司法制度改革審議会第2回地方公聴会(福岡)議事次第
日時:平成12年6月17日(土)9:30~12:00
場所:福岡国際ホール大ホール
出席者(委 員、敬称略)
佐藤幸治会長、髙木 剛、北村敬子、藤田耕三、水原敏博(事務局)
樋渡利秋事務局長1.開会
2.出席委員紹介
3.会長あいさつ
4.公述人意見発表
上野朗子氏 福岡県 主婦 久能恒子氏 福岡県 医師 島袋鉄男氏 沖縄県 琉球大学法文学部教授 水元佑美氏 福岡県 高校生 山本茂氏 福岡県 弁護士 吉田昭和氏 福岡県 会社社長
5.公述人への委員からの質問
6.会場からの意見
7.閉会
【事務局長】皆さん、おはようございます。
これから司法制度改革審議会第2回地方公聴会を開催させていただきます。お忙しい中、このように多数の方に御参集いただきまして、誠にありがとうございます。
【事務局長】それでは、本日出席しております委員の皆様を御紹介させていただきます。
私の立っております席の左側からでございますが、審議会会長の佐藤幸治会長でございます。(拍手)
北村敬子委員でございます。(拍手)
高木剛委員でございます。(拍手)
藤田耕三委員でございます。(拍手)
水原敏博委員でございます。(拍手)
審議会の委員は総勢で13名でございますが、本日、この5名の委員の方に御出席を願いました。
申し遅れましたが、私、司法制度改革審議会の事務局長を務めております樋渡利秋でございます。本日のこの地方公聴会の司会、進行役を務めさせていただきますので、この会が実りあるものになりますように、皆様の御協力をお願いいたします。よろしくお願いいたします。(拍手)
それでは、このテーブルの左側のテーブルに6名の公述人の方に座っていただいております。この6名の公述人の方々から、それぞれ10分間ずつ御意見を賜りたいと思います。その後、今度は委員の方から公述人に対して質問をしていただきまして、質疑応答という形でこの公聴会を進めさせていただきます。
【事務局長】まず会長からこの公聴会に当たりまして、ごあいさつを申し上げます。会長、よろしくお願いいたします。
【佐藤会長】本日は御多用の中、司法制度改革審議会の地方公聴会に御出席賜りまして、大変ありがとうございます。雨の中、かくも多数の御出席をいただいたということで、非常に感激しております。司法制度改革に対する皆様の熱い期待というものをひしひしと感じている次第であります。
私どものこの審議会は、昨年7月内閣に設置されました。21世紀の我が国社会において、司法が果たすべき役割を明らかにし、国民がより利用しやすい司法制度の実現、国民の司法制度への関与、法曹の在り方とその機能の充実・強化、その他司法制度の改革と基盤の整備に関し必要な基本的施策について調査審議する。そして、内閣に報告しなさいという任務を私どもは課されているわけであります。期限は2年間ということになっておりますが、やがて1年になろうとしておりまして、既に22回の会合を重ねているところであります。
昨年の12月に審議会としての論点整理というものを公表いたしました。どういう論点があるか、どういう考え方でこれに臨むのかということを整理した文書であります。この論点整理の中で、いろいろなことを申し上げておりますけれども、御承知のように、我が国が近代的な司法制度を導入して百有余年経ちました。その後の我が国のいろいろな社会の在り方の反省を込めて、日本国憲法が制定され、日本の法制度の在り方についての抜本的な改革を行ったわけであります。それから半世紀余経ちました。
今、振り返って、我々が近代的な法制度・司法制度を導入して実現しようとした理念、それをいよいよ我々の血肉と化すと言いますか、本当のところを実現しようじゃないか。言ってみれば第3の大きな改革に取り組む必要があるのではないかという思いをその論点整理の中で述べているところであります。
先ほど紹介しましたように、21世紀の我が国社会と言っておりますが、これはどのような社会になるのか。何を目指すのかということについてはさまざまな考え方があり得ると思いますが、私は、言ってみれば、国民個人がもっと元気を出せるような、より自由で公正な社会というものをつくろうじゃないか、抽象的に言えばそういうところに集約されるのではないかと考えております。
行政改革も、いよいよ省庁再編成が来年の1月6日からスタートいたします。その行政改革の延長線上においてこの司法改革は考えられているということであります。
先ほどより元気を出せる、個人個人がもっと元気を出せる社会ということを申しましたけれども、身体について医者がいるのと同じように、我々の日常生活において、言ってみれば法曹は社会生活上のお医者さんである。我々が元気を出すためにも、こうしたお医者さんというものがもっと我々の身の周りにあって、よく相談できるような社会にする必要があるのではないか。平たく申しますとそういう思いをこの論点整理の中で書いているのであります。
では、何をやるかということですが、一つは、制度の問題があります。裁判制度がもっと迅速にならないものか、制度にどういう工夫がいるかなどの問題です。もう一つは、いかに精緻な制度をつくっても、結局は動かす人を得なければその制度というのはうまく動きません。人すなわち法曹の問題があります。
そこで審議会としては、まず法曹の在り方というもの、人の問題を先に考えようじゃないかということになり、これまで主としてその問題を議論してまいりました。弁護士の在り方を中心に、弁護士を増やさないといけない、あるいは、裁判官も検察官も増えてもらわないといけない。それも、大幅に増やさなければいけないということです。
そのためには養成の仕方、法曹をいかにして養成するか。質・量ともに充実を図るかということが大事だということで、いわゆるロースクールを有力な方法として考えようではないかということになりました。そこで、文部省に置かれた検討会議に、その制度設計の内容を少し詰めてほしいということを依頼しております。それを受けて私どもとして、この法曹養成についての結論を得たいというように考えているところであります。
そして、現在は、制度の問題、主として民事裁判の在り方、国民にとって利用しやすい民事裁判はいかにあるべきかということを検討しております。今月いっぱいそれに充てまして、その後は刑事裁判の在り方、さらに、いわゆる法曹一元の問題、陪・参審制など国民参加の問題などを議論いたしまして、この秋に中間報告を発表したいというように考えております。
私ども審議会としては、今言ったような国民の生活に広く関係する問題を審議するということでございますので、広く各層、各地域の皆様の御意見を承りたいということで、地方公聴会ということを考えまして、3月に第1回を大阪で行いました。今日は第2回ということになります。この後は札幌と東京の公聴会を計画しているところであります。
この地方公聴会に関連しまして、それぞれの地域の法曹関係者と懇談したり施設を見せていただいたりしておりますが、実は昨日、裁判所、検察庁、弁護士会の皆さんにお会いしまして、いろいろお話を伺いました。
そのとき受けた私の印象でありますけれども、この福岡を中心とする九州におきましては、民事裁判についての福岡方式、これは準備手続から計画審理などについて速やかな判決を得るということについて、早くから裁判所、弁護士会などが真剣に取り組まれて、福岡方式というものを編み出された。あるいは、当番弁護士制度について、先駆的な取り組みをなさった。この福岡を中心に、九州に独自の法文化圏というものがあるのではないかという印象を非常に強くしたところであります。
そこで得た知見も参考にしながら、これから審議に当たりたいと思っておりますけれども、本日は特に6名の方々に意見発表をお願いしております。皆様の忌憚のない御意見を聞かせていただいて、それもこれからの審議に生かさせていただきたいと考えている次第であります。
我々の制度改革が実り多いものになるための第一歩として、この地方公聴会が有意義なものになりますように、皆様の御協力をお願いいたしまして、簡単ではございますけれども、私のあいさつとさせていただきます。
どうもありがとうございました。(拍手)
【事務局長】それでは、先ほど申し上げましたように、これから公述人の方から御意見を承りたいと思います。御意見の順番は五十音順とさせていただきます。
それでは、上野朗子さん、よろしくお願いいたします。
【上野氏】おはようございます。私は陪審制度の復活を希望しております。
今日こちらにお見えの審議委員の皆様は、皆さん法律の専門家の方ばかりだと思いますが、是非、私の裁判初傍聴の体験談をお話ししたいと思います。
娘の夏休みの宿題のため、私は幼稚園、小学生、中学生、3人の子どもを連れて福岡地方裁判所に足を運びました。何せ初めての体験ですから、予約はしていないけれども、裁判は見られるのかとか、チケットは買ってないけれども、ただで見られるのかしら。もしかして年齢制限とかがあって、6歳未満は入場お断りなどということを言われたら、幼稚園の子は託児をしてくれるところがあるのか、そんな心配をしながら参りましたところ、受付ですべて一応OKが出て、私は法廷に向かいました。法廷のドアをおそるおそる開けて、「静かに入るんだよ」と子どもたちに言いながら席につきました。
わかりません。言葉が全然わからないんです。確かに法廷には裁判官、検察官、弁護士、そして、被告人と呼ばれるその当事者の人がいました。でも、専門用語の洪水の中で私はおぼれそうになってしまいました。何を言っているのかがわからないんです。もしかすると、その裁判を受けている裁かれる人、その当事者の被告の人は、その人自身のことなのに、裁判官から言われている言葉、検察官から言われている言葉、弁護士の方が話される言葉、それを理解できているのか本当に疑問に思いました。
裁判は公開されているということです。でも、私には裁判は、裁判官と検察官と弁護士と、その三者の専門的な人ためにのみ存在しているのではないかと感じました。書類の応酬、そして、人が人を裁いているという緊張感が私には感じられませんでした。子どもたちは、「眠いね、お母さん。これっていつ面白くなるの」。多分テレビドラマの法廷のことを思い出したのかもしれません。ドラマで丁々発止とやり合っている雰囲気というのが子ども心にもわかっていたと思うからです。
ついに子どもたち3人は眠ってしまいました。私も眠い、でも、ここで歩ん張らないと親の立場がないと思って、一生懸命話を聞きました。でも、やっぱりわかりませんでした。眠るくらい退屈だったというのが、私の初傍聴の感想でした。
推理小説を読んでいると、日本にも過去に陪審裁判が行われたということが書いてありました。一般の人が裁判官役をしたということですね。非常に驚くと同時に、えっ、でも陪審裁判などをやっているというのを聞いたことがないな、と思いました。
しばらくして新聞で模擬陪審裁判が行われることを知り、応募して参加する機会を与えられました。警察に逮捕された人、すなわち犯罪者、という方程式を私は信じていました。陪審員選定手続が行われる途中で、どんな人も裁判で有罪の判決が出るまでは無罪ということを知りました。それは無罪推定という言葉でした。私にとっては本当に初めての言葉でした。ここ天神で、道行く人に「無罪推定を知っていますか」と問い掛けて、果たしてどれだけの人が「うん、知っているよ」「うん、そんなの常識だよ」などと答えるでしょうか。恐らく、「それって何」と反対に問い掛けられるのが実情ではないでしょうか。
陪審員選定手続は厳正の上にも厳正を重ねられました。それは、陪審員は公正であり、中立でなければならないということを確認するための通過儀礼だと思いました。
幸いにも私は陪審員に選ばれて、いよいよ審議が始まることになりました。年齢も性別も職業も全く異なった12人の人たちです。そして、その日、その時に初めて会った人です。「ねえ、今夜の夕御飯何にする」などと近所の奥さんと話すみたいに気軽に会話が弾むはずがありません。うつ向いたり、そっぽを向いたりしながら、お互いの腹の内の探り合いという感じで審理は始まりました。しばらくは無言でした。でも、「絶対有罪に決まってるさ、どんなに考えたって有罪だよ」という人がいらっしゃったかと思うと、「無罪以外に考えられないじゃありませんか。何言っているんですよ、無罪ですよ無罪、絶対無罪」「そういうふうに感情的にならないで、冷静に、冷静に」となだめてくれる人もいました。
無罪だ有罪だとやり合っているうちに、今度は、「そういう体勢でやったんだから、そういうことは絶対起きない」「いや、私の経験から言うと」などという具合にみんな一生懸命自分たちの体験を話したり、また、「常識的に考えてごらんよ」というふうに、どんどん議論は白熱していきました。
模擬陪審裁判、これは本当はお芝居だったんです。でも、お芝居ということを途中で私たちは忘れていたと思います。実際にその裁かれている人、本当に他人のことなんです。でも、その他人のことなのに、こんなに一生懸命になって、ない知恵を絞り出し、まあ、知恵がたくさんある方もいらっしゃいましたけれども、私は本当にない知恵を絞り出し、そこのおばさんという感じの私も、本当に一生懸命に考えました。そして、最後に評決に至ったときは、心地よい疲れと、充実感でいっぱいでした。
とかく現代人は他人との関わりをきらって、無責任だとか、利己主義だとか言われていますね。でも、陪審員になって、あんなに見も知らない人のことを一生懸命に考えたじゃないか。私たちだってやれるんじゃないかという気持ちになりました。きっと責任感という言葉が当てはまると思います。
裁判官を職業としていらっしゃる方がいらっしゃいますが、この人が1人で裁きを行うとしたとき、もしこの裁判官が偏見を持っていたと考えたらどうでしょう。その人が偏見を持っているよということをただしてくれる人はいないはずです。たとえ素人でも12人が集まったとします。そうすると、中には偏見、また考えが違う人、いろんな人がいました。でも、「それは違うよ」とか、「こうじゃないの」というふうに意見を闘い合わせました。すると、私たち素人だって、もしかすると、というより、きっと真実が見えてくるんじゃないかと思いました。
裁判官の法服は黒ですね。あれは何色にもそまらない黒ということですね。でも、私たち素人は心を真っ白にして、たとえ法律の知識は持っていなくても、選挙権を使うように、『六法全書』の代わりに常識を持って、是非陪審制に参加したいと思います。それが司法の民主主義を確立するために必要だと思うからです。陪審制は廃止ではなくて、停止という状態になっているそうです。きっと法律の専門家の方々が復活させるのを忘れていらっしゃるんじゃないかと思います。
21世紀の陪審制度の復活に向けて、是非ゴーサインを出してください。そして、第1回の陪審裁判が行われるときは、是非私を陪審員に選定してください。お願いします。
以上です。(拍手)
【事務局長】どうもありがとうございました。
では、続きまして、久能恒子様、お願いいたします。
【久能氏】私は医師です。高校生の娘を亡くした母親です。娘の死亡の原因は、医療ミスだけではなく、それを隠そうとする冷酷な医療現場の対応によるものでした。悲しみのどん底からやっとの思いで民事訴訟を起こしましたが、私にとっては決死の覚悟が必要でした。
平成4年、当時の医療界は今よりもっと閉鎖的で、声を出すことはタブー視されていましたので、いろんな非難も受けました。あれは受け容れ能力を持たない精神異常者だ、ヤクザだ、また、命をお金に代えようとする守銭奴、等々です。私がその立場になって初めて、被害者には相談窓口もなく、いかに孤立させられるかということを知りました。
それで微力ながら、被害者として、医師として、少しでも役立ちたい、自分自身も情報を得たいと考えて、医療過誤原告の会に入会し、現在はその副会長を務めています。近年、医療訴訟は急速に増加し、そのために審議を早めようと、鑑定協議会を設置しようとしていることを知り、当会としての意見を申し述べる次第でございます。
医療裁判の大きな問題は、1長期間を要すること。2不公平。この二つです。
長期であることの原因の一つに、鑑定医不足を挙げることができます。しかし、医師たちはなぜ鑑定を引き受けないかを考える必要がありましょう。何も多忙なだけではありません。もし、医療過誤ではない事例であれば問題なく書けますが、ミスだからこそそれを指摘するのが難しいからにほかなりません。当会に寄せられた鑑定書の報告には、とても信じられない虚偽やごまかしの内容が多々あります。事実を見よう、鑑定しようとせずに、医師同士がかばい合うことはだれしも周智のことです。
しかし、悲しいことに、たとえこのような間違った、故意に書かれた鑑定であっても、それが裁判所の名の下に書かれたものである以上、一旦出されたものを覆すのははなはだ困難を極めているのが現状でございます。
裁判は原告が主張・立証する責任があります。しかし、医療の場合には密室で行われた内容を素人が一つひとつ少ない資料の中から解明することです。その苦労は並大抵ではありません。しかも、当会会員の被害結果は、死亡、または寝たきりの状態が8割を占めています。当会に寄せられた被害報告は4,000 件に達しており、治療ミスが3分の1、次いで手術ミス、診断ミスであり、そのほとんどが独善的思い込みによるものでございます。日本の長い歴史の中では、失敗を徹底的に隠し、医療行為は常に正しい人道的行為として強調されてまいりました。勿論、その面で大きく貢献もしてきました。しかし、1つの医療であっても、何百回、何千回の医療行為があります。しかも、ますます複雑に高度化して、手を加えて直すのが当たり前との風潮にもなってきています。それを24時間申し継ぎしながらすべて正しく行うということは過酷な作業です。事故は起こります。ミスの存在を隠そうとするからこそ、確執が大きくなる傾向も見られます。被害を受けた患者や家族たちは、医療の中で突然予想外の不幸に見舞われただけでなく、うそ、隠蔽、脅し、そして改ざんされた医療記録など、初めて知った医療の影の部分、心なき対応にただただ驚いています。
この悲しみの中から、怒りやあだ討ちというよりも、被害者の人権を求めて、人間として、愛の行動として、精神的、経済的、肉体的に大きな負担をしながら裁判に訴えているのです。何も有利なことを求めているのではありません。当たり前のことを望んでいるのです。可能な限り真実を知りたい、教訓として繰り返さないでほしいとの願いからとった唯一の手段だと思っています。
過去に裁判所鑑定を引き受けた経験を持つ複数の医師が本音で話してくださいました。「裁判は真実を裁くところではない。ゲームなんだよ。事例が過誤であればあるほど真実から遠ざけて、専門的、医学論争に持ち込んでうやむやにして、判断を狂わせてしまえばいいんだ。失敗をいちいち問題にされたのでは医学は進まないでしょう。ある程度犠牲の上に成り立っているのだから」。また、「鑑定を引き受けると、被告側から何とでも連絡は入ってくる。時には打ち合せることだってあるんだよ」と言われました。裁判所鑑定が、医療者側を勝たせるための作戦の1つに利用されてきた例があることもぬぐえません。
医療事故は全財産を乗っ取られたとか、家を放火されたとか、そんなものではありません。人間そのものの最も大切な命の問題なのです。決して患者の視点から見ることなく、身勝手な医師同士の立場から書かれる鑑定は、もう不要と言いたい。ただ短絡的に迅速な審理のために鑑定協議会を設置するのははなはだ危険なことです。何度も言いますが、鑑定の内容が必要なのであって、公正な鑑定こそが後の世の教訓となることを肝に命じていただきたいのです。
今、計画中の専門参審制ですが、これは専門家が裁判官と同格で判断するということになります。歴史的にレビュー精神に欠ける医療界、特に権威に支えられてきた傾向の強い大学人に判断を委ねるということは、より権威主義を助長することとなり、一部専門家の思いのままとなる危険性もあります。全国的には公正に公平に鑑定しようと、御自分の犠牲と苦労を重ねて良心的に頑張っている医師たちもいます。それを私的鑑定だと退けて一蹴してしまえば、このような医師たちは容易につぶされてしまうでしょう。どうしてもこの制度を取り入れるならば、少なくとも、国民との信頼関係による判断か否か、第三者評価を可能にする余地だけは残していただきたいと願っています。
そもそも医療を司法で裁くには限界があります。改革を幾らやっても、もう公正さは期待できないところまで来ています。迅速化も大事ですが、医療の特殊性にかんがみて、被害救済システムを整備するなどして、訴訟件数そのものを減らす努力が必要です。医療の結果のすべてを受け入れるのは素人の患者です。一般社会常識が通用するようであってほしいのです。不幸にも事故に遭遇した場合であっても、患者あっての、家族あっての医療者であり、肉体も精神もずたずたにすることが医療ではないという当たり前の真理を知ってもらいたいのです。私たち会員の多くは、事実を知り、納得した上で現実を受け入れたいと思っています。対応に関しては、人間らしい多面的改善を望み、鑑定医協議会を安易に設置することに再考を促すものであります。
最後に、私ごとで大変恐縮ですが、裁判の中で医師たちの医学的うその証言と、大学教授の裁判所鑑定の内容をアメリカのドクターに客観的な形で見てもらったことがあります。その医師は、日本の医療レベルそのものを疑い、あなたたちはこれを許すのですかと烈火のごとくしかられました。私の方が心底恥ずかしい思いをしたことを付け加えさせていただきます。
どうもありがとうございました。(拍手)
【事務局長】ありがとうございました。
それでは、続きまして、島袋鉄男さんにお願いいたします。よろしくお願いします。
【島袋氏】おはようございます。島袋でございます。
私は先ほど会長さんのお話にありました日本型ロースクール、法科大学院について意見を述べたいと思っております。この問題につきましては、先ほどのお話にありましたとおり、既にいろんな方がいろんな案を出されておりまして、論じ尽くされたという感もなきにしもあらずですけれども、地方にあります大学人としての立場から意見を述べたい。このような機会を与えられましたことを大変光栄に存じます。
まず、法曹養成制度として法科大学院をつくるということについては私も基本的には賛成であります。ただ、これにつきまして、大学改革というのが盛んに言われております。それと司法試験制度の弊害。それから、国民に身近な法曹養成という三つの観点から私の希望を述べさせていただきたいと思います。
まず大学改革の視点ということでありますけれども、これは一言で言いますと、従来の学部、及び大学院の位置づけというものを、学部は、いわゆる幅広い教養教育、それから専門といっても、それは広く教養教育と連携をした基礎教育を施すところであり、専門教育は、大学院で行うべきだという基本的な立場に立っているんだろうと思います。そういう専門教育を行う中でも、法曹養成というものに特化した大学院として法科大学院ということを位置づける、これが大学改革の立場から見た法科大学院の位置づけだと思いますし、それはそれで支持できるものだと思います。
法曹の中にいろんなバック・グラウンドを持った人たちが入ってくる。今の日本のように初めから法曹になるんだということで、その勉強に、長い人では10年以上も費すということではなくて、まさに学部のレベルではいろんな形での勉強をしてきた人、例えばアメリカのロースクールのようなところですと、そもそもアメリカには法学部という学部はございませんので、それぞれ経済であるとか、教育であるとか、エンジニアであるとか、場合によっては公衆衛生であるとか、そういうものを勉強してきた人たちが、ロースクールに入ってくるわけであります。
やはり裁判、あるいは法律というものは、社会関係、あるいは人と人との関係、そういうものを規律するものでありまして、その法律の前に、そもそも社会環境はどうあるのか、どうあるべきか、あるいは人と人との関係はどうあるべきなのかということについては、個人の心理的な、場合によっては宗教的な立場といったようなものも含めて、社会及び人というものに対するしっかりした理解、そういうものが必要であって、そういう勉強はやはり若い時代の学部レベルでしっかりとやっておく必要がある。そういうバックグラウンドを持った上でロースクール、法科大学院に入ってきて、法律の勉強を集中的に行う。これが理想であろうと思います。
したがいまして、学部と大学院という、現在の日本の大学の構造は、もっと緩やかなものとして考えられなければならないと思います。法科大学院は学部から一応独立したものとしてある。したがって、例えばある大学の、九州大学なら九州大学の法科大学院ができるとして、それは何も九州大学の例えば法学部の人たちだけに開かれたものではなくて、その大学の他の学部に対しても十分に開かれたものである必要があるし、大学を超えて他の大学、更には他の大学の他の学部に対しても開かれたものであるという必要があると考えます。
そういうふうにして、組織として学部と大学院というものを切り離して、そして法科大学院を開かれたものとして制度設計をするということと、そういう法科大学院に入学をする資格として、学部レベルでどの程度の法律に関する基礎的な教育をする必要があるのかということについては、これはこれからの学部における法学教育ということで、それこそ周知を集めてカリキュラムについて考える必要があろうかと思いますけれども、そういう法科大学院の入学要件としての学部における法学教育をどこで受けたかということについては、それを問うべきではない。そういう意味でも開かれたものであるべきだ。
ただ、カリキュラムとしての基礎的な法学教育というものは、やはり学部教育で行う必要はあるだろう。それをどのようなものにするかは、これまでのカリキュラムではなくて、新しい視点から考えられるべきではないかと思いました。
そのように学部と大学院を切り離して、開かれた大学院であるということを制度的に設計した場合に、大事なことはそういう制度の趣旨を生かした運用を、実際に法科大学院の運用に当たる先生方が、例えば入試の段階で本当に開かれたものであるという運用をするということが、非常に大事なことであろう。
司法試験が今、非常に弊害を伴っていると言われます。それは結局、日本の制度というものが非常に硬直的で縦に1本の線になっている。単線型である。それがいろんな意味での試験制度の制度疲労を来しているんだろう。もっと複線的な柔軟な、あるいは流動性のある制度というものをつくる。それを実際に運用の面で生かすということが、言われております試験制度の弊害というものを正していくことになるんだろうと思いました。
それから、先ほど会長のお話にもありましたように、今度の改革というものは、それこそ今までの社会構造というものを非常に大きく変える。司法制度について言いましたら、それは市民、あるいは国民に開かれた、国民が利用しやすい司法、あるいは法曹というものを目指している。そういう趣旨を是非徹底していただきたい。勿論、実際にそれを実行するところではいろいろな障害があるとは思いますけれども、できるだけその趣旨を貫徹するような制度を設計していただきたいと思います。
その点で仮に法科大学院というものをつくりますと、それを一体いくつ、どこに、どのようにしてつくるのかということが、恐らくこれからは一番難しい問題になってきますし、現在、この法学系の大学人が一番関心を持って見ておりますのは、実はそのことであります。しかし、これにつきましては、法曹という大事な国民の人権に関わる職業でありますから、それを養成するには、それなりの要件というものを備えた大学スタッフがいなければいけない、更にはカリキュラムもそれにふさわしいものになっていなければいけないという点で、法科大学院を認定するのに必要な最低基準といったようなものについては、全国的に統一をする必要があると思います。
しかしながら、それを超えて、更にそれにどのような付加価値を持った、あるいはどのようなバラエティーに富んだ科目を提供し、例えば現在の最先端の分野についても適用できるだけの法曹を養成するということは、それはそれぞれの大学、それぞれの法科大学院の事情によって違ってよい。同じ法科大学院といっても、そういう意味で非常に小さい最小限の要件を満たす大学から、非常に大きな、たくさんのメニューを持った法科大学院まで、いろいろな形の法科大学院があってよいと思います。
更に大事なことは、そういう法科大学院というものを、地域の人たちが自分たちの地域、あるいは自分たちの社会から送り出す、あるいはそこで養成をしたという意識を持てるような制度、つまり、最小限何らかの形で、地域の弁護士会なりがその設置に関わっていくということを制度としても保障する必要があろうかと思っております。
その点で、最近私が非常に印象に残りました例として、アメリカのハワイ大学のロースクールがございます。御承知のとおり、ハワイというのは本国から非常に離れた地域で、州としても新しいものでありますけれども、そのハワイ大学のロースクール、これも非常に新しいし、現在、アメリカ弁護士協会で認定されているロースクールの中では一番小さいロースクールであります。1973年にできたわけですけれども、できたときのロースクールの学生数が53名、教官の数が何と6名でありました。現在でも入学定員が80名、教官の定員は18名ということでありますが、現在ではハワイ大学のロースクールのプレステージと言いますか、評価というものは全米でもかなりのところに行っている。それについて非常にハワイの人たちが、あるいはハワイ大学の当局者がロースクールというものを非常に評価し誇りにしている。そういうことを実際にハワイ大学を訪問して見聞きしましたけれども、そういう地域の法科大学院というものに、できるだけそれに近い形で法科大学院というものが設置されるべきだ。そうしていただきたいと思います。
時間を超過したかと思いますけれども、以上で私の意見発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。(拍手)
【事務局長】ありがとうございました。
では、水元佑美さんにお願いします。
【水元氏】おはようございます。
私たち社会研究部は、去年から司法改革について研究を始めました。司法に関しては全くゼロからのスタートで、集った資料を見てもわからないことも多く、私たちの日常生活と司法の距離を改めて実感しました。それとともに、裁判所との距離感を感じ、民主主義社会の中で、司法が本当に市民にとって開かれたものであるのだろうか、という疑問が起こりました。
私が常々思うことの一つに、司法の難解さがあります。なぜ裁判所では、一般の人が一度や二度聞いたくらいでは理解できないような難解な言葉が、ごく当たり前のように使われているのかということであります。私はこのことが市民の足を司法から遠ざけている理由の一つではないかと思います。裁判所内で行われるやりとりは、傍聴人はおろか、被疑者のことなど全く考慮に入れていないかのように感じられます。あれほど難解な言葉を駆使する必要性が、私には今いちわかりません。
また、調べるにつれて驚いたことが、まず無罪率の低さです。諸外国に例を見ない0.1 %という数値にとにかく驚きました。私たち市民の感覚では、「起訴すなわち有罪」という方程式のような思い込みがありますが、改めて考えてみると、そのような方程式を持つ日本の司法の現状に疑いを持たずにいられませんでした。最近、冤罪や再審無罪という言葉をよく耳にしますが、有罪率99%ということを考えれば、このような判決をしばしば目にするのも妙に納得できるような気がします。
このような現状の原因として私たちは二つの点に関して問題を感じました。
一つは、現行の刑事裁判では検察官と裁判官の関係が強く、裁判官が検察寄りにいるイメージがあるという点です。これに関して、私は、裁判が極めて事務的で形式的なものになっているという感じを受けます。
二つ目の問題点は、裁判官の自白に対する信頼性が高いということです。たとえ裁判において自白内容を翻したとしても、なかなか信用してもらえないという現実があります。これは人間は簡単に虚偽の自白をするはずがないという先入観によると言われていますが、果たして人間はそれほど強いものなのか、私は裁判官との感覚のずれを感じずにいられません。
さまざまな研究を通して、これらの問題に対する、また、市民が司法に参加していないという事実に対する解決法の1つとして、私たちは陪審制度の必要性を感じ始めました。そこで、学校の保護者、生徒に陪審制度に関連してアンケート調査を行ったところ、次のような結果が得られました。
まず、市民の司法参加についてです。「我が国では司法に市民が参加していると思うか」という問いに対して、「そう思う」と答えたのは、生徒が3%、保護者が7%と、私たちの予想を大きく下回りました。反対に、「そう思わない」は、生徒が64%、保護者では87%、生徒に関しては、「わからない」が33%もありました。私たちの日常生活、あるいは学校生活では、司法について考えることはほとんどありませんが、このようにして聞かれて初めて司法との距離に気づくようです。
しかし、なぜ9割近くの大人が市民参加がないと思いながら、今までそのことを放置していたのでしょうか。日本人の政治への無関心さの表れのように感じました。そこで、「陪審制度がかつて日本にあったこと、また、停止されたままになっていることを知っているか」と尋ねた結果、生徒・保護者合わせて30%が知っていて驚かされました。私たち部員全員がこの事実を知らなかったことを考えると、この数値は驚異的なものと言えます。ただし、生徒のアンケート結果を見る限り、わからない、興味のないことだから、適当に回答したのではという雰囲気もあり、30%ということに関しては、疑問符付きです。
さて、私たちの考えている陪審制度を復活させることについでですが、生徒・保護者ともに、約23%が賛成で、反対は20%、後は「わからない」「どちらでもよい」でした。司法参加がなされていないということは、つまり、司法参加のための陪審制度を取り入れるという考えにつながると思っていましたが、必ずしもそうではないようでした。賛成、反対ともに、その理由を複数回答で尋ねたところ、賛成理由は生徒・保護者ともに大差はなく、上位順番から、「市民の司法参加は民主主義の基本である」が53%、「裁判に民意が反映される」が41%、「裁判が身近になり興味が湧くようになる」が35%という結果になりました。
しかし、一方で、陪審裁判に賛成でありなから、「職業裁判官の方が専門的知識があるので安心できる」という項目に52%もの人が回答していて、裁判官への絶対的な信頼が土台にあることがうかがえました。別の項目で裁判官のイメージを尋ねたところ、全体平均で「勤勉」48%、「優秀」37%、「正義」34%が上位を占め、保護者の中には「世間知らず」「冷淡」という厳しい回答も2割弱ほど見受けられたものの、大半が裁判官を信用している姿が示されました。
逆に陪審制度復活の反対理由には、保護者と生徒の間でかなり違いが見受けられました。80%の保護者が「陪審員は世論の影響を受けやすい」と答えているのに対して、生徒では46%。「陪審員が買収される可能性がある」では保護者62%、生徒38%。「日本人の人権感覚は人を裁くことになれていない」という問いに関しては、保護者が63%、生徒はその半分を下回る28%でした。ここでは生活体験の豊富な大人の感覚が見え隠れしています。特に、人を裁くということに対しての抵抗感が顕著に表れ出ていますが、私たちは、この感覚がよくわかりません。ただ、保護者も生徒も同じ結果が出た項目は、「素人に裁かれるのは不安」で、保護者29%、生徒26%でした。やはり裁判官への信頼が強いようです。病気のとき素人に判断されるより、医者に診てもらう方が安心できるという感覚によく似ています。日本ではなじみがないために、多くの人が陪審裁判に対して異質なものという先入観を持っているために、このようなアンケート結果が導かれたのではないかという感じがします。
しかし、本当に職業裁判官の方が陪審員よりもよいのでしょうか。私は必ずしもそうではないと考えます。陪審制度の意義として次の3点が挙げられます。まず、真実の発見のための最善の方法であること。つまり、陪審員の真実発見能力の優位性です。そして、民主主義的意義、そして自由主義的意義です。この3点から考えると、必ずしも職業裁判官の方が陪審員より勝っているとは言えない気がします。
そのほかにも、裁判官は法律のプロであって、任意に抽選された陪審員と裁判官という特殊の職業の人のいずれが、一般社会通念に通じているかと言えば、普通は陪審一般の方が社会的通念をよく知っているという利点もあります。また、複数の陪審員で裁く方が、一人の裁判官が裁くよりもより公平な裁判ができるではないかという考え方もあります。
陪審制度は完全に市民だけで進められる裁判ではありません。誤解されることが多いようですが、陪審制度では評決以外の手続はすべて裁判官が主宰します。市民による裁きへの多くの不安をアンケート結果から感じましたが、実際には正しい裁きがなされるかどうかは、裁判官が陪審員に十分な、そして理解しやすい情報を提供することができるかどうかということに左右されるとも言えます。裁判官と市民が共同で裁判を進めていくわけですから、それほど不安に思う必要はないと私は思います。むしろ、裁判官という特殊な職業についた、犯罪人を見慣れた人に裁かれるのではなく、自分たちと同じ社会的通念を持った市民に、同じような感覚で、そして慣れないために、推定無罪という原則に従順な市民に裁かれる方が安心できるかもしれません。
陪審制度の導入、これによって、あの司法の難解さが緩和され、市民の理解しやすい司法が実現するのではないかという期待もあります。民主主義をうたっている国の中で、陪審制度などを取り入れていないのは日本だけであるという事実を重く受け止め、これからの司法改革が実施されることを私たち社会研究部は望みます。
最後に、まだまだ研究途中にある私たちですが、社会研究部の一員として、このような貴重な意見発表の場を与えていただき、本当にありがとうございました。(拍手)
【事務局長】どうもありがとうございました。
では、次に山本茂様にお願いいたします。
【山本氏】私は法曹一元と司法への国民参加について意見を申し述べます。
私はキャリア裁判官として35年余り、弁護士として15年余りを法曹として過ごしました。ところで、判事を定年退官後、わずかながら弁護士の仕事をしてみますと、裁判所は被告人の捜査段階における自白をたやすく信用し、これを覆すことは容易ではないこと、被告人以外の者の検察官の面前における供述を録取した書面の特信性と信用性について裁判所の判断が一般的に甘いこと、時として、裁判所の判断が形式論理にすぎて、実情への踏み込みが足りなかったり、量刑もおおむね相場どおりで生きた裁判になっていないのではないかと思われるものがあることなどに気づき、また、民事行政裁判提起の困難さや、これらの裁判の長期化と実効性の不確実さが、国民を裁判所から遠ざけている面があるのではないか、などが痛感され、自戒を持って反省をさせられた次第であります。そして、裁判官は法律はもとより、幅広い社会、経済事象を理解できる能力が必要であると同時に、裁判を受ける側や、事件関係者の気持ちなど、人情の機微を知ることが必要であり、そのためには、裁かれる国民の側に立って、その人たちの権利を守る立場にあり、一般市民とも常に接触している弁護士の経験がいかに大切であるかを痛感し、弁護士の経験をした上で裁判官になるべきではなかったかと思うようになりました。
私個人としまして、判事補の期間は極めて充実したものであったと考えておりますが、しかし、今となってよくよく考えてみますと、人生経験の乏しい若者が、司法試験合格後、短期間の修習を修了したのみで判事補に任官して裁判官になるというような、我が国の現在の裁判官の任用制度が優れているものとは考えられず、このような制度を果たして憲法が想定したのであろうかとさえ疑われ、判事補制度は廃止の方向で検討されるべきではないかと考えるようになりました。そして、ひとたび判事補に任官した者は、ほとんどの者がそのまま判事となって、定年かその近くまで裁判官として当事者的立場を経験することもなく、常に裁く立場にあって、過重な事件処理に追われているように思われることから、この言わば純粋培養方式を主体とする裁判官の任用方式のままでは、裁判官はおのずと官僚的思考に陥りやすく、一般市民の生活感覚を的確に把握することが困難になるのではないかと思われ、このままで果たして裁判所か将来にわたって国民の信頼を確保できるであろうかとの疑念を抱き、今こそ判事補制度を始めとするキャリア裁判官制度についての現状を直視・検討し、裁判官を始め法曹人口の大幅増員を図った上、少しずつでも法曹一元制度の利点を取り入れて、裁判官任用制度の改善を図るべきではないかと考えるようになりました。
私は、司法の理想はあくまでも適正かつ迅速に事件を解決して、当事者と国民を納得させることによって、法の支配を実現し、国民の期待と信頼に応えることにあると考えます。そして、裁判所を国民に開かれた身近で利用しやすいものにすることが大切と思います。そこで、裁判官の任用制度を考えるに当たりましても、まずこのことを念頭に置かなければならないと思うわけでありますが、法曹一元制度の長所と短所、それと我が国現行の裁判官任用制度の優劣につきましては、既に種々論じられているところでありますので、私はこれらの議論は省略させていただきまして、法曹一元制度の導入についての具体的な試案を申し述べたいと思います。
まず、最高裁判所は、できるだけ早い時期に判事補の新規採用を停止して、3年以上弁護士の職にあったものを調査官などに採用する。判事は、従来の判事補経験者のほかに、第1に、右採用者のうち、弁護士、検察官-これは副検事は除きます。以下同じ-ですが、この職にあった年数と裁判所での右の勤務年数を通算して10年以上になるもの。第2に、10年以上、イ弁護士、ロ検察官、ハ別に法律で定める大学の法律学の教授、または助教授の一又は二以上にあって、その年数を通算して10年以上になるものの中から任命する。第1と第2の判事の人数はそのときの実務の必要に応じて決められるべきでありますが、将来的には次第に第2の判事の人数が増加することが望ましい、というものであります。
なお、判事の選任方法や報酬及び任期制運用の在り方、司法行政担当者の選任方法など、誠に重要かつ困難な問題があり、これらの点につきましても、最高裁判所と日本弁護士連合会との間に、かなりの意見の相違があるように思われますが、裁判官の任用制度の改善の具体化につれて、両者間に十分な意見の調整がなされ、人事についてできるだけ透明性が確保されますように御努力を期待するものであります。そして、現実には判事補制度廃止の方向が決定したとしても、この制度を直ちに全面的に廃止することは不可能であり、当然10年以上の一定期間は判事補制度を過渡的に存続させることは必要であろうと考えられますし、我が国の司法改革は、法曹の大幅な増員なくしては考えられないことですから、この間に多数の優秀な法曹人口の養成と確保に努め、これと同時に、まさに弁護士会こそが裁判官の主要な供給源となるべき責務を自覚して、所属の弁護士の中からいつでも必要数の裁判官の適任者を送り出すことができるように基盤の整備を急ぐことが大切であろうかと思われます。
さらに、またある期間は、キャリア裁判官と非キャリア裁判官とが共存することが当然考えられますから、私はこのときこそ双方のよさを生かすとともに、相互に足らないところを補うためにも、互いの経験の交流を図りながら、司法の現状と時代の推移に伴う任務の拡大と多様化、複雑化、高度化、国際化を見据えて、清廉公正の旧来の司法のよき伝統の上に、新しい裁判官像の形成に努め、新司法の在り方をつくる絶好の機会となるようにしていただくことを期待したいと思います。私は、特にこの際、法曹三者、なかんずく最高裁判所と日本弁護士連合会が、お互いの意見の対立を超えて、司法の理想実現のためには、まず法曹の協力こそが不可欠であるとの観点から、大局的立場に立って司法の運営に協力されるように切望するものであります。
次に、司法への国民の参加について簡単に意見を申し上げます。陪・参審制度の採用も望ましいことで、早期の実現を期待したいと思いますが、参審制度につきましては、ドイツ式のものを採用するとすれば、参審裁判官について、その任期、報酬、身分保障など、憲法上の制約が生ずると思われますので、必ずしもドイツ式のものでなくても、裁判官のやる気次第では、我が国で現在簡易裁判所で行われている司法委員類似の制度を民事、行政裁判の領域に、また、家事審判の参与員類似の制度を少年審判の領域に拡大することによって、相当の成果を上げ得るのではないかと思われますので、まず早急にこれらの制度の拡大と実効性の強化を図ってはいかがでしょうか。
陪審制度につきましては、とりあえずは刑事の重大事件で被告人が起訴事実を否認し、陪審裁判を希望するものに限って試行してはいかがかと思いますが、私は評決の効力が、裁判所を拘束することにすれば、憲法上の問題を生じないかという点と、陪審員の数は12人でなければならないか、あるいは評決は必ず全員一致を要するか、それから、現在停止中の陪審法によれば、陪審の答申を採択して判決する場合には、証拠を理由に判断を示す必要はなく、控訴もできないことになっておりますが、この点についても再検討の余地があるのではないか等の点を考えさせられております。
はなはだ粗雑で恐縮ですが、以上をもちまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。御清聴ありがとうございます。(拍手)
【事務局長】ありがとうございました。
それでは、最後になりましたが、吉田昭和さんお願いいたします。
【吉田氏】皆さんおはようございます。
ただいま御紹介いただきました吉田と申します。私は福岡市内で紙袋を製造している会社を経営しております。私、実は福岡県に中小企業家同友会というのがございまして、経営者の団体ですが、そこで日ごろ経営の勉強とか、あるいは経営環境の改善といった課題に取り組んでおりまして、そういう関係で今日はこういう機会を与えられたのかなと思っております。
ただ残念なことに、私自身は、司法とかいうことに大変遠い存在と言いますか、なじみが非常にないと感じておりましたので、今日はそういったことでやや被告席に立たされたという感じで意見を述べさせていただきたいと思います。総花的になろうかと思いますが、お聞きいただきたいと思います。
私ども中小企業は、全国的に法人事業数の99%を占めておるわけでございます。就労人口も70%をはかるに越しておるということで、社会的に見ますと、多数派、マジョリティーということなんですが、実際社会的な地位ということになりますと、弱者としての位置づけがなされておるというのが実情でございます。それはなぜかと言いますと、今までは経済至上主義ということで一生懸命、経済発展に取り組んできたわけでございますが、その中で大手企業というものが大変注目を浴びまして、中小企業は大手企業の補完的な役割ということで位置づけされてきたということです。いわゆる政官財の下部構造として、ある意味では利用されてきたという側面があろうかと思います。
ただ、そうした中で発言力も弱く、社会的な地位も弱者だったんですが、そういう経済発展の中で甘んじておったという実態もあったのではないかということでございます。こうして経済が低成長に入りまして、成熟化社会、あるいはグローバリゼーションという波の中で、我々がマジョリティーとして発言をしていかなければいかぬという意見が次第に中小企業家の中にも強まっておるというのが実情でございます。
そういうことでちょっと意見を述べさせていただきたいんですが、司法ということには、非常になじみがないわけでございますが、実は中小企業と司法の関係というのは、今からますます深まっていくというふうに私は感じております。と申しますのは、要は司法の利用者としてマジョリティーであるということじゃないかと思います。
今、非常に問題になっている、中小企業が抱えている問題、これは非常に多いわけです。金融問題などで貸し渋りとか貸し減らし、あるいは保証人の問題とか、商工ファンドの問題とか、トラブルが多発しておるということです。それと、やはり労使の関係におきまして、リストラ、首切り、待遇問題、あるいは組合の問題とかいうことがトラブルの種としてあるわけです。
また、今の情報化の中で、インターネットでの商取引などいろいろ盛んになってくるわけでございますが、この面のトラブル、あるいはここに絡んでビジネス特許とか、ソフトの特許とかいうことが出てきております。こういうことも勉強しておかないと、ある日突然商売ができなくなるということがありまして、そういうことからも、やはり司法との絡みで、利用していく立場にあるということが考えられるわけです。そのほか、当然のことながら交通事故とか、あるいは家庭の問題とかいうことで、司法と密接な関係があるというふうに感じております。
そういう関係で、国民として望ましき司法の姿がどうあるべきかということを考えてみたわけでございますが、先ほど申しましたように、我々はマジョリティーなんですが、実は発言権がないということは、日本の民主主義はいまだに国民主権ではない、非常に豊かな社会におりながら、そういう実態を我々は本当は知らないんだということを私は感じております。司法はどのように変わるかということは、やはり民主主義が発展する、国民主権の社会になるという視点が是非必要じゃないかと感じております。
実は、情報公開社会ということで、人とか物とか金とかいうのが非常に流動化して、世界的にそういうものがスピード化されて動き回っておるわけでございますが、そういうことの影響の中で、世界的な1つのルールが次第にできつつあるわけです。その中で感じますのは、「わかりやすさ」とか、「透明性」とかいうことが一つのキーワードとして上がってきているんじゃないでしょうか。そういう観点で今の司法を見ますと、日本の司法というのは旧態依然として、これは大変取り残されていくなと。機能しなくなるんじゃないかという感じを私自身は受けておるわけでございます。
民主主義の発展とか言いましたが、今までは裁く側の論理で構築された今の仕組みを、利用する側の仕組みに転換を図らなければならない。そういう意味では、今日のこういう会合というものは非常に意義のあるものじゃないでしょうか。是非利用者が利用しやすい仕組みをつくっていくことが民主主義であると私は感じております。
そういうことで、ではどういうふうに変えていくかということは大方皆さんが意見陳述されたとおりでして、重なるわけでございますが、3点お話をしたいと思います。
一つは、裁判官の資質ということです。登用の問題でございますが、これは私の偏見があろうかと思いますが、キャリア制度という今の制度に、いわゆる隔離された閉鎖社会とか、無菌状態の純粋培養、あるいは特権意識といったことがどうも感じられるわけでございます。それはある意味では全部否定できるものではございません。これはやはり裁くという論理からいきますと、冷徹な面が必要ではあろうかと思います。
一方、利用するという立場から言いますと、やはりその裁判から受けるところのものに説得性とか納得性とかいうことが必要でしょう。そういう見方からしますと、人間味ということが裁判官にも要求されるんじゃないでしょうか。そういう立場から見まして、やはり世事にたけたということも必要でしょうし、要は生活者としての明るさとかたくましさとか、そういうことも非常に共感する面が必要なわけでございまして、是非、弁護士経験、あるいは生活体験、社会体験を経た弁護士の方から裁判官を登用していただくということを是非お願いしたいなと思います。
もう一つは、地域に密着した利用しやすい利用者主導の司法であってほしいということであります。そういう観点からしますと、ハード面の充実が必要じゃないかと。例えば先ほどから話がありました裁判官の数の問題、勿論、弁護士も数を増やす。あるいは法廷の数を増やす。それから休日の利用、あるいは時間外ですね。我々は、仕事が終わってから利用できるという形が非常に望ましい。先ほど会長さんの方から話がありました。要は司法は社会の医者であるということでございますが、そういう観点からコンビニエンス感覚の司法になっていただく。それが地域密着じゃないかなというふうに感じております。地域になくてはならない司法であってほしいということです。
それから、最後にもう一点、国民参加型の司法ということでございます。これも先ほどから話がありました陪審制度というのは非常に興味深いものでございまして、要は事実認定ということに大変な時間と労力が掛かっておるという現状があるわけでございます。これをやはり民間の人たちが参加して、複眼的な思考、複眼的な判断で事実を認定していくという作業をやるということによって、裁判の公平性とか透明性、あるいはスピードアップというものが図られるんじゃないでしょうか。それと同時に、国民がこういうことに参加することによって、司法に対する関心が非常に高まる。そして、倫理感、責任感、使命感といったものが社会の中に醸成するという働きが期待されると思います。そういった意味で非常に重要じゃないかなと。
最後に、国民参加ということに絡みまして、国民による司法の評価という仕組みも必要じゃないかと思います。やはり現状をいつも評価していくことによって、司法を進化させるということをしていかないと、今の司法が旧態依然であるということは、進化していないということですので、進化する仕組みをここに入れていくという視点も必要じゃないかと思います。
そういうことが私自身の意見でございます。どうもありがとうございました。(拍手)
【事務局長】どうもありがとうございました。
6人の皆様方からそれぞれに貴重な意見をいただきました。これからはその御意見に対しまして、こちらにおります委員の方からいろいろと質問があろうかと思います。委員の質問に対しまして、公述人の方に答えていただければと思っております。
質問を出される方も、お答えになる方も、どうかお座りになったままで、そのお近くのマイクを御利用なさっていただければと思います。
それでは、委員の方から何か、トップ・バッターとしてどなたか御質問ございますか。
【高木委員】島袋先生にロースクールのことでお尋ねしたいと思いますが、今の先生のお話、今まさに先ほど会長が申し上げましたお話と感覚的にも非常に近いお話かなと思ってお聞きしたんですが、私自身は大学の法学部教育というのは、余り法曹養成という意味で実質的に今まで機能してこなかった。その反省が十分にない中で、大学法学教育と連動する形の法科大学院というのをおつくりになったときに、本当にうまくいくのかなと。同じように、予備校依存型の現状を更に追認するような仕組みになりはしないかと。そんな危惧を持っているわけでございますが、その辺どんな御印象なのか、どういう御認識なのかをお聞かせいただけたらと思います。
【島袋氏】これまでの法学部が法曹養成については今まで教育をしてこなかったという点はそのとおりだと思います。しかし、時代によっても違いますけれども、かなり古い時代にはそれなりの法学部での教育はかなり専門的な教育をしていましたので、学部教育だけを受けて司法試験に、かなりと言いますか、現在のようにそれほど長い試験勉強をしなくても通るというようなことがあったと思いますけれども、1つには、学部自体が、言われております大衆化と言いますか、それから日本の法学部というのは、法学部と言っても、その卒業生が全部法曹になるわけじゃなくて、むしろ90何%はそれ以外の、官庁に行ったり、企業に行ったりするわけですから、学部としての教育が法曹養成に特化した教育を全然やってこなかった、あるいはできなかった。そういうことがあるんだと思うんですね。ところが、一方では司法試験というものが、ある意味では弊害と言いますか、一発勝負というようなこともあって、通ることだけの教育にどうしてもなりがちだという反省が今度の法科大学院構想として出てきたんだろうと思うんです。
この法科大学院というのは、要するに大学院で教育を行うということです。確かに、大学院で専門職業人の養成をするということは、今までの大学院はどちらかというと研究者養成ということでしたから、これもまた新しい事態であることは間違いない。ですけれども、やはりどこかでそういうちゃんとした法曹養成のための法学の専門教育をやるという必要性があり、今のままではいかぬだろうと。そういう意味でやるとすれば、大学院レベルで、それなりのカリキュラムを持って行うということで、今のままの学部教育ということではないわけです。まさに特化した教育をこれから大学院レベルでやっていこうということですので、これまでの学部教育とはかなり違った教育をやっていかなければいけないわけでして、これはある意味では新しい試みだということなんです。ですから、法科大学院ができたんで、では、法学部の学部教育はどうなんだというのはこれから非常に大きな問題として残っていくんだろうと思います。私個人は、どちらかと言えばリベラル・アーツ的なものに学部教育というものは変わっていくべきだろうと考えております。
【事務局長】ありがとうございました。高木委員、よろしゅうございますか。
【高木委員】結構です。
【事務局長】水原委員、お願いいたします。
【水原委員】今の御説明に関連してお尋ねいたします。
現行の司法試験制度は存続することを前提になさるのかどうかということが一点。
もう一点は、もし存続しないとするならば、働きながら法曹になろうという者もたくさんいると思うんですが、その者に対する道はどういうふうに開けばよろしいとお考えになっているか、その二点をお教えいただきたい。
【島袋氏】いろいろ議論されておりますけれども、私個人は、法科大学院が本当にできますと、司法試験というものが、現在のような非常に選抜試験的な色彩の濃いものから、資格試験的なものに変わっていくことが理想だろうと。したがって、経過措置は勿論必要でしょうけれども、そういう資格試験としての司法試験という形に変わっていくべきだと。したがって、法科大学院を卒業した人の7割であるとか8割という人たちが合格するようなものとして試験制度を設計すべきじゃないかと思います。
働きながらということについては、これは例えば夜間大学院といったようなことが法科大学院についても、現在でも夜間コースということで昼夜開校というのがほとんどの大学では取られておりますので、それを法科大学院についても認めていくということでよろしいんじゃないかというふうに考えております。
【事務局長】ありがとうございました。水原委員、よろしゅうございますか。
では、ほかの委員の方、北村委員お願いします。
【北村委員】報告をお聴きしまして、非常に感銘を受けました。ちなみにその中で国民の利用しやすい司法制度を実現するために国民が司法に参加する、こういう視点から何人かの方から陪審制の導入というか、今、陪審制を取ろうと思ったらできるわけですけれども、それの復活ということと、それから法曹一元について主張がございました。
そこで私は上野さん、それから水元さん、山本さん、吉田さんに伺いたいと思いますけれども、国民の司法参加にしましても、それから法曹一元にしましても、ちょっと話を分けた方がいいかもしれませんが、国民の司法参加というのは、非常に響きとしてきれいに聞こえる。確かに必要なことであるということで了解できるんですけれども、その中で国民が司法に参加するために私はそこに国民の犠牲というものが必要であろうというふうに考えております。この国民の犠牲というのはどういう意味かと言いますと、やはり忙しい仕事の合間を縫ってとか、あるいは自分の時間を割いて司法に参加する、そういう意識が国民の中に生まれない限り、陪審制というのは難しいかなというような感じを持っているんです。
上野さんは是非陪審制ができたら参加したいというふうなお気持ちだったんですけれども、そういう国民のボランティア精神と言いますか、義務感というもの、それは日本の国民の中にはあるというふうにお考えなんでしょうか。そのことについて伺いたいと思います。
それから、法曹一元を主張なさった方には、今でも弁護士から裁判官になる道があるのに、非常にその道を行く人が少ないということを併せまして、やはり今の仕事を捨てて裁判官にということについては、ある程度自分の犠牲というものも考えていかなければならない。その点についてどうお考えなのかということを伺いたい思います。
【事務局長】それでは、順番に答えていただいてよろしゅうございますか。
それでは、上野さんからお願いいたします。
【上野氏】今、ボランティア精神というふうにおっしゃいましたけれども、裁く方の人数と裁かれる方の人数、例えば職業裁判官、弁護士、検察官の人数と、もしかすると被告になるかもしれない人の人数を考え合せると、圧倒的に被告になるかもしれない人の人数の方が多いわけです。ですから、ボランティアというよりも、いつ、自分がその場所に立つかということをみんな考えていいと思うんです。逮捕されるということは、私は今までに、かろうじてと言いますか、逮捕されたことはございませんけれども、また、この会場にみえている方も、ほとんどその体験をなさった方はいらっしゃらないと思いますし、特別に逮捕に慣れている方ーこの中に逮捕慣れされている方ももしかするといらっしゃるかもしれませんけれどもーそういった方は別として、ボランティアというよりも、いつ我が身に振り掛かってくるか、ボランティアというよりも義務感というふうに受け止めていいと思うんです。これは知らないから義務感を感じてないのであって、本当に陪審制度があったということを知ったら、責任感というものも出てくると思うんです。だから、陪審制度というのをもっと広めるということが私たちの司法へのボランティア参加ということで必要だと思います。
ですから、広告をしてください、コマーシャルをしてください。みんなに私たちは1人で裁かれているんじゃないということを教えていただければ、みんなが陪審員にならなくちゃいけないと考える。仕事が忙しいとか何とか、いろんな理由もあると思いますけれども、義務だったら、会社にお勤めの方とかには、会社の方で陪審員に選ばれたらお休みを是非与えますというふうに法律で決めたらどうですか。病気の方とかは別ですけれども。選ばれた人たちがみんな参加できるというシステムをまず整えていただければ、みんなボランティアの精神はあると思います。是非お願いします。
ちょっとまとまりが悪くてごめんなさい。
【事務局長】ありがとうございました。
それでは、順番と言いますよりも、北村委員の御質問から伺いますと、今、一番お忙しそうな吉田さんの方の御意見はいかがでしょう。
【吉田氏】私も今、上野さんが発言されたとおりだと思います。
今、日本の社会が成熟化社会に向かっておるということを先ほども申し上げたわけでございますが、そういう意味では国民の社会参加という意識が高まっておるんじゃないかという気がしております。ボランティアも最近非常に熱心にやられる方も出てきておられるわけでして、そういう土壌は少しずつでき上がりつつあるということを感じているわけですが、やはりこれを陪審制度を導入するということについては、いろいろな啓蒙活動はまず必要だろうと思います。そうしていきながら、次第にボランティアが言わば義務のところまで持ち上がる。社会に当然、義務としてそういうものはしなきゃいかぬのだというところまで持ち上がるまで啓蒙を続けながら高めていくと。その上で陪審制度を導入していくということが必要ではないかと思っております。そういう意味ではやりやすいんじゃないかなと思っております。
【事務局長】ありがとうございました。北村委員の御質問の名宛てにもございましたが、水元さん、御意見ありましたらよろしくお願いします。
【水元氏】高校生という身で社会についてまだよく知らないのではっきりしたことはわかりませんけれども、会社に入ってから有給休暇にしていただけるかとか、そういう周りの環境からまず整えていくことの方が大事で、整えることによって、陪審員になりたいという人が増えると思うんで、まず取り入れることも大事ですけれども、その前に制度を完全なものにするために、試験的にいろいろやってみることも大事だと思います。
【事務局長】ありがとうございました。
それでは、法曹一元の問題もございましたので、山本様、よろしくお願いします。
【山本氏】陪審の問題についてですが、国民の義務というふうに考えなきゃいかぬだろうと思います。勿論、ほかの国民も出やすいように理解をして協力するという考え方にならなければなかなか難しい。それから、裁判所の方でもある程度その人の事情を聞いて、例えばどうしてもできない場合には、半年とか先に延ばすとか、多少の柔軟性も考えなければなかなか難しい問題もあろうかと思いますが、お互いに国民の義務だという考えに立ってやらなきゃ成り立たないだろうと思います。
それから、弁護士から裁判官に任官する人が少ないということなんですが、今キャリア・システムの中で、キャリア裁判官の中に入るということは、これはいろいろ技術上の問題から見て弁護士には相当不安があるだろうと思います。一つは、弁護士になっても、これから裁判官になるということも、一つの、今度は弁護士の義務感というものがもっと確立しなきゃいけない。もう一つは、弁護士の共同事務所とか法人化とか、そういう形で、裁判官をして帰ってきても、ちゃんと弁護士がやれるというような制度がもう少し完備されなければいけないだろうと思います。いずれにしても、弁護士から裁判官になるというのは、弁護士としては義務に基づいてのことだということで、喜んで任官に応ずるという気風の醸成が非常に大事だろうと思います。
【事務局長】ありがとうございました。北村委員、よろしゅうございますか。
藤田委員お願いいたします。
【藤田委員】久能恒子さんにお伺いしたいんですが、医療過誤の訴訟に取り組んで努力していらっしゃること、大変感銘を受けましたけれども、お医者さんの医学的な立場からの鑑定が、身内のかばい合いというか、いいかげんなものが多いという御指摘がございました。私も裁判所にいた当時、何件か過誤事件を担当しましたけれども、そういう場合もあるのかもしれませんけれども、私の経験した鑑定では、非常に良心的に一生懸命やっていただいた鑑定も数多くあるように思います。
これは判決までいきませんでしたけれども、治療を誤って患者の方が植物人間になってしまったという事件で和解を勧告しましたら、その担当のお医者さんが教えを受けていたというある私立大学医学部長の方が、私の和解案の提示に非常に疑問を持って、会ってくれというお話がありまして、お会いして、お師匠さんの立場としては、自分の教え子が治療を誤ったとは思えない。しかし、裁判所の方で和解案として提示されたのは相当高額の和解金だったんですが、それは過失があるという前提での和解勧告だと思うけれども、どうしても納得できないので説明してほしいというお申し出だったんですが、いろいろお話ししまして、その事件では判決すると多分患者側の方の救済が難しいという事件だったこともあるんですけれども、それで和解で解決しようということでいろいろ事情を話しましたら、わかりましたと。それでは理事会を説得いたしますということで、説得していただいたような経験もございます。
そういうような人間的にも信頼でき、かつ、医療の点でもみんなを納得させるだけの力を持った方に誠実に鑑定していただくということが、こういう医療過誤の訴訟では是非とも必要なことでございまして、現在、裁判所が非常に困っておりますのは、鑑定をお願いしても引き受けていただけないということです。医師会とか大学の医学部などに推薦を依頼しても、引き受けてくださる方がいないということで、鑑定人を選ぶのに半年、1年掛かるという場合もあるわけですが、そういうことで適切な鑑定人を選ぶにはどうしたらいいかというのが裁判所の悩みなんですが、どういうような形でやれば、そういうような鑑定人を得ることができるのかどうか、その点について御意見はいかがでしょう。
【久能氏】鑑定を依頼する場合には、どういう人をまず考えるだろうかということが、いつも引っ掛かるんです。裁判官が考えていらっしゃるのは、より権威を持った人ということで選びたい、と思うんです。というのは、社会的にも地位がある人、大学の教授、教授であっても私立より国立の方がいい、国立でも旧帝国大学へというふうに考えていらっしゃるんじゃないかと思う。でも、そういう権威を持った方々というのは実際には医療現場、あるいは末端の医療事故について余り認識がないというか、お持ちじゃないという方もたくさんおられます。まして、先ほどおっしゃいましたように、自分の教え子だから過失ということは認めたくないとおっしゃる。自分の教え子だからこそ、きちんとした審理を受けて患者を救おうじゃないかという考えがなぜ発想としてないんだろうか。
こういう、トップで指導的立場の人が、きちんとしたお手本を示すということが日本の医療界にあるだろうか。もし、鑑定を引き受けて公正に表現しようとする意思があるなら、もう既に医学会、トップ・レベルの方々が、医療事故がこれだけ多いんですから、いろんなコメントとか公正に発言する場があっていいと思うんですけれども、これだけいろんな事故が表面化しているにもかかわらず、医学会としては口をつぐんでいるというか、余りそういうことは表明されていません。こういうことの中で鑑定を権威者に依頼するということに疑問を持つわけです。
先ほど申し上げましたように、本当に正しい公正な鑑定を書こうとするのに、すごくエネルギーと犠牲がいるんです。それを公正に書くために職業を失った人もいます。また、医師会とかいろんなところから左遷される場合もあります。私も何度か鑑定書というのを書いたことがありますけれども、書く前に、もし、これが医療ミスでなければいいな、何とか医師の立場でミスと認めなくて済むならいいなと思いながら書いた経験はあります。
勿論、非常に良心的な大学教授の鑑定もいっぱいあります。でも、中には故意に間違った鑑定も結構あるということも事実です。そこら辺をちゃんと第三者としての評価ができれば、あるいは鑑定がなくても裁判はできるということも考えてもらえるんじゃないか。市民感覚で、一般社会常識で判決することができるんじゃないかという期待を私も持っております。
【事務局長】ありがとうございました。藤田委員どうぞ。
【藤田委員】水元さんに伺いたいんですが。大変よく勉強していらっしゃるんで感心いたしました。福岡双葉高校の社会研究部は大変レベルが高いんだろうと思います。
非常に無罪率が低いということに疑問をお持ちになったということで、私は余り刑事裁判の経験はないんですけれども、統計を読みますと、刑事裁判の90%以上が自白事件というか、要するに自分が犯罪を犯したことを認めているという事件だということです。もう一つは、検察官がアメリカやイギリスと違いまして、起訴するかどうかということについて、検察官が起訴権を独占していて、起訴便宜主義と言うんですが、刑事罰を課するまでの必要がないというものは起訴猶予にするという制度があって、相当高いパーセンテージで起訴猶予になっているということがあるわけですが、逆に言うと、少し起訴が少な過ぎるんじゃないかという批判もある。十二分に公判で立証できる事件しか起訴しないという、その点ちょっと批判もないわけではないんですが、そういう背景があるということをちょっと申し上げておきたかったんです。
それと、陪審について、これを導入すべきであるというお考えだということを承りました。その理由の中で、真実の発見について陪審の方が優れていると。複数の目で国民の良識で見る方が真実により近づくというお話があって、確かにそういう面もあると思うんですけれども、アメリカなどで陪審での誤判の問題の研究がありまして、陪審で誤判の率が高いと。これは反対の意見もあるんですけれども、それをどうして防止するかということがいろいろ言われていまして、アメリカでは陪審になると、かつては隔離されていたわけですが、現在はほとんどの事件では自宅に帰ることが認められていますけれども、その犯罪についての報道には一切触れてはいけないということを裁判官が陪審員に言うんです。ですから、新聞とかテレビなどの報道に接してはいけないと。ただ、こういう情報社会ですから、テレビを見ないというわけにもいきませんから、実際上は触れているんだけれども、公式に触れているとか、あるいは陪審員同士で有罪かどうかということを話し合ったということになると、陪審員として失格ということで入れ替えるということになるし、あるいは陪審をやり直すということになっているんです。
イギリスでは非常に厳格な報道規制が行われておりまして、公判廷で行われたことを客観的に報道すること以外は一切報道してはいけないということになっているんですけれども、日本では情報社会と言いますか、新聞や週刊誌等でも既に犯罪についての非常に詳細な報道、あるいはもう有罪だと決めつけるような報道がされているような現象があるわけですけれども、そういうようなものは一切先入観としては排除して、陪審員としては、法廷に出てきた証拠だけで判断しなきゃいかぬわけです。ですから、水元さんのような方は将来法曹になっていただきたいと思うんですけれども、仮に陪審員になった場合に、そういうようなことで、報道による先入観というものを排除して、事実認定をすることはできると自信をお持ちでしょうか。
【水元氏】自信は少し欠けますけれども、報道が影響を与えるんじゃないかということに関して、私も研究の段階ですごく感じたんです。その問題点に関しては、報道規制が要るとか、そういう対処が必要だと感じたんですけれども、最初の点で、90%以上が自白によるものだというお話でしたが、私たち市民の感覚としては、自白は完全に使用できるものじゃないという観念があります。でも、聞いた話だと、裁判官の方は自白をかなり信用されていると。でも、私たちは、それは検察官との方とのやりとりのうちに、誘導尋問じゃないですけれども、そんな感じで自白させられたようなものがあるんじゃないか、そういう疑問を持って自白を聞くんです。
でも、裁判官の方が信じてやられるよりも、疑問を持って陪審裁判で複数の人間が裁いた方が本当に真実に近づけるんじゃないかなと。自白以上に物質的証拠とかを見て判断する方が真実により近いんじゃないか。そういう考えから、陪審制度の方がいいんじゃないかというのがあったんです。
それから、有罪になりそうなものを起訴しているという面では、確かにそれは無罪なのを起訴するはずはないですから、それはそうなんですけれども、例えば有罪の可能性が高いものを起訴していたとしても、99.9%はちょっと高過ぎるんじゃないかと。それだけ検察官の判断が合っているならば、裁判所は要らないんじゃないか、という意見に達したんです。(拍手)
【藤田委員】どうもありがとうございました。是非勉強して法律家になってください。修習生もこのごろは3割くらい女性ですから。
【事務局長】どうもありがとうございました。
では、水原委員どうぞ。
【水原委員】私も水元さんが大変よく勉強なさっていらっしゃるんで感心いたしました。いろいろな角度から、いろいろな疑問を持って質問なさって、そしてそれぞれの御意見をまとめてこられました。本当にありがとうございました。
私は検事を37年間務めました。裁判所が0.1 %の無罪しか出ない、裁判所は必要ないじゃないかという声があるのもよくわかっています。よく裁判所がろくに審理をしないから無罪が出ないとか、冤罪が生まれるんだという批判をする人がおりますけれども、それは違うんじゃないかということでございます。
我が国の無罪率が非常に低いのは、検事が起訴をするときに非常に高いハードルをつくっております。仮に自白があっても、ほかに証拠がなければ起訴はいたしません。この自白の吟味につきましては、私の経験で確かに自白をしたけれども、虚偽の自白だというのを私自身何件も発見しております。だから、検事の仕事というのは、警察官に調べられた自白が、本当の自白であるかどうかを裏付け証拠によって精密に捜査をいたしております。100 %に近い有罪の確信がないと起訴をいたしません。
これは反対に言うならば、疑わしきは被告人の利益、被疑者の利益、多少なりとも疑いがあれば起訴はいたしません。その結果がそういう数字に出たのではないかということでございますので、私は無罪率が0.1 %と諸外国にも例を見ないほどの低さである。これに関しては私は、冤罪が多く含まれているのではないかと思わざるを得ないというよりは、むしろ有罪の人を起訴しなかったというそしりはあるかもわかりませんけれども、0.1 %の無罪というのはそういう理由があるんだということ、これも勉強していただければうれしいんです。
それだけではございません。もう一つは、陪審の問題ですけれども、久能さんのお話によりますと、真実を可能な限り知りたいんだというお話でございました。陪審の場合は何が真実であるかということではなくて、有罪か無罪かの評決なんです。どういう理由で有罪なのか、どういう理由で無罪なのかについては一切表には出されません。また、判決書きにもございません。これで国民が納得するんだろうかと。裁判を受けて仮に有罪になった者が、どういう理由で有罪にされたのかという判決書きが全くないときに、これで納得できるだろうか。仮に無罪になったときに、その被害者が、あるいは一般国民が、真実は何かと、新聞記者は必ずそう言います。真実は何か明らかにしなかったんじゃないかとよく言われますが、そういうことでもよろしいのか。国民は納得すると思われるのかということを水元さんと上野さんにお尋ねしたいと思います。
【事務局長】水元さん、お答えになりますか。何かよく勉強している若い子が堂々と発言すると、どうもお年寄りはますます教え魔になるようでございまして、質問よりも教育の方が多かったようでございますが。
(「会場からの発言も願いします」と声あり)
【事務局長】また、後ほどにさせてください。
では、水元さん、今の質問にお答えいただけるならどうぞお答えください。
【水元氏】起訴率ですか。
【事務局長】それではなしに、最後の質問で、陪審で理由のない判決、要するに評決だけで、国民はそういう裁判に納得するだろうかというところを、若いお立場からよろしくお願いします。
【水元氏】確かに、判決理由がないということに関しては疑問を持つ方も多いと思うんですけれども、現状では、確かに判決理由は読まれていますけれども、すごく難しいという面があります。だけれども、陪審裁判を取り入れることによって、裁判官の方がいろんな証拠とかを陪審員、つまり法の知識がほとんどない人にとってもわかりやすいように説明されるわけですね。そうしたら、陪審裁判に参加している傍聴者にとってもわかりやすくなるということなんです。理由は確かに出ないから、その点に関しては、実際やってみて、不安が多ければ変えていってもいいと思うし、今の判決理由が難しい、そういうことがあるから、陪審裁判にして裁判官が陪審員にわかりやすく説明するという制度になれば、例えば判決理由を陪審員が言うにしても、もっとわかりやすいものになるんじゃないかと思うんです。だから、判決理由の点に関しては、まだ研究不十分でわからない点もあるんですけれども、今から変えていく必要性もあると思います。
【水原委員】陪審の問題は判決理由がないということ。これについてみんなが納得するかどうかということが非常に大きな問題の1つなんです。それについて。
【水元氏】裁判官がわかりやすい説明をされれば、どういう状況に陪審裁判がなるかはわかりませんけれども、傍聴していてわかりやすいとかいうことになれば、理由がそのまま出なくても、聞いている側にとってもわかりやすいんで、陪審裁判に参加している人にも、陪審員がどういうふうに考えてこういう結論に達したかということも、もっとわかりやすくなると思うんです。(拍手)
【事務局長】ありがとうございました。
上野さんにもお答えを願えますか。
【上野氏】勉強不足の上野です。済みません。
私はまず裁判を受けるときに、陪審制で裁かれたいか、また、現在行われている裁判で、専門家によって裁かれたいかということをお尋ねになられたらどうかと思うんです。そのときに陪審制で裁かれたいとおっしゃる方もいらっしゃるわけですね。
陪審員というのは、本当にみんな普通な人なわけですね。全然専門知識を必要として選ばれた人ではないわけですから、そういう一般的な人が一般的な人を裁くということは、職業裁判官が一般的な人を裁くというよりも、理解できる範囲が同じだと思うんです。
ですから、難しい専門用語、法律用語が続いて、最後にあなたは無罪です、有罪ですと言って説明されるよりも、かえって通ずるところがあるから、こういう証拠が出て、こんなんであの人たちは多分こんなふうに考えたんだろうと、さっき水元さんもおっしゃったことと同じなんですけれども、わかるんじゃないかと思うんです。だから、かえって納得できる。判決に理由が付いていなくても、陪審制度の方が、納得できる可能性が高いと思うんですけれども。
【事務局長】ありがとうございました。
では、高木委員、お願いします。
【高木委員】会場の人、ちょっと待ってください。もう少しで終わりますから。
水元さん、今、御質問されたお二人は陪審制が余り好きじゃない人で。(拍手)
【藤田委員】そんなことはない。
【高木委員】そんなことではないそうですが、いずれにしても賛成、反対いろんなのがあって、陪審については、いろんな意味でまだ誤解があるというか、国民の皆さんの中に、陪審制度とは、そもそもどういう裁判なんだということの実態を御理解いただいている方々の比率がまだ非常に低いんだろうと思うんです。
そういう意味では先ほど山本さんから御提起がございましたように、刑事事件の、かなり重大な事件で、否認事件で、選択的にということから、もし日本でも再開するならしていったらどうかとか、それぞれの国の国民や社会のいろんな紛争処理に対する感覚とか土壌みたいなものの違いもありますから、日本で国民の司法参加を実現するにはどういう工夫が要るのかということもみんなで知恵を出していくことかなと思っております。これは御意見をいただくというのではなくて、今日はこんな勉強していただいているというのを聞かしていただいたんで、大変うれしかったんで、もっと勉強して陪審を広めてほしいと、陪審賛成論を増やしてほしいというお願いでございます。
1つだけ久能さんにお尋ねしたいんですが、医療過誤事件について専門参審的なお考えがあり、ただし、これは今、久能さんが御心配のように、同じクラフト・ユニオン、ギルドに属する者同士が傷のなめ合いをするんじゃないかという意味で、かえっておかしなことになるんじゃないかという御反対の弁護士さんも多いというふうに聞いたりしておりまして、先ほどの御意見は、専門参審的な立場の方に医療専門家がお関わりになることに反対というふうにお聞きすればいいのか、条件付き賛成ということなのか、その辺りをお聞かせいただけたらと思います。
【久能氏】条件付き賛成といった方がいいのかもしれませんけれども、なぜそうせざるを得ないかということに掘り込んでいただきたい。医療事故というのは、統計的に取れば、アメリカでは入院患者の1%は医療事故によって死亡、あるいは重篤な障害というふうに統計が出ています。今からも、まだまだこれどころじゃない、もっとたくさんの事例が上がってくると思うんです。その中で全部審理しようと思ったらとてもじゃないです。裁判所はパンクしてしまいます。
そうじゃなくて、何故被害者が裁判を訴えて、原告となるのかというそのプロセスに目を向けてもらいたい。その中には医療ミスだからと言って訴えようとしていない人がほとんどです。私は統計を取りましたけれども、もし医療ミスに遭ったときに、病院が誠意ある対応をとった場合でも、あなたは訴訟を起こしますか、との問いに対して9割の方がノーと言っています。でも、裁判に訴えざるを得ないという状況をつくったのはどこだろうか。また、裁判の審議の中では、そういう情的なもの、ソフトな面というのはゼロに評価されて、ハードな面で、因果関係がどうだとか、立件・立証をどうするかとか、本当に法律用語で語られて、被害を受けた人はわけがわからなくなってしまう。そして、いつの間にか蹴られてしまって、また泣き寝入り、というのが現状だと思うんです。
条件付きというのは、良心的に、公正に、公平に鑑定書を懸命に書きましょうというドクターたちも結構たくさんおられるんです。その方たちの意見とか鑑定というのを全部一蹴してしまう法曹と医療界の構造的なものがあると思う。そういう良心的な医師たちの意見をもっともっと反映すれば、必ず鑑定を正直に書こうという人は出てくるはず。そういうことが医療事故を防ぐ、また、過ちを繰り返さないという根源になる。患者、一般の人を救うことになる、これが私の考えです。ですから、条件付きと言った方がいいかもしれません。
【事務局長】ありがとうございました。委員の方からの御質問はほかにはありませんか。それでは会長お願いします。
【佐藤会長】会場の方にすぐに移しますので、ごく簡単な質問だけ、島袋さんにお願いしたいんです。
先ほど高木委員の御質問ですが、私も大学人の1人として、果たしてどれだけの責務を果たしてきたのかと。ロースクールになって立派にやれるのかと言われると、内心じくじたるものがありますけれども、しかし、やはりやろうという気になっているときに、やらせてくださいという気持ちが一面また強いわけであります。
それはともかくとして島袋さんに伺いたいのは、先ほどロースクールをつくるについてミニマムな基準が必要だということをおっしゃいましたが、他方でハワイ大学の6人くらいのスタッフでということも最後のところでメンションされました。島袋さんとしては最低基準というものはどのようなものとして具体的にお考えになっておられるのか。その辺ちょっとお伺いしたいと思います。
【島袋氏】ハワイ大学の場合も一応ABAのアクレディテーションの要件を最低満たしている。具体的にこれまでということは申せませんけれども、少なくとも通常の民事裁判、あるいは刑事裁判、それを引き受けて遂行するだけに必要な、例えば今で言えば司法試験の受験に必要な科目についての知識、及び、恐らくは司法倫理、そういったようなものも必要だろうと思います。具体的に詰めてこれこれということはまだちょっと考えておりませんけれども、あえて言えば今言いました六法プラス司法倫理とかを含めたものだというふうに考えています。
それ以上に、例えば最先端の国際取引であるとかいうものが経済界辺りから非常に強く要請されている。それをやるに越したことはありませんけれども、常にそういうものに応えられるというようにハードルを余り高くするということは必ずしも必要ではないんじゃないかというのが私の意見であります。
【事務局長】ありがとうございました。
では、委員の皆さん、よろしゅうございますか。
それでは、せっかくの機会でございますから、残り時間も少なくなりましたけれども、お集まりいただきました傍聴者の方々から御意見がありましたら承りたいと思います。地方公聴会の趣旨は広く国民の皆様の御意見をお聞きしたいということを目的としております。したがいまして、この機会に御発言なさる方は御質問というのではなしに、御自身のお考えをお述べいただきたいと思います。もう一つ、法曹関係者はいろいろと申し述べる機会がござろうかと思いますので、できましたら法曹関係者は御遠慮願いたいということでございます。
当てられました方、マイクをお渡しいたしますので、お名前と御職業だけでもお名乗りいただければと思います。
では、最初から挙げられているあの方にお願いいたします。
【傍聴者(1)】北九州市から参りました中島タケシと申します。
私は、ボランティアで元気を出してくださいと会長先生もおっしゃいましたけれども、74、75になりますけれども、実はいろんなボランティア活動をやっていて、今、検察庁がだめになっています。今、検事正と検事2人を、県庁問題を全然受け付けないから、裁判しているんだが、マスコミは全然報道しません。今度の7月4日に高等裁判所で、私が検事正と検事2人を徹底的に、なぜに県庁の59億問題を告発したのに受理しないのか、ということで裁判をしております。どうぞ傍聴においでください。報道機関が全然報道しないので、裁判長に、第一審のときに、報道機関一人も来ていませんねと、ちゃんと確認させております。だから、今の報道機関自体が、私の、そういうふうな県庁問題のことでも報道しません。臓器移植のことで、私が3年前にNHKを裁判したことも全然報道しません。警察官のストライキも皆さん御存じないでしょう。私は前警察官で、警察官のストライキについて、全報道機関、週刊誌まで、首相を始め、各大臣までやりました。5,000 冊、私の給料はもう、今12万の年金生活だけれども、自分の生活費を節約して全報道機関にも寄贈しました。それを一言も報道しません。だから、7月4日午後1時から検察庁を徹底的にやっつけますので、どうぞ来てください。
検察がなぜに、私、苅田にも住んでおりまして、苅田の8,000 万円の横領、それを検察がわっときて、ただの1件も起訴せんで引き上げました。国費のむだ使いじゃないですか。だから、私は徹底的に、インターネットを今勉強して、インターネットで報道機関が報道しないから、全世界に報道します。
そういうことでございます。
【事務局長】ほかの方いかがですか。
【傍聴者(2)】大門と申します。仕事は行政の職員をやっております。
北村委員の質問の中にもありました陪審や市民参加、言葉はきれいだけれど、今の日本の国民性に根づくのかというのがありましたけれども、私、行政職員ですけれども、行政の方ではさまざまな市民参加のシステムがあります。福祉だったら民生委員、保護司、青少年指導員、PTA、数だけ挙げても多分数十以上あると思います。無報酬のものも挙げましたら、毎月かなりの頻度でお仕事とか休んで出てきていただいているものもあります。
司法の場合でしたら検察審査会があります。審査会の方はほぼ陪審員と同じようなシステムで選ばれています。こういう制度が今機能していないのか。行政の方では、市民参加は全然国民性になじまないな、市民参加をやめていく方向かと言ったら全然逆で、どんどん増やそう、これはいいことだ、やっていこうということでやっております。
また、検察審査会の方も機能しないね、国民性になじまないから廃止ですねという論議ではないですね。あれも一応国の見解では非常によくやっていただいているということなので、実際にそういう実績があるのに、わざわざ司法だけは市民が参加できない、国民になじまないだろうというのは、恐らく想像の話ではないでしょうか。また、なじんでいない、前歴がないということは、導入してなかったら、委員さんも言ったように、初めてのものは何でもそうです。みんなから保険料を徴収して介護をやろう、そんな制度は全然なじんでいないのに介護保険は始まりましたし、飴玉1つ買っても間接税を取ろうと、消費税はなじんでないけれども始めましたら、それはやるしかないですし、いいことであると踏めば必要だと思います。
昔の陪審員のときに親の危篤でも駆け付けたという例があって、国民の陪審意識はすばらしい。明治時代ですか、大正ですか。そのころは民主主義がまだ不十分じゃないころでも、国民はそういうふうに頑張ったんですから、今、それができないであろうと思われるのは、逆にそう思われる根拠の方が私は疑問です。
特に藤田委員もおっしゃいました。例えば水元さんにマスコミに左右されない自信がありますかと質問されましたけれども、私は逆に裁判官をされていた藤田委員に、マスコミに左右されなくて裁判をされていましたかと私は聞きたい。多分、自信があります、やっていましたとおっしゃるでしょう。そうなると、逆に藤田委員がマスコミに左右されずにできましたというのを、何で市民の人はできないだろうと思われるんですか。わざわざ休みの日に、雨の日に、ここまで朝早くから来て、こんなに駆けつけてくださっている人でも、マスコミに流されるだろうなと思われる方がちょっとおかしいと思います。(拍手)
また、水原委員も、聞いていて非常に苦笑いしましたけれども、仮にも意見公聴会で意見を聞かしてくださいと言って来ていただいている人に、これはこうだから、よく勉強してくださいという、仮に相手が学生さんであっても、年下であっても、意見陳述の方にこれこれこうだよ、今の司法はこうなんだから勉強しなさいというような、このような感覚でおられるから、多分市民の参加はないだろう、市民の意識は低いだろうとお考えになる。(拍手)
そう考えますと、市民の参加ができないと思われているのは、多分委員さんか、法曹関係者の方だけだろうと私は思いますので、是非本当に市民の声を聞いてください。特に福岡の女子高生でもちゃんとアンケートをして客観的に判断しているんですから、天下の最高裁や内閣の審議会ができないはずはないので、是非よろしくお願いします。
ありがとうございました。(拍手)
【事務局長】どうもありがとうございました。
では、どうぞ。
【傍聴者(3)】今まで余り意見として出なかったんですが、私が考えておるのは、行政訴訟のことなんです。行政訴訟について、今の日本の場合は、個人の権利とか利益とかいうようなものに行政処分があった場合にのみ訴訟ができるというような関係になっているようでございますが、今のところ社会的には、やはり行政に対する不平等とか、それから一部に人間に対する利益とかいうような問題が、国民の中から広く出てきていると思うんです。そういうことに対して、行政訴訟関係で、こういう場所、そういう方面を改革してほしいというような意見が今まで出てきたのかどうかですね。そういうことについて委員さんたちはどんなふうに考えておられるのか。そういう点をちょっとお聞きしたいと思って質問します。
【事務局長】その点もまた審議会の席でいろいろと議論をしていただくことになっておりまして、今日は皆さんの御意見を伺いたいということですので、また、インターネットなどを通じたりして、我が審議会の議事録をごらんになっていただきまして、御理解いただければと思っております。
【傍聴者(4)】私の言いたいことの結論から言います。
障害者の人たちの立場で物を言わしていただきたいと思いますけれども、今日は天気が悪かったので、是非来たいと言っていた車椅子の人たちも来られなかったんですけれども、私が言いたのは、司法制度改革、これをバリアフリーの司法制度改革にしてほしいと思います。なぜならば、今、発言された方はみんな元気な方だし、体に障害を持っていない人たちばかりです。でも、私たち障害を持つ人たちも市民です。市民としての権利があります。だから、市民的権利を実現するために、是非司法参加にもバリアフリー、障害を持っていようと持っていまいと、そういう人たちが参加できる制度をつくってほしいです。
検察審査会のことを大門さんは申しました。検察審査会も、ごく最近まで目が見えない者、口のきけないものは委員として参加することはできなかったですね、佐藤先生。私たちが思うには、今までの司法制度が、障害を持つ人たちをかやの外に置いて、その人たちを想定して法律とか制度がつくってこられなかったことに原因があると思うんです。障害者は、今576万人、これは国の調査ですけれども、身体障害者が317万7,000人、知的障害者が41万3,000人、精神障害者が217万人です。合計しますと576万人おります。これも先ほどマジョリティーとかおっしゃっていましたけれども、少数者ではありますけれども、市民的権利を持った人間です。だから、個人の尊厳は確立されるべきだと思います。
佐藤先生のお言葉を借りれば、憲法の究極的な目的は個人の尊厳を確保することにあると思いますので、是非そういうことも含めて、障害者にとってもアクセスしやすい裁判所、司法制度をつくり上げていってほしいなと思っております。今日来られなかった仲間の思いを込めて意見を述べさせていただきました。
ありがとうございました。福岡市内から参りました工藤と申します。(拍手)
【事務局長】どうもありがとうございました。
もう1人、奥の女性の方どうぞ。
【傍聴者(5)】私は民事裁判の経験があるんですけれども、久能さんにちょっとお尋ねしたいんですが。
【事務局長】お尋ねよりも御自身の御意見を言っていただければと思うんですが。
【傍聴者(5)】そうですね。裁判の不公正ですかね。そのことを久能さんも言われたんで、その原因はどこにあるか。これをお尋ねしたかったんですよ。
私の体験では、裁判官の勉強不足というのがはっきりわかったんです。久能さんもそういうところに気がつかれたかどうかということをちょっとお尋ねしたかったんです。判決で事実誤認が生まれるというのは、結局、その裁判官の勉強不足、失礼かもわかりません、勉強する裁判官もいると思います。だけれども、勉強不足が事実誤認が生まれる発端じゃないかというふうに思うんですよ。失礼なことを言ったかどうかわかりませんけれども、そういう経験をしました。
【事務局長】せっかくですから、久能さん、20~30秒で何かお答えできますか。それとも、もうよろしゅうございますか。
【久能氏】原則としてお答えすることになっていませんということですけれども。
不公平ということでは、医療の場合には、訴えられた人と、訴えた人では、大体専門家か素人か、あるいは地位があるかないか、大体において経済的に裕福か貧乏か、まずそこら辺で上下が決まってきているような気がします。
それ以上は個人的にまたお話しします。
【事務局長】ありがとうございました。
それでは、御質問ということではなしに、御意見ということで、あと一人の方、最初から手を挙げられた方どうぞ。
【傍聴者(6)】島田と申します。手短かに申し上げます。
今日は6名の方の意見発表ということでございますが、埋もれた意見が相当あると思います。是非そういった意見を十分精査をいただきまして、審議会でひとつ議論していただくようにしていただきたいという要望でございます。
それから、陪審制度の関連で、私の提案といたしましては、忌避の申し立て、それから分限の申し立てなどにおいて、実際的な裁判の指揮運営について、問題があるかないかを陪審員でチェックする。こういった審査機関をまず第一歩としてやるべきじゃないか。社会の変化に司法の制度が付いていっていないという現実を非常に痛感するわけです。
これからも、できれば、特別裁判所というのはなかなか難しいかと思いますが、裁判官の方に専門職というものを導入すべきじゃないか。時間は掛かる、費用は掛かる、こういったことで、現実的に、例えば住民訴訟とか行政訴訟とか、非常に専門性の高いところで大変裁判がうまくいかないと、こういうことを実感として持っておるわけでございます。
是非そういう点で、今の世の中の変化に裁判所の体制、裁判官の質的な能力、それから、官支配的な面、こういったことの制度疲労が非常に気になるわけでございますので、その辺、是非ひとつ御考慮をいただきたいということでございます。
よろしくお願いをいたします。(拍手)
【事務局長】それでは、予定の時間も参ったようでございます。本日は6名の公述人の皆様、それから多数お集まりいただきました傍聴の皆様方、本当にありがとうございました。皆様方からの貴重な御意見を承りまして、委員各位におかれましても、それを参考にして、今後有意義な審議を尽くしていただけるものというふうに思っております。
本日の公聴会におきます御意見等は、当審議会の事務局におきまして、整理いたしまして、審議会の会議におきまして、他の委員の方々にもお伝えすることとしております。なお、当審議会のホームページにおきましても、この公聴会の内容をそのまま公表したいと考えております。
今後とも国民にとってより身近で利用しやすい司法制度の実現に向けて、皆様方の御理解と御協力をお願いいたしまして、この地方公聴会を閉会とさせていただきます。
どうもありがとうございました。(拍手)