配付資料

別添3

国民の司法参加

2000.9.18
吉 岡 初 子



Ⅰ はじめに

日本国憲法前文には「・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。・・・」と、主権在民を明確にうたっています。
 当審議会の「論点整理」でも、「国民一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画していくことが、21世紀のこの国の発展を支える基盤であるという認識を共有するものであって、今般の司法制度改革はその最後のかなめともいうべきものである。」(4頁)とし、さらに、国民の司法参加について「21世紀の我が国社会においては、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。」(10頁)と認識しています。真にそのような社会像・国民像への転換を求めようとするのであれば、積極的に、国民に協力と理解を求める提言をすべきです。
 また、「論点整理」は、「主権者たる国民の公的システムへのかかわり方も多面的な広がりをみせようとするなか、司法の分野においても、主権者としての国民の参加の在り方について検討する必要がある。」(10頁)と、司法制度改革の基本が国民主権に根ざしたものであるべきとの見解を明示しています。
 そのような議論と提言に際して必要なことは、専門的な法技術論ではなく、国民が理解しやすい根本的な理念論であるべきことは言うまでもありません。何故ならば、専門的な法技術論は、専門家でない国民をかえって混乱させ、新しい社会像・国民像への転換を尻込みさせるだけに過ぎないと考えられるからです。法技術的問題点について、当審議会においても十分な認識をした上で議論すべきは当然でしょう。しかし、技術的問題の解決は、国民参加の理念と必要性を確認した後で、短所を少なくする方向で専門家が知恵を出し合って解決すべき問題ではないでしょうか。当審議会の議論が過度に技術問題に踏み込むことには留意しなければならないと考えます。
 新憲法が施行され半世紀も経ちながら、これまで国民参加の議論が拡がりを見せて来なかった原因の一つはそこにあるのではないかと考えられます。国民の司法参加は、国民が統治主体として司法にどう関わるかという視点が基本であるべきです。 

Ⅱ 国民参加に関する根本理念について

 前回(9月12日)の法曹三者のヒアリングで、三者、特に最高裁と日弁連の意見の違いが明らかになりました。とりわけ印象深かったのは、裁判と国民に関する根本姿勢の違いでした。
 ヒアリングに於いて最高裁は「陪審法が停止されたままとなっている理由については様々な意見があるが、基本的には、我が国においては、この制度を復活させるだけの政治的、社会的エネルギーがなかったということに帰すると思われる。」と述べています(同意見書2頁)。しかし、終戦後の陪審復活論議には非常な高まりがあり、その高まりに当局も「陪審の実現には努力したい」と述べていたほどであると日弁連は述べています(日弁連資料83頁)。
 また、最高裁は「裁判作用をどこまで直接国民の手にゆだねるべきか」、「裁判は多数の者の利害や感覚によって左右されるべきものではなく、論理と証拠に基づいた理性的かつ合理的な判断でなければならない。近年、裁判の対象とする事象はますます複雑化し、専門的な知識が一段と重要となって」いる(同意見書3頁)と述べています。これに対して日弁連は、「21世紀には、地域社会・コミュニティの問題は、その構成員である市民自身が責任をもって解決していくような社会の在り方が求められる。社会の公器たる司法の在り方もまたしかりである。自治と参加の理念は、司法権の行使においても推し及ばされなければならない」(同意見書4頁)と述べています。
 最高裁の意見には4点の問題があると考えます。
 第1は、主権についての考え方です。「裁判作用をどこまで直接国民の手にゆだねるべきか・・・」-この発想は、司法権はそもそも裁判官に帰属しており、どこまで国民に「解禁」してゆくか、という発想ではないでしょうか。私は、司法権も本来は国民に帰属しているものと考えます。
 第2は、国民観です。裁判は国民にはできないものだと考えているのでしょうか。国民は「多数の者の利害や感覚によって」判断するというのでしょうか。国民は「理性的かつ合理的な判断」ができないというのでしょうか。私は、日本の国民は最高裁が危惧するほど愚かではないと考えます。
 第3は、裁判手続き観です。これまでの裁判が国民に分かりづらいものであることは、多くの国民が指摘しています。最高裁のヒアリングでは、こうしたことへの反省がないのではないでしょうか。裁判が重要であるからといって、国民に分かりにくいことの免責にはならないのではないでしょうか。
 第4は、社会観です。それは、来るべき21世紀社会との関係で司法が論じられていないということです。
 最高裁は、当審議会からの「21世紀のわが国社会における司法に対する国民参加の意義」についての質問に対して、来るべき社会像との関係で具体的に回答していません。21世紀社会の具体的展望なしに、あるべき国民参加が論じられるでしょうか。
 当審議会は、最高裁が前提とするような国民観、社会観を変える必要があると認識して検討を重ねてきたはずです。私たちが論点整理で確認し合った「21世紀の我が国社会においては、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。そして、地方分権の推進に伴い、地域における住民の自立と参加が今後一層重要視されていくものと予想される。このようにして主権者たる国民の公的システムへのかかわり方も多面的な広がりをみせようとするなか、司法の分野においても、主権者としての国民の参加の在り方について検討する必要がある」(同10頁)ということは、そのことを確認したのではなかったのでしょうか。
 「統治主体意識」「公共意識の醸成」「公的事柄への能動的姿勢」「地方分権の推進」「地域における住民の自立」――これらのキーワードが示す先は、自ずから明らかであり、それは「陪審制度」であると考えるのが妥当と言えます。

Ⅲ 訴訟手続への国民参加(陪審制度、参審制度)

1.陪審制度について

(1)国民の陪審制度に関する意識
陪審制度導入の問題点として、日本人には向かない、社会的合意が得にくい、報道による影響を排除できない等の指摘があります。本当に、陪審制度は日本人に適さないのでしょうか。
① 読売新聞の司法参加に対する国民の意識調査(平成10年12月)によると、日本の裁判について改善すべき点として、迅速性、費用を安く、テレビ中継などで公開等の意見が非常に多い。また、アメリカのような陪審制度を取り入れる(14.1%)、最高裁以外でも裁判官に有識者を加える(12.6%)と国民の司法参加についての意見があることがわかります。また、同紙平成11年3月の調査では、市民感覚を取り入れるために、一般市民が裁判に加わる制度を導入すべきだとする回答が過半数の51.2%に達しています(参考資料22-1)。この2つの調査は質問項目等が異なるので、単純に比較は出来ませんが、少なくとも、国民の司法に対する関心が高まっていることは明らかです。
② アメリカの陪審制度に関する市民意識について、日本では、「陪審員のなり手がいないため老人と仕事のない人が多い」、「無罪率が高くなる」、被疑者と陪審員の皮膚の色の問題を取り上げて「陪審員の人種の比率によって判断に差が出るのではないか」、「12人の陪審員の中で声の強い人の意見に引きずられる」等、種々の問題指摘をする声がありますが、私がアメリカ視察で見聞した陪審制度は、このような風聞を払拭するものでした。
  また、陪審員候補の選定が公平に行われると同時に、国民の義務として根付いていること、正当な理由なしには拒否は出来ない(正当な理由が認められれば、陪審員就任を延期できる)など、制度上の整備はもとより、国民の意識がしっかりとした義務感の上にあること等が実感として納得できました。
③ アメリカの場合、アメリカ法律家協会(ABA)の調査(資料22-2)が行った陪審制度に関する調査でも、市民は非常に高い評価をしています。
④ また、日弁連の検察審査会経験者へのアンケート結果(日弁連資料5)によると、経験者たちは、負担に意義を見い出し、圧倒的な多数が検察審査会制度を支持し、陪審制度の導入を支持し、陪審員の負担にも国民の理解が得られると回答しています。
 これらの調査を見ても、私は、陪審制度が日本人には向かないと言う、合理的な根拠はないと思います。
 他方、規制緩和の進展による自己責任原則、事前規制から事後チェックへ、という流れの中で、国民が自分の権利を守るためには、司法が果たす役割は益々重要になります。司法が国民にとって、身近で利用しやすいものでなければならないと同時に、国民の司法への積極的な参加は不可欠であり、陪審制度の導入は、国民の司法への関心を高める上でも大きな効果を有すると考えます。

(2)国民参加に関する諸論点
 国民参加制度、とりわけ陪審制度、参審制度について意見の対立があります。これらの点について、利用者あるいは参加者としての国民の視点から、陪審のデメリットとされるいくつかの論点について考えを述べます。 
① 国民の負担について
  最高裁は「陪審制は国民に極めて大きな負担を求める制度」と述べています(同意見書8頁)。参加する国民の立場からすると、確かに、自分とは関わりのない事柄について裁判所に呼び出され、審理に立会い、評議して、結論を出すのですから、負担であることは事実です。しかし、国民は負担のかかるものはすべて嫌悪するのでしょうか。社会経験が示すところでは、国民にとって重要な点は、「負担」に「意義」が見出せるかどうかではないかと思います。各種のボランティア活動、NPO活動はその証と言えます。そしてもし、そこに「意義」が見出せるのであれば、それはデメリットではなく、メリットに転化するはずです。その意味で、先に述べた検察審査員経験者へのアンケートは注目に値します。
  検察審査員も無作為に選ばれ(検察審査会法13条)、6ヶ月の任期で務めることとされています(同法14条)。経験者たちは彼らの「負担」に「意義」を見い出し、圧倒的な多数が検察審査会制度を支持し、陪審制度の導入を支持し、陪審員の「負担」にも国民の理解が得られると回答していることは、ボランティア活動などに対する最近の国民意識とも共通すると思われます。
  司法への国民参加制度、とりわけ陪審制度については、これまで十分な情報が国民に与えられて来たとは言えません。いま求められるのは、国民の負担感ばかりを強調するのではなく、その制度の意義について十分な情報を提供し、国民の理解を得る努力ではないでしょうか。
② 冤罪について
  最高裁はとくにアメリカの陪審裁判を例に、陪審裁判は「かなり高い比率で誤判が生じている」(4頁)、「アメリカの実務家と話をすれば、(中略)陪審が多くの間違いを犯すことを当然の前提として考えられている」(6頁)などと述べています。しかし、これらの意見は現地を調査した私の感想とは全く違います。
  アメリカでは専門家、非専門家を問わず、陪審制度に対して高い信頼を寄せています。それは私の感想だけではなく、先ほど述べたとおりアメリカ法律家協会(ABA)の調査結果もこれを裏付けています。またもし最高裁のいうとおり、それほど問題のある制度であるならば、当然アメリカでは廃止の議論がされてきたはずですが、そのような動きは聞いていません。
  アメリカの誤判は陪審制度が原因なのか、そして陪審裁判を経験しているアメリカの実務家の陪審裁判観はどのようなものなのか、詳しく検証する必要があると考えます。
  むしろアメリカにおいて陪審制度は、国民主権の具体的制度として、また民意を裁判に直接反映させる制度として、社会に深く根付いていると言えます。それは、陪審裁判を利用する当事者としての国民の立場からも、また陪審裁判に参加する陪審員としての国民の立場からも同様と思われます。
  根拠の明確でない、一方的で断定的な評価は、国民に不安感を与えるだけで、建設的とは言えません。法律専門家には、陪審制度を採用した場合にも、誤った裁判が起こることを少なくする技術的工夫こそが求められていると考えます。
  さらに、冤罪について付言すれば、現在の職業裁判官の判決にも、少なからず誤りがあることを、謙虚に認めるべきでしょう。
③ 評決が結論のみであること(ブラックボックス化)について
  前回のヒアリングにおいての議論で、ブラックボックス化を理由とした陪審制への批判がありました。しかし、利用者の立場から見れば、利用者は必ずしも評決過程が文章化されることを期待しているわけではありません。むしろ、証拠調べや弁論などが法廷で分かりやすく行われること、国民の代表としての陪審員が、社会常識に基づいた、さまざまな視点から討議することこそが、期待されるのではないでしょうか。

(3)その他の論点
 最高裁は「集中審理に対する弁護体制」「実体法及び手続法の全面的見直し」「報道規制」なども陪審制導入のための必要条件としています。しかし、冒頭で述べたとおり、これらの技術的論点は、当審議会で議論するというより、今後、法律専門家が力を合わせて、国民のために解決していくべき問題だと思います。

(4)利用者の選択権について
 法曹三者の意見において明確には触れられていませんが、利用者の選択権の視点から国民参加制度について論じる必要があります。
 現在の訴訟制度は、裁判官による裁判という一つのメニューしか国民に提供していません。これは、国民に広く選択権を与えて行く社会の在り方から見ると異例といえましょう。
 むしろ利用者である国民が、法律専門家だけによる裁判を求めるのか、法律専門家と国民代表が役割を分担する裁判を求めるのかを選択できることは、法や裁判というものが、社会常識に従って行われなければならない以上、当然ではないかと考えます。

2.参審制度について

 参審制度が陪審制度と異なる点は、裁判官と市民が一緒になって、事実問題だけでなく、法律問題をも審理判断する点です。また参加する市民の数が通常は陪審員より少なく、また選出も無作為ではない点が異なります。さらに陪審制度では裁判官と陪審員が役割分担をした上で、事実問題については陪審員、つまり国民が主導権を持つのに対して、参審制度では、役割分担がなく、すべてに裁判官が主導権を持つという点が大きな相違点でしょう。
 国民の司法参加を論じる場合、陪審制度と参審制度が、このように、主導権を国民が持つか、裁判官が持つかという基本的な理念が異なることに留意する必要があると思います。
 ところで最高裁は、評決権を持たない参審制度の導入を提案されていますが、これは国民の司法参加に関して、当審議会の「統治客体意識から脱却し」、「主権者として国民参加のあり方を検討する」という考え方とは相容れないものです。

Ⅳ 憲法論を巡る意見対立について

 国民参加制度と憲法との関係についても意見の対立があります。

1.基本的考え方

 最高裁は、「陪審制について憲法問題を回避するためには、旧陪審のように陪審員の事実認定に裁判官に対する拘束力を認めないような形態のものが考えられるであろう。また、参審制について憲法上の疑義を生じさせないためには、評決権を持たない参審制という独自の制度が考えられよう。」(同意見書14頁)と述べています。
 しかし、国民の立場から見ると、奇妙な論理に思えます。ここに窺える発想は、出来る限り国民の影響を排除しようとする姿勢ではないでしょうか。もちろん国民が主権者だからと言って、国民に何もかも任せるべきであるとは言いません。しかし、主権者である国民を、法律専門家としての裁判官がどこまで援助できるか、どのように協力すべきであるか、という視点から議論すべきではないでしょうか。現在の裁判官の職権に全く変更を加えないことが合憲の前提となるべきではなく、国民主権の観点から、国民とどのように分担し合えるかが真剣に議論されるべきです。
 その視点からすると、少なくとも司法権の内容のうち、法律判断や手続き運営については裁判官に、事実認定については国民代表に、それぞれ独立した職権を与えることは、何ら憲法に反するものではなく、むしろ、国民主権を理念とする憲法が期待するところといえます。

2.わが国における陪審制度の歴史と憲法

 わが国における陪審制度は、大正12年に成立し、陪審裁判は、昭和3年から昭和18年まで行われ、全国で484件の陪審裁判が行われました(参考資料16~18、無罪率17%と言われています)。第二次世界大戦直前の逼迫した社会情勢の中で、同制度は、休眠状態に置かれることとなりましたが(参考資料19)、戦時下のなかで、廃止にはなっていないことに注目する必要があります。
 新憲法制定時に陪審制度が入れられていない理由
 陪審制度が復活する機会として、敗戦直後の日本国憲法制定時がありましたが、何故か、この時には陪審制度の復活には至っていません(参考資料20-1)。
 その理由として、「日本での陪審制度は失敗した、」と当時の法曹関係者が進言したと言う説もありますが、少なくとも公式見解は、憲法に明文化しなくても陪審制度の導入は憲法違反にはならない、と言うものであったと考えられます。
 竹下委員は兼子一氏との共著「裁判法(第四版)」(有斐閣)の「司法への民衆関与」の「四、わが現行法上の民衆関与」において、「わが国では、第二次大戦後の司法改革に際し、刑事裁判に関して陪審制あるいは参審制の復活ないし導入が検討されたが、いずれも採用されるに至らず、・・・」とされ、さらに「欧米諸国に比して、訴訟そのものへの民衆の関与の程度は低いと言わざるをえない。」と論じておられます(34頁)。しかし、「戦後の司法改革と陪審制度」というタイトルの注(35頁)のなかでは「憲法制定の過程では、まず憲法問題調査委員会の審議の際に陪審制度復活の意見が出されているし、枢密院の審議、衆議院、貴族院の委員会および本会議でも、陪審制度の採用を憲法に定めるべきではないかとの意見が表明された。しかし、政府は、憲法には陪審に関する規定を定めてはいないが、陪審を認めることは合憲であり、将来その復活に努力したいと答弁し、憲法に明文の定めを入れることはしなかった。・・・中略・・・最終段階になって、GHQ側から将来、刑事事件につき陪審制を採用する道を開いておくための規定を挿入することを要請され、結局、現行裁判所法三条三項が定められるに至った。」とこの間の経緯を紹介されています。従って、当時の日本政府の公式見解は「憲法に明文化していなくても、陪審制度の導入は合憲」としていたことが明らかです。
 また、枢密院、帝国議会における審議の際の政府答弁でも、「明治憲法24条「法律に定めたる裁判官の裁判を受ける権利」が、改正憲法では、「裁判所において裁判を受ける権利」(憲法32,37条)と改められたことも合憲の重要な根拠とされています。「憲法直接に規定せざるも新憲法の下に大体アメリカ式の陪審制度が実施せらるるものと考ふ」、(参考資料20-1 74頁)などとされており、当時の政府の見解では、陪審制度の導入は合憲であったと考えられます。

Ⅴ 裁判官任用手続・選任過程、裁判所運営等への国民参加

1.最高裁判所判事の国民審査制度

 現在、裁判官の任用、選任等に国民が直接関われるのは、最高裁判所判事の国民審査しかありません。審査対象の裁判官に関する簡単な紹介は、国民審査に先立ち広報で知らされていますが、無関心層が多いことは否めません。
 何故国民の関心が薄いのでしょうか。私は、現在の国民審査は民意を反映できるシステムとして機能していないことによると考えます。
 罷免が相当と考えられる裁判官を国民審査で罷免することは実際上不可能というのが実態です。また、罷免が相当と考える最高裁判所判事名に×をつけると言うルール自体を知らない人も多く、○と×をつける人も少なくありません。
 本当に国民の意向が反映できる制度に変えて行くことが急がれます。

2.下級裁判所裁判官任用手続への国民の参加

 現在の日本では、地裁等の下級裁判所裁判官の任命等は、事実上最高裁事務総局に委ねられています。そのため、裁判官は最高裁の意向を意識し、司法判断にも影響があると言われています。真偽はともかくとして、このような見方がされる可能性があるのが現行の裁判官任用制度です。国民の参加を考える場合、裁判官の選任、任用についても、国民の参加を積極的に検討するべきでしょう。
 この場合、アメリカにおける裁判官の評価制度などが、参考になると思います。
 アメリカの場合は、国民参加の裁判官推薦委員会、ABA(アメリカ法律家協会)、訴訟代理人などの直接関係者等幅広い人たちから評価を求め、知事(州の裁判所)、大統領(連邦裁判所)が最終判断をします。

3.裁判官の評価への国民の参加

 評価についても、上記2と同様に国民参加のしやすい方法を検討する必要があります。

4.情報公開

 裁判は基本的には公開ですが、判決書や刑事事件の記録が被害者に開示されないなど、犯罪被害者の人権問題としても取り上げられてきました。
 個人情報の保護には、十分な配慮が必要なことは言うまでもありませんが、司法の情報公開についても、検討する事が必要です。

Ⅵ 現行司法参加制度

1.調停制度、司法委員制度、参与員制度
2.検察審査会

Ⅶ おわりに

 国民の司法参加は、冒頭で述べたように、今回の司法制度改革の重要な柱の一つと言えます。論点整理で合意しているように、国民はこれまでの統治客体意識から脱却し、主権者として公共意識を醸成し、公的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められています。
 司法の分野でも国民が主体的に参画することが必要であることは申すまでもありません。こうした視点から、国民の司法参加を論ずる場合、陪審制度については、早急に導入を決定し、実現に向けての条件整備に着手する事が肝要と思います。 
 21世紀のこの国の司法制度が、主権者である国民の正義を実現するための道具として、国民の期待に応えうる制度設計を完結するためには、司法への国民の直接参加が保障される制度にすることが肝要と考えます。

以  上