場 所:司法制度改革審議会審議室
出席者
(事務局)
樋渡利秋事務局長
(説明者)
但木敬一法務省大臣官房長
【佐藤会長】それでは、ただいまから第51回会議を開会いたします。
本日は国民の司法参加につきまして、意見交換を行い、できましたら、当審議会としての意見のとりまとめができればと考えております。よろしくお願いいたします。
最後に、先日法務省の但木官房長からのヒアリングの際にお話がありました、福岡地方検察庁次席検事に関する件につきまして、但木官房長から御報告をお聞きすることにしたいと考えております。
それから、最高裁判所も、いわゆる福岡問題について処理する予定、調査結果を公表する予定ということでございまして、それについて説明したいという申し入れがございました。19日にその御説明をお聞きする機会を持てればと考えておる次第です。
それでは、国民の司法参加についての審議に入りたいと思います。
意見交換に入ります前に、本日の議事の進行につきまして、お話ししたいと思います。
この国民の司法参加につきましては、既に第43回及び第45回審議会におきまして、訴訟手続への参加制度を中心に、ヒアリング及び意見交換を行い、それらを踏まえまして、私と会長代理で相談して、かつ、井上委員にも御協力をいただきまして、具体的な制度設計の基本を示すたたき台案を作成いたしました。本日はそのたたき台案を元に意見交換を行いたいと考えております。
そこで、最初に訴訟手続への参加制度につきまして、たたき台となる案を基に意見交換を行い、制度の骨子について、当審議会の考え方をとりまとめることができればと考えております。
その後、休憩をはさみまして、国民の司法参加に関するその他の問題、例えば検察審査会などにつきまして、本日の審議用に新たにレジュメを用意いたしましたので、そのレジュメに従いまして、意見交換を行っていただければと思います。そして、やはり当審議会の考え方のとりまとめができればというように考えておりまして、その点もよろしくお願いいたします。
最後に、先ほど触れましたように、できれば午後4時半ごろからと考えておりますけれども、法務省の但木官房長から福岡地方検察庁次席検事に関する件につきまして、御報告をお聞きしたいと考えております。
できましたら、それまでに国民の司法参加に関する意見交換を終えることができればと考えておりますので、御協力のほどよろしくお願いいたします。
それでは、訴訟手続への参加制度に関する意見交換に入ることにしたいと思います。
お手元に本日の意見交換のたたき台として「『訴訟手続への新たな参加制度』骨子(案)について」をお配りしております。事前に委員の皆様にお配りしておりますので、既にお目を通していただいていることとは思いますけれども、最初にこのたたき台の案の内容につきまして、御協力いただきました井上委員から説明していただいて、その後、意見交換を行いたいと思います。
なお、各界からの意見が来ております。本日配付資料の中にそれらが入っております。随時これからの審議で参照していただければと思います。
では、井上委員、よろしくお願いします。
【井上委員】それでは御説明させていただきます。お手元に「『訴訟手続への新たな参加制度』骨子(案)について(補足説明)」というペーパーが配付されていると思いますが、前に法曹養成のところで口頭で御報告した際に、文章を見ながら聞いた方がわかりやすいという御注意があったものですから、お手元に差し上げておりますけれど、時間の関係で、これに沿いなから、要約して御説明させていただきたいと思います。
さて、「骨子(案)」は、会長及び会長代理が御相談の上、最終的なとりまとめに向けた審議のたたき台として用意されたものであります。内容的には、御覧になればおわかりと思いますが、1月30日の審議において用いられた審議用レジュメの各項目ごとに皆さんの大方の御意見の赴く方向は大体この辺りではなかろうかと思われるところを書き出したというものであります。
以下、少し時間をいただきまして、これに基づいて実りある審議を行っていただくための参考として、若干の補足説明を、作成のお手伝いをした立場からさせていただきたいと存じます。
説明に当たりましては、幾つかの箇所で具体的な数を挙げたり、あるいは、仮に一定の考え方に沿って考えるとこうなるといった説明をすることがありますけれども、これは言うまでもなく、あくまで私の個人的な見解によるものでありまして、本日の審議において、各論点について、なるべく具体的なイメージを持ちながら、議論していただけるように、そのための一素材としてお示しするものにすぎないということを御了解いただければと存じます。
早速ですが、「1.裁判員の役割」というところに入らせていただきますと、「裁判員の役割」という点では、裁判員は犯罪事実の認定ないし有罪・無罪の判定のみにとどまらず、それと同様に国民の関心が高い刑の量定(量刑)にも関与し、そこに健全な社会常識を反映させることが望ましいというのが、皆さんの大方の御意見であったように思われますので、その旨を明示しました。
もっとも、有罪・無罪の判定に関わる事柄でも、法律問題や、また訴訟手続上の決定とか処置などにつきましては、専門性・技術性が高いことなどから、裁判官に担当させた方がよいという御意見が、どちらかというと多かったように思われます。
ただ、法令の解釈、更には自白の任意性の有無などの訴訟手続の問題などにも国民の常識を反映させることが有意義だという考え方もありますことに加えまして、実際上、事実問題と法律問題とを峻別することが必ずしも容易ではないということなどから、この段階で速断するということは適切でなく、更に慎重な検討を重ねるべきだと考えられましたので、括弧の中のような留保を置いたわけであります。
次の「役割分担」の項に移りますと、以上のような裁判員の関与の意義は、裁判官を排して裁判員が裁判を行うということではなく、両者が裁判の全体について共同責任を負いつつ、法律専門家である裁判官と非法律家である裁判員とが相互のコミュニケーションを通じて、それぞれの知識、経験を共有し、その成果を裁判内容に反映させるという点にあるというのが大方の御意見であったと思われます。裁判官が、事実認定についても裁判員とともに責任を持って評議と評決に携わるということは、後述の判決書で事実認定の実質的な理由を示すということのためにも必要だと言えるのではないかと思われます。そこで、2の最初の文章で、有罪・無罪の決定及び刑の量定のいずれの面でも裁判官と裁判員が協議して判断をくだすという方式を採るべき旨を明らかにしたわけでございます。
ただ、先ほど申しましたように、法律問題や訴訟手続上の問題につきましては、専ら裁判官が担当することになる可能性もありますので、その場合には、それらの事項については裁判官のみの評議によるという、これは当たり前のことですが、念のために書いたのが括弧の中の文章であります。
しかも、国民が裁判官とともに責任を分担しつつ裁判内容の決定に主体的・実質的に関与する。これは中間報告の基本的な考え方ですが、その基本的な考え方からしますと、裁判内容の決定に当たって、裁判員は裁判官と基本的に同一の権限、すなわち評決権を有するものとするのが、最も直截かつ徹底した考え方であり、それが皆さんのほぼ一致した御意見であったように思われるわけです。
それに加えて、裁判員の主体的・実質的関与を確保するという観点からは、裁判内容の決定に先立つ証拠調べなどの審理の過程においても、証人等に対し適宜適切な形で質問することができるなど、適当な権限が与えられる必要があると考えられますが、そのことを明らかにしたのが、三番目の文章であります。
次の裁判官と裁判員の数がどうあるべきかにつきましては、1月30日の審議では、御意見が大きく分かれたところであります。本審議会で、具体的な数まで決めることができるのか。またそうすることが適切であるかについては、疑問の余地がありますけれども、数を決めるに当たっての基本的な考え方は示しておかなければならないと思われますから、更に御議論いただく必要がありますが、一応、これまでの御議論に含まれていた様々な視点のうち、その比重の置き方に意見の違いはあり得るものの、数を決めるに当たって基本的に考慮すべき要因だと考えられるものを、現段階で言わば最大公約数的にまとめてみたのが、2の第二段落であります。読み挙げますと、「裁判員の主体的・実質的関与を確保するという要請と評議の実効性を確保するという要請とを踏まえ、この制度の対象となる事件の重大性の程度や国民の負担等をも考慮の上、適正な数を定める」、こういうことになるのではないか、ということであります。
若干付言させていただきますと、最初の「主体的・実質的関与の確保」ということにつきましては、裁判官と裁判員の数が重要であるということは間違いありませんけれども、しかし、それが決定的な要素であるというわけでは必ずしもなく、これまでも御指摘したところですが、職権主義で、裁判官が一件記録をあらかじめ読んでおり、その裁判官の主導で審理が進められるという方式であるのか、それとも、当事者主義で、裁判官と裁判員のいずれもが事件についての予備知識を持たず、両当事者の主導で審理が進められるという方式であるのかということや、評議の進め方、そして、後で述べます評決方法の在り方などによっても違ってくるところがありますので、それらの点も併せてお考えいただく必要があろうかと思われます。また、この数の問題は、評決方法の在り方との組み合わせによっては、後で述べますように、憲法上の問題を生じさせる恐れがあるということにも、御留意いただければと存じます。
二番目の評議の実効性という点につきましては、全体としてどのくらいの数なら実効的なコミュニケーションないし突っ込んだ議論というものが可能かという点で、これは御意見が分かれたところでありますが、単に議論するということだけでなく、後述のように判決に実質的な理由を示すことを必要とする場合には、十分な判決理由が書ける程度に実質的な内容についての合意が得られるという点も重要でありまして、そのことも含めてお考えいただく必要があるように思われるわけです。
更に対象となる事件の重大性の程度という点では、1月30日の審議会でも御説明申し上げたところですけれども、これは仮定ですが、仮に死刑・無期刑相当事件あるいは法定合議事件とすることにした場合に、現在3名の裁判官の合議で裁判していることからしますと、裁判官の数は3名くらいを基本的に考えていくのが妥当かもしれません。資料を幾つかお手元にお示ししておりますが、そのうちの資料1、これはこの前お配りしたものの改訂版なのですが、それにより外国の例を見ますと、例えば裁判官3名というのを仮に基準にしてみますと、ドイツのような3対2というものから、3対3、あるいは3対4とするところ、そして、フランスのような3対9(控訴後の第二次第一審では3対12になっております)というところまでかなりばらつきがありますけれども、これらをも一つの参考にしつつお考えいただければと存じます。
次の段落の評決の方法につきまして申し上げますと、基本的には多数決とするのが妥当だと思われ、そのことについて皆さんの間でも特に御異論はなかったのではないかと思いまして、その旨を明記したわけです。
ただ、より具体的にどういう多数決の方法を取るべきなのかということになりますと、先ほど2ページの2の(1)冒頭のところで申しました、裁判官と裁判員とが協働して犯罪事実の認定ないし有罪・無罪の判定も量刑も行っていくということの趣旨に加えまして、幾つか考えなければならないところが出てくると思われます。
その一つは、先ほども触れました裁判員の主体的・実質的関与を確保するということでありまして、その点からしますと、裁判員の意見が評決結果に影響を与え得るような方式でなければならないだろうと思われるわけです。特に、裁判員が全員反対であるのに、裁判官のみの多数で被告人を有罪とするなど、被告人に不利な決定をすることができるのでは、結果として、裁判員が加わっている意味はないことにもなりますから、そういうことはできないようにすべきではなかろうかと思われるわけです。
他方、裁判官につきましては、憲法との関係で慎重な考慮が必要となるのではないかと思われます。お手元に、資料2ですが、前に配られました憲法問題についての資料を再度配ってもらっておりますが、それを適宜御覧になりながらお聞き願いたいと思います。現行の憲法は、32条で、すべての人に裁判所において裁判を受ける権利を保障し、また37条1項という規定で、刑事事件の被告人に公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を保障しております。明治憲法とは異なりまして、「裁判官による裁判」というふうには書かれていないというものの、32条とか37条で保障されている「裁判」というのは、後の方の76条1項という規定で司法権が帰属するとされている「裁判所」による裁判であることは、異論の余地がないところだろうと思われます。
問題は、その「裁判所」なるものでありますが、憲法自身は、御存じのように、最高裁の構成については明文の規定を置いているわけですが、それに対して、下級裁判所については、「法律の定めるところによる」とするだけで、その構成を明示してはおりません。もっとも、その司法権についての規定の後に続く幾つかの規定で、裁判官の身分保障や任期、定年、報酬など、専ら職業裁判官に関係すると考えられる定めが置かれておりまして、かつそれしか置かれていないということから、憲法は国民の裁判体への関与を予定していないとする見方がこれまで有力であったわけです。それも資料に示されているとおりです。
しかし、こういう憲法の規定の仕方から、憲法に言う「裁判所」とは職業裁判官を基本的ないし必須の構成要素とするものとして構想されているということは確かだとしましても、それに加えて国民がそこに参加することを全く排除しているとまで断定する根拠は必ずしも存在せず、したがって、そのような参加を認める解釈も成り立つ余地はあるのではないかと思われるのです。
ただ、そのような考え方に立つとしましても、職業裁判官が裁判所の基本的ないし必須の構成要素であるということは動かし難いわけでありますから、例えば職業裁判官を全く除外して国民だけで裁判をするといったことや、職業裁判官の存在が実質的に意味を持たないような形で裁判が進められ、裁判内容が決定されるといったことは、憲法上許されるかどうかは疑わしいと言わざるを得ないのではないかと思われます。
その意味から、少なくとも、裁判官すべてが無罪という意見なのに、裁判員のみの多数で有罪とするといったことや、あるいは、裁判官すべてが無期懲役という意見なのに、裁判員のみの多数で死刑とするなど、被告人に不利な裁判をすることはできない、とすることが、先ほどのよう憲法解釈が仮に成り立つとしても、最低限必要なことではなかろうかと思われるわけです。
更に、前に竹下代理がおっしゃったことですが、裁判を受ける権利というものが、刑事被告人につき、職業裁判官の裁判によらずに有罪とされ、あるいは不利な刑を言い渡されることはないということを保障していると、仮にそういう考え方に立つのであれば、少なくとも被告人に不利な裁判をするには、職業裁判官のうちの多数の賛成を必要とする、ということになるのかもしれません。
便宜上、憲法問題についてここで言及しましたけれども、これはひとり評決方法のみに限って問題となることではなく、裁判員の選任方法を含む裁判員制度全体において、裁判を受ける権利や、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利、適正手続等を保障する憲法の趣旨を踏まえる必要があることは、言うまでもないことだろうと思われます。個人的な意見ではありますけれども、この「骨子(案)」の枠組みを前提に、更に細部を詰め、憲法に適合する制度を具体的に設計していくことは十分可能ではないかと考えるのです。
無論、会長が何度もおっしゃってこられたように、本審議会で憲法問題についてこうだと決めるということはふさわしくないだろうと思われますけれども、今申したような考え方もあり得るということをお示しし、その点をも御考慮の上、審議していただければと考える次第です。
なお、有罪とする場合に、裁判員のみの賛成では足りず、裁判官の少なくとも1人が賛同することを必要とするということは、後で述べます判決に実質的な理由を書くということを実際上容易にするという点からも重要ではないかと思われます。
以上が2の第三段落全体の趣旨でありまして、かつ、最後の文章で「少なくとも、裁判官または裁判員のみによる多数で被告人に不利な決定をすることはできないようにすべきである」、つまりどちらか一方のみの多数で不利な決定をすることはできないようにすべきである、というふうに書いた理由でありますけれども、こういう要請を適えるためには、具体的には、差し当たり三通りの方法が考えられるよう思われます。
お手元の資料の3というのを御覧になって下さい。これは単なる例示として、先ほど挙げました外国での組み合わせというものをちょっと手掛かりに書いてみたのですけれども、一つの方法は、一番左の欄でありまして、仮に「特別多数決制」というふうに名付けましたが、これは、可決するために必要な数を過半数よりは多く設定するというものです。そして、裁判官または裁判員のいずれか一方のみによる多数で被告人に不利な決定ができないということにするためには、員数の多い方の数に1をプラスした数を多数決の要件とするということが必要となるということで、例を示してみたわけです。
真ん中の欄は、先ほどのあり得る憲法解釈のうち、竹下代理がおっしゃったような考え方に立ち、裁判官の多数の賛同がなければ被告人に不利な決定はできないとするもので、裁判官だけで決定できるというわけではないですから、過半数以上で裁判員が少なくとも一人は加わった数、その中に裁判官のうちの多数が必ず賛成していなければならない。名付け方が適切かどうかわかりませんが、「変形多数決制」と呼んでみたわけです。3対2という構成の場合だけ過半数ということになりますと3ですが、これでは裁判官だけで不利な決定ができることになってしまいますので、そうしないように、プラス1をする。あとの場合は、単純に過半数で、その中に裁判官が2名以上入っている、仮に裁判官を3名とした場合ですが、そういうことを例示したものです。
三番目が、一番右の欄でして、これは裁判官、裁判員、それぞれ別々に考えまして、それぞれ多数の賛成を必要とする。そういうやり方も考え方としてはあり得るかなということで、例示したみたわけです。
多数決の方法というのは、これ以外にも色々考えられるだろうと思われますから、具体的には実施に移す段階で、専門的、技術的観点をも加味して更に検討を加え、最もふさわしい方法を選べばよいと思われますけれども、ここでの基本的な考え方についての御審議でも、一つの手掛かりとしていただければと存じまして、こういう表をつくってみたわけです。
「3.裁判員の選任方法」というところに移りまして、これにつきましては、原則として国民すべてが等しく司法に参加する機会を与えられ、かつ、その責任を負うという考え方からしますと、広く国民一般の間から公平に選任されるべきだというふうに思われるわけでして、そういうことなどから、基本的に選挙人名簿などを基に無作為抽出するという方法によるべきだというのが、皆さんの大方の御意見であったと思われましたので、その旨を明記したわけです。
その上で、憲法等で保障された公平な裁判所による公正な裁判というものを確保するためには、そのように公平に選ばれた人たちを母体にしながも、適切なプロセスによって、それにふさわしく、かつ、当事者も信頼のできる人を具体的な事件を担当する裁判員として選ぶことができるようなシステムを考える必要がある。公正な裁判の確保ということのほかにも、例えば、他の両立し難い公益的な職務を不当に阻害しないようにするなどの配慮から、そのような職務に従事する人を一律に対象から除外するといったことも必要となるのではないかと思われるわけです。
国民参加を認めている諸外国でも例外なく、それらの理由から、一般的に欠格事由や除斥事由というものを定めまして、一定の要件に当たる人は裁判員の職務につけないようにした上、担当すべき具体的な事件の当事者による忌避の制度、これには理由付きの忌避と理由を示さない忌避の双方があり、このどちらかだけによっているところと、その両方を取っているところなど、色々あるわけですが、そういう忌避の制度を設けておりますけれども、我が国の場合も基本的に同様の仕組みを考えるべきであるということについては、皆さん御異論はなかったのではないかと思われます。ただ、制度の具体的内容につきましては、それらの諸外国の例を参考にしながらも、今後、更に専門的な検討を重ねて、我が国にふさわしいシステムを整備していく必要があるのではなかろうかと思われます。
これに加えまして、より実質的に良質な裁判員を選任できるような方策があれば、取るべきではないかという御意見もありまして、そのような方策はないということがおよそ検討の余地もないほど自明とまでは言えませんので、今の段階でその可能性を全く排除するのは適切ではないと考えまして、今申した欠格事由・除斥事由や忌避制度を含む「適切な過程」を経て選任するという表現にしたわけであります。
また、裁判員の選任につきましては、幾つかの国の例にならえば、任期制を取るべきだという考え方もあり得るところではありますが、なるべく多くの国民が参加する機会を与えられるべきだということや、裁判員となる個人の負担を過当なものにしないということなどから、個々の事件ごとに選任され、一つの事件を判決に至るまで担当すれば解任される、任を終わるという方式の方が望ましいとする御意見の方が多かったと思われますので、その旨を明示しました。
次に、このような選定の実効性を確保するためには、裁判員の候補者となった人が裁判所に出てきてくれるということが不可欠でありますので、出頭義務があることを明示したのが、第二段落の文章であります。
ただ、国民すべてが等しくその責任を負うと言いましても、裁判員となることが当の個人にとって過当な負担となる場合があるということも考えられますので、括弧の中で、一定の場合には義務が免除されることを注記しました。例えば、重い病気であるといった健康上の理由とか、小さなお子さんがあるとか、介護を要する人がいるといった家庭の事情、その他、やむを得ない事情がある場合などがその一つであります。
また、一度裁判員として裁判を担当した人、更に裁判員候補者として裁判所に出頭する義務を果たした人は、その後一定の期間、それらの義務を負わないものとすることなども、考えてしかるべきではないかと思われるわけです。
資料4は、これは思いつきですが、現行の検察審査員の選任や諸外国の例を参考に、以上のような一連の選任プロセスの一つのモデルを例示したものです。思いつき程度のものにすぎませんので、ざっと見ていただくだけで結構ですが、参考にしていただければと存じます。
3の最後の二つの文章で、守秘義務があるということと、裁判員としての職務を果たしたときは相当額の補償を受ける、これは裁判員候補者として召喚を受けて出頭したけれども最終的に選任されなかった場合も含むわけですが、相当額の補償を受けるべきだろうということを明記しました。これも御異論のないところではないかと思われます。
4に移りまして、この制度の「対象とすべき刑事事件」という点につきましては、これまでの審議では、法定刑の重い重大犯罪とすることで、大方の意見の一致があったのではないかと思われます。
しかも、冒頭で述べましたように、有罪・無罪の判定だけではなく刑の量定につきましても裁判員の参加を通じて健全な社会常識が反映されることが望ましいという基本認識からしますと、被告人が否認しているかどうかで区別を設けるべきではないと言えるのではないか。また、司法への参加ということは、被告人のためというよりは、国民一般にとり、あるいは裁判制度として意義のあることだから導入するのだとしますと、訴訟の一方当事者である被告人に裁判員の参加した裁判体による裁判を受けることを辞退して、裁判官のみによる裁判を選択させるということは認めるべきではないということになるのではないか。これらの点も、皆さんの大方の御意見であったように思われるわけです。
ただ、事件によりましては、例えば暴力団等による組織犯罪など、裁判員に対する危害や脅迫的な働きかけの恐れが考えられる場合や、後で述べますように、連日公判を開くとしても著しく長期間掛かることが当初から明らかであり、裁判員にとっての負担が重過ぎると認められるような場合には、例外的に対象から除外することも考えるべきではないか。そういう御意見もありましたので、そのようなことも考慮すべきだろうということを付記した次第です。括弧の中にありますように、それらの点については、異論の余地がありますので、これは検討の余地があるだろうということです。
以上のような条件に当てはまる重大事件というのは具体的にどの範囲の事件かにつきましては、更に検討の上特定していくということが必要になるわけですが、御参考までに現在法律で法定刑が重いため必ず3名の裁判官の合議体で裁判しなければならないとされている法定合議事件、これは死刑か、無期または短期1年以上の懲役・禁固に当たる罪ですが、それがどういうものであるのか。その中でも更に絞って、死刑か無期刑が法定刑に含まれている事件にはどういう罪種があるのか。それを資料5としてお示ししておきました。
その次の資料6は、それらの罪で裁かれる被告人の数が総体として年間どれくらいあるかを示したものでありますが、それによりますと、法定合議事件で約4,000名、薬物事犯等の特別法犯を除きますと約3,000名強ということで、死刑・無期事件だけに絞りますと、これは刑法犯だけの数字しか取っていませんけれども、約2,000名ということです。大体4,000名、3,000名、2,000名という数字だとお考えになっていただければと思います。
次に、各地方裁判所及び地方裁判所支部ごとだとどれくらいあるのかということを見るために、その下の方の表で、多い方の裁判所と少ない方を拾い出しておりますが、最も多いのは東京地裁の本庁で、法定合議事件の被告人が大体440名くらい、地裁の本庁で最も少ないところが10名足らずだということがわかります。
例えば、東京地裁を例にとりますと、現在、刑事の合議事件を担当する部が実質で数えますと、大体15ヶ部くらいだと思いますので、1ヶ部当たり法定合議事件の被告人数が年29名くらい、月にしますと2~3名ということになるわけですが、そのうち別の表で見ますと、27%くらいが否認事件ということですので、おおまかに言いまして、月に0.5から1件の否認事件と2件の自白事件を抱えているということになるだろうと思われます。そして、否認事件の平均公判開廷回数が8.5回、自白事件のそれが3.5回ということですので、裁判員制度を導入し、連日午前も午後も通して開廷したとしまして、裁判員の選任手続に要する時間を入れましても、否認事件で5日から10日くらい、自白事件でそれぞれ2日から5日くらいずつ当てれば、単純な計算ですが、処理できない数ではないように見えるわけです。無論、事件によっては、はるかに長い期間掛かる事件があるということを考えますと、こういう計算どおりにはいかないだろうとは思われますが、一応の目安にはなるだろうと思われます。
また、法定合議事件の平均開廷回数が全体として4.9回ということですので、この数字を基に、仮に、先ほどの法定合議事件の総計約4,000名の被告人がそれぞれ別々の裁判を受ける、今は複数の被告人が一緒に裁判を受けることがあるのですが、別々に裁判を受けたとしまして、また、裁判員の数が、これは何名でもいいんですけれども、例えば4名という数を取って試算してみますと、その選任のために初回は裁判員数の3倍くらいの候補者を呼び出すとして、かつ、それらの裁判員及びその候補者に1日当たり1万円の補償を支給すると仮定して計算してみますと、裁判員への補償費用だけで大体11億円くらいになるのではないかと思われます。これは極めて単純な計算でして、これ以外にもさまざまな費用が掛かるわけですけれども、一つの御参考にしていただければと存じます。
「5.公判手続・判決の在り方等」につきましては、手続を主宰し、審理の進行役を務めるのは、事柄の性質上、裁判官のうちの裁判長であるということは、恐らく異論のないことだろうと思われます。
手続それ自体の問題としましては、裁判員が関与する以上、公判は可能な限り連日、継続して開廷し、真の争点であるところに集中した充実した審理が行われるということが何よりも必要になります。これは刑事司法のところで我々が提示しております、適切な範囲の証拠開示を前提にした争点整理というものに基づいて有効な審理計画を立て得るような公判準備手続の整備ということが、ほとんど不可決になるでしょう。また、一つの刑事事件に専従できるような弁護体制の整備ということも、一層急がれるのではないか。また、調書類の使用が全くできなくなるということでは必ずしもないとしましても、裁判員が大量の調書等を時間を掛けて検討するということは難しくなりますから、これも刑事司法のところで強調されている、口頭主義・直接主義の徹底を図るということが一層必要となるなど、いろんな面で手当てを行わなければならなくなるだろうと思われるわけです。
そのような意味から、裁判官のみの裁判の場合への波及の可能性というものをも視野に置きながら、運用上様々な工夫をするとともに、必要に応じ、法律の改正をも行うべきだというのが、5の第二段落の趣旨であります。
そのような審理の結果出される判決につきまして、その結論の正当性をそれ自体として示し、また、当事者及び国民一般に説明してその納得や信頼を得るとともに、上訴による救済を可能ないし容易にするために、判決書に実質的な理由が示されることが必要だというのが、大方の御意見であったと思われますので、その趣旨を手続上担保するように、最後の段落のような形で書き表したわけであります。
最後の「6.上訴」につきましても、裁判官のみによる判決の場合と同様、有罪・無罪の判定や量刑についても、控訴の道を開いておくことが必要だというのは、皆さんのほぼ一致した御意見であったと思われます。
ただ、これまで何度か指摘させていただいたことですが、国民の参加を得た裁判体による判決を、上級審とはいえ職業裁判官のみによる裁判体で、しかも基本的に一審の記録のみに基づいて審査し、場合によっては覆すということが、国民参加の趣旨から見て正当化され得るのかについては、疑問とする余地もないわけではありません。現に、そのような問題意識から、ヨーロッパ諸国では、控訴を認めていないか、認める場合も、控訴審裁判所をも国民が参加した裁判体とするころが多いわけです。そのことなども考え合せますと、控訴を認めることを前提にするとしましても、控訴審裁判所の構成をどういったものにするかや、そこでの審理方式の在り方、控訴理由ないし原判決を破棄する場合の理由や、破棄する場合に控訴審裁判所が自ら新たな判決を言い渡してよいのか、それとも第一審裁判所に差し戻して、新たな裁判員が加わった別の裁判体により裁判をやり直させるべきなのか等々について、専門的、技術的見地をも加えて更に慎重に検討する必要があると思われますので、そのことを括弧内で注記した次第であります。
大分長くなってしまいましたが、一つの参考として御説明させていただいた次第です。
【佐藤会長】どうもありがとうございました。
ただいまの井上委員の御説明につきまして、御質問がおありかと思いますけれども、御質問につきましては、これからの意見交換の中でお聞きいただければと考えておりますので、早速、意見交換に入りたいと思います。どなかたからでも結構なのですが、髙木委員がペーパーを出しておられますので、もし何でしたら、最初に髙木委員からどうぞ。
【髙木委員】どうもありがとうございます。3月6日付けで会長の方に、裁判員制度についてのフレームとまでいきませんが、ある種の考え方で、お考えいただいたらどうかということを、委員の皆さんのところに是非お届けいただきたいという趣旨も込めまして、出させていただきました。それも事前に御覧いただいていると思いますが、その「裁判員制度の構想(案)」ということで出させていただいたものにつきまして、制度の趣旨と言いますか、おおざっぱな考え方について、お時間をいただいて、御説明させていただきたいと思います。
それから、本日お配りいただきました資料が2種類ございます。一つは「『裁判員制度』について(説明要旨)」、これを御覧いただきながらお聞き賜りたいと思いますが、加えまして、私の提案に関連し、私の友人の方々等が、いろんな方々ともお話をしていただいたわけでございますが、そういった方々からいろんな御意見等もいただきましたので、それも別途の配付資料ということで、とりあえず今日時点のことでまとめさせていただきましたものを一緒に配らせていただいております。後ほどちょっと触れたいと思いますが、御一緒に御覧いただきたいと思います。
まず、最初に「基本理念」ということで中間報告、1月30日の審議の要約等でお互いに合意をし合った内容をそのままそこに書かせていただいております。
2番目に「制度設計の要点」ということで、国民が参加するという裁判制度をつくる目的は、「法律専門家である裁判官の判断を国民が補完するということではなく、『統治主体、権利主体』たる国民が、自ら主体的、実質的に判断を下すということにある」ということ、このことについては皆さんも御共感いただけるものと思います。
参加制度におきます裁判官の役割は、「『自律性と責任感を持って参加することが求められる』国民の『主体的・実質的』な判断をサポートし、その適法性を確保する」ことにあるということです。
このような国民裁判官の意義及び裁判官の果たすべき役割に鑑みまして、一つには、「参加する国民は、事件ごとに無作為に選ばれるものとし」、この点は今の井上さんの御説明のとおりでございますが、「その数も法律専門家たる裁判官の数の数倍とする」という考え方でございます。二つ目には、「裁判員の主体性・自律性という考え方を貫徹するため、一定の場合に、裁判員のみで評決する仕組み(裁判員の独立評決)も備えておく」必要があるのではないかということでございます。
「制度の概要」ということで、かなりの部分が井上さんの御説明と一緒なのですが、一、二の点に触れさせていただきたいと思います。
まず、3ページの3番目の「制度適用の非選択制(辞退の不可)では、「裁判員制度によって審理すべき事件は法律によってこれを定める。」、「裁判員制度によるか否かについて、被告人の選択を認めない。」とありまして、これは今の井上さんの御説明とほぼ似通っているんじゃないかと思いますが、これに付け加えまして、例えばこういう制度の設計をいたしましたときに、国民の負担という問題、ここには言及いたしておりませんが、そういった問題からもいろんな配慮が要請されることは申し上げるまでもないことだと思います。
「4 裁判員の数」ですが、「裁判員の数は、国民の多様な意見を反映しうるものであること、国民が参加の機会を実質的に有すると実感しうるものであること、国民が判決内容の形成を主体的かつ自律的に担うにふさわしいものであること、などの諸要請を満たしうるもの」でなければならないと思います。結論は先ほど申し上げましたように、「裁判官の数の数倍程度」ということでお考えをいただければと思います。
こういった考え方をする背景でございますが、裁判員の数は、まさに裁判員制度の本質が何にあるのか、といったところから導かれるべきではないかと思います。国民が裁判員として訴訟手続に参加いたしますのは、法律専門家であります裁判官の判断を国民が補完するということではなく、「統治主体、権利主体」として国民自身が判断を下すためであろうと思います。参加人数を決める上では、以下に書いてありますような、①②③のような要請が満たされる必要があると思います。そういうようなことで、裁判官の数の数倍程度と考えるわけでございます。
フランスの陪審制につきまして、3月9日の日経新聞・朝刊に、自民党の方の会議で、最高裁あるいは法務省の方が行って御説明なさったという記事がございまして、そこでフランスの陪審制について触れられておりましたが、それを拝見しまして、新聞記事のことでございますから、まさにそのとおりのことなのかどうか私もよく存じませんが、あれっと思いました。日弁連の方と研究者の方が本年2月にフランスに行かれ、フランスの裁判長等とお会いになったという、そういったお話もお聞きしましたので、ちょっとお聞きをしていただきましたら、どうも新聞記事の要旨とは大分違うようですという返事でございました。そのことも若干付言をしておきたいと思います。
「5『裁判内容の決定』における『責任』・権限の『分担』のあり方」、これにつきましては、「裁判員は、裁判官とともに裁判体を構成し、各自、裁判官と対等な評決権をもって、有罪・無罪の決定および刑の量定を行う」ということ。裁判官の方々には、裁判員では担えないと言いますか、裁判員以上に役割を果たしていただく領域は勿論あるわけでございますが、「裁判官は、次項の場合を除き、評議にかかる一切の権限を有する」と思います。
「裁判官は、被告人が裁判員のみによる評議を求めたときなど一定の場合に、事実認定における評決権を有しない」という発想でアプローチした方がいい部分があるように思います。これは1月30日の我々の論議の後の記者会見の中でも、陪審という言葉を使っていたかどうかわかりませんが、そういった要素の部分も、これからもまだ検討の対象になり得る部分があるというやりとりがあったということを、新聞記事か何かで拝見したんですが、そんなやりとりもおありになったということなんで、こんなことも考えさせていただいたわけでございます。
そのバックグラウンドの説明でございますが、裁判員が裁判官と対等の評決権を持つことについて、憲法上の問題を指摘する御見解もございます。そういう意味では井上さんの先ほどの話、憲法との関係に御留意をして御説明をされておられたのは、そういったことからであろうと思いながらお聞きをしておりました。
まず、裁判を受ける側の権利との関係、これは憲法32条に「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」として、裁判所において裁判を受ける権利を保障しております。ここで言う裁判所とは、「最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所」を指す、これは井上さんも御指摘されたように、憲法76条第1項では、司法権が属するのもこの司法機関たる裁判所と定めています。
憲法32条が保障するのは、司法権が属する司法機関たる裁判所において、裁判を受ける権利であり、裁判所で裁判を担当する職員である裁判官による裁判を受ける権利を保障しているという、そういうとらえ方をしなくてもいいのではないかと思われます。
そこで、法律の定めるところの者をその構成員とすることはもとより可能であるわけでございます。裁判員は、裁判所の一員たり得るという位置づけで、その裁判所の裁判が憲法32条に抵触するということにはならないと思っております。
次に、76条3項の裁判官の職権行使の独立性でございますが、それは裁判官に唯一かつ終局的な決定権限が付与されていることを意味するものではないと思います。法律に基づき裁判官の職権行使に制約が生ずる例は、現行法でも存在しております。例えば裁判所法第4条の上級審の下級審への拘束力、更に合議体による裁判では、個々の裁判官は独立してその職権を行使するが、個々の裁判官に唯一かつ終局的な決定権限があるわけではございません。要するに、職権行使の独立性は、職権そのものの無制約性、終局性まで含意するものではなく、後者については一定の限定を付したとしても、直ちに前者を侵害するわけではないと思います。
最後に専門家たる職業裁判官に関する規定を置くにとどまる憲法が、裁判員のように、素人でかつ臨時に評決権を行使するものの存在を許容しているかの点について言えば、憲法が例えば最高裁判所については、79条第1項で「その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成」すると定めております。最高裁判所については裁判官のみでこれが構成されることを明示しながらも、下級裁判所についてはこのような定めをしておりませんことなどに鑑みれば、裁判所を憲法の規定する専門家たる職業裁判官のみが裁判を行う機関であると解すべき理由はないと言えるのではないかと思います。
「事実認定と量刑の判断資料」のところは後でお読みいただければと思います。
最後に「裁判員による独立評決」のことについて重ねて申し上げさせていただきたいと思います。
裁判員制度の基礎にありますのは、主権者である国民を招集し、懸案の事項について判断を下してもらおうという考え方であろうと思います。裁判官が評議・評決に加わるのも、国民判断を助け、「法律の専門家」として、その適法性を保障するためであろうかと思います。裁判員制度におきましては、裁判員の評議・評決は必須のものでございますが、裁判官の評議・評決は必ずしも必須のものであろうか、というとらえ方もできると思います。裁判官と裁判員とが「それぞれ固有の役割とそれに相応する責任を分担しつつ、適正な裁判を作り上げるために、相互に十分かつ適切なコミュニケーションをはかって協働する」、これは1月30日の審議の要約でございますが、このためには、両者間で適切な権限と責任の分担が図られなければなりません。法の解釈・適用について裁判官の評決権が制約されると主張されているように、事実認定について裁判官の評決権が制約されることもあり得るのではないかと思います。
そこで①②③のようなケースを書いておきました。こういったケースにおいては、事実認定、つまり有罪・無罪の判断を、裁判員のみによる評決に関わらせることが合理的であろうと思います。この場合には、裁判官には評決権がなく、裁判員による事実認定の評決結果を受けて、量刑は、裁判官と裁判員で判断するということになろうかと思います。
裁判員による独立評決は、裁判員制度に組み込まれた仕組みの一つであり、以上に示しましたような一定の要件がある場合には、これでいいのではないかと思います。裁判員による独立評決は、裁判員制度によって参加した国民の「主体的、実質的」な判断をより徹底して確保しようする、そういったものだと思います。裁判員制度によるか否かを被告人の判断に委ねないこと、つまり被告人の辞退を許さないこと、すなわち、裁判内容の決定における国民の参加の権利を尊重する思想に基づき、これを実質化・実効化するために設けられた仕組みでございます。このような考え方、是非、御検討を賜りたいと思います。
それから「裁判の『理由』」でございますが、余り判決書の従来の形式にこだわることなく、この制度の趣旨に合った形式を導入して、有罪判決に理由を付す、そんな形を考えていただければいいのではないかと思います。
最後ですが、「有罪判決に対する被告人の事実誤認の疑いを理由とする控訴」を認めるとした方が、より実体的ではないかと思います。
以上のような考え方で、この「裁判員制度の構想」という文書を出させていただきました。
もう一つ本日お渡しいたしました「私の提案に関連する諸種の意見について」というもう一つのペーパーでございますが、1ページに掲げてありますように、こういった方々から、色々書面によって意見をいただきました。それから、先日ここでお話しいただいた三谷先生、あるいは新堂先生等からも御意見をいただきました。佐伯先生のお話もそこに記載されてあるとおりでございます。
また、お名前、固有名詞をリファーさせていただくわけにいきませんが、最高裁の元裁判官のお二方のお話の内容もそこに記載されてあるとおりでございます。
新聞記事につきましては、この間、皆様御高覧でございましょうが、こういった方々が国民参加制度について色々な記事をお書きになっておられます。
あと、我々の審議会の地方公聴会で公述人として出ていただいた中で、陪・参審制を主張された方々からもまた御意見をいただきました。こういった方々、その他の声ということで、失礼でございますが、そういった方々から御賛同の御意見をいただいております。
その後、裁判官ネットワークの皆さんからの御意見、あるいは裁判員制度の構想に関する御意見ということで、それぞれ元各高裁判事をなさっていた皆様から御意見をいただきました。
更に、龍谷大学の村井先生以下、北海道大学の白取祐司先生まで、5先生からも記載のような御意見をいただいております。
その後には新聞記事の方もダブっておるかもしれませんが入れてございます。御参照をいただきたいと思います。
更に、一番最後に、「『裁判員制度』構想に関する意見書」ということで、各地の公聴会の公述人で出られました8名の方からの意見。それから、民主党の法務ネクスト大臣の小川敏夫さんからの提言・意見。それから、木村弁護士からは賛同意見をくださった方々のリスト。
以上でございますが、終わりたいと思います。どうもお時間をいただきまして、ありがとうございました。
【佐藤会長】どうもありがとうございました。
それでは、必ずしもこの「骨子(案)」の順番通りでなくて結構ですので、自由に御意見を開陳していただければと思います。
【竹下会長代理】一番最初のところでございますけれども、「法律問題についてはさらに検討が必要である」という結論には異論がないのでございますけれども、二つばかり問題点の指摘をさせていただきたいと思うのです。
一つは、国民の司法参加制度、とりわけこの裁判員制度というものを我々が考えましたときに、これはたびたび言われていることですが、プロフェッショナルとしての職業裁判官と参加をした国民との間のコミュニケーションが重要なのだということを言ってまいりまして、その場合には、法律問題についても、法律専門家だけの論理あるいは用語だけで議論をするのではなく、参加をした国民にも十分理解、納得が得られるようなコミュニケーションの在り方が望ましいと考えてきたわけです。そういう観点から見ますと、法律問題ですから最終的な結論は、職業裁判官によって決めるということでやむを得ないかもしれませんが、その途中においては、法律問題についても裁判官と裁判員とのコミュニケーションが行われることが望ましいのではないかということであります。
それからもう一つは、井上委員から先ほど御説明していただいたペーパーの中では、括弧の中で触れられておりますけれども、違憲審査権の問題でございまして、私は本当の国民全体から選挙で選ばれた国会議員から成る国会が制定した法律を、無作為抽出で選ばれた裁判員が違憲であるというような判断を下すことを認めるのは、日本国憲法の今の国民代表制と合致しないと考えるのでありまして、裁判員も違憲審査権の行使に関与できるということは非常に疑問ではないかと思います。
なぜ、そういうことを申し上げるかというと、この問題は、参加をする裁判員が一体どういう資格で訴訟手続に入っていくのか、という問題と関係しているので、あえて触れたわけでございます。
どうも、我々は今まで必ずしもそこを明確にしてこなかったと思うのですが、何か裁判員は国民代表として参加をするというような感じで議論がなされた場合もあるように思うのです。しかし、私はそうではないと考えます。国民代表は、まさしく国会のように、国民の意思に基づいて選ばれた者なのであって、これに対して、無作為抽出により一般国民の中から選ばれたという人は、国民代表として参加をしているわけでは決してなく、言わば、そういうシステムの中で選ばれた個人として参加をしている。やはりここはしっかり押さえておく必要があるのではないか。ある意味で議論の出発点にもなると思いますので、以上のような私の考え方を申し上げる次第です。
【佐藤会長】他にどなたか。
【藤田委員】質問ですが、「訴訟手続上の問題」というと、例えば、証拠能力のことなどを指しておられるんだろうと思うんですが、「法律問題」というと、具体的なイメージとしてはどういう内容なんでしょうか。
【井上委員】中心は実体刑法ですね。事実に適応すべき実体刑法の選択とその解釈です。適用ということになりますと、どちらから見るかによって事実認定というふうに見えたりするのですけれども、事実にあてはめる前提となる法律の枠組みの選択といいますか、そこまでは少なくとも法律問題としてとらえられるのではないか。あえて「法律問題」という言葉を使いまして、「法令の解釈・適用」という法律上の用語を使わなかったのは、法律上の用語の解釈に引きつけられると、物事が難しくなるものですから、法律問題と事実問題という仕分けに、ここではしてあるのです。
ついでに、竹下先生のおっしゃった第一点目について申し上げますと、私も両様の考え方があると思っていまして、法の解釈といいましても、やはりそこには社会の人たちの意識とか感覚とかを反映させるべき面が多々あると思うのですね。ただ、難しいのは、我が国の刑法は不磨の大典のようで、余り変わったことがないものですから、一つの条文につき無数の学説や解釈がありまして、その中でどれを選ぶのかというところまで全部裁判員に提示して選んでもらうということが果たしてできるのか、また適切なのか、というところでかなり疑問があるのです。その意味で、そこは裁判官の責任で、多数の考え方はこうであるとか、判例はこうであるということを前提にしながら、裁判員に説明をして、それについて、いや、それはちょっとおかしいじゃないか、といった意見を言ってもらうのはいいと思いますが、最終的な責任は、だれかが責任を持って選択して決めなければいけないわけですから、そこまで裁判員がやれるのか、そこのところはかなり難しい問題だと思うのですね。
竹下先生がおっしゃったように、少なくとも評議の対象にして、説明をし、裁判員の意見を聞くということは当然やるべきだろうというふうに、私も思うのですけれども。
【吉岡委員】今の意見に関してですけど、基本的にこの審議会は、統治客体意識から主体意識に変えていくというところで合意されていると思うんですね。それで、裁判員に評決権を持たせるかどうかということで、それが問題があるというのが竹下先生の御意見のように思いますが。
【竹下会長代理】いやいや、そういうことではなく、評決権を認めることは差し支えないのです。
【吉岡委員】そうではないんですか。そこまでは言っていないということですか。
私はやはり統治主体に変わるというということと国民主権、そういう基本的な考え方に立脚すれば、当然、裁判への関与、それも今の段階では勿論、限られた中での関与の在り方となりますが、当然のこととして、最終決定のところまで参加しないとおかしい。ただ意見を言う、ということに留まるとなると、これは今までの合意から逆行してしまうのではないですか。
【竹下会長代理】いやいや、私はそういうことを申し上げているのではありません。私が申しましたのは違憲審査権についてなのです。つまり、文字どおり全国民から選挙によって選ばれた国会議員が合憲だと思うからこそ、ある法律をつくるわけですね。その法律を、無作為抽出で選ばれた何人かの国民が違憲だという、そういう判断をしていいのか、そのような権限を認めるのはおかしいのではないかということを申し上げているのです。
【井上委員】今、吉岡委員のおっしゃった点なのですけれども、有罪、無罪を決め、有罪の場合は刑を選択して、その刑の量を決めるということについては、当然裁判員も参加する。これは一致していると思うのですね。ただ、その出発点として、どういう法規を目標にして事実を認定するのかとか、刑を決める場合にどの法律を適用していくのかと、そこの選択まで責任を負わせるべきかどうかという、その点だけの問題なのです。竹下先生が第一点でおっしゃったのは。
【吉岡委員】わかりました。そういうことを御心配してという、そういうことで、「骨子(案)」の一番上の括弧の中の但書き、そこのところで「法律問題、訴訟手続の問題等に関与するかについてはさらに検討が必要」と言っていらっしゃるわけですけれども、ここについては、職業裁判官の判断というのが重要だということですか。そこまでは言っていないということですか。
【佐藤会長】さっきの御説明にあったように。
【吉岡委員】あくまでも違憲審査権について、ということですか。
【井上委員】「補足説明」の括弧の中で違憲審査について触れておりますが、その前の問題として、法律問題一般について誰が判断するのかという点について、さっき申し上げたような理由から、そこも区別しないで裁判員にも担当してもらった方がいいという考え方と、それはかなり難しいのではないかということで、そこだけは裁判官に責任を負わせてやってもらった方がいいという考え方があって、その点はなかなか難しいということです。
もう一つ、事実問題と法律問題とを区別するのがそもそも難しいところが、限界領域ではありまして、その意味で、ヨーロッパなどでは区別していないところがほとんどなのですね。そういうことも含めて検討した方がいいのではないかという趣旨です。
【佐藤会長】今、代理が言われた、違憲審査との関係なんですけれども、この「骨子(案)」では、法的な問題についても裁判員が何らかの関与をするということになっているわけです。しかし、法律問題といっても必ずしもすっきりしないところがある。違憲審査の関係で言いますと、法令違憲は、代理のおっしゃるとおりかもしれないけれども、法律の解釈のときに、例えば、合憲限定解釈とか適用違憲とかいうような話も出てくると、それについて裁判員が色々言い出すという場面もあり得ると思います。これを考えるとなかなか難しい。そもそも法的問題について関係するとは一体どういうことなのか、議論するとなかなか難しい問題があるような気がします。法令違憲については比較的シンプルでわかりやすいんですけれども。
【竹下会長代理】そうですね。それは別に考えてもよいかと思うのですが。
【井上委員】今の御議論は、法律家の間では分かるお話ですけれども。
【佐藤会長】法令違憲は、問題の法律の何条が憲法に違反して無効だとするものです。合憲限定解釈とは、ある解釈を取ると違憲とならざるを得ない、しかし、こういう解釈を取ったら憲法上許される、だからその解釈に従ってこの法律は適用されるべきであるということです。適用違憲とは、幾通りもあるんですけれども、端的に法令違憲だとは言わないけれども、こういう適応の仕方はやはり憲法上許されないということです。
したがって、憲法が問題になるとしても、色々な局面があるということを今申し上げているわけです。
【竹下会長代理】私が申し上げたかったのは、少なくとも法令違憲の場合には、やはり裁判員が参加をするのはおかしいでしょうということです。本当の国民代表が決めた法律を憲法に反するというようなことを、無作為抽出で選ばれた人が言う権限を持つというのはおかしいということです。
結局、そう考えてくると、裁判手続に参加をする裁判員というのは一体どういう資格で参加をしているのか。その点について、これまでの議論を聞いていると、国民代表だというように聞こえることがあるものですから、そこはやはりしっかり確認しておかなければいけないのではないか。決して選挙で選ばれているわけでも何でもないし、それなのにあたかも主権者たる国民の代表として入っているというような受け取られ方をしかねない議論の仕方というものはおかしいということを申し上げたわけです。
【山本委員】吉岡さんがおっしゃた、裁判員が自主的に裁判の帰趨に影響力を行使するということには全然異論はないんですけれども、今、竹下代理が言われた問題提起に対しましては、私は、国民の司法参加の目的としては、より良い判決を求めるために今の職業裁判官による判断に社会常識的な視点を付加する、ということを第一に置きたいと考えております。
ですから、現在の裁判の正当性あるいは国民の支持基盤に基本的な問題ありという考え方から、国民の独立した判断そのものにこそ価値があるというアメリカ流の視点、あるいは裁判の場をもって民主主義の学校にしようということ、そういうところに重きを置く考え方については、私としては賛同できないわけであります。
したがいまして、具体的な制度設計といたしましては、あくまでも職業裁判官による判断という担保があり、そこにうまく一般国民の視点が反映できるようにすることこそ重要ではないかと考えているわけでございます。
裁判官と裁判員の人数につきましても、これは双方向のコミュニケーションができることが大前提でありますので、多人数の人員構成になるということは好ましくないので、例えば、トータルで6、7人ぐらいが妥当なところではないかと思います。そういう少人数の場で、裁判官と裁判員が協働してお互いにコミュニケーションを深めながら、裁判の結果についての共感を持ち得るようなスキームがよろしいのではないかと考えております。
それから、もう一つ、井上先生のレポートにございましたが、評決の問題でございます。最終的には職業裁判官の責任ある判断に裏打ちされた制度とすべきではないかというふうに考えております。レジュメでは、少なくとも裁判官また裁判員のみによる多数で、被告人に不利な決定をすることはできないようにすべきであるとありますが、これについてはちょっと異論があるわけでございます。
第一に、裁判員のみによる多数で決定できないという点は、少なくとも一人の裁判官が加わった多数でなければ決定できないという意味で当然だと思いますが、裁判官のみによる多数では決定できないということについては、ちょっと反対をしたいと思います。
例えば、全裁判官が一致している判断を、裁判員が覆すことができるというような制度設計は、事実上の陪審制につながるのではないかと考えるものでございます。人数の構成にもよりますが、裁判官のみの多数であっても決定できる、あるいは全裁判官の一致した判断で決定できるというふうにすべきではないかと考えます。
それから第二に、被告人に不利な決定であろうが、有利な決定であろうが、決定の考え方は同様であるべきではないかと思います。適正手続という面では、憲法は、裁判官による判断を保証しているというふうに考えることから、裁判員のみの判断で有罪にするのはまずいという配慮が働いているものと考えますけれども、逆に、被告人に有利な決定であるならば、裁判官の判断と異なっても裁判員のみの判断で決定できるというのは、ちょっと論理的におかしいのではないかと考えております。
以上三点、私の意見を申し上げました。
【佐藤会長】水原委員どうぞ。
【水原委員】先ほど竹下代理が述べられました、参加する裁判員がどういう資格で参加するのか、これは極めて重要であり基本的な問題ではなかろうかと私も思います。
私どもがこれまで議論してきましたところを概観しますと、大筋においてはどういうことをやってきたかといいますと、国民の司法参加というのは、国民による裁判をするということが前提ではなくて、より良い裁判をするにはどういう形で国民が参加してくるのが望ましいかということであったと思うんです。
だから、今までの裁判制度そのものが全部だめだから、そこで新たな制度を構築しようというものではなかったと私は理解しております。それには異論があろうかと思いますが、確かに裁判には色々指摘されるような問題があることも承知しておりますけれども、おおむね裁判機能というものは果たしているのではなかろうか。しかしながら、それだけでは足りない。やはり国民が司法に参加することによって、その意義は個別の事件の評議・評決によって職業裁判官と裁判員とが協働することによって、職業裁判官としての知識、経験、緻密な分析力と、それから裁判員による常識に基づく新たな観点の提示、正義感の反映、これが相まって、事案を更に多角的な視点から検討する可能性も出てくる、それによってより良い裁判ができるのではないか、できることになろう、ということで共通した認識があったのではなかろうかというふうに私は思っております。
ところで、合議体の構成のことでございますけれども、裁判員と職業裁判官とが、それぞれの長所、持ち味を生かして、いずれもが主体性を失うことなく、相互の信頼関係の下で十分なコミュニケーションを取りながら個々の論点について議論をするには、今、ここで議論しております、取り上げる対象事件というものが、法定刑の重い事件となりますと、その事件は背景事情が非常に複雑になってくる場合がございます。それから、動機も色々難しい問題もございます。それから、犯意を認定するのに色々難しい問題が起きましょう。それから、犯行の態様も色々問題がございましょう。そういう細かいものについて、否認事件が3分の1ぐらいあるというお話でございましたけれども、そういう細かいことについて、職業裁判官と裁判員が、その委曲を尽くしてよく議論し合い、そして判決が書けるようなところまで協議し合うためには、やはり裁判体は、余りにもでか過ぎてはいけません。やはりコンパクトな、コミュニケーションが十分取れるようなものでなければ、実質的な意見交換、議論はできないのではなかろうかというふうに思います。
そういう意味でコンパクトなもの、人数については、これから、何がコンパクトで何が十分議論ができるかということは、また後で議論していただかなければなりませんけれども、そういうふうに思います。
それから、これは数が多いほどいいというものではございません。先ほど補足説明として井上委員が述べられましたけれども、国民の負担ということを考えてみますと、裁判員の負担ということを考えてみますと、なるほど、こういう国民の司法参加ができましたならば、訴訟制度もどんどん変わってきまして、手続も変わってくるということは、井上委員が御報告されましたとおりであって、連続開廷で、それから集中審議、そういうことになりますけれども、今までの日本の裁判例を見てみますと、そう簡単に集中的に連続して2、3日のうちで結審ができるというような訴訟の運びにはなかなかなり切れないのではなかろうかという気がいたします。
そうなってきますと、裁判員に対する負担ということも相当大きなウエートを掛けて考えなければならないでしょう。そうなりますと、数におのずと制限がなければいけないのではなかろうかという気がいたします。
それから、職業裁判官を除いた裁判員だけで事実認定ができるという御意見を髙木委員が述べられましたけれども、私は、憲法については不勉強でございますのでよくわかりませんけれども、今の憲法はやはり職業裁判官による裁判が基本であるというふうになっているのではなかろうかと私は理解いたしております。だからと言って、それでは職業裁判官でない者が、裁判体に加わることまで排除している意味ではございません。そうは思っておりません。
だとするならば、やはり職業裁判官を除いて事実認定をするという裁判が認められるとなりますと、憲法上多大な疑義があるのではなかろうかという気がいたします。事実認定というのは、何といいましても、刑事裁判につきましては、量刑にまさるとも劣らない極めて重要な中核的な部分を成すものでございますので、それに職業裁判官を排除して、裁判員だけで裁判するという、これはどう考えても私は納得できない意見でございます。
以上、申し上げました。
【髙木委員】先ほど時間をいただいたので、黙っておろうかと思いましたが、気になる点が二、三ありますので、発言させていただきます。
一つは、竹下代理は、国民代表でなく個人だとおっしゃる。確かに、無作為で選ばれた人、そういうルールの下で選ばれるということで、我々は広く一般の国民の意識で裁判に参加をしていくべきではないかという認識に立っていると思います。それは先ほど吉岡さんも言われたように、統治客体から主体意識へとか、色々観点もあるんでしょうが、そういう意味では、竹下さんのおっしゃるような受け取り方、確かに、国会議員とは性格が違うのは違うけれども、また、ある部分共有する価値観でもって、1億何千万の国民全員が出るわけにいかないわけですが、ルールに従って選ばれた裁判員の人には託そうと、その託されている部分が、選挙で選ばれた国会議員等とは質が違うかもしれませんが、国民の代表的な意味が当然あるはずで、そういった広く一般の国民がと言われる感覚を裁判の中に生かしておこうというのが、今までの論議の一つの大きな流れの骨子であったと思うのです。
先ほど来の話を聞いていまして、ただ、どこかから出てきた一人の国民が座っているだけではないかという、そんなふうに聞こえるので、その辺、もう少しクラリファイをしていただきたいと思います。
それから、山本さんの御主張で、今の水原さんの御質問とよく似たお話もあったかもしれませんが、プロとアマチュア、それもごく普通の国民が、例えば、先ほど法律論まで国民が入れる、入れないという話がありましたが、私は、実態的には、よほどというか、かなり御苦労いただいて説明を国民にしていただき、こういうことですよと、噛んで含めていただいても、法律論まで一般の国民が実質的にどこまで関われるのか、おのずとある程度の限界があるんだろうと思います。
そういう中で、できるだけわかりやすくしていただくという努力をしていただくのは当然です。例えば、1人の裁判官が、法律の専門家として色々説得なさる行為までされるかどうか、それはお人にもよるんだろうと思いますし、そのときどきの事件の内容にもよるんだと思いますが、国民代表、と言うとまた竹下さんに怒られますが、無作為に選ばれた一般国民の代表が、主体的に・実質的に参加するしくみであるはずです。代表もおかしいですか。
【竹下会長代理】私はおかしいと思いますね。
【髙木委員】それはまた後で議論しましょう。何を言ったらいいか忘れちゃいましたけれども、裁判官の影響をものすごく受ける、そういったものはやはり影響受けないという、あるいは影響を受けるようなことをさせないという歯止めがよほどがっちりしたものがあるなら別ですけれども、そういう意味ではフランスなどの知恵が色々あると思います。
それからもう一点は、多数決という議論が、それも色々な種類の多数決がおありになるんだという御説明もありましたが、専門的なことは法律の御専門の方々に色々検討していただいたらいいんだろうと思いますけれども、どんな類型の多数決で決めるのかということについては、今、皆さんがおっしゃった裁判官と裁判員の数の関係、あるいはどういう関係するルールがあるかわかりませんが、周辺ルールとの兼ね合いも含めて考えるべきだと思うんですが。
それからもう一つ、裁判官が入らない方がよいケースということで、私は二、三の例を挙げ、裁判官が事実の評決の判断に入らない方がいいというケースを申し上げましたが、今日配りました資料で、元最高裁判事の園部先生の陪審制と参審制の長所を生かせという「論壇」の記事がございますが、それの5段目後半から6段目最初のところ、例えば、ここに「外国にも例があるが」ということで、今日、井上さんの方で御説明いただいた外国の例の一つで、スウェーデンなどがこういう陪審・参審併用制というのでしょうか、こういう事件類型での併用の例だろうと思ったんですが、裁判官が実際に審理に関わらない方がいい事件というのは、例えば、公務員に関わる事件、あるいは余り生々しいので、私がこういうことについて言っていいかどうかわかりませんが、例えば、今度の福岡のようなケースですね。色々考えていったときに、その方がやはり国民にとって納得が得られやすい、そういう事件類型、具体的にいいますと、要するに、公開で裁判をやる必要のあるような類型の事件。例えば、福岡の事件などは、そういう対象で、考えていいのではないかと思っておるわけでして、裁判官の方が立派であるとかないとかというのは別の話で、そういう事件の性質、類型によって、そういう形のものが当然あっていいんだろうと、そのように私は思うものですから、こういうお願いというか主張をさせていただいているということでございます。
【竹下会長代理】ちょっと私の発言で誤解を招くといけませんので補足しますが、私が先ほど「個人」と申しましたのは、要するに、国民代表たる国会議員、国民の意思に基づいて選出された人とは違いますよということです。個人といっても、全く個人的な好き嫌いとか、あるいは恣意で、この職務を行ってよいというようなものでないことは言うまでもないことです。裁判員という一種の公務を遂行する人であるということは間違いない。しかし、それは国民を代表してやっているという種類のものではないでしょう。公務を遂行している人は、ほかにたくさん行政庁にもいれば裁判所にもいるわけですけれども、別に公務を遂行しているからというので国民代表ということになるわけではありません。確かに一般国民から抽出されているという点では、それは職業として公務を遂行している人とは違うかもしれませんけれども、それが、国民の代表であるというのは、言葉の使い方として適切ではないのでないかということです。
【佐藤会長】ちょっと一言。「代表」という用語には色々な意味があって、難しいんですね。「国民代表」というのは、通常は国会議員のをことを言う。そうすると、裁判官は国民代表かというと、その意味では国民代表ではないんですね。けれども、広い意味では、公務員は国民を代表して公務に携っていると言えば国民代表と言える。だから、代表か代表でないかというレベルで議論するよりも、むしろ法律専門職と裁判員との関係をどう見るかということが大事ではないかと思います。ちょっとよけいなことを申し上げているのかもしれませんが。
【竹下会長代理】私も全くそのとおりだと思うのですが、ところが、どうも国民代表という言葉を使うと、国会議員と同じような意味で、訴訟手続に参加する裁判員が主権者たる国民の代表で、職業裁判官はそうではないのだというような議論が行われているのではないかということを指摘したいというのが私の発言の趣旨です。
【井上委員】私は余り発言しない方がいいと思いましたが、ここから先は個人の意見ということでお許し願いたいと思います。山本委員のおっしゃったことは、お考えとしてわかるんですけれども、しかし、どっちが主でどっちが従かというふうにまで言わなくてもよいのでないでしょうか。今の制度のような職業裁判官のみによる裁判に、国民が加わって社会常識を反映させることにより、より望ましいものにしようというのが基本的な趣旨ですので、どっちが主でどっちが従というふうにとらえなくてもいいのではないかと思うのです。それに、「実質的に関与」ということを強調していますので、裁判官だけで結局実質的には決められるということですと、果たして裁判員が加わる意味があるのかなという疑問があり、反対とおっしゃったところが、私はちょっと違うのではないかと思います。
第二点の、有利、不利を問わないはずだということも、それ自体としてよくわかるのですが、その点で①の説と②の説では考え方が違うのです。①の説は本来、おっしゃるとおり有利、不利を問わず妥当するはずなのですけれども、しかし、裁判体の構成員の数が奇数で単純多数決制でいった場合はそうなるのですが、偶数の場合や特別多数決制を採った場合には、賛否同数、あるいは有罪に賛成の方が多いという場合も、多数決の要件を満たさなければ無罪にせざるを得ないのです。
そういうことを考えますと、そういう構成や評決の仕方というものを排除してしまえば別なのですけれども、まだこれから検討しようということですので、そういう可能性をここで排除しないように、「少なくとも」ということにしているわけです。
これに対し、②の説の方は、裁判を受ける権利というものを、基本的には職業裁判官によって裁いてもらう権利ととらえる。そして、権利ですから、主に不利な方向の裁判について保障があり、有利な方向には保障がなくてもよいというふうに考えれば、②説のようになる。そういうことで、①と②では趣旨がちょっと違うわけです。
ついでに何点か申し上げておきますと、髙木委員が、フランスについて弁護士会の方たちが見てこられた感想について触れられましたが、この点は見た人によって、あるいは聞いた相手とか見たものによって、評価が恐らく分かれるところだろうと思います。それとは別の点で問題があると思っていますのは、フランスの場合は判決に理由を書かないのです。なぜかといいますと書けない。というのは、しかも結論だけの秘密評決だからなのです。そしてそれは、色々な経緯があってそうなっているのだろうと思うのですが、一つには、実質的な判決の理由について、詰めて合意ができるか、その点が難しいからではないかという感じがするのです。
それと、フランスのくらいの数にならないと裁判官のコントロールが強すぎてしまうのではないかという点なのですが、ほかの国では3対2、3対3、3対4という例もあって、そういう制度で運用しているわけでして、それで裁判官のコントロールといった問題が生じているのか。そこが、私には、議論が飛んでいるのではないかという感じがするわけです。
最後に、独立評決の提案なのですけれども、髙木委員の案では、当事者である被告人とか検察官が選んだ場合はそうすべきだということで、その理由としては、裁判員の主体性、独立性、あるいは自律性を貫徹するということが挙げられているわけですが、そのことと当事者に選ばせるということがどう結び付くのか、私にはわからないのですね。何で当事者が選んだ場合に貫徹しないといけないのかということです。貫徹すべきだというのなら、当事者が選ぶ選ばないにかかわらず、そうすべきだというべきではないか。しかし、そうすると、我々が大前提とする一番出発点のところが、完全に崩れてくるという感じがするわけです。裁判官と裁判員が一緒に全部やるのだというところがですね。
それともう一つ、園部元判事の説を引用されましたが、その点は、そういうことも考え方としてはあり得るかとも思うのですが、問題が二点あって、一点は、スウェーデンの例を挙げられましたけれども、それは参審制度を基本にしながら、出版の自由に関わるものは裁判官を除いた方がいいだろうということでつくられたものではない。むしろ、歴史的には逆で、王制だとか体制側が、反体制勢力を圧迫するのに、出版の自由を制限するような法執行や、出版に関する罪というものを適用したということがあって、それに対して、国民の自由を守るためには、陪審によることが必要ではないか、そういうことから国民参加が始まって、それをもっと一般の事件にも拡大しようということになったときに、陪審という形でいいのかということにつき議論があって、参審という形態が採用されていった。正確にはわかりませんけれども、恐らくそれが歴史的な経緯ではないかと思うのです。
もう一つは、公務員犯罪というのが例に挙げられているのですが、国民の常識を反映させるという点で確かに一つのアイデアではあるわけですけれども、どうして裁判官をそこから排除しないといけないのか。裁判官だと同じ公務員だから判断が歪んじゃうというのは、ちょっと乱暴で飛躍した議論だと思いますし、また実際問題としても、例えば贈収賄罪などを例にとって考えますと、さっき水原委員も触れられたと思うのですけれども、非常に立証が難しい。密室性の犯罪なものですから、関係者の供述が非常に食い違うことがあり、それを照らし合わせて評価していかないといけないですし、また、お金の流れというのが絡んできますと、帳簿等を照合して、かなり綿密に分析しないといけないといけない。そうしますと、これは経済事犯などと同じで、純粋陪審型のようなものにはちょっとなじまないのではないかなと思います。裁判官と裁判員の両方が入った裁判体にやらせるべきだという議論ならまだわかるんですけれども。
【佐藤会長】こういう議論を続けますと、4時半までにまとめるのは大変難しい。といって休憩をはさまないでやりますと、皆さんのひんしゅくを買うのではないかと思いますので、休憩を10分はさみまして、25分に再開したいと思います。
【佐藤会長】それでは、25分になりましたので、再開させていただきます。
最初に鳥居委員に御発言をお願いします。
【鳥居委員】司法制度改革について、当審議会が発足以来審議してきて、夏の集中審議を経て、特に国民の司法参加については1月30日に一つの流れができた。その流れを私は今日の段階では是非このまま進めていただきたい。
素人ながら私も今回司法制度改革に参加させていただいて、勉強して、やはり明治の初年に日本の司法のシステムをつくった人たちというのは偉かった。
それから、終戦直後に日本の新しい制度をつくったときの議論も読んでみると、本当に傾聴に値する、立派なものだということがたくさん書いてある。
その中を貫いているのは、やはり国民の権利ということを、あれだけの時代、明治の初年の時代に考えていたし、昭和20年から24年に掛けての段階でも考えていたということだと思うんです。先ほど来の御議論を伺っても、確かに私は現在の裁判官による裁判だけでは問題で、そこに社会常識が入ってくるという意味合いも非常に重要ではありますが、もっと重要なのは、国民の代表とか何とか言うよりも、国民そのものに固有の権利として立法への参加の権利があり、司法への参加の権利があるという考え方、それが貫かれていることが大事なんじゃないかと思うんです。
そのことにこだわって議論をして、お互いにそこのところで妥協できないと先へ進めないということになりますと、今日の審議は一向に進まなくなりますから、これ以上申し上げるつもりはないんですが、私の頭の中でもそこのところが一番大事なところのように思うんです。
【藤田委員】最初に井上先生に、「法律問題」のイメージを伺ったんですが、裁判員と裁判官との役割分担で、事実認定と量刑というのは、みんな必ず挙げているんですが、法律問題、法令の適用については、挙げている人と挙げていない人がいるんです。ギルティー・オア・ノット・ギルティーという答申をする限りにおいては、陪審の任務とされている事実認定も、どうしても法律的判断と不可避的に結び付いている面がある。井上先生の解説の中にもございますけれども、違憲立法審査権については問題があるので、アメリカの陪審でも、法律を適用する場面において、もしその法律が違憲であれば適用できないわけですが、それは裁判官の説示で決めることであって、陪審が違憲かどうかという判断をするわけではないと思います。いずれにしましても、法律問題、例えばわいせつ罪かどうかなどという問題は、国民の良識を反映した方がいいという考え方もありますけれども、正当防衛と緊急避難の要件とか効果の違いという判断は、やはり職業裁判官でないとちょっと無理だろうと思います。そういう意味で、職業裁判官と裁判員の役割をどういうふうに振り分けるのかという点は、これから制度設計するときに、もう一遍慎重な検討を要することではなかろうかと思います。
合憲性の関係はとことん突き詰めた議論をこの審議会ではしないということではありますけれども、制度設計に取り掛かるとなれば、やはり今の違憲立法審査権の問題なども含めて、合憲性をチェックしなければいけないと思います。私は個人的には、選択権があれば合憲性はクリアーできるんじゃないかというふうに考えていたんですが、選択権は認めないということでおおよその合意ができたということになりました。しかし、これも制度設計のときにもう一遍考えてみてもいいんじゃないか。
それから、色々御意見が分かれておりますが、プロフェッショナルな裁判官と国民の良識を反映する裁判員とが協働していくという基本的な考えで行くのであれば、裁判官の判断を制限するという方向にはいかないのではないか。そういうことからすると、裁判員の数、裁判官の数というのは重要な要素だと思いますけれども、あまり大きな合議体にすると、現場検証などの証拠調べの関係で困難をきたすということを前にも申し上げました。あまり大きな合議体にするというのはいかがなものか。
この点に関連しまして、国民の良識を反映するという点では、重罪事件を対象にするということが、制度としてのインパクトとしてどうしても必要だということで、これもほぼコンセンサスになっているわけですけれども、日常的な犯罪について、多くの国民が幅広く参加していくという形態も、国民に司法に主体的に参加してもらうための一つのトレーニングとして、そういう在り方もあるんじゃないか。髙木委員のペーパーの中にもその対象について含みを持たせておくべきだという御意見がありますけれども、やはり制度設計のときに、そういうことももう一度考えてもいいのかなと考えます。
アメリカの陪審については、私は余りよく知りませんので、そこにいらっしゃる四宮先生に教えていただければと思うんですけれども。以上でございます。
【中坊委員】私、今回のこの司法参加の問題、今回の司法制度改革審議会においても、最も新しい、しかも根本的な問題点の審議事項だと思いますし、これは少なくとも我々審議会の設置法の中で、わざわざ「国民の司法制度への関与」ということが条文の中に織り込まれており、それを受けて我々は、国民的基盤の確立という概念に基づいて、訴訟手続の司法参加というふうに全体の大きな流れの中において、この問題を論じているということを、もう一度再確認される必要がある。そこで誤解がお互いにあると大変なことになるんじゃないかという気がするんです。
そこから出てきた概念というのは、私は既にこの中間報告、1月30日の場合にも書かれましたように、陪審員とか参審員とか言わずに、「裁判員」という名前を付けましょうということでした。
その裁判員がどのように訴訟手続に参加するかということについて、少なくとも一つは主体的に、ということを言ったと思います。
二つ目には、実質的に、ということ。
三つには、責任を分担する、ということ。
四つ目に、職業裁判官と協働してやる、ということ。
この四つの大きなメルクマールを決めて、この問題を論じているという、その基本のラインをもう一度お互いに確認しないと、我々のこの審議がまとまらないんじゃないかという気がするんです。
そういう視点に立って、今問題になっている点について考えますと、一番最初に法律問題というのがありまして、確かに法令の解釈、適用だと大変問題があるし、確かに法律問題としか言いようがないかなというくらい、事実判断と法律問題については、どこからどこまでがそうだということは、具体的な案件を自分で考えてみましても、例えば名誉毀損なら名誉毀損というものを例に具体的に考えてみても、こうなってきたらどういうふうに審理するかなと思えば、確かにおっしゃるように、どこかで非常に限界が微妙であるということはあると思うんです。
しかし、少なくとも我々というのは、大きな定義としては、責任を分担するということを我々としては大原則として定めておる。その責任を分担ということは、少なくとも有罪・無罪の決定、すなわち事実問題と刑の量定、これは裁判員が関与します。
同時に、一方においては法律問題、これは責任の分担ということから言えば、これは職業裁判官がなさるというのが基本だということは確認しないと、どういう角度で責任を分担しているというのがはっきりしない。
しかも、単にこの問題が、訴訟手続への国民の参加の問題だけではなしに、我々はロースクールというのをつくり、そこで専門家教育ということが行われて、21世紀の司法の基盤ができ上がってくるんだということを想定した職業裁判官というものを今我々は考えているわけなのでありまして、やはり専門家というものが法律の分野においても、この裁判の過程において必要だと言えばこそ、専門家の養成から問題を解き起こしてきたんじゃないかと思うんです。
そういうことから言えば、責任をお互いに分担するというのであれば、事実認定などは裁判員、法律問題は裁判官、こういうような大きな責任分担というものがあると考えないといけないのではないかと思います。
それから、同時にこの「骨子(案)」の二つ目のところに出ていますように、「裁判員は、裁判官と基本的に同一の権限を有する」。私は、表現・言葉として「同一の権限を有する」というのは、厳密な意味ではちょっと不正確で、むしろ「対等に扱う」ということじゃないか。要するに、ここに書かれておるように、評議においては、裁判官も裁判員も対等ですよということをはっきりさせることは意味がある。「同一権限」と言うと、先ほど言う責任の分担ということから言えば紛わしく、権限が同じか疑問ということになってきて、むしろ、必要なのは、「対等に扱う」ということではないかと思うんてす。
三つ目には、今回の審議会の中でも、我々の中にある、いわゆる参審的な物の考え方と陪審的な物の考え方から、先ほど国民の代表とか色々おっしゃっても、色々問題点が出てきているというのはわかるし、それが裁判員の人数問題に関与してきているというのは、私もそのとおりではなかろうかと思うのです。
しかし、そこにおいて必要なことは、先ほど言う、まさに原則として決めた裁判員が裁判の評議・評決について、主体的に、しかも実質的に関与するということではないかと私は思うんです。その「主体的に」という言葉の反対語は「従属的に」ということだし、「実質的」ということの反対語は「形式的」ということだと思うんです。
いかにして、形式的にならないように、しかも従属的にならないようにするか、ということが、今の司法参加の手続を決める上において重要であると我々は考えなきゃいけない。
そうすると、私は、評議・評決に際しては、これはおおむね異論のないところだったと思うんですけれども、結局、職業裁判官の裁判長が評議・評決の裁判長をやるということを我々は言っているわけです。全体をリードされるのは、あらゆる場合において裁判長になられる方ですよ。我々はその方を職業裁判官にしましょうということを決めているんです。しかも、素人というか、一般の国民から無作為抽出で選ばれた人が、まずこの事実について、証拠からどういうふうに見ますかというようなことをやってくださいと言われたとき、料理すると言ったらおかしいですけれども、そういうふうに砕いていくには、まず法律問題で、法律要件で砕いていかないとわからない。
例えば、そういうことを裁判長がおっしゃる。それは、誘導と言ったらおかしいけれども、一つの非常に大きな物の考え方を示してくることになる。
そういう状況の下における裁判員が、評議に対等に与かっていけるかどうかという問題ですから、先ほどから聞いていると、非常に数が小さい方が合議がしやすいという意見がある。そんなもんじゃないんじゃないかと私は思うんです。しかも、法定合議事件を我々は一応対象事件としていますから、裁判官は原則として3人参加されることになる。そこへ持ってきて、裁判長というか、実際主導する人が職業裁判官であるのにかかわらず、いきなり入ってきた人が、突然その人と対等に議論して、実質的に、主体的に判決内容の決定に関与することがどうしてできるのかと言えば、一定程度の数というのは絶対に要るし、それなくしてはまさに形だけの、形式的な司法参加になって、本質を見失うことになるのではないか。そういう意味における数というのは、前回の1月30日の審議のときにも言ったけれども、職業裁判官が3人であればその3倍くらいは必要だと思います。数が多いと、先ほど水原さんのおっしゃるように和気あいあいとしてできない、和気あいあいということはないだろうけれども、要するに、ちゃんと話し合えない、と言われるが、どうでしょうか。
例えば最高裁の裁判官でも15人でやってはるわけでしょう。だから、世の中というのは数が多いから、突然そこで本当のことが言えないということは実際上ないですよ。そういう意味において、数というものが本件の場合非常に争点になっておるけれども、その数については、やはり圧倒的多数が裁判員になるような、私とすれば裁判官が3名であれば、その3倍くらいの数、9名は要るんじゃないかというふうに思うわけです。
それから、先ほどからも出ていますように、髙木さんのおっしゃっておるように、被告人が、今言うように公務員である場合、あるいは検事とか裁判官自身が問題になったとか、そういう場合も想定できるが、そういう場合には、先ほどおっしゃったように、スウェーデンにおいて、出版の犯罪について陪審制が導入されたのは歴史的な背景があった。そういう非常に歴史的なというか、それはそういう出版に関する罪というものは、非常に権力が介入しやすいというふうに見られておる。これは世界各国いずれにおいても問題だし、表現の自由とか、言論の自由とか、そういうことに関しては非常に問題が出てくることもあり得るわけだと思うんです。
そういう場合を全く頭から想定しないで、一つのものを決め込んでしまうというよりは、髙木さんのおっしゃるように、国民が、いや、自分はもう職業裁判官、いわゆる公務員の方じゃなしに、一般の国民の意見を聞きたいんだということを言った場合には、裁判員だけで判断するのが良いと思う。表現の自由の問題において、わいせつとか何とかが非常に問題になってきますね。そういう場合には、やはり国民の一般常識を聞きたいんだというような多様性を帯びたものとして欲しいということを言う場合もあると思うんです。そういう場合も、多様性ということを考えれば裁判員だけで判断する。
しかも、我々は裁判員というものに、非常に多様な国民の経験を要求しているわけですから、それが3人だけだったら、それが仮に僧侶と神主さんと何かが来たら、これまたえらい偏ったことになってくるので、だから、やはり多様なということを言われておるし、それが多様な意見が反映するということを求めて、今回の司法参加ということになっているということからすると、私は先ほどのまた数の問題にも戻るようですが、そういうことになってこないといけない。
それから、最後にこの井上さんが書いていただいたペーパーでは、評決は過半数、過半数は先ほどから色々あって、出ていますから、私はできることは基本的に言えば、人の有罪・無罪を決めるわけですから、一定の時間まではみんなが一致するようにというのが基本ラインだと思うんです。そうでなければ、それが多数決でばっと決めるという筋合いのものじゃない。
そういう意味における決め方というのについても、そういうようにみんなが合意するというような形の中で行われていく必要があるんじゃないか。全体のことについて少し言いました。
【井上委員】関連して髙木委員に御質問していいですか。
髙木さんは三つ要件を挙げていますね、独立評決にすべき場合として。被告人が選んだ場合、検察官が選んだ場合、そして、特殊な犯罪と。これは、その三つを全て備えた場合ということではないのでしょう。そのどれか一つに当たれば、独立評決にするということで、被告人が選ぶというのは、必ずしも公務員犯罪とかに限っていないということですね。
【髙木委員】その辺、専門家の人に、そういう要件が成り立つのかどうかというのは、もっと検討していただいたらいいと思うけれども。
【井上委員】提案の御趣旨だけ伺っているのです。
【髙木委員】趣旨というか、井上先生の御指摘の点をもっと吟味してみる必要があると思います。
【井上委員】御趣旨だけちょっと伺っておきたいのです。
【髙木委員】そういうパターンのものもあるんじゃないかなとは思います。ただ、その辺は御専門の人にちゃんと検討していただいたらいいと思う。
【井上委員】御趣旨だけを伺いたいのです。
【髙木委員】頭からだめと言う論理も私はいかがなものかということを私は申し上げたいんです。
先ほど井上さんの御説明のペーパーの中で、1つは、13ページ、判決書に実質的な理由が示されることが必要だ、というのは皆さんの大方の御意見であったとある。こう書かれるからには大方の御意見だったんでしょう。判決書に実質的理由が必要という、現在はどの程度の理由が判決に求められているか。そういうこととの関係で言えば、実質的な理由というのは、どんなふうに考えたらいいのか。その辺をお答えいただきたい。
それから、全体を拝見して、今、中坊さんもおっしゃいましたが、実効性という言葉が、何か裁判員を少なくて済ませるという論理につなげられている、ここではそのように読めるんです。
【井上委員】いや、そういうことではないです。
【髙木委員】そう読まないと、先ほどのような御説明が出てこないのではないですか。井上さんは数は具体的に特定されていませんのでわかりませんが、裁判員の主体的、実質的関与の確保という要請、これは確かにあり、これはできるだけ広く一般の国民が参加する、という論議を我々はしてきたわけです。
もう一つ、同じく、広く一般の国民が、という概念につながるんだと思うんですが、国民の多元的な価値観というものを、裁判員の人に代表していただくという議論も経過的にはあったと思うんです。
だから、評議の実効性ということが、人数を絞る論理に使われるとしたら、先ほどの最高裁の15人の先生、この審議会でも13人、14人でやっているわけですね。
【竹下会長代理】私は随分発言を遠慮しています。
【髙木委員】会長いいですか。
【佐藤会長】どうぞ、おっしゃってください。
【髙木委員】竹下さん、余り発言するなということを言われたので(笑い)。
【井上委員】余りたくさんおっしゃると混乱してしまうので、分断して言っていただければと思うのですけれども。
【髙木委員】先ほどフランスのことを言われたんですが、フランスにも歴史的な経緯の中でいろんな変遷があって、今日のようになっているんだと思いますが、フランスやイタリアのような形のものをやったら、日本では先生は違憲だとおっしゃるのですか。その辺、学者としての御見解を聞いてみたいのですが。
【井上委員】また、そういう迫り方をされるのですか。
【髙木委員】もっと言えば、裁判所法第3条3項というのは、あれも違憲と言うのかということです。
【井上委員】そのくらいでいいですか。学者としてなどと言われますと大げさになってしまいますけれども、まず判決の実質的理由というのは、争われている事件と、争われていない事件とでは違いがあると思います。事件によって濃淡があると思うのですが、全く争いのない事件では、起訴状記載の犯罪事実というのが認められ、それを認めた証拠というのはこういうものである、というふうに標目を掲げるといった形だと思います。
これに対し、部分的にしろ争いがある場合には、その点について、両当事者の主張や証拠について、必要に応じ立ち入った説明をするということはよくあるわけです。実質的ということはそういう意味です。
次に、評議の実効性という点は、説明のところでお話ししたように、そういう視点も重要じゃないかという御発言が何人かの方から出た。そして、実効性を担保するにはどのくらいの数かというところでは意見が分かれたわけですけれども、評議が実効的に行われるということが必要だということ自体は間違いないと思うのです。したがってそこは共通の出発点にできるのじゃないか。具体的な数については、中坊委員や髙木委員のような見方もあれば、いや、やはりそんなに多かったらだめだという考え方もあり、見方が分かれると思いますが。そういう意味で挙げているということで、別に一方の考え方を封じるために、悪意があって挙げたということではございません。
もう一つは、多元的ということなのですけれども、これも口頭での説明では省いたのですが、括弧の中には書いてありまして、そういう要素をできるだけ反映させるようにした方がいいという御意見もあった。しかし他方、政治的な決断のような場合の「民意の反映」ということとは違うのではないか、国民の健全な常識を持ち込むというのが趣旨であろうという御意見もあって、そこは意見が分かれるところであるということで、どっちに決め打ちして書いたとか、あるいは省いたというわけではありません。
しかも、その点について付言しますと、例えばアメリカの陪審制などの場合も、社会の多様な構成を反映しないといけないということが言われているわけですが、それも、最終的に選ばれる陪審員として各界の代表がまんべんなく選ばれているということを意味しているわけじゃなくて、その母体と言いますか、最初に抽出するところが、社会の多様な構成を的確に反映しているような母体でないといけないということなのです。そこから具体的な裁判を担当する裁判体を構成する人を選ぶ段階では、当事者による忌避ということもありますので、必ずまんべんなく選ばれるという保障はない。それはやむを得ないというふうに考えられているのです。
最後に、踏み絵のような御質問がありましたけれども、フランスとかイタリーの制度につき、その数だけを採り上げて問題だと言うつもりはありません。しかし、フランスの場合は裁判官3名と裁判員9名ですが、多数決の要件は12分の8で、9人の参審員のうち8人だけで有罪にできるわけです。イタリーの場合も裁判官2名、参審員6名という構成で、過半数で決定するルールですから、8分の5、6人の参審員のうちの5人だけで有罪にできる。これは、我が国の憲法につき、さっき私が申し上げたような解釈がもし成り立つとすれば、その憲法の下では問題があるだろう。数の多寡それ自体ではなくて、それとの見合いで、評決方法の点で、我が国では憲法問題が生ずる可能性がある。これは私だけの考え方ですが、そういうふうに思っています。
また、裁判所法3条、別に法律で陪審制を取ることを妨げないという条文だと思うのですが、これについては二通りの解釈があり得て、一つは、戦前のような評決権のない陪審というのなら憲法上も問題がないとしているふうにも見える。そうじゃなく、扱う事項を事実認定に限れば、裁判全体を全部そっくり任せるわけではない。裁判官が担当するところと、陪審員が担当するところを分けて、部分的に頼む場合には憲法問題は生じないということを前提にしているというふうにも読める。
もっとも、後者の考え方に対しては、さっき水原委員が言及されたような考え方もあって、刑事裁判において有罪・無罪、事実認定というのは一番の中核であり、その一番中核のところを委ねるのは憲法に合致するのだろうかという疑問もある。そこは、私のような解釈を持ち出さなくても、憲法論として現に分かれているのです。
そもそも私の補足説明は、アメリカ型の陪審が合憲かどうかということまで書いているわけではなく、あくまで裁判官と裁判員が一緒に全部やるのだという、我々が前提にする制度というものが、憲法との関係で果たして成り立ち得るのかどうかという角度から、こういう考え方が成り立つかもしれない。成り立つとすれば、憲法問題をクリアーするかもしれない。そういう説明として書いたものなのです。
【山本委員】今、国民の多元的価値観と髙木さんはおっしゃいましたけれども、これは大事な問題だと思うんです。日本の刑事司法というのは、捜査、あるいは訴追、それから裁判に至るまで事実は一つ、適用される法律も一つ、量刑も一つだという考え方でずっと来ているんです。
ですから、今回のスキームは、要するに刑事司法について、ある一定レベル以上の事件については、選択の余地がなく、国民の司法参加の形を取った裁判制度を適用するということにあるわけです。そういうスキームを考えるときに、今言われた国民の多元的価値観というものを裁判の中に取り込んでいく。それをメインのジャッジの正当性の源にするということであるとすると、刑事司法全体のスキームを変えなきゃいけないんじゃないかという感じがするんです。
ですから、私が前から申し上げているのは、そういうことをしないで、できるだけ国民の司法参加を実現して、きちんとした、あるいはより良い裁判・判決を求めるという必要性とか、それから漸進的に国民に司法の勉強をしてもらうということとか、そういう制度を我々は考えているんじゃないだろうかと思います。
ですから、国民の多元的な価値観を持って裁くということは、これはまさしく今の刑事司法とは違うものを構成しなきゃいけないんじゃないかという感じがするんですけれども、そこはどうですか。この議論なくして、色々評決の仕方とか、数の問題とかを議論するのは順番が逆ではないでしょうか。
【井上委員】御質問の意味がちょっとよくわからないんですが。
【山本委員】数の問題で、できるだけ多い方がいい。したがって、10人より100人の方がいいとかいう話になっていくわけです。
【井上委員】まともなお答えじゃないかもしれないのですけれども、多元的価値をもって裁かないといけないという理由は何だろうかと考えてみますと、それに適しているというのは、例えばわいせつかどうかといった社会規範的な判断であって、人によって随分意見が違うというような場合だろうと思うのです。それに対して、通常の刑事事件の有罪か無罪かという判断では、多元的価値の反映ということがそんなに問題になるのか、私自身は疑問に思っています。
それに、多元的価値と言いましても、3人なのか9人なのかというレベルでは、多元的価値を代表する人が本当に選ばれて、それが反映するものだろうか。山本委員がおっしゃったように、何百人という数ならそうだと思うのですが。そして、まさにそうだからこそ、アメリカなどでも候補者の母体のところで、多様性が反映されるような選び方をすることが考えられているのであって、そこから先に進んで、個別事件担当の裁判員の選任のところは、幾ら多元と言っても限界があるわけです。
【佐藤会長】多少言葉の問題があるような気もします。中坊委員もおっしゃったように、多様な経験の持ち主が集まって、そして評議・議論して、そこで共通の結論を目指そうという仕組みなんですからね。いろんな経歴・バックグラウンドを持っている人が入ってくるわけでしょう。そのこと自体はいいことなんじゃないですか。しかし、議論をして共通の結論に到達しよう、これが大事だと思うんです。多元的と言われていますが、いろんな考え方があり、それが反映されているということだけではないということは、当然の前提にしていただかないと。
バックグラウンドは多様、いろんな経験の持ち主が入られる。当然そうなると思うんです。一般の人たちから無作為で抽出するというんですから。そこはちょっと譲れない線じゃないか。
【吉岡委員】私もそう思っておりまして、確かに母集団がどうだということで偏るのではないかという御心配があって、そのために極端に100人という数字をおっしゃったんだと思いますが、ただ、代表制を考えたときに、それが9人であれ12人であれ、統計法にのっとって抽出されれば、そんなに偏ったということは言えないと思います。アメリカの陪審制を見てきた印象では、12人だけ選ぶとか、そういうことではなくて、もっと大勢選んでその中から更に選んでいくという方式を取っていますから、そういう意味ではそんなに偏ると心配することはないと思います。
日本人の場合にそれほど多様性があるかどうかということはありますが、それでも色々な人がいるわけですから、そういう中で、多様な国民の中から選ばれるということを納得できるような、おのずから出てくる数字というのがあると思います。その数字は人によって少し違うのかもしれませんけれども、私は理想から言えば12人選びたいと思うのです。12人が多過ぎるという意見、それと12人という数字が一定の裁判をイメージしてしまうということがあるとすれば、1人や2人、それよりマイナスになっても仕方がないかなと思いますけど、それが4人だとか6人だとか、そういう数になってくると、非常に問題だと思っております。
もう一つは、国民がいつか自分に回ってくるかもしれないということを意識できる、認識できるような相当な数が必要だと思います。
先ほどの井上委員の御説明の中に、刑事事件の数で年間3,000とか4,000という数字を出していらっしゃいましたけれども、合議制でしなければいけないような事件の数、それと有権者の数を考えてみると、例えば3,000、4,000の数の事件をやるとしても、有権者の数から言うと当たる確立は非常に少ないと思います。
そういうことで、本当に1人の人が裁判員に選ばれるチャンスがどのくらいあるんだろうか。そういうことを考えていくと、当たるかもしれないけれども、実質的にそんなに負担になるほど年に何回も当たるとか、そんなことはまず考えられないと思うのです。考えられないけれども、参加意識としても、いつ自分に当たるかわからないということであれば、司法に対する関心が大きく変わってくると思います。
司法に対して、今までの日本では余りにも無関心だった。お上に任せておけば、神様が裁判をしてくれような感じで、良い判断をしてくれるという思い込みが余りにも大きかったと思います。そういうところが随分変わってきて、自分たちの裁判なのだという認識に変わってくると思います。
そういうことを考えると、ある程度の数を考えて、選ぶということが非常に重要になってくると思います。
それから、役割分担ですけれども、基本的には責任を分担して協働するということを中間報告でも書いているわけですけれど、役割分担をするところとしないところがあっていいのではないかと思います。
余りにも専門的にすぎるところまで責任持てと言われても、実質的にはわからないという問題もありますから、そこは裁判官の説示と言いますか、リーダーシップ、そういうことを尊重していくということも必要ではないかと思っております。
ただ、その役割分担の最後のところで、裁判官または裁判員のみによる多数で被告人に不利な決定をすることはできないようにするべきであると書いてありまして、このこと自体は結構なんですけれども、髙木委員もおっしゃいましたが、例えば当事者が裁判員のみによる判断を求めた場合には、そのことも配慮すべきではないかと思います。
ただ、それを配慮するとしたときに、「参加の対象となる刑事事件」の項目の終わりのところに、これは藤田委員も御指摘になりましたけれども、「辞退することを認めるべきではない」と書いてございまして、藤田委員は憲法との絡みで選択性を考えれば憲法のことはクリアーできるかのような御発言だと思いましたけれども、その辺のところも検討してみる必要があるのではないかと考えております。
基本的に憲法違反かどうかというのは、憲法学者、権威がいらっしゃるので私は指し控えて発言しなかったのですけれども、私は専門家の意見などを読んでみたり、それから裁判所法なども拝見しますと、素人ですけれども、これは解釈の仕方であって、憲法違反と頭から決めなくていいんじゃないかというふうに考えております。
やはり、憲法違反だからできない、憲法に抵触するからこれはだめ、と初めから決めてしまうことはないので、良い制度を導入するのであれば、いかにして憲法に抵触しないようにクリアーしていくか、そういうことに知恵を出すということが必要ではないかと思います。
【井上委員】私の説明不足だったと思うのですが、裁判員の数の多寡にかかわらず、その選出母体、さっき例示しましたけれども、一番最初の母体である予定者群というのはかなり大きな数で、そこから一定数を候補者とするわけですが、これも最終的に裁判員に選ばれる数の何倍かは呼び出される。その数の中から選ばれるという意味では変わらないのですよ。
ついでに、藤田委員が言及された憲法問題ですけれども、私は、当事者に選択権があれば憲法問題をクリアーするというのは、変な理屈だと思っています。その考え方は、裁判を受けるのは権利だから放棄できるはずだということを基本にしていると思うのですけれども、放棄した場合には、「裁判」として保障された形によらなくてもいいとすると、その場合に選んだのは裁判ではないということになってしまう。個人の権利の視点からすると、それでも良いのかもしれないですけれども、一国の制度の問題として、裁判あるいは司法作用を経ないで、人を有罪にしたり刑を科すということになってしまうのは、そのこと自体として問題だと思うわけです。
ですから、放棄できるかどうかではなくて、まさに司法権の作用としての裁判、そしてその主体である裁判所というのは、どういう構成であるべきなのか、そこの問題だと思うのです。選択できればいいという憲法学説もむろんあるのですけれども。
それと、私はやはり、当事者による選択の余地を残すということの理由がどうもわからないのです。一定の事件の場合には、裁判員制度の対象にすべきだとか、あるいは裁判官によるべきではないという議論なら、まだ理屈としてわからないでもないのですけれども、そこからいきなり、被告人が希望した場合にはそうすべきだということが、論理として飛んでいるように思う。そこは、どうもわからないのです。
【竹下会長代理】これを言うと会長の方針からは外れると思うのですけれども、私は憲法問題をどう扱うかという問題を議論する必要があると思うのです。確かに、ここで憲法の細かい解釈論をやる必要はないと思いますし、まして意見を一致させるという必要はないのですけれども、我々の審議会としては、憲法問題に対して、どういうスタンスで対処するのかということだけは決めないと、一方では裁判員に評決権を認めたら違憲の疑いがあるから認めるべきではないという見解があったのに、いや、評決権を認めても憲法に違反しないのだと言って、我々の審議会では評決権を認めることにしたわけですね。それなのに、評決権を認めても何故憲法に違反しないのかということを説明しなければ、この審議会としては、結局、憲法問題は素通りした提案しかしていないということになってしまって、出した提案が説得力を失ってしまうのではないか。また、我々としても、そこは説明をする責任があるのではないかと私は思うのです。
てすから、皆さんが井上委員が今日述べられた見解に賛成であるというならそれはそれで結構だと思うのです。そうではないのであれば、やっぱり憲法問題にどう対処するのかということをはっきりさせる必要があると私は思うのです。
私自身の意見は1月30日に申しましたので繰り返しません。今日、井上委員がリファーしてくださいましたから、それで十分御理解頂けると思います。
【北村委員】今日、井上委員が説明してくださいました「骨子(案)」、私は審議会が出された報告書として、案ですけれども、珍しくよくできていると思っております。
その中で今問題になっております数の点なんですけれども、裁判員の主体的、実質的関与を確保するために、何人が妥当であるか、ということが盛んに言われておりますが、主体的な関与と言ったときに問題になるのは、やはり数ではないだろうと私は思うんです。
なぜかと言いますと、私、今ここに出ておりますのは、一国民として出ている。隣接法律専門職種の問題はありますけれども、一国民として出ていて、決して国民の代表ではないんだろう。なぜならこの審議会で自分の意見がなかなか通らないのは、国民の代表ではないからだろうというのもあるわけです。まぁそれはいいんですが。
この「主体的」というのは、国民がどういう意識で裁判に関与するかというところが問題になるんだろう。これは他の人がどうのこうの言う問題ではなくて、一人ひとりの問題だろうと思うんです。そのときに、今の国民は、見ておりますと、自分が正義の担い手であるなどということは言いませんけれども、一握りの正義感を持っているんだと思うんです。その一握りの正義感というのがどういう場面で発揮されるのかというと、割と何人かが集まった場面で発揮されることが多いんじゃないか。例えばそれが何千何万となれば話はまた別でしょうけれども、例えば12人であったって、何人か集まっているのと大して違いはないんじゃいないかと思うんです。
何を言いたいかと言いますと、私は裁判官と裁判員というのは大体同数程度でいいんじゃないかと思う。ただ、井上委員もおっしゃいましたけれども、裁判員だけで決められるとか、裁判官だけで決められるという形になっていなければ、それで十分やっていけるのではないかなと思うんです。
あと、憲法問題については、私は前回のときにも、憲法問題については素人だから余り述べたくないということを言いましたが、審議会として世に出すときには、それについてどのように考えていったのかということは必要だと思っているんです。ですから、ここには日本を代表する非常に有名な先生方がいらっしゃるというふうに聞いておりますので、分野が別ですから余りよくわかっていなくて、失礼なことばかりで申し訳ないんですが、したがいまして、そういう方たちが中心になって、我々に教えてくださればいいんじゃないかなと思っております。
以上です。
【石井委員】憲法問題と関係なくてよろしいでしょうか。
【佐藤会長】どうぞ。
【石井委員】訴訟手続への参加制度のペーパーに、無作為抽出の話が出ておりまして、その中に「適切な過程を経て」選任するという表現がされております。適切な過程云々のところの括弧内に書いてあることですが、その中に、例えば犯罪歴みたいなものがある人、そういう人も入ってしまうのか。その辺がはっきりしないものですから教えていただきたいと思います。
さらに、こういう機会ができると、やる気はものすごくあるものの、極端にエキセントリックな考え方をする人も入ってきてしまうと思われますので、そういう人たちをどうやって外すのかということが問題になってくると思います。そういう人達を何らかの形で外せるような発想がこの中には入っているのか、その辺について教えていただきたいと思います。
次に、裁判員として集まった人たちが議論して、最終的に結論が出たときに、判決書を書くことになると思うんですが、そのときに裁判員は、判決書に署名・捺印をすることになるのかどうか伺いたいと思います。例えば普通の精神の持ち主だったら、結論が死刑であるような場合には、恐ろしくて、署名・捺印などはとてもできないのではないかという気がいたしますので、そういうことをどのように考えておられるのか、その辺についても教えていただきたいと思います。
なお本日、皆様から大変良い御意見をたくさん伺わせていただきましたので、最後にお願いとして申し上げておきたいことですが、ここで委員の方が非常に真剣に御討議いただいた末の結論というのが、いよいよでき上がるわけですので、その基本理念がどういうことかということを、このまま、単に、こういう結論が出ましたということだけで終わるのではなくて、基本理念の考え方、そういうものを高等教育は当然ですが、何らかの形で初等教育にも是非反映させていただきたいと思っております。今、皆さんが述べられた非常に大切な良い御意見というか考え方を、次の世代にも小さいときからよく理解してもらい、引き継いでもらえるように、基本概念というものをしっかり学んでもらいたいと考えておりますので、教育カリキュラムに是非取り入れるよう、御尽力いただきたいと思います
【井上委員】簡単にお答えしますと、犯歴の関係では、例えば現在でも、検察審査員の資格について、1年の懲役か禁固以上の刑に処せられた人は、原則として資格がない。その後一定期間経てば別ですけれども、そういうことになっていますし、各国の司法参加の制度でも、同じような資格制限を取っているところが比較的多いと思います。
また、「エキセントリックな」というのが何を意味しているのかよくわからないので、私などは外されそうですけれども、それを一般的な欠格事由とするというのは非常に難しいですし、問題だと思います。
それでも、当事者が非常に不安であるということならば、最終的には、忌避制度による。それも理由付きですと、「中立でない」とか「偏頗な疑いがある」ということを疎明しないといけないんですけれども、そういう形ではなく、理由なしの忌避ということですと、当事者が不安だと思った人を一定数は除ける。そういう制度で担保されるのではないでしょうか。
もう一つの判決書への署名・捺印につきましては、いずれの形もあり得ると思います。裁判長が全員を代表して署名・捺印するというやり方と、全員が署名・捺印するという形があり得ると思いますが、問題は署名・捺印するかどうかということではなくて、みんなが判決については共同責任を負うということであり、そのことは、署名・捺印してもしなくても同じだと思うのです。
【水原委員】裁判員の数が裁判官よりもずっと多くならなければならないという考え方については、私の考え方が正しく理解しているかどうか自信はございませんけれども、その根底にあるのは、裁判官への不信で、違った言葉で言ったならば、裁判官と裁判員との対立関係が意識の前提にあるように思われます。
でも、私たちが求めておるものは何かと言いますと、裁判官と裁判員との対立ないし不信を前提とした制度ではなくて、相互の実りある協働関係ではないかと思うんです。
これまでも職業裁判官の在り方については、この審議会で色々議論がなされました。私たちは裁判官の在り方について、給源の多様化だとか、判事補の外部派遣、特例判事補制度の見直しなどで大きな改善を進めようとしておるんですから、これらを踏まえまして、裁判官への不信に根差すような観点に経った制度設計というのは、決して好ましくないと私は思っております。
裁判員と裁判官とのいずれかが他を大きく上回ることのないような構成比率が望ましいんじゃなかろうか。せいぜい3対3か、あるいは3対4くらいのところが相当ではなかろうかと思います。
簡単に申しますが、評決の在り方の問題ですけれども、これは極めて抽象的な表現になりますけれども、評決の在り方については、裁判官と裁判員とを具体的に何人にするかによっても異なりましょうし、単純多数決か特別多数決かによっても異なってくると思うんですけれども、基本的な考え方として、裁判員が単なるお飾りになってはいけない。そのような制度設計になっては困ります。実質的に裁判に参加するような制度設計が必要でありましょう。また、職業裁判官と裁判員の双方が裁判体を構成して、協働することの意義が失われないような、そういう制度設計でなければならないでしょう。具体的にはどうなのかということを、今ここで言ってみろと言われますと、私にはちょっと持ち合わせはございませんが、理念としてはそういうものが必要であると思います。
もう一点、裁判員の選定方法について、無作為抽出、これはそのとおりで結構だと思いますが、事件ごとの選任なのか、それとも一定の期間裁判員になるのかという問題でございます。これは一事件ごとにという御提案がございましたけれども、私はこの点については、どちらがいいかというはっきりとした考え方は持ち合わせておりませんが、いまだこういう制度をやったことがないわけでございますから、未知数の問題でございます。1件ごとがいいのか、それとも任期を定めた制度がいいのかということは、制度を実施してみた結果ならばわかりますけれども、そうでないとするならば、ここで決め打ちしてしまうのはいかがなもんだろうかという気がいたします。
以上でございます。
【中坊委員】今の私の言っているのは、職業的裁判官というものがこれから変わってくるということを私も前提にしているのです。水原さんがおっしゃるように、決して不信であるから言っているのではありません。しかし職業裁判官というのはやはり専門家ですから、素人と専門家というところでは、しかも裁判長にその人がなるという以上は、先ほど水原さんのおっしゃったように、国民が判決内容の決定に、実質的に、主体的に関与するということが守られなくなってくる恐れがあるから、裁判員の数を多くする必要があると言っているんです。私は決して、先ほどから言っているように、もう我々は裁判官の問題についても色々新しい裁判官像を求めて今まで審議してきているんですから、当然私の議論もそういう新しい裁判官像を前提として申し上げているんで、決して水原さんのおっしゃったように、私は今、裁判官の不信を前提にしてこういうことを言っているのではないということを一点だけ申し上げたい。
【髙木委員】井上さんから何度も言われるんで、もう一度言っておきますが、今後我々がやろうとしている裁判員制度というのは、そもそも本質・原点はどこにあるのか、ということだと私は思うんです。広く国民を代表する人たちが、人数の問題は色々ありますが、主体的・実質的な形で裁判の判断に関わろうということ。そのときに、国民と裁判官との協働、分担の問題は色々ありますが、いわゆる独立して評決をしてくださいということを求めるのは、その国民による判断を求めるということをより徹底して、その延長線で考えていけば、そういう判断が出てきたって何のおかしいこともないと思うんです。
平たく言えば裁判員の主体性、独立性みたいなものをより貫徹していく方向というのはあっていけないのか。陪審だ参審だということを余り言うまいという議論をしてきた経過もありますんで、その辺の受け止め方のギャップがあったのかもしれませんが、そういう意味でそもそも我々がこういう制度を求めてきた本質はどこにあるんだということで、是非お考えをいただくべきじゃないかなと思います。
それから、先ほどの判決の関係、これも井上さんがお話しされたんですが、井上さんから説明していただいた「補足説明」の4ページに、「評議の実効性」という点について、「判決に実質的な理由を示すことを必要とする場合には、十分な判決理由が書ける程度に実質的な内容についての合意が得られるという点も重要」と書いてある。私は、これは本末転倒じゃないかと思います。判決を書くことが先にあるんじゃない。こういう形の裁判やりましょうということがあって、その中でどういう判決を書くんだという、そういう順序で発想すべきであり、判決理由がこういうことだから、こういうふうな設計にならなきゃいかんというアプローチはどうかと思います。そうじゃなきゃいいんですが、もしアプローチの仕方がそういうような感覚であるとしたら、これは順序が逆さまだと思います。
【井上委員】判決に理由を書くべきだと、しかも実質的な理由を書くべきだというのは、大方の意見ではなかったですか。
【髙木委員】だから、「実質的な理由」とは、と聞いたんです。
【井上委員】その点はさっき御説明したでしょう。そういう意味での実質的な理由を書くべきだというのは、大方の意見であったのではなかろうか。そのことを前提にすると、評議というものも、そういうことに結び付かないものでは意味がないわけです。したがって、本末転倒でも何でもないと思うのです。それは、当然考えないといけない視点である。ただ、そういうことをするためにどのくらいの数だったらよいのかというところでは、人によって感覚も違うし、御意見も分かれるでしょう。しかし、そこのところを考えないといけないということは、これは間違いないことだと思うのです。そういう趣旨で申し上げたのであって、本末転倒でも何でもないと思うんですけれども。
もう一つ、参加制度の本質という点ですけれども、一番の大前提として、専門家である裁判官と非法律家である裁判員とが一緒に、コミュニケーションを取りながら、それぞれのバックグランドの違いから得られる経験だとか知見だとか知識だとか、そういうものを共有しあいながら裁判をしていくことによって、より良い裁判にしていこうというのが、私の理解するところでは、大方の認識だったのじゃないかと思います。
そういうことからいきますと、髙木さんのおっしゃるのとは違うのではないか。その出発点である形がより良い裁判制度であるのならば、なぜ当事者がそれとは違うものを選べるということになるのかがわからないのです。
この種の事件についてはこちらの裁判体でやってもらうのがより良いですよ、というふうに我々は提案しているわけです。
【髙木委員】私だって提案したんだけれども、更にこの方がより良いと思う世界があったら、それを求めたらなぜいかんのですか。
【井上委員】それだったら、最初の大前提のところで、そちらの方が更により良いということになってしまうわけで、それでは大前提を否定するということにならないですか。
【髙木委員】だから、その場合の大前提とは何か、ということですが。
【井上委員】さっき申し上げたのが私の理解だということです。
【髙木委員】だから、国民の実質的、主体的な参加をきちんとしていくということをベースにこの議論をしているんだと思います。
【井上委員】だから、主体的に参加してもらうことによってどういう意義があるかというところでは、さっき申し上げたようなのがほぼ共通の理解だったんじゃないかと、私は思うのです。
むろんその場合に、主体的・実質的な関与をどうやって担保するか、そこは工夫の余地があるというか、工夫しないといけない。それはまさにおっしゃるとおりなのですが、しかし、裁判官を入れたら、それが貫徹できないというのは、やはりちょっと踏み外しているのではないかと、私には思われるのです。
【髙木委員】何で踏み外しているんですか。
【井上委員】もしお考えのとおりだとすれば、最初の前提から、もう全てそういう制度にしてしまわないとおかしいわけですよ。
【山本委員】司法参加じゃなくて、国民による直接司法ですね。
【中坊委員】先ほどから言っているように、例えば出版に関する罪であるとか、そういうふうに伝統的に職業的裁判官、公務員の方が、そういうことについてはやはり偏見を持っていると、出版というのは非常にそういう反権力的な立場に回るということを考えるとそういう種類の犯罪もあるじゃないかと。だから、そういう犯罪のときに、まさに今度は自分はそういう方は排除してほしいということを言う場合も、私は考え方としてはあり得るんじゃないかと思います。
【佐藤会長】ちょっと確認ですけれども、評議には裁判官は入るんでしょう。
【井上委員】髙木委員のペーペーでは、「評議」を求めると書いてありますね。
【髙木委員】だけど、評決は裁判員の人だけという形も一部あり得る。評議には裁判官も入っていいんですが、評決だけは裁判員だけで行う事件もある。
【井上委員】中坊先生がおっしゃっていることと、髙木委員がおっしゃっていることは、やはり違うのですよ。髙木委員のは、被告人が求めれば、一般的にそういう形態にするということであるのに対し、中坊先生がおっしゃっているのは、一定の特殊な事件の場合には、当事者が、やはり国民だけで判断してもらいたいと言ったときは、これを認めたらどうかということでしょう。
【髙木委員】だから、判決書くのに必要だというなら当然評議には裁判官が加わる。
【佐藤会長】今の点について、今日こうだと決めることは、時間の関係もあり、なかなか難しいところですね。
【竹下会長代理】ちょっとすみませんけれども、髙木委員のペーパーによりますと、事実認定、有罪、無罪の判断を、裁判員のみによる評決にかからせることが合理的であると考えると言っておられますから、この評決には裁判官は入らないと、そういう前提ですね。
【髙木委員】評決にはね、評議には入って構わない。
【佐藤会長】時間も予定を過ぎております。但木官房長は、もう既にいらしているようです。今日全部をきれいに文書化して決めるというのは、なかなか難しいかもしれませんが、議論になっていないけれども、当然のこととして合意が取れているところもあると思うんです。そこで確認なんですけれども、「1 裁判員の役割」ですが、法律問題、訴訟手続上の問題について議論するとなれば難しいところがあることは、今日よくおわかりいただけたと思いますけれども、そういう問題は更に検討が必要であるということですから、この1のところはよろしゅうございますか。
【佐藤会長】それから、2の方ですが、色々問題がありますので、先に飛びまして。
【中坊委員】先ほど、法律問題については基本的に関与しない、ということについては、大体の合意が得られていたんじゃないですか。
法律問題かどうかが区別がわかりにくいから検討を要するということにはなっていたと思うんだけれども。
【井上委員】法律問題についても意見を反映すると、吉岡委員がそういう御意見でしたね。ですから、ここのところはなかなか決め打ちが難しいという感じがします。
【竹下会長代理】この原案どおりでよいのではないですかね。
【佐藤会長】中身を議論すると、いろんな含みがありますんでね。法律専門家、プロとしての責任は非常に大きいということは、皆さん共通に認識してらっしゃると思うんですね。
それで、2はちょっと飛ばしまして、3の方ですが、これは水原委員の先ほどの御意見がありましたけれども、ここも大体こういうことでよろしゅうございますか。
【佐藤会長】そして、4の方なんですけれども、今日御議論にならなかったんですが、これは2の方にも出てくるんですけれども、括弧書きのところですね。「事件の性質や裁判員の負担等を考慮し、例外的に対象事件から除外できるようにする」ということ、これを頭から入れてしまうということが適当かどうか。藤田委員がおっしゃるように、実際の制度設計にあたっては、いろんなことを考えないといかんのかもしれませんけれども、どうですかね。井上委員も、いかがでしょうか。
【井上委員】ただ、これを外してしまいますと、柱の部分だけが生きてきて、もう決めてしまったという感じになり、例外の余地は全くないという印象を与えてしまうようにも思います。「考慮」というところは、その可能性を検討するとか、あるいは検討する余地があろうとか、何かちょっと修文を考えないといけないとは思うのですけれども。
【藤田委員】裁判員の安全保持ということも考えないといかんと思うんですけれども、裁判官に対して脅迫電話や無言電話というのは、もう日常茶飯事で、SPが付いている裁判官もいるわけですから、そういうようなものについて、やはり安全保持のために例外を認めるべき事件もあるんじゃないでしょうか。
【水原委員】私が以前に提案したのは、そういう趣旨なんです。
【鳥居委員】そこは、「例外を認める」というのと、「除外できる」ようにするというのとは意味が違うんじゃないですか。
【佐藤会長】表現振りまで決めるのは、今日は時間の関係でちょっと難しいですが、この文章のままではちょっと問題かなという感じもしておりますので、ここは少し工夫させていただくということにしたいと思います。その他のところはよろしゅうございますか。それと、藤田委員がおっしゃった、これとまた別の性質に応じて何かあり得るんじゃないかということですが。
【藤田委員】憲法論との関係で考慮する余地はあるんじゃないかという程度のことであります。
【佐藤会長】ちょっと考えさせてください。今日の段階でこれで全くOKというわけじゃないんで、ちょっと考えさせてください。いいでしょうか、井上委員。
【井上委員】大筋こういうことで、ということでしたなら。
【佐藤会長】それから、5の方ですけれども、これも基本的ということでどうでしょうか。先ほど来、髙木委員がちょっとこだわってらっしゃるところですが、「裁判官のみの裁判の場合と基本的に同様なものとし」をどう解するか、ですね。従来の判決書を考えて同じようなものになるのか、何か裁判員が入ることによって書き方に変化があるのか、実質的な理由は書くんですけれども、それにふさわしい何かがあるのか、その辺のところをですね。
【井上委員】「基本的に」というのは、まさにそういうことなのですよ。その構成によっては、技術的に考えないといけないということが出るかもしれないし、出ないかもしれない。そういった余地は留保するというだけで、「基本的に同様」というのはそういう趣旨なのです。
【竹下会長代理】これはよいのではないですか。
【佐藤会長】表現はもうちょっと考えさせてもらうということにして、考え方としてはこういうことで。理由を書くということは、もう当然の前提ですから。それと6の上訴、これも一体化しているわけで、大体こういうところでよろしゅうございますか。
【佐藤会長】そして、いよいよ2の方なんですけれども、これについては、色々御意見をいただきました。出発点は、職業裁判官と裁判員とは対立関係なのかどうかということですけれども、さっきの中坊委員の御意見にもありましたように、そのような対立構造でとらえるということではなくて、より良い裁判ということを目指して、先ほど鳥居委員が「国民の権利」というようなこともおっしゃいましたけれども、そういうバックグラウンドの中で、よりよい裁判を目指して考えるんだということ、これも皆さん御異論のないところかと思います。そういう大前提でありますが、この2のところの括弧書き、これは当然のことと言えば当然なんですね。
【竹下会長代理】これは、上を受けているのですね。
【佐藤会長】そうなんですね。
【井上委員】広いか狭いかは別にして、どこかそういう部分が残るかもしれない。残れば当然裁判官のみの評議となるということです。
【竹下会長代理】これは、それでいいのではないですか、このままで。
【佐藤会長】いいですか。
【竹下会長代理】この一文は大体合意ができているのではないですか。
【藤田委員】ただ、この「裁判員が関与しない部分については」とあると、もう関与しない部分があるという前提のように読めますから、「関与しない部分がある場合には」と変えてはいかがですか。
【井上委員】その部分については修文をしましょう。
【佐藤会長】そうですね。次の「評議において、裁判員は、裁判官と基本的に同一の権限を有する」というところですが、この辺は何かより適当な表現はないですかね。
【鳥居委員】中坊委員は、「同一」を「対等」とおっしゃったんです。
【井上委員】趣旨としては、まさに中坊先生がおっしゃったとおりなんです。「基本的に」としているのは、例えば、主宰をし、訴訟指揮をするとか、そういうことは外れてくるだろうというのが一つの理由です。
多数決の在り方によっては、1票の意味が若干違ってくるかもしれない。それで、全く同一とは書けないので、「基本的に同一」ということにしたわけで、全体の趣旨は、裁判員と裁判官は対等だということなのです。
【佐藤会長】では、その趣旨でちょっと表現を工夫してみますか。結局いい案が出てこないかもしれないけれども。
【井上委員】ただ、「対等に扱う」という表現は、私はふさわしくないと思います。
【佐藤会長】ともかく、ちょっと工夫してみましょう。
次の「審理の過程において」以下の文章、これはもう何の御異論もないですね。
【井上委員】はい、これはむしろ書いておかないといけないと思います。
【佐藤会長】それから、次の段落ですけれども、ここが先ほど来、いろんな考え方が開陳されたところですね。更に、その次の段落ですね。
【藤田委員】色々なことを考慮の上、「適正な数を定める」というんですから、よろしいんじゃないでしょうか。「適正な数」をどう考えるかの点については、かなり食い違いがございますが。
【佐藤会長】「制度の対象となる事件の重大性」、ここのところも既にさっき議論になったのですが、同じような問題があるのかもしれませんね。
【井上委員】この点も、もし皆さんの方で重大なもの以外に軽いものも入れるということになれば、それに見合ってまた違う構成も考えられる。だから2種類の構成があっても別に構わないとは思うのですが、ただ、これは考えないといけない要素であることは、間違いないです。
【佐藤会長】これをここで残すかどうかですね。
【髙木委員】国民の負担等ということ、これは先ほど来、さっき竹下さんがまた再確認されたけれども、哲学に関わるというか、この仕組みの根本認識に関わるんだけれども、この裁判というのは、負担であると同時に、抽象的な観念論かもしれないけれども、国民にとっての利益でもあるんですね。
【佐藤会長】鳥居委員がおっしゃる権利でもあるわけで。
【井上委員】一般的には利益なのです。具体的な事件を担当する人にとっては、負担であることは間違いないと思います。むろん、制度の導入に伴う当然の負担というものは引き受けてもらわないと制度が成り立たなくなるわけですが、しかし、過当な負担にならないようにするということは、やはり考えざるを得ないのではないでしょうか。
【髙木委員】「負担等」というのは、何を意味しておられるのか。
【井上委員】それ以外の視点もあり得るだろうということです。
【髙木委員】だから、例えば観念という意味で、表現はどういう表現がいいか、例えば国民の利益と負担とか、権利の何とかとか。
【井上委員】国民参加の意義と負担といった表現にするということですか。
【鳥居委員】また本質論を議論してしまうと終わりがなくなってしまうんですが、ここの「国民」という字を「裁判員」という字に置き換えてみると、それじゃ成り立たないという話になることはよくわかるんです。これは裁判員一人ひとりの負担の話で、さっき後ろの方に出てきた、長期裁判になったときの一人ひとりの裁判員の負担、あれも国民の負担と呼んでいたんです。ここはそうじゃなくて、余り大勢だと国民の皆さんにお負担を掛けますよという表現なんです。
【佐藤会長】そういうようにとられる余地はありますね。
【井上委員】二重の意味なのですね。
【鳥居委員】だから、私はちょっと違うと思うんです。つまり、当審議会としてはまだちょっと議論が煮詰まってないなと思うんです。要するに、6人か9人か12人かという話でしょう。
【井上委員】それと、母数になるところが。
【鳥居委員】その母数ね、その後どうなるかでしょう。
【佐藤会長】では、ここも表現振りについて、更に考えさせてもらいましょう。
【井上委員】さっきの髙木委員の御意見だと、国民参加の意義あるいは趣旨と国民の負担という、何かその種のことが入ればといいんじゃないかなという感じがするのです。ちょっと今、具体的な文章は思いつかないのですけれども。
【吉岡委員】裁判員の数について、多い方を取ったとしたって、一番多くて12人ですね。少ない方を取ったとしても、山本委員がおっしゃる4人ですか。2人という法務省の意見もありましたね。でも、2人はちょっとお役所が言っていることですから、全然別だと思うんですけれども、4人であっても12人であっても、国民の負担という面から言ったら、どちらも負担にならない。
だから、裁判員の数をいくらにするかということで国民の負担を考えるのであれば、個々の裁判員の数の問題ではないですね。だから、余り国民の負担というふうに書く必要がないと思うんです。
【佐藤会長】今の御趣旨もわかりました。それを踏まえて、ちょっと文章を考えさせていただきます。
それから、次の評決のところなんですけれども、ここもやや悩ましいところですね。
【井上委員】これはしかし、御意見がそれほど大きく分かれましたかね。
【佐藤会長】多数決なんですけれども、これは特別多数決になりますか。
【井上委員】いや、そこのところはまだ絞れていないのでは。
【山本委員】ああいうのを多数決と言いますかね。多数決じゃないですね。
【佐藤会長】特別多数決も多数決の一種です。
【山本委員】そうですかね。
【佐藤会長】絶対多数、相対多数、特別多数という種別です。
【井上委員】過半数によるという場合は、単純多数決なのです。
【山本委員】特定の人だけの決議要件をつくるわけでしょう。
【佐藤会長】その理由、例えば裁判官が入らなければいけないという理由については、代理のような考え方もあれば、吉岡委員が言わんとされたような考え方もある。被告人に不利益なリスクはできるだけ、という考え方ですね。
【井上委員】それと、裁判員の方は、山本さんの反対意見があったのですけれども、そこはどうするかということがありますね。
【鳥居委員】もう一つ、このブロックでは、やはり書き落としている、と言ったら言い過ぎですけれども、書いていないことが一つあって、それは、この裁判員制度で裁判を行う場合の裁判官の果たすべき役割。要するに、裁判員にいろんな説明をしていく、そして審議を導いていくという役割。そして、法律のサイドについては裁判官が主として重要な役割を果たす。一方、裁判員は事実認定のところをやっていくという役割分担が、ここには余り書き込まれてないようですが。
【佐藤会長】それは5の方で。
【井上委員】5の一番最初の文章で、「裁判長(裁判官)が主宰する」とあります。それに、評議で説明するというのは、これは当然だろうと思うのですが、最後の点は、評議に基づき、両方が一緒に有罪・無罪の決定及び刑の量定を行うということが基本ですので、その役割をはっきり分けるというのは、それに反するのですね。
ですから、法律問題については、一番最初のところでどういう結論を取るかによってはっきりしてくる。一本では書いていないのですけれども、三つくらいに書き分けてあると思います。
【佐藤会長】ここでの精神はやはり、全員一致を目指して議論するということなんでしょうね。それで、最後のところは多数決。そういうことなんでしょうね。中坊委員がおっしゃったように、裁判員が入って、プロと一般の国民が議論を尽くして、共通の結論に達するということがやはり目指すべきところなんだろうと思うんです。ここでの書き方で十分なのかどうか。井上委員、どうでしょうか。
【井上委員】一点、山本委員の反対があった点だけが残っていますが。
【佐藤会長】ちょっと山本委員。
【山本委員】ここのところは、どちらか一方に優越的な地位を与えないということであれば、この書き方でいいです。
【佐藤会長】そうですか。
【中坊委員】ただ、「評決は多数決による」とばんと言い切ってしまうから、それが非常に目立って映るだけのことで、だからそこをもう少し工夫してもらえば、私はいいんじゃないかという気がするんですけれども。
【鳥居委員】次の文章から始めたらどうですか。
【中坊委員】だから「よる」と書いてしまうから、非常にインプレッションが強すぎて問題があると思うのです。
【井上委員】実質としては、多数決でいいんですね。
【中坊委員】だから、そこを今、言うような趣旨を踏まえてちょっと一遍工夫してみてください。
【佐藤会長】わかりました。以上で、大体のところは。髙木委員、どうぞ。
【髙木委員】今の中坊さんの意見に近いんですけれども、いきなり「多数決による」と書いてあるもんだから、この多数決にもいろんなものがあるし、裁判員、裁判官の決め方にもよるだろうし。
【井上委員】あるいは、「評決は多数決によるが、その方法については…」と。
【中坊委員】「多数決による」と一番最初に出さなきゃいいんです。
【井上委員】出さない方がいいんですか。
【髙木委員】だから、こういう要素を含めて何かのルールを決めなきゃいけないわけですから、例えば先ほどの山本さんのような話だったら、疑わしきは被告人の利益に、とかいった表現をしたり、いろんな工夫の仕方はあると思うんです。
【井上委員】中身に入るとちょっと難しいと思いますので、あるいはこれは単なる思い付きですけれども、「評決の方法については」としてはいかがでしょうか。全員一致とかそういうことじゃないということはもう暗黙の前提として、評決の方法については以下のとおりにするということですが。
【佐藤会長】では、そういうことで。あと二つあって、憲法論の話と、それから髙木委員がおっしゃっている問題の扱いをどうするかということです。髙木委員が今日提起されたものについて、今日結論を出すのは難しい。大前提に反するという考え方と、必ずしもそうではないんじゃないかという考え方、その点について今日ここで結論を出してしまうのは、やや難しいかなという気もします。その点の可能性については、別の機会に修文した、文章を工夫したものをまたお諮りしますので、そのときに御議論いただきたいと思います。
【竹下会長代理】今、髙木委員が出された問題というのは、具体的には何を指しているのですか。
【佐藤会長】一定の事件か被告人が希望したときか、2つの類型があるんですけれども、裁判官は評議には入るが、評決は裁判員だけでやるという可能性を言っておられるわけです。
【竹下会長代理】それは髙木委員は確かにそう言っておられるのですけれども、支持する意見はほかにあるのですか。
【中坊委員】私も支持します。
【佐藤会長】その辺について結論を出すには、もう少し議論する必要があるかと思っていますので、今日のところは、一応可能性の問題として残しておきたいと思います。
それから、憲法論の問題ですけれども、私は、井上委員のペーパーの5ページから6ページの上の4行目にかけて言われていることで、大体共通の理解を持てるのではないかというように思っております。
その次の点については、まだ色々御議論があるかもしれません。髙木委員はこれと違った理解を示されるかもしれませんし、あるいは他の委員も違った理解を示されるかもしれませんので、そこはこの審議会の見解だということには、私はいささか躊躇いたします。けれども、合憲であるという前提で我々は考えているわけですから、5ページから6ページの4行目に掛けて井上委員が書いておられる基盤に立たなければならないだろうというように思っております。そこはそういうことでよろしゅうございましょうか。
【竹下会長代理】しかし、井上委員のペーパーでは、その下に述べてあることとセットになって合憲論を展開されておられるのではないですか。
【井上委員】そこは二段構えで、大前提として今、会長が言及された部分があり、次にそれを評決方法に当てはめた場合にこうなるのではないかというのが、その下の部分。そして更に、三番目は竹下先生のお説で、そこまでは当然には行かないという構成なのです。
【佐藤会長】そういうものとして理解していただければと思います。
最後に申し上げたいのは、いずれにしても、北村委員もかねておっしゃっているように、これは国民に負担をお願いすることになるわけです。お願いすることになるわけですけれども、これは迅速な裁判の実現とか、そういうものにつながっていく話なのでありまして、社会、国民にとってプラスになるという判断に立ってのことだと思うんですね。ですから、その趣旨を、国民に、さっき石井委員が初等教育できちんと説明する必要があるというお話でしたけれども、初等教育だけでなくて、国民一般に対して、我々として発信をすると言いますか、わかっていただけるような工夫をする必要があるというように考えておりますけれども、いかがでしょうか、よろしゅうございましょうか。
どうもありがとうございます。
実は、今日は、検察審査会とか、調停委員とか、ほかにもお諮りしたいことがあったのでありますけれども、時間の関係でできませんでした。ただ、この法曹三者からお出しいただいたペーパーを拝見しますと、かなりというか相当というか、共通のものが見られるわけでありまして、次に、今の文章を少し工夫してお諮りするときに、その辺も、こういうことでいかがでしょうかという形でお願いしたいと思いますが、そんなことでよろしゅうございますか。
【佐藤会長】ありがとうございます。以上で、国民参加の件について終わらせていただきます。
但木官房長には大変お待たせしてしまいました。お忙しいところ恐縮でございますけれども、よろしくお願いいたします。
【但木官房長】それでは、法務省の官房長でございますが、私の方から、福岡地検の事案につきまして、御報告を申し上げたいと思います。
まず、先般、調査結果がまとまり次第、是非こちらで御報告の機会を与えていただきたいと申し上げておりましたところ、早速、その機会を与えていただきましたことを深く感謝申し上げます。
御案内のとおり去る3月9日、法務大臣から、最高検察庁の調査結果に基づいて行政処分、懲戒処分がなされました。その結果は皆さん御案内のとおりで、山下前次席については、停職6か月、辞職という処分に加えて、退職金の3割返戻を申出ていることを了承。
それから、渡辺前検事正については減給の上、辞職了承。豊島検事長からは、事後処理を終わり次第、早期に退職したいとの申出があって、これを了承という結果となりました。
私、今日参りましたのは、その懲戒処分そのものの問題ではございません。これにつきましては、お手元に配付いたしました資料をお読みいただきますと、どのような調査結果であるかということがおわかりいただけると思いますので、時間の都合もあって、その点は割愛させていただきたいと思います。
私どもとして問題といたしましたのは、これらの事案が、決して一個人の検察官の、その人の個性とかそういうものに起因するものではなくて、むしろ検察全体の問題としてとらえるべきではないか、あるいはそういう体質が彼をしてそういう形で出させたのではないかという観点からでございます。
例えば、この事案そのものは三つの家族にまたがる非常に複雑な関係でございますので、その解決の方法として、被疑者から謝らせて、そしてそういう行為を一切やめさせて、平穏なそれぞれの状態に戻って、その上で適切な刑事処分をするという考え方自体が悪いというわけではありません。しかし、それは一つの考え方であります。
ところが、彼は、被害者の意向も確かめず、また、捜査をしている警察の意見も聞かずに、まずその解決が正しいと判断したわけでありますが、これが非常に独善的ではないか。つまり、検察官が考えることは、常にだれに聞かなくても正しいというおごりがその中にあるのではないかということであります。
それから、それを警察にやらせなかったばかりか、部下にもやらせずに次席検事自身が自ら解決しようとした点。相手が高裁の判事なので、捜査情報を与えても、高裁判事は自分の妻を説得して頭を下げさせるであろう、また証拠物も押収してくれるであろうというふうに過信している点。これらの点からいたしますと、検察官が、裁判官に対して独特の仲間意識を持っていると、あるいは、癒着をしているというふうに批判されるのもやむを得ない面があったのではないかと思われるのであります。
これらは、決して今回の事案によって処分された者だけにとどまらず、我々にも同様の体質があり、その責任も、我々全体が担うべきものではないかというふうに考えた次第でございます。
そして、この件につきましての処分を法務大臣が発表いたしました際、大臣から、我々に対して大きく分けますと四点にわたる指示がございました。それを申し上げます。
まず第一点は、検事は常に権限を持った椅子に座っているために、市民感覚から遊離しているのではないか。それを埋めるためには、今後、検事を一定期間、市民感覚を学ぶことができる場所等で執務させる必要があるのではないか。受け入れの環境が整わなければなかなか実現できないかもしれませんが、私たちの願いを申しますれば、半数以上の者が弁護士事務所等の非権力機関に行くべきではないか、そこで、仕事をして学ぶべきではないかというふうに思っております。
それから、第二点の指示は、幹部を含む検察官の基本的在り方について、教育を徹底することということであります。被害者あるいは捜査現場の第一線の捜査官、これらの人々と協議し、あるいはこれらの人々から色々な形で講義を受けて、そして検察官自らも互いに議論することによって、検察官のあるべき姿を取り戻すべきではないか。特に、問題となりますのは、やはり強大な権限を持っているからこそ、今回の事件が起きたのであり、また、ある意味では不起訴になったのも、そうした広範な裁量権に関わる事案であったからであろうと思っております。この裁量権を行使する者が不公平であるということになりますと、これは国民にとっては誠に耐えられないことである。今回の国民の怒りというのも、そういうところから当然出てきているものと考えておりまして、そういう意味では、あるべき検察官というのは、権限を持った者は常に謙虚でなければならない、これを徹底して身に付けていかなければならないと思います。事実について謙虚であり、また、他の人に対して謙虚であるという検察官像というのをやはりつくっていかなければいけないであろうというふうに思っております。
第三点でございますが、これまで判検交流というのがしばしば裁判官と検事との関係を密にし過ぎているのではないかという御批判をいただいてまいりました。この点については、必ずしも交流それ自体を全面的に否定するというのが正しい解決とは思いませんが、現在の交流の在り方は、明らかに一方に偏しておりまして、裁判官から検事になるというのだけが非常に大きくて、他の交流はほとんど絶無という状態でございますので、これはいかにもバランスを失して、それゆえに緊張感に欠けるところがあるのではないかというふうに思っておりまして、大臣の指示も、今後は、そういう一方に偏した交流ではなくて、さまざまな交流、例えば、弁護士から検事、あるいは検事から弁護士、あるいは検事から裁判官、こういう種々の交流をやっていくべきではないかという指示でございます。
第四番目の指示は、起訴した事案につきましては、裁判所がこれに対する批判をしてもらえるシステムになっておりますが、不起訴になった事案については、こうした掣肘はないということから、現在あります検察審査会、これを重視することによって、国民から直接的な監視をいただく必要があるのではないかというふうに考えております。その意味で、検察審査会の一定の議決に法的拘束力を与えることが必要ではないかというふうに考えております。もう一点は、現在あります検察審査会の勧告・建議の制度を充実、強化いたしまして、いったんこれに基づく勧告・建議が行われた場合には、対象庁は必ずこれに対する応答をしなければならない。事の性質上、公表できない場合は除いて、必ずその建議と勧告、並びにこれに対する応答は公表しなければならないというような制度を考えるべきであるという指示をいただいております。
この重要な時期に、こうした事態を招きまして、国民から司法に対する不信感を突き付けられ、当審議会にも大変御迷惑をお掛けしたことを重ねておわびを申し上げます。
ただ、検察といたしましては、失われたものをきちんと取り返すべく、大臣の指示を実現させるとともに、日々の事案の処理を通じて、国民の信頼を次第に取り返していきたいと考えておりますので、皆様方におきましても、どうかよろしく検察官についての御論議をいただければ幸いであると思っております。
どうもありがとうございました。
【佐藤会長】どうもありがとうございました。
ただいまの、但木官房長の御報告に関しまして、時間の関係もございますけれども、特に何かお尋ねになりたいことがございましょうか。よろしゅうございますか。
非常に重要な御指摘をいただいたというように受け止めております。本日は長らくお待たせして、本当に申し訳ございませんでした。今日はどうもありがとうございました。
配付資料について、事務局長、特に御説明いただくことがありましょうか。
【事務局長】特にございません。
【佐藤会長】それでは、最後ですが、次回の日程確認等をさせていただきます。
【藤田委員】前々回の審議で、裁判官制度について議論いたしまして、一応意見の整理をしていただいたんですが、先日、議事概要をいただきまして、記載されている意見の整理については、多少その内容、表現、ニュアンス等について意見があるんですけれども、前々回の会長、会長代理のお話ですと、具体的な案文を詰めるときにもう一遍意見交換をするというようなお話でしたので、そういう機会があるというふうに理解してよろしゅうございますか。
【佐藤会長】ざっくりしたまとめでということで申し上げましたけれども。
【藤田委員】よろしくお願いいたします。
【佐藤会長】それでは、次回の第52回審議会でございますけれども、3月19日月曜日午前9時半から12時まで、この審議室で行いたいと思います。次回は、「利用しやすい司法制度及び国民の期待に応える民事司法の在り方」につきまして、まず、この中間報告に対するさまざまな御意見、それから会長代理に御苦労いただきましたADRの勉強会の結果などを踏まえまして、委員の皆様に意見交換をしていただこうというように考えております。
そこで、私と会長代理で御相談させていただきまして、次回の意見交換用のレジュメを御用意させていただき、そのレジュメに従って意見交換をしたいというように考えております。レジュメにつきましては、事前に委員の皆様にお送りするつもりでおりますので、事前の御検討方をよろしくお願いいたしたいと思います。
また、この19日には、冒頭に申しましたように、最高裁判所から、今日、但木官房長がお触れになりました件につきましての、最高裁としての調査結果といいますか、処理についてお話ししたいということでありますので、そのお話を承りたいと思っております。
それから、その次の3月27日に行います第53回審議会でございますが、「国民の期待に応える刑事司法の在り方」につきまして、警察庁からのヒアリングを予定しております。そのヒアリング項目につきましては、私と代理で御相談させていただきまして、今、お手元にお配りしたような内容でお願いしたいというように考えておりますので、御了解いただければ幸いでございますが、よろしゅうございましょうか。
【中坊委員】この二つ目に「刑事司法(特に捜査に関し)の改革・改善に関する意見について」というところがありますが、この問題について、警察が検察に送致した事件がありますね、それの処理ということが一つの大きな問題ではないかと思うんです。先ほどの裁量権の範囲内で起訴にするということについて、特に不起訴にしている問題が、やはり検察と捜査との間に、私は警察刷新会議におりましたからわかるんですが、そこがやはり非常に大きな問題、警察側からすると自分たちが幾ら捜査をして送致をしても、全く不起訴になってしまうと、その辺の起訴・不起訴というところに問題があるので、できましたら、送致事件の処理といいましょうか、そういう問題についても、もうちょっと入れておいていただいたらと思います。
【井上委員】それは私の理解では、3の法曹三者について言いたいことの方に含まれるのではないかと思うのですが。
【中坊委員】だから、特に捜査に関して改善ということでね。
【井上委員】捜査というよりは検察の処理体制でしょう。
【中坊委員】それだけでもないらしいんです。要するに、警察が送致するといっても、全部逮捕の期間中調べて勾留するでしょう。だから、捜査の一環としても、そういうものがあるようですよ。だから、そこが犯罪捜査をする側と検察側との間に色々問題がある。
【佐藤会長】御発言を踏まえて、ヒアリング項目をお送りするということにしたいと思います。
本日の記者会見はいかがいたしましょうか。井上委員よろしいでしょうか。
では、本日はどうもありがとうございました。不手際で、議論すべきものを残してしまいましたけれども、ありがとうございました。