司法制度改革審議会

司法制度改革審議会集中審議(第3日)議事録



司法制度改革審議会集中審議(第3日)議事次第
日 時:平成12年8月9日(水)10:00~12:2013:30~17:10
場 所:三田共用会議所第2特別会議室
出席者:(委員、敬称略)
佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、髙木剛、鳥居泰彦、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本勝、吉岡初子
(事務局)
樋渡利秋事務局長

  1. 開会
  2. 法曹一元その他関連する問題についての審議
    意見交換
  3. 閉会

【佐藤会長】それでは、時間になりましたので開会したいと思います。

 今日は昨日に引き続きまして、法曹一元その他関連する問題についての意見交換を午前・午後、一日を使って御審議いただきたいというように考えておりますので、よろしくお願いいたします。

 本日も昨日お配りしたものと同じレジュメをお手元にお配りしておりますけれども、昨日は国民が求める裁判官像とは何かということでいろいろ含蓄に富むお話をちょうだいしました。今日はそれについてもお話しになりたい委員がいらっしゃると思いますので、その辺もお触れになって結構でございますが、③の、じゃあそういう裁判官をどうやって確保するのかという辺りのことも視野に入れながら御発言いただければと思います。午後の休憩は3時45分となっておりますが、それ以降は、この3日間の審議、特に法曹一元について、記者会見のことも念頭に入れながら、そのまとめ方に関して御相談したいと思っております。大ざっぱに言って大体そんな段取りを考えております。

 それでは、どうぞ御発言を。

【中坊委員】実は皆さんのお手元に解説図をお配りしています。昨日、佐藤会長が「日本国憲法が想定する司法とは」というレジュメでお話しいただきましたが、そのレジュメの3ページですけれども、Ⅲのところに「公共性の空間を支える土台と二本の柱」のところにも、「『公共性の空間』は、決して中央の『官』の独占物ではない」という行革会議の最終報告が掲げられていますけれども、私はそのことに関連して弁護士にとって、公共性がどのようなことに向けられているかという、過日、弁護士の機能を御報告いただいた北村委員と石井委員と吉岡委員の3人に、私も寄ってリポートの打ち合わせをするときに、一応図面を描いて、その関係をこう理解するのかということでお話を申し上げたので、参考までに皆さんにも、また会長にもこれでいいのかどうかということも含めて御検討いただきたいと思います。図の「司法の役割」の下に書いてある「公共空間」。この前、石井委員や北村委員にお渡ししたのと同じペーパーなので、正確に言えば今日のレジュメを見たら「公共性の空間」ということですけれども、私は公共空間と書いたので、多少私の文章ですからあれですが、この表は司法と立法と行政というのがどのような関係に相なっているかということについて書いたものです。

 まず1番に、一番下の「国民」という欄があります。その国民という欄が私の考えでは私的空間と公共空間の二つに、大きく言えば分かれます。国民にとって公共空間とは、どの国民も、ここにも書いてあるように選挙をしたり、あるいは検察審査会のメンバーに選ばれたり、納税とかいろいろな、一番大きいのは、選挙権ということになってくると思うんですが、国民というものを概念的に分けますと、ここに書いてあるように二つに大きく分かれるのではないか。その公共空間というところへ国民が参加して、立法・行政・司法との関係においては、ここに書かれているように選挙をする、いわゆる国会議員あるいは地方議員を選挙するというのが一番大きい。立法・行政の際そう考えて、そうすると、ここに大きな矢印で書きましたように、それによって国会だけを一応対象といたしますと、選挙権の行使によって国会議員が選ばれ、国会がそこで成立する。そこで右の欄に「立法」と書きましたように、法律というものがここでできる。要するに、国民主権でありますから、国民が選出した人によって国会が構成され、その人によって法律を作る一番基本が出てくる。だから、国会が最高の機関として存在する。

 そこで、法律というものができてくる。そして、ここに矢印を書きましたように、その法律というものが内閣と官僚の下に法の執行ということを書きました。「執行」という言葉がいいのかどうかちょっと分かりませんけれども、要するに、内閣を頂点とする官僚制度、行政機関の中に内閣と官僚がある。国会と内閣との関係は、御承知のように議員内閣制によって国会から内閣総理大臣が選ばれ、それによって組閣がされる内閣が頂点にあって、その下に官僚があって、行政というものを組織している。そして、この法というものが国民の間に上から下へ執行されていく。この行政が大きなシステムとして今日現在存在しているわけであって、恐らく行政改革で大きな問題になってきたのは、この内閣が小さくて、官僚が大き過ぎるじゃないかということで、内閣のいろいろ問題があって行政改革が行われ、官僚任せになっておるのを、国民の意思を反映した内閣がそれを行使すべきだということになっている。

 しかし、ここで、私が大きな矢印、四角に書いて「法の執行」と書きましたのは、ここへ国民に法が執行されるというときは、私の考えでは国民というものが、あるいは地域住民でも自治体であれば地方住民ですけれども、それがすべて集団として予想されておる。集団として予想された国民に法が執行されていく。だから、こういう太い矢印で書いたんですけれども、これはどういう意味かというと、いわゆる行政というものは、できた法律を集団としての国民あるいは集団としての地域住民に行われていくというのが法の執行の大きな形態ではないか。ここに会長のおっしゃる土台と2本の柱ということが書いてあります。まさにここに言うもう1本の柱というのが、ここにも右の欄に書きましたように、司法というのが、行政と対比して司法の柱がある。それで、まさに行政が行使するのは公共空間そのものでありまして、国民もそういう行政と同じように公共空間の部分もあるということではないか。だから、国民の下の辺に線が引っ張ってあるのはそういう意味ですけれども。

 さて、そういう意味における立法があり、行政があり、法律がこのように行われていくということになってくると、本日も問題になる司法というのはどのような役割を果たすのかということであります。私の考えるところでは、法が、行政の手によって国民の中にこれが行われる、行われた結果、それでよかったのかということが実は問題になってくるわけではあります。これが、このような集団としての国民というよりかは、まさに個々の国民にできた法律を執行した結果、どのようなことが起きておるのか。これじゃあ困るよ、そこで紛争が起き、そこで小さな幾つかの本数の矢印を書きましたように、行政なら大きな塊として出てくるんですが、司法というものは、具体的な案件の中で法を執行した者が本当にそれでよかったのかどうかといういろいろな問題を、実は吸い上げていく。それが司法でありまして、私はたまたま点検という言葉を使いました。要するに、片一方が法の執行であれば、他方で執行した結果どうなってくるのか、国民の間で具体的案件の中でどうなってくるかということを吸い上げていく。それをその頂点に立つ裁判官が裁く。これが司法のシステムであります。

 そういたしますと、ここにありますように、まさに弁護士は国民の中から問題を吸い上げて、それを裁判所に持っていって判断を仰ぐという役割を果たさないといけない。そういう意味では、まさに弁護士というのは国民の中、すなわち私的空間の中に暮らしながら、なおかつ公共性の空間を担っておる。だから皆さん、私の弁護士改革の説明をしたときに、弁護士は三つの顔を持っておると書いてあります。その一つはいわゆる事業性、そして当事者性、そして公益性と三つの顔を持っておるということを、私は今年の2月の弁護士改革のときに申しました。弁護士というものは、今も言うように、その中での事業性というのはまさに私的空間であります。弁護士というのは自立営業はいたしておりましても、やはり私人なのであります。そういう意味では、私人としての弁護士というものでありながら、しかしながらどういう役割を担っておるのかと言えば、まさに公共性の空間を担って、国民の間に起きておるいろいろな紛争を吸い上げて、これを司法の場に提供していくいわゆる義務がある。その公共性のいろいろな空間を担うという意味における公益性であります。

 もう一つは重要なことは、当事者性ということを私は言っています。言葉は必ずしも適切ではないと思います。私の独特の言葉で必ずしもこなれているとは思っていないんですけれども、私がそこで当事者性と言っておりますことは、「闘う」という意味なのであります。いわゆる行政と司法がどう違うかというと、行政の方は作った法律をそのまま執行していけばいいわけであります。ところが、司法の方になりますと、司法の独特の体制というのは、昨日も少し佐藤会長がおっしゃったことと私の言っていることは似たようなことじゃないかと思うんですが、公共的討論の場であるということが書かれております。ここは討論の場でありまして、まさに闘うという姿の中で討論をしなければ意味のない職業ではないか。そういう意味における闘うという姿、あるいはここで言えば討論をする仕事が弁護士の大きな役割である。そして、公益性を持っておるというふうに理解をしておるわけでありまして、ここではすべて案件は具体的な案件について出てくるものであります。私は、そういう意味において法曹一元ということがどこに位置しておるかということについて、この図は一応明らかにしておるわけであります。これは言うまでもなく、この裁判官、まさに司法の中核となるべき裁判官はどこに位置しておるのかということであります。まさに司法の中核として頂点に位置しておるわけであります。

 それでは、この裁判官が今、憲法上どのようなシステムになっているかといいますと、これがこの間のレジュメにも憲法のところに書かれておりましたように、80条やらがそうです。中心が80条の1項です。「下級裁判所の裁判官は、最高裁判所の指名した者の名簿によって、内閣でこれを任命する。その裁判官は、任期を十年とし」と、こういうふうに書かれておるわけでありまして、この憲法80条1項の規定は、内閣が裁判官を任命するということにおいて、いわゆる国民との連携というか民主的というか、そういう根拠は内閣で任命されるというところにもってあるわけであります。ところが、最高裁判所の指名した者の名簿ということを何故わざわざ書いたかといいますと、いわゆる国会がすぐ内閣をやっていますから、そこで政治的に非常に影響を受けるということではないか。政治的中立という意味において最高裁判所の指名した人の名簿によって司法としての立法、行政に対する中立というものをまた守らないといけないという意味で、指名した名簿によって作るということになっているわけであります。

 私は後にも言いますけれども、何故この法曹一元ということが必要であるか。現在のキャリアシステムのどこが悪いかといいますと、その一つは最高裁判所が指名した名簿という、その名簿そのものを現実にはすべて最高裁の事務総局が作っておるわけでありまして、そしてまた内閣はそれを全く鵜呑みにして任命しておる。そこに、いわゆる今の日本の裁判官のキャリアシステムというものが、いかような立場になっているかということを、我々は理解しなければいけない。別の言い方をすれば、まさに裁判官というのは弁護士の上に土台をもっているのではなしに、まさに枝にぶら下がっておるような形になっておる。形としては最高裁判所の裁判官会議で指名した名簿を作るということになります。そして、最高裁判所の裁判官というのは、確かにおっしゃるように、いろいろな分野から、弁護士も参加をしております。勿論キャリアの裁判官が多いわけですけれども、いろいろなところから来ているということになっています。

 しかし、まず最高裁判所の裁判官会議において指名する名簿を本当に作成している事実は全くありません。それはまた分かるわけがないので、全国の裁判官を一括して幾ら15人の裁判官が言っても分かるわけがない。だから現実には、最高裁の裁判官会議においては、形としてはそういうことですけれども、それは全く行われていない。私自身も弁護士から任官した最高裁の裁判官についても尋ねました。全くそういうことはなされていない。あえて言うならば、司法行政というのは裁判官会議で決まるんじゃなしに、ほとんど全く全部と言っていいぐらいが最高裁の長官と事務総長以下の事務総局によって行われておるということであります。したがって、そこにできてくる裁判官を指名した名簿というのは、事実上、事務総局が作ったものがそのまま鵜呑みにして裁判官が決まっておる。

 そういう意味では、司法というものは本来、下から吸い上げてきて弁護士の上にというよりも、これが必ずしも弁護士に限らないわけですけれども、法律専門家でもいいわけですけれども、そういう人から選ばれ、下の土台の上に立った裁判官でなければならないものが、今言うように枝からぶら下がったような裁判官になっているというところが基本的な問題である。そういう意味では、ここにも書きましたように、弁護士と裁判官との間に点線で書きましたように空間がある。確かに弁護士任官によってそういうことが行われるんではないか、弁護士さんからでもなれるじゃないかと言われる。しかし、それが現実に裁判官を弁護士が幾ら希望しても、決めるのは最高裁事務総局がお決めになるのでありまして、そこにおいて決定的にすべての役割を果たしているのは最高裁の事務総局である。そういう意味で私の図は、弁護士と裁判官との間が切れています。

 同時に、弁護士の役割としての基本的な問題点はどこにあるのかと言えば、弁護士が、実は公共的な空間を担っているという意識がなかった点にあります。弁護士の意識について、昨日も石井委員や吉岡委員から弁護士が利用しにくいとか、接近しにくいとか、威張っておるとか、いろいろな表現がありました。しかし、そのすべてに起因するものは一体何であるかといいますと、弁護士自身が自分も同じ事業者である、私的空間にしか存在していないというところを非常に重視をいたしまして、そういう意味においては、弁護士は自分たちは自由業だと、そして二言目には「在野」という言葉を使っておりました。確かに今も言いますように、裁判官というものは官が任命したような形になっていますから、「官と民」という言葉に分けて、弁護士は絶えず、戦後一貫してと言っていいぐらい、裁判所の批判を続け、自分たちは在野法曹であるということを言い続けてきたのであります。

 しかし、まさに法曹一元ということになれば、それは少し違うでしょう、弁護士自身も私的空間だけを担っておる者としては存在できないじゃないか、公的な義務を負っているんでしょう、公益性を帯びているのでしょう、と。だから私は、弁護士任官というものは義務である。あるいは、ロースクールで先生となって教えることも義務である。まさに弁護士というのは、一面において役割としては公共性の空間を担っておるという公共性がないといけない。その意味においては、官である裁判官も本来「公」である、弁護士もまた「公」であるという側面をお互いに持ち合って、そこでこそまさに法曹一元の思想であり、論点整理で書かれたように、法曹三者が相互の信頼と法の支配の理念を共有して厚い層をもってなすというのは、その思想に由来しておるものである。それがない限り、日本の司法というものは、まさに健全的な司法にはならないと、私は思っております。

 それから、あえて申し上げますならば、この図では描かれていないので少し分かりにくいんですが、検察官というものが実は描かれておりません。検察官という地位は、私はより一層難しい職業だと思っております。と申しますのは、あえて言うならば、選挙と書いてあるところの両側に、四角で検察官というところを書いていただきたいと思うんですけれども、検察官というものは、犯罪を捜査するという側面においては個々の警察官と同じような仕事をしておるわけでありまして、その意味では、捜査権という国家権力を行使しておる行政の分野に所属をしておられます。しかしながら、刑事司法においては公訴官、いわゆる司法の場にも検察官は片足踏んでいると言ったらおかしいけれど、同じ検察官でもいろいろな役割がありますから、そういう意味における公益としての代表者としてのいろいろな行政の一部もなさるし、まさに刑事司法を担うという意味においては司法の一端を担っておる。しかも、刑事司法の一端を担っているという意味において、純粋の行政官ではないという意味において、検察官の独立性もまた守られておるのではないか。このように考えるべきではないか。

 そういう意味に置くことが、恐らく私は佐藤会長がおっしゃる公共の空間を支える土台と2本の柱、あるいは統治主体としての国民とがどういう関係にあるか、そして、政治部門の政治フォーラムと司法部門の法のフォーラムというのはこのような関係に立っておるのではないかと思います。私は何でも絵を描くのが好きですから、一番最初にこの審議をするときに私が、いわゆるこれからの我々の審議としては三角形を書いて、人の担い手問題としての三角形と制度改革の三角形とを書いて、一番裾野に法曹養成、法曹人口の問題があり、その上に弁護士改革があり、それが上にあって検察改革、裁判官改革がある。その一番てっぺんに法曹一元と陪審ということを書いたものを、皆さんはお手元にお持ちだと思いますけれども、弁護士改革が登山口であるということを言いました。裾野が法曹養成であり、その意味においては、今具体的な課題になっているロースクール。だから、そういう土台というか裾野をやって、そして登山口である弁護士改革が行われて、そしてその上にいわゆる裁判所改革、今日問題とするような法曹一元の問題がある。

 私はそのように考えまして、今年の2月に弁護士改革の中で申し上げましたのは、今突然これとこれをつなぎ合わせたという意味よりかは、私自身もこうあるべきである。私は弁護士の中で一番間違っていたのは、司法を担う担うと言いながら、常に自分の在野性を誇ってばかりいて、官と民とに分けている、先輩の書いた司法改革論議あるいは法曹一元論というのは私も山ほど見てまいりました。見てきた中においてほぼ一貫して書かれておるのが、法曹一元については、今言うように、官を民の司法にしないといけないということであり、私自身も最初のうちはそういうことかというふうにも考えており、長い間弁護士の中では、このような考えがありました。しかし、今必要なことはそこではない。まさに公共的な空間を裁判官も検察官も弁護士も、ただし弁護士がやや違うのは公務員じゃありませんから、自立営業者として国民の間に根差しながら、司法の役割をどう担っているかという意味においては、まさに裁判官も検察官も弁護士も同じだった。だから裁判官も検察官も官から公という概念に変わっていただきたいと思いますし、弁護士もまた民とか士という在野という言葉から、お互いに公というものの名によって統括をしなければならない。

 私はこのように思うわけでありまして、お互いに公という字で通じて初めて相互の信頼があり、そこにおける法の支配の理念の共有をして相互の信頼感の中において重層的に存在するということではなかろうかと思っています。

 そういう意味では、私はかくあるべきものとして、一方においてそういうことも話をしておるということを御報告かたがた、本日のこの審議の主題として取り上げていただきたい。こういうふうに思うわけであります。

【藤田委員】今日の審議事項について意見を述べる前に、会長、会長代理に一言お願いしたいんでありますが、今朝の新聞を見ますと、昨日の審議で、審議会で法曹養成人数を3,000人にすることに確定したかのような報道がされております。新聞によりましては、2005年に3,000人になるというようなグラフを付けて報道しているものもございますが、私の理解ではそういうところまではいっていないと思います。抜本的に増加すべきというところについてはコンセンサスができたと思うんでありますけれども、段階的に増加をするとともに、質の低下あるいは社会的な需要についても配慮すべきだという意見もございました。3,000人という数字も出ましたけれども、それはロースクールが軌道に乗った段階で検討すべき目標値であるというような意見もあったわけでございます。審議会全体としてそういうようなことを決定したというのは、ちょっと正確ではないように思うわけでありますが、今、各大学はロースクール問題について血相が変わっている時期でもありますので、文部省の検討会議については審議会からオブザーバーが出ていますから、そういう趣旨は伝えていただけると思うんでありますけれども、その他の方面についてはどうかという問題があります。日弁連も昨日申し上げましたように、11月1日の臨時総会でこの問題について議論するということになっておりますが、ロースクールにしましても司法修習にしましても弁護士会の協力が不可欠なわけでありますから、そういう意味ではこらちの方でこの段階で人数を確定してしまって、その上でそれに日弁連に協力せよというのは日弁連の側で礼を失するというふうな受け取り方をされるおそれもあります。そういう意味で、そのような誤解が生ずるような場合にはそれを解くような御努力をひとつお願いしたいというふうに思います。

【佐藤会長】今の点ですけれども、昨日、会長代理とともに記者会見で次のような形で申し上げました。

 法曹人口の大幅増員の必要性については既に当審議会の意見の一致しているところだが、具体的な今後の目標を掲げるとするならば、現在検討中の法科大学院構想を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、計画的にできるだけ早い時期に年間3,000人程度の新規法曹の確保を目指していくという方向で大方の意見の一致が見られた。法科大学院構想も正式に決定したわけではない。我々として今検討会議に検討をお願いしておる。そして、9月の末に検討会議の最終報告を受けて私どもとして正式に決定する、そのことも念のため申し上げております。

 3,000人とはどういう根拠があるのかとか、いろいろ質問が出ました。新聞の記事も朝、二、三、見て、また、事務局が集めた記事をさっき目を通したんですけれども、私が言ったのとちょっと趣旨の違う受けとめ方で書いてあるものがあったりしましたが、記者の皆さんに申し上げたのはそういうことであります。

【藤田委員】そこは十分分かっておりまして、記者の方もいろいろな取材を総括して、そういう記事を書いたのだろうと思うんですけれども、こういう微妙な時期ですので誤解があるといけません。ひとつその点についての御配慮を、会長、会長代理にお願いしたいという趣旨でございます。

【佐藤会長】今日の記者会見で、もし何か、そう誤解するような質問や何かがありましたら、正して。

【中坊委員】ただ、その関係で、3,000名という数は確かに私自身が言い始めました。また、今もそれは極めて必要な数字であろうと思うし、審議会が発信をしなければほかに発信するところはないというふうに思っておりますし、先ほどから私は司法制度改革というものは、何もあの図は皆さんも別に一致はされていないのだろうけれど、おおむねお分かりいただけますように下の土台が決まってこないと上は決まらないんですよ。今、下の方ほどある程度具体的に。だから恐らく検討会議に、我々が4月に、法曹養成のところをまず具体的にやらないといけないから、あそこだけはああいうところに掛けて、もっと具体的にしてきてくださいということを言っていると思うんですね。だから、そういう意味においては、まず裾野というものを固めないと、今、我々が司法制度改革をこれから審議して答申するといっても、まずもってその審議の間も2年間あるわけだから、まずどういう位置づけで、どのようにして改革していくかということを言わないといけない。そうすると、検討会議の方だって、大幅増員だけでは分からないと思うから言うているんです。

【藤田委員】それはそういう御意見があったということは私どもも分かっています。

【竹下会長代理】藤田委員からの御発言ですから、私からも申し上げます。会長と私とで、非常に重要な問題ですから共通のメモを作りまして、それを読み上げる形で報告をいたしました。ですから、今、会長が言われたとおりです。しかし、特に私から発言を補足的に求めまして、朝日新聞の記事が比較的正確でございますけれども、「法科大学院構想を含む新たな法曹養成制度の整備の状況などを見定めながら、計画的にできるだけ早い時期に確保を目指す」ということで、年間3,000人程度を目指すということなのであるということを特に強調いたしました。さらに、全体としては何人にするのかとか、時期は何年先かとかいうような質問もありましたけれども、そういうことは決めておりませんというふうに答えてあります。ですから、そういうことが議論はされたけれども、全体としてまとまったものは会長が読まれたとおりであるというふうに申し上げてありますので、その点は十分御理解をいただきたいと思います。

 あと、それぞれの新聞記者がどういうふうに計算をしたのか分かりませんが、何年後であるとか、全体として何人になるとかいうのは、各自の判断で書かれたものでありまして、そこを書くなというようなことまでこちらで言うわけにまいりませんでしたので、それは放置したということでございます。

【髙木委員】今の御説明はこういう理解だと思っているのですが、ロースクール、法科大学院構想の方の検討会議から中間報告していただき、また9月まで更に御検討を煩わすということで、ロースクールについてまだ結論が出ているということではない。そういう状況の中ですから、今言ったように何年にどうだというようなことも、あちら側の関係も相まってという面もあるから、今回の集中討議での議論の理解としてはそういうことだということでいいわけですね。

【竹下会長代理】そうです。

【佐藤会長】質問があったときに申し上げたんですけれども、ロースクールを作る方向で今検討しているけれども、正式に決めているわけではない。作ると決めたとして、どれだけのロースクールがどういう形で立ち上がってくるのか今は分からない状態で、いつからどのぐらいになるかというようなことは責任を持って言える話ではない、とはっきり申し上げております。

【髙木委員】ただ、両面あって、そういう不確定な面もありますが、一方ではこれぐらいのボリュームを目指そうというものがないと、ロースクールの方の議論もより具体的、現実的に議論展開ができないという両面があってのことだと理解しています。

【佐藤会長】その趣旨のことは明確に申し上げました。

【藤田委員】要するに3,000人は確定した目標値だということが審議会の大勢として決まったわけではないと理解しております。私は前回のとき最後に、今直ちにロースクールを作るかどうかは別にして1,500人に踏み出すべきだ、そして、さらに次の段階として2,000人を具体的な目標として実現に努力すべきだ、ロースクールが軌道に乗った段階で、その時点での状況を踏まえて3,000という目標が適当かどうかを検討して、適当だということならば、それに向かって努力するのがよいのではないかと申し上げたつもりですし、同じ意見の方もおられたと思うんですけれども、そういう意味で3,000人というのを、とにかく時期的な問題は別として確定した目標値として目指すというところまではいっていないんじゃないかという趣旨で申し上げたんです。

【髙木委員】これからいろいろな切り口でいろいろな工夫なり努力がされて、その結果にはまだまだ不確定で、見通しが現状でできない面もあるのは、多分おっしゃられるとおりだと思いますが、少なくとも3,000名ぐらいをミニマムにして法曹人口増を図っていく。要は、その3,000が本当にリジッドに、点と点を結んだような格好でコンプリートされるかされないかについては、まだまだ流動的な面があるけれども、それぐらいのものを目指していこうというのがコンセンサスでいいんじゃないでしょうか。

【藤田委員】それは3,000人を目標値とするという趣旨でおっしゃっているのだったら。

【髙木委員】結果的にそのとおりに何年に3,000人ができるできないは、いろいろなものが関わってきているんですが、それじゃあ3,000人というのは何ですかと。よく言う目安なのか。

【佐藤会長】そこはこういうように私は理解しているんです。3,000人をミニマムととらえる立場がある。逆に3,000人というのはなかなか大変だという見方もある。ですから、この3,000人ということについては両方の見方があるということは、昨日も、質問に関連して申しました。ともかく3,000人を目標とする。しかし、目標とするにしても、実際に達成できるかどうかは、ロースクールがどのぐらい立ち上がってきてどうなるかということにかかっているわけで、必ず達成しますというような数字ではない。けれども、一応これを目指そうということでは、大方の意見の一致が見られた。目指していくという方向で大方の意見の一致が見られたというように申し上げたのは、今申しましたような趣旨で言っているわけです。そういうように御理解いただければと思いますけれども、いかがでしょう。ここでそのことをめぐってまたいろいろ議論しても、余り生産的でないと言ったらおしかりを受けるかもしれませんけれども、むしろ今日の議論に入っていただければと思うんですけれど。

【藤田委員】今日の審議事項についての意見を申し上げますが、中坊委員の図もそうですし、それから法曹三者が一体となって法の支配の浸透に努力すべきだという点は、私も勿論異議はないんです。しかし、「官から民へ」という言い方をしますと、本来的に現在日本でとられているキャリアシステムは悪であるというふうな印象になるんですけれども、先進諸国の中でキャリアシステムを主にしている国と法曹一元をとっている国、アメリカとイギリスでは法曹一元の内容もかなり違うわけでありますけれども、相半ばしているということから言えば、システムとしては、こういう図であるから当然に法曹一元でなければ望ましい裁判官が得られないんだということに結びつかないのではないかと思うわけです。

 1998年12月に、ある新聞社が全国世論調査を行ったわけでありますが、国民が今の司法の現状をどういうふうに認識し、どういう点を改革してもらいたいと思っているかという点を世論調査の結果で見ますと、「あなたは裁判官を信頼できますか、信頼できませんか」という質問に対して、「信頼できる」、「どちらかといえば信頼できる」という積極的な評価をしている人は78.5%であります。「どちらかいえば信頼できない」、「信頼できない」という消極的評価をしている人のパーセンテージは12.2%であります。それから、「日本の裁判について、あなたが改善すべきだと思う点があれば、次の中から、いくつでもあげてください」という質問です。その回答といたしまして、「審理を迅速に進めて判決を早く」を求めているのが63.5%、「判決文をわかりやすくする」が25.4%、「テレビ中継などで公開する」が30.4%、「アメリカのような陪審制度を取り入れる」が14.1%、「最高裁以外でも裁判官に有識者を加える」が12.6%、「裁判官や検事、弁護士の数を増やす」が9.6%、「費用を安くする」が49.1%であります。

 それから、昭和61年に公開されたものでありますが、日弁連の業務対策委員会がやはりアンケート調査をされておりまして、「市民と法律問題」という表題で昭和61年に公表されております。それによりますと、裁判に対する認識は、「裁判は公平である」という問いかけに対して、「全くそのとおり」、「ややそのとおり」という積極的評価をしている人は55.3%で、「ややちがう」、「全くちがう」という消極的評価をしている人は9.4%であります。同様に、「裁判は信頼できる」の積極的評価が58.8%、消極的評価が8.0%、「裁判は時間がかかり過ぎる」に対してイエスと答えている人が86.4%、「ややちがう」、「まったくちがう」と答えている人が1.4%、「裁判はかなりお金がかかる」に対してイエスと答えている人が84.9%、違うと答えている人は0.6%であります。

 以上を見ると、国民の意識としては、現在の裁判所あるいは裁判官、システムを含めてでありますけれども、その公平性、信頼性についてはかなり高い評価をしていただいている。21世紀政策研究所が最近公表された意見書でも、同様の記載がございます。そうしますと、国民の司法システムに対する不満が集中しているのは、やはり裁判に時間がかかり過ぎるという点、それからお金がかかり過ぎるという点です。我々の審議事項で言えば、民事司法、刑事司法をいかに改革して国民が使いやすい司法にするかという点に、国民の要望が集中しているわけであります。

 もちろん、現在のキャリアシステムがすべていい、欠点はないというようなことを申す気持ちは毛頭ございません。フランスへ行きまして、基本的にキャリアシステムをとりながら、今までに司法試験制度や任用について申し上げたような別ルートでの採用をして有職社会人の経験を生かす、それが大学の法学部を卒業してキャリアシステムで育っていく判・検事に対して非常によい影響を与えているという国立司法学院のアノトー学院長のお話もございました。そういう方向での改革はしなければならないと思いますけれども、理念的に「官から民へ」ということで、キャリアシステムが本来的に望ましくない制度で、その下で採用された裁判官が国民の信頼を失っているという認識は、実態から離れているのではないかと思います。とりあえずそれだけ申し上げます。

【中坊委員】さっきから私は、「官から民」とかつて言っていたから、それは間違いであって、同じ公という字で、お互いに法曹三者というのは公という字で統一されるところがあるという認識に達しないといけないということを言っているので、私は藤田委員が言われている官から民というのは、かつての日弁連がずっと言い続けてきたことではあるけれども、それを私は直さないといけない。だから、その意味においては、弁護士自身の意識というものも変わってこないといけない。藤田委員にはおこがましい言い方かもしれないけれども、私はこれは平成2年に言うたんです。そのために私が会長に立候補して司法改革を訴えて、何でも反対の日弁連でどうするんだということを言って、私は既に10年ここばかりを言っているぐらい、私は自分で実践してきた。その中において到達したのが、今言うように、官と民だと在野ばかり、それは在野という一面も勿論あるんですよ。しかし、あるいは私的なところを非常に強調して何を言ってんだとかということはあるけれども、公という字が私は少なかったんではないか。もっと公というところで言えば、法曹三者がともに共存するということの範囲があるじゃないかと、そういう側面を言っているだけです。

【佐藤会長】ほかの委員の方々の御意見もお聞きしたいので、いかがでしょうか。

【鳥居委員】議事の進め方についての感想ですが、配られている「『法曹一元』について」という参考資料の中の「臨時司法制度調査会において示された法曹一元制度賛成論と反対論」という資料を見ると、随分突っ込んで議論しています。我々は、この臨司を乗り越える改革の議論をしなきゃいけないので、これより手前でとまったら意味がないと思うんです。これだけ突っ込んで臨司が議論したという視点に立って、中坊委員と藤田委員のお話を伺っていると、相当お二人とも突っ込み始めています。中坊委員の話を伺っておると、在野という従来の日弁連の主張を超越して考えておられるという感じがする。

 参考資料の15ページまでを見ると、「法曹一元」の議論が出尽くしていて、あとは今お2人からお話があったようなことが付け加えられれば、我々の議論になるんじゃないか、そんな気がしますけれど。

【井上委員】中坊委員がおっしゃられた、「官から民へ」というのから「公へ」と考え方を変える、そういう「官から民へ」というようなことを言っていたんじゃだめで、「公」ということで統一的に考えていくべきだというお考えはよく分かったのですが、ただ、藤田委員が述べられていたように、やはり「法曹一元」という言葉に結びつけられて語られてきたものですから、その印象がものすごく強いのですよね。それにとらわれていますと、中坊委員がおっしゃるようなところへの思想的な転換というか、パースペクティブの転換というのは、なかなかできないと思うのですね。そういう意味で、過去に積み重ねられた議論というのを踏まえないといけないことは確かですけれども、むしろこれからどうするのか、これからの裁判官というものをどういうものとしてとらえて、どうやって育てていくんだという発想で議論しないと、鳥居委員がおっしゃる「乗り越える」というか、先へ進む議論にならないんじゃないか。何か過去のしがらみにとらわれて、ぐるぐるそこを回っているような感じがするものですから。非常に抽象的ですけれども、今の段階ではそのことだけを申しておきます。

【鳥居委員】同じことを私も感じます。昨日お配りした私の資料では「法曹一元」という言葉は使っていないんです。私は「法曹一体化」という言葉を、昨日の私のレジュメでは使っております。私も井上委員と全く同じで、「法曹一元」という言葉には、もうにおいが付いてしまっている。昔の日弁連の主張の意味の「法曹一元」ではない、新しい「法曹一体化」が必要です。

【佐藤会長】私が昨日、最初にこの課題に入るときに申し上げた趣旨もそういうことでして、従来の概念の枠というか、今、においとおっしゃいましたけれども、それに余りとらわれないで、いかにして我々にとっていい裁判官を得られるかという観点から考えたらどうかということなんです。昨日、いい裁判官とは何なのかと、やや理念的でしたけれども、そこから入っていただいたのもそういう趣旨です。ですから、具体的にどうしたらいい裁判官を得られるかというところでいろいろ御議論いただきたいんです。昔の法曹一元論ありきということから入ると、議論が非常に難しくなる可能性がありますので、そこはもうちょっとフランクに御議論いただきたいと、私としては望んでおります。

【中坊委員】私自身も確かに、法曹一元という言葉があったのでそれを事実上使っているだけで、今、鳥居委員や井上委員のおっしゃったように、私たちがこうですよと言っても、なかなか法曹一元という言葉を使えばこういうふうになっちゃうので、確かに名前はね。しかも、法曹一元というと、弁護士が全部裁判官になるのかとか、あるいは弁護士が裁判官を全部選ぶのかとか、そういうふうに非常に誤解されやすい語呂みたいですね。一元というと、何となくそういう語呂みたいになってしまっています。だから、場合によれば、それこそ新しい発想で、名前も法曹一元という言葉を変える必要があるかもしれない。しかし国会でも全部法曹一元と書いてあるでしょう。しかし言葉の命名そのものは余りよくないし、何かいい言葉で、我々が新しい発信をするんであれば、名前を変えることについては私は変えた方がよいと思っております。

【佐藤会長】その点については御意見が一致しているということですね。そういう観点から御議論いただけますか。

【山本委員】全くそのとおりで、この審議会は全部有機的につながっている項目を一つひとつ議論して結論づけて全体像を作るということをしていないんですよね。ですから、昨日の法曹人口の問題についても、それぞれの思いがみんなあって、どの程度の人数にするかというのはまだ恐らくコンセンサスを得ていない段階だから、それぞれのいろいろな意見が出ちゃうわけですけれども、そういうことからすると、中坊委員が描いてくれた絵も、弁護士とか弁護士会はどうあるべきかという議論は我々もまだしていないんですね。昨日は石井委員と吉岡委員からいろいろ意見が出て、要するに問題の所在はみんな分かっている。分かっているけれども、この議論はまだしていない。その上にさらにこういったリジッドな表を作って、この上に裁判官があるんだよと言われても、またいろいろな意味で思いがそれぞれいっちゃうということだと思うんですね。ですから、鳥居委員が言われたように、昨日の最後の段階でそれぞれが考えている裁判官像というのをみんなでやったわけですね。ですから、あそこから議論していくべきであって、この表から議論しますと、不確定要素がいっぱいあるところに、ぴしっとしたこういう絵を描かれちゃうと、どういう発言をしていいか困る。

 例えば、今、中坊委員が言われた弁護士の公益性という議論もこれからは、それも昨日の議論の後半ですけれども、例えば、「法的ビジネス」という言葉がもうあるわけですね。大企業が国境を越えて知的ビジネスだとか知的財産の問題とか、あるいはビジネスのシステムの問題とか、それが要するに商売になっているわけですよね。それと今、中坊委員が言われた公の概念というのはどうなんだろうかという、率直にそういう疑問が私は出るわけですよね。そういう意味で、それぞれの一つひとつを我々が議論してきて、その上にどうだということをやっていませんから、この絵は、言ってみれば一つのとっかかりとしてはあっても、この絵の中で、したがってこの上に裁判官があるんだというふうなことは、なかなか難しいんじゃないかという感じがいたしました。

【中坊委員】私は別に弁護士の上に乗っかかってとは言っていませんで、今のままはこういうふうに枝にぶら下がっているようになっていますよということを言っているだけで。

【佐藤会長】さっき申し上げたような観点から、皆さん、法曹一元論に関する従来の議論に余りとらわれないで、これからあるべき日本の司法はどうか、いい裁判官をいかにして得るか、いい裁判官とはどういうものかといった観点から、御自由に御発言いただきたいと思います。

【鳥居委員】憲法御専門の先生に質問したいのですが、憲法79条に、「最高裁の長たる裁判官」という表現があるでしょう。あれはどうしてああいうふうに言うんですか。何で「最高裁判所長官」と言わないんですか。最高裁判所の長は、もしかしたら裁判官でなくてもあり得るからですか。

【佐藤会長】いや、それはないと思います。

【井上委員】裁判官である人が長となるわけです。裁判官であるということを踏まえて長だということだと思います。「長官」としてしまいますと、裁判官なのかどうか分からないということになります。

【鳥居委員】そういう意味ですか。

【井上委員】そういう意味だろうと思います。

【鳥居委員】反対かと思って。裁判官の資格を持っていない人が最高裁の長官になることもあり得るから、ああいう書き方をしているのかと思いました。

【藤田委員】法技術的に言いますと、最高裁判所長官というのは憲法のどこにも出てきていないわけですから、いきなり最高裁判所長官というとそれは何だということになりますので、「最高裁判所の長たる裁判官を最高裁判所長官という」という定義規定が必要になってくるんですね。それも手間のかかる話で、裁判所法か何かで決めればいいことだから、こういう言い方をしているんだと思いますが。

【鳥居委員】そういうことですか。分かりました。

【佐藤会長】何かお考えのところが。

【鳥居委員】いやいや、そもそも最高裁長官って何者なのかなと思って。我が国の三権分立の中で最高裁の長官というのは、裁判所というピラミッドの一番上にいる人なのか、それとも三権分立の仕組みをうまくやっていくために、それ以上の機能を持った人であり得るのか。

【佐藤会長】最高裁が三権の一翼を担う裁判所の頂点に立つというので、内閣総理大臣と並べて、最高裁の長たる裁判官も天皇が任命すると憲法は定めた。それはやはり内閣と裁判所が同格のものだということを表現したいということなんでしょう。

【鳥居委員】突っ込んだ議論をしたいんですけれども、先ほど中坊委員がおっしゃった中にも入っていましたが、結局、実態としては最高裁判所のトップの方々が裁判官人事をやっている。ところが、その方々は行政官と同じ国家公務員の立場でおられて、かつほとんど行政人事と同じ人事が行われているわけですね。そこのところの議論をどういうふうに整理したらいいのか、依然として私は分からない。だから、最高裁判所というオフィスが裁判官人事をやっているという実態は、どこか違う。本来我々の理想とするものに照らして、あれでいいのかということが、今のところ私にはすっきりしていないんですね。

【竹下会長代理】法制度的には、先ほど中坊委員から御説明がありましたように最高裁判所が決めるというよりも、15人の裁判官からなる最高裁判所裁判官会議が司法行政を担うということになっているわけです。最高裁判所の事務総局というのは、最高裁判所の庶務を司る事務部局として最高裁判所の下にあるのですね。ですから、普通の行政官庁と、公務員であるという面では勿論共通ですけれども、行政庁の人事とは少し違っていると私は理解しているのです。そういう説明で先生が御納得されるかどうかは分かりませんが。

【鳥居委員】この臨司のときの議論を振り返ってみると、11ページの左側の上に書いてあるように、①にはこう書いてあるんですね。憲法の予定する裁判官の地位、職責に合致する裁判官の理想像というのがあって、それと現実のいわゆる司法官僚的裁判官の姿との間に大きなずれがある。これはどんな議論がされたのか私は中身は分かっていないんですが、これは今私が言ったようなことを言っているのか。

 それから②ですが、「現行制度は、国民的基盤の上に立っていない。下級裁判所の裁判官は、国民との間につながりがなく」と言っていますよね。このことは一体何を指しているんですか。

【竹下会長代理】これは勿論私の個人的な意見ですが、今、先生が言われた②の点は、昨日、会長が説明されたことと関係していると思うのですね。裁判官の場合には、確かにアメリカの多くの州のように、国民が直接投票するという一種の国民の直接参加というところに民主的正統性の根拠を見出すという制度もあるのですが、我が国ではそうではなくて、裁判官の任命は、ともすると党派性が前面に出てくる選挙という選出の仕方ではなくて、間接的に、国民代表である国会の多数派に基礎を置く内閣が任命する。しかし、これまた内閣だけに任せるということになっては、やはり議院内閣制の下ですから、党派性、政治性の強い任命になるかもしれません。そこで最高裁判所が候補者のリストを作って、それに基づいて内閣が任命する。そういう意味で国民の意思が間接に反映されるような形で任命をする。そういう考え方に基づいています。

【鳥居委員】私の質問は、例えば、今の②のところに形式的なことが2行目の右端から書いてあると思うんですけれども、「その任命権――「その」というのは下級裁判所の裁判官ですけれども――は時の政府が掌握しているので」というのは、形式論的には確かに任命権は内閣が名簿から指名するという形になっているから。だけれども、今、先生の御説明にもありましたように、実態は最高裁の事務局がその名簿を作成するということになっていますから。

【竹下会長代理】形式的に言うと最高裁の裁判官会議ですね。

【鳥居委員】裁判官会議が作成すること自体、憲法80条とはずれていますよね。憲法80条では内閣が指名すると言っているのだから。

【竹下会長代理】それは任命です。候補者リストは最高裁判所が出します。

【鳥居委員】ここには、「その任命権は時の政府が掌握しているので」と書いてあるんですけれども。

【佐藤会長】臨司のときの議論の趣旨に余りこだわるのは。

【鳥居委員】こういう実態があるから臨司でこの議論が行われたのではないですか、という質問です。

【佐藤会長】内閣が任命権を持っている。しかし、その任命権は、中坊委員によれば、最高裁判所の指名を全く鵜呑みにしているもので、形式化しているじゃないかと。こういうやり方で国民からちゃんと負託されたということを言えるのかという疑問は、議論としてあり得る話だと思います。実質的に内閣がノーということだってあり得ることなんですね。ただ、内閣がめちゃくちゃをやると困るというので、指名権を最高裁判所に与えている。そこで、内閣の任命の在り方とともに、最高裁判所の指名の在り方が問題となる。指名の在り方として、少し何か工夫の余地があるのではないか。先ほど中坊委員は長官と事務総局で決めているというお話でしたけれども、実際がどうなのか私はよく分かりませんが、良き裁判官を得るために、指名人事の在り方に何か工夫の余地があるのではないかということは、当然議論の対象にはなり得る。そういうことだと思います。今の制度の運用は形式化している、もう少し国民とのつながりを実質化すべきだ、いや今のままでいい、といった議論があり得るところで、この辺についてまさに、これから御議論いただいたらいいのではないかと思っております。

【鳥居委員】同じ様に臨司でどう議論されたのかが分からないのは、④には「現行制度及びその運用では、裁判官が官僚機構の一翼を担うものという誤解を与えやすい」と書いてありますよね。これは中坊委員の出してこられた図で言うと、裁判官の三角形が今は点線で結んであるけれども、もともとその点線がない、ぶら下がっているとさっきから言っておられるようですけれども、それとはまた別の論がこの④には書いてあって、裁判官が官僚機構の一翼を担うという誤解というのは、裁判官が左側の方と何か画然と一線を画していないという主張をしている、あるいはそういう指摘をしているように読み取れますね。どんな議論が行われたんでしょうか。

【藤田委員】この一覧表の左側は、法曹一元賛成論の立場から述べていて、右側の反対論はそれを容認しているのではないわけですね。ですから、要は、そういう誤解を与えるんじゃないかということで法曹一元を推進すべきだということだと思うんですが。

【鳥居委員】だから、このまま放っておくと裁判官が官僚機構の一翼を担っているという誤解を与えやすい。ということは要するに、行政サイドの官僚機構と一線を画し切れないのではないかということを言っているんでしょうか。

【竹下会長代理】そういうことはあり得ないわけですね、組織的に。ですからこれは、しかし同じ官僚制という点で何かつながりがあるのではないかという誤解を与えやすい、せいぜいそういうふうにしか理解できないと思っています。

【井上委員】中坊委員がおっしゃった官・民という分け方で見ると、官だということなのではないですかね。

【中坊委員】だから、あえて言うならば、法曹一元とも関係するんだけれども、まさに裁判官というのは、最初から普通の公務員と同じように研修所を出たら官が選ぶというだけのことじゃないか、本質が。そこだけをつかまえれば、鳥居委員のおっしゃったように普通の公務員を国家公務員試験に受かった者から選ぶことと、司法試験に受かった者から官が任命するという意味においては、同じじゃないかということですよね。

【井上委員】制度としては、裁判官会議が決定し、指名する。それに基づいて内閣が任命しないといけないという形になっているのは、戦前は司法省という行政機関が裁判官の人事権を握っていた。それとはっきり一線を画するために、独立した司法権の中で人事をやる。そういうことだと思うのです。問題は、事務総局が準備して、そこで事実上そのまま決まってしまうではないかということですが、しかし、準備はせざるを得ない。それに基づいて判断していかざるを得ないと思うのです。

 そのこと自体が何故問題なのかよく分からないのですけれども、もし問題になり得るとすれば、裁判所法で言っているように、判事補以外の人からも裁判官がどんどん入ってくる、多様な給源から裁判官が採用されるというのが、本来の裁判所法のアイデアだと思うのです。現に当初はそうなっていた。弁護士からの任官と判事補からとが半々くらいの割合になっていた。その片一方が減っていったわけですが、それがそういうふうにリストを準備する段階で締め出しているということであるとしたら問題だと思うのです。ところが、私の理解ですとどうもそうではなくて、弁護士から裁判官になりたいという人が減っていったというのが一番の原因だったのではないかと思うのです。そういう意味で、今、判事への任官希望者のほとんどが判事補からで、それをそのまま名簿に載せて出しているというのは、事実としてそうなってしまっているということでしかないのではないかなと思うのです。

 ですから、そういう話をしていても始まりませんので、これから先の問題として、私の御意見を申し上げると、裁判所法本来の考え方というのは、そのアイデア自体としては間違っていなかったと私は思います。そこには判事補制度というのがあるわけですが、それも、アイデアとしては、合議体の一員としてその責任を分担しながら、その仕事を通じて裁判官の在り方とか、事実認定の在り方とか、そういう仕事の仕方を身につけさせるというもので、そういうものも給源にしていくということだと思うのですね。そしてそれは、それ自体としては間違っていなかった。しかし同時に、先ほど申し上げたように多様な給源から、いろいろな経験をしてきた人、弁護士さん、検察官、学者という法律関係職種に主として限られてはいますけれども、多方面から採用して、その人たちが一緒に仕事をすることによって、幅広い視野を持ち、足腰の強い司法を作っていこうのが本来のアイデアであった。そのことは考え方としては今でも間違っていないと思うのです。

 ところが、事実上給源が一つになってしまった。判事補にほとんど一本化してしまった。そして、途中でおやめにならない限り定年までずっと裁判所で過ごされる。そうしますと、一本の官僚制みたいなイメージになってしまいますし、また恐らくこれは職業倫理で、いろいろな利害関係から距離を置かないと公平性を保てないとか、あるいは裁判以外のところで弁明するということはしない。そういう姿勢を職業倫理としてずっと保ってこられて、それ自体として廉潔性や公平性を保つために、いい働きをしてきたのではないかと思うのですけれど、そういうことも重なって、個々的にはそういう対応をされる方からすると、冷たいとか、世間知らずだ、閉鎖的だという印象を持たれる。それは、ある意味ではやむを得ないところもあって、分かるわけですね。

 しかし、一本化してきたというところに問題があるのであって、むしろ元に戻して、多様な給源から人を入れて、お互いに切磋琢磨して足腰の強い、幅広い視野を持った司法を作っていくというのがこれからのあるべき姿ではないか。そのことを徹底すべきだと。しかも、裁判所法では給源の範囲を限定しているのですけれども、それをもっと広げていいのではないか。企業法務とか行政だとか、いろいろな経験を積んできた人の中からふさわしい人を選んでいくべきです。

 もう一つは、特例判事補の制度でして、これは判事の人員に限りがあったのでやむを得ないことであったとはいえ、裁判所法が本来考えていたこととは違うわけです。特例判事補の人には失礼かもしれませんけれども、制度としては、まだ見習いといいますか、本来は合議体の一員として仕事を覚えている途中の人ですよね。しかし、やむを得ないこととはいえ、特例判事補として単独で裁判できるという形にしているわけですけれども、これも、我々が前からずっと言っておりますように、判事の数が充実されていけば、特例判事補というものを少なくし、いずれはなくしていく方向でやはり考えていくべきだと思うのです。

 問題は、実際に多様な給源をどうやって確保するか、どうやって実現するかということだと思うのです。現在も弁護士から任官する制度があるわけですけれども、それをそのままの形で、いくら公的義務だと言っても、増えないかもしれない。やはり、いろいろ工夫の余地があるはずで、それを考えていくべきだろう。

 その一つとして、私は10年の経験というのにこだわらなくてもいいのではないかなという感じがするのです。もうちょっと短くして8年とか7年でもいいんじゃないか。それでソフトランディングとして、1年ぐらいは仕事を覚えた上で裁判官としてやっていく。そういうことを考えてもいいのではないか。そうなると、判事補から判事になるのも短くていいということになるのかもしれませんけれども、その辺は何か工夫の余地がある。10年という丸い数字で、それにこだわっていますけれども、私の友人の弁護士などを見ても、弁護士になって10年もたってお客さんもついていて仕事が確立しており、事務所があって職員も雇っているということになると、なかなか踏み切れないのですね。その辺を含め、ふさわしい人にできるだけなっていただけるような仕組みを考えていく。それが積極的な方向ではないかというのが私の意見です。

【竹下会長代理】今の弁護士任官制度では、おおむね5年勤務してもらえればよいということになっていますね。法律上の任期としては10年ですけれど。

【吉岡委員】今おっしゃっているのは弁護士の経験が10年あるということで。

【井上委員】はい。そういう固い数字で横並びで考えなくてもいいのではないかということです。

【佐藤会長】井上委員のおっしゃることは私もよく分かるところがあるんですけれども、昨日申し上げたことの関連で言うと、日本の司法権は、行政裁判権と違憲審査権を含んでいる。行政訴訟、特に憲法訴訟は、通常の訴訟といささか違うところがある。こうした訴訟の扱いも個々の裁判官に期待されているわけですね。そうすると、そういう人たちをいかに得るかという問題があるわけです。この辺について臨司の時、どういう議論があったのかよく知りませんけれども、明治憲法下の裁判官像とは違う裁判官像を憲法は想定しているように思います。

【井上委員】質が違っているのですね。

【佐藤会長】質が違っちゃっているんです。

【鳥居委員】井上委員のお話は私は非常によく分かるんですね。ですから、今までの制度を全部固定的に一様に考えるのを一たんやめて、例えば、弁護士その他さまざまの給源からの裁判官への任官の条件を調整して考えてみる。それから、裁判官の任期は、憲法にわざわざ10年と書いてありますけれども、実際には10年でやめるということはほとんどないわけですから、そのぐらいならここで調整して考えてみる。それから行政裁判と違憲審査に関しては、また別の条件を特に満たす裁判官に任せる。例えば、何年以上勤めた人というのでもいいですし、別のもっとしっかりした条件を備えた特定の裁判官に任せるというような幾つかを考えて。国立大学の教官でも今までは教育公務員特例法で一生首を切れないという定年までやめさせないということになっていたのを有期任用制にしたわけですから、かなり自由な期間、裁判官として働ける、そしてまた検事の仕事をしたり、あるいは逆に弁護士の仕事に戻ったりという出入りができるような仕組みまで含めて考えてみたらいいんじゃないか。

【井上委員】10年で再任としてあるのも、流動性ということをも考えていたのではないかと思うのですね。例えば、弁護士から裁判官になった人がずっといないといけないというのも変で、もう一度戻っていく。そういうふうな要素も入れて常に更新していく。大体、弁護士さんの経験なども、裁判所の中に10年もいたら、どっちが生きざまか分からなくなってくるところもあるわけですから、ずっといることもあり得るけれども、どんどん変わっていくこともある。そういうのが本来描かれていた裁判官像かなという感じがするのですね。

【髙木委員】かなり各論に近い議論にどんどん進んでいるようですが、今のキャリアシステムと言われている日本の官僚裁判制度が限界なのか、運用の問題もあって問題を持っているのか、それは両方だろうと思いますけれども、いろいろ指摘を受ける面がある。それに代わるものとして法曹一元という言葉が大変手あかに汚れておるとか、その辺は皆さんのいろいろな感覚でお考えになられたらいいんだろうと思いますが、単に給源論だけの話でない議論にかかわっているというふうに認識をしております。

 そういう意味で、私は裁判官の評価の問題等について最高裁の方に二度にわたってお尋ねし、前回の8月4日の審議会のときにまた御提示いただいたんですが、率直に言って、あれを読んでもまだ分からないところがいろいろあります。

 もっと具体的にお聞きしたいなというところもありますが、例えば、評価の問題あるいは任用の問題について、先ほど竹下会長代理は間接的に参加というか国民の意思がということをおっしゃられましたが、そうでない、もう少し国民の意見、これは次のテーマである司法参加のところの議論かなと思ったりもしますが、どっちがどうなのか、この場とも共通するんですが、そういう任用に関わるいろいろな問題、あわせて給源論としての先ほど来のお話、そういうものをトータルでどうしていくんだというお話に当然なっていかなきゃいかんと思います。

 5月の海外調査の際にドイツでいろいろお話をお聞きしまして、同じキャリアシステムというふうに、お作りいただいた資料の中では日本もドイツも同じ枠の中に入っていますが、実態はある部分は同根のところもあるのかもしれませんが、その運用の実態たるや似ても似つかぬものではないかなという印象を私自身は強く持ちました。先ほど届けていただいたのですが、ドイツのバイエルン州の裁判官の評価の公告の内容とフォーマット、ドイツ語なので私はよく分かりませんので、後で竹下委員に見ていただいてと思います。今届けていただいたんですけれども、こういった中身をちゃんと見てみなきゃいかんと思います。

 そんなことも含めて、国民の多くというか、国民といっても先ほどの藤田委員の言われたアンケートにお答えになられた層がどういう方々なのかというのはよく分かりませんけれども、そういう意味では、こういう問題にあるレベルで興味を持っている人たちの多くの方々の問題意識も単に給源論だけじゃないという意味で問題があるということで、これについては先ほど鳥居委員も臨司のときの、これは賛成論の立場からだという面もあるかもしれませんが、そういう御指摘もあって、その辺の現状認識というんでしょうか、みたいなところから議論をする必要があるんじゃないかと思います。

 具体論は、私は憲法論のこともよく分かりませんから、とんちんかんなことを考えているのかもしれませんし、その辺は佐藤会長以下、御専門の方々がおられるので、いろいろチェックしていただいたらいいんだろうと思います。

【吉岡委員】一つは、国民の参加の場で言うべきかなと私も思っていて、髙木委員もそうおっしゃったんですけれども、国民が利用しやすいとか、国民がどう参加するかという視点で、裁判官制度も考えなければいけないと思うのですね。そう考えたときに、現在の裁判官の任用制度も含めてですが、国民の意向が反映されるように実質的になっているかどうかを考えると、なっていないと言わざるを得ないと思うんです。例えば、最高裁判所の国民審査があります。この間の選挙のときも、公報が配られてはいますが、本当に真剣に国民が「×」をつける、それでその意向が反映するような仕組みとなっているかというと、実質的にはなっていない。多少パーセントが高かった場合には、高く「×」をつけられた御本人はかなり心理的な影響を受けるかもしれませんけれど、罷免するというような数値にはなり得ない仕組みになっています。

 そういうところに一つ問題があるんだと思いますし、それから、最高裁判所の裁判官でないほかの裁判官、その場合には国民がその裁判官がいいとか悪いとか、そういうことを客観的に判断して影響を与えるような仕組みにはなっていない。そこに国民の側から言うと、もう一つ壁があるのが現状ではないかと思います。そういう現状を踏まえてどう考えるのかといったときに、これは私は法曹一元と直接的に関係があるのかどうか分かりませんけれど、裁判官を選ぶというその場に、国民が参加できるような仕組みがないといけないのじゃないか。その場合にどういう国民が入るかというのは、知識レベルとかそういうことはあるかもしれませんけれども、基本的には裁判も国民のものだという考え方で言えば、国民がいかにして裁判官を任用する場に関わっていくか、そういうことが制度として考えられなければいけないと思います。

 それから、給源の問題で意見がいろいろ出ていまして、たしか井上委員がおっしゃった御意見の中で、実は給源は多様なところから出すという仕組みにはなっている、ただ、なりたい人がいないということで、なりたい人が減ってしまっているというところに問題があるという意見がありました。私は、なりたい人が減っている、どうして弁護士からならないのか、そのならない原因がどこにあるのかという、その辺のところをもう少し考えてみる必要があると思うんです。

 その一つは、お話に出ていた弁護士事務所の規模の問題だとか、弁護士経験が長くなければいけないとか、そういうところにもあると思うんですが、もう一つは、弁護士さんの方から見て今の裁判官の制度が、中坊委員が御説明なさったようなキャリア制度になっている。そういう中に外側から入っていって、キャリア制度の仕組みの中で裁判官としての仕事をすることを嫌うというか、そういうこともあるのかなと。在野とおっしゃっていましたけれども、自由な立場で、自由に判断して、自由に行動する、弁護士自治というんですか、そういう立場でいらっしゃる方が、かちっと枠が決められた中で、外から見た場合に、本当は決まっていないのかもしれないんですけれども、そういう制度の中に入っていくということが、非常に心情的にというか心理的に入りにくいという問題もあって、それでなかなかなりたがらない、積極的に入っていかないという面が、今まであったのではないかと思います。もっと参加できるような仕組みに変えていく。そういうことをやりながら考えればいいのではないか。

 また、中坊委員が義務ということを何回もおっしゃっているんですけれども、弁護士さんの方も義務として参加できるように、そのためには弁護士会あるいは弁護士事務所も含めて、改革していただかないといけないのではないかと、そのように思います。

【佐藤会長】今、幾つかおっしゃって、例えば、裁判官を選ぶところに国民の参加が必要じゃないかということ。憲法では指名権は最高裁判所にありますから、そこは動かせないところですけれども、指名権の行使の在り方のところで、理論的に工夫の余地があるのかどうか。その辺について、もしアイデアがあればおっしゃっていただいたら結構だと思いますし、裁判官になりたがらない理由、何故なりたがらないのか、なりたがるように仕向けるにはどうしたらいいかという辺りのことについても、御議論いただければと思いますが。

【山本委員】いろいろな意見が出て触発されておりますが、今の憲法を初めとする日本の司法制度というのは、鳥居委員がおっしゃったように法曹一体を前提にしているんですね。臨司のときにも個別の各論をやって、こういう点は勝っているとか、こういう点は危ないとかという議論が行われておりますが、こういう、一元という極めて部分的な裁判官の給源だけの議論はおかしいと私は思います。むしろ、憲法や今の司法制度で、共通の試験、共通の司法修習をやって、かつ判事さんも検事さんも退官すると弁護士会に所属するわけですね。これだけ一体感が出るような司法システムを提供したにもかかわらず、何故一体感ができないのか。ここに一番大きな原因があるんだろうと私は思うんです。ですから、最高裁が裁判官の給源として、裁判官を任命するというのは、恐らく一体感を前提として、憲法は用意しているんだろうと私は思うんですね。その一体感を阻んできた原因が、今言われているようにキャリアシステムに問題があるのか。本当にキャリアシステムに問題があったのであれば、これをやめればいい。いや、そうじゃなくてほかにも原因があったということであれば、その原因をみんなで議論して原因をつぶさないことには、一般国民としては納得ができない。ですから、これだけ一体感が出るような司法システムを作ってきたのにできないというのでは、国民はいい迷惑だというように、私は聞いていて思うわけですね。

 今、吉岡委員が言われましたが、だからといって国民に裁判官を指名するのにタッチさせればいいというのはちょっとまだ短兵急ではないかと思います。極めてプロの世界ですね。そのプロの世界に齟齬があるからといって、国民がチェックすればいいというのは納得がいかない。法曹三者に対しては、これまでも国がお金をかけてこれだけの特権を与えてきたわけですから、その人たちがみんなで相談して解決してもらわなきゃいけないという問題だと私は思います。ですから、このところは昨日も議論がありましたが、もちろんキャリアシステムにもいろいろ欠陥があるんだろうと思うんですけれども、弁護士さんとか弁護士会の改革とかそういったことと不可分な関係にある、そういう感じがいたします。

【佐藤会長】できればひと当たり。お昼まであと20分ぐらいしかありませんが、御発言のない委員はいかがでしょうか。

【中坊委員】先ほど言われているように、どこが何故そうなったのかというのは、判事補という制度があるからです。言われるように、何故ほかの者がなりたがらないかというのは、判事補という制度を最初から作ったわけですね。判事としての給源は幾つも書いてあるけれども、実際では判事補という人からほとんどなる。その判事補という人は、今言うように研修所を出てすぐに裁判官に採用されてそのまま裁判官になっていった。だから、裁判所法で言う判事補という制度を作ったところに基本的な問題点があったということです。

【佐藤会長】分かりました。

【髙木委員】これは新聞ですが、1947年、最高裁は国民に近かったという、戦後一回だけ、現憲法の施行直後に裁判官任命諮問委員会というのが持たれたことがあるという記事で、これが何故一回だけで終わったんだとかが書かれています。私はその背景をよく知りませんが。だから「国民が」と言っても、だれでも普通の人を連れてきて評価してとかどうとか、それはおっしゃるとおり無理なので、例えば、公だという色彩が強いなら、そういうものに対していわゆる官でない立場の人も、もちろんそれもあるレベルで専門性に担保された人でないといかんのだろうと思いますが、この記事によりますと、諮問委員会の委員は15人で衆参両院議長、互選された全国の裁判官、検察官、弁護士、総理大臣が指名した法学者などと書いてある。こういう方々にそれなりの目で見ていただくということは十分あり得るんじゃないかなと思います。ただ、これは一回だけで何故終わったのかというのはよく分かりませんが、この記事によりますと「戦前の旧大審院の司法官僚の争いが起こったため」と書いてありますが、これが本当かどうか全然分かりません。

【佐藤会長】何かいろいろなことがあったようですけれども。

【鳥居委員】私も実はGHQが残した政策には非常に関心があるものですから、いろいろな制度について全部そこへ戻ってみるという習慣があるんですが、これは髙木委員に教えられるまで知らなかったんですけれども、本当にたくさんの制度が日本ではほとんどGHQのお仕着せですね。ただ、その中にいいものがたくさんあったのに、それは逆に押しつぶして、どうにもならないものはたくさん残っているというのが今の日本の実態ですから、私は今度の改革でこういうものは復活してもいいんじゃないかと思いますけれど。

【藤田委員】経過的に言いますと、戦前の裁判所は司法省に属していたんですね。ですから、任命権も司法大臣にあったんですけれども、今度、裁判所を独立させることになったものですから、最高裁判事を任命する任命権者がいないんですね。そこでだれがいいかというので、そういうメンバーの諮問委員会を作って選んだといういきさつがあるんです。

【佐藤会長】話がいろいろな面に及んで、御発言のない委員の方、いかがですか。

【北村委員】先ほど藤田委員の方から世論調査の結果というのが紹介されましたけれども、私の感じとしては多数派の方の見解にまさに一致しているなというふうに思ったんですね。今の法曹一元という言葉についても何かついていけないというか、何でそれが法曹一元というふうに呼ばれているのかというようなことで、非常に抵抗を感じますし、また今のキャリアシステムという言葉もキャリアシステムというのがどういう意味なのか、判事補から判事になるという形で言われているのかもしれませんが、人間、仕事をしていればキャリアがつくのは当たり前のことなのであって、独特の官僚制度の中のキャリアシステムとか何とかそういう形で使っているのか。ですから、今の裁判所の裁判官についても、キャリアシステムというこの言葉自体も、これだけ非常に優秀な専門家が集まっていらっしゃるんでしたら、何か考えてもらいたいなというのが本心です。

 じゃあどういうふうな形に持っていくのかといったときに、私は基本的に井上委員がおっしゃったような、今のいわゆるキャリアシステムを修正するような、多様化するような、そういうような方向で進んでいくのが妥当なのかなというふうに思っているんですね。そのときにだれが指名をするかとかというような話もありましたけれども、弁護士の場合もそうですが、今、例えば、大学も「大学の自治」というふうに言われていたのが、じゃあ大学の自治ということでちゃんとやってこれたのかというと、やってこれなかった部分があって、今、第三者評価というものが取り入れられるような時代になってきている。そうすると、弁護士会の方も弁護士の自治ということをおっしゃってやってきている。弁護士の自治だから第三者評価が入れられないとかということはないだろうと。

 同じような形でいきますと、裁判官の場合にも私はどういうふうな仕組みになるのかは分からないんですが、見ていてやはり適切でない人というものを、自分の中で処分すると言ったらおかしいですけれども、排除することができないのであるならば、そういう委員会みたいなものがあって、それが排除する仕組みというものを考えておいてもいいのかなというふうに。それを国民に選挙でやらせるとなると、私だって最高裁のあれに、「○」をつけたらいいのか、「×」をつけたらいいのかなんて、全然分からないんですね。ですから、それはある程度の何人かの人たちに委託するような形のものがあってもいいのかなというふうに思っています。

【佐藤会長】評価の問題ですね。

【北村委員】評価の問題をちょっと考えたらいいんじゃないでしょうか。

【水原委員】先ほど山本委員から、司法修習を同じにやった三者が何故一体感が出てこないのかという御疑問を出されました。もともとは法曹三者の同根の気持ちで司法修習制度というのはできたと思うんです。法曹三者は同根である。ところが中坊委員が会長になられるころから、弁護士会の姿勢は変わっていかなけりゃいけないんだとおっしゃった。それまでは弁護士会というのが、官と言ったら悪うございますけれども、官に対して対決姿勢をずっと貫いてこられたんですね。それを中坊委員が、それじゃあいけないよということでお変えになられようとして大変な努力をなさった。平成2年までの間は、話合いの場も十分持てなかったのが現状だと思うんです。ところが今は、法曹三者が何とかいい司法制度を作ろうじゃないかということで、お互いに意見を出し合い、そして協力し合うという姿勢ができつつあると思います。だから、今まではできなかったかも分かりませんけれども、これからは一体感が生まれてきて、三者の中からでも意見が出てくるのではないかということを、私は大いに期待いたしております。

 ところで、今の裁判官任用制度の問題でございますが、私も、任用には極めて多様性が開かれておるわけでございますから、だから何故弁護士任官がないのかということ、この辺りから考えていかなきゃいけないなと思います。制度としては開かれております。

 それからもう一つは、先ほど来議論が出ておりますように、判事補制度の問題だと思います。判事補から今度は判事に任命するときの厳しい審査が必要ではなかろうか。それからもう一つは、判事補に特例を認めるということ、これを今なおかつ続けなければいけないとするならば、その制度的な改革も十分考えていかなければならないだろう。それともう一つは、一たん判事に任命されますと、次の10年たったときには、自動的と言っては悪うございますけれども、ほとんどずっと定年までおやめになる意思がない限りは続けられるというところにも、一つ問題があるような気がいたします。そういう意味で、十分な資格審査といいましょうか、再任についての御審査をなさっていらっしゃるとは思いますけれども、その点についてもう一度、十分点検なさって、非難を受けるような裁判官を容易に再任なさらないような制度も構築する必要があるのではなかろうかという気がいたします。原則としては今の制度でいいのではないかというのが、私の意見でございます。

【石井委員】今まで、システムが裁判官自体の意識を高めて、例外があるにしても、他の先進国に比べても比較的高いレベルでモラルの維持が図られてきたという、これだけは確かなことじゃないかと思っているわけであります。これは大いに評価すべきだと思います。ただ、今の裁判官に対していろいろな不満とか問題が起こってきたのは、想像をはるかに超えた速さで進んでいる経済とか社会に対する変革についていけなくなっているからではないでしょうか。昨日も申し上げたのですが、知的所有権の問題とかいろいろなものが出てくるわけで、その中で活動している人たちの状況をきちんと把握した人材というのが、このシステムの中で十分に規定されていない点にあるのではないかというふうに感じております。

 そういうことのために企業に転身させるとか、いろいろな工夫はされておられると思うのですが、そこら辺のやり方について、この中でもうちょっとよく議論してみるということが非常に重要なことだと思います。そのほかの給源も、法曹一元という言葉は別として、給源の裾野を広くするということだけは絶対に必要なことじゃないかというふうに感じている次第であります。

 昨日や今朝からのお話をずっと伺っていまして、何となくもやもやとしていたのですが、いつでも議論が収れんしないで、いたずらに発散してしまっています。また私が余分なことを言い出したと思われるとまずいかなと思うのですが、こういう議論になってきたときにそれを解決する良い方法に、KJ法というのがあります。これは工学系の人間がこういうふうにごたごたしたときによく使う手法なのですが、こういう議論がディテールに入ってきたときはそういう手法を使ってみると、すっきりとみんなの頭の中が整理されて、大変良いやり方なものですから、そういうものも少し入れながらやっていったらよいのではないかと思っています。

 けれども、また私に、この前と同じようにそれを説明しろと言われるのもちょっと困りますが、KJ法はどんな世界においても非常に有効な手段だと思われますので、この中に大変優秀な事務局の方がおられますし、そんなに難しいことではないので、大急ぎで勉強していただき、審議の中に実際に応用されたらいかがかと思います。

【鳥居委員】KJ法は、京都大学独特のやり方です。

【石井委員】川喜田二郎先生が開発されたものです、ということをちょっと提言させていただきたいと思います。KJ法はそんな難しい話じゃないでしょう。

【鳥居委員】大きなホワイトボード持ってきてポスト・イットをどんどん張っていけば。

【石井委員】コーディネーターが要るものですから、それをメンバーの我々自身がやるのではまずいので、事務局の方にやっていただくことがテクニックとして必要になります。

【佐藤会長】これまでの御議論について、事務局で既に整理してもらっています。後でそれを基にして我々の議論を最終的にどうまとめるかということをお諮りしたいと思っております。それがその手法とどう関係しているのか分かりませんけれども。

【中坊委員】先ほどから判事補制度というのが一つの問題点ではないか、判事補というのが、最初から言うように、裁判所で10年間やって判事になるという制度が一番の問題ではないか。私が言っているのは、判事補というのは最初から裁く立場にばっかりいるわけですね。一回も裁かれる立場になっていないというところに基本的な問題があるのじゃありませんかと。裁くという人は、裁かれるという立場、立場を変えた立場を理解しないことには裁かれる立場というものの共感は出てこないというのが、私は一番基本の問題になっていると思う。だから二つ目には、その方は、やはり日常生活、自分の生活はあるでしょうけれども、まさに幅広い社会的な経験というものがないから、複雑で非常に多方面な経験に乏しいところから、いわゆる官僚裁判制度だと言われるような、お上のありきたりのことでやっているんじゃないか。そういうことに対する保障がないというところに、根本の問題があるんじゃないか。まず私はそこが一つの問題点だろうということを言っているわけです。

【佐藤会長】私は会長としては言いませんけれども、代理はどうですか。

【竹下会長代理】基本的なスタンスは、皆さんがおっしゃったことと同じで、せっかく我々は論点整理で、「法の支配の理念を共有する法曹が厚い層をなして存在し、相互の信頼と一体感を基礎としつつ、国家社会のさまざまな分野でそれぞれ固有の役割を自覚しながら幅広く活躍することが、司法を支える基盤となるものといえる。」という認識に立ったわけですから、そうすると、どうも従来の法曹一元かキャリアシステムかという二律背反的な問題の立て方は、これと矛盾することになるのではないかと思うのです。今我々が審議している問題は、このような認識を基本としながら、国民の視点に立って、21世紀の我が国の司法を担い、その職務にふさわしい独立性を保障された裁判官をいかなる制度によって選任するかということです。法曹一元かキャリアシステムかというのは、結局どっちが勝った負けたというような話になり、また、国民の目の前でお互いに傷つけ合って法曹全体が国民の信頼を失うという結果になると考えております。

 その上、さらに何人かの方々からこれまでも言われてきましたけれども、法曹一元とは一体何を指すのかということ自体もはっきりしない。臨司意見書でも何通りも使い方があると言っていたところに、更に今年の3月17日に日弁連から出されました法曹一元の定義というのも、これともまた違うということですので、そのような多義的な、そして手垢のついた用語はもはや避けたい。これは皆さん共通の思いでしょうから、これ以上申し上げることはないだろうと思います。

 しかし、現在のいわゆるキャリアシステムに問題がないかと言えば、私もやはり問題はあるのではないかと考えているわけです。しばしば中坊委員が言われるように、専ら裁判所部内で養成される裁判官、殊に今も言及されました判事補の中には、社会経験が不足をしていて、人間性への深い洞察を欠いた、そういう判断しかできない人が出てくるということは想像にかたくないし、これまで公聴会等で述べられた意見の中にもそういう指摘があり、それはその通りだろうと思うわけです。したがって、いわゆる特例判事補を直ちに廃止するというのは現実的ではないと思いますけれども、判事補に単独で裁判をすることを認めるなら、研修を一層充実させるようなことが必要なのではないかというように思います。

 第二次大戦後、現在の司法制度の形成に深く関わった兼子一教授が書かれたものの中に、何故判事補という制度を設けたのかということについて、あの当時、将来の判事の給源として、判事補以外の外部の弁護士とか、研究者とか、そういう者だけで、果たしてこれから必要とする判事の数を確保できるかどうかということに不安があった。そのために、いわば裁判所の子飼いの給源として判事補というものを設けたのだということが書かれています。そういう意味では、判事補制度は当分の間の応急的なものとしてスタートしたものなのではないかと思います。しかし、そのときの不安は、現在でもまだ残っていることは否定できないでありましょう。ですから、判事補制度を直ちにやめるというのは無理なのではないか、残しながらその改善を図るという方向にいくべきなのではないかと思います。

 裁判官の人事の在り方につきましては、とりわけ髙木委員が前々から指摘されているとおりでございまして、私も現行司法制度の確立当初は今よりもっと柔軟だったのではないかと思うのです。それが、この50年を経る間に最高裁判所から簡易裁判所に至るまですっかり人事は硬直化してしまったのではないか。最高裁判所の話は余りここでは出ておりませんけれども、出身がいわば指定席的に割り当てられていて、裁判官は6人、弁護士出身が4人、検察官は2人、研究者は1人、その他の行政官僚は2人というようになっていて、例外はあるかもしれませんけれども、裁判官に至っては民事の裁判官が定年になれば次はまた民事の裁判官を補充するというようなやり方であります。この分配の方法はそれなりの合理性はあると思いますけれども、結果的にそうなるのは差し支えありませんけれども、本来は、その時その時で最も適任と思う人材を最高裁判事に任命するべきだろうと思います。

 それから、簡易裁判所の裁判官にしても、本来は裁判所部内の者だけではなく、もっと幅広く一般の民間からも採用できるということになっているのに、実際には、こういう言い方をすると少し誤解を招くかもしれませんけれども、裁判所書記官・事務官出身者が大半を占めるという状況になっているというところにも、硬直性が見られるように思います。そのために、一部の裁判官の中に閉塞感が生まれて、その独立性に危惧を抱くような者が出てきているのではないか。その危惧が本当に当たっているのかどうかは分かりませんけれども、そういう状況になってきているという事実は否定できないのではないかと思います。

 既に髙木委員が言われましたように、私もドイツの司法行政を見てまいりまして、海外の実状調査の報告をしましたときに、締めくくりとして、同じキャリアシステムと言われるものの中でも、ドイツの司法行政は、人事の透明化という点で日本とかなり違うところがあるのではないかということを申し上げたつもりでおります。やはりその点は十分考えるべきではないか、これから改めていくべき点ではないかと思います。

 また、一般に裁判所の閉鎖性ということが言われており、裁判所を国民から遊離させる結果になっているのではないか。これについては情報の開示に努めることが必要で、例えば、何か理由があるのかもしれませんが、最高裁のホームページを見ても、現職の裁判官の名前、経歴も出ていないのですね。なぜ出ていないのか分からないのですけれども、国民審査のときはあのような資料を配布するのですが、平常のホームページには出ていないというように、どうも情報開示という点で不十分なところがあるのではないか。

 また、特に最高裁判所による広い意味での司法政策の決定については、国民の意見を聞く、聴取するという仕組みが必要なのではないかと思っております。先ほど吉岡委員がおっしゃられた裁判官の任命に国民が直接関与するのがよいのかどうかは非常に難しい問題で、アメリカでも連邦、それから各州によっていろいろな考え方が持たれているところであり、佐藤会長も憲法の観点からこの点についても御検討を加えておられるように、なかなかそう一般の国民が参加をしたらうまくいく、民主化されるというものではないのではないかと考えております。

 しかし他方、キャリアシステムにメリットがあることも間違いないように私としては思います。我が国の裁判官の公平さ、廉潔さは、国際的にも高く評価されているということは、しばしば言われている通りであります。

 それから昨日、裁判官としてどういう人材が望ましいかという検討がなされたときに、人間的な温かさであるとか、あるいは説得力ということが言われました。昨日御発言になった水原委員、藤田委員、中坊委員はいずれもベテラン中のベテランの法律家でいらっしゃいますから、当然のこととされたのではないかと思いますし、また皆さんにとっても当然かもしれませんが、問題は裁判という法律的な判断をする、それにどういう裁判官がふさわしいかということなので、説得力というように言っても、ただ一般の人がうまく理屈をつけて相手を納得させればよいというのとは違うと思います。当事者の言い分をよく聞いて、その中から何が法律的に保護されるべき価値なのか、従来の理論だったら本来は見過ごされてしまう、あるいは保護されないような利益が含まれているときに、それを汲み上げて現行法の理論体系の中にはめ込んで妥当な結論を出す、それが説得力を持つということなのだろうと思うわけです。

 ですから、昨日、北村委員が言われたように、人間一般として必要な人間的温かさとかそういう問題ではないのではないか。裁判官としての人間的温かさというのは、そういうことを踏まえて法律的に妥当な結論を出せるという能力を伴っていなければならないのであって、そういう能力は専門家として長年鍛えられてできてくるものであろうと思います。昨日、藤田委員は天性のものだというようなことも言われまして、そういう面もあることは間違いないと思うのですけれども、やはり法的な訓練、職業的な訓練が必要なのではないか。そういう意味で、職業裁判官というもののメリットは否定できないのではないかと思うわけであります。

 他方、中坊委員がおっしゃるように、弁護士としての経験の豊富な優れた方が裁判所に入っていただくということは、大変結構なことです。ただ、問題は、人生経験に富み、人権感覚にも優れ、識見の高い弁護士が、本当に裁判官に任官してくれるかどうかという点でありまして、これは先ほどから井上委員、吉岡委員その他から指摘されているとおりです。私は、弁護士任官が増えないというのは、それなりの必然性があるのだろうと思います。

 これまで弁護士任官された何人かの方が、御自分の経験を書いておられます。私が直接見ましたのは高木新二郎裁判官、それから私も第一東京弁護士会に登録しているもので、一弁の会報誌が配られてまいりますから、そこに比較的最近、柴田秀という弁護士任官された方のインタビュー記事が出ておりました。田川和幸元裁判官の御著書も拝見しました。そういうものを拝見すると、弁護士任官をしようと思うときに、弁護士をやめることに一つの障害があり、なってから障害があり、裁判官をやめるときにまた障害がある。まず、弁護士をやめるのに非常にお金がかかるという話なのですね。自分の弁護士業務をほかの人に引き継いでもらう。依頼者との関係で、事件をできれば全部終結させるという努力がなされますが、それでも残るものも出てくると、弁護士業務をあとの人に引き継いでもらわなければならない。そのためには当座の運転資金とか、そういう手当をしないと引き継いでもらえない。それから、雇っていた事務員には退職金を払わなければならない。そういうように非常にお金がかかる。しかも、一般的に言って、弁護士から裁判官になれば収入が下がる。また、裁判官の仕事は今までの弁護士の仕事とは違う仕事ですから、それなりの苦労があり、覚悟が要る。もっとも私は、この点は言われるほどの心配はなくて、弁護士としてある程度の経験を積んでいる方なら、裁判所側でそれなりの対応をしていただければ、判決書を書くのは初めは難しいかもしれませんけれども、それほど難しいことではないのではないかと思っております。ただ、やはり一つの障害であることは間違いない。それからさらに、ずっと裁判官でいるわけではなくて、今度は裁判官を辞める。前の事務所はほかの人に引き継いでもらっているわけですから、ただいまと言って帰って行くわけにはいかない。結局、やめた後どうするか。また一から弁護士を始めるということは非常に困難だろう。そう思いますと、やはり弁護士会として相当バックアップをしていただく。それから、裁判所の方もいろいろ協力をしていただく。それから何よりも、弁護士が法人化して共同化し、事務所をたたんでいくということでなくできるようにならないと、結局、弁護士任官はなかなかスムーズにいかないのではないかと思います。

 弁護士任官が増えない理由として、先ほど吉岡委員からも御指摘がありました裁判所部内の今の官僚システムというものがなかなか外から入っていくことを受け付けないのだという指摘も確かにありますし、そういう面もあるのかもしれないと私も思いますが、しかし、これまで弁護士から任官された方が書かれているものを拝見しますと、裁判所の部内は、決して自分が弁護士のときに思っていたような窮屈なものではないと言っておられます。これは、今の第一弁護士会から弁護士任官された柴田裁判官もそういうようにインタビューの中で言っておられますし、それから高木新二郎さんも言っておられますし、それから少し事情は違いますが、大野正男元最高裁裁判官がおやめになって最近書かれた著書でも、自分が弁護士の当時思っていたのと、最高裁の中に入ってみたのとでは、最高裁の雰囲気というのは随分違う、もっとずっと自由であって、お互いに干渉したりすることはないと言われています。そういうことですから、必ずしもそれが弁護士任官を妨げる大きな理由になっているとは言いにくいように思います。裁判所の雰囲気が非常に統制色の強いために任官しないということではないように思うわけであります。

 結論的に、そうなりますと、結果としては、井上委員が先ほどおっしゃられ、それから多くの方が賛成しておられるように、これからの裁判官の選任の在り方は、多元的・多面的に考えていくべきであると思います。判事補というものも残して、裁判官の給源の一つとする。それから、弁護士任官は、先ほど申したようにいろいろ困難がありますけれども、これを打開できるようにみんなで、弁護士会だけではなくて裁判所側もバックアップをしていく。そうでないと、中坊委員には申しわけございませんが、ただ法律的に義務付けただけでは実現は難しいのではないかと思います。企業法務経験者からの任用も結構だと思います。

 判事補の制度は残すと申しましても、先ほどから言っておりますように、裁判官としてのいろいろな養成の仕方があり得ると思うのですね。例えば、一部の方が言っておられるように、私自身もかねてから、例えば各高等裁判所の裁判長クラスの裁判官に、アメリカのロークラークのように調査官という形で付けて、裁判の在り方を学んでもらうということもありますし、それから公設事務所ができればそこで、公設弁護人あるいは扶助弁護士として働いてもらうということ、あるいは民間企業に研修に行ってもらう、弁護士会にも研修に行くということをして、人間的な幅を広げてもらうということにしていくのがよいのではないか。それから繰り返しになりますが、裁判官の人事の透明化というものも図っていく。その上で多様な給源の下で裁判官を選んでいくのが結局、国民の立場から見て最も望ましいのではないかと考えるところであります。

【佐藤会長】どうもありがとうございました。

 大分いろいろな面にわたって論点が出てきたように思います。理念の面で言えば、相互の信頼、一体感というものが非常に重要であるが、何故これまでできてなかったのか。しかし、これからそういうものを作るような仕組みを考える必要がある、という点についてはおおむね皆さん共通で。

【髙木委員】今いろいろおっしゃられたのはどういう意味ですか。竹下先生の御意見ですか。

【竹下会長代理】そうです。

【中坊委員】私は竹下会長代理のおっしゃっているのには相当程度反対ですから。

【佐藤会長】今、こういうふうに整理しようと思っておるんです。一通り皆さんからお話しいただいて、理念の面についてはそう違いはなかろうと思いますけれども、具体的に各論に入ってきたら違ってくるかもしれません。ただ、一体感を作る上で今後何をすべきかという点は皆さん共通の問題意識として持っていらっしゃる。そして、そういう仕組みとして、まず給源の問題がある。多様性、多元性が必要だということについて、かなりの方がおっしゃった。問題は、それをいかにして確保し実現するかということです。それから、任用問題がある。日本国憲法の下ですから、国民の選挙とかそういうことはあり得ないわけで、最高裁の指名権というものを前提にしなければなりませんが、こういう工夫の余地はあるんじゃないか、こういう制度があり得るんじゃないか、ということは大いにあるところで、そういう問題もお考えいただきたい。それから人事についても、会長代理が御指摘のように、いかにして客観性・透明性を確保するかという問題がある。あるいは、昨日吉岡委員から、裁判官の転勤がしょっちゅうあって非常に困るというユーザーの立場からの御指摘もありましたけれども、そういう転勤の問題をどのように考えたらいいのかということも、国民から見れば非常に重要な問題だというような気がいたします。

 もう12時20分になろうとしておりますので、休憩してお昼に入りたいと思いますが、今申し上げたようなフレームの中で、更にそれぞれお考えいただき、御意見を頂戴したいと思います。

 それでは、1時45分に再開させていただきます。

【髙木委員】私はまだこの議論について自分の意見を全然言っていないつもりでおりますので、議論の仕方について。

【佐藤会長】大いにおっしゃっていただきたいと思います。

【髙木委員】また最後に時間切れになるというなら、休憩時間を短くしていただいても結構です。

【中坊委員】私も、皆さん長かった長かったと言うけれど、佐藤会長がお示しになった二本の柱とか、あれでは分かりにくいと思って私の理解した範囲を、むしろ佐藤会長のおっしゃっていることを補完すべく言っただけですから、私は問題点というのはほとんど言っていないので、土台とか2本の柱とか、公共空間などと言われても分かりにくいだろうと思ってわざわざ言っているだけのことですからね。そこをまるで私が自分の説をたくさん言ったように扱われるのは私は非常に遺憾ですよ。だから、私も今のことに関してはそれほど意見を言っていないと思っていますから。

【佐藤会長】そうしたら、予定どおり1時半に再開いたします。十分に御意見を開陳してください。

 では、休憩します。

(暫時休憩)

【佐藤会長】1時半にはなっていませんが、石井委員はちょっと遅れるそうですけれども、せっかくこうやってそろっているのですからスタートさせていただいてよろしゅうございますか。

 それでは、午前中に引き続きまして、法曹一元の問題について御議論をいただきたいと思います。

 先ほど最後のところで、少し問題点を整理しましたけれども、どういう順番、どういう点についてお話になっても結構でございますから、どうぞ御自由に御発言いただければと思います。

 それでは中坊委員どうぞ。

【中坊委員】ちょっと長くなるかもしれませんけれども、まず最初に、昨日佐藤会長がおっしゃったことを、わざわざ図表に書いてなぜ示したかということについて申し上げたい。私は非常に残念に思いますのは、佐藤会長が昨日おっしゃったことは、まさに信念に基づいておっしゃったんでしょうし、お言葉だけのことではないはずだと思うんです。なぜこの図表を今日書いたか。何も現在の司法というものが行政と立法との関係においてどうなっておって、それを脚立みたいにして裁判官の中核のものを、誰か支えるものがなければ司法の本来の役割を果たさないでしょうと、まさに昨日おっしゃったことを私はそのように理解して、裁判官というのは今みたいに宙に浮いておって、枝から果物がぶら下がっているような格好ではだめであって、まさに国民の間から脚立のように裁判官というものを本当にしっかりと支えなければ、司法本来の役割というものを果たせないじゃありませんかということを、私は昨日は佐藤会長のお話をそのように聞いておったから、それを図表にして出したのであります。

 今日議論が出ていましたように、先ほど竹下さんがおっしゃったように、なぜ弁護士任官がないんだろうか。そのような現象面だけからいって、それに対する手当てをすればそれで済むのか。「法曹一元」という言葉は、先ほど言ったように確かに色あせておって、これは非常に誤解を招きやすい言葉で、これはちょっと私もいかんかと思いますけれども、一応今日は「法曹一元」という言葉を使わせていただきますけれども、なぜ法曹一元がそれほど必要なのかということです。それは単に弁護士任官の現象とか、そういう問題ではないんだと。まさに司法の中核である裁判官制度というものを、本当に安心して国民が判断を任せる制度にしないといけないという制度論の問題であって、たまたま今まで弁護士任官がなぜ少なかったのかということによって問題が解決するものではない。まさに、それは新憲法ができて、少なくとも佐藤会長の昨日のレジュメによれば、日本は明らかに英米法的な法の支配理論をとってきたというふうにお考えになっているのであれば、そこで、戦後の裁判所法が生まれたときに、なぜ判事補という制度が入ってきたのか。それは竹下さんのおっしゃっているとおりで、司法省から最高裁が初めて生まれてくるときに、今までは確かに司法官で、これが一つの問題だったかもしれないけれども、裁判官は追放になっていない。そういうことから、司法官僚による判事というものとの関係の今までのいきさつがあって、終戦後においても、先ほど言うように法が社会の血肉化せず、そしてまた、国民が基本的に言えば客体意識から主体意識に変わらなかったんでしょうけれども、いずれにしても、そのように130年持ち続けてきたということが、終戦後になって新憲法の下でも、司法においてそれが実現しなかったというところに大変な問題があって、そういう歴史的なものを踏まえて考えるべきで、そこのところの諸悪の根源が、鬼門が、判事補制度にあった。

 判事補というのは、先ほどから言うように、司法試験に受かって、それを裁判所が採用して、そのまま連れてきて、そして判事補を10年やれば、今は特例になってさらに5年と短くなっていますけれども、いずれにしても、本来言えば10年間そういう判事補を、いわゆる子飼いの者でやりますということにした。まさにそこは竹下さんのおっしゃったとおりであって、臨時の制度として存在したものが、裁判所法も幅広いところから裁判官に全部なってほしい、法律の専門家であれば、それは学者であれ、誰であれ、そういう人がなってほしいという制度をやりながら、先ほどのような万一人手不足のときにはどうするんだ、司法官僚が前から残っておったから、たまたま判事補制度というものが残っちゃって、それが戦後の司法というものをまさに根幹において、今のような私の言葉で言えば、二割司法の状態に持ってきたことにあると思うんです。

 先ほどから私も言いましたように、なぜ判事補制度がそれほど悪いのかということです。私は前から言っていますように、まさに裁かれる立場というものを全く経験しない人が、どうして裁かれる立場に立つ国民の権利とかというものに共感を持つんでしょうか。裁く立場と裁かれる立場というのは根本的に違うんです。野球だって守る方と攻める方が、打つ方ばかり9回打ったら、その人が守ることの苦労なんか分かりますか。そこは最初から打つ方だけのもので互換性がなくてもよくて、判事補制度をそのまま残していって、あと弁護士任官を増やせばよいんだという論理には決して私はならないと思うんです。

 先ほど言うように、それでは最初は、判事補制度というのは単に不足を一時補うものとして予定したので、本来は幅広く弁護士も検察官も学者もみんな法律の専門家からなってくれることを予定した。それがなぜならなかったかということです。これもまさに判事補制度そのものと関係があるんです。判事補というのは何を10年間教えるかといったら判決の書き方を教えるんです。藤田さんだってそのとおりです。判決というのはどうして書くんですか、要件のところはこう書いて、理由を書いて、このようにして書くんです。判決書の書き方です。弁護士がすぐなったって、一般の素人ではできないでしょう。判決という特殊の文体をつくって、こういうもので判決するということで。だから、実際上はできないんだ。

 私は率直に言って、まさに平成2年、私は自ら弁護士任官をもっとさせるべきだと、一本釣りではおかしいと言って、弁護士会も会議をして、当時の最高裁事務総長と法務事務次官と話をつけて、弁護士任官の制度をつくったのです。そのときにも前最高裁長官の矢口さんが私に、「中坊さん、あんた、なんぼやってもだめだよ。弁護士任官によっては、中坊さん、決して裁判は変わりませんよ。なぜならば、判事補がああいうプロだと思って威張っている世の中に、誰が裁判官に新しくなっていっても、その人が裁判官として生きていけますか。必ず、そのときにおける判事補で子飼いを持ってきて、判決書の書き方に熟達した者だけが裁判官になる。そこを無視して判事補制度を残したままでやるようなことなら、なんぼ弁護士任官をやっても、中坊君、これは成功しませんよ。」ということを、彼はその当時言っていた。私は「それでもいい」と。しかし、どこに欠陥があったのか、弁護士任官といったら、弁護士さんはすぐ行く行くと言っているけれども、実際はなりませんよという実態だけでも、社会でこれが事実であるということを示し、弁護士自身も反省しなければいかん。だから、その制度であっても、弁護士任官という制度を最高裁と法務省と約束して、弁護士任官制度というものをつくって、それをやらせたいということをやってきたんです。

 しかし、最初から判事補制度を残す限り、弁護士任官は成功しないということは私も分かってやっているんです。ところが、先ほどの高木判事は、正確に言いますけれども、あれは私が言った弁護士任官よりも前に、裁判所の一本釣りだったときに行かれた方であって、私の知っている限りでは、高木判事という方は私が弁護士会推薦の任官制度をつくる前の方なんです。だから、そういう方のおっしゃっていることを読んでるけれども、実際、弁護士任官に行った人は、竹下さんどころか、出征兵士を送るみたいにして三十何人の裁判官を本当によく聞いて実態を知っていますよ。彼らが何を言ってきたかというのは、そんなもの、論文で読んでいるだけじゃないですよ。何十人に私は会って話をしてきているんですよ。君らがどうなんだという話は、私自身は、失礼ですけれども、単に言っているだけではない。自分で制度を実行してきた男なんです。

 だから、判事補制度を残すということに基本的に問題があるわけです。キャリアとしてもよいところもある、公正だとおっしゃいます。でも、公正さは、私が昨日も言ったように、多少倫理観がある者であれば、公正さというのは保てるんです。そういえば、弁護士でも、私でもそうでしょう。私は大企業の代理人もしています。あるいは国の代理人もしています。しかし、庶民の代理人もできるじゃないですか。私自身は、自分の体の中が原告になるときもあれば、被告になるときもあり、そういう立場を互換してやってきて、それだったら、もし賃貸人ばかりだったら、賃借人になったら、それができないようになるかといったら、そんなことはできますよ。だから、基本的に態度の互換性があれば公平にできると思うんです。

 私はここで、ぜひ皆さん方に卑近な例で御理解いただきたいと思うんだけれども、相撲を見てくださいよ。相撲の審判は行事がやっていますか。なるほど行事は軍配を上げます。しかし、行事指し違えの場合は、4人立った親方が判断するんです。あれは本当に相撲をとった者でなければ勝ちか負けが分からないんです。私は今の議論に何が抜けているかというと、裁かれる立場というものを全く経験しない判事補制度というのは特殊な暫定的につくった制度で、子飼いの制度をそのまま残していくというところに今回の抜本的な問題点がある。確かに今おっしゃるように給源というものを、その意味ではそのとおりなんです。先ほど皆さんのおっしゃったように幅広く、何も弁護士に限りません。確かに法律の専門家、いろんな方を給源とするのは正しい。そのためには選任方法が非常に難しい。今のように最高裁が1か所においてやってあるといったって、全国の3,000名近い裁判官を全部事務総局でやるといったって、どこかに自分の子分がちゃんと派遣してあって、子分と言ったら失礼だけれども、出先の方からの報告書によってなさることになるわけでしょう。だから、1か所に中央に統一してやれば、中央官僚のもとに、どんな制度であっても、警察でもそのとおり、結局キャリアの制度になってきて、そこに基本的な問題があるんじゃないかということを言っているわけです。

 だから、選任方法の中ではある程度分かる範囲、少なくとも7ブロックとか8ブロックとかそういうブロックになれば、吉岡さんの言う転勤問題もそれなりに片づいてくるんです。裁判官は今のままですとピラミッドでしょう。だから、簡裁よりも地裁が偉い。例えば、地裁と高裁、あるいは最高裁。そうすると地裁よりも高裁の方が偉いみたいな発想になってくる。これはそうじゃなしに、訴訟構造そのものが地裁は事実審だと、高裁は法律審だというふうに変わっていかないと、おっしゃるように、地裁の裁判官で一生、自分はそれでプライドを持って全うされるということにはならない。藤田さんでも最後は広島高裁長官かなんかでしょう。所長になって行かれる。それが立身出世街道で、所長になって高裁判事になったり、こうしてこうなっていくんだという流れがある限り、人事制度というものになるんです。だから、基本的に選任方法においても地方分権を指したような、あるいは吉岡さんのおっしゃるように、民間の意思、例えば、私はそこの県の知事さんがみんな寄られるというのも一つのアイディアだと思います。だから、民間の意思が全く反映する方法がないわけじゃない。山本さんのおっしゃるように、そんなものは無理だとおっしゃるけれども、例えば、東北の知事さんが5人か6人でおって、その方も一緒に参加するとか、あるいは裁判官も参加する。そして弁護士も参加する。その中で選ばれて、その経過がしかも透明で分かるようにしなければならない。そうでないから任官拒否というのを弁護士会が問題にして、いつも問題になっているでしょう。だから、ああいう制度のないように、そこを透明化させて、また市民的な基盤を与えなければ、先ほどから言うように、司法もやはり脚立の上に立たなきゃいかんのやということを、どれほどか我々が努力をしないと、そういうことはできるものではないんじゃないかと私は思うわけです。

 先ほどお昼前に会長がおまとめいただいたように、「法曹一元」という言葉自体も問題がありますけれども、それの問題は、給源の問題と選任方法の問題と人事制度の三つがあるということは、これは私もよく分かるけれども、ただ、すべての前提として、判事補制度を残したまま直すということは全く不可能な話であって、それを残しつつ弁護士任官をよりできるようにという形ではできてこない。今度は判事補を廃止したら、終戦のときも現に人手不足になったときにどうするんだという問題が出てきて、確かにそのときは弁護士の数も少なかった。だからこそ弁護士の層を厚く、しかも多数になってこないと、今のままだったら日本は弁護士が10人以下に裁判官が1人。ところが、御承知のように外国なら弁護士20人に1人ぐらいが大体の数なんです。だから、弁護士がもっと幅広く、もっと重層的に存在して、私の言いたいのは、まさにピンの人が裁判官に選ばれていくという形になってくるということが必要だ。そういう意味における受皿が要る。確かに臨司意見書のときは、おっしゃるように、そういう意味における弁護士さんの基盤もそろっていないじゃないか。そのことから思えば、昭和39年からしたら弁護士の人数だけは3倍近くに膨れ上がっています。しかし、弁護士会はすぐ在野とか、まるで自分たちが占領するみたいに、官の支配を排して民やと、そればかり言っているからこれはやっぱり問題だと思っておって、確かに私も佐藤会長がおっしゃる公共空間という理論は本当に感動を覚えて、今言っているところですから、そういう制度全体を根本的に把握して、どうあるべきかということを考えるのがこの司法制度改革審議会だと思うんです。

 弁護士任官がもう少しできるように工夫しようじゃないかということによって、しかも、根幹の中核となるべき裁判官の制度が違えば、もう民事手続訴訟法も刑事訴訟法も刑事手続も行政もみんな変わります。ここが変わらない限り、また何をなぶってみても直りません。弁護士会は多くすることに賛同しますよ、変えていきますよということを言いました。しかし、恐らくこの判事補制度をこのまま残して弁護士任官を増やしていけというようなことで、私は弁護士会そのものを説得するだけの自信はありません。それならそれでやむを得ない。日本の司法制度を根幹から変えたことにはならないと思うんです。だから、先ほど竹下さんのおっしゃったようなことは、全然当を得ていない。私はそう判断します。

【竹下会長代理】私は、決して弁護士任官だけを増やせばいいというようなことを申し上げたつもりはございません。裁判官には多様な人材が必要である。そのためには、いろいろな経験を持った方になっていただきたい。その中で特に熟達した弁護士というものになっていただきたい。しかし、それは現実に実現しないから、どうしたらいいかということを申し上げたのです。現在のキャリアシステムの改革の必要性、その改革の方向についても申し上げたつもりです。私が申し上げたことを、弁護士任官だけを増やせばいいと言っているのだと言われるのは、はなはだ心外です。

【中坊委員】私はまさに竹下さんがおっしゃるように、なぜ弁護士任官がならないのかと言えば、究極に言えば判事補制度があるからなんです。判事補制度を廃止しない限り、9割方の人というか、ほとんど10割に近い人がみんな子飼いの裁判官として採用されて研修を受けてきて、一番若い人で頭の柔軟なときに自分の子飼いをつくって、その者ばかりにするじゃないですか。そんなところに弁護士任官で途中から来いよ、入り口は開けているんだと言っても、それは行かないですよ。今あなたが言われるように僕も知っていますよ。先ほどもおっしゃったように、弁護士が裁判官になるときに、事件先をしまうのが大変だ。そのために弁護士が寄って後の事件先を守ったりとか、そういういろんな制度を私たちとしてもやってきています。また、その後戻ってきたときどうするんだということもやってきました。それこそ数えれば、竹下さんと違って、私は何十人という辞めた裁判官もみんな自分の経験の中で見てきているんです。だから、一人一人がどういう理由でなって、何がなりにくくて、なぜなれたか、あるいはまたなれないのかも見ています。

 例えば、今おっしゃるように法人化すればよいというでしょう。弁護士任官のときに何十人という弁護士の事務所があるんです。そこだけ集めて、君ら誰か1人出せと言っても出さないんです。そうしたら、そこから外国へ留学には行くんです。10人いるところは誰か1人出して、そこが戻ればいいじゃないかと言っても、今の裁判所には行きたくないと言って、外国に行く弁護士はあり得ても、裁判官になるのは嫌だ。間違いだと思ったら、弁護士会へ尋ねてみなさいよ。私はそれを実際やったんだから、集めたんだから。せめて10人おれば、代わりができて、君らの事務所にまた戻してやったらいいじゃないかと私は言いましたよ。それも一回じゃないですよ。東京でも集め、大阪でも集め、私は集めてやりましたよ。しかし、それでもならないんです。なった人は、お分かりになるか知らないけれども、ほとんど一人の事務所でやった人が店を畳んでなっているんです。10人で数が多かったから、そこから弁護士に戻ったということの例はそれこそ一人もないんです。

【竹下会長代理】そうでしょうか。

【中坊委員】三十何年ないですよ。

 今、竹下さんがおっしゃると、そうかなと思われるかもしれないけれども、非常に当事者的かもしれないけれども、それなりに弁護士任官でうまくいくものならいいと思って、それを実際私のときにやった。当番弁護士だってそうやらせた。だから、もっとこういう制度に変われと言って本当に私は実践してきたんです。

【佐藤会長】従来はそうであったとしても、これからは弁護士の。

【中坊委員】だから言うんです。それは判事補制度というものを廃止しない限り、私に言わせたら、これはなりませんよ。

【佐藤会長】いきなりそう断定されても。まさにこれからそうした点について御議論を深めていただきたいのです。

【竹下会長代理】中坊先生がおつくりになったことはよく分かっています。それから事務局の方でつくってくれた「『法曹一元』についてのレポート<参考資料>」という中にも、先生が当時「自由と正義」でインタビューをされているのが出ています。しかし、この中では、判事補制度をなくさなければ、弁護士任官制度をつくっても難しいということは全然出ていませんよ。

【中坊委員】言っていないですよ。だから、私もそのときには、判事補制度を保存しておいたままであっても、今まさに竹下さんがおっしゃるとおりなんです。今、佐藤会長はそうおっしゃるけれども、私はそれで何とか可能にならないかとやってきた。私はある意味で実験しているんです。だから、最初から判事補制度をなくすなんて、それは確かに一部の官から民への裁判官と言っておられる人は、そんなことを言っておられました。しかし、私は会長としては、そんなことを言ってどうするんだと。やはり現行制度のままで何とかなる方法はないのかといって、私はインタビューで答えたとおりです。判事補制度を残したまま弁護士任官を多くしようと思って努力してきたんです。最初から判事補制度はなくさなければいかんなんて言っていません。その結果、私の到達した結論は、結局そこをなくさない限りどうしようもないなということでした。しかし、私が弁護士任官をつくったときから、矢口さんは、「中坊君、これは無理だよと。それはなぜかと言えば、こうだよと。あなたが言っておられる三ヶ月さん自身も、自分はなれないなと。なぜだと言ったら、三ヶ月さんでも、私も判決を書けと言われたら書けへんわ。」と、こう言っていたんです。だから、なんぼ学者が立派になっても今の判事補制度からかかってきた熟練工みたいなものをつくられて、そこへ合わせろと言ったら、「三ヶ月さんでもなれないよと中坊君言っているよ。」と。そうすると、誰もがああいう特殊な仕事みたいなことはできないんだと。さっきから言ったように、私は何も最初から判事補制度を廃止せいなんて言っていないですよ。それで言ったけれども、「中坊君、それでやってごらん。必ず君、失敗するから。」と。私に言わせたら、それがそのとおり失敗しているんです。今、架空の論議をすべきじゃないと、私は実際体験してやったんですから。それをよく理解してほしいと思うんです。

【佐藤会長】それでは髙木委員どうぞ。

【髙木委員】論点整理に関する論議をしていました時期に、私、お願いをして、「裁判官の独立」という言葉を入れていただきました。そのときもいろんな御意見があったやに、うろ覚えですが記憶しております。今日の「法曹一元化」という言葉はともかくとしまして、この議論について、背景に日本のキャリアシステムが現在のような運営になっているがゆえの問題点というのも大きくかかわっているなという認識もあり、特に評価の問題等について、2度にわたって最高裁の方からお教えをいただきました。ある部分は分かりましたが、まだまだ分からないところもあるというのが私の実態でございますが、いずれにしても、任用・人事、これは転勤等も含めて、加えてそのベースになります評価あるいは給与の体系等々、極めて日本的なキャリアシステムという中で形づくられている実態が、率直に申し上げて非常に閉鎖的で国民にもオープンになっていない。そんな意味で、このキャリアシステムが持っている、そういった面での問題点にある種の危機感といいますか、問題だというふうに感じている人はどんどん増えつつあるのではないかと思います。

 そういう意味で、裁判官というお一人お一人という世界をできるだけ封じ込めて、裁判所といいますか、組織とか機構という感覚や論理で日本の裁判官の皆さんの世界を、よく言えば、統一体制を維持していく、悪く言えば、管理コントールして封じ込めていくということになるのではないか。その辺のことについて、より透明性の高い、あるいは、もう少し裁判官の独立ということとの兼ね合いも十分配慮した上での国民の参加といいますか、そういう仕組みも要るのだろうと思います。そういう意味で「法曹一元」ととりあえず言わせていただきますが、このような仕組みを求めている背景には、中坊さんも同質論とおっしゃいましたが、そちらの方からくる要請も強いんではないかなと思います。

 今朝ほど来、法曹三者はできるだけ一体にというお話があり、さっきの休憩時間のときに二、三の方にお聞きしたら、三者の関係は大分昔よりよくなったよというお話をお聞きしましたが、根っこのところで、例えば、こういうことがあるから、そういうことが現に行われている条理と、我々が同じ価値観を共有して一体化、一体化というのは傷のなめ合いでないはずで、切磋琢磨なり、お互いにしんどいところは、しんどいことを承知しながら意見を言って直し合っていく。そういうものだろうと私は思いますが、例えば、去年の3月の毎日新聞に、アソシエーション・オブ・ジャパニーズ・ジャッジズという日本の団体がありまして、これは1957年の設立ということでございますから、もう四十何年前のことです。ただ、これは組織的な実態はない、国際裁判官連盟に参加する受皿が要る、多くの裁判官の人たちは、自分たちがこういう組織に連なっているということを、ほとんどの方が御存じないというふうにこの新聞記事には書かれていました。これは大分前のことなので、今は大分変わっているのではないかというふうに思っていたのですが、たまたま「法の支配」という雑誌に裁判官団体に関する記事が出ておりました。これは1998年の2月号に当時の最高裁長官の三好さんが、第7回アジア太平洋長官会議というのに御出席になったお話が書かれております。このお話は、「ローエイシア地域における司法部の独立原則に関する北京声明」というのが、その前の前の長官会議、北京で行われたときに議論になり、日本の最高裁は署名をしていないということで、この長官会議の事務局を御担当の方から、日本もぜひ署名して参加してくださいという要請が来て、三好さんが行ってその話をつけてこられました。署名は実際にお帰りになってからされて送られたようなことが書いてございます。その中で日本の最高裁は、北京声明の第9条、ちょっと読ませていただきますと、「裁判官は、適用可能なすべての法律に従い、その利益を代表し、職業訓練を促進し、その他独立を守るために適切とみられる行動をとるための裁判官の団体を結成し又は参加する自由を有するべきである」というのが9条です。これを日本の最高裁は留保をして署名するという形にされました。それは歴史的にいろんな経過もあったのかもしれませんが、留保するに際して、最高裁はこういう見解ですという、「ローエイシア地域における司法部の独立原則に関する北京声明」についての日本国最高裁判所長官の見解というのを発しておられまして、それも読んでみたら「政治的中立性に関する疑念を生じさせる危険を引き起こすおそれがある」というのが、その論旨の中心でございます。

 裁判官会議のお話とかいろいろ聞きますが、実質的に裁判官会議が本当に機能する形で裁判所の中にあるのかといったことも、いろんな方々からそれとなく漏れ聞くわけでございまして、そういうことに象徴されるようなことが一方であって、一方で、こちら側はこういうことでお互いに信頼し合おうということに、私は法曹三者の中の人間ではありませんのでよく分かりませんけれども、本当の意味での信頼感というのが形成されるんでしょうか。もちろん最近、日本裁判官ネットワークという団体等も任意でつくられておりますように、それぞれいろんなお考えの人がおられるので、一概にいいの悪いのというコメントはできない面もあろうかと思いますけれども、現にこういう北京声明に対する署名に対しても留保をされるような感覚の中に、裁判官ネットワークの運動等につながっていく、もちろん、そんなに嫌ならおやめになったらどうですかという世界も、そういうおっしゃりようの方ももちろんおられますので、それはどういうふうにそれぞれの運動を評価するかということだと思います。そういう実情の中で弁護士任官のお話がありましたけれども、これは中坊さんいろいろ言われましたから重複しますが、現行の任用なり、評価の仕組みを続けていて、弁護士任官はなぜ増えないのだというのは、どうも片手落ちのおっしゃり方ではないかと思います。

 それから判事補の問題ですが、確かに一遍にはいかんということで、現に今年の10月に出られる方々の中からも判事補はとられるんだろうと思います。今年の秋でやめたとしても、まだ50年はそういう方々が、あるいは、そういうキャリアをとってこられた方は、まだ40年以上にわたっておられるということで、弁護士さんなり、検事さんなり、あるいは大学の先生なりが裁判官になっていかれるとしても、かなりの期間、いわゆる併存という状態が続くんだろうと思います。そういう意味で、冒頭に竹下さんから御紹介もありました兼子先生のお話等も関連して、戦後の過渡的な制度、あるいは緊急避難的な措置ということでセットされたものが、言葉は適当かどうか知りませんが、その後、制度として居直っちゃって、あたかもそれが主流であるかのごとくなってしまった。

 それからもう一つは特例判事補の制度、先ほど井上さんからございましたけれども、これも人の充足が十分でないという一方での理由で、こういうことになっているわけです。人の充足がまず最優先だろうと思いますが、やはりこれは早く廃止すべきだと私は思うわけでございます。給源の多様化で多様な裁判官をということで法曹人口増の議論もしてきたはずですし、そのための一つの方途としてロースクールの話もしてきたわけですし、それから弁護士が増えても本当に裁判官に任官する人が出てくるのか。変われば変わると中坊さんはおっしゃるけれども、本当にそうなっていきますか。その辺も私どももう一つ分からない世界ですが、ただ、官から公へという発想に変えられたという、その辺はすばらしい発想転換じゃないかと思います。

 それから最後に、今朝ほど竹下先生が言われましたが、私もどこで議論していただくのか分からないのですが、例えば、最高裁判所の判事の皆さんの構成の問題、あるいは裁判所の運営の問題、先ほどちょっと申し上げました裁判官会議の形骸化を初め、あるいは最高裁事務総局というところの持っている機構の中での権能の問題等々、どこで議論するのかということなのですが、またどこかでそういうものを議論する機会をぜひつくっていただきたいと思います。

【竹下会長代理】補足させていただきます。先ほど兼子一教授のあれを申しましたのは、決して臨時だということを言っているわけではなくて、新しい制度でスタートしたときに、裁判官になってくれる人が十分とれるかどうか分からないので、子飼いの制度をつくるという趣旨で設けられたということで、そこから、だから臨時なんだというニュアンスをくみ取ることもお考えによってはできないことはないかとも思いますけれども、直接的には臨時の制度だというふうに言っているわけではありませんので、それは事実なものですから、それだけちょっと申し上げます。

【髙木委員】もう一つ。現に判事補でおられる人もおり、そういう人たちは今一生懸命きちんとした判事さんになられるべく研さんを積んでおられる最中だろうと思います。現に判事に任用されている人たちの中にも、一番最初の10年の任期を務められている人も多くおられます。こういう制度というのは、ヨーイ、ドンである日突然様変わりに変えてしまうわけにいかんわけですから、ただ、そういう併存状態が続いても、なおかつ直していただく部分はいっぱいあるのではないかと思います。

【井上委員】私は判事補制度自体について、中坊先生のお考えとはかなり違う評価をしているということは最初に申し上げたとおりです。私は、裁かれる立場に立ったことも、裁く側に立ったこともないので、おまえの評価は甘いと言われれば、それまでなのですけれども、私の教え子は随分弁護士にもなっていますし、検事にもなっていますし、裁判官にもなっているのですが、そういう人達を見ていて、特に判事補の道を歩んだから痛みが分からないような類の人間になっているというふうには、思えないのです。もちろん育ち方が期待したほどではないという人も中にはいますけれども、非常に立派な裁判官になっていっている人を何人も知っています。弁護士として立派になっている人と同じようにですね。それは教師をやっていて本当にうれしいことで、その意味でちょっと思い入れがあるので評価し過ぎなのかもしれないのですけれども、それ自体として私はおかしな制度だというふうには思えないのです。しかし、それが予期に反して事実上一本化してしまったことに問題があるので、本来の考え方といいますか、アイディアに沿った形にしていくように、いろんなところを直していく。中坊先生が弁護士任官の実現に努力されたのは、非常に大変なことだったというふうに私も思うのです。それを更に制度的に強めていくということをやらないといけない。弁護士任官というのも、制度とか運用とかが恐らく従来のままだったと思うのですが、そこを改める余地はないのか。それが私が申し上げたかったことです。

 それと、中坊先生はそういう御趣旨ではないと思うのですが、弁護士会の人口増についての話とこれとを絡めて、判事補制度をなくす方向でいかないと1,000人という上限を取っ払うということもどうなるか分からんぞというふうにも受け取れることをおっしゃったものですから、もしそういうことだと、昨日の話もちょっと違ってくるのではないかと思います。我々としては、大幅に増員するという、そのこと自体が非常に大事なことだということで議論してきた。そして、弁護士会が従来の枠を取っ払おうとしているというのは大変なことで、すごくいいことだというふうに思ったのです。そういうことから、昨日の方向の話となったのであって、それをいま判事補制度の廃止ということがくっついているんだ、それが絶対的な条件だと言われますと、待てよ、それでは話が違うのではないかと思うのです。そういう御趣旨ではないとは思うのですが。

【中坊委員】井上さんのおっしゃっているとおり、二つは極めて有機的に結合しているのです。それは今おっしゃるように、今、弁護士の中で、私もいろいろ話をしておっても、個々の裁判官が人格的にどうだとか、いい人間だとかいう人はもちろんおられます。しかし、制度としてどうなんだというところを見たときに、やはり今の裁判制度のままで、法曹人口を仮に増やしても、市民とつなぐだけの弁護士に自信はないですよ。だから、今おっしゃるように、それなら官の補完物として前と同じような弁護士にしなければ、本当に弁護士というものが幅広く市民の中にいくためには、やはり最初言ったように有機的にみんな結合しておって、しかも、その一番の中核にあるのは、まさに今日のこの図面にもかいてあるように、行政の全体があれば、上に内閣があると同じように、その意味において一番重要なのは裁判官なんです。その裁判官が変わらないというのであれば、下もまたイコール、全体の層も今の裁判制度のままで、一般の市民でも変わらないし、裁判制度はこのまま変わらない、弁護士だけ数を増やしますといって社会的な需要が生まれてくるとは現実には思えないですよ。だから、今の裁判制度が、判決が変わってくるというような期待があってこそ積極的になりますけれども、もし判決が今のままの状態でいくということになってきたら、多くの庶民は結局裁判ざたとか、裁判に起こすということは嫌悪したままいくだろうと私は思いますね。だから、少なくとも私はそう思っている以上、弁護士会に対して、裁判官制度は変わらないんだ。そうだけれども、法曹人口だけどっと増やせよということを、私は勧める気にはなれないということを言っているんです。

【井上委員】中坊先生のお気持ちは分かるのです。しかし、ちょっとあるふうにお決めつけになり過ぎるのではないでしょうか。私は、弁護士の人数が増えていくというのは、それ自体として、利用者にとり非常に大きな意味のあることだと思うのです。私自身はまだ利用したことはないのですけれども、もっと身近に気楽に相談したいということはあると思います。それ自体大きな意義があることだということは、先生も恐らく否定されないのではないか。また裁判官制度が変わらないという点も、お決めつけになり過ぎているのではないか。多様性をできるだけ確保することによって、裁判官の間でもインターアクションがあり、いろんなバックグラウンドを持った人が一緒に仕事をすることによって全体が変わっていくという、そういう期待がなぜ持てないのかということです。

【中坊委員】私もたまたま弁護士ですから申し上げたいと思うんですけれども、確かに裁判所が、こういう事務総局を中心とした一種のキャリアシステムだと仮に称したとしたら、それをお守りになりたい。それをおっしゃっているというのは、それなりに理解もできる。しかし、それは決してよくないと思います。昨日も言ったように、弁護士の数がどんどん増えてくるんだから、おまえら飯が食いにくくなるぞと言って、ああそうでか、中坊さん、ええことしてくれましたなとは絶対言わないですよ。先ほどから言っているように、弁護士という職業は一番の基本は自立営業者なんです。まさに私的空間として生きているんです。私的空間として生きられるというためには、昨日も出てきたように需要がないとどうしようもないんです。同じパイにしておいて、それを大勢の人数を人工的に増やしたんだということになってきて、そんなことになってしまったら弁護士が生きていけないです。それこそ質は低下するだろうし、ますますもって悪化してきます。

 だから、そういう意味においては裁判制度そのもの、司法制度そのもの全部が変わっていきますよと。それこそ新しい日本の、21世紀の社会を迎えての司法制度になってくる中において、君、そうなんだから、君たちも、みんなそういうふうに幅広げていけよと言える。これからはこうなるよという希望を持たないでは言えない。私個人は確かに元日弁連会長ですから、若い弁護士に対しても責任もあります。その人たちに私が今、取っ払ったから、3,000人にするから、おい、君らみんななれなれと、こうなるよということは言えない。私は法曹人口の問題が裾野で、さっき言ったように弁護士の方が登山口ではありますよ。しかし、裁判制度との関係でどっちが先かと言われたら、弁護士会の方が先に直っていかなければいけないよということは、登山口ですからそれは思っています。しかし、いずれにしても、展望があってこそ初めて私もみんなに勧められるので、展望も何もないようなところへ、弁護士の数だけ増やしたら、それこそ大問題になってきますよ。むしろ社会の中では、昨日も現に水原さんが言われたように、金もうけのために働き、息子は弁護士にさせないと言っていると同じような弁護士がいっぱい生まれてきて、処置ない社会になってきますよ。

【水原委員】僕は言っていませんよ。

【中坊委員】そうやったかいな、誰だったかな。

【藤田委員】現場の裁判官たちは、この審議会について極めて深い関心を持っているのです。当然といえば当然なのですが、議事録が回覧されると、みんなむさぼるように読んでいます。アメリカに留学している若い人からインターネットで見たという便りをもらいました。自分たちの気持ちを審議会に伝えたいという思いが非常に強いのです。東京地裁の裁判長たちに呼ばれていって話をしましたし、それから先週、八王子支部の判事補会に呼ばれていって、司法改革の話をしました。

 若い裁判官たちが申しますのに、特に判事補に対する批判が強いわけですが、国民の信頼を得ていないとか、世間知らずの非常識とか、こういう批判を受けているわけですけれども、どうしてそういうような批判を受けなければならないのか。国民の信頼を失っているとおっしゃいますけれども、先ほど申し上げた、裁判所がやったのではなくて、新聞社や日弁連がおやりになった調査で、公平性や信頼性についてかなり高い評価をいただいているということがあるわけです。それと、判事補はエリートで育ってきて、世間知らずの非常識と言われるのですが、どこが非常識で、どこが世間知らずなのか、具体的な指摘をしていただければ、それは反論もできるし、反省もしなきゃならん点は反省もします、だけれども、ただ、エリートとして育てられてきたから世間のことを知らないとかいうようなことを言われたのでは、反論のしようもないということを訴えられました。

 それから、裁かれる立場に立たなければ裁くことができないというような御意見でありますけれども、裁かれる立場に立てば、必ず裁かれる者の心情が理解できるかというと、それは人によると思うのです。裁かれる立場に立たなくても、人の心の痛みを我が心の痛みと感ずることのできる人ならば裁かれる者の心情を理解できる。これはやはりその人その人の人間性ではないかと思います。

 世間のことを知らないという批判がありますけれども、世の中の生の事実を経験していないじゃないか。そういう面も否定できないと思いますけれども、しかし、シンポジウムなどでも取り上げられていることですが、裁判官と弁護士とのいろんな経験の内容や密度というのは、同じではないでしょう。弁護士は、生の事実について直接触れるわけですから、そういう点での違いはあるかもしれません。しかし担当する事件数から見てみますと、私はかつて東京地裁の通常部の裁判長をしていたときには、大体3人で構成する部で処理する事件は600件くらいありました。そうすると裁判長と右陪席が単独で250件ずつ、任官したばかりの左陪席が残りの80件から100件ぐらいの事件を持ってやっていくことになります。1月の間に50件から60件の新しい事件が回ってくるというようなことです。経験する件数から言うと、弁護士だと、70件持っているというような人もいますけれども、普通は担当事件数は30件ないし40件ということだろうと思います。数だけ数えてもしょうがないかもしれませんけれども、裁判官は、10年間の間にいろんな種類の事件を経験します。私も民事事件、刑事事件、家庭裁判所の家事事件、少年事件。民事事件の中でも倒産、牛丼のチェーン店の再建もやりましたし、それから執行、調停、あるいは非行少年の事件もやりました。和解では本人が出てきますから、そういう市井の人たちと直接接して話を聞きます。倒産事件の場合には、倒産会社に対して保全命令を出して、その結果、本日落とすべき手形が落ちないことになったときに、じゃ、その手形を引き合いに、私が出している手形をどうやって落とせばいいのですかという中小企業の経営者の男泣きに泣きながらの訴えに答えるということも経験しました。そういうようなことを経験して、裁判官というのは成長していくんだろうと思うのです。

 それともう一つ、弁護士と違うのは、10年間の間に地方勤務を何遍も経験します。現在の最高裁長官の山口繁君も岡山とか大分とか函館の勤務を経験しています。私は今まで任地に赴任したことは10回、引っ越しは16回やっています。職務上やむを得ない引っ越しがほとんどです。その地方地方で3年なり4年なり生活して、その人たちの間で事件をやっている。これは出張して事件を処理することはあっても、一生一つのテリトリーから動かない弁護士とは、経験の内容の質的な差だと思います。そういうことを考えれば、エリート意識で、実際の社会経験なしに裁いているんだということは、果たして実態に合っているのかどうかと、現場の若い裁判官たちは訴えているわけであります。

 それから、判事補の10年間は判決書きの書き方を学ぶんだというお話でしたけれども、書き方を学ばないとは申しませんが、事件をどういうふうに処理していくか、内容をつかんで被告人なり当事者の心情を理解して、どういう事実があったのかという真実に迫るというのが、これは一番大事な仕事であります。

 戦前からの判決では、職人的な独特のスタイルがあって、これを習得するのは非常に大変だという批判があったのですけれども、昭和六十二、三年ごろから、当事者本人に理解してもらえるような判決を書こうじゃないかということで、新様式判決運動というのが、大阪、東京の両地裁で始まったのですが、それが全国に波及して、今判決のスタイルはがらりと変わっているのです。ですから、そういうような努力もしている。

 それから、司法行政、裁判官会議の形骸化というお話もありましたが、私も所長や長官をしましたけれども、重要なことはすべて裁判官会議で決める。ルーティンワークについては、常置委員会というものをどこの裁判所でも設けている。東京地裁では選挙です。私は所長代行を東京地裁で7年間やりましたが、毎年年末に選挙の洗礼を受けて7選でございました。そういう形で選出された者が司法行政にタッチしているわけです。人事について、各地に派遣した人から情報をとっているというような話がありましたが、必要があれば、実際に評定をしてきた経験からお話しいたしますけれども、裁判官の働きぶりの評定をするのは部総括です。一緒に仕事をしている部総括です。

 そういうことから言うと、判事補制度があるから裁判所が国民の信頼を失っている、あるいは判事補は世間知らずの非常識だとか、エリート教育で固まっていて、庶民の心情を理解できないとおっしゃるけれども、もうちょっと実態をよく見ていただきたいと現場の若い連中が申しておりますので、この連中の気持ちは、ぜひ私としてはお伝えしなきゃならんと思いまして、少ししゃべり過ぎたかもしれませんけれども申し上げました。

【中坊委員】確かに、藤田さんもそういうふうに裁判官から聞いておられるかもしれないけれども、私は恐らくおたくの倍というよりも、桁が違うぐらい裁かれる立場をずっと今まで経験してきました。本当に裁判官というのは、どうしようもないなと思っています。我々の意思を理解する力も、能力もないと、私はそう思っています。

 裁判官というのは、まず第一に、和解で弁護士が行くでしょう。仮に裁判官が和解として100万円が妥当だという案を出すでしょう。こっちはどうしても10万円しか出さないと言っているとするでしょう。そうすると裁判官は100万円は出しなさいよと。そうすると、弁護士はほとんど全部、私は裁判官のおっしゃるように100万円が妥当だと思うんですよ。ところが本人がきかんのですと言う。そうしたら裁判所は、「中坊さん、相手方の代理人は分かっているんだけれども、本人が承知しないんだよ」と必ずそう言うんです。10人が10人ともそう言います。今、藤田さんでも恐らくその辺にしますよ。しかし、実際は全然うそなんです。本当に代理人の委任を受けた弁護士が言って、言うことを聞かなければ、代理人は本来なら辞任すべきものなんです。そういうことはいい加減な弁護士が言うことはあり得たとしても、本気で本人を代理している代理人が言って聞かないというものは本来いないんです。僕は裁判官に聞いていますよ。10人が10人とも、それこそ何十件、何百件とみんなそのとおりです。本人と依頼者との関係がどうなっておって、どうだということは、やはり裁く立場ばかり経験している方には全く理解できない。

 おっしゃるように、その人は単純にそう思われるのでしょう。だけれども、そこに間違いがあるということは、ほとんどお気づきじゃない。つい最近のを例に出したら、あなたは怒るかもしれないけれども、山本さんもお気づきになるように、ある銀行に対し裁判をやりました。確かに30億のお金を銀行が、いわゆる紹介責任を認めてお金を払いました。そのときでもどうなったと思います。裁判長に、話がつくまで発言はやめてくださいと言わざるを得ない。だから、銀行との話がつくときも、何一つ東京地裁の裁判長は発言していないんです。裁判官はすぐに、この種の事件だったらこれぐらいですと、何の確信もなく、自分で和解案を言うんです。そんなものでつくわけないでしょうと僕らが言ったって、全然裁判官は分かろうとしない。今の裁判官が、わざわざ不公平な、あるいは不公正な裁判をやってやろうなんて思っていないと思います。しかし結果的に世の中で見れば、全く的外れの事件の重なりみたいなものです。そんなものは、私に言わせたら、そうかなんて思う方が少ないぐらいです。中にはありますよ。おっしゃるように人によって違うんだから。しかしまさに制度上どうあるかということが問題で、裁判官はみんな悪い人でもないですよ。ところが、裁判官でもピンとキリがある。私はピンになってもらわないとあかんと言ったでしょう。僕も何人か裁判官の依頼者もいます。私に言わせたら、それが本当によき依頼者なのかというわけです。「おまえ、そんなわけの分からんことを言ったらあかんで」と言わなければならん人がいっぱいおるんです。事ほどさように、裁判官の悪口を言うわけではないけれども、あなたが言うから言っているんだよ。

【藤田委員】私は自分が優れた裁判官であるとはつゆ思っていませんから、私がどうこうと言われるのは我慢しますけれども、具体的な事件を挙げて裁判長を非難されるのであれば。

【中坊委員】だから、あなたは具体的な例を挙げろと言ったじゃないか。

【藤田委員】それは中坊さんの見方で、それは当たっているか当たっていないか私は分かりませんけれども、担当裁判長がどれだけ努力して銀行を説得したかということは誰でも知っていることです。ですから、そういう具体的な事件を挙げて。

【中坊委員】あなたが具体的な例を挙げろと言うから言ったんです。

【藤田委員】そういう個人的な非難をされるのはやめていただきたい。

【中坊委員】違いますよ。そんなものは全く何の役もしていませんよ。私は自分で経験しているんだから。あんたが経験したことで言うならばいいけれども、一般的にそういうことを言うから、けしからんと言うから、私は自分が体験した例を言っているんです。何を言っているんだよ。

【佐藤会長】今の個別具体的なことについてはその辺で。

【中坊委員】この人が言ったからです。具体的な例を挙げて言ってもらわないと、それだけでは分からないと言われるから言ってあげているんです。

【佐藤会長】じゃ、そこまでにしてください。そういうことも踏まえて、将来の制度をどうするかという観点から御議論をいただきたいと思います。

 最初に、自由かつ率直な各委員のお考えを聞きたいと申しております。そういう観点からお話しいただきたいと思います。

【水原委員】私は昨日の議論というのは、私も申しましたけれども、法曹人口を増やさなければいけないことについては、私は全く異存がございませんということを何度も申しました。しかしながら、質と需要、マーケット、これを考えながらやらなければいけないというふうに申しました。ところが、先ほど中坊先生のおっしゃるところでは、増やしただけではマーケットが確保できるかどうか分からないので、それだけで議論したつもりはないんだと、こういうふうにおっしゃっておりますけれども、マーケットが開発されるかどうかというものを、マーケットの状況を調べながらやっていかなければいけないのではないですかということを、私は何度も申し上げておきました。したがって、昨日のこととはちょっと違ったような御理解をいただいているなということが一つ。

 それからもう一つは、裁かれる立場の経験のない者が国民の納得のいく裁判ができるかという問題でございます。もしそういうことだとするならば、今いろいろな議論が判事補についても言われております。委員の中から御提言があったと思いますけれども、民間や企業法務に何年間か勤務させる。それからあるいは弁護士事務所に弁護士として、その10年間の間で何年か経験させる。裁かれる立場の経験もいろいろやらせることができるのではなかろうか。それをどういうふうに設計するかというのは、ここでいろいろ議論をしていかなければならないのであって、今までの判事補は裁判所にずっといて、10年間裁判のことだけが、原則としてそういうことしかやっておりませんでしたけれども、これからは、例えば、3年間は弁護士として仕事をさせる。あるいは企業法務に勤務させる。それから先ほど竹下代理がおっしゃったように、ロークラークのようなものも勤めさせる。その間に痛みも分かった、そして事実の洞察力にも優れた立派な裁判官になっていくのではなかろうか。だから、そういう方法も加味していく議論も、当然やっていただかなければいけないなという気はいたします。

【中坊委員】水原さんね、後の方から言うと、裁かれる立場というのは、今も既に裁判官も随分とかつてと比べると、具体的な企業へ実際出ていったりして研修もされています。そういうことを実際見習わなければいかんと、新聞社へ行ったり、あるいは民間企業へ行ったり、裁判官を出しています。だから、裁判官として、そういう意味での実務体験をやらせようじゃないかという経験をされておるんです。しかし、あなたも、どこが一番違うのか、一番何が要かというのが分かっていない。それはなぜかというと、私が言ったでしょう。弁護士の一番の本質は自立営業者、事業者性にあるんです。弁護士も自分の飯を食う。依頼者がなければ飯は食えない。そこの中において、どうして公益を守るか。本当に自分の生活をかけているから裁かれる立場なんです。自分の地位が保障されておって、見習いに行って仕事の外見だけ見たらいいのと違うんです。確かに今言うように、弁護士というものが事業者性を用いて、だから私も弁護士も私的空間ですと言ったように、まさに私的空間でありながら公益の仕事をするというのは、それはおっしゃるほど簡単ではない。私だって、今裁判官にこんなに悪口ばかり言うでしょう。一番恐れていますよ。現に、裁判官が私個人に対してどういうしっぺ返しをするのかなとか、冗談じゃないです。余り言えないけれども、私だってあるんですから。繰り返しその経験を経てきて、本当にクソーと思うことがあっても、僕らでも裁判官におべんちゃら言っているときの方が圧倒的に多いんだから。なぜ言わなきゃいかんかといったら、僕は構わないんです。しかし、依頼者が困る。そうしたら生活ができなくなるから、その相克というのは、そこが裁かれる立場の一番苦しいところなんです。だから、基本的に自立営業者であって、私的空間であって、公益的な立場に立って、それを言うということがどれほど難しいから裁かれる立場というのが成り立っているということが一つ。

 もう一つ、水原さんが昨日おっしゃった需要がないとあかんやないかという点。中坊さんは人数だけで割っているじゃないかとおっしゃった。しかし、私が言っているのは、まさにあるべき姿というのは人数で割ったら、一つの目安が出るでしょうし、そこで司法制度改革審議会としては動かなければ、人口というような問題は裁けないでしょうということを言っているんです。しかし、今度はそこはその通りであったとしても、裁判そのものがあるべき姿だと思っているものと違えば、結果的に裁判が非常に歪んだ二割司法にならざるを得ないような構造に組み込まれてきたら、弁護士だけ増やしたら、今度弁護士の方にものすごい無茶苦茶な人が出てきますよ。だから、最初から言っているように、今度の司法制度改革は担い手問題で裾野があり、登山口があって、その上に裁判制度があるけれども、しかし、同時に担い手問題として、一体として、総合的に司法制度改革が行われなければ、局部的にいじくったりしたら、それはそれで大変な問題が起きますよということを私は言っているわけです。

【佐藤会長】関連していかがでしょうか。今、激しい議論が行われましたけれども、余りそれにとらわれないで。

【山本委員】私は何回か申し上げているように、確かに今の裁判制度にも、キャリアシステムにも問題はあると思います。しかし、大方の企業にとっての裁判官のあるべき姿というのは、昨日も申し上げたように、企業の多面的な法律行為というものが安定的にジャッジされていくというのが一番大事なことであります。訴訟というのは大きなダメージを受けますので、大体の企業は、まずいろいろなコンプライアンスをしっかりやって、これはいけるかいけないかというのをジャッジした上でやっているわけです。そういう意味ではジャッジの的確さとか判断の安定性だとか、言ってみれば、キャリアシステムのメリットというのはそこに出ていると思うんです。一面では、皆さん言われているようにキャリアシステムの短所はたくさんある。しかし、この短所を補うため、あるいは是正するために今言われているような一元論というので取って代わるということは、ユーザーとしては非常に不安であります。それは先ほど最初に申し上げたように、前提としては一体感がなければいけない。この不信感の固まりの中で、こういう抜本的な改正をされますと、ユーザーとしては非常に不安になる。これはぜひ御理解いただきたいと思います。

 そういう意味では、昨日も申し上げましたのですが、数の問題というのは、我々が議論したこれからの司法の在り方、民事司法、刑事司法、それから弁護士の在り方、弁護士会の在り方、裁判官の在り方、それから養成の在り方、こういったものに大体の目途をつけた上で、国民に提示するときには、我々はこういうレベルの司法というのを考えましょう、その上で数を決めるべきだと。数を先に決めて、弁護士の仕事を決めていくというのは、僕は反対だとはっきり申し上げたはずです。そこのところがまた今蒸し返されているわけですけれども、3,000という数字は公にしたわけですから、これをどういうふうに収拾するかというのは、非常に難しい問題だと思います。頭の中では、法曹というのは、何も弁護士と三者だけではないというような話だとかいろいろあるので、信用ができるかできないかというのは、ぎりぎりした話になるかどうか分かりませんけれども、もう少し司法の容量を大きくしようというコンセンサスはあると思いますけれども、そういうふうに順序を逆にして議論するというのは非常によくないのではないかと思います。ちょっと余計なことを申し上げましたけれども。

 それからもう一つの裁判官の問題に戻りますと、昨日も申し上げましたけれども、いい裁判官が必ずしも有能な弁護士であるかということについては、自分の体験からして疑問があるというふうに申し上げました。逆の場合もどうだろうかというのも疑問があるわけです。いい弁護士さんがいい裁判官になるかどうかというのは、これは分かりません。例えば、日本の法曹制度でお手本になるイギリスの場合は、バリスタとソリシタに分けて、バリスタから今までは裁判官が選ばれている、任命されている。バリスタというのは原則的には依頼者とは会わないわけです。そういうことも我々は十分頭の中に入れて議論すべきだというふうに考えております。ちょっと生意気なことを申し上げました。

【中坊委員】僕は山本さんの言われることに一々反論するわけではないけれども、企業側、企業側とおっしゃっるけれども、それじゃ、本当に山本さんが全企業のどういう範囲のものをとらまえられておられるのか。大変失礼ではありますけれども、山本さんというのはまさに大企業中の大企業でしょう。そういう御経験しかないと自分でもおっしゃっているし、しかも、それは独占価格によって成り立っているところの企業でしょう。それだったら、僕のは中小企業、零細企業を運営しています。そういうことを企業全部を代表するがごとくおっしゃると、それは誤解があると思います。

【山本委員】そんなつもりはありません。

【佐藤会長】いろいろ委員の意見を聞いた中で、また後でまとめてどうだということで御発言ください。その辺についてぜひ御配慮ください。

【藤田委員】もう一つ、私と中坊さんが憎しみ合っているように思われるかもしれませんけれども、二人は同期の桜ですから、思いのたけをそのままぶつけ合っているだけでありまして、決して憎悪とかはないよね。

【中坊委員】そうそう。会長、それをちょっと心得てほしいんです。僕は闘う弁護士でなければいけないと言ったでしょう。闘う弁護士はこの姿勢なんですよ。今おっしゃるように、会議で上品ですということを言っておったのでは、弁護士という仕事はできないんです。そうしなければ依頼者の利益なんて守れないんです。必死になってやらないと守れないんです。

【佐藤会長】それはよく分かりました。

【藤田委員】私は闘う裁判官ではないので、戦闘能力に劣るところはどうぞ御容赦ください。

【中坊委員】あなたはそんなことはない。あなたはジャッジする立場だから。

【井上委員】お二人の間でやられるのは結構ですけれども、その迫力が他の我々を沈黙させるところがありますので、その点にもぜひ御配慮を。

【佐藤会長】議長としても、そこはぜひお願いします。それでは鳥居委員どうぞ。

【鳥居委員】目の前に原告が二人いるような感じで。

【中坊委員】僕らこれで結構仲がいいんです。

【鳥居委員】お話を伺っていて、問題を整理する必要がそろそろあると思うのですけれども、一つは、裁かれる立場論争について、審議会としての結論は出さなければならんという気がします。もう一つは判事補問題について、判事補論争は審議会としての結論は出さなきゃならない。だけれども、今のところは、どう考えてもこれが平行線のまま行ってしまいそうな気がするのです。それが片付けば、任官の方法であるとか、勤務形態の問題であるとか、いろいろ出てくるんですが、とにかくこの二つが片づかないと先に進めないという感じが私はしています。

 それで、判事補論争の方なのですけれども、やはり考えてみると、一番最初は判事補というのは想定していなかった日本の制度の中に、判事補というのが出てきたことを考えると、そもそも判事補というものが想定されていなかったときの裁判官の選び方というのはどう考えていたのかというところに戻って、二人の原告兼大先輩に、そもそも何であったのかというのを説明してほしいのです。

【佐藤会長】じゃ、お二人それぞれお願いします。

【藤田委員】キャリアシステムではありますけれども、戦前は判事補という制度はなかったのです。戦前はまず予備判事という職について、個人差はあるのですが、それから判事になったのですが、権限はまったく同じでした。判事を5年くらいやりますと東京地裁部長になったのです。10数年ぐらいの裁判官経験で控訴院の部長になった。今から考えると、特例がついて判事と同じ仕事ができるようになっただけの段階の人が、東京地裁の裁判長をやっていたのです。戦後はいろんな司法制度の改革を考えて、いきなりそういう形で完全な権限を与えるのはどうかということで、判事補制度を入れ、10年間は単独では裁判ができない、10年間研修を積んだ上で独立の裁判ができる権限を与えようということだったのです。しかし、実際上、裁判官の需要を満たすことができなかったということで特例判事補という制度ができ、5年経ったら、実際上判事と同じような権限を与えるということで、今はそれが常態化しているわけなのです。ですから、その点について問題はあろうかと思います。

【鳥居委員】竹下先生の御説明だと兼子教授のお話を引用されて、それで、昭和20年には当分の応急の給源として判事補を置くということになったと。

【竹下会長代理】ちょっと舌足らずであったために、いろいろと誤解招いているようですけれども、私が申し上げたのは、終戦後現在の司法制度をつくるために、新しい裁判官制度をどう構想するべきかという議論をしている最中の話です。ですから、現在の制度では、出発のときから判事補というものを前提にしてでき上がっているわけです。新しい憲法のもとで、これからの司法制度をどうしようかというときに、裁判官の地位を非常に高いものにしようというので、10年以上いろいろな経験を積んだ人を判事に選ぼうということをまず考えたわけです。そのための給源としてどういう人を考えるかというときに、弁護士とか大学教授とかというようなことを考えていったのですけれども、それだけでは不足が生ずるおそれがある。若いときから裁判官をとってきた伝統がありましたから、そういう意味で子飼いの判事補というものの中からも判事を選べるようにしよう。そういうので現在の制度はでき上がった。ですから、現在の制度ができ上がった後で、これでは裁判官が不足だからといって判事補の制度を後から臨時に持ってきたと、そういうことではありません。

【鳥居委員】判事補が判事になる唯一のルートであるということも決まってはいませんよね。

【竹下会長代理】そのとおりです。現在の裁判所法は、できたときから、判事の給源を多様化しているわけです。先ほど井上委員が言われたように、本来、法律は、多様な人材から判事を選ぶつもりでいたのですけれども、それが長年の間にほとんど判事補から採用されるようになり、また、判事補は、判事になるときに任命拒否というようなこともなくて、ほとんど判事に任命されるということになっていったのです。

【鳥居委員】裁判所法は未だに、多様な給源を想定しているという点では、全員理解は一致しているのですね。

【竹下会長代理】そうです。

【佐藤会長】実際の運用に何らかの問題があるという点についても、皆さん、いろいろ伺っていますと、大体共通の理解があるのではないでしょうか。

【中坊委員】私、今度は体験的なことを、私の個人の体験ではなく、体験というと声が大きくなって恐縮ですから。非常に個人的なことですけれども、私の父親が弁護士をいたしておりました。終戦直後の弁護士の姿というのは、ちょうど昭和25年、私自身が京都大学に入った年に、親父が京都弁護士会の会長になった年ぐらいでして、京都弁護士会の人たちの有り様、そして私が昭和32年に大阪で弁護士をやっていますから、その当時はまだ戦後の任官された方、いわゆる今の言う弁護士任官をされた方、裁判官になられた方、中には検事になった人もおるんです。そういう人たちがおられまして、中には五鬼上さんという有名な方なんですけれども、弁護士から最高裁の事務総長になり、最高裁判事になられておられまして、それがたまたま私のイソ弁に行ったところの先生と親友でして、いわゆる弁護士任官をした裁判官、裁判官としては一番偉かったと思うけれども、弁護士任官になった人が最高裁の事務総長の時代があったんです。そういう方々のお話は聞いております。それでまた、弁護士任官をして、お辞めになって弁護士にお戻りになった方等の話、あるいは検事になってまた戻って来られた方、私、自分の身辺に多く知っています。

 率直に言って、今度は裁判所の弁明というわけではないけれども、少なくとも裁判官になった人は、たしか弁護士任官した人であっても、ほとんどすべての方が、裁判所というのは、中坊さん、あんたが言うみたいにガチガチではない。もっとフランクなところだと。そんなにきつく一々統制しているとか、そういうものではないと、その人たちは大体異口同音に言われます。私が知った先輩の先生方も、それからまた弁護士任官をした人も、確かに裁判所というところは、私はぼろくそに言っていますけれども、中坊さん、あなたは裁判官になっていないけれども、裁判所というのはそうだということです。その意味ではほとんど一致しています。決して、裁判官に言ったらこっぴどくやられたということは余り言いません。

 それから、位も中には弁護士任官で行って事務総長になった人、あるいは所長になった人もいる。だから、終戦直後は、うちの親父と同年輩、あるいはちょっと下ぐらいのところで、かなりの数多くの人が裁判官になったり、あるいは中には検事になった人もおるんです。その人たちは立身出世の街道において差別されたかといったら、そうではないです。むしろ、私に言わせたら、この程度であんなに偉くなれるのかなと思うぐらいの人が多い。私は辞めた人を見ていますから。首かしげるぐらいの人で、裁判所は弁護士任官した人を差別するどころか、逆差別といったらおかしいぐらい優遇して処理してくれたと思います。にもかかわらず、裁判官にも検事にも終戦直後の一時期、人数をお調べいただいたらすぐ分かると思いますけれども、一時期は多かったけれども、かなり急激に、アメリカが言ってきたときにはバーッと行ったけれども、それはすぐ衰えてきているんです。

 なぜ衰えてくるのかということが基本的に問題なんです。それは先ほどまさに矢口さんが言われたように、高裁に行くのは判決書だけが行くわけでしょう。判決書の善し悪しというのは、上から見たらすぐ分かるんです。そうすると、やはり頭が雑とか、人間的にはよくても、その意味でどこぞ心にハンディを背負われて、そうすると子飼いの方がその意味での訓練はやってくるでしょう。そうすると裁判官の中の競争社会があって、その人自身は位はちゃんと上に上げてもらっているんだけれども、後継者にいきましょうかと言ったら、やはりいかん方がいいよ、あの国はちょっと違う国だということになるんです。それが、結果的にそういう制度になってきた。だから、私は先ほどから言っているように、裁判官の在り方というのは、判決書の在り方、訴訟指揮の在り方、すべてがみんな変わってこないと、実は裁判官も変わらないわけです。今先ほど言われるように、竹下さんも関係者だし、藤田さんの言われたように新民訴にしましたでしょう。判決書も新様式判決になったでしょう。新様式の判決になって書きやすくなったかといったら、当事者が納得しやすくなったかといったら、僕は少なくとも判決を受けて、いい判決になったとは思えない。というのは、むしろ前よりも悪いぐらいで、裁判所が勝手に自分で一つの筋書きをおつくりになるわけです。さっき僕が言ったでしょう、予断のおそれがあると。それと同じように、争点はこれとこれとこれやと。違うでしょう、ここにあるでしょうと言っても、それは全然通らないです。新様式判決ではね。そういうふうにポンポンと来るでしょう。

 「法曹一元」という言葉はよくないけれども、そういうものが根本的に入れ替わっていかないとだめでしょうと言っているのは、裁判官全部に、裁判官の本質は何であるのかということを考えていただいて、当事者をどうしたら納得させ得るかということについての腐心をされたり、そこをお考えいただくことになってこないと、いわゆる当事者を納得させることにはなかなかならない。

 その意味では、裁判官がいかようにあるかということは、まず判決書も変わるし、訴訟構造も変わってくるし、やはり裁判官の意識そのものがそういうことになってこないといけない。僕は最初から声が大きくなっていますけれども、そういうことでは、確かに私は被害者意識が多いんだと思います。言っては悪いけれども、私はやり返していますから。おとなしく黙っていないから、いつもやっていますけれども、やって後悔しています。やって余りいい結果が出てこないんです。裁判官に抵抗すると必ずというぐらい判決は負けます。そういうことの積み重ねの中で私の性格ができてきているから、その意味ではちょっと被害者意識が強いと思いますけれども、公平に見たとしても、裁判官がいかようにあるかということは、先ほどから私がるる言っているように、本当に全部が変わるんです。

【佐藤会長】今、判決書云々というお話がありましたけれども、皆さんにはそこはちょっと分かりにくいのではないかと思いますので、どなたか御説明願えませんか。

【竹下会長代理】藤田委員が東京地裁の所長代行の時に始められた工夫なのです。それまでの判決書というのは、まず、事実という欄に当事者の原告がどういう事実を主張した、被告側がどういう事実を主張したということを、ざあっと書きまして、理由という欄で、初めて裁判官としてはどういう事実を認定し、法律を適用してどうなるということを、時系列的に時間の順序に従ってずっと並べて書くような判決だったのです。それをそうではなくて、訴訟の審理も両方の当事者がどこを中心に争っているのかを確定する争点整理というものをやりまして、その争点についての判断を中心に判決も書く。当事者が争っていることについて、裁判所として十分納得してもらえるような判決書きができるだろうというので始められたのです。先ほど中坊先生が言っておられるのは、恐らく争点整理のところで、当事者が本当に争点だと思っているところと、裁判所が争点だと思ったところに食い違いがあった例だと思うのです。それは判決書の書き方が悪いというよりも、その前に審理をするときに、当事者双方の言い分を十分聞いていなかった例なのではないかと思います。

【中坊委員】竹下さんのおっしゃっているとおりで、今の新様式判決になってくると争点がここだと書いてあるんです。その争点だと書いてあって、それに対して判断をしたんだけれども、その争点の設定そのものが当事者にとっては違うという違和感を持つことが多いということを私は言っているんです。

 ちょっとだけ話、私の個人の経験ではなくて一般論で言うのだけれども、世の中でかつて名判決であるというもの、これは刑事の判決でしたけれども、ちょっと忘れましたけれども、四日市かなんかの裁判官なんです。終戦直後の判決でしたけれども、刑事の裁判で、中坊さん、いわゆるこれが世に言う名判決ですということを人に言われて、わざわざ取り寄せて読んだことがあるんです。それは読んでみて、文章がそれほど長いものではないんです。ところが、まさに私もなるほどな、これは名判決やなと。言っては悪いけれども、余り偉くなっていないと思います。支部と言ったらすごく悪いかもしれませんけれども、どこかの支部の裁判官が言い渡した判決なんです。それが恐ろしいのは、Aという証拠とBという証拠から、甲という事実が一応認定されると、まず書いてあるんです。僕が読んでいるのは判決書だけですよ。ところが、その人は、Aという証拠から甲という事実が認定できるからといって、見方によっては、同じAとBによっても、甲以外の乙という結論にも考えられますねと、その判決の中に書いてあるんです。そう見たらそうだな、そういう見方もできるなと思うでしょう。そうすると、今度は、実はCという証拠があったんです。今度Cをあわせると、実は一番最初に言った甲という事実を認定するのが素直なんです。そういう論理の運び方なんです。これは当事者を納得させます。というのは、僕が思いつかない、なるほど言われてみたらそうだなと気がつくんです。そういうところを判決書に書いてあるんです。それで、なおかつ余り長くないんです。

 だから、なるほど名判決というのはこんな判決を言うんだなと思いました。そういう判決をしてやれれば、なるほど当事者はみんな納得する。納得させるという能力というのは、かなり高度のものが要ります。やはり頭の良さも要るだろうし、そういう人の審理もにらんでいなければいけないし、非常に難しいけれども、確かに名判決だと、私は人から聞い て、その判決書を取り寄せて見たことがあるんですけれども、そういう感じはしました。

【鳥居委員】今のお話を伺ってみると、やはり裁かれる立場ということにかかわる幾つかの、あえて「論争」という言葉を使いますけれども、裁かれる立場論争と判事補問題論争と先ほどあったのですけれども、もう一つ、実は裁判の在り方論争というのが、今議論の中に出ているように思うのです。その最後に出てきた裁判の在り方論争というのは、どのぐらいの量か分かりませんけれども、少なくとも半分以上はロースクールで、改めてこれから教育の段階でケースメソッドとかなんとかいう形で、AとBの証拠だけではなくて、Cもつけてみよう、あるいはDもつけてみようというような思考様式を教えるというところから入るしかないんだと思うのです。したがって、未来に向けてはそうなんだけれども、中坊先生が主張しておられるのは、AとBのほかにCもつけてみよう、そうしたら結論は乙ではなくて甲だという、その話を今判事補から上がってきた人たちの思考様式だけに、今100%任せるわけにはいかんだろう。だから、弁護士の中からもうちょっと入っていけるようにしろと言っておられるわけですか。

【中坊委員】そういうことではないです。私は裁かれる立場でないと分からないということを言っているので、確かにロースクールはこの間から10人に1人ぐらいの割合で先生がつかなければいけない。マンツーマンだなということになっているでしょう。僕はそのとおりだと思っているんです。あそこから物事を教えていかないと、ロースクールから人間を育てていかないと、今言うように裁かれる立場だけ経験したら金科玉条みたいによくなるというものではなしに、イロハのイのところから直していかないとそれはできないです。その訓練というのは相当程度訓練をして、なるほどこうも見られるのか、ああも見られるのかということを、そのためには一般経験法則がいっぱい要るわけです。AとBからは甲と乙しか浮かばないという人ではなしに、Aという証拠から甲と乙と丙と三つも出せるという力を、ロースクールではぜひつけていただきたいと思います。そういう力のある人が言ってこそ、初めてなるほどと人を納得させる力になるのだから、ロースクールというのは、いかようにあれ、そういうような形にならないと、本当の意味における、よき法曹というのを選び出そうと思うと、そこの訓練だと思います。

【鳥居委員】少し頭を休めるために、ケースメソッドの話をします。アメリカのビジネススクールというのはそれをやってきたのです。いろんなケースを用意してある学校がいい学校だというのです。証拠A、B、C、D、そして結論は甲、乙、丙、丁。それを用意したわけです。最近、みんな若い人たちの頭がよくなって、それを全部先読みするようになったのです。先読みが終わると、ハーバード・ビジネススクールなんか、学生が途中でやめちゃうのです。月謝をおしまいまで払うのはもったいないから、もう分かったと、やめて商売を始めちゃうわけです。本当に必要なのは違います。ケースを形式的に用意するのは、幾ら用意したって、結局、頭のいいやつは暗記しておしまいになっちゃうのです。まさに中坊先生がおっしゃっているような生きた話を一つずつ、例えば、中坊先生が先生になってやるというような学校がいっぱい増えたら、うちで招聘してもいいですけれども、そういう学校がたくさんできることしか解決はないのでしょうね。

【中坊委員】さっきから言うように、一番の基礎はロースクールから固めていかないと、確かにおっしゃっているようにならないけれども、しかし、先ほどから言っているように、答えがA、B、Cだったら、甲と乙と丙しか出てこないよという訓練を教えてしまったらいけない。私は「現場に神宿る」と言っていますけれども、確かに現場を体験する中において、こういうことはしばしばあるんです。それは僕でも、裁判官に、そんなことぐらいだったら分かると思うことを全然違うことがしばしばあって、分かりましたかと裁判官に言わなければならないことを、何回か経験しています。何もその裁判官は悪意はないんです。悪意はないけれども、裁判官に僕が、そんなにおっしゃるなら、裁判官、自分でその方針で一遍和解を進めてみなさい、恐らくできませんよと言うでしょう。中坊さん、そんなことはありませんと。結果、分かりましたかと。高裁の裁判長以下、私、何遍か教えてあげた。あんたはやはり世の中を分かっていないということが分かりましたかと、私は教えてあげたことが何回かあるんです。だから、それは現場を体験してきて、この顔はうその顔なのか本当の顔なのか。それは体験しないといけない。裁判所に来て、法廷で見せる顔というのは、みんな依頼者の本当の顔ではないんですから、そこを体験しなきゃいけない。

【佐藤会長】大分激しい議論をしてお疲れだと思いますので、ここでちょっと早いのですけれども、20分休憩にしたいと思います。35分に再開させていただきます。

(休憩)

【佐藤会長】それでは35分を少しオーバーしてしまいましたけれども、再開させていただきたいと思います。

 ほかの点についての御発言を封ずるわけでは決してありませんが、任用のところとか、人事の透明性、客観性の確保のあたりについて、少し御議論いただいた方がありがたいのですけれども、いかがでしょうか。

【中坊委員】私、しゃべってばかりで申しわけないんですけれども、任用のところですが、一つのアイディアは、私、正確に戦前のことはよく知らないけれども、戦前は控訴院人事とかいって、転勤といっても、沖縄から青森に行くというような転勤ではなしに、東北は東北で大体人事をされていたらしいんです。どの裁判官がよいか、適任かどうかというのを全部最高裁にまとめると、そこで問題が起きてくるんじゃないか。裁判官が1か所にずっと永久におるというのは問題でしょうから、そういう意味では、地方分権というのが選任についての一つのアイディアじゃないかという気はするんです。控訴院人事とかいって、戦前はそうだったらしいんです。今でもどっちかといったら、自分は大阪管内にいたい、大阪にいさせてもらえるのかどうか知らないけれども、福岡なら福岡にいたいと言ったら大体福岡にいられるらしいんです。

【佐藤会長】九州に実情視察に行ったときに、九州のブロックと言っていいのかどうか知りませんが、その中で仕事をする裁判官が多いというような話を聞いたような気がしますけれども、藤田委員、その辺について詳しいと思いますが、どうなんですか。

【藤田委員】戦前は四国モンロー主義とか、九州モンロー主義とかいって、よそ者排除というようなのもないわけでもなかったみたいなのです。ですから、よそ者が行くと担当したい事務を担当させてもらえないとか、私なんかが任官したときに、四国に赴任した同期の者はそんなことを言っていましたけれども、私、九州の小倉と鹿児島と両方行っているのですが、昔は台湾とか朝鮮とかで判事をやっていた方が引き上げてきているのですが、郷里に居着いてと言ってはなんですけれども、そこから動きたくないということで、ずっと同じところにいらっしゃるという方が結構おりまして、そういうことで賄っていたという面もないわけじゃないんです。しかし、そういう方たちがみんな退官されると、結局、地方の支部で同じようなレベルに保つためには、転勤という形で支えていかなければならないということで、広域人事になってきているのではないでしょうか。

【中坊委員】一種の誓約書みたいなものを入れるんですか。例えば、東京へ行ったら3年間は居させてもらうけれども、そこから先は言われるところに行きますとか、そういうのはあるんじゃないですか。

【藤田委員】今はどうなっているか知りませんが、転官・転所はその意に反してできませんから、そういうことは一種のジェントルメンズ・アグリーメントなのです。例えば、東京に入ったら、もうずっと動きたくないという人はいるわけですけれども、それをやると、先ほどの支部やなんかで勤務した人が帰ってきて入れないということになるので、3年なり4年経ったら転勤いたしますという書面をとっていた時代はありましたね。それは法的なものというよりもジェントルメンズ・アグリーメントなのです。

【井上委員】ある程度の年齢になって、子どもさんが大きくなったりすると、関東なら関東の範囲にとどまるとか、そう大きくは動かないような感じも持っているんですけれども、そうでもないんですか。

【藤田委員】そういうことはありません。私も最後の最後まで歩き回っておりましたから、全国股旅物語でありまして、家内なんかは親孝行ができなかったと言っております。ほかにも親の死に目に会えなかったとか、地方勤務にはいろんなつらい面もあります。東北地方などでは、方言のきついところでは、小学生の子どもがなかなか溶け込めないで苦労するということもあります。私が広島にいたときに、弁護士から任官した裁判官が広島に来たのです。広島高裁で仕事をして、なかなかいい裁判官だったのですけれども、やはり子どもの学校の切れ目のときじゃないと転校できないからということで、最初は単身で来まして、1年経って奥さんと子どもを呼び寄せたのです。ところが、広島はそんなに方言はきついところじゃないのですけれども、子どもさんが学校に溶け込めないで、半年ぐらいで奥さんと子どもをもとに戻しまして、それでまた単身赴任生活に戻ったというようなこともありました。最近は、教育の関係が非常にシビアなものですから、昔は裁判長ぐらいになってから単身ということだったのですけれども、今は右陪席クラスの30代の人が、そういう人たちですから、へんぴなところにしか家を建てられないのですけれども、そこに家を建てて女房、子どもを置いて、お父さんいってらっしゃいというようなのが増えてきまして、札幌へ公聴会で行ったときに札幌の裁判所には東京に家族を置いて単身という人がかなりいました。検事もそうじゃないですか。

【水原委員】そうですね。大体同じようなことです。

【中坊委員】竹下さん、今度は逆に弁護士任官する人は、みんなそういうふうにして小さな支部をみんな嫌がっていると、だから、自分は支部の裁判官を、へんぴなところを好むんだという人もおるんです。逆に、本庁に弁護士任官になったら怒って。裁判所の言うのももっともなんです。そんな単純なことがなかなか分かってくれなくて、何で俺をそこへやるんだと言って。支部と言っても一つの庁みたいなものでしょう。司法行政とかいろんなものが入ってくるんです。そうすると、本庁で見習ってくれないと、最初から行って大将ではいけないんじゃないか。その単純なことを、そのAという弁護士に分からすのに、おまえ、そんなことを言うけどと言って、やっと納得してもらったこともあるんです。そいつは念願かなって、定年になるときは、ずっと支部の裁判官を何か所かして、支部はいいんだ、支部というのは支部なりにいいところがあるんだと言って、そういう人もおるんです。

【竹下会長代理】御苦労なされたのですね。

【中坊委員】最初、僕は裁判所との間の取り次ぎみたいなことをしたが、本人はなかなか納得しないんです。

【藤田委員】そういう人がたくさんいると助かるのですけれども、ただ、あそこに行きたいというのは、特に因縁があるところに行きたいということじゃなかったのですか。

【中坊委員】なかった。

【藤田委員】田舎ならどこでもいいわけですか。

【中坊委員】そうそう、支部だったらどこでもいいんです。だから、彼はずっと10年間ぐらいあっちこっちの支部の裁判官ばかり。

【佐藤会長】中坊委員のお話だと、高裁単位ぐらいのブロックで考えたらどうかということですか。

【中坊委員】そうそう、高裁の範囲ぐらいならね。高裁ぐらいなら、この人はこういう人だというのは、大体ある程度分かるんじゃないかという気もするんです。僕は、近畿の弁護士なら、大体あいつはよくできるぞとか、できないというのはある程度分かります。だけれども、東京に来たら全然分かりません。だから、やはり支部の単位ぐらいが一つの目の見える範囲というような気がするんです。

【藤田委員】ただ、東京高裁管内にも佐渡ヶ島がありますしね。

【中坊委員】東京はべらぼうに大きい。

【藤田委員】九州でも石垣、宮古があるし、私は東北にいましたけれども、南三陸の宮古、釜石、大船渡というのは陸の孤島と言われるようなところですから、大船渡は盛岡の管内なのですが、盛岡から行くと大変な時間がかかるので、仙台の気仙沼から県境を越えて裁判官が行っているのです。たしか久慈も同じだったと思いますけれども、青森の管内から盛岡管内に行っている。そういうようなところがあるのです。ですから、東京とか、横浜、千葉、浦和とか県庁所在地ぐらいならいいとして、そういうところにも裁判官を配置しなきゃなりませんから、高裁管内でということだけでは解決しないのではないですか。

【中坊委員】僕の言うのは高裁管内だったら、例えば、この人は気仙沼にいても気仙沼におる藤田さんはこういう人だと、宮古島にいる水原さんはこういう人だというのが大体分かるのと違いますかと言っているんです。この審議会に来ない前だったら、水原さんと僕らでも全然御縁ないものね。

【水原委員】そうですね。

【中坊委員】人に聞く中坊さんと、こうして目で見る中坊さんは違うでしょう。

【水原委員】大分違いましたね。

【藤田委員】やはり部総括から、所長、長官というように積み上げて見ていくわけですから。会社や官庁でも第一次評定者、第二次評定者、さらに総合調整する人とか、階層的に評定していくわけですけれども、そういう面で見ると、矢口さんもこの間の中坊さんとの対談でおっしゃっていましたけれども、裁判官の人柄や能力というのは仲間うちでは分かっている。単独事件の裁判というのはごまかしようがないですから。私は、行政庁にも5年いましたし、それから労働事件を労働委員会でやっていますから、整理解雇で勤務成績どうこうというような事件もやっていますけれども、裁判官の意欲、能力の評定というのは、そういう意味では、一番客観的にできる部類じゃないかと思うのです。だから、高裁管内でなければ、そういうある程度正確な評定ができないということはないのではないでしょうか。

【中坊委員】髙木さんが最高裁に問い合わせたのと違うんですか。この間、人事の在り方がどうのこうので。

【髙木委員】回答はありました。

【佐藤会長】今、高裁単位のブロックでというような話がありましたけれども、選任のところでこういう工夫をすべきだとか、髙木委員も何かちょっとおしゃったような気もするのですけれども。

【髙木委員】先ほど言ったことと重複しますが、特に評価の問題は、これはどんな世界でも時代の要請もこれあり、どういう物差しで、どう評価されたんだというのを御本人に諮り、それに対して、この評価はちょっと違うのではないのというふうに感じたら、それはやはりキャッチボールをする機会が与えられ、人が人を評価する話ですから、そういうことをやったからといって100%の納得が得られる得られないはあるわけですが、率直に言うと、5月にいただいたペーパーと8月4日にいただいたペーパーを比べ読んでみると、言っておられることが余りにも違うのです。そういうことがあると、大方のところは御苦労してやっておられるんだろうと思うのですが、一事が万事こういうことじゃないのということになってしまいかねない。そういう意味では、評価の問題が結果的に昇進、昇格、あるいは異動にもかかわっているとしたら、大体世間でこれぐらいは常識でやっておりますよという常識くらいはフォローしていただく必要があると思います。

 これは8月4日に最高裁からいただいたペーパーに中坊さんのことが書いてありましたが、仲間うちの評価というのは意外と正確なんだというようなことで、僕はこれを読んで、どういう文脈で仲間うちの評価という言葉をお使いになるかで大部意味が違うんだろうと思いますけれども、仲間うちの評価の怖いのは、例えば、5年前にあの人にこういうことがあったという記憶が仲間うちにある。仲間うちというのは、どれぐらいの仲間うちなのか分かりませんが、そういう過去のある出来事で、それが一事が万事であるようにレッテルを張ってしまう。そういう出来事があって、それが余りよくないことならば、それを直す努力を当然御本人はされる。だから、ある対象となる評価の期間は期間で評価をし、仲間うちの評価というのは、往々にしてかつてこういうことがあった、あるいは、あの人はこういう人だということで、ある時期の人物について、あるいは仕事ぶりについて評価をすると、それをずっと引っ張る傾向があるのです。ですから、これは山本さん、何と言ったんですか、人事考課のハロー効果ですか。そんな面も含めて一遍評価の体系をどうされるのか。できたら余り密室ではなくて、透明になるようなものにする必要があると思います。

 それからもう一つは、これは背景が違うんだということかもしれませんが、ヨーロッパの例をいろいろとお聞きすると、余り賃金に階段がないのです。今お聞きすると、日本には23段プラスアルファで判事補なんかの給与の段差がある。段差を上がる度に、あるところまでは機械的に年数でいく。だけれども、あるところからは当然評価とかかわって、その評価なるものが、機嫌よく異動して歩いた人は点数がいいとか、その実態はよく知りませんけれども、そんなことも含めて余り段差のない、もちろん、あるレベルというか、その高さの問題はかなりのことになっているとお聞きしますので、少なくとも乗り移るときには、ある意味でのマイナスがないように工夫することは幾らでもできると思います。

 それから中坊さんが言われたように、例えば私どもの関係でも、こういう仕組みは馴染むかどうか分かりませんが、若干の選択制みたいなものがあって、私はナショナルで全国どこへ転勤してもいいです、私はリージョナルですと。その代わりリージョナルだという人は、ナショナルの一番トップはこういうレベルに達するけれども、リージョナルのトップはこれぐらいにしかならないよというような、その辺に差がつくのは裁判官の場合、多分よくないんだろうと思いますが、そういうような仕組みをやっているところもあったりします。いずれにしても、各論はともかくとしまして、すべてに透明性をということじゃないかと思います。

【中坊委員】私たち弁護士の立場から見ると、裁判官が立身出世ということに関して、どうしても人間誰でもそうなるんでしょうけれども、そばから見たら、ほんのわずかなことだと思うのに、1号給違うとか、あれだとか、こうだとかということに非常に関心が出てきて、そういう形が裁判官に色濃く出ているという姿を、こういう一つの職業の中にあっては非常に困ったことだなと思います。しかし、月給がちょっと違う、あるいは階級が違う。先ほど言うように私、警察刷新会議に出ていましたが、あそこは階級制があります。普通の課長とか、所長とか以外に警部補とか、警部というのがあるでしょう。そんなのは全く僕らは想像もつかないんだけれども、普通の平の警察官にすると、警視正という役があるでしょう。ああいうのでも警視正(けいしまさ)と呼ぶんだそうです。そうすると、自分のところの署の署長は警視正だ。そうすると、そこに勤務している人が、自分は違うんです、警視正ではないんですけれども、警視正(けいしまさ)のところにおる警察官というだけで、現実の姿はほかの警察署よりも差別を持つらしいんです。警視正(けいしせい)のことを警視正(けいしまさ)というんです。自分は違うんです。俺のところの署長は警視正(けいしまさ)やと。だから、俺も違うんだと。人間というのは、そういう階級だとか、直接自分に関係のないようなことまで現実にそういうことが左右しているんです。だから、おっしゃるように裁判官というものは、そういうものについて極度に配慮していただかないと、どうしても上を向いてという姿勢の、上を向いての目というのはそういうことから向いてくるので、そういう意味におけるところは非常に重要じゃないかという気はします。

【佐藤会長】それと、吉岡委員が昨日おっしゃった転勤の問題ですね。あれは、全国できるだけ同じような質の裁判的なサービスという観点からの問題と関係しているんでしょうけれども、何か工夫の余地がないのか。東京の公聴会のときも、転勤の問題性について医療過誤訴訟関係の人が言っておられましたね。

【吉岡委員】国民の立場で、裁判を利用する立場で言いますと、途中段階で裁判官がクルクル替わるというのは非常に無駄が多いと思うんです。今までやってきたことが正確に伝わっていないのではないかという不安がどうしても残ります。それから最終的に判断を出す裁判官がどこで来るかというところでも違ってくる。そういう意味から言うと、一つは裁判期間をそんなに何年も何年もかからないようにするという迅速性の問題、あるいは集中審理、そういう問題も併せて考えなければいけないと思います。ただ、ものによっては平均の9.3か月ですか、そんなふうにはなかなかいかないと思うのです。その場合に、やはり十分に審議をしなければいけないという側面もありますから、そこのところも考えて、一つの裁判の間に7年間で5人も替わるとか、そういうようなことはないようにしないと困るのではないかと思います。ただ、裁判官の事情から言えば、そんなことを言っても、事件というのは一斉に始まって一斉に終わるわけではないから、どこかではそうなってくるという反論もあろうかと思います。そういう意味から、全国あちこちを回るということになると、そこから出張してきてやるとか、そういうことができなくなりますね。ですから、何か実現可能な範囲で動くとか、そういうようなことで配慮できないものかなと思います。そうかといって、一生転勤しないというのも、これも困ると思いますので、そこは絶対一つの裁判所に一生いなければいけないというところまでは申し上げるつもりはないのです。転勤については、そういうことで何か工夫の余地があるのではないかと思っております。国民が納得できることが必要だと思います。それから、引き継ぎが、心証などを引き継いではいけないというルールになっているのかどうなのか分かりませんけど、文書だけ、証拠書類だけが引き継がれた場合に、十分には伝わらないことがあると感じています。

 それから、選任方法についても、先ほども国民参加のということを申し上げました。国民参加というのは、最高裁の国民審査のように国民一人一人が参加するということではなくて、選ばれた国民の代表と言える、私、「国民」という言葉を使ってはいけないのではないかと思っているのです。日本の国に住んでいる人には、日本国籍のない人もかなりおります。そこへの配慮もしなければいけないと思いますが、とりあえず、国民ということで申し上げているのですけれど、みんながこの人だったら納得できるような人が推薦者に選ばれるという、そういうことでもいいと思いますが、選任方法というのは、別に選任委員会とかそういうものがあって、その中には司法関係者だけではなくて、国民を代表する人も入って選ぶということが大切だと思います。

 それから、どうやって選ばれても、やはり選ばれた人からすれば、納得いかないということが、人間ですから当然あると思います。評価の面も含めて、どうして自分が選ばれなかったのか、選ばれたのか、そういうことが分かるような透明性を確保するということが必要ですし、透明性と同時に客観性、それからアカウンタビリティー、そういうことが求められるのではないかと考えています。

【佐藤会長】アメリカ視察に行きましたとき、州の場合ですが、知事が任命するという場合にも、推薦委員会みたいなものをつくってやるところが多いという話でしたし、ヨーロッパの方ですけれども、ドイツ、フランスなんかでも選任について憲法上何かをつくっているみたいですね。

【竹下会長代理】そうですね。

【佐藤会長】日本の場合は、下級裁判所の裁判官についてですが、最高裁が指名した者の名簿によってとなっていますから、それを前提にしなければなりませんが、その名簿作成の過程に工夫の余地があるという話ですね。

【吉岡委員】最高裁の指名といっても、最高裁が末端の裁判官一人一人まで分かるというのは無理だと思うのです。やはり地域で、あるいは同じ職場で評価されるなどの報告がきて、それで最高裁が決めるということでないと実務的にはできないと思うのですが、いかにして客観性を持たせるかということが大切で、例えば、ABAみたいな法曹協会といったらいいのですか、そういう組織が日本にあれば、そういう組織が推薦メンバーに入るとか、そういうことも考えられると思いますが、日本の場合には、アメリカのABAに相当するような組織というのは、女性の中では女性法律家協会というのがあるんですね。ですから、もしかしたら女性法律家協会から出したらいいのかもしれませんね。やはりそういう客観性が必要です。とりあえずは、弁護士会ということになるのかもしれないのですけれど、私はもうちょっと違う組織から出た方がいいと思っています。

【中坊委員】先ほどの図表で言いましたように、結局、裁判官の選任そのものに民主的なコントロールができているというのは、内閣の任命ということでやっておって、今度は内閣が政治的に動いて困るということで、指名という制度になっていると思うんです。ところが事実上、今日現在のところは、内閣が任命というのは全く形だけになっておって、最高裁が指名した名簿ということになっている。その最高裁の指名した名簿というのは、現実に最高裁の事務総局だけでつくられている。そこに問題があって、最高裁のつくる、指名する名簿そのものに問題があるので、先ほどから言われているような一つの客観的な推薦制度があって、どういう過程で選任したかとか、そういうことがある程度明確に透明性が出て、そしてまた民主的な意思が、コントロールができているということが分かってくるという過程が一つは必要じゃないか。事務総局が指名する、最終的には最高裁裁判官会議で決めるんでしょうけれども、その指名する過程が推薦制度というものがあって指名する。それが先ほど言うように、場合によったら地方分権という形の中で、そういう指名のための推薦委員会というものも複数存在して、それが民意を事実上反映している。先ほどおっしゃるように知事さんとか、そういうような方も参加してくるとか、そういうようなことにして、本当に民意を反映している、司法という一つの三角形がちゃんと国民の上に乗っかっているというところを明らかにする制度も必要じゃないか。そういうような気がします。

【佐藤会長】司会者が余りしゃべりすぎてもとは思いますが、先ほど、今のままでは弁護士から裁判官になる人が少ないのではないかという議論でしたけれども、理論的には希望者がたくさんあって、その中からセレクションしなければいけないということもあり得るわけですね。そうすると、たくさんの希望者の中からどういう形でセレクションするのか、どういうふうに決めるのかという問題だって理論的にはあり得るわけですね。

【井上委員】今、主としては判事の選任のことをお話になっているのですか。幾つかの段階があるので、どこを議論しているのかちょっと分からなくなったのですが。

【佐藤会長】判事選任にかかわる名簿作成についてのことです。

 先ほど来、藤田委員が手を挙げておられましたが。

【藤田委員】裁判官が交替するということは、それは事件の処理の面ではマイナスでありまして、転勤していくときに200件か300件ぐらいの事件を置いていくわけで、それを全部片づけてから転勤というわけにはいきませんから、ある意味では後ろ髪を引かれる思いで置いていく。また、転勤先へ行くと、それまでの証拠調べにタッチしていない事件を記録を読んで判決しなきゃならんということです。確かに最初から最後まで自分が主張整理なり証拠調べなり、全部やった事件は、記録をそんなに一字一句追わなくたって分かっていますから、そういう意味ではビビッドな判決ができるわけですけれども、転勤を不可避な制度として考えると、そういうこともやむを得ないということになります。

 特別な事件の場合には、特別な部をつくって、その事件に何年も専従して、最終処理までやるというようなことをする事件もありますけれども、すべての事件でそれをやるわけにはいかない。なぜ転勤が不可避かといえば、先ほど言ったとおり、地方でも同じようなレベルの司法を維持しなきゃならないということです。それから私の経験からしましても、3年もある土地で仕事をやっていますと、街で会ったときにハッと目をそらす人がいるのです。当事者なのですけれども、もちろん一人一人覚えていませんから、はて誰だったかな、勝たした人か負かした人かということになる。それから自分の知っている人が事件の関係人として出てくる。この間、酒田に行ったときに、酒田の支部長が、自分の家の近くの人が事件の関係人として出てきて困ったというようなことを言っていましたけれども、そういう点から言うと、3年か4年で転勤するというのは、街が狭くなってきたときに、転勤するという意味で考えられたのかなという気もするのですが、そういうことがございます。

 それで、引き継ぎのときにどうするかというお話が吉岡さんからありましたけれども、事件について何百件と持っていますと、全部隅から隅まで覚えているわけにいきませんから、その骨格についてのメモをつくります。それを引き継ぐ。それは人によって精粗の差はありますけれども、その事件について、こういうような見方をしていたというようなことを引き継ぐということもございます。後任としても、それを鵜呑みにはできないので、もう一遍自分の目で見直すわけですけれども。

 それから選任についての国民の関与という点ですが、これも民主司法という視点では分かるのですけれども、こういうように価値観が多様化して、例えば、髙木さんなんか労働事件に大変御関心がおありだと思うのですけれども、労働者側の視点と使用者側の視点とは先鋭な対立があるわけで、片方から評価されるのは片方から非難されるということになります。それから、公害問題でも、企業と住民、消費者問題でも、企業と消費者の対立ということがありますし、知事も公的な性格ではありますけれども、今ほとんどの裁判所では住民訴訟や情報公開に関する訴訟が係属していますから、県知事は被告の立場に立っているわけで、そういう点もあって、難点のない国民の参加というのは、かなり工夫が必要じゃないかというふうに思います。

 裁判官の評価は、先ほど申し上げましたけれども、部総括が一番の中心でありまして、合議体で部総括が裁判長を勤めて、陪席裁判官と一緒に仕事をしているわけです。それから右陪席の判事か特例判事補は単独の事件を持ちますから、その事件の審理とか、判決とかは、部総括も一応は知っているので、そういう意味で一番よく分かっているのは部総括なのです。行政庁や会社だと、例えば、部下に優秀な人がいれば、組織として仕事をしますから業績は上がる。そうすると、そのリーダーの功績なのか、その中に有能な人がいて、その人がうまくやったから成績が上げられたのかという判定はなかなか難しい面があると思うのですが、裁判官というのは、単独の判決で見ると、これははっきり客観的に分かる。矢口さんが仲間うちで分かっているという言い方をしたのはそういうことでありまして、同じ裁判所の中での風評みたいなものをおっしゃっているわけではないのです。

 それと、透明化、客観化の点ですが、透明化の点はおっしゃるとおりだと思いますが、これは陪席との関係では部総括がやっている。部総括がいろいろ陪席と話し合って、こういう点は考えた方がいいのではないかというようなことをやりますし、裁判長と私の反省点はどうなのでしょうかというようなことを話し合うこともあるわけです。毎日一緒に仕事をしているわけですからよく分かるのです。所長、長官は、部総括を通じて聞いている。

 私が地方で所長をしていたときに、異動に絡んで、どうして私はこういう評価をされなきゃならないのかということで話に来られた裁判官がいました。私のいた地方裁判所の支部から別の地方裁判所の支部へ異動ということで、多分その点が不満で、どうしてそういう異動をされるのか、評価が低いからじゃないかということで、抗議というほどではありませんけれども、フランクに聞かせてくださいとお出でになったので、私の話せる限りのことを話したということもございます。

【中坊委員】ただいまのおっしゃる一つの評価の問題に、部総括が総括する、それを所長が判断する。そこで欠落しているのは、裁かれた者は、この裁判官がよいとか、悪いとかという意見は、彼らの評価に今のところ全く反映するところはないわけです。弁護士から見て、この裁判官はよくないなと思ったって、それはいかなる意味でも反映しない。すべてが部総括、あるいは所長が判断するんだという体制になっているという問題点。これは一つの大きな問題点じゃないかという気がします。

【佐藤会長】石井委員が先ほど来、手を挙げておられたので。

【石井委員】先ほど吉岡さんのおっしゃるのは、全くそのとおりだと思っています。ユーザーの立場から見ても転勤は困るというのはよく分かることなのですが、それはそれとして、裁判官が替わって、かえって助かったというケースも結構あるのではないかと思います。恐らく人間のことですから、そういう方の話がなかなか出てこないので、それは替わった方が、いわゆる適当なローテーションを持った方がよいということもあり得ますから、必ずしも替わるのがいけないと余り決めつけてしまうのはどうかなと、そのような感じがいたします。吉岡さんの方で一般的にそういうことに対して困るという意見と、助かったという意見、どっちが多いか、もしお分かりだったら教えていただけたらと思います。何となく勘で結構です。

【吉岡委員】私がかかわる事例というのは、最終的には大体負ける裁判なのです。そうすると、負けたときは不満が残るというのは前にも出ていましたけれども、当然、結論として不満が残る。ですから、替わったということは不満につながるということにどうしてもなってしまう。消費者団体の問題というのは、そういうところにあるのかなと思います。そういう中で勝った裁判もあります。勝った裁判のときには、割合短期間で結論が出ているのですけれども、それは満足できるような判決だったのです。その判決は裁判官が替わらなかったということと、石井委員がおっしゃるように、その裁判官がちょうどいい裁判官だったという、替わらないでよかったという、そういう場合だったかもしれませんし、私はあの判決を得たというのは、むしろ世論の動きの方が影響したのではないかと思っています。具体的に言うと長くなるのであれですけれども、確かに当たり外れがありますね。

 それからもう一つ、裁かれた立場の意見が反映しないという、評価のところで中坊委員のお話があったのですけれども、たしかアメリカの今回の視察のときに、どこかで伺ったと思うのですけれども、評価をするときに、実際に裁判の判決を受けた勝った方の代理人、負けた方の代理人の意見を聞くという、そういう仕組みになっているところがありました。そういうことも非常に参考になるのではないかと思っています。

【石井委員】先ほどから評価のお話が出ていますが、世の中の常として、私なんかが感じるのは、私が見ている限り、能力のない人ほど自分が能力があると思っている人が多いということです。ですから、それを急にこららの方で決めつけるというのは非常に難しい問題だなと。それは感想として申し上げておきます。

【中坊委員】先ほどの転勤のことに関連して、これは民事訴訟法上そうなっていると思うんですけれども、裁判官が替わると弁論を更新しますかというのを必ずやっている。建前としては裁判官が替わったなら弁論を更新して、もう一遍証人調べもやろうと思ったらやれるんですけれども、こればかりは、さすがの弁護士も、もう一遍弁論更新ですかと言われて、僕みたいな人でも、40年ほど弁護士をやっておって1回でも言ったことはないです。はいと言います。だから、結局、弁論を更新しますかと任意で言っているけれども、弁論を更新しませんと言って証人調べをもう一遍要求する人は、中には千に一つぐらいはあるかもしれないけれども、まずはないんだと思います。私は40年間1回もないわけです。そうすると、建前としては、裁判官が替われば一から証人調べをやろうと思ったらやれるという建前にはなっておるんです。しかし、事実上それは空文化して、そんなもので反対なんて言うものなら、今度相手方の代理人からも、特殊な弁護士だなとなりますから、事実上弁論更新というのは、みんながしているというところに、今の言う転勤がもたらす、その途端に直接主義というのは消えちゃって、あと何ぼ手控えが残ったって何したって、あと調書を読むだけですから、直接主義というのがその時点でなくなるわけです。

 だから、そういう意味では、確かに裁判官の転勤というものが、訴訟上、一体どういう意味を持っているのかということはかなり重要なことで、今、石井さんのおっしゃるに転勤して助かったこともあるだろうと。これは確かに私もあります。しかし、考えてみたら、それはおかしなことであって、それが不服であれば上訴制度というのがちゃんとあるわけですから、それはやや邪道じゃないかという気がします。

【髙木委員】今、コピーしていただいて、皆さんのお手元にお届けいただいたのですが、先ほど私が申し上げた「法の支配」に出ておりました三好長官の原稿の添付資料としてついておりましたものでございます。私は組合だから、「労働組合を結成し又は加盟する権利はない」、この辺にちょっとイライラしますけれども、その右側の「いわば特別の地位を享受している裁判官が」の次に、かぎ括弧がついている。これはこの北京声明の第9条がかぎ括弧の中なのですが、これは前後が若干省略してありまして、9条というのは、「裁判官は、適用可能なすべての法律に従い、その利益を代表し」というふうになりまして、一番最後は「結成し又は参加する自由を有するべきである」と。「自由を有するべき」が最後についています。こういうことについて、確かにいろんなことがあったという御認識はあるのでしょうが、「政治的中立性に関する疑念を生じさせる危険を引き起こすおそれ」といって、ものすごく念の入った「疑念を生じさせる危険を引き起こすおそれ」、何重にもかぎがかかっている表現ですが、この見解を付して、この部分を留保して最高裁長官は、この声明に署名をされたということが書かれておりまして、そういう意味で、少なくともその利益を代表し、職業訓練を促進し、その他独立を守るために適切とみられる行動といったようなことまで政治的中立性に関する疑念云々ということでつくらせないと。これが今の最高裁を頂点とする裁判官の皆さんにいろんなものがかぶさっている、まさにその象徴的じゃないかと、そんなふうに読めたものですから、こんなふうに配らせていただいたんです。

 もちろん労働組合を結成しというか、ドイツの裁判官の皆さんは労働組合員に入っている人も約1,000名おられると聞いておりますが、それはそれぞれのお国柄ですから。私に労働組合をつくりに来いと言ったら、いつでも行きますけれども、そんなわけにはいかないでしょう。ただ、報酬及び身分というか、職務執行の独立性が憲法に強く保障されているというのですが、確かに報酬のことは憲法にも書かれております。それから定年、任期、それから雇用保障もはっきり書かれておりますが、労働条件というのはそんなものだけじゃなくて、いろんなものがあるわけでして、そういったことについて、もちろん裁判官会議等がいろいろ処理されているということになっているのでしょうが、その辺のことについても世間一般に常識的に担保しているものは、皆さんにもそういうものもバックグラウンドとして整備されてしかるべきだと思います。これはごく当たり前の話じゃないかと思います。ついでに御参考までにお配りさせていただきました。

【佐藤会長】ありがとうございました。今日、レジュメにかかわるいろいろな論点に触れていただいたわけですけれども、さらに、この点を取り上げるべきではないか、あるいは、従来の議論について、こういうように整理する、こういうことを議論したんだということを確認するといいますか、何かそういうことも含めて御意見があれば。

【鳥居委員】私の整理で言うと、裁かれる立場論争の話なのですが、まだ触れていない問題が幾つかあると思います。その一つは、裁かれる立場から見て司法の取り扱いをきれい事で司法のサービスと言うわけです。サービスというのは行政サービス、立法のサービス、司法のサービス、この三権に関しては選択の余地がないのです。サービスを受ける側が選べない。この問題があるからこそ、仕組みを上手につくらなきゃいけないんだと思うのです。これは、どこの地裁の、いつの話というと、誰の話だか分かってしまうので、抽象的に言いますけれども、学生運動で次々とぶっこまれた連中の話を思い出してみると、某地裁では一部と二部があって、一部にぶちこまれるとえらい目に遭う。二部にぶちこまれると温情ある裁きが得られるというので、みんなこっちに入りたがったという話があります。選択の余地がないわけです。頼むからこっちに入れてくれと言ったって、一部と二部の選択さえも許されない。それが当然です。それだけに我々、裁判官の育成過程、それから選任過程を本気で議論しなきゃいけないと思います。

 それから裁かれる立場の話で、もう一つ、中坊委員、藤田委員を中心にして行われてきた今のお話の中に登場しなかった、私がどうしても気になる問題が二つあります。これから時代が変わっていくということを見通しますと二つあるのですけれども、一つは、これは次の世代の人たちに失礼な言い方になるのですが、だんだんに人間の心がよく分からない方向に向かっていっているのではないか。小学生が人を殺すというような事件が象徴していますけれども、我々宗教教育も放棄しましたし、いわゆる古い意味の道徳教育も、もっと広い国際的意味のモラルの教育も日本ではほとんど放棄していますから、心の問題が分からなくなっていくことは間違いない。それは時代の方向だと思います。そのときに、それでもなおかつ人間ですから、ある種の経験を積めば分かるというものがあって、それが裁判官を経験した人、検事を経験した人、そして弁護士を経験した人が混じっていくという発想が必要なのではないかと思います。

 もう一つ、新しい時代を見通したときに、どうしても今までのシステムではだめなのは、我々が想像もできないような新問題、例えば、先端技術の問題であるとか、パテント競争の問題であるとか、昨日、御紹介しましたようなアメリカの仕組みの問題であるとか、そういう問題を10年間の経験、あるいは20年間の経験では分からない。むしろ、現実の中で生きている人にしか分からない、そういう問題がたくさん出てきますので、それを法的にジャッジしなければならないというときには、これは仕組みを変えるしかないと思います。そういう意味で、私は現実的な法曹の一体化というのを考えてほしいと思います。

 今朝、私のところに届いたアメリカの薬の特許のニュースがここにあるのですが、これは皮膚がんの薬なのですけれども、FDAの認可をもうすぐ受けられるという薬が出てきたのです。それにオーファンドラッグというタイトルをアメリカの政府がくれたのです。オーファンドラッグというタイトルをもらうと、特許をもらってから7年間完全に独占的に商売をしていいというのをオーファンドラッグと言うらしいのです。そのオーファンドラッグに指定されたというニュースなのです。こんなもの今までの司法研修所やロースクールでやっても分からない。毎日の仕事の中で、こんなものがあることを知っている人たちが、どんどん法廷に入ってジャッジをするという仕組みが必要な時代です。お二人の話を聞いていると、人情をよく分かる大岡裁きの話のように聞こえてしまうのですが、それ以外にビジネスの世界でジャッジしてもらうという問題があるような気がするのです。

【髙木委員】ちなみに、オーファンドラッグというのは、非常に新しい画期的な薬なのですが、使う対象人数が非常に少ない難病等の薬で、開発費がものすごくかかっているけれども、量が余りはけないから、かなりの値段をつけても研究投資がなかなか回収できない。従って、どこの国でも高い値段をつけることを許し、それから特許で守る期間も長くするという薬のことです。私、実は厚生省の医療保険福祉審議会委員をやっておりますので。

【北村委員】このごろ非常に感じることなのですけれども、今司法制度改革ということでやっているのですが、今まで我が国においては、改革という間隔が長過ぎたと思うのです。それで、今のいろいろな議論というのも、改革というのは、今やってしまうと、当分ないだろうというような感じでいてはだめなんだと思うのです。そういうときに、今から長期的なことを考えて、こう持っていくべきだというふうにやっても非常に難しい部分があるだろう。私の専門の会計学でも、会計学の変革なんていうのは激しいのです。ついていけないような感じになっております。

 そういうような形で司法制度を見ていったときにも、ここで今ドラスティックに変えておかないと、当分改革がないというような形で考えることもないかなというふうに思うのです。もうちょっと健全な形で考えていくということも必要なのではないか。私は前から会長に伺いたかったのは、ここの司法制度改革審議会が一体どのぐらいのスパンのことを考えて改革を提言していくのかということが、まだ私なんかには全然分からないものですから、今日議論した裁判官のことにつきましても、それは今の制度が非常に問題がある部分というのは、ここでほとんどの方がおっしゃった部分じゃないかというふうに思うのです。その中で手直しできる部分、直していかなければならない部分というものも、割と意見が出てきているのではないか。判事補の制度につきましても、これは私の個人的な見解ですけれども、どの分野でも判事がいて判事補がいる。公認会計士がいて、会計士補がいるとか、そういうような形で、それはあるべきじゃないかと私自身としては思っているのです。ですから、私はとりあえず、今の中で何が悪いのか。要するに仕組みとしてはいいのであって、運用の仕方が非常に悪かったという部分については、それを積極的に直していく。これが改革でないというふうには言えないと思うのです。私は今日、非常に勉強になりましたけれども、もうちょっと考えていきたいなと、このように思います。

【佐藤会長】行政改革のときもそのような議論があって、どの程度の改革をやるべきか、どのぐらいのスパンを念頭におくべきかという話があったのです。既に現状に相当問題があって、いろいろ部分的に手直しをしてきた。しかし、なかなか思い切ったことができなかった。例えば、かつては省庁の一つの課をつぶすのにも大騒ぎをしたわけです。けれども、その結果、だんだんこうなってきて、国民の間でも深刻な閉塞感が生まれてきた。この辺でかなり思い切ったことを考える必要があるのではないかということで、行政改革をああいう形でやったわけです。あの『最終報告』にも書いておりますけれども、新しい省庁は1府12省になりますが、これは決して堅牢な建物をつくるのではない。理論的には省庁の数を減らすのがいいのかどうかは問題で、むしろ、増やしてもいいのかもしれないのです。それにはいろいろ考え方があり得る。けれども、今回はいろんな事情から思い切って数を減らそうじゃないかということになった。しかし、新しい省庁は決して堅牢なもの、30年も50年も不変に続くというような趣旨のものではないということを『最終報告』でうたっております。むしろ、半永久的と思われてきた省庁に手をつけたこと自体に大きな意義があるとさえ私は思っております。

 この司法改革の場合も、基本的には同じだと思っています。審議会設置法は21世紀のあるべき司法を考えろと言い、我々はそういう任務を与えられているわけですから、やはり姿勢としては、かなり長期的に耐えられるようなものを考えなければならない。そして今までいろいろ努力してきたわけです。みんなそれぞれの立場でそういう観点から考えてこられたと思うのです。部分的な手直しの積み重ねではどうも限界であるのではないか、今回は21世紀をにらんで、かなり思い切ったことを考えてみようじゃないかということで、これまで1年以上にわたって御議論いただいてきたと思うわけです。しかし、我々の結論が50年も一世紀も続くとか続くべきだと考えるとすれば、それはちょっと人間としての思い上がりだろうと思います。とはいえ、先ほども言いましたように、思いつきでやってはいけないので、2年もかけて議論せよということになっている。この辺でいこうじゃないか、21世紀に臨んでしばらくはこれでいけるのではないか、やるべきじゃないか、そういうことを考えるのが、この審議会に与えられた任務ではないかというように理解しております。非常に抽象的な言い方かもしれませんが。

【北村委員】私、この間からちょっと引っかかっているのが、弁護士事務所の法人化だとか、共同化ということが出ているのですけれども、御存じのように公認会計士の方も法人化いたしまして、それで監査法人をつくってやっているわけなのです。そうすると、今までの自由業としての公認会計士が監査法人をつくってやっていくということは、自由業でなくなる部分というのが非常に多くなるわけなのです。今、弁護士にとって自由業ということが非常に魅力なのです。それを自由業としてやっていったのでは、個人個人になってしまうから、それを共同化していきましょうということになりますと、ある程度束縛されるということは、これはやむを得ないことなのではないか。束縛されるというようなことになりますと、今まで裁判官になかなかならなかった人たちも、なるような方向に動いていくのではないか。人間というのはそういうものなのではないかと思うのです。やはり自由ということについては非常に魅力を感じますので、法人化とか共同化には、不自由さが伴っていると思います。

【佐藤会長】藤田委員どうぞ。

【藤田委員】現場の裁判官の気持ちを代弁するという意味で、もう一つだけ申し上げたいことがあるのですが、裁判官も人の子だから、立身出世ということを考えざるを得ないとおっしゃいます。私も帝銀の死刑囚の人身保護請求を棄却したときに、代理人の弁護士が記者会見でそういうことを言われました。でも、現場の裁判官がそんなことを考えているわけでは決してない。

 自分のことを申し上げるのはどうかと思うのですけれども、私はかつて鹿児島の裁判所に4年間勤務したことがあるのですが、その間に長男を亡くしました。亡くしたといっても臨月の死産だったのですが、東京の大病院にかかっても同じ結果だったろうと思いますけれども、そこは親として何がしかの思いがあるので、裁判官をやめて東京で弁護士をやろうかという気になったことがありました。そのときに家内が、家庭のことを理由にして裁判所をやめるようなことをしないでくれと言ったこともありまして思いとどまったのですが。それからこういうこともありました。鹿児島では離島へ出張することが多いのです。台風シーズンに台風の直撃を受けますと、まず4日間はうねりが残って船が来ない。そうすると島に閉じ込められるわけです。そのときに、娘がぜんそくを起こしまして、鹿児島はぜんそくに悪いところなのですけれども、家内はまたインフルエンザで鹿児島の宿舎で2人倒れて寝込んでいて、私は島に閉じ込められているということになりました。家に電話して、明日は帰れると思うから頑張れ、明日は帰れるから頑張れということしかできなかったということもありました。また、4年経って東京に転勤するということになったときに、家内が妊娠6か月だったのですが、これもそっと飛行機に乗せて帰したのですけれども、やはり次男もだめだったのです。裁判官みんながそんな不運な目に遭っているとは申しませんけれども、先ほどの単身赴任の話でも申しましたが、裁判官という職業は、どうしても家庭にある程度の犠牲を強いざるを得ないということがあるのです。なぜそんなことがあるにもかかわらず裁判官をやっているのかと言われるかもしれません。権力を握りたいとか、いい生活をしたいと思ったら裁判官ほど不適当な職業はないわけでありまして、所長、長官になったら権力を握るとお思いかもしれませんけれども、何もない。現場の裁判官がどういうふうにしたら仕事をしやすくなるかということをやるのが所長、長官でありまして、自分のいる裁判所で新聞の一面トップを飾るような判決があっても、司法記者クラブの人たちよりも後になってその内容を知る。大分経ってから、御参考までにといって、届いてくるというようなことです。どうしてそんな割の合わない仕事をして、全国股旅物語でやっているかといいますと、青臭いとお思いでしょうけれども、やはり信念を曲げないですむ仕事をしたいとか、全国津々浦々の司法を支えているのは俺たちだという使命感なのです。ですから、現場の裁判官たちはそういう気持ちでやっているということを、ぜひ御理解願いたいというのが、お願いであります。

【山本委員】私も北村先生と同じように会長にお聞きしたいことがあったのですが、実は北村先生は、我々のこの改革論議がターゲットにしている時間的なスパンはどの辺におくべきかとの疑問だったと思いますが、私は、この司法あるいは司法改革が担うべき広がりの問題、例えば、今、鳥居先生が次の世代の市民の状態だとか精神構造が心配だと。あるいは新しい技術開発について日米間にかなりギャップが出ているのではないか。いずれも司法が大きな役割を担わなきゃいけないとおっしゃいましたね。でも、司法だけではなくて、もっと根本的な問題は教育にあり、家族にあり、地域社会である。例えば、子どもの問題、それから薬の問題は司法にももちろん役割は大きいけれども、大学の研究体制に問題がある。日本のメーカーのイノベーションにも問題がある。そういうバランスというのはあるわけです。そういう意味で、この司法が担うべき民主主義の強化でございますとか、あるいは社会正義の実現だとか、あるいは、ひいては国民の精神物質的な生活の向上、確かに司法は大きな担い手だと思います。しかし、司法だけではなくて、政治の問題、地方自治の問題、教育の問題、そういうのがバランスよく改善されていかなきゃいけない。司法の理想だけを追っかけて、無理な改革の方策を出すということは、これはよく考えなきゃいけないというふうに、最初から思っている問題意識でございますので、北村先生の意見に触発されて、あえて言わずもがなのことかもしれませんが。

【佐藤会長】そうすると私も答えないといけませんね。私にもいろいろな思いがあります。私が管理職に携わったのは、平成3年に法学部長になってからです。そしてすぐ大学院重点化政策に取り組み、専修コースをつくるということに携わることになりました。専修コースをつくって、裁判官や弁護士からも客員教授として来ていただくような仕組みをつくったりしました。そのときから感じておったことですけれども、大学院を重点化して、こうした様々な工夫をこらす。それ自体はいいことであり、必要なことだけれども、こうした試みが、例えば、司法試験とつながるとか、一つのシステムとしてでき上がらないと、結局はそのときそのときの自己満足に終わってしまうのではないかという思いが強くありました。そして部長職を終えた後、どういう運命の巡り合わせか分かりませんけれども、鳥居先生と日銀法の改正問題に関係し、その後すぐ行革に関係したりしているうちに、実は日本全体がそういう問題状況に直面しているのだということを痛感するようになりました。かつては国鉄が問題だから国鉄を改革するとか、そういうことで済んだ時代かもしれないが、今は1か所いじって、それで済むといえるような状況ではない。部分的に手直しをしても、結局うまくいかない。日本は戦後50年やってきて、その間いろいろ手直しをしてきたけれども、今は、全体と連関させながら、それぞれの改革をやらないと、結局は全体の改革がうまくいかないだろう。そういう思いで、昨日の話で行革にも言及したのです。司法改革は、行革とも深く連関しているのです。おっしゃるように、司法だけ無理をする、突出して無理をしても、それはうまくいくはずはないと思います。バランスを考えなければいけませんけれども、行政改革は相当思い切ったことをやろうとしているのであり、それとの連関で司法改革も相当思い切ったことをやる必要があるんじゃないか。おっしゃるように、制度の根底には鳥居委員御指摘のような心の問題があり、教育の問題がある。そこまでやらないといかんのですけれども、それはそれとして考えないといかんのですけれども、制度全体が大きく動こうとしている今、司法の方もその一環として考える必要があるんじゃないか。そんな思いでおります。

 では中坊委員どうぞ。

【中坊委員】先ほどの議論と若干関係があるのかもしれませんけれども、私は今日議題になっている、いわゆる法曹一元の問題に関しても、繰り返して申し上げていますように、結局、制度の問題ですから、確かに人がこういうふうに言っている、ああいうつもりでやっているというところに意味があるんじゃなしに、例えば、裁判官の選出に関しての給源の問題にしても、必要な資質能力を有するということが客観的にどう裏付けられておるかというようなことが必要であって、また選任の方法についても、それが実効化するために客観的にどうそれが保障されているか、また人事についても、先ほどからも出ていますけれども、やはり公正にちゃんと人事が行われているということがどのようにして客観的に裏付けられるか。こういう制度の問題として我々は論議しているという点も忘れてしまうと、運用だけの問題になってきたりして、せっかくの審議会の在り方というのが歪むおそれもあると思うので、そういう制度の改革であるから、客観的に裏付けられているということを意識する必要はあるんじゃないかという気がいたします。

【佐藤会長】分かりました。議論すればまだいろいろありますでしょうけれども、時間的にそろそろ取りまとめの方に移る必要があるのではないかと思います。実質的な議論の中身として、そこまで来ているのかどうかはちょっと自信がありませんけれども、大分いろんな面について御発言をいただいたように思います。時間的にも有限の中でやらざるを得ないということも考えまして、昨日、今日を含めての法曹一元についての私どもの議論はこういうことだったのだということを確認し、取りまとめるという段階に進みたいと思います。先ほど石井委員がおっしゃろうとしたことかどうか分かりませんが、少し事務局の方に頼んで議論をまとめてもらおうかと思います。司会をしながら、おまえ、まとめろ、文章化せよと言われてもできそうでないので、ちょっと事務局の方に文章化をお願いしたいと思います。あと15分ぐらい休憩させていただき、その間、事務局作成の文章を私と会長代理とで少し練らせていただいて、そしてそれを休憩後お諮りさせていただきたいと思うのですけれども、そんなやり方でよろしゅうございますか。

 では、ちょっと時間をいただきまして、5時10分に再開させていただきたいと思います。

(休憩)

【佐藤会長】それではよろしいでしょうか。時間をちょっとオーバーしてしまいましたけれども、何とか文章を取りまとめました。これはとりあえずは今日の記者会見用ということを基本的に考えております。そういう前提で御審議いただきたいと思います。では、読ませていただきます。

 法曹一元という言葉は多義的であり、この言葉にとらわれることなく、論点整理にあるように、「法の支配の理念を共有する法曹が厚い層を成して存在し、相互の信頼と一体感を基礎としつつ、国家社会のさまざまな分野でそれぞれ固有の役割を自覚しながら、幅広く活躍することが司法を支える基盤となる」との思想に立脚して、21世紀日本社会における司法を担う高い質の裁判官を獲得し、これに独立性をもって司法権を行使させるため、これを実現するにふさわしい、各種さまざまな方策を構築すべきことに異論はなかった。

 制度構築の方向性としては、裁判官の給源、任用方法、人事制度のあり方につき、給源の多様性・多元性をはかることとし、判事補制度を廃止する旨の意見もあったが、少なくとも同制度に必要な改革を施すなどして高い質の裁判官を安定的に供給できるための制度の整備を行うこと、国民の裁判官に対する信頼感を高める観点から、裁判官の任命に関する何らかの工夫を行うこと、裁判官の独立性に対する国民の信頼感を高める観点から、裁判官の人事制度に透明性や客観性を付与する何らかの工夫を行うことなどについて、大方の意見の一致をみた。

 当審議会は、かかる観点に基づき、今後あるべき裁判官制度について、その具体像を審議検討することとする。

 急いで事務局に案を起草してもらい、先ほど会長代理とも相談してまとめたものです。文章の練り具合いなど、もっと時間をかければ、よりいいものになるのかもしれませんけれども、とりあえずと言ったらなんですが、この辺ではないかと思われるのですが。

【鳥居委員】大変御苦労くださいましたことを心から感謝申し上げます。ただ1点だけ、ちょっと心配になるところがあります。それは1行目なんですけれども、「法曹一元という言葉は多義的であり、この言葉にとらわれることなく」という部分なんですが、私の理解ではこんなことかなと思うんです。「法曹一元という言葉は、歴史的に限られた意味を付して解されることが多く、またその実質的な内容と問題点は多様である」。ここから先はこの審議会の設置法の文章そのままですけれども、「我々はより広く国民の司法制度の関与を検討したい」。そこで論点整理にあるように、「法の支配の理念を共有する」云々と言った方が今日の審議の冒頭の話が、つまり日弁連でさえ、姿勢は変わったんだということが出るのではないでしょうか。法曹一元というと、この資料の9ページにある意味にしか解されていないですよね。

【竹下会長代理】日弁連ですら変わったとはまだ言えないわけです。先ほどは中坊委員の御意見です。

【鳥居委員】我々の議論は9ページを脱したはずですね。9ページでは日弁連の29年の要綱と日法協の36年の要綱が出ていて、マスコミの人はこのどっちかしか考えていないのではないですか。

【佐藤会長】説明しなければ分からないといえば、この文章すべてを説明しなきゃいかんことになっちゃうかもしれません。

【鳥居委員】会長が口頭で説明してくださるんであれば、それで結構です。

【佐藤会長】口頭で説明することもはなかなか難しいところで、今日の段階では眼光紙背に徹して、この文書を見ていただきたいとお願いしたいと思っております。今日のところ、基本的にはこれしかないというように考えております。

【井上委員】「思想に立脚して」というのは、佐藤先生のお好きな言葉かもしれませんけれども、「基本的考え方」とかいう言葉の方がよろしいのでは。「思想」というのは、ちょっと大げさですので。

【佐藤会長】「との基本的な考え方に立脚して」ですね。こんなところで、鳥居委員よろしゅうございますか。

【竹下会長代理】せっかく御意見をお述べいただいたのに申しわけございません。先ほどの点は中坊先生もしきりにそう言っておられますので。

【中坊委員】抽象的ではありますが、質問を受けられたときに、どのようにお答えになるのか。

【佐藤会長】先走ったことで何ですけれども、記者会見は御出席いただけますでしょうか。

【竹下会長代理】今日御都合がつく方はなるべくお願いします。

【中坊委員】余り出ない方がいいな。僕が出たら、また、みんな出なきゃならんし、これは会長、会長代理にお願いしてお任せするしか。余り僕と藤田さんが、ここでならまだいいけれども、記者の前でこんなことを言っていたら、それこそ誤解を招きますから、私は御遠慮させていただきます。

【藤田委員】では私も道連れでね。

【中坊委員】そうそう。当事者的なところがあるから、いろいろ思いがありますけれども、それを言い出したらお互いに。

【佐藤会長】御希望の方がありましたら。そうですか。分かりました。今日の説明は最小限にとどめます。先ほど言ったように、眼光紙背に徹して読んでいただきたいという姿勢を貫くつもりでおります。あとは議事録が公開されるわけですから、議事録をお読みいただきたいと。

 ほかに何かございましょうか。

 それでは、3日間にわたりましてありがとうございました。