配付資料
別添2
「国民の司法参加」について
<はじめに>
「国民の司法参加」は、「改革」の二文字が名称に冠されている本審議会の極めて重要なテーマの一つであり、「改革」の名に値する「国民の司法参加」の実現のための道筋を明確に国民に提起する責任を本審議会は負っている。
日本国憲法が施行されて53年、政治や行政、経済や国民生活にかかわる広範な領域で、たとえその歩みのスピードは遅くとも、国民主権の原理に沿った国民の参加や情報公開、アカウンタビリティー(説明責任)の向上等を追究する努力が続けられているが、検察審査会の委員や司法委員など、極めて限られた範囲で、しかも、検察官や裁判官の判断を拘束しない形でしか関与を認めず、一人司法のみがほとんど「国民の司法参加」を実現できていないのは何故か。このような日本の司法の現況について、司法に直接携わってきた法曹三者や法学者はみずからの責任をどのように認識されているのか多くの国民はこの点を問いただしたいと思っている。
「国民の司法参加」は、民主主義、国民主権を基本的な原理として謳う日本国憲法が必然として要請しているテーマであり、本審議会の議論を通じて司法の各領域で国民の参加レベルを飛躍的に向上させることは、まさに喫緊の課題である。
1.国民の司法参加の意義
(1)「国民の司法参加」が含意するもの
「国民の司法参加」の目的は、裁判所を中心とする司法権を、国民的な基盤の上に据え、そのことによって国民に支持される強力な司法を構築することにある。これまでの日本の司法には、国民に対する統治システムの一環として、また国民の統治客体意識を暗黙の前提にして、制度を構成し運営されてきたきらいがある。しかし、今回の「改革」がめざしているものは、「論点整理」が指摘しているように、司法の分野においても、国民が統治客体意識から脱却し、文字通り統治の主体として21世紀における社会の構築に参加することである。国民が、「自立的でかつ社会的な責任を負った統治主体」として、司法に能動的に参加できるシステムを実現することなくして、司法における国民の統治主体性、国民主権を実現する道は開けない。
確かに、司法と民主主義の間には、本質的には緊張関係がある。司法が国民の基本的人権を擁護する役割を担う以上、個々の裁判の結論が、国民大多数の意向に反した結果になることはあり得ないことではない。その意味では、政治や行政の分野と同次元で国民の参加を議論できない面があるが、司法をシステムとしてみた場合には、司法のあり方が国民の望むところから離れていれば、司法が本来果たすべき重要な役割を担えるはずがない。国民主権を前提にする以上、司法のあり方に国民の意志が反映されるべきであることは当然であり、また国民の支持を得てこそ司法は立法・行政の二権に現実に対抗できる。
「国民の司法参加」が、国民の「パブリック」に関する意識を高め、司法を強化する役割を果たすことを含意していることを強く認識しておかなければならない。
なお、最高裁判所の2000年9月12日付のペーパーが、「裁判は多数の者の利害や感覚によって左右されるべきものではなく、論理と証拠に基づいた理性的かつ合理的な判断でなければならない」、と述べているのは、自分たち職業裁判官のみが合理的な判断をなし得るとの前提に立つもののように思われるが、そうであるならば、国民の意識や能力を不当に低く評価し、裁判を国民の手の届かないところに置こうとするものであり、国民はこのような最高裁の捉え方について、どんな思いを抱くのだろうか。
(2) 専門家としての法曹の意識改革-わかりやすい裁判の必要性
国民が裁判に参加し、一定の役割を担うことは、必然的にこれまでの裁判手続き、すなわち専門家による手続きと、専門家の意識・役割の抜本的な改革を要請する。裁判において国民が一定の役割を果たすためには、訴訟手続きは、十分に準備がなされ、争点が明確な口頭による、わかりやすい裁判を保障するものでなければならない。このことは、単に裁判に参加する国民代表に限らず、国民全体にわかりやすい裁判が実現することを意味する。しかもこのような裁判は、本来我が国の憲法や訴訟法(特に刑事訴訟法)が目指していたものであろう。これまで法律専門家である法曹は、法的事項、法的紛争のすべてについて、その手続きと判断をほぼ独占してきた。資格を与えられた法曹は、国民のためにその職務を果たしてきたとはいえ、その専門性のゆえに国民に対して優位に立ち、裁判手続きを独占してきた。そのことがこれまでの我が国の裁判を、国民の目からは非常にわかりづらいものにしていたことは、疑いがないであろう。
国民が司法に参加することは、法曹の役割を抜本的に改革する。法曹は、裁判に参加する国民が、公正に対応できるよう十分で公平な情報を、わかりやすく与えなければならない。法曹は、真に国民のための法曹として、そのアカウンタビリティー(説明責任)を求められるのである。つまり法曹は、国民が司法へ参加することによって、「裁判の主体」から「国民の援助者」=「国民の社会生活上の医師」へと、必然的に意識改革を迫られる。
(3)「国民の司法参加」と歴史の軛
一国の司法制度は、その国の歴史、社会、文化、国民性等から超然として存在することはできないであろう。しかし、この点を過度に強調することは、「改革」を消極的に捉え、その先送りをはかることの免罪符になりかねない。日本において、「国民の司法参加」が進展してこなかった背景には、この過度に歴史や社会、文化、国民性等の認識論にこだわってきた専門家群の存在があったと断言してよいだろう。
ところで、周知のとおり、我が国には1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)まで、刑事事件について陪審制度が導入され、実施されていた。導入の理由として政府が説明していた点は2点ある。一つは政治的理由であり、明治憲法実施以来30年を経過し、「民意に聴いて国政を行はうとする傾向が著しくなった時代に、独り司法に関してばかり依然として国民の参与を認めないのは時勢の進運に伴はない嫌いがある」、という理由である(司法省刑事局「陪審制度の話」1926年)。もう一つは司法上の理由であり、「適当の範囲で裁判官でない素人の人々を国民の中から選んで裁判手続きに参与させ其の判断を加味したならば我が国の刑事裁判に対する信頼が厚くなるであろうし、又陪審制度を実施すれば国民は自然裁判所に親しみ、法律思想が養われると同時に裁判に関する理解も出来、従来稀にはあった誤解や疑念も一掃され、ますます裁判の威信を高めることができるであろう」(同)という理由であった。
我が国の陪審制度はまことに不幸な時代に産声を上げた。制度そのものにも重大な欠陥(例えば、事実誤認を理由とする上訴はできない、陪審員の答申が気に入らなければ裁判官は何度でも裁判のやり直しを命じられた、請求して陪審裁判になり有罪になると裁判費用の負担を命じられた等)があった。しかしそのような制限の中でも、法律家が高い評価を与えるほど、機能していたという(日弁連ヒアリング資料11)。しかし全体主義の台頭と、法律家が制度利用を避けようとする傾向もあり、決定的には戦火の激化を理由に、陪審法は1943年(昭和18年)その施行が停止された。しかし法律は、戦争終了後に再施行を求めており(陪審法の停止に関する法律、附則第3項)、終戦後の司法改革では政府も陪審制度の復活に努力したい旨答弁していた(日弁連ヒアリング資料13)。
何故、陪審法が復活されず停止されたまま今日に至っているのか、その理由としていくつかの点が指摘されているが、一つには当時の連合国総司令部の思惑と公職追放を免れた裁判官の消極性、二つには陪審法の不備に触れることなく制度の運用の表面的実績についてのみ目をむけた結果、陪審制度について極めて低い評価を司法関係者が与えてしまったこと、三つには前述した文化や国民性論による反対、などが主な理由とされている。(中原精一「陪審制復活の条件」現代人文社64~67ページ)
わが国における「国民の司法参加」は、その歴史的経緯のなかで、陪審制度を棚の上に上げ、ほとんど顧みることもないまま放置されてきた。遅きに失しはしたが、今まさに陪審法を復活(もちろん日本国憲法の理念に沿った改正が必要である)させるなど、各般にわたって「国民の司法参加」のレベルを向上させるときが到来している。
(4)国際的趨勢である「国民の司法参加」
民主主義の国際的普遍化に伴い、司法への国民参加は国際的趨勢になっているといってよいであろう。民主主義国において司法への国民参加を認めていない国は極めて少数であって、民主主義国を標榜するわが国が、司法をその例外としていることは、国際的には極めて異常なことと言わなければならない。
2.何故今、「国民の司法参加」が議論されるに至ったのか
わが国には、広範な国民が司法に参加するしくみはほとんどない。前項で述べた点と重複する面も多いが、何故今、「国民の司法参加」の議論が強く求められているのか、簡単に触れておきたい。
(1)裁判の現状に対する国民の批判
「国民の司法参加」が議論されるに至った理由としては、第一に、現在の司法のあり方に対する、国民からの批判がある。
これまでの司法、特に裁判所は、外部からの批判を司法の独立に対する干渉、雑音であると捉え、それを無視してきた。その結果、裁判所に対する国民の信頼はゆらいでいる。例えば、国会議員の過度の定数不均衡を合憲と判断することに見られるような憲法裁判における著しい消極性、著しく低い令状却下率に見られる捜査機関の監視への熱意のなさ、タクシー運転手を「雲助」呼ばわりしたことに見られるような社会性の欠如、犯罪被害者への配慮の乏しさに見られる人間的温かみの不足、裁判所の運営等の不透明さなど、一般の国民の目から見て、看過できない問題点は、最近も少なくない。
およそ、司法は、国民の信頼と支持なしには独立を守ることが困難であるにもかかわらず、裁判所は、国民に対して超然とし、国民と同じ目線で物事を考えることをしてこなかったという批判がある。「国民の司法参加」には、国民を統治の主体として認識しつつ、国民の付託に応える司法・裁判を構築し、あわせて裁判所・裁判官への国民の信頼を高め、司法の独立を補強するという目的があるのである。
(2)司法の役割の増大
第二に今回の司法改革の中で、より重要であるのは、予想される司法の役割の増大に対応して、司法、特に裁判所に、民主主義的な要素をより多く注入する必要があることである。
すなわち司法改革は、裁判所が、将来、より多くの紛争を処理し、行政に代わって、様々な分野で国民生活・企業活動を規律するルールを形成する役割を担うことを予定している。そうであれば、司法が本質的に非民主的な存在であるとはいっても、裁判所による判断の正当性・国民の納得性を担保するために、裁判所は、国民の意思との連携をより強化する必要がある。換言すれば、国民は、国民の意思と無関係に存在する裁判所に、より重要な役割を果たさせることを躊躇するであろうし、逆に、裁判所も、国民の意思によって支えられていることを実感できなければ、行政・立法に対して思い切った判断を下すことはできないであろう。現在の裁判所が他の二権に対して消極的であるのも、国民に支持されていない結果であるかもしれない。
現行制度においても、調停委員や司法委員をはじめとしていくつかの国民参加の制度が認められている。しかしそれらは、論点整理も認めるように、いずれも司法の周辺業務に過ぎず、司法の中核である裁判手続への国民の参加は、まったく不十分である。
(3)「国民の司法参加」の様々な側面
「国民の司法参加」を議論する際に注意すべきことは、国民参加は、司法の様々な側面について考えられなければならないことである。従来、「国民の司法参加」を論じる場合、それを陪審・参審制度の導入を中心に議論することが少なくなかった。例えば、法務省の2000年9月12日付ペーパーは、陪審・参審制度イコール国民参加という前提で作成されている。しかし、国民参加の場面をそのように限定して理解することは妥当ではない。陪審・参審制度が、国民参加の一形態であることは当然である。しかし、仮に陪審・参審制度が導入されたとしても、それらが、すべての訴訟事件に適用されることにはならないであろう。その場合、それ以外の司法権の行使は、現在のままでよいということになるのであろうか。国民参加が、国民の意向を反映し、国民の意思に支えられた司法を構想する以上、刑事・民事を問わず司法のあらゆる分野について、可能な限り、国民参加の可能性が検討されなければならない。具体的には、陪審制度に加え、特定の司法分野における参審制度や裁判官の選任過程・選任後の評価と人事・裁判所の運営などが検討対象となる。
3.訴訟手続への国民参加
(1)陪審制度が最も望ましい
国民主権、法曹の意識改革、歴史的視点などから判断し、陪審制度が最も望ましい参加の形態といえるだろう。その理由は、以下の点などである。
①国民主権、すなわち統治主体意識の覚醒のためには、国民自身が主導権を持って決定できることが必要であって、その意味では事実認定について陪審員だけで評議し評決する陪審制度こそ、国民の自立と責任を醸成することに相応しい制度である。参審制度は、国民参加の今一つの形態ではあるが、主導権は裁判官が持つ制度であって、陪審制度とは理念を異にすると考える。
②法曹の意識改革の観点からも陪審制度が望ましいであろう。なぜなら、事実認定に関する判断権が国民に、そして国民だけに帰属する陪審制度では、法曹はその国民を対象にした訴訟活動に集中しなければならない。それゆえにこそ、法曹の意識が不可避的に改革されるのである。これに対して参審制度では、裁判官という法曹が主導権を持つ重要な判断者として存在するのであり、検事・弁護人の訴訟活動の対象が、国民だけではなく、裁判官にも向けられることは避けられない。これでは従来の訴訟活動を踏襲することになり兼ねず、意識改革も抜本的なものとはなり得ない恐れがある。
③歴史的な視点から見たとき、日本の陪審制度は、憲法論との葛藤もあり、難しく混乱した時代状況の中で不幸な歴史を歩んだが、陪審制度の本質が「主権者である国民による国民のための裁判」にあることを考えれば、日本国憲法の基本的理念に照らしても問題はないと思われる。
(2) 陪審制度に関する検討課題
陪審制度に関する検討課題についてはつぎのように考える。
<陪審制度に関する検討課題>
陪審制度が参加形態としては望ましいとしても、検討しておくべきいくつかの課題がある。しかしここで強調しておきたいことは、陪審制度の導入を論じる場合、最も重要なことは、その基本理念であるということである。一つの新しい社会制度の導入を議論するのであるから、検討すべき様々な技術的な問題点は当然生じるであろう。しかし、技術的な検討ももちろん必要であるが、その技術的な隘路に分け入っていくことは、基本理念を見失う危険、木を見て森を見ない危険があることを敢えて警告したい。そのような技術的問題点こそ、法曹が力を合わせて国民のために解決すべき課題であって、本審議会においては法曹への課題として認識することは必要であるとしても、具体的かつ詳細な議論は本審議会の打ち出した方向性を踏まえ別途行うべきである。これまでのわが国における陪審論議を振り返るとき、そうした懸念を抱かざるを得ないので一言しておきたい。
1 憲法論について
陪審制度は日本国憲法に違反するとの見解もある。
(1)憲法第32条、あるいは憲法第76条3項が陪審制度違憲論の論拠とされることがあるが、まず憲法の依って立つ根本精神に遡って考える必要がある。先に引用したように、憲法前文は、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである」とのべている。わが国の憲法が、徹底した国民主権主義を採用していることは争いがないところであって、司法権も「国民の代表者」によって行使されることは当然憲法の予定するところと考えるのが自然であろう。司法権の内容や担い手も、この憲法の精神に従って考えられるべきであって、旧憲法はもとより、旧憲法体制から引きずっている。裁判官だけがすべての職責を担ってきたとの慣行・意識から開放されて検討を行うべきである。
日本国憲法の精神によれば、司法権の内容のうち、事実認定と法律問題・手続問題とに分け、前者の担い手を国民代表者、後者の担い手を裁判官とすることは憲法が容認するところであろう。憲法の条文の字句解釈も重要であろうが、まずその根本精神に立ち戻って考えることが重要であろう。
(2)条文の解釈としても、憲法第32条は、「裁判所において裁判を受ける権利」と規定しており、旧憲法のように「裁判官による裁判」とは規定していないから、陪審の評決に裁判官が拘束される陪審制度であっても同条には反しないであろう。また憲法第76条3項は、「裁判官は、良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定しているが、前述したように、国民と裁判官の職責を分担して、事実認定は国民が、法律問題・手続問題は裁判官の職掌とし、裁判官が担当する職権については、当然に独立して行使するのであるから、問題はないと考える。
(3)また終戦後の司法改革において陪審復活が議論された際にも、政府は「憲法直接規定せざるも新憲法の下に大体アメリカ式の陪審制度が実施せらるるものと思う」、「陪審の実現には努力したい」と述べていたことも重要であろう(日弁連ヒアリング資料13)
2 国民の負担について
陪審制度の導入は確かに国民に今までにはない負担(コスト)を負わせるものであることは疑いない。国民の観点からは、問題はコストの有無ではなく、コストが不当なものか否かではあるまいか。国民はこれまでにも様々なコストを請け負ってきた。そのコストの多くはそれを上回る利益(ベネフィット)が同時に伴っているからこそ、国民に担われているものであって、国民の視点からは、その点がコストの不当か否かの基準となるであろう。従って陪審員となることに、コストを上回るベネフィットがあるかどうかが問われるべきである。その点、日弁連が行った検察審査会審査員経験者へのアンケート(日弁連ヒアリング資料5)はまことに興味深い。検察審査会委員もまた無作為に選ばれ、公的な職務を担当する点において、陪審制度と共通する。アンケートによれば、審査会の仕事をするために70%が自己の仕事を休んだにもかかわらず、98%が審査員経験を良かったと答え、陪審制度の導入には77%が賛成している。そして、72%が陪審員の負担についても国民の理解が得られると回答している。これは審査員の経験がコストを上回るベネフィットがあることを示しているものであろう。ここでのベネフィットはもちろん日当などではなく、公的事柄に対する能動的参加によって公共意識が醸成されたことにあるであろう。
国民の負担について重要なことは、陪審員任務の内容と重要性を広く国民に知らせて、理解してもらうことであって、いたずらに不安を煽ることではない。また国民の負担の軽減に法律専門家の努力も不可欠であることは言うまでもない。この点からも法曹の意識改革が促されよう。
3 陪審評決に理由がないことについて
この点に限らず、陪審裁判の問題点を議論する場合に重要な視点は、「陪審裁判によってもたらされるもの」と、「陪審裁判によって失うもの」とを慎重に比較して判断することであろう。
確かに陪審評決には理由は書かれない。これは陪審裁判によって失うものの一つである。しかし、では陪審裁判では有罪や無罪の理由がまったくわからなくなるかといえば、そうではないであろう。陪審裁判では、国民が判断者であるために、当事者の主張と証拠が国民に分かりやすい形で法廷に提示されるであろう。刑事事件について言えば、検察官が何故被告人は有罪と考えているのか、弁護人は何故被告人を無罪と考えているのかが、具体的に合理的に陪審員に示される。つまりいわゆる当事者主義と口頭主義が徹底するであろう。その結果、裁判が国民にもわかりやすくなる。また、陪審員の評議の内容ももちろんわからないのであるが、それば裁判官の合議についても同様で(合議の内容と判決書とは同一ではあるまい)、むしろ同じ国民である陪審員の判断に委ねる陪審裁判を選択するということは陪審員の評議結果に全てを委ねるということであろう。さらに陪審裁判の手続きは、全て逐語的に記録されるということなので、上訴する場合にも不都合はないといわれているようである。これに対して現在の裁判は書面が中心であるから、裁判はわかりにくいが、判断については裁判官が理由を書いて説明するのである。このように比較して考えると、陪審裁判は、評決に理由がない代わりにわかりやすい裁判等が実現するのであって書かれた理由がないことは、必ずしもこの制度にとって致命的とはいえないのではあるまいか。また陪審裁判を強制しない、つまり裁判官による裁判との選択性とするのであれば、書かれた理由が必要であると考える当事者は裁判官による裁判を選択することもでき、問題はないように思う。
4 上訴について
陪審裁判の評決に対しては事実認定については上訴が認められないともいわれている(最高裁意見書6ページ、法務省意見書8ページ)。少なくとも法律問題についての上訴は認められる制度が多いようであるので、上訴を認めることは問題はないであろう。どのような上訴制度を認めるべきか、専門家による工夫に期待したい。
5 誤判について
最高裁は外国において陪審裁判による誤判が多いとするが(最高裁意見書4ページ以下)、ここでも重要なことは、法律専門家は、国民に対していたずらに不安を煽るのではなく、諸外国における陪審裁判による誤判の原因を正確に国民に示すとともに、わが国で導入する場合に誤判が起こりにくくする工夫にはどんなものが考えられるかを協力して示すことであろう。わが国では誤判事件が起こったときに、専門家による原因究明が必ずしも十分とはいえないのではあるまいか。
6 法曹の責任
その他にも様々な技術的問題点が指摘されている(例えば弁護士の職務体制、実体法・手続法の改正など)。繰り返すが、それら技術的問題点は、陪審制度の基本理念に従って、法律専門家が協力して解決すべき問題であって、法律専門家にとって大変だから導入できない、などということが決してあってはならない。制度の理念を技術の陰に追いやってはならないのである。
7 導入のイメージ
陪審制度をわが国社会にどのように導入して行くべきであろうか。導入の現実性を考えれば、まず導入しやすい法分野から導入し、国民の理解と支持を醸成していくことが肝要であろう。そして、前述のとおり、わが国はかつて刑事陪審制度を経験していること、わが国の陪審制度は、現在停止された状態にあり、法は復活を命じていること、国民と政府が対立する場面は刑事裁判における否認事件であること、等を考えれば、まず刑事事件の否認事件に復活導入することが最も現実的であろう。もっとも、すべての否認事件にまで広げるかどうかは議論の余地があるであろう。なお、停止中の陪審法を復活するとしても、旧憲法下・旧刑事訴訟法下での法律であるから、現在の憲法・刑事訴訟法との整合性を吟味する必要があることはもちろんで、この点も法律専門家による、国民の視点に立った調整が必要である。
なお、行政事件や労働事件などについても事件によっては一部に陪審制度を導入することも考えられる。
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(3)参審制度は事件の分野によって採用すべき
参審制度は陪審制度の導入されない分野の事件について必要性を吟味して採用すべきである。
①参審制度の意義と類型
参審制度は、裁判官と一定数の国民がともに、事実問題だけでなく、法律問題をも審理判断する裁判制度である。一般人が参加する一般参審制度と、社会の専門家が参加する専門参審制度の二種類があるといわれている。後者も参審制度と呼ばれることから、司法への国民参加の一類型として、陪審制度や一般参審制度とともに論じられることが多いが、前述したとおり、陪審制度と参審制度の理念が異なるばかりでなく(繰り返すと、主導権を国民が持つか、裁判官が持つか)、一般参審制度と専門参審制度もその理念が異なることに注意すべきであろう。一般参審制度は、市民の感覚を裁判に反映させることを目的としているのに対し、専門参審制度は、社会の専門家の専門知識を裁判に与えることを目的としている。
専門参審制度について注意しなければならない点は、(ア)専門参審制度の目的から見れば、この制度は広い意味での国民の司法参加制度とは言えない、従って、この制度の導入によって国民の司法参加が実現したとすることはできないこと、(イ)専門家を公正、公平に参与させることに留意しなければ、裁判の公正さが疑われること、であろう。
②参審制度が考慮される事件分野の例
上記の点に留意すると、専門知識や経験を、構成・公平に活用できる事件分野としては、例えば労働事件において、労働者団体の代表と使用者団体の代表が、裁判官とともに裁判する形態が考えられるであろう。しかしこれらの事件であっても、事実問題に争いがあり、その確定が社会通念によるのが相当であるものについては、陪審制が相応しいであろう。
③最高裁が考える参審制度の問題点
裁判それ自体への国民参加を検討する際に、まず明確にしなければならないことは、国民の判断と比較して、法律専門家である裁判官の判断が優れていると言えるのか否かという問いである。陪審制度にせよ参審制度にせよ、この問いに対する答え如何によって、とるべき道は自ずから決まってくるからである。
さて、最高裁のペーパーは、裁判官は、国民一般よりも優れた判断ができるということを前提としているように思われる。再度の引用になるが、ペーパーには「裁判は多数のものの利害や感覚によって左右されるべきものではなく、論理と証拠に基づいた理性的かつ合理的な判断でなければならない」と書かれており、ここには、国民にはそのような判断はできないという趣旨が含まれていよう。
しかしながら、そのような前提に立つことはできないはずである。裁判官も法律以外のことには、むしろ国民以上に素人であるからである。例えば、裁判官には、理性的に判断を下す能力が備わっているのだろうか。そのような能力は、どこでも明確には確認されてはいない。他方、国民は、感情に流されて、理性的な判断ができないのであろうか。そうであるなら、そのような国民に統治主体としての役割を担わせようという改革の理念自体が疑問視されることになる。国民が、裁判官より優れた判断を下せることを証明することは容易ではないが、他方で、裁判官が国民より優れた判断を下せる証拠も提出は困難であろう。
そうであれば、豊富な社会経験と柔軟な社会常識という、裁判官にはない長所を持つ国民を、司法判断それ自体に参加させることの意義を否定することはできないはずである。
最高裁の考える参審制度は、参審員の意見は求めるが評決には参加させないとする案であり、その理由の一つとして憲法との関係をあげている。
参審制度と憲法の関係についても、陪審制度の項で述べたのと同様な理由で日本国憲法の基本理念等を勘案すれば問題はないと考えるのが自然である。然るに、最高裁は裁判官会議の議を経て、憲法解釈論を理由に参審員は評決に参加させないという参審制度を提出した。
こうした最高裁の考え方は、「国民の司法参加」を極力排し、結局は裁判官による裁判しか認めないという「国民の参加」を軽視する発想に立つものだという批判を浴びることになろう。
加えて、具体的な事案の審理として議論された訳でもないのに、また合憲説もあるにもかかわらず、最高裁が陪・参審制度について憲法判断をこのような形で示すことは、最高裁ペーパーが「第一次的には立法機関において」と断っているものの、ある意味で立法権の侵害ともいえ、この点についても、どのように国民に説明するのか、説明責任が問われるだろう。日ごろ、具体的な事件においてすら、違憲判決を下すことに極めて慎重な最高裁の姿勢からすれば、このような一般的抽象的課題について違憲論を展開することは異例であるというべきである。
(4)専門参審制度
専門参審は、医療過誤・建築紛争・知的財産権などの領域について実施し、専門的知識・経験を有するもの(例えば、医師・建築家)を参審員として裁判体に加えることが議論されている。しかし、これらの領域に、そのような参審制を導入することには、必ずしも賛成できない。それは、当該分野の専門家の行う専門判断と裁判所の行うべき法的判断の関係が不明確となり、両者が混同される恐れがあるからである。すなわち、専門家の判断と法的な判断は、相互に密接に関係するとはいいながら、理論的には本来別個の判断である。したがって、専門家の判断が仮にAであるとしても、法的判断としては、それとは異なるBという結論に至ることは当然にあり得ることである。然るに、専門家を参審員として裁判体に加えた場合には、専門家の判断が、自動的に法的判断とされかねないおそれがある。そのような事態が生ずれば、司法独自の役割を放棄したことになろう。これらの事件における専門的知見の補充は、鑑定制度などの様に裁判体の外部からなされることが適当であり、仮に専門参審制度を入れるとしても、この懸念への対応策等を充分組みいれたものにしなければならない。
これに対して労働事件に対する参審制については、上記の専門参審とは同視できない。この場合には、専門家知見というより、社会内に存在する対立した利益を代表するものの見解を、裁判に反映させることが目的であり、十分な合理性があるというべきである。
4.裁判官の選任・人事
(1) 裁判官の選任過程への参加
裁判官選任・任用への国民参加を検討する時、まず検討しなければならないのは、どのような人が裁判官に適当であるのかを、国民は判断できるのか否かという問いである。裁判官としての適格性は、その専門性の高さゆえに、裁判官によってのみ判断が可能であるとの見解があるかもしれない。最高裁の国民参加に対する意見は、そのような前提にたっているように思われる。しかし、そのような考え方は、司法が国民のために存在することを看過しており、妥当ではない。
その理由は、第一に、国民主権を前提とする限り、裁判官と言えども、その正統性の根拠は、最終的には国民の意思に求めるしかなく、国民が判断できないという前提に立つことはできない。第二に、実質的にも、国民は、司法の利用者として、自ら裁判官に対する具体的な期待を持っている。そのような期待に照らして、裁判官の資質・能力を審査し、裁判官としての適否を判断することは可能である。第三に、仮に、国民に裁判官の適格性を判断できる能力がないのであれば、最高裁裁判官の国民審査制度を設けた趣旨と矛盾することになってしまう。
先般行われた夏の集中審議の議論においても、国民の信頼に値する裁判官の任命に対する何らかの工夫の必要性や、高い質の裁判官を確保し独立性をもって司法権を行使させるためのさまざまな方策の構築という内容の合意がなされており、これらの工夫や方策についての具体的な検討に当たっては「国民参加」という視点が不可欠であり、裁判官選任過程への国民の参加こそが裁判官に国民的基盤を与えることになる。この2つの要請を調和するためには、各国ではメリット・プラン、裁判官任用過程への第三者の参加、公選制などの形態がとられている。
日本では、裁判官は内閣が任命することになっており(下級裁判所裁判官は最高裁の指名した者の名簿による)、その点で国民的基盤を与えようとしている。しかし、内閣が裁量権を行使することはなかったと思われ、実質的に最高裁判所自体が裁判官を選任している状況にある。(行政官からの最高裁判事任命を除く)。これでは、裁判官選任についての国民的基盤が極めて弱い。しかも、適任か否かも国民の声を聞くことなく最高裁が一存で判断しており、どこまで客観的に評価できているかも不明である。
このように、裁判官選任についての権限が最高裁に実質上集中しており、その過程が国民に不透明なようでは、国民の裁判官に対する関心や信頼は高まらない。その過程に国民が参加することにより、国民的基盤を与えかつ客観的評価を担保することになるのである。国民は、自ら裁判官として適当であると考えた者によって裁かれる権利を持つのであり、この権利は、単に形式に止まらず、実質化されねばならない。
①下級審裁判所裁判官の選任過程
現行制度では、裁判官は内閣が任命することになっており、下級裁判所裁判官は最高裁の指名した者の名簿によって任命されている。しかし、前述した通り内閣が裁量権を行使することはなかったと思われ、現実には、最高裁事務総局による評価にしたがって、裁判官(判事補及び弁護士任官者)が採用されている。そして、その選考基準は本審議会に対しても明らかにされておらず、選考過程の密室性とも相まって、だれがどのように裁判官として選ばれているかは、不透明であると言わざるを得ない。選任は、実質的に国民の意思とは無関係に行われているのが現状である。
具体的な対応策としては、裁判官とともに裁判官以外の法律家(弁護士・検察官)・様々な国民代表(市民代表・研究者・ジャーナリストなど)を構成員とする裁判官選考委員会を組織し、選考基準の策定とともに、選考過程を担当させるべきである。
このような制度は、既に諸外国に例があり、ヨーロッパ諸国では、裁判官以外の者が選考に関与することはまれではない。例えば、オランダでは、司法官の選考を担当する委員会には、司法官(裁判官・検察官)の他に、弁護士・公務員・市民などが加わり、候補者との面接を行うとともに、適否の決定のための審議を行うなど選考の過程に深く関与している。また、ベルギーでも、司法が国民の利益のために機能しているかを監督するために、昨年設立された高等司法評議会には、裁判官・検察官である司法官のほかに、大学教授・弁護士・市民代表が加わり、さらにその下に置かれた司法官任命委員会にも、裁判官・弁護士の他にジャーナリストが加わる。このように多くの国で、裁判官の選任には、国民の意思が反映するシステムを採用しているのである。
②最高裁裁判官の選任過程
最高裁裁判官の現在の出身構成比は、裁判官6、弁護士4、検察官2、行政官2、学者1となっている。官の出身者が10名と3分の2を占めており、最高裁判所創設当時の裁判官5、弁護士5、学識経験者5(検察官出身1)に比較すると官出身者の比重が高くなっている。これでは、ただでさえ届きにくい国民の声が、更に届かなくなる危険性が増加する。昨今の国民の権利に関係する最高裁判決で、官出身者と民出身者によって意見が分かれるケースも多く、現在の選任方法では国民の納得や支持を得ることができないのではないかと危惧する声もある。
そもそも、最高裁裁判官は識見の高い法律の素養のある年齢40年以上の者の中から任命する(裁判所法41条)と定められているだけであり、その該当する者の中から最も憲法の番人にふさわしい適任者を選ぶことが重要である。
最高裁裁判官の選任過程の現状も、下級審裁判官と同様不透明であり、国民の意見が反映されていない。最高裁長官以外の裁判官は、内閣が任命することになっているが、実際には内閣が影響力を行使する例は見られず、国民的基盤は弱い。
最高裁には、この国のあり方を決める大きな権限が与えられており、最高裁裁判官の任命は、本来国民的な関心事項である。そうであれば、その選任過程は、国民から見て透明性の高いものでなければならず、特に国民は、どのような意見を持っている者が、最高裁裁判官に選任されるのかを、候補者段階で知る権利がある。
したがって、下級審裁判官の場合と同様に、国民代表の参加を得た選考委員会を組織し、慎重な選考が行われるべきである。そして、その経過は、適宜国民に対して公開されるべきである。
(2) 最高裁裁判官の国民審査制度
最高裁裁判官については、国民審査制度という国民が参加する特別の制度が実施されており、この制度は、裁判官に対する解職制度であるが、事後的評価制度という側面もあると思われる。しかし、現行の国民審査制度が形骸化し、実質的な審査のシステムとして機能していないことは、従来より広く指摘されているところである。国民審査に対する国民の関心が低いことは、国民を統治主体とする今回の改革の趣旨からは、憂慮すべきことであり、制度を活性化するための改革が必要である。
具体的には、国民審査が実質化されるよう個々の最高裁裁判官についての十分な情報提供を行う方策を講ずるとともに、×印の無記載票を信任扱いすることを改めるべきである。
(3) 裁判官の人事評価への国民参加
国民参加は、裁判官選任の段階で終了するわけではない。選任の段階で候補者の適否について参加させることが可能である以上、選任後の裁判官人事について、司法の利用者である国民の意思を反映させないことを正当化することは、原理的には困難である。裁判官の評価は、同僚の裁判官によって最も良くなされるとの見解があるかもしれない。最高裁のペーパーは、そのような前提に立つようにも思われる。しかしながら、現状を肯定するかのごとき見解は妥当ではない。
その理由は、第一に、現状の評価システムの著しい不透明性である。現時点でも、裁判官による裁判官評価が行われているはずである。しかし、最高裁は、本審議会に対しても裁判官評価のルール、手続き等の全容を明らかにしておらず、どのような基準と手続きによって評価が行われているかは、いまだ不透明のままである。「裁判官の独立性に対する国民の信頼感を高める観点から、裁判官の人事制度に透明性や客観性を付与する何らかの工夫をおこなう」との夏の集中審議における合意がなされたのは、まさにこのような現状の問題性を認識したからに他にならない。そして、第二に、司法を利用した国民、また日常的に裁判官と接する弁護士・検察官は、具体的に個々の裁判官を最も良く評価しうる立場にある。これらの意見を評価から排除して、裁判官内部、特に上級の裁判官による下級裁判官の評価のみに依拠することは、裁判官の独立を侵す危険を生じるとともに、利用者である国民のための司法改革という基本理念に反するものである。
もっとも国民参加の具体的な形態は、裁判官人事制度自体の今後の方向性と密接に関連する。例えば、最高裁事務総局による一元的な人事管理が改革され、人事が、例えば多様な給源から選任された裁判官に対して、高裁単位で分権的に行われ、さらに裁判官の異動が、上からの事実上の命令ではなく、本人の空きポストへの応募に基づいて行われることになれば(したがって、現在のように数年毎に裁判官が必ず異動する制度は廃止される)、その応募を審査する場に、選任の場合と同様に、国民代表を参加させることが考えられる。また仮に、現在のような一元的人事管理が存続する場合にも、少なくとも人事評価の基準の策定に国民の意思を反映させることは当然であり、また人事への異議申立てを審査する機関に、国民代表を加えることも考えるべきである。
このように、裁判官評価への国民参加は、裁判官人事制度のあり方が決定された後に、再度具体的に検討すべき課題であろう。裁判官の人事に国民が参加することは裁判官の独立をよりよく保障する手段でもある。
5.裁判所運営への国民参加
(1) 裁判所の機構改革
現在の裁判所は、司法権の直接行使である裁判以外の部分でも多くの問題があると言われている。
裁判所の管理運営は、全て最高裁事務総局に一元的かつ中央集権的にその権能が委ねられる形になっており、分権的な運営や民主的な運営(例えば各所における裁判官会議の在り方)を求める声は、裁判所内部においてもあると伝えられている。
このような裁判所の管理運営に関する内外の声を体し、裁判所の機構と運営の在り方について、国民の参加を得ながら検討する必要がある。
(2) 利用者の視点に立った改革
諸外国では、裁判所が地域のシンボルになっているところも多い。裁判自体が身近で利用しやすい存在になることは当然として、裁判所運営に国民が参加することにより裁判所全体が国民のニーズに充分に応えかつ地域の司法に責任をもつ存在になっていけるのである。
日本の裁判所は、多くの制約や不便を利用者に強いている面もあり、国民にとっては遠くかつ暗いイメージになっている。例えば、法廷内における各種の制限、禁止事項のなかには、その合理性に疑問を抱かせるものがあったり、また、設備的にも託児所がないなど改善を要する点もある。
こうした状況を改善していくために、裁判所の設置場所・規模・設備・運営方法等について、国民の声を聴取し反映する必要がある。具体的には、裁判所毎に運営改善に関して国民の参加する委員会を設けるなどが考えられるだろう。
なお、裁判自体の進め方などについても、利用者である国民や弁護士等の声を聴き、改善をはかっていくことが重要な課題である。
6.法務省・検察庁と「国民の司法参加」
「国民の司法参加」は、主として裁判所及び裁判に関する課題が中心であるが、刑事事件については、捜査、訴追する検察庁や刑務所、保護観察などを所管する法務省についても、国民参加の視点で改善を要する点があるはずである。
7.現行司法参加制度の改革
(1) 調停制度、司法委員制度、参与員制度
これら三つの制度は、それぞれ委員になられている方々の努力により、相当の成果をあげている、と評価されている。
しかし、それぞれの制度が課題を内包しているとの指摘もあり、その改善の努力が要請されている。改善の努力をおこなうにあたってのスタンスとしては、①現行制度にはどんな問題点があるのか、例えば調停の場の堅苦しさや格式ばっていると受け止められる雰囲気などについても看過せず改善するんだとの強い意識を持つこと、②裁判外の紛争解決に国民が力を尽くすことが国民の利益につながる、という観点から改善策を論ずること、の2点をあげておきたい。
なお、ADRについては、別途議論がされるとのことであるが、仲裁に関する法律(1998年の新民事訴訟法施行に伴い旧法第8編は切り離され独立法として改正する方向で検討中)はADRの普及拡大に資するという観点に立ち、準司法手続きも含めたADRへの国民参加といった趣旨を是非書き込んでおくべきである。
ADR自体は、まだ発展途上にあり、国民の利用も裁判に比べて少ないものも多いが、国民の統治主体意識が司法参加を通じて高まれば、ADRへの国民の参加・参画も拡がり逐次国民の間に浸透していくはずである。
(2) 検察審査会制度
検察審査会は、検察官に訴追権限が集中し、あわせて広範な裁量権を認めている事に対置して訴追チェックの機能を担っている。しかし、審査会における議決に対して法的拘束力を付与されておらず、充分なチェック機能が果たせていないのではないかという強い指摘がある。議決への法的拘束力を付与すべきである。
なお、検察審査会の役割には、訴追チェックに加えて、検察事務の改善に関し、検事正に建議又は勧告するという役割があるが、この役割が具体的に、どのように果たされているのか、吟味を加え、有効にその役割が果たされていないとすれば、その改善のための方策を早急に検討すべきである。
(3) 保護司制度
保護司の方々の日常のご苦労は札幌保護観察所を視察させていただいた時に実感した。保護司の方々の高齢化の問題や研修制度の充実などの課題にどう取り組んでいくのか関係者の一層の努力を期待したい。
<おわりに>
率直に申し上げて、これまでの司法、とくに裁判所は、自らを統治機関の一環として認識し、国民は「統治の客体」として対応してこられたのではないだろうか。諸外国に見られるような様々な国民参加の制度が採用されず、また、最高裁判事の国民審査などの現行の参加制度が機能してこなかったことについても、もし裁判所が、そのように国民を認識していたのではあれば、当然のことであろう。また、陪審制度などの国民参加に、現在も必ずしも積極的ではないことも、国民とどのように向き合ってきたか、という国民観に関わってくるだろう。しかし、そのような認識は、国民を統治主体として公的事項に能動的に参加させるという司法改革の基本理念の対極に位置するものである。現在の司法改革で問われていることは、来るべき21世紀の日本社会の要請に応え得るよう、司法を国民的な基盤に据えて強化することである。そのために、可能な限り国民参加が必要なこと自体は、何人も否定できないのではなかろうか。
「国民の司法参加」の課題が問うているのは、根元的には、国民に対峙する司法か、それとも国民に支持される司法かの選択であることが認識されねばならない。
今回の司法改革における国民参加論は、あくまでも、国民主権(統治主体意識の回復)、専門家としての法曹の意識改革(分かりやすい裁判の実現)、さらには、わが国の社会の歴史などから、本格的に議論されるべき重要な課題である。従って、制度あるいはその導入に際しての技術的問題が先行することは意識的に避けなければならない。技術問題の陰に理念が隠されてはならない。技術的問題の解決こそ、法律専門家の国民に対する責務であって、理念を脇に追いやり、いたずらに国民に不安や疑念を植え付けるべきではない。繰り返しとなるが、国民が主体となるに相応しい司法制度がいま求められており、その実現こそが「改革」である。
以上