司法制度改革審議会

第43回司法制度改革審議会議事録



日 時:平成13年1月9日(火) 13:30 ~17:20

場 所:司法制度改革審議会審議室

出席者(委 員)

佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、井上正仁、北村敬子、曽野綾子、髙木 剛、鳥居泰彦、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本 勝、吉岡初子

(事務局)
樋渡利秋事務局長

(説明者)
藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授
三谷太一郎成蹊大学法学部教授
松尾浩也東京大学名誉教授

1.開 会

2.国民の司法参加について

・ヒアリング
 藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授
 三谷太一郎成蹊大学法学部教授
 松尾浩也東京大学名誉教授

・意見交換

3.閉 会


【佐藤会長】それでは、時刻がまいりましたので、開かせていただきたいと思います。明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。ただいまより第43回会議を開会いたします。

 本日の議事は、既にお決めいただいているとおり、「国民の司法参加」につきまして、藤倉皓一郎帝塚山大学法政策学部教授、三谷太一郎成蹊大学法学部教授、松尾浩也東京大学名誉教授の3人の先生方にお見えいただきましてお話をちょうだいし、その上で意見交換をしたいと考えております。

 それでは、3人の先生からお話をお聞きしたいと思いますが、私ども審議会の中間報告では、訴訟手続への参加制度につきまして、広く国民が裁判官とともに責任を分担しながら共同し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与していくということは、司法をより身近で開かれたものとし、裁判内容に社会常識を反映させる、そして、司法に対する信頼を確保するといった見地からも必要であるとして、今後、欧米諸国の陪審・参審制度をも参考にしながら、それぞれの制度に対して指摘されている種々の点を十分吟味した上で、特定の国の制度にとらわれることなく、主として刑事訴訟事件の一定の事件を念頭に置きながら、我が国にふさわしいあるべき参加制度を検討する、とうたっているところであります。本日は、3人の先生方から、今後、我が国にふさわしい参加制度を検討していく上で、考慮しなくてはならないと思われる視点・論点などにつきまして、それぞれのお立場から御指摘していただければと考えている次第です。

 最初に、それぞれの先生方を御紹介させていただきたいと思います。

 まず、藤倉教授でございますが、一昨年の10月に開催いたしました第5回会議の際にもお話をお聞きしておりますので、既に皆様御承知のことかと思いますが、改めて御紹介させていただきたいと思います。教授は、同志社大学法学部を卒業された後、ハーバード大学大学院を修了され、昭和38年に同志社大学法学部助手、47年同大学法学部教授、そして、56年東京大学法学部教授になられ、更に早稲田大学法学部教授を経られて、現在、先ほど御紹介しましたように、帝塚山大学法政策学部教授を務めていらっしゃいます。御専門は英米法でございます。

 次に、三谷教授でございますが、昭和35年に東京大学法学部を卒業された後、同学部助手、助教授を経られて、同学部教授に就任されました。そして、平成6年から8年まで同学部学部長を務められた後、平成9年に御退官されております。現在は、成蹊大学法学部教授をなさっていらっしゃいます。御専門は政治学、特に日本政治外交史が御専門でございます。

 最後に、松尾名誉教授でございますが、昭和29年に東京大学法学部を卒業された後、同学部助手、上智大学法学部助教授、東京大学教養学部助教授などを経られまして、昭和48年同大学法学部教授に就任されました。平成元年に御退官された後、千葉大学法学部教授、そして上智大学法学部教授を歴任されていらっしゃいます。この間、昭和59年から61年まで東京大学法学部長を務められ、更に昭和61年からは法制審議会委員をなさり、昨年からは法制審議会会長をなさっていらっしゃいました。御専門は刑事訴訟法でございます。

 先生方には、年明け早々お忙しい中を、この審議会の審議のためにお見えいただきまして、更に昨年暮れからレジュメの作成など、いろいろなさっていただきまして、誠に恐縮でございます。本当にありがとうございます。

 進行でございますけれども、藤倉教授、三谷教授、松尾名誉教授の順番でお話をちょうだいしたいと考えております。それぞれ30分程度ずつ、多少前後してもよろしゅうございますが、お話しいただければと存じます。その後、休憩を挟みまして、先生方からのお話に対します質疑応答と、私どもの意見交換を兼ねて審議を続けたいと思っております。3人の先生には、誠に恐縮なんですけれども、休憩後も引き続き、私どもの審議に御参加たまわりたいと思いますが、その辺もよろしくお願いいたします。

 それでは、最初に藤倉先生、よろしくお願いいたします。

【藤倉氏】今日はこうして2度目の機会を頂きまして、ありがとうございます。

 年末、事務局から大変重い資料が届きまして、年末とお正月をかけて拝読いたしました。内容も随分重いことでして、ここでの御議論が詳細にわたって、時には白熱した様子で交わされていることに、大変感銘を受けました。

 私が今日お配りしたお手元の資料は、メモでございますけれども、中間報告、それと審議録を読ませていただいて、そこから読み取ったものを自分なりに挙げてみたわけでして、いわばこの審議会に対するエールでございます。

 エールはこういう形で送っておいて、この審議録、中間報告を読みました感想を2、3申し上げたいと思っております。

 まず、第1の感想でございますけれども、私のレジュメのタイトルにいたしました「法の実現における私人の役割」は、東京大学の田中英夫さんと竹内昭夫さんが、もう30年ほど前に共同で書かれた論文のタイトルでございます。お二人がアメリカに留学されて、そこで、日本の法制度とアメリカの法制度が、どこが、どう違うかといったことを随分議論された。それを基にして、お帰りになってから、お二人が、それぞれの分野、田中さんは英米法で私の先達でございますが、竹内さんは商法の立場から、アメリカの法制度、そして特に日本にない制度について、それがどういう基本的な考え方に基づいて成り立っているのかということに踏み込んで、非常に詳しく議論を展開された。そうした日本にない制度を日本に持ち込む際には、どんなことを考慮しなければならないか、どこから始められるかといった議論をされているわけです。

 私は、この中間報告、それから審議会の審議録を読ませていただいて、この論文を一番に頭に浮かべました。というのは、ここで取り上げられている問題、同じような意識を持って、先輩の学者が30年前に既に非常に細かな分析を書いておられるということで、その意味に改めて思い当たったわけでございます。

 私も、御紹介にありましたように英米法を専門として、主にアメリカの法制度についていろいろと考えてまいりました。市民が法の実現に担う役割を考える上で、私はかねがねアメリカの法律の言葉、法制度に関する言葉で、どうも日本語にふさわしい、あるいは対応するものがないと考えていた言葉が二つあります。その一つは、エンフォースメントという言葉であります。もう一つは、コンプライアンスという言葉なんです。

 このエンフォースメントという言葉は、日本語にあえて当てるとすれば、法の執行というふうになると思うんですけれども、執行という言葉はどうも日本の法制度の中で使われている限りでは、非常に特定された場面での法の執行、例えば、財産に対する強制執行というふうに使われます。アメリカで使われるエンフォースメントは、はるかに広い意味を持っている。あえて日本語にどうしても移そうということになると、法を行う、「法を実現する」ということで、それを場合、場面を分けて、その内容を確定していく必要がある言葉のように思います。

 それから、もう一つのコンプライアンスというのは、法を守るということなんですけれども、どうも日本には、この言葉そのものがなかったように思うんです。いろんな規則を制定する、そして、その規則が実際に遵守されているかどうかを見て回る役割の人が当然いるわけですが、そういう人が回っていって、本当に規則が守られているかどうかということを見る。これが建前になっているわけですけれども、ごく最近まで日本の公の組織、それから企業でもそうだと思いますけれども、この規則が守られているかどうかを確かめて回る、見回る、そして、違反についてチェックをすることを独立の仕事とした役職というのは、ほとんどなかったんじゃないか。あったとしても、その人数は非常に少ないと言えます。

 ところが、アメリカではコンプライアンス・オフィサーというのが、いろんな役所に置かれておりますし、また、事業所にもある。勿論、日本にこれに対応するものを探せば幾らもあると思うんですけれども、これは法に関わる、決めたことは守る、守っていなければ違反者を摘発する、まさに法をエンフォースする、法を行うというところにつながっていくという意味での言葉、すくなくとも、市民が主体的な役割を担って法を実現するという意味をもって使われていなかった。

 言葉がなかったということは、エンフォースメント、コンプライアンスという、法制度の一番大事な、少なくとも非常に大事な側面について、日本の法制度の中ではほとんど手当がなかったと言えるのではないかと思うんです。

 私が第1に感じましたエールは、この審議会で、まさに市民が主体的に法制度、裁判の手続の中に関わっていくという方向を打ち出されたことです。そういう方向を打ち出せば、当然市民がコンプライアンス、そしてエンフォースメントに関わることになってくる。これはどうしても必要なことでありまして、この面を欠いたままでは、日本の法制度の全体の動き、働きというものは非常に歪んだものになると私は思っております。

 アメリカでは、こういう考え方が法制度の基本にあるようでして、市民が積極的に主体的に法の執行、法を行うこと、法を守ることに関わっていくという考え方は、いろんな制度の中に表れております。

 例を挙げれば切りがありませんけれども、一つだけ挙げますと、アメリカの主要な立法の中に市民訴訟を認めるという規定が入っております。特に環境法の分野では、環境保護、環境規制を行うという連邦の主要な法律に、市民が訴えることができるという条項が入っております。これがあるために、市民はそれを手掛かりに、環境について保護する責務を負っている役所のやり方について、これを争うことができる。まさに役所が法を行っていない場合には、その法を行うようにエンフォースメントやコンプライアンスを求めて、その執行を促すことができる。これが訴訟を通じて行えるということであります。

 勿論、この市民訴訟の規定そのものについては、いろんな議論がありますし、また、最近ではそれを憲法違反だというような最高裁の裁判官も出てきておりますけれども、しかし、主要立法の中でこの条文があり、それが使われて、極めて活発な環境政策を巡る議論と、さらに、そこで決まった規則、法律の執行、法を実際に実現するという点で、市民がイニシアチブを取る、積極的に裁判の中にそうした問題を持ち込むことができるということは続いているわけであります。

 これを見ておりますと、本当にアメリカの法制度の中では、市民と、行政と、法律をつくる立法と、そして争いになったときに裁く裁判所という四者の関係が、非常にダイナミックに働いているということが、非常に強い印象でございます。

 こういうふうに市民がまずエンフォースメントのきっかけをつくる。当然、法を行う者がそれを怠っておれば、法の実行を促すことができる。その実際の手段を持っている点が大きな違いであると思います。

 中間報告の中でも、特に4の制度的基盤の整備の中で、(2)に「司法の行政に対するチェック機能の強化」ということが挙がっております。当然これは重要な問題でありますし、今後も引き続き御議論があると思うんですけれども、是非その議論の中で、こういうふうに市民が主体的に裁判を起こして、訴訟当事者として、法過程の中に自分の考え方を持ち込んでいける、そのきっかけをつくることができるという制度も、併せて御検討いただけたらと思ったわけです。

 市民が持ち込まなければ、少なくとも日本の法制度の中では、裁判所は訴えが起こされるまで何もすることができない。行政官庁は、仕事がたくさんある、やらなくても済めばそれでいいということになる。やろうとしても人員がない。いろんな理由があると思いますけれども、えてして動かない。これを動かすにはどうすればいいかというと、やはりこうした市民訴訟のようなものを考える必要がある。

 日本の行政官庁は、訴えられると、それは行政官の大きな黒星であるという受け取り方があるようですけれども、アメリカの行政官庁は、訴えられて当然であると思っておりますし、それに対応する専門のポジションもあって、これに対応する。むしろ市民訴訟を歓迎して、政策実行のためにどう使えるかといった観点から応訴するといったことも見られるわけです。

 いずれにしても、そういうことの当否とは別に、こうしたダイナミズムが制度の中に生まれるような要因を是非入れる必要があると思ったわけでございます。

 こういう形の市民参加というのは、最も直接的、また、効果的な形で行えると思います。また、ほかにも裁判所が市民に開かれているという意味では、法廷の友(amicus curiae)という制度もございまして、これは訴訟の争いとなっている問題について、直接の利害関係を持たず、争いの当事者ではないけれども、第三者が自分の意見、判断、情報といったものを裁判所に文書として提供できるという制度であります。アミカスと呼んでいますけれども、これも広く利用されていて、裁判所に、ある問題の判断について広く社会的な意見、知見を十分集めた上で判断をする機会を与えているということでございます。

 第2の点は、陪審制を巡る議論についての感想でございます。

 陪審制はブラックボックスであるということが、ここでも何人かの方から出されて議論になっておりました。陪審制についての細かな技術的な問題、それから手続上の様々な制度、装置については、ここで取り上げる余裕はありませんけれども、私はこうした問題を取り上げる場合に、一番大事なのは、そういう陪審制という制度、これはアメリカの建国以来続いている、その制度の基本にある考え方、どんな理念があるのか、それは本当に人類の経験から生まれてきた知恵として共有できるものかどうかを見定めることではないかと思います。

 その点から陪審制の議論について私の感じたところを申し上げたいと思います。ここでは陪審制、参審制というと、それぞれの立場があり、いろんな議論が起こることを記録からうかがいました。私のレジュメでは、陪審とも参審とも言わずに、市民が参加するということを裁判手続の中にどのように表していくかという点で、その二つの言葉を使わずにレジュメを一応つくったわけです。しかし、参審制あるいは陪審制に、それぞれの国で長い歴史を経て結晶していった知恵のようなものがあるとすると、それはやはり取り上げて十分検討に値すると思います。

 そこで、アメリカの裁判制度について、私がその基本にあると考えられるものについて、2、3申し上げたいと思います。

 アメリカでは、陪審制は当然公開の法廷でトライアルという形で行われる。それは、陪審員が法廷にいて、そのトライアルの始めから終わりまで、そこで繰り広げられることをすべて見聞きした上で判断するというのがそれでありまして、そのトライアルは、日本の裁判と比べると随分違いがありますし、これを日本語にして、公判廷とか、あるいは公判における審理と言ってみても、そこでは抜け落ちるものが実にたくさんあると思います。しかし、トライアルという形式を取ればどんなことになるのかというのは、これは当然考えられるわけです。ここでも議論の中に既に出てきておりますように、トライアルというのは、あくまでも法廷における証人・証拠を巡る議論でありまして、それを直接口頭で行う、そして、口頭で取り交わされた問答を基にして審理を進め、判断を求めるという制度であります。そこに、専門家でない素人の市民が加わるわけですから、その市民に対する説明、トライアルを通しての証拠の開示、提示、弁論すべて、これは市民に分かるように述べられなければならないということで、それができない弁護士は、初めから法廷弁護士としての資格がないということになるわけです。市民は、そこにいることによって、説明を受ける主体として審理手続の重要な役割を担うというのが、アメリカの考え方であると思います。

 そういうトライアルは、争いの当事者、これは刑事では検察と被告人、民事では原告と被告ですけれども、争いの当事者が主張・立証するという責任を負っている。その主張・立証の段階では、両方とも自己に最も有利な主張、証拠を提示する。相手に最も不利な主張、証拠を提示する。それをつき合わせるというわけです。

 しかし、公開の法廷でございますから、自己に対して不利な証言をした証人については、あるいは不利な証拠が提示された場合には、その場で直接反論することができる。証人に対しては反対尋問をして、その根拠を明らかにせよと迫ることができる。

 その証人・証拠が出てくる前には、これは裁判官が一々の証人・証拠について、その適否を一応判断して、公開の法廷に乗せるかどうかということを決定している。証拠・証人の採否の決定というのは裁判官がするわけですから、そこで素人の市民を惑わすような証拠、あるいは根拠の疑わしいような証拠は排除されているということでありまして、法廷で示される証拠は、両面からの争いの根拠になるものが出てくるわけです。

 その証拠法則というのは非常に細かく決まっております。日本の法学部で教える科目に証拠法というのがないんですね。それは手続の中でそれぞれの場所で条文に触れられておるということでいいのかもしれませんけれども、逆に言えば、日本の裁判では、裁判官がこれは証拠になると思ったことは何でも当事者が主張すれば取り上げられるということになってはいないか。そこに厳しく証拠を排除して、議論に値する証拠を法廷に乗せるという考え方、これはなくてもいいのかということを考えます。

 ここでの議論でも、私の聞いたことによると、あるいは提出された資料の中でも、実はこの人のこういう話によるというのがたくさん出ております。こうした伝聞証拠が一体どこまで信用に値するのか。これについては長い経験からして、伝聞証拠は信用できない、あるいは違法に収集された証拠というものはそのまま法廷に持ち込んでいいのかといったような議論があって、それを巡るルールが煮詰められた形でアメリカでは証拠法則としてあるわけです。こういうものがない法廷と、そういう証拠に縛られて、そして証拠を選びながら進めていく法廷との審理の仕方には、やはり違いがあるだろうと思うんです。

 トライアルで一番特徴的なことは、こういう証拠のやりとりは当事者の間で口頭で行われます。その間、陪審は証人の証言を聞きながら、証人が本当のことを言っているのかということを、証人の全体からの印象を受け取る。アメリカの法廷に行ってみますと、証人台というのは下に覆いがない。こういう机の前に前覆いがあるような形のものはありませんで、手すりだけがあって、大抵証人の全身が、座っておりましても顔から下半身まで全部見えるようになっている。やはり嘘を言うときには震えるかもしれない。緊張するから震えるかもしれない。あるいは本当を言うときも震えるかもしれない。そういうことも全部、陪審が自分の経験に基づいて判断する資料になる。そういう形で行われるわけですけれども、しかし、公開の法廷でのやりとりは全部記録されるというのがトライアルの特徴なんです。その法廷を進めるについて、裁判官が下した段階ごとの判断の正当性、間違っているということも、弁護士がその度に異議ありということを申し立てて、そして記録にとどめる。その記録にとどめられた異議の当否について、これは控訴審で争うという形になっております。

 要するに、トライアルを開くというのは、その事件についての全記録をそこで取ろうという考え方に基づいている。陪審裁判というのはブラックボックスであるという批判があります。確かに陪審は最後の評決を出すために評議に入ります。その評議の部屋というのは隔離されていて、それは陪審しか入れない。そこでどんな議論があるかということは記録はされないし、外からは全く分からないということなんです。けれども、陪審がそういう議論をする材料はすべて法廷で明らかにされたものである。しかも、証拠の選択については、専門の裁判官がちゃんと陪審に見せるべき証拠については選んであるということですから、陪審の判断の基礎が何であったかということは、法廷の記録を読めば、この証拠はあの証拠よりも弱いとか、陪審はこの証拠の方を取ったのであろうといったことは推測ができる形になっていると私は思います。

 しかも、陪審のブラックボックスとおっしゃいますけれども、そこで陪審が下す結論というのは、これは裁判官の説示に基づいてその議論を進めるということになっておりますし、裁判官は陪審を評決の部屋に送り込む前に、事実についての法廷での立証について、それを整理する。民事裁判では、時には裁判官自身の証拠に対する見解が入るかも知れない。そして、もしこういう事実を認定するとすると、それにはこういう法が適用されるということを十分説明をして、説示の形で指示を与えて、そして陪審を評議の場に送るということであります。

 陪審に求められる判定というのはこういうふうに、通常の市民であれば複数の人が集って同じことを判定すると相違があるだろう、意見に相違があるだろうということについての判断を求められているわけです。ですから、だれが考えても、普通の人であればみんな同じように判定するだろうという事件については、陪審裁判をわざわざ行う必要はない。それは裁判官が、通常は始まった段階、あるいはトライアルを開いた段階で、それは法律問題として判断できるということで、そこで決着をつける。

 それから、誤審の問題が当然出てくるわけですけれども、誤審についても、誤審が起こらないように様々な安全装置が陪審手続の中には定められています。裁判官は、陪審が評決を下しても、裁判官の判断にどうしても合わないということであれば、評決にもかかわらず、反対の判決を下すということが認められております。専門家の目から、もし素人の目が間違っているということになれば、それを正すという手段も十分定められているということであります。

 もう一点だけ触れておきたいと思います。要するに、こういうトライアル、アメリカでの素人を入れての裁判の基本にある考え方というのは、アメリカの法制度が基づいている価値と申しますか、大事だと考えている価値に基づいている。これはアメリカの歴史、文化の特有のものを反映しているのであって、普遍性を持たないという議論が当然あると思いますけれども、しかし、それがもし人類の長い歴史の結果出てきた知恵の結晶であるとすると、これは一つひとつ拾い上げて検討するに値する。

 どういうものが私に言わせれば知恵の固まりに見えるかと申しますと、例えば、疑わしきを罰せずという刑事法の基本原則がある。これを手続的に、何とか疑わしきを罰せずということを保障しようとすると、陪審裁判で取られている様々な証拠法則、こうしたものをどうしても組み立てていかざるを得ないということになる。それから、通常人の判定が違う場合、複数の人の意見が違う場合は、これは市民の意見を何人か集めて聞いてみようということも、これは知恵ではないかと思うんです。

 日本の裁判は、裁判官が書証を眼光紙背に徹するように読む、あるいは行間を読む。そうすると、おのずから真理がそこに表れるという考えで進められる。これも一つの知恵であるには違いないんですけれども、しかし、この問題についてはいろんな人の判断が違うんじゃないか。そうすれば、ごく普通の人を複数集めて聞いてみようということも、私はそれと同じように知恵であると思うんです。

 ですから、こういう制度の基本にある知恵を、一つひとつ拾い出して、是非検討するということが必要であろうかと思います。

 その点から最後に申し上げますと、私はこの分厚い資料の中で一番驚いたのは、最高裁判所が出された文書であります。最高裁判所の意見というのは、勿論、裁判所という性格からして、そんなに明確な、あるいは非常にはっきりした立場を示すようなものにならないというのは重々承知しておりますけれども、私は、最高裁判所「国民の司法参加に関する裁判所の意見」を読んで、本当に残念に思いました。

 というのは、ここで裁判所が言っておることはきわめて一面的、否定的であります。陪審制というのは誤判が多い。そして、費用も大きなものになる。誤判がある、費用が掛かる。この2点であります。その議論を示す根拠として、ここに幾つかアメリカの学者による、あるいはイギリスの学者による陪審裁判についての研究を挙げております。しかし、私は特に研究者の立場として言わせていただくと、これだけの資料を、あるいはこれだけしかない資料を基にして、こういう議論と結論を組み立てるというのは、研究者にはできない。〔藤倉氏補注:日弁連「国民の司法参加」追加資料参照〕

 最高裁判所の文書は、「陪審裁判は我が国の裁判、すなわち真実を解明して、その結果を国民に明らかにすることが期待され、それに向けて審理と判断が行われるという裁判とは全く異なった制度である」と断定します。そこでは、アメリカの学者自身も、陪審裁判が被告の人権、あるいは原告の権利を守るなどということを考えていないというステートメントを引用しております。しかも、このステートメントは、サッコ・アンド・バンゼッティという事件、これは古い事件(1920)でありまして、しかも非常に政治的な事件でありました。その裁判を研究した特定の学者の本の中で言っている一般的なステートメントであります。これを例にして、陪審制は誤判が多い、費用が掛かると述べておられる。これは英語で言うスィーピング・ジェネラリゼーションというものでございまして、本当に知恵の固まりで尊いもの、貴重なものも、ごみも、何もかも一緒にほうきで一遍に掃き捨ててしまうという議論のやり方です。一国の知恵の固まりであってほしい最高裁が出された文書としては、非常に一方的で残念なものであると思いました。

【佐藤会長】非常に示唆に富んだお話をちょうだいしまして、ありがとうございました。

 それでは、次に三谷教授からお話をちょうだいしたいと思います。よろしくお願いいたします。

【三谷氏】お手元にお配りしてありますいささか長いレジュメがございまして、一応それに沿ってお話をさせていただきたいと思います。

 私は、ほぼ30年来政治学者、特に日本政治史の研究者として、陪審制に関心を持って、ある程度の研究を行ってきたわけです。そして、誠に不十分なものではありますけれども、その結果を20年前、すなわち1980年に『近代日本の司法権と政党 陪審制成立の政治史』という著書として公表いたしました。本日私がこれからお話することは、それが基礎になっているということを、あらかじめお断りいたしておきたいと思います。

 私が政治学者として着目いたしましたのは、陪審制、特に日本において大正12年に成立した陪審制の政治制度としての側面であります。日本においては、既に明治10年代の憲法制定過程におきまして、政府の内外で陪審制を導入しようとする主張、それから具体的な立法の試みというものが見られました。つまり、陪審制の問題というのは、新しいようで非常に古い問題であるというふうに私はとらえております。

 特に明治10年代の明治憲法の制定過程というのは、日本において陪審制に向かって第1の波が起こった時期であります。詳細は私の著書の中にも書いてございますが、具体的に申しますと、例えば、明治10年から11年にかけて、当時フランス人法律顧問として日本におりましたボアソナードを中心として、司法省内において起草された、刑事訴訟法に相当する治罪法の法案には、この陪審の規定というものが盛り込まれておりましたし、ちょうどボアソナードの治罪法案の起草作業が着手され始めた当時、西南戦争という内戦が日本においては戦われていたわけでありますが、この西南戦争の終結を前にいたしまして、当時福沢諭吉が、西郷隆盛を始めとする薩軍の関係者に対する裁判を公正に行うために、それを陪審裁判として行うべきであるということを主張した建白書を、当時、政府に提出しているという事実があります。

 また、政府の内部におきましても、その中枢におりました伊藤博文なども、陪審制の導入ということを真剣に検討したということが言われておるわけであります。

 さらに、政府外におきましては、当時、勃興しておりました自由民権運動によっても、陪審制の問題というのは取り上げられているのでありまして、自由民権運動の一つの重要な運動目標として、その実現が主張されたという事実がございます。当時の民権派のいろいろな新聞を見ますと、こぞって社説欄その他の論説欄において、この陪審制の利点というものが説かれているわけであります。

 また、明治10年代には、いろいろな憲法案というものが民間で起草されている、いわゆる私擬憲法案というものでありますけれども、この民間の憲法案の多くには、陪審制の規定というものが盛り込まれているわけであります。

 ちょうど明治18年から19年に掛けて、御存じのように坪内逍遥が『当世書生気質』という小説を出版しておりますが、その中に登場してくる学生、これは東京大学の学生なのですが、その中の1人が陪審裁判についての英文の論文の翻訳をアルバイトとして請け負っているという話が出てくるわけであります。つまり、この小説の背景となった明治15年当時そういう学生アルバイトがあり得たということは、明治10年代における陪審制の論議がいかに盛んであったかということを反映しているのではないかというふうに、私は考えるわけであります。

 それから、明治10年代に次いで、日本において陪審制に向かって、言わば第2の波が起きましたのが、第1の波が起こって約30年後の明治末年から大正後半にかけての時期、西暦で申しますと、1910年代から1920年代初頭の、いわゆる大正デモクラシー期であります。

 その第2の波を引き起こす主導的な役割を果たしたのは、当時の最有力政党である立憲政友会のリーダーであった原敬であります。ちょうど明治43年に、原は自ら発議いたしまして、政友会の党議として陪審制の設置というものを掲げました。そして、帝国議会に建議案を提出して、それを通過・成立させているわけであります。

 このような原の陪審制へのモチベーションを強め、固めたのが明治末年に起きた二つの事件であると考えられます。

 一つは、明治42年に起きた日糖事件と言われる政治疑獄であります。これは、当時の大日本製糖株式会社が、原料の砂糖の輸入税を企業に一部還元することを規定した法律が時限立法としてありまして、その法律の有効期間の延長を実現するために、衆議院第一党政友会、その他の諸政党の議員に対して贈賄を企てた事件であります。

 ちょうどこの年に、朝日新聞に夏目漱石の小説『それから』が連載されておりまして、この『それから』を読みますと、この日糖事件の第一報が載せられた新聞の記事を主人公の長井代助が読む場面が出てまいりますけれども、その他、何回か『それから』の中で日糖事件に言及されておりまして、これは私は『それから』という小説の全体の重要な背景を成しているというふうに考えているわけでありますが、この日糖事件の捜査というものは、それまで例のなかった検察主導で行われた。その取調べの対象となった諸政党、特に衆議院第一党の政友会の各議員に言わせますと、この捜査は実に過酷・峻烈を極めたと言われているわけであります。その取調べを受けた各議員から、その取調べの状況について報告を受けました政友会リーダーの原は、非常に激しく憤激する。そして、日記を見ますと、余は「国家人民のために他日を待って、十分にその不都合を天下に告白すべし」と書いているわけであります。

 この日糖事件の捜査の総指揮を取ったのが、後の首相平沼騏一郎、当時東京控訴院検事長代理で司法省の民刑局長でありました。この平沼の総指揮の下で、当時の東京地方裁判所検事局がすべての活動を取り仕切ることになったわけであります。

 政党の側では、特に最有力リーダーである原は、日糖事件を通して司法部、特に検事局によって主導される司法部というものを軍部に準ずる政治的脅威として認識している。そして、軍部と同じように、司法部をいかにして政党政治システムの中に包摂していくかということが非常に重要であるという関心を持つに至るわけであります。つまり、原が陪審制の確立を政友会の党議としてその推進に政治的生命を賭けるに至った最初の動機というのが、検察主導の捜査体制が敷かれた日糖事件にあった。

 この日糖事件を摘発した検事局は、全く同じ布陣で翌年、もう一つの重要な政治的事件の摘発を行うわけでありまして、それが明治43年の大逆事件であります。日糖事件の総指揮者であった平沼は、病気療養中の検事総長に代わって再び総指揮を取る。この事件の弁護人の方も、日糖事件の弁護人であった花井卓蔵とか鵜沢総明とか磯部四郎といった当時の有力な弁護士たちが選任される。そして、検察側と対峙するということになりました。

 この大逆事件というものも、政友会のリーダーの原にとって、陪審制の推進をいよいよ決意させる動機となったわけであります。特に原は、裁判の実況について弁護人から直接に談話を聴取いたしました結果、証人調べが全くなしに行われた事実認定というものに強い懸念を抱きまして、これは天皇の名において行われる裁判の信頼性を損なうものであるというふうに見たわけであります。

 つまり原は、当時は、大逆事件のような、いわゆる「皇室に対する罪」に関わるような事件においても、陪審裁判を行うということが裁判の信頼性を確保するゆえんであるというふうに考えたと言ってよいかと思います。

 以上の明治末年の二つの事件というものが、原の陪審制へのモチベーションを決定的なものにしたということができるのではないかと思います。この年、大逆事件の起きました明治43年の12月7日付の日記に、原は、これらの動機で、つまり日糖事件及び大逆事件という二つの政治的事件というものが動機になって、この制度、つまり陪審制を設定することができるならば、「真に国民の幸いなるべし」というふうに書いたわけであります。

 その後、御承知のように大正7年に原は政権を掌握する。そして、その翌年、大正8年に臨時法制審議会というものを設置いたしまして、ここに陪審制の在り方を諮問いたしました結果、その答申に基づいて陪審制の立法化が始まる。

 この間、原は衆議院だけではなくて、貴族院にもわたる多数支持を獲得いたします。ちょっと余談になりますけれども、国会開設以来、衆議院あるいは貴族院の1院において多数を占めた首相というのは過去いたわけでありますけれども、貴衆両院で多数の支持を得た首相というのは、原以前にはいなかった。つまり、原は貴衆両院にわたる多数支持を獲得した最初の首相、その意味で国会開設以来の最強の首相であったわけであります。

 その最強の首相として、安定した権力基盤の上に内閣を存続させながら、陪審制の立法化に着手する。彼は当時司法部の中枢を占めていた平沼検事総長、後に大審院長、それから鈴木喜三郎司法次官、後に検事総長を、陪審制の成立に協力させることに成功するわけであります。勿論、当初はこの平沼、鈴木は陪審制には否定的であったのでありますが、結局、原に追随して転向する。そして、陪審法案は議会に提出されるに先立ちまして、当時の枢密院の審議に掛けられまして、枢密院において、反政党勢力の抵抗によって審議が難航するわけでありますが、結局、原が大正10年11月に暗殺されるまでは、枢密院の承認を得ることができませんで、原が暗殺されました後、大正11年になってようやく枢密院において法案が承認されて、翌年の大正12年、1923年に議会を通過することによって、陪審法というものが法律として成立するということになったわけであります。

 以上述べましたように、日本において成立した陪審制というのは、言わば今日の言葉で言う政治主導によって成立した。したがって、政治制度としての側面というものを持つものであったということは否定できない。

 私の考えでは、これは戦前の日本のパーティー・システム、政党制の体制統合機能を補完する機能を持つ制度、言わばパーティー・システムのサブ・システムとしての意味を持った制度であったというふうに解釈できるのではないか。つまりそれは、政党の側から反政党的な政治勢力として認識された検察主導の司法部というものを、このパーティー・システムに結び付ける制度的紐帯として意図されたものであったというふうに考えられるのではないか。したがって、私の視点からいたしますと、日本における陪審制の成立過程というのは、実は、戦前の日本のパーティー・システムの成立過程の極めて重要な局面であったということになるわけであります。

 レジュメでも引用いたしましたが、大正・昭和期の卓越したジャーナリストであった長谷川如是閑が、陪審制が政治的懸案になっておりました原内閣当時、彼が主宰していた雑誌『我等』の大正10年5月号において、陪審制について、陪審制というのは検事総長を、長谷川如是閑の表現で言えば「専制的帝王」とする「司法超然主義」に対する政党の挑戦であると意味付けまして、引用いたしましたように、「それは裁判の民衆化の名の下に、裁判の超然的性質を打破しやうとするのである。それは政党政治を採った国家の必然に歩み行くべき道である」と言っている。これが大正10年当時の長谷川如是閑の陪審制に対する見解であったわけであります。

 私の研究から得られた結論と長谷川如是閑の当時の見解というものは、ほぼ合致するものがあるというふうに私は考えております。

 こうして、陪審制に向かって第1の波が起こった明治10年代の憲法制定期、それから陪審制成立に至る第2の波が起こった大正デモクラシー期に次いで、言わば新しい形の陪審制に向かって第3の波が起こっているのが現在の日本であるということができるではないかと私は考えているわけであります。

 そこで次に、欧米においては、陪審制というのはどういう意味で政治制度としてとらえられているのかということを、欧米の若干の著名な政治学者、政治思想家、政治家について見ていきたいと思うわけであります。

 先ほども藤倉さんの方からお話になりましたように、陪審制はアメリカの政治体制の言わば本質的部分を成しているわけでありますが、そして、独立宣言の中でもなぜアメリカがイギリスから独立するかという大きな理由の一つとして、陪審の利益というものがアメリカの植民地においてはイギリス国王によって奪われた、それがアメリカ独立の非常に大きな理由付けとして独立宣言の中に挙げられていて、それを受けてアメリカ合衆国憲法の中にこの陪審制の規定というものが盛り込まれているわけでありますけれども、そういう憲法案を擁護する立場から、アメリカ合衆国の初代の財務長官となったアレクサンダー・ハミルトンが連邦憲法を擁護する文書である『The Federalist』の第83篇の「陪審制の検討」という論文の中で、陪審制について論じている。彼によりますと、陪審制の価値というのは「自由」の保護にある。「自由」の保護と直接関わるのは、民事裁判ではなくて、刑事裁判である。したがって、陪審制を民事裁判にまで及ぼすかどうかという判断は、各州と言いますか、要するにステートに委ねられるべきであるということを主張しているわけであります。

 このハミルトンの言う「自由」というのは、レジュメにも引用しておきましたように、いわゆる「専断的な弾劾、犯罪容疑に対する専断的な起訴、専断的な判決にもとづく専断的な処罰」というものを起動力とする「司法の専制支配」に対する「自由」という意味でありまして、ハミルトンの議論というものを読みますと、少なくともハミルトンは、直接に憲法に規定されるべき陪審制の政治制度的側面というものを重視している。特にハミルトンの場合には、各ステートを超えた連邦という新しい大規模な政治社会の中で、共和制というものの実質をつくっていくために、陪審制というものが政治制度として重要であるということを強調したというふうに見ることができるのではないかと思うわけであります。

 その次、(2)に挙げております、これは有名なものでありますが、1830年代初頭のアメリカを巡遊したアレクシス・ド・トクヴィルのアメリカの民主制において陪審制の果たしている政治制度的な役割への着目であります。私はこれを30年以上前に読みましたときに、私の研究は、トクヴィルの陪審制を司法制度としてよりも政治制度として見るべきであるというこのテーゼによって、非常にエンカレッジされたわけであります。

 したがって、私の著書の冒頭に実は、引用しておりますトクヴィルの文章を掲げたのであります。それをそのままレジュメに掲げたわけでありますが、つまり、トクヴィルによれば「陪審制を単に司法制度として見なすことに止まるならば、思考を甚だしく狭めることになるであろう。何となれば、陪審制は訴訟の運命に大きな影響を及ぼす以上に、社会自身の運命に大きな影響を及ぼすからである。それゆえ陪審制は何よりも政治制度なのである。陪審制は常にこの観点から判断されねばならない」。こういう政治制度としての陪審制ということを最初に言ったのは恐らくトクヴィルではないかというふうに私は思っているわけでありますが、彼はフランスからアメリカに来て、そういう陪審制の性格というものについて強い印象を受けたということができると思います。

 それから、第3に挙げてあります例は、ジョン・スチュアート・ミルでありまして、これは『Considerations on Representative Government』という1861年、日本では『代議制統治論』などというふうに訳されておりますけれども、そのミルの『代議制統治論』においても、この陪審制というものが非常に重要なテーマとして取り挙げられているのでありまして、ミルの場合には、政治教育制度的な役割に着目している。

 引用文の最初のところで古代ギリシアのアテナイにおける類似の制度に着目している。これは近代の陪審制とどの程度の共通性があるのかというのは疑問があるわけでありますけれども、とにかくミルは、古代ギリシア、アテナイにおける陪審制相当の制度というものに着目いたしまして、「人民裁判官」という慣行が普通のアテナイ市民の知的水準を、古代でも近代でもこれまでの他のどんな人間集団の実例よりも、はるかに高く引き上げたのである。そこで彼の生きていた同時代のイギリスの例を出しまして、「程度ははるかに劣るが、同じ種類の恩恵は、下層中産階級のイギリス人に対して、彼らが陪審員の地位に就けられたり、教区の役職を務めたりしなければならないという、負担によってもたらされる」といっている。彼は陪審制というのは、一つの公共精神を養成する学校であるということを書いているわけであります。

 そして、そういう公共精神の学校としての陪審制というものが存在しなければ、結局、イギリス人の関心というものは非常に狭い私的関心に吸収されてしまうことになるではないか。そこで引用しておきましたように、「すべての思考と感情は、個人と家族に吸収される。……決して……他人と共同して追求されるべきどんな目的についても思考することなく、他人と競争して、ある程度彼らを犠牲にして追求されるべきものしか、思考しないのである。隣人は……したがって競争相手であるにすぎない」といっている。もし陪審制というもの、公共精神の学校がなければ、隣人というのは競争相手であるにすぎない。それがミルの当時の認識でありました。

 勿論、ミルはこの書物の中で、いわゆるレプレゼンタティブ・ガバンメント、代表制というものの意味を強調しているのでありますけれども、しかし、陪審については、それは例外だという。つまり、陪審による司法への参加というのは、そこにも引用しておきましたように、国民が彼らの代表者を通じてよりも直接に自ら行為する方がよいという、政治における数少ない事例の一つであるということを言っているわけであります。

 次に、(4)のグレーアム・ウォーラスというイギリスの政治学者でありまして、そこに引用しております『Human Nature in Politics』という1908年に書かれたもの、これは特に政治における非合理的要素、特に心理的要素の果たす役割の大きさを指摘したものでありまして、イギリス人でありながら、アメリカのポリティカル・サイエンスに非常に大きな影響を与えた書物なのであります。

 彼は、この『Human Nature in Politics』の中で、先ほど引用いたしましたミルの考え方というものを強く批判しておりまして、特に代議制、レプレゼンタティブ・ガバンメントというものが果たして現在の大規模社会、グレート・ソサエティーにおけるデモクラシーにとって有効なものかどうかということに疑問を投げ掛けているのでありますけれども、ただ、ウォーラスもまたミルと同じように、陪審という制度に対しては、政治制度として非常に高い評価を与えている。

 つまり、彼は大規模社会、彼の言うグレート・ソサエティーの中では、陪審においては例外的に実質的な討論による合理的推論のプロセスが実現している。それを通して一つのコンセント、同意に到達している。これは非常に他の制度には見られないのであるということを言いまして、現在では、つまりウォーラスの生きていた20世紀の初頭においては、既に議会とか内閣におけるディスカッションというものが非常に衰退している。それと見合って大規模社会の能率の要請に適合する官僚制の影響力というものが拡大している。それに対して、陪審というのは、とにかく同意による統治、ガバンメント・バイ・コンセントというデモクラシーの理念に相当するものを、ある限られた範囲で実現している。

 つまり、ガバンメント・バイ・コンセントの「同意」、コンセントを生み出す実質的な政治的なコミュニケーションの一つの範型となり得る。裁判官の指導というものは、実はそういうコンセントを生み出す実質的な政治的コミュニケーションを妨害するものでなくて、それをむしろ促進するものであるという陪審における裁判官の指導というものを、ウォーラスは非常に高く評価しているわけであります。

 次に引用いたしましたのは、(5)のジェームス・ブライス、これも有名な書物『Mod-ern Democracies 』という1921年に書かれたもので、これは幾つかのデモクラシーの比較研究と言っていいわけでありますが、そこで取り上げられているアメリカ合衆国の例です。

 ここでブライスが言っているのは、アメリカの裁判官というのは、連邦裁判所とか若干の州の裁判所を除くと概してレベルが低いという判断を下しておりまして、レベルが低いのは、裁判官が選挙によって任命されるという制度によってつくられているからだ。そういう裁判官の質的欠陥を補完するものが陪審制なのであるという解釈をしておりまして、陪審の理解力、それに加えて弁護士団の学識、手腕、このブライスは法学教育にかけては米国は非常に発達しているという評価をしているわけですが、陪審の理解力及び弁護士団の学識というものが、幾多の点において力量の足らない裁判官を助けているという評価をしております。

 それから、最後の(6)、これは私どもが学生のころには非常によく読まれたハロルド・J.ラスキでありまして、現在余り読まれなくなったのでありますが、私は現在の時点から見ても、ラスキの政治学には評価すべき点があると思うわけでありまして、特にラスキの場合の特徴というのは、政治学においてジュディシャル・プロセスを非常に重視している。これは現在の日本の政治学者も含めて、アメリカの政治学者などもそうでありますけれども、余りジュディシャル・プロセスというものを政治学の対象としては取り上げていない。ラスキの場合には、1925年に書かれた『A Grammar of Politics 』という有名な書物でありますが、この中で一章を割いてジュディシャル・プロセスというものを取り上げていて、そのジュディシャル・プロセスの中で陪審制論というものをかなり詳細にわたって展開している。これは現在の政治学の教科書にもほとんど見られない大きな特徴であり、かつ今日においても評価しなければならない点ではないかと私は思っているわけであります。

 彼は『A Grammar of Politics 』の中で、これは私などは非常に強い印象を受けた文章なのですが、「ルソーが自由の達成の条件について書いているすばらしい文章よりも、訴訟手続上の一見重要と見えない変化の方が自由により密接に関係している」と書いています。これはやはり私は今日にも通ずる非常に優れた洞察であると思うわけです。

 そして、同じこの『A Grammar of Politics 』の中で、先学の政治学者であるヘンリー・シジウィックという人の文章を、共感を込めて引用しているわけでありまして、これは要するに、政治構造において、司法権というものは非常に重要だと、政治構造の分析においては、司法権は非常に重要だということを言っている。「政治構造における司法権の重要性は目立つというよりも、むしろ深いというべきである。一方では、政府の形態と変化についての通常の議論においては司法機関はしばしば視野から脱落する」。これはそのとおりなのでありまして、普通の政治の分析においては、司法機関というのはまず出てこないのでありますが、しかし、実際には、ある国民の政治文明における位置付けというものを行う場合には、法によって定義された正義が、どの程度実現されているのかを見るということが、その国の政治文化というものを評価する上で非常に重要なんだということをシジウィックが言っていて、それをラスキは共感を込めて引用しているということになるわけであります。

 さらに、私は是非強調したいと思いますのは、単に政治制度としてだけでなくて、優れた経済学者の中には、経済制度として陪審制を評価しているという例があるわけでありまして、これは優れた経済学者としてだれも異論のない、アダム・スミスの場合がそうなのであります。

 つまり、陪審制というのは、アダム・スミスにとっては、マーケット、市場と対を成す非常に重要な法制度として位置付けられている。スミスはかねてから、経済学だけではなくて、「法と統治の一般原理」というものに非常に関心を置きまして、その「法と統治の一般原理」の歴史的な変化を書くということを、彼の学問的な課題として、晩年は法学理論、『The Theory of Jurisprudence 』という著書を完成するということを意図していたわけでありますが、ついに果たしませんでした。

 しかし、彼がグラスゴー大学で行った講義録というものが現在出版されておりまして、その中に、陪審制についての論議が展開されている。これは1896年に刊行されたものであります。この中でアダム・スミスは、イギリスで育った陪審制の価値というものを強調している。「イングランドの法律ほど陪審の公平性を確実にするのに周到で精密なものはない。……この制度は臣民の自由の大きな保障であるように思われる」ということを言いまして、その次にレジュメにはちょっと長い引用がありますけれども、内容は、当時のアダム・スミスの時代のイングランドでは、羊毛の輸出ということに制限が加えられていた。つまり、「イングランドでは羊毛は国民の富裕の源泉であると考えられた。そこでその商品を輸出するということは死罪とされた。ところが羊毛は従前のように輸出されたのであり、人々はその慣行が違法だと確信していたが、違法行為者を断罪する陪審はまったく出ず、不利な証拠は出なかった。羊毛の輸出は本来犯罪ではなく、人々はそれを死刑をもって罰し得ると考えるようにはならなかった」ということを言っているわけであります。

 要するに、羊毛の輸出が法によって禁止されていたにもかかわらず、陪審によって、それが事実上自由化されていた。そういう陪審制の持つ市場の自由化を促進する制度としての機能というものを、アダム・スミスは強調しているわけであります。

 彼は、『国富論』では、直接には陪審に言及しているところはないのでありますけれども、ともかく『国富論』の中でも、羊毛の輸出規制というものがいかに経済の論理に反するかということが論じられているわけでありまして、陪審制は羊毛の輸出自由化を促進することによって、市場の自由化に貢献する経済制度としての機能を果たしているというふうに、当時アダム・スミスは見たわけであります。

 もう一人の経済学者の陪審制論の例として私が注目いたしますのは、スミスに対して対立的、批判的な立場にあったフリードリッヒ・リストの場合でありまして、リストは勿論、スミスと違って対外的な保護貿易論というものを提唱したわけでありますけれども、彼はイギリスに対する後進国ドイツの経済の近代化、特に国内市場の形成にとって、陪審制というものは非常に重要であるということに着目している。彼は、1841年に『政治経済学の国民的体系』というのを書いておりますけれども、その中に出てくる「司法の公開、陪審裁判……は立憲国家の成員にも国家権力にも他の方法ではつくり出すことの難しい大量のエネルギーと力とを与える」というふうに書いておりまして、この陪審制というものが、いかにドイツの経済の近代化、特に国内市場の形成にとって必要な制度であるかということをリストも言っているわけであります。

 そして、彼はJ.B.セイという、これはフランスの経済学者でありますけれども、セイの『経済学』という、これは1803年に出された本でありますけれども、『経済学』の中でセイが「『法律は富をつくり出すことはできない』という。むろん法律にはそれができない。しかし法律は、富すなわち交換価値の所有よりも重要な生産力をつくり出すことができる」というふうにリストは言っている。それが陪審制についても当てはまるということであると思うわけであります。

 そこで4)に入りまして、それでは、今日における政治制度としての陪審制の意味はどこにあるかということであります。これは私の考えでありますけれども、私はこういうふうに考えております。

 つまり、現在、軍部に対してシビリアン・コントロールの制度というものがある。これについてはだれも異論はない。つまり、これはミリタリー・プロフェッションにおけるプロフェッショナリズムに対して、ミリタリー・プロフェッション以外のシビリアンのコントロールというものがなければ、ミリタリー・プロフェッションの健全さというものは保てないということであると思うわけであります。

 このミリタリー・プロフェッションに対するシビリアン・コントロールに相当する、司法部に対するシビリアン・コントロールに当たる制度が、陪審制ではないか。つまり、このミリタリー・プロフェッションのプロフェッショナリズムのイデオロギーというのは、言うまでもなく「統帥権の独立」でありますが、勿論、「統帥権の独立」とリーガル・プロフェッションのプロフェッショナリズムのイデオロギーである「司法権の独立」とは、異質性は当然あるわけで、この異質性というものを前提とした上で言うわけでありますけれども、しかし、両者は、プロフェッショナリズムのイデオロギーであるという面で、共通性もあるということを、私は重視しなければならないと思っているわけであります。

 したがって、陪審制についても、私は、やはりシビリアン・コントロールに相当する制度が必要である。これを陪審制とするか参審制とするか、いろいろな議論はあると思いますけれども、とにかくシビリアン・コントロールというものが必要だ。

 なぜ必要かと言いますか、結局、これはリーガル・プロフェッションだけについて言えることでありませんけれども、あらゆるプロフェッショナリズムが健全さを保つためには、どうしてもアンプロフェッショナルな要素というものが必要であるということであると思うわけであります。つまり、プロというのは、要するに活動領域に限界があって初めてプロであるわけでありまして、この活動領域の限界というのは、どうやって画されるかという重要な問題があるわけでありますけれども、勿論、それはプロフェッショナル自身の自律によって活動領域の限界を画するということも勿論あるわけでありますけれども、しかし、私はそういうものでは足りないというふうに思うわけでありまして、やはりプロの限界というものは、アンプロフェッショナルな要素というものが、プロフェッショナルな要素と、どういう形であれ、とにかく結び付きがなければプロはプロとしての健全さというものを保ち得ないのではないか。それは、ミリタリー・プロフェッションについては、勿論、だれもが認識するわけでありますけれども、リーガル・プロフェッションについても、そういうことが言えるのではないか。

 ですから、私はプロフェッショナリズムの健全さを保つためのアンプロフェッショナルな要素、これはプロの側から見ると、アンプロフェッショナルな要素というのは、いかなるプロの場合もそうなんですが、これは悪だ、イーブルであるというふうに大体見るわけです。どういうプロでもですね。しかし、イーブルでもいいわけで、これは必要なイーブルである。ネセサリー・イーブルである。そういうものとして、このアンプロフェッショナルな要素というものを導入する必要があるのではないかということを、感ずるわけであります。

 長くなりましたが、最後に、陪審制と参審制。先日も、参審制についてのある案が新聞にスクープ記事として出まして、非常に驚いたわけでありますけれども、私は、先ほどの藤倉さんと同じように、陪審制か参審制かという、そういう議論は余りしたくない。

 というのは、つまり陪審制にあらずんば参審制、参審制にあらずんば陪審制という、あれかこれかという議論が果たして有益なのかどうかということに疑問を持っておりまして、私はあえて言えば、何らかの形で両者の並立と言いますか、併用と言いますか、そういうものを考えることはできないだろうか。勿論、事件の種類、事件を刑事事件に限って考えた場合でもその刑事事件の種類によって、陪審制と参審制との並立、併用という形を考えることができないだろうかということを考えるわけであります。

 これまで日本について縷々説明いたしましたように、日本の場合も、歴史的事実として、陪審制というものをとにかく成立させたということがあるわけなので、そういう歴史的事実が全くなかったかのように考えて事に処するということが果たしてできるだろうか。そういうことをやる場合には、それなりの納得のいく説明というのが必要なんで、そういう説明が果たしてできるだろうかということを私は考えています。

 現在、どういう司法制度改革をやるにしても、日本国内だけ納得させればいいという時代ではなくなっているんで、国際的に見て、納得のいく説明というものが必要なんじゃないか。納得のいく説明をするためには、かつて日本において陪審制が成立したという歴史的事実が全くなかったかのように無視するということは、できないんじゃないかと考えているわけでございます。

 ちょっと長くなりました。

【佐藤会長】藤倉先生のお話と同様に、大変滋味に富むお話をちょうだいしまして、ありがとうございました。

 それでは、最後に、お待たせしましたけれども、松尾先生お願いいたします。

【松尾氏】ただいま両教授のお話をお伺いいたしましたが、藤倉教授は英米法の大家であり、三谷教授は政治史並びに日本近代法史の碩学でいらっしゃいまして、いずれも私の尊敬する同僚であります。両教授と御一緒に今日はお呼びいただきまして、大変幸せに思っているわけですが、私自身は、言わば一介の実定法学者でありますので、かつまた、その専門は刑事訴訟法にほぼ限定されておりますので、本日も、主として日本の刑事司法の分析ということを基本にしまして、国民の司法参加という主題についてお話を申し上げることにいたします。

 国民という言葉を使ってしまっておりますが、先ほど藤倉さんは、市民という用語で一貫してお話になりました。私自身はやや惰性的に「国民の司法参加」ということでレジュメに表題を付してございます。

 大体このレジュメの順でお話し申し上げたいと思いますが、その内容は、先ほどの三谷さんの分析に従いますと、政治制度ではなく、司法制度としての側面に終始することになると存じます。

 まず最初に、「1 刑事手続の性質」ということについて一言いたしますと、刑事手続は、その主要な部分におきましては、捜査・公訴の提起・公判という三つのブロックから成り立っております。勿論、この後に上訴でありますとか、あるいは非常救済手続でありますとか、刑の執行でありますとか、そういうものも続くわけですけれども、最も中心的な部分は、捜査・公訴の提起・公判という、この3段階から成り立っておりまして、これは比較法的に見ましても、各国すべてこのようになっております。この三つの段階が有機的に関連し合っているということが特色でございます。

 民事について考えてみますと、刑事の捜査に相当する段階というのは、訴訟法の上では存在いたしません。勿論、訴えを起こす前に両当事者が様々な準備活動をするというのは当然でありますけれども、それは法的な規制を必要とするものではないと考えられているのだと思います。

 したがいまして、民事訴訟法では、各則の部分の最初の条文は訴えの提起ということになりまして、そこから始まって、様々な法的規制が展開されていくということでありますし、さらに、民事訴訟の領域では、執行でありますとか、保全でありますとか、あるいは民事再生、破産手続などという豊富な内容が盛り込まれていくわけでありますけれども、ともかくこの公訴に相当する段階はないし、また、公訴の提起が刑事手続で持っているような重みは、民事の場合は、これが私人が自分の判断で訴えを起こすわけでありますから、おのずから趣を異にすると考えられます。

 そこで刑事手続に戻りますが、世界各国共通ということを申しましたけれども、しかし、一つひとつの段階について細かく観察いたしますと、各国相当に大きな違いを示しております。日本の刑事手続の特色と言うべき部分につきましては、既にこの審議会でも御議論の対象になっていると承知いたしますが、それをおさらいするような形になりますけれども、そこに捜査・公訴の提起、それから裁判についての特色を掲げてございます。これは、良い悪いの評価は抜きにいたしまして、客観的な事実として取り上げてみたいと思うのであります。

 第1に、捜査につきましては、日本の捜査機関による捜査が非常に濃密に行われているということは、明らかな事実でございます。多量の証拠が収集されます。例えば、捜索・差押・検証というような強制処分について考えますと、これは原則として裁判官の令状を必要とするわけでありますが、平成10年の数字で年間17万8,000 件に達しております。この数字自体は、既に審議会の資料として皆様のお手元にあるものだと存じますが、もっと年次別の詳しい数字もお持ちであると思いますが、平成10年を取り出しますと、こういうことになっております。

 第2に、公訴の提起につきましては、その基準が極めて高いと申しますか、確実な証拠に基づいて有罪の確信があるときに初めて、検察官は公訴を提起するというのが確立した慣行です。この点につきましては、お手元に附属資料としてもう1枚「公訴提起の基準について」という表題のものを差し上げておりますが、そこに幾つかの文献の引用を示してございます。

 1.は団藤重光先生の旧刑事訴訟法に関する概説書の一節です。1943年、すなわち昭和18年の刊行のものでありますが、このとき既に、有罪が100 %に近いことは、欧州諸国に比して我が国の特殊な現象であるという御指摘がなされております。

 団藤先生は同じ趣旨を、戦後間もない時期に出された『刑法の近代的展開』という書物でも述べておられまして、2.にありますとおり、もう少し犯罪の捜査はあっさりやった方がいいのではないか。有罪・無罪を決めるのは裁判所の仕事だと。現在は、起訴をするについて、証拠十二分の原則ということが言われているらしいが、起訴するのには証拠八分でよいという、非常に具体的な提言を交えて述べておられるのであります。

 これを受けて、更に同じ趣旨を強調されましたのが平野先生でありまして、3.は少し長いので直接の引用を省略いたしますが、ともかく、被疑者を裁判所に連れていく。起訴をするということであります。そして、ある程度の無罪判決を我慢する。この方がいいのではないかというサゼスチョンを、1961年の雑誌論文で述べておられるわけでございます。

 ところが、実務はこうなったかというと、そうなりませんで、4.に示す、これは検察の教育方針を示したテキストでありますが、「検察の実務においては、的確な証拠に基づき有罪判決が得られる高度の見込みがある場合に限って起訴する」。そういう原則に厳格に従っているのだということであります。

 これは検察の方針でありますが、これについては弁護人も恐らく同感しておられて、的確な証拠に基づいて有罪の判決の見込みが確実な場合に限って起訴してほしい、そこに疑いの余地があれば起訴しないでほしいというのが、弁護人の主張でもあると考えられます。

 5.は私の教科書の一説でございますけれども、弾劾的捜査観、これは平野先生の用語でありまして、捜査をある意味で抑制する理論であります。捜査の抑制を求める以上は、公訴提起においても、嫌疑の基準も押さえることに当然なるのである。しかし、検察実務はそうではなくて、確信に近い高度の基準というのに従っている。先ほど申し上げましたように、弁護人もまたこれを支持しておられると思われる。そこで私は、執筆の際、悩みましたけれども、結論において実務を支持する内容の叙述をしたのであります。

 これはやがて無罪率の問題に表れてくるわけでありますけれども、近年、日本の無罪率が非常に低いということが世界的に知られてまいりまして、海外から若干の批判を生ずることにもなりました。

 そこに引用してあります後藤教授の文章は、海外からのゲストを交えて開かれたセミナーの報告でありますが、そのセミナーの席で、刑事手続の全体の重心を捜査から公判に移すべく、起訴に必要な嫌疑の基準を低くした方がよいという主張がなされたのでありますが、そこで後藤教授は、同じ主張が日本の法律学者にも以前から存在した。これは上記の1.2.3.を念頭に置いておられたと思います。しかし、それは今のところ法律家の間で支持を受けていない。その理由は、起訴されること自体が被告人に大きな負担になるので、簡単に起訴すべきではないと考える人が多いのだろうという説明をしておられます。

 ここまでは、大体、学会の現状でありまして、これを超える議論はまだ展開されていないのでありますが、この審議会の議事録を拝見しておりましたところ、7.で、これは髙木委員の御発言でありましたが、公訴権の行使に当たって、過度に無罪を回避するという発想にとらわれるな。裁判所の公的判断を求める機会を失わせたということがあったけれども、社会的関心の高い事象については、あえて起訴してということになるんでしょうが、裁判所の判断を求める方がいいのではないかという御発言がありまして、注目したわけでございます。もっとも、髙木委員も事件一般についてという御趣旨ではなくて、特に社会的関心の高い事象について、これは脳死の問題についての事件を取り上げられた、そういうコンテクストの話であったと存じます。

 元のレジュメに戻りまして、そういうわけで公訴提起の基準が非常に高いわけなんですが、その結果、どうなるかと言えば、(3)にありますように、無罪判決を受ける被告人が年々極めて少ないということになります。平成10年の数字、地裁、簡裁を合わせまして、全部無罪の判決を受けた者は61人、一部無罪の判決を受けたものを加えましても、それが34人ということになっておりまして、以上が日本の刑事手続の特色であります。

 これに関して1、2の点を付言いたしますと、まず一つは、今申しましたような特色は、年々鮮明になっているということであります。10年前、20年前、30年前とさかのぼっていきますと、なるほどそれほどではなかったなということになるわけでありまして、例えば、先ほど捜索・差押・検証令状の発付数を取り上げましたけれども、これは平成10年から数えまして40年前の昭和33年には、4万8,000 件にすぎませんでした。事件全体の数がそう変化しているわけではありませんので、令状の発付数の方が著しく増えているということであります。20年前の昭和53年には約11万件でありました。今度は無罪判決の方も、40年前の昭和33年には、全部無罪が412 名、一部無罪が832 名というような統計になっておりまして、要するに、ここに抽出いたしました日本の刑事手続の特色というのは、年を追ってシャープなものになってきているということでございます。

 それから、外国はどうかということについて、ほんの一言付け加えますと、それぞれの国が特色があるということを申し上げましたが、ともかくここに書いてある日本の特色を示している国はないのであります。捜査は、それほどは濃密には行われておりません。公訴提起の基準は、それほど高くはありません。無罪判決を受ける被告人は、年々相当数に達しております。そういうのが各国共通に言えることでありますが、それがどうなっているか。

 例えば、ドイツの場合は、裁判所による真実の解明ということに非常に重点が置かれております。いわゆる職権主義の訴訟が守られておりまして、ドイツの学者は、当事者主義ないしアメリカ的な訴訟形態に対して、非常に低い評価を与えております。起訴状一本主義というのもありませんので、捜査の資料は、起訴と同時にすべて裁判所の手に移るという、日本も旧刑事訴訟法はそうでありました。

 フランスの場合は、予審制度の発祥の地でありますが、各国が予審を廃止する傾向を示しているにもかかわらず、フランスは頑張って予審制度を維持しておりまして、現実の訴訟手続の中でも予審が大きな役割を果たしているという状況がございます。

 アメリカは、いわゆる当事者主義を徹底している国でありまして、被疑者の黙秘権を非常に尊重する。言い換えれば被疑者の取調べには余り依存しないというのであります。その反面において、例えば、おとり捜査というものを縦横に使う。あるいは刑事免責というものを認める。さらには司法取引を広範に行うというようなことをやって、つじつまを合わせているという現状であります。

 「2 国民参加の意義」に進みたいと思いますけれども、この点については、既に審議会で十分御議論になっている点のようでございますので、ごく簡単に、中間報告を引用しながらお話しすることにいたします。国民参加の意義の(1)を、中間報告「4(3)国民の期待に応える刑事司法」という部分を拝見しながらレジュメをつくったわけでございますが、その部分に「冷静かつ公正な視点からの点検」という表現がございました。これは、国民の期待に応える刑事司法を考えていくためには、こういうことが必要だという文脈での記述でございますけれども、私は、これは同時に国民参加を実現した場合に達成できる事項ではないか。参加した国民が裁判官とは違った、先ほどの三谷さんのお話を使わせていただきますと、ノンプロフェッショナルとしての冷静かつ公正な視点から、点検することができるということになるのではないかと考えます。

 中間報告の「国民の期待に応える刑事司法」の項目では、更に細分して、刑事裁判の充実・迅速化、公的弁護制度の在り方、新時代における捜査・公判の在り方を、それぞれ論じておられるわけでございますが、国民が刑事司法に参加することによって、公判の場面については、直接にそれを見聞し、また、自分でもそれに参与するわけでもありますし、捜査の段階、起訴の段階につきましては、言わば間接に見るということになりますが、いずれにしても、被疑者、被告人の立場からと、検察の立場からと、双方を含めた複眼的な点検をすることが可能になるのではないかと考えます。

 それはどこに表れるか。例えば、捜査の実情ということが分かってきます。あるいは刑事裁判における立証の仕方。プロフェッショナルな人たちはそれにすっかり慣れっこになっているわけですけれども、それに対して新鮮な目で見てもらえるのではないか。あるいは公判期日の定め方というのは、こういうふうに決まっているのかということが分かってくる。

 そういうものに対する点検の結果が、具体的に表れてくるのには、少し時間が掛かるだろうと思います。薬にも即効性のものと遅く効く遅効性のものとがあると言われますけれども、主としてはじわじわと効いてくるということになると思われますけれども、しかし、若干の即効的な効果としては、素人の参加がありますと、やはり証拠のつくり方にも影響が出てくる。訳の分からぬ調書をつくっても仕方がないわけですから、警察、検察での調書の取り方というものは、恐らく即時的に影響を受けてくるのではないか。あるいは裁判所としても、現状では公判手続の更新ということが比較的多く行われているように見受けられるのでありますが、そういうことは、やはりやりにくいということになるのではないか。そういう即効的な効果も、幾つかの場面では表れるのではないかと考えます。

 (2)の裁判内容に対する関係でありますが、これも中間報告の項目「5(2)参加拡充の在り方」というところで、裁判内容に国民の健全な社会常識を反映させるという表現は、2回にわたって表れてきております。確かにそういう意義があることは申すまでもありません。具体的な場面といたしましては、刑事裁判では有罪・無罪かを判断するのが一つ、有罪だということになりました場合に、刑を決めるというのがもう一つあるわけですが、そのいずれの場面においても、健全な社会常識の大切さということが考えられると思います。

 次の「3 国民参加の態様」ということになりますが、ここになりますと、現状分析ではありませんので、私自身の意見も含めて申し上げなければならないと存じますけれども、まず、(1)国民参加の実現をどの程度の規模で考えるかということでありますが、これは事件や参加者数をたくさん増やしますと、参加すべき国民の負担、さらに制度を運営する国家の負担というのが大きくなることは明らかであります。しかし、一方で参加のインパクトというものを高めるためには、ある程度の規模がなければ問題にならないと考えます。先ほど公共精神の学校というお話もございましたけれども、わずかな数の事件だけでは、とても「公共精神の学校」たり得ないのではないか。年間数十件というのでは困るので、実現する以上は、年間数百件、あるいは1,000 件、2,000 件というふうな規模が欲しいと考えるのであります。

 ちなみに諸外国の数字を少し見てみますと、フランスについての報告では、1996年の統計でありますが、重罪院における裁判が2,756 件と報告されております。イギリスでは、数字は少し古いですが、1988年に陪審裁判が2万8,000 件行われたというふうに報告されております。ですから、ある程度の規模がほしいというのが(1)についての私の意見であります。

 (2)につきまして、否認事件に限るのか、あるいは自白事件を含めるかという問題でありますが、メリットとデメリットの両面を考えていかなければならないわけではありますけれども、否認事件に限定するというのは、非常にクリアー・カットなイメージをつくり出すことができるという長所があると思います。

 しかしながら、問題もあるわけで、英米法系のように、いわゆるアレインメントの手続を採っておりますと、公判は、まず冒頭に汝は有罪なりやという問いかけをして、イエスかノーかの答えを求めるわけですから、そこで手続的にはっきりと分けることが可能になってまいりますけれども、ヨーロッパ大陸ないし日本では、そういうアレインメントの手続は採用しておりません。そこで、手続的な難しさというのが一つ出てくるわけであります。さらに実体的に考えますと、否認と自白というのは、本来はそうはっきり分かれるものではなくて、完全な自白から完全な否認の中間段階というのもいろいろあるわけでございます。被告人の判断も揺れ動きますし、弁護人の方針も手続の発展にしたがって変化していくということもありますので、余りはっきり分けにくいというのが実質的な状況ではないかということになります。

 それから、実際的な考慮といたしましては、(1)とも関連いたしますけれども、否認事件に限りますと、対象の事件数は、まずかなり少なくなってまいります。統計によれば、否認した事件数は、平成10年の数字で地方裁判所6.6 %、簡易裁判所4.4 %という数字が出ておりますが、まず母数としてそこからスタートしなければならないということになります。

 もっともこの事件数の問題は、次の(3)でありますとか、(5)でありますとか、その辺とも深く関わりますので、ここだけでは決められない話であります。

 それから、自白事件を含めた方がいいということの大きなメリットは、先ほど触れました刑の量定の問題です。刑事事件における被告人の関心事というのは、圧倒的に刑の量定の問題なのでございます。例えば、控訴という制度がありますが、一審判決に対して被告人が控訴いたしますけれども、そのとき控訴の理由の最も大きな割合を占めておりますのは、量刑の不当、もう少し刑を軽くしてくれというものであります。健全な社会常識を反映させるということは、有罪・無罪の判断についてもあり得ることではありますが、むしろ刑の量定についてこそ考えるべきではないかという気がするわけでございます。

 したがって、(2)につきましては、私の意見は自白事件も含めた方がよいということでございます。

 (3)になりますと、これはなかなか悩ましいところでありまして、重大事件に限るか、中間的な事件も含めるか、あるいは中間的な事件に限定するかという問題です。軽微な事件は、性質上、最初から除外して考えてよいと思いますけれども、重大事件に限るとした場合の長所と短所でありますが、メリットの方から考えますと、それはやはり殺人であるとか、強盗殺人であるとか、そういう重大事件でありますと、社会の関心も深いわけでありますから、国民参加ということが非常に際立って表れてまいります。そういう長所がありますし、さらに、国民参加制度の実現に伴う費用の問題、先ほどもちょっとお話が出たかと思いますが、そのコストに見合うものになるという感じが強くなります。これだけ大きな事件をやっているんだから、こういう費用が掛かるのは当然だろうということになってくると思います。以上が長所です。

 問題点の方といたしましては、社会的な関心の非常に高い事件について、新たに国民参加の裁判が行われるということになりますと、それは一種ショーウィンドーのような性質を持つことになる恐れはないか。これは大正陪審法のときにも実は言われていたことなんですが、陪審事件について、当時のことですから、報道機関と言っても大体新聞ですけれども、それにラジオでありますが、非常に微に入り細をうがって報道する。これには被告人も陪審員も相当に困惑したという報告が残っております。現在は、報道の密度というものは当時と比較にならないわけでありますので、ショーウィンドー化してしまう恐れがあるのではないかと考えられます。それは同時に、参加した国民について仮に裁判員という言葉を使わせていただきますと、その裁判員になった人の負担も非常に大きいということになるのではないか。

 その点、中間的な事件でありますと、それほどでないと考えられるわけですけれども、しかし、一方において、先ほどの長所・短所が裏返しで出てくるというわけで、(3)につきましては、私自身はまだ十分な意見を形成するに至っておりません。実際、この対象となる範囲につきましては、各国もそれぞれ悩んでいるところでありまして、しばしば範囲を拡大する改正、あるいは逆に縮小する改正というのが行われているところでございます。

 ただ、強いてどっちか言えとおっしゃられれば、この審議会でもステップ・バイ・ステップという言葉が何度か使われているようでありますが、最初は比較的中間的な事件から始めて、それが定着した辺りでだんだん拡大していくという方が無難かなという感じがしております。なお、犯罪の軽重という基準のほか、対象罪名の選定という手法も有効です。

 次の(4)の「裁判官との協議方式か、事項による分担方式か」という問題であります。陪審・参審という観念にとらわれないで論ずべしというのが前提だと存じておりますので、こういう書き方をしているわけでありますが、事項による分担方式の方を採用した場合の長所といたしましては、まず第1に、これは陪審という非常にモデルがあるということであります。先ほどの藤倉さんのお話も、主としてアメリカの陪審についての見るべき点を御紹介になったかと思いますけれども、陪審は確かにアメリカの司法制度の中の輝いている部分でありまして、時に極めて感動を誘うものがあります。

 ただ、アメリカの刑事司法全般につきましては、日本の刑事法学者の与えている評価は、現在非常に厳しいものがありまして、アメリカの刑事政策は一言で言えば大きく失敗しているというものです。それは例えば、刑務所人口が年々増加してきていて、正確な数字は今、用意しておりませんが、100 万人を超える人が囚人になっているというようなところに表れております。これは人口比で申しましても、恐らく日本の10倍くらいの比率になるのではないか。

 裁判の場面を非常にしっかりやりますので、先ほど疑わしきは被告人の利益、あるいは無罪の推定という知恵の結晶であるというお話がございました。確かにそのとおりなのでありますけれども、一方において、犯罪者の確実な捕そくが十分にできていません。したがって、犯罪者のある部分を処罰し、ある部分は処罰できないでいるという状況なんですが、それはそれでバランスが取れていれば勿論結構なんですけれども、アメリカの状況を見ておりますと、いったん有罪判決を受けた被告人に対しては、重い刑を言い渡すという傾向が出てきております。これは何も裁判所だけの責任ではありませんで、立法者は競うように重罰化の傾向を見せているわけで、一番極端な例は、3回目の重罪は無条件で無期懲役にするという法律であります。そのほかにも刑を重くする法律が、ここ10年くらい、あるいは15年くらいの間に、非常にたくさんできてきております。

 その結果が、刑務所に収容される人の数がどんどん増えたのです。刑務所が足りませんので、それを一生懸命増築する。しかも、それも間に合わないので、刑務所を民営化するというか、いわゆるプライバタイゼーションでありますが、民営刑務所がアメリカ各地にかなり出現している。アメリカだけではありません。イギリスもオーストラリアもそうでありますが、そういう状況が出てきております。

 そして、もう刑務所の中では、囚人の改善・更生ということにはほとんどさじを投げまして、とにかく一定期間きちんと収容する。そうすれば、少なくともその期間は社会で犯罪をやるということはなくなるというふうな、日本から見るとちょっとあきらめに近い境地のようでありますが、それがアメリカの刑事政策の現状であります。

 そういう意味で、刑事司法という分野に関します限り、アメリカに対しては、適正手続を守っているという点で尊敬すべき点は勿論あるわけでございますけれども、全体としては、マイナスイメージが強いというのが現状であります。

 ちょっと脇へそれてしまいましたけれども、分担方式、事実認定を裁判員に任せるという制度を取りました場合のデメリットの方でございますが、むろんこれは日本においての問題性です。

 日本では、先ほど特徴として申し上げましたように、捜査が非常に濃密に行われる。それを更に検察官が厳密な選択を加えて立証をするということでありますので、要するに、立証が非常に高度化しているわけです。高度化しているということは、完ぺきだということとは勿論違いますので、先ほど少数ながら無罪の数があるということを申し上げましたけれども、起訴された中に、無罪判決をすべき被告人がまじっているということは厳たる事実でありますので、現在は、裁判所は非常に苦労して、その中から無罪判決を言い渡すべき者を拾い出している。勿論、弁護人もそのために非常な努力をしておられて、無罪判決を取るのに時間をかけて苦労しなくちゃならぬということが、日本の刑事裁判の現在の問題点の一つでありますけれども、そういう状況が、国民参加が実現した場合には直ちに変わるというようには考えられませんので、裁判員は、非常に固い、かつ山のような証拠と格闘しなければならないということになるわけで、これを裁判員が独力でやるということには、非常な苦労が伴うだろうと考えられます。

 これも50年、60年前の大正の陪審法の時代だったら、まだよかったかもしれないんですが、その後の50年、60年の経過によって状況はかなり変化しているというふうに思われるわけでございます。

 もう一つ、訴訟外の情報からの影響ということも、50年、60年前に比べますと、今の方がはるかに厳しい状況になっていると思われます。ある時期、陪審員を宿舎に泊めて、そういうものから遮断するということも実行されたわけでありますけれども、現在はそうしても、携帯電話など様々な通信手段もありますし、いろいろ大変だということにもなります。

 それから、ブラックボックスということは、藤倉さんからも御批判がありまして、そう不用意にブラックボックスなどと考えてはならないというか、それはごもっともであると思います。しかし、判決書きに理由が付せられないということは、日本人が明治以来なじんできた裁判の形態からは非常に大きな変化でございまして、極端に言えば主文だけ、被告人を懲役5年に処するというだけでよいかということになりますと、それには若干の不安があります。

 これに対しまして、いわゆる協議方式を採った場合のメリットといたしましては、裁判官と裁判員とが、相互の知識、経験を話し合ってシェアーするということが可能になる。陪審員席は、法廷でも枠に囲まれていて、ほかの人と別立てになっているのが普通ですけれども、そうではなく、同じ机、法壇の前に裁判官と一緒に座る。また、法廷が終わったら裁判官室に一緒に帰っていって、話し合うということもできる。その方が望ましいのではないかという気がするわけです。

 陪審の場合も、アメリカとイギリスはかなり状況は違うようでありまして、イギリスの裁判官は、陪審員に対して、様々に働き掛けると言いますか、説示などを見ましても、非常に詳しい説示をやる場合があるようです。報告されている事例でも、裁判官の説示が1日では済まないで2日にわたったというふうなこともあるのですが、こういうのは、見方によっては、実質上は協議をしているのに近いとも思われます。アメリカの場合は、それはなくて、はっきりと分担しているのであると思いますけれども、イギリスの場合は、少し違うのではないか。

 もう一つ、刑の量定の問題があります。協議方式を採れば、刑の量定についても、あるいは刑の量定についてこそ、裁判官と裁判員との協議が深い形で行われるのではないかと思われます。

 したがって、私は、(4)については、協議方式を採択する方が優れていると考えます。

 次の(5)でありますが、被告人による選択を認めるのか、それとも制度を全面的に実施するのかということでありますが、これにつきましても、私は全面実施の方が優れていると考えます。選択制の長所といたしましては、被告人の自己決定権を尊重するという長所は確かにあるわけでありますが、問題点としましては、選択というのは辞退を認めるということでもありますが、被告人による辞退というのは、実は極めて日本的なオリジンを持つ考え方であります。これは三谷さんの方がずっと詳しくていらっしゃるわけですが、大正陪審法では、辞退を認めました。法定陪審についても辞退を認め、それから請求陪審という制度を付けましたけれども、いずれにしても、被告人による選択を取り入れたわけでありますが、その理由は、陪審制度の実施をなるべく少なくしたい、最小限に絞りたいということが見え見えでありまして、現にその結果、陪審法を施行しました後の実績がミゼラブルなものであったということは御承知のとおりであります。

 政府は、当時、極めて真剣であったように思われるわけでして、陪審制度施行前の予測、政府側の予測といたしましては、年間2,301 件行われるであろうという見積りで、かつ、それに対応するために、判事を104 人、検事を46人増員するというようなことをやっております。陪審法施行準備のために費やした経費も700 万円に達したと言われておりまして、これは物価を仮に4,000 倍として換算いたしますと、280 億円でございますけれども、当時の日本の予算規模が現在よりはるかに小さかったというようなことを考慮いたしますと、陪審法施行のために700 万円を費やしたというのは、並々ならぬものであったと考えられるわけでありますが、施行の実績は誠にわずかな事件数しか残らなかったわけでありまして、その最大の原因は、被告人が裁判官による裁判を選択したということであります。今回も同じように選択制を認めますと、私はかなりの確率において、当時と同じような経過をたどるのではないか。勿論、当時の陪審法については、幾つか技術的な欠陥が指摘されておりまして、控訴の問題とか、多数決の問題とか、更新の問題とか、いろいろ言われてはいるわけですけれども、やはり本質的には、当時の日本国民は、国民参加の裁判ということについて、十分な親しみと言いますか、情熱と言いますか、それを欠いていたということになると思われます。

 現在は、勿論、当時と事情は違っていると思いますけれども、私は、この審議会は国民参加を実現せよという世論に押されて議論をしておられるのではなくて、国民の世論よりも半歩なり一歩なり前に出てこれを先導しようとしておられると理解しているわけでございますが、その意味において、国民参加はよい制度である、だから実行するという結論になりました場合には、全面実施をする方がよいと考えるものでございます。

 なお、そこに(6)は括弧に入れてございますけれども、上訴の問題ですが、これは非常に難しいものでありまして、現にドイツもフランスも各国非常に悩んでいるところであります。これをどうするかは、やはり上の方の(1)から(5)までの問題がある程度鮮明な輪郭を持つに至りませんと、なかなか決められないことでもございますので、今日は、(6)については省略させていただきまして、以上をもって私の御報告といたします。

【佐藤会長】どうもありがとうございました。刑事訴訟法上の問題を中心に、細部に至る示唆深いお話をいただきまして、どうもありがとうございました。

 大変熱のこもったお話でしたので、休憩を10分ちょっと取りましょうか。4時に再開するということにさせていただきたいと思います。3先生には、引き続き恐縮ですけれども、よろしくお願いいたします。

(休  憩)

【佐藤会長】それでは、時間になりましたので、再開させていただきます。

 先ほどの3先生のお話、個人的にも大変勉強になり、ありがとうございました。これから質疑応答と委員相互間の意見交換に入りたいと思います。それぞれの委員は、3先生にお聞きになりたいところがいろいろおありかもしれませんが、時間は長くとりましても1時間くらいですので、意見交換と質疑応答を併せ行いたいと思います。

【藤田委員】藤倉先生に2点、付随してもう1点質問させていただきたいんですが、松尾先生のお話にもちょっと出ましたけれども、陪審に対する裁判官の説示の点です。イギリスの場合は、裁判官が説示に際してかなり自分の心証を話すということでした。決めるのはあなた方陪審員だから、私の考えと違ってもかまわないんだということを決まり文句として最後に付け加えるんだという話を、バリスタから聞いたんですが、アメリカの場合には、裁判官が証拠に対する自分の評価を言うと、手続が違法になって破棄されるというような話も聞いていたんで、その点がどうなのかという点が第1点です。

 2番目は、誤審が起きないようにする安全装置として、裁判官が陪審員の答申と異なった判断をする道が設けられているというお話でしたけれども、手続の当初、証拠が極めて不十分な場合に、陪審に付するまでもなく裁判官だけで無罪の判決ができるルートがあるということは聞いていたんですけれども、陪審の答申があったときにそれと異なった判断を裁判官がするということになると、答申の拘束力を否定するような感じもあるんで、そういうようなルートが制度的にあって活用されているということがあるのかどうかという点です。

 それに付随してですけれども、イギリスでもありますけれども、特にアメリカで陪審による誤審のいろんな調査・研究がありまして、かなりシビアな内容のものがいろいろ引用されたりしております。それから伊藤正己先生が最高裁判事を退官されるときの記者会見で、陪審制度の質問に、やはり誤判という問題点があるので、そこら辺を慎重に検討しないといけないというようなことをおっしゃっているようですし、団藤先生も、平野先生も、やはり陪審による誤判の問題を取り上げていらっしゃるようですので、私は、今まで実際に見たのはイギリスの陪審だけなんですけれども、陪審制度を採用すべきだという意見は、やはり国民の司法への参加とか、あるいは司法の民主化というような理念からであって、誤審、誤判の問題は、ある程度は避けられない必要悪という認識だろうと考えていたんですが、それは正しくないということになるのかどうか。その3点をお願いしたいんですが。

【藤倉氏】それでは、最後の誤審が陪審裁判で多いかという問題ですが、私はこれは幾ら議論をしても検証できないと思うんです。批判する人は、陪審裁判だから誤審になっているというところへ持っていくでしょうし、賛成の人は、十分手続を尽くしているんだということを言うでしょうから、いまだにアメリカの陪審制度について、その点の議論は決着していない、両論あるわけで、勿論、批判的な学者は誤審の例を集めますし、そうではない学者は、いや、そうじゃないんだという論陣を張るわけで、これはどちらかに軍配を上げろと言われても、上げようがない。私は、陪審制度を採っているから誤審が多いということにはならないと思うんです。これはどんな制度を採っても誤審は出るわけで、それでは違う制度を比べてどっちが多いかということは、ますます検証できませんから、本当にそこで行われていることで納得できるのかどうかという点から考えていくしかないと思っています。

 それから、1番に戻って、裁判官が証拠の評価にわたることを言うかどうかですが、ご指摘のとおり、英米では違いがあるようです。アメリカでも、裁判官の説示というのは非常に詳しい場合があります。しかし、それも大変だから、だんだんと形式を整えて、こういう事件についてはこの説示でいくという場合もあります。それから、その説示案をそれぞれの当事者の弁護士に書かせて、それを裁判官が見た上で、その中から適当に項目を組み合わせて自分の説示の中に織り込むという仕方もあります。確かに、理論的には裁判官がそこまで踏み込んだ意見を表明することは違法であるという議論が当然あるので、そのとおりだと思います。

 それから、陪審評決と逆の判決を下すというのは、制度上、ジャッジメント・ノットウィズスタンディング・ヴァーディクト(judgement notwithstanding verdict )ということで、陪審が評決したにもかかわらず、それと反対の判決を下すということなんです。これはもう少し調べた上で言う必要があると思いますけれども、これができる場合は、事実についての争いがなかったと判断できるケースに限って、陪審の評決が出たけれども、事実についての争いはないと裁判官が判断した場合には、陪審評決と反対の判決を下してもいいということです。これは民事裁判においては現在でも使われている制度だと思います。〔藤倉氏補注:刑事事件では現在まず行われない。〕

【藤田委員】ありがとうございました。

【水原委員】藤倉先生に1点と、三谷先生に2点教えていただきたいんです。

 日本の刑事訴訟は、釈迦に説法で申し訳ございませんが、1条で、この法律の目的は「公共の福祉と基本的人権の保障を全うしつつ、事案の真相を明らかにし」とうたわれております。

 ところで、アメリカにしろイギリスにしろ、陪審裁判というのは、有罪か無罪かだけでございまして、それ以上の動機だとか態様、結果、犯行の背景事情等については、一切示されないわけでございます。

 国民が刑事司法について信頼を置くかどうかは、この捜査・公判において、どこまで訴追側、あるいは裁判所において明らかにしてくれたのか、真相を明らかにしてくれたのかということが、起訴、裁判、あるいは判決の結果によって分かることが、その裏付けになるのではなかろうかと思うわけです。

 藤倉先生の御説明によりますと、記録を見れば分かるじゃないかというお話でございましたが、だれの証言のどの部分をだれが信用したのか、どの証拠物のどの部分を信用し、どの部分は信用されなかったのか、これは刑事裁判書によりますときちっと書かれるのでよく分かりますが、まさにその辺りは分かりません。

 私は37年間検事をやっておりましたけれども、調べておりまして、この証人のどこが信用できるのか、この部分は信用できるが、この部分は信用できないという部分が、たくさんございましたので、そういうことで国民は納得できるであろうか、刑事裁判に対する信頼が保障できるだろうかということが一つでございます。

 それと、事実誤認を理由としての不服の申立ができない。これによって人権の保障が全うできるとお考えでしょうか。この点を藤倉先生に。

 続いて言ってしまいますが、三谷先生にお教えいただきたいんですけれども、先生は欧米における政治制度としての陪審の任務として、ハミルトンの主張を引用されました。それによりますと、ここに書かれてあるとおりで、「『専断的な弾劾、犯罪容疑に対する専断的な起訴、専断的な判決にもとづく専断的な処罰』を機動力とする『司法の専制支配』に対する『自由』」を保障するものという指摘をされております。これはまさにそのとおりだと思うんです。まさに制度ができた当時というのは、アンシャンレジーム下において、権力の下にあった裁判所、検察官も含めてだと思いますが、それから何かを守らなければいけないという気持ちで出たことは、まさにお説のとおりだと私も思うんですけれども、そのような専断的な処罰、専制支配が現実に懸念される状況にあるように先生は今お考えなのかどうか。これが1点でございます。

 今の裁判所、それから今の検察庁の在り方、これがそういうふうな発足当時の懸念された、生まれた原因になったような事情であるのかどうか。私は37年間勤めましたけれども、一貫して教わったことは、検察は厳正公平、不偏不党だということでずっと教育を受けてまいりましたし、私自身もそのとおりで勤めてまいりましたが、そこで考えるところは、現在の我が国の刑事司法というのは、幾つかの改善すべき点はございます。ここで議論をさせていただいておりますが、基本的には犯罪被害者を始めとする国民の生活を守ることは勿論のこと、被告人、被疑者の人権を擁護する役割を果たしておって、国民の信頼を得ているように思われるんですけれども、その点はどうですかということでございます。

 よく引用される言葉でございますけれども、読売新聞の平成10年12月27日付で世論調査がございましたが、それによりますと、裁判官を信用できるかということで、できるというのと、どちらかというと信用できるが78.5%、検察官が信用できるかということと、どちらかと言えば信用できるということを合わせますと、約72%ございます。こういうことを踏まえて、どういうふうにお考えなのか。

 もう1点でございますが、先生は先ほど力説されましたけれども、今日における政治制度としての陪審制の意味として、軍部に対するシビリアン・コントロールに相当する、司法に対するシビリアン・コントロールとしての陪審ということと、プロフェッショナリズムの健全さを保つためのアンプロフェッショナルの要素の必要性、これはまさにそのとおり挙げておられるんですが、同感でございます。

 ただ、司法に対するシビリアン・コントロールの方法としては、いろんな方法があると思うんです。参審制もそうですし、裁判官の任免に対する民意の反映の方法だとか、それから司法に対するシビリアン・コントロールは、そういうことでも可能であると思うんですが、陪審に限定されるのかどうか。その辺りをお教えていただきたいと思います。

【藤倉氏】裁判による真相の究明という、裁判によって表れる真相というものをどんなふうにとらえるかということに結局なると思うんですけれども、アメリカの制度の前提になっているのは、当事者が自己に有利な主張を尽くし、相手に不利な主張を尽くし、それを両方がやる。それを闘わせることの中から、恐らく真相、あるいは事実というのが表れるだろう。それを一番よくとらえることができるのがこの制度であるという考え方だと思うんです。

 確かにおっしゃるように、陪審はギルティーかノット・ギルティーか、二つに一つの結論しか示しませんけれども、それはトライアルで証拠・証人のやりとりをずっと見た上で、最終的に総合的な心証を陪審は持つと思うんです。その結果が、そういう二つのうちの一つの結論に結び付くということなんです。

 それでは、判決文の中で、専門の裁判官が自分はこの点の認定については、この証拠をこういうふうに評価した、この点についてはこの証拠をこれだけを重く見たという判決文を書いた。その判決文を読んだことによって、裁判に関与した人が、より説得されるかというと、その点はいろいろ議論の余地があると思うんです。

 アメリカは、はかりが正義のシンボルですけれども、証拠とか法廷の立証というのは、はかりの上に一つずついろんなものを載せていく、最終的にはかりが傾いたというのがまさに大事なんだという考え方なので、はかりを傾けるだけの立証をした方が勝つという考え方ですから、判決文が持つ説得力の点では、個別の証拠についての裁判官の評価と心証形成の過程が判決文の中にちゃんと書かれたから、それで説得力が増したかというと、少なくともアメリカの制度ではそうは考えないということだと思うんです。

 これは民事の方ではちゃんとやられることがあるんですけれども、刑事もあるかもしれませんが、裁判官が陪審に対して、ギルティー、ノット・ギルティー、あるいは責任を負うか負わないかという判断に至る過程を、項目を幾つか分けて、そして質問項目のような形で陪審にそれをかける。そうすると、陪審は一つひとつの項目に答えていくことによって、論理的にどちらかの結論に落ち着くという形の評決を求めることもできるわけですから、そういう評決が採られた場合には、陪審がどういう項目をどう判断してこの結論に至ったかということが、記録の上でもはっきりするわけです。

 ですから、アメリカの制度はいろんなそういう方法があるわけでして、陪審と言うと、ギルティー、ノット・ギルティーを言っていればそれで済むということではなくて、まさに裁判官は、素人の陪審員をどうコントロールするかという形でトライアルに臨むでしょうし、陪審は陪審で、独自の判断、陪審の裁量に任せられている事実についての判断は自分たちでやるという考え方を持つでしょうから、その緊張の関係は絶えずあると思うんです。

 そういう制度を一から踏んでいくことによって、やはりそこに真相が表れるという考え方があるわけで、何も陪審裁判を採っているから、それは当事者に手続的な公平性というのが保障されれば、問題はそれで片づくとは考えていない。やはり真実を何らかの形で見ようとすれば、こういう当事者対決を公開の場で行う。それを全部記録に残していく。その過程を陪審がずっと見たということで保障される。そこに表れた、陪審がこうであると考えたものが真実であろうという過程だろうと思うんです。

【三谷氏】第1点、これは勿論ハミルトンの論説からの引用でありまして、直接に日本の刑事裁判の現状に対してこれを適用するという趣旨では勿論ないわけです。しかし可能性としては、ハミルトンが指摘しているようなことはどういう制度についてもあり得るわけなので、こういう可能性というものを常に想定しておくことは必要なんじゃないかと私は思っております。

 それから、陪審を軍部に対するシビリアン・コントロールにたとえた。私は陪審だけがシビリアン・コントロールの役割を果たし得るとは必ずしも考えません。勿論、参審についてもそういう考えはあり得ると思いますけれども、陪審については特にそういうことが言えるのではないかということを申し上げたわけです。

【吉岡委員】藤倉先生にお伺いしたいんですけれども、私は陪審制度というのは、選ばれるときから何回も順を追って決めていくわけですけれども、そのプロセスが非常に大切だと思っています。それから、法廷での証明、お互いの立場の証明がどんどんされていく。その内容が全部傍聴も含めてだれにでも分かるように説明されていく。そのプロセスが非常に大切だと思っています。そういう意味で、私は陪審制度というのは大変いい制度だと基本的に考えているのですが、陪審員と言っていいのか、もうちょっと幅を広げて陪審という言葉を使わない方がいいのかもしれませんけれども、参加する素人裁判官と言いますか、そういう人がどういう層から選ばれるのかということが非常に大切だと思います。少なくとも私がアメリカで聞いてきた話では、選挙人名簿から選ぶという話もありました。それから、選挙人名簿から選んだんでは、一部の階層になってしまうから、もっと違う名簿をいろいろ工夫して、できるだけ広く、特にマイノリティーの人たちが入るようにしなければいけない。そういうことを工夫しているという話も聞いてきました。今年になりましてから、一部の報道で裁判官3プラス素人裁判官2というようなことが出たんですけれども、私はああいう報道自体ちょっと問題だとは思っていますが、基本的にどういう選び方をするのかということが重要になってくると思うのですが、その点について、先生どうお考えかということが1点。

 もう一つ、陪審になった場合に、事件によって陪審員の人権が侵害される恐れがないかということを心配する向きもあるのですけれども、陪審員になったことによって、迫害されるとか、危ない人からねらわれるとか、そういうことがないような配慮が実際にされているのかどうか、この2点をお伺いします。

【藤倉氏】第1点ですが、陪審の選定からして、既にトライアルの一部なんです。ですから、そこで弁護士は、事件について自分の立場に有利な質問、あるいはそこで有利な印象を与えるためにいろんな質問項目を考えますし、陪審に語りかける。逆の立場は逆の立場でやるということで、選定の場面から既にトライアルが始まっているということです。

 それでは、陪審をどう選ぶかという名簿の点ですが、これがアメリカで一番頭を悩ましているところだと思います。

 というのは、日本のように住民登録もありませんし、戸籍もありませんから、その裁判区にどんな人がどれだけどこに住んでいるかということの捕そくのしようがないわけですから、まず名簿から問題になります。有権者名簿が使われますが、有権者というのは、アメリカではあらかじめ登録しておかないと、自分でオフィスに行って、自分は投票の意思があるということを表明しないと、有権者名簿に載りません。日本みたいに自動的にお役所から通知が来て、投票券が送られてくるというシステムでは全くない。

 それでは、有権者登録の台帳を使うと、当然投票しようというわけですから、政治意識の高い、生活にも余裕があるという層が選ばれることになる。これは当然マイノリティーがその中から落ちますから、これについてどういう手当をするかということが大変大きな問題でして、現在では、有権者登録名簿を勿論使うんでしょうけれども、それに加えて何種類かの名簿を必ず合わせて、そして陪審員候補者の台帳をつくるというシステムになっているようです。

 だから、できるだけ人種の偏り、職階層の偏りをなくそうという努力は払われているわけです。しかし、払われてはいるんですけれども、結局、ふたを開けて、陪審の母集団として出てくる人というのは、やはりそれは、社会を代表、あるいは社会を反映するグループかというと、やはり疑問がある。

 アメリカの陪審裁判で日本によく伝えられるのは、大抵人種絡みの裁判でして、そこで陪審員の人種構成がどうであったからこういう評決につながったという分析が日本では通り相場になるんですけれども、私は、それは当たっている面もありますけれども、この面からだけアメリカの陪審をとらえたら、大きな間違いだと思います。シンプソンの裁判については、四宮啓さんが非常に冷静なアカウントを書いておられます。あれは結局、検察側がシンプソンの有罪を立証できなかったということでノット・ギルティーという判決が出たわけで、ノット・ギルティーは無罪であるということではないので、有罪ではない、有罪と判断し得ないと、検察側の証拠では有罪と判断し得ないということであったと思うんですね。

 この人種と陪審員の構成をどうとらえるかというのは、非常に複雑厄介な問題でして、日本で陪審制を考える場合には、この問題は有り難いことに余り障害にはならない、むしろ日本では、この範囲の人からこういう人を選ぼうとすればということで、統計的にちゃんと処理ができますし、また、石川先生などは、その処理方法について、選抜の方法について、いろいろな考え方があるということをおっしゃっています。だから、それを大いに活用すればいいと思うんです。

 アメリカでは、この辺を詰めていきますと、陪審なるものの本質は一体どういう役割を負っているのかというところにいってしまうわけです。陪審を選ぶそのときに、マイノリティーを考慮するのか、要するに人種がだれであるから陪審員にそれを入れなければならないのかという点については、これは長い最高裁の判例の変遷がありますけれども、人種を理由に陪審員を外すことはできないというところから始まって、やはり、陪審員が選ばれた場合に、それがその共同体の縮図である、共同体の横断面を示すものである必要がある。これは最高裁が要件として認めているわけです。

 ただ、それは名簿から始めて陪審員を選ぶ過程の全体の中に、そのクロスセクションの人たちが選ばれて入っておればいい。最終的に選ばれた12人の審理陪審、最近は6人までは減らしてもいいというようなことですけれども、その6人の中に、ある人種がいなければならないとか、あるマイノリティーが必ずいなければならないといったことは要件ではないと言われておりますから、そこのところへ落ち着いているようです。しかし、この問題を、マイノリティーが陪審に代表されることが、それではマイノリティーの権利であるかというと、そういう構成は非常に難しいと思うんですね。

 結局はアトランダムに選ばれた母集団の中から、選考過程で偏見を示した者を排除して選ぶ。選んだ者がそれはコミュニティーを代表するものとして個人としての自律的な判断を評議を経て行うというのが、今の到達点だと思います。

【吉岡委員】アトランダムに選ぶということで、母集団に作為的な配慮がされてはいけないということですね。

【藤倉氏】そうです。

【吉岡委員】それであれば私も大変。

【佐藤会長】 第2点の方ですが。

【吉岡委員】第2点の方は、要するに、陪審員になった人に対していろいろな脅迫だとか迫害だとか、そういうことがある。これは映画の世界かもしれませんが、そういうことが言われていまして、それに対して、例えば、陪審員の名前を公表しないとか、顔を見せないとか、そういうような配慮があるというような話も聞いているものですから、そういうことがあるのかどうかという、非常に簡単なことです。

【藤倉氏】私は、事実として陪審に対する様々な働き掛け、あるいは脅迫に類することは、ときどきはあるだろうと思います。しかし、陪審員の顔を隠して裁判をするというようなことは聞いたことはありませんし、むしろ一番問題なのは、マフィアのボスに対して出てくる証人が、まさに袋を被って出てくるという場合の人権保障だと思うんです。

 陪審に対する脅迫、暴行が問題になるということは、ときどきあると思います。調べればあると思います。けれども、それに対する処罰というのは非常に重いんですね。ジュリー・テンパリングという言葉がありますけれども、陪審に対して何らかの違法な働き掛けをしたということになれば、それは勿論犯罪でありますし、それはまさに司法の運用を妨げたということになります。弁護士は、それにもし関与したとすれば、当然除名、犯罪として処罰されますし、それから、働き掛けた人は勿論のこと、働き掛けられた陪審が、その事実を裁判官に伝えた時点で、陪審をもう一度全部解任、選び直して、裁判を初めから、1からやり直すということになるわけですから、これは非常に重大な司法過程、裁判過程に対する犯罪、侵害ということで厳罰に処せられると思います。

【井上委員】お三人とも恩師であり大先輩でもありますので、つっこんだ質問はしにくいのですけれども、それぞれ1問ずつお伺いしたいと思います。

 藤倉先生は、誤審、誤判の問題について、要するに水掛け論で、実証的には決着がつかないと言われたのですが、私もそのとおりだと思います。そして、その問題は結局、割り切り、あるいは納得の問題だとおっしゃったのですが、アメリカの場合は、陪審の有罪・無罪の判定に対しては上訴が認められていないということもあって、公判に全精力を集中し、そこで陪審が判断したことには、たとえ内心不服であっても従うという制度的前提になっていると思うのですね。

 その場合、どの制度でも誤りがあり得るわけですが、制度内でそれを防ぐような手立てが講じられているということは、藤倉先生が指摘さたれとおりなのですが、やや私とは認識が違うところがありまして、実態は必ずしもそうではないようにも思うのですが、それはともかくとして、大陸法系の制度、日本の制度もそうですけれども、その制度では、事実認定に誤りがあった場合には、上訴審で審査をして正すという途が開かれているわけです。そのことの意義はかなり大きいのではないかと私は考えていますが。その場合、事実問題についての上訴をする上で、判決に理由が書かれていないと、問題点を摘示するのが非常に難しいということは、皆さん御指摘のとおりです。これに対して、藤倉先生は、スペシャル・ヴァーディクトというか、認定すべき事実を細切れにして、一つひとつ答えさせるということがあるとおっしゃったのですが、アメリカの場合、少なくとも私が存じている限りでは、特別な抗弁などについては、別途それを認めることができるかどうかということを聞くということはあるのですけれども、本体の犯罪事実を細切れにして評決を求めるということはやっていないと思うのですね。

 ところが、有罪か無罪かという結論だけを問うというやり方に対しては、ヨーロッパで19世紀に陪審制度を取り入れるときなども、それは問題だということで、特別評決と呼んでいますけれども、事実を細かく分けて、一つひとつ論理的なステップを追って答えさせるという制度を入れたのです。これは現在でも、例えば、スペインが1995年に陪審制度を取り入れたときにそういう方式を採用していますが、それは、判決にはやはり理由が必要だということからくるものなのです。

 ただ、その特別評決というやり方では、各設問に対する陪審の答えが相互に矛盾していれば間違っているということが分かるのですけれども、最も問題なのは、証拠との食い違いでして、その点は証拠についての説明というものがないと、チェックが難しい。やるとすれば、もう一回最初から裁判をやり直させるしかない。今度フランスが法改正をして上訴を認めたのは、裁判をもう一度やり直させるというやり方なのですね。そういうところを、果たして我が国で割り切れるものかなと、私は素朴な疑問を持っていますが、比較法学者として、先生はその辺をどういうふうにお考えなのか。ちょっと長い質問になってしまいましたけれども。

 次に、三谷先生は、陪審制度の持つ経済的な効用というか意味ということを御指摘になられまして、私など、今までそんなことを考えたこともなかったものですから、目を開かれた思いがするのですが、その面は、今日的にはどういう意味を持っているのか。お教えいただきたいと思います。

 また、松尾先生は、事実の認定と量刑の両方について国民の健全な社会常識を反映させるのが望ましいとおっしゃったのですが、もう一つ、法の解釈とか適用についてはどういうふうにお考えなのか。お教えいただきたいと思います。

【藤倉氏】井上さん御指摘のとおり、刑事についてはスペシャル・ヴァーディクトというのは行われていないだろうと思いますね。私は民事のことを考えておりました。そこを比較法的にどう判断するのかということですけれども、それはやはりアメリカの陪審制度では、そういう陪審が事実として認定し、そして無罪と判断したものについては、それはそれで決着したということにする、そういう制度的な割り切りだと思います。

 だから、それでは困るというのであれば、それではまた改めて別の制度をデザインするということでしょうけれども、アメリカでは少なくともそれで一件落着という、裁判の手続としてはそうなるということだと思います。

【井上委員】有罪の方向での事実認定についてもですね。

【藤倉氏】そうですね。

【三谷氏】非常に難しい問題なのですが、アダム・スミスの経済学というのは、御承知のようにいわゆるモラル・フィロソフィーの体系というのがあって、そのモラル・フィロソフィーの体系の中で、経済学と法学というものも位置付けられているということで、彼の考え方からすると、市場経済の担い手というのは、同時に陪審制の担い手でもなければならないというテーゼがあると思うんですね。

 それで彼の場合には、陪審制というのは事実上、18世紀のイギリスにあって、市場自由化のための一種の、今の言葉で言えば規制緩和ですね、デレギュレーションの役割というのを実際は果たしていたという指摘だと思うんですね。市場の自由化ということが一方で叫ばれているわけですけれども、やはり市場の自由化ということを言う以上は、それに見合うアダム・スミスが考えたような法制度についての設計ということがどうも必要なので、それが陪審制であるということは断言いたしませんけれども、やはり市場の自由化というのは、同時に法律問題を含むという認識ですね、それが非常に重要だということを言いたいわけなんです。

【松尾氏】井上委員のお尋ねは、一見穏やかなようで本当は非常に鋭いのかもしれないんですけれども、法の解釈適用についての参加した国民の役割はどうかということであります。アメリカの陪審については、陪審が、極端に言えば法を無視するといいますか、それによって適切な判決を導いている現象がときどきあるということは説明されておりますし、先ほど三谷さんの挙げられたイギリスの例もそれに近いのかもしれません。

 ただ、英米の場合には、制定法の拘束力というのが法典法国に比べればはるかに微弱なので、裁判官自身も、我々の目から見ますとかなり法規を超越したような裁判をやっている場合があると思います。

 ところが、日本の場合には、裁判官は法律に厳格に緊縛されているといいますか、憲法自身が法律と良心に従ってという成文の規定を置いているわけですけれども、その意味で、やはり法の解釈適用については、裁判官が責任を負うというのが建前であると思います。勿論、事実上は裁判員が裁判官に対して、この法律の解釈はこんなことでいいんでしょうかという意見を述べる機会は幾らもあると思いますし、それによって裁判官が深く考えるということも十分あり得ると思いますけれども、しかし、正式の評議の場面で、制度が採用されれば恐らく最高裁規則か何かで評議の仕方が細かく決められるでありましょうが、その場合には、事実認定についての評議、次に刑の量定についてのは評議という2項目が入りますでしょうけれども、法律の解釈適用についての評議というのは考える必要がないと思います。

【髙木委員】松尾先生、それからあと両先生に1問ずつお尋ねいたします。

 先ほど、松尾先生のお話ですと、頂いたレジュメの「国民参加の態様」のところの(1)はある程度の規模に。それから(2)は自白事件も含めた方がよい。(3)は、これも(1)(2)(3)、それぞれの関係があるんでしょうが、ショーウインドー効果等みたいなものも排除するためにもできるだけ中間的な方がいい。それから、(4)は協議方式。(5)は全面実施の方がベター。それから最後に、(1)から(5)の対応の仕方を見て、(6)の上訴問題を考えるべきだという御認識を説かれましたが、先生のお考えの(1)から(5)の延長線上で、上訴はどうお考えなのか。いろいろお考えになり更に検討を要するとお話になられたので、お聞きしていいのかどうかと躊躇しながら今お尋ねいたしております。

【松尾氏】それは非常に悩ましいところでありまして、十分なお答えは今日の段階では私は控えたいと思います。

 若い人たちとも少し議論してみたんですが、これは大変難しいですし、ドイツにしても、フランスにしても、いろいろ悩んでおります。私は昨年の春でしたが、ドイツ司法省を訪ねる機会がありまして、これからは何をおやりになりますかと聞きました。ドイツは非常に頻繁に刑事訴訟法の改正をやっておりますが、これから上訴の問題に取り組みますというのが向こうの答えでありました。それは、一つには裁判所の負担を減らすという目標があるわけですけれども、しかし、一方において、例えば、国際人権規約などでも上訴する権利というのは保障されているわけですし、そちらにも対応しなければならない。その両方のバランスを取りながら、上訴制度をこれから改善していくのだというようなお話でありまして、私ももっと研究を深めなければならぬなと思って帰ってきたところですけれども、こういう国民参加という新たな問題との対応では、私自身まだ研究不足でございます。

【髙木委員】あと、三谷先生の『近代日本の司法権と政党』という本を読ませていただきましたが、先ほど第1の波、第2の波の御説明がありまして、今、第3の波の中に我々がおる、今はそういう時期であるということでした。読ませていただいて、第1、第2の波のときの論議と今の論議はそう変わっていないという思いを非常に深くして、その中で国民は陪審制を望んでいないんだという意見も結構あるわけですが、三谷先生、その辺、国民は望んでいないという御意見について、どんなふうにお感じなのか。

 それから、藤倉先生には、アメリカの12人、それから原則全会一致というか全員一致主義、アメリカの最高裁の判決では全会一致でなくてもいいんだというようなことも出ておりますが、各州の対応もその後大きく変わっていないのではないか。その辺アメリカではどんなふうに認識され、先ほど吉岡さんが御質問されたマイノリティーなどの感覚もあるんでしょうが、どういうふうに今アメリカでは議論が進展しているのか、その辺を教えていただければと思います。

【三谷氏】国民が望んでいるか望んでいないか。確かに、陪審制に対する知識、関心というのは、それほど一般国民の間に高まっているかどうかということには疑問がありますけれども、私は今日申し上げたように、やはり現在、ここの司法制度改革審議会でやられている事業というのは、私の観点からいたしますと、単なる司法制度改革にとどまらない意味を持っているのではないか。つまり、私の視点からいたしますと、陪審制というのは、政治制度としての側面というのは非常に大きいわけなので、もしそういう側面というものを重視するとすると、陪審制を導入するかどうかという問題は、司法制度改革を超えてやはり政治改革の問題だと、私はそう思っているんです。

 それで、政治改革というと、選挙制度を改正するとかということが問題になるわけですけれども、私は、どうも選挙制度の改革よりは陪審制も含めた司法制度の改革の方が、よほど政治改革として重要な意味を持っているというふうに私は認識しておりまして、そういう点から、司法制度改革審議会がどういう最終答申をお出しになるかというのは、かなり日本の政治の将来に重要な関連を持ってくるのではないかというふうに考えているわけです。

 私は率直に言って、21世紀の日本の課題というのは、デモクラシーか否かという問題ではなくて、デモクラシーの質をどう高めるかという、デモクラシーの質の問題なので、デモクラシーの質ということを考えると、やはり私は、司法制度をどう変えるかということはかなりデモクラシーの質の問題に関わってくるという認識を持っております。

 ですから、今ここでおやりになっている事業というのは政治的に見て非常に重要な事業だというふうに考えております。

【藤倉氏】2点、一つは陪審員の人数の問題ですが、12人というのは、長いこと歴史的に意味があるということで、特に連邦裁判所ではずっと12人ということで来ておりますけれども、州によってこれを減らすというところが出てまいりまして、ここ20年ぐらいの間の傾向ですけれども、幾つかの州では、6人というところまで縮小したと申しますか、陪審団を6人で構成するというところまで来て、6人については最高裁はよかろうと、違憲ではないということでした。

 最高裁のそのときの判決は、12人という人数は、これは歴史的な偶然から始まって続いたものであるということが判決文の中に書かれておりました。しかし、これは意見がきわどく分かれておりまして、やはり12人が続いたことにはそれなりの意味があるという立場の裁判官もいる。少なくとも州によってあるいは犯罪の質によって人数を少なくすることができる、増やすという傾向は出ていないと思います。ダウンサイズだと思いますが、陪審の数を少なくする、6人までは違憲ではないというところが、最高裁の現在の立場であり、その後変わっていないと思います。

 それから、全員一致につきましても同じようなことでして、12人と全員一致の両方のケースが最高裁に来ましたけれども、これについても、全員一致でなくてもいいという、全員一致でないという評決の取り方をしても違憲にはならないということだったと思います。

 ただ、州によって、それでは、そういう最高裁の判決が出たから、そっちの方へ行ったかというと、あくまでも原則は全員一致であって、裁く犯罪類型、その他によって、その評決の内容を数で決めていいんだというふうに場合を分けて規定していこうということだろうと思います。全員一致でなければならないという立場は、アメリカの最高裁では採っていないということです。州による多様性を認めるということです。

 一言だけ付け加えますと、陪審の機能、陪審をどうとらえるかということは、先ほどから出ております問題と絡むわけです。陪審についての伝統的な考え方、これは個人が評議を尽くしてある一つの結論に達すると、それはそこに集まった個人の集合の知恵であるという考え方、評議型なんです。

 それに対して、いや、陪審というのは、代表するもの、コミュニティー、自分の属するアイデンティティーのグループを代表して出てきているんだ。だから、そんな人たちがいくら評議を尽くしても、初めに自分の属しているアイデンティティーについての利害関係を負っているという立場は変わらないので、そんな評議をしても説得される見込みはないんだという意見も強く出てきています。これは代表型の陪審のとらえ方なんです。

 だから、その辺でアメリカの陪審に対するとらえ方も随分議論があるわけですけれども、やはり全体としては全員一致の原則で行く、それから人数も、コミュニティーを構成している母集団の中からマイノリティが十分選ばれるぐらいの人数が必要であるというところが合意点だろうと思います。

【山本委員】ちょっと風邪を引いていまして声がおかしいんですけれども、せっかくでございますので、先生方お一人ずつに1問ずつ質問をさせていただきたいと思います。

 まず藤倉先生に御質問させていただきますが、私ども企業の法務をやっている人たちがアメリカで訴訟を経験しますと、アメリカの陪審制、これは民事ですけれども、陪審制というのは、得てして陪審員が決まった段階でかなり左右されるのではないか。それから、法廷でいろいろなパフォーマンスが行われて、それを上手にやると、かなり言いがかり的な訴訟でも原告が勝ち、かつかなり巨額な賠償金が認定されるというふうに感じている人が多いわけでございますが、そうなってしまう一つの要因に民事の陪審があるのではないかというふうに我々の仲間はよく話をするんですが、そういうことについて先生はどのようにお考えかということをお伺いしたいと思います。何か、陪審員の選定についてはジュリー・コンサルタントという職業もあるようですが、合法的な忌避を駆使したり、かなり手を尽くしてそれぞれが有利な、検察もそうでしょうけれども、そういった陪審員の選定が行われているということもあるようでございます。何せアメリカは100 万人からのローヤーが華々しい産業を形成しているわけでございますので、そういう面に陪審制度がどういう課題を持っているかということについて、お聞かせいただきたいということでございます。

 それから、三谷先生には、イギリスの歴史をいろいろお伺いしたわけでございますが、私どもロンドンに去年の連休に勉強に行かせていただきまして、実際、刑事の陪審法廷を拝見させていただいたわけですが、イギリスの場合は、年とともに陪審の対象を絞ってきているというように確か伺ったことがあるのでございます。とくに民事はほとんど今やっていないということをお伺いしたわけでございます。その点、三谷先生はどういうふうにイギリスの陪審制度というものの推移を御覧になっているのか、アメリカとの対比でどういうふうに御覧になっているかということをお伺いしたいと思います。

 それから、松尾先生は非常に分かりやすく陪審の特質を紹介していただいたわけですが、日本の刑事訴訟の有罪率が非常に高いということで、どうも国際的な孤児になっているというふうにお聞きするわけでございますが、今日のお話を聞きますと、それを打破するためには、例えば、別紙に書いていただきましたように、証拠は8分でいいのではないかとか、あるいは裁判所に行っても無罪ならばいいではないかという、言い方は悪いんですけれども、そういうふうにラフにしたらどうだという議論。果たしてそういうことが日本の現在の刑事裁判における被告人に本当に通用するのかどうかということをさっきから考えているわけですが、確かに、陪審の持つ公共精神の学校であるというような、そういう高まいな役割というのは、本当にそのとおりだと思うんですけれども、現実に刑事裁判の被告人になった人たちが、今言われたようなことについて、本当にそれを受け入れる素地があるかどうか、私自身の感じではちょっと無理ではないかというように思っているわけですけれども、その点、どのようにお考えでございますか。

【藤倉氏】おっしゃるような面がアメリカの陪審裁判にあるというのは明らかなことでして、それも裁判の一つのやり方、局面であるというふうにアメリカ人は受け取るだろうと思うんです。

 ただ、この問題が非常に大きな問題になりますのは、アメリカでは、クラスアクションとそれから懲罰的損害賠償という制度がありますから、特に企業が相手になります場合は、これは弁護士にとっては、この種の訴訟を引き受けてやるということは大変な収入になりますし、訴訟が企業化されるわけです。弁護士がお金を投資家から集めて訴訟をやってみようというところですから、そういう面での弊害は非常に大きい。

 しかし、陪審を付けてそれで裁判してみると、企業が勝つという場合も勿論あるわけです。特に日本企業が負け続けているということでもないんだという研究もありますけれども、それはそういう形で一つの訴訟類型としてはあるし、問題が大きい。

 アメリカの裁判所も、当然そのことは十分承知しているわけでして、例えば、クラスの認証を厳しくする、要件を厳しくして、やたら訳の分からないクラス訴訟を認めないという方向の判例が続いておりますし、それから立法的にも懲罰損害に上限を置く、これ以上は請求できないという形で制限していこうという動きもありますから、それなりの対応は出てきている。ただ、訴訟を使おうという弁護士がいる限り、企業としてそういう形の裁判、あるいは陪審員の使い方というのは、今後もあるだろうと思います。

 ジュリーコンサルタントが、まさにそういう企業の一部として、非常に有利なベンチャービジネスなんですね。しかし、もう一つ見ておかなければいけないのは、そういう類型の訴訟がある一方で、ごく普通の市民が巻き込まれた訴訟について、それは刑事、民事、いずれも陪審員が本当にそのコミュニティーの人が出てきて判断をしているという訴訟も一般にたくさんあるわけでして、その辺のバランスを欠く理解というのは問題だと思います。はやりの言葉で言えば、粛々と陪審裁判を進めているという場面も多いと思うんです。

【三谷氏】今の御質問、私はお答えする能力、資格がございませんので、英米の陪審制の現実の違いというのを御専門の藤倉さんにお答えいただくほかはないと思うんですが、先ほど引用いたしましたグレーアム・ウォーラスが『Human Nature in Politics』の中で展開している陪審論というのは、イギリスの陪審制というのを前提にして議論を展開しているわけで、ウォーラスによると、これは20世紀の初頭の話なので、現在に通じる話かどうか分かりませんけれども、ウォーラスは、英米の陪審制というものを厳然と区別して、それでイギリスの陪審制の方が優れていると言っているんです。なぜ優れているかというゆえんは、私はこの本を読んだところでは十分理解できなかったのですが、とにかく両方を対比して、イギリスの方が優れていると言っていることは事実なんです。ですから、なぜそういう議論が成り立つのかというのは、藤倉先生にお答えいただいた方がいいのではないかと思いますけれども。

【松尾氏】御指摘の点は、非常に重要な点だと思います。今後、日本の刑事司法をどちらの方に持っていくかという場合に、その基準をどのように考えるかというのが、まさにキーポイントになると思います。この起訴の基準という問題は、少し分析いたしますと、二つの面を持っておりまして、一つは、先ほどからお話ししていたような、証拠が十分にあるかという問題ですが、もう一つは、証拠が仮に十分であるとしても、これは起訴すべき事件であるかどうかという問題です。日本の検察庁は、先ほど日糖事件というお話がございましたが、ちょうどあのころから起訴猶予という権限を行使するようになり、したがって、起訴すべきかどうかについての裁量権を持つという考え方になっております。これはドイツ辺りとは非常に違うところなんですが、そこで、日本の検察官は、言わば適正な公訴提起についての全責任を負わされているという形になっておりまして、それだけに、しっかりした起訴をしなければいけないという気持ちが非常に強いと思います。それが表れて、捜査もしっかりやってくれという話になりますし、それから、結果的に無罪判決は余り出ないということになりまして、先ほど三つ列挙しました(1)、(2)、(3)のうちの中心になっているのは(2)なんですね。

 別な言い方をすれば、日本の刑事司法においては、検察官の果たしている役割が、良いか悪いかは別といたしまして、非常に大きいというのは事実なんですね。そこで、それを変えて、例えば、証拠についての基準を少し下げる、今までだったらもう起訴をあきらめていたような人を1,000 人余計に起訴をするということにした場合にどうなるか、恐らく、その1,000 人のうちの大部分は有罪になるでしょうから、それはそれでいいですけれども、やはり無罪が、例えば、100 人出たとした場合に、その100 人の人の負う負担というか犠牲には非常に大きなものがあります。

 そこを考えるから、弁護士さんたちも起訴の基準を下げるということについては、通常反対の意見を表明するんです。起訴は今までどおりしっかり確実な証拠でやってくれということで、無罪判決が出ると起訴がずさんであったというような批評が出てくるわけですが、これは恐らくアメリカではほとんど聞かれることがない。無罪判決が出れば、検察官は弁護人のところに歩み寄って、コングラチュレーションズと言う、弁護人もサンキューと答える、非常におおらかな形があるわけですけれども、日本はそこはだいぶ違います。大変本質的な問題で、重要な点だと思います。

【山本委員】日本の刑事司法全体を見ていただいて、要するに、欧米の刑事法学者に、でもなおかつ日本の有罪率が高過ぎることについてのそしりというのは残るわけですか。

【松尾氏】学者といいますか、東京の府中に、国際連合のやっている研修所があります。アジア極東犯罪防止研修所、そこには主としてアジア地域からですが、これまでに大勢の外国人の研修生が来ています。研修生といいましても、自分の国に帰れば相当な地位の人たちですけれども、検察、裁判、行政、警察等の将来幹部になる人が来ておりますが、そこへ行って講演をしまして、日本の刑事司法の特色という話をしますと、反応が二つに分かれます。99%有罪、非常にエフィシェントですばらしいという批評と、そんなものが裁判と言えるかという批評と、きれいに二つに分かれるんです。

 私は、これも悩ましいことですが、両方本当だと思うんですね。学者と話すときは時間を掛けてゆっくり個人的に話しますから、最初の反応は、99%、そんなのでは駄目だというものですけれども、話をしているうちに、長所もあるのだなというぐらいのことは分かってくれます。しかし、日本はユニークだねというので終わるのが普通です。

【佐藤会長】時間の関係もありますので、中坊委員、簡単にお願いします。

【中坊委員】三谷先生に、繰り返しのようになるかもしれませんけれども、この司法制度改革審議会では、御承知のように論点整理、そして中間報告をしているんですけれども、21世紀の我が国の司法のあるべき姿というのを考えて、法が社会の血肉と化していないということ、これが一番の我が国の近代以来の今まで負ってきた大きな課題である。それを克服するために今、この司法制度を抜本的に直すということが今必要なんだ。国民の一人ひとりが統治客体意識から主体意識に変わっていないことが、一番の我々の問題ではないだろうかということを指摘しておるんです。

 それは純然たる政治の問題ではなしに、まさに司法制度のあるべき姿として基本的に問題ではないかというような結論に立っていると思うんですが、そういう統治客体意識と主体意識という関係から言うと、先生のお考えはどういうことになりましょうか。

【三谷氏】私はそういう法に定義された正義がいかに実現されているかというのは、その国の政治文化の高さを示す尺度だと思っておりますので、全くおっしゃることに御異論はありませんし、今日の藤倉先生のお話ではありませんけれども、法の実現を私人がいかに担うかということは非常に重要な問題だと思っていまして、それが政治の質の問題と結果的につながってくるということだと思うんです。勿論、こちらの中坊先生などのお立場でしたら、司法制度改革でいいわけなんですけれども、しかし、司法制度改革は、結果として政治改革につながっていくというのが私の見方ということです。

【佐藤会長】ほかの委員はよろしゅうございますか。

【髙木委員】三谷先生が最後に、陪審制と参審制併用論みたいなことをちょっとおっしゃられたんですが、私どもの中間報告では、「広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、訴訟手続において裁判内容の決定に主体的、実質的に関与」するという表現になっています。

 特に、参審制の場合に、「広く一般の国民が」という部分、そういうものがどこかに行ってしまいそうな議論になりかねないと思いますが、この中間報告のような広く国民に参加を促すということと参審制の在り方について、どんなふうに御認識なさって、先ほどのような併用論を展開されたのか、お尋ねしたいと思います。

【三谷氏】私が申し上げたいのは、要するに、参審制を採るということもいいと思いますけれども、参審制度を採ることによって陪審制を切り捨てるという方向は余り望ましくないのではないかということを申し上げたんです。

【髙木委員】分かりました。

【佐藤会長】まだ御質問もあろうかと思いますけれども、今日一応お願いしておったのは4時45分まででありまして、それを大幅にオーバーしてしまい、3先生には大変御迷惑をお掛けしました。藤倉先生、三谷先生、松尾先生、今日は本当に有益なお話、ありがとうございました。

(三谷氏、藤倉氏、松尾氏、退室)

【佐藤会長】 国民の司法参加の問題につきましては、既にお決めいただいておりますように、本日のヒアリング、質疑応答及び意見交換を踏まえ、今日はほとんど質疑応答で終わってしまいましたけれども、次々回の1月30日の審議会において、引き続き意見交換を行うということになっております。その意見交換におきまして、皆様からの御意見を頂かなければならないわけでありますが、具体的な制度設計の基本となると思われる点を記載したレジュメに基づきまして、意見交換をしたいというように考えております。

 このレジュメの作成につきましては、私と会長代理で御相談させていただきますけれども、更に刑事訴訟事件を念頭に置いて検討するということになりますので、井上委員にも大変申し訳ないんですけれども、御協力いただき、その上で作成させていただければと思っております。御了解いただきたく存じます。

 このレジュメにつきましては、委員の皆様にも事前にお考えいただく必要がありますので、1月30日の審議の前にお送りしようというように考えております。よろしくお願いいたします。

 私としましては、できましたら次回の意見交換を踏まえて具体的な制度設計の基本につきまして、おおよその方向性でもまとめることができればと考えている次第ですが、次回の意見交換の結果などを踏まえまして、更に審議、検討を行うかどうかということも考えてみたいと思っております。できれば、おおよその方向性というようなものは、1月30日にできればというように考えている次第です。

 この件は以上で終わらせていただきたいと思います。

 では、配付資料の確認をお願いします。

【事務局長】お手元にお配りしました資料の中に、規制改革委員会が昨年12月12日に発表しました意見書「規制改革についての見解」のうち、総論と各論の公的資格制度の部分を抜粋したものをお配りしています。その中で、弁護士の懲戒制度等について言及しておりますので、次回の弁護士の在り方に関する審議の参考にしていただければと思います。

 また、「個別的労使紛争処理システムの在り方について(報告)」と題するものをお配りしております。これは労働省の個別的労使紛争処理問題検討会議がとりまとめ、昨年12月25日に発表しました報告書です。今後、民事司法のブロックの中で行う予定にしております労働関係事件に関する審議の参考にしていただければと思います。

 その他については特に説明するところはございません。

【佐藤会長】 どうもありがとうございました。

 今、事務局長から紹介がありました規制改革委員会の意見書では、弁護士制度について種々貴重な御意見を発表されているということであります。私どもの審議会でも、次回の1月23日には、弁護士の在り方に関して審議を行うということになっておりますので、委員の皆様には、その審議の参考にしていただければと思っている次第です。

 この件は以上にしまして、最後に次回の日程の確認でございます。

 次回の審議会は、1月23日火曜日午後1時半から5時まで、この審議室で行うということでございます。今お話ししましたとおり、弁護士の在り方につきまして意見交換を行うということにしておりますが、弁護士の在り方につきましても、中間報告を踏まえて、今後の改革の具体的な方向性を出さなくてはなりません。まず、日弁連などからヒアリングを行った上で、具体的な方向性を検討しなければならない点を中心に意見交換を行うということにしたいと思います。

 そこで、ヒアリング項目でありますが、お手元にお配りしております。私と会長代理で、適宜中坊委員とも御相談させていただいて、中間報告に基づきまして用意させていただいたものであります。御覧いただければお分かりのように、ヒアリング項目は網羅的なものになっていますけれども、意見交換につきましては、次回23日と2月2日の2回に分けて、この中でも具体的な方向性を出さなくてはならないと思われる3点、一つは弁護士の公益性・活動領域の拡大、それから弁護士倫理の強化と弁護士自治、さらに隣接法律専門職種・弁護士法72条などに関連する問題などを中心に行うということにしたいと考えておりますので、委員の皆様にも御準備いただければと思います。

 それから、既に皆様御承知かと思いますけれども、先般の内閣改造で高村正彦衆議院議員が法務大臣になられました。次回の審議会では、高村法務大臣からのごあいさつを頂くことを予定しております。

 更にもう一点、皆様の御了解を頂きたいのでありますが、2月に入りますと、裁判官制度の改革についての審議を行うということになります。この審議に関しましても、中間報告を受けて、できるだけ具体的な制度設計ができるように審議を進める必要があります。その審議に当たって、既に委員の皆様にはお配りしております資料のほかに、例えば、裁判官の報酬関係など、更に追加の資料を準備しなくてはならないものもあろうかというように考えている次第です。それから、審議用のレジュメあるいはヒアリング用の質問事項を用意する必要もあろうかと思います。これらの資料などの準備につきましても、私と会長代理で御相談させていただいて、進めさせていただければというように思っておりますけれども、その点もよろしゅうございましょうか。ありがとうございます。

 今日は、予定時間を20分ほどオーバーしてしまいました。新年早々で5時にはと思っておりましたけれども、その決意もむなしくということになりましたが、本日はどうもありがとうございました。

 記者会見は、いかがいたしましょうか。それでは、会長代理と二人で。どうもありがとうございました。