司法制度改革審議会
法科大学院(仮称)構想に関する検討会議(第5回)議事要旨
1 日 時 平成12年7月5日(水)15:30~17:30
2 場 所 KKR HOTEL TOKYO「平安の間」
3 出席者(敬称略)
(協 力 者)小島武司(座長)、井田 良、伊藤 眞、加藤哲夫、田中成明、金築誠志、川端和治、清水 潔、房村精一
(司法制度改革審議会)井上正仁、鳥居泰彦、山本 勝、吉岡初子
(事 務 局)合田隆史大学課長
4 会議経過
(1) 事務局より資料確認が行われた。
(2) 座長より、第4回議事要旨(案)の取扱いについて説明があり、7月7日(金)までに意見があれば事務局まで連絡の上、修正し、最終的には座長へ一任することが了承された。
(3) 前回配付資料を踏まえ、法科大学院における教員組織及び設置形態について、以下のような意見交換が行われた。また、川端委員より書面に基づき「法科大学院において実務教員が分担すべき実務教育について」発言があった。
法科大学院は実務法曹を養成するものであるから、実務家として最低限の資質の養成とプロセスを経ることができた人で司法試験に合格した人に修習を行うこと、法曹人口の大幅増員と毎年の合格者の変動に対応できる制度として構築されなければならない。
また、法科大学院においても、相当多数の実務家教員による実務教育(1クラス25名程度)がなされなければならない。アメリカにおけるリーガル・リサーチ・アンド・ライティングやロイヤリング等と現行司法研修所の前期で行っている教育をし、実務修習への円滑な移行を企図するべきである。そして、カリキュラムは、3年間の完結型の法科大学院を前提として、1年次で基礎科目、2~3年次前期の間に臨床科目、3年次後期に現行司法研修所の前期科目を履修するというものである。
日本と米国では前提としている制度が異なることから、日本の学士や修士といった学位と米国のJD、LLMやLLBが必ずしも対応しなくてもやむを得ないのではないか。
法科大学院の課程を修了しても法曹にならないケースには、法科大学院の課程を修了しても実務修習は受けない場合と新しい司法試験に合格しない場合の2種類があるが、そのような者が生じることを前提にすれば、法科大学院の修了自体が一定の価値をもつというイメージを出すことが必要であり、その場合JDの学位が適切なのではないか。
JDやLLBは米国の学位であって日本の学位ではなく、法科大学院の修了者にどのような学位を与えるかということについては、日本の学位として何を与えるかということと、その日本の学位を外国語でどのように表記し、国際的に対応させていくべきかという2つの観点から検討する必要がある。
法科大学院を3年制とすれば、実態としては通常の2年制の修士プラスアルファとなるが、博士の学位も最短3年で取得できるようになっていることとの関係をどのように整理するか。
現在の大学院の修業年限は標準修業年限という考え方をとっており、修士課程は標準修業年限2年であるが優秀であれば1年で修了できる仕組みとなっているとともに、1年で修士を取得できる修士課程の設置も制度上可能となっている。また、博士課程についても標準3年だが、修士課程を終えていれば1年で修了することも可能となっている。
法科大学院を2年制とするとしても、法学部以外の卒業者については、年限的には博士取得のための最短距離である3年と並ぶことになるのではないか。
学位は、修業年限だけではなく教育の水準ともかなり密接にかかわる問題であり、たとえ法科大学院が3年制となっても、その課程を修了すれば直ちに博士の学位に対応するということにはならないのではないか。
現在の専門大学院制度においては2年制の課程が前提であり、取得できる学位も研究者志望者と同じ修士であるが、法科大学院の検討に当たっては、これよりも若干自由に考えられるのではないか。
教育の実質的な内容と学位の種類の関係を検討する必要があり、実務を視した教育を行う以上、それに対応した学位を与えるべきではないか。
(4) 田中委員より「第三者評価のあり方」、伊藤委員より「司法試験」「実務修習との関係」についてそれぞれ報告があり、それを踏まえ、以下のような意見交換が行われた。
成績評価の統一的基準は、大きく分ければ、カリキュラム内容は別としても、それぞれの科目に内在する基準と、成績評価基準の情報公開やイギリスの学外試験委員などによる単位評価や成績評価、あるいは千葉大学医学部や慈恵医科大学などで臨床実習前に行われている総合統一試験の実施などの外在的基準があると考えられるがその両者を想定しているのか。
個々の成績評価について、配分基準を示したり、外部の者を入れて最終試験を行うかという問題や、例えば、可が何個以上では進級できないといったような様々な基準が考えられるが、どの程度それを実施しチェックするのか。このような取組は、これまでほとんどの大学であまり行われておらず、かなり戸惑うかもしれないが、これを実施しないと、法科大学院を含めた大学が社会から信頼されないのではないか。
成績評価のチェックは、外形的な面にとどまり、一番重要な内容についてチェックを行うことは困難ではないか。
たとえ外形的なチェックであっても、これまであまり行われてこなかったことを踏まえれば、相当のチェックになるのではないか。
アメリカのロースクールにおいては良い成績の割合は例えば20人のうち1~2名程度であって、多くの学生は「可」しかもらえないという非常に厳しいものであるが、日本でもその割合を5%、10%など何段階かの基準を示し徹底すれば、現在の法学部の仕組みを大きく変えることになるのではないか。
成績評価基準の統一は少人数であるほど困難ではないか。例えば、10人程度の授業で密度の濃い授業を行った場合と、数百人を対象とした大教室の講義において試験を行う場合とでは、厳しい成績評価を行うこととしても、同一の基準では不可能ではないか。
アメリカのロースクールの場合も、大教室の場合と少人数授業の場合では、評価基準を変えるなど多少柔軟性のある制度となっているが、それでも良い成績を与える学生数は限定されている。
少人数授業における成績評価については、例えば、10人程度の少人数授業では、極めて優秀な学生がおおよそ1~2名、逆の場合が若干名という状態が普通であり、その意味では、人情の問題を別にすれば、逆に非常に評価しやすいのではないか。
アメリカのABAの基準にあるように、悪い成績をとった学生を放校処分にするような基準をつくるべきではないか。このような基準がなければ法科大学院に入学しさえすれば自動的に修了し、資格試験化した司法試験にほとんど合格できるという制度になるおそれがある。
最低限の基準は必要だが、実態としては、アメリカのロースクールでもこのような基準の適用によりドロップアウトさせられる学生はそう多くはないのではないか。
アメリカは、例えば、上位5%や2%に入れれば就職に非常に有利になる社会であり、日本でも同様の考え方が浸透すれば、一生懸命勉強することに対する大きな動機づけになるが、そうならない場合、可さえ取っていれば良いということになってしまうのではないか。
法科大学院の修了が新司法試験の受験資格となると、法科大学院では最低限の努力をし、その間に新司法試験の予備校に通い、もっぱらそちらで勉強し、確実に司法試験に受かるようにするというケースが出る可能性もあり、そのような法科大学院へのかかわり方を許さないような仕組みをつくる必要もあるのではないか。
必修科目をかなり厳しく課し、それをこなすためには必死に勉強せざるを得ないという状況にする必要があるのではないか。
学生数と教授の割合や図書館蔵書の充実の割合など一般に評価基準は形式的なものであり、このような基準は直ちに教育の質や学生のレベルを保障するものではなく、やはり教員の質や教育理念が重要である。教員の質の評価が難しいのはわかるが、今の法学教育の問題は、大学教員に教育に対する情熱とスキルが欠けていることにあるといわれており、今後の法科大学院においては、教育面で熱心で、学生を引きつけ、育てる能力がある教員が評価されるシステムとする必要があるのではないか。
大学の評価は、大学基準協会や大学設置審議会によるアクレディテーション、大学基準協会や大学評価・学位授与機構等第三者機関による評価、運営諮問会議などによる外部の者による評価、マスコミなどによるランキングなどがあるが、これに加え、自己点検・評価も近年各大学において積極的に行われている。
アメリカでは、恐らく先にロースクールがあり、各州の法曹養成のガイドラインとして第三者による評価が始まったと思われるが、日本の場合は、逆にしっかりと形態を決めて構想し、それに対応する第三者評価が一方でまた用意されるとともに司法試験もあるとなると、大学運営が硬直化し、多様化とはほど遠い状況になってしまうため、民間が任意に行う格付けを重視し、評価についてはあまり厳格に決める必要はないのではないか。
アメリカでは退学勧告は教授が個人ベースで行っており、相当数の者がこの勧告を受けているようだが実際に退学を迫られる者は結果的には少なく、また、仮に退学勧告を受けても、覆すだけの猶予が与えられており、退学勧告を受けた者は相当な努力を払って成績を上げるなど大きな効果がある。
法科大学院は国家資格をプロセスを通じて取得させる機関であり、一定の質が確保されていなければ、養成された法曹を利用する消費者が困ることになるため、ある程度の評価の厳格さもやむを得ないのではないか。
司法試験が資格試験化すると合格しやすくなることを前提として議論されているが、必ずしもそうではないのではないか。当然、学生は法科大学院の修了までに最低限の水準に達していることが必要であり、制度設計としては、厳しいプロセスを経れば相当数が合格することを前提とするとしても、必ずしも予想どおりに合格しない場合もあり、各法科大学院の質の基準は最終的には司法試験の合格に行き着くこととなると思う。したがって、カリキュラム内容とともに教員の教育能力・熱意が重要であり、これらがうまく循環し良い方向へ向かっていくような制度設計をするべきではないか。
各教員の教育手法、資質など様々な要素の評価を厳しくするほど、例えば、学部に所属する教員を法科大学院に転籍させるという現実的な問題に直面した場合にスムーズにいかなくなるのではないか。理想的な法科大学院の教員をどのように養成するかという問題についても恐らく、現在の大学教員の一部が法科大学院に移って、教育する場合、その教員が法科大学院の評価を高めるためにどのように積極的にかかわるかということが、自ずとその教育方法、内容に対する評価として自らに跳ね返ってくるという流れが一番自然なのではないか。
法科大学院の設立当初は法科大学院の教員に適した能力や技能も不足しているかもしれないが、努力によってレベルアップし、将来的には法科大学院の教員にふさわしい教員をこのシステムから生み出していくことになるのではないか。
法科大学院の質を確保するためには、学生に厳しくすることだけではなく、教育者そのものの質がもっとも重要であり、その課題を残しては問題は解決しないのではないか。
しばしば大学教員が研究重視であったことの反省として教育重視が指摘されるが、研究重視自体が問題なのではなく、研究内容の偏りや質の問題が教育の質を低下させたという面もあり、良い教育と良い研究は二者択一ではなく、両者が本当の意味で連動することが大学の真の姿なのではないか。
学生による授業評価が近年多くの大学で取り入れられていることと関連し、教員の側からどのような教育を行うかという視点とともに、学生の立場に立ち、その教育が実質的に身に付いているかどうかという見方も極めて重要ではないか。
学生による授業評価は、大学基準協会や評価機関による評価や自己点検・評価の中に含まれており、ユーザー側・企業側の評価や学生による評価などを総合的に捉えつつ、カリキュラムや個々の教員、授業科目、授業方法を見直していくこととなるのではないか。
「優れた法曹を養成するためには法科大学院が必要である」ということから直ちに、従来とは異なる新しい司法試験の導入につながらないのではないか。法科大学院で密度の濃い教育を受けていれば、司法試験で良い成績をとって当然であり、同じ試験でも十分ではないかという議論もある。そうではないということを理解してもらうためには、新司法試験を別途実施し、しかも法科大学院の修了を受験資格とする必要があるということを説得的に示す必要があるのではないか。
基本的には、教育の仕組みが変われば試験の在り方もそれに対応したものとなると思うが、その新しい試験と受験資格の関係は必ずしも明確ではないのではないか。
法科大学院構想は、今までの司法試験が大学教育とは無関係に行われてきたところに様々な問題があったということを前提としており、その意味で、新しく構想されるべき司法試験は、大学院教育の成果を試すような試験でなければならないのではないか。
新しい司法試験を法科大学院修了を受験資格とし法科大学院における教育内容を確認するような試験とした場合、何らかの事情により法科大学院には入学しないが、個人の努力により、法科大学院修了者と同等の水準に達した者に何故法曹資格を与えないのかという議論が当然出てくるのではないか。
法科大学院の教育内容に対応した試験内容にする必要があるということまでは言えるが、法科大学院を経なければならないこととするためには、法科大学院というプロセスを経ること自体に重要な意味があるという位置づけをしなければならないのではないか。
新司法試験は、法科大学院において試験では完全には判定し得ない法曹としての資質や能力、考え方などを身に付けさせる教育が行われ、その課程を修了した学生ならそれを身に付けていると考えられるということを前提に、試験で判定しうる限りの能力を確認する試験である、と位置づけるべきであり、同じプロフェッションである医師の養成システムと比べても、学識の判定手段として試験だけを重視する法曹養成制度の方に問題が多いのではないか。
プロフェッションとは、司法制度改革との関連でいえば、ユーザーにとって法曹としてどのような能力が必要かということにかかわるものであり、そのベースができていなければ、たとえ試験に合格してもそれだけでは不十分であるということについて共通理解が必要ではないか。
現在の司法試験は、そもそも実務家としての技能を試す試験ではなく、技能は研修所で身につけることを前提とし、そのために必要な法律知識や法律的な物の考え方の修得を問うものであり、それ自体は間違っていない。問題は、知識はそれなりに修得していても法学的な考え方を十分に身につけていない者が増加しているということにある。
現在の司法試験とは異なる方法で試験を行えば、より法律家に適した人が合格し、良い法律家が育っていく可能性があるが、今の制度の下では、そもそも合格の可能性が極端に低いことから敬遠する者が多く、そもそもあまり適していない者が合格し法曹となり、全体のレベルの底が低いという現象が起きるおそれがあるのではないか。
法曹への適否は別としても、司法試験合格のために相当の努力がなされていることは確かであるが、その努力がより高度な法律家になるために必ずしも役立っていないという面があるのではないか。
司法試験は,資格試験と言われているが,基本的には二回試験に受からないと資格をとることができず,その意味では二回試験が本当の資格試験である。試験だけでは適性をはかりきれないのでプロセスと言われているが,今のシステムにもプロセス重視は組み込まれている。法科大学院でプロセスを踏まえてやってもらうのは重要だが、1回の司法試験で十分ということではなく、実際の現場で様々な教育を受けた後で、もう一度、関門を設けるような仕組みが必要なのではないか。
法科大学院には、法学部の卒業生だけではなく、理工系の学生、医学部の学生、一般の社会人など多様な人材が入学することとなるが、そのような人材の能力はそれこそ試験では図りきれず、どのような方法で選抜するかということは新しい司法試験の在り方の問題と同様、難しい問題ではないか。
入口段階では、多様な人材を多数受け入れることが望ましいが、ただ、最後の段階は、法律の専門家として巣立つために必要な能力を身に付けたかどうかという観点から、関門を設けることが必要である。
人間としての礼儀などは本来大学までに身に付けるべきであるが、今の厳しい司法試験に合格するために、本来、その時期に伸ばすべき能力を伸ばしきれていないという面もあり、司法試験の前の段階で、もう少しバランスよく教育を行う必要があるのではないか。
司法修習生はやはり実務修習を経験して成長しており、特に弁護修習については、クライアントを相手にするため弁護士事務所は当然厳しい要求をし、結果としてしつけが行われている。ここ数年、学生気分の抜けきらない非常識な者が増えており、前期修習を経てもまだ十分に教育がなされていないのではないか。
人間として非常識かどうかというのは、司法試験の問題とは切り離して考えるべきではないか。実際に非常識な者が増加しているとしても、司法試験の方法が適当でないから非常識な者が合格し、したがって今の司法試験はだめだということではないのではないか。
司法試験受験の前提として、法科大学院を修了しなければならないという考え方は本当に妥当なのか。人間として幅がある法曹を育てたいという考え方であれば、法科大学院だけではなく、むしろ社会経験のある人材等を幅広く受け入れるための道筋が必要であり、法曹としての基礎知識は当然必要だとしても、一定の積み重ねがなければ受験できないという考え方は適切ではないのではないか。
今の法曹養成制度はキャリアシステムを前提としているから、若い人を採用して段階を踏ませようとする。社会経験を十分に積んだ上で法曹になりたいという人も、法科大学院で3年間教育を受ければ、高い割合で法曹になれるという制度設計に変え、そのような人材が主流になれば、裁判所も検察庁もそういう人を採用するようになるのではないか。
社会経験を積んだ人が法律家になる場合、当然法律を学習する必要があるが、その際、幅広く多角的な物の見方ができる法曹を養成するという観点から構想されている法科大学院において、適切な教育を受けた方が良いのではないか。
法科大学院ができたことにより、これまでなら法曹になれた社会人がなりにくくなるというのであれば問題であるが、それは今後法科大学院をどう構想していくかということによって異なるのではないか。
5 次回の日程
次回は7月17日(月)13:00~15:00、東京會舘「シルバースタールーム」において開催されることとなった。