司法制度改革審議会

第45回司法制度改革審議会議事録



日 時:平成13年1月30日(火) 13:30~17:15

場 所:司法制度改革審議会審議室

出席者(委 員、敬称略)

佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、髙木 剛、鳥居泰彦、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本 勝、吉岡初子

(事務局)
樋渡利秋事務局長

議事次第
1.開 会

2.国民の司法参加について

3.閉 会

【佐藤会長】それでは、定刻がまいりましたので、ただいまから第45回会議を開会いたします。
 本日は「国民の司法参加」につきまして、意見交換を行い、できましたら、最後に、具体的な制度設計の基本となると思われる点について、おおよその方向性をとりまとめることができればと考えている次第です。
 早速、意見交換に入りたいと思いますが、お手元に、前回の審議会の際にお話ししましたように、本日の意見交換の際にお使いいただく審議用のレジュメをお配りしております。この審議用のレジュメは、皆様に御了解いただきましたとおり、私と代理で相談いたしまして、井上委員にも御協力いただいて作成したものであります。
 意見交換を始めるに当たって、まず、この審議用のレジュメの内容につきまして、井上委員から15分ないし20分くらいで簡単に御説明いただいて、その上で意見交換をしたいと考えている次第です。
 それでは、恐縮ですけれども、井上委員、よろしくお願いします。

【井上委員】それでは、ごく手短に、概要だけ申しまして、御不審な点がありましたら、後で審議の中でまた追加して御説明させていただくことにしたいと思います。
 このレジュメは、今、会長からもお話がありましたように、中間報告に至る審議や、この間のヒアリング等を踏まえまして、中間報告では、「主として刑事訴訟事件の一定の事件を念頭に置いて、我が国にふさわしいあるべき参加形態を検討する」とされていました、その検討のために詰めなければならないと思われる論点のうち主要なものを取り出して、整理したものであります。
 一応項目を分けて並べてありますけれども、勿論、各論点は相互に密接に関連しておりまして、一つのまとまりのある制度を考えるわけですから、この後の審議におきましては、これを一つの手掛かりにしながらも、必ずしもこれに拘束されずに、さまざまな角度から御議論いただければというふうに思うわけであります。
 お手元に、このレジュメのほかに、「中間報告の要点」という紙片をお配りしています。これは中間報告の確認事項を、よりわかりやすく書き分けたものであります。
 また、横長の2枚のもの、これは主要な国の制度の対照表のようなものですが、これもお配りしてあると思います。その上、今日、吉岡委員の御尽力で、より広範な資料、B4横長のものが配られていると思いますが、いずれも適宜御参照いただければと存じます。
 レジュメの中身に入る前に、2点だけ確認させていただきますと、まず、中間報告では、主として刑事事件を念頭に置いて検討するということになっておりましたので、このレジュメも、対象を刑事事件に限ってつくっております。また、参加する国民を表すのに、「裁判員」という、やや耳慣れない言葉を使っておりますけれども、これは「陪審」、「参審」という言葉を使いますと、特定の国の制度とか、あるいは皆さんがそれぞれ抱いておられるのではないかと思われる既成のイメージにとらわれて、生産的な議論がしにくいのではないかと思いまして、便宜、先日のヒアリングで松尾教授が使われた比較的ニュートラルな言葉を拝借した次第です。
 それでは、中身に入りますと、これから具体的な制度設計、あるいはその方向を考えるに当たっては、参加する国民、裁判員はどういう役割を果たすべきであるのか、それと裁判官の役割との関係をどのようなものにすべきなのかということが、最も基本になるだろうということは、これは皆さん御承知のことであろうと思いますので、それを最初に1と2という形で配置した次第です。
 まず、1の「参加する国民の役割」ですけれども、これはお手元の「中間報告の要点」というペーパーのAの③にあります「訴訟手続において裁判内容の決定に主体的・実質的に関与する」ということを、どういうふうに具体的に表現していくのか、どう具体化するのか、という問題だと言えます。
 より具体的に申しますと、御承知のように、刑事裁判の中心的内容というのは、被告人が有罪であるか否かを判断する、これは犯罪事実の存否を認定し、それに刑罰法規を適用するという形でなされるわけですが、そのことと、有罪とされた場合の刑の決定、量刑と一般に呼んでいますが、そのことから成っているわけであります。そのどの局面に、どこまで関与すべきなのかということだろうと思われます。
 これは見方を変えて言いますと、結局、国民の参加によって何を期待するのか、また、何が期待できるのかということだろうと思われるわけでして、それはとりも直さず、「中間報告の要点」のBに掲げてあります「期待される効果」にほかならず、中でも②の「裁判内容に社会常識を反映させる」といったことの意味というものが重要になってくるわけです。
 その点で、日常多くの事件を見ている裁判官とはまた違った社会常識を反映した新鮮な視点から証拠を評価して、事実を認定する、そこに最大のメリットと言いますか、意義を見出すのか。あるいはより広く、量刑や更には法令の解釈や適用などをも含めて、裁判の全般にわたって健全な社会常識というものを反映させるのがよいと考えるのか、ということがポイントになるということは、これも御承知のとおりだと思います。
 この点をどちらの方向で考えるかということは、対象を否認事件に限るかどうかといったこととも関係しますけれども、それについては、あとで触れることにいたします。
 仮に裁判の全般に関与するとした場合も、法令の解釈適用という、ある意味では専門的・技術的な性格を持つ事柄も含めるのが適切かどうか。更には、証拠の証拠能力の判定、証拠調べの対象にできるかどうかといったことなどをはじめとする訴訟手続上の決定などは、どうすればいいのか、といったことも関連して問題となるだろうと思われます。
 次に、そういった裁判員の役割というものを踏まえまして、それと裁判官の役割との関係をどのようなものにすべきなのかということを問題にしているのが、レジュメの2であります。これは、以上のところで考えた国民参加の意義というものを踏まえなから、「中間報告の要点」のAの②の「責任分担・協働」ということをどう具体化し、そして同時にまた、Aの③の「主体的・実質的関与」ということをどう確保するのか、という問題だろうと思われます。
 より具体的に申しますと、裁判官と裁判員との間で守備範囲をはっきり分けて、それぞれの担当分野について、別々に、かつそれぞれが責任を持って裁判を行うという形、仮にこれを「分離型」というふうに呼ばせていただきますと、そういう形がいいのか、あるいは原則として、裁判の全般について、裁判官と裁判員が共同責任を負って、全員で協議しつつ、裁判を行っていくという形、これを「一体型」というふうに呼ばせていただきますと、それがいいのか、ということだろうと思われるわけです。
 これまでの審議の中で、たしか会長の御発言であったと思われますけれども、法律専門家と国民とのコミュニケーションという視点が重要なのだということが言われましたけれども、この問題は、そういったコミュニケーションの在り方としてどういう姿が望ましいのかという問題でもあろうかと思われるわけであります。
 また、この点は後で出てきます判決に理由を示すことが必要なのかどうかといった問題とも関係していることは御承知のとおりであります。
 次の○の「評決の拘束力・評決権」という項目ですが、この点につきましては、憲法上の問題があるということは、法曹三者のヒアリング等でも指摘され、また、前に配付していただきました追加資料の中でも整理されてあるとおりで、既に御承知のとおりでありますので、立ち入りませんけれども、そのことをも念頭に置きつつ、我々としては国民参加の意義を実質的に確保し、活かすことのできるのはどのような制度であるのか、どういう制度とすべきかという角度から検討する必要があるだろうと思われるわけでありまして、そのことを確認するために項目として挙げておいたものであります。
 次に、以上のような国民参加の意義と裁判官との役割分担の在り方を実効のある形で実現するためには、裁判所体の規模、裁判官、裁判員それぞれの数をどのくらいのものにするのが適切なのか。また、裁判体内における評議の仕方とか、あるいは評決の方法というのをどのようなものとすべきなのかということを考える必要があります。
 お手元に差し上げてあります私がつくった表の方で結構ですが、これを御覧いただきますと、陪審制、参審制の別を問わず、実に色々な形があるのだということがおわかりになるだろうと思います。これはそれぞれの国の実情に応じて、色々工夫を凝らしているということでして、この問題は決して簡単な問題ではないけれども、我々としても、色々工夫する余地は大きいということを示唆してくれているように思われるわけです。
 この問題を考えるに当たってポイントとなる点をその下の○の下の・で、「考慮要素」として幾つか挙げておりますけれども、国民参加との意義との関係で、社会の広い色々な層の人に関与していただくという意味では、ある程度の規模にすべきだということになるかもしれませんし、他方、余り人数が多くなり過ぎると、実質的な評議というものが難しくなるのではないかといった面も検討すべきではないかということで、その2つを挙げているわけです。
 また、裁判員が主体的・実質的に関与できることを確保するという意味では、裁判官との役割分担をどう考えるかという、先ほどの点とも密接に関連するわけですけれども、仮に、一体として全般を担当するとした場合でも、それぞれの数をどのようにするのかということも重要となるわけです。
 ただ、この問題は数だけの問題ではなくて、訴訟の基本的な在り方によっても違ってきますし、評議の仕方や評決の方法などとも関係してきます。
 つまり、ドイツとかフランスのように職権主義で、裁判官が一件記録をあらかじめ読んで公判に臨むという方式か、当事者主義で、裁判官も記録を読まずに公判に臨むという方式かによって違ってくるだろうと思われますし、また評議で、誰から、どういう順序で発言していくのかといった点や、あるいは評決が単純多数決なのか、あるいは特別多数決によって、例えば裁判官のみの多数では決定できないとするのか、といったこととも関連してくると思われるわけです。
 また、この点は後で出てきます、判決に理由を示すかどうかという問題とも関係することは言うまでもありません。
 裁判体の規模や評決の方法につきましては、現在、職業裁判官のみの裁判ですけれども、比較的軽い罪については単独の裁判官が、そして重い罪や複雑な事件は原則として3人の裁判官の合議体によって裁判し、その場合の決定は多数決によるということになっていますので、国民参加の対象をどういう範囲の事件にするのかとの関係もありますけれども、「中間報告の要点」のCの①で「一定の事件」とされているように、この国民参加の制度を入れたとしても、裁判官のみにより裁判する事件は残るわけですから、それとのバランス、あるいは整合性ということも、考えなければいけない要素になるだろうと思われるのです。
 次に選任方法ですけれども、ここでは、任期制にするのか、事件ごとの担当にするのか、ということが最初に来る問題点です。これは諸外国の例を見ますと、分離型のものはアドホックに事件ごとに選任するという形ですけれども、一体型の方では、両方の例がありまして、ドイツのように任期制を取るところと、フランスのように、完全にではないんですけれども、アドホックに近い形のものとがあります。
 これは恐らく国民参加の意義というのをどういうふうにとらえるのかに関係するものと思われます。新鮮な感覚を入れるということですと、事件毎ということになるのかもしれませんし、他方、裁判官と実質的で有効な議論をするということになりますと、経験を積むとか、研修の可能性があるということで、任期制ということも考えられるのではないかと思われます。
 また、国民の負担、これは対象事件の範囲をどう設定するのかによるのですけれども、国民の負担をどの程度のものと考えるのかによっても違ってくるでしょう。
 もう一つの○は、選び方の問題ですが、この点は任期制かアドホックかという点とも関連するわけですけれども、国民参加の意義をどうとらえるかによって、できるだけ広い範囲の人に参加してもらおうということならば、無作為抽出という形になるのかなと思われますし、しかし、人の権利あるいは自由とか、場合によっては生命まで影響するという重い判断をするということを考えますと、できるだけ良質で適格のある人に参加してもらうべきで、そのため、何らかの選別、例えば一定の基準を設けて選別するとか、あるいは諸外国に多い選任委員会のような形で選別をするということもあり得る、その辺を考えないといけません。
 しかもここには、国民の負担ということも関係してきまして、できるだけ多く、いろんな人が平等に負担するという形を取った方がいいのかどうか。また、選任の過程が余りにも複雑で長いものになった場合に非常にコストが大きくなるということも考えないといけないだろうと思われます。
 次の資格とか忌避、あるいは義務の免除といった点については、恐らく皆さん大きくは異論のないところだと思いますが、どういう形にしろ、公平な裁判所による公正な裁判を受けるということが憲法で基本的人権として保障されているわけですので、その理念を確保するために、法律で一定の欠格事由というものを定めて、一般的に、それに当たる人は除外していく。その上で個々の事件との関係で、例えば先入観があるとか、あるいは偏頗であるというふうに思われる人を排除していくという制度を取らざるを得ないのではないか。そういう問題です。
 一番最後の排除の制度は忌避という形で、現在、裁判官についてもあるわけですが、これについては諸外国の例を見ますと、そういう理由を一々挙げて、裁判官がそれを認めた場合に初めて職務から外されるという形だけのところと、それに加えて、当事者が理由を言わないで、この人は排除してくれという理由なしの忌避制度を取っているところがありまして、その点なども御検討いただかなければならないのではないかと思われます。
 義務の免除につきましても、法律で一定の事項を挙げて、それに当たる人は免除をするということになるわけですが、これは余り広く認めますと、本当に限られた人だけしか残らないということになりますので、どういう理由を挙げるのが適切なのかということが制度設計に当たっては重要になるだろうと思われます。
 あと、代償措置として、一定の補償をするのかどうか、あるいは、義務不履行、つまり出てこないとかいった場合に、それに対して何らかの制裁措置を考えるのかどうかといったことも具体的な制度設計に当たっては考えないといけないところでしょう。
 ちょっと長くなって恐縮なんですが、その次の対象となる刑事事件というところが実質的に重要な問題でありまして、これは中間報告では「刑事訴訟事件の一定の事件」となっているんですが、その「一定」とは何ぞや、ということで、ここは国民参加の意義というものをどういうふうに見るのかによって、かなり御意見が違うのかなと思います。
 司法が国民に開かれ、それへの信頼を確保するという点からすると、国民の関心が強い重大な事件ということにもなるかもしれませんが、他方、広く関与するとか、身近な感覚を持つという意味では、ある程度数の多い一般的な事件ということになるのかもしれません。また、社会常識を反映するという意味では、本当にそれに適したような罪種の事件の方がいいんじゃないかということになるかもしれません。
 また、国民にとっては、負担の大きさという点も考えなければいけない点だろうと思われます。
 さらに、裁判員の適性という意味では、例えば諸外国では、非常に複雑困難な大きな詐欺事件とか、経済事犯などは適さないのではないかということも指摘されているところですので、そういったことをどう考えるのかということもここでの論点だろうと思われます。
 もう一つ考えないといけないのは、否認事件に限るのか、あるいは逆に言いますと、全面的に罪を認めている場合も対象にするのかということでして、これは分離型の場合には、全面自認の事件については、事実認定をやる必要が余り大きくないとも言えますので、そこは外れる。否認事件に限るということになるような気もするんですけれども、一体型の場合には、量刑等も担当するわけですので、否認事件に限るということでいいのか、それとも全部やった方がいいのかということが問題になるわけです。
 3番目の○の「被告人による選択の可否」という問題については、既に色々御意見があったところですが、これも参加の意義をどういう角度から見るのかということとの関係で、社会常識を反映させれば、被告人にとってより適正な裁判になるというふうに見る、あるいは被告人がどうしてもいやだという場合に、被告人が信頼するような裁判体によって裁判をしてもらった方がいいんじゃないか、そういうふうに見るならば、放棄とか辞退、あるいは選択ということもあるのかなと思われます。他方、この制度は国民全体にとって意義がある、一国の裁判制度としてこれがいいんだということになりますと、当事者の意向によって裁判体を変えるのはいかがなものかという気もするわけで、その辺をまた御議論いただかなければならないのではないかと思われるわけです。
 時間がなくなってきましたが、「5.公判手続・判決の在り方等」、これは実際に実施する上におきましては、極めて重大な問題なんですけれども、今の段階ではまだ大きな議論をしていただかなければいけませんので、余り詳しくは立ち入りません。そこに書いてあるようなことが主要な論点になるかと思います。
 簡単に申しますと、結局、裁判員の負担をできるだけ少なくして、集中力をそがずに実質的に裁判に関与してもらうためには、可能な限り、連日継続して開廷し、実質的な争点を中心にして、充実した審理をするということが必要なわけですので、刑事司法のところで問題になりましたような第1回公判手続前の準備の充実ということや、期日を連続して入れることができるような弁護体制を含む色々な制度の整備ということが必要ですし、また、証拠調べなどにつきましても、大量の調書等を時間を掛けて詳しく検討するといったことは適さないだろうと考えられますので、口頭主義、直接主義といった考え方をより徹底し、できるだけそれに沿った形で運用上の手当をするとか、さらに必要な場合には、法律上の手当をするということも考えていかなければならない、そういったことが中心です。
 もう一つ付け加えますと、分離型にした場合には、量刑と事実認定というのをはっきり分けて、手続を二段階に区分するということも考えないといけないのではないかということがあります。
 「判決の理由」の点は、一番最初の問題に密接に絡むことですが、判決に理由を示すことが必要かどうか。これは、判決の正当性それ自体として担保するものであるとも思われますし、被告人等の当事者に対する説明とか、国民一般に対する説明という点で、それを判決理由の表示という形で行うことが必要かどうかということです。
 そのこととの関係で、もう一つ、裁判官のみによる裁判の場合には理由が付くわけですので、それとのバランスということも考えないといけない。
 さらに、最後に申し上げます、上訴や再審ということとの関係で、理由が明らかにされないと、当事者が判決のどこに問題があるかを指摘したり、反駁することやあるいは上訴審や再審請求を受けた裁判所が、その点の誤りの有無をチェックするということが困難になりはしないか。そういうことが論点になるだろうと思われます。
 次に上訴についてですが、ここのところは、結局、国民参加の裁判体により判断をしてもらうわけですので、それを尊重して、それで決着がついたというふうに割り切るべきかどうかということが基本的な問題だと言えます。
 そして、仮に誤判の恐れということを考えて、上訴を認めるとした場合、国民参加の裁判体による判断を、職業裁判官のみによる審査で覆すということは、本来の趣旨に反しないかということが論点になりますし、上訴というものを正当化することが仮に可能だとしても、そのためには上訴審の構成や、審理方式というものも考えないといけないかもしれません。
 つまり、上訴審にも国民参加ということを認めて、それによって初めて正当化されると考えるのか。しかし、そうは言っても、第一審の判断と第二審の判断とでどちらが正しいとは言えませんので、その辺はどうするかという問題がありますし、また証拠を直接調べて国民参加の裁判体が判断したものを、記録だけ読んで覆すということが果たして正当化できるのかどうか。その点は審理方式とも絡めて検討しないといけない問題だろうと思われます。
 あと、上訴審が第一審の判決には問題があると判断した場合に、自ら新たな判決を言い直すという形が適切なのか、事件を第一審裁判所に差し戻してもう一度最初から裁判をやり直させるという形がいいのかということも問題点です。
 最後の「7.その他」というところは、言わずもがなのことですが、一つは、報道との関係で非常に難しい問題がある。裁判員に対する余り好ましくない影響というのをどういうふうに遮断するか、公平な裁判手法を確保するのにはどういう方策があるのか、これは報道の自由との関係もあって非常に難しい問題ですが、その点も検討する必要があるだろうということです。
 もう一つは、司法教育、これはいろんなところでお話が出ますが、特に裁判に決定の主体として国民が参加するということになった場合には、やはり基礎的な知識とか理解、あるいは責任の意識というものを持ってもらうために、いろんな局面で教育ということが重要になってくるだろう。その具体的な方策としては、どういうものがあるのかということも考えていかないといけないのではないかということです。
 20分という制限だったのですが、大分オーバーしてしまいました。

【佐藤会長】どうもありがとうございました。「国民の司法参加」につきしては、ただいまの井上委員の御説明にもありましたように、憲法との関係で考慮しなければならない問題点があるわけです。この憲法上の問題点につきましては、既に昨年4月の藤田委員からのレポート、その後の法曹三者からのヒアリング、更に石井委員、髙木委員及び吉岡委員からのレポートの中でも御指摘のあったところであります。
 また、その後の意見交換の中でも、委員の皆様から何回か御意見が出ておりまして、既に委員の皆様には十分御承知のこととは思いますけれども、これらの点も踏まえながら、意見交換を行いたいと考えております。
 意見交換につきましては、お手元の審議用レジュメの項目のうち、まず、「1.参加する国民の役割」、「2.裁判官と裁判員との役割分担」につきまして、御意見を交換していただければと思います。
 その後「3.裁判員の選任方法、国民の義務等」、「4.参加の対象となる刑事事件」「5.公判手続・判決の在り方等」、そういう順序で意見交換をしていただければと思っております。
 さりながら、先ほどの井上委員の御説明の中にもありましたように、これらの項目は、相互に非常に有機的、密接に関連し合っております。必ずしも明確に区切って議論ができにくいというところもありましょう。最初に御意見を開陳されるときに、一つのかたまりとして述べたいということもあろうかと思います。その辺はそうきちっと考えているわけじゃありませんので、少し弾力的に受け取っていただければいいかと思います。ただ、一応、議論の順番として、さっき申し上げたように、1番目、2番目辺りを重点的に、それが済んだ後に3番以下というように、一応の目安と言いますか腹づもりとして、そういうように議論したいと思っております。これは1の問題ですか、2の問題ですかというように区切るつもりはありませんので、その辺はどうぞ弾力的に御議論していただければというように思います。

【吉岡委員】会長、会長代理でおまとめいただいた審議用レジュメは、重要性の点から1番、2番、3番ということでまとめていただいたと思います。特に1番、2番は非常に重要な問題だと思うのですけれども、ただ、比較的具体的に入りやすいとか、そういう面を考えますと、3から入って1、2に戻った方がいいのではないかと思います。恐らく1、2からやると時間が足りなくなるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

【佐藤会長】さっき申し上げたように、3も1と2と関連し合っているところがありますから、御意見を述べられるときに、ここをまず強調しておきたいということがあったらそれをおっしゃっていただいて結構です。

【髙木委員】我が国にふさわしい、あるべき参加形態ということで、欧米の例を参考にしながら、今までは陪審とか参審とか決め打ちにしないで議論してきましたが、1番、2番というのは、その形の根幹なんですね。そういう意味では、私も吉岡さんの意見に近いんですが、中間報告に書かれている幾つかの、今、井上先生に整理していただいた、例えば参加の意義との関係だとか、そういうこととの関わり合いも含めて、例えば3から議論をしていって、この1番、2番というのは、最後の、最もフレームに関わる問題というものであり、最初にこっちから議論していくと、こうだからこっちはこのようになるんじゃないのかというように、最初に後ろの議論を規定してしまうみたいなことになりはしないかという気がするんです。

【水原委員】1とか2というのは、国民の参加にとっては基本的な問題だと思うんです。入りやすいから3から入って、1、2に戻るというのはちょっと順序が逆ではなかろうかと思うんです。
 既に中間報告で述べているように、法曹とのコミュニケーションを図りつつ、国民が主体性を保ちながら協働して、あるいは国民と法曹がそれぞれ主体性を保ちながら協働してやるんだという点については、共通の認識ができていると言わざるを得ないと思うんです。中間報告にそうまとめているわけです。そうすると、協働の在り方はどうあるべきであるか、どういう形でコミュニケーションを図るのか、どういう裁判体が望ましいのか、ということをまず最初に議論しないと、どういう裁判員をどういう方法で選ぶのかというのは出てこないという気がいたしますので、やはり順序に従ってと言いましょうか、それにとらわれる必要はございませんけれども、やはり1、2、これらを避けて通る議論というのはおかしいと思います。

【佐藤会長】ほかに御意見がありますか。

【北村委員】今、順序の問題が出ていますが、冒頭に中間報告のまとめが出ていますけれども、このレジュメの中には、「国民参加の意義との関係」という言葉が10回出てくるんです。一応、何かわかったような形で国民が裁判手続に参加しなければならないとかいう発言もありましたけれども、では、何故国民が裁判手続に参加しなければならないのかというところは、それぞれの考え方が違うんじゃないかなという気がするんです。
 もう一つまとめていただきました「中間報告の要点」のところにも、「期待される効果」というふうなまとめはあるんですが、「参加の意義」というものが直接的には書かれていないんじゃないか。あるいは「期待される効果」というのが「参加の意義」なんでしょうけれども、それは参加すればこういう効果が得られるということですね。ところが、何故そこに参加していかなければならないのか、ということをもう一遍きちっと考えておくということも必要なんじゃないかなというふうに私は思うんです。

【井上委員】その点は抽象的に議論しても、恐らくすれ違いになると思うのです。今日整理させていただいたような具体的な問題との関連で考えて初めて、身近だとか、社会常識を反映させるということがどういう意味を持つのかということがわかってきて、地に足のついた議論ができるんじゃないかと思うのです。
 その意味で、確かに「参加の意義」というのがいっぱい書いてありますけれども、それをこういうふうに挙げただけではわかりにくいのかなと思いましたので、時間をちょっと頂戴して御説明したわけです。

【北村委員】国民参加の意義というところの関係で考えていかなければならないということになりますと、やはり議論の順序としては、私は会長がおっしったように1、2のところからやらないと、これは時間が無制限であればいいんですけれども、ちょっと議論しにくいんじゃないかなと思います。

【佐藤会長】入り口のところでどうするかということだけで時間を取ってもどうかと思いますので、さっきから申し上げているように、弾力的に考えていただきたい。3の問題に触れるについても、参加の意義、意味付けにも関連してきますので、1、2、3を一緒にやってもいいと思います。さっきから言っているように弾力的に御議論していただければいいのであり、余りこだわらないで、1、2、プラス3ぐらいのつもりで御議論いただければと思いますが、いかがでしょうか。

【髙木委員】そうこだわりませんけれども、例えば「1.参加する国民の役割」のところで、「事実認定のみ、または事実認定+法令適用」となっていますが、事実認定のみというのは陪審型を意味するから、いきなり陪審・参審を決める議論からやるということですか。

【佐藤会長】そうじゃありません。まさに国民が参加するとはどういう意味なのか、ということであり、それは先ほど井上委員が御説明になったようなことだろうと思います。それと関連づけながら、さっきから言っていますように、3の問題も論じていただいて結構です。余りリジットに縛るつもりはありませんので、実体的な内容について発言なさってください。あるいは、もう3にも入ってよろしいです。

【髙木委員】「考慮要素」と書いてあるのは、これが論点という意味ですか。論点は上の下線が引いてあるところが論点なのか、「考慮要素」というのが論点なのか。

【井上委員】そこは、「考慮要素」というのをどう定義するかの問題でして、ここに挙げたものだけに限らないとは思うのですけれども、そういうことをも考えながら、一番大きな柱のところを議論しましょうということであろうと思うんです。

【中坊委員】佐藤会長がおっしゃるように、まず1、2で、3はその次だとおっしゃるから、ちょっと話がややこしくなってくるんで、むしろ1、2、3一緒に話をする。そうしないと、鶏と卵の議論になる。

【佐藤会長】そういうことにしましょう。

【井上委員】わかりやすいように分解しているだけで、一かたまりなのです。

【中坊委員】まさに井上さんのおっしゃるように、また、髙木さんのおっしゃるように、法令適用と事実認定を分けるのか分けないのかによって、裁判員はどういう人を選ぶか、無作為抽出でばっと選べというのか、特定の人を選ぶかというところがまた変わってくるでしょう。だから、一緒に議論しましょう。

【佐藤会長】実体に入ってください。

【竹下会長代理】ちょっとよろしいですか。やはりさっき北村委員が指摘された点なのですが、我々は中間報告を出したわけですから、中間報告で一応合意に達したところは、それを前提にして議論を進めるということでないと、繰り返しになってしまうと思います。

【中坊委員】今、北村さんがおっしゃったけれども、そのことはこの司法参加のところだけじゃないんですよ。我々は国民の司法参加について、中間報告で言えばちょうど60ページあたりですが、この問題を、論点整理に基づいて、大きな背骨として議論してきたわけです。何も司法参加についてだけ、書いてあるような合意が突然出てきたわけじゃないですよ。「国民の司法参加-国民的基盤の確立-」として中間報告では三つの大きな柱の一つになっているし、しかもそれはまた論点整理の統治客体意識から主体意識へという大きな流れの中でとらえて、この議論をしているんだから、その流れそのものは前提として議論しないと具合が悪い。

【佐藤会長】その点は当然前提にしてください。直接ここに関係のあるものとして、この冒頭の囲みの中に入っているわけです。この点については、水原委員も御指摘になったように、基本的にこのように合意をしたわけです。だから、今、代理が言われたように、これを前提に、1、2、それから3へ行ってもよろしいですから、御議論なさってください。

【山本委員】北村先生がおっしゃられたことは私も同感なんですが、繰り返すつもりはないんです。この問題については、まさしく「期待される効果」は書いてあるけれども、予想されるデメリットもあるわけです。このことを我々はよく考えて各論の議論をする必要がある。恐らく北村先生がおっしゃったのはそういうことだと思うんですけれども、そこのところは、今更デメリットを上げてみても、それはもう既に中間報告で決めたんだから、そういうことは言っていただきたくないということですか。

【佐藤会長】確認したこの囲みの中にも「欧米諸国の陪審・参審制度をも参考にし、それぞれの制度に対して指摘されている種々の点を十分吟味した上」とあります。だから、それぞれにメリットもあればデメリットもある。それは当然全体の制度設計の議論の中でおっしゃっていただきたい。何も封ずるつもりはありません。

【水原委員】今の考え方、私は全く同感でございまして、心の底では、今、両委員の御発言のとおりだと思うんです。ただ、よりよい裁判を実現するために、今の制度よりも、何かよりよい制度を構築する方法はないかということでこれから議論するわけでございますから、今の制度に問題があって、どうにもならないということで言っているわけではないということだけは、この中間報告もそういうことだと思いますので、そういう趣旨で私も理解したいと思います。

【佐藤会長】そういう趣旨でございます。

【石井委員】今の話とちょっと違うのですけれども、前にもどなたかが新聞発表のやり方についておっしゃったことがありましたが、今日の朝刊に非常に大きく審議内容に関する記事が出ておりまして、これを見ますと、何か今日の審議会で審議することが、みんな決まったように出ております。必要に応じて何かそういうことを事前に発表しておいた方がいいというお考えでやっていらっしゃる方がおられるのかもしれませんが、余りやり過ぎると、何か不信感を招くようなことになってもいけませんので、その辺は適当に考えていただきたいと思います。

【佐藤会長】そういうことと全然関係なしに今日御議論いただければと思います。こういう審議会は、私も幾つか経験がありますけれども、ときどきこういうことは生ずるんです。私どもに関係ないことですから、全然とらわれないで、今日はさっきのレジュメに従って自由に御議論いただければ結構です。

【石井委員】先ほどのお話に戻りますが、今、「種々の点を十分吟味した上」でというところで、一番大事なことは、例えば陪審を検討する場合、国民にどういう負担が掛かってくるかとか、どういうデメリットがあるかとか、義務としてどういうことがあるかとか、裁判の公平性をどうやって確保するかというようなことを全体的に考えていかなくてはいけないと思いますので、陪審制を導入する上で、こういう色々な問題があるということを国民によく知らせて、それから結論を出すという格好にしていかないと、具合が悪いのではないかなと思います。何となく漠然と陪審制がいいとか参審制がいいとか、そういうふうに決めてしまうのも問題があると思っておりますので、一応意見として申し上げておきます。

【佐藤会長】先ほど来出ていますように、そして代理も言われたように、中間報告に出ていたものを前提に考えるわけですが、今おっしゃった国民の負担の問題をどう考えるか、裁判の公平性の問題をどう考えるかは、このレジュメにも考慮すべき要素として掲げてありますから、その辺を考慮に入れながら御議論いただければと思います。
 では、1、2、3でもよろしゅうございますので、どうぞ。

【吉岡委員】確かに色々な意見があると思いますが、中間報告で一応方向性は出しているわけですし、公表しているわけですから、そこまでは合意されていると考えないと、議論は後戻りしてしまうんじゃないでしょうか。ですから、中間報告は合意されている、それよりも一歩進めていくという考え方で議論を進めるべきだと思います。
 そういう意味では、「広く一般の国民が、裁判官とともに責任を分担しつつ協働し」と書いてありますので、あくまでも責任を分担しつつ協働して判断していくという、そこのところは合意されているわけです。その「分担し」というところで、どういう分担の仕方をするのかという点について、井上委員のおっしゃった「一体型」なのかどうなのかというところの議論はあるかと思いますけれども、陪審・参審と言った場合に非常に議論が分かれてしまうということがあって、ここでは日本的な良い制度をというふうに書いていて、合意されているわけです。
 ですから、やはり責任を分担しながらいい制度を構築するためにはどうするのかという考え方で積み上げていかないといけないのではないか。そのように考えます。
 「1.参加する国民の役割」ということで三行書かれているわけですけれども、ここのところへ行くと、陪審か参審かという、それに近い議論にどうしてもなってしまいます。やはり刑事訴訟手続の中で、少なくとも、国民が参加するという意味では、有罪・無罪の判断、それは国民から選ばれた、ここで言う裁判員が決定するという方向にしていただく必要があると私は考えます。

【佐藤会長】量刑の方には入らないで、有罪・無罪を決めるということですか。

【吉岡委員】有罪・無罪です。「事実認定+法令適用」となっておりますけれども、この場合の法令適用というところまで裁判員に判断しろということになると、これは少し無理があるのではないかと思います。ここのところは、裁判官と協働しということになってくるんではないだろうかと思います。
 次に括弧の外に行きまして、刑の量定をどうするか。ここのところは悩ましいところではあるんですけれども、できれば量定についても参加するという方向を考えた方がいいのではないかと思います。

【井上委員】少なくとも有罪・無罪の点は裁判員だけが判断すべきだとおっしゃる理由はどういうことなのでしょうか。

【吉岡委員】やはり一般社会的に国民を代表するような人が選ばれるという前提ですけれども、そういう前提で考えたときに、社会常識に照らして、社会から容認される判断をすることができる。特に刑事事件の場合には、基本的には疑わしきは罰せずという基本に立った上でという、そういうことで考えております。

【竹下会長代理】昔の、国王の官吏としての裁判官が人民に対して刑罰を加えるというような時代的な背景の場合には、裁判官は排除して国民の代表だけで事実認定をやるというのはよくわかるのですけれども、現在の日本ではそうではありませんから、その場合に、裁判官を事実認定から排除しなければいけないということ、裁判官を排除して裁判員だけで事実認定をやらなければいけないということの理由は、国民参加の趣旨からはなかなか出てこないように思うのですが、どうでしょうか。

【吉岡委員】すべてがクローズの状態でぽんと判断をするというのは訴訟ではないわけです。勿論、証拠が出されて、それぞれの立場から証明されていって、そういうことを聞きながら、それで判断をしていくというプロセスがあるわけですから、当然そのプロセスの中で判断する。
 それから、裁判官ないしは検察官、弁護人も含めて、要するに判断材料にすべきことはこういうことなんだ、ということを説示と言いますか、判断事項の図面をつくる。その図面によって判断していくということになると思います。ただ、その判断の基本にあるのは、原則的には、検察官の証明に、合理的に疑わしいと言えるような事項があったときには、それは原則無罪という、そういう考え方で判断していくということですからできると思います。

【竹下会長代理】私がお聞きしているのは、裁判員は事実認定能力が足りないだろう、だから裁判官で補充してもらう必要があるのではないか、という趣旨ではなくて、裁判官は排除しないといけないという理由です。裁判官が入って裁判員と一緒に事実認定をやったら間違った事実認定になってしまうのだ、というようなことが言えるとすれば、排除する理由はわかるのですが、そうでなければ、その場面でも協働してもよいのではないかということになるはずですね。

【吉岡委員】これは力関係と言いますか、専門知識の関係と言いますか、そういうことで、一緒に判断するということになると、職業裁判官に誘導されてしまうという恐れがあると思うのです。

【佐藤会長】吉岡委員の御意見に対してどうですか。山本委員どうぞ。

【山本委員】私は、一般国民の司法参加の目的ということを考えますと、さっき申し上げたように、正確・公平さというのが前提になければいけないというのがまず一つあると思うんです。それに加えて、社会常識をより一層反映した判決の実現というのがその目的になるというふうに考えますと、このためには、お互いそれぞれ長所、短所を有している職業裁判官と一般国民が、お互いに協働して、お互いに助け合って、お互いの議論を高め合いながら結論を見出していくということが一番望ましいんじゃないかと考えるわけです。
 第二に、参加の経験を通じた国民の意識の向上といった観点がありますが、これは持論でございますが、そもそも民主主義の充実を図る手段として見ると、三権の中では、やはり行政とか議会というのがもっと鍛練の場としてはいいわけなんですが、あえて司法にそれを求めるというのは、多少の異論があるわけでございます。しかしそういう観点に立ったとしても、職業裁判官との討論を通じてというのが、非常に参加体験としてはプラスの意味が出てくる。だから、吉岡さんがおっしゃるように、事実認定だけ国民で、あとは職業裁判官だというのは、そもそも司法参加の三つの成果、期待される効果ということから見ると、果たしていかがかなという感じがありまして、今も議論がありましたように、あえて職業裁判官を事実認定から排除するというのは、むしろそういった負のイメージの方が強いんじゃないかという感じがいたしておりますので、そういう協働作業がいいんじゃないかと思います。
 もう一つの命題の量刑についてですけれども、量刑というのはまさしく一般国民の常識が入ってくるということによって、特に日本の場合は、量刑の裁量の範囲が広いわけでございますから、そういった意味で非常に国民の参加の意欲にかなうものであるし、それから、往々にして凶悪な事件などが起こったりしますと、国民というのは感情をすぐ吐露して、いろんな結論を出しがちでございますけれども、そこは職業裁判官が全体的なバランスとか、それまでの長い判例の積み重ねとか、そういったことをお互いに議論し合うことによって納得づくで刑を決めていくということからしても、事実認定に限らず、量刑の適用も一緒にやられたらいかがかなと、そういう制度の方がいいのではないかと考えております。

【佐藤会長】吉岡委員は、事実認定は裁判員だけであとは協働するという御意見、山本委員は、すべての段階について協働でやるという御意見ですね。

【山本委員】法律適用はともかくとしてですね。

【佐藤会長】髙木委員が先ほど手を挙げられましたけれども。

【髙木委員】一番のポイントは、私は「広く一般の国民が」ということにあり、この部分が一番のエッセンスかなと思って中間報告を考えておりました。
 そういう意味ではこの「3.裁判員の選任方法」については、無作為に抽出するというのが一番国民社会を平等に代表するということだろうと思いますし、それから、人数も余り小さな人数ではなく、何十人という必要はないかもしれませんが、少なくとも裁判官の入る、入らないでまた人数の考え方も違うかもしれませんが、かなりの人数、これは社会を公平に代表するということに重きを置けば、そういうことでとらえるのがごく常識的なことじゃないかと思います。
 今の吉岡委員と竹下代理の間のやりとりですが、裁判の正当性みたいなものは、この21世紀の時代に誰が担保していくんですか、という観点が大切だと思います。そういう意味では、国民主権と言いますか、そういう原理の中に裁判の正当性というのは求められていくんだろうを考えます。要は国民が決めた、国民がそう判断したという点、勿論、いろんなルールなり物差しを整理する必要がありますが、国民が具体的な事実関係といろんな因果律あるいは法をベースにそう判断したということが、国民主権の下での正当性を担保するものではないかと考えます。
 職業裁判官の方々は法の専門家として、1ページに書いてありますように、法令適用の専門性、技術性を持っておられるわけですから、そういう立場で役割を分担していくんだろう。事実認定に当たって、専門家として説示という説明の仕方がありますが、そういった役割なり、量刑決定等ということで責任を分担されてやられたらいいのではないかと思います。
 私自身はフランスあるいは北欧のそういう刑事裁判を見ておりませんのでよくわかりませんが、ある人に聞きましたら、裁判官の方々が色々説得されると聞いております。事実の判断についてもですね。勿論、その説得が全くいかんということではないかもしれませんが、本当に国民が、社会のそれぞれの層を代表して、それぞれの感覚で物事を判断するということについて、プロとしての影響力の行使みたいなものが非常に多いんじゃないかということを言っておられる方がおりまして、私自身は自分で見たことがありませんので、そういうことなのかどうかもよくわかりませんが、もしそういう側面があるとしたら、その種の影響力の行使というのは、本当に国民がルールに従って判断するという、これからの裁判の正当性と、齟齬と言いますか葛藤を起こすところがあるんじゃないか、今の議論を聞いておってちょっとそんな感じがしたんです。

【竹下会長代理】おっしゃるように、裁判の民主的な正統性という視点は大事だと私も考えて、前にもそういう観点から自分の意見を申し上げたことがありますが、すべての事件について、国民参加を認めるわけではありませんから、恐らくどういう事件に国民参加を認めるかということと関連いたしますけれども、どのみち、一部という前提で考えておるわけです。そうしますと、裁判官だけの事実認定で裁判をするという場合の方がむしろ大部分なのであり、もし、裁判官の影響を受けずに国民だけで事実認定をやらないと民主的な正統性がないということになってしまうと、全部の事件を国民参加でやらないといけないということになってしまう。やはり民主的正統性というのは、一部の事件にでも国民が参加をして、裁判官と協働して裁判をやる。そのことによって、そこが一つの窓口になって国民に開かれたものになり、そこで国民の理解を得て、広い、より深い支持の基盤が得られる。そういうところにあるのではないでしょうか。

【水原委員】私も、今、山本委員、竹下代理のおっしゃったことに全く同感でございます。それはすべて援用させていただきました上で、私たちのこれまでの議論で確認できたポイントというのは、中間報告でも述べられているように、国民と裁判官との協働の重要性、それから、国民の主体的、実質的な関与の確保という点にあったわけです。裁判を国民の手による裁判でなければいけないという議論はまず出てきておらなかったと思う。刑事司法への国民の参加はすべきであるという議論だったと思うわけでございます。
 先ほどから吉岡、髙木両委員から疑問を提示されておりましたが、事実認定において裁判官を排除して、国民だけが評決して結論を出すという考え方、これは、裁判官が裁判員に与える影響をできるだけ排除しようということではなかろうかと推測できました。しかし、その発想はどうでしょうか、問題があるように思うんです。我々の基本的な考え方というのは、先ほども申しましたように、国民が裁判へ関与する道を開くということであって、国民が裁判官にとってかわって事実認定をするということではないんだと思うんです。
 先ほども代理がおっしゃったように、全部の事件についてそういうふうに国民による裁判をするなら別といたしまして、限られたものでないとできないわけですから、部分的には裁判官による裁判を認めざるを得ないわけです。
 当審議会におきましても、一方で望ましい裁判官を確保するためのいろんな方策を検討しているわけでございます。裁判官制度改革の問題を検討しているわけでございます。他方で裁判官の影響を排除しようという考え方を出発点としますと、どうも私としては審議会における今までの議論と整合性がないように思います。
 私は基本的にはどうかと言いますと、現行の刑事司法制度、これはおおむね信頼されているかどうかというところも出発点の一つとして考えなければいけないと思うんです。おおむね良好に機能しておるし、国民の多くの信頼を得ているのではないかと私は思っております。これは考え方の違いだと言えばそれまででございますけれども。そこで、中間報告でもありましたように、法曹とのコミュニケーションを図りながら、協働することの必要性が指摘されているのであって、その観点から言いますと、国民と裁判官がいずれも主体性を失うことなく、それぞれの持ち味を生かす。すなわち裁判官は事実認定の訓練を経ております上に、さまざまな事件を経験しております。知識・経験が豊富でございます。かたや国民は、素朴な正義感と豊かな常識的な感覚がございます。更に突っ込んで言いますならば、一時の感情だとか、表面的な事象にとらわれないともいえません。したがって、その両者が相協働しながら、それぞれの長所、持ち味を生かして、足りないところを補って、信頼関係に基づくコミュニケーションを取りながら、共に議論をすることによって、現行制度の長所を生かしつつ、国民の自立性を高め、また、国民の常識が反映されて、国民にわかりやすい刑事司法制度が構築されるのではなかろうかと思っております。
 そういう意味で、私は、裁判官と裁判員とが全員で、お互いに膝を突き合わせて忌憚のない意見を出し合って、何が真実なのか、どういうふうに認定すれば国民に理解されるものなのかについて、お互いの持っておる経験と知恵を出し合って、膝突き合わして話し合いながら事実を認定していく、こういう方向が一番望ましいのではなかろうかという気がいたします。そういう意味で、双方に評決権を持って事実認定をさせるべきだということ、それが一つでございます。
 もう一つは、そうなりますと、先ほど数は多い方が望ましいんじゃないかということでございましたけれども、膝突き合わせて色々話をするとなりますと、そして十分意を尽くし合った議論をするとなりますと、数にはおのずと限度があるのではないか。やはりお互いに腹蔵なく、微に入り細に渡った、詳細な議論をし合うことができる、比較的コンパクトな組織体が望ましいのではないかという気がいたします。
 量刑の問題もついでに申し上げますけれども、これは微妙な問題があろうかと思います。私は検察官をやってきた経験から言いますと、事実認定の問題もさることながら、被告人にとって何が大きな問題かと言いますと、量刑なんです。刑がどれくらいなのかということが大変な問題なんです。事実認定にも勝るとも劣らないくらいのウェートを持っています。それから、被害者や一般国民も量刑ということについては極めて関心度が高いと思うんです。そういうことについて、裁判官は今までの経験からして刑事政策的だとか、立法の趣旨だとか、それから、今までの相場というものも考えましょうが、一般国民は日常生活を通じて、感覚的なものがございますので、素朴な正義感もございますので、それを率直に言い合って、意見を述べ合って決めていく。量刑につきましても、双方で委曲を尽くした話し合いをすることが極めて大事ではなかろうか。
 ただ、量刑について、評決権を持たせるかどうか、これは憲法問題とも多少絡んでくるような気がいたしますので、その辺りは更に慎重な御検討が必要だろうかと思いますが、私は双方に評決権を与えてしかるべきだと考えております。

【佐藤会長】今の御発言の趣旨は、量刑について、評決権があってもいいけれども、問題があるということですか。

【水原委員】そういうことです。意見を述べる程度にとどめることも検討する必要があろうかなということです。

【井上委員】今の御趣旨は、事実問題についての評決権を認めるのと量刑についての評決権を認めるのとでは、憲法問題との関連で差が出てくるということですか。それとも、両方とも同じということですか。

【水原委員】全部やってしまいますと問題があるのかなと、そういう余地も多少残しておくということです。

【井上委員】そういう考え方も、学説の中にはあるようですね。

【佐藤会長】手を挙げていらっしゃいましたけれども、吉岡委員、どうぞ。

【吉岡委員】水原委員のおっしゃっていること、わからないわけではないんですけれども、検察官、裁判官、弁護士は専門家なんだからわかっているけれども、国民は素人なんだからわからないという、そういう基本的な考え方に立ったお考えのように思われます。素朴な正義感とか、そういうことはあるだろうけれども、経験は少ないし、相場感はわからないしという、そういうようなことであるとすると、国民主権という考え方、今までの統治客体意識から統治主体意識に変えるという考え方からして、全然発想が違うなという印象を持ちました。
 そうではなくて、主体的に国民が積極的に参加していくというところに、今回改革しようという大きな意味があると思いますので、そういうことから言うと、少し私の考えとは違うと思います。

【井上委員】私、これまで自分の意見を言うのを控えていたのですけれども、言わせてください。
 今の点は、恐らくそういう御趣旨ではないだろうと私は思います。要するに、事実認定能力とか証拠評価の能力、これは裁判官と一般の人とでどっちが高い低いということは一概には言えないと思うのですが、しかし全く同じかというと、全く同じとは言えないとも思うのです。片一方は訓練を受け、経験を積んでいる。それはプラス面ですが、同時にマイナスということもある。日常的にたくさんやっていますから、慣れてしまって、どうせこんなもんだろうと思うかもしれない。
 それに対して、フレッシュで社会常識を反映させた評価ということが入ってくるというのはプラスだと思うのです。しかし、例えば非常に証拠関係が複雑に絡まっているというよううな場合になりますと、本当に一般の人の判断だけで十分かと言いますと、私は正直かなり不安なところがあります。というのは、さっき例に挙げました大きな詐欺とか経済事犯、これは類型的にどうも難しいんじゃないかということで陪審の対象外とすべきだといったことがイギリス等でも言われており、それは裁判官が説示という形で補充するということだけでは賄い切れないのではないかと考えられるからなのです。しかも、それらはまだ類型的に対象から除けばいいのですけれども、問題は、一般的には対象となる個別の事件で複雑な場合にどうするのかということだと思うのです。
 その場合に、裁判官と裁判員の両方が協働するということがプラスになるのは、裁判官が専門的素養と経験に基づいて色々内容的な説明をすることができるということです。裁判官が法廷で説示するという形では、裁判員の心証に影響を与えないために限度があるものですから、やはり裁判官も同じ裁判体の一員として、証拠の中身について説明をし、それを手掛かりに、しかし別の視点から裁判員が評価をしていく。両方が話し合いながら評価をしていくという方が、どうもいいのではないか。事実認定については、そういう感じを持っているのです。
 もう一つ、量刑との関係で申しますと、我が国の場合、量刑というのは犯罪事実の内容と密接に結び付いているものですから、そこのところを切り離して、ほかの人が決めたのを前提にしてやるということは、もし私が裁判官だったら非常に辛い。裁判官も審理を見ているわけですから、裁判員の認定が自分の心証と違うかもしれない。そうだけれども、決められたことだからそれを前提にして量刑をやらなければならないというのは非常に辛いなと思うのです。それは裁判官の問題だから、そこは割り切ってもらうしかないという考え方もあるかもしれませんが。
 ついでにもう一点申しますと、裁判官の影響力の問題なんですけれども、もし両者が一緒にやるとなれば、一方が他方に影響を与えるということは当然あり、それがいい影響ならばむしろ望ましいことだと思うのです。問題は、一方的に意見を押し付けるということがあってはいけないということで、フランスとかドイツの参審について色々言われているのですが、例えばドイツの場合などでも、参審員経験者とか裁判官といった人たちの間では、そういうことを言われることについて随分不満もあるようでして、自分たちはちゃんと自分の良心に照らしてやるべきことはやっている、最近そういう声を集めた本も出ています。そういうこともありますので、必ずしも我々の印象とか、外で言われていることを当然の前提のようにして話を進めていいものかどうか。そこは慎重でないといけないところだと思います。
 さらに、職権主義では、一件記録を全部裁判官が精査して裁判に臨んで、証人尋問なども、裁判長がほとんどやってしまう。そういうことなりますと、強い心証が形成されていて、評議になっても、それがリードしてしまうと思うのです。
 これに対して、当事者主義で、裁判官も裁判員も同じ出発点に立ち、法廷に出された証拠からだけ心証を取るという場合は大分違うのじゃないか。デンマーク等の北欧やイタリアなどもそうだと思うのですけれども、そういう方式を取っているので、そういうところでの評議の状況が果たしてどうなのか。裁判官が一方的に意見を言って、押し付けているのか、その辺はちょっと調べてみたいなと思っているのです。
 あとは裁判体内の構成比の問題と評決の方法ですね。それらの点も、密接に絡んでくるんじゃないかと思うわけです。

【佐藤会長】海外視察のとき、ドイツの参審裁判を実際にごらんになったんですか。

【髙木委員】今たまたま会長からドイツの話がありましたが、ドイツの職業裁判官1人、参審員2人の刑事事件を傍聴させていただいて、事件の中身とか詳しいことは忘れてしまいましたけれども、終わった後職業裁判官の方に質疑に答えていただくという場も持っていただいたんですが、ドイツの刑事事件の職権主義的なものがもろに見えるということもあるんですが、職業裁判官主導の、平たく言えば横におるのは、何の役にも立っていないけれども、参審員が参加しているのが民主主義だという説明や、そういう意味では国民の参加というものも、たまたまそういうとらえ方をしている裁判官の方だったのかもしれませんけれども、率直に言うと、この裁判官すごいことを言うな、そういう印象を受けました。竹下先生も水原先生も山本さんも御一緒でしたので、それぞれの感想はちょっと違うかもしれませんが。
 先ほど竹下先生がちょっと言われて、私は一定の刑事事件というか、「刑事訴訟事件の一定の事件」と書いてありますが、この間松尾先生のお話を聞きまして、できるだけ広くした方がいいと思っています。松尾先生は中間的な事件と言われたんで、ちょっと私は混乱していますけれども、できるだけ広くした方がいいという、そういう意味で広くすればするほど、確かに裁判官による裁判も一部残るのかもしれませんが、松尾先生は、裁判官による裁判を選択する要件は非常に厳しくすべきだ、狭くすべきだという御意見を述べられたような記憶もあるんですが、私もそう思います。

【竹下会長代理】選択性は認めないという御意見だったのではないですか。

【佐藤会長】そうです。認めないという御意見でした。いいということで導入するんなら、むしろそういうことをしない方がいいんじゃないかという説だと思います。

【髙木委員】そんなような松尾先生の御意見の影響があるのかもしれませんが、正当性とは何なんだろうかということを十分吟味しておく必要があると思います。
 水原先生の言われるように、膝をくっ付け合うことが大切なのか、国民の代表性というものをきちんすることが大切なのか。現在の刑事裁判に対する国民の信頼、それをどう思っているのかという点については色々あるのかもしれませんが、それとは違った切り口で国民が参加する裁判を実現していこうと今我々は議論をしているはずだと思うんです。
 そういう意味で私は、効率だとかいろんな要素も大切ですけれども、それ以上に大切な価値観は、いかに社会の多様な国民各層の意見をバランスよく代表させるかということに意味があると思うんです。
 そういう意味では、そんなに小さな人数ではない。勿論、何十人にしろなどと言っているわけではございませんで、これも先ほど石井さんが、何であんな新聞記事が出るの、と言われた記事で読んだような気がしますが、2、3人という、そんな話では全然ない。
 それから、裁判官との関係について、水原さんの御意見は御意見として、そういう形も形としてあり得るわけです。よしんばそういう形を考えるとしても、先ほど井上先生からいただいた資料を見ても、大方のところは裁判官の人数よりは一般市民の人数がかなり多い、一部例外がありますけれども。

【井上委員】「かなり」かどうかは別としてですね。

【佐藤会長】井上委員の資料では、ドイツくらいですか。

【髙木委員】水原さんにお尋ねしたいんですが、なぜ広いのはだめで、もっと言えば、なぜ陪審型がだめで参審型がいいとおっしゃるのか、その辺のお考えをお聞かせください。

【竹下会長代理】それは人数の問題ですか。

【髙木委員】それも含めましてです。

【佐藤会長】中坊委員、お待たせしました。

【中坊委員】まず裁判員と裁判官とが協働してやるということは、みんなも合意しているわけです。問題は裁判員という方がどういうところから選ばれてくるのか。国民を代表して、その方が主体性と責任を持ってやってくれるかということなんです。
 しかも、それについて一定の枠を決めるんじゃなしに、ここで言うならば、まさに無作為抽出で本当に平等に出てきているんだ、だからこそ全国民を代表しているんだという意味では、教育の差とか、職業の差とか、年齢の差とか、いろんなものがあるということだろうと思うんです。それが裁判員の出てくる根拠だと思うんです。
 そういう意味では、素人という意味では共通しておっても、いろんな者が入っているということが前提で、多少水原さんの意見とは違いますけど、ほんの少数の人がごちゃごちゃと話し合うという性格のものじゃない。だからこそ、国民の司法参加の一形態としての意味がある。それがこういう問題を論じることの、まず裁判員というものがどうして選ばれ、それが我々の司法改革の中においてどう位置づけられているかということが、まず私は司法参加についての議論の一つであろうと思うんです。
 さて、それを前提として、それでは職業裁判官とどう協働していくのかというのが問題になってくる。そのときには、先ほどから多少おっしゃったけれども、誘導するとか影響を与えるということです。しかも、私たちとしては、職業裁判官は将来、水原さんのおっしゃるように、こういう裁判官になるんだと。仮にそうだとしても、職業裁判官であるという意味では同じです。それはすなわち法令に精通しておって、しかも、いろんな事件を裁いてきて非常に経験がある。片一方の裁判員は、非常に各層から出ているけれども、その事件限りという特徴がある。この二つをどのようにかみ合わせることによって、本当に国民が信頼され、そして、正しいと言われるような評価を生む裁判を構築していくかという問題です。だから、全く異質のものが会うということです。
 私はそのときに、非常に思うんですけれども、そう事実、事実とおっしゃるけれども、私はその事実というものが、何が事実か、必要な事実は何かということは法律がわからなきゃ。法律の効果があって、その要件事実があるわけです。しかも、そのためには法律全体を理解していなければいけない。勿論、類似の法律も要る。あるいは最終的には憲法が上にある。憲法以下法律があって、各法典があって、それらが絡んでいる。その法律の中から要件事実が出てくる。こういうことが頭に入っているのは、まさに職業裁判官のみです。
 そうすると、その方々は、先ほど言うように、権威があるとか影響力があるという以上に、事実上のイニシアチブ、また、そうでないと実際上は誤りますからね。例えば、常識でお考えになっても、刑事事件でいうと、未必の故意、それから認識ある過失、過失と似たようなものであっても区別があるわけです。具体的に、認識ある過失と未必の故意との具体的な事実は、何と何によってそれを認定するんですかと言われたときに、その内容ということは、恐らく職業裁判官が教える、説明するというところから決まっていかなければ、現実の姿としてはできないです。恐らく私は、アメリカのように陪審だと言われているときに、何故評決に裁判官が加わることをそこまで拒否したのか。陪審員だけで決めろというのは、別の言い方とすれば、裁判官に、その一回限りの人にも、この体系がちゃんとわかって、自分の心証というよりも、法律体系を陪審員に理解させるという努力こそ大事なんだと。あんたが権限を持って評決したりするよりも、そのものの仕組み、それを教えてくれることが法の支配というものにつながっていく。国民が、統治客体意識から主体意識に変わっていく。法というものはどういうものかを理解してもらう意味で絶対必要なんだ。恐らくそれは大変な、今言うように、簡単に、それの方がいい、悪いというのじゃなしに、もっと奥深いものがあるし、それは確かに影響するとか、影響しないというよりも、もっと深刻な問題を含めて、あるべき裁判官、そして、一回しか選ばれてこない素人の多種多様の裁判員というものをどう教育するかというところに、まさに司法参加の意義があるんだと思います。
 だから、それを簡単に影響がある、影響がない、あるいは私は正しいことをしている、していない、そういうことで論じるべきじゃない。
 私は、それは大きな歴史の流れであり、そして、歴史の大きな流れの中で生み出されてきた各種各国のいろんな事情だろうと思うんです。
 私は、それはそれで横へ置いておいて、今、日本で新しく、それは昭和の初めにあったかもしれないけれども、とにかく今改めて問おうとしているときに、どうするのかということを今日の問題として、今さっき言うてるような、各国の大変な歴史と経験の中に、だからこそ各国がそれぞれのこういう形があるんであって、まさに我々は日本としての今、現実に合った独特のものをつくりましょうと言うているんだから、そこの議論をよく分けていただきたい。だから私はまずもって今必要なこと、だから先ほどから言うているように、1、2、3の順番にどれを尋ねますか、3まで入れていただいたから。私はそこが大事だと言うんです。
 裁判員というのは誰ですか。どの程度の人数ですか。これをまず具体的に我々が頭の中に選んで、それから裁判官というのは、今言う裁判官というのも頭に描いて、そして法律というものはどうなっているかを考えて、現実問題として、今、我々がやらなければ、論議の好きな人が言ったんだというのではいけない。現実の問題なんですから、そこをきちっと頭に入れる。
 さっきから数が多いとか言ったけれども、これは十何人でしょう。これで議論ができていない、膝突き合わした議論になっていないとは言えないと思いますよ。だから、私は数人だということは、さっきから言うように、架空論で言わないで、十何人でしゃべったら、みんなしゃべりたいこと、そのくらい言えまっせ。

【佐藤会長】わかりました。日本独特のもの、いいものをつくろうということが、我々が目指したところです。ちょっとここで休憩を入れますか。
 そうしたら、20分に再開します。

(休 憩)

【佐藤会長】それでは、時刻がまいりましたので、再開させていただきます。
 今日はひととおりこのレジュメの全体について御議論いただきたいと思います。先ほど山本委員が手を挙げられました。今の1、2、3に関連してでしょうか。

【山本委員】はい。さっき髙木さんから、陪審のどこが悪いんだという意味の御質問が出たんですが。

【髙木委員】陪審のどこが悪いんじゃなくて、何故参審がいいと言うのかという理由を水原さんにお聞きしたのです。

【山本委員】それと今、中坊先生が言われたことと、かなり平仄が合うような感じがあるんですが、実は陪審の問題というのは、陪審だけが事実認定をするということになると、ある程度の人数をそろえなければいけない。人数をそろえると、職業裁判官がタッチしないから、どうも事実認定の理由がつかないというのが一般論としてある。理由がつかないということは、髙木さんがおっしゃるように、正当性の根拠というものを国民に求めるということですから、一旦行われた事実認定は、理由がつかなくても、これは神聖にして侵すべからずで決まってしまうということですね。それに日本人が耐えられるかという問題があって、確かに中坊先生がおっしゃるように、裁判官が素人の国民の人たちに法律の適用の仕方について懇切丁寧に教えて、それ相応の教育成果が上がったとしても、裁かれる方はなかなか納得がいかないんじゃないか。この前のヒアリングのときに三谷先生が陪審の政治的な意義というのを説明しておられましたけれども、まさしく陪審制度というのは極めて政治的な制度と絡み合っているんじゃないかというのが私の考え方であって、アメリカだけで発達している陪審というのは、まさしく、アメリカの政治・社会風土の中でこそ花を咲かすのであって、いきなり日本へ持ってきても、とてもデメリットの方がはるかに大きいんじゃないかという感じがありますので、今回言われているところの司法参加の形というのは、職業裁判官と国民がお互いにいいところを出し合う、足りないところは補うという協働作業による参審みたいなシステムがいいのではないかというのが私の考えであります。

【佐藤会長】水原委員、次へ行く前に何かお話しなさることが。

【水原委員】今、山本委員がおっしゃったとおりでございまして、それに付け加えるとするならば、やはり陪審というのは理由が付されない裁判だと言われております。国民が刑事裁判に求めておるものは何かと言いますと、犯罪の背景事情だとか、動機、犯罪への対応、結果、こういうことについて真相を明らかにしてほしい、それによって反面、治安秩序を保って欲しいという願いが国民に等しくあると思うんです。ところが、理由が付されないと、とてもじゃないけれども、国民の納得は得られないのではなかろうかというのが一つでございます。
 それから、そうなりますと、まず陪審には大変問題があるということを言わざるを得ません。そうすると、あとは何かというと、今の職業裁判官だけでやるのに問題があるとするならば、しかも、統治主体である国民に全く関与させないような司法制度でいいのかということになりますと、21世紀に向かっては、国民の司法参加ということを積極的に考えるべきであろう。そうすると、現行の制度が全く機能していないというならばともかくとして、原則として機能しておるのならば、そこの欠陥を補い、そして、国民の常識と正義感で裁判官の足りないところを補い合って、お互いに主体性を保ちながら長所を伸ばしていくというためには、陪審よりも参審の方がベターである。
 そのためには、実は先ほど中坊委員がおっしゃったけれども、ここの13人で議論は出尽くしていると言うけれども、私は決してそう思っておりません。言わなければいけないことはたくさんあると思うんです。それをこんなに大人数ではなくて、もう少し時間にも制約がございますから、だから、膝突き合わせて、と言えるのには、ある程度コンパクトな数でなければいけないだろう。こういうことです。

【井上委員】今の点というより、3番目の規模の問題なのですけれども、確かにいろんな層の声を反映させないといけないというところはあるのですが、お考えいただきたいのは、アメリカなどは非常に多種多様なところから人が集ってきており、文化とか宗教とかいろんなバックグランドが違う人が集っていますので、それをできるだけ反映させないと正当性というか、信頼性というのが保てないというところがあるわけです。それがアメリカの陪審制の持つ政治的な意味だと思うのですが、それと我が国の場合が同じなのかどうなのかということが一点です。
 もう一つは、もし、本当に厳密にそういうことを実現しようとすると、抽出母体も分類をして、そのそれぞれから抽出しないといけない。これはヨーロッパの国などで真剣にそういうことを考えているところもありまして、無作為抽出はするのですけれども、結果として、必ずしもバランスがよくない。そこで、そういう人工的な操作をやらざるを得ないのではないかという議論があるわけですが、しかし、そんなことを本当にやっていいのかどうかという問題も他面であるのです。
 私自身は、裁判官と裁判員が協働するというのは、一方が他方に、一方的で圧倒的な影響を与えるということではなくて、双方向の影響があると思うのです。さっきちょっと言及しましたドイツの文献などを見ましても、国民がそこにいて、その人にわかりやすく法律を説明する。議論も専門家の間だけでの議論ではなくて、一般の人にもわかるような形で議論をするということ自体が裁判官にとって非常にいい影響を与えているのだということを裁判官自身が書いておりまして、それはそうだろうと思うのです。
 協働という理念を制度に体現するとしますと、全体の規模がどうかは別として、その両者のバランスが余り大きく崩れるような構成にするのは、制度としては余り適切じゃないのではないかという感じを私は持っています。
 どっちが多いとか少ないかという議論を今この段階でするつもりはありませんが、全体としてどっちかが著しく大きいとか小さいとかという形は好ましくないのではないか、協働ということを本当に考えるとすればですね。それだけ申し上げておきます。

【佐藤会長】さっき言いましたように、今日は全体について御議論いただきたいと思います。吉岡委員がさっきから手を挙げておられますが。

【吉岡委員】私の話し方が要領を得ないんだと思いますけれども、一つは、職業裁判官は経験も豊かだし、相場感もある。それは確かにそうだと思うんです。ですけれども、相場感があるがゆえに、非常に当事者にショッキングな影響を与えてしまったという事例もあります。具体的に言えば、原告が自殺してしまったというのがあります。それが替わってきたばかりの裁判官が、まだ書証等は読んではいないけれども、相場から言えばこうだねと言ったことが決定的な影響を与えてしまって、ショックを受けて亡くなってしまったという事例もあるので、相場感を持っていること自体が本当に国民にとっていいのかどうか。そういうことを考えなきゃいけないなということが一つ。
 もう一つは、アメリカで裁判官に聞いてみたのですが、裁判官は勿論専門家です。にもかかわらず、アメリカの場合は陪審制ですが、素人の陪審員が判断をするということはどうなんだという質問に対して、その裁判官は、一人の専門家の判断よりは複数の素人の判断の方が正しいこともある、むしろ私はそちらを取ると言っていました。これはアメリカの制度がそうなっているからそう言ったのかもしれませんけれども、私はそれも真実だと思いました。
 それから、どういうところから選ばれるかというのは、無作為抽出ということになれば、統計法にのっとって無作為抽出しますから、それはおのずから色々な層が入るということになるので、無作為抽出であれば、意図的にどういう層という選び方をしなくて済むんではないかと思います。
 それから、3の(1)の一番上の○の「任期制にするか、事件ごとに選任するか」というところですけれども、これは当然、事件ごとに選任するということでないといけない。生半可に経験豊かな裁判官から色々言われて、2年とか3年とかの任期で生半可な経験者のような、そういう判断はない方がいいと思います。

【佐藤会長】藤田委員は、今日初めての御発言ですね。

【藤田委員】全体の前提として、この審議会でどこまで詰めたらいいのかという問題があろうかと思います。先週、日本法律家協会と商事法務研究会共催のシンポジウムに出て、色々な話を伺いまして、大変啓発されるところが多かったんですけれども、陪審というとアメリカ、イギリス、参審と言うとドイツ、フランスをすぐ想起していたんですが、北欧のスウェーデン、デンマーク、ノルウェーには、先ほど井上先生もちょっとお触れになりましたけれども、非常にユニークな制度がある。スウェーデンは陪審と参審のミックスでありますが、そういう独自の制度が行われているということです。また北欧では、刑事訴訟法が当事者主義の原理によっているということです。フランスの参審は私も見ましたけれども、フランスもドイツも職権主義でありまして、パリ重罪院の参審裁判を見ますと、裁判長の独壇場という印象で、予審記録は裁判長だけが全部読んでいるということでありました。
 そういう手続構造のものを日本に入れてうまくいくのかどうか。シンポジウムでも指摘されていましたけれども、仮に国民の司法参加の制度を入れるとしても、職業裁判官のみによる手続が90何%かは残るんだというふうな言い方をされていました。そうだとすると、司法参加の制度を導入すれば、刑事手続法、特に証拠法の修正の必要性が出てくるかと思うんですけれども、職業裁判官だけの刑事裁判手続とのバランス、整合性という問題もあります。
 それから、この審議会では深入りしないということでありますが、当然ながら憲法問題もあるわけでありますから、そういう意味でどこら辺まで詰めて言うべきかということが問題であろう。むしろもう少し継続的に調査・検討した上で決めるべき事項もあろうかと思います。
 そういう前提で現段階で私の考えていることを申し上げますと、国民の役割としては、事実認定だけでなく、法令の適用、量刑についても国民の意見を反映するということが必要ではなかろうか。猥褻とか出版の自由とか、色々例が引かれておりますし、最近業務上過失致死についての量刑が問題になって取り上げられておりますが、そういう問題についても国民の良識を反映するということが望ましいのではないかと思います。
 それから、裁判官と裁判員との役割分担につきましては、水原委員、山本委員もおっしゃいましたけれども、プロフェッショナルとしての裁判官と一般の市民とが協働してやるということが、国民の司法参加について非常に意味があることではなかろうかと考えます。
 それから、評決権の問題でありますが、評決権を裁判員に認めるのがいいと思いますけれども、先ほどの憲法との整合性との関係は十分に検討して、その上で良いということになれば認める。問題があるとするならば、憲法に規定を設ける。仮によしとされても、司法制度の骨格を成す制度でありますから、憲法で国民の司法参加に関する規定を設けるのがベターであろうとは思いますが、勿論、そういう規定を設けなければ司法参加ができないという前提で申し上げているわけではありません。
 それから、一番大きいのは、やはり判決に理由を付する必要がある。それと、事実認定についても、不服申立て、上訴を認める必要があると考えます。
 先ほどお話したシンポジウムで、弁護士の佐藤博史先生が、再審の運動に深く参画していらっしゃるそうでありますが、判決理由がなければ、再審といってもやりようがない。陪審について、判決に理由が付せられないということが致命的欠陥であるということをおっしゃいました。
 これに対してそこにいらっしゃる弁護士の四宮先生は、多くの障壁は乗り越えられる、色々工夫をして各国の現在の制度とは違うような工夫もすれば乗り越えられるということをおっしゃっておりまして、耳を傾けるべき議論だとは思いますけれども、現状において理由を付けるということが、誤判、冤罪の点と、やはり説明責任と言いますか、真実の探求と言いますか、そういう点で国民に判決の理由を明らかにするということは是非必要でありますし、また、事実認定についても上訴を認めるべきだ。最近のフランスの立法でヨーロッパ人権条約との関係で、隣のリージョンの重罪院に再審査を求めることができるというような制度ができるようでありますけれども、そういう点からいっても、やはり冤罪に対する救済という点からいっても、上訴を認めるべきではなかろうかというふうに思います。
 裁判体の構成につきましては、実質的な合議を尽くすという意味から言いますと、やはりある程度の数の制限というものがあるわけでありますし、現場検証とか臨床尋問というのは実務上はどうしても必要になります。「12人の怒れる男」で、陪審員が検証していればああいうような紛糾はなかったはずであります、と私のゼミの学生が申しておりますけれども、そういう点から言うと、それ相応の規模というものはあるのではなかろうか。
 3番目に選び方の問題でございますけれども、職業裁判官との協働作業ということになれば、アトランダムに国民の代表を選任する意義ということも勿論わかりますけれども、ある程度のレベルというものも必要ではなかろうか。研修所でやっております教育の中心は今まで申し上げましたとおり、要件事実教育と事実認定教育であります。例えば証拠調べが済んだ証拠が、その後になって、任意性がないとか違法収集だという理由で、証拠能力がないということになった場合に、証拠排除決定というのをいたしますが、その証拠を除外して、事実認定をしなければいけない。一度触れてしまった証拠を排除するというのは、難しいと言えばかなり難しい。やはりかなり高度なレベルの判断が必要とされますし、職業裁判官の職業教育を受けていた立場からの意見、アドバイスということも必要な場合も出てくるのではないか。裁判員の選任に民意を反映するために委員会等に市民を参加させるという形で考えれば、民主性という点については、心配ないのではなかろうか。
 雑駁でありますが、以上であります。

【佐藤会長】今、上訴の問題についてまで伺いました。今日は議論をすればエンドレスになる可能性もありましょうけれども、できるだけ5時には終わりたいと思っております。そこで、ほかの残った論点についても、ひとあたり御議論いただいた方がいいと思います。4以降ですけれども、御発言なさるときに、前の1、2、3に関連してお話しになっても結構でございます。井上委員、4、5、この辺を固めてやっていいですか。

【井上委員】全部一緒で結構ですが、例えば4などは是非御議論していただかないと、前に進まないと思うのです。5の判決理由の問題と上訴の問題、これは一つのかたまりですが、既にそちらは御意見が出ていると思うのですが、特に対象のところは全く議論が出ていませんので。

【佐藤会長】そういうことでございますので、水原委員どうぞ。

【水原委員】対象事件をどうするかということですけれども、単純に考えますと、一般の関心の高い重大事件を対象とする方法、これはベターだと思います。しかしながら、先ほど藤田委員もちょっと発言されましたけれども、量刑が問題視されている事件の中には交通事故、これは被害者の側から言うならば、こんな軽い刑でいいのかという問題。これはいろんなところに問題があろうと思います。求刑に問題があったり、いろんなことがあるんじゃなかろうかと思います。
 それから、いきなりこういう制度を構築して、重い事件からどんとやりますと、国民の負担がどうなるんだろうか。非常に重い負担を参加する裁判員に与えるんじゃないかという問題もございます。
 そういうことを危惧しておりますと、結論が出ませんので、やはり国民の負担、多くの事件をやりますと、数の多い事件からやりますと、国民に与える負担が大きくなりますし、それから裁判体そのものの訴訟を指揮する裁判所、これも説示もしなければいけないし、色々と説明義務もございますので、そういうことを考えてみますと、おのずと限らざるを得ないんじゃなかろうかという感じを持っております。
 したがって、重大事件、その範囲をどうするかということは問題でございますけれども、これは後で検討するとして、重大事件に限定せざるを得ないのかというのが率直な意見です。
 しかし、重大事件全部が裁判員の関与する事件になるのか。私は自白事件も否認事件も合わせてそうなったならば、全部対象にすべきだと思っております。
 それはいい事件だ、望ましい制度だということでそういう制度が導入されることですから、それは否認事件であろうが、自白事件であろうが同じでなければいけない。しかしながら、考え方の一つとしましては、自白事件までやる必要があるのかという考え方もございます。そうなりますと、職業裁判官による裁判でございますので、考え方を変えなければいけないんだろうなという気がします。それはどういうふうに変えるかと言いますと、原理的には被告人に選択権は認めないけれども、心情的と言いましょうか、認めてもいいんじゃないか。自白事件については外していいんじゃないかという議論もあろうと思います。しかし、それにはあくまで前提がございまして、職業裁判官のみによる裁判も、国民参加の裁判と並ぶ望ましい裁判なんだという認識が前提でなければおかしいことになるなという気がいたします。
 ただ、受ける側、被告人の納得という点から考えてみますと、隣人による裁判を好まないという気持ちもありましょうから、まず前提は、国民参加の裁判と並んで、職業裁判官による裁判も望ましい裁判なんだという合意の下で、被告人に選択権を認めて、隣人による裁判は望まないという場合には除外してもいいんじゃないかという選択の余地も考慮に値するのではないか。
 この辺りは色々なケースを考えてみなければいかんので、先ほども藤田委員が御発言になりましたけれども、ここで決めてしまうものではなくて、あらゆる角度で時間を掛けて検討してもらうことも必要ではないかという気がいたします。
 先ほどの対象事件の問題ですが、重大事件だからと言って、自白事件は除くか除かないかは別としまして、重大事件は原則として裁判員の関与の裁判だとなりますと、事案によっては裁判員に対して危害の及ぶ事件も考えなければいけないという気がいたします。全国から選ばれるものじゃございませんので、地方裁判所ならば地方裁判所の管轄内の住民から、裁判員は選ばれることになると思うんです。
 そうなりますと、裁判員の職責を果たして帰ったならば一市民でございます。そこで事件の内容によったならば、この方に危害が加わるような案件、具体的にはちょっと考えにくいんですが、例えばテロ事犯だとか、暴力団関連事件だとか、そういうものについて外すか外さないかというところも検討に値するんじゃないかという気がいたします。

【井上委員】御議論の材料として、「重大な」ということの意味は色々あろうかと思うのですけれども、例えば、特別法犯を除いて刑法に規定のある犯罪で法定刑の上限が死刑または無期と、仮にその範囲に限るとすれば、終局までいった事件の被告人が年に2,000人くらいです。
 法定合議事件、これは短期1年以上の刑に当たるものですが、そこまで広げますと、約3,200人です。そのくらいのところが一般には重大というふうに考えられているもので、他方、業務上過失というものになると、相当の数になることは御承知のとおりです。
 諸外国の立法例を見ても、歴史的な経緯もあって、重い方からというのが多いのですけれども、例えばスペインが1995年に陪審制を復活したときには、それに適した事件を対象にしようということで、先ほど水原委員がおっしゃったような選別作業を色々やりまして、罪種を選んだのです。そして、いくつかの種類を法定しているんですけれども、実態は、少なくとも当初の数年の実績を見ると、ほとんど殺人事件に限られている。いろんなテクニックで陪審から外していくということが可能なものですから、そういう結果になっているようです。
 もう一つ、ちょっとさかのぼって選任の方式なのですけれども、選任委員会の方式を取っているところは、特にヨーロッパ大陸などでは多いのですが、実効が本当に上がっているのかが問題でして、そういう委員会方式を取ったとしても、公正さを保つためには、何らかの客観的な基準というものをつくらないといけないわけですけれども、これがなかなか難しい。あるグループを一律に排除してしまうということになりますと、憲法上も問題だろうと思いますし、意味のある基準をつくるのが非常に難しい。
 その上、実質的な選別をするためには個人についての十分な情報が必要になりますが、これは警察とか使って調査をするわけにもいきませんので、限られた情報、しかも人それぞれに偏った情報で選別をせざるを得ないということになる。アイデアとしてはわかるのですが、実際的にかなり難しいのではないかという感じを持っています。
 否認、自白の別との関係については、既に御議論があったとおりですし、被告人による選択の問題も、この裁判方式の方が国民の声が反映されて望ましいということで入れるとすれば、筋としては、選択というのはおかしいんじゃないかと思うのです。そういう考え方を最も典型的に表しているのは、たまたま正月休みに風邪を引いて他にすることがないので文献を読んだのですけれども、スペインの制度でありまして、国民の司法参加が憲法で保障されている。それで、これは国民の権利であり、被告人の権利じゃないのだから、選択とか放棄というのはおかしいという考え方が非常に強く貫かれているのです。権利とまで言えるかどうかはちょっと別としても、筋としてはそうだろうと思います。
 ただ、政治の場面で、こういうものを入れるかどうか判断するときに、そういう余地もあってもいいかもしれない。被告人の納得ということもあって、選択ということがあってもいいと判断する余地はあるだろうと思います。しかし、純粋に学究として言えば、論理的に説明がつくのかという疑問が残るのです。

【髙木委員】先ほど水原さんに失礼な議論を吹っ掛けて失礼しましたが、国民の司法参加ということをいかに実効あらしめるかということで、アメリカの陪審をすぐそのまま持ってきてとか、その辺は日本流に、それこそこの中間報告に書いてあるように、いろんなところの知恵を参考にして、ということだろうと思うんです。できるだけ参加の実質化と言うか、実効性のレベルを大きくしたいということでお尋ねしたわけです。
 参加の対象ですが、いま、井上先生は重大事件の例を挙げられましたが、できるだけ広い方がいいかなと。そういう意味では自白事件も入れていいんじゃないかと思います。
 それから、被告人による選択の可否は、全く例外がないのかどうかはともかくとして、原則は、選択はノーということではないかと思います。

【井上委員】ついでに数だけ申しますと、さっきの重大事件の中の死刑、無期が法定刑の上限とされている場合で、完全な否認事件の被告人数が年650人くらいで、法定合議事件ですと、900人くらいです。否認か自白かの線引きがちょっと難しいのですけれども、統計上そうなっています。

【髙木委員】あと判決理由は何かの格好で書かなければいけないんじゃないかと思います。その書き方の詳しさ等については、具体的に検討していただければいいと思いますが、要はある種のアカウンタビリティーを持つことは当然であろうということではないでしょうか。
 上訴については事実誤認または量刑不当だと本人が感じる場合は、上訴の道がないというのはおかしいと思います。そういう意味で言いますと、陪審で色々言われているルールと違うようなことも申し上げましたが、その辺がまさにいろんな工夫の必要なところではないかと思います。

【山本委員】髙木さんの意見と大体似ているんですけれども、これは実際に運営するということになると厄介だと思うんです。その厄介なところはあるんだけれども、せっかく参加の制度をつくるのであれば、かなりの数の参加の実際の運営がなければいけないと思うんです。してみると、この重大事件に限るとか、否認に限ったり選択を認めたりというのは、オミットしていくものをたくさんつくりますから、せっかくつくったけれども、機能しないというケースも出てくる可能性があるんです。ここのところは議論の余地があると思いますが、いきなり重罪で行くのかどうかということも、例えば名誉毀損とか、ああいった身近なものというのは格好の対象じゃないかというところもありますので、そこらのところも考えに入れて、余り絞らないで、できるだけ広くしたらよいのではないですか。確かに裁判官は最初大変だと思うんです。一般国民にきちんと説明したり、国民の感覚を的確に受け止めたりするのは大変だと思うけれども、ある意味では現状をよりよくするためのコストだということで、等しく裁判所が応援するということにしてはどうでしょうか。ですから、選択の可否というのは少なくともない方がいい。

【井上委員】ちなみに数だけ申しますと、名誉毀損の被告人は年17人ほどです。

【山本委員】年間ですか。そうですか。

【井上委員】平成10年の数です。刑事事件としての名誉毀損ですが。

【北村委員】自分自身の見解というのは、昨年申し上げましたので、それについては繰り返しては申しませんけれども、もし、国民が訴訟手続に参加するということで考えていくといたしますと、私にとっては裁判官を事実認定から外す理由というのがないんです。私は、裁判官による裁判には一応信頼性を置いているという立場ですので。でも、唯一裁判官に対して言いたいのは、量刑の決定で軽過ぎるというのが時々感じるところで、これは私だけではなくて、わりと多くの人がそういうふうに感じている部分があるんじゃないかと思うんです。それは何故かというのを自分なりに考えてみたら、例えば判例があったり、色々と相場があったりする。刑法だとかに書いてあるものと違っている部分というのが、正確に言うと違ってないんですね、範囲内には入っているんですけれども、何故ぎりぎりまでいかないのかなというのが、何か理由があるんでしょうけれども、不思議だなと思っているんです。
 そういう意見というのは、わりとこのごろ新聞、テレビ等を見てまいりましても、出てきますから、そうなるとこれも一つ非常にいいなと思う点は、量刑に裁判員が関与して意見を言うということ、これは一つのメリットとして言えるんじゃないか。
 もう一つのメリットは、今でも何かだらだら裁判しているのが中にはまだありますね。そういうようなものについて、これが入ってくるとぴりっと締まる。要するに、いつまでも裁判員をだらだらに付き合わせるわけにいきませんから、これは法曹三者が協力することになるだろうというようなところで見てくると、では、だらだら裁判とは一体何なのかということになるわけですが、そこで先ほど井上委員が経済事件等は向かないとおっしゃいましたが、私も経済事件等は向かないと思っているんです。これは専門家が見たって非常に難しい問題なのであって、大型詐欺事件などは、みんなだまされるような仕組みになっているようなところがありまして、向かないだろうと思うんです。
 そうすると、今、国民と言うか個人個人が一番関心を持っているのは、やはり重大事件じゃないか。そこに適用していくというのがいいのではないかなと思っているんです。
 ただ、いつもここでの議論で私が非常に不思議に思っているのは、改革ということで進めていますが、ここは費用の問題を全部抜きにしてやっているんですね。いずれ最後で費用の問題というのが出てくるのかと思うんですが、それを無視してやっていいのかどうなのかという点もちょっと引っ掛かるところがあります。国民の負担はすごく大きくなるだろうなと思います。そうすると、裁判員として出る義務としての国民の負担もあれば、費用面での国民の負担というものも考えていかなければならない。そう言うとまた、改革を阻止するつもりかとか何とかというふうな意見が出ると怖いなと思っているんです。
 先ほど中坊委員がこの13人でも自由に意見を言っているじゃないかとおっしゃいましたが、私はその見方は間違っていると思っています。こんなにいると、私などはすごく遠慮してしまうんです。というのは、こんな怖い場はないわけなんです。ここで意見を言うというのは。まして、専門家はまだいいと思うんですが、全然知らない人間にとっては。だから私はいつも吉岡委員や髙木委員というのは偉いなと思って見ているんです。
 そういう点もありますので、何か意見を言うとばっと返ってくるというのがあって、こわごわ言っているんですけれども、そういう人間も多数いる。私はこういう人間も多いだろうということを申し上げたいわけなんです。
 重大事件で、否認に限るか、自白も含めるか、私は全部含めた方がいいだろうと思います。それで、被告人による選択の可否は認めない方がいい。これは被告人のためのものではないと思います。裁判全体のものとして考えていかなければならない。
 そこで何を望むかというのは、私は今ここでは申し上げられませんので、それは別途どこかで詰めていく部分というのが必要なんでしょうから、そこのところで詰めていただければいい。
 それから、判決理由も、自分がもし裁判を受ける場合、理由が書いてなくて、懲役刑とか言われましても、納得できないという部分がありますし、上訴もあった方がいいかなと考えているんです。
 「5.公判手続・判決の在り方等」、こういうようなものは素人は申し上げられません。
 それから、憲法問題も、これも素人は申し上げられませんので、それは専門家の方に譲りたいと思っております。
 以上です。

【中坊委員】私はこの問題、先ほどから繰り返し申し上げておりますように、一つの政治の問題であるし、基本的にこの問題は国民的基盤の確立という、我々の司法改革の一つの柱の延長線にある、極めて基本的な問題であるということが、この議論のすべての原点にまずなければいけない。そこから当然に出てくるのは、選ばれる裁判員というのは、無作為抽出の中で平等に出てくるべきものであろうというふうに思います。
 更にその事実の認定について、裁判員が責任を持つということが、まさに客体意識から主体意識に変わってくるという意味で重要なんですから、裁判官が事実認定の評決に入る入らないということは横に置いたとしても、少なくとも国民の側の方が、裁判員の方がかなりの多数でなければいけない。これは当然のことではないかという気がいたします。
 北村さんがおっしゃったから言うわけでもありませんけれども、私のような国民が多いんですよ。13人でも言わない者が多いんですよ。これが問題なんですよ。まさに統治客体意識というのがその中であって、まさに全国民が、13人でも物を言わないのが普通だと。これが日本国の、それこそ我が国のかたちとして、集団主義の中に埋没して、一つの大きなもの、それを我が国がこれからどうしていくかということにこそ問題があるんであって、そこを我々は基本的に考えなければいけない。
 そういう意味で言えば、また、裁判員に関してはそういうことですし、また、事実認定に職業裁判官が入る入らないは別にして、少なくともこちらの方が、裁判員の方が絶対的多数で決められるという形のものにならなければいけないと思います。
 そういうことから言えば、延長線で言えば、事件も数がある程度、教育という言葉はおかしいかもしれないけれども、少なくともそこにこそ司法参加を入れる大きな根底があって、歴史的な意味があるわけですから、そういう意味で言えば、これが本当に形だけの、飾りだけのものになるとまずい。先ほどから大勢の委員がおっしゃったように、これは被告人のためというよりも、我が国全体のためにどうしていくかという問題ですから、そういう意味では、先ほどから皆さんも大体一致しているように、自分が選択するというのはむちゃなことではないかという気がいたします。それが大きな一つの柱として、私は理論的に出てくると思います。
 二つ目には、裁判官と裁判員との協働の在り方について、法令適用についてどう考えるのか。これは裁判員も関与できるのかという問題は、私は基本的に少し問題がありはしないか。我々の審議会の論理としてですね。
 というのは、我々はロースクールに始まって、まさにこれは専門家という、それでまた確かにそうなんですよ。事件ごとに無作為抽出で選ばれてきた多数の人、いろんな各層から出てくる人に、もし本当に一回で、その方々に憲法から始まって、先ほど言うように未必の故意とか、このためにはこうだというようなことをいかに説明したとして、その法令の適用に関して、裁判員が法令の適用に関して決めるというのはおかしい。先ほどから言うように量刑というのは、一つの常識というものがあるから、これは先ほど言うように、国民が責任を持つという意味でも必要だと思います。
 しかし、法令の適用というのは、我々が今まで審議してきた法律の専門性という問題をもう一度考えていく必要があって、その点はやはり問題ではないか。
 三つ目には、これほど最高裁があのように一時期、我々の審議に対しても意見書で、憲法問題に異議がありと言われておるのに対して、我々として、それではどう考えるのかということは、何らかの結論も出さずして、国民の司法参加が、今、我々として認めるんですとか、ちょっと簡単には、北村さんがおっしゃるように、どうか知らんけれども、我々として、一つその問題にはピリオドを打って、この問題を終わらないと、その問題が終始つきまとってきておかしくなるんじゃないか。その三点を私は申し上げます。

【佐藤会長】憲法問題につきましては、前にもちょっと申し上げたことがありますけれども、この制度としてどういうものを考えるかということが大体見えてきたところで、審議会として憲法解釈を確定するというわけにいきませんけれども、この制度は憲法をこういうように理解すれば、憲法上可能ではないかという考え方を何らかの形で示すということは頭の中にあります。その形については、考えさせていただきます。

【北村委員】憲法問題なんですが、私は自分自身が参加できないと言っているだけで、この審議会でおやりになるんだったら、専門家の方が議論して、専門家の方の意見であるという形でおやりになってくださればと思います。

【佐藤会長】憲法というものは国民皆さんのものでありまして。

【北村委員】それでというのもおかしいんじゃないですか。

【佐藤会長】わかりました。

【水原委員】憲法問題はともかくとしまして、二点について言い足りなかった点がございますので申し上げます。
 それは裁判員の人数の問題が一つ。もう一つは、選任方法に関するものです。
 人数の点ですけれども、これは余り多くなりますと、これは裁判員の方ですが、国民の負担が大きくなるということが一つ。先ほども申しましたけれども、構成員が意見を述べるだけでも時間が相当掛かってしまいます。一人ひとりの意見を色々突き詰めて聞くとするならば、審議に相当な時間が掛かり過ぎる。本当に忌憚のない意見、それをお互いに議論し合うには、ある程度のコンパクトなものが必要であろう。
 人数の点ですけれども、私は職業裁判官と国民がそれぞれの持ち味を生かしながら、主体性を保ちながら、色々意見を言っていくときには、一方が他方を数の上で上回ってしまう。圧倒的優位に立つというような構成ではだめだと思います。これはお互いが信頼関係の下に立って裁判していくという裁判体を構成するのが望ましいという前提に立つとするならば、どちらか一方、例えば職業裁判官が圧倒的に多数、あるいは裁判員が圧倒的優位に立つという人員構成では、本来のよりよい裁判をするという理念から外れていくんじゃないかと思います。
 だから、そういう意味で人数はコンパクトにしておき、かつ人数についても、いずれか一方で決められるものではなく、多数決でやるときに、一方で決められてしまうということでないような人員構成が望ましいんじゃないか。
 では、水原はどういうふうに考えるのかとなりますと、この制度設計というのは大変に難しゅうございますので、これはどこかで専門的に御検討いただかなければいけないんですが、例えば職業裁判官を3人、今まで出ているドイツ型で言いましょうか、裁判員を2人、このときに多数決では裁判官だけで決することができますが、それではだめよという方法。すなわち3分の2以上の同意がなければいけないとなりますと、裁判官3だけで決められるかと言いますと、5分の3は15分の9でございまして、3分の2というのは15分の10でございますから、裁判官だけでは決められない。これは石井委員の方が詳しいんですけれども、そういうふうな配慮が必要かなということ。
 それから、先ほど裁判員の選任、これも中坊委員のおっしゃることは誠にごもっともだと思います。やはり良質の裁判を求めるというのは、被告人も国民も等しく望むところだと思いますけれども、では、どういう方法があるのかと言うと、選び方に大変難しいものがあります。やはり無作為抽出ということが基本になるのかという気がいたしますが、裁判を受ける側から言うならば、個別の事案を担当する裁判員の能力や公平性に疑問を持つ場合には、このままでいいんだろうかということになりますので、当事者双方に、この人ならば信用が置けるというような、選ぶ方法、ここで言うならば忌避です。専断的忌避と言いましょうか、理由のない忌避。これは除斥、それから回避の問題はありますけれども、それ以外に何かこれは信用できないなという感覚的なものがある場合がありますから、それも除くという制度をきちっと確立しておく必要があるのではないかという気がいたします。
 しかしながら、こういう問題は、今言うように、無作為抽出か、それともそれ以外の方法はないのかとなりますと、先ほど井上先生はほかにも色々考えたけれども、ほかに方法がないとおっしゃるが、本当にほかの方法はないだろうか。ここだけで決めてしまうことが可能かなというのは大変危険だなという気がいたしますので、そういうことをも含めて、よりよい裁判員を選出するにはどうしたらいいのかというのも、別途考えてみる必要があるのかという気がいたします。

【井上委員】私、ほかの方法も考えたが、と申し上げたのではなくて、外国の立法例を見るとこういうのがある。それがうまく行っているのかどうかという話です。
 もう一点、北村先生の御発言、聞いておられる方が誤解があるといけないと思うのですが、量刑に国民の常識を反映させると、刑が一般に高くなるというふうに受け取られるのはどうか。反対の方向を含め両方あり得ると思うのです。
 現にアメリカでは、死刑にするかどうかについては、陪審によるというところが多いんですけれども、それも確かにけしからんので重くするという方向に働いているように見えるんですけれども、逆に一般的、抽象的に見ますと、大変なことをしたんですけれども、現実に生の被告人が前に出てきて、色々事情を聞いてみると、そうは言えないんだなということで、逆に軽い方というか、抑える方に行くということもありますので、これはどっちとは言えない。ただ、社会の人が思っている基準がそこに持ち込まれるということは事実だろうということです。

【北村委員】私、自分が今、こういうふうに考えているという点だけを言ったのであって、イギリスなどに行きましても、そちらの方が刑が少なくなるというのはありました。一緒に井上委員と行ったわけですから。

【鳥居委員】私はこの問題はとても難しい問題だと思っていたのですが、井上先生がまとめてくださった下敷きに基づいて、随分議論が進んでありがたいと思っています。
 私が是非申し上げたいのは、この制度をつくる国民的な意義というのを、当審議会の委員の間では十分わかっていることですが、国民全体によく理解していただく努力が必要だと思うんです。
 統治客体から統治主体へ国民自身の意識を改革し、あるいは国民が公的空間を意識して生きていく社会をつくるということです。そのような社会にするための色々な改革を今日本が進めていて、その一つであるということを国民に理解していただきたいと思います。
 具体的なことについては、私はほとんど皆さんと意見は同じでして、判決理由を付してやっていただきたいと思いますし、それから、どういう事案についてこれを適用するかについては、ある程度広く考えていただきたいと思います。
 被告の側から見ますと、選択の余地を与えるか否かですが、私は、やるのであれば一律にしていただきたいと思います。
 今まで議論されていない二つの新しいことを申し上げたいと思うんですが、一つは、この制度をいきなりスタートしても、日本人がすっかり変わってしまっている現実があると思うんです。余りにも長いこと1945年体制で日本人が来ていて、物の考え方が口先だけ民主主義でも、本当は民主社会のルールがほとんど身に付いていない若い世代を再生産していますから、色々な不都合が起こると思うんです。それに対する歯止めがある程度組み込まれた制度として制度設計をしなければいけないのではないかと思うんです。
 具体的には、次の段階で議論させていただきます。もう一つは、新しい時代つまり今はインターネット社会ですね。例えば、裁判員に選ばれた方々の発言が、本人が意図してもしなくても、インターネットで飛ばされてしまうと収拾がつかない。このことは毎日のように我々の周りで起こっています。そういうときの歯止めをどうするのか。例えば、罰でこれを取り締まるのか、あるいは、物理的な仕組みで防ぐのかわかりませんが、やらなければなりません。
 最後に、この抽出方法なんですが、戦後55年の間に人々の社会的分布構造が形成され、一方では、インターネット的な社会が出来上がってしまったということを踏まえて考えますと、裁判員の選考方法は非常に難しい問題だと思うんです。
 統計学の話をして恐縮ですが、所得階層の分布は、収入の少ない人は非常に多くて、収入の多い人は非常に少ないという分布になっています。ところが、学力の分布、例えば数学の能力は昔は正規分布をしていた。このごろは余りできない者が多くて、数学のできる者は少ないという分布に変わってきているわけです。この裁判員制度で一番問題になるのは、例えば、善悪の判断とか、あるいは人を殺すということについての肯定、否定論が両極端あるときに、考え方の分布がかなり変わってきている。それを無作為抽出、ランダムサンプリングでやる場合にはどうしたらいいかという統計学的な問題があると思うんです。統計学では、全体を母集団と言いまして、全構成員をそのまま裁判員として使えば、一番公平に全体の意見を代表できるんですね。ところが、そうはいかないから、ごく一部を使うわけです。それがランダム抽出した標本です。
 その標本の分布を親の母集団に近づける方法は二つありまして、一つは標本サイズは小さくてもいいから、標本を何回も何回も採る。これは裁判員制度では無理なんです。ランダム抽出は一つの裁判に1回だから。
 もう一つの方法は、標本のサイズを大きくする方法です。ですから、私は標本の大きさ、つまり1回の裁判員のメンバーの数は余り小さくない方がいい。かといって、20人、30人というわけにはいかないから、適当な大きさにせざるを得ないだろうと思いますが。
 ランダムサンプリングの中には多段階層化抽出という方法があります。この多段階層化抽出法を上手に使うことによって、私は色々な不都合を避けられると思っています。
 例えば、忌避という問題もこの考え方でいくと、対応策は二通り考えられます。選ばれた裁判員のグループ、これは一つのグループ、これは一体なんです。選ばれた一体の候補者の中から何人までは忌避してもいいけれとも、それを割り込んで忌避が生じた場合には、候補者全体を選び直すのが第一の対処法、もう一つは一部だけ選び直す方法です。多段階層化抽出であれば、グループの抽出からしてやり直すことになり、全体の意見を反映する制度は維持しやすい。

【井上委員】その点は、世論調査とかあるいは政治に色々な層の意見を反映させるという問題とはちょっと違うと思うのですね。ですから、社会に色々な価値観はあれ、社会的に健全な常識の人が何人か加わって、個々の事件の証拠を見、あるいは両当事者の主張を聞いて、それで常識的な判断ができるということが必要で、かつそれでいいのだろうと思うのです。

【鳥居委員】それは世論調査と違うものだということですね。

【佐藤会長】髙木委員、どうぞ。

【髙木委員】いわゆる裁判員と裁判官の人数がそれぞれ何人という具体的な数字はともかく、今、水原さんから同数ぐらいという感覚の御意見がありましたけれども、私は、この中間報告をどんなに読んだってその考え方は出てこないと思います。そういう意味では、井上先生、あるいは吉岡さんの方で御用意いただいた資料で各国の例を見てみましても、全く例外的にないかと言えば、ドイツの例とか御紹介がありましたけれども、できるだけ国民の司法参加というものをきちんとしていこうという立場からも、やはり裁判員の人数の方が、バランスで言えば、かなり大きい形でのバランスという必要があるのではないか、15分の9対15分の10みたいな感覚では私はないと思います。

【井上委員】そこは、水原委員も、一方が圧倒的に優位に立つのはよくないと言われたので、同数とは必ずしも言われていないと思うんです。諸外国の例も、色々な事情で各国こういうふうになっているわけです。どの程度ないと我々の中間報告の趣旨を体せないのかということについては、もうワンステップあるという感じがします。
 協働ということを言っていますので、グループ間で対比するという考え方自体がちょっとおかしいと思うのですけれども、あえて言いますと、どちらかのグループだけで、少なくとも有罪の方向で物を決められるというのは、その協働という理念に反するのではないかという感じがするのです。

【髙木委員】私はそもそもどちらかのグループとかいう関係で見ること自体がおかしいと思う。

【井上委員】ただ、圧倒的になって、多数決ということになれば自動的にそうなんですね。

【髙木委員】中間報告の「広く一般の国民」というのはどういうことですかという点を再度思い起こしてほしいと思います。これは今、鳥居先生から色々工夫が要るというお話がありましたけれども、できるだけ広く社会を代表させよう、そして裁判官と裁判員とが協働する、強いて言えば参審型ということになるんですか。だけど、この形だったら、権限を分け合うということにしないで協働してやろうという形であり、これは「責任分担」と書いてある中間報告とニュアンスが違うのではないですか。

【井上委員】責任をシェアするというのですね。

【髙木委員】だから、これからは合議体の一元論でやったらどうかという議論を我々は今している。

【井上委員】そうですね。

【髙木委員】中間報告には「裁判内容の決定」と書いてある。要するに、素人が裁判員ということで、訴訟手続に関与をするということは、裁判内容の決定以上のことを今度は素人にやれという議論を、裁判官と一緒にやるという意味でしている。これは裁判内容とは何かということのとらえ方の問題だと思います。
 それから、「主体的、実質的に関与する」と書いてあります。主体的、実質的に裁判員を関与させるということの意味はどういうことなんでしょうか。釈迦に説法なのであれですけれども、そういうことをずっと見ていったときに、この中間報告が、議論の一応の前提だとするならば、今、井上さんが色々されたお話は、この中間報告の脈絡と矛盾していませんか。

【井上委員】全然矛盾していないですよ。私も実質的、主体的に関与するのをどういう形で担保するのかと、それは数の問題もあり、評決の方法とか、評議の方法と審理の方法と、その辺幾つか組み合せて、それを実質的に、効果的に恐らく担保しないといけないと思うんです。

【髙木委員】もっと言えば、これは水原さんに教えていただきたいけれども、やはり広く一般に選ばれた国民の判断は心配だということを言っておられるんですよ。「心配」なんていうやさしい言い方ではなく、「危い」と思っておられるのではないかと感じられます。そういう意味で、国民蔑視と言っては申し訳ありませんが、そんな風にも聞こえました。それに加えて鳥居先生が心配されるような世界も国民の中にはあると思います。

【鳥居委員】違うんです。こういうことが起こるんですよ。完全な無作為抽出したら、例えば20人選ぶとしますと、全員が60歳とか70歳の人が選ばれてしまうということが起こり得る。それでもこれも無作為抽出の結果なんですよ。無作為抽出の結果、たまたま裁判員全員が18歳になってしまうということもあるわけです。それでも、これは無作為抽出の結果なんだからいいとしか言いようがないんですね。層化抽出でやれば、例えばある管区の年齢分布は20代が何%、30代何%、40代何%いる。それを反映して、それぞれの年齢層から無作為抽出するとすれば我々は安心できるわけです。そういうことを言っているわけです。そうすれば、そこから先は、その中に色々な人がまじっていても、それは無作為抽出の原理です。

【佐藤会長】その辺は、制度の具体的な詰めをやるときに色々出てくる話だろうと思います。

【竹下会長代理】先ほど、会長は憲法問題はいずれ取り上げると言われて、私も結論的にはそれでよいと思うのですが、ただ、中坊委員からの御指摘もあり、この審議会で議論するときに、いずれ本格的に議論するにしても、今日は、こういう考え方で我々は議論をしているのですよということははっきりさせておいた方がよいのではないかという意味でちょっと申し上げたいのです。
 要するに、問題は日本国憲法では、一方で裁判所の構成員としては身分保障のある裁判官に関する規定だけを置いておって、他方、国民に裁判所の裁判を受ける権利を保障しているわけです。そのことから出てくることは、刑事訴訟について言えば、被告人は、身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪とされることはないということを保障しているのではないか。このことの重みは十分受け止める必要があると私は考えています。つまり、身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪にされることはないということですから、そこは誤解のないようにお願いしたいと思います。
 他方、憲法は下級審の裁判所について言えば、最高裁の場合のように、その構成を直接に決めているわけではありません。したがって、身分保障のある裁判官以外の者が裁判所構成員になるということをすべて排除しているということは言えないのではないかと思います。
 したがって、その制度が憲法の基本原則に反することなく、かつ、先ほど言ったように身分保障のある裁判官の裁判によらずに有罪とされることはないという保障の趣旨を損うものでなければ、合憲と考える余地があると思われるわけです。
 例えば、仮に裁判員に評決権を認めても裁判体の構成とか、評決の方法とか、上訴審の在り方等いかんによっては、裁判を受ける権利の保障と抵触しない制度を構築することも可能であろうと思われるわけです。
 これは会長も先ほど言われたことですが、この審議会にある制度の合憲、違憲を判定する権限があるわけではありませんから、結局、ここで提案する国民の司法参加制度が合憲かどうかは、第一次的には立法府の判断、最終的には最高裁判所の判断に委ねられることになるわけですけれども、そういった留保の下で、可及的に違憲と判断されることを避けることができて、かつ国民参加の趣旨から見て、我が国に最もふさわしい参加制度を提案するというスタンスで考えるということでよろしいのではないかと、私としては考えているわけです。
 別に今ここで憲法論をやろうというわけではないのですけれども、やはりそのぐらいのところは押さえておいた方がよいのではないか。私が申しましたことを、今の御議論と関連させて言えば、裁判員と裁判官との比率の問題とか、例えば、評決方法の問題などで、職業裁判官の方が無罪だと言っているのに、裁判員の方だけで有罪というようなことを認めるというと、どうも憲法の保障に反してくる恐れがあるということになるのですね。

【佐藤会長】そこは色々議論があろうかと思いますので、今の段階で解釈論から入っていくのはいかがかと思っております。

【水原委員】今まで公判手続のことは議論がなかったので、ちょっとだけ意見を述べさせていただきます。
 先ほど井上委員から、井上委員のあらかたのお考えをお示しいただいたので、私もほぼ同感でございます。国民の司法参加を実効あらしめるためには、裁判の迅速化のための諸制度の担保がやはり必要だと思うんです。一般国民を長期にわたって拘束といいましょうか、裁判に関わらせるということはできませんし、それから、裁判員が直接証拠調べとなりますと、裁判員は法廷で聞いたことですぐ判断しなければいけません。何日も経った後で判断することになりますと、記憶がなくなったりします。それで、記憶が鮮明なときに結論を出さなければいけない、それらの諸条件から考えて、原則は即日結審という方向が望ましいのかなと思います。しかし、数日掛かるときでも連続して集中審理をする必要がある。
 それから、迅速化のためには、先ほどおっしゃったけれども、第1回公判期日前の準備手続をきちっとやるように充実する法整備も必要であろう。それから、連日開廷だとか、開廷間隔を法制化するという「国民の期待に応える刑事司法」のところでも色々意見が出たところでございますが、まだ決まっておりませんけれども、裁判員の参与による実質裁判の充実ということになりますと、そういうことも検討しなければいけないのではなかろうかという気がいたします。
 そうなりますと、それに耐え得る弁護制度の問題ですけれども、今、色々議論がありますように、弁護士の業務対応の整備もございます。それから、今、現実に行われている証人尋問を見ますと、まず主尋問を行います。それに対する反対尋問は調書ができるまではできませんということで、次回は主尋問の証言調書ができるまで、というふうに延びる場合がございます。そういうことが許されないように、主尋問を行い、そして反対尋問はその場ですぐ行う、というようなことも非常に重要ではなかろうかという気がいたします。それらの諸法制の整備があろうと思います。
 それから、調書の問題ですけれども、直接審理をするにしましても、何年も前に起きた事件で犯人が検挙されました。そのときに、何年も前には被害者や目撃者の調書は捜査官が作成しておりますけれども、その目撃者、被害者を直接法廷に呼んでも、その当時の記憶がない場合がしばしばございます。証人尋問だけでいいのかとなりますと、やはりかつて記憶鮮明なときにつくられた調書、これの活用というものも考えなければいけないでしょう。
 そうなりましたときに、直接主義の要請を充足するために、できるだけ詳細な調書の朗読もやらなければいけませんというような問題も相当考えておかなければいけないという気がいたします。やはり、裁判長の訴訟指揮権がきちっとされるということと、第1回公判期日前の準備手続についての構成がきちっと行われるべきでありましょうし、判決書についてはだれが責任を持って書くのかということも議論をきちっとしておかなければいけないのではなかろうか、それが公判手続に関する私の考えでございます。

【竹下会長代理】ちょっと新しい問題なのですが、皆さんどう考えられるかということなのですが、さっき北村委員から、こういう制度をつくった場合のコストということを考えなくていいのかという御指摘がございましたね。旧陪審法のときには、前に四宮弁護士から御紹介がありましたように、色々な計算をして、大体どのぐらいのコストが掛かるかということを出して議論しているわけです。この問題は、ここの審議会で最終報告までの間に何らかの形でどこかへ委託をするなり何なりして一応出してみるのか、それとも、それはもう制度化の段階に委ねて、ここではその問題に立ち入らなくてもよいという考え方でいくのか、その点はどうなのでしょう。

【佐藤会長】それはどうでしょうか。皆さんの意見によりますけれども。それを言い出したら、いわゆるロースクールについては、財政的にどうだとかいうことになり、それはちょっと私どもの手に負えない問題だろうという気もするのですが。

【中坊委員】そうですね。私もそう思いますね。

【佐藤会長】良い制度をつくろうということを我々は考えているわけで、良い制度、必要な制度なので、私どもの答申に対して国としてしかるべく対応していただきたいと。財政的なことも含めて。そういうことではないでしょうか。

【竹下会長代理】いや、皆さんが財政問題は考えずに、この審議会はそういうスタンスで改革の提言をするというのであれば、それで結構です。

【井上委員】基本的には私もそう思うのですけれども、そうであるならば、対象とする事件のところなども、法律に書くような形でここで合意するというのは無理だと思うのです。考え方の基本だけを決めておいて、具体的に対象をどこまで広げるのか、それも一気にそうするのか段階的にそうするのかという点では、立法上柔軟な対応の余地を残しておくということをしないと引っ込みがつかなくなるのではないかという感じがします。

【石井委員】先ほど鳥居先生から、統計学を取り入れたらという大変良いお話がありました。統計学をうまく利用する見地からすると、参審がどうしたとか、ゼネラルエレクトリック社のジャック・ウェルチ会長がシックスシグマについて発言し、それがいかに有効かなど、そういう話になってしまいますので、その話はやめておきますが、私が本当にその通りだなと思うのは、歯止めの点です。今、現在の社会では、価値観というのが今までと極端に変わってきて、これからまたどういうふうに変わっていくかということがわからないような状態の下で、これからの新しいシステムをつくっていくというところに非常に大きな悩みがあるわけです。私自身も陪審制について興味を持って、私が有識者と考えている方々に色々な御意見を伺う機会がありますが、そういう方々の御意見を伺うと、かなり否定的な御意見が多いということが分かりました。
 それはどうして多いのかなと考えてみますと、導入反対について色々な理由をおっしゃる方がいらっしゃるのですが、結局分析してみると、これは私だけが考えていることなので、皆様どう思われるかは別として、いわゆる私が有識者と考える皆さんが共通して心配しておられることは、日本人の宗教心の不足にあるというところに何となく行き着くような気がするのです。
 戦前の日本人は少なくとも、いい悪いは別として、また共通の宗教心かどうかは別として、ある種の宗教心は持っていたと思っております。それが今の日本では全くないというわけではないのですが、平均値的に考えて、宗教心が極めて少なくなっているということは皆さんも同じことを感じていらっしゃるのではないでしょうか。そういう意味から見ますと、欧米で陪審制を入れた国は、歯止めといいますか何らかの最低のコンセンサスというのが、キリスト教などの宗教にあるような気がしています。これは私の単なる感じただけのことであって、別に理論とかそういうものがあるわけではないのですが、そういう意味から、日本で陪審制を取り入れるかどうか考える場合に、やはり、欧米的な宗教心のないと言っていいのかどうかわかりませんが、宗教心が薄いような状況下において、こういうシステムを入れていったときに、どういう危険性があるのか、そういうことをよく考えてみて、それに対する、さっき鳥居先生が言われたような歯止めというのを余程よく真剣に考えてから、このシステムを取り入れるということを我々としては考えていかなくてはいけないではないかと、そういう感じがいたしております。

【鳥居委員】私も今、石井さんがおっしゃったことには同感ですが、私が申し上げたのとは同床異夢でして、私が申し上げたのは、それも大事な問題で、本当に日本人が宗教とか自然への畏敬、ナチュラル・ワンダーとか、そういうものを善悪の判断基準にするということが、社会風潮として減っているということは同感です
 それと同時に、私が歯止めと申し上げたのは、一つは裁判員の選び方において、先ほど申し上げたような層化法のような工夫をすることによって世代間の考え方のばらつきをそのまま反映するような構成の裁判員でやっていただくというようなことが必要でありますし、それから、民主的な討論、膝詰めという話がさっきから出ていますが、10名にしろ20名にしろ、膝詰めで議論をする議論そのもの、議論のルールというものがどうもまだ社会的に定着していないので、そのことについて何らかの運営上のルールを必要とするのではないか、そういうような意味で私は歯止めということを申しましたので、両方を足して一つの歯止め論にするとバランスが取れるのかもしれませんね。

【石井委員】ちょうど先生がいらっしゃるのでちょっと伺いたいのですが、鳥居先生は特に福沢諭吉先生にお詳しいので、もし今生きていらっしゃったら、裁判制度についてどういうふうに福沢諭吉先生は考えられるでしょうか。

【鳥居委員】福沢諭吉は陪審制度導入論者だったんですよ。

【山本委員】さっきの人数の問題なんですけれども、今、我々が議論しているのは、日本的な司法参加の在り方を考えようということですね。ですから、正当性は何に求められるか、典型的なアメリカの場合は、国民が参加してジャッジしたものは神聖にして侵すべからず。しかしながら、我々が今設計しようとしているのはそうではなくて、国民の意見だけではなくて、プロフェショナルな意見も闘わせて、よりよい訴訟が行われるようにという制度を設計しようとしているわけです。
 鳥居先生が言われたように、同床異夢かもしれませんが、これから更に、世の中の変化というのは、ネット社会を始めとして複雑多岐にわたってきますので、ますますプロフェッショナルな人たちの責任というのは重くなる。これは国民が入れば何でもうまくいくという格好では決してなくて、従来以上にプロの責任というのは重くなる。したがって、我々が制度設計をしようとしているこの参加形態は、勿論、参加した国民の意見も聞かなければなりませんが、やはり究極的にはプロが責任を持つという制度でなければいかんと私は思うんです。
 そういうことからすると、最初から意見の対立があったときに、とてもプロは手に負えないという制度設計をしたのでは、これは量刑にしても事実認定にしても法律適用にしても、これはちょっと無理なことをしているという結果になりはしないかというのが私の考えであります。
 したがって、できるだけこれは、少なくとも同数ぐらいの感じにしておかないと、心棒が入らないのではないかという感じがちょっとしておりまして、あえて意見を申し上げました。

【中坊委員】先ほど竹下会長代理もおっしゃったし、今の憲法違反かどうかの問題もあるんですが、身分の保障された裁判官の判断を受けるという権利があると、憲法で保障されていると、そうおっしゃいますけれども、憲法第32条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」として、憲法が保障しているのは裁判官による裁判ではない、裁判所による裁判だ、というふうに理解していますし、しかも今の例の裁判所法の中でも、刑事で陪審の制度を設けることを妨げないというふうになっておる。ただし、今おっしゃるように最高裁までが我々のヒアリングの中で言われておるから、我々の審議会としてもそれなりの、先ほどおっしゃるように私らが最終権限ではないけれども、やはり一通りの意見をまとめておく必要があると言っているので、もし、竹下さんの論理で言えば、裁判官の多数であれば、裁判官の数の方が裁判員よりも多くないとだめになる。

【竹下会長代理】そういうことはないのです。私が言っているのは、有罪にするには、ということなのですよ。ですから、職業裁判官の方が有罪だと言っても、裁判員の方が無罪だということになって無罪になることは差し支えない、そういうことなのですよ。
 つまり、刑事訴訟について言えば、身分保障のある裁判官による裁判を受けられるというのは、そのような裁判官の多数で有罪だとされなければ刑罰を科されることはないと、そういう意味だろうと。だから、そっちの面だけを言っているわけです。

【中坊委員】だから、私の言うように、いずれにしても、今おっしゃるように、それはすなわち裁判員と今、山本さんがおっしゃるように裁判官との数とも関連してくる問題であり、この審議会としてはクリアーしていかなければいかん問題ですから、その問題も私はこの中にちゃんと、ある程度みんなの合意で決めておくという必要があるのではありませんかということを先ほどから言っているので、決して、竹下さんがおっしゃるように決めつけた問題ではないということをひとつ御理解いただきたいと思います。

【佐藤会長】先ほど山本委員も、実質的なことについておっしゃったわけで。

【中坊委員】私はこの問題は、先ほどから言っているように、非常に今回の司法改革の問題の基本ですから、そして、今おっしゃるように、法曹との協働というけれども、協働が困らないかとか、色々おっしゃっていただくんだけれども、問題は我々司法制度改革審議会の方向というのは、確かに今、社会生活上の医師と法曹がならなければならない、しかし、基本的にそういうものを、国民そのものが、統治客体意識の中にあって、中間報告でも書かれておるように、過度の国家への依存意識、要するに自主独立がないと、自律性がないというところに問題があったとの認識は共通なものとなっている。
 それから司法参加の理念が来ている。その理念が、我々がずっと今まで審議してきた大きな流れというものになっている。そこで今の裁判員の数の問題で今おっしゃるように、裁判員と同数でないといかんとか、そういうことになってくるというのは、先ほどから言うように、これは少しおかしいのではありませんかということになる。
 それから、無作為抽出でやれば非常に問題があるのではないかといわれるが、それだったら、忌避という制度もあるわけですから、何も無作為抽出した人の判断をそのまま受けなければいけないということでもないわけです。
 だから、今おっしゃるように、無作為抽出だから制度は悪いということにもならないんだけれども、現に検察審査会が無作為抽出でやっておって、しかも日本には、この前も吉岡さんの質問に、何かお答えになったように、住民票というような我が国では大変いい制度があって、ちゃんとわかるようになっているんだから、そういう非常に基本的なところは我々のこの審議会で方向づけを決めておかないといけない。それは何人と何人にせいというところまではいいとしても、とにかくどういうものなんかという制度設計をしないと、我々の意見としてはまとまらないのではないか、それはひとつ明らかにしてほしい。

【佐藤会長】中間報告として私ども合意していますので、その中間報告、より特定的にはまさに今日のレジュメの冒頭に掲げられているところを基にして考えていくということだろうと思います。

【吉岡委員】私が皆さんの意見を思い違いをしているんだったらお許しいただきたいんですけれども、無作為抽出で選んだ方がいいと私は思っていますが、その場合に、最初から裁判員になる人の数に限定してしまって、無作為抽出するのではなく、いわゆる裁判員の候補者という考え方で相当数選んで、その中から裁判員を選んでいくという、そういう方法を取れば、それほど偏らないのではないかと思います。それで、忌避も勿論できるという、そういう前提で言えば、おのずから落ち着くところに落ち着いていくということは考えられると思います。
 裁判員の数ですけれども、裁判官の数と同数にするのか、裁判員の数を多くするのか、そういう考え方について、私は裁判員の数を多くした方がいい。それは広く国民を代表する考え方が導入されるということから言えば、多くした方がいいと思います。
 ただ、多数決の原理で例えば、5対6の方がという考え方しかないということはありませんね。アメリカの場合では、全員が同じ答えを出すという、最近は1人ぐらいはいいという、そういうことですから、いわゆる多数決とは考え方が少し違います。
 そういうことから言えば、当然裁判員の数は多くした方がいいと思います。少なくとも、裁判官の数倍という考え方、これは裁判官が3人なのか1人なのかそれによって考え方が多少変わってくるという、そういうことで数倍と申し上げるんですが、そういうことを当然考えていいと思うんです。
 それから、山本委員がプロが責任を持つとおっしゃいました。確かに、プロだから判断できるという面はあるんですけれども、やはり国民が責任を持つ、選ばれた裁判員が責任を持つというそういう責任という考え方が国民に根付いていく必要があると思います。どう判断しようがあとはプロの判断だということでは、国民の参加にはならないので、そこのところは私はちょっと山本委員とは考えの違うところです。

【佐藤会長】どれほど違うのかどうかは、よくわかりませんけれども。

【髙木委員】今の吉岡委員の言われたことは大変大切で、それから山本さんの言われたのは、要するに制度の運用に責任を持つという面と、その運用された結果、すなわちその制度の下で裁判が行われた結果に責任を持つということであり、後者の方は国民の責任であって、前者の運用や回し方については、やはりプロがそれなりの責任を持たなければいかんだろうと思います。そういう意味での分担、協働だろうと思います。
 この間お話ししていただいた松尾先生なども、検察審査会の委員の皆さんの対応ぶりなどにかなり高い評価を与えておられるし、たまたま私の知り合いが今、ある裁判所で検察審査会の候補者になっております。検察審査会では、審査員は最初は定数の3倍ぐらいを選ぶんですか。

【藤田委員】2倍です。予備員を同じ数選びますから。

【髙木委員】まだ最終的に選ばれるのかわからない段階だと言っていましたけれども、その方は、こういうのがあるとは知らなかったとおっしゃって、それで色々お話を聞いたりして、この話をものすごく前向きにとらえておられます。私は、確かに皆さんが御心配されるような、日本人に関する色々な意味での心配、石井さんは宗教心の面で色々指摘されましたけれども、私は、日本人はそんなに捨てたものではない、色々なルールで選ばれた人が例えば10人なら10人集まってやる中では、そんなに乱暴なことにはならないと思っています。それは少し制度が回ってみて、またこれは大分思ったのと違うなということも出てくるのかもしれませんけれども。皆さん人生の大先輩ですから、御心配も多いのかもしれませんが。

【井上委員】何かまとまるところに、というような御発言もありましたけれども、さっき竹下先生がおっしゃった憲法問題というのは意識しないといけないと思います。私は、具体的にはちょっと意見が違って、裁判官の多数が有罪に賛成しないといけないとまで言えるのかどうか、その辺はちょっと解釈の余地があるだろうと思うのですが、裁判官の意見を全く反映させない形で、例えば裁判官みんなが無罪だと言っているのに裁判員の意見だけで有罪とすることができるのか、といったところは検討しないといけないだろう。そこは憲法問題ですから、恐らく佐藤先生が検討していただけるのだろうと思うのですが、繰り返しになりますから余り言いませんけれども、私はやはり両方のバランスというものがあって、同数でないといけないということはないと思うのですけれど、どちらかが圧倒的に数が多いというのは、好ましくない。
 ですから、数倍というのはちょっと私にはショッキングな御意見でありまして、どちらかを多くするにしても、バランスということはあるのではないか。どちらが多いかは別ですけれども、そんな感じを私自身は持っております。

【石井委員】一言だけよろしいですか。
 先ほどの私の発言に対して、日本国民が愚民というように受け取られた旨の発言がありましたが、私にはそういう意図は全くないので、そこだけは誤解のないようにしていただきたいと思います。

【北村委員】私も裁判員の人数については、今、石井先生がおっしゃったような形で、ある程度の同数に近いものというような形がいいのではないかと思っているんです。
 もう一つ、これは国民の義務にするわけですね。国民の義務にするということになると、当たった人は必ず出ていかなければならないということになるわけです。自分はちょっと都合が悪いからとかということは許されないと。要するに、今、今晩でもテレビ見てそんなふうになりそうだなというふうになったら、覚悟を決めておく必要がありますね。要するに、余り特別の事由というものがないと、病気だとかそういうことが何かあるでしょう。審議会に出ている人たちが当たっちゃったら、どちらを優先するのかなとか色々考えたりするんですけれども、そこのところもきちっと制度設計のときには考えておいていただいて、皆さんに公表しておくということが必要なのではないか。
 だから、出たい人が出るという制度ではまずいでしょうし、また、がんじがらめになって是非ともというような形もまた難しいだろうというふうに思っているんですね。だから、これは義務なんだということをきちっと言っておくということが必要だろうというふうに思います。
 だから、私はどちらかというと、国民に聞いてもらった方がいいというふうに思っていたんですが、これはもう怒られましたから。

【中坊委員】井上さんと吉岡さんと意見が出ていますけれども、私もやはり裁判員の方の数の方が絶対的な多数が必要ではないかという気がするんですね。その理由は二つあって、一つはまずもって先ほどからも出ているように、勿論、私は場合によれば裁判員も職業裁判官も一緒になって評議なりあるいは評決権をお持ちになっても、それはいいかもしれない。
 しかし、今回の問題というのは、あくまで国民が公共空間の裁判の中に具体的に自分が入っていくんだ、そして、自分たちが決めるんだという責任感をどう持たすかというところに司法参加をさせる、また国民的基盤の確立をさせるという根拠というか精神があると思うんですね。だから、その精神を生かす仕組みが必要であるということが一つ。
 もう一つは、これは先ほどから皆さんもおっしゃるように、裁判官は裁判員と比べて数は少なくとも、さっきから私が言うように、法令の適用は、むしろ職業裁判官の専門領域ですから、非常にそちらの方の活躍が必要なわけで、Aという事実が要るのかねと、はい、これは要りますよとか、こういう答えは全部職業裁判官が出すんだから、確かに、おっしゃるように職業裁判官の影響力というのはかなり強くなってくるはずなんです。だから、今のアメリカではないけれども、お前らで決めろと言っても裁判官がそう困らないというほど、そういう影響力というのは強いものですから、裁判員の方が絶対的に多数であることが必要です。しかも、それがどれだけの票数で決めるかというようなところが非常に問題ですから、決して過半数では決まらないと思いますけれども、それにしても何にしても、非常に法令というものの専門家が入ってきて、片一方は、そういう意味ではそこが素人だというものと、一緒にやって協働させるときに、余りにも力の差があるものを、また数で、いやいやどっこいどっこいだよといったら、それはこちらの方が優位になるのに決まっておるので、私はそういう意味からも、裁判員の方が絶対的に多数であることが必要です。また先ほどから言うように、国民が本当に責任を持たないといけない。
 今までは、私らはこの国のかたちというのを論じて今日まで来たので、要するに国家に対する依存意識が強過ぎると、だから、ここに基盤をと言っているところから言えば、国民参加の精神から言っても、また、先ほどの現実に非常に影響を受けますよということから言っても、私はこの裁判員という方に絶対的多数を与えておく必要があるのではないかと、私はそう思います。

【鳥居委員】同じことを申し上げるようになるかもしれませんが、私も今、中坊先生が言われたことの結論のところだけ賛成です。
 さっき申し上げたことの繰り返しになりますが、要するに、ここで言う裁判員というのは、ある意見の分布でなければいけない。同じ意見を持った集団である必要はないんです。ある意見を持った人たちの分布状態、散らばっていることを統計学では「分布」と言いますが、分布でなきゃいけない。これは同じ意見を持った人たちが、10人なり何人なり集まるのはかえっておかしいので、分布していなきゃいけない。分布だとすると、余り少人数では分布しないんです。それが一つ。
 それからもう一つは、裁判官というのはどう増やしたって3人でしょう。だから、裁判官と同数と言ったら、1人の裁判官を想定した場合には裁判員は1人ではないですか、3人の裁判官を考えたら、同数といえば3人でしょう。これはどう考えても分布しないんです。そうではなくて、裁判官とは別の意見の分布があるのが裁判員制度だと思います。裁判官はこの人たちの意見と同じでないかもしれない、あるいは逆に説示でもってどんどん説得していくかもしれない専門家集団とが同時に同じ問題を考えるというふうな仕組みであるべきだと思うんですよ。

【竹下会長代理】ただ、10人でも、そうおっしゃるような分布になるのでしょうか。相対的な問題ではないですかね。

【水原委員】私は数の問題というのは、大変難しい問題だと思います。我々の議論していることは、裁判員が職業裁判官にとってかわることを議論しているのではなくて、協働してよりいい裁判をするにはどうしたらいいかということを言っているんです。そうなりますと、おのずとそこにはバランスの問題も出てきましょうし、それから評決の在り方によっては納得のできるような収まり方があるのではなかろうかという気がします。こういう問題はここで議論しましても、何が一番良いのか、こういう結論は私はまず出ないと思います。
 先ほども言いましたけれども、裁判員の選定方法だとか、それから対象事件だとか選択権の在り方なんかというのは、これをどういうふうに決めるかということは、国民の司法参加がうまく機能するかどうかに非常に関わってくる問題だと思うんです。
 そうなりますと、各論ごとに言いますと、選定方法だとか対象事件だとか、選択権の有無、これらのそれぞれについてメリット、デメリットがありますし、それから、現実に制度化するのにはどういう隘路があるのかというような問題、それから国民の負担はどうなるんだろうかということ等も色々総合して決めなければいけない問題だと思うんです。ここで議論するには非常に短い時間でありますし、それから、出る材料も非常に限られているということですから、そんなにここで決めてしまうということには、私は大変な問題があると思います。

【佐藤会長】まだ議論は尽きないことだろうと思いますけれども、最後の方は人数の問題にやや議論が集中したような気もしないではありませんが、今、水原委員がおっしゃろうとしたように、全体的にどういう制度設計をするか、その中でこの人数の問題も考えなければならないという面もあろうかと思います。今日の段階では、その問題をちょっと括弧に入れれば、大きな方向としては何か共通の制度的なものが浮かび上がってきているのではないかという感じもしないではありません。その辺はいかがでしょうか。大体大きな方向としては、あえて言葉として今日まとめるつもりはありませんけれども、大体方向性としてはこういう制度かなということを皆さんそれぞれ思い浮かべられ得る段階に来ているのではないかという感じもします。もし、お許しいただければ、2月2日は弁護士の在り方、それからあと3回は裁判官制度を考えておりますので、3月に入って、3月以降の日程も後日御相談したいと思いますけれども、3月のしかるべき時期、余り間隔が開いてしまいますと、せっかく今日のいい議論を忘れちゃってという話になると困りますので、3月の、余り開かないしかるべき時期に、私と代理と相談して、更に井上委員からも御協力をいただきまして、大体全体はこういう仕組みとして考えたらいかがかというものをお示しして、御議論いただいて、そこで我々としてこの問題についての態度を決めるというような運びにしたいと思いますけれども、その辺はいかがでございましょうか。

(「異議なし」と声あり)

【佐藤会長】今日御議論いただきました御意見は、まとめの段階でそれぞれ十分に注意させていただきます。大変な作業で、また井上委員に大分御苦労いただかないといかぬかもしれないのですが。

【井上委員】私、今日は自分の意見を申し上げましたけれども、もし、お手伝いするとなれば、皆さんの議論を公平に正確に反映させるように努めたいと思います。

【佐藤会長】ということで、この問題についてはこの辺にしたいと思います。今日は本当にいい御議論をしていただきました。今日に限らずいつもいい御議論をしていただいているんですけれども、特に今日はいい御議論を頂戴したと感謝しております。

【髙木委員】今日、この参加問題、中間報告に書いてあるように、刑事の一定のということですので、例えば労働事件等への参加の関係は、また別途、時間をとっていただけるということでよろしいのでしょうか。

【佐藤会長】専門参審というような話もあり、それは民事の方で。

【竹下会長代理】そのつもりでおります。

【佐藤会長】そうでしたね。またそのところでよろしくお願いします。
 では、この件は以上にさせていただいて、配付資料について。

【事務局長】日本司法書士会連合会から「司法制度改革審議会中間報告に対する追加意見及び弁護士の在り方についての意見」と題する意見書が届いておりますので、各界要望書等の封筒の中に入れてお配りしております。次回会議において引き続き「弁護士の在り方」について御審議する中で、隣接法律専門職種につきまして御審議をしていただくことになると思いますので、その参考にしていただければと思います。
 そのほかの資料については、特に説明することはありません。

【佐藤会長】どうもありがとうございました。
 では、最後に、次回の審議会ですけれども、さっきもちょっと申しましたが、2月2日金曜日、午後1時半から午後5時まで、この審議室で行います。次回は、前回意見交換を行いました「弁護士の在り方」につきまして、引き続き、前回の意見交換で少し積み残しが出ました「弁護士倫理の強化と弁護士自治」、それから、更に隣接法律専門職種、弁護士法72条などの関連する諸問題を中心に意見交換を行って、審議会としての意見をとりまとめたいというように思っております。今週は2回も会議を開くということで、きつくて大変恐縮ですけれども、よろしくどうぞお願いいたします。
 本日の記者会見ですが、井上委員、御覚悟は。

【井上委員】わかりました。

【佐藤会長】今日はどうもありがとうございました。御苦労様でございました。