司法制度改革審議会

第41回司法制度改革審議会議事録



日 時:平成12年12月12日(火) 13:30~17:05

場 所:司法制度改革審議会審議室

出席者(委 員)

佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、髙木 剛、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本 勝、吉岡初子

(説明者)
園部逸夫立命館大学大学院法学研究科客員教授
藤田宙靖東北大学大学院法学研究科教授
山村恒年弁護士

(事務局)
樋渡利秋事務局長

1.開 会

2.司法の行政に対するチェック機能の在り方について

3.閉 会


【佐藤会長】それでは、定刻がまいりましたので、ただいまから第41回会議を開会いたします。
 本日は既に御了解いただいておりましたとおり、司法の行政に対するチェック機能の在り方に関しまして、園部逸夫立命館大学客員教授、藤田宙靖東北大学教授、山村恒年弁護士の3人の先生方からお話をお聞きし、その上で、意見交換をしたいと考えております。
 最後に少し時間を取りまして、平成13年1月以降の審議日程につきまして、前々回の審議結果を踏まえまして、会長代理と相談した上で、具体的な日程を考えてみましたので、その案について御意見をちょうだいして、できれば御了解いただきたいと考えている次第です。
 それでは早速、園部教授、藤田教授、山村弁護士からお話をお聞きすることにしたいと思います。それに先立ちまして、3人の先生を御紹介させていただきます。
 まず、園部教授は、昭和29年に京都大学法学部を御卒業され、京都大学法学部助手、助教授を経られてから、昭和45年に裁判官に任官されました。東京地裁、東京高裁等に勤務された後、昭和60年筑波大学社会学科学系教授、昭和62年に成蹊大学法学部教授を経られて、平成元年9月から平成11年3月まで、最高裁判所裁判官として御活躍されました。現在、立命館大学大学院法学研究科客員教授をなさっておられます。
 藤田教授は、昭和38年に東京大学法学部を御卒業され、東京大学法学部助手、東北大学法学部助教授を経られて、昭和52年に東北大学法学部教授となられ、現在は東北大学大学院法学研究科教授でございます。その他、行政改革会議の委員としても御活躍されてきているところであります。
 最後に、山村弁護士でございますが、昭和29年に大阪市立大学法学部を御卒業後、大阪府庁職員として勤務されてから、昭和41年に弁護士登録をされ、その後弁護士として御活躍されるとともに、神戸大学法学部教授、関西学院大学総合政策学部教授を歴任されていらっしゃいます。
 先生方には、本日、お忙しいところを当審議会の審議のためにお見えいただき、また、レジュメの作成など色々御準備いただきまして、誠にありがとうございます。
 進行につきましては、園部教授、藤田教授、山村弁護士の順番で、それぞれ30分程度ずつお話をちょうだいしたいと存じます。
 その後、休憩を10分ほどはさみまして、先生方からのお話に対する質疑応答と、我々委員の意見交換を兼ねて、審議を行いたいと考えております。
 園部先生を始め3人の先生方には、誠に申し訳ないんですけれども、休憩後も引き続き私どもの審議に御参加いただければと考えております。大体4時半には終わりたいと思っておりますので、恐縮ですけれどもよろしくお願いいたします。
 それでは、最初に園部教授にお話をちょうだいしたいと思います。

【園部氏】御紹介いただきました園部でございます。本日はお招きいただきましてありがとうございました。

 私の説明はかなり基本的な問題に限らせていただきまして、詳細、かつ専門的、技術的な問題については、お2人の先生にお願いするということにたまたまなっております。私ども余り具体的な法の改正ということになりますと、かなり技術的な問題もありますし、そこまで詳しく調べるということもなかなかできませんので、せっかくの機会ですから、少し思い切ったことを申し上げて、この審議会の議事録に載せていただければありがたいと思っております。

 たまたま私は大学と実務界とを行き来しておりまして、ただいま弁護士もいたしておりまして、行政訴訟の原告の代理人などもしております。

 なかなか日本では、法律家として色々なところに関わるということが難しくて、そのためにちょっと外国とは違った仕組みになっているのではないか。たまたま私は色々な経験をさせていただきましたので、実感と言いますか、そういうことからお話を申し上げていきたいと思っております。

 それから、行政に対する争いについては、司法が最終的、かつ万能とは必ずしも考えません。この点は色々な日本の司法文化、法律文化に適した行政紛争の解決の仕方というのはあるのではないかと思いますが、今日は司法の行政に対するチェック機能の在り方についてということですので、その観点からお話をさせていただきたいと思います。

 私は父も行政法の教授をしていたものですから、戦前からの色々な移り変わりというものも、若いときからかなり見聞するチャンスがありまして、日本の行政に対する司法のチェック、あるいは法的なチェックの在り方というものが戦前戦後で変わってきたということで、戦後、私も行政法の研究をいたしておりますときは、アメリカ的な司法に対するチェック、あるいは行政に対するチェックの仕組みができて大変結構だと。行政法の民主化という点でも大変結構なことだということをたびたび申してまいりました。

 しかし、どうも日本の司法文化、あるいは法律文化の下で、今のアメリカ風の司法審査の在り方が、異なった司法・法律文化の下にあるものとして受け止められたかどうかという点は私は疑問に思っておりまして、それで少し根本的な問題に触れてみたいと思った次第です。

 御承知のように、日本の、殊に行政法の体系、またその研究の体系等々、戦前からの歴史がありまして、かなり大陸法的な法文化の下で発達しておりますし、それは公法、私法を問わず同じことでして、ただ、公法の分野だけ行政行為の司法審査というアメリカの制度を取り入れたものですから、どうもその辺のところがうまく接木されたかどうかということを考えているわけです。

 日本の裁判所の制度というのは、アメリカやイギリス、ドイツなどと比べましても、かなり官僚司法的な制度になっておりまして、そのことは私、いいとか悪いとかいうことを申し上げているわけではありません。日本ではやはりフランス的な有能な裁判官、有能な行政官が存在していなければいけないのだという基本的な思想がありますので、戦前から、ずっと行政官僚制度と並んで司法官僚制度が発達してきたということは否めないところです。

 御承知のように、戦前司法省は、大審院以下の人事と経理をすべて握っていましたが、これが現在最高裁判所の事務総局に委譲されておりますけれども、司法行政の根幹はやはり大陸型の官僚司法方式になっております。

 司法権の憲法上の地位というのは、基本的にはアメリカ型でございまして、その運用は本来英米法的な司法運営をどこまで入れるかということでしたけれども、私は必ずしも継承する必要はなかったのではないかと思いますが、アメリカ型に持っていこうという努力が随分なされました。しかし、日本の司法の現実は、アメリカ型の司法の行政に対するチェックというのが、十分に機能しない仕組みになっているのではないか。そうであるとするならば、もう少し制度の根本から考えていく必要があるのではないかというのが私の立論の出発点です。

 勿論、本審議会が、そういう問題についてどこまで御審議いただけるのか分かりませんけれども、立論の出発点として、基本的にもう一度裁判所のシステムそのものを考えてみる必要があります。殊に大陸法的な制定法国的な制度を持っている日本の立法・司法行政の建前の中で、裁判所の三権分立的な側面を強調することばかりでは、話は進まないのではないか。もう少し裁判所の専門化ということを図っていいのではないかと思っております。

 つまり、裁判所というのは人員を増加して、裁判官を多数にするとか、あるいは法曹を多くするということだけでは機能しない面があると思います。日本ではかなりそういう点で専門技術的なチェック体制というものを設けることができれば、有効に機能していくのではないかという感じがいたします。

 アメリカ流の違憲審査の制度等々を見ますと、ある意味ではおおざっぱなところがありまして、今度の選挙の問題を見ましてもそうですが、アメリカではアメリカなりに発達してきている。色々な具体的な目の前の問題について憲法上の判断を下すことができるのに、日本の最高裁判所では、あのような形の違憲審査、あるいは国政の基本に関するチェックというものは、到底速戦即決というわけにはいかない仕組みになっておりますので、裁判所の構成ということを考えましても、それは無理であろうという感じがいたします。

 したがいまして、これからの21世紀の課題としては、憲法裁判所としての最高裁判所というものと、それから上告裁判所としての最高裁判所というものを機能分化して、そこにそれぞれ専門的な裁判官を配置する。キャリア裁判官の最も活動し得る場所というのは、これは上告裁判所としての刑事・民事の事件の処理でして、憲法裁判というのはかなり政治的な面がございますので、キャリア裁判官で果たして適当であるかどうか。

 それから、現在、最高裁調査官は約30人いますけれども、約30人の調査官と15人の裁判官45人でようやく戦前の大審院判事45人に近づくわけでして、次の時代の新しい制度をこれから考えていくには、上告裁判所の強化ということも必要ではないかと思っております。

 それに関連して、民事・刑事の裁判と行政裁判というのは、基本的に違う面があるのではないかということで、アメリカでも行政争訟については行政委員会、あるいはイギリスでは行政審判所にかなり権限が委譲されているわけですし、ドイツ、フランスでは、いずれも行政裁判所という制度があることは御承知のとおりです。

 日本は司法がすべてを扱うということに熱心であった余りに、司法の行政に対するチェックの専門性という点は余り十分な検討がなされてこなかった。しかも各地方裁判所にすべて行政訴訟の入り口を設けるということが、本当に役に立つものであるかと、私の前橋地裁の3年間の経験に照らしても、そういう感じがするわけです。

 したがいまして、前々から、田中二郎先生などもそういうお話をされておられましたけれども、少なくとも行政裁判所、あるいは後で申し上げます地方裁判所の行政事件部というのは、高裁所在地に一つあればいいので、そこに集中的な専門部を置く、あるいは専門の裁判所を置くということでいいのではないか。高等行政裁判所についても、同様です。

 しかし、これらはいずれも憲法上の問題がありますので、今すぐおいそれとこういう問題を議論することは難しいとしても、それでは、憲法改正を前提としない機構改革としては、既に御承知のとおり、昭和32年に提案された中2階案というのがありまして、事実上最高裁判所の増員を図る案でして、大法廷と6つの小法廷を設ける、大法廷9人以外の6人は小法廷首席判事とし、各小法廷にそれぞれ陪席判事4人、これが24人ですから、合わせて全体で39人になりますけれども、これは残念ながら廃案となっております。

 私は今の憲法の下でも、最高裁判所の下にある下級裁判所の系列の中に地方・高等各行政裁判所の設置をすることは検討課題となるであろうと思われます。ただし、この行政裁判所は、余り司法官とか行政官とかいう区別なしに、専門的な判断ができる法律家をここへ入れ込むということが必要であろうと思います。

 アメリカのように弁護士から裁判官になるというシステムのところとか、あるいはドイツのように、法律家をまずつくって、それから行政官にしたり、司法官にしたり、あるいは弁護士にしたりという融通無碍の制度を取っているところでは、可能でございますけれども、日本は修習後直ちに弁護士、検察官、裁判官と、それぞれ一種の職業許可制度の下で組織的な専門職業人となるものですから、なかなか新しい制度をつくりましても、融通無碍な人員配置ができないという点が問題でございまして、その点は法曹一元ということに関わるかどうか分かりませんけれども、私は行政裁判所の裁判官の専門技術性というものは必要であろうと思います。労働裁判所のお話も出ているようですし、あるいは知的財産権法についても、そういうような問題が出てくると思います。私はここでは行政裁判所のことだけを申し上げているわけです。

 そこで、この(4)のところにイギリス、アメリカの制度、私も現地で、幾つか見てまいりましたけれども、結局、基本的には事実問題について、あるいは行政上の専門的知識を必要とする問題については、なるべくこういう委員会とか審判所で取り扱う。あるいは下級審の行政裁判所でするということにいたしまして、そこに色々な法律家が自由自在に入り込んで処理をするということです。

 イギリスの行政審判所はまん中にバリスタが審判長として座っておりまして、両側は参審になっていて、それでフロアからバリスタが弁論するということもありますし、アメリカには御承知のように行政法判事という、日本にこういうものを行政機関に設けるとは一体何のことかとすぐ問題になるわけですけれども、少なくとも行政作用のうち準司法的な制度を運用するためには、法律家が色々なところへ入り込んでいかなければならないでしょう。それがまた、弁護士の増員、日本では弁護士と言いますか、ちょっと引っ掛かるのですが、法律家の増員ということで、その整備の充実が図られるのではないかと考える次第です。

 もう一つ、次の大きい項目の2ですが、「日本における行政に対する司法審査の問題点」というのがあります。

 もともと行政事件訴訟法がつくられる、あるいはその前の行政事件訴訟特例法がつくられるその経緯を追ってみますと、行政事件は民事事件とすべきである。したがって、民事訴訟で全部できるはずだと。しかし、最初は出訴期間の制限は必要ということでしたのが、それでは到底やっていけないということで、行政事件訴訟法になったわけですが、行政事件訴訟法をつくるときの立案者の気持ちの中には二つの側面があったと思います。

 一つは、行政事件訴訟というものは、専門的な訴訟だから、できれば専門的な機関が行政訴訟を扱うべきだ。したがって、民事訴訟法に対する特別法的な行政事件訴訟法ではなくて、やはり行政訴訟法というものをつくるべきだけれども、そこまではなかなか踏み切れない。裁判所の組織の中でそれがなかなかできない。殊にそれは地方裁判所レベルになりますと、裁判官の人数も少ないわけでして、そんなに民事・刑事・行政事とはっきり分けるというようなことは到底できません。行政事件訴訟法は行政訴訟法と、行政事件訴訟特例法の中間ということで、行政事件訴訟法になっているわけですが、基本的な思想としては、やはり民事訴訟に徹し切れない。民事訴訟というのは、双方当事者が全く同じ土俵のレベルの上で争うわけですけれども、どちらも武器は平等でならなければなりませんが、行政事件では武器が平等にならない。行政事件を同じ土俵の上で争いますと、被告、行政庁側は自分のした行政処分の適法性を維持するために、最大限の努力をして、地裁から高裁、最後は最高裁と争っていくわけでして、行政機関はそもそも行政処分についての専門技術的な公務員であるということに加えて、訟務検事といった優秀な法律家が行政庁の代理人となるわけでございまして、これに対してほとんど無手勝流で争っていくのが原告でございまして、そもそもそういう民事訴訟と同じだというような構造そのものに無理があるわけです。

 そこへ持ってきて、後からも色々御議論があるかと思いますが、原告適格であるとか、訴訟の対象とか訴えの利益とか、通常の民事訴訟ではほとんど問題にならないような事柄にバリアーがありまして、中へ入っていけない。それは民事訴訟という基本の上に、行政訴訟という手続を載せたために、アンバランスな制度になってきたという感じがするわけです。

 殊に地方裁判所の裁判官の少ないところでは、大体3人の合議体と1人の単独裁判官でようやく民事部を構成しているというようなところで、行政訴訟を扱うのは3人の合議体のうちの左陪席が起案をしていますが、この左陪席は、大抵修習を終えたばかりの新任判事補でして、行政事件というのは見たこともないのは当然ですが、行政法も勉強したことがない。今から判事室にある書物で勉強しますということになるわけです。

 しかし、そういうことでは行政訴訟というものの本当の審理・判断というのはなかなかしにくいだろうと。何とかそこに行政事件の専門部を置くような仕組みをこしらえていかなければならないだろうというふうに考えています。

 第二に、行政事件訴訟法の立案については、田中二郎先生ほか、学者、実務家の大変な御努力があったわけですけれども、基本的には行政に対して私人が訴えていくということですから、軽々に行政庁の公益性の判断を覆されては困る。そう簡単に行政訴訟を起こされても困るという気持ちが一方にあり、それから、逆に今度は裁判所が行政庁の処分に対して余り立ち入った判断をしてもらうのも困る。いずれにしても、行政をいかにして守るかという基本的なスタンスが、行政事件訴訟法の中に入っていることは間違いない。それはそれで私は理解できるのですけれども、そこまで考えるのであれば、別に民事訴訟の土俵の上でなくても、別の救済システムができた方がかえっていいのではないだろうかという感じがしているわけです。大抵の地裁民事部では手形の事件のすぐ後に行政事件が来て、その後は賃料の値上げの事件が来たりして、通常の民事訴訟とは余りにも違い過ぎる行政事件の質と量を考えますと、気楽に民事訴訟の中に入り過ぎているという感じもしないではありません。

 そこで、これからの行政事件訴訟法の改正は、今はどちらかというと弁護士会や学者の方から提案されているわけですけれども、やはりこれを運用してきた最高裁判所及び法務省のほうで、色々な問題点を掘り出してもらって、一般からは分からない問題点も色々ありましょうから、それを掘り出して、改正の方向に取り組んでもらえるとありがたいと、こういうふうに思うわけです。

 それから、行政救済一般につきましては、4ページに書いておきました。

 これは今までの行政法の適用と言いますか、行政訴訟の運用につきましては、最高裁判所もかなりの努力をしてきているわけです。しかし、この際、裁判官一般の行政法及び行政訴訟法の専門的知識の涵養が焦眉の急でございまして、司法試験における行政法の選択科目への復活、あるいは法科大学院がもしできれば、そこでの行政法教育の強化が必要であろうと思います。

 それと、行政事件については裁判所以前の行政手続法及び行政不服審査法上の手続の客観公正化、第三者性の強化ということが重要でして、これらの手続に様々な形で弁護士が立ち会っていくということが望ましいと思います。

 基本的手続の運用の活性化とか、行政不服審査機能の充実の必要性というのは、これは並行して必要です。

 その場合、行政訴訟の双方の当事者の代理人に、客観的で公正な専門的知識を有する弁護士がこれからどんどん増加して、被告、行政庁の代理人も務めるが、同時に原告代理人としても行政訴訟を活性化させていくということが必要であろうと思います。

 それから、4ページの下の(2)のところは、これはなかなかここまで踏み切るというのは難しいかもしれませんが、ドイツでも行政法総則の法典化というのが長い間議論をされてまいりました。行政法についてだけは、総則の部分が学説と判例で補われているのですが、学説をどうこう申し上げるわけではなく、判例をどうこう申し上げるわけではありませんけれども、日本のような制定法国では、やはり総則がかなり現代的な要請に応じたものになって、それを法制化していかないと、裁判所の拠るべき基準が必ずしも十分でない。日本の最高裁の判例のつくり方を見ておりましても、古い判例を新しくしていく、新しい現代的な要請に応じて新しい判例をつくっていくということはなかなか難しい状況ですので、法典化ということは、これまでも議論されたことですから、ここで新たに議論を起こしてもらえればいいのではないかと思います。

 そこで、最後の5ページですが、日本の行政委員会を見ますと、戦後随分たくさんできたんですけれども、一つは、複数制の行政機構が日本の行政の在り方にマッチしなかったということで廃止されてまいりましたし、それから、公正取引委員会のような典型的な、いわゆる実質的証拠の原則を採用しているところもほとんどなくなってしまいました。それで行政委員会の争いがすべて裁判所の第1審からもう一遍繰り返されるわけでして、日本の地方裁判所は、言ってみればアメリカやイギリスの行政委員会や行政審判所のしていることを引き受けているということになります。

 事実認定の機能というものをもう少し裁判所外の準司法的な委員会に移す。それによって裁判所はできるだけ法的な側面で機能するということです。

 オンブズマンの制度というのは、行政に対するチェックの一つの大きな役割を果たしてきておりますが、日本では総務庁の関係の行政監察という制度がありまして、地方公共団体でも行政組織の中にオンブズマンを設けるという制度が発達しております。

 他方、市民オンブズマン的な形のものもございます。どちらもそれぞれの機能を発揮していると思います。

 そういうわけで、官民のレベルでのオンブズマンはございますけれども、本来オンブズマンというのはスウェーデンにはじまった、立法議会に付置される行政に対するチェックの機能です。こういうものも司法救済と並んでつくられることが望ましいのですが、なかなか日本ではそういう典型的なオンブズマンというのは、つくりづらい面もありまして、余り発達しておりません。これから色々な形の公的オンブズマンがつくられて、迅速果敢に目の前の問題について色々と処理することが大事と思います。裁判所へ持っていきますと、どうしても年単位の仕事になりますので。

 行政事件訴訟法改正の問題は、このあと両先生から具体的にお話があると思いますので、私は何も付け加えませんが、できれば組織的に行政事部と。昔は行政事という言葉を使ったのですが、このごろは使いませんので、行政部でもよろしいのですが、民事・刑事・行政事の三つの部があると。これはそれぞれ体制が違うのでして、その体制が違う訴訟形態に対して、それなりの裁判所の対応の仕方というのがあっていいのではないかと思います。

 私は行政事件訴訟法でなくて、民事訴訟法、刑事訴訟法、行政訴訟法という三つの法律をこしらえるべきではないかと思います。行政訴訟法では、これは戦前の行政裁判法の時代から、抗告訴訟、当事者訴訟のシステムが色々と改正案として提唱されてまいりまして、現在、大体定着しておりますので、一応抗告訴訟の形式と当事者訴訟の形式と両方あると。民事訴訟の特例としての当事者訴訟というのは、はなはだはっきりしないものですから、当事者訴訟ということを私が色々言いますと、批判があったわけです。

 この抗告訴訟と当事者訴訟というのは対立する訴訟形式でございまして、行政訴訟法の下では、このいずれについても、かなり詳細な規定を設け、現在、無名抗告訴訟として、学説、判例に委ねられているような訴訟形態についても、これを顕名化しまして、明確な法制度を設けるべきではないか。

 当事者訴訟についても、行政訴訟法における当事者訴訟というものはどういうものであるかという観点から、色々な規定を設けていいのではないかと思います。

 いずれにしましても、民事訴訟の準用ではなくて、独立の行政訴訟手続を設ける必要があろうと思います。

 それから、機関訴訟及び民衆訴訟につきましても、例えば住民訴訟は地方自治法の中に規定が設けられていたりしておりますけれども、裁判所の目から見ますと、例えば住民訴訟の規定というのは非常に使いにくい規定でして、現在、自治省でもそういう問題を考えていると思いますが、こういう訴訟形態が裁判所でいかに使われるかという前提の下に、改正案をつくるべきではないかと思っております。

 基本的な問題なのですが、私は行政事件訴訟法における裁判所の審理の在り方というのが、一種司法官僚、行政官僚ということでは毛頭ないのですけれども、行政事件というものは非常に特殊な事件で、行政の公益性というものが必要なのであると。したがって、公益性を前提にして、行政訴訟を運用すべきだという考え方がどうしてもあるわけですけれども、行政側が公益の保護というのを主張するのは当然のことでして、それはきちっと主張・立証してもらわなければなりません。

 ただし、それに対して裁判所側も、行政訴訟の運用に公益判断というものをまず考えていくということになりますと、これはほとんど訴訟としては全くアンバランスなものになっている。行政裁判の基本は、やはり争ってきている原告の権利利益をいかにして保護していくかという観点から、被告の主張との間でバランスのいい判断を下していく。つまり、姿勢の問題が大事ではないかと思います。

 今の行政事件訴訟法は、そういう点では、裁判所がまず公益性の方に目を向けなければならないようなシステムになっておりますので、その辺はそういう訴訟法の改正によって改善される余地があるのではないかと思うわけです。

【佐藤会長】大変滋味に富むお話をちょうだいしまして、ありがとうございました。それでは、引き続きまして、藤田教授にお話をちょうだいしたいと思います。よろしくお願いいたします。

【藤田氏】藤田でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

 お手元にレジュメのようなものを配らせていただきましたので、大体これに沿ってお話ししていきたい思いますが、今日は司法の行政に対するチェック機能の強化という観点に絞ってお話をさせていただきます。

 現在の我が国のいろんな法制度、あるいはその運用の実態が司法による行政のチェック機能のあるべき姿に照らしていろんな問題を抱えているということは、ここ十数年来、あるいはもっと古くかもしれませんが、既に多くの行政法学者が指摘してきているところであります。園部先生、山村先生等を含めまして、多くの方がいろんな指摘をされております。

 そこで指摘されてまいりましたことの多くは、私自身もかねがね大いに問題であると考えてきたところでもありまして、むしろこういった指摘に表れている問題意識自体は、今日ほぼ我が国行政法学者の全体がこれを共有しているとすら言ってよいのではないかと私は考えているわけであります。そういう中で既に塩野先生が行政法を代表してお話になった。また、園部先生、山村先生というこの問題についてのプロがお話になるということで、私は何も言うこともないんじゃないかと申したんですが、佐藤先生が、いいからとにかくお前の考えを言えということなんですので、今日は新しい問題の提起というよりも、そういうふうに提起されてきた問題につきまして、私個人はどんなような見方をしているかということについてお話をさせていただければと思っております。

 その際、園部先生、山村先生の場合には実務の御経験が色々ございまして、そういう見地から有用なお話がなされることになると思いますので、私は立場上、多少理論的なと申しますか、観念的なと申しますか、抽象的なと申しますか、そんなようなことをお話しすることになるだろうということをお断りしておきます。

 そこで問題の所在ということでございますが、司法の行政に対するチェック機能の強化という問題について、その中心は、これも色々指摘されてきておりますけれども、現行の行政事件訴訟法が、その根幹的な制度として設けている抗告訴訟制度が、どうもうまく機能していない。不活性ということを書きましたが、そういう問題だと思います。

 その反面で、言わばそれに代替する現象としての国家賠償制度の過剰負担、並びに住民訴訟制度、取りわけいわゆる四号請求訴訟、機関に対する損害賠償、地方公共団体に対しての損害賠償責任といったものです。その制度の機能肥大、こういったことではないかというふうに思っております。

 こういったアンバランスの元でございますが、これは結局抗告訴訟制度が全体のシステムの中で本来果たすべき機能を十分に果たしていないということではないか。このように考えております。

 ここでも、現行の抗告訴訟制度の不活性という現象は何から来ているのかという問題から入っていくことにしたいと思います。

 そこで、現行抗告訴訟制度の抱える諸問題ということですが、これは私は、これももう私だけではなくて、今までにも指摘はされているところでございますけれども、司法による行政のチェック機能という見地から見るとき、大きく二つの種類の問題がそこには存在するんだと思っております。

 これは私の勝手な命名で、近代行政救済法システムの例外とか、近代行政救済法システムの限界という言葉を用いておりますが、どういうことかというのは、これから御説明いたします。

 前者の方は、昭和37年に現在の行政事件訴訟法が制定された際に、もう既に法制度の中に内在していた問題。

 その第2は、行政事件訴訟法制定時には、言わば想定、あるいは予想されていなかったパターンの訴訟。つまり、俗に言う現代型訴訟への対応可能性の問題でありまして、私は仮にこういう命名をしているわけであります。

 これを順次見てまいりますが、まず第1の問題、私の言う「近代行政救済法システムの例外」ということですが、まず、この近代行政救済法システムというのは何のことかという御説明をしなければならないんですが、簡単に申しますと、一般にドイツや我が国に見られるようなタイプの近代法治主義的な行政法というのは、三つの基本構造を持っている。

 つまり、行政活動をあらかじめ法律を中心とする法によって縛る。これが法律による行政の原理ですが、仮に違法な行政が行われた場合には、国民が裁判所に訴えて、それを是正してもらうことができる。これが独立の裁判所による適法性審査の可能性ということです。また、現状回復がもはや不可能である場合等には、せめて損害賠償をしてもらえる場所を確保する。これが国家賠償制度であります。

 こういう三つの要素を備えた法制度、そういう理念形に従った国民の救済システムを私は仮に近代行政救済法システムと名付けているわけです。

 そして、昭和37年に行政事件訴訟法が制定されることにより、もっと前からできておりました国家賠償制度も含めて、そこで本来目指されていたのはこういう意味での近代行政救済法システムの確立ということであったと思われるわけです。

 ところが、そういうシステムの理論的な帰結ということが一貫されないままに、現行の行政事件訴訟法ができあがっているということで、どこが一貫していないかというと、それが紛争の一方当事者であるはずの行政庁に、法律上与えられているさまざまな法的に優越した地位でございます。例えば典型的には、行政処分の取消訴訟における執行不停止原則ですとか、あるいは内閣総理大臣の異議、あるいは仮処分の排除、更には自由裁量行為についての審査権の限定等々ございますが、更に運用上の問題といたしましては、義務付け訴訟等を始めとする、いわゆる無名抗告訴訟の提起可能性についてのはなはだ消極的な取扱いといったようなものがございます。

 そこで考えなければならないのは、一体法治主義の論理の下で、なぜこのような行政庁の優越的な地位ということが理論的に認められ得たかという問題だと思います。

 例えばその点について、先ほど園部先生、公益の尊重ということをおっしゃいましたし、これがしばしば行政運営の円滑性の保障が必要だという言われ方をすることもございます。

 しかし、本来ならば法律に違反してまでも行政に円滑性を求めるということは、これは法治主義の見地からは言わば理論矛盾であるわけでありまして、いかに公益のためであれ、法のルールに従わなければならないというのがそもそも法治主義ですから、これは理論矛盾であるわけです。ですから、それだけでは本来通用力を持つことにはならないはずなんです。

 ところが、それが通ったということは、私は結局、これは関係者の間に行政法の適用に当たっては、行政庁こそが本来最も適切な判断をすることができるという認識が、意識、無意識のうちにあった。これはそういう行政法の適用に当たっては行政庁こそが本来最も適切な判断をすることができるという認識は、その意味での行政に対する信頼感、と言いますと、反面としては司法及び一般国民に対する不信感ということになるわけであります。

 こういう認識を最も明確に表しているのが、いわゆる行政庁の第一次的判断権の尊重という考え方でありまして、この考え方は、例えば行政処分の義務付け訴訟を認めない理屈として、学説判例上しばしば引き合いに出されるところでありますし、例えば田中二郎先生などの場合には、これは裁量処分の司法審査の限定の理由としても、こういうことを言って引き合いに出して説明しておられます。

 また、似たような発想は、仮処分の適用排除の理由として主張されておりました、仮処分を認めると裁判所による仮処分濫発のおそれがあるといったような理屈ですとか、そういう不信感は、対裁判所の関係ではなくて、対私人の関係においてはもっと露骨になりまして、例えば執行不停止原則の根拠付けとしては、濫訴のおそれがある、こういったような主張となって出てくるわけであります。

 結局、そこにあるのは、厳正にして適格な法適用者としての行政庁というものへの信頼感だということになると思いますが、これは元をたどりますと、実はドイツ、日本の行政法には、古くからあった一つの考え方で、ドイツ公法学、とりわけグナイスト流のプロイセン型法治国家観というのはまさにそのモデルだということをここに書いておきました。

 この考え方は、もともと中立にして公正な公益実現者であるところの行政、行政というのは、まさに中立にして公正な公益実現者であるんだという行政官僚への信頼に基づくものでありまして、これは19世紀のプロイセンでは、法律による行政の原理というものが確立した後においても、初めのうちは法律適合性について最も適格に判断できるのは、まさに行政機関そのものなんだという理屈から、行政に対する裁判審査は必要ないという意見となって出ておりましたし、更に裁判審査の必要そのものを退けることができなくなった段階でも、なお行政権の一部としての行政裁判所というプロイセン型の行政裁判型の根拠ともなった理屈であったわけです。

 ところが、ドイツの場合には、少なくともボン基本法の成立とともに、こういった考え方はもはや通用し得なくなっておりまして、現実の訴訟法上も、例えば執行停止原則の採用だとか、義務付け訴訟の採用がなされる等々、状況は我が国とはかなり違ってきているわけであります。

 ちなみに、行政庁の第一次的判断権の尊重という考え方を私どもがドイツの行政法学者に理解させることは誠に困難で、理解してもらえないのが事実だと。このようなものなのだということを理解していただきたいと思うわけであります。

 ところが、我が国の場合には、少なくとも昭和30年代においては、いまだこの点の法思想上の精算がなされていなかったと言うべきなのではないか。このように考えております。

 ところで、この行政権の適正な判断能力ということに対する信頼感は、これは我が国の第二次大戦後の国家社会において、まさに実態的な背景を持っていたとも言えるわけで、この行政主導のシステムを形づくる大きな基礎となって働いてまいりました。それゆえにこそ、昭和30年代において、こういう思想の払拭ができなかったということも、それはそれなりの実態上の背景があったと言えるのかもしれないと思っております。

 ただ、こういったシステム、その前提となる考え方を根本的に考え直して、新たな「この国のかたち」を構築しようというのが、例えば行政改革会議の最終報告に表れた行政改革の理念でありまして、あの行政改革では、政策の企画立案という機能につき、行政主導から政治主導へと改革することが不可欠とされたわけでありますが、同様にして、行政法の解釈適用という機能についても、対司法権との関係において、行政官僚に対する先ほどの信頼感はひとまず白紙に戻す。その上で制度の再構築が試みられなければならないのではなかろうか。このように思っております。

 こういった見地から私は、これは詳しいことは山村先生から色々御提言があると思いますが、現在の執行不停止原則に関わる事柄、制度、それに関わって内閣総理大臣の異議等々、この辺の制度については大いに問題があると考えております。

 なお、行政庁に対する信頼というのは、そういう法思想的な背景を別にして考えますと、一面では行政庁の専門技術的判断の尊重、そして、行政の政策的判断への司法の不介入、こういう考え方と結び付いているわけであります。この理屈をどう考えるかということが司法によるチェック機能の強化ということを考える場合には、非常に大きなポイントに実際上はなるのだと思います。

 この行政官庁の専門技術的判断の尊重とか、あるいは行政の政策的判断への司法の不介入という考え方が、一般的に必要であるということ自体は勿論否定できないわけでありまして、例えば司法審査の及び得ない裁量行為というカテゴリーを設ける。あるいは行政庁の政策的判断については、裁判所が自らの政策的判断を以てこれを覆すことはできないといったルールを設定するということ自体は、決して不合理なことではないので、必要なことであります。

 問題はそういった思考枠組みが余りにも形式的、画一的な形で一人歩きを始める。その結果、司法による行政のチェックということの本来の意義を失わせる結果となってしまう危険性、ここにあるのではないかと考えております。

 例えば、これは一つの例ですが、内閣総理大臣の異議という制度、これは裁判所が執行停止決定をしたものに対して、内閣総理大臣が異議を唱えてそれを取り消させるという制度でありますが、この制度の必要性を根拠付けていた理屈は、執行停止をするかしないかという判断は、本来行政的な判断なんだと。執行停止決定というのは、本来は行政作用であるものを、あえて裁判所に行わせる制度なのであるから、だから、その適否について行政権は最終的な担保手段を持っていなければいけない。これが内閣総理大臣の異議という制度に対する一つの説明でありました。

 しかし、言うまでもなく、執行停止をするかしないかという判断には、単に公益のために処分の続行が必要かどうかという行政的な判断だけではなくて、国民の権利の保護のために当該の処分を止める必要はないかどうかという、これは私は立派な司法的な判断であろうと考えておりますが、かつ、そういう判断が本質的に重要な部分なのだ。

 これは一つの例でございますけれども、裁判所はたとえ行政の専門技術的判断、あるいは政策的な判断であろうとも、本来、専ら法治主義的な見地からして、国民の利益を救済する必要がないかどうかという見地から、これを審査する責務及び権限を有する。そういった目的のために必要であるならば、仮に事が専門技術的な事柄に関わろうと、理論的に言えば、例えば鑑定意見等を利用することによって、裁判所としての判断を下すということは理論的には不可能ではないはず。専門技術的判断がゆえに、当然に行政庁の判断が裁判所の判断に優先されて尊重されなければならないという理論的必然性は必ずしも存在しない、理論的にはそうなのではないか。

 こういった見地から、柔軟に司法審査の可能性を追求する試みが、こういう公式によって妨げられてはならないのではないか。実際裁判所の判例などでも、例えば裁量行為の司法審査について、実体的なコントロールができないにしても、裁量判断の過程の適正さ、プロセスの適正さに関する司法コントロールはできるという、これは我が国の裁判所が展開してきた非常に立派な法理であったように思うんですが、そういった柔軟な可能性ということが、余地がなければいけないのであって、専門技術的な判断、あるいは政策的判断ということが、画一的にパターン化して、司法救済を妨げるようになることは注意しなければならない、このように考えております。

 それから、次に第2番目の問題、私の言う近代行政法救済システムの限界という問題でございますが、これも御承知のように、我が国の現在の行政訴訟制度というのは、とりわけ抗告訴訟制度というのは、一方的な公権力行使、それもとりわけ行政処分という特定の法理形式による国民の権利侵害のみを司法権による主たる救済の対象とする。

 しかもその際、基本的に行政庁の処分の名宛人との間の二極関係のみに焦点を当てて、現在の行政訴訟制度、抗告訴訟制度というのはでき上がっているということで、そういう訴訟制度の基本構造が、制定当初には想定もしていなかったような問題、つまり、伝統的な意味での行政処分のカテゴリーには入り切らないような、多岐にわたる行政活動を契機として、国民にさまざまな被害がもたらされる。それも二極関係のみならず、行政処分の相手方のみならず、第三者を含めた三面的、あるいは多極的な関係において生じている国民の被害の救済について、現在の行政事件訴訟制度及びその運用状況は極めて無力であるという、ここから生じている問題だということになろうかと思います。

 具体的な問題としては、例えば抗告訴訟の対象となる処分概念の狭隘さ、あるいは原告適格の狭隘さ等が指摘され続けてきたところであります。

 そこで私はこの問題についてどう考えるかということでございますが、次のようなことを考えております。

 第1に、処分性だとか、あるいは抗告訴訟の原告適格の問題につきましては、そういった問題が広範に生じているということは疑いもない事実であります。ただ、理論的に言うならば、そういった状況の解消のために、果たしてどこまで訴訟法制度そのものを変えなければならないのかという問題が理論的にはまず第一段階としてあると思います。

 つまり、仮に実体諸法自体が現在の行政活動の中で問題となっているものの活動形式を、現在の訴訟制度でつかまえ得るような形に、例えば明確に処分の形式に整理し直す。例えば今色々問題になっております計画決定だとか、勧告・公表といったようなたぐいのようなものですが、このように法的拘束力をそれ自体が持たないとされている行為について、何らかの形でこれを今の処分というカテゴリーに乗り得るような形に実体法自体がこれを整備し直すという可能性は理論的にはございます。

 それから、例えば原告適格、最高裁の判例の公式では、処分の根拠規範によって、その利益を保護しようとする、根拠規範がその者の利益を保護しようという目的を持って定められている場合には、第三者であろうとも原告適格を有するということになっているわけですが、処分の根拠規範が仮に第三者の利益というものを保護する規定として広く整備されたとするならば、今の訴訟制度の下においても、理屈から言えば、先ほど申したような問題はかなり広く解決されることになる。こういう関係にあるからであります。そこで、この問題はまずどう考えるかということであります。

 この点に関しては私はこのように考えます。

 恐らく今後実体法上の進展もまた徐々に進んでいくものと期待されます。ただ、そういった立法上の進展は、通常、現実の問題の出現に対して常に後追い的に、しかもまた相当のタイムギャップを持って行われるものでありますし、また、すべての行政分野において、バランスを取りつつ一斉に行われていくというものでもありません。

 そこで問題は、そういった実体法上の進展がなお遅れている場面において、訴訟制度自体の改善を図ることによって、それに代替する道を、果たしてまたどのように開き得るかということであると思います。

 そこで、そういう見地で訴訟制度の改善ということについて考えてみますと、ここでも問題は二通り存在いたします。

 つまりその一つは、現行訴訟法の運用、つまり解釈を改めることによって、果たしてどこまで改善が図れるかという問題でありまして、これは例えばこれまで山村先生などを代表とする実務家、行政法学者の多くの方々がさまざまに行ってきた、いわゆる処分という概念を解釈論上何とか拡大しようとする試みでありますとか、あるいは原告適格に関する法律上の利益を有する者という規定の法律上の利益というものを広げて解釈しようとする試みなどがその例であります。

 ただ、こういうような試みにつきましては、理論的な可能性としてはともかく、最高裁判例が今日のように固まってきた段階におきましては、なかなか現在の事態を根本的に変えるような解釈が広く実務を支配するようになるということは考えにくいと思います。そうであるとすれば、例えば今の処分概念であるとか、原告適格に関する規定について、何らかの立法上の手当をしようという考え方が出てくることになるのは当然であると考えられ、現在の状況はそういう状況であろうと考えております。

 そして、問題は第2に、そういうような立法上の手当をどのような基本的方向、ないし理念において行うかということであります。

 その場合に司法の行政に対するチェック機能ということには、言わば二面あるわけで、一つは、国民の権利利益の保護という主観的な要素と、それから行政活動それ自体の法律適合性、あるいは合法性の確保という、言わば客観的な要素との両面があるわけですが、私の見るところ、現行の行政事件訴訟法、そして最高裁判例によるその運用は、この点余りにも前者に比重を掛け過ぎてきたことに問題があるのではなかろうか。このように考えております。

 これは単に現在の立法が、いわゆる主観訴訟中心主義を取っているという問題ではなくて、問題はむしろ国民の権利・利益の保護ということを、特に個人の権利・利益でなければ保護の対象とはしないということと同義に考える。その上でここで言う権利・利益を法律上明確な輪郭を持って確定された、そういう意味での法的利益に限るというふうに構成していることで、そういう一連の思考プロセスであります。

 しかし、私が疑問に思いますのは、行政と国民との法関係というのは、このように法的に明確に、主観的に保護されているかいないかという基準によって、その問題性を100 かゼロかというふうに二元的に処理し切ってよいものかどうか。そこが大きな問題ではなかろうかと思います。それは次のような意味においてであります。

 行政法の分野における立法におきましては、とにもかくにも、行政の活動自体を法によって縛るということがまず目的とされるのでありまして、それを厳密にだれのために行うのか、だれのためにこういう行政についての法的規制を行うかということまで、法的に厳密に詰めた上で規律の仕方を考えるという作業が、必ずしもすべての場合に行われるわけではない。これが実態だと思います。

 これが先ほど申しましたように、行政実体法上の個人の保護規定の進展が、現実の展開に遅れるということの一因でもあろうかと思います。

 このような場合に、法律による明確な保護がなされていないということをもって直ちに法律は保護をしない趣旨だというふうにとらえるかどうかが問題なんです。こういった問題がそこにあるのではなかろうかと思います。

 実体法による個人の利益の明確な保護が遅れている場合でありましても、行政活動自体の違法性が確認され、取り消されることによって、明らかに個人がいわれのない不利益から救済されるということは、これは大いにあり得ます。行政事件訴訟を主観訴訟を中心として構築すること自体を否定するつもりは毛頭ございませんけれども、以上見てまいりましたような理由からして、その場合、そこで言うところの国民の権利保護という要素は、より柔軟に考えるべきではなかろうか。とりわけ原告適格の問題と並んで、現行の行政事件訴訟法10条1項で言っている自己の法律上の利益に関係のない違法という要件を、これをより限定する方向、つまり、主張できる違法の範囲を広げる方向で考えるべきであろう。このように考えております。

 なお、付言しますならば、これは私の全く一方的な思い込みかもしれないのでありますが、以上見ましたような現行法上の抗告訴訟制度の構築の仕方、そして、最高裁判例等によるその運用の在り方というのは、行政訴訟を基本的に民事訴訟のモデルによって処理しようというところから発しているのではなかろうかと思われます。

 先ほど園部先生もそういうことをおっしゃいましたが、行政訴訟を民事訴訟の基本的な枠内で処理するというのは、しょせん無理があるというお話をなさいました。

 多少それと関連するかと思いますが、私が学生のころに三ケ月章先生から教えられました話では、民事の争いにおいて、紛争の解決というのは、可能な限り当事者間での解決に委ねられるべきものであって、裁判というのは、当事者間で解決ができない場合に、公権力を持って、それを一義的、最終的に解決するという国のサービスなのである。だから、そういったサービスを国民が利用できるのは、それが紛争を解決するために必要不可欠であって、しかも、法的に最終的な解決となる場合でなければならないという制約が掛かるのだと、このように聞いたように記憶しております。

 そして、行政訴訟の場合、この必要最小限を判定するぎりぎりの基準が、当事者の明確な法的立場、これを権利と言ってもよいのかもしれませんが、その有無であるということになっている。

 仮にそうであるといたしますと、そもそも行政と国民との間の紛争、とりわけ行政庁の公権力の行使を巡る紛争、言葉を換えて言えば、公権力の行使に対する不服というのが、対等な私人間の場合と同じように、まずは当事者間の自主的解決を目指すことによって解決せられるべきであって、したがって、国民による裁判制度の利用可能性も民事の場合に言われると同じような形での必要最小限の場合に限られなければならないのだということになるのかどうか、そこが問題なのではなかろうかと思います。

 ここでは、両者はそもそも初めから対等ではないのでありまして、誤解を恐れずにあえて言うならば、その意味において司法による行政のチェックの出発点は、「紛争の解決」以前に「国民の救済」でなければならないはずだ。私はこのように考えたりいたしております。

 最後に「裁判機関のあり方について」ということでございますが、これは先ほど園部先生がるる御説明になったところとほとんど変わるところはございません。

 行政事件を裁く裁判官は、以上見ましたような意味における民事事件と行政事件との間での、仮に本質的なと言わないまでも、少なくとも基本的な構造上の違いを十分に理解しているのでなければならないと思います。

 その場合の理解というのは、単に民事訴訟法に加えて、行政事件訴訟法の条文も知っていると言った表面的、あるいは技術的なものにとどまるのではなくて、行政法、そして行政事件というものの本質を言わば体感を持って承知した上での、体得した上でのリーガルマインドである。このように言えようかと思います。

 そういった意味で、行政事件を裁く裁判官は、行政法を十分に勉強した者でなければならないと思います。

 ここからは業界の利益代表のようなことになりますが、そういう意味で、行政事件を裁く裁判官は、行政法を十分勉強した者でなければならない。このことは司法試験の試験科目の在り方、あるいは司法研修所における履修の在り方、そして現在構想されつつあります、いわゆる法科大学院における教育システムの在り方等を考えるときに、是非とも十分に考慮されなければならない問題であると考えております。

 同時に、もし仮に通常の民事・刑事を担当する裁判官にそれを期待することが困難であるというのならば、先ほど園部先生は困難であるというところから出発してお話をなさいましたが、私は多少謙虚に、もし仮に困難であるならばという前提で話をさせていただきますが、そうであるならば、行政事件を専門に扱う裁判組織の設置が別に考えられるのでなければならないと思います。

 その場合、現在の審査請求制度を発展的に吸収した裁判の前審としての行政審判庁のようなものとして構想するか。あるいは、通常裁判所の中に行政審判部を置くという形を取るか。あるいは別に、現在の家裁のような形での行政裁判所というものを設けるか。さまざまな可能性があろうと思いますが、いずれにせよ、審判官、ないし裁判官として行政法及び行政の実務に十分に通じた者が、キャリアの民事・刑事の裁判官に加えて任命されるべきものであろう、このように思われます。

 最後に、これは蛇足でございますが、先ほどちょっと言ったことの補足でございますが、行政に対する司法のチェック機能を制限する根拠として、行政庁に対する信頼、その反面での裁判所に対する不信と申しました。これは一面で、民事裁判官は余りにも民事的な思考枠組みで行政事件をとらえ過ぎるという不満に基づくものでありました。それはかつては民事的思考枠組みに縛られ過ぎるがゆえに、公益を追求する行政の利益を十分に考慮しないという面に重点が置かれたものでありましたが、今日ではむしろ同じ命題が、逆に民事的思考枠組みに縛られ過ぎるがゆえに、公権力を相手とする国民の立場というものを十分に考慮しないというコンテクストにおいて問題になっているのであります。

 先ほど申しました行政事件を専門に扱う裁判組織の設置ということも、言うまでもないことながら、専らこういったコンテクストにおけるものであります。

 以上をもってお話を終わらせていただきます。

【佐藤会長】どうもありがとうございました。理論的に大変示唆に富むお話を賜りました。
 最後になって申し訳ありませんけれども、山村弁護士からお話をちょうだいしたいと思います。よろしくお願いいたします。

【山村氏】山村でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

 私は三十数年間行政法の研究、それと行政訴訟の実務、大学での教育に関わってまいりました。その間、大体アメリカ、ドイツ、フランスにも十数回にわたりまして、行政訴訟制度の運用状況の調査等も行ってまいりました。

 最近はここ数年間、行政訴訟法の改正案について、色々検討をしてまいりました。そういう関係上、事務局の方からは、もっと具体的な案において説明をせよということでございました。

 基本的な考え方につきましては、先ほどのお二方の先生とほとんど同じでございます。これは先ほど出ましたように、現在の行政法学者の大多数がそうではないかと思っておるわけであります。

 そこで、先ほどから述べられました考え方を私なりに個人的にそれを仮に法制化する場合には、どういう方向にあるべきかということを申し上げていきたいと思います。

 特に最近は、ドイツ、フランスでは盛んに行政訴訟法が改正されております。最近台湾では新しく行政訴訟法が制定されまして、300 条以上にわたる法律ができておるわけでございまして、非常に先進的でございます。そういう点におきまして、日本のは37歳以上の年を取ってきたわけでございまして、この審議会におきましては、是非それを新しい形に生まれ変わらせるように御審議願いたいと思います。

 レジュメに基づいてお話を申しておきますが、現行法の不十分性につきましては、先ほどからお二方の先生が既に述べられておりますので、改めて申しませんが、そこに書いてありますように、色々な問題点がございます。特にそれが結局、3番のところに書いてありますように、現実的に勝訴率の少ないという観点で反映されております。ドイツ、フランスの20%以上に比べまして、10%前後でございますが、そのうちの5%はほとんど特許関係の事件で勝訴になっておりますから、結局、特許以外の事件では勝訴率5%というのが実態であるわけなんです。

 そして、訴訟提起事件数の1審地裁レベルで年間1,800 件前後にすぎないわけでありまして、ドイツの22万件と比べると極端に少ないわけでございます。ドイツはこのほかに社会裁判所とか租税裁判所を入れますと、行政関係は50万件ということでございます。

 それから、戦前の行政裁判所の数から比べましても、そう飛躍的に増えてはおりません。

 それに比べまして、実際の行政紛争の増大というのは、20万件以上だというふうに総理府の調査等では上がっております。行政相談、苦情両方入れますと50万件という統計が出ておるわけでございます。

 更にさっきから述べられておりましたように、環境行政訴訟など、政策志向型紛争というのが最近非常に増えてきておるわけでございます。そういうものは、行政立法だとか行政計画に基づいて行われることが多いわけでありますけれども、これらの行政立法、行政計画は、行政機関が立てるものでありまして、法の支配の例外となっているわけでありまして、法の支配の例外ということは、要するに、これらに対しては現行制度では行政訴訟の対象にできないという意味で、法の支配の例外になっておるわけでございます。そういうのを原因とする政策志向型紛争は、非常に限界として問題となっております。

 それから、このような行政訴訟を活用できないということで、それをどういうふうに解決するかということでは一般の市民は、裁判に訴えても仕方がないから、政治家に頼んで何とか解決してもらおうという形で社会の歪みが表れてきておる。

 それから、裁判官の問題といたしましては、先ほどから述べられたように、専門性の欠如。私は裁判官は非常に優秀であると思うんですけれども、専門に研究できないんです。非常に多忙であって、研究する時間がないということで、結局、専門性が形成されないというのが一つの原因であるというふうに思われます。

 そこで、先ほどから述べられましたような視点から、どのような法制度改正の考え方を持つべきかということについて述べさせていただきます。

 まず第1に、行政というのは、行政処分だけではなくて、その以前に、例えば基本計画とか基本方針とか、最近では基本方針、基本計画のインフレと言うくらいに各法律ではたくさんそういうものが出ております。更にたくさんの行政計画、それに基づいて最後に行政処分がなされるわけですが、それ全体について法の支配を徹底させる。そして、行政の説明責任、アカウンタビリティーというものを担保する。

 2番目に、これは市民に利用しやすい制度にする。ドイツのように、訴状はFAXでもよろしいとか、内容が不十分でも後で弁論で釈明すればそれで足りるというふうにするということが必要ではないかと思われます。

 3番目に、憲法上の裁判を受ける権利というものを実質的に保障するために、訴訟を受ける資格としての処分性とか原告適格等の範囲を広げる。これは入学試験で言えば、入学試験の資格を広げるのと大体同じことに相応するわけでございます。

 4番目に、現在は取消訴訟と無効確認訴訟、不作為の確認訴訟とある程度限定されております。義務付け訴訟につきましては、判例上は一応認められることがあると言いながら、ほとんど認めたケースは少ないわけでございます。更にこの法の支配の例外とされておりますところの行政立法、行政計画等についても、審査の対象とすることが必要ではなかろうかと思います。

 5番目には、先ほどからも触れられておりましたように、そういうものが対象となりましたといたしましても、中身の審査におきまして、それは行政の裁量だから裁判所は審査しないというふうなことが非常に多いわけでありますが、行政裁量というものは、要するに行政の判断でありますから、行政の判断過程の説明責任というものをきちっと確保することが必要である。それによって法の支配を確保するわけでございます。ただ、その裁量という言葉は往々にしてブラックボックスで一人歩きしますので、判断余地という言葉に改めた方がいいのではないか。その要件を明記することが必要である。

 6番目には、原告のための違法の職権審理でございます。これは先ほど園部先生も藤田先生も述べられておるように、民事訴訟とは違うわけで、民事訴訟では、土俵で2人の力士が取って、裁判所は行司でありまして軍配を上げるだけということでございますが、原告が弁護士を付けずに訴訟できるというようなことも必要でございまして、その際に原告の主張がうまくできなかったら負けるという制度では困るわけであります。そういう点で、原告が素人の場合でも、裁判所が職権で調べて、口頭弁論で、更にそれを審理して、判決をしてもらえるという制度を導入すべきである。

 7番目に、素人の「参審員もしくは陪審員の導入」ということでございます。これは事案によって色々違いますので、一律にというわけにはいかないかとも思いますが、裁判所に市民の感覚を取り入れるために、事実認定につきましても、素人参審員もしくは陪審員の意見も裁判所は聞くという制度を導入すべきだろうかと思います。これは現実にドイツで色々と聞いてまいりましたが、ブレーメンなどでは非常に有益であるという話を裁判官がしておりました。

 それから、8番目に、先ほどからお二人の先生が述べられましたように、行政不服審査を経ていなければ訴訟に取り上げないというふうな個別の法律で書かれておると。これが色々と問題になりますので、これをどちらか、訴訟にするか、あるいは不服審査かを選択できるようにすべきではないか。更に環境、開発、消費者行政作用については、個別に市民だれでもが訴訟を起こせると。そういうことを設けるべきではないかということでございます。

 以上のような視点に立ちまして、多少これは細かい話になってまいりますけれども、具体的な改正案の概要について、どのようにすべきかという個人的な提案を申し上げたいと思います。

 第1は、まず市民が利用しやすい多様な訴訟のチャンネルというものを広げるべきであろうということであります。これは最初に申し上げましたように、取消訴訟だけではなくて、こういう処分をしなさい。例えばこの社会保険の給付等を拒否された場合には、何万円払いなさいという訴訟を明文化して設けるべきではないか。

 あるいは、違法な行政処分がされているときには、それを中止せよという形の訴えの類型を設けるべきではないか。これはアメリカやドイツでは既に設けられておるわけであります。

 現行法上、判例も解釈上は認められているとしながら、ほとんどまれにしか認めず、実際に勝訴例もございません。これをもっと広げるべきであるということでございます。

 それから、2番目に「行政立法取消の訴え」でございます。

 これは政令とか省令とか告示でございまして、日本では環境基準の取消訴訟が東京で行われた例がございましたが、これは処分の対象にならぬということで却下されております。しかし、アメリカでは訴訟の対象になっておりますし、フランスでもなっております。

 したがいまして、こういうものについては、日本では法の支配の例外となっておりますが、これが民主主義の一つの骨抜きとなっておりますので、法の支配を徹底するためには、これらの政省令、告示等も取消訴訟の対象とすべきであろうということでございます。

 ただ、その前提といたしましては、いきなり訴訟ということをする考え方と、事前に行政手続法を改正いたしまして、現在、閣議決定で行われておりますようなパブリック・コメントを経てから訴訟を提起すべきであるという考え方と2通りが考えられるわけであります。

 次に、大きな2番目といたしまして、この取消訴訟の入り口要件の拡張について申し上げます。

 お二人の話にもございましたように、この訴訟の対象とすべき行政庁の処分というものは、裁判上、非常に狭く解釈されておるわけでございまして、これを広げるために、具体的には行政法規に基づく一方的な行政権限の行使を対象とすべきである。これには不特定多数の、例えば用途地域の指定とか、都市計画決定とか、そういうものも対象に含めるべきではなかろうかということでございます。

 フランスの場合も、こういう対象の定義といたしましては、行政の行う一方的行為が訴訟の対象とされております。アメリカでは、行政機関の行為というふうに限定されておりません。

 3ページにまいりまして、これによりまして、法の支配というのは徹底されることになるわけでございます。要するに、この訴訟の対象は、法令違反が審査可能なものであれば対象にすべきではないかということでございます。

 次に「原告適格」でございますが、判例は先ほどから述べられましたように、その行政処分について規定した行政法規が個人的な利益として保護すべきものとしている利益に限定しております。これは行政裁判を受ける権利というものを個別の行政法や、あるいは政省令で限定して考えるものでありまして、これは法的に言いますと、原告適格というものを、個別の法律に規定しているものだけ認めるという考え方でございます。

 しかし、これでは憲法32条の裁判を受ける権利というものを非常に狭く解することになるという考え方も多いわけでございます。私もそのように考えるわけであります。

 法の支配という考え方からしましても、原告適格は拡張されるべきでございまして、私といたしましては、アメリカの行政訴訟で認められておりますところの現実に損害を受ける恐れがあるという程度でいいのではないかというふうに考えております。

 先ほど藤田先生が言われましたように、三ケ月先生のように、要するに、訴訟を追行していく上において、訴訟を追行しなければ現実の損害を受ける恐れがあるということでいいのではないかと考えるわけでございます。

 例えば、運賃値上げの認可の取消訴訟では、その路線について、定期券とか回数券を既に買っておる人は、現実の利益を有するわけでございます。ただ、将来これに乗るかもしれないというだけでは、現実の利益はないわけなんです。

 これについて、最近、東京地裁で面白い判決が出ました。これは行政事件ではございませんが、日本航空の東京からアメリカまでの路線に勤務するパイロットの就業規則を労働強化するために、就業規則を変えたわけでございまして、それに対しまして、パイロットのグループが、この新しい就業規則に従う義務はないことを確認するという訴訟を起こしたわけでございます。そのときに、東京地方裁判所は、それはその新しい就業規則によって、現実の不利益を受ける恐れがある限り訴訟をする資格があるということを認めておりまして、その就業規則による就労を求められたパイロットは訴訟をする資格がある。しかし、まだ求められていない人は資格がないと。そういうふうな判決を出している。だから、現実のというのはそういう意味であります。

 次に「(3)取消理由の制限」については、先ほどの藤田先生の見解と全く同じでありまして、ここで法律上の利益というのは再び出てまいりますが、これは実体の内容の審査の問題でございますが、これも自分の個人的な利益だけではなくて、例えば消費者一般の利益というものも、この中に入れるべきではないかというふうに思っております。

 次に、(4)の「被告適格」でございます。これは非常に法規がややこしいわけでありまして、例えば県が被告になる場合と、知事が被告になる場合とがあるわけなんです。区画整理などの場合には県が被告になりますし、一般の行政処分では知事が被告になる。それを見分けるというのは非常に難しい場合が出てきて、よく却下されるわけなんで、こういうものについては行政処分をするときに、だれを被告だということをちゃんと書くというふうにすべきではないかと考えるわけです。

 それから「管轄」でございますが、例えば大臣がした処分については、東京が管轄になるわけでございますが、大阪にいる者が東京で訴訟をするというのは大変でございます。私、昔一度そういう相談を受けたことがございまして、これはフィリピンに息子が戦争中に兵隊で行って帰ってこないので、それを探してくれという訴訟です。厚生大臣宛てに自分の息子を探せという訴訟を起こしてくださいということでありましたけれども、それは東京が管轄になって大阪で起こせないということで非常に不便なことがございました。そういう場合には、住んでおるところでも起こせることにすべきだろうということでございます。

 それから「出訴期間」でございますが、裁判を提起するまでは、現在では、行政処分をしたときから3か月となっております。しかし、これは行政事件訴訟特例法という古い法律のときには6か月であったのが、行政事件訴訟法で3か月に縮められたわけでありますが、これは非常に短過ぎるので、これは6か月とすべきではないかということでございます。その他、重大な違法がある場合には2年ということも考えられるということでございます。

 次に、被告を間違えて裁判をした場合の救済でございますが、現在では弁護士の過失があった場合には許されないのでありますが、こういう場合にも、裁判所が釈明を求めて、変更できるようにすべきではないかということでございます。

 8番目に、民事裁判と行政裁判とを併行して提起できるようにすべきではないかということでございますが、4ページにまいります。

 大阪空港訴訟のときに、民事裁判で差止訴訟が起こされたわけでありますが、これは政府の航空権を侵害するので、行政訴訟でやればともかくと言って認められなかったわけでありますが、片一方、行政訴訟でやれば原告適格なしとか、ほかの点ではねられるということで、いわゆるキャッチボール扱いされることがあるわけでございます。

 そこで、民事訴訟と行政訴訟の両方を提起して、どちらかで判決してほしいということを可能にすべきだと。これは弁護士の間でも非常に要望が強いわけでございます。

 9番、これは行政訴訟を起こされて、原告と反対の利害関係を持っている人はこれに参加できることになっているわけでございますが、権利を害される第三者というのを、利害関係を有している第三者というふうに機会を広げるべきではないかということでございます。

 以上は主として、訴訟の入口論、資格論の問題でございました。

 次に取消訴訟の実体の内容の審理の面について申し上げます。

 10番といたしまして、行政処分が違法であるかどうかということを審理するわけでございますが、現在は、民事訴訟と同様に弁論主義、いわゆる土俵で相撲を取らして、裁判官は軍配だけを上げるということを取っておるわけでございます。しかし、法の支配、あるいは法治主義を徹底する考え方から考えますと、ドイツのように、裁判所としては、特に原告が素人のようによく主張できないものについては、職権で審理できるようにすべきではないかということで、これによって素人でも訴訟はたやすくできることになるわけでございます。

 特に行政訴訟と申しますのは、割と訴額が安いわけでありまして、なかなか弁護士を頼んで訴訟できるというところまではいきにくい事件が非常に多いわけなんです。できるだけ素人でもできるようにすべきではないかということでございます。

 勿論、これについては職権で調べるだけでなくて、弁論でもその職権で調べた結果について、当事者がお互いに攻撃・防御ができるようにするということが必要ではないかと思うわけでございます。

 「(11)文書提出命令」でございますが、これは現在、民事訴訟法では、この前に改正はされたのでありますけれども、行政の文書提出につきましては、これはペンディングになりまして、法制審議会に預けられまして、法制審議会は案を出したわけでございますが、これが国会に提出されたまま廃案になってしまいました。

 したがいまして、少なくとも法制審議会が出しましたような行政庁の文書提出命令、これは民事訴訟における文書提出命令、それにプラスして行政訴訟では、これは行政庁の処分についての内部的なメモを含むような書類につきましても、これを出させるということが必要であると。これは一般に、特に弁護士としてはその必要性を感じている人が多いわけでございます。

 次に「(12)執行停止」、これは藤田先生もお話になりましたように、訴訟を提起しましても行政執行がとまらないわけで、どんどん進んでまいりまして、判決したときには、例えば区画整理は終わっておるとか、開発は終わっておると。すると、訴えの利益がないとけられてしまうわけでございますので、これを一般に学者は行政の先手必勝と呼んでおりますので、これを防止するために、一応原則として訴訟をすれば、行政処分の執行は止まると。ただし、例外として止めたら非常に公益上差し支えがあるような税金とか、その他のものについては、例外事項を書きまして、停止しないということであります。

 そして、停止があった場合についても、行政庁が申し立てて、著しい支障を生じるということを証明した場合には、裁判所はその執行をすることができるようにする。現在のシステムを逆にするわけであります。

 (13)の「内閣総理大臣の異議の廃止」については、先ほど藤田先生が述べられたとおりでございますので、省略をします。

 (14) 番目の「裁量処分の取消」でございますが、これにつきましても、先ほど両先生からのお話がありましたように、これはやはり行政の説明責任というもの、アカウンタビリティーというものを明文化すべきではないかということでございます。

 先ほどのパイロットの事件の東京地裁の11年11月25日の判決は、就業規則というものが法規範性があるという最高裁判所の判決を受けまして、就業規則の合理性があるということは、使用者が立証する責任があるということを述べておりまして、したがいまして、この裁量処分につきましての要件については、手続的な要件と実体的な要件に分けて規定し、それに適合しておるという説明責任を行政に負担させるべきであるというふうに考えます。

 手続的合理性というのはどうかということでございますが、これは例えば環境基準を定めるときとか、添加物基準を定めるときに、審議会の意見だけではなくて、消費者の代表の意見を聞いたかどうかとか、そういうふうな慎重な手続を経たかどうかという要件であります。

 それから、内容面の合理性、実体的合理性でございますが、これにつきましては、例えば道路の計画の場合ですと、いろんな案を計画して、それを比較検討したかどうか。あるいは最近問題になっております政策評価法案というのが現在検討されております。これは公共事業について、それが無駄使いにならないかどうかというふうな検討がありますが、その中にこの代替案の検討とか、費用便益分析ということがうたわれておりまして、これは法制化するかどうか分かりませんけれども、それと同じようなことを法に規定いたしまして、その説明立証責任というものを行政庁側が負うというふうにすべきではないかと思います。

 そして、こういう行政庁の説明責任を聞いて、なお、それが非常に不合理であるとか、社会通念に反すると認めるときには、その処分を取り消すということに規定すべきだと考えられます。

 それから、5番目に、取消訴訟の判決と和解でございますが、これは多少技術的になりますので、あれでございますが、要するに、議員除名処分のような場合には、現在ではその口頭弁論終結のときにもう議員の任期が済んで、再選されておらなかった場合には、その除名処分の違法取消訴訟は訴えの利益がないと言って却下されるわけです。それでも、それが違法であったということを確認してもらいたいという人は多いわけでありますので、違法宣言判決をできるようにする。同時に、その取り消してもらった任期中の議員の歳費の支払いという判決を同時にできるようにするというふうなこと。

 それから、16番目には中間判決でございますが、これは現在の政策型訴訟でも、原告適格とか処分性で争っておって、最後になって却下ということが出てくるので、もっと早目にそういうものは中間の判決で出してほしいという、これはドイツの行政訴訟にも規定がございます。

 次に「和解」でありますが、アメリカやドイツでは和解は一定の範囲で認められております。特に裁量処分については、裁量の範囲内で和解ができることにすべきではなかろうか。

 日本の司法統計を見ますと、行政事件訴訟関係ではなぜか20件程度和解として上がっております。やはり規定を明文化すべきではなかろうかと思うわけでございます。

 最近、尼崎のもので和解が成立したのは有名でございます。

 それから「6 その他の行政不服訴訟の改正」といたしまして、多少これは技術的な問題がありますので、簡単に申し上げます。

 無効確認訴訟については、この条文の仕方がまずいので学説が分かれておるわけでございますが、こんなのはちょっと変えればできるわけですから、ちゃんと改める。

 それから、義務付け訴訟につきましての、入り口論につきましても、これは明確にする。

 義務付け訴訟についても、ドイツの判決にならったように、裁判所の判断を尊重して、行政処分をしなさいという判決ができることにします。

 そのほか、行政立法取消の訴えの手当の規定、それから、先ほど藤田先生とか、園部先生が言われたように、仮命令、これは行政処分には仮処分がないわけでありますが、義務付け訴訟のようなものについては、仮処分に相当するドイツの仮命令のような制度を入れておく必要があるということでございます。

 そのほか、技術的に整備する規定のことを書いてありまして、最後に(6)としまして、義務付け訴訟の場合、ドイツでは、その判決を守らなかった場合には強制金というものを課すことになっております。こういう規定も入れておくことが、ドイツと同様に必要かと思います。

 そのほか、改革事項といたしましては、印紙代というものを、フランスでは一律200 フランということになっておりますので、それを安くすると。

 それから、いろんな空港訴訟とか、ああいうふうな場合には何百人という原告がいる場合に、それを全体で決めるべきで、一人ひとり現在は取っておるわけですが、そういうふうに改正すべきかと思われます。

 それから、ここには載せておりませんが、昨日ADRについても、私が個別的に考えました行政苦情処理法とか、行政紛争処理法案というものは、お手元にはないかも分かりませんが、つくっておりますので、もし後で御質問があればそれについては触れさせていただきます。

 以上でございまして、この行政改革のためにも、この行政事件訴訟法の改正というのは不可欠でありまして、世界の行政訴訟の趨勢に非常に遅れておる現在、貴審議会におきましては、以上のような方法で是非改正についての答申をまとめていただくよう、一般の市民になり代わりまして、お願い申し上げるものでございます。

 どうも御清聴ありがとうございました。

【佐藤会長】どうもありがとうございました。法改正の具体面にわたりまして、大変興味深いお話を賜りました。
 最初に申しましたように、35分に再開するということで休憩して、その後、3人の先生に引き続き御臨席いただいて、意見交換に移りたいと思います。
 それでは、35分まで休憩いたします。

(休 憩)

【佐藤会長】それでは、時間もまいりましたので、再開したいと思います。
 休憩前にお聞きしました園部教授、藤田教授、山村弁護士からのお話につきましての質疑応答、それから委員の皆様の意見交換に入りたいと思います。さっきから申していますように、4時半ころまでを予定しております。どなたからでもどうぞ御発言ください。

【藤田委員】藤田が藤田先生にお聞きします。
 実際の実務の運用で公益優先というか、固い運用をしているというお話で、私、東京地裁の行政部で3年間裁判長をいたしましたので、何となくしかられているような感じがいたしました。御承知のとおり、行政事件訴訟法と、その前身の行政事件訴訟特例法も、立法当時、非常なせめぎ合いと言いますか、激しい論争があって、その妥協の産物という形でできたという経過がありますし、そういう経過を踏まえた学説の展開等もございまして、実務としては、そういうような経過を無視できない。立法者の意図というのは、一つの資料にすぎないと言われておりますけれども、そういうことから言うと、典型的な例は、お挙げになった義務付け訴訟のような、無名抗告訴訟など、かなり実務ではシビアな判断をしているわけですが、そのほかの原告適格とか、訴えの利益とか、処分性の問題につきましても、やはり訴訟法の修正と言いますか、おっしゃったような方向での立法による修正ということがどうしても必要ではないか。
 園部先生が御指摘になりましたように、一定の領域ではありますけれども、原告適格など、ある部分については最高裁もかなり拡張の努力をしているんですけれども、しかし、それも解釈、運用という点でカバーするのにはちょっと無理かなという面があるように思います。そういう意味で、行政事件訴訟法に手をつけるということは御指摘のとおり必要だと思いますが、やはりそれだけではなくて、行政実体法の方が問題だと思います。行政実体法が立法された当時は、全体的に社会秩序とか公益を重視するという考え方が基底にあったと思うんですけれども、そういう前提でできているとすると、これまた個々の領域については解釈では限界があるように思いますので、訴訟法と並んで、行政実体法も、おっしゃるように一気にということはできないと思いますけれども、手を付けていくということがどうしても必要な領域も残るんじゃないかと思うんですが、いかがでしょうか。

【藤田氏】それもまさに私そう思っているわけで、今色々起きている現代型訴訟の話というのは、一体どこまでが本来訴訟法の問題なんで、どこまで実体法の問題なのか。これは相互連関において何とも言えないところがございまして、ですから、おっしゃいますように、まさに実体法の方も動きを色々としなければいけないんですが、なんせ実体法というのは、今度1府12省になりましても、12省庁あって、それぞれの政策があるわけですから、全部足並みをそろえて一斉にそういうことを進めるというのは、なかなかそう簡単にはいかない。訴訟の方が簡単に行くという意味ではありませんけれども、こちらの方はターゲットが絞りやすいというところは多少あるので、おっしゃるとおり、両方の話だと思います。
 それから、勿論、おっしゃいましたとおり、裁判というのは与えられた法律というものを踏まえてやるわけですから、私、今日も申しましたけれども、行政事件訴訟法それ自体がそもそもおっしゃいましたように、問題を抱えて出発したわけで、義務付け訴訟の話などは、まさにそういうことで、だからこれは裁判所もさることながら、立法者の意思の中に行政庁の第一次的判断の尊重という思想があったわけですから、そこのところは、もうおっしゃいますように、法律そのものを整理してもう一回考えるのでなければ、どうにもならぬだろうと思っているわけです。
 それから、原告適格の問題にしても、処分の問題にしても、処分性の方はかなり厳格ですが、原告適格の問題については、その間、かなり判例上も進展が見られまして、私が今日、申しましたようなことについても、実態上はかなり最高裁判例などでも手当されてきた。例えば個別的な個人の権利が保護されようとしているかどうかという判定についても、従前に比べれば随分広がってきているように思うんです。でも、やはりそこは随分無理をしていると思うわけで、それはやはり立法の枠があるからそうなっているんだ。では、拡げると言って、どういうふうに拡げたらいいのか。山村先生今日の御提案は一つのアイデアで、そういう道もあると思いますけれども、具体的に立法でどう手当するかというのは、これはちょっとこの場での話ではなくて、更に改正が始まるということになった時点での話ではないか、私はそんなふうに考えました。

【山本委員】3人の先生方とも行政訴訟というのは、原告適格の制約など民事訴訟と違って、圧倒的に原告が弱いという状況があるわけだから、できるだけ原告、住民側の権利や損害を救済することに大きくウェートを移して、実体法や訴訟法の整備をすべきだと主張されたと理解したんですが、確かにそういうことかなとも思うんですけれども、行政訴訟のもう一つの側面といたしまして、原告となる住民と、それからそれを取り巻く住民との利害の調整という、まさしく行政の神髄みたいな部分がたくさん含まれているんじゃないかという気がするんですね。
 したがって、先生方のおっしゃるような考え方というのは、勿論、基幹になければいけないと思うんですけれども、だからと言って、そういう行政訴訟に司法が何から何まで介入していくことが果たしていいのかどうかという疑問がございます。先生方の御意見の中にもございましたが、ADRとしてのいろんな行政委員会でございますとか、そのほかにも、特に地方自治体の場合には、議会にももう少し行政を監視するという機能も当然求められてしかるべきなわけですから、もっとそういった争いに対して近いところで、いろんな機関が、いろんな形で機能していく必要があるんじゃないかと、ちょっと先生方の意見を聞きながら思ったんでございますが、どなたでも結構でございますので。

【佐藤会長】それぞれお話しになりますか。

【園部氏】それでは一言だけ。今、山本先生おっしゃるとおりで、私も最初に書いておきましたように、司法的なチェックだけでは、非常に複雑な行政上の紛争を、短期間に、的確に解決するということは難しいと。司法の果たすべき役割というのは当然ある分野に限られるわけで、それ以外の部分は、今おっしゃったような議会の問題もございまして、オンブズマンも大体議会に設置されるものですから、そういう方向で行くことがいいでしょう。
 ただ、議会の議員はそれぞれ利害関係がございますので、やはり議会の委任を受けたそういう専門的な機関が、議会の意を体して介入していく。行政についても、行政委員会をこまめに、小さなものができるようなものをつくっていく。余り行政委員会といっても大仰なものをこしらえますと、また、時間と手間が掛かってしようがない。なるべく地方の小さな紛争、色々ありますね。ごみ処理場の問題などありますけれども、行政だけではなかなかそれは大変です。行政と司法と立法のどれにも属するようで属さないような簡易・迅速な紛争解決機関というのはあっていいのではないか。これはなかなか日本的な潔癖性というのがあって、どっちかに所属していなければだめだということではなくて、新たな救済制度というものを考えていかなければいけない、私はそう思っています。そういう点では大賛成です。

【藤田氏】全くおっしゃるとおりなんですか、私、今日はあえて司法の行政に対するチェック機能の強化という方向でお話しするということを最初にお断り申し上げました。
 おっしゃいますとおり、いろんな可能性がございまして、実は私のところに今、ドイツの行政裁判所の現職の裁判官が教授として期限付きですが来ているんです。彼は行政裁判所、日本で言えば地裁に当たるところですが、全くの裁判官です。しょっちゅう話をしているんですが、要するに、日本での権利救済をどう思うかということを申しまして、日本の場合には、行政訴訟が非常に少ない。ドイツに比べて先ほども御紹介ありましたように少ない。だけれども、日本の場合にはそれ以外にまだいろんな問題解決の可能性ということを探られていて、だから、トータルとしては、それは全く数字ほどに日本の国民の救済がなされていないとは思わない。彼はそう言うんですが、ただ、これはどうもそういうことではなくて、やはり裁判によってきちっと白黒をつけたいと思って訴えようとしたときの救済の可能性というか、頼りにできるかどうかという点で見ると、残念ながら日本の裁判制度というのは、非常に力が弱いと言わざるを得ないと彼は申しております。
 全くおっしゃるとおりでございますが、司法による救済を求めた場合の話ではどうかという点に絞って言うと、やはりこれはかなり問題があるのではないかということです。

【山本委員】ついでによろしゅうございますか。
 今ドイツの話が出たんですが、ドイツは非常に行政訴訟の件数が多い。日本は1,800 件しかないと。圧倒的に違うわけですけれども、例えば行政と住民との関係でございますが、私どもは誠に手前勝手な話で恐縮ですけれども、道路に電柱を立てさせていただく。これは道路法に規定がありまして、道路法に合致すれば、一般の公衆に電気を送るための電柱は立ててよろしいという規定があるわけです。
 ところが、今から30年くらい前から、そのお願いを出そうとすると、行政の方が向こう三軒両隣の承認の判をもらってきなさいというのがありまして、これは結構厄介なんです。向こう三軒両隣で、皆仲がいいといいんですけれども、たまたま仲の悪い方がおられますと、住民の方々の土地に立てさせていただくわけじゃないんですが、電柱を立てる場所を巡って結構大仰な争いが出てくるわけです。訴訟を起こしていただくとこっちも黒白がはっきりしていいんですが、訴訟は起こしてくれない。
 そうすると、七重の膝を八重に折って、ということになります。曽野先生などはときどき言われていますけれども、建築基準法にぴちっと合致した建物も建てられない、これ法治国家ですかとおっしゃることがあります。同じ意味かどうか分かりませんが。
 そういった意味から考えますと、日本の都市化というのは極めて短い間に急激にふくれ上がって、やはり都市生活に対するそれぞれの距離でございますとか、物の考え方だとかいうのはまだまだ未成熟の部分もあって、それに対して行政が徹底的に個別のサービスというとおかしいんですけれども、個別調整をしながら、むしろADRみたいなことをやりながら行政を進めていくという側面もあるんじゃないかと思うんですけれども、山村先生などはドイツのことで随分勉強されているようですが、今、藤田先生が言われたことについて、日本とドイツで、行政と住民との違い、訴訟以前の問題としてどのように感じておられますか。

【山村氏】訴訟以前の問題についても、ドイツでもADRは非常に多いわけでして、日本以上に多くて、いろんな形での行政関係のADRをやっています。
 それから、アメリカについては、私ADRの調査に行ったことがございまして、アメリカのADR法のPRのためのビデオを私はもらってきまして、日弁連で映したことがございますけれども、どのようにアメリカの行政ADRが、アメリカには行政紛争解決法というのがございまして、事務局に資料を渡していますけれども、それに基づいてどのような運用がなされているか。アメリカのADRについては、行政に関して5つくらいの法律がございまして、それぞれの機能分担をしているということです。
 それから、最初に言われた、例えば藤田先生と同じように、一旦それが行訴に持ち込まれた。例えば今問題になっております東京都の外形課税とかいう問題があって、それを訴訟にするかしないかというときに、二つの見解があって、それは民主主義で決めるべき問題だと。訴訟でやるべき問題ではないというのと、いや、訴訟にすべきだという考え方とあるわけなんですけれども、私は要するに、訴訟に持ち込んだものについては、法律に従ってなされたかどうかを判断する。その法律というのは民主主義に従って決められたんだと。あるいは条例も議会で決められたんだ。だから、議会、あるいは法律で決められたもののとおりやっているかどうかの争いであって、それがいいか悪いかの問題ではないんです。
 例えば原子力発電所の訴訟で、原子力発電所はいいのか悪いかの問題ではなくて、原子力発電所の許可が法律に従って決められているかどうかの問題であって、それがいいか悪いかの話ではない。
 要するに、訴訟というのは、政策がいいか悪いかの問題ではなくて、その法律どおりになされているかどうかの問題である。
 アメリカでは、行政訴訟の半分は企業が起こしているんです。日本では企業は起こせないから、結局、癒着してこうせざるを得ないという構造になっているので、それはやはりストレートにというのがいいんじゃないか。

【吉岡委員】山村先生のお話でしたか、日本では行政訴訟が非常に少ない。勝訴率も非常に低いということですけれども、勝訴率が低いということの原因は主として何なんだろうかというのが一つ。
 それから、もともとの訴訟が少ないというところに、日本的な問題があるのではないかと思うのですが、勝訴、敗訴という以前の問題として、訴える権利がない。原告適格がないということで門前払いになるケースが行政訴訟の場合に非常に多いのではないかと思います。そういうことから、訴訟を起こしても、争うことができない。それが見えると、訴えること自体を躊躇してしまうという問題があるんじゃないでしょうか。
 それから、原告適格があるという形にするために、動物を使ったり、色々工夫をして、話題性のある訴訟をやるというようなこともありますけれども、そもそもの原告適格の考え方に問題があると思います。
 今日お話を伺った中でも、私も非常に賛成できる考え方というか、現実に損害を受ける恐れがあるということで適格性はあるんじゃないかと山村先生の資料に書いてございますけれども、原告適格の考え方をもっと広げていくことが必要だと思います。現行法でも解釈の仕方で可能とお考えなのか、変える必要があるとお考えなのか、その辺も含めて伺います。

【山村氏】一つは、行政訴訟の意義は、非常に勝訴率が少ないのに、どうなるかという点で、実はこの前シンポジウムがありまして、いろんな人の考え方があるわけです。私は普通の住民側から相談を受ける場合もあるし、企業の人から相談を受ける場合もあるし、色々ありますけれども、一つは、勝たなくてもいいから中身に入ってください。原告適格を認めて中身に入ってくださいという人たちもあるんです。
 それは何故かというと、要するに、行政と話しても全然文書は見せてくれないし説明はしてくれない。要するに、裁判に持ち込んで、説明をしてほしいんだと。どうしてこういうことをしたのかと。それから、我々の意見に対して答えてくれないから、裁判の場で答えてほしい。その上で負けても仕方がない。しかし、我々は対等で話をする機会を与えてほしい。
 ところが、弁護士のところに相談しに行くと、これは訴訟しても原告適格ではねられますから、あきませんと言って取り上げてくれないということで文句を言っている人もあるんです。
 片一方ではもう一つ、やはり勝訴してほしいという人は圧倒的多数なんですけれども、しかし、認められないというのは、先ほど言ったように、普通、多くは裁量処分だということで、行政の意見を尊重する。藤田先生言われた考え方でやってしまう。その原因は、さっき園部先生が言ったように、裁判官としては忙しいので、勉強している間がないので、自信がないというようなことで、棄却される率が多いということです。
 まず、そういう形で実際の内容については、対等の説明責任というのを行政が述べて、そこで裁判所がそれが合理的かどうかということを判断するシステムを確立する。
 原告適格につきましては、さっきから述べていますように、個別の法律で決められた権利ではなくて、これは裁判を受ける権利というのは、これはあくまでも訴訟をする権利であって、個別の法律で認められておる権利ではない。さっき三ケ月先生の話が出ましたが、私も三ケ月説に賛成なんですけれども、そういう形から決めるべきもので、個別の法律で権利を認めるべきものではないという考え方からすれば、訴訟として取り上げられる値打ちのあるものは取り上げてよろしい。その基準は損害賠償をする権利があるというものでいいと。
 昔「一厘事件」というのがございまして、1厘の損害賠償をした事件があったわけなんですけれども、それでも裁判所は認めたんです。ですから、それは1厘でも損害があるならば、それは認めてよろしいのでないか、そういうふうに思っています。

【吉岡委員】私は主婦連合会という団体に属しておりますが、私どもでジュースの表示を巡って訴えたことがあります。この場合には、最高裁の判断も含めて、訴えの中身に入らないで、消費者団体、及び消費者個人は原告適格がないということで門前払いになっています。
 お三方のお話で、最近は随分最高裁も判断が変わってきたということが分かりますが、ジュースを飲むのは私たち消費者ですし、現に買って飲んでいたわけですから、そういうことからすれば、原告適格がないという判断が非常に不自然です。これは法律的に狭い解釈をすれば当然かもしれませんが、やはり原告適格の考え方そのものを変える必要があると考えております。
 それから、直接的に行政訴訟というわけではありませんけれど、やはり代表訴訟なり団体訴権なり、そういうことを認めていくことで、特に行政訴訟の場合には、訴訟がしやすくなるということもあります。原告適格、あるいは訴権の問題は、非常に重要と考えております。お話に大変共感するところも多かったという感想も含めて申し上げました。

【佐藤会長】井上委員どうぞ。

【井上委員】お三人の先生方から色々貴重な御意見を賜りまして、ありがとうございました。私も、大学で行政法を勉強したはずなのですが、もうちょっと真面目にやっておけば、もっとよく理解できたのではないかと思います。そうですので誤解でないか恐れながら、主に藤田先生と山村先生に、1、2質問をさせていただきます。
 藤田先生は、現行の抗告訴訟には、もともと例外という形で問題があり、また限界もあるのだというお話で、法治主義を徹底させるならば、行政処分が違法なときはそれを確認したり、取り消すということに重点を置くべきではないかということであったのですが、それにもかかわらず、主観訴訟という基本型は維持していい、ただ、その入り口である訴訟要件のところは柔軟に考えていくべきだ。こういうお考えだとお聞きしましたが、その基本型のところも、もう一歩進めるということは、なぜできないんだろうか。素人考えですが、そういう疑問を一つ持ちましたので、お教えいただければと思います。
 もう一つは、裁判主体の点で、行政裁判所を設ける、それが無理ならば、実情に通じた専門家が参加をすべきだと、そういうお考えだったと思うのですが、他方、山村先生の方は、市民感覚を反映させるということで、国民というか、素人が参加すべきだとされる。対照的であるように思いますので、お互いの御意見に、それぞれどういうふうなお考えをお持ちかということを教えて下さいませんか。
 3番目として、山村先生は、非常に具体的な改革の提案をなされて、勉強になったのですが、ちょっとよく分からない点もありました。例えば職権探知主義というのを強調されておられるのですが、これは、素人である国民がとにかく訴えてきたとき、専門家である裁判所が色々な角度から見て、主張されていない点でも違法ならば取り上げて救済すべきだと、こういうお考えだと思うのです。しかし、事実関係が割と単純で平明な場合には、比較的やりやすいと思うのですが、一つの行政行為とか行政処分の中身、あるいは背景にまで立ち入って、事実関係を掘り起こして、いろんな角度から分析するということになりますと、相当に大変な作業になるのではないかなという感じがするのです。しかも、仮にそれを見逃した場合に、当事者としては主張していないんだけれども、裁判所の側で十分やってくれなかったということを理由にして上訴ができて、紛争がずっと広がっていくという恐れもあるのではないか。そう考えますとちょっと過度かなという感じもするものですから、その辺について御意見を承ればと思います。

【藤田氏】どうもありがとうございました。最初の方の話なんですけれども、私の言葉で近代行政救済法システムという、救済ということは、単に客観的な法の適合性の確保ということではなくて、それを通じて国民の権利・利益を救済するという制度が出発点になっているという。問題は、そういう目に立ったときに、相手方である行政庁にもともと訴訟法上、そういう特権的なと言うか、強大な地位を与えるということが、そもそもそういう救済法のシステムの論理に沿っているかどうかというコンテクストで申し上げたつもりでした。
 勿論、行政の客観的な適法性それ自体をチェックするシステムという裁判制度というものも、これは考え得るわけでありまして、そこのところは、実は客観的な法適合性の保護ということと、それから主観的な権利保護の要請というのを、一つの訴訟の制度の中でどの程度配分を考えるかということは、これは立法政策の問題として色々あり得るわけなんです。フランスなどの場合には、ずっと客観的な訴訟形態ということに近づいていると言われますけれども、山村先生のお考えも、どちらかというとそれに近いところがあるんではないかという気がするんですが、私はそれは一つの立法政策であろうと思いますけれども、やはり主観訴訟ということを必ずしも前提として建前を崩すことはない。要するに、民衆訴訟というものを広く認めるということになると、これはとりとめもなくなるだろうという前提の上で申しました。
 次の裁判官ないし審判官として、どういうものが入るかということですが、私の今日の話は、要するに、キャリアの民事・刑事裁判官だけでは困るというところに重点を置いて申し上げたわけで、とりあえず行政法の専門家ということを申しました。それは一般市民をおよそ排除すべきであるというコンテクストで申し上げたわけではなくて、そこのとこは山村先生のような参審制とか、そういうあれをどう考えるかというのは、ちょっとまだ具体的に詰めておりませんので、今日は何とも申し上げられません。
 この問題は、全体としての救済制度ということを考えたときに、市民ないし素人の参加というのは、どの段階に重点を置くべきなのか。お話にも色々ございましたけれども、行政の事前手続というのもあるわけで、行政手続の拡大、あるいはパブリック・コメント制度の法制化といった重要な問題があると思いますけれども、そちらの方に重点を置くべきなのか、裁判というところに重点を置くべきなのか。その辺も含めて、この問題はもう少し考えてみたいと思っております。

【山村氏】国民の権利の保護といった場合に2種類の権利があるわけです。
 一つは、裁判を受ける訴訟法上の権利。もう一つは、そうじゃなくて、中身の法律で保護されている権利。
 裁判の入り口論は、裁判を受ける権利の訴訟法上の権利の問題である。それから、中身の裁判で保護されるのは、法律で持っておる権利だと。こういうふうに私は分けて考えております。
 そして、その中身の裁判につきましては、現在の法律では、例えば7割か8割は、要するに、その行政処分が法律のとおりにしたがって適法になされたか否かというのが7割くらいです。あとの2割、3割は、それが違法な場合に相手の権利の侵害になるかどうか。先ほど藤田先生が10条1項の問題で話された点が、その3割のところももっと広げるべきだというのが藤田先生の見解で、私も同じ見解なんです。
 ですから、入り口の権利と中身の審理の権利とでは、権利の質が違うという点があります。ほとんどは、違法性だけが中身では審理されているということになるかと思います。
 それから、次に専門的裁判官を採用すべきだというと、素人を参加させるべきだというのと、一見矛盾するようになるけれども、それはどう考えるかという点でございますが、私も園部先生と同じ考え方で、以前から家庭裁判所に類するような行政裁判所をつくるべきだという考え方を持っております。
 これは専門家を確保する。しかし、専門家というのも、専門的であるけれども、どこかぽかんと穴が欠けておるときがたまにあるんです。これは我々が例えば大学で講義しておりますと、色々質問を受けるときがございまして、学生の質問に刺激されて、自分の考え方はここはちょっとおかしかったんじゃないかなということを感じ取る場合があるわけであります。したがいまして、そういう専門家の何かぽかっと欠けているところを常識で補ってくれるようなことがあることによって健全な判断ができるんじゃないかということであります。
 ドイツで聞いてまいりましても、結局、要するに素人を説得できないような判決というのはだめだというのは裁判所の考え方なんです。だから、裁判官は素人を説得するけれども、素人がどうしてもそれはおかしいと言ったら、どこか自分が欠陥があるんだという意味が一つございます。
 もう一つは、職権探知主義と言っても、裁判官の審理だけではなかなか踏み込めないところがあるんではないかという点でございます。これは私も同感でございまして、簡単なものは職権で全部分かりますけれども、非常に複雑なものになってまいりますと、例えば先ほど同意書の問題が出てきましたけれども、その同意書が出されてきたときに、それが偽造かどうか、そこまで分からないわけです。そこは証人を調べてやらないと、同意書が本物であるかどうかは書類だけでは分からないということになりますので、私の案では一応職権で調べて、それで明白に違法であると分かれば、それで結審するけれども、分からないときには弁論を開いて証人調べてをしてやるという、言わば折衷主義で、弁論主義と職権探知主義の併用説みたいな形のものを考えておるわけであります。
 勿論、原告が弁論主義は要りませんと言えば、職権探知だけでやってもよろしい。そういうふうな柔軟な制度を取り入れるべきではないかと考えております。

【髙木委員】三先生に一つ二つお尋ねしたいんですが、まず園部先生に、訟務検事という仕組みと三権分立、私よく分かりませんが、何となく感覚的に訟務検事という仕組みがいかがなものかなという一般国民の感覚があると思うんですが、その辺についてどういう御認識なのかお尋ねしたいと思います。
 次に、これは三先生に皆共通なんですが、行政訴訟の現状には色々問題点がありますと言われましたが、それぞれの問題、例えば処分性、原告適格、あるいは訴えの利益等々について、三先生のおっしゃるお話の中にはかなり共通項があるなとお聞きしたんですが、これだけ問題があり、そういう問題点の認識についても、皆さんのお考えが共通の認識化しておるのに、なぜずっとこのままで来ているのか。その辺はどこに理由があるのかというのを法学者として色々御研究されておる立場で、藤田先生の見方、捉え方をお伺いしたい。
 もう一つ、藤田先生には、先生のお話の中で、いわゆる団体訴権などに関するお考えにお触れになっておられないんで、その辺、ちょっとジャンルが違うのかもしれませんけれども、お考えがありましたらお聞かせください。
 4月だったと思いますが、私ども塩野先生のお話をお聞きする機会がありましたときに、「法律上の利益」という条文上の文言について、当時日弁連のペーパーだったかに、「現実の利益」にという表現がありまして、それは広がり過ぎじゃないのかという塩野先生のお考えが述べられたように記憶しております。今日の山村先生のペーパーを拝見しますと、これはアメリカの例を引かれて、現実の利益論や、あるいは取消理由の制限というところでは、自己の利益もしくは一般公共の利益に広げるという表現をなさっておられますが、この点について、4月のときのやりとりで、広がり過ぎじゃないのという御意見があったことについて、どのようにお考えなのか、お教えいただきたいと思います。

【園部氏】私は判検交流の問題と、法律上の利益についても一言申し上げます。
 判検交流は、戦後の日本の司法の大きな問題点であるというふうにかなり厳しい御指摘もあるように思います。私は裁判所にもおりましたので、実際に訟務検事になった裁判官、そういう人たちがどういう行動をしているかということをつぶさに横から見た機会もありますので、その立場から言いますと、判事の資格を持っていた人が、あるときから法務省の訟務局、その他法務局に出向して、そして検事の資格で被告行政庁あるいは被告の国または地方公共団体等の代理人になると。それは裁判官であった人が途端に被告の代理人になるのはおかしいではないか。逆にまた、昨日まで被告の代理人をしていた人が、今日から裁判官の席に座っている。これもおかしいではないか。私はこのことはなかなか理解し難い面があると思います。
 一つは、日本では先ほどから申し上げておりますように、司法修習生を終えますと、すぐ裁判官の場合は判事補、検察官、弁護士、それぞれの職業に就くわけでございまして、裁判官の職業に就いている者がどうして被告の代理人としての、これは名前がたまたま検事となるわけですが、訟務検事ということになり、これは法務省に所属するためにそういうことになっているわけですが、それで被告の弁護士の仕事をしているのはおかしいではないかと。
 私に言わせますと、法律家というのは、あるときは原告の代理人になり、あるときは被告の代理人になる。地方に参りますと、先の事件では代理人の被告の側に座ったけれども、次の事件では原告の側に座って、同じ事件ではないのですが、色々な立場で色々な訴訟活動をするということが法律家の役目ですから、裁判官としての仕事は裁判官としての法律家の立場から裁判をする。一旦被告側に付く以上は被告側の利益代表として頑張る。これは法律家としては別に不思議でも何でもないのです。ただ、残念ながらに日本の場合は、被告行政庁、被告、国及び地方公共団体の代理人に、弁護士が付くということもありますけれども、全部がそうではない。言わばお抱えの弁護士として訟務検事というのを国が供給するという形になっております。言ってみれば企業内弁護士のようなものでして、企業内弁護士はその企業から給料をもらって、訴訟とあればどこでも出掛けていくという形のものが、これから弁護士を増やされると必ず出てきます。
 そうすると、企業内弁護士は、企業のために仕事をするわけですから、当然企業の利益代表になるわけですが、言ってみれば、これから例えば法務省のお抱えの弁護士という人が出てきてもいいわけです。国や地方公共団体から頼まれれば弁護士の資格で代理人になるいう人も勿論ありました。
 そういうこともありまして、できるだけお抱えで一定の給料を支払っているので、いざというときは、国や地方公共団体の代理人になって、仕事をするということになるわけなのです。
 このシステムそのものが客観性、ないし中立性等の考え方に反すると言われると困るのですが、一人ひとりの訟務検事を見ている限りは、そういう偏頗な見方をするということはない。被告の代理人として国や地方公共団体のために行動するということのほかは、むしろ客観的にきちっとした訴訟を維持するためにも、訟務検事というのは要るのだという趣旨で動いている場合もあります。
 この問題は、これから弁護士がだんだん増えてきますと、だんだんと被告行政庁や国・地方公共団体に専属的に、あるいは相当の力を割いて付く代理人がいると思いますから、多少その点はこれから変わってくるかもしれません。ちょっと誤解を招きやすい制度ではあります。私の聞いたところではある裁判所で被告の訟務検事がちょうど公判の検事のようにやおら立ち上がって、原告に向かって居丈高に色々言ったものですから、裁判長も間違えてしまって、原告に向かって、被告人はと言ったことがあったそうです。
 次に、法律上の利益の問題ですが、御承知のように、民法とか商法とか、あるいは労働法でもそうですけれども、かなり裁判所で使う裁判規範に非常に近いもので、我々は別に民法や商法に基づいて生活しているわけでも何でもない。裁判が起こったときに、民法の実体法としての意味合いが出てくるわけなのです。それで裁判所が使いやすい実体法、これは本当の意味では使いやすくないのですけれども、ここでは余り議論しませんが、とにかく使いやすい実体法がある。
 ところが、行政法は、実は色々な性格を持っております。一つは、行政庁の行為規範として、行政庁がいかに法律にしたがって行動するかということの行為規範としての性格もある。
 もう一つは、国民一般に対して、法律に違反した場合には許可を取り消したり、あるいは過料を課したりして、そういう制裁規範としての性格もある。ところが国民の方で行政法を使って裁判所で争おうとすると、法律上の利益ということが出てくるわけなんです。一体その法律上の利益というのは何なのかということが非常に分かりにくくて、先ほどの行政庁の行為規範である行政法なのか、制裁規範である行政法なのか、あるいは裁判所に適応しやすい意味での裁判規範というものをそこから探してくるのか。なかなか民事訴訟法や刑法の場合と違う。
 行政法というのは、結局、基本的には行政のためにも、なければならない法律で、それを使って裁判所で適用するという場合に、裁判官が法律上の利益というものを原告が持っているかどうかということを判断しなければならない。これはまちまちでして、訴えの利益を何とかして認めようとする姿勢があるか、そうでないかによって、大分解釈上違いが出てくるということがありまして、その点が行政法の実体法としての難しさであろうと、こういうふうに思っております。

【藤田氏】お話にございましたように、それからまた、今日、私一番最初に申しましたように、私どもが話しましたことの少なくとも基本的なところは、我が国の行政法学者の間ではほとんど共通の認識になっているように思うんですが、それがなぜ現実化しないかというのは、いかに行政法学者に政治的力がないかということでありまして、したがいまして、司法制度改革審議会という権威ある場におすがりしているわけでございます。
 現実の立法というのは一体どうやってできるんだろうという問題を、私も気になりまして、色々聞いて回ったりしたことがあるんですが、どうやら一つは、まず学界に行政法で言えば田中二郎先生のようなカリスマ性を持った大先生がいるということ。
 それと、担当の各省に非常に問題意識を持った局長レベルの人がいること。局長と学者がつるんで、政治家を動かさなくちゃいけない。ところが、まず行政訴訟法の改正というのは、各省庁はみんなしたくないわけでありますし、今の方がいいわけで、変わるとすれば法務省ですけれども、法務省というのは一番政治的バックアップがない省でございます。したがいまして、なかなかそういう構造になりにくいんだろうと思うんです。それを動かそうとすれば政府しかないわけで、それを動かすためには、やはり司法制度改革審議会しかないんだと思います。なにとぞよろくお願いします。
 もう一つ、集団訴訟の話があったと思うんですが、実はこの点は私、まだ詰めてよく考えておりませんで、うまくお答えできないんですが、一面では、私が今日申しましたように、救済法システムを考えるときに、国民の権利保護という場合の国民というのを、今のように本当に特定の個人の保護というふうに限定するのが本当にいいのかどうかという面がありまして、そうではない、特定の個人の集団というものに、それを認める方がいいという可能性もあると思うんですが、他方で、今の訴訟制度というのは憲法の裁判を受ける権利に基づいてできているものだと思いますから、憲法上の裁判を受ける権利という基本権というのが、一体どういう主体に帰属するのかという問題がございまして、これはむしろ佐藤先生の領域の話だと思うんです。
 その辺のところの兼ね合いと申しますか、それを考えた上でいろんな団体で、こういう場合はどうだ、こういう場合はどうだという判断を恐らくしなければいけないんじゃないか。その先はそれ以上細かく詰めておりませんので、申し訳ありませんけれども、そこまでということです。

【山村氏】団体訴訟につきましては、これは企業でも会社は勿論、法人格があるからできます。原告適格を持たせば訴訟はできるわけでございます。
 それから、消費者保護団体とか、環境保護団体につきましては、二つ考え方がございまして、アメリカの場合ですと、結局、その団体のメンバーが何らかの現実の損害を受ける場合には、その団体が原告になれるというのがございます。日本でも、例えば労働事件につきましては、組合員が不当労働行為をされた場合には、組合員が労働組合に委任すれば、労働組合が原告になれるという規定がございます。
 ですから、組合員が何か現実の不利益を受けた場合には、団体に委任して、団体が原告になれるという考え方が一つ。
 もう一つ、アメリカではその団体が例えば、いろんな消費者運動をやっておって、いろんな費用を使ってきたと。ところが、そういう行政手法によって今まで活動してきた費用が無駄に帰してしまうというふうな場合には、これは団体としても現実の損害を被るんだから、原告適格がある。そういうふうに構成するわけでございまして、要するに、団体自身の現実の損害があるか、あるいは組合員の現実の損害があるか、どちらかに該当すれば、現実の利益と書いてあるならば、それに該当してできるという考え方でございます。
 もう一つは、塩野先生が報告されたときに、ちょっと現実の利益では広過ぎないかということを言われたその前提としては、現行の法律上の利益でも、解釈のしようによっては大分広げられると。私も現実に現行法の解釈としては広い解釈を取っているわけです。しかし、これは先ほど藤田先生が述べられたように、解釈はできても、最高裁判所がそれを取らないということであったら、これはいつまで経っても変わらない。10年経っても、20年経っても変わらないわけでございまして、立法的にはっきりすべきではないかということでございます。
 もう一つは、大体行政法の研究者には、ドイツ系統の学者とアメリカ系統の学者と分かれておりまして、ドイツ系統の学者の方が、どちらかというと、割とシビアな厳格な保守的。ところが、今日は藤田先生はドイツ系統の学者ですけれども、私が予想しておったよりも非常に広い解釈をされているので、いささか意を強くしたわけでございまして、もっと狭い解釈をされるのかと思っておったわけてございますけれども、塩野先生もどちらかというとドイツ系統の先生でございますし、園部先生はアメリカ法でございますので、やはりアメリカがちょうど今から30年くらい前は、日本の裁判所の考え方と同じ考え方を持っておったわけなんでございます。それがだんだんと広がってきまして、現在では現実の損害があればよいというところまで、30年掛かって来ておるわけでありますが、これは判例法の解釈で、アメリカの場合には、法を改正せずに全部判例法でやってしまいますから、そういう意味ではうまく機能しておると。日本は判例法が進まないので、法でちゃんと改正しなければならないということで、審議会の方に頼らざるを得ないということでございます。

【佐藤会長】4時半になって何ですけれども、水原委員、お待たせしました。

【水原委員】お三方ともに、訴訟要件を拡大しなければならないという御説明よく分かりました。ありがとうございました。ただ、訴訟要件を広げれば、それだけで救済ができるのかということを考えてみますと、先ほど藤田委員から藤田先生にお尋ねした質問と同じことになるんですが、現在の行政庁に与えられている権限というのは極めて広い裁量が与えられているわけです。その広く認められている裁量権限が、本案訴訟において逸脱しているのか逸脱していないのかが本案訴訟の対象になるわけで、したがって、広く認められておるだけに、裁判所の判断余地というのは、非常に狭められるのではないかという気がいたします。それでいいのかどうか。
 すなわち、手続法だけに目を向けて、実体法に全く目を向けなくてよろしいのかという素朴な疑問を持ちます。先ほど藤田先生からはお話しいただきましたが、園部先生と山村先生から、その辺りについての率直な御見解をお聞かせいただければと思います。

【園部氏】先ほどの藤田先生から、我々の力が弱いというのはそのとおりなのです。戦後は実務家に優秀な人が出てきまして、そういう人たちの解釈、理論というのが、だんだん世の中を指導するようになって、行政国家としての日本が司法国家に戦後変わるかなと思いましたけれども、相変わらず行政には優秀な人がどんどん集っていって、そして、自由裁量の解釈についてのいろんなものを出して、学者の方は何とか裁量権をいかに収縮するかということについて、いつも多量に学説を出すんですけれども、一向にこれが判例等で確立しない。たまたまある裁判所で学説に依ったとしても、最高裁で判例にならなければ終わりであるという意味で、実力的には判例法がある意味で学説の発展を止めてしまうという面もないわけではないです。これがアメリカの場合と非常に違う点でして、要するに、学界との関係が大分変わってきた。学界としては実務界に幾ら言っても分からないから、それでは外国法の勉強でもしようかということで、一向に実務家に影響を及ぼすような強い力が出てこないということになります。
 同時に、今は非常に法律家の地位が高まっております。司法試験を合格していないとだんだん発言権がなくなってきますので、ロースクールができたりするとなおさらだと思いますが、そういう意味でも私は、学説がもう少し力を得て、実務に影響するような仕組みがまた復活しないかなと。優秀な学者はいるんですけれども、そこのパイプがどうもつながらないというのは非常に残念です。
 その間を縫って、日本は相変わらず行政国家的な体制で、行政法の解釈、運用については、何と言っても行政官が非常に強い力を持っております。同時に、これは専門のアメリカのような場合と違って、キャリアの行政官がしているということですから、裁判所で争う場合に、その実体法の部分の争いというのがどうしても原告にとっては弱い部分でして、これはどういうふうにすれば行政訴訟で同じ土俵の上で争えるかということが大きな悩みですが、そういう点も含めて、一つは、行政訴訟の原告代理人になるのにふさわしい優れた識見と展望を持った中堅の弁護士が出てこなければなりませんし、もう少し時間をかけて、行政救済の全体について、それぞれが、それぞれの役目を果たし得るような素地をつくっていくほかはない。その素地をつくるのは、司法制度改革審議会であると思っております。

【山村氏】この行政裁量の問題については、二つの考え方がございまして、一つはドイツの考え方でございますが、ドイツでは要件法規については裁量がないという考え方でございます。具体例としまして、私がドイツの原子力発電所の設置許可の取消訴訟をしたウィルの行政裁判所に行って、裁判官に聞きましたら、日本の法律でも許可の要件は災害の防止に支障がないことと、それしか書いてないわけです。これは裁量かどうか。それでドイツも同じ条文なんですが、向こうの学説でも裁判官に聞きますと、それは裁量ではないと言うんです。抽象的に書いてあっても。それでは、どうして裁判をするんですかと、それは鑑定を求めますというわけです。原子力の専門家何人かに鑑定させて、安全かどうかと。
 だから、ドイツでは、要件と効果のうち、効果は裁量はありますけれども、要件については抽象的な条文でも裁量はないんだと。それは全部裁判官が分かれば鑑定を求めてやるんだというのがドイツ方式、こういう方式が一つございます。
 もう一つの方式は、アメリカ的なやり方であります。これは行政の裁量というのはどういうのが合理的かという研究は、実は行政学が研究しております。ところが、日本では縦割りで行政学と行政法学との交流が余りないわけで、行政学の成果が入れられていない。今、具体的に検討されているのは、いわゆる政策評価法案の問題で、現在、政府で検討されておりますが、これは公共事業について、裁量でやるかやらないかということを決めるわけですけれども、これをもっと科学的にしようということを検討されておるわけです。そのシステムが検討されておって、これは何も公共事業だけではなくて、一般の行政処分の裁量に使えるような考え方ですね。例えば、費用便益分析とか、代替案の検討とかいうのは、現在そういうシステムが検討されておって、それを法制化するかどうか、現在検討中ですが、それと同じようなものを、行政事件訴訟法の30条のところに、一応抽象的に要件として書けばいいんじゃないかということで、私はそういう要件を具体的に掲げておりますけれども、その二つのどちらかの方法でそれはクリアーができるという考え方です。

【中坊委員】大体お三方とも、司法による行政のチェック機能を充実強化させるという方向には、この審議会の意向もそうであるし、また、お三方とも大体その線に沿っておっしゃっていただいているんで、私も基本的にそのとおりで結構だと思うんですけれども、非常に抽象的、基本的なことを二つほどお三方にそれぞれ、こういう考え方はどうでしょうかということでお尋ねしたいと思うんです。
 まず、行政を司法でチェックするということの意味ですね。これは確かに裁判を受ける権利、あるいは行政によって国民の権利が侵害された場合、それを何とかして回復させる必要がある。そういうことからくる問題点として挙げられております。私はもう一つ、行政そのものがチェックされることによって、透明化され、適正になっていく、つまり行政そのものが司法によってチェックされることにより正されていくと思います。この外部から審査されることの意味ですが、私も警察刷新会議等をやっておりまして、権力というものが内部だけで行われて、チェックがないと、どれほど腐敗していくかということを本当に目の当たりにしました。これは国民もみんな知っていることですから、私は司法が行政をチェックするという作用は、行政そのものを透明化させ、適正化させ、公正化させるという基本的にそういう側面を持っているということが言えないかと一つは思います。
 もう一つは、やや疑問なんですけれども、お三人の先生方とも、何となく行政事件は特殊性があるから、専門家の裁判官が養成され、それが裁いていくことが必要であろうというふうにおっしゃっていただいているわけですが、そういう側面もあるのは事実だろうと思います。先ほどから言うように、色々そういうのはあるけれども、これは非常に専門ばかという言葉もありますように、先ほども山村さんの話でしたが、穴があるということをおっしゃいましたけれども、むしろ必然的に大変な穴が存在しているし、先ほど園部さんもおっしゃいました判検交流などに関して言いますならば、被告になる方の代理人は裁判官をする。しかし、原告には絶対ならない。そのような方が往復しておっても、裁判官と行政庁の代理人だけをするということがいかに不自然なものであるかということにも気付かずに、それが専門化していけば、いよいよもって私は行政訴訟そのものが基本的におかしな方向に向くのではないかと思います。
 私は特に思いますのは、行政の実際やったことが、公益を実現すると言いながら、その実、全くそれと相反することを、公の名の下に公然とやっていく。この実態こそが本当の姿じゃないかとすら私は思うておるわけでして、そういう意味では非常に行政側の経験だけを持つことの危険性を感じます。だからこそ行政の裁判を憲法で司法に移したというところもあるんじゃないかと思うんで、裁判官が専門家で構成されるということについては、私はそういう危険性はないものか。その二つの点をそれぞれできましたらお三方から承りたいと思います。

【園部氏】行政に対する司法のチェック、行政そのものを透明化していくと。これはまずどんどん行政訴訟が起きなければいけないので、色々なところで、手の届く限り、色々な人が行政訴訟を起こして、行政訴訟に取り囲まれるという状態があっていい。住民訴訟や株主代表訴訟がそういう状態にありまして、やはりあれだけ住民訴訟や株主代表訴訟が起こりますと、その成否はともかく、みんな戦々恐々となるわけですから、そういう点では行政訴訟もそういう効果があると思います。それが行政や企業が自らその姿勢をただすという方向にいくと。いいかげんなことはできないのだという意味では大変結構なことだと思います。
 それから、行政の専門性について、これは多分に誤解を受けるわけなんですが、基本的に行政裁判所がある。あるいは行政委員会その他があるということは、私は、今おっしゃった意味で、行政寄りの裁判官をつくるという意味ではないのです。
 例えば、裁判官は大体司法試験を通りますと、こういっては何ですけれども、大体民法、商法等々については、別にそんなに専門家でなくたって十分事件はやっていけるわけで、学者的な目から見れば、裁判官はすべてを知っているわけではありせんが、それはやっていけます。
 ただ、行政法については、これから全然行政法というのはやったことはないという人ばかり増えてきますと、別に行政の経験がなければいけないというわけではなくて、行政というものについてのいい面と悪い面を十分に理解できるような裁判官でないと、非専門家であるがゆえに腰が引けてしまうということがある。
 逆に、非専門家であるがゆえに、無鉄砲に裁判をするということでもいけない。やはり、裁判官としてある程度の節度を持ちながら、行政に対しても説得力のあるような判決を出し得る、そういう人を裁判官すべてに期待することは難しいのではないか。
 これは通常の、例えば刑事の裁判官であれば刑事事件をすべて引き受ける。民事裁判官では民事事件を全部するというのとはちょっと違うのではないかと思うんです。ここは中坊先生と多少意見が違うかと思いますが、今までの動きを見ていて、これまでの司法の状況を見ていて、もう少しそういう専門性ということに傾いてもいいのではないかということで、行政官をできるだけ入れるようにというわけではありません。戦前の行政裁判所でも裁判官、司法裁判所から裁判官が何人か入っていたわけですから、完全にそういう人たちでできるわけではない。だから、そういう意味では、新しいそういう行政事件を担当する部であれ、裁判所であれ、例えば家庭裁判所のことを山村さんはおっしゃいましたけれども、専門裁判所としてのよさがある。決して偏頗な判断をするということにはなりません。
 それから、訟務検事については、余りに国民の誤解を招くような制度であれば、考え直す必要があるのではないかと思っております。

【藤田氏】今、園部先生がおっしゃったこととほとんど変わりません。行政訴訟に両面ある、二つの要素があるということは申しまして、それを従来の我が国の行政訴訟というのは、権利保護というのに傾き過ぎていたのではないか。出発点は救済であるにしても、行政それ自体の適正ということをもう少し考える余地はあり得るというお話をしたつもりでございました。
 それから、行政裁判官の話ですが、これはもともと中坊先生おっしゃっていたような問題がございますから、独自の行政裁判所をつくるべきだという提案をする者も、これは最高裁の傘下を離れてそういうものをつくれなどということをだれも言いませんで、そもそもそれは憲法違反になるだろうということですから、あくまでも通常の司法裁判所の中の一翼としてそういう組織だということであります。
 それから、私が先ほど申しましたのは、今の裁判官たちにもう少し行政法の勉強をちゃんとしてほしいと。行政法というものの考え方というものを根本的に勉強していただく。ただし、それができないと言われるのであるならば、別にそういうものをつくって、そこには要するに、キャリアの民事、刑事の裁判官だけではなくて、ほかの行政の知識を持った者。私は例えば行政法の大学の教授だとか、あるいは行政庁のOBみたいなものでもいいんですが、そういったものをちょっと考えておりましたけれども、私の言ったのは、そういう者だけにやらせろということではなくて、できるならば今のキャリアの裁判官に行政法の勉強もちゃんとやっていただければいいわけですが、それが本当にできるだろうかというのが心配だということです。

【山村氏】判検交流につきまして、私も訟務検事の方で知っている方が多い中で2通りありまして、非常に中立公正なタイプの人と、そうではなくて、非常に行政寄りになってしまうタイプとあるわけでございますので、全体から見れば、それはやめるべきではないかというふうに考えております。
 それから、専門性の問題でございますが、これはフランスの場合には、行政裁判所の裁判官というのは、行政大学院と言って、フランスの大学で一番難しいENAというところを卒業した人が行政裁判所の裁判官になります。
 その考え方は、要するに、一般の公務員というものは非常に行政法を知らない。どういう違法な行政処分をやっているか分からない。我々は行政のエリートだから、そういうものを監視するんだと。そういう一つの考え方ですから、破棄率が多いんです。日本よりも取消率がものすごい高い。というのは、要するに、我々は専門家だから監視しなければいけないというので、変なものは皆取り消してしまおうと。
 昔の日本の行政裁判所の裁判官も、局長クラスの人がなっておって、そういう点では勝訴率は今よりは高かった。
 ドイツもそうなんです。大体聞いてみますと、特に地方自治体の行政訴訟は非常に敗訴率が多い。なぜかというと、地方公共団体の職員は余り行政法を知らなくて、いいかげんな行政をやっておるというような実態も一応聞いてきました。それを監視する役目をするという形です。そのためには、専門性を持っていないとできないということがあるわけなんです。
 もう一つは、現在、問題になっておりますのは、例えば税務訴訟について、税金のことは裁判所が分かりませんので、税務署の職員が調査官として来ておる。これは非常に問題ではないかということが言われております。
 ですから、そういうことであるならば、初めから税務専門の裁判官というのを養成していくということが必要なんであって、その補助知識を税務署側から取るというのでは、これはどろぼうに縄を載せるようなもので、これはおかしいではないか。そのように考えています。

【佐藤会長】まだ、お聞きになりたいことが多々ございましょうけれども、4時半と申して、既に20分超過してしまいまして、御迷惑をお掛けしました。
 本日は3人の先生方に非常に貴重な御意見を賜り、しかも、遅くまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます。

【園部氏】一言だけ。行政訴訟では、今の状況では訴訟費用の敗訴者負担というのは困るという意見がありますので、それをお伝えしておきます。

【佐藤会長】分かりました。

(園部氏、藤田氏、山村氏退室)

【佐藤会長】それでは、次に、時間の関係もありますので、ちょっと急ぎまして、最初にお話ししましたように平成13年1月以降の審議日程につきまして、お諮りしたいと思います。
 この問題につきましては、前々回の第39回審議会におきまして、皆様からの御意見をいただきました。それらの御意見を踏まえまして、会長代理と御相談させていただいて、平成13年1月と2月の審議日程について、具体的な案を考えてみました。皆様にお諮りしたいと思います。
 日程案につきましては、本日お手元にお配りしておりますが、若干御説明させていただきたいと思います。
 お手元にお配りしましたペーパーでは、来年の1月と2月の日程を記載しております。最終意見のとりまとめの目標を6月12日とするということで御了解をいただいておりますけれども、3月以降の審議日程につきましては、今後の審議状況などを踏まえる必要があるかと思いまして、まず、1月、2月の審議日程についてお決めいただければということで、1月、2月について用意させていただいたわけであります。
 1月9日の第43回会議、それから23日の44回会議は、11月28日の審議会において、委員の皆様の御了解をいただきましたので、国民の司法参加について審議を行うということにいたしました。
 審議方法としては、43回会議ではヒアリング及び意見交換、44回会議においては、意見交換を行って、意見のとりまとめができればと思っておりますけれども、問題の事柄から、この2回の審議だけで十分かどうかということについては、必ずしも自信があるわけではございません。更に意見交換の状況なども踏まえて、考えてみたいと思っております。一応43回、44回と考えておる次第です。
 ヒアリングに関し、どなたからお聞きするかということについて、11月28日の審議会で、私と会長代理にお任せいただいておりましたので、2人で相談しました結果、松尾浩也東京大学名誉教授、三谷太一郎成蹊大学法学部教授、藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授の3人の先生にお願いしてはいかがかということになりました。
 訴訟手続への参加制度につきましては、今後、主として刑事訴訟事件の一定の事件を念頭に置いて、我が国にふさわしい具体的な参加制度を検討していくということになっておりますので、今回のヒアリングでは、具体的な参加制度を検討する上で考慮すべき視点を多角的に御指摘いただくという趣旨で、刑事訴訟法が御専門の松尾教授にお願いしてはということであります。それから、戦前の陪審制度の成立過程についても非常にお詳しい政治学者である三谷教授にお願いしてはということになりました。さらに、昨年論点整理前のヒアリングでおいでいただいた比較法御専門の藤倉教授にもう一度お願いして、お話をお聞きするのが適当ではないかと考えた次第でございます。
 本日御了解いただきましたら、それぞれの先生に事務局から連絡を取っていただいて、お願いしたいと考えております。
 それから、その後の1月30日の第45回会議以降についてでございますけれども、11月28日の審議会で、弁護士の在り方か、裁判官制度の改革のどちらかから審議に入るのがいいのではないかということで皆様の御了解をいただきましたので、これも代理と御相談させていただきました。
 まず、第45回会議と、第46回会議で弁護士の在り方についての御審議をいただく。
 そして、47回会議から49回会議までの3回で、裁判官制度の改革について審議を行うことにしてはいかかがと考えた次第であります。
 なお、弁護士の在り方に関する審議において、審議いただこうと考えておりますのは、中間報告前の審議において、大括りのテーマとして審議をしていただいた弁護士の在り方でして、中間報告では御承知のように、弁護士制度の改革と、利用しやすい司法制度の中の弁護士へのアクセスの拡充及び法的サービスの内容の充実と分けて記載しているわけですけれども、それらを両方とも含めまして、まとめて御審議いただければと考えております。
 審議方法としましては、弁護士・裁判官に関することですので、それぞれ関係している日本弁護士連合会、それから最高裁判所などからヒアリングをしなければならないだろうというように考えておりますが、そのほかに適当な第三者の方からのヒアリングを行うかどうか、まだ代理との相談の中では詰め切れておりません。今後、更に考えさせていただき、しかるべき時期に皆様にお諮りしたいと考えている次第です。
 とりあえず日程としては、45回会議から49回会議までは最初の2回を弁護士の在り方、後の3回を裁判官制度の改革について審議を行うということではいかがかと思った次第であります。
 なお、日程につきまして、このように組んでは見たんですけれども、45回会議と46回会議の日程が、1月30日と2月2日で、同じ週の火曜日と金曜日になっておりまして、果たしてこのような接近した日程で弁護士の在り方を検討するということでいいのか。あるいは一つの考え方ですけれども、1月23日に弁護士の在り方に入って、1月30日に国民の司法参加をやる、そして、46回の2月2日に弁護士の在り方について御審議いただくというやり方もあるのかなということも考えておりますけれども、その辺も含めて御意見を賜りたいと思いますが、いかがでしょうか。
 まず、1月9日のヒアリングについては、もし御了解いただければ、3人の先生に事務局を通してお願いしたいと思いますが、よろしゅうございましょうか。

(「はい」という声あり)

【佐藤会長】ありがとうございます。では、事務局の方で、そのような手続を取らせていただきます。
 2番目に、今の点、いかがでしょうか。

【中坊委員】弁護士担当の委員といたしましては、今おっしゃるように、30日と2月2日では接近し過ぎておるように思うんで、できましたら、今おっしゃっていただくように、国民の司法参加ももう1回、間を置いて、またやればいいということになるから、もし交代できるものなら、1月23日に弁護士の在り方、そのときはまたヒアリングが入ってくると思うんですけれども、それでまた1回置いてしていただく方が、弁護士を担当している者としてはありがたいと思います。

【佐藤会長】今の御提案でよろしゅうございますか。

【藤田委員】国民の司法参加担当のレポーターといたしましては、異議ございません。

【佐藤会長】ありがとうございます。

【中坊委員】余り接近しているとね。

【佐藤会長】気になっておったんです。

【中坊委員】弁護士改革も裁判官改革も同じでしょうけれども、余り日が短過ぎると、準備する暇もない。

【佐藤会長】ありがとうございます。ここは1月23日と30日はテーマを入れ替えるということで御了承いただいたことにさせていただきます。どうもありがとうございました。
 今後更に審議の進め方について、色々詰めないといけないところがありますけれども、また、折に触れて御相談申し上げたいと思います。
 配付資料についてお願いします。

【事務局長】読売新聞社が行いました裁判への市民参加についての全国世論調査のデータをお配りしております。同世論調査の結果は、本年11月30日付の読売新聞朝刊に掲載されておりますが、その記事のコピーも後ろにつけてありますので、併せて御参照いただければと思います。
 なお、このデータにつきましては、読売新聞社の方から委員の皆様限りということで頂いておりますので、申し添えておきます。
 それから、労働省から前回の審議に関連して追加資料の提出がありましたので、お配りしております。その他の資料につきましては、特に説明することはございません。
 以上です。

【佐藤会長】どうもありがとうございました。よろしゅうございますか。
 次回の日程の確認でございますけれども、次回は御承知のように12月26日火曜日、1時半から5時まで、この審議室において行います。
 次回も本日と同様に司法の行政に対するチェック機能の在り方につきまして、会長代理に本日の意見交換等を踏まえて、問題状況などを整理していただいて御報告いただき、それを踏まえて意見交換をしたいと考えておりますので、よろしくお願いいたします。
 それから、また、前回の審議会の際に、髙木委員から、司法の行政に対するチェック機能の在り方につきまして、法曹三者に対する質問をいただいております。現在、事務局から法曹三者に照会してもらっておりますので、その回答も次回の審議会で提出していただくようにしたいと思います。
 次回は、年の瀬も押し詰まって、何かとあわただしい中、皆様も大変御多忙のことかと思いますが、恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
 本日の記者会見はいかがいたしましょう。

【藤田委員】御苦労様でございます。

【佐藤会長】分かりました。
 それでは、どうも今日はありがとうございました。