司法制度改革審議会
法科大学院(仮称)構想に関する検討会議(第8回)議事要旨
- 1 日 時 平成12年7月31日(月)13:00~16:00
2 場 所 霞が関東京會舘「シルバースタールーム」
3 出席者(敬称略)
- (協 力 者)小島武司(座長)、井田 良、伊藤 眞、加藤哲夫、田中成明、金築誠志、川端和治、清水 潔、房村精一
(司法制度改革審議会)井上正仁、鳥居泰彦、山本 勝、吉岡初子
(事 務 局)工藤高等教育局長、合田隆史大学課長
- 4 会議経過
- (1)事務局より資料確認が行われた。
- (2)座長より、第7回議事要旨(案)の取扱いについて説明があり、8月4日(金)までに意見があれば事務局まで連絡の上、修正し、最終的には座長へ一任することが了承された。
- (3)8月7日の司法制度改革審議会集中審議において報告する「検討会議における議論の整理」(概要)(案)について、次のような意見交換が行われた。
(法曹として備えるべき資質、能力と法曹養成の基本理念)
- 法曹人口の大幅増を前提とすることがそもそも司法制度改革審議会の要請であることから、司法制度改革審議会の意見の引用の部分は基本理念の枠内に含めるべきではないか。
- 司法制度改革審議会においては、法曹人口の大幅な増加を前提に法科大学院構想、法曹養成制度を再検討しなければならないという流れではあるが、制度設計にあたって、そこまでを前提にするか否かという点については、必ずしも意見は一致していなく、審議会の問題は審議会で議論すれば良いのではないか。
- そうであるならば、少なくとも法曹人口の大幅増加を前提として制度設計するか、あるいはそれについては審議会に設定を任せ、専ら質の向上を考えて制度設計するかという2つの意見があったことを明示しなければならないのではないか。
- 司法制度改革審議会の中では、むしろ法科大学院が法曹人口の増加に貢献しないのであれば、実施する意味がないという意見が有力だったことを考えると、法曹人口の増加についても触れる必要があるのではないか。
- そのような意見は必ずしも有力だったわけではないと思うが、法科大学院は人数増加の手段なのか、人数の増加を前提に質を維持するための手段なのかという点について、重点の置き方により少し理解の違いがあったと思う。法曹人口の大幅増加を前提とするということについては既に意見は一致しており、あえてここで触れる必要はないのではないか。
- 法曹人口の増加は枠外に触れられていることから、その枠内の考え方を示すに当たって議論の前提としたということを座長が司法制度改革審議会に報告する際に触れることとすればよいのではないか。
(今後の法曹養成のための法学教育の在り方)
- 学問の自由を基盤として多様な学風、伝統を持つ大学において教育を行うということが法科大学院における独自試験の実施の根拠づけになってしまっており、法科大学院の公的な法曹養成機関としての性格を考えれば問題がある。せめて「学問の自由を基盤とする」の前に「開放性を保ちつつ」といった文言を加えるべきではないか。
- 各大学院による独自試験の実施は自大学法学部からの進学者を抱え込むという趣旨ではなく、全国統一試験ではなくとも、独自試験自体をオープンに行うという趣旨であれば問題はないのではないか。
- 法科大学院は公的な法曹養成の一部を担う機関であることから、全国統一試験を実施し、その後、各大学がそれぞれ独自の試験を行うべきであり、その際の全国統一試験は適性試験であるべきだと考える。
- 独自試験を行うとしても、それが開かれたものであれば良いのであり、各大学の伝統、学風とはあまり関係がないのではないか。むしろ教育内容自体について、伝統・学風による多様性を持たせる方が望ましいのではないか。
- 学問の自由を基盤として多様な学風・伝統という表現では新しい大学には伝統がないため、新規参入は認めないかのような誤解を招くおそれがあるのではないか。
- 「バックグラウンドとしての広い教養を身に付けさせるため」という部分は、法科大学院においてリベラルアーツを行うような印象とならないよう、例えば幅広い「視野」とした方が適切なのではないか。
- 留学生の問題もこれまで十分に検討されてきたと思われるが、将来的な課題としても何か示しておく必要があるのではないか。
- 主婦なども社会人の概念に含まれると思うが、含まないという誤解を招かぬよう社会人等とすべきではないか。
- 「理論教育を中心とした中核的」という表現は「理論教育と実務教育を架橋する中核的教育機関」と修正すべきではないか。司法制度改革審議会からは、法科大学院は理論と実務の両方を行う両者を架橋する機関であるということを前提として検討依頼がなされているが、実務軽視になってしまっている印象がある。
- 架橋という言葉は必ずしも理論教育と実務教育の両方を行うことを意味するわけではなく、両者の乖離を埋めるために法科大学院では従来とは異なる法学教育を行うべきであるという意味だと思う。ここの理論教育の意味は、研修所で行われている実務的な教育あるいは実務的な訓練を前提とし、実務を視野に入れた理論教育を中心に法科大学院に教えることが架橋であるという判断で表現している。
- 法科大学院は理論と実務を架橋する機関として構想されており、理論教育のみではいつまでも実務に到達することができないため、やはり法科大学院という橋の部分で、いかに両者をつなげる教育を行うかという視点がなければ架橋にはならないのではないか。
- 「架橋」をどのように実際のカリキュラム等の中で具体化していくかということが重要であり、例えば、このカリキュラム例の中でも多くは理論科目であるが、実務を度外視した抽象論ではなく、実務を意識した理論の展開を意識しており、心配する必要はないのではないか。
- いわゆる理論の教育と実務の教育が乖離しているという問題意識から架橋する必要があるということであり、同じ場所で行っても、かけ離れた内容を教えていては架橋にはならず、形式的に理論と実務をどこで教えるかという問題ではないのではないか。
- 「理論的教育」と「理論教育」は意味が異なるのか。
- 「理論教育」が意味するのは実務上生起する問題の合理的解決を十分意識した法理論教育ということだが、前者の「理論的教育」は学部や研究科でこれまで行われてきたような法学教育というニュアンスがあり、それが乖離していたということを示しているのではないか。
(標準修業年限)
- 法科大学院を3年制とし、法学既修者と認められた者に1学年分の学修の免除を認めるとすれば、1年次に置かれている法曹としての基本科目であるリーガル・リサーチ・アンド・ライティング等までも免除されることになり、2年次に法学未修者と法学既修者が統合されたときに、法学未修者として入学した者は法曹基本科目を学んでいるが、法学既修者であると認められた者は学んでいないという現象がおこり、教育効率としても適切ではないのではないか。
- 法律学の基礎的な学識を有する者に2年の教育を行うこととなっているが、これは、学識があるということが何らかの形で確認された者という意味であって、法学部出身者であれば当然2年間で修了できるわけではないので、例えば「学識を有すると認められた者」などと改めてはどうか。
- 開放性、多様性を前提とした開かれた機関としての法科大学院の性格上、2年単独型はあり得ないということをまず確認するべきではないか。その上で、3年制を想定し2年制を併せて検討する案、2年・3年並立案がある一方、免除するにしても1年間ではなく一部のみとするべきであるとの意見もあったなど、司法制度改革審議会に本検討会議における議論の経過を詳しく示した方が良いのではないか。
- 2・3年制並立案は、2年制も3年制も原則とし法学既修者は2年制とするが、未修者はゼロ年次として基礎から学び、既修者に追いついてから、法学既修者の1年次の学生と同じコースになることを想定していることから、考え方としては2年制が原則となる。ただ、それは考え方にすぎず、実際は両者が並立し、多様なバックグラウンドを有した者が、少なくとも最後の2年は同じクラスで議論ができることを確保する必要がある。
- 考え方に違いはあっても実質は同じであるということはわかるが、司法制度改革審議会の委員は本検討会議における議論を必ずしも十分に理解しているわけではなく、合理的であるという意見が大方であるという表現はその意見に傾斜している印象となり、適切ではないのではないか。
(教育内容・方法)
- 教育内容について、カリキュラムのモデル例をよりわかりやすくまとめたものを別途「概要」の添付資料として司法制度改革審議会委員に配付してはどうか。本体とは別にわかりやすい資料を用意しないと、司法制度改革審議会において他の論点に議論が集中し、教育内容について理解してもらえないおそれがあるのではないか。
- 基幹科目の内容自体に反対するものではないが、Cの基幹科目のところで「必ずしも実定法ごとの教育に固執する必要はなく、民事系、刑事系、公法系といった科目群として設置し(略)とした内容のものとすべきである」と言い切るのではなく、「内容のものとすることを検討すべきである」という表現に修正すれば、検討結果によっては多様な分類ができるし、それが各大学院に任されているというニュアンスを伝えることができるので はないか。
- 全体として「べきである」という表現が多用されており、ミニマムスタンダードを表現するという意味では理解できるが、表現上必ずしも一貫しているわけではなく、できるだけ慎重に使いわけるべきではないか。
- 教育内容について、3年制のモデル例の別案として本体枠外に意見の要約があるが、イメージがわきにくいので、「基礎科目と基幹科目を1年、2年で繰り返すのではなく」という表現を「3年制のモデル例については」の後ろに入れて、以後、「むしろ」と続けた方が良い。この案では、1年次に少人数教育において具体例を素材とし、ソクラティックメソッドによって法的なものの考え方を身につけさせることを重視しており、そのような科目は1年目に必ず履修する必要があり、2年次にスキップすることを認めることが出来ないという意味である。
- 現段階では、法科大学院における教育内容がどのようなものかということを明示し、はっきりわかるような形にしておいた方が良いと思うが、実際に実施する際には、各大学院の自由な取組をどこまで制限するかということが課題になるのではないか。
- 教育方法について、「複数の講座が想定されようから」という表現は大きなロースクールのみを想定しているような印象があり、また、「講座」という用語はあまり適切ではないことから、「複数の授業が設けられることがあり得るから」などと修正した方が良いのではないか。
(入学者選抜・学生定員)
- 全国統一試験をも実施する考え方があるという意見のまとめ方については、実施するとの考え方が有力であり、必ず実施しなければならないという意見もあると書いていただきたい。
- 本体においては、法学既修者と法学未修者に分けて行われる分離試験を前提にしているが、ここにいう法学既修者とは「法学既修者と認められた者」であり、法学既修者という概念がアプリオリにあるわけではない。所定の試験等なしに法学既修者と法学未修者とに分離し、いきなり分離試験を行うことは論理的に不可能なのではないか。
- ここにいう「法学既修者」は法科大学院の法学既修者コースに入りたい人という意味であり、いわば法学既修予定者のことを指すのではないか。つまり、法学既修者コースでは法律の試験によって学生を選び、希望者には平等に試験を課し、一定レベルに達していれば既修者と認める場合と、法律の試験以外の試験で未修者として3年やる場合もあり得るということを言っているのではないか。
- 全国統一試験についてはLSAT的なものを念頭に置くということは、例えば分離型試験が実施されることとなった場合、法学既修者用コースを志望する者については全国統一的な試験をやらないということなのか。
- 試験の内容は法学科目になるのかLSAT的なものとなるのかはまだ決まっていないので、選択としては排除されていないということである。
- LSATという用語を削除するのであれば、全国統一試験の内容について、それが法学の試験はもちろん、いわゆる知識試験ではないということを明示しておくべきではないか。
- 全国統一試験を実施するのであれば、まさに問題として法律的なことを含めるのかどうか。法律を含めない場合、一体それが法曹としての資質を持つ者の選抜にどの程度の有効性を持つかという指摘もある。
- 全国統一試験を実施する場合、法律の試験に限らず、適性試験についても偏差値化されて、法科大学院の序列化につながってしまうおそれがあるということは示しておくべきではないか。
- 制度として、それを各大学に一律に課すのか、あるいは個別の大学がそれぞれの判断によって実施するのかという問題がある。
- 実質的には選択的に大学側がそれぞれの判断により全国統一試験といったものを利用するということなら良いと思うが、義務的に課すこととすると異論も多いのではないか。
- 法律に関する全国統一試験をやることとしても、実際そのような問題を作成することは極めて困難であり、予備校のもつノウハウにはかなわないのではないか。
- 問題があるからやめるべきであるということを言っているのではなく、問題点があるということに触れておけば、統一試験と独自試験の比重などを検討するに当たって手がかりになるのではないか。
- 法律に関する全国統一試験を実施すれば、現行の司法試験について指摘されているような弊害がより早い時期に起こり得ることになるという指摘もあるということについても言及する必要があるのではないか。
- 「推薦制を設けるなどして事実上優先枠を確保することについては、(略)評価されるおそれがある」という表現では、専門家による検討会議の意見としては曖昧であり、「評価される」で切っった方が良いのではないか。
- 最終的な結論を出すには早いのではないか。もし司法試験の受験資格と法科大学院を連動させ、所要の課程を経た者であれば合格できる試験にするという制度を構想するのであれば、法科大学院において自大学の学生のために優先枠を設定することは、公共的な制度に大学の私的な利益を持ち込むということとなり、適切ではないのではないか。
(教員組織)
- 実務家教員の範囲について、最低限どの程度の人が必要かということに言及する必要があり、あまり自由にすると歯どめがきかなくなるおそれがある。したがって、例えば、実務家教員といわれるためには実務経験10年以上が必要であることとし、そのような実務家教員が各大学に少なくとも1名は配置されていることを求めることとしてはどうか。
- 「一定の要件」の内容が重要であり、例えば、司法試験に合格していても司法修習を受けていない者や司法研修は受けているが実務経験のない者、登録はしているが実務経験のない者でも良いということでは問題があるのではないか。
- 「従来の大学院よりも多数の専任教員」が必要であるとなっているが、密度の濃い教育を一生懸命行う教員が必要であることは疑う余地はないとしても、最初から専任教員ということで統一しても良いものかどうか。
- 国立大学の教官は国家公務員法、教育公務員特例法で、私立大学の教員は労働基準法で身分が保障されているが、その制度を改正し、任期付教員の採用を可能としたところである。現在それが有効に機能しており、そのような任期付教員も含めて専任教員とするなどあまり限定的に考えない方が良いのではないか。
- 多数の専任教員が必要であるということは、各大学に対する非常に強いメッセージとなるものであり、特に当初は、新しいタイプの授業を行うため、授業時間数の負担が重くなるが、そのような教育はやはり専任教員が行う必要があるのではないか。
- 多数の専任教員が必要であり、法科大学院を設置することは甘いものではないというメッセージを送るとしても、あまり断定するのはどうか。
(多様な設置形態と適正配置)
- 本検討会議でのこれまでの議論は、「専門大学院の基準との関連で論じられてきている」とあるが、このような基準を意識することは当然必要であるとしても、やはり自由に発想することが必要であり、そのような表現に改めた方が良いのではないか。
- 参考となるものとして専門大学院の基準があるが、法科大学院についてもその枠内で構想するかどうかということは今後の検討課題であるということでよいのではないか。
(資力が十分でない入学者に対する援助/財政基盤の確立)
- 法科大学院制度は、その修了者のうち相当多数が法曹になるという制度であり、金銭的に裕福な者だけが法曹になってしまうことなどによって司法の人的基盤が歪まないためにも財政援助が必要であるという実質的な理由を提示し、財政支援を正当化する必要があるのではないか。
(法科大学院と司法試験/司法(実務)修習)
- 司法試験を競争試験から資格試験に転換するという意味は、法科大学院のプロセスを経た者については実務修習に進むことを認めるという方向に司法試験の性格を転換することだと思うが、「相当程度」という表現ではその趣旨を十分に反映しているとは言えず、「そのような教育内容を踏まえた資格試験とすべきである」という表現に改めるとともに、「相当程度」を「相当高い割合の人が」と直すべきではないか。
- 現行試験の受験回数制限については、弁護士会は、厳しい競争試験のうえ、さらに回数制限を行うことには弊害が多いため強く反対してきたが、司法試験が資格試験化し、相当割合が合格するのであれば、それに合格しないような者について制限をしても問題はないという考え方から方針を転換したものである。したがって、「現行制度についての反省及び法科大学院制度の趣旨を考える」という理由で回数制限を認めるという意見は少なくとも弁護士会には全くなく、「相当割合が合格する試験であることを考える」という内容に直すべきではないか。
- 資格試験の意義が不明確である。司法試験の趣旨自体は法曹としての能力の有無を判定するものであるが、運用として過度の競争試験的になってしまったということであり、司法試験制度の趣旨そのものの問題ではないのではないか。資格試験とは、例えば司法書士試験のように、その試験に合格すると何らかの資格を取得し業務ができることであるが、司法試験はそうではなく、むしろ司法修習段階でのいわゆる2回試験がそれに該当するはずである。司法試験の役割は、司法修習に耐え得る能力があるかどうかを見ることにある。
- 資格試験化するということの意味が、司法修習に耐えられる者であれば、養成数にかかわらず、全部合格させるべきであるという意見である場合、例えば年間養成数を1,500人を目標とする場合に2,000人の合格者がでたらどうするのか。
- 資格試験という言葉が曖昧であるのであれば、新司法試験はそのような教育内容を修得したものと認定される法曹資格取得希望者に修習を受ける資格を与えるものとするという表現でも良い。問題は、合格者数が何人であっても、実務修習の体制が人数制限となり、その人数の範囲内でしか合格しないような試験では現在の司法試験と同様の弊害が残るおそれがあることであり、一定以上の能力が認められた者はすべて合格させても、その後の実務修習ができるような実務修習の在り方を考えるべきである。
- 法曹人口を増加させると実務修習は現在以上に手厚く行う必要があり、その観点からは、年ごとの人数の変動は好ましくなく、おおよその人数とプログラムを設定しておかなければ、効果的な修習はできないのではないか。人数の問題はまさに司法制度改革審議会で議論すべきであると思うが、毎年の受験者のレベルが極端に違うことは想定し難く、自ずと決まってくると思う。例えば、1500人ぐらいの人数を想定し、このぐらいの人がこのレベルに達するためにこういう研修が必要だと考えていけばよいのではないか。
- 現在の司法試験合格者でも本当に求める水準に達している人数は少ないが、それでも教育すれば何とかなるという前提で合格させており、今の司法試験が十分な能力のある人を落としているわけではないと思う。「相当程度」という表現には文章上、様々な問題があって絶対的な基準を設定するのはなかなか難しいという意味が含まれているのではないか。
- 司法試験を資格試験的に採点すれば、基準に達しうるのは合格者の3分の1程度だと思われる。法科大学院制度をつくる意義は、実際には能力的な差がほとんどないであろう合格・不合格のボーダーライン上にいる層を全体としてレベルアップすることが期待できるところにあるのではないか。
- 司法試験の受験回数の制限については現行制度に対する反省というよりも、「法科大学院制度及び司法試験制度の趣旨から考えると」とするべきではないか。
- 司法試験の内容を「そのような教育内容を踏まえたものとすべきである」を「そのような教育内容を踏まえてその成果を確認することを目的とするものとすべきである」などとすれば良いのではないか。
- 法科大学院における教育の成果を確認するのは法科大学院の役目であり、司法試験の役割ではない。司法試験は、これから修習に進む人たちにそれに耐えうる能力があるかどうかを確認するということが本来の役目であり、法科大学院の教育内容の成果については法科大学院の成績評価がしっかり行われていれば良いのではないか。
- 司法試験の内容を法科大学院の教育の成果を確認する試験とすることに反対し、実務修習の容量によって合格者数を決定するという意見は、法曹養成制度を法科大学院を中心とするプロセスによる法曹養成制度に変換するという根本思想に反対しているのではないか。
- 法曹人口は一気に増やせるものではなく、ある程度計画的に増加させることが必要である。また、必要な養成数に見合った修習体制を整備し、それに応じて合格者数を決定するということを言っているのであり、反対しているわけではない。
- 法曹人口の増加が法科大学院構想の一番基本的な目的であり、質と量の充実のために法科大学院が必要だと位置づけられてきたにもかかわらず、司法試験、司法研修という器の制約によって大きく増加させることができないというのは適切ではないのではないか。もちろん、一気に増加させることは困難であり、段階的に増加させることとなると思うが、最初から垣根をつくってしまうような考え方は適切ではないのではないか。
- 法曹人口の増加に関する最初の目標値が設定されれば、それに合わせてどのように増加させるかという話になるが、それは計画的に増加させる必要があり、年によって人数が異なるのでは制度としてはうまくいかないのではないか。
- 司法修習の期間は法律家として必要な水準に達することができる期間を考えた上で決めるものであり、その前提としてこの程度の能力は身につけていて欲しいという要請があるが、基本的に法科大学院においてはそれを踏まえた教育を行うものと考えられ、中身としては変わらないと思われるが、ただ、発想として、法科大学院できちんと教育を受けてきたかどうかをテストするというのは適切ではないのではないか。
- 入口が法科大学院への入学で出口が司法試験であると考えれば、入口と出口が常に同じ割合で固定されていることは無理であり、そうであれば、やはり無限に法曹を養成できるわけではない。入り口はできるだけ広げ、出口は競争と教育内容によって質を担保することにより、おのずと一定数の法曹が出てくるようにする必要があると思う。
- 法曹を相当増加させ、企業や行政といった分野にも法曹の素養を持った人たちが進出することによって、最終的に司法試験に合格しなくても世の中はそれを評価するという質の高い教育を行えばよいのではないか。
- 法科大学院への入学から修了までの間においてプロセスとしての教育と選抜を行うということは、成績が悪ければ退学させることなどによりふるい落とすということであり、そのような厳しい過程を経た者は新司法試験に原則として合格するような制度設計をする必要があるのではないか。
- 新しい法学教育はプロセスを重視し、裁判官や検事、弁護士などの実務家教員による実務教育も行うこととなっていることから、従来と異なる試験を考える必要があるのではないか。
- 教育内容が変われば試験内容も当然変わるものであり、法科大学院での教育内容を踏まえたものとすべきであるというのはそういう趣旨である。将来の人数の規模はわからないが、従来に比べれば司法試験の合格率も高くなり、内容も法科大学院における教育内容を踏まえたものとなるのであれば、認識に大きな差はないのではないか。
- 法曹人口については司法制度改革審議会で議論されており、修習の人数も多分増加することになるとは思うが、質を維持するためにどのような工夫が必要かということも考えれば、突然2倍に増加させることはできず、徐々に増加させていくこととなるのではないか。
5 次回の日程
次回は8月11日(金)10:00~12:00、東海大学校友会館「富士の間」において開催されることとなった。