第31回司法制度改革審議会議事次第
- 日 時:平成12年9月18日(月) 9:30 ~12:20
場 所:司法制度改革審議会審議室
出席者(委 員)- 佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、髙木 剛、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本 勝、吉岡初子
(事務局)
樋渡利秋事務局長- 1.開 会
2.「国民の司法参加」について
3.閉 会
【佐藤会長】それでは、定刻がまいりましたので「司法制度改革審議会」第31回会議を開催いたします。本日の議題ですが、前回法曹三者からヒアリングを行った「国民の司法参加」について、石井委員、髙木委員、吉岡委員からそれぞれレポートしていただきまして、それを踏まえて意見交換を行いたいというように考えております。
なお、次回の9月26日の審議会では、現段階での意見の取りまとめを目指したいというように考えておりますので、よろしくお願いいたします。
それでは早速ですが、国民の司法参加につきまして、石井委員、髙木委員、吉岡委員からそれぞれ20分程度ずつレポートをしていただきたいと思います。3人の委員の皆さんには、お忙しいところ本当に御苦労様でございました。ありがとうございます。それでは、石井委員からお願いいたします。
【石井委員】それでは、御指名でございますので「国民の司法参加」について意見を述べさせていただきます。皆様のお手元にあります「国民の司法参加」の要旨に沿ってお話しさせていただきたいと思います。
まず初めに「国民の司法参加の意義・趣旨」でありますが、意見を述べる前に私事で恐縮ですが、昨日まで海外出張しておりまして、のどをやられてしまい、ちょっとお聞き苦しいところがあるかもしれませんが御容赦いただきたいと思います。
これまでの議論にありましたとおり、「国民の間で起こる様々な紛争を、公平かつ透明な法的ルールの下で適正かつ迅速に解決」し、「主権者としての国民が司法機能の発揮に能動的に参加すること」が求められる状況下で、「司法を国民により身近で開かれたものとし、また司法に多元的な価値観や専門知識を取り入れる」ために、国民の司法参加の意義、諸制度の見直しを行うことは非常に重要であるというふうに考えております。
私は、ユーザーまた一経営者の視点から、国民が適切な形で司法に参加することにより、裁判や裁判官の機能をチェックし、透明性が高められることで、その機能をうまく発揮させることができたらと考えて、意見として取りまとめてみました。
次に2.の「国民の司法参加に求められるもの」でありますが、国民が適切な形で参加し、裁判制度の機能をうまく発揮させるためには、本来的には国民が等しく司法というものに関心を持ち、積極的に関与して真実の発見に至ることが望まれますが、別の角度からは裁判をいかに機能的に運営し、納得のいく判決を形成できるかという点にも着目すべきではないかというふうに考えております。
非常に大切なことは、「改革に当たっては、現在の体制を根本的に転換させるだけの覚悟」がなくてはできないこと、「国民の総意に支えられた制度」につくり上げなくてはならないことであります。もし、十分に国民の意識が醸成されないまま導入した場合には、仮に実現したとしても短期間で破綻の憂き目を見ることは明らかであります。制度構築に当たってのプロセスは、国民の総意が反映するように慎重に進めていく必要があるというふうに考えております。
次に各論に入らせていただきますが、まず3.の「陪審制」であります。日本にもかつて陪審制が存在し、昭和18年に、戦時体制という国が置かれた状況と利用率の低下という内面的な事情から、法律上は停止したままになっているわけですが、法曹三者のお話をお聞きし、また事務局で作成していただいた参考資料等を拝見しますと、停止した理由は、戦争激化で物理的に制度の維持が困難になったことのほかに、やはり当時の裁判に信頼が置けなくなった様子がうかがえます。当時の状況と現在の状況を比べますと、社会、経済、国民性や意識といったものは、制度導入当時とは想像をはるかに超えた変化が起こっており、こうした事実を踏まえれば、過去の枠組みを持ってきて、陪審制を復活・再生という議論は性急過ぎるのではないかと思われます。
したがいまして、これからの我が国の社会に無理なく合理的に導入できる制度かどうか、ゼロから陪審制の導入適否を考えていくことが肝要だと思っております。
国民に陪審制とはどのような制度であるかを正確に伝えて、趣旨・長所短所・想定される具体的なフレームや責務など、あらかじめ明確に提示し、その上で導入の可否を討論していかなくてはならないと思います。
一番上にある「国民的コンセンサス」でありますが、導入の是非については、国民全体が負わなくてはならない莫大なコストと、国民一人ひとりが陪審員となった場合に果たさなくてはならない具体的な責務について、国民的合意を得ることが大前提とならなければなりません。全国民が、制度を維持するコストと責任を理解し、それを果たさなくてはこの制度が成り立たなくなり、司法制度への信頼をかえって損なう危険すらあると考えておかなくてはならないと思います。そこで、国民にPRするためにも、陪審制度を導入したときに掛かるコストを、ここで一度シミュレートしてみることも大切なことであると思います。
経済界としては、諸外国での陪審裁判の経験を通じて、その制度の公平性や判決の納得性に絶対的信頼を置いていないというのが正直なところであります。日弁連の資料にあった関西経済連合会の企業アンケート調査でも、陪審制度の審理や評決に対し、違和感を持っているという企業等が大半を占めていました。このことからも、経済界のコンセンサスを得ることはかなり難しい状況が予想されるのではないかというふうに思っております。
また、企業を預かる経営者としてみますと、幹部職員や従業員が陪審員に選ばれた場合、就業規則の改正を含め、その従業員の業務のフォローなど、企業にとっての負担は非常に大きいものであると思います。確かに企業は、地域や国に対して貢献しなければならないという社会的責任を持っており、能動的に司法機能にも参画することが求められますが、その方法は経済状況、社会動向等様々な要素を有機的にとらえて検討しなければならないと思います。現在のようなグローバルコンペティションを日々生き抜いている企業、特にその数の大部分を占める中小企業に、様々な負担とリスクを負わせることが適当なことかどうか、本当にそれが国全体の利益につながるのかどうか、大きな視野でとらえて見極めなければならないと考えております。
仮に、国民が義務を負うことを受け入れるとしても、職業による除外規定を設ける場合の平等、不平等を解消しておかなくてはなりません。義務に対する不平等感の払拭は、十分に手当てしておかないと、制度の信頼性に疑問を持たれてしまいます。
このように、企業における一面をのぞいてみても分かるように、問題の広がりは大きく、陪審制の導入について国民のコンセンサスを得ることは、導入の法律をつくることだけではなく、社会全体の仕組みを改変し、意識を修正していかなくてはならない大きな障害があると考えております。
2)の「選出方法の確立」につきましては、偏りがなくランダムに陪審員を選出することが保障されていなくては、この制度への信頼は揺らいでしまいます。性別・年齢・居住地域・職業などいろいろなバランスを考えなくてはならない要素がたくさんあります。また、ランダムに選出した結果に対し、こうした要素を加味して、適正化する機関が必要になります。そして、その機関の判断が公正・妥当であることを担保できるような仕組みにしておかなくてはなりません。選出方法や選出された陪審員に関する情報を、公開するのかどうか分かりませんが、一方では今や情報公開はすべての面で時代の要請となっておりますので、陪審制においてもどこまで情報を公開しなければいけないか、越えなければいけないハードルが数多くあると考えております。
3)の「裁判方法の変更」でありますが、先日の最高裁の説明では、現在の裁判制度と陪審制による裁判制度とは、根本的に異なるものであり、また刑事事件における捜査段階から手法が異なるということです。このような制度の切替えは、相当大きな混乱を引き起こすことが予想され、そこに国民の同意が得られるものかどうか十分な確認をする必要があると思われます。
また、両制度を並存させ、希望による選択性、あるいは使い分けといった懐の深い措置を考えている方もいらっしゃるようですが、実際問題として制度の維持コストを考えた場合、両制度を並存させるほど我が国の財政やインフラに余裕はないはずであります。
参考資料を拝見しますと、戦前の陪審制度には、ハード面の整備とランニングコストに、多額の国家予算をつぎ込んでいたようでありますが、経済界の人間としては、財政再建が思うように進まないことが、国民の将来的な不安を、これほど引き起こしている状況下において、多額の財政支出を必要とすることが予想される制度導入・並存は、受け入れ難いと思われます。たとえ選択制を採るにしても、結局は全面的に陪審制を導入する場合と同様に、捜査の在り方、証拠に関する考え方を根本的に見直すことには変わりなく、その作業負担は過重なものになると思われます。
4)の「上訴」につきましては、陪審制の下では話し合った内容や経緯、さらには判断理由を公表しなくていいし、また一度決まった結論を再び検討する機会はなく、上訴できないというふうになっております。そこが、陪審制の判断を信頼に足るものとする所以なのかもしれませんし、そこを揺るがせては陪審制の意味がなくなってしまうのではないかという考え方もあります。
しかし、裁判が唯一目指している真実を発見する姿勢として、それでいいのかという疑問が残ってしまいます。結論に至った過程は一切公表されることなく、ブラックボックスに閉じ込めて封印されてしまう可能性があり、被害者やその家族の心情を考えたとき、大きな疑問を抱かざるを得ません。国民に司法を近付け、裁判官が間違いを犯さないように、透明性のある裁判をいかに確保し、それをチェックする機能として国民がいかに参加するか、我々が目指すものはそこにあると思います。国民が参加する制度を導入することで、逆に透明性を失うとしたら、それこそだれのための改革かということになってしまうのではないでしょうか。さらに、現在の裁判制度は、重層構造を構築している点を見逃すわけにはいきません。こうした重層構造をすべて遮断できるだけの決断を持って臨めるかどうか、陪審員に人の一生を左右するような決定的な判断を下すことができるのか、重大なポイントだと考えております。
それよりも大切なのは、真実の発見を確実にできる目を備えた裁判官をきちんと養成して配置し、裁判プロセスの透明性を高め、それを国民がチェックする機能を確保することが先決ではないかと考えております。冤罪の回避可能性を確保しておく仕組みは、何重にも用意しておくべきであると考えております。
5)の「陪審員・裁判の防御」についてでありますが、実現に向けてクリアーしておかなければならない点として、陪審員の防御、裁判自体の防御があります。不正を省みず、自分に有利な判決を得ようと考える人間の登場は、容易に想像できることであります。彼らはあらゆる手段を講じて、陪審員や裁判に働き掛けてくることが予想されます。予見を与えないために、陪審員をマスメディアからどのように隔離するかといった報道規制の問題も、情報化社会においては難問の一つかと思います。こうした行為を取り締まり、陪審員や裁判自体から不正な介入を排除し、どのように防御するかをあらかじめあらゆる角度から検討しておかなくてはなりません。あらゆる防御策が取られることによって、裁判の前後の長期間にわたり、陪審員にとって日常生活へのかなりの影響を及ぼし、相当の制約が加わり、不自由を強いられることになるはずであります。特に警護等の問題は、真剣に考えなくてはなりません。
現代は、戦前に実施された状況と全く違うわけですから、陪審員を完全隔離するくらいの、かなり強行な措置が必要かもしれません。裁判自体も公開性が保てるものかどうか、考えなくてはならないことになると思います。こうした対抗・予防処置はすべてコストが掛かり、そのコストはすべて国民の負担となることも明らかにしなくてはなりません。
また、陪審員が属する企業も、暴力団や反社会的な集団等の不法な勢力の危険にさらされる可能性は、否定できないと思います。仮に、そのような状況に陥ったら、これを排除することに経営者は最善を尽くしますが、本当に従業員や企業のことを思うなら、事前にそのような事態を避ける方策を選択するのが、経営者のあるべき姿と考えております。企業が危機管理の一環として、日々不当な勢力から一線を画する努力を払っている状況で、あえてこのようなリスクを負う制度に幹部職員や従業員を派遣することに、経営者がネガティブにならざるを得ないことは、御理解いただけるものと考えております。
6)の「陪審員の責任」についてでありますが、国民が直接的に参加できる制度である以上、決して興味本位ではなく、真摯な態度で事件に接する必要があることは言うまでもありません。他人の一生を左右する、場合によっては生死を分けるほどの責任を、本当に負い切れるのかを考えなくてはなりません。当事者だけでなく、その家族や社会への影響も計り知れないものがありますし、予想できないリアクションが現れるかもしれない中で過ごさなくてはならないことも考えられます。心理面を含め、こうした状況下におくのは、一般の国民にとってかなり過酷なことではないでしょうか。
また、知り得た事実に対する守秘義務も当然に負わなくてはならないのですから、裁判が終了した後も、重い責任を持ち続けることになるわけであります。果たして、一般の国民はこうした状況に耐え得るでしょうか。
米国のABAやロサンゼルスタイムズのアンケート結果を見ますと、米国の陪審制の公正さや優秀性を市民の約8割が評価している一方で、陪審員としての義務を果たすことに対しては、44%もの人々が避けたいと考えている回答結果となっています。
確かに、55%の国民が義務を果たすとの前向きの回答の方が多いのですが、陪審制度を絶対的に信頼し、歴史と実績のある国でさえ、それを負担に思う多くの国民がいるという状況は、日本国民の負担を考える上で、軽視できない数字ではないかと考えております。
時折催されております陪審劇とか模擬陪審は、あくまでも架空の設定ですから、体験してみるという程度においてはよい試みだと思いますが、実際の裁判では当事者だけでなく、被害者及び家族の心情をいろいろ考えると、単なる興味本位や知識欲の満足だけでの参加は、絶対に排除されなくてはならないはずです。
さらに、実際の陪審では、証拠を正視したり、当事者の生の声を聞かなくてはなりません。残虐で凶悪な事件の場合、生々しい現場写真や凶器などの証拠品を素人が果たして平常心で見ることができるでしょうか。また、被害者にしても、裁判官、検事、弁護士以外の複数の他人に対し、詳細に状況を伝えなければならないというのは、心の負担を察するに余りあるものがあります。つまり、陪審員の責任とは、自分の人生に対する責任よりもひょっとして重いことになるかもしれないという責任を自覚して引き受ける点に集約されると思います。これが国民の総意として認められるかがポイントになるはずで、劇や模擬では想像できないつらさを伴うことを直視しなくては、責任を果たすことにはならないと考えております。
仮に、国民の総意として、国民がその負担と制度を受け入れたとしても、風潮に流されたり、本質を見誤らないように、判断の基礎となる道徳心といったものを幼児教育の段階から取り入れるといったことや、またそのような教育をどのように行っていくかということの検討も必要不可欠なはずであります。
ここで陪審制について、7)の「まとめ」に入りますが、繰り返しになりますが、国民が陪審員として参加するということは、国民に大きな負担を背負ってもらうことを十分に周知して、それが受け入れられるものかどうかを考えてもらわなくてはなりません。国民の心理面、あるいは時間や金銭的負担を十分に考慮し、制度の長所短所を正確に比較検討して、単に諸外国の模倣をするというようなことは、厳に慎まなければならないことであります。
また、前回の審議会で、「正規の陪審と陰の陪審が導き出した結論の4分の1が異なる」という、マッカーブ・パーバスの調査結果についての説明がなされましたが、その結果から見ますと、陪審制度の信頼性について疑問を持たざるを得ません。真実の発見あるいは正義の実現を重視してきた国民にとって、本当に「真実の発見」という要請を後退させてまで受け入れるべき制度であるか、国民に十分問い掛けてみる必要があると思います。
先ほども触れましたが、経営者の立場から申し上げますと、これまでの企業に関わる海外での裁判の様子を鑑みれば、陪審制、特に民事陪審を受け入れることは、厳しいものがあります。日本の経済活動への影響を考える上でも、冷静に判断する必要があると思います。総合的に判断し、一国民の視点から申し上げれば、裁判の透明性を高め、その機能がうまく発揮されるように、国民が適切な形で参画していく制度を考えることが先決であるというふうに考えております。
現時点では、陪審制度を導入することは大変困難なものがあると思いますが、しかしながら、21世紀の日本の民主国家をデザインしていく上で、陪審制度の議論を安易に退けることなく、将来的には陪審制度を国民が受け入れられる土壌づくりができるかどうか、見極めていく必要があると思います。
4.の「参審制」につきましては、参審制は、本来的には一般国民がプロパー裁判官にまじって、裁判官として裁判に参加し、国民の意思と常識を反映させ、プロパー裁判官の独走を抑制しようというものと理解しております。
前回の審議会において、最高裁判所より「一部の事件において、評決権を持たない形での参審制度」の導入に、前向きな提言がなされたことは、新たな司法を見出す第一歩として、その有効性について審議会においても十分議論し、広く国民に問うていくことが必要であると思います。その点を踏まえて参審制度に対する考えを述べたいと思います。
まず、1)の「参審制の有効性」でありますが、陪審制と同様に、だれをどのように参審員として選出するかといった選出方法や、その人を外部の攻撃から守るシステム、さらには本当にプロパー裁判官と合議体を形成できるだけの知見が備わっているかといった疑問など、問題点は未だ多いと思います。参審制度の参考として、ドイツやフランスの状況を資料で拝見いたしましたが、その導入の歴史的背景や政治色の強い選任方法、職権主義による公判審理構造等、日本の制度とは異にしており、そのまま導入するといった議論にはなり得ないと思います。
今回の最高裁の提案では、「重大な刑事事件等、一部の限られた事件に、参審制度を導入すること」が想定されていましたが、どのような基準で、どのような事件まで適応するかは、これから十分な議論を行う必要があると思います。知財や経済等の専門性の高い民事事件において、国民に分かりやすい裁判になるよう最大限の努力を払ったところで、一般国民の参審員が対応するには限界があると思います。
職業裁判官の専門性についての問題が指摘されている中で、一般国民にそれに対応するよう負担を強いることが有効かどうか疑問であります。
2)の「一部の民事事件における専門参審制」につきましては、専門裁判において専門知識を有する人を裁判官として登用して、プロパー裁判官の補佐的機能を果たすという機能面を重視して制度を考えた場合、専門参審制の効用は多く、実現の可能性を考える価値は十分にあると思います。したがって、専門参審制の実現には期待したいと考えています。
ただ、専門裁判とは何か、その専門家とはだれを指すのかという定義は当然に必要であり、紛争の発生場所・争点・紛争当事者などから限定列挙しなくてはならないと考えます。
また、専門家が加わることで、逆に公平性を失うことでは意味がなくなってしまいます。その点については十分に配慮し、専門性、迅速性に対応しつつ、公正性、透明性を確保できる仕組みを十分検討することが求められると思います。
想定される分野としては、医療、建築、知的財産権などが挙げられると思います。医療、建築、知的財産権の分野では、やはり専門家の応援が裁判にとって重要かつ不可欠であります。裁判官が一から勉強して争点を理解し、その分野の知識をもって適正な判断を下すということは、相当な時間を要することになります。そうではなく、専門家としての冷静かつ適正な判断が当初から加われば、裁判の信頼性とか迅速化などの点について効果が発揮されると思います。
私が想定しております専門参審は、いわゆる一般国民が司法に参加する形態と異なり、専門家が参加する特殊な形態ではありますが、それとて国民の参加の一形態であることには間違いありません。一般の国民が自らではなくとも、その分野の権威が司法に関与するということになれば、司法への信頼は増幅していきます。コスト面での負担もそう多くはないはずであります。
裁判所は、国民の意思あるいは常識とともに、公正に専門分野の知識を提供できる機関をあらゆるルートにおいて開拓し、国民を代表するに足る人材をいつでも派遣してもらえるよう連携面で大いに努力すべきであります。
3)の「憲法問題」に関しましては、最高裁の「評決権を持たない」という提言は、憲法上の問題以前に、国民の意識が醸成されていない段階では、妥当な判断であると思います。今後、評決権をどのようにとらえていくかは、様々な角度から十分議論しなくてはいけないと思いますが、いずれにしてもそこには憲法問題が横たわっております。これまでの資料を拝見しますと、「裁判」や「裁判官」の定義からの逸脱や、明文規定がないことを理由に違憲とする説や、評決権を否定した参審制の合憲説、民主主義を基調とし、明文規定がないことで違憲とはならない説、裁判官に関する規定はプロパー裁判官のみにというふうに解釈して違憲とする説などが挙げられると思います。
審議会においては、ユーザー委員の立場から、これらの制度の有効性について議論し、そこに絡む憲法上の問題点の解決は、別途法律の専門家の方々で議論していただければよいのではないかと思いますが、一つ思うことは、古くから憲法論議は行われていたにも拘わらず、これまでほとんど国民に知られていなかったのではないかということであります。高度な議論は、これまで通り、法律家の方々にお任せするにしても、国家の基本法たる憲法議論こそ、一般国民にも分かりやすく説明し、その問題性をきちんと認知してもらうことが必要なのではないでしょうか。
一国の司法制度の根幹に関わる憲法の議論に、きちんと国民を参加させることも、一種の国民の司法参加につながると思います。
いずれにせよ、この審議会においては、制度の有効性について議論し、憲法問題は、別途いずれかの方法できちんと国民の総意を図り、必要ならば憲法改正という手段も踏むべきではないかと考えております。
次に5.の「司法委員制度」でありますが、陪審制や参審制を離れて、国民の司法への参加を部分的ながらも実現している司法委員制度があります。私は国民の司法への参加を実現に向かって一歩でも進み出していくには、目下のところ既存の司法委員制度や調停委員制度の充実が最短かつ現実的ではないかと考えております。国民の関心を高めるためには、こうした制度の存在を幅広く周知させていく工夫が必要であります。今の司法委員制度などを通じて、広く国民の司法への参加意識を醸成していくべきではないでしょうか。
そもそもが簡裁における裁判官の補佐的機能として司法委員制度は導入され、相応の効果を上げてきていると伺っております。既存のよく機能している制度を拡張したり、機能アップさせたりすることも、改革の仕事の一つと考えられます。司法委員制度はまさしくこれに該当すると思います。これを地裁レベルまで拡張することは、極めて有効な方法だと思います。
また、以前「鑑定制度の改善」の議論の際に、竹下会長代理が提案されました「専門委員制度」といったものも取り入れていくことは、特許裁判等において大変有効なことであるというふうに考えております。
いずれにしても、単に欧米各国の制度を模倣したものではない、日本独自の制度として育成していくべきものではないでしょうか。
また、国民の常識や社会通念あるいは経験則を尊重して、それを司法に取り込んでいく制度を目指すならば、まずこれらの既存制度の整備がどうしても先決問題として浮上してくるはずであります。そうして、十分に国民の意識や関心を高めてから新たなステップに進んでいかないと、前述のように制度全体が失速してしまう危険が出てきます。そういう意味で、陪審制や参審制ばかりを到達点と考えなくても、日本の司法制度に独自なものを存置させ育成することも大切だと思います。
6.の「検察審査会」につきましては、裁判の判断に対する国民のチェック機能を考える一方で、その前段階の起訴・不起訴の正当性に対する国民のチェック機能について考えることも、国民の司法への能動的参画の重要な論点であります。
検察審査会に関する議論は、これまでほとんど行われていなかったために、私としても具体的な改善策を思い描いているわけではありませんが、今回は、疑問に思った点を幾つか挙げて、必要であれば、審議会において議論していただきたいと思います。
まず、最大の問題は、その存在の周知が極めてお粗末なことであります。選挙管理委員会を通じて、くじによって無作為に抽出し、選ばれた国民に突然参加を求める制度であるようですが、想像するに、選ばれるまでその存在さえ知らなかった方々がほとんどではないかと思います。審査会を運営する方々は、真剣に取り組まれていると思いますが、制度さえ知らない国民が突然、「不起訴の不当性について考えを述べろ」と言われても、しょせん事務局主導の会議と誤解されても致し方ないのではないかというふうに考えます。
検察の間違いをきちんと是正する制度として、国民の参加の必要性を真摯に考えるのであれば、一般国民への周知活動をもっと充実させ、さらに義務教育の段階から制度を考えさせるといったことも必要だと思います。
もう一つ疑問点を挙げさせていただくと、審査会における起訴相当の結論を、最終的には検事正が判断する仕組みが、果たして有効なのかということであります。検察の判断をチェックする機能の最終判断が検察内部に委ねられている、これが、チェック機能として有効に作用するものかどうか疑問であります。また、法務省の指摘にもあったように、「一旦不起訴の判断を示した検察官に、十分な訴訟追行をさせることの妥当性」については問題があるように思われます。
法律的な問題もあるでしょうが、訴訟追行主体をだれにするかといった問題も含めて、国民の司法参加としてふさわしいものか検討する必要があると思います。
最後に、7.の「その他」についてですが、1)の「国民審査制度について」申し上げます。
現在、最高裁判所判事国民審査制度としては知られているものの、ある種国民が最も判断が難しいと思う制度が、この国民審査制度ではないかと思います。最高裁判所の仕事は、立法へのチェック機能のみではありませんが、例えば、選挙の1票の格差の問題などは、国民として高い関心を持つ問題であり、最高裁判所判事の国民審査に当たっても、個々の最高裁判所判事がどのような考え方に立って、どのような結論に至ったかについて、十分な情報を基に国民が判断できるような仕組みにならなければ、国民審査制度は有効に機能しているとは思えません。
最高裁判所は、常日ごろから、インターネット等を通じた広報活動を充実させ、最高裁判所判事の経歴、人物、考え方、重要な判例に対する意見等を国民に広く伝えることにより、国民審査を実効性のあるものにするため、格段の努力をしていただきたいと思います。
また、21世紀の社会において国民が能動的に司法に参画することが望まれるのであれば、与えられる情報だけを参考にして、最高裁判所判事を選任する仕組みだけではなくて、選任過程から国民が参画できる制度、さらには、識見のある民間人の最高裁判所判事への登用がさらに促進される仕組みにまで踏み込んだ議論を行わなければ、抜本的な改革はなされないのではないかというふうに考えております。
次に、2)の「ADRの充実」でありますが、「司法を国民により身近で開かれたものとし、また司法に多元的な価値観や専門知識を取り入れる」ために、現行の裁判制度の改善のみならず、裁判に行く前に、国民参加による紛争解決手段、つまり裁判外紛争処理機関の充実といったものも、一つの方途として検討されるべきではないかと思います。
これまで日本の裁判は、国際的にも高い水準にあったことは間違いないことなのでしょうが、昨今の経済情勢の変化に伴い、特許や商事紛争は、専門化、複雑化、国際化して、利用者の利便性や納得性という点については必ずしも満足のいくものとはなっていないと思います。特に、商事紛争等においては、必ずしも明確な判定が望まれているわけではなく、双方にとって納得性があり、迅速に解決されることに重きを置くケースも多々あるはずであります。裁判との連動性をきちんと確保した上で、市民や専門家による裁判外の紛争解決手段を確保することは、事案の性格に応じた多様な紛争解決ルールの選択肢が広がるとともに、専門性、迅速性の観点から、国民主導の制度として有益なことと思います。
以上が、国民の司法参加についての私の考え方であります。御清聴ありがとうございました。
【佐藤会長】どうもありがとうございました。
それでは、次に髙木委員、よろしくお願いいたします。
【髙木委員】それでは、レポートさせていただきたいと思います。要点のみにさせていただきます。
今、なぜこの司法参加のことが大きな重大なテーマとして検討されるに至っているのか、その辺の認識を是非審議会として共有して今後議論をしていく必要があろうと、そのことを強く思っております。
日本国憲法が施行されて以来53年余が経つわけでございますが、どうもいろいろな分野を見てみましたときに、司法の分野における国民の参加というのが一番遅れているのではないかということで、ペーパーには若干失礼な表現も書いておりますが、こんなふうに遅れさせてきたのは何が原因だったのかということについて、法曹三者の皆さんや、司法制度にいろいろ関わり合いを持ってこられた学者の皆さん等は、こういう現状についてどういう御認識をなさっておられるんだろうかということを、国民はいろいろお聞きしたいと思っているのではないかと思います。
そういう意味で、たまたまこういう審議会の機会が、それも大きな改革を求められているときの審議会が、国民の司法参加につきましても、その参加のレベルを大幅に上げるように努力するのが当然ではないかと思っております。
最初に司法参加の意義でございますが、司法参加の意義はいろいろ申し上げるまでもないんだろうと思います。司法参加のレベルを上げるということは、三権の中での司法を、立法・行政に対してより拮抗力のあるものにできるという、その辺の意味を我々はよく認識をしておく必要があるのではないか。私は、12日は欠席でございましたが、頂いた最高裁のペーパーでは、3ページだったと思いますが、「裁判は多数の者の利害や感覚によって左右されるべきものではなく、論理と証拠に基づいた理性的かつ合理的な判断でなければならない」と書かれています。すらすらと読んじゃうとこういうことかなと思うんですが、もう一度読んでみると、あれ、おかしいのではないかというふうに読めちゃったりしまして、そういう意味では、やはり最高裁の方の御認識は先ほど石井さんのレポートにもございましたが、まだまだ国民はそういうものに耐えられないんだと、そういう意味では国民の意識や能力はまだまだ参加の名に値しないんだという低い評価を前提にされているというふうに読むのがこの項のごく自然な読み方かなと感じられました。もし、そういうことであれば、国民がこのように最高裁に認識されているということについて、どんなふうに感じるんだろうかなと思うわけでございます。
それから、参加をするということは、やはり分かりやすい裁判ということを求めるんだろうと思います。従来、専門家としての法曹の皆さんにいろいろな手続、あるいは判断を独占的に委ねてきたわけでございますが、それを国民にもある一定の役割があるんだということで議論をしていくとすれば、必然的に分かりやすい裁判、したがいまして、分かりやすい裁判が求めるいろいろな手続やルール、そんなこともいろいろ議論になるんだろうと思います。専門的なことはまた専門家にお任せするにしても、その前提になります専門家としての法曹の皆さんの意識、感覚をやはり大幅に変えていただく、これは論点整理にも書かれておりますが、専門家である法曹の皆さんは、国民が司法へ参加することによって、裁判の主体的な担い手から、国民の援助者あるいは国民の社会生活上の医師へ、そういう方向で意識改革をなさっていかれることが求められているのではないかと思います。
それから、日本の歴史を振り返ってみますときに、司法参加という意味では、昭和3年から18年まで15年間、陪審制度が導入されてきたということを直視してみる必要があると思います。
現在停止されております陪審制度は、大正デモクラシーと言うんでしょうか、そんな時代にいろいろ議論がされたこともお聞きしておりますが、当時の政府の説明ぶり等もペーパーに記載をいたしておきました。ただ、制度的に、いろいろな議論の結果で致し方がなかったんでしょうが、重大な欠陥をいろいろ持っていたこと等も含めて、それから併せまして、当時の時代が特に昭和10年に入って以降は、まさに戦争遂行の時代であったことも陪審制の定着・発展に大きな影響を与えたと思われます。そういう不幸な時代にたまたま陪審制度が施行されていたが故に、そういう背景も含めて考えなければいかぬのではないかと思います。なぜ陪審法がこんなふうになり、それからまた、18年に停止されてから戦後になりましても、なぜ復活させられないで今日に至っているのか。その理由として、中原精一先生という方が、『陪審制復活の条件』という本の中で3点挙げられておりました。一つには、終戦直後のいわゆるGHQの思惑と、公職追放を免れた裁判官の皆さんの消極性。二つには、陪審法の不備に触れることなく制度の運用の表面的実績についてのみ目を向けた結果、陪審制度について極めて低い評価を司法関係者の皆さんが与えてしまったこと。三つ目には、文化や国民性論による反対、この3点を指摘されておりました。
我が国における国民の司法参加は、この歴史的経緯の中で、陪審制度を棚の上に上げて、ほとんど顧みることもないまま放置してきた。そのことに象徴的なように、冒頭申し上げました状況に至っているのではないかと思います。遅きに失したと思いますが、今まさに陪審法復活、勿論、そのままの内容ということではないと思いますが、国民の司法参加のレベルを向上させるためには陪審法の復活、あるいは新しい陪審法づくりというのでしょうか、それが今必要なときに至っていると思っています。
あと国際的なことにつきましては、言わずもがなかと思います。
それから、ちょっとくどいようですが、なぜ今、国民の司法参加が議論されるに至ったのか。裁判の現状に対する国民のいろいろな批判を、どうしても指摘せざるを得ないと思います。
特に裁判所は、裁判あるいは裁判所に対する外部からの批判を、司法の独立に関する干渉、時には雑音だというふうに御認識なさって、そういった声を無視されてきたのではないか。あるいは例えば、最近も話題になりましたが、国会議員の定数不均衡に関する憲法判断の問題、具体的に言えば、憲法判断における著しい消極性、著しく低い令状却下率に見られる捜査機関の監視への熱意のなさ、タクシー運転手を「雲助」呼ばわりしたことに見られる社会性の欠如、犯罪被害者への配慮の乏しさ、あるいは裁判所の運営等の不透明性等々、一般の国民から見れば、見逃すことのできない問題点がありますが、こういった例は最近も少なくないのではないかと思います。
こういう裁判所に対する見方、あるいは裁判に対する国民の感じ方、そういう意味で国民の司法参加のレベルを上げることは裁判所・裁判官への国民の信頼を高めるという意味でも、あるいは司法の独立を補強するという意味でも、その意味が大きいのではないかと思うわけでございます。ところが、かねてより本審議会でも指摘されております司法の役割というのが、どんどん大きくなってきております。そういった面からも、あるいは現在の裁判所が、他の二権に対して消極的であること、そんな面も含めまして、司法の役割が高まる中で、司法参加というのも広げていく、それも飛躍的に広げていく必要があるのではないかと思います。
勿論、現行制度におきましても、調停委員や司法委員制度などいろいろな制度がありますが、これは論点整理もそういうニュアンスで認めておりますように、いずれも司法の周辺業務と言われるにすぎないのではないかという認識もあります。そういう意味では、司法の中核であります裁判手続への国民の参加は、全く不十分だと言わざるを得ない。このような背景を踏まえて、国民の司法参加の議論をしなければいかぬのではないかと思っています。
さらに、司法参加にはいろいろな面がありますが、陪・参審だけではありませんということも申し上げておかなければなりません。
それから5ページに、訴訟手続への国民参加。私は、陪審制度が、勿論いろいろ検討しなければならぬポイントがたくさんありますが、最も望ましいのではないかと思います。
理由として、統治主体意識に立った国民になっていかなければいかぬという要請に応えていくという視点です。今までは統治客体である国民を前提にするかのような制度、あるいは運用が多いわけでございますけれども、そういう意味では国民主権、統治主体意識といったものの覚醒のために、陪審制度が果たす役割は大きいだろうと思います。
参審については、国民参加の形態の一つではあると思いますが、これはあくまで主導権は裁判官が持つ制度であり、あるいは裁判官も参審員と同等の権利を持つ制度であり、陪審制度とは根本的に理念が違うのではないかと思っております。
それから、当然、陪審では今までの裁判官の役割が大きく変わりますから、あるいはそれに伴って検事さんあるいは弁護人の役割もいろいろ違ったものになりますから、当然意識改革が求められるわけでございます。そういう意味では、裁判官あるいは検事さん、弁護人の役割もかなり変わるのではないかと思われます。まさに陪審員である国民を対象にした活動というんでしょうか、そういった活動が行われなければならないということで、三者の皆さんの役割もかなり違ってくるわけでございます。
ただ、参審制度では、裁判官がやはり事実認定についても参加をされるわけですから、その辺は陪審と参審では意味が違います。あとは歴史的な問題ということをちょっと申し上げましたが、また、憲法論との葛藤、憲法論の関係はいろいろなお説があると思いますが、私自身は、日本国憲法の前文からずっと流して読めば、あるいは終戦直後の日本政府のいろいろなところでの答えぶり等を見れば、当時も憲法問題はクリアーできるという認識があったというふうに受け止めていいのではないかと思っております。あと、陪審に関するいろいろな検討課題がございますが、箱に入れておりますことはお読み取りいただきたいと思います。
次に参審ですが、陪審とは全く違うと言っていいのか、少なくとも理念が大分違うのではないかということを前提にしながら、どういう分野の事件について採用すべきなのか、検討してみる必要があると思います。参審制度が有効に作用する、あるいは有効に使い得る、そういう領域があるなら、その分野で採用したらいいのではないかと考えます。9ページに、参審制度が考慮される事件分野の例ということで、労働のことだけ挙げておきましたが、ほかにもあるんだろうと思います。ただ、参審制度には、一般参審、専門参審、これも一般参審と専門参審はかなり制度としては違うものだと認識していますが、ただ、広く参審制というときには、一緒に論じられる向きもありますので、とりわけ専門参審については、例えば、医療過誤事件等に関わっておられる方々の御意見等をいろいろな場でお聞きしますと、この専門参審に対する疑問といいますか、懐疑論が、現に医療過誤の事件に関わっておられる人たちからは、非常に強く出されています。そういう反対論がどの辺から来ておるのかということについても、十分吟味をしなければ、分野によっては専門参審制度は導入できないのではないかと思ったりもしております。
労働事件の場合は、少し専門参審とは意味が違うと思っておりますが、これはまた別途の機会に議論の機会がいただけるということですので、詳細はそのときに発言させていただきたいと思います。
なお、前回のヒアリングで、最高裁が参審制度にお触れになり、評決権のない形で一般参審員が参審するという御提案であったように読み取りましたが、これだったら今の裁判に、若干は変わるのかもしれませんが、あくまで事実の判断の主体は裁判官ですということでして、その前提に、先ほど申し上げたことと重複するのかもしれませんが、裁判官の判断の方が国民の判断より正しいんだという想定があるんでしょうか。本当にそうした想定がそのとおりに立証されるんでしょうか。国民の判断も勿論裁判官の判断より勝っているということも言えないんだろうと思います。要は、どちらも論理的にどっちの判断の方が正しいということを決め付ける論拠を持ち得ないのがごく当然の見方ではないか、そういう意味では、一般の国民がそういう事実の判断等に参与することをどうして排除させようとされるんですかと感じました。その理由の一つとして、憲法との関係をおっしゃっておられますが、憲法との関係等につきましては、陪審のところで同じようなことを申し上げておりますので、お読み取りいただきたいと思います。
もう一つ、これは12日の前の日曜日(9月10日)の朝日新聞の朝刊にも書かれていましたし、あるいは12日のこの審議会のヒアリングのやり取りでも、裁判官会議の議を経ているというお話がありました。そういう裁判官会議の議を経ながら、憲法の解釈論等も理由の一つとして付し、参審員は評決に参加させないという御判断をなさったということのようです。こういう御判断のされ方というのは、どういうふうに考えたらいいのか、10ページの冒頭にあえて、こんなことを書くのはどうかなと思いましたが書かせていただきました。具体的なある事案の審理を通して合憲、違憲論を審理されたわけではないと思います。また一方で合憲説もいろいろある、合憲説にもいろいろなレベルの注釈が付いておりますけれども、そういう中で、最高裁が違憲を理由に、あるいはそのように読み取れるかのごときの表現を用いて、こういうふうに裁判官会議で御決定なさることの意味、勿論、最高裁のペーパーはその辺をいろいろ気になさったんだろうという意味で、「第一次的には立法機関において」という断りを入れておられますが、たとえこういう断りがあったとしても、ある意味で立法権に対してある種の制約を加えているというふうに言える面もあるんだろうと思います。この点についてどのように国民に御説明なさるのか、説明責任はあるんだろうと思っております。
その後の3行はちょっと失礼かと思いますが、日ごろ具体的な事件においてすら、違憲判決を下すとき極めて慎重な最高裁の姿勢からすれば、このような一般的、抽象的な課題について違憲論を展開することは、まさに異例ではないか。そういうような例が過去にあったのかなかったのかよく存じませんが、かつて昭和45年に、これは最高裁の事務総長の名前で、裁判所職員のプレート、リボン等の着用行為について、という数行の依命通達というのがありますが、これも一番下に右は裁判官会議の議を経たものでありますという通達が出て、このときも同様な議論が、どの程度の議論が出たのかよく知りませんけれども、あったというようなことも聞いております。これは表現の自由にかかわる問題であり、どうも、それ以来のお話ではないか、詳しいことは私はよく存じませんが、そんなことをお聞きしたことがございます。
あとは、時間もありませんのではしょることになりますが、専門参審については、先ほど申し上げましたように、私は若干否定的というか、懸念を持って見ております。
次に、「裁判官の選任・人事」ということで、選任過程への参加の問題、これは先般の8月の集中討議のときにもいろいろ議論になった点でございますが、選任過程を、もう少しオープンに透明性の高いものにしていく、この点については、合意になっているのではないかと思っております。
具体的には、下級審の裁判官の選任過程の問題、これは諸外国にはいろいろな工夫、経験があるようでございます。
それから最高裁の裁判官の選任過程、ただ、最高裁の裁判官15名おられるわけですが、現在15名の方は、裁判官6、弁護士4、検察官2、行政官2、学者1、こういうとらえ方がいいのかどうか分かりませんが、いわゆる官の御出身の方が10名ですか、昨今のいろいろな国民の権利に関する判決は、官の御出身の方と民の御出身の方によって意見が大きく分かれるケースが多いようでございます。そういう意味で、この15人の構成からそもそも判決の傾向というのは予見できるのかなどという若干ひがんだ感じ方かもしれませんが、そんなふうに感じる国民も多いというふうに聞いております。
最高裁の判事の方の選ばれ方についても、終戦直後には諮問委員会的な仕組みもあったやに聞いておりますが、いつの間にかなくなっております。選考委員会みたいなものも要るのではないかと思います。
それから、国民審査を最高裁の判事について国民にさせているということは、国民がちゃんとした判断ができるはずだよという想定があるんだろうと思います。今は、形骸化といいましょうか、実質的にどこまで国民の間にこの意義が認識されておるのかという意味で、非常に憂慮すべき状態ではないかと思います。
抜本的に根っこから議論すべきという議論もありますが、これを続けるということであれば、とりあえずどんなことから直していけるのか、今は、×だけ付けろというもので、何も書いていないのは全部信任ということになっています。だから、何も書いていないのが信任なのかというところに、いろいろ難しい議論もあるんだろうと思います。
次に、裁判官の人事評価への国民の参加の問題でございますが、これにつきましても、私も2度ほど御質問をさせていただいて、いろいろお答えをいただきましたが、まだ裁判官評価のルール、あるいは手続等の全容というか、まだなかなか分からないというのが実態でございます。またお尋ねをするかもしれませんが、いずれにしても、もっと透明性を高く、あるいは客観性をきちんとしていく。それに並行して、いろいろな制度に問題があるとしたら、そういう制度も直していただく。一つの考え方として、最高裁事務総局による一元的かつ中央集権的な人事管理というのをもう少し分権的になさったらどうなんだろうかとか、いろいろな御意見もあるわけでございます。
次に、裁判所の運営への参加ということで、これにつきましても、裁判所の管理運営は、すべて最高裁事務総局に一元的かつ集権的にその権能が委ねられているというふうにお聞きしておりまして、こういう仕組みをもう少し分権的に、あるいはもう少し民主的にといいますか、例えば、各所における裁判官会議の在り方などが実態的に本来求められているような在り方になっているのか、というような指摘もありますので、そんなことも踏まえていただきながら、裁判所の機構と運営の在り方について、これをもう少し国民にオープンにされながら、国民の参加も得て議論をされていく必要があるのではないかと思います。
それから、裁判所も利用者本位になって、裁判所の機能のすべてがサービス業的だとは言いませんが、一面、対国民という意味で、もう少しサービス精神等も強めていただいていいのではないか。これもある家裁でのことですが、託児所がないものですから、子供さんを連れてきたお母さんなどは本当に困っておられた。廊下などで子供さんがはいずったりしている。勿論これは物理的な設備の問題という面もありますので、そう一遍にはいかないのかもしれませんが、たまたま託児所のことを申し上げましたが、いろいろな意味での配慮も必要だと思います。
それから、刑事にしろ民事にしろ、国民は裁判に参加をして、この裁判の進め方等について、なぜこうなんだというような疑問をいっぱい持っているんですが、そういったものを利用者としてどこに問題提起したらいいのか。かつて目安箱を置かれた裁判所があったらしいですが、すぐ撤去されたそうで、そういうお話をお聞きしましたが、裁判所に対してどういうように問題提起ができるのでしょうか。
それから、今回の論議がほとんど裁判所の問題で、法務省、検察庁との関係での国民の司法参加という視点でいろいろ議論が求められる項目が何故ないのか。よく勉強しておりませんけれども、ここにも国民の参加が必要な面があるはずではないかということだけ指摘しておきたいと思います。
調停制度、司法委員制度、参与員制度については、それぞれ委員になっておられる方々の御努力にもより、相当の成果を上げているんだという御評価もあるというふうに聞いておりますが、ただ、いずれにしても制度の限界みたいなものの中で、御努力をされているという、そういう意味では、現行制度の問題、ここにあえて補助的な制度だとか、そんなことを書きませんでしたけれども、制度の限界がおのずとあるのではないかと思っています。
それから、裁判外の紛争解決という面も、こういう委員の皆さんは、ある部分、あるいは相当の部分で担っておられます。ADRについては、これは先ほど石井委員もお触れになりましたが、新民訴の施行で旧法の第8編というのは切り離されたんだそうですけれども、この仲裁に関する法律、これは今検討が少し中断されておるんですか、そういう状況のようですけれども、この中でやはり準司法手続も含めたADRへの国民参加といったことを促すような、そういう趣旨も是非この法律に書き込んでいただく方がいいのではないかと思っています。
あと、検察審査会につきましても、いろいろなとらえ方があるようですが、とりあえずということで言えば、議決への法的拘束力の付与を検討すべきだと思います。
最後に、くどいわけですが、やはりもう少し国民に統治主体としての意識と努力というものを求めるのに、余りにも後ろ向きな議論が過ぎるという印象が私にはあります。国民は、検察審査会にずっと参加された、あるいは準備員として待機された方々も含めて、日本国民というのは潔癖だから無理だというのではなく、潔癖であるということはきちんとやれるという面も持つわけでございまして、もう少し国民を信頼する形での司法参加を考えていければよいと思います。根本的には国民に対峙するという感覚ではなく、国民とともに、あるいは国民に支持されるというんでしょうか、そういう選択を今我々は問われているんだと思います。
国民が主体となるに相応しい司法制度というのが今求められており、そのことを実現しないで改革というなかれということを重ねて訴え、私のレポートを終わらせていただきます。ありがとうございました。
【佐藤会長】どうもありがとうございました。
それでは、吉岡委員、よろしくお願いいたします。
【吉岡委員】ペーパーに沿ってレポートさせていただきます。
ペーパーの内容としましては、初めに基本的な考え方。次に国民参加に関する根本理念について。それから訴訟手続への国民の参加の問題。それと憲法論を巡っていろいろ意見がございますので、その点。それから裁判官の任用手続等の問題。現行司法制度。そして「おわりに」という、そういう構成で用意いたしました。
現行司法制度については、項目だけしか挙げないということで、ここのところは省略させていただこうと思っております。
まず、「はじめに」で私の考え方、その裏付けになっているものを挙げさせていただいております。憲法学者もいらっしゃるところで憲法前文を書いているというのは僣越かと思いますが、前文では、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである」と主権在民を明確にうたっています。
当審議会の「論点整理」においても、「国民一人ひとりが、統治客体意識から脱却し、自立的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画していくことが、21世紀のこの国の発展を支える基盤である」という認識で一致しております。さらに、国民の司法参加については、「21世紀の我が国社会において、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている」としています。したがって、真にこのような社会像・国民像への転換を求めるのであるとすれば、積極的に国民に協力と理解を求める提言をするべきではないかと考えます。
また、「論点整理」では、「主権者たる国民の公的システムへのかかわり方も多面的な広がりを見せようとする中、司法の分野においても、主権者としての国民の参加の在り方について検討する必要がある」ということを触れております。司法制度改革の基本が国民主権に根差したものであるという見解で一致していると考えられます。
そのような議論と提言に際して必要なことは、骨太の考え方であって、余り専門的な技術論にはまり込まないことが重要ではないかと考えます。むしろ専門的な技術論にはまり込んでしまうということは、基本的な思考からずれることに留意しなければいけないのではないかと思います。
新憲法が施行されて半世紀以上になるというのに、これまで国民参加の議論が広がりを見せてこなかった原因の一つはそこにあるのではないかと考えております。
国民の司法参加は、国民が統治主体として司法にどう関わるかという視点が基本であるということが私の基本的な考え方です。国民参加に関する基本的理念につきまして、前回9月12日の法曹三者のヒアリングで、特に最高裁と日弁連との意見の違いが明確にわかってまいりました。とりわけ印象深かったのは、裁判と国民に関する根本姿勢の違いです。
ヒアリングにおいて最高裁は、「陪審法が停止されたままとなっている理由については様々な意見があるが、基本的には、我が国においては、この制度を復活させるだけの政治的、社会的エネルギーがなかったということに帰すると思われる」と述べています。しかし、終戦後の陪審復活論は非常な高まりがあり、その高まりに当局も陪審の実現には努力したいと述べられていたほどであるということを日弁連は述べています。
また、最高裁は、「裁判作用をどこまで直接国民の手にゆだねるべきか」、「裁判は多数の者の利害や感覚によって左右されるべきものではなく、論理と証拠に基づいた理性的かつ合理的な判断でなければならない。近年、裁判の対象とする事象はますます複雑化し、専門的な知識が一段と重要になって」いると述べています。これに対して日弁連は、「21世紀には、地域社会・コミュニティの問題は、その構成員である市民自身が責任をもって解決していくような社会の在り方が求められる。社会の公器たる司法の在り方もまたしかりである」と、司法権の行使においても、自治と参加の理念を考えなければならないということを述べています。
このように意見の対立が明確に出たということを申し上げましたが、最高裁の意見に、私は四つの問題点があるのではないかと考えます。その4点について簡単に触れます。
その第1は、主権についての考え方です。裁判作用をどこまで直接国民の手に委ねるべきか云々という発想は、司法権はそもそも裁判官に帰属しており、どこまで国民に解禁していくのかという発想ではないでしょうか。私は司法権も、本来は国民に帰属していると考えますので、ここのところは根本的に違うところです。
第2は、国民観です。裁判は国民にはできないものだと考えているのでしょうか。国民は「多数の者の利害や感覚によって」判断するというのでしょうか。国民は「理性的かつ合理的な判断」ができないというのでしょうか。私は、日本の国民は最高裁が危惧するほど愚かではないと考えます。
第3は、裁判手続観です。これまでの裁判が国民にわかりづらいものであるということを、多くの国民が指摘しているところです。最高裁のヒアリングでは、こうしたことへの反省がないように思えます。裁判が重要であるからといって、国民に分かりにくいことの免責にはならないと思います。
第4は、社会観です。それは来るべき21世紀社会との関係で司法が論じられなければいけないということです。
最高裁は、当審議会からの「21世紀のわが国社会における司法に対する国民参加の意義」についての質問に対して、来るべき社会像との関連で具体的に回答していらっしゃいません。21世紀社会の具体的な展望なしに、あるべき国民参加が論じられるでしょうか。
当審議会は、最高裁が前提とするような国民観、社会観を変える必要があると認識して検討を重ねてきたはずだと思います。私たちが論点整理で確認し合った「21世紀の我が国社会においては、国民は、これまでの統治客体意識に伴う国家への過度の依存体質から脱却し、自らのうちに公共意識を醸成し、公的事柄に対する能動的姿勢を強めていくことが求められている。そして、地方分権の推進に伴い、地域における住民の自立と参加が今後一層重要視され」るという考え方が、確認された認識ではないかと思います。
ここで「統治主体意識」「公共意識の醸成」「公的事柄への能動的姿勢」「地方分権の推進」「地域における住民の自立」、これらのキーワードが示す先は、おのずから明らかであり、それは「陪審制度」であるというのが妥当と考えます。
次に、訴訟手続への国民参加。これは陪審・参審の問題として取り上げました。
第1に陪審制度について。国民の陪審制度に関する意識として、陪審制度導入の問題として、日本人には向かない、社会的合意が得にくい、報道による影響を排除できない等の指摘がありますが、本当に、陪審制度は日本人に適さないと言えるのでしょうか。
参考資料の中にも載せられておりますが、読売新聞が司法参加に対する国民の意識調査をしていらっしゃいます。平成10年と11年、この二つが載っておりますけれど、それによりますと、日本の裁判について改善すべき点として、迅速性、費用を安く、あるいは公開の問題等がかなりのウェートを占めております。また、アメリカのような陪審制度を取り入れるべきだが14.1%。最高裁判所以外でも裁判官に有識者を加えるべきだというのが12.6%で、国民の司法参加についての意見がかなりたくさんあることが報道されております。また、同じ読売新聞の平成11年の3月の調査を見ますと、市民感覚を取り入れるために一般市民が裁判に加わる制度を導入すべきだとする回答が過半数の51.2%に達しています。この二つの調査は、勿論、設問等も違いますが、少なくとも国民の司法に対する関心が高まってきているということを証明する材料になると思います。
また、アメリカの陪審制度に関する市民意識について、これはアメリカでの話ですけれども、陪審員のなり手がないため老人と仕事のない人が多いとか、無罪率が高くなるとか、被疑者と陪審員の皮膚の色の問題を取り上げて陪審員の人種の比率によって判断に差が出るのではないか。あるいは、12人の陪審員の中で声の強い人の意見に引きずられるのではないかなど、種々の問題指摘をする声がありますが、私が今回アメリカ視察で見聞した陪審制度は、そのような風聞を払拭するものでした。
また、陪審員候補の選定が公平に行われると同時に、国民の義務としてアメリカでは根付いているということ。それから、正当な理由なしには拒否はできないという、それも義務という考え方ではあるわけですけれども、その制度上の整備はもとより、国民の意識はしっかりした義務感の上にあるということが実感として納得することができました。
また、アメリカのABAの、市民の意識調査が紹介されておりますが、ここでも陪審員制度に対しての市民の評価が非常に高いということを申し上げておきたいと思います。
また、日弁連が先日のヒアリングで出されました資料、検察審査会経験者へのアンケート結果によりますと、ここでも経験者たちは検察審査会という負担に意義を見出して、圧倒的な多数が検察審査会制度を支持し、陪審制度の導入を支持し、陪審員の負担にも国民の理解が得られるという回答をしています。
これらを見ても、私は陪審制度は、日本人には向かないという合理的な根拠がないのではないかと考えております。
他方、規制緩和の進展による自己責任原則、事前規制から事後チェックへという流れの中で、国民が自分の権利を守るためには、司法が果たす役割は、ますます重要になってくると考えます。司法が国民にとって身近で利用しやすいものでなければならないと同時に、国民の司法への積極的な参加は不可欠であり、陪審制の導入は、国民の司法への関心を高めるという上でも大きな効果を有すると考えます。
国民参加に関する諸論点といたしまして、とりわけ陪審制度、参審制度についての意見の対立があります。これらの点について、利用者、あるいは参加者としての国民の視点から、陪審のデメリットとされる幾つかの論点について考えを述べたいと思います。
まず、国民の負担について、最高裁は、「陪審制は国民に極めて大きな負担を求める制度」と述べています。参加する国民の立場からすると、確かに自分とは関係のない事柄について、裁判所に呼び出され、審理に立ち会い、評議をして結論を出すのですから、負担であることは事実です。しかし、国民は負担の掛かっているものはすべて嫌悪するでしょうか。社会経験が示すところでは、国民にとって重要な点は、負担に意義が見出せるかどうかということではないかと思います。各種のボランティア活動やNPO活動はその証ではないでしょうか。そして、もし、そこに意義が見出せるのであれば、それはデメリットではなく、メリットに転化するはずです。その意味で、先に述べた検察審査会委員の経験者へのアンケートは注目に値すると思います。
レジメでは検察審査会についての説明を少し書いておきましたけれども、これはカットさせていただきます。
司法への国民参加制度、とりわけ陪審制度については、これまで十分な情報が国民に与えられてきたとは言えません。今、求められているのは、国民の負担感ばかりを強調するのではなく、その制度の意義について十分な情報を提供し、国民の理解を得る努力ではないかと思います。
次に冤罪について。最高裁は、特にアメリカの陪審制を例に、陪審裁判はかなり高い比率で誤判が生じている、アメリカの実務家と話をすれば、陪審が多くの間違いを犯すことを当然の前提として考えられているなどと述べています。
しかし、これらの意見は、現地を調査した私の感想とは全く違います。アメリカでは専門家、非専門家を問わず、陪審制度に対して高い信頼を寄せています。それは私の感想だけではなく、先ほど述べたアメリカのABAの調査でもこれを裏付けています。また、もし最高裁の言うとおり、それほど問題のある制度であるとしたならば、当然アメリカでは廃止の議論がされてきたはずですが、そのようなことを私は聞いておりません。
アメリカの誤判は陪審制度が原因なのか、そして陪審裁判を経験しているアメリカの実務家の陪審裁判官はどのようなものなのか、詳しく検証する必要があると考えます。
むしろアメリカにおいて陪審制度は国民主権の具体的制度として、また、民意を裁判に直接反映させる制度として、社会に深く根付いていると言えます。それは陪審裁判を利用する当事者としての国民の立場からも、また、陪審裁判に参加する陪審員としての国民の立場からも同様と思われます。
根拠の明確でない一方的で断定的な評価は、国民に不安感を与えるだけで、建設的とは言えません。法律専門家には、陪審制度を採用した場合にも、誤った裁判が起こることを少なくする技術的工夫こそが求められると考えます。
さらに、冤罪について付言すれば、現在の職業裁判官の判決でも、少なからず誤りのあることを謙虚に認めるべきではないでしょうか。
評決が結論のみであるということでブラック・ボックス化しているという問題についてですが、前回のヒアリングにおいての議論で、ブラック・ボックス化を理由とした陪審制への批判がありました。しかし、利用者の立場から見れば、利用者は必ずしも評決過程が文章化をされることを期待しているわけではありません。むしろ証拠調べや弁論などが法廷で分かりやすく行われること、国民の代表としての陪審員が、社会常識に基づいた、様々な視点から討議することこそが期待されるのでないでしょうか。
その他の論点について、最高裁は、集中審理に対する弁護体制、実体法及び手続法の全面的見直し、報道規制なども、陪審制導入のための必要条件としています。しかし、冒頭で述べたとおり、これらの技術的論点は、当審議会で議論するというより、今後、法律専門家が力を合わせて国民のために解決していくべき問題だと思います。
次に利用者の選択権について。法曹三者の意見には明確に触れられていませんが、利用者の選択権の視点から、国民参加制度について論ずる必要があります。
現在の訴訟制度は、裁判官による裁判という一つのメニューしか国民に提供していません。これは国民に広く選択権を与えていく社会の在り方から見ると異例と言えましょう。むしろ利用者である国民が法律専門家だけによる裁判を求めるのか、法律専門家と国民代表が役割を分担する裁判を求めるのかの選択ができるということが、法や裁判というものが社会常識に従って行われなければならない以上、当然ではないかと考えます。
参審制については、髙木委員も触れられておりますし、私の考え方も、髙木委員とそう違いはないと考えますので、ここのところは割愛させていただきますけれども、やはり参審制度と陪審制度では、主導権を国民が持つのか、裁判官が持つのかという基本的な理念が異なるというところを留意する必要があると思います。
最高裁は、評決権を持たない参審制の導入を提案されていますが、これは国民の司法参加に関して、当審議会の統治客体意識から脱却し、主権者として国民参加の在り方を検討するという考え方とは相入れないものだと考えております。
次に憲法論を巡る意見対立についてです。国民参加制度と憲法との関係についても意見の対立があります。基本的には最高裁は、「陪審制について憲法問題を回避するためには、旧陪審のように陪審員の事実認定に裁判官に対する拘束力を認めないような形態のものが考えられるであろう。また、参審制について憲法上の疑義が生じないためには、評決権を持たない参審制という独自の制度が考えられよう」と述べております
しかし、国民の立場から見ると、奇妙な論理に思います。ここに窺える発想は、できる限り国民の影響を排除しようという姿勢ではないでしょうか。勿論、国民が主権者だからと言って、国民に何もかも任せるというものではありません。しかし、主権者である国民を法律専門家としての裁判官がどこまで援助できるか、どのように協力すべきであるかという視点から議論すべきではないでしょうか。現在の裁判官の職権に全く変更を加えないことが合憲の前提となるのではなく、国民主権の観点から、国民とどのように分担し合えるかが真剣に議論されるべきだと考えます。
その視点からすると、少なくとも司法権の内容のうち、法律判断や手続運営については裁判官に、事実認定については国民代表に、それぞれ独立した職権を与えることは何ら憲法に違反するものではなく、むしろ国民主権を理念とする憲法が期待するところと言えます。
我が国の陪審の歴史と憲法の問題。この歴史についてはもう既に何回か触れられておりますので、あえて説明する必要はないと思います。
新憲法と言っていいのか、現憲法と言うべきか迷いますが、ここでは私は新憲法という表現を使います。新憲法制定時に陪審制度がなぜ入れられなかったのか。この理由については、参考資料の20-1以下のところで書かれております。
その理由として、日本での陪審制は失敗したという進言があったと言われておりますが、公式見解は憲法に明文化しなくても、陪審制度の導入は憲法違反にはならないというものであったと考えられます。
竹下委員が兼子一氏との共著で『裁判法(第四版)』、有斐閣の出版のものですが、この中で「司法への民衆関与」について、我が国現行法上の民衆関与において、我が国では、第二次大戦云々というところで、「刑事裁判に関して陪審制あるいは参審制の復活ないし導入が検討されていたが、いずれも採用されるに至らず」とされ、更に説明がされているわけですけれども、ここの説明のところを読みましても、憲法に明文化されていなくても陪審制度の導入は合憲ということが、日本政府の公式見解となっていたということが明示されておりますし、また、明治憲法24条では、法律に定めたる「裁判官の裁判」を受ける権利となっていたのが、改正憲法では、「裁判所において」ということで改められている。それも合憲の重要な根拠とされています。「憲法に直接に規定せざるも新憲法の下に大体アメリカ式の陪審制度が実施せらるるものと考ふ」というような説明も入っておりまして、当時の政府の見解は、陪審制度の導入は合憲であったと解釈するのが妥当ではないかと考えます。
次に、裁判官任用手続・選任過程、裁判所運営等への国民参加についてです。
まず、最高裁判所判事の国民審査制度につきましては、現行の制度がほとんど形骸化しているということを髙木委員も触れられたところです。今のところ、そうは言っても、最高裁判所の判事に関して、国民が関与できるのは国民審査しかありません。審査対象の裁判官に関しては、簡単な紹介等は審査に先立って公報等でされていますが、確かに無関心層が多いということは否めません。
なぜ国民の関心が薄いのでしょうか。私は現在の国民審査は民意を反映できるシステムとして機能していないというところにあると考えます。罷免が相当と考えられる裁判官を国民審査で罷免することは、事実上、不可能というのが実態です。また、罷免が相当と考える最高裁判所判事の名前の上に×を付けるというルール自体を知らない人も多く、○と×を付ける人も少なくありません。本当に民意の意向が反映できる制度に変えていくことが必要だと思います。
次に、下級裁判所裁判官任用手続への国民の参加です。現在の日本では、地裁等の下級裁判所裁判官の任命等は事実上最高裁事務総局に委ねられています。そのため、裁判官は最高裁の意向を意識し、司法判断にも影響があると言われています。真偽はともかくとして、このような見方がされる可能性があるというのが現行の裁判官任用制度ではないでしょうか。
国民の参加を考える場合、裁判官の選任、任用についても、国民の参加を積極的に検討するべきだと思います。この場合、アメリカにおける裁判官の評価制度などが参考になると思います。アメリカの場合に、国民参加の裁判官推薦委員会、あるいはABA、訴訟代理人等の直接関係者への評価を求める。そして州知事、大統領等が最終判断をするわけですけれども、こういう形で国民から直接に意見を聞くという制度ができています。ヨーロッパでもこのような制度があると伺っておりますが、やはりそうした選任・任用制度を考えていくべきだと思います。
それから、裁判官の評価への国民の参加も同様です。
次に、情報公開について。これは読売新聞のアンケートの中でも出ていましたけれども、裁判は基本的には公開ですが、これまで判決書や刑事事件の記録が被害者に開示されないなど、犯罪被害者の人権問題としても取り上げられてきました。この点については、一部改善がされておりますが、個人情報の保護について十分な配慮をするということは当然必要ですが、司法の情報公開についても検討する必要があります。
時間をオーバーしておりまして、最初に申しましたように、現行司法参加制度については、項目だけを挙げさせていただきました。
「おわりに」。国民の司法参加は、冒頭で述べたように、今回の司法制度改革の重要な柱の一つと言えます。「論点整理」で合意しているように、国民はこれまでの統治客体意識から脱却し、主権者として公共意識を醸成し、公的事柄に対する能動的姿勢を強めていくということが求められている。そういう考え方からすれば、司法の分野でも国民が主体的に参画することが必要であることは申すまでもありません。
こうした視点から、国民の司法参加を論ずる場合、陪審制度については早急に導入を決定し、実現に向けての条件整備に着手することが肝要と思います。
21世紀のこの国の司法制度が、主権者である国民の正義を実現するための道具として、国民の期待に応え得る制度設計を完結するためには、司法への国民の直接参加が保障される制度にすることが肝要と考えます。
以上です。
【佐藤会長】どうもありがとうございました。
それぞれお3人の委員から大変力のこもったお話をいただきました。本当にお忙しいところ、それぞれ用意していただきましてありがとうございました。
意見交換に移りたいと思いますけれども、時間も少し経ちましたので、ここで10分休憩して、22分に再開させていただきたいと思います。
(休憩)
【佐藤会長】それでは、時間がまいりましたので、再開させていただきたいと思います。
先ほどのレポートを踏まえまして、これから意見交換に入りたいと思います。お手元に前回の審議会のときにお配りしたものですけれども、「『国民の司法参加』審議用レジュメ」というものがございます。大体その順番に従って意見交換をしていただければと考えております。
多少前後しても結構でございますので、一応の目安というぐらいにお考えいただければと思います。まず最初に「国民の司法参加の意義・趣旨」についていかがでしょうか。論点整理が最初に書いてありまして、そして司法参加の意義・趣旨として、国民主権と統治主体意識、立法・行政・司法との機能の相違、あるいは我が国の司法への国民参加の拡充を求める声が今日出てくる背景といったようなことが書いてあります。これに必ずしもとらわれず、どういう視点からでもよろしゅうございますので、自由に御意見を開陳していただければと思います。
では、藤田委員どうぞ。
【藤田委員】司法の民主化という視点から、司法手続に国民の主体的参加を求めるという点は、これはもうコンセンサスといっていいのではなかろうか、ここに書いてあるようなことに異論はないんではなかろうかと思います。
問題は、その視点から具体的にどういう制度を構築し、制度設計をしていくかということです。総論的なところに恐らく異論はないように思いますし、私も異論はございません。
【井上委員】私も今の藤田委員の意見に基本的には賛成なのですけれども、そのことと髙木委員が1ページの下で指摘されている「司法と民主主義との間には、本質的に緊張関係がある」ということ、これは会長も論点整理のところでしたか、幾つかのところで御指摘になっていることですが、司法は多数決ではない、少数であっても理がある人の権利は適正に保護するのだということとの緊張関係をどういう形で、調和と言うと、また叱られるかもしれませんが、それを考えながら、国民参加の制度をどう設計していくのかというところが要点かなと思います。
そういう意味で、裁判所を弁護するつもりはないのですけれども、髙木委員が2ページで指摘され、吉岡委員も指摘されたと思うのですが、最高裁のペーパーで「多数の者の利害や感覚によって左右されるべきものではなく」とされているのは、私は素直に読みまして、いま申したような意味かと理解しました。個々の言葉の使い方に適切でないところがあるのかもしれませんけれども、多数決とは違うのだということを言っているだけのことかなと読んだのです。
【佐藤会長】司会者としての私が自分の意見を言うのがいいのかどうか分かりませんけれども、お3人の御報告を聞いて、そこで触れられているようにも思いますけれども、私個人として日頃感じていることを若干申し上げたいと思います。それは、国民の司法参加にかかわるもう一つの視点として、プロフェッションというものが21世紀においてどういう位置付けになっていくのかという問題もあるのではないかということです。
言うまでもないことですけれども、お医者さんの場合は、従来は全部俺に任せておけということだったんですけれども、次第にインフォームド・コンセント、自己決定ということが言われるようになり、それに対して最初は大分抵抗しておられたような感じですけれども、最近は大分様子が変わってきている。その対応が十分かどうかは別としてですね。自己決定ということとの関連で、お医者さんの執務の在り方といいますか、そういうものが従来と相当違ったものになってきているような感じがするわけです。
法曹の場合も、プロフェッションとして、今後、まさに21世紀の社会においてどういう位置付けになっていくのか、従来のように我々は専門家だから任しておけということだけでは済まなくなっていくのではないか。むしろ国民と有意的なコミュニケーションをどう図っていくかということに相当意を用いないと、国民の広い支持を受けて、力を発揮することが難しいんじゃないか。何か変なことがあると一斉に国民の総批判を受けて、プロフェッションとしての存在理由さえ否定されかねないような、そういう感情的な反発が生じる可能性さえあり得ないことではない。法曹がプロフェッションとしての役割を果たしていく上で、国民とのコミュニケーションをいかに図るかということに相当意を用いないといかぬのではないかという思いを強くしております。
私がかねて敬愛している東京大学名誉教授の村上淳一さんがこういうことを述べておられます。村上さんのお仕事から、かねていろいろ御教授を受けているんですけれども、最近出された『システムと自己観察-フィクションとしての<法>』の中でいろいろなテーマが取り上げられ、司法制度改革、法学教育改革ということにも触れられて、似たようなことが書いてあるのですが、ここでは、『「差異の寄生者」としての個人』と題する論文の中の一節を引用させていただきたいと思います。
「『ロースクール』を現代日本に移植しようという構想も、日本社会に根強く残存する成層的構造を市民の司法参加等によって打破する試みと結び付かないかぎり、結局は『疑似法服貴族』を生み出す時代錯誤の改革に終わり、それぞれのアイデンティティーを見定めるために『キャリア』に敏感になった市民による<キャリア>批判を増幅させる結果となるであろう」、と。
これはなかなか意味深長な文章で、解説しないと分かりにくいかもしれませんが、言わんとされる趣旨は御理解いただけるのではないかと思います。例えば、弁護士も敷居が高いとかいろいろユーザー側からの御指摘がありました。プロフェッションとしてある種の特権意識を持った人たちが社会に増えるというだけではかえってよくないわけであって、そういう特権意識を増幅させないように、しかし、プロとしての役割を十分社会に対して果たせるように、そういうことのための仕組みというものをこれから本当に考えないといけないのではないか。俺たちはプロ集団だということで一見強そうであっても、国民とのコミュニケーションがないと、何かの拍子にかえってもろく崩れる危険だってあるのではないか。私自身は大学人で、大学のことについて申し上げにくいところがあるのですが、大学は自治だ自治だと観念的に強調し過ぎた嫌いがあるように思います。学問のことは大学人でなければ分からないと思い過ぎたところがなかったか。気付いたときには社会との接点が相当細っていて、そして、今大学が直面する困難な状況が生まれてしまった。社会とのつながりの重要性に大学人が余り自覚を持たなかった結果こうなったんではないかという思いがあります。そういう意味で、この国民参加というのは、将来、プロと国民一般との関係をどういう形として築くかという問題を含んでいるではないかという思いが非常にしているわけであります。
コミュニケーションとしてどういう形が望ましいかは、さっき藤田委員もおっしゃったように、どういう制度設計が日本にとってふさわしいのかということになるわけですけれども、いずれにせよ、この問題を考えるとき、統治客体意識から主体意識へという観点とともに、プロと国民との関係の在り方についての観点も加味する必要があるように思います。
似たような気持ちは、行政改革に関係したときも抱いたことがあります。行政改革の際、非常に強い官僚批判がありました。私は、行政改革会議で、一方的な官僚批判はおかしい、行政改革は徹底的にやらなければいけないけれども、官僚を批判すればそれで済む話ではないということを何度か強調したことがあります。官僚をプロとしていかに扱うか、国民の視点からいかにそれを生かすかという観点が大事なんだということを申し上げたことがありますけれども、広く言うと、行政官も含めたプロと国民との関係という問題があるように思うのです。
村上さんがここでおっしゃろうとしていることは、まさにそういうことではないかと私として受け止めたわけであります。
ちょっと口幅ったいことを申しました。
【中坊委員】今の会長のおっしゃっている話で、本当によく分かるような気がする。私自身が弁護士として、いわゆるプロとして裁判に関係していまして、私は1990年に日本弁護士連合会の会長に立候補したときに、御承知のように、法廷に一輪の花をということを言って私は立候補したわけです。
私が司法改革という問題を考えた動機が、実はプロの我々の意識と国民の意識との間には相当の乖離がある。私は、もう40年こうして弁護士をやって、数多くの証人尋問等もやってまいりました。そして、まず証人について気が付きましたことは、証人は宣誓書を読みます。宣誓書を読むときに、手が震えておる。あの短い文章ですら声が震えて読みにくい人たちと、平然と読む人がおるんです。その乖離、格差というものはものすごい差がある。
その証言のときに、あの短い宣誓書ですら声が震えて読めない証人が数多いということを私は目のあたりに見て、しかも、証人尋問をする際に、最近は大分なくなってきたようですけれども、私たちのときは、100 人いたら100 例とも、証人のときに、弁護人側が横から尋ねますが、答えは正面の裁判長の方を向いて答えてくださいと言うんです。また、それを言わないと、裁判官が自ら言われる。そうすると、横から問われて、こっちを向いて答えるということをやったのはだれもないと思うんです。恐らく尋ねられたから尋ねられた方を向いて答えるというのが日本の普通である。にもかかわらず、裁判所では例外なしに「裁判長の方を向いて答えなさい。」。問いは我々が横から尋ねます。それがまるで専門家の集団のやる裁判のように考えておる。ここには私は大変な過ちがあるのではないか。
そうすると、裁判所というのは、私はその目で見たら、声が震えているような証人は、緊張し切っているでしょう。そうしたら、本当のことなんて、言おうと思っても、また、正直に、木の葉っぱでも1枚1枚を正確に言おうと思ったら、実は木の繁っている状況というのは映し出せないものなんです。ところが、証人によっては非常に正直に言わなければいかぬと言うと、木の葉っぱの線のところまで言う。それが積み重なって葉っぱだと言いたいからどうしても言う。裁判所の方は尋ねていることを答えてください、こう言うでしょう。そうすると、証人はそこで頭が混乱します。震えて、人の性格は千差万別でしょう。それをやる。
そして、私らは刑事の法廷を見ても、刑事の公判廷の証言が偽証罪を告知したから、一番正直に言って、どこよりも証拠能力も証明力もあるんだというふうになっている。我々の裁判はそれを前提にして証言というものが調書にある。しかも、それが要約調書になる。速記録でもない。それがまた今度は直接主義ではなしに裁判官がまた替わってしまう。すると、全然弁論の更新のところは読みもしない。こういう裁判の実態で、本当に我々のやっている裁判というものが、本当に国民の裁判としてふさわしいものだろうかどうか。それが大変気になります。
私は平成元年、私が日本弁護士連合会の会長になって、そのときに法廷に一輪の花をと言ったんです。正直言って、これは調べてもらったら分かるんだけれども、私は法廷に一輪の花をと言おうと思うんだということを数多くの同僚の弁護士に説明したんです。だれ一人賛成してくれない。お前あほみたいなことを言うな。そんなこと言っても、大概の弁護士さんが中坊さん、お前感心せえへんで、言うなと。だから、私は立候補してから当選するまでの間、ただの一回も実はそれを言おうと思っても言えない。これが弁護士会の実情でした。
私当選して、初めて記者会見したときに、実は会長に立候補したのはこういうつもりであって、自分は法廷に一輪の花をと。法廷には1枚の絵も、一輪の花もないじゃないか。そこで偽証罪を告知して、脅迫させたら、それで本当のことを言うことになるのかということを言ったら、明くる日の新聞を見たら、みんな見出しが法廷に一輪の花をなんです。
だから、今必要なことは、裁判所がプロだと言うている。これは検察官、裁判官、弁護士全部含めて、プロだと思っている者の意識と、実際の国民の意識とには、余りにも乖離があり過ぎる。我々は一人よがりでこうやっていたという反省は、相当しないといけない。そうでないと、私は日本の司法制度が誤る。
そうなのに日弁連は何でもかんでも反対ばかり言って、建設的な意見は何も言わない。これでは一体どうなるんだと思って、私は日弁連の会長に立候補した経験があって、今会長のおっしゃっていること、私は本当に自分が長年の弁護士生活をやって、そして同僚の弁護士を見て、裁判官、検察官を見る中において思ったことですから、私は会長のおっしゃるのは、そのとおりだと。今まさに反省を要すべきは、法曹のプロ意識、これは間違いなくあると私は思っています。
【山本委員】この審議会ができて、ずっと疑問に思っていることなんですけれども、確かに日本というのは戦後民主主義が入って50年、普通選挙をやり、天皇の官吏から公僕になるという政治・行政の面では大きな意識改革をやった。裁判制度についてもしかるべき制度改革をやって50年経った。しかし、50年経ってみたけれども、日本の国民の意識というのは、依然としてお上依存体質が抜け切らず、統治主体意識というのはなかなか出てこない。これを21世紀に向けて何とかしなきゃいけない。司法の面でそれをエンカレッジするような制度をつくらなければいけないというのが、この審議会の大きな目標の一つであって、認識は全くみんな同じだと思うんでございますが、そういったことで今度の陪審制度というものを考えてみますと、日本の裁判制度の中で陪審制度を入れるということは、ほかの分野の政治とか行政の分野ではどのくらいの変革になるんだろうかという疑問をずっと持っているんです。
例えば、吉岡さんが言われているように、裁判に国民が主体的に参加していないとのことですが、では、政治の分野ではどうか、行政の分野ではどうなのかということをすぐ私は考えてしまうんですが、よく言われている例えば政治の分野などでは、間接民主主義というのはよくないから直接民主主義を大きく取り入れろとかいった議論もありますね。司法における陪審制度の導入は、それに匹敵するような大きな改革ではないかというふうに、外形的に見てそう考えるわけです。
もう一つ、諸外国の陪審制度などを勉強してみると、非常に長い歴史があって、前々からしつこく風土とか国民感情とか言ってきましたけれども、やはりそういうのは無視できない部分があると思うんです。我々が維持してきた戦後の民主主義の制度の中で、裁判というのは、恐らく日本の国情からすると国民の中にある一番古い体質、古いと言うとおかしいんですけれども、過去から続いてきた国民の心情を引きずってきており、新しいものに変えていくのに一番不得意な分野ではないかという感じがしてしようがないんです。
何か隣の人に裁かれる、隣の人を裁くということは、本当に日本人の意識の中で、このわずか50年間の民主主義の中で培ってきた感覚と言いますか、意識の中で耐えていけるかどうかというのは、相当大きな問題ではないかという感じがしているんです。
そういうバランスで物を見ていく必要があるんじゃないか。50年先、100 年先に日本にアメリカ的な民主主義がかなり行き渡って、公の意識というのが相当程度国民各層に浸透して、価値観においてもかなり共通するものが出てきて、かつ、いろんな国際的な交流が非常に進んで、日本人だけではなくて、外国の人もたくさん入ってきて国政にも参加するようになる。そういう暁にはこの陪審というものを考えなければいけないかもしれませんけれども、今度の司法改革のこういうタイミングで陪審というのをすべて導入することが本当にいいことかどうかというのは、もっと真剣に考える必要がある。私は、どうも石井委員と同じような感じを持っております。
【吉岡委員】私が主張したこともそのとおりなので、意見が対立するというのは当然だと思いますが、改革というのは、私はきっかけがないとできないと思っています。そういう意味で、例えば、普通選挙についても、戦争に負けたということが一つのきっかけになって、それで普通選挙が普及した。それから、女性の参政権についても同様のことが言えます。
では、現在どうなのか。確かに投票率が低い、そういう問題もあることはありますけれども、選挙への参加ということで言えば、そういうきっかけがあったからこそ、国民が参加するということが道筋ができたということじゃないかと思います。
陪審制度の場合も、やはりきっかけがなければ、条件が整ったらやりましょうと言っていたんでは、100 年経ってもできないんじゃないかと思います。そういう意味では、長い司法の歴史の中で、今それを考えなければいけない、そういうところに来ているのではないかと思います。
それから、陪審制度になったら大変だというか、企業の負担も含めて大変だということを石井委員もおっしゃっていらしたし、山本委員もお立場から同じ考えだということは分かりますが、ただ、陪審制を導入するということがすべての裁判を陪審制度にするということではないと私は思っています。
レポートの中でも申し上げましたけれども、国民が、あるいは当事者が原告、あるいは被告が自分はどういう裁判を望むのか、そういうことを考えたときに、選択肢があるということだと思います。
私はアメリカの裁判制度を見てきましたが、すべてが陪審になっているわけではなくて、当事者には陪審、あるいは専門家の裁判を選ぶという権利があるという考え方だと思います。どっちを選ぶかというのは当事者が考えて決めればいいことである。だから、今の日本の場合には一つしかないというところに問題があるのであって、陪審制が導入されたからといって、すべての裁判が陪審になるかというとそうではない。やはり当事者が選ぶということで、選択肢ができるという、そこに非常に大きな意味があると思います。
確かに日本の歴史の中では大岡裁きというんでしょうか、そういうことが今でもドラマで喜ばれるという歴史があります。ただ、大岡裁きが非常にいいと言っていても、あれは裁判官も検察官も弁護士も一人の人が全部やっているという裁き方なんですね。それが今の時代に合わないというのはドラマでしか当然できないということだと思います。それでもそういう土壌の中で日本人の思考というのが培われてきた。だからといって、それが本当に国民にとっていいのかどうか。そういうことを考えたときに、そうではないというのは、山本さんも認識していらっしゃることだと思います。そういうことを考えながら、これからの日本の司法の在り方、少なくとも主権在民の在り方というのを考えなければいけないと私は思います。
【山本委員】吉岡さんが言われる二つの制度が存在するんだということ。あるいは、ものによって陪審制を取り入れるんだという、部分的なね。陪審制度の評価と、そうじゃない今の裁判制度の対比の中で、それはどういうことから出てくるんですか。
【吉岡委員】これはアメリカに行ったときに裁判官に伺ったときに、裁判官が、一人の裁判官の判断よりは、複数、まあ12人の場合が多いわけですけれども、複数の市民の判断の方が正しいことがあるということをはっきり言っていらっしゃるんですね。そのものによってはどちらの判断を求めるかという権利、先ほど佐藤会長が医療を例にとってインフォームド・コンセントと、それから自己決定ということをおっしゃいました。それでやはり情報を十分に得た上で、どういう医療を求めるのかを選ぶということは、当事者である本人に権利があるわけです。
そういうことから言えば、裁判についても、当事者である本人が、自分はどういう裁判を受けたいのかという選ぶ権利が保障される必要がある。その一つとして考えられるのが陪審制であるということで、すべてのものが陪審制でなければいけないということではない。
【山本委員】参審制度があってもいいわけですね。参審制度であってもいいし、今の裁判制度があってもいい。
【吉岡委員】私は参審については異論があります。今までも言っております。ただ、参審のことを言い始めると多分12時半に終わらないと思いますから、別のところで。
【髙木委員】反論というよりは感想に近いんですが、つい最近、普通選挙法を日本に入れる当時の、明治憲法下の国会の議事録を読んでみたんです。普通選挙といっても、今の我々の感覚からいったら税金幾ら以上納めたものだという、それを入れるときの議論も、今の山本さんの議論と一緒なんです。
要するに、日本人の国民性やら社会の伝統やら、もっと言えば日本の普通の国民に国政を議論するレベルの人間を選ぶのを期待する方が無理だという議論を、当時の国会はいやというほどやっておられるわけです。何十年か経って、今、日本の国民の中に普通選挙がおかしいと思っている人はいないと思います。選挙法で比例代表を拘束名簿にするか非拘束か、そういう議論はいろいろあるにしましても、そういう意味でトクヴィルが、民主社会の仕上がりは陪審と普通選挙だと書いていたのをどこかで読んだことがあります。私は吉岡さんの発想に近いんだけれども、変える、あるいは変わらなきゃいかぬというときに、保守派のレッテルを貼るつもりは全然ないんですが、そういう議論が結局変えるエネルギーをいつも低下させてきたという歴史の教訓を学ぶべきだと思います。
もう一つは、これはさっきの会長のプロフェッションの話に近いんですが、現在の裁判を今のまま続けていったら、そのうち吹き出すんじゃないか。昨日も私ある会合に出ていまして、本当に被告なり原告で裁判に関わった人たちが、それぞれ自分が関わった事件の判決をどういうふうに感じているか、認めているか、多くの方々が自分たちが関わった裁判に疑問を感じておられるのを耳にしました。確かに裁判官の方、大変忙しくて、例の未済事件が何件という世界で土・日もなく御苦労され、本当にすべてとは言わないが、担当事件の全てについて熟読吟味して判決をお書きになっておられるか。これは実務の実態を知らぬから誤解があるかもしれないけれども、いろいろな方のお話を聞いていると、それは無理ですという答えのように思えます。仕事のボリュームとの関係での無理もありますし、それから神のみぞ知る世界を判断していくという苦悩もあると思います。
そういう意味でプロと国民の間の摩擦熱というのがかなり高まってきつつあるんではないでしょうか。だから、今こういう議論を今、我々が要請されているんだと思います。
そういう意味では、ガス抜きとかいう意味ではないんですけれども、単一メニューだけでもたなければ、複数メニューで、違った意味での納得性を担保していくという、そういうアプローチの仕方があることは、逆に裁判の現状からして必然的なことではないかなと思います。私はその両面あると思っているんです。
【山本委員】民主主義が今は普遍的だというのは全然否定するものではないんですが、陪審制は普遍的なのかということは、私らが今まで見てきた中では、私はかなり疑問を持っているわけです。だから、おっしゃるように、部分として、あるいは一つの選択肢として存在するというならまだ議論は違うんだけれども、これから求められる司法は陪審制が基本でなければいかぬということについては相当心配がありまして、果たしてそうなのかという感じがします。
【佐藤会長】そこはどのレベルでとらえるかによると思うんです。陪審か参審かという問題の立て方もあれば、陪審も参審も思想として共通しているところがあるというとらえ方もありうる。後者のようにとらえれば、欧米先進諸国では皆やっていると。だから、どのレベルでとらえるかによって、いや、あれはアメリカだけ、アングロサクソンだけだとか、いや、普遍的だとか、という議論になる。その辺の議論は制度設計のところで少し整理してやった方がいいと思います。今日は具体的な制度設計まではちょっと。
【山本委員】理念として、陪審が普遍的だというのは。
【佐藤会長】レベルの取り方によっては非常に普遍的であると言えるのではないでしょうか。日本がむしろ例外的だという言い方もできると思います。それはどのレベルで理解するかによってそうなるんであってね。
【水原委員】吉岡委員が陪審を取るか、職業裁判官による裁判を取るか当事者が決めればいいんだと、こういうふうにおっしゃった。ところが、当事者だけの問題なのかということになるわけなんです。それは刑事裁判というのは国家刑罰権の発動の問題になる。それは治安・秩序の維持に結び付く一般国民も、いわゆる当事者の一人なんです。
ところが、裁判を選ぶのを被害者、それから一般国民を度外視して、被疑者だけが選択すればいいというのは、お考えに大変問題があるだろうなと。
この間も私申し上げたんですが、刑事裁判に国民が求めているものは何かと言いますと、真実を解明して、その結果を国民の前に明らかにすることではないだろうかという観点から考えると、いわゆる吉岡委員がおっしゃるような被疑者・被告人だけが選べばそれでいいという問題ではなかろうなという気がするんです。これは私の感想を申し上げました。
【吉岡委員】例えば、私ががんになったとします。その場合に、開腹手術をするのか、それとも薬でやるのか、それから麻薬を使うかどうか、そういうことというのは、当事者の選択だと思うんです。それで納得できればいいということで、第一義的に言えることは、その当事者がどういう裁判を選ぶかという権利、裁判を受ける権利が保障されなければいけないと思います。
一般国民も当事者、当然そうだと思います。その場合に一般国民は、では、その被告人なりの判決がどうあるべきかというところまで期待しているのかというと、私はそうではないと思うんです。むしろその裁判が一般国民にとって分かりやすく、理解しやすく、どこに問題があったのが、そういうことが分かるということが重要だと思います。
そのために私はどっちがよく分かるかと考えた時、陪審の方が内容がよく分かる。少なくとも法律の専門家が専門用語を使ってやり取りをする。しかも、文書の交換で終わってしまうという今の裁判から考えれば、陪審制度を取った方が一般の国民には非常に分かりやすい、理解しやすいということで、一般国民も当事者ということは、むしろ陪審の方が広がってくると思います。
【水原委員】それでは、判決文を国民に分かりやすく書くようにすれば、十分その趣旨は通るんじゃございませんか。
【吉岡委員】それはやはりプロの論理かなと思います。要するに、結果が分かればいいと、そういうことにならないですか。私はプロセスから理解していくという、そういうことが陪審の場合保障されると思うんです。
【水原委員】刑事裁判はどういう機能を持っているのかというところが、一番大きな考えなければいけないポイントだと思うんです。
【井上委員】今の話は制度設計の中身の問題に密接に関わりますので、そこのところでもうちょっと時間を取って議論していただければと思います。一般的に申して、さっき髙木委員が言われたこともよく分かるのですが、そこからいきなり刑事裁判ということになってくるのはなぜなのかとずっと疑問を持っています。裁判官の意識や感覚が一般とずれているといわれるのも、さっき挙げられた例というのはほとんど民事的な側面なのです。そういう批判があるというのはですね。忙しくて十分聞いてあげないで処理しているとか、そういう批判があるのもですね。したがって、そういう視点も一つ持っていただきたいということが一つです。
同じような意味で、国民との意識がずれているということを理由に、お二人が陪審を採用しろと言われたことは分かるのですけれども、その問題は事実認定という点にあるのか、そうではなく、もっと何か社会規範的な評価とか、そういう点にむしろあるのか。そこのところを、もう少し虚心に、陪審と参審のどちらかに決め打ちをされないで、まず考えていただきたいと思うのです。そのことを、一般論として申し上げておきます。
【佐藤会長】また26日に。
【髙木委員】申し上げたいことがありますけれども、また、26日に発言させていただきます。
【藤田委員】国民が司法手続に主体的に参加するための何らかの制度をつくらなきゃいけないという点はそのとおりなんですが、現在、陪審・参審が取り挙げられていて、陪審は英米法諸国、参審は大陸法諸国で採られているわけですが、今、井上先生が言われたのと同じようなことかもしれませんけれども、これは結局司法の根幹に関わる問題ですから、国民の意思によって決めるべき問題であって、我々が陪審でなければいけないとか、参審でなければいけないというような前提で考えるのはいかがなものかと思います。
それと、そういう制度を導入するにしても、日本の土壌になじむ形で入れなければ結局は根付かないということになりかねない。審議用レジュメに付けました概念整理図に、諸外国の実例では存在しないものも入れてあるというのは、そういう意味で、外国の制度をそのまま導入するということではなくて、日本の土壌になじむ制度設計をするのにはどうしたらいいかという視点から、論理的にあり得る制度も掲げるという趣旨で書いてあるわけです。
今までに髙木、石井、吉岡の各委員から問題点の提起があり、それに尽きているんですけれども、陪審制の問題点を考えるとすると、どうしても冤罪・誤判の問題は避けて通れないと思います。
前回引用しましたけれども、『判例時報』に連載中の新潟大学西野教授の『陪審審理の諸問題』という論文に、その問題を取り上げてあります。西野教授は、被告人の権利としての陪審審理の導入に反対ではないと言われています。司法の過程に対する市民の参加として評価すべき点があると考えているけれども、陪審制導入によって、恐らく冤罪・誤判は増えるであろうから、そのような覚悟をした上で導入すべきであるという意見です。
この論文にも書いてありますけれども、世界の陪審裁判の8割ないし9割が行われているアメリカで、これだけ冤罪・誤判の研究がされている。著名な事件だけ挙げてもサッコ・バンゼッティ事件とか、スパイとして死刑執行されたローゼンバーク夫妻事件とか、あるいは罰せられるべき者が罰せられなかったという例では、最近のロドニー・キング事件を挙げてありますけれども、そういうようなことも考慮すべきではないか。日弁連が最も徹底した民主的な方法であるから陪審裁判を導入すべきであると主張されている。それはそれで分かるんですけれども、弁護士でも陪審制ではなくて、参審制を導入すべきだという意見の方もいらっしゃる。佐藤博史弁護士という二弁の方ですが、『全友ニュース』に書いておられますけれども、陪審制の幻想を捨て、市民主体の参審制で法曹一元の実現をと主張されています。見出しだけ読みますと、「陪審制で冤罪は減らない」「陪審制でわが国の刑事裁判は変わらない」「参審制には陪審制の欠陥と限界がない」「市民主体の参審制にする必要がある」「参審制で『法曹一元』の実現を」、こういう御意見の方もいらっしゃるわけです。
真実発見について水原委員からお話がありましたけれども、日本ではその要求が非常に強い。一方、英米法では手続の適正ということを基本に置いて裁判というものを考えていると思います。そういう意味から言うと、審理構造として陪審が真実発見に適する手続かどうかということを西野教授は書いておられますし、今までに挙げられている判断過程のブラックボックス化とか、理由が付されないとか、上訴ができないとかという問題もございます。
参審制度については、いろいろな意見があるわけですけれども、国民の司法手続への参加という理念が基礎にあることは間違いないわけでありますし、陪審も参審も憲法問題がありますけれども、最高裁の意見も評決権を参審員に与える参審制が違憲だと言っているわけじゃなくて、その問題をこれから詰めるべき段階にある現時点での試案としては、評決権を与えない参審制が難点がないのではないかという趣旨であると思います。制度設計をどうするかという問題について結論的に申しますと、国民の司法参加を論ずるときに、陪審制でなければいけない、参審制でなければいけないという前提ではなくて、もっと柔軟にいろいろな制度設計を考えた上で、日本の社会の実情に一番なじむ制度は何かという視点で考えるべきじゃないかと思います。
【中坊委員】先ほど水原さんのおっしゃった刑事司法の在り方は真実発見だという、そのことにも私はかなり異論があるんですけれども、これはもうちょっと置いておいたとして、ただいまの藤田さんのおっしゃっている陪審になれば誤判が多くなる、真実発見が遅れる、そのことを覚悟してやるのか。私はそういう話には本当に憤りを持って反論しなければいけない。
それでは、職業裁判官が一体どういうことをやってきたのか。戦後我々日弁連が支持して再審で無罪を勝ち取っただけでも12例、吉田石松さんから始まって、吉田勇さんに至るまで、再審無罪になっている事件があって、そのうちの4例はまさに死刑なんです。死刑判決が無罪になっているんですよ、再審において。職業的裁判官がやった裁判が、人を死刑にするという判決を確定させるところまで行っているんですよ。何をあんたら、まるで職業裁判官に誤りの無いように言う。
だから言っているでしょう。玄人で専門家の間で言えば、我々に任せておけと言わはるけど、とんでもない。この事件のためにどれだけ多くの手間を、多くの弁護人が、死刑の恐怖に震えてきた人たちというものを、何とお考えになって、陪審だったら誤判が多くなる。それを覚悟で入れろなんて、私は藤田さんの先ほどの意見は余りにもむちゃくちゃな議論だ。私にとっては到底認めることもできない議論ですね、こんなことは。
【藤田委員】そういう論文があるということを紹介しただけです。
【中坊委員】いや、論文じゃないよ。先ほどちょっと髙木さんも言うたように、最高裁の在り方というのは、本当に今はおかしいと思うんです。
しかし、藤田さんがね。論文じゃないですよ。人の論文を、あるいはアメリカの論文を言うくらいなら、我が国の、しかも戦後の具体的な刑事事件で何があったかということをもっと考えるべきですよ。
しかも、さっきからちょっと言うと、大きな視点で見れば、真実を発見して刑罰権を行使する。その美名の下に、国家権力の名においてどれほど多くの人間が無実の人たちが殺されていったか。刑事手続の中において、だから無罪の推定をし、自白のあれをしたり、憲法には掲げないといけないとなっているのか。そういうような歴史的な大きなうねりというか、大きな流れというものがあった上において、我々の刑事司法も全部成り立っているんですよ。
ところが、そんな大きな論点は抜いて、真実発見だとか、誤判が多いとか、そういうようなことで言うというのは、非常に私はおかしな議論で、しかも私としては、先ほどから言うているように、法曹三者がそういうことを、まるで専門家だからということで言えるかと。私はまずもって専門家が裁判官も検察官も、本当に反省の上に立って、その意味では会長がおっしゃるとおりなんです。まさに反省の上に立って、その司法改革の論議に臨まなければいけないと私は思うんです。
【佐藤会長】この議論は更に続けていただきたいと思いますが、石井委員、どうぞ。
【石井委員】今、中坊先生からちょうどいい御発言をいただきましたが、この前の審議会で「正規の陪審と陰の陪審が導き出した結論の4分の1が異なる」というマッカーブ・パーバスの調査結果について御説明がありましたが、それと同じような研究が、一般の裁判においても行われているのかどうか、教えていただきたいと思います。
今申し上げたことは、ちょっとナンセンスな質問だということはよく分かって伺っているのですが、それに対するお答えの一つが中坊先生のお答えになるのではないかと考えたものですから、もし、そういう研究があったら教えていただきたいと思います。
【井上委員】今おっしゃるのは、具体的な事件について、実際の裁判官が行った判断と、言わば陰の裁判官の判断を比べるということですか。
【石井委員】そうです。
【井上委員】そういうものは、私の知る限りでは、ないように思います。実際の裁判について、関係者、あるいは研究者が批判をするというものは、あまたありますが。
【石井委員】分かりました。
それから、さっき陪審を導入するかどうかというところで、普通選挙とかいう話にも発展しましたが、これは余りシリアスに受け取ってお聞きいただくと困りますので、半分冗談という感じでお聞きいただきたいのですが、よくある議論に、今のような普通選挙を取り入れたため、今の日本の政治のていたらくを引き起こしてしまったということを言う人もいます。
逆に言えば、それなら昔のやり方でやっていたら、今、どんなによい政治になっていたかというと、これは私も全く分からないことなのですが、いろいろ検討する場合には、二面的な見方があるものですから、そこいら辺のこともよく考えながら、今後審議を続けていかなければいけないのではないかなと、そんなような気がいたしました。
【髙木委員】普通選挙まで否定される考えというのはどうかなと思います。冗談として伺います。
【水原委員】意見じゃございませんけれども、吉岡委員が引用なさっていらっしゃる日弁連の検察審査会経験者へのアンケートの問題、日弁連から提出していただきました資料5です。これは2000年11月17、18日開催される予定の18回司法シンポジウムにおいて大きなテーマの一つである国民の司法参加に関する資料として用いるため、4月25日付で各弁護士会に対し、地元の検察審査協会に所属する会員を対象にアンケート調査を行ったとあります。結果は2,315 名からの御回答でございました。
参考までに平成11年7月現在における審査協会の会員は、これの10倍以上の2万8,283 名でございます。どういう基準で意見をお求めになられたのか分かりませんが、10分の1ということを事実として申し上げておきます。
【佐藤会長】まだ議論も尽きないことかと思いますけれども、予定を15分オーバーしようとしております。次回26日もございますので、今日のところは余り進みませんでしたけれども、かなり基本的なところを御議論いただいたのではないかと思います。26日も引き続き御議論いただきますが、ただ、26日には私どもとしての何らかの考え方をまとめないといけません。なかなか難しいことかもしれませんが、しかし、何らかの考え方をおまとめいただきたいと願っております。方向を出していただく必要があると思っておりますので、そのおつもりでと言ったら“脅迫”するようなことかもしれませんが、そのおつもりで26日に臨んでいただきたいと思います。
【井上委員】そのように努力します。まとまるかどうかは結果を見ないと分かりませんが。
【佐藤会長】審議会としてはそういうことです。
【中坊委員】会長、この間申し上げましたように、我々の審議の在り方について、問題があったんじゃないかということでこの間刑事司法の取りまとめは取りやめになりました。
そういうふうに、我々の審議が本当の意味において公正であるのかどうかという点も含めての問題点が、私指摘して今日まで至っていますので、できるだけそういう点もしていないと、いわゆる表面的な、みんなが本当に公正なところで、みんなが何の疑いもなく話しているのか、そういういろんな問題点も含んでお考えいただかないと、私も困ると思うんで、是非その点も御配慮いただいて、次回にお願いしたいと思います。
【佐藤会長】今、中坊委員がお触れになった点も、次回には何らかの私としての考え方をお示ししたいと思っております。次回は、その件も併せて考えているところです。
それでは、配付資料について。
【事務局長】いつもどおりでございますので、説明することはございません。
【佐藤会長】そうしたら、次回は今申しました26日、13時半から17時まで、この審議室で行うということでございますので、よろしくお願いいたします。
最後に、記者会見、いかかでしょうか。
【藤田委員】中立公正にやりますので。
【佐藤会長】どうも恐縮です。では、藤田委員、よろしくお願いいたします。
本日はどうもありがとうございました。