43回配付資料
「法の実現における私人の役割」
(司法制度改革審議会の中間報告と審議録を読んで)
藤倉皓一郎
2001年1月9日
1 市民は法の主人である。
- 現行の法制度は、法専門家(法曹)が法を独占・運用するものになっている。法の主人であるべき市民は法の実現にほとんど何の役割も担っていない。
- 法は市民のものではなく、専門家のものになっている。専門家は専門家の用語、論理を操作して、事件を判定、処理している。市民にとって裁判は、透明性を欠き、分かり難い。
- 裁判所の判断は、市民感覚とのずれが大きく、市民を納得させる説得力がない。市民は何のための裁判か、誰のための裁判かを理解できない。
- このままでは司法は市民の信頼と支持を失う。市民が法と関わる生活領域はこれからもさらに大きくなる。
- 市民は法の実現(法を行うことenforcement、法を守ること compliance)につき、司法制度の中で主体的な役割を担わなければならない。これまでの日本の司法制度は市民の役割をあまりにも無視してきた。
2 市民は法の実現のための役割を法曹と分担する。
- 市民は法の専門家を使う立場にある。市民は法曹の行為、判断が市民の期待と信頼に値するか判定する役割を担う。
- 法曹は市民に対して法の専門家として行為する責任を負う(信認義務)。市民に専門家としての行為の意味と判断の理由を明らかに示し、説明する義務を負う。
- 市民と法曹との相互関係は、市民が裁判において一定の役割(事実の認定、法の適用など)を担うことによって、実質的なものになる。
3 市民が裁判に参加する。
- 市民は裁判という場で行われるコミュニケーションに加わる。**
- 市民は法曹が法の実現のために協働しなければならない当事者である。
- 市民が加わることによって、裁判は(「真実の発見」に加えて)、法曹が市民に事件についての事実、法の適用を説明する場となり、そのための手続となる。裁判では市民に理解される主張、立証が求められる。
- 市民が裁判の中に加わることによって裁判の進め方が違ってくる。(書面主義から直接口頭主義へ)
4 市民は裁判で主体的な役割を担う。
- 市民は共同体の一員として評議に加わり、自分の意見・判断を表明する。
- 市民は、組織にとらわれない個人が事件の当事者の立場に自分を置いて、その事件限り(あるいは比較的短期間の任務中)で意見・判断を示す。
- 裁判官は組織の中にあって、数多くの事件を担当するので、ともすると類型化された処理に陥りやすい。効率的な事件処理への圧力もあるであろう。無難な、ステレオタイプ(量刑相場、慰謝料相場)の判断に向かうおそれもある。
- 組織には、本来の負わされた使命を果たすのではなく、組織の自己目的、自己都合を実現するための判断、論理を生む傾向がある(エイジェンシイ・コスト)。
- 市民は組織にとらわれない目で、事件についての裁判官の論理、判断を見定めることができる。
- 市民は事件の事実(いつ、どこで、誰が、なにを、なぜ)について、専門的な訓練を受けていなくても判断できる。
- 市民は法的な基準の解釈、適用が社会的な規範と重なるような領域(社会通念、公序良俗など)、または類型の事件(わいせつ、名誉毀損、注意義務違反など)では、裁判官の判断をより確かなものにする意見、判断を表明できる。
- 現行の裁判では、裁判官が事実を認定し、法を適用する。裁判官が法を適用しやすいように事実を認定するというおそれはないか。
5 市民が加わる裁判制度をどのように設計するのか。
- 当事者である司法組織(ことに法務省、最高裁判所)からは積極的な改革の動きはでてこない。これらの組織には現状を変える動機がない。
- 市民参加のもっとも望ましい一つの制度についての合意への努力は必要である。しかし、複数、複合、複線の制度をデザインしてみるのもよいのではないか。それぞれのコストを含めて実現可能性を検討する(feasibility study)。
- 参審ができるのなら陪審も(市民の司法参加という制度の基本的な理念はおなじ)。
- 採用可能な制度について、時間をかけて市民に対する情報の周知徹底と参加の意味を知らせる。試行と見直しの期間をおくことも考えられる。
*田中英夫・竹内昭夫「法の実現における私人の役割」(法学協会雑誌 88-89, 1972年)。
**「法律家は、一方では社会の複雑化に対応して、多種多様の法令と判例…を参照し、さまざまの複雑なシステム…のインタラクションを観察しながら自己の責任で決定を下さざるをえないが、他方ではその決定を簡明な法律論にまとめ…、外部とのコミュニケーションを図らなければならない。そうしなければ、法システムは今後ますます、ブラックボックスを開けという「外圧」…に曝されるであろう。」村上淳一『システムと自己観察――フィクションとしての<法>』(東京大学出版会、2000年)