司法制度改革審議会
別添2

2000年12月26日

「司法の行政に対するチェック機能」に関する意見

髙木 剛



(はじめに)

 私は、本年5月16日付の「国民が利用しやすい司法の実現」及び「国民の期待に応える民事司法の在り方」に関する意見書の中で、「行政に対するチェック機能の充実」についても意見を述べた。
 その後、当審議会の中間報告の中で「司法の行政に対するチェック機能の強化」について、行政訴訟制度の改革が不可避であることが確認され、その具体的方策について更に検討すべきであるとされたこと、去る12月12日の審議において、意見を述べられた園部教授、藤田教授、山村弁護士のいずれもが、行政訴訟の改革の必要性について言及され、具体的な問題点を指摘されたこと、そして、私からの質問に対し法曹三者からの回答も提出されたことを踏まえ、以下の通り、意見を提出する。

1 行政訴訟の現状への評価

 先般(12月12日)の審議会ヒヤリングの結果、我が国の行政訴訟の現状に大きな問題点があることが明らかとなったと認識してよいであろう。園部・藤田・山村の各氏とも、行政訴訟の現状が、司法による行政のチェックという点で不充分であると述べられたことは、まさに問題の核心を衝いている。
 既に各方面より再三指摘されてきたように、行政訴訟は、その本来的な重要性にも拘らず、訴訟事件数は諸外国に比して著しく少なく、しかも原告の請求が認容される率もまた著しく低い。最近は、地方裁判所への訴訟提起数は、年間約1700件程度であり、これは人口比でドイツと比較して約250分の1、台湾と比較しても約30分の1に過ぎない。一審勝訴率は、一部勝訴を含んで15~20%であるが、住民訴訟・情報公開訴訟・工業所有権訴訟・労働委員会命令の取消訴訟など、一部の事件を除くと、勝訴率は10%を大幅に下回っているだろう。その結果、上級審をも含めて、一般行政事件で原告が最終的に勝訴する数は、年間100件にも至らないと推計され、行政訴訟に勝訴することは、難事中の難事である。
 もちろん事件数の少なさが、日本の行政が非の打ち所なく行われているせいであれば喜ばしいことである。しかし、中央官庁・都道府県の他、約3300の市町村が約1000以上と言われる行政法規を根拠に無数の行政決定を行っているこの国で、行政の違法が年間100件程度しかないということは信じがたい。90年代を通じて、中央・地方を問わず、行政の各分野において、数々の不祥事が明らかになった後では、日本の行政の厳正さに行政訴訟の不活発の理由を求める議論は説得力に著しく乏しい。むしろ、行政の不当・違法行為がまま存在しているにも拘わらず、出訴を事実上・法律上妨げる障害物が多すぎるために、それらが行政訴訟として裁判所に持ちこまれず、たまたま持ち込まれたものも裁判所が、行政の主張する公益性を重視して、行政裁量を幅広く把える行政に親和的な姿勢に傾いているために、原告たる国民の権利・利益が適切に保護されていない状況にあるのではないかと考えられる。
 このような状況は、まさに悪循環を生じさせている。弁護士の間では「行政にからむ事件はやるだけむだ」というあきらめに似た言葉が交わされていると言う。本来勝訴を展望できる事案も勝訴できないために、弁護士は、依頼者に勝訴の見込みが少ないことを説明し、受任に消極的とならざるを得ない。そのために出訴数は減り、したがって行政訴訟の経験を積む機会も少ないという悪循環である。このような事情が、現在、行政訴訟がほとんど「死に体」にあると言われる状況を作り出してきたのである。このように、行政訴訟の現状は、惨憺たる状況といわざるを得ず、その改革を通じて行政訴訟を活性化させることは、今次司法制度改革の成否を左右する極めて重要な課題である。

2 行政訴訟の意味

1 公共性の空間と行政訴訟

 審議会中間報告は、「「公共性の空間」の再構築と司法の役割」という項において、司法を「公共性の空間を支える柱」として位置付け、「国民の権利、自由の主張は、単なる私的利益に係わるものとだけ受け止められるべきではない。裁判過程などにおいて適正な権利、自由の主張がなされ、違法行為の是正や権利救済が図られることは、それ自体が公共的価値の実現という側面を有する」と述べている。
 このような認識を前提とすれば、国民が、行政が行った行為の適法性を争って提起する行政訴訟は、まさに公共性の空間を支える重要な柱であると理解されなければならない。行政訴訟により、違法な行為がチェックされることは、原告にとって意味があるだけではなく、同様な違法行為が継続することを防止することに貢献し、社会全体にとって大きな意義があるのである。
 例えば、1990年代において、これまで国民から高い信頼を勝ち得て来た「官」に様々な病理現象が生じていたことが不幸にも明らかにされてしまった。具体的には、霞ヶ関の各省庁をめぐる多くのスキャンダル・地方自治体による中央官庁への「官官接待」・腐敗と言わざるを得ない警察の現状などである。これらの事実は、質の高い日本の行政庁と言えども、人間の行為である以上、他者によって十分にチェックされることなしには、適切な業務の執行は確保できないということを示している。そして、そのようなチェッカーの役割を期待されるのは、司法をもって他にはなく、広く国民の提起する行政訴訟を通じて、行政権の行使が厳格に監視・チェックされてこそ、行政権の適切な行使が担保されることになるのである。多くの行政不祥事は、行政権の行為が、行政訴訟によって監視・チェックされることが著しく欠けていたために、行政庁が、自己の権限行使に緊張感を欠いた必然的な結果と見ることはできないであろうか。その意味で、個々に提起される行政訴訟とは、まさに公共的価値の実現に貢献するものである。

2 一連の改革の要としての司法改革

 そもそも、行政権の行使が法に従って行われているかどうかを監視・チェックするのは、権力分立制の下で、司法権の果たすべき本質的任務であるが、今回の司法改革が、従来の行政主導・「官」中心の国家運営を変革しようとする一連の諸改革の「最後のかなめ」と位置付けられるのであれば、行政訴訟は、本来その中心的課題として位置付けられなければならないはずである。規制緩和・行政改革などの諸改革は、以前より不透明であると批判されてきた「官民」関係の内実を変えることを目指しており、「司法による行政のチェック」により、行政と国民の関係が、法によって規律されることを前提にしている。そうであれば、「司法による行政のチェック」が有効に行われるために、その具体的手段である行政訴訟(ここには、行政事件訴訟法に規定される狭義の行政訴訟だけでなく、国家賠償など行政機関の行為の違法を争う訴訟を広く含めて考えるべきである)の改革を図ることは、司法改革に不可欠の課題とならざるを得ない。もしこの点があいまいにされるのであれば、何のための司法改革であったのかが問われざるを得ない。これまでの審議会における議論において、行政訴訟の問題は十分に議論されていないが、最終報告に向けて、その重要性を正しく認識しなければならない。
 行政訴訟に対しては、ともすれば「お上」の決定に楯突くというイメージがあるかもしれない。しかしそのようなイメージは、実は、行政主導の国家運営を前提とした上で、国民を統治の客体であると認識している結果に他ならない。中間報告が前提としているように、国民が統治客体意識から脱却して、統治主体として行動するためには、裁判所が、違法な行政活動から国民を迅速かつ適切に救済することが不可欠であり、逆にそれなくして国民に統治主体意識を持つことを期待することは、まさにないものねだりと言うべきであろう。

3 国民全体にとっての意義

 行政訴訟について考察する時には、それが個人・企業を問わず国民全体に係わる課題であることを認識しなければならない。今までの行政訴訟は、総じて社会的には弱い立場に立つ個人によって提起されてきた。規制緩和の中でも、他方に介護保険の要介護認定などに見られるように、行政処分は一方では増加せざるを得ず、その種の訴訟の重要性は今後ますます高まっていくものと思われる。しかし、企業が提起する行政訴訟が、一部の類型(建設会社が、行政庁の建築確認留保処分を争う訴訟など)を除いて一般に不活発であったことは、我が国の官民関係(特に官庁に与えられた広範な行政裁量権と、裁判所がその行使をチェックすることに消極的であったこと)に由来する特殊な現象であることに留意する必要がある。諸外国では、企業は、企業活動の自由を制約する行政の不当な処分に対しては、行政訴訟の提起により断固反撃するのが常であり、両者の関係は、法によって規律されている。企業が、行政の規制の網に拘束され、その給付に依存していることは、日本に特別な現象ではない。ところが日本の行政には、広範な裁量権が認められた結果、行政行為の対象者は、ある場面で行政の処分に不服だとして訴えを提起すると、次ぎにどこか別の場面で行政に不利に扱われることを心配しなければならない。そして、裁判所が行政の裁量権を制約することに消極的であるために、行政の「しっぺ返し」から救済される可能性は著しく小さいと一般に思われている。このため企業は、違法・不当な行政裁量に対しても、行政訴訟を提起せずに、行政の判断を甘受せざるを得ず、このことが癒着・もたれ合いとも表現される特殊な官民関係を成立させる要因となってきた。諸外国、特に外国企業が日本社会の不透明性を批判する時には、裁判所が広すぎる行政裁量をほとんど制限しないために、行政・企業間のルールが不明確であることが問題視されているのである。ここで注意しなければならないのは、日本においても、東京都の決定した外形標準課税の導入に対して、銀行業界が訴訟を提起したことに見られるように、状況の変化が見られることである。今後は、官民関係の変化のなかで、市民とともに企業が行政訴訟を利用する場面は増加することが予測され、行政訴訟はそのような変化にも対応するものでなければならない。

3 基本的な改革の方向性

1 裁判を受ける権利の保障

 行政訴訟の改革を検討する場合の基本的方向性は、どのように認識されるべきであろうか。
 まず第一に、行政訴訟の改革は、法治国家の担保として、憲法32条の保障する「裁判を受ける権利」を実現するものでなくてはならない。裁判を受ける権利は、自己の権利または利益が不法に侵害されたときに、裁判所に対して救済を求める権利を意味するが、形式的に裁判官の裁判を受けることだけを保障したものではない。一般に言われる審問請求権、裁判公開の原則、公平性・迅速性の保障に加えて、特に行政訴訟の場合には、行政権の行使によって権利を侵害された者が、実際に権利を救済される制度であることを要求している。換言すれば、裁判を受ける権利が実質的に保障されるためには、「救済の実効性」・「救済ルールの明確性」・「武器対等の原則」などの要件を満たす必要がある。裁判を受ける権利が保障されていると言いうるためには、実効性がなければ無意味であるし、救済ルールが不明確であれば、どのような場合にどこに救済を求めてよいかが分からず、実際には裁判を受けることができない。そして、公平の原則に基づく武器対等の原則は、行政訴訟のように両当事者の力が懸絶している場合には、両者を同じ土俵で争わせるために不可欠である。後述するように、行政訴訟では訴訟要件が厳格であり、実体審理を受けることが容易ではない場合があるが、これは裁判を受ける権利の否定である。

2 行政訴訟の特殊性

 そして第二に、改革は、行政訴訟の特殊性を理解し、行政訴訟は、通常の民事訴訟とは根本的に異なるという認識を基礎に行わなければならない。
 行政訴訟は、審議会の中間報告においても、民事訴訟の範疇に区分けされている。しかし、以前にも指摘させて頂いたように、行政法を対象とする行政訴訟は、その特殊性から民事訴訟とは明確に区別されなければならない。その理由としては、以下の諸点を指摘することができる。第一に、行政法は、当事者の対等を前提とする民法とは法原理を異にする。行政法の適用にあたっては、まず、行政行為という行政の判断が先行し、訴訟の場では、この行政判断が、法規にゆだねられた裁量の範囲内で合理的であるかどうかが審査される。そして一方当事者である行政庁には、藤田氏も指摘されたように、法律上優越的地位が与えられている。第二に、訴訟の場において、行政庁は、実質的にも原告である国民に対して著しく優越的な地位にある。行政庁は、当該行政実体法の責任官庁として、法規の適用に必要な専門的知識・情報を独占している。また証拠も行政庁側に偏在している。これに対して、原告たる国民には、初めての事件であり、十分な知識・情報を欠くことが普通であり、訴訟の過程で行政庁より情報を開示させることにより、主張の立証が可能となる場合も少なくない。第三に、民事訴訟は、一定の私益の処分をめぐる当事者間の争いを解決するものであり、そこで問題になっているのは、第一次的に私的利益である。これに対して、行政庁の権限行使をめぐる行政訴訟は、行政庁の行為によって侵害された国民の権利・利益の救済であり、両者はそもそも目的を異にする。第四に、行政庁は、全体に対する奉仕者として、原告たる国民を含む国民全体に対して、特別な義務・責任を負っている。民事訴訟の当事者間には、多くの場合、そのような関係は存在しない。
 したがって行政訴訟は、民事訴訟とは本質的に異なる原理に立脚させなければならず、これを民事訴訟的な発想で行ってきたところに、現在の行政訴訟の現状があることは、藤田氏を始め多くの行政法学者の指摘しているところでもある。

4 行政訴訟改革の具体的検討課題

 それでは、行政訴訟改革の具体的課題は、どのような点にあるのであろうか。少なくとも、以下のような諸点について、改革のための具体的方策を講ずるべきである。

1 行政事件訴訟法の改正

 第一は、何と言っても、行政事件訴訟法の改正である。園部氏を始め、藤田・山村の両氏も改正の必要性を強く指摘されていた。現在の行政事件訴訟法は、行政主導の国家運営を是認し、ドイツ的な行政庁に対する信頼を基調として、むしろ国民を統治客体と認識して出来上がっている。そのため、そこには法の支配の観点から、国民の権利・利益を救済するという視点が相対的に弱い。中間報告は、現在の日本の状況を「従前の統治客体意識と横並び的、集団主義的意識を背景に国家(行政)に過度に依存しがちな体質が持続する」と指摘しているが、そのような状況は、まさに行政法の規律する「行政対国民」の場面において、最も顕著であり、国民を統治主体とするという改革の基本理念に照らせば、訴訟法の範疇での大きな改革が不可避である。改正すべき課題としては、例えば、次のようなものが考えられる。

(1)行政訴訟へのアクセス拡充のための方策

 行政訴訟を活性化するためには、まず国民が行政訴訟を提起しやすくする必要がある。中間報告は、「裁判所へのアクセスの拡充」を図るために、まず「利用者の費用負担の軽減」を指摘している。そして、その内容は、行政訴訟の特殊性を前提に議論されなければならず、単純に私人間の民事訴訟と同じ論理を適用することはできない。

(a)提訴手数料の軽減
 まず、提訴手数料(印紙代)の減額は、行政訴訟についても必要である。中間報告は、一般の民事訴訟を前提にこれを論じており、行政訴訟の特殊性を前提とした議論が不可欠である。例えば、行政訴訟の意義・事件数の極端に少ない現状を考慮すれば、行政訴訟の提訴手数料については、濫訴の抑制という観点を重視すべきではない。そもそも中間報告は、提訴手数料を受益者負担金と解釈しているが、このような考え方は、一般民事訴訟については妥当するとしても、国・地方自治体を被告とする行政訴訟・国家賠償にはそのままは妥当しないと思われる。

(b)弁護士費用の敗訴者負担
 弁護士費用の敗訴者負担の制度も、国・地方自治体を被告とする行政訴訟・国家賠償訴訟に対しては適用すべきではない。敗訴者負担の原則が導入されるべきであるのは、訴訟当事者が実質的に対等であり、ある程度訴訟の勝敗が予測できる場合であろう。訴訟の帰趨が予測困難な新しいタイプの法的紛争や、既存の法理論では勝訴が困難であっても、その社会的意味から新たな法理論の発展が要請される紛争については、訴訟の提起を抑制する効果を生じかねない敗訴者負担の適用は適当ではない。行政訴訟の場合には、前述のように第一に、そもそも両者は対等ではなく、第二に、行政の違法行為を正すためには、行政訴訟には、公益的な意味があるのであるから、敗訴者負担適用の前提を欠くと言うべきであろう。
 なお、弁護士費用の敗訴者負担制度のなかで行政が敗訴した場合に、原告である国民の側の弁護士費用(の一部)を行政に負担させるしくみ(片面的敗訴者負担)はあってもよいのではないか、という意見があるが、行政訴訟が極端に少ない現状に鑑みれば、これを積極的に位置づける立場からは、なお検討が必要である。

(c)行政訴訟の管轄裁判所
 中間報告は、裁判所へのアクセスの中で、管轄の問題には言及していない。しかし、行政訴訟については、一般の民事訴訟と異なり、裁判所へのアクセスを拡充するためには、管轄の問題が重要となる。すなわち、現行制度では、被告庁を管轄する裁判所の所在地に出訴するのが原則とされており(行政事件訴訟法12条1項)、その結果、中央官庁の処分については、東京地裁が管轄権を有する。例えば、厚生年金の受給資格は、社会保険庁長官が裁定するので(厚生年金法33条)、その処分を争う地方在住の原告は、わざわざ上京しなければならず、その負担は重い。被告庁所在地を管轄する裁判所に出訴する原則は、おそらくは「お上」に直訴する時代の発想であり、被告たる行政庁の便宜だけを考慮して、原告たる国民の裁判を受ける権利を軽視するものである。

(2)訴訟要件の緩和

 行政訴訟を提起しても、実体審理に入るためには、訴訟要件を満たさなければならないが、これまでの行政訴訟の実態は、訴訟要件が頑な程に厳格に解釈され、そのため国民の裁判を受ける権利を侵害している。この訴訟要件の把え方の問題性を、園部氏・藤田氏・山村氏が等しく指摘されていたことに注目しなければならない。また本年6月のヒヤリングにおいて、塩野宏・東大名誉教授も、「処分性」・「訴えの利益」・「紛争の成熟性」について、最高裁の考え方を批判されていた。国民が容易に実体審理を受けることが出来るように、訴訟要件を緩和しなければならない。

(a)処分性
 処分性とは、行政庁の行為のうち、何が行政訴訟、特に抗告訴訟の対象となるか、換言すれば行政訴訟で取り上げる価値がある行為かどうかという問題である。行政庁のすべての行為を訴訟の対象とすべきことが妥当ではなく、またその必要もないかも知れない。しかし、これまでの裁判所の行政処分についての考え方は、あまりに狭く、行政の意思が確定しているにも拘わらず、その後の処分が下されるまで国民が争うことを認めない場合がままあり、適当ではない。
 この点については、処分性の有無は、行為の根拠となる行政法規の採用する立法政策によって決まり、行政庁の行為が取消訴訟の対象とならないことに問題があるとすれば、それは訴訟法の問題ではなく、実体法の問題であり、行政法規の見直しがまず必要であるとの主張がある(法務省・「「司法の行政に対するチェック機能」についての問題点及び対応策」2000年4月20日)。一見もっともに見える主張であるが、国民の権利・利益の保護という行政訴訟の本質を理解しない主張であり、妥当性を欠く。園部氏が指摘されたように、「国民の権利救済の見地に立って」考えていくことが必要なのであり、実体法の改正(後述のように、その必要性は重要であるが)まで待てというのは百年河清を俟つの類である。処分性については、国民の権利・利益の救済が損なわれないか否かという観点から、行政訴訟の対象を行政処分に限らず、行政上の意思決定や計画等にまで広めるなどの対応が今まさに求められているのである。

(b)原告適格
 原告適格とは、誰が行政庁の行為について、争うことができるのかという問題であり、ここで主として問題となるのは、行政処分の直接の名宛人ではない、第三者の原告適格の有無である。これまでの裁判所の判断は、一部に例外はあるものの、一般的に原告適格を狭く限定してきた。
 原告適格の範囲を考察するためには、行政法の守ろうとしている公益の中身は何かを考える必要がある。行政法は、社会に存在する多面的な利害の調整を行政権のもとで行い、あるいは行政の有する資源を公共の福祉を実現する観点から国民に配分する仕組みである。そして、それに係わる利益は、濃淡の差はあれ個人の利益であり、私的利益と切り離されて公益が存在しているわけではないことを理解する必要がある。例えば、大気汚染防止法が守ろうとする利益も、風営法が守る善良な風俗の維持という利益も、また建築基準法で守る日照権も、いずれも私益と無関係ではない。公益といわれるものは、一般に、私益と次元を異にするものではなく、私益の集合でしかないという面がある。ただ、行政法は、特定の個人の利益を守ることは少なく、普通は多数人の利益を守り、その反面として個々人の利害に関わる程度が低くなっていることが多いのである。換言すれば、行政法には、私人の利害を調整し、当事者に予測可能性を与え、紛争を予防解決する側面がある。
 このような行政法の性質に鑑みれば、行政処分は、広くそれに利害関係を有する者によって、その是非を争われてよいはずであり、原告適格を狭く解釈するこれまでの考え方は、「お上」の判断はなるべく争わせるべきではないという、国民を統治客体とする意識に基づくものではなかろうか。具体的には、行政事件訴訟法第9条が行政訴訟を提起できる者について、「法律上の利益を有する者」とし、この「法律上の利益」という概念が法律によって直接に保護される利益と把えられ、極めて狭く解釈されていることが行政訴訟の提起を難しくしているという指摘を踏まえ、「法律上の利益を有する者」という規定のし方を、国民の権利と利益をより広く把える形の規定に変える必要がある。
 また、団体などの代表者による訴訟の提起を可能とすべきであり、団体訴権制度やクラスアクション制度の導入も併せて検討すべきである。
 原告適格を認めない場合には、その紛争は、通常の民事訴訟として争われざるを得ないが、例えば大阪空港訴訟のように、1・2審で民事訴訟を認めたのが最高裁では訴えは却下された例もあり、行政訴訟と民事訴訟の併合提起を認めたり、裁判所に原告の訴訟提起の意図を理解した適法な訴えへの補正を促す義務を課すなど行政事件訴訟法の改正を検討すべきである。また、用途地域の指定替えについては、現在の判例は、住民に原告適格を認めないので、民事訴訟しかなく、指定替えによって建設可能となった工場に対して、建設差止め訴訟を提起し、その基準として用途地域の指定が違法であると主張することになる。しかしこれは、用途地域の指定を適法と信じた工場にとって不測の不利益を与えることになりかねない。このような問題点を克服するためにも、原告適格については、それを広く認めることを可能にするための法改正が必要である。

(c)被告行政庁の特定
 被告行政庁の特定は、弁護士でも困難だとされる場合もあり、被告を間違えて却下されるケースも多い。行政庁に被告が誰かの表示を義務づけ、裁判所にも被告が誤っているときは原告に被告の変更を行うように促す義務を課すなどの改善をはかるべきである。

(d)行政不服申立前置主義の再検討
 行政処分に対しては、一般に行政庁に対する不服申立と裁判所に対する行政訴訟の提起のどちらも行い得ることになっているが、国税に関する処分については行政不服申立をしてからでないと行政訴訟を提起できないために、行政不服申立が不服申立事件を徒過する(行政訴訟は処分があったことを知った日から3ヶ月以内であるのに、国税の不服申立期間は2ヶ月以内とされている)等の理由で不適法であったときは、行政訴訟を提起する権利が奪われてしまうという問題点がある。行政不服申立を経なくても行政訴訟を提起できるよう必要な改善措置を講ずべきである。
 また、行政不服申立制度による救済が不首尾に終わった場合、行政訴訟が提起されるケースもあるが、こうしたケースでは実質5審制になる例もあり、行政不服申立前置的な運用に関する問題点の指摘もある。不服申立前置主義について、その廃止も含め在り方を検討すべきである。

(e)短かすぎる出訴期間
 行政処分があったことを知った日から3ヶ月を経過すると行政訴訟が提起できなくなる。かつての行政事件訴訟特例法では6ヶ月の出訴期間とされていたことを踏まえ、6ヶ月以内であれば行政訴訟を提起できるように行政事件訴訟法を改正すべきである。

(3)訴訟類型の多様化―無名抗告訴訟・仮の救済―

 実体審理の場面では、裁判を受ける権利・権利救済の実効性を重視して、訴訟類型を多様化させ、無名抗告訴訟とされている義務づけ訴訟・差止め訴訟などを明文で認め、さらに仮の救済を整備すべきである。
 特に仮の救済については、行政処分の執行を停止されないことにより原告が回復不可能な重大な不利益を被る場合には、行政に著しい支障の生じない限り、原則として執行停止を認める制度を設計すべきである。例えば、東京都の外形標準課税に対して提起された訴訟について見れば、これは2001年6月に課税されてからその執行停止を求めるのではハイリスクに過ぎる。その前に課税処分の差止めを求めるのが至当であり、しかもそれが確定するまで待っていては実際上間に合わない場合もあり得るので、仮の差止めを許容しないと、裁判を受ける権利を実質的に侵害することになる。
 なお、「内閣総理大臣の異議」については、その廃止を検討すべきである。

(4)説明義務と証拠の開示

 実体審理については、さらに行政庁に自己の行為に対する説明義務を負わせ、合わせて証拠を開示させるべきである。いずれも、国民を統治主体と考える以上、当然のことである。
 すなわち、行政訴訟・国家賠償訴訟では、行政が一方的に行った権力行為に対して、被処分者・被害者が救済を求めている。既述のように、行政訴訟では両当事者の地位はおよそ対等ではないから、被告である行政側に、原則として証拠を開示させるとともに、万一証拠の改竄があった場合には、厳罰をもって処分すべきである。そして行政庁は、国民に対して、自らの行った処分の理由を進んで説明すべきであり、またそうする職責がある。具体的には、処分庁は、少なくとも訴訟の冒頭において、処分した理由を説明し、必要な証拠を自ら開示する義務を負うこととし、その当否をめぐって訴訟を進行させるべきであろう。そして、裁判所は、両者の地位の実質的対等性を確保するように、法律関係が不明確であれば、被告側に釈明し、証拠を提出させるなど随時訴訟指揮すべきである。

2 行政実体法の改正


 行政実体法の不備を理由に、国民の救済を怠ることは許されないが、訴訟法とともに行政実体法にも問題が多いことは事実であり、その改善が合わせて図られなければならない。
 まず、原告適格との関係では、個別法において、公衆の利益に止まらず、住民の利益を守ることを目的とすることを明確に規定すべきである。このような規定は、周辺住民の原告適格を承認する手がかりとなろう。たとえば、建築基準法一条は、「国民の生命、健康及び財産の保護を図り」と規定されているが、それだけではなく、「国民の生命、健康及び財産の保護並びに周辺住民の生活環境の保全を図り」といった規定を入れれば、同法による規制のかなりの部分は周辺住民の利益のための規定として、原告適格が承認されよう。
 さらに、行政裁量の範囲を明確に規定する必要がある。行政訴訟では、行政庁の裁量処分について裁量権の濫用の有無が問われることが少なくない。法治国家では、法律によって、行政裁量についての合理的な判断基準を設定し、裁量の範囲を適当な範囲に限定することが当然であり、行政庁に無限定な裁量を与えるような実体法の規定は、見直しが必要である。

3 裁判所の姿勢・行政裁判所の創設

 いくら行政事件訴訟法や行政実体法を改正しても、園部氏も指摘されたように、裁判所に、国民の立場から行政の行為を適切に監視するという強い意思がなければ、行政訴訟の現状は改善しない。
 現在の裁判官の行政訴訟への対応については、第一に、多くの裁判官は行政法には詳しくなく、しかも学説を参照しつつ,それ以前の判例を批判的に検討して新しい法を創造する意欲が見られないこと、第二に、裁判官は、本案に入った時に,地方自治体の判断を覆すことには比較的躊躇しないが、中央官庁の所管する法律に関する処分を覆すことには積極的ではないことなどが指摘されている。従来より行われている「判検交流」のために、裁判官に、国民よりも「官」の側の一員として行政に共感するかのような行政親和的な気風があるとすれば由々しき事態である。また、官の代理人として行政訴訟に関与した者が、別の行政訴訟で裁判官として審理をおこなう例もあったとの指摘もあり、原告側の不信を買ったといわれている。このような疑念・不信が払拭できない以上、「判検交流」および交流により訟務検事・行政官を経験した者を行政部に配置する慣行は、行政訴訟の現状を見る限り、廃止すべきである。
 また前者の指摘については、たしかに裁判官が行政訴訟だけではなく、行政実体法・行政実務にも詳しくないと,行政庁の判断を覆す自信を持てないかもしれない。しかし、すべての裁判官が行政法に精通することはおよそ不可能であろう。そこで、園部氏・藤田氏が示唆されたように、行政事件を専門に扱う行政裁判所を設立するか、少なくとも各地裁に行政専門部を設置して、専門家を配置すべきである。なお憲法は、行政機関は終審として裁判を行うことができないと定めているにとどまり、行政裁判所を設置することは違憲ではないと考える。
 加えて、行政訴訟と国民の司法参加という観点に立ち、行政訴訟に陪審制度、参審制度を導入することも前向きに検討すべきである。

4 法科大学院等における行政法教育

 前項とも関連するが、行政訴訟を支える人的基盤として、行政法に通じた法曹の養成が重要となる。
 これまで行政法は、公務員志望者が勉強する科目であり、法曹志望者が勉強する科目とは必ずしも考えられてこなかった面がある。強い反対がありながら、2000年度実施の司法試験より、行政法を含む法律選択科目が廃止(労働法についても同様に強い批判あり)されたことは、このことを示している。これまでの法曹養成教育において、行政法が軽視されてきたことは否定できず、行政訴訟の現状を生み出した背景の一つであると思われる。しかしながら、規制緩和の進展に伴い、行政権の行使を適切にチェックする必要性が高まる以上、行政法に詳しい法曹,特に弁護士を増やすことが必要であることに異論はなかろう。したがって、今後設立される法科大学院においては、行政法には基幹科目としての位置が与えられるべきであり、さらに、法科大学院修了者の受験する「新司法試験」においても、行政法を重視し、少なくとも必修に近い位置を与えるべきである。研修所における司法修習についてもまた同様である。弁護士過疎地域に設置される公設事務所に派遣される弁護士に付いても,特に行政法についての研修を行い、行政訴訟に対する対応能力を高めることが検討されるべきであろう。 

5 改革への道筋

 中間報告に至る過程では、「司法のチェック機能の充実」の必要性は確認されたものの、司法による行政のチェックをレベル高く実現するために必要な課題を具体的に議論することはできなかった。しかし、この問題の重要性に鑑みると、当審議会は、最終報告の策定に向けて行政訴訟の改革を重要課題の一つと位置付けて、これに積極的に取り組む必要がある。
 なお、行政訴訟の専門性・特殊性を考えると、当審議会が、行政訴訟の改革の詳細すべてに亘って議論することには、時間的制約があるかもしれない。その場合には、最低限、改革の方向性と基本方針を示すとともに、改革を実施するための具体的手順を示すべきであり、法科大学院の検討にあたって設置された検討会議と同様な場を設け、早急に検討を行うことを考えるべきである。

以  上