる資質、能力は、極めて多面的かつ総合的なものであり、これを適切に判断できるような委員会の在り方などについては、十分な検討が必要であると考えます。
また、裁判官の能力、適性の評定は、総合的な視点から時間を掛けて行う必要があるため、これに一般国民の意見を反映させるというのは、その性質上、裁判官の選任にも増して難しい問題がありますが、再任の場面の問題として、任命の問題と併せて検討する必要があろうと思われます。
次に、現在の国民審査制度についてであります。現在の国民審査は、憲法の趣旨に従って運用され、その機能を果たしていると考えますが、この制度の在り方については、最高裁判所の裁判官の任命方式との関連を十分に視野に置く必要があり、最終的には国民が判断すべき問題と思います。
裁判所としては、現行の制度の下で、国民にとって分かりやすい情報提供に努めるとともに、平素の広報活動でも、最高裁判所の裁判官について、インターネットにより最新の情報を提供していくなど、その充実に努めてまいりたいと思います。
次に、裁判所の運営への参加でありますが、国民が利用しやすく、国民により身近な裁判所を実現するため、裁判所の運営について国民の意見をよく聞き、これを反映していくことは重要なことであります。先のプレゼンテーションで申し上げましたとおり、司法制度について継続的な改革、改善の努力を積み上げていくためにも、法曹三者のみならず、広く国民の意見を反映し得る制度的な枠組みが必要であり、裁判所の運営についても、このような制度的な枠組みとの関連において検討されるべきものがあろうと考えております。
以上でございます。
【竹下会長代理】どうもありがとうございました。
法曹三者それぞれから、限られた時間内に要領よくプレゼンテーションしていただきまして、誠にありがとうございました。ただいまの御説明に対する質疑応答に入りたいと思いますが、ちょうど佐藤会長もお着きになられたところでございますので、ここで15分ほど休憩にさせていただいて、休憩後、司会進行役も佐藤会長にお渡しして、質疑応答をさせていただきたいと思います。
それでは、15分間休憩します。
(休 憩)
【佐藤会長】それでは、始めさせていただきます。会長代理、どうもありがとうございました。皆様には御心配をお掛けして恐縮でございました。
先ほど御説明いただいた方とこちらに並んでおられる方が入れ代わりということであります。法務省は渡邉審議官でございます。最高裁は白木刑事局長でございます。日弁連は四宮弁護士でございます。よろしくお願いいたします。
先ほど御説明いただいたわけでありますが、私も以前に頂戴しておりますレジュメを読ませていただいておりまして、お話の大体の御様子は理解していると思っておりますので、これから私が司会をさせていただきます。
それでは、法曹三者の先ほどの御説明に対する質疑応答に移りたいと思います。論点もそう多くはないので、レジュメやヒアリング項目の順番にこだわらず、どなたからでも結構でございますので、御自由に御発言いただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
【山本委員】簡単な質問なんですけれども、今、お話を聞きまして、最高裁と日弁連は立場がはっきりしていると思いますが、法務省は、陪審についてどうお考えなのか。お考えを聞きたいというのが一つ。
それから、日弁連は、とりあえず刑事の重罪事件に限ってとおっしゃられましたけれども、その後のスケジュールについてお考えになっていることがあるのかどうか。
もう一つは、刑事にも陪審を入れるとなると、いろんな実体法とか手続法の大きな改正をしなくちゃいかんということが言われておるんでございますが、その点について何かお考えをお持ちかどうかお伺いしたいと思います。
【法務省(渡邉審議官)】先ほど房村部長から御説明申し上げましたように、基本的には陪審制度それ自体が、司法に民主主義の理念というものを導入しようとするものですから、主権者たる国民が、民主主義の理念を重視して陪審制というものを導入しようと決意をするのであれば、それは基本的には政策の問題と考えておりまして、法務省として反対するものではありません。ただ、いろいろ問題が指摘されておりますように、国民の大きな負担だとか、あるいは真相解明機能の低下、誤判の可能性等、陪審制を導入することによって生じます種々の問題については十分認識された上で受け入れられる必要があるでしょうし、それなくしては恐らく国民の期待する刑事司法の健全な運営はないだろうと思います。
更に、先ほどの説明にもあったことでございますけれども、現行の刑事訴訟手続及び実体法というものは、陪審制を前提としたものにはなっておりません。そういう意味では、現行の制度をそのままの状態で陪審制を導入することについては非常な弊害があるだろうと思っております。
陪審制を導入するには、刑事訴訟手続及び実体法について十分全面的な変革、それに合ったものに改正することが必要不可欠であろう。こういうふうに思っております。
【日弁連(四宮弁護士)】弁護士会への質問についてお答え申し上げます。
まず刑事の重罪事件に導入後のスケジュールという御質問なんですが、具体的に細かなスケジュールを考えているわけではありません。ただ、私たちが期待しておりますのは、刑事重罪事件に陪審を導入することによって、恐らくはかなり早い段階で国民の支持を得られて、国民が裁判に参加していくことに対する自信を持つと思います。そうすると、国民の側からほかの領域への国民参加という課題はどうなんだろうかということが近い将来の課題としては上がってくると思います。
その一つの例として、弁護士会の方では、例えば国家賠償事件などへ、民事関係ですけれども、導入してみたらどうかとか、あるいは行政事件や労働事件、少年事件などへの市民参加の拡大というものを考えております。
それから、刑事へ陪審を導入する場合の種々の法改正の必要性についてですけれども、今法務省からは、今のままでは難しいというお話がありました。ただ、私どもは戦前の経験に鑑みますと、戦前は陪審制を導入するときに、刑法とか刑事訴訟法といった実体法、手続法の大きな改正は伴わずに行いました。その結果の運用を見ますと、それによるトラブルというのはほとんどなかったんです。特に刑事訴訟法は、戦前と違いまして、今はアメリカ式の刑事訴訟法になっておりまして、証拠法などは陪審を運用するためにもうちょっと工夫をする余地があるかもしれませんが、基本的には陪審制度を前提とした法律と考えて大丈夫だと思っているんです。ですから、それはまた法律家の工夫次第で、法曹三者が協力することによってきちんとした運用ができると思っております。
【鳥居委員】この問題を考えるときに、日本はもともと昭和3年から15年間、陪審制度を実施していたということは非常に重要な問題だと思うので、御質問したいんですが、そもそも日本の陪審制度というのを作ったときに、どういうふうにして普及させたのか。要するに国民の理解がないとできないわけですけれども、当時の日本では、そんなに簡単に普及ができたのかどうか。
実は私最近、自分の専門分野の経済に関するいろいろな規制について、アメリカの若い学者が書いている論文をずっと読んでいるんですが、アメリカの若手の経済の研究者たちは、日本人は大正末期から昭和の初期にかけて、すばらしい自由経済を作った。ところが、それを日本の政府が規制で壊してきたというのが定説だけれども、それもあるけれども、業界自身が自分たちで規制をお互いに作って壊してきたという論文が結構出ているんです。
そういう雰囲気の中で、日本の最初の陪審制度というのが成立したのですけれども、日本の当時の司法省はどういうふうにしてそれをやっていったのか。
それから、なぜやめたのかは、多分、戦争ということが大きな理由だったと想像されますが、私素人で分からないんですが、やめたときの法的な手続は現在どうなっているのか。それをちょっと教えていただきたいんです。 【法務省(房村司法法制調査部長)】私の方から簡単に申し上げますと、基本的に、戦前の原内閣のときに陪審制導入の動きが始まったと言われておりまして、その背景として大正デモクラシーがあり、国民が司法に参加していくという民主的な動きとして提案され、最終的に陪審法が成立したという具合に聞いております。
また、この陪審法を実施するに当たりましては、政府として相当多くの国民に対して説明をする機会を持って、かなり周知徹底を図ったという具合に聞いております。それで昭和3年の10月から施行されたわけであります。ついでですが、10月1日に施行されて、それが当時「司法の日」として記念日であったわけです。そのくらい力を入れたということです。
ただ、そういうことで始まりまして、期待も大きくて、それなりの利用件数もあったわけですが、次第に件数が減ってまいりまして、特に廃止する昭和18年ごろになりますと、年間に数件という非常に限られた数になってまいりまして、そういうことから余り利用されなくなったということが一つ。
特に戦争も激しくなりまして、陪審員を確保するということになりますと、それなりに負担が重いわけでございます。先ほど申し上げたように、ドイツでも第一次大戦後の財政難というのが陪審制廃止の大きなきっかけになったわけでありますが、日本でもそういう意味で、陪審制は利用もされないし負担も重い。そのときに形式的には廃止ではなくて、施行を停止するという法律にいたしました。その結果、現在でも陪審法は形式的には残っています。ただ、その施行が停止されているという状況になっております。理由としては、今言ったような、利用されていないということと負担等が大きな理由だということで聞いております。
【佐藤会長】なぜ減ったのかという理由はどういうように分析しておられるのですか。
【法務省(房村司法法制調査部長)】やはり一つには、陪審を選択いたしますと上訴ができないというわけです。被告人の方で、そういう点で上訴ができないという危険を犯してまで陪審制を選択しなかったということも一つ言われております。
それと、有罪になった場合に陪審の費用も訴訟費用になって被告人の負担になるんです。そういう意味では、絶対に無罪になる自信があれば別なんですが、有罪になった場合のことを考えると負担が非常に重くなるということが、陪審を利用しなかった理由だとも言われておりますし、そのほか職業裁判官の方がいいという人が多かったということも言われますし、中には裁判官が必ずしも陪審を好まなくて、暗に陪審を選ばないように誘導したということを言っている方もいらっしゃいますし、それ以上に詳しい原因は私どももよく分からないんですが、一応そんなことが言われております。
【井上委員】あるいは四宮さんからおっしゃっていただいた方がいいかもしれないのですが、日弁連から提出された資料の79ページに、浦辺さんという裁判官が聞き取り調査された結果ですけれども、そこで、「被聴取者が掲げる『不振』の原因リスト」として整理して下さったものが載っております。これなども参考になるんじゃないでしょうか。
【日弁連(四宮弁護士)】これは浦辺衛さんという裁判官の方が、聞き取りをなさった結果です。だれもが挙げた理由が、控訴が許されなかったという点です。これは圧倒的に被告人に不利ということになりますから、法律家の方で躊躇をしたということがあります。
この浦辺さんが非常に重視をしておられるのは、法律家が辞退をさせたということです。被告人は陪審を選ぶかどうかについては法律家のアドバイスを受けざるを得ないわけですけれども、その法律家自身が非常に陪審に消極的であった。その理由は、制度そのものが非常に不利な内容の制度になっていたからということです。
それから、私が別のある裁判官の方から伺ったところによると、裁判所も、非常に手続が複雑で大変だということで、法廷で被告人に陪審の辞退をかなり勧めていたということも証言しておられます。私自身は、非常に不幸な時代を背景にして、特に弁護士の「権利を守る」という意識というものも、やはり低下をしていって、「陪審制度を何とか根づかせる、息づかせる」という意識に欠けていたという点も大きな理由ではないかと思っております。
ですので、決して一般国民がこの制度を嫌って利用しなかったということではないということだと思います。
【竹下会長代理】鳥居委員から、この時代にどうやって、当時の司法省が陪審制度を普及させたのかという御指摘が先ほどありましたので、一つの事実として申しますと、準備期間を随分置いているのですね。陪審法が成立したのは大正12年ですけれども、実際に施行したのは昭和3年10月1日ですから、5年余でしょうか。
【鳥居委員】そうなんですね。その間に何をしたんでしょうね。
【日弁連(四宮弁護士)】これについては、別冊の資料24でお届けしている『陪審手引』という本を、もしお手元にあればお開きいただきたいと思いますが、その101 ページに政府がその準備期間に何をしたかというのを簡単に紹介いたしました。
まず、判事・検事を合計で256人増員をいたしました。
それから、全国各地に陪審法廷とか陪審員宿舎、当時は2日以上にわたる場合には、宿舎に泊め置くという制度にしておりましたので、各地方裁判所には大体、宿舎が隣接して建設されました。
それから、講演会を全国で述べ3,339回、政府主催で行っております。聴衆の延べ人数は124 万人というふうに記録に残っております。
啓蒙のパンフレットの作成にも大変熱心で、284万部。それから、当時は一番進んだメディアだったと思いますけれども、映画を作成しまして、4巻の外国版映画と7巻の日本版映画を作成して各地で上映いたしました。私どもはこの映画を何とか探そうと努力したんですが、残念ながら残っていないようです。
【井上委員】陪審員の資格が制限されていたので、対象になった人の数も限定されていたということも、普及を容易にするのにプラスに働いたのではないでしょうか。
【鳥居委員】人口が5,000~6,000万の時代ですかね。
【日弁連(四宮弁護士)】当時陪審員の資格が、男子で、そして直接国税3円以上を2年続けて納めるなどという要件がありましたので、記録によると大体全国の有権者の約14%が対象になったと言われております。
【佐藤会長】よろしゅうございますか。
【水原委員】日弁連から教えていただきたいんですけれども、ブラック・ボックス化の問題です。これは意見書の14ページ以下に載っておりますが、刑事裁判に関する報道を見てみますと、国民が刑事裁判に求めるものは何かということを考えると、真実を解明して、その結果を国民の前に明らかにすることであろうと、このように私は考えています。
ところが、陪審制度では、先ほど来、法務省、それから最高裁判所の御意見のとおり、有罪か無罪かという結論のみが示された。その結論に至るまでの道筋、証拠の評価については、まさにブラック・ボックスと言われております。これは当事者を含めて、国民から見て分かりやすい判断とは言えないのではないかという素朴な疑問を持っております。
ところが、日弁連の御意見によりますと、陪審裁判は理由のない裁判ではないんだと。それはここにも記述されておりますが、陪審の到達した結論には書かれた理由は付かないけれども、手続の中で、対立する当事者がそれぞれの主張の根拠と理由を、陪審員に分かりやすくかつ合理的に説得するものであると。それぞれの主張の内容と証拠、すなわち理由は両当事者の証拠調べと弁論の過程で明らかにされておるんだというふうに述べておられます。ところが、私どもの経験しております刑事裁判の実情を見ますと、争われている事件では、どちらか一方の言い分をそのまま採用したり、あるいは提出された証拠、例えば証人の証言、ある人の証言を全部採用するということではなくて、同じ証人の証言の一部は信用できるけれども、その他の部分については信用できないというふうに、証拠の評価、判断というものが審理の過程だけで見ただけでは一概に分からないわけです。今の裁判ではそれがきちっと判決理由の中に示されております。
そうなりますと、刑事裁判の場合には総合的判断がなされるケースの方がむしろ多いのではないかと考えられますが、陪審の場合には、このような総合的判断の結果、有罪とされた場合に、どの証拠をどのように評価して結論を出したのかは全くブラック・ボックスである。これで被告人、国民が納得できるであろうかという素朴な疑問を持っております。それについて、お分かりになるんだというふうに御意見の中では言っておられますが、その点についてもう少し詳しい御教示をいただければと思っております。
【日弁連(四宮弁護士)】この意見書の中では、陪審裁判であっても、例えば有罪になった理由あるいは無罪になった理由というものは分かると、確かに書かれています。ただ、今、先生御指摘のように、どの証拠のどの部分を信用してこのように判断したかとか、どの証拠のどの部分を信用しないでこうなった、ということは一切分からない。これは事実でございます。これはある意味では制度の選択の問題になるわけですけれども、言わば、今行われているような、書かれた証拠、特に今は書面が中心ですが、そういったもののどこを信用して、どこを採用して結論に至ったかというものを求めるのか。
あるいは、陪審裁判というのは、ここにも書きましたように、傍聴席で聞いていれば、訴追する側が何故有罪を言っているか、その主張と根拠が明らかになるわけです。つまり、訴追側の主張と根拠が明らかになるわけです。それから、弁護側の何故無罪かという主張と根拠もこれは明らかになります。そして、それを聞かせる対象が陪審員ですから、だれが聞いていても、まさに先生がおっしゃる、国民が聞いていて分かる裁判であるわけです。
そういった裁判では、その先の、合議室と言いますか、評議室と言いますか、その中のものは明らかでない。それは事実だと思います。ただ、そこまで明らかにしなければ、この陪審裁判という裁判制度にとって致命的なのか、今ブラック・ボックスというふうにおっしゃいましたけれども、そういう制度なのかというと、実はそうではなくて、陪審員のところへ事件が行く前にむしろ説明をする。分かりやすく詳しく説明をするという裁判制度だと思います。その後は、その一般国民を代表する陪審員たちの判断を信ずるということになる制度なんだと思います。
ですから、今の裁判制度のような、裁判官が詳しくその理由を書くというものとは別に、そういう裁判制度を取り入れる意味があるかどうかというのがまさに問題であって、陪審制度に今の裁判制度と同じような詳しい判決書きのようなものを求めるというのは、そもそも制度が違うわけですので、私どもとしては、それは必要ないことではないかと思います。
【水原委員】国民は適正な裁判を受ける権利があると思うんです。起訴された当該被告人、これが、なぜ、どういうわけで自分は有罪にされたのかという理由が明らかにされませんと、その裁判が適正に行われたかどうかというのは、被告人としても納得がいかないんじゃないだろうかという気がいたしますのがひとつ。
それから、もう一つは、上訴の問題でございます。日弁連の御提案では、刑事陪審において事実誤認を理由とする上訴は認めるとございます。これは18ページに書いてあります。それから、23ページのイの②においては、「その場合、控訴審においては裁判官による裁判を受ける権利を保障している」ということを述べておられます。
ところが、10ページの「(1)陪審制度」の①のところでは、陪審制度の特徴、理念として、「民主主義の原理に基づき、国民たる陪審が、そして陪審だけが、最終判断を下す。」というふうに述べられておりますが、そのような理論に基づくのであるならば、陪審の判断に対して上訴を認めて、更にその当否を裁判官により判断させるということは、ちょっと平仄が合わないんじゃなかろうか。国民の意見によって最終判断を決める、事実認定を決めると言っておられながら、上訴においては、職業裁判官によって判断をなさることを考えておるということでございますので、その辺りはどういうふうにお考えなのかというのが2番目。
もう一つは、検察官に控訴は認めないという御主張でございましたが、検察官は公益の代表者として、まさに全国民を代表して、国家刑罰権の存否についての訴追をする責務が付託されております。その立場からするならば、陪審に対する判決について、国民の公益の代表者としての検察官が上訴ができないというのは、どうもバランスを欠くような感じがいたしますが、この点についてもお教えいただきたいと思います。
【日弁連(四宮弁護士)】まず最初の適正な裁判を受ける権利との関係です。これは裁判を受ける被告人にとって、適正な裁判というものの内容と、それから被告人の選択の問題があると思います。適正な裁判というときには、理由がある裁判というのも、恐らくは適正な裁判の一つの内容だと思います。ただ、その書かれた理由があるというだけではなくて、証拠が開示されたり、すべてが公開の法廷で口頭によって分かりやすい言葉で主張、立証が繰り返される、闘わされる、これも一つの適正な裁判の重要な内容だろうと思うんです。
ですから、私は陪審裁判はまさにそういった手続を保障するという意味で、適正な裁判の一つだと思います。ですから、書かれた理由がないということで、先ほど申し上げますように、今の裁判との大きな違いですけれども、それが陪審裁判の適正性を阻害するものではないと思います。
もう一つは、今弁護士会が提案している陪審制度は決して強制をするものではありませんので、先生の御指摘のように、書かれた理由に適正さの重点を置く当事者は、今の裁判官による裁判制度を選ぶということも可能なわけで、それぞれ適正と考える制度を選択することができるというふうに考えております。
2番目に、上訴の関係ですけれども、主権者である国民が決めているのに、上訴を認めることは矛盾ではないかという御質問だと思います。歴史的には確かに陪審と上訴の問題というのはずっと議論をされてきているわけですけれども、弁護士会が考えているのは、陪審が下した評決は尊重されなければならない。しかし、もしその評決が誤っていたらば、それを正すということも今の憲法の要請するところだと思うわけです。確かに民主主義的な観点から言えば、国民が判断したことは尊重されるべきですけれども、それが間違うこともあるわけです。そうしたときに、憲法の別の原理、例えば基本的人権の尊重ですとか、人間の尊厳ですとか、そういった原理から、その評決を破る権限を裁判官に与えるということは、今の憲法秩序の中で十分成り立ち得ることだろうと思うんです。
重要なことは、控訴したときにその職業裁判官は、そこで自分の判断、例えば有罪だったけれども、いや実はこれは無罪ですと言って、そこで無罪の判決をするわけではないということです。間違った陪審の評決を破る。そしてもう一回陪審にやらせる。これは検察官がもう一回求めるかどうかによるわけですが、もう一度陪審に判断させるという制度が世界的には多いわけです。日弁連が考えているのも、裁判官に最終的な結論を出させるということではなくて、間違った有罪評決を破る権限までは認める。そして、もう一回陪審をやってもらうという考え方です。
それから、3番目の検察官上訴の関係ですが、おっしゃるとおり検察官の公益の代表者としての責務はあると思います。ただ、ここでは別の論点、つまり「二重の危険」という問題があるわけですけれども、憲法第39条で「二重の危険の禁止の原則」があると言われております。むしろ弁護士会はこちらの原則から、つまり訴追側が大きな権力と資力、財力と、それから人員を使って証拠を集め、訴追し、公判を遂行してきたと。その結果、一審で陪審員を説得することができなかった。そうしたら、もう被告人はそこから解放してあげてもいいではないかということです。
ですから、陪審制度から直接来るというよりは、陪審の場合はなおさら国民の代表を説得し切れなかったということになりますので、まさにこの「二重の禁止の危険の原則」を適用していいのではないかという理由でございます。
【井上委員】弁護士会ばかりに聞くのはアンフェアですが、ちょっと気になったものですから。
今、陪審制であっても、上訴審で職業裁判官が審査をして、破棄をするというのが世界的に多いとおっしゃったんですけれども、それは法律問題で上訴した場合ですね。事実問題で上訴を認めているところというのはほとんどない。私が確実に言える範囲では、ないと思うのです。
それに、別の憲法原理から誤った判決については救わなければならないという要請がある。そこまでは分かるのですけれども、そのことから、上訴審が職業裁判官でいいということには当然にはならないと思うのです。むしろ、一番最初の原理を貫くならば、上訴審も陪審にする。例えば、アメリカの一部の州で、軽い罪の場合に、6名構成の陪審で裁判し、それに不服があるときは、より上位の裁判所で12人構成の陪審でもう一回やり直してもらうという制度を取っております。
また、この資料には載っていないのですけれども、フランスで最近法改正がありまして、これは重罪院の参審ですけれども、職業裁判官3人と素人9人という構成で有罪判決をし、それが事実誤認だという場合は、上訴と言いますか、別の重罪院で、素人の数を増やして、3対12だったと思いますけれども、そういう形でもう一回やり直すということになりました。なぜそうなったのかと言いますと、やはり素人が加わって、その意見を尊重して判断を出したのに、職業裁判官だけで引っくり返せるというのはおかしい。引っくり返せるとすれば、少なくとも同じ構成か素人がより多く入った裁判体でやる。しかも、記録に基づいてやるのじゃなくて、もう一度最初から、証拠に当たって判断してもらうのが筋ではないか。そういう議論だったようです。我が国で陪審や参審を採った場合も、むしろそういう考え方を取る方が自然だと思うのですけれども、なぜそうならないのかということが一つです。
もう一つは、いろいろお聞きしたいことがあるのですが、ちょっと限定しまして、裁判所に伺いたいのですけれども、誤判の恐れとか、事実認定との関係で、ペーパーの4ページから5ページに、アメリカやイギリスの研究を引いて、関係者から見て疑わしい判断が少なくなく、あるいは陪審によって異なる結果が出、不安定であるということが指摘されていますね。ところが、弁護士会の方のペーパーでは、それは必ずしも陪審だからそうなるというものではない。他の誤判原因が大きく作用しているんだとされていますので、この御指摘の点が陪審であることによるものなのか、あるいは職業裁判官であっても同じようなことが言えないのかどうか、その点についてお答え下さればと思うのです。
あと法務省のペーパーで、実体法や手続法の見直しが必要だとされているところで、いろいろ指摘なさっているのですが、その中に偽証対策ということが強調されていますね。これは同じようなことが職業裁判官でもいえるのではないかとも思うのですけれども、なぜ陪審の場合には特に必要なのか。弁護士会の方は、事実認定能力、証人の信憑性の評価も含めてですね、それは裁判官であろうと陪審であろうと同じはずだという前提で議論されているのですが、その辺の考え方が違うのかなとも思うんですけれども。それぞれ1点ずつ、お答えいただければと思います。
【佐藤会長】公正に1点ずつですね。
それでは、まず四宮さん。
【日弁連(四宮弁護士)】なぜ上訴も陪審でないのかという点についてお答えします。
まず、事実問題を理由に上訴を認めている国ですけれども、私どもが知る範囲で5ページの資料2に、この間国際会議に参加していただいた国については書いてあって、幾つかの国では事実問題について上訴を認めているようです。
【井上委員】承知しております。ただ、その内容を私自身で確認していないものですから。
【日弁連(四宮弁護士)】すみません。今先生がおっしゃった上訴制度というものは、民主主義の観点から、あるいは民主的な正統性という点を重視されれば、勿論、重要な制度としてあり得るわけですし、現に今、教示いただいたようにアメリカとフランスにあると伺いました。そういう制度もあり得ることだろうとは思うんです。ただ、陪審制度自体が非常に重い制度であるわけで、控訴審についてもまた国民に入ってもらって、事実問題も含めて審議を一からやり直すというのは、かなり重いものになっていくのではないか。それで間違いがあるかどうかを一応法律家の目でチェックをしてもらう。つまり、これは被告人に有利な方向での目で見てもらって、間違いがあるというものだけをもう一度国民に参加をしてもらってやり直してもらう、という方がやりやすいのではないかという認識です。
ですから、原理的におっしゃれば、先生のおっしゃるとおり、民主的な正統性という点では御教示いただいた制度の方がすぐれているかなと思います。
【井上委員】その場合に、陪審は判決に理由を示さないわけですね。そうすると、上訴する場合に、ここが間違っているという形の上訴は非常にしにくい。トータルに誤判ですという主張をして、上訴審では証拠を全部調べるということにならざるを得ないと思うのですが、それはそれでいいんですか。
【日弁連(四宮弁護士)】そうですね。たしかにアメリカでは法律問題を理由とするものしか認めないわけですけれども、よく言われているように、それを理由として実際には無罪だという主張をたくさんしているわけです。この中にも書きましたように、陪審制度の場合には、事件に関する当事者のあらゆる言葉が逐語的に記録化されます。ですから、控訴するときには、記録を一から全部リビューできるわけです。今、私が手元に持っておりますのは、これは実際にアメリカで控訴専門の公設弁護人と言われている、州の公務員として控訴事件だけを扱う人たちが書いている控訴理由書です。こんなに厚いものが書けるわけです。この中には、略語で、速記録の何ページを引用してということで、記録を全部こういう形で引用して提示をしてあります。特に事実問題については、こうこうこういう証拠があるということであれば、合理的な陪審であれば別の結論になったんではないかというようなことを、言わば法律問題につなげて控訴をしていくわけです。
ですから、今、先生御指摘のとおり、記録を全部引用してやっていると。控訴審は、控訴しますと、さっき申し上げた記録は全部反訳をされて、記録は全部控訴審にまいりますので、控訴審の裁判官たちは、ちょうど日本の高等裁判所がなさっているように記録を検討して結論を出すということだろうと思います。
【鳥居委員】今のお話の確認なんですが、資料の76ページに、戦前の制度に関して再陪審という言葉が使ってありますけれども、戦前の制度には再陪審があったんですか。和仁先生のお言葉の下から2行目「裁判所においてもまた敢えて再陪審に付する手続きをなさず、その軽き評決を採択して判決するは、陪審制度の神髄を得たるものと信ず」と書いてありますね。
【井上委員】四宮さんから答えていただいた方がいいかもしれませんが、それは陪審の評決を裁判官が気に入らない、これは正しくないと思った場合に、その答申を受け入れないで、もう一度新たな陪審に審理をやり直させるというものです。
【鳥居委員】昔はそういう制度があったんですか。
【井上委員】はい。それは上訴ではありませんが、そういう制度がありました。
【佐藤会長】控訴という意味ではないんですね。
【井上委員】「更新」と呼んでおりました。
【佐藤会長】今の四宮さんのお答え、よろしいですか。
それでは、次に裁判所の方から。
【最高裁(白木刑事局長)】陪審の判断が不安定で、かなり高い比率で誤判が生じているということは、いろんな研究で明らかにされております。ここの注に書きました研究もその一つでございますし、最高裁からアメリカ、イギリスに派遣して研究してきた裁判官の報告によりましても、そういったことが報告されております。
それから、日弁連でなさいましたシンポジウムではアメリカの学者をお招きになったようですが、その学者の発言を見ましても、やはり誤判の防止という観点から陪審をとらえるのは間違っているということをはっきりおっしゃっておられたようでございます。
つい最近では『判例時報』の1,715号と1,716号に新潟大学の西野教授が書いておられるところであります。西野先生に言わせると、「陪審の本場アメリカにおいて、陪審による冤罪、誤判が多いことは、恐らく疑う余地がないであろう」と、このように書かれていて、「陪審制というのは、伝統的に真実を発見しようとするシステムではなく、事実認定に関して有罪を被告人に、無罪を検察官に、納得ないし諦観、あきらめさせるシステムではなかったかと思う。」と、このようにまでおっしゃっておられます。
私どもが注に書きました4つの研究、最初に書きましたロスキル委員会の研究、それからボールドウィン・マッコンビルの研究、最後のカルヴィン・ザイゼルの研究、これらはいずれもバリスタ、ソリシタ、あるい警察官、被告人、あるいは裁判官に対するアンケート方式によっておりますので、それでは裁判官の判断の方が間違っているんじゃないかなという余地もあろうかと思われます。しかし、そうは言ってもそういうバイアスの掛かったアンケートとは必ずしも思っておりません。
それはそれとして、3つ目に書いておりますマッカーブ・パーバスの研究というのは、これは30件の事件について正規の陪審と、同じようにアトランダムに選んだ国民から成る「影の陪審」というものを作りまして、同じ事件を同時進行的に傍聴して、かつ、同じように評議をした結果が報告されたものでございます。
これによりますと、評議が一致しませんと、陪審の答申になりません。有罪か無罪が原則全員一致でなければいけませんので、一致しないものは除きます。除かれたものが6件ございまして、残りの24件のうち、6件について有罪と無罪が逆の結論が出た。全員一致で逆の結論が出たということでございます。これは主観の入る余地のないものでございますので、客観的にそういう、この報告から言えば4分の1の確率でどちらかの陪審の結論が間違っていると思われるわけでございます。
【吉岡委員】関連して質問したいんですけれども、その場合、「影の陪審」と表の陪審で、陪審員の選び方において、全く同じ手続を取られているかどうかという、その点をお答えいただきたいというのが一点です。
それから、これは弁護士会と両方に伺いたいんですけれども、陪審が今、縮小傾向にあるということを裁判所の方はおっしゃいました。弁護士会の方はむしろ拡大傾向にあるとおっしゃる。全く違う御意見だったので、そこのところがどうなのかということをもう一度伺いたいというのが2点目です。
もう一つ裁判所の方に伺いたいんですが、陪審判断が不安定であるということを新潟大の西野先生が書いていらっしゃるということですが、学者が書いているということでは、私、国民の立場では納得できないというか、理解しかねます。具体的にどういう裁判が、どういうふうに判断されて、どこがおかしいといえるのか、具体例を教えていただきたい。
以上です。
【最高裁(白木刑事局長)】選び方ですが、最高裁の意見書の5ページのマッカーブ・パーバスの研究の注のところを御覧いただきますと、これは内務省の協力を得まして、同じように選挙人名簿から選んでおりますので、原則として同じ選び方と言ってよろしいかと思います。陪審員の選定というときに、陪審員を忌避する場合がある。無条件忌避とか専断的忌避あるいは理由付き忌避があり、それはアメリカでは非常に激しく行われて、自分に都合が良いと言いますか、自分に有利だと思われる陪審員を構成するように、大変な時間と労力を掛けておりますれども、イキリスはそういうことは一切いたしませんので、そういう意味ではほとんど同じ選び方といってよろしいかと思います。
学者の論文で権威付けしようという意図は毛頭ございませんけれども、学者がお調べになったものの中には、アメリカで死刑判決を受けて、あとで真犯人が表れたという例がいっぱい報告されております。今ここでは紹介しきれませんが。
【佐藤会長】陪審制について、最高裁は縮小傾向といい、日弁連は拡大傾向という。その点は後に回して、法務省に井上委員の3点目の質問にお答えいただきたいと思います。
【法務省(渡邉審議官)】御趣旨は、偽証は裁判官による裁判でも陪審でも同じではないかということだろうと思いますが、供述の確保という枠の中で考えていきますと、基本的には今、供述調書の存在を前提としていろいろな制度がありますけれども、陪審ということになれば、法廷供述が中心にならざるを得ない。その1回きりの供述が正確なもの、信用できるものでなければならないということが、陪審にとっては不可欠であろうと思います。そういう意味では、偽証の問題ということもありますけれども、供述確保という問題、要するに供述が拒否されるような場合の問題もございます。
もう一つは、現在の被告人質問の形で、偽証の制裁もなく被告人が自由にしゃべれるということではなくて、調査部長からのプレゼンテーションにもありましたように、例えば被告人の証人尋問制度、すなわち偽証の制裁を伴う形で証言する以上は、真実の証言をしてもらう必要がある。このようなトータルとしての偽証罪の実効化ということが基本的に必要になるだろうと思います。
それはどうしてだということになりますと、一言ではなかなか説明しにくいわけですけれども、いろいろ個別的な事情もありますけれども、アメリカとかイギリスといった陪審制度を採用している国で、歴史的経験に基づいてそういう制度を採用している。偽証罪についても、供述拒否についても相当厳しい処罰をしているという英米の経験は、陪審というものを考える以上は、十分尊重し参考にして我々も考えるべきだろうというのがこの趣旨でございます。
【佐藤会長】それでは、吉岡委員の質問についてお願いします。
【最高裁(白木刑事局長)】日弁連の方は、採用していった国が多いという趣旨でおっしゃったんだろうと思います。しかし、例えばイギリスですと、民事については陪審の範囲をどんどん狭めてきた。刑事については大陪審は廃止しました。クラウンコートでやる陪審事件は減らして、マジストレートで裁判官だけでやる裁判の方に管轄をどんどん移転していったというイギリスの歴史などを見ますと、縮小の歴史であると思います。
【日弁連(四宮弁護士)】日弁連は、一国の問題としても増えているということを言いたいわけです。特にさっき山田副会長からプレゼンテーションがありましように、一旦やめたけれとも、復活をしているという国、特にこれは政治体制が民主制に変わってから復活をしたという意味で、ロシアとスペインには私たちは非常に注目しているんですけれども、一国の問題としても増えている。数はここに資料1に示しましたように、我々が今まで知らなかった国までかなり陪審が採用されていることが分かったということで、拡大傾向というふうに申し上げているわけです。
例えば一国の問題としても、最高裁の方ではアメリカの民事陪審に関しては消極姿勢のようなトーンなんですが、アメリカの連邦憲法の7条修正で、民事陪審を受ける権利を保障しております。陪審裁判を受けたくないという当事者は、例えば複雑な事件であれば、デュープロセスの方が侵害されるから陪審制度をやらないようにしてほしいという申立てを裁判所にするわけです。
非常に限られた数でそれを認めた裁判官もいるのですけれども、少なくとも連邦最高裁はこの7条にはそういった例外があるという判断はまだ示しておりませんし、圧倒的に多数の連邦判事たちは、そういった申し立てを全部棄却して、陪審制度を運用させているわけです。そのとき、何でもかんでも陪審をやれと言っているわけじゃなくて、彼らは非常に工夫をして、複雑な事件であれば陪審員たちが分かりやすいように事件を分割して争点を絞ったり、プレゼンテーションをわかりやすくするよう求めたりという工夫を裁判官たちがして、民事裁判でも行えるように努力を大変しているわけです。
ですから、一国の問題としてアメリカを見ても縮小していないということです。
【最高裁(白木刑事局長)】最近の点では日弁連が御説明になったとおりかもしれません。国の問題としても、大きな目でみれば、大陸法系の国が一時期陪審制を取ったけれども、現在では参審制に移行したという流れがあることは歴史的事実だろうと思います。
【藤田委員】陪審制度が日本に根づくかどうかということについては、陪審裁判で誤判が多いのかどうかという点が挙げられております。この点については意見が対立しております。それと、理由が分からないという判断過程のブラック・ボックス化、それとの関係で事実認定についての不服申立て、上訴が可能かどうか。ここら辺が重大な問題点だろうと思います。四宮先生への質問なんですけれども、先ほどの控訴理由書、このような証拠であれば通常の適正な陪審ならばこういう事実認定をするはずがないという控訴理由があるというふうにおっしゃいましたけれども、経験則違反、このような証拠でそういう事実認定ができるはずがないという、経験則違反が上告理由になるのか、これは古典的な論争であったんですけれども、そういう間接的な形にせよ、アメリカの陪審での不服申し立てが、法律問題を争うという形で事実上、事実認定の合理性を争うということが一般的に認められているのかどうかということなんです。
それと、もう一つは、三者への御質問なんですけれども、諸外国の例を見ますと、陪審についても参審についても、事実認定について上訴を認めている例は余りないようで、その理由としては、理論的には仲間による裁判なんだから、それに対して不服申立てをする理由がないということ、あるいは、陪審について理由がないから上訴は難しい、上訴理由を構成するのが難しいということが言われております。参審制度について事実認定についての上訴ということを理論的、実際的に認めることが可能か、あるいは認めるべきか、そこら辺についてはどういう御意見をお持ちか、これは三者にお聞きしたいんです。
【佐藤会長】それでは、最初の方は日弁連から。
【日弁連(四宮弁護士)】アメリカで有罪の評決が出ますと、ほとんどのケースが上訴、日本で言えば控訴されています。それは勿論、理由としては法律的な問題点を指摘して行うわけですけれども、実態的には、事実問題を争っているというケースは珍しいことではありません。これは我が国の陪審裁判のときにも実は行われていたようで、当時は陪審が有罪の評決をした場合には、控訴は認められずに、大審院、今の最高裁に当たると思いますが、大審院への上告だけが許されていたわけです。ですから、勿論、法律問題でしか上告できなかったわけです。
ところが、その大審院の判例を見てみますと、この中には裁判官の説示に問題があったということを理由にして、実は無罪、無実だという人を救っているケースがあるんです。ですから、アメリカにしろ日本にしろ、もし仮に陪審制度を取った場合に、上訴理由は法律問題に限るのだという制度を取ったとしても、その中でその法律問題に理由を付託しながら、事実問題を争っていくということはあり得ることですし、私はそれは認められていっていいと思ってます。
日弁連がなぜ事実問題を独立して上訴理由にすることを今考えているかと申しますと、そうであれば、日本は長い間、事実の間違いを理由にした控訴を認めてきたんだから、そういう長い歴史がありますので、端的に認めたらどうだろうというふうに考えたからなんです。
【佐藤会長】白木さん、どうしましょうか。渡邉さんと、どちらからでも結構ですが。
【最高裁(白木刑事局長)】陪審・参審を取っている国での上訴というのは、事実問題では上訴ができなくて、法律問題に限るというのがほとんどだと思います。先ほど井上委員から御紹介がございましたけれども、最近フランスでは事実問題について上訴ができるというような改正が行われたようでございますが、一般的には事実問題についての上訴はできない。今、四宮さんがおっしゃったように、しかし法律問題とは言いながら、事実問題が救われることもある。それはどうもイギリスでもそういうことがあるようでございます。しかし、それは事実問題についての上訴ができるということとは全然違う話でございまして、事実問題については上訴ができないという原則には変わりがないだろうと思っております。
それから、参審について上訴が可能かどうかということにつきまして、私ども最高裁が今回の意見書で申し上げましたのは、評決権のない参審というのを御提案させていただいたわけでございまして、それによりますと、当然、現状どおり事実問題についても上訴ができるということになるだろうと思っております。
評決権ありということになりますと、これはいろいろ考えてみないといけないなと思っております。
【法務省(渡邉審議官)】参審の上訴に限って言いますと、基本的に参審制度というのは、制度設計と言いますか、その形をどういうふうに考えるかということについて、陪審ほど固定したものではなくて、いろんなパターンがあろうかと思います。本日も最高裁の方から一つのパターンが示されましたし、法務省としても、そういうパターンがあることは承知しております。そういう制度設計の中でそれをより良いものとして考えるということが大事だろう。その制度設計の中では、当然上訴というものも取り得る制度設計というのは選択肢としてあろうかと思います。参審を取ったから事実誤認の上訴ができないということにはならないだろうと思います。
御質問は、基本的に参審のことでしたけれども、陪審の問題で申しますと、先ほどからいろいろ出ておりますように、事実認定というものを国民の代表である陪審員に委ねておきながら、上訴審で裁判官が事実認定を覆すことができるというのは、陪審の意義そのものが失われているんじゃないかという気がいたしまして、制度としては一貫しないんだろうと思います。
逆に別の陪審で行うという考えは、フランスの例では、陪審員の人数を増やしてということがあるようです。先の国民の代表である陪審の判断と、後のやはり国民の代表である陪審の判断との間に差があるのかということについては、やはりなかなか難しい問題があって、そこに差を付けるというのは、どういう理由で付けるのかというところにも、制度としての一貫性に関して説明がつけにくいのではないかというのが感想でございます。
【日弁連(四宮弁護士)】弁護士会は、陪審についても事実問題を理由とする上訴を認めるという立場ですので、参審制についても当然認めるということになると思います。
【石井委員】先ほど日弁連からお話があり、いろいろな理由を挙げられて陪審制が良いということを述べられましたが、何が最大のポイントで、日本へこういう制度を導入すべきかというところが、私には今ひとつ理解できなかったものですから、その最大のポイントだけをお話しいただけたらと思います。
また、大変良い資料を御用意いただきましてありがとうございます。その中で、特に1ページ、2ページのところに「世界の陪審・参審制度」と書いてありますが、今すぐということでなくて結構ですが、今実際に行われている陪審制度がいつ頃から始まったかということも知りたいと思いますので、その一覧表をあとでいただけましたら大変ありがたいと思います。その場合に、スリランカなどはちょっと分からないのかもしれませんが、例えばスイス連邦や他の国で、陪審が始まる前はどういう制度をとっていたかということも併せて教えていただけたら大変ありがたいと思います。
もう一つ、これは日弁連にお願いというわけではないのですが、スペインは、最近、陪審制を導入したという話を伺っておりますので、導入後、それによってどういうことが起こっているのかを知りたいと思っております。例えば、問題点が出てきたとかという話があれば、その辺も教えていただきたいと考えております。
先ほどの話に関連して、なぜ日本の陪審制は何となく消滅したか、消滅という言い方は悪いのかもしれませんが、施行停止になったことに関連しまして、当時の陪審員の資格というのは、税金を3円以上納めている男性というお話がありましたので、総人口に占める3円以上の人の比率というのはどのくらいあったのかということと、その選び方、例えば抽選によるとか、選挙人名簿による抽選なのかよく分かりませんが、コンピュータによる乱数表とかというのは絶対あり得ない時代ですから、昔はどういうふうにしたのか。だれかが適当に決めたのか、その辺について教えていただきたいと思います。昭和18年ですから、恐らく兵役の影響などがかなり強く出てきたと思います。例えば、陪審員に決められた後で赤紙が来たとか、そういう話が出てきたときに、どういうふうに対応されたのか。そういうこともだんだんじり貧になった原因の一つと考えたものですから、これは別に今日の大事な問題ではないのですが、興味を持ちましたので、分かれば教えていただきたいと思います。
【佐藤会長】資料的裏づけのところは後日できればということにして、最初におっしゃった、導入論の最大のポイントは何かということについてと、最後におっしゃった点について、何か言及されることがあればお願いします。
【日弁連(四宮弁護士)】導入の理由を一つだけ挙げるようにとおっしゃるのならば、それは国民主権です。この審議会で改革の目標を示しておられるように、新しい社会で国民一人ひとりが自立し、責任を持って参画していくという社会を目指すのであれば、司法も決してその例外であってはならないはずです。その精神を一番満たすのは陪審制度であろうというのが最大の理由です。
【石井委員】生かすためには陪審が一番適しているというふうに考えていらっしゃるということですか。
【日弁連(四宮弁護士)】いろいろな制度がありますけれども、その中では陪審が一番今の理念を実現するのにふさわしい制度ではないかというふうに考えているということです。
【石井委員】ありがとうございました。
【日弁連(四宮弁護士)】それから、お答えできる範囲でですけれども、スペインに導入した後どうなったかということですが、これは私たちの国際会議に来てくださったカルメン・グレドーさんという博士によると、導入の結果、市民の方で司法に貢献できるという意識が非常に高まったということが、短い報告ですが、されております。
【石井委員】それは、良い方だけの話で、デメリットは全くなかったのですか。
【日弁連(四宮弁護士)】今回資料で御提示申し上げましたのは、サマリーですので、その点が言及されておれば提出したいと思います。
【井上委員】スペインは、導入してまだ間もないでしょう。
【日弁連(四宮弁護士)】スペインでは1995年に復活をいたしました。ですから、まだ5年ということです。
【石井委員】ですから、問題点を把握するのには、ちょうど良い頃ではないかと思っております。
【日弁連(四宮弁護士)】前に戻ってよろしゅうございますか。
【佐藤会長】時間の関係もありますので、手短かに。
【日弁連(四宮弁護士)】今、御質問のあった点について、昔のことは分かりません。ただ、兵役との関係で申し上げますと、陪審員の名簿というのは役場が作っていたわけです。役場の方で要件を満たす人をリスト・アップして、それを裁判所に届けておりました。停止の一番大きな声は役場から上がって、まさに兵役との関係で、戦争が激しくなって、徴兵の業務に追われることになったために、とても陪審員の名簿づくりができないという声が全国から寄せられたということです。
【最高裁(白木刑事局長)】今のお尋ねの点について横から大変恐縮ですが、その一部だけお答えさせていただきますと、最高裁判所のペーパーの8ページの注の5のところに、陪審員の当時の資格は、30歳以上の男子で、引き続き2年以上、直接国税3円以上を納めているという要件で、当時の該当者は約180万人、総人口の約3%ということです。
【井上委員】何度も発言して申し訳ないのですけれども、重要な点を、後の審議のためにお聞きしておきたいと思います。一つは、憲法問題なのですけれども、これは裁判所にまずお聞きしたいのですが、ペーパーでは、合憲論、違憲論双方があるけれども、憲法問題を回避するためには、参審の判断に拘束力を認めない制度にするのが無難だと書かれていますね。これは恐らく中心的には、憲法76条3項の裁判官の独立との関係を問題にされているのだろうと思うのですけれども、例えば現行の合議制の裁判官3人でやる場合をとってみても、この場合にも、場合によっては2対1に意見が分かれるということがあり得るわけですね。その場合は多数決でやるというのが裁判所法の定めだと思うのですけれども、その憲法に謳われた独立というのは、個々の裁判官に独立があるわけですが、2対1で少数説になった場合、結論としては、別の裁判官の意見に従わざるを得ない。しかし、これは別に独立ということに反するというふうに考えられてはいないと思うのです。それなのに、参審員が相手だとなぜ独立条項に反するということになるのかということが一つです。
もう一つ、陪審の場合も、事実問題と法律ないし量刑問題に機能分化して、裁判官の担当は法律問題と量刑だとした場合に、それが裁判官の職務になるわけで、その職務行使において独立であればいいのではないかと思われるのですけれども、その点を教えていただきたいということです。
他方、弁護士会の方は、ちょっと揚げ足取りのようなのですけれども、裁判官は法律と良心のみに拘束されるということについては、陪審の評決に従えという法律を作れば、その法律に従うのは、法律に従っているだけで、独立を害されていないとされています。これはちょっと私には理解できない理屈でして、もし同じ理屈でいけば、法律判断や量刑も陪審にすべて任せてしまう。裁判官は手続の進行だけをやればいい、あるいは判決のアナウンスだけやればいい、こういう法律を作れば、それに従えば独立に反しないということになる。しかし問題はむしろ、そういう法律を作ってもいいのかということではないかと思うのですけれども、その点を教えていただきたいと思います。
もう一つは、報道との関係なんですけれども、法務省は、報道について適切な規制が必要だとされていますが、具体的にどういう方法が可能か。これは外国ではかなり困っている問題であるわけですけれども、それを教えていただきたい。逆に弁護士会は、そういう規制は要らない。今の制度で十分防げるんだとされていますけれども、四宮さんもよく御存じのように、アメリカなどでもこれは大きな問題になっているわけですね。それを全く問題ないんだというふうに言い切れるのかということなんですが、その点どうお考えなのでしょうか。
あと法務省にもう一つあるのですけれども、参審員の場合には、陪審員以上に選定に工夫が必要だと言われているのですが、これは具体的にどういうことを意味し、なぜそうなのかということを教えていただきたい。
最後に裁判所ですけれども、参審員の評決権については、国民の意思を反映するためには評決権を与えなくてもいいじゃないかとされていますが、上訴との関係で、上訴は職業裁判官でいいということになれば、一審で例えば量刑について参審員の意見を尊重して、ある量刑をしたが、職業裁判官だけで行う場合の量刑相場とはかなり違っているということがあり得ると思うのです。そういうことも国民の声を反映させるという意味ではメリットだと思うのですけれど、それを上訴審では職業裁判官がプロの目で見て、これはちょっと行き過ぎじゃないかということで破棄するというのは、そもそもの理念に反しないのかということです。
【佐藤会長】どうしましょうか。憲法問題も議論し出したら、これだけでも長くなるんですが。
【井上委員】簡潔に趣旨を伺いたいのです。
【佐藤会長】では、最高裁の方から。
【最高裁(白木刑事局長)】大変難しいお尋ねでございまして、お答えしにくいんです。憲法問題については、私ども内部で随分議論をいたしたわけですが、合憲論、違憲論、いろいろございまして、今、井上委員から御指摘になったような論点での議論というのは、余り今までなされてこなかったのではないかという感じがいたします。
ただ、私どもが憲法解釈について、一定の考え方を開陳するという立場には当然ないわけでございまして、このペーパーでも書きましたが、そこは第一次的には国会で、第二次的には司法裁判所としての最高裁判所で決めざるを得ないということで、私どもが今回考えましたのは、難しい問題があるということ。両説とも非常に有力に主張されていて、難しい問題があるので、疑義を残さない形で考えれば、こんな形かなということを申し上げたわけでございまして、憲法論がクリアーできるというのであれば、また別の形というのは当然考えられるのではないかと思っております。
今回申し上げた形でも、国民の方に加わっていただいて、一緒に審理を行うということは、裁判が分かりやすくなるとか、その方々と意見交換する中で国民の関心とか問題意識も分かりますし、それを裁判に反映させるということで大変大きな意義があると考えているわけであります。それから量刑について参審員の考え方を最大限尊重したがために、一般の量刑の考え方と若干違ったものがあって、それを上訴で、職業裁判官が後から判断するのは理念に反するのではないかという問題につきましては、評決権がなければ、最終的には裁判官の責任において判断したということになるわけですから、そこは理念的にはクリアーできると考えます。
【佐藤会長】反論などもあるかもしれませんが、では法務省から。
【法務省(渡邉審議官)】報道規制の問題と参審員の選出方法について具体的なイメージがあるかということですが、最高裁判所も別の御質問で難しい問題だとおっしゃいましたけれども、基本的には報道規制の問題についても、当然そういうものが必要ではないかという議論があることを私どもも承知しているわけで、そういう問題部分があることを今日は提起をさせていただきました。どういう方法が考えられるかということについて、イギリスのような例、アメリカのような例が言われていますけれども、具体的に持っているわけではありません。そういう問題点も含めて御検討される必要があるというのが、陪審制についてどう思うかと最初に質問があったときにお答えしたとのと同じ答えなんですけれども、そういうことも含めて、慎重にというか、十分に検討していただく必要があろうと考えております。
それから、参審制についても同じような答えになって恐縮なんですけれども、参審制というのは、先ほど申しましたように、制度設計がいろいろありますから、その選出方法とか任期とか裁判体の中での職業裁判官の構成の問題等々については、柔軟で多様な制度設計ができるだろうと私ども思っております。
例えばフランス式になると、ほとんど陪審に近い形ですから、陪審で問題にされていることと同じような問題が起こるだろうと思います。それから、一般人から参審員を選出する選出方法も、例えばドイツのように政党の推薦でやるときには、政治色を参審員が帯びないかという問題があるかと思いますけれども、そういういろんな問題の中で、ある程度そういう問題をクリアーしていきながら望ましい形について、十分検討していただきたいというのが趣旨で、そういうふうに理解していただきたいと思います。
【日弁連(四宮弁護士)】評決に従えというのは乱暴ではないかということと、メディアの規制という二つの質問をいただきましたが、御指摘のように、弁護士会が考えておりましたのは、裁判官の今まで持っている職権というものの内容を、先生御指摘のように事実認定と法律問題、あるいは手続問題とに分けて、それぞれが分担していこうという発想です。ですから、事実認定については陪審員が役割を担当するので、そこで出た結論は最終的なものにする。その代わり裁判官の役割とされた法律問題、手続問題、あるいは刑事で言えば量刑の問題は、まさに裁判官固有の職権としてそれは独立に行使する。それで憲法的な要請は満たせるというように考えておりまして、そういう趣旨でございます。ですから、何でもかんでも法律で裁判官の仕事を奪っていくという趣旨ではありません。裁判官の職権を国民と分け合っていこうと。国民が担えるものを担っていこうという趣旨でございます。
それから、メディアの関係は、御指摘のとおり、私はすべての問題において問題ないというふうに申し上げるつもりはありません。ただ、外からの一般的な報道規制ということになりますと、報道の自由という憲法的な別の価値との関係で非常に問題が出てくる。ですから、今、考えられるのは、本当にメディアとの関係が問題になる事件については、事件の中で、つまり裁判所が、当事者ですとか、証人ですとか、陪審員ですとか、訴訟関係者に対する何らかの規制をしていく。あるいはアクセスなり外へ向かって何かを言ってはいけないということなり、あるいはそういった、内部での事件個別の、裁判所による規制というものは考えられるのではないかと思います。
【佐藤会長】時間も迫ってきておりますけれども、中坊委員どうぞ。
【中坊委員】最高裁の方にお尋ねしたいと思うんですけれども、非常に基本的なお尋ねを申し上げるわけですが、私たちは既に御承知のように「論点整理」の中において、日本が近代化して130年間、我が国の法が社会の血肉と化していない。それは国民の一人ひとりが統治客体意識から主体意識に変わっていない。そういうような問題提起をしておるわけでございます。それも基本的に言えば政治的な問題も含んでおるというふうに考えられるわけですが、そのような立場に我々は立っておるんですが、今回最高裁は、そういう点についてどのようにお考えになって、このようなレポートをお出しになったのか。全面的に陪審を否定されておるようですが、私自身としては、基本的に「論点整理」のそのような問題意識に立てば、陪審というのは基本的に望ましい一つの制度ではないかと思うんですけれども、法務省も基本的にそれと似たような御意見があったが、最高裁だけは、そうでもないように読み取れないわけではないので、その点について、最高裁側の御意見を承りたいと思うんです。
【最高裁(白木刑事局長)】私どももその立場に立たないというわけではございません。そういったことを十分考えて、このペーパーを作成したわけでございますが、やはりそうは言っても、陪審の場合にはこれだけいろいろ問題点があって、現在よしとされていると言いますか、あるいは将来にわたっても裁判が国民の支持を得ていく場合に、陪審という制度を取って、本当に大丈夫なのかなという考え方があるものですから、こういうペーパーにさせていただいたということでございます。
【中坊委員】その点に関して、具体的に、例えばこれの9ページによりますと、具体的にいろいろ御検討いただくのは結構なんだけれども、例えば弁護士のことに関しますと、「(2)集中審理を実現する弁護態勢」というところで、「集中して期日を確保することが極めて困難な状況にあるが、このような状況を改善しない限り、陪審裁判を実施することはほとんど不可能であると言わざるを得ない。」、こういうふうにお書きいただいているわけですが、この結論は私の方から言うと、日弁連が今年の3月だったと思うんですけれども、そのことに関して、「陪審制度の実現に向けての提言」というのを理事会で決めておると思うんです。それは御承知の上でこういうふうにお書きになられているんでしょうか。それとも、そういうのは見なかったということになるんでしょうか。
【最高裁(白木刑事局長)】日弁連の提案は拝見させていただいております。
【中坊委員】そうすると、資料を見られるとお分かりいただきますように、私たち弁護士会といたしましては、そこにも書いてあるように、重罪事件で、否認事件で、そして選択すると、3つの条件を提示して、この陪審制度を、今、我が国で実現することは可能であろう、こういう説に立って申しておるんだろうと思うんです。
しかも、この資料の中には、それでいきますと、私たちが計算しても、大体年間580件くらいしかないんじゃないか。資料の中にデータを出しておりますけれども、そういう数字になるんじゃないかということを言っておるわけです。現実に着手するとすれば。そうしたら、今の全国の弁護士が実施することは不可能であろうという結論に一体どうしてなるのかと私は疑問に思うんですが、いかがなものでしょうか。
【最高裁(白木刑事局長)】試算の点についてはさておきまして、これは国民の期待に応える刑事司法に関するヒアリングの際にも申し上げたことでございますけれども、今の弁護士さんの業務形態ということからいきますと、現在でも集中審理をお願いしても、なかなか応じていただけないという状況の中で、本当に陪審をやって集中審理が実現できるのかと。弁護士会の御主張の中には、今、言われましたように、件数もこの程度だし、日数もこの程度だからできるではないかという御主張も確かにございますけれども、しかし、陪審なら集中してやりますが、それ以外については、集中してはできませんというのも、果たしていかがなものか。やはりやるんであれば、全部同じようにやらないといかがなものですかということも視野に置いているわけでございます。
【中坊委員】その点に関しては、先ほどから言っているように、少なくとも陪審という制度を導入するのであれば、弁護士会としても、こういう一種の公的機関が、この程度のことは我々としても実現できるということを言っているわけです。そして、大変あれですけれども、私自身は、自分の経験においても、随分古い事件ですが、昭和48年に森永ミルク中毒事件というのを担当しました。その事件では、御承知かどうかは知らないけれども、少なくとも毎月連日開廷ということで、証人調べを午前・午後全部、弁護士はやっているんですよ、別に何も言われなくてもね。だから、そういうふうに集中して2日間、朝から晩までやる。多くの弁護士がそういうことをやっている。私自身はそういう経験を持っておるんで、「不可能であると言わざるを得ない。」などと、こういう書き方、表現はいかがなかものかと思うんで、それは別に御意見でしょうが、ひとつお考えいただきたいと思います。
三つ目には、今回、最高裁側は、つい数日前の新聞、9月10日付の朝日新聞を見ますと、参審制、しかも評決権を持たない参審制というものを最高裁の裁判官会議で決めたというふうなことが、なぜか一部の新聞の一面トップに取り上げられております。
そこでお尋ねするんですが、まず、いつの最高裁の裁判官会議で、そして全員一致でお決めになったのかどうか、それをお答えいただきたいと思います。
【最高裁(中山総務局長)】事柄の性質上、私の方から御説明申し上げますけれども、まず、裁判官会議の関係でございますが、本日、最高裁の事務総局がここに出席して、本日お配りしたようなペーパーを配り、本日述べたような内容について最高裁として意見を申し上げるということにつきましては、裁判官会議で了承を得ております。ただ、もとより事柄の性質上、細部まで各裁判官の意見が一致したというものではございません。例えば憲法問題につきましても、どんな御議論があったかと言いますと、やはり具体的な事件が係属していない段階で、先取りした形で合憲か違憲かといったようなことを論じること自体に問題があるのではないかという御意見も含め、積極、消極いろんな御意見がございました。しかしなから、憲法上、そういった疑義がある、それがまた学説でもかなり有力であるというところを踏まえ、最高裁判所として提案するものとしては、評決権がないものにしたらどうかというところでは、大方の裁判官の一致を見たところでございます。
【中坊委員】私のお尋ねしたいのは、そうすると、これまで最高裁から出されているペーパーは、すべて最高裁の裁判官会議に掛けられた結果であると承っていいわけですね。そう言えますか。
【最高裁(中山総務局長)】基本的には、例えば12月8日のプレゼンテーションのペーパー、これも裁判官会議で御了承を得て提出したものでございます。そういったものからはみ出ないものにつきましては、私どもの方でこれまでも裁判官会議の御意見をベースに作らせていただいて提出するということもございますが、これをはみ出るような新たなことを話さなければならない、そういうようなこともあり得るという場合にはすべて裁判官会議で了承を得ております。
【中坊委員】では、そういうふうに承っておきます。
【最高裁(中山総務局長)】民事司法の在り方、刑事司法の在り方に関するヒアリングの際のペーパーも裁判官会議で了承を得ております。
なお、もう一点でございますが、9月10日の某新聞に載りました件ですが、裁判所の関係者が事前に報道機関等の外部に意見書の内容を明らかにしたという事実はありません。御指摘の記事がどのようなニュースソースから書かれたかについても、私どもの方も全く承知していないところでありますので、その旨補足させていただきます。
【中坊委員】しかし、現実にこれが報道されている。しかも裁判官会議で決まったというところまで書かれる。そして、今おっしゃるように、合憲か違憲かについては、最高裁判所というのは、まさに最終審の重要な国家機関を担っておられるところなんです。本日、我々がこの国民の司法参加、陪審の問題をやるということは恐らく最高裁だってよくお分かりになっている。あらかじめ決まっているんですからね。その寸前に、新聞の一面で、このようなものが掲げられる。しかも、率直に言って陪審を否定しているという結論になるようなものが今出されてくるということについては、私としては、極めて遺憾な対応ではないかと思います。
最高裁においては、少なくとも我々審議会というものが、もっと公正に行われるように、しかもおたくらは、法務省にしても最高裁にしても、それぞれが大変な国家権力をお持ちのところなんですから、言動についてはもっと注意をして、慎重な対応をしていただきたいと私は思います。その一点を付け加えておきます。
【最高裁(中山総務局長)】この記事自体、私どもの方も困惑したことは事実でございますから、その点もお含み置きいただきたいと思います。
【中坊委員】何も言わなきゃ、最高裁の裁判官会議で決めた、などと出ないですよ。
【佐藤会長】この問題についてはこの辺で収めておきたいと思います。時間も4時半までと考えておりましたけれども、水原委員が手を挙げておられます。手短かにお願いします。
【水原委員】先ほど山本委員から御質問がございましたけれども、これは法務省にお尋ねいたします。
陪審制度の導入が刑事手続法、実体法を変えなければいけない、こういうふうな御主張でございますけれども、手続法の関係はよく分かりました。ところが、実体法までいじらなければいけないのか。それはなぜなのかということについて、陪審制を取っている他の国との比較において分かりやすく御説明いただければと思います。その一点だけです。
【法務省(渡邉審議官)】申し述べますと、相当長くなる心配もあるわけでございます。手短と言っては失礼ですけれども、簡単に申し上げます。
基本的には犯罪の構成要件が複雑で非常に理解が困難な内容になっておりますと、その具体的な事実を構成要件に当てはめるということが非常に困難になる。そこには専門的、法律的知識が必要になってきますから、陪審員という一般の方がその判断をされるについては、非常に難しくなる。そうしますと、できるだけ単純なものであることが望ましいということは明らかであろうと思います。
とりわけ日本の実体法は故意と過失を峻別している。あるいは目的等の主観的要件につきまして、厳密に要求している。言わば大陸法系の刑法を受け継いでいるわけでございますので、そのままの形で陪審制を導入しますと、その主観的要件の認定と言いますか、あるいは立証する側の労力、努力と言いますか、そういうものについても、現在とは異なって、相当難しいものが生じてくることになろうと思います。
そういう意味では、陪審制を採用しております英米などでは、主観的な構成要件を厳密に要求しない実体法の構成になっている部分があろうかと思います。例えば故意の成立に必要な認識の範囲などについて、基本的事実に限っているようなもの、あるいは故意とか過失とかというものを厳密に区別しない類型の犯罪を設けるなどの工夫が行われています。
御承知だと思いますけれども、端的に現れているのは、日本では殺人と傷害致死を殺意というもので峻別をしておりますし、過失と故意も細かく峻別しているわけですけれども、そこのところはmurder、謀殺とmanslaughter、故殺というふうに分け、日本で言う故意とか傷害致死とかいうような分け方にはなっていなくて、客観的、外形的な事実によって、殺人をある程度の段階に分けて認定できるようにしているというような例もございます。そのほかにもあろうかと思いますけれども、そういう例から見ますと、やはり実体法の方についても、全体的な見直しが必要なのではないかと思っております。
【日弁連(四宮弁護士)】今の点ですけれども、実は戦前の陪審で一番多かったのは殺人事件です。そこでは殺意が争われているわけです。そこで戦前の記録を見ますと、殺意の点が実体法、つまり刑法が不十分で審理に困難をきたしたということは報告されておりません。
今日は、陪審制について、たくさんの問題点に触れられました。けれども、問題点の多くは、法技術的な問題だと思うんです。それはこの法曹三者が協力して乗り越えられると私は思います。これだけ世界の国民参加制度を研究している国はないんです。世界で一番研究していると思います。国を変えようと思ったら、国民の協力を得なければいけない。問題点だけでなく、この制度で何ができるか、ということを是非御検討いただきたいと思います。
今日、「論点整理」の論点項目というのを改めて見てきましたけれども、国民の協力が必要な論点項目というのは、この陪審制だけなんです。ですから、どうか国民に向かって、一緒にやっていこう、協力してほしい、一緒にいい司法制度を作っていこう、というふうに呼び掛けていただけたらと思います。
陪審制というのは大きな車輪ですから、動かすには最初の動力が必要です。大変だと思います。しかし、この審議会でその最初の動力を与えていただければ、法曹三者や国民や研究者の方々の協力をいただいて、必ずうまく動かすことができると思います。国民を信頼する司法というのは、必ず国民からも信頼されると私は思いますし、国民を信頼する国というのは、必ず国際的にも信頼される国だと思っています。
【法務省(渡邉審議官)】ただ、一つ申し上げたいのは、戦前の陪審制度は、基本的には訴訟構造が予審を前提とした職権主義的構造になっており、そういう制度を前提として採用されていたものですから、必ずしも同列には論じられないという問題があるということも意識しながら御検討いただきたいと思っております。
【佐藤会長】今日いらしていただいた方も、まだお話しになりたいことがいろいろおありかもしれません。さっき伺ったところでは、4時半くらいまでならということだったんですけれども、それぞれ御予定のあるところ、5時過ぎまで引っ張ってしまいまして、大変御迷惑をお掛けいたしました。本日はどうもありがとうございました。
(日弁連、法務省、最高裁関係者退室)
【佐藤会長】今日は時間があれば少し意見交換を、と思っておりましたけれども、現在もう5時を回ってしまいました。ただ、質疑応答で随分いろいろやれたのでむしろよかったんじゃないかと考えております。
次回は石井委員、高木委員、吉岡委員にレポートをお願いして、その後意見交換をしたいと考えております。担当の委員の方にはお忙しい中恐縮でございますけれども、どうぞよろしくお願いいたします。
あとは時間を余り取らないと思いますけれども、もう一つだけ御相談しておきたいものがあります。それは中間報告までの審議スケジュール等についてでございます。お手元に配付してある「中間報告までの審議スケジュール(案)」を御覧いただきたいと思います。これは事前にお送りしてあると思いますけれども、こういう形で進めさせていただければと考えております。
このスケジュール案について若干御説明申し上げますと、9月26日の第32回までは既に御了解いただいておりますように、「国民の司法参加」について調査審議を行うということであります。
ところで、検討会議において検討していただいている法科大学院構想に関する報告書が9月末に提出されるということでよろしいですね。
【井上委員】ほぼ大丈夫だと思います。
【佐藤会長】そのようでございますので、10月に入っての最初の6日、第33回でありますが、夏の集中審議の際と同じように、文部省の検討会議から然るべき方においでいただきまして、その報告書の内容について御報告をいただく。そして、その内容についての質疑応答、更に時間があれば意見交換等も行いたいと考えております。法曹養成制度につきましては、この検討会議における検討結果を受けて、法科大学院構想について詰めた審議をしなければなりません。加えて司法試験、あるいは司法修習、実務修習の在り方などについても意見交換を行う必要があります。
更に法曹人口に関しましても、「法曹養成制度の在り方」との関係で、やや詰めた御審議をいただく必要があると考えておりまして、この33回だけではなくて、当然複数の審議日が必要だということで、34回の10月16日、35回の10月24日も、この「法曹養成制度の在り方」について御審議いただき、そこでできればとりまとめを行いたいと考えた次第であります。
なお、34回の審議会、10月16日ですか、本日は御欠席でありますけれども、曽野委員から、法曹としてあるべき姿について少しお話をいただきたいというように考えております。
このように10月に入ってからの3回の審議会は、法曹養成制度等についての審議ということであります。
その後、10月31日からでありますけれども、10月31日に再度「法曹一元」の問題について御審議いただければと考えております。この問題につきましては、夏の集中審議において裁判官の給源の多様性、多元性を図ること、任用・人事に関して何らかの工夫が必要であるということで、委員の皆様の意見の一致を見たところでありますけれども、これから審議を行う「国民の司法参加」、「法曹養成制度の在り方」等の審議結果を踏まえて、再度この「法曹一元」の問題について、中間報告のとりまとめに向けての意見交換を行う必要があるのではないかと考えた次第であります。この再度の審議を行うに当たっては、諸外国における制度の実態、裁判官の給源、任用、人事等に関する資料などを事務局に作っていただきまして、それも踏まえて意見交換を行いたいと考えております。
それから、11月に入ってからは、11月14日、第37回、11月20日、第38回の2回の審議会で中間報告に関する審議を行いたいと考えております。前回もお話ししましたように、私としては、11月中旬ごろには中間報告を出したいと考えておりまして、審議項目や審議日程等を検討した結果、このように11月に入ってからの2回の審議会で中間報告の審議をしていただき、中間報告を出したいと考えた次第であります。この2回で十分なのか、大丈夫かと御心配の向きもあろうかと思いますけれども、この37回、38回の2回だけではなく、その前の審議会においても、少し時間を取って中間報告のとりまとめについて御相談をするということをすれば、何とかこの2回で乗り切れるのではないかというように考えた次第でありますけれども、そんなところで進めさせていただいてよろしゅうございましょうか。
【中坊委員】ただいまの「国民の司法参加」の点もそうだし、この間の集中審議でもそうですけれども、非常に技術的な問題とか、具体的な問題も確かにあるわけです。同時に、我々の司法制度改革審議会がどのようなものを出していくのかという非常に根本的な問題もあるわけです。今は私たち自身の勉強もありますし、そういうことも込めて、非常にいろんな、濃淡ある問題がばらばらに審議されておると思います。
しかし、我々として今必要なことは、11月に中間報告を国民の前に出すということを決めているわけですから、大体の骨格というか、そういうものの議論にしていかないと、ここで細かいものができると、この具体的なことが決まらぬからここも決まらないということになってきてしまうと、骨格をどう決めたのかという議論と、非常に具体的な個々の問題と、例えば今も水原さんがお尋ねになったように、実体法のどこを直さなければいけないのかというようなことをここで議論し出したら、それだけでここの議論というのは、本当に尽きないようになってしまうと思うんです。
だから、我々としても、一応勉強としてこのようにするのはいいけれども、同時に、まとめるために骨格をどう考えていくかという視点が、我々の間で共有されて、そこで議論をしていかないといけない。へたをして、今まで勉強してきたことを全部この中間報告の中に盛り込んでしまおうとすると、濃淡がぐちゃぐちゃに出てきて整理しにくくなってくる恐れがあると思うんで、できれば会長、会長代理におかれては、そのような点も御配慮いただいて、確かに我々としても、特に国民の利用する立場から、今日もいろんな御質問が出てやってきているし、またそこに問題点があるのも事実ですし、同時に片方でまとめなければいかんわけですから、その点もひとつ御配慮いただきたいと思います。
【佐藤会長】次に、まとめ方の問題についてなんですけれども、今おっしゃっていただいたのですが、この点については前回申し上げたように、中間報告では、どういう考え方、どういうアイデアで、どういう構造の建物を作るのか、そして比喩的ですけれども、大きな仕切りを示そうということについては、大体御了承いただいたんではないかと思っております。さはさりながら、具体的にどういう項目を拾い上げて、どういうまとめ方をするのかという問題があります。その点につきまして、今事務局で検討してもらっております。これまでいろいろ御審議いただいてきましたが、例えば「弁護士の在り方」とか、「民事司法の在り方」、「刑事司法の在り方」とかいろいろブロックがありますので、それぞれのブロックでどんな項目を中間報告で拾い上げるべきかということを事務局で検討してもらっております。それら項目を拾い上げてもらって、会長代理と御相談して、その結果を一回しかるべき時期にお示ししたいと思っております。
ただ、やはりおっしゃるように大事なのは総論の部分だと思うんです。総論で全体的な我々の考え方をどうやって示すか。しかし、前回申し上げましたけれども、これまで1年数か月にわたって議論してきて、具体的な姿も少し見えるものでないといけないので、ブロックごとにそれなりに基本的なことについての言及は必要ではないかと思っております。
ですから、どういう項目を拾い上げるか、項目の取り上げ方について、文章化する前に一度御相談申し上げたいと思っております。大体こんなところでやってみたらどうかという御了解を得た上で、文章化を試みる。この作業を進めるにあたって、事務局、それから、これまでレポーターとしていろいろお世話いただいた委員の方に御協力いただかなければなりません。そういうことで御相談しながら進めてまいりますが、文章内容に濃淡が余りあり過ぎると困りますので、そこは最終的には私と会長代理で少し検討させていただきたいと思っています。
【中坊委員】私が申し上げたいのは、非常に具体的な問題になればなるだけ、確かに議論が分かれるところはいっぱいあると思うんです。しかし、議論が分かれたって、そのために本論までが、それは将来議論するとか、我々の手ではもう2年ではできなくて、ほかに任すべきことも多いだろうと思うんです。ところがへたをすると、個別を言うてばかりいるだけで、本論まで、意見が一致していないとかいうことになってしまうと、大きな家の構造自体ができなくて、仕切りの細かいところばかりやっていくうちに、母屋を忘れて、そこまで入り過ぎては。せっかくこの審議会で今まで議論をやっているんだから、我々はやはり求心力を持ってまとめるという、一つの方向へ向かうということで決めていかないと、余り具体的な細かいところに非常にこだわって、議論がそこで分かれたりすると、全体の家の形そのものがはっきりしなくなってくると困るなと思うんで、その点をひとつお願いしたい。
【佐藤会長】その辺は基本的に委員の皆様には御理解いただいているのではないかと思いますので、そういう観点から会長代理とも最終的にいろいろ考えさせていただきます。しかし、その前提として各委員の皆様に是非とも御協力を得ないといけませんので、その点は是非ともよろしくお願い申し上げます。この件はそういうことでよろしゅうございますでしょうか。
では、そういう形で会長代理とも御相談しながら進めさせていただきたいと思います。
最後に配付資料について御説明願えますか。
【事務局長】配付資料一覧表には掲げてございませんが、お手元に「モニター月報(8月号)」という冊子をお配りしておりますが、これには国政モニターの皆様からいただきました司法制度改革に関する御意見が掲載されております。
国政モニター制度は、一般国民から国政に関する意見・要望を聴取し、施策の企画・立案・実施の参考とすることを目的としまして、内閣総理大臣官房広報室が行っているものですが、今回この制度を通じまして、司法制度改革をテーマにした「課題報告」という形で意見を募集し、315名の方々から様々な御意見をちょうだいすることができました。それらはすべて全文または要旨の形で掲載されております。今回の意見募集は、電子メールでの意見募集や地方公聴会、現在進行中のアンケート調査等と並び、広く国民の声をお聞きする貴重な機会の一つですので、今回いただきました御意見を今後の審議の御参考としていただきたいと思います。
ちなみに今までにお配りしました各界要望書等の中にも、国政モニターの皆様からの御意見を入れておりましたが、これらは「随時報告」という形で寄せられた御意見でありまして、内閣総理大臣官房広報室からその都度回送されてきたものであります。それらにつきましても、今後、引き続きお配りする予定であります。
その他の資料については特に説明することはございません。
【佐藤会長】どうもありがとうございました。
次回の審議会ですが、9月18日月曜日でございます。午前9時半から正午まで、この審議室において行います。レポーターの方、また御苦労お掛けしますけれども、よろしくお願いいたします。
記者会見はいかがでしょうか。
【藤田委員】レポーターは出席の義務があるんですか。
【佐藤会長】できれば、よろしくお願いします。
本日はどうもありがとうございました。