司法制度改革審議会

第4回司法制度改革審議会議事録

日 時:平成11年10月 5日(火) 13:00 ~ 17:00

場 所:司法制度改革審議会審議室

出席者:
(委員、敬称略)

佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、髙木剛、鳥居泰彦、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本勝、吉岡初子
(説明者)
佐々木毅東京大学法学政治学研究科長・法学部長、
松尾龍彦氏(司法評論家・元NHK解説委員)
(事務局)
樋渡利秋事務局長

(議事次第)

  1. 開 会
  2. 佐々木毅東京大学法学政治学研究科長・法学部長からの説明
    「21世紀型ガバナンスと法曹の役割」
  3. 松尾龍彦氏(司法評論家・元NHK解説委員)からの説明
    「動脈硬化の危機・停滞許されぬ司法改革」
  4. 21世紀の我が国社会において司法が果たすべき役割等についての意見交換
  5. 閉 会

【佐藤会長】 それでは、4回目の会議を開かせていただきます。

 本日は既に御案内のように、佐々木毅東京大学法学政治学研究科長兼法学部長と、それから松尾龍彦元NHK解説委員に、お忙しいところではございましたけれども、お越しいただいてお話を伺うことにいたしました。

 佐々木学部長からは、「21世紀型ガバナンスと法曹の役割」と題しまして、お話しいただきます。

 それから、松尾さんからは、「動脈硬化の危機・停滞許されぬ司法改革」という題でお話をいただくことになっております。

 また、本日は21世紀の我が国社会において司法が果たすべき役割などについて、委員相互の間のフリートーキングと申しますか、自由な御審議をいただきたいと考えておりますので、よろしくお願いいたします。

 本日のタイムスケジュールとしては、まず佐々木学部長から30分程度お話しいただき、その後、30分程度の質疑応答ということでございます。

 続いて、松尾さんに同じように30分程度お話しいただきまして、30分程度の質疑応答と考えております。

 それから、休憩をはさんで、後半の意見交換を行いたいと考えている次第です。

 では、早速佐々木学部長からお話をお聞きすることにしたいと思いますけれども、御経歴を簡単に御紹介しますと、佐々木学部長は、昭和17年秋田県でお生まれでございまして、東京大学法学部を御卒業後、同大学助手、助教授を経て、昭和53年から教授、平成10年からは法学政治学研究科長及び法学部長をお務めでございます。申すまでもなく政治学が御専門でございます。

 それでは、佐々木先生、よろしくお願いします。

【佐々木教授】 本日はお招きを賜りまして、誠に恐縮でございました。佐藤先生からお話がございまして、出てくるようにということでございましたが、私は法律の単位は取ったことはあるんですけれども、法律学をやっている者ではございませんから、そういう意味でちょっと違う角度からお話しを申し上げるということで御承諾をいただいて、今日参ったところでございます。ですから、法学部長となっておりますけれども、これは本当はないものと言いますか、あってもなきが如きものだというふうに御了解いただければと思うんです。政治学者の一人という観点でこの問題をどう考えているかというお話をさせていただきたいと思います。誠に簡単なものしかお手元にお出しすることができず、松尾先生との比較劣位は明確なことであります。まず、皆さんがおわかりのことは私も繰り返すつもりはございませんけれども、21世紀型ガバナンスという言葉を使った趣旨は、やはり20世紀型とはかなり大きく違ってくるんだろうなという認識を私自身が持っているということを示すためでございます。

 20世紀は、そこにもございますように、やはり統治というものにふさわしい時代であったのではないか。ここに来てガバナンスという言葉が出てきましたのは、どちらかというと、統治は統治なんですけれども、何と言いましょうか、1か所に権力を集めてかなり垂直的な形で、それこそ権力を行使するというような仕組みとは違ったものに徐々になっていくんだろうということがあるものですから、ちょっとカタカナで慣れませんけれども、ガバナンスという言葉を使わせていただいたところでございます。

 政治学の方で司法の問題、あるいは法曹の問題、これはいろんな形で歴史的に扱われてまいったわけでございます。ただ、20世紀は余り面白い議論を私は作らなかったと思います。法曹ないし司法についての議論は若干ございますけれども、余り華々しい議論はなかったというのが私たちの認識でございます。それは恐らく司法ないし法曹というものとは違ったアクターがむしろ目立つ世紀であったということでございましょう。

 そういう意味で、そこによく言われますように、官僚制、これも私の認識ではミリタリーの方の官僚制もありますし、それからノン・ミリタリーの官僚制もありますけれども、行政官僚制と言いましょうか、こういうものが大変役割として大きな時代であり、それをつなぎとめていたのが、20世紀における国家という概念の非常な膨脹と権力の集中という仕組みではなかったかと思っております。

 20世紀に作られた政治概念として、トータル・ウォー(総力戦)という言葉がありますが、これは19世紀にはなかった言葉でありましょうし、それからトータリタリアニズム(全体主義)とか言ったもの、これは19世紀にはなかった20世紀の言葉であろうと思います。そういう意味で、非常に全体的、全体統治的、あるいは権力集中的なシステムというものが20世紀において登場したということがございまして、アクターの間の非対象的な関係というものを前提とした権力行使のシステムがかなり支配的な位置を占めたということがあったのではないかと思うわけでございます。

 これは皆さんよくおっしゃることでございますので、私は繰り返すことはいたしません。 それに対して18世紀とか19世紀はいろんな議論がございました。三権分立論などというのはその一つの典型的なケースでございまして、司法部というものをいかにして強化し、かつその役割を確保するかということがモンテスキュー以来の三権分立論の隠されたテーマ、大きなミソでございます。

 つまり、いろんなアクターが権力を求めて争うというときの最後の裁定者をどこに求めるか。それをジャッジする権限を持つ者がある意味では秩序全体の間接的な管理者になるという仕掛けがそこに込められていたわけでございます。一見受け身のように見える司法部が、実は全体のマネージメントの最後の砦としての役割を暗黙のうちに想定するというような意図が、少なからずその中には込められていたことは皆様御存じのとおりでございます。

 恐らく民主政治と法曹というこの問題が、最も大々的に取り上げられましたのがアメリカ合衆国においてでありました。これはいろんな文脈がございますけれども、一つは、私の感じでは、貴族政というものがなかったということがあると思います。あるいは身分制でもって秩序の問題を説明することができなかった国というのは、あそこだけと言えばいいか、あそこが典型的な例でございましょう。

 そこで、どういうふうにして社会というものを統治していくか。民主政治も一種の統治のシステムでございますから、ただ、みんなが政治に参加するというだけののんびりした話ではございませんで、統治をいかにしていくか。そこで二つ論点があったと思うんです。

 一つは、三権分立論に代表されますように精緻な機構を作るということ。しかし、機構を作っただけでは動きませんので、一体どこにポリティカル・クラスと言いましょうか、政治的なリーダーシップを担う人々を求めるかと。アメリカの場合に、貴族とか王とかいうものは全然使えませんので、どこに求めるかということが、ここでは極めて深刻な問題になったと思います。

 非常にラフに申しますと、私はそこで機能的なアリストクラシーという言葉を使わせていただきます。これは私の言葉ではなくて、当時一般的というか、暗黙のうちに使われた言葉です。アリストクラシーというのは言うまでもなくナチュラル・アリストクラシーという意味でありまして、世襲に基づくアリストクラシーではなくて、能力に基づくという意味でのナチュラル・アリストクラシーというものでございます。

 さて、そこでどういうふうに法曹を位置づけるか。デモクラシーとの関係で位置づけるかということにつきまして、私たち政治学者が共有している一つの知識がございまして、それはフランス人のトクヴィルという人物が著したものです。この人自身が法律家でございますが、アメリカの監獄を視察に1830年にアメリカに行ったという人でございます。この人が『アメリカの民主政治』という本を書いたんですが、その中で最も注目すべき一つの部分というのは、アメリカにおけるリーガル・プロフェッションの役割の非常に大きなことに注目したこと、これには彼自身が法律家であったということもあったろうと思うわけでございます。

 つまり、デモクラシーというものはほうっておけば非常に暴走をする、あるいは一時の熱狂によって、あっちへ動いたり、こっちへ動いたりするということが民主政を巡る議論の中でずっと続いてきた問題でございまして、これを何かの形で、言わば水路に流し込んでいって、安定した民主政を作らないと自滅してしまうというのが、政治学者たちの強迫観念であったわけでございます。フランス革命がまさにそういうものとして、次にはナポレオンに行き着くというような形で、言わば一種の自滅に至ったということ、つまり民主化というものは可能でも、民主政というものはなかなか持たないという問題があったわけでございます。フランス人ですから、その問題については非常に感覚が鋭かったということでございます。

 私も含めてそうですけれども、私たちはみんなこれを読んで非常に驚嘆しましたのは、民主政プラス法曹というセットが実はアメリカの安定した民主政を解く鍵であるということを彼は非常に強調した点でございます。

 どういうことかというと、他人の言葉で語って大変申し訳ないんですけれども、法曹は、一つは秩序とルールを重んずる、あるいは論理一貫性というものを重んずるという、その意味で形式というものを大切にするという一種の気質というものを持っていると彼は言うわけであります。

 彼自身は貴族だったものですから、これは貴族と非常に似ておる、貴族もそういうものだと言っておりますが、そこはともかくといたしまして、こういう言わば一種の法曹階級の気質というものが、民主政のある種の行き過ぎ、激情、パッションといったようなものを教育する、あるいはそれをコントロールするということがアメリカでは非常にうまく行われているということであります。

 つまり、これは民主政は法曹階層によってコントロールされているように見えるけれども、実はそれによって民主政が実は安定をする、あるいは存続することができるようになる。その意味でこの法曹集団は、彼らの言葉で言うとデモクラシーにおける唯一のアリストクラティックな要素として、言わばこれをコントロールしていると。ただ、身分的にコントロールするということではなくて、機能的にコントロールする。つまり世の中の政治体制を維持していくためには、こういうルールを例えば遵守しなければいけないというような形で機能的に、言わばちょうど貴族が民衆をコントロールするように、ここにも書きましたが、機能的、ファンクショナルということで、貴族というような実態的な身分というようなものとは違い、機能的、あるいは専門的な能力に基づく民主政の方向づけというものを彼は法曹集団の中に見い出したというわけであります。

 貴族と人民はなかなか利害が一致しない。あるいはお金持ちと一般の民衆もなかなか一致しない。しかし、民衆と法曹は言わば結合する可能性がある。あるいは民衆は法曹集団に対して、ある種の尊敬なり、ある種の敬意を払っているということ、あるいは、貴族たちに対して持つような猜疑心を民衆は法曹に対しては持たないというような言い方もいたしておりますけれども、いずれにいたしましても、この二つは実は共存しつつ、しかも、共存することによってシステム全体が非常にうまく回るんだという意味で、デモクラシーの中におけるある種のアリストクラティックな要素という形で彼はこの法曹の問題を位置づけたということがございまして、これが大体私ら政治学者がデモクラシーと法曹の問題を議論するときの一つのベースになる議論でございます。

 さはさりながら、勿論国によって法曹の実態は違うと思いますので、どこでもこういう言い方ができるのかどうかという辺りはいろいろ議論がございます。

 ですから、アメリカにはアクリストラクシーは存在しない。あるとすれば、それは裁判官の席とか弁護士の席にあるんだというふうに彼は言ったわけであります。

 そういう意味で、ある意味で民主政に対する最も強力な対抗力であると同時に、民主政にとって最も有力な味方ないし支えとしての法曹という両面的な関係というものを、その中で強調したわけでございます。

 付け加えますと、彼はこれを更に追い掛けまして、こういう法曹のスピリットは、いわゆる裁判所というところにとどまっているんじゃなくて、もっと社会の中で広く広がっていっているということを繰り返し指摘しているわけであります。何よりも政治家がほとんど法律家出身であるというようなこともあり、ですから、立法部もある意味では法律家によって導かれ、行政部もある意味ではそういう面を持っているというわけです。

 ですから、法曹の影響力というのは、司法部という3分の1のところにとどまらないで、事実上、思考様式という形で広がりを持っているんだという意味で、司法部という枠を超えて広がっていっているけれども、民衆レベルにもそれは入っている。それは何によってかというと、陪審制度によって民衆レベルに入っていく。

 つまり、陪審制によって法曹は具体的なケースに即して、一種のポリティカル・エデュケーション、政治教育を実はやっているというわけです。陪審にもいろいろあって、民事陪審とか刑事陪審とかいろいろありますけれども、彼は民事陪審が非常に重要だということを言っています。

 したがって、それは為政者の方も実は法曹階級としての裁判官と共通の知的、言わばルールというものを共有している。そして、民衆の側にもある意味でそれは広がっていくということによって、実はアメリカの民主政は、民衆レベルも含めて、言わば存続可能な民主政になっているというわけです。

 ですから、陪審というのは彼は政治制度として見ているわけです。つまり、司法制度として見て、それは機能するかしないかという話は余りしていない。ただ、そこに参加することによって、個々人が極めて具体的なケースに即して、自分が市民としての在り方を問われる、あるいはぎりぎり問われるという形で、自分の考え方を常に訓練していくというような形になっているというふうに言っている。

 ですから、彼は、政治制度として見た陪審という章を付けておりますけれども、あくまでもそういう意味で、政治制度として陪審制度を見たわけで、政治学者としては、これを政治制度として見る傾向がある。

 したがって、法曹の役割も司法部がどういうふうに機能するかということよりも、もうちょっと広いベースで見られるのではないかということを、トクヴィルを使って問題提起をさせていただいたわけでございます。

 その意味で、機能的なアリストクラシーという形のものが実は法曹というものを政治的に位置づけるときの一つの位置づけ方として、ある範囲において知的に共有されてきたということを私としては申し上げたいわけでございます。

 したがって、これは一種の議論の伝統みたいなものになってきたという面もございますが、法律の先生が興味を持つかどうかは、ちょっと別の問題でございまして、これはあくまでも政治の方からの議論でございます。

 民主政論の中における法曹の扱い方、ほかにもいろいろ議論があるかと思いますけれども、このトクヴィルを始めとした時代というのは、彼自身もそうでありますけれども、20世紀に見られたような国家権力の集中というものを非常に彼は嫌ったわけでございまして、そういう時代ではない時代にこういう議論が生まれたということも注目すべきことでございましょう。

 ただ、御案内のように、20世紀も後半になりますと、再び法の支配とか、例えば行政権力の見直しとかいう文脈で、ハイエックみたいな人たちは、例えば議会を二つに分けて、今の議会というものを行政評議会として、法の支配みたいなものを実際的に実現するようなもう一つのアセンブリーを作ろうなどという議論をしておりますように、国家権力の一元化に対するリビジョニズムが広範な形で起こってきている。恐らく経済等のレベルでは、これはマーケット・メカニズムの尊重とかいう形でこの問題が提起されているんだろうというふうに思っておるわけでございます。

 いずれにいたしましても、リバイバルというわけではございませんけれども、私たち政治学者からしますと、法曹の役割というものは決して司法部の問題だけではないという議論の立て方もあるということ。もっと国民の意識、法という形で物事を処理することに慣れていくことが重要です。典型的にはこの前のクリントンのスキャンダルがある意味でそうだと思うんですけれども、あれをどういう形でマネージするかということについて、アメリカはああいうやり方をしました。よかったか悪かったかいろいろあります。しかし、あれ以外には、恐らくあの国は取れないだろうと思うわけでございまして、とにかく一応法律的ないろんな手続を踏んで、その中で情報をディスクローズしていきながら、問題を処理していくというところを見ますと、大統領を含めて、法による統治、法による支配というものが国民の前で大写しになった一つのケースではないかと思っております。

 話がちょっと古い方へ行って、だんだん時間がなくなってきました。

 さて、21世紀ということで、私は現在の日本におきましても、国家機能の見直しについては、行政改革から地方分権から規制緩和から、いろんなところで議論されておりまして、これの見直しが行われているということ、これは申し上げるまでもございません。ただ、そこで一つはっきりしてきていることは、やはり役割分担、機能分担による責任体制の明確化ということであり、手続の明確化であり、それによる情報の公開であり、全体としての透明性を高めるということにあることは、皆様の前で改めて申し上げるまでもないと思います。

 私の見るところ、ある国家機能はむしろ危機管理的な方へ純化していく可能性を持っているかもしれない。しかし、ある種、日常的な国家機能というのは、むしろ非常に多くの人々の言わば参加の舞台になっていくという可能性を持っているのではないかと考えております。危機管理型は言うまでもなくかなり集中的なやり方を取るのかなというふうに推量しているわけでございます。

 考えてみますと、実は20世紀における国家の問題解決のやり方というのは、私は日本の場合典型的にそうだと思うんですけれども、紛争の予防のために準備が整えられ、問題が起こらないようにすることにありました。だから起こってしまうと、あれはなかったことにしなければならないということで非常に面倒くさいことが起こるわけでございましょう。だから、予防的なシステムが日本の行政などに非常に典型的に見られると思います。恐らくいろんな方が、事前規制から事後チェックへとかいうお話をされたと思うんですが、まさにその話にも関わるわけでありまして、恐らくこの数年起こったことは、事前チェックではどうにもならなかったことがいろいろ起こったために、中坊先生始め皆さん御苦労されるということになったわけでありまして、あり得べからざることがこの世にはあり得るというときにどうするかということのシステムの欠落ないし問題点が露呈したということだろうと思います。

 ですから、事前に何もやらなくていいということではないんですけれども、要するにバランスが崩れていたということだけは間違いないのではないかということは私も言えるのではないかと思います。

 いわゆる官治と言われるものは、私はこの予防重視型のシステムではなかったというふうに思うわけでございまして、実は官庁は予防しても予防し切れないということに恐らくなってきて、後は当事者による問題の解決を促すなり、あるいは司法による解決を促すなり、いろんな方向へ行かざるを得なくなったということで、巨大な権力の流出が目下起こっているということだろうと思うんです。

 したがって、実は私の目から見ますと、基本的な問題は、この権力の大きな変動というものをどういうふうに法曹という集団なり、その中の一部としての司法という機能がどこで受け止めるかということについて応答がなされるべきではないだろうかと思います。コンセンサスというものと、ある種の行政官庁の権威というもののセットでもって、言わば紛争予防的な統治がつつがなく行われてきていたという時代が終わって、好ましいこととは言えませんけれども、必ずしもそういう分厚いコンセンサスに依拠するということで済むというわけではないという時代に入っていくということなどもございます。

 例えば自治体と中央政府との関係で、両方の意見が違ったときに、それを司法的な手続に乗せるとかいう話も一時話題になったことがありますけれども、要するに、今までは組織内的関係のものが、組織間的関係みたいなものになった。イントラ・オーガニゼーショナルなものから、インター・オーガニゼーショナルなものに変わっていくというプロセスが、私は日本ではいずれにしても進んでいくと思います。

 それから、NPOにしろ何にしろ、いろんな主体が今まで官僚制的な仕組みの下で行われていたものへ参加を始めるというようなこと、しかも、それは国内だけではなくて、海外も含めて参加が始まるということになりますと、しかもそれはある意味ではいかんともし難いという事態が恐らく21世紀になると起こっていくのではないかと思います。

 その意味で今度は、トクヴィル流に言えばまさに参加をどういうふうに制度化していくかという話になるのではないかと思うわけでございます。

 個人の権利を巡るいろんな紛争を迅速に解決するという問題は当然扱われなければならない問題ですけれども、私が申し上げているのは、まさに権力の仕組みが変わったときに、一体何がそこで次のシステムとして顔を出すべきなのかということについて申し上げているわけでございます。日本での大きな問題は、官僚制に対する批判はあるんですけれども、では、それをどうするのか、その後をどうするのかということについて、なかなかバランスの取れたシステムづくりができてきたとは言えなかった。あるいは非常に無理をして、とにかくいろんなことをやらざるを得なかったということもあるのかもしれない。あるいはいろんな形でこれから起こってくるであろう紛争という問題に対して、あるいは現在起こっている紛争というものについても、私はかつてほどの影響力を中央政府は持たないことは確かであるし、そもそも持ちたいと思っているのか、持ちたくないと思っているかもよくわからなくなってきたということがあると思います。

 そういう意味でいろいろな集団が参加する時代に21世紀はなってくる。大変いろんな意見が出てき、意見の衝突もあるということは、あらかじめ覚悟しておかなきゃいけないということになってきますと、それをどうしたらいいのかということになってくる。それを何か権威でもって抑えるということができるかというと、多分できなくなってきているのではないか。そうしますと、ルールの保護というものは、まさに法曹というプロフェッショナルが持つ独特な知的能力というものに負うところが多大ではないだろうかというふうに私は思っておりますし、時間がないものですから端折りますけれども、例えば政治の問題を一つ考えましても、あるいは多分企業の問題も多かれ少なかれそうだと思うんですけれども、いろんなところで問題が起こる。例えば人材のリクルートが非常に限られているということは、何らかの深刻な帰結をもたらさないかと言えば、これは多分うそだろうと思うんです。何らかの帰結をもたらしているではないだろうかということが一つございます。

 例えば政治の方で言いますと、非常に重要になってきていますのは、事後の処理も大切ですけれども、これは司法部なんですが、事前のつまり立法という問題をどうするかという問題が非常に緊急な課題でありまして、ある意味で日本は大きな立法の時代に入っているのではないかというふうに思うんですけれども、政界はなかなかそういう人的なインフラはございません。政界というところは、そういう人よりは選挙のプロが専ら集まるところであり、それ以上でもそれ以下でもないというところが少なからずございますから、これはいかんともし難いということがあるかと思います。

 その意味で私はこの4のところに書きましたけれども、ここでは司法制度の改革ということを御議論されるわけでございますけれども、その視野をもう少し広く取っていただいて、政治を含めたシステムの管理・保全・改革というものに役に立つような人材の育成、あるいは補強という問題にまで是非考えを及ぼしていただきたいと思うわけです。

 政治改革も行政改革も人材の育成を伴わない改革だったと言えば、私は言い切れると思いますが、司法改革は恐らくそうでないと私は拝聴しております。

 この問題は、結果的に見ますと、ほかの二つの改革にも影響を及ぼす、実は非常に大きなポテンシャルを秘めているのではないだろうかと考えるわけでございます。

 そういう観点から、当然御議論いただけるものとは思いますけれども、そういうことにつきましても、今度いろいろ政治の方も変わってまいりますし、恐らくますます人材をいろんな形で吸収していかなければいけないという時代になろうかと思います。法律的にいろいろ難しい問題はございますけれども、その意味で日本の法を中心とした公的システムの維持管理という問題全体について、十分なインフラストラクチャーを、裁判の時間が長いとかいう問題は勿論重要ですけれども、それのみならず、十分なインフラを提供してくださるような形で御議論いただければということを私の願望として最後に付け加えさせていただきます。

【佐藤会長】 どうもありがとうございました。非常に大きな視点からお話しいただきましたが、特に法曹の政治的な意味を浮き彫りにしていただいて、我々が考えるべき重要な方向を御示唆いただいたんではないかと理解しております。どうぞどなたからでも御質問ありましたら。

【中坊委員】 それでは、弁護士という立場から自分の実感を込めて、質問というよりも御意見を伺うわけですが、権力というものですね。私は自分で結論から申し上げて失礼ではありますけれども、私たち弁護士会の自治ということを非常に重んじて、自治ということがかなり法曹の中に必要ではなかろうかと思っておるわけです。そういう意味において今の中央集権と地方自治というのが別にあるのと同じように、法曹というものと自治との関係という問題は先生はどのようにお考えになるでしょうか。

【佐々木教授】 それは法曹ですか。

【中坊委員】 法曹というか、特に弁護士ですね。弁護士があって、弁護士制度というものが一番基盤にあって、そこから裁判官制度も、あらゆるものが司法全体が成り立っていくだろう。これはアメリカでもどこでも基本的に圧倒的な数が弁護士にあるわけです。その弁護士というものと自治という問題について、特に権力との関係において、先生はどのようにお考えになるでしょうか。

【佐々木教授】 十分理解しているかどうか怪しいんですけれども、権力と自治というのはイタチごっちみたいなところがありまして、実は自治というものは権力によって初めて可能になるということであるとすれば、自治に先立って権力がなければいけないと。その権力はどうするんだという話になるわけです。

 恐らくシステムとして言うと、どこかでまず自治というものがあって、その上で権力というものがいろんな形で行使される、あるいは権力というものが運営されるというのが一つの基本ではないか。

 法曹だけではなくていろんな専門的な職種というものが、弁護士会は違うと思いますけれども、これまで日本ではとかく行政とくっ付き過ぎる傾向があって、そのためにその役割をほとんど果たせなかったか、あるいは非常に不本意な形で果たしてきたということは、やはり自治の問題が、あるいはそういうところではあったのかもしれないということがあります。

 ですからその一種の独立性というもののあかしとしての自治という問題は、どれだけ形式化されるか、組織化されるか、制度化されるについて、一律には申し上げられないんです。

 例えばお医者さんを考えても、医師会が自治の担い手なのか、これは非常に難しい問題がありまして、ただ、一般的に言えば、プロフェッショナリズムというものは、直に一種の自治というものをそれなりに、つまりそれはプラス・マイナス双方において、プラスについてもあるけれども、マイナスについてもサンクションを加えるという意味で、両面を含んだ意味で、何らかの形であるべきではないだろうかと。それはどうしても前提になるのではないかと。その観点自体は私も正しいと思います。

 ただ、問題は自治が社会全体の中でどのように評価されるかという問題について、自治の当事者たちがどのような認識を持たれるかというのは、これはまた別の問題で、つまり内部問題だけになってしまうと、視点の問題がずれてしまうので、その二つを区別して考えるということだと思います。

【中坊委員】 だから、一つの専門家集団があったとしても、それが一つの職業的な集団のエゴに終わるようになってくるとたちまち自治の化けの皮が出てくるようなことになりかねないと、こういう意味ですね。

【佐々木教授】 両面があるということです。そのバランスがどの辺にあるかで、世間の評価というものがあるのかなと思います。

【水原委員】 21世紀型ガバナンスにおける治安・秩序確保はどうあるべきだと先生はお考えですか。

【佐々木教授】 非常に素人っぽい話で恐縮ですけれども、二つの意味で問題状況は変わってくると。一つは、国際化という軸が避けられないものとして入ってくるというのを、一体どのレベルでどの程度応答できるかという問題。

 もう一つは、これは20世紀のある意味では問題的な遺産だと思うんですけれども、20世紀の間に伝統的な社会構造が崩れたと思うんです。その典型的な例が家族も含めて非常に脆弱化してきた、つまり、人類が何千年と当たり前だと思ってきた組織が、脆弱化していったために、人間をつなぎとめておくシステムが弱化したまま21世紀に入ったということで、これも政治学者は昔から習俗という言葉で言っているんですけれども、習俗が非常に腐敗する、解体するということに対する危機感がある。それに対する対応策として教育を立て直そうというのがよく出てくる話です。

 もう一つの対策として、法的なシステムの実効性をどうやって高めるかという問題が登場し、それは最善の策ではないしても、必要な策として当然強まってくるということは、私自身も考えております。それでどうなるのか、ちょっとよくわからないんですけれども。

 したがって、国家の役割が弱くなったとか何とかかんとかという議論は一般的に行われているんですけれども、これは領域に応じてかなり細かく見ていかなければいけない問題ではないだろうかと。むしろ国家の力が弱いために非常に生活は不安定で安心できないという問題も出てきます。その辺の整理をする余裕がないままに、みんな弱くなっていくとか何とかという議論をやり過ぎた面がありまして、その辺の仕分けをどういうふうにするかというのが私は課題だと思います。

 皆様御案内の、レーガンとかサッチャーとかいう人たちがやったことは、結局政府を小さくするんだけれども、強くするという側面があった。つまり、小さくすることと弱くすることイコールではないと。つまり、今までやっていたことで、非常に政府が批判を浴びそうなものは止めるから、その代わり今先生から御質問があった秩序とかいった問題への対応をむしろ強化する。今、日本では小さな政府という話はありますけれども、強い政府という話はないんです。この二つが何となく、小さければ弱いという軸で議論されていますけれども、これはちょっと区別すべき議論ではないだろうか。

 先ほど私が申し上げた危機管理の問題も含めて、むしろ強くしなければいかんところはあるのかもしれない。

 そういう意味での仕分けをしないといけないという感じが、今、日本の社会の中でも少しずつ出てきているのかなというふうに思っております。

【山本委員】 トクヴィルが見たアメリカの社会というのは、非常にすばらしい社会だと思うんですが、アメリカと日本の違いというのは、やはり民主主義のありように大きな違いがあると思うんです。多分、当時のアメリカというのは新しい建国の理念に燃えて、相当自己主張がきちんとできる、独立した個人個人がどういうガバナンスをするかという社会的な背景があったと思うんですが、現在の日本の状況を見たときに、先生からごらんになって、トクヴィルの理想論が果たして、理想論というのはおかしいんですけれども、そういった機能がかなり早い時点で実現できるかどうか。

 私がちょっと気にしておりますのは、先生おっしゃられたように、権力の集中とか、官僚制というのがずっと50年間続けられていて、行政の面でも立法の面でも、まだ個人の参加というのは非常によちよちした段階ではないかと思うんです。NPOとかいろんな新しい動きは出ていますけれども、日本全体で見るとまだまだそれがない。

 そういう中で司法が、そういった新しいガバナンスの確立に向けて、それを啓蒙していくというようなことは大事かと思うんですけれども、それがかなりの確率でスムーズに移行できるという前提を置くのはまだ危険じゃないかという感じが常々しているものですから、その辺はどうでしょうか。

【佐々木教授】 お気持ちは非常によくわかります。つまり、官治に替わって暴力が入るという可能性も含めて、暴力というのは比喩的な意味ですが、そういう可能性は常に存在しているということは私もあり得ると思います。

 しかし、ではどうするかということで、そういろんな策も必ずしもあるわけではない。恐らく今の参加というのは、いろんな意味で、ある人はオーバーに参加している、参加し過ぎているというのがあり、他方では無関心というのがあって、非常に参加の地図、バランスが必ずしもいいとは言えない。だから、アメリカのように多元主義という形でいろんな主体が入ってきて、ある種のつぶし合いをする。そのトップに弁護士とかその専門家が付いて、それで交渉をやって話をまとめていくというところまでは、私もすぐ簡単に行くというふうには、なかなか難しいなと思います。

 それでは、政治家にそこを何とかしてくれということを言っても、彼ら自身もワン・オブ・ゼムかもしれないから、余り問題の解決にはならない場合もあるのかなと。

 ですから、おっしゃるように、これはある種の歴史的な伝統なり遺産と言いますか、そういう問題ですから、それは極端なことを言えば、5年や何年ではなかなか大きく変わらないんではないか。しかし、少なくともいろんな暗黙の了解で済ましてきたようなことを含めて、やはりルールはルールだよということを抜きにした参加ばかりが出てくるということは、非常に国民にとっても不幸な事態であるということは、もっとはっきりさせる必要があるんで、ただそれをA党の政治家が言っても、B党の政治家が言っても逆効果になるということだと思うんです。

 ですから、非常にこれから難しいのは、例えば参加のレジティマシー(正統性)というのをどうとらえるか。例えば地方自治体だと市長さんとか議会が何かレジティマシー(正統性)を持っている。しかし、今はそういうものは余り関係ないと言っては悪いけれども、そうではないいろんなものもたくさん出てきます。それから、NPOにしてもレジティマシー(正統性)の問題があります。

 ですから、そのレジティマシー(正統性)をお互いにかなり糺すような場がもっともっとないと、さっき申し上げたようなリーガル・プロフェッションがうまくつないでいくような格好にはなかなかならないような可能性は、私も無視できないのではないかと思います。

 私の話もやや苦し紛れなんですけれども、では、ほかにどうかと言われると、余り展望もない。あるいは場合によっては、元に戻ったらいいのではないかというお考えもあるようですけれども、中途半端な状態というのはその意味で一番悪いかなということがあって、一つのオールターナティブとして、考え方として、どの程度フィージビリティーがあるかについては、皆さんに御判断いただくとして、一つの議論の作り方としてあるかなと。そういう気持ちです。

【中坊委員】 先生のおっしゃったことの一つ解決というか、一つの物の考え方としては、こういう考え方はどうかなと思うんです。

 確かに今までオーバーに参加するものと、全く参加しないものが我が国の社会において存在したというのは一つ前提としてある。それでは、それを今先生おっしゃるように、どうして直していくのか。また、直さざるを得ない大きな流れの中においてどうするのかということですが、その一つの物の考え方として、私は目の見える範囲で物事をみんなが考える。いわゆる地方分権型というか、そういう物の考え方が、英語はよく知りませんけれども、アワー・タウン、アワー・コート、そしてアワー・ローヤーという言葉に象徴されるように、我々は、すべて参加するところは、我々の身近な目の届く範囲内から参加していくということが私はすべての起点になるんじゃないかという気もするんですけれども、その点はどうでしょうか。

【佐々木教授】 私も基本的にそうだと思います。ですから、恐らくこの世の問題というのはすべて具体的ですので、抽象的問題というのは学校の中にしかありません。具体的な問題を具体的に扱っていくというプロセスで、先ほど申し上げましたメソッドとかルールとかいうものが定着していくということになります。

 山本さんが言われたことは、まさにそこの部分が非常に脆弱であると。地方議会の話をここでしてもしょうがないですけれども、間接民主政というのは果たして機能しているのかどうかということさえ言われますが、ただその前提としては、一つは、やはりお金が中央から来て、いかに予算を支出するかということしか考えていないために、その話の議論の全体のバランスが初めから狂った中でやっているんじゃないかということがあります。財源も含めてどういうふうな制度を作るのかということになったときに初めて、出るものと入るものと両方見た上で、一体この問題やるのかやらないのかということが私は議論できるようになると考えます。

 その意味で言うと、今は歳出への自由はあるんだけれども、歳入の方は他人依存という、その辺の見直しも含めた上で、先生のおっしゃることは、一つの重要な突破口であって、そこがクリアーできれば、いろんな問題の糸口が見えてくると思います。

 私は高齢化社会になっていくということは、必ず現場に問題が下りていきますから、そこでいろんな問題を処理しなければいけないということになると思います。ですから、介護保険にしても、そういうことになりますので、幾ら厚生省に文句を言ったって、現場が全然動かないということではどうにもならんわけです。

 そういう意味で言うと、分権への力学は働いているんですが、それを先生おっしゃるような問題解決能力へつなげていくことができるかという意味では、私は財源の問題というのが大いに気になるわけです。

 それと、廃棄物とかいろいろ問題はあるんですけれども、自治体の範囲内で扱い得る問題と、扱い得ない問題群もたくさんあるものですから、いろんな場合を複合しながらやっていかなければいけないと思いますが、重要な突破口の一つは、そこにあることは私もそうだと思います。

【髙木委員】 さっき参加のレジティマシー(正統性)の話に触れられましたが、そのときに陪審とか参審とかいう制度論は別にして、国民の民主政との関わりで、司法という切り口から参加を求めていくレジティマシー(正統性)は何で担保されるのか、どういう論理で組み立てられると思われるんですか。

【佐々木教授】 だれの参加ですか。

【髙木委員】 国民のです。

【佐々木教授】 例えばNPOとかいうものですか。

【髙木委員】 例えば最近オンブズマンの世界だとかが拡がっていますが、これらは日本の司法制度の中で、国民の参加という形でほとんど保障されていません。そういう中で国民がレジティマシー(正統性)をどんな論理で担保されるのかという世界は、まさに未知の世界を歩くみたいなレベルに日本はあると思うんです。そういう中で今先生が言われたように、参加とそのルール化と言われたって、その糸口はどこに見つけられていくのでしょうか。

【佐々木教授】 恐らくレジティマシー(正統性)があって参加している。つまり参加一般について言えばということは、レジティマシー(正統性)があって参加すると考えるか、参加した後でレジティマシー(正統性)が問われるというか、吟味されると、どっちだろうかと。私は恐らく民主政治というシステムは、とにかく参加して、あとでレジティマシー(正統性)が問われるというのが基本ではないでしょうか。例えば選挙とか、あなた権限ありますからどうぞ言ってくださいという話は別として、いろんなもののプロセスへの参加というのは、本人は主観的なレジティマシー(正統性)はあるんだけれども、とにかく自分たちのやむにやまれぬ心情をとにかく訴えましょうという形で恐らく参加する。

 しかし、ある程度いろんな参加者が出てくると、お前さんの根拠は果たしてどの程度合理的なものかとか何とかという話にだんだんなってくる。先ほど来、私が理解している限りでは、日本ではそこのメカニズムがまだ余り多元的になっていないために、レジティマシー(正統性)の問題が解決されたかの如くああいう人たちが専ら参加するということになると、参加そのものへの疑問も出てくる。ルール化という問題、ルール化というのは、本来ある種の相互性みたいな認識を前提としている、つまり、あちらももっともだけれどもこちらももっともだし、そこでどうするかという話に私は基本的になると思う。ところが、ある種、私は正しいんだという、それだけの参加であれば司法的な統制とか何とかという話よりも、これはやや宗教とかイデオロギーの問題になってしまうのではないだろうかと。

 その意味での一種の相互性、相手もそうだけれども、私もそうだという形の中で、実はレジティマシー(正統性)の問題は冷静に議論され、かつ解決へのルールというものも初めて提起されるんで、私は絶対的に動かないんだという話であれば、これはレジティマシー(正統性)を問うこと自体失礼じゃないかという話になるのでないだろうか。

 そういう意味で意識の変化みたいなものをある程度国民の側も体験していくという形で参加していけば、さっき言ったようなスキームの中に入ってくるかもしれない。しかし、100 %絶対的にてこでも動かない、というような話ばかりでみんな参加し始めたら、どうにもこうにもならない。弁護士さんが出ていってもどうにもならんという世界に恐らく入るのではないかなと。

 その意味で政治参加の多元性とお互いの主張に対するある種の相互性の感覚というものを前提としなければ、私が先ほど申し上げました司法によるある種のルール化という問題は、なかなか超えられない問題を含んでいるということ、髙木先生の御質問に正しく答えているかどうかわからないけれども、そんな前提で私は考えてみました。

【井上委員】 同じ大学の先輩に質問するのは気が引けるんですけれども、佐々木先生が最後におっしゃったことは、要するにリーガル・プロフェッションが法律、あるいは司法という狭い世界だけではなくて、行政、立法、更に社会全般について重要な役割を担い、あるいは人材の供給源を成していくべきである。トクヴィルの言う機能的な貴族政というもののリバイバルと言いますか、現代版をイメージされているんだろうと思うのですが、アメリカでその当時リーガル・プロフェッションが指導的な役割を果たせたというのは、一般の人たちがそれを認め、支持するということがあったからだと思うのです。先ほどからの言葉で言えばレジティマシー(正統性)ということだと思うのですけれども、これからの日本においてリーガル・プロフェッションというものが、そういうものを持ち得るかということは当然ではないだろうと思うのです。現在までのところ、そういうものは残念ながら持ち得ていないと言わざるを得ない。期待されることは確かなのですけれども、そういうものを果たして備えていけるのか。それを備えていくための条件とは何なのかということが問題だと思うのですが、その点についてはどうお考えですか。

【佐々木教授】 私はアメリカの場合には、あの国は始めからイデオロギー国家だと思っていますから、後は手続しか問題にならなかったという体質があったわけです。自由主義とか独立宣言以外にイデオロギーがありませんから。社会主義があったわけではないし、後は手続で全部解決した。だから、アメリカは政治哲学が不毛で、専ら法律家だけが栄えた国だと言われていたわけです。そういう意味で、イデオロギー的に余り対立がないから、あとは手続の問題でというのが確かにアメリカの場合あったのではないか。

 これはほかの国とは非常に違った状況が確かにあったということになります。しかし私は日本におきましても、日本に限らず各国においても、言わばポスト・イデオロギー時代というのが少なからず始まっているのではないかということは言えるんじゃないか、20世紀前半のイデオロギー対立の時代とは違っているのではないかということがございますので、したがって、リーガル・プロフェッションが直ちにそれによってポイントを上げられるかどうかはわかりませんけれども、今はいろんなミニ専門家たちの時代に入ってきているのではないかなという感じが私自身はしています。その意味で消極的な理由にしかならないかもしれませんけれども、ポスト・イデオロギー時代の到来といったようなものは念頭に置くべきだと思います。

 では、コンセンサスががっちりあるかというと、それほどコンセンサスがあるわけでもないし、学級崩壊ではないけれども、いろんなことが起こっているという時代。ほどほど秩序の問題というのが、それなりに出てきている時代。決定的な世界観の対立があったら、これは法律でどうしようとしたって、これは多分できないだろうが、しかし、それほどの決定的な対立はない。勿論、人権の問題にしろ何にしろ対立はあるわけです。しかし、原則そのものについて、イデオロギー的な対立、根源的な対立というものは相対的に弱化されているという状況にあるのではないかというのが、私が今日あえてこういうことを申した一つの前提条件でございます。それは十分条件かどうか、私にはわからないんですけれども、ある時期からすれば、一つの条件として当然カウントすべきものではないだろうか。

 もう一つ、私は相対的に日本のリーガル・プロフェッションは、ほかのエリートに比べれば、私はまだ国民の信頼感は厚いのではないかなというふうに、期待を込めてなのか、現実なのか、ともかくそういう認識を持っています。

 つまり、戦後、一番最初に権威が落ちたのは軍事の世界で、それから行政の官僚制の権威が危機になって、政治家はまあまあこういう調子です。その意味で言うと、私が見ている限りは、私は法律の教師ではないからそうかもしれませんけれども、リーガル・プロフェッションのプレステージが、高いとまでは言いませんけれども、相対的に傷付いていないセクターというふうに言えるのかなと思います。これは一種の歴史的な遺産の問題ですので、評価はいろいろあろうかと思いますが、御検討いただければと、私自身がそう思っているということでございます。

【佐藤会長】 時間の関係もありますので、最後にどうぞ。

【藤田委員】 先ほどのお話でトクヴィルがアメリカのデモクラシーを分析、評価するのに際して、陪審制というのを一つの政治的なシステムとして評価しているというふうにおっしゃったんですが、民事陪審が大事だと言っているということでした。私は、陪審制度の生い立ちや、イギリスでの陪審制の現状から言うと、刑事陪審が中心なのかと漠然と思っていたんですが、民事陪審の方が大事だというトクヴィルの理由はどういうところにあるんでしょうか。

【佐々木教授】 私も忘れたんですけれども、とにかくそう言っていることはそのとおりなんです。もし御興味があれば後でコピーを差し上げますけれども、私もちょっと意外な感じを受けたわけですけれども、恐らく人間として日常性に近いところでの物事の判断というものが、やはり人間の物事を判断する能力を涵養する上で基本的に大事だというような論旨だったと思っています。うろ覚えで大変失礼します。

【佐藤会長】 まだまだお聞きしたいことがおありだろうと思いますけれども、時間もまいりましたので、そろそろこの辺で終わりにしたいと思います。

 大変貴重な、興味深いお話でありがとうございました。今日で終わりではなくて、また引き続きどうぞよろしくお願いします。

【佐々木教授】 大学で会議がございますので、失礼いたします。(拍手)

【佐藤会長】 それでは、続きまして、松尾さんから、「動脈硬化の危機・停滞許されぬ司法改革」というタイトルでお話をいただきたいと思います。

 簡単に御経歴を御紹介申しますと、松尾さんは昭和7年にお生まれでございまして、山口大学文理学部を卒業された後NHKに入局され、長年司法関係の取材等に携っておいでになりました。

 昭和52年からは解説委員をお務めで、平成4年に退職されております。

 その後、御経験を生かして司法評論家として御活躍でございます。また、平成8年からは東京家裁の調停委員をお務めでございます。

 では、松尾さん、よろしくお願いいたします。

【松尾氏】 私は司法の分野を長く見てきた経験から、ジャーナリストの一人として、また、一市民の立場から司法改革について率直な意見を述べたいと思っております。

 第一に、司法の現状と司法改革の必要性について、どう認識しているかという問題であります。戦後50年を経て、経済構造、社会構造、あらゆる面で制度的に疲労していると言われておりますけれど、これは司法の分野も例外ではなくて、司法による解決を求める一般市民や企業の方の利用する側のニーズに制度的にも実務的にも的確に対応できていない時代になっていると思います。

 日本社会は伝統的に訴訟を好まない、いわゆる「和の社会」と言われてきておりますけれども、成熟社会に移行するに伴いまして、人間関係や経済関係はより複雑化し、それによって起きる紛争を法によって解決しようという法意識と言いますか、権利意識が一層高まっていると思います。

 現に一般の市民社会でも、価値観が多様化しているためでしょうか、地域や職場の人間関係、あるいは隣人関係、夫婦親子の関係でも、「和の観念」だけでは紛争が解決できずに、民事訴訟や調停が急増しています。

 紛争や権利侵害を法によって解決し、救済を求めるといった社会現象は最近「法化社会」と言われておりますけれども、経済の国際化、ボーダーレス化、規制緩和による自由競争、それに伴って紛争が激化する。そうした傾向がますます拡大するということが考えられまして、日本社会は法の支配に基づく法化社会に向かわざるを得ないのではないか、こういう考え方を持っております。

 ところが、司法の現状はどうでしょうか。率直に申しまして、司法が果たすべき役割を十分に果たしているとは到底言えないと思います。制度的にも実務的にも十分に機能していないのが実態だと私は厳しく見ております。

 紛争解決のために訴訟をしようとしても、裁判は時間が掛かる、費用が掛かる。裁判官は自分の主張を本当に聞いてくれるのだろうか、不安である。弁護士に依頼しようとしても、弁護士は身近にいないではないか。だれに頼めばいいのか。高いお金を取られるのではないか。こうしたことが一般市民の共通したイメージではないかと思います。

 裁判は法曹三者の「司法ゲーム」であると、こういう辛口の評をしている人もいるくらいであります。

 市民の司法に対する期待感は少なくないと思いますが、現実には市民と司法との距離は遠い、使い勝手の良い紛争処理機関にはなっていない。人権問題や消費者問題などで弁護士がいろいろ活動されている。裁判所も検察庁もそれなりの努力をしている。これは認めるんですけれども、利用する側にとって司法の役割が十分に機能していない現状は、本来、法によって解決を図るというあるべき司法の姿になっていないわけであります。

 こうした司法の状況をここにいらっしゃる中坊委員が10年前に、日弁連会長時代に「2割司法」と表現されまして、抜本的な司法改革を提唱されましたけれども、司法の役割の機能不全は、人間の健康にたとえますと、ひどい動脈硬化の危機でありまして、このまま放置すれば最悪は死に至る心筋梗塞に進行する危険性があるといっても過言ではないと考えています。

 機能不全の形骸化した司法は、利用する側の期待と信頼を失うことになるわけでありまして、急務の司法改革の必要性を深刻に考えております。

 司法改革につきましては、昭和39年の臨時司法制度調査会の意見書以来、35年を経過しているんですけれども、この間、制度上の何らかの司法改革は実現したでしょうか。確かに簡易裁判所の統廃合だとか、少額訴訟などで裁判を利用しやすくしている民事訴訟法の改正、あるいは法曹人口を段階的に増員する法曹養成、司法試験の改正がありました。

 また、欧米先進国より制度的に大きく後れていると言われている法律扶助については、根拠法の立法化と、国の補助金の増額が見込まれるようになっております。

 更に現在、国会で継続審議中でありますけれども、高齢社会に備えて、新たな成年後見制度の創設が確実になるなど、一部の制度改革や実務改革はありまして、この点については高く評価はしております。しかしなから、司法全体としての抜本改革は何ら進展していない。法曹三者の利害の対立やそれぞれの立場から、司法改革は具体的な道筋を付けることもできない。停滞を続けてきたのが実情ではないかと思います。

 私はこの意見のテーマを「停滞許されぬ司法改革」といたしましたけれども、本音のところは「怠慢許されぬ司法改革」という思いであります。これが私の司法の現状と、司法改革に対する基本的な認識であります。

 第二に、では、司法改革の方向性についてどのように考えているのかという点であります。司法改革の論点は多岐にわたりますけれども、市民のための司法という原点に立って、利用する側の視点で大胆な改革を目指すべきであります。そこで、私は今回、市民が具体的に何を求め、今何を改革すべきかという急がれる「現実論としての司法改革」、それから、将来の司法像として何を抜本改革すべきかという「理想論としての司法改革」に一応分けて意見を述べたいと思います。

 まず、「現実論としての司法改革」についてですが、五項目提言したいと思います。

 これは既にいろいろ指摘されていることなんですが、まず第一点は、使い勝手の良い身近な司法制度を実現するために、司法全体の規模、容量を大きくする改革を急ぐべきでありまして、このための法曹人口の大幅増員は避けられないと思います。現状の裁判官、検察官、弁護士のいわゆる法曹人口は欧米先進諸国に比較して目立って少ない。数字の比較は資料で御覧のとおりでありますけれども、これでは利用する側が求める紛争解決の多様なニーズに十分対応できない。弁護士の一部には大幅増員に抵抗があるかもしれませんけれども、そういった時代ではないと私は認識しております。

 法曹養成の改革協議会では、法曹人口を段階的に増やして、中期的目標として年間1,500 人程度の増員をするということが多数意見でありましたけれども、質を確保しながら、それ以上の計画的な増員を図るべきだと考えています。

 一部に弁護士にも競争原理が必要だという意見があります。私は必ずしもそのようには思っていないんですけれども、今のような業務の在り方では、利用する側にとっては満足できない。不思議なことなんですが、弁護士に依頼した市民ほど、こういった厳しい感想を述べていることに注目されまして、危機感を持ってほしいと考えております。

 法曹人口の増員は弁護士だけの問題では決してありません。裁判官も検察官も同じことでありまして、この裁判官、検察官が仕事に追われるような状態では公正な判断、適正な事件処理も疑わしくなります。民事裁判官が、減少しているとはいえ、一人当たり200 件から250 件の手持ち事件を抱えている現状は、正常ではないと思っています。裁判官の処理能力の問題もありますけれども、忙し過ぎる裁判官は当事者にとって大変不安になるものであります。裁判官を思い切って増やして、一人の手持ち事件が100 件程度に半減するくらいの大胆なことをしないと、余裕のある裁判は期待されないと思います。

 裁判所の施設の拡充も大変大事な必要性のあるものでありまして、法廷や調停室が足りない、空いていないということで、初回期日や次回期日が遅れるようなことはあってはならない。市民が主役であることを考えますと、こうした施設の不足は、市民のための司法とは言えないと思います。

 司法の容量を大きく拡充するためには、どうしても司法予算の大幅な増加が必要になります。国の一般会計予算に占める裁判所の予算の割合は、平成11年度で0.39%にすぎません。予算の総額は増えているんですけれども、ここ10年間を見てみますと、0.4 %前後の割合が続いております。法務省予算も平成11年度は国家予算の0.72%。これでは検察官の増員も、法律扶助の国家補助も十分にはできない。最高裁も法務省も、予算要求はもともと下手で消極的であると悪口を言われてきておりますけれども、司法予算を大幅に増やさなければ、司法容量を拡大することは不可能だと考えます。

 司法制度をどうするかということは、あるいは司法予算をどのようにするかということは、国の政策意思の問題でありまして、重要な課題かと考えております。

 第二点ですが、市民への法的サービスの問題として、法律扶助制度の拡大、充実は司法改革の大きな柱になると思います。

 資力に乏しい人たちを対象に援助するこの法律扶助、これはここにいらっしゃる竹下委員が研究会などで大変御苦労されたわけでありますけれども、先に述べましたように、法律扶助法という立法化によって新たに制度化される見通しであります。国からの補助も平成12年度に3.5 倍の増額予算が要求されております。それでも、イギリスは別格といたしましても、他の欧米の先進国に比べまして、微々たるものであります。市民の裁判を受ける権利を実質的に保障するという司法制度としては、これは大幅に拡充強化することが必要であります。

 扶助の内容についても、対象者の範囲をどう拡大するか。扶助の要件を見直し、もっと緩和すべきではないかと思います。

 それから、大事な点ですが、訴訟費用の立替原則を給付制度とするかどうか。検討する問題は確かに多いんですが、いわゆる法化社会の到来を今後意識するならば、欧米並みに利用しやすい制度、大きなものに変える。根本的に大胆な改革が必要ではないかと思います。

 それから、法律扶助に関しまして、日弁連は国費による被疑者段階の弁護制度を要求しております。これは被疑者の人権問題に絡む制度として検討する必要があると私は思います。

 ただ、当番弁護士の状況を見ますと、地域的に温度差があります。そういったことを考えると、果たして全国的に弁護士会が素早く対応できるかどうかという問題は残ります。

 それから、検察はこの被疑者段階の弁護制度に消極的な意見のようですが、これを実現するとするならば、弁護士と検察との信頼関係を再構築するということが非常に大事になってくると考えております。

 第三点、現実論の司法改革として、市民の司法へのアクセスの確保が非常に大きいと思います。弁護士の6割が東京、大香A名古屋の大都市に集中している現象や、弁護士が一人かゼロの過疎現象は相変わらずでありまして、弁護士へのアクセス不足は根本的には解消されていないと見ています。何故弁護士が大都市に集中するのか。都会の刺激だとか情報に接する機会が多い、仕事もあるといったことが理由かもしれませんけれども、それでは弁護士過疎地域の市民はどうなるか。法的サービスの面で明らかに不平等な現象ではないかと考えております。

 弁護士会のシンポジウムで「弁護士はどこに」というテーマがありました。これは大事なことで、弁護士はどこだと問われるような状態は大変情けないと考えます。日弁連が地方の拠点地区に法律相談センターを展開したり、あるいは各弁護士会が法律相談110 番を設けて、法的サービスに努力されている点は大変評価しているんですけれども、やはり全体的に見ますと、アクセス不足は重い課題になっていると思います。

 身近な司法の問題として、弁護士と司法書士、税理士等の、いわゆる隣接業種との法律総合事務所の構想を積極的に推進すべきだと考えています。

 例えば遺産相続問題で、法律問題の処理は弁護士、登記等の手続は司法書士、そして相続税は税理士に、同じ事務所で依頼することができますし、これは市民に対する効率的な、一体感のある法的サービスであります。

 また、弁護士は強い反対かもしれませんけれども、弁護士法72条の法律事務の独占問題については、これは弁護士の内部意見だけではなくて、広く外部の意見を集めまして、弾力的な運用を考える段階に来ていると考えます。

 法律相談の問題でも、一般には弁護士と司法書士の業務の違いも、どの程度正確に理解されているのか。現に弁護士より司法書士の方が親しみやすいという一般の声も聞かれます。この点をどういうふうにするか。

 弁護士の広告規制も、私はこれは考え直すべき段階に来ていると思います。弁護士の専門性を知ることは、利用する市民にとって重要な情報です。特に医療過誤の問題だとか、知的財産権に関する特殊な専門分野の弁護士広告は、広く認めるべきだと思います。広告全体として、極度の弁護士倫理に反しない限り、利用する側に便利な法的サービスとして情報提供を考えるべきでありましょう。

 それから、話は別ですが、イギリスにCABと言われる市民相談所が商店街などに設けられておりますけれども、こういった制度を参考にする必要もあるでしょう。専門スタッフが裁判や入国管理等の法律問題、あるいは教育、福氏A税金問題など、あらゆる問題に市民に身近な相談をしております。こういったシステムを司法アクセスという点から参考にする部分は確かに多いのではないかと思っております。

 第四点目、紛争解決の手段として、裁判外の処理、いわゆるADRを拡充することが大事だと思います。複雑多様な紛争を早い時間で費用も安くて解決を図ろうとするこの紛争解決手段を選択する傾向が、今後より一層強まることが予想されます。訴訟による解決が適当な場合もあるでしょうが、調停や仲裁といった裁判外の解決処理を利用するニーズは増えるでありましょうし、すでに民事調停や家事調停、弁護士会による仲裁などが広く市民に利用されております。

 私は家事調停委員をやっておりますが、家事調停を経験している立場から申しますと、夫婦、親子関係、親族間の紛争は、毎年複雑困難な事件が増えておりまして、処理も大変難しくなってきております。

 家事調停の在り方を含めまして、家庭裁判所のシステムはこれでいいのかどうか、考える必要があろうかと思います。例えば離婚等の人事訴訟事件の管轄移管の問題が前から検討されておりますけれども、利用の便利さだとか、訴訟と調停の関連性の意味からも、家庭裁判所改革の重点項目であると思います。

 こうした利用する側への法的サービスを重視いたしまして、使い勝手の良いシステムにより拡充し、司法の機能を高める現実的な改革を急ぐべきだと考えております。

 第五点、法曹養成制度の改革は重要な難しい問題でありますが、今後法曹人口の大幅増員の現実を考え、法曹養成のシステムに具体的にどう改革するのか、急務の課題であると思います。

 東京大学は法学部と大学院で質の高い法曹養成を目指したロー・スクール構想を明らかにしておりますけれども、今後、大学の法学教育は相次いで画期的に改革されることが予想されます。こうした動きを受けて、今の司法試験制度の在り方でいいのかどうか、問題点の洗い直しと実態に合った改革を急ぐべきだと思います。

 もう一つ言いたいのは、司法試験は資格試験でありますが、実態は法曹三者になるための選抜試験であります。果たしてこれでいいのかどうか。これは私の前からの持論でありますけれども、資格試験ならば、法曹三者とは直接関係なく、法律職として一定の法律知識と識見があれば資格を与える制度を考えられないかどうか。確かドイツでは法曹三者になるかどうかということには関係なく、資格試験を実施していると記憶しております。

 時間の問題もありますので、多分に端折ってまいりますが、第三に「理想論としての司法改革」についての意見を述べたいと思います。

 第一の柱であります法曹一元制度の問題をどう考えるかであります。法曹一元は基本的には裁判官の任用の在り方の問題でありまして、職業裁判官による裁判制度、いわゆるキャリア・システムの見直し、弁護士経験者を中心とした社会経験のある法律家を裁判官に任用する制度であります。この改革論の背景にありますのは、市民感覚のある裁判制度、民意を反映する裁判制度の実現であります。私の経験では、法律論や手続論は正しくても、一般の常識や市民感覚と大きく乖離した判決だとか裁判の運営が一部に見られることは確かです。キャリア・システムに対する批判の一端、裁判不信がこうしたことから起きているということも事実でありましょう。

 市民のための司法、市民による司法を目指す観点から言えば、法曹一元制度は基本的な理念として理想的なあるべき司法制度であると理解しております。問題は、臨時司法制度調査会が指摘したように、実現の基盤となる諸条件が果たして整備されているかどうかであります。臨司以降の司法改革は停滞していると、先ほど私は述べましたが、法曹一元を実現するための司法の環境、人的、物的条件の基盤整備は果たして進展しているのかどうか。現実問題として、制度実現は可能かどうか。これは簡単なことではないと認識しております。

 まず法曹三者の意識改革が絶対条件であります。日弁連は実現のためのプログラムを具体的にどう描いておられるのか、これは早期に市民に示してほしいものであります。最も重要なことは、一般市民の多くが法曹一元にどのような知識と理解があるのか、制度実現にどのような意識を持っているのか。多角的な論議と十分な具体的検証、そして、市民の確実な意識調査が絶対に必要になると考えております。このことは決して実現に慎重意見を述べているのではなくて、この審議会でも当然検討される重要なポイントだと考えております。

 司法関係の言葉は元々難解ですが、第・A法曹一元という言葉自体、一般的にどの程度市民に理解されているでしょうか。いわゆる四字熟語として市民に浸透しているとは到底言えないと思います。言葉、用語の問題は大事なことです。法曹一元の実現前に、実質的に市民感覚のある裁判官を期待された弁護士任官制度を大幅に拡充強化することを提言したいと思います。一定の経験のある弁護士が裁判官になる弁護士任官制度は、これまでおよそ10年間に46人が任官しています。辞められた方もいるということですけれども、期待される制度に果たしてなっているのかどうか。実態はほとんど知られていないし、情報も伝わってきておりません。弁護士任官制度は、言わば法曹一元実現の導入制度にあると、言わばテストケースであると位置づけするならば、まず弁護士任官制度を大胆な発想で改革いたしまして、裁判官にふさわしい人材を積極的に推薦する。そして、極論かもわかりませんが、裁判官の3割から5割まで占めるくらい多数の任官を展望すべきだと思います。これができないようでは、法曹一元の実現は疑問だとさえ考えています。

 また、日弁連が提唱されております研修弁護士制度は、私は実現に魅力を感じております。裁判官、検察官の任官前に一定期間、弁護士実務を経験させる改革案でありますが、今のキャリア・システムを否定するならば、司法修習生の研修制度とは違った意味で弁護実務研修、社会経験、市民感覚を履修する新たな考え方として、法曹一元につながる一つの理想的な改革制度ではないかと考えております。

 あとは簡単に申し上げますが、現在一定経験のある裁判官を行政機関や企業、マスコミ等の民間企業に研修させておりますけれども、そうした経験のある裁判官に聞きますと、「研修は広い視点で物を見る勉強になった」、「実務にも参考になっている」という裁判官が結構多くいます。ですから、この研修を拡充強化することは、社会経験の大事な手段であろうと考えております。社会常識だとか市民感覚とか言いますけれども、私の知る限り、裁判官にも社会常識、市民感覚のある人、ユニークな人もおります。

 では、法曹全部そうかと言うと、必ずしもそうでもない。確かに裁判官にしろ検察官にしろ弁護士にしろ、私たちが首をかしげるような人がいるということも付け加えておきたいと思います。多分に個人の問題であります。

 それから、最近一部の裁判官が外部に意見を表明し、市民との交流で開かれた司法の実現を目指しておられますが、こうしたことはこれまで消極的だとか閉鎖的だと言われてきました裁判官社会を改革するという意味で、私は高く評価しておりますし、こうしたことから裁判官の市民感覚も相当変わってくるのではないか、このように思っております。

 第二の柱として、市民の司法参加としての陪審・参審制に対する意見です。市民による司法を確立するために、市民が何らかの形で司法に参加するということは重要な問題でありますし、それが司法制度を抜本的に改革していく道であると認識しております。

 司法への直接参加として、陪審制の復活、参審制の導入が司法改革の柱として論議されることは当然のことでありまして、司法の抜本改革の理想であると考えております。

 法曹一元の問題には疎い多くの一般市民でも、陪審につきましては、いろんな映画だとかテレビドラマとかいったことの影響もあるんでしょうか、幾らかの知識はあり、関心もあると思います。

 ただし、この陪審制、参審制の実現も簡単ではないと思います。将来の司法像の理想ではありますけれども、法曹一元と同様に改革の実現に向けての人的、物的、基盤的な条件が十分に整備されているかどうかであります。

 法曹関係、特に弁護士の役割と責任は大きい。陪審制の場合、今のような意識と業務の在り方で対応できるかどうか。例えば弁護士過疎地域の裁判所でも、陪審制が実現すれば、そこであるわけです。それに十分に対応できるような体制が本当にできるだろうか。陪審制の実現を段階的に考えるといたしましても、弁護士は相当の自己改革が求められるわけでありまして、実現に向けての条件整備は避けられないと思います。

 また、陪審制や参審制が日本の社会構造や国民性に果たして適応するかどうかも大きな問題でありましょう。陪審・参審の実現に向けて直接参加する一般の市民意識はどうであるか、最も重要な点であります。観念的にこれを理解しているといたしましても、実際問題として市民には負担と責任が掛かるわけであります。果たして市民の理解と協力が得られるかどうかが実現への分岐点になると考えております。

 陪審制がいいのか参審制がいいのかという問題も大きい。欧米の陪審・参審にしても、歴史的な背景と法文化、国民性の特徴があります。制度上の利点や欠点も指摘されております。 こうした諸条件を十分に考慮すべきでありまして、陪審・参審いずれにしろ、市民主体の司法制度の改革として実現可能かどうか。十分それが機能できるかどうか。これは多角的な論議と具体的な検証、そして市民の意識調査が非常に重要になってくると考えております。

 現在、市民の司法参加として、民事調停委員、家事調停委員、参与員のほか、簡易裁判所の司法委員制度がありますが、裁判官と評議したり、意見を述べる役割は事実上、参審制の形態でありまして、それなりの成果と評価を受けていると思います。仮に制度改革しようするならば、参審制の方が受け入れやすいのではないかという印象を私は持っております。

 いろいろ問題提起をいたしましたが、こうしたことを踏まえて、当審議会で議論していただきたいと思うんですけれども、多角的論議と総合的な判断が重要だと考えます。このことが、抜本改革の理想を実現に向けさせる、一つの大きな転機になるかもしれないと考えます。

 以上、現実論としての司法改革と、理想論としての司法改革について、率直な意見を述べましたが、改革の論点は多岐にわたっておりまして、十分言い尽くしたとは思っておりません。

 最後に日本の司法の現状を憂慮すれば、単なる手直し的な改革ではだめだと思います。新しい時代に向けて大胆な発想で、あるべき司法像の理念を掲げ、この理念の下に、現実に急ぐべき司法改革は何か。そして、将来の司法制度の理想、目標は何か。司法改革の明確な方向性、指針を示してほしいと思っております。

 この改革の機会を逃せば、日本の司法改革は不可能、絶望であるということを言いたいと思っております。

 以上、意見を述べさせていただきました。

【佐藤会長】 どうもありがとうございました。全般にわたりまして、いろんな側面からお話しいただきましたが、どうぞ御質問をお願いします。

【吉岡委員】 非常に細かな質問ですけれども、イギリスのCAB制度とおっしゃいましたけれども、この制度についてもう少し詳しく教えていただきたいというのが一点でございます。

 それから、理想論としての司法改革のところで、大変私重要なことだと思って伺ったんですけれども、法曹一元について、言葉として国民がどれだけわかっているのか。そういうことになりますと、まだまだかなと。おっしゃるとおりだと思います。

 ただ、司法制度、あるいは裁判、こういうことに対しての国民の関心はどうなのか、そういう視点で見ましたときには、裁判を傍聴しようとか、裁判についてのパンフレットを作るだとか、それから具体的に自分が原告になるなど、いろいろな形で裁判に関わる人たちは増えてきていると思います。

 そういう中で市民の理解が十分にいっていない、だから、陪審とか参審とかと考えたときに、まだまだ問題があるという考え方は、過渡期としてはわかるんですが、私は、松尾さんが最後のところで、今この機会を逃してしまったらば司法改革できないんじゃないかとおっしゃったので、やはり大胆にやれと励ましてくださっているんだなというふうには思いましたんですけれど、市民の意識というところでは、少し御理解と違うかなと思いますが、いかがでしょうか。

【松尾氏】 第一点のイギリスのCABについては、資料をここに持ってきておりませんので、詳しく説明できないんですが、気軽に市民からの相談を受ける制度です。日本のように弁護士だとか司法書士だとか税理士とか、そういうふうに分けていなくて、市民相談の事務所が商店街にもあって、テレビの映像を見ると、CABという看板を掲げていますが、ここでいろんな相談を受けますよというシステムになっているわけです。それは何も法律問題だけではなくて、先ほど申し上げたように、教育・福祉から税金、あるいは旅行の相談まで受けるという状況になっているようです。

 私が言いたいのは、そういうところに行けばすべて何でも相談できるし、わかるというようなシステムになっている点で、アクセスの問題です。

 弁護士だけでなく隣接の業種が一つの事務所になって、そこに市民が行けば、すべてそこで相談もできるし、解決方法を探ることができるという、そういうものを日本も考えていいのではないか。先ほど弁護士と司法書士とか税理士とか、法律総合事務所の話をしましたが、それだけではなくて、イギリスのCABみたいに、福祉もやれば教育も、旅行もという相談も受ける。総体的な市民相談所というものが考えられてもいいのではなかろうかという趣旨で、あくまでも参考的な意味で申し上げた次第であります。

【吉岡委員】 とても興味があったものですから。

【松尾氏】 私も大変興味を持っております。

 それから、二つ目の市民の意識の問題ですが、市民の意識というのは相当難しい定義づけをしなくちゃいけない問題もあろうかと思いますが、簡単に言えば、一般の市民は法曹一元にしろ、陪審にしろ参審にしろ、本当にどういうふうな見方を今しているのか。どの程度の知識があるのか。そして、現実に司法改革論議がなされているときに、どういうふうに市民がそれに関わっていこうとするのか、全体の市民意識というものを把握しなければ前に進まないだろうと。要するに、幾ら高尚な話をして仮に決めたとしても、市民と掛け離れたものであれば、それは絵にかいた餅になる恐れもあるわけですから、市民が主体である以上、その部分の意識というものを相当考えていかなくちゃいけないだろうと問題点を指摘したわけです。

 それとともに、新しい時代に向かっているわけですから、私は理想論と言いましたが、理想だけでははなくて、実現させようとするならば、これは法曹三者の意識改革は当然であり、も必要だし、市民側も意識改革していかなくちゃならないだろうと思います。司法改革論議は、市民の司法への意識を相当変えていくだろうと思っています。

 それから、おっしゃったように、市民の中に傍聴運動をされている方もおりますし、東京弁護士会がバックアップしている「司法改革を考える市民会議」、こういったものもありますし、司法に興味を持っていろいろ関わっていらっしゃる方も多くあるということも知っておりますし、付き合いもあります。

 そういった方々はいらっしゃるけれども、それは全体から見ると、やはり一部の人ですね。消費者運動の方でも、そういうことも通じて司法問題に関心を持ってやっておられる方もいらっしゃいます。しかし、それも全体から見るとどうでしょうか。私は冒頭に申し上げましたように、日本社会は和の社会で進んできただけに、なるべく司法に関わりたくないと思っている。アンケート調査を見ても、できるならば裁判とか司法とか、そんなものは自分と関係ないんだと思いたいという人は多い。そういう全体を考えてみると、やはり意識というものは司法に対して、相当まだ低いレベルにあるのでなかろうかと判断をするものですから、司法改革にあたって、市民の意識を高めるためにも意識調査というものは必要であると考えています。

 お答えになったかどうかわかりません。

【吉岡委員】 大変ありがとうございます。冒頭に松尾さんが和の社会から法化社会へということをおっしゃっていて、日本の社会はそういうふうに変わっていくという御認識だと思いますし、おっしゃったとおり、まだ市民意識というか、レベルがそこまで行っていないというのも私の実感しているところです。

 では、市民意識がそこまで上がってくるのを待たなければいけないか。そう考えたときに、どちらが先かなということを考えておりまして、やはり制度が先にいかないとなかなか市民意識、特にアンケートをやって大多数の人がすべて理解できるという、そこまで待っていたのでは、最後におっしゃった司法改革は絶望という、そこにつながりかねないなという感じを受けまして、そうであってはいけないのであって、今回、2年の時限立法で司法改革を考えるということになったのも、むしろ前向きに積極的にという考えがあってのことだと思って私も参加しておりますので、最後のこの2行、氏A大変力強く拝聴させていただきました。ありがとうございました。

【松尾氏】 一つ付け加えたいのは、司法に対する関心、理堰Aそういう意識を持ってほしいということは、何も司法サイドだけで取り組むべき問題ではないと思うんです。例えば教育の問題、法学教育などはそうだと思うんですが、高等学校や中学校の社会科の授業で、どの程度司法の問題について触れられているかというと、非常にさびしい問題なんです。単に最高裁はどういうところという裁判所の構造、機構だけではなくて、司法というものがどういうふうに動いているのか、どう利用するのか、どこに問題点があるのかということを子どもたちにやさしく教えていくというような、見える法学教育が必要かと思うんです。

 また、憲法についても、一応の教育は高等学校くらいからはあると思うんですが、大学に入ったら、憲法を勉強するというチャンスは、法学部へ行かない限り余り意識しない部分がある。一つの例ですが、そういうふうに考えてくると、やはり中等教育、高等教育という段階を踏んで、司法の問題をしっかりとらえていく、いわゆる法学教育というものを進めていかなければならない。司法のサイドだけで、市民に法学教育もし、意識改革も求めていくというだけでは済まされない時代に来ていると考えます。

【井上委員】 今、最後におっしゃられた点は、現在でも一応大学のカリキュラムとしては、法学部以外の学生にも教えることにはなっているのですけれども、それがどれだけ充実しているか、あるいは関心を持たれているかということがおそらく問題なのでしょう。その点は、大学関係者として反省しなければならないのかもしれません。

 御質問ですけれど、法曹人口を飛躍的に増やさなくてはいけないということは、多くの人が共通して認識していることだと思うのですが、一番難しいのは、どの程度の人数にするのがふさわしいのかということだと思うのです。質を落とさないで充実した数といえるのはどのくらいか。その点について何らかのお考えをお持ちでしょうか。

 もう一つは、法曹一元についてはいろいろ問題があってなかなか難しいとおっしゃられましたが、最もネックとなるのは何なのでしょうか。法曹三者を含め意識改革が必要だとおっしゃった点は、確かにそのとおりだと私も思うのですが、ただ意識を変えましょうと言っても、それだけでは意識など余り変わらないということになるので、それを打ち破るためにどういうことが考えられるのでしょうか。

 また、それに関連して、弁護士から裁判官に任官する制度を拡充していくべきだとおっしゃいましたが、これもあるべき方向だと思うのですけれど、現実にはなかなか数をそろえるのすら難しいのが現状ですね。これを改めていく妙案と言いますか、こういうふうにすればいいんじゃないかというアイデアがありましたら、お教えいただきたいと思うのです。

【松尾氏】 いずれも大変難しい問題だと思います。

 まず、第一点の法曹人口はどのくらいにすればいいかということは、いつもいろんな方から聞かれるわけでありまして、日弁連の中でも相当いろいろ論議があるようですが、法曹養成の改革協議会では、中期的には毎年1,500 人くらいを増員するというのが多数意見でありました。これはぎりぎりの多数意見の数字かと思っております。あえて今ここでどのくらいが必要かと言われると、私は最低、毎年1,500 人から2,000 人くらいの合格は必要ではないかと考えております。

 ただ数を増やせばいいという問題ではないと思いますので、では、2,000 人の根拠はと言われると、非常に困る点もあるわけですけれども、概括的に判断して、少なくとも1,500 人から2,000 人くらいは必要ではないかと思います。勿論、段階的な増員であります。

 それから、質の問題は、これは言うまでもないことなんですが、最近、司法修習生の質が低下したなということはよく話を聞きます。私も実は最高裁判所の司法修習生の考試委員をやっておりまして、司法修習生の二回試験の小論文採点を担当しているわけですけれども、相当の数の司法修習生の論文を読みますと、確かに大きな落差があります。非常に優秀なと言いますか、法曹人として本当に適任じゃないかと思われるような司法修習生は、私の論文を読んだ印象では1割です。法律知識があるから司法試験に合格したけれども、こんな人物が法曹として現場に出ていくとかなわんなと思うのは、逆に1割くらいおります。常識問題の論文試験ですから、法律の知識がどうだとか、そういうものははっきりわかりませんが、この人が法曹になるとすれば、こういう問題意識、考え方で本当にいいのか、いわゆるリーガル・マインドと言いますか、そういう観点から見ていくわけですけれども、その経験から言うと、質の面で言うとかなり落差があるなという印象は受けております。ですから、法曹養成には真正面から取り組んでいってほしい問題だと考えております。

 それから、法曹一元の問題については、これも大変難しい問題で、妙案があるかというと、即答はできかねます。しかし、法曹一元を実現するために私は消極的な考え方を持っているわけではなく、条件整備や意識改革など、実現するための重要ポイントを指摘したわけです。実現するためには何を論議しなくてはならないか、何を検証しなければならないのか。それから、先ほどの話とも関連しますが、主体である市民がどういう意識を持ってこの問題を見ているのかというような部分が一番大事であり、そこをきちっと押さえておくべきだと問題提起したわけです。

 市民の意識が高まってくるのを待つことは、時間的な問題としていかがなものであるかというのは確かにそうでありますが、人間の意識というのは情報提供によって相当変わることは期待できると思います。いろんな機会をとらえて、当審議会でこういうことを論議している、こういう具体的な問題を検証しているんだということを、生で市民に伝えるということが私は大事だと考えておりますので、こういう情報を積極的に提供することによって市民の意識を変えていくということも必要ですし、先ほど言った法学教育の中で、今すぐということではないにしても、法学教育の中でこれまでやってきていなかった部分を充填するようなことで、国民の意識を高めていくという方法もあろうかと思います。

 それから、弁護士任官について、これは先ほど申しましたように、私は非常に関心を持って見ておりまして、この弁護士任官制度が非常に量的にも質的にもうまくいくならば、法曹一元というものに乗り換えやすいのではないかとさえ思っておりました。しかし、私が知っている限りでは、どうも数的にも少ないし、実際に任官された方の活動ぶりと言いますか、職務ぶりについても、個人差もありますが、必ずしもうまくいっているような話は聞かない。推薦の方法についても、いろいろと意見があるようですし、全体的に見て、弁護士任官の現状は余り効果的ではないんじゃないかと思います。これは誤解かもわかりませんが。

 しかし、この法曹一元を論議するということになれば、この弁護士任官の制度を拡充することによって、弁護士出身の裁判官がこんなにできるんだと、しかも、市民感覚のある裁判運営も判決もあるんだという実績を作るということも大事ではなかろうかと言っているのです。まさに弁護士、弁護士会の自己改革の問題です。

 だから、法曹一元をしないで、弁護士任官だけをやればいいんじゃないかということを言っているんではなくて、そういう実態を踏まえて、十分に論議していくべき問題ではないかと言っているわけです。

【佐藤会長】 時間がまいりましたけれども、最後にどうしてもということがございましたら。

【鳥居委員】 法曹養成制度、これについて先ほど司法試験を資格試験に徹して、法曹三者への就職と切り離すというお考えが示されたわけですが、そうすると、資格取得者を法曹三者のいずれかに振り分ける仕組みが難しくなるのでは、つまり弁護士への登竜門がもう一つ必要になるという問題が生じてくるように思いますが、それはどういうふうにお考えかをお尋ねしたい。これが第一点です。

 もう一つの質問は、法曹養成制度全体を考えるとき、医師になる人たちの問題と同じ問題があります。法曹、医師、どちらも本人の人格、本人の人的資質がどんどん落ちているのをどう防ぐかという問題、それから、彼ら即ち法曹や医師に人間社会を知ってもらうにはどうしたらいいかという問題があります。本人の人格の問題と、人間や社会の現実を知ることとは、混同して議論されがちですが、実はこの二つの問題は別の問題なんです。すばらしい専門家を育てようという目的で、トップクラスの大学が一生懸命専門集団を作ろうとすると、何故か人格が低下してしまうし、人間社会を知らない人間ができてしまうという二つの現象を引き起こしていると思います。これをどうするかというのは非常に深刻な問題なのです。何かお考えがあったら伺いたいと思います。

【松尾氏】 第一点の法曹養成の問題、これは私の持論だというふうに申し上げましたが、実は法曹養成の改革協議会をやったときに、私そのメンバーの一人だったんですが、いろんな方法があるだろうし、法曹人口を増やすことも大きな問題かもわからないけれども、司法試験のやり方を根本的に、その発想を変えてやってみたらどうかということを発言したことがあります。

 それは先ほど申し上げしましたように、現時点は、司法試験というのは、法曹三者になるための試験になっています。資格試験というのはそういうものではなくて、もっと広く多くの人たちが合格してもいいのではないかという、素人ですが、そういう印象を持っているわけです。資格試験というのは、ある一定の知識と見識というものがあれば、つまりその職務にふさわしいという人材であれば、誰でも多くの人が資格を取れるような、そういうことが資格試験ではないかというイメージが強いんです。

 そういう面で見ると、今の司法試験は法曹三者になるための選抜試験、私から言わせれば、狭い意味での試験ではなくて、多くの人が合格し、法律職としての資格を得るような試験になってもいいのではないかという考えです。

 そうなってくると、法曹三者にならない人たちも資格は取って公務員になり、法律に関して企画立案の仕事をする。あるいは民間に行って、企業法務部門で契約などの仕事もやれるだろうし、要するに、法律職としての資格は取って、幅広い分野で活躍する。そういうふうなことも大胆に考えられないだろうかという発想です。そういったことについて、私『ジュリスト』に書いたことがあります。その後、いろんな方から、実現性は乏しいと思うけれども面白い発想だという趣旨の電話や手紙をいただきまして、いささか心強く思ったわけです。

 繰り返すようですが、つまり司法試験イコール法曹三者というような考え方ではなくて、もっと広く法律職としての資格を取って、いろんなところに就職もしていくというシステムを考えられないだろうかということで申し上げたわけです。ただ、現行の枠組みを大きく変えることになるわけで、解決すべき問題が多いことも承知しています。

 二点目の問題は、ちょっとお答えするのが難しいんですが、やはり質の確保しつつ専門家を養成していくということについては、いろんな角度から知恵を出し合っていく必要があるんじゃないかと思うんです。では、具体的にどういう妙案があるかというのは私自身も的確なお答えはできないんですが、やはり一般的な広い意味での知識の修得、教育といってもいいんですが、そういう養成もあるでしょうし、それに加えて、いわゆる専門分野と言われているものを教育もし、研修もし、知識を得ていくという方法もあろうかと思うんです。それでは、その方法論としてどうかというと、これは一概に言えない問題もありますので、的確なお答えはできかねます。専門知識だけでなく、社会人としての常識を磨くことは当然のことです。

 お答えになっているかどうかわかりませんが、失礼します。

【佐藤会長】 よろしゅうございましょうか。時間もちょっとオーバーしてしまいましたけれども、今日は松尾さん、お忙しいところ本当にありがとうございました。これからも引き続き私どもをエンカレッジしていただきますように。(拍手)。

 では、予定時間を少し過ぎていますけれども、休憩を10分取りましょう。あの時計で2時23分に再開させていただきたいと思います。

(休 憩)

【佐藤会長】 それでは、再開させていただきます。

 まず最初に事務局から資料について御説明いただきたいと思います。

【事務局長】 本日お手元に配付いたしました資料は、各界要望書等のこれまでどおりのものでありまして、特に説明することはございません。

【佐藤会長】 それでは、次に2年間のスケジュール、あるいは地方公聴会などについてのことなんですけれども、前回素案をお示ししましたけれども、それは文字通り全くの素案でございまして、次回以降、できれば次回辺りで委員の皆様の御意見を改めて伺いながら、詳細を固めたいと思いますが、そういう方針でよろしゅうございましょうか。どうもありがとうございます。

 ただ、その中で来年1月25日に司法研修所の視察を掲げておりますけれども、これは司法研修所の御都合もあるということでそういうようにしました。けれども、委員の皆様の中で御都合の悪い方々もおられるかと思いますので、そういう方々については、別途また司法研修所を訪ねる機会をセットしたいと思います。その辺も御了承賜ればありがたいと思います。

 次に、平成12年度の開催日の検討について、御相談したいと思います。

 前回来年度の開催曜日を決めていただきましたが、これを基に事務局でカレンダーを作成していただきました。それについて御説明いただけますか。

【事務局長】 今お手元にお配りしているのは、前回の審議会で御同意いただきました定例開催日と予備開催日を実際のカレンダーに印を付けたものでございます。定例開催日としましては、第1金曜日、第2、第4、ありましたら第5火曜日ということに決まったと思っております。

 第3月曜日を予備開催日というふうに決まったと思っております。

 そこで四角で囲みましたのが定例開催日で、三角が予備開催日ということであります。 来年の4月以降のカレンダーでございますが、そのように書いておりますが、前回お決めいただいた後で、これは具体的には藤田委員の方からでございますが、都労委の方で来年の5月、これは多分連休の関係だろうと思うんですが、都労委が第1、第3火曜日でありましたのが、この月だけ第2、第4、具体的には5月9日と5月23日に決まっておったという御連絡を受けました。

 それから、同じ年の8月でございますが、これはお盆の関係だろうと思うんでありますが、この月は第3火曜日の15日ではなしに、第4火曜日の22日に決まっておったという御連絡を受けましたので、この日は御都合が悪いということでございます。

 そこで、御相談でお決めいただければと思うんでありますが、5月の方はこちらの審議会を、この赤印を付けました第3火曜日、16日にする案はいかかでしょうかということと、8月につきましては、赤で印しました22日がだめでございますが、幸い第5火曜日がございますので、このときは3回の定例日が確保されておりますので、22日を排除するだけでどうであろうかということでございます。

 そういうふうにいたしました上で、次に御相談していただきたいことは、再来年の1月でございまして、来年は鬼が笑うなら、再来年は何が笑うか知りませんけれども、1月の定例開催日の第1金曜日は5日ということになりますが、これはやってよろしいものかどうかということでございます。1月9日の火曜日を第1回目としましても、3回は確保できているという状況でございます。

 それから、その前の年の12月、これは26日が最終になっておりますけれども、これはよろしいのかどうかということでございます。

 もう一つ、付け加えますと、第1金曜日、第4、第5火曜といたしますことから、例えば来年の5月、6月を見ていただきますと、同じ週に火曜と金曜が入る。これはやむを得ないのかなと思いますけれども、それでよろしいかということでございます。

 それと、来年の4月でございますが、第1金曜日の7日は駿河台大学の入学式だそうでございまして、まさか学長が入学式を欠席なさることはできないだろうと思いますから、この月は予備日を活用していただきますと、月3回は確保できますので、7日は初めからないことにしたらどうかなという話でございます。

 もう一つ付け加えますと、これも再来年の5月でございますが、来年の5月と同じことが都労委の方で起こるのかなという気がいたしますけれども、これは再来年ですから、一応このまま御指定をさせていただければどうかなと。どちらの決定が早いかという問題もあるようにも思いますので、そういうところをお決めいただければ確定したものを次回の期日に印を付けてお渡しできるというふうに思っています。

 よろしくお願いします。

【佐藤会長】 ということでございますけれども、一応これは空けておいていただくという趣旨でございます。必ずこの日やるとは限らないかもしれませんし、これにプラスして更にお願いするということがあるかもしれません。ですから、これは一応長期的な御予定として今日お決めいただいたところは空けておいていただきたいという趣旨でございます。今、事務局長が言われたところでよろしゅうございましょうか。

【事務局長】 一応確認させていただきます。

 来年の5月は、火曜日につきましては、16日と30日ということになります。同じ週でございますが、5月30日、6月2日というのは、このままにしてカレンダーを作らせていただきます。

 8月につきましては、22日を省きますので、火曜日につきましては、8日と29日でございます。

 申し遅れましたが、4月につきましては、7日は初めから予定に入れないでおきます。 再来年の1月5日、これもまだ早うございますということで、5日もないようにさせていただきます。

 5月につきましては、このとおりのことで一応は入れさせていただきますということでございます。

【佐藤会長】 それでは、これはそういうことで御理解いただいたということにさせていただきたいと思います。

 なお、何回も申しておりますけれども、来年に入りまして、審議の仕方とかについては、また追って御相談申し上げることが出てくるかと思います。

 これは来年に入って、3月から6月辺りまでの審議いかんによって、8月に例えば3日、4日くらいを集中してやるということもあり得るという趣旨でございます。その際には、前後を少し休むということも出てくるかと思います。その辺は近づいたしかるべき時点でまた御相談申し上げますが、今の段階では一応これは空けておいていただきたいということです。

 それでは、今日はフリートーキングということで、1時間ほど見ておりますけれども、「21世紀の我が国社会における司法が果すべき役割等についての意見交換」ということで、実質的には今日が最初でありますけれども、委員の皆様方の意見の交換を行いたいと思います。

 タイトルは今申しましたように「21世紀の我が国社会における司法が果すべき役割等についての意見交換」ということですが、余りそれにとらわれずに、これまでのヒアリングについての感想も含めての御意見、あるいは日ごろからこういうように考えるべきだと思っていらっしゃる点など、率直に出していただきたいと思います。

 そして、今後の論点整理に向けての第一歩としたいと考えておりますので、どうぞどなたからでもよろしゅうございますので、御発言賜ればと思います。

 中坊委員からペーパーが早々と出ておりますので、配付してもらえますか。

(中坊委員からの資料配付)

【佐藤会長】 それでは、御説明いただけますか。

【中坊委員】 それでは早速メモを作りました私の方から若干御説明申し上げたいと思います。

 前回、会長の方から21世紀の日本社会、あるいはそれを踏まえての21世紀における日本の司法の在り方というものを、今日フリートーキングをするというお話でありまして、それに続きまして、この審議会での具体的な検討項目というのは一体何であるのかという点についても、考え方を致すべきではなかろうかというふうに考えたわけであります。それも一緒にして、今日皆様に、私個人の物の考え方というのを一度お示ししてはいかがと思いました。

 と申しますのは、率直に言って、こういうふうにしてヒアリングを続けていきまして、みんな意見を言っていても、それでは本当に論議すると言ったときに、下絵、下敷きになるものは一体何だろうかという問題に私たちは遭遇するのではなかろうか。

 そうすると、結果的にはこの審議会があれほど国会審議の中で、事務局主導にはならないと、委員の自主的な判断でやるということ、国会でもそこが問題になって、我々は委員として選出されているわけですが、結果的にはやはり事務局のお世話にならざるを得なくなるではないか。

 そういう意味では、私自身はたった一人の委員ではありますけれども、全体のことについて、今後ヒアリングを続けるに際しても、問題意識が、ここにこういうふうに位置づけされているんだなということが、それなりに一つの意見としてはこういうふうに考えている人もおるということがわかることが一つは必要であり、今後の論議をするに向けての下敷きとは勿論なりませんけれども、一つの物の見方としてあるんじゃないかと考えて書かせていただいた。

 もう一点は、氏Aこのことが極めて重要だと思っておるんですけれども、すべての論議すべき課題が非常に短絡的に個別にばらばらにあるのではなしに、すべての論議すべき課題というものが、有機的に、かつ総合的に存在していると。これを忘れると、ばらばらの意見を個別に話を詰めてきて、それの集積が今度の我々の司法改革の意見だと言うにしては、非常に整合性その他の問題、いわんやほかの行政改革、あるいは政治改革との関連とかいうのが非常に問題になってくる。少なくとも私の見ている司法の範囲ですら、この程度有機的に結合しているのではなかろうかということを、私個人として、私は弁護士でありまして、先ほどもるる紹介いただいていますように、2割司法だとか何とか言い出してきました者でもありますので、これは全くの私個人のものです。

 ただ、基本的視点というところは、率直に言って非常に総論的ですし、非常に簡単にして、具体的には、本日のメモというのは、第1と第2と第3から成り立っておりまして、第1が、いわゆる司法改革の基本的視点。第2が、審議項目の骨格についての提案。それが非常に長くありまして、そして、最後に、私たちが実現へのタイム・スケジュール、我々は何も言いっぱなしただけではどうしようもないんで、これがいつ、どのように法律が変わって、またどう変わっていくのかということまで示さないと、我々は単なる抽象的な意見を審議会で言っているだけでは、本当にこれが実現することにはならない。すると、どうしても実現へのスケジュールということも我々としては考えていかないといけない。そういう意味で、三つの点に分けて書かせていただきました。

 それから、一番最後に、極めてお粗末な、この前島田さんも表をお作りになったんですが、氏A絵を描きまして、これは私の作になる絵でありまして、これがどういうふうに描いておるかということで、後で絵の説明を申し上げたいと思いますが、こういうものとして、有機的に結合しているという状態を表わすためのものでありまして、これから申し上げることは誠にお粗末なことであり、また、非常に僣越なことではあると思うんですけれども、先ほど言うヒアリング、あるいは我々の審議を続けていく上において、一つの参考にしていただければと思って書かせていただきました。

 それでは、若干説明させていただきます。

 まず、第1の「司法改革の基本的視点-21世紀社会を展望して-」。

 21世紀の日本社会というのは、ここにも書きましたように、自立と参加を基調とする分権型社会であろうと。先ほど佐々木先生もおっしゃったように、官僚主導の中央集権型社会から市民主体の分権型社会に大きく転換が求められておると。

 そういう中においては、まずもって、先ほどからも出ていましたように、自立した市民が前提でありまして、その人が主体的に地域社会やあらゆるコミュニティーを担って、そして法の支配が貫徹されつつの社会にならなければならない。

 そういうような21世紀の日本社会というものを前提としたときの日本の司法はいかにあるべきかと。これを抽象的に一言で言えば、私は官の司法から民の司法へ変わるということであろうと思います。いわゆる現在の裁判所が中央集権型の官僚組織になっておって、地域社会に基盤を置いていない。

 そして、まさに官僚組織の中で育てられ、官僚組織に身を置く国家公務員の裁判官が数年ごとに各地域を移動して裁判を行う仕組みであると。それが現実のユーザーたる地域住民や企業や、ありとあらゆるものに向けてのことにならなければならないということでありまして、そういうことから根本的に縁遠いものになっているのをどう直していくか。

 それはすなわち分権型の転換に応じた司法も地域指向型のものになっていかなければならないと考えるわけでありまして、あとはこの文章に書いてあるとおりであります。

 そういう中において、法曹一元制、陪・参審制度がここに位置づけられておるということであります。

 さて、問題はそういう21世紀を考えての司法ということを前提としたときに、私が個人として、すぐにヒアリングに役に立つという意味ではありませんけれども、今後私たちとして考えるべきではないかというのが、審議項目の骨格についての提案ということであります。

 これは既に司法の担い手に関する改革と司法の利用・運営に関する改革の二つに分けてということは、既に会長の方からも御示唆いただき、私たちもそのような方向で物を考えていると思いますので、その二つに分けて、我々がこれからどういうことを審議しなければならないかということについてメモをしてみたというものであります。

 しかし、その二つは、まさにアクセスを容易にした権利実現のための充実した制度ができて、そして法的需要が拡大し、法曹人口もまた飛躍的に増加するのでありまして、決して二つのものが切り離されて、別個の問題ではなしに、まさに裏腹のように二つが全くくっ付き合っておると。その担い手問題と、利用・運営に関する改革問題は、二つが非常にひっ付いておるということを我々としては忘れてはならないのではなかろうか。

 ということで、まずもって司法の担い手に関する改革ですが、これは先ほどからもるる出ていますように、まさに良質の法曹を多数確保することが、あらゆる司法改革の基盤であり、最前提になるわけでありまして、そういう意味では先ほど松尾さんもおっしゃったように、法曹としての社会的な責務を自覚したり、公衆への奉仕の精神、あるいは高い職業倫理等、あるいは深い洞察力や実務的な応用能力というものを持った人が多数なってこなければいけない。

 そのためには、現行の司法試験制度と司法修習制度の枠組みにだけとらわれておっては話にならないのではなかろうか。

 先ほどは高校教育から出ていましたけれども、少なくとも大学教育と実務訓練との統合、あるいは法学教育者と実務家の連携など、市民的な基盤を確保した点について、ロー・スクール構想を含めて、新たな法曹養成制度がここでできないことには、我々の司法改革のすべての論議は始まらない。

 そういう法曹養成制度の中において、まず出てくるのは法曹人口の問題でありまして、それには現行の2万人の法曹。そのうち約1万7,000 人が弁護士であり、2,000 人がおおむね裁判官、1,000 人が検察官でありますけれども、そういうものでは到底十分なものとは言えないのではないか。

 そして、21世紀の社会において、先ほどまさに佐々木さんがおっしゃっいましたような、全国津々浦々、社会のあらゆる部門に法曹が配置されて、まさに民主政の暴走を防ぐということになるならば、我々のそういう立場からの法曹人口ということが当然に考えられなければならない。そのためには、法曹人口の増員というものに対する発想の大胆な転換が必要ではなかろうか。

 私個人といたしましては、それでは2万人からどの程度増やすべきかと言われれば、別に数字で言うのもいかがとは思いますけれども、最少、アメリカ型のようなむちゃくちゃに法曹人口の爆発、現在約100 万人、その2分の1にしても50万人というのはやはり多過ぎて、これはまた一つの問題であろう。仮にフランス並みと仮定すれば、向こうは約3万人ですから、向こうの人口の倍として、2万人が6万人程度にはならないと、法曹が社会の隅々にまでいきわたっているとは言えないのではないかというふうに個人的には考えておるところであります。

 さて、このような法曹教育、法曹人口の上に立って、まず法曹三者の中において、まずもってなされるべきものは、やはり弁護士の改革ではないかと思うわけであります。

 すなわち、弁護士というのはまさに市民と司法とを結ぶ接点にあるわけでありまして、また、いかなる社会においても圧倒的な多数が弁護士であります。この弁護士の在り方が我が国においても基本的に問題であります。

 したがって、まずもって弁護士の在り方が改革され、それから裁判官、検察官の在り方の改革もあるのではなかろうかと考えておるわけであります。

 そういう意味では、まず弁護士自身の、またその主体的、実践的な改革が必要であろうと。

 それでは、どこをまず直していくのかと言いますと、やはりまずもって弁護士人口の増加。先ほど言う法曹人口の増加と相まって、まずもって弁護士人口が極めて増加しなければいけない。いわゆるアクセス確保のためにも、あるいは法的需要を充足するためにも、あるいは法曹一元の基盤となり得るためにも、先ほど言うように、弁護士人口が極めて増加しないことには、すべての話はならない。

 同時に、この弁護士自身の中における競争原理というものが必要であり、内外における競争原理というものも我々弁護士の社会においても働いてこなければならないと思うわけであります。

 二つ目には、この弁護士へのアクセス障害。今大きな問題は、市民と弁護士へのアクセスが、幾多の点において障害を帯びておるわけでありまして、そこを直していかないことには話にならない。先ほどから出ていましたような弁護士遍在、あるいは公設事務所、あるいは法律相談、あるいは法律事務所の法人化、共同化、あるいはワン・ストップ・サービスなどが行えるようになったり、報酬制度の一層の改善とか、あるいは利用者という立場から見たら、弁護士選択のための広告、あるいは広報、あるいは弁護士情報といったものの公開ということが行われて、アクセス障害が改善されなければいけない。

 更に弁護士の業務というものが、私たちは弁護士法30条という条文がありまして、立候補を要する議員等にはなれるわけでありますけれども、それ以外の、例えば自治体の職員であるとか、国立大学の先生などには弁護士としてはなれない。いわゆる公職の兼職禁止ということになっておりますが、そういう問題もやはり直していかないといけないし、営業許可の問題も問題になってきますし、あらゆる社会の領域に弁護士が進出していくということがなければ、法曹人口だけをむやみに増やしても仕方がないと思うわけであります。

 更に弁護士の改革としては、4番目の公益への奉仕義務、これが私は一番弁護士として大切でありまして、人の不幸を職業の種にすると、私がかねがね言うております、牧師、医者、そして弁護士が、それをビジネスの対象にのみ持っていくということになりますれば、そこが一番の問題でありまして、しかも、現行の弁護士自身、そこが問題である。建前は人権擁護とか社会正義とか、あるいは自分は在野法曹だとか言っているけれども、実際のところは、私に言わしたら一種のキャリアと同じじゃないか。

 そういう意味では、いわゆる法律事務を独占し、あるいは自治に甘んじておる我々の状態自体が抜本的に改正されていかなければならない。

 そういうことのためには、まず我々が公益的な職務を行うということを、弁護士法そのものを改正して、我々の使命以外に義務づけてしまうことが必要ではなかろうかと。

 そういうことから、我々の弁護士会というものも、後から出てきます法曹一元をどうして実現化するかということであれば、裁判官等を含めて、そういうものになることの推薦をすることを義務付けられるという問題になって、我々としてどうするか。

 同時に個々の会員というものは、そういうものを指名されれば、それを尊重しないといけないという、義務付けるという慣行の中において、法曹一元の問題も解決するのでありまして、単に今のような弁護士任官制度をただ希望者を募っているだけでは、我々としての問題にならない。その意味において、弁護士という職業自体は自由業であって、我々の好きなようにすればよいんだということにはならないのではないか。そういう意味の弁護士の制度の根本的な改革が必要であろうと。

 それに伴って、ここにも書かれているような倫理の確立のため苦情処理や懲戒はもとより、そういうものが公益的な活動をどの程度やるかということでありましょうし、また、関連資格者との共同のための調整、特に国際化を迎えての外国法事務弁護士との関係等がもっと問題になってきて、そこをどうするかということがやられなければいけない。

 このような一連の弁護士に関する改革が行われた上に立っての裁判官制度の改革ではなかろうか。

 裁判官制度としては、かねて言っていますような法曹一元制度が確立されなければいけない。そういうところでは、当然のように地域社会の実情に合わした、そこでの裁判官の任用制度という、市民の意思に基づく裁判官の任用制度ということが検討されなければいけないと思うわけでありまして、裁判官指名推薦委員会の制度などが考えられ、市民の意思を導入した上での裁判官推薦委員会の設置ということが望まれるのではなかろうかと。そういう中において、初めて職業裁判官の弊害だと言われておるところの、いわゆる自由心証で証拠から事実を認定するという問題についても、陪審・参審ということ等がここになってきて、結果的には基本的に市民が参加するという形が望まれるということであり、裁判官自身につきましては、身分保障と市民的自由の確保が行われ、人的、物的設備の拡充等が行われ、研修制度も根本的に改められていかなければいけない。

 そういうことも相まって、一方においては検察官制度の改革もあるわけでありまして、確かに今日おっしゃったように、危機管理型の社会ということが、一方において日常社会とまた管理型と違うということになってくると、その点の検討は私も余りしていなくて、これから考えなければいけないことではないかと思いますが、しかし、少なくとも、現象面から見ましても、ここに書きましたように起訴独占・起訴便宜主義、これもまた検察官の何もかもが自由だという問題についての問題点があるのではなかろうか。

 いわゆる検察審査会というものがあり、それによる起訴強制、あるいは準起訴手続をもっと実効化なさしめることが必要であり、また、新しい犯罪に対しましての防御機能、社会秩序維持という意味から、あるいはその犯罪になる前の非行状態といったものを、どう我々は、公益の代表者である検察官を中心として物事を考えていくかということをしなければ、社会秩序の維持も極めて問題ではないかと考えるわけであります。

 以上が、いわゆる司法の担い手、一応この場合は裁判官、検察官、弁護士で、しかし、弁護士がまずもって改革の基礎になるということを申し上げたわけであります。

 二つ目には、今度は有機的に結合している司法制度の利用・運営に関する制度改革が問題にならなければいけない。

 それには、法律扶助制度、あるいは被疑者の国公選、あるいは公設事務所、法律相談の設置、また極めて重要なものとして、行政に対する司法の監視ということの問題点が出てまいりますし、いわゆるADRの構築問題も問題になってくる。

 同時に、私はこの審議会そのものでは具体的な内容は決められないにしても、少なくともこの市民の権利を保障する実体法や手続法自体が改正になっていきませんと、単に担い手問題や、制度を我々がなぶるだけでは全くできないのでありまして、そういう意味から言えば、懲罰的賠償や訴訟費用の負担の在り方、これは弁護士費用を含めてどう考えるのか。

 あるいは行政や企業の活動に対する司法的な統制はどうするのかとか、そのための権利の実現のための障害になっている保全処分の保証金や、登記による登録税とか、いろんな問題が問題になってまいります。

 また、そのための生活の質に関するいろんな問題、消費生活とか環境、食品の安全、労働、女性問題、少年問題、高齢者問題等、いろいろあるもので、それをどう解決していくのかということも、また、一方においては考えられなければいけない。

 そして、言うまでもなく司法の予算の増額があるということでありまして、この二つの問題が相まって、始めて担い手問題と運用・利用の問題が解決されてきて、初めて我々の司法改革というものは成るのではなかろうか。

 そして「実現へのタイムスケジュール」としては、その中で法律改正を要するものについては、少なくともこの審議会で答申して2年以内の成立を目指すことが必要であろうし、すべての改革というものが少なくとも2010年までというようなことを前提に置いて物事が考えられなければならないのではなかろうかと。こういうふうに考えるわけであります。

 今言いましたことをたまたまこれを図表にして示しますと、ここにまず三角形が書いていますけれども、まずもって我々の司法改革の審議会の審議対象としては、法曹人口・法曹教育問題があり、その上に弁護士改革があり、検察改革があり、そして裁判所改革が成り立って、いわゆる法曹一元とか陪・参審というような問題は、これらが全部解決して、確かに松尾さんのおっしゃるように、すべてがここへ帰着するわけでありまして、それが片づいていかないわけには、こういうものもできないのではなかろうかと。

 一方、逆三角形で書きましたけれども、いわゆるそのためには、一方何が必要なのかと。一方においては「接近障害の解消」が必要でありますし、また、権利実現のための諸制度の改革というものが行われることによって、法的需要が拡大し、利用しやすい司法になっていくわけでありまして、そういうものとこちらの担い手問題とが有機的に結合することによって、我々の司法制度改革審議会のすべての構想ができ上がっていくのではなかろうかと。私個人としては、極めて大ざっぱではありますけれども、このように考えまして、ひとつ示させていただきました。

【佐藤会長】 どうもありがとうございました。大変熱っぽくお話しいただきました。各委員の方で、これからの議論、あるいは論点整理に向けて、この辺は是非考えてほしいというような点を、今日に限らず、これからも何回か続けますので、今日の時点でこれだけは申しておきたいということがございましたら、どうぞおっしゃっていただければと思います。

 あるいは、今、中坊委員がおっしゃったことについて、それはどういう意味かという点もあろうかと思いますので、御質問いただいても結構でございます。

【中坊委員】 余りよく考えてはおりません。問題点として地図みたいに作ろうというだけのことですから、内容はちょっと問題かもしれませんけれども、できるだけ地図的な意味においてはお答えさせていただきたいと思いますけれども。

【佐藤会長】 いずれでもよろしゅうございますので、どうぞ御自由に御発言いただければと思います。

【井上委員】 中坊委員の情熱と、構想の規模の大きさに頭がくらくらするような状態です。非常に共鳴を覚えるところが多々ありまして、大きな方向としてはこういうことかなとも思われるのですけれども、あえてコメントさせていただきますと、ここで言われている要点は、司法が開かれて、国民にとって親しみやすく利用しやすい制度というものをいかに実現していくかということだと思いますが、他方同時に、司法の本来の理念と言いますか、適正・公正、公平、迅速に、内容的にも的確で妥当な解決を導いていくということとのバランスも大事で、それを失うような改革であってはいけないということも、踏まえていないといけないと思うのです。ポピュラリティーの高さとそのこととは、多くの場合、一致するのでしょうけれども、時として矛盾してくるところもあるかと思いますので、その辺も踏まえて議論をしていかなければいけないのではないかというふうに感じております。

 もう一つは、21世紀の社会というものがどうなっていくかは、必ずしも予想できないところがあり、今起こっている変化から延長線で物を考えていくしかないのですが、社会構造が非常に複雑化していって、個人の価値観とかライフスタイルも非常に多様になっていき、それに伴って法的ニーズというのも非常に多様になっていくのではないかと思うのです。

 それに応じ、紛争というものも単に訴訟で解決するというだけでは対応できず、問題への対応の仕方も多様性のあるものにしていかないといけないと思うのです。これまでの議論では、今までは国とか、「官」という言葉を使われる方もおりますが、そちらの方で予防を講じていたのが、規制緩和でそうはいかなくなってしまって、紛争が起きてから司法に頼って解決してもらわないといけなくなる。こういう構図で物事が語られているのですけれども、国民個人のレベルで見ますと、法制度に求められる役割としては、予防的な面というものも重要になってくるのではないか。そこへの法律家の積極的な関与というものも求められるようになるのではないかと思うのです。その点も、無視できない一つの視点じゃないかなと思っています。

 もう一つは、これからの世の中というのは、非常に激しい変化がどんどん起こっていく可能性がある。それに司法制度がどう対応していくべきかという点から言いますと、この審議会で大きな改革が提案できて、それが実現し、うまく物事が動いていったとしても、恐らく、いずれはそれももたなくなってくる。そういうことを考えますと、司法制度も常に自己革新というか、そういうことが必要とされると思うのです。どうも日本の制度というのは、一回決まっちゃいますと不変であるみたいにみんな思ってしまって、変えていくということがなかなかやりにくいという面があるように思われるのですけれど、そのような不断の自己革新の仕組みを、制度として取り込んでおかないといけないのではないかと思います。

 臨司のときに司法協議会というものが提案されてましたが、うまくそれが実現できなくて、その後、法曹三者の協議である程度のことをやってきたと思うのですけれど、どうもそれでは求められている改革がなかなか迅速には動いていかない、それにはそれなりの事情があったのだと思うのですが、外からはそういうふうに見られたことは事実であり、それがこの審議会が設置されるに至った一つの大きな原因であったと思うのです。

 そういうことを考えますと、そういう仕組みを作っておくべきであり、その際に法曹三者だけでやりますと、また問題が起こったり、あるいは誤解を生むことにもなるかと思いますので、外部の人を入れた機構を作って、常に現状をレビューしていくということを考えていくべきではないか、そういうことも論点にすべきではないかなと思っています。 Z 最後に一点だけ、中坊先生に御質問なのですけれども、分権型で地域社会を基盤にした裁判所、あるいは裁判制度であるべきだおっしゃられたことは、一つの重要な考え方だと思うのですけれど、他方同時に、司法の均質性ということを強調される人もいると思うのです。全国どこへ行っても均質の司法を享受できるということでなければいけない。具体的に言えば、その地域ごとに裁判官を選んで、そこの中のやり方でやっていくというのが最も徹底した分権だと思うのですけれども、しかし、この狭い我が国で、ほかの地域へ行けば違った基準で物事が解決されるということで果たして一般の人が満足するのかなという点がちょっと疑問でもあるのですが・・・。

【中坊委員】 井上さんの質問の点に関して言えば、やはり最高裁判所、高等裁判所というものを、地方裁判所、簡易裁判所というのは、すべてこれを前提にして考えていますから、やはりすべてのものが最高裁判所によって最終的に判断される。それはどこの社会でも同じように、裁判でも同じように、当然そういうものになっていくというところがある。しかし、今ここで私はこの審議会でも一つのベースにしていかないといけないと思いますのは、あくまで我々は現場に即した理論でなければならないということ。

 ところが、今までは官主導ですから、知らしむべからず、依らしむべしで、指導していけばよかった。これからこういうふうにならなくなってきたら、否応なしに自立した企業であり、自立した市民にならざるを得ない。そうすると、さっきから言っているように、アワー・タウン、アワー・コート、アワー・ローヤーという発想にならなければ、物事はいかない。確かにその意味ではまさに松尾さんのおっしゃるように、日本社会は非常にいろんな要素が混在しています。だから、ある意味において私は日本の司法というのが今の社会の変動の中で、ある意味で一番後れた分野であった。少なくとも政治とか行政よりもなお後れた。それはやはり司法の独立という、これはどこの社会でも必要なことでしょうし、独立というものが何となく、やはり国会の決議でも司法問題は法曹三者で決めてきてくださいというふうになってきたために、ほとんどが手つかずの状態になって、結果的には今の日本の社会改革、行政改革、政治改革が言われながら、司法改革が一番後れてきたというところの一つになっている。

 私は独立ということが、むしろ独善ということに変わってきてしまった。あるべき独立というものから独善に変わってきてしまっているのが、今の司法の実態であって、それは私個人の弁護士制度にしても、また独善であるし、すべてがそういうふうになってきたという意味において、確かに改革というものは、徐々に改革というより、ドラスティックにどんと変えてしまわないと、非常に後れたものを一挙に根本的にあるべき姿として直していくのが、まさにこの審議会に託された使命じゃないと思うので、そういう意味における、今強調すべきはこの分野でありますよということであって、確かに社会としては、予防的措置というのは確かにおっしゃるように要るわけです。だから、要るけれども、それでは予防すると言ったって、まずそういう人がいますか。社会において弁護士といったら、とにかく悪いやつだということになってしまっている世の中において、近づくべからず、あんな人に依らしむ、私もそうかもしれないけれども、そういうことになってしまっていては、やはり話にならんので、やはり予防というなら、町内会の中に、ありとあらゆる社会に、もっと法曹というものが、時には姿を変えて、だから、今みたいに弁護士は公職になってもあかん、ここになってもあかん、あそこがあかんと全部制限してしまっているからあかんので、やはりあらゆる社会に出していかなければいけない。

 私個人でも、ぶっちゃけた話ですよ。今度かて整理回収機構、あれ別に社長はだれにならはってもいいわけです。弁護士にやらしたらどうなるんやということを私は自分で肌身でやってきたつもりなんです。

 あそこでまさにやってきたことは、単に回収したらよいだけとは違うと。司法において公正と透明であらなければならないと。まさに司法の理念そのものなんですよ。だから、私は自分で実際に実践してみて、弁護士さんも単に自分が依頼を受けるんじゃなしに、自分が頼んでみて。うちのところでも報酬を年間40億払っているんですよ。日本最大の依頼者です、私のところは。だから、実際それをやってみてどうかということにならないと、私たちの持論というのは、へたをすると、現場に即さないで架空の議論になりかねない恐れがある。また、そういうことを踏まえて、実感の中で我々のこの司法改革の審議会の審議が進まないと、多くの国民はかえって失望してしまう。

 まさに今日も佐々木さんのおっしゃったように、一部の人の声が、非常にオーバーまでに参加し、一部の声は全く無視された状態が、日本社会では非常に進んできておって、そのためのひずみというものを今抜本的に私たちが変えないと、日本の社会もよくならないし、日本自身が国際的にも通用しないことになると。

 非常におこがましい言い方ですが、私は少なくとも現場を数々踏んできています。確かにありとあらゆる分野を。だから、私はその実感に基づいた改革が行われていかないといけないというふうに、確かに今、会長がおっしゃったように、何か情熱的という言葉は使ってくれませんが。

【佐藤会長】 熱っぽくと。

【中坊委員】 私は本当にそういう気持ちでやらないと、本当にこの司法改革が生きたものにはならない。だから、制度だけをいじくるのではなくて、まさに大事なのはその中の心、精神というものを一番大切にして、しかも現場に即した改革が行われなければならない。そういうことを切望していまして、今日かて私、言わはるように、こんなもの出さんでもええのやけど、あえて一番に、言うたら優良な生徒ではありませんけれども、そういうつもりで。

【佐藤会長】 ますます熱が入ってきて。

【藤田委員】 中坊さんのおっしゃることには大変共感するところも多いんですけれども、現在の裁判官の在り方と言いますか、中央集権型の官僚組織の一員となっているという点については、そうだそうだと言うわけにはいかない。最初の司法改革の基本的視点でありますけれども、裁判官で中央集権型の官僚組織の一員であるという意識を持っている人は、恐らく一人もいないと思うんです。勿論、統治組織の一員という意味では官僚なのかもしれませんけれども、官僚というと、一つのイメージがありますから、いわゆる自分が官僚だというふうに思っている裁判官はいないと思います。裁判官が官僚組織の一員として、中央の意向と自らの昇進・昇給に気を使うようでは、裁判の独立はおぼつかないと言われますが、こういう判決をしたら、高裁、最高裁がどう考えるだろうかとか、自分の昇進・昇給に影響するだろうかというようなことを考えて判決したことは私は一件もありませんし、そういうことを考える人は、そもそも裁判官にならないんだろうと思うんです。裁判官がどの程度社会から評価されているかわかりませんけれども、仮にある程度敬意を払われているとしても、どちらかと言えば敬して遠ざけるというのが本当のところではないか。私、結婚して余り経たないころ、家内が学校の同窓会に出まして、友達同士であなたどこへお嫁に行ったのなどと聞きますよね。私の主人は裁判官だと言ったら、随分変わったところにお嫁に行かれたのねというようなことを言われたと申しました。そういう目でみられているのに裁判官になろうという若い人たちを見ていますと、他からの掣肘を受けずに、自由に自分の信念に従って判断できるような職業に就きたいというような気持ちの強い人がなっていると思うんです。裁判官のとして具体的な仕事をするのについて、外からプレッシャーを掛けられるということは全くない。私は40年近く裁判所におりまして、その間、ずいぶんたくさんの事件の判決もしましたし、和解などの処理もしましたけれども、所長とか部総括とか、そういうところから何らかの形で圧力を掛けられた経験は一遍もありません。弁護士から裁判官に任官して、今東京高裁の裁判長をしている方がいますけれども、この方が任官するときに、裁判官は独立と言っても、何かあるんじゃなかろうか。建前はそうだろうけれども、実際にはいろいろ、所長かどうかわかりませんけれども、何かプレッシャーを掛けられることがあるんじゃないかと思っていた。ところが、中に入ってみたら、一切それがないということでびっくりしたという話を、弁護士の方で任官を考えている方への講演のときにされたということを聞いております。

 ですから、裁判官が中央集権的な組織の中で、いろんなプレッシャーを受けながら身を処しているんじゃないかという見方もあることは承知していますけれども、それは実態ではない私は今まで思っておりましたし、現在もそう考えております。

 それはそれとして、この審議会でどういう形でこれから審議をしていくべきかという点につきましては、やはり国民が21世紀の司法に何を望んでいるかという視点が一番重要であることは、これはもうコンセンサスだと思います。そういう意味では国民全体に、審議会の検討しているテーマについて、理解と認識をしてもらった上で、何を求めるかということを吸い取るということが大事なんじゃなかろうかと思います。先ほどの松尾先生からも、法曹一元と言っても、陪・参審と言っても、どれだけ国民が正確に理解し認識しているかというようなお話がありましたけれども、そういう理解、認識をしてもらった上で、何を求めるかということを吸収するというのが大事なんじゃないか。そういう意味で、こちら側からのPRというか、審議会で取り上げる問題についての理解、認識を求めるという努力がやはり必要だと思います。審議会だけでできることではないかもしれませんけれども。

 それから、第1回の会議のときに申し上げましたけれども、司法改革についての議論では、どちらかと言えば大都市の現状を踏まえたものが多いように思います。私などは東北地方と中国地方で勤務して、いわゆる弁護士過疎地の実態も見てきたんですけれども、日弁連もいろいろ努力をしておられます。法律相談センターの設置、一番最初にできたのが島根県の石見なんですが、「石見に続け」、「石見を手本に」ということで努力しておられますし、公設事務所ということも考えておられる。そういう努力は勿論、評価できるんですけれども、裁判所の立場で、過疎地でどうしても困るのは国選弁護と破産管財人なんです。そういう意味で、センターとか公設事務所だけで問題を全部解決できるのかというような気もします。しかし弁護士過疎地の問題は、弁護士だけの責任じゃないと思います。日本の社会全体の在り方の反映だと思います。一極じゃないかもしれませんけれども、大都市集中という社会の在り方が、弁護士8,000 人の東京集中をもたらしているわけです。地方の弁護士さんと話をしますと、小都市になるほど弁護士という事業が成り立ちにくくなると聞きます。教育にしても何にしても、大都市集中から生ずる制約が非常に多い。したがって、法曹人口を増やしただけで、今の司法過疎地の問題が解決するのだろうかという疑問を感ずるのです。これは日本の社会全体の在り方の問題ですから、審議会だけでどうこうできるということではないんですけれども、そういうような状況があるということを念頭に置いて、どうやったら地方での司法が少しでも国民の理想に近づけるかということを考えなきゃいけないんじゃないかと思うんです。

 三番目は、21世紀の司法の在り方についてのビジョン、これは勿論考えなければいけないんですけれども、法曹人口の問題にしても、国民の司法参加の問題にしても、一朝一夕ではできない。相当な時間が必要なわけです。10年計画で理想的なビジョンに近づけていくという考え方もされていますけれども、将来のビジョンができたとして、そこへ持っていく現実的な手段、そこへ行くまでの段階をどうするかというのは、最終的なビジョンを設定するのと同じくらいの重要性がある。現在の日本の置かれている状態からすると、大改革をして理想的な状態にするんですから、差し当たって混乱が起きてもやむを得ないというような状況にはない。むしろ今が一番大変な時期なのかもしれないんです。ですから、そういう意味で司法の機能が混乱するようなことがあってはいけない。

 そうすると、将来的なビジョンを設定したとして、どういうような現実的な手段、プロセスで、そこに近づけていくかということが非常に大事になると思う。そういう意味で現実的な視点からの検討が必要ではなかろうかと思います。以上です。

【佐藤会長】 どうもありがとうございました。

【中坊委員】 あえて藤田さんのおっしゃったことに反論するわけでもありませんけれども、やはり私、今必要なことは、やはり裁判官制度についても、弁護士制度についても、私たちがどれだけ自己反省するかということに始まると思っているんです。もしこれが反省すべき点がなければ、今みたいなこんな問題が起きていないわけですから、既に法曹三者に任されてやってきたところが、結果的にうまくいかなくなって、訴訟というよりも司法そのものが非常に弱くて、今問題になって、こういう問題が起きておるということは、我々の議論の前提だろうと思うんです。

 だから、今おっしゃるように、個々の裁判官けしからんとか言うているわけでも何でもないんで、しかし、全体としての司法が今どういう位置づけをされておるかということは、既にこの審議会の法律によって決まってきているわけですから、それはあくまで我々の議論の前提でなければ、我々はよくやっています、何にも反省する点はありませんよということを前提にしてしまえば、これは何をかいわんやであって、まずもって、今おっしゃるように裁判官も、あなたたち自身はなるほどそう思うてはるかもしれぬけれど、私のようにかなり接近して見ておる者からして、決して今、藤田さんおっしゃるように、裁判官制度そのものは見えてませんよということを私自身は言うておるし、しかも、数多くの人がそのことを今言っておるということが前提になっていかないといけないと思うんです。それはまず一点必要なこと。

 二つ目には、確かに今おっしゃるように、すべての過疎地問題、そういうことは、先ほどから言うように、まずもって法曹教育、そして法曹人口問題があって、我々のいろんな大きなものが変わっていくわけですから、それを前提にしないと、またもって話にならないし、私はそういう非常に初歩の基盤とか、基礎的なところを根本的にどう直していくかということが、まさにこの司法改革審議会の今要請されていることではないかという気がします。

 それから、今おっしゃるように、みんなの意見を聞けと。だからこそ、私も第1回目のこの会合のときから、これは公開すべきであるということを言うておるわけで、それがいまだに実現していないわけですけれども、それはさておいたとして、今我々は期限の限られた範囲内において答申をしなければならない。別の言い方をすれば、今や我々の責任は、意義は極めて重要であって、全国民が13人の委員に置き換えられていると解釈して我々が今この審議会の審議をすべきではなかろうか。もう2年を切って1年と何か月になっている状態の下において、これからみんなの意見を聞いてなんて。勿論意見は聞きますよ、聞かなきゃいけないけれども、しかし、我々委員の一人一人は、それだけの自覚を持って、13人の委員が全国民に置き換えられているという意識の下に、我々はこの審議会の審議を進めなければ、今これからみんなの意見を聞けばどうだこうだと言っているときではない。

 ある意味において、法曹三者はそれぞれ追い詰められた結果、このような状態になっているという現実を前提として、私は弁護士、しかも法曹三者の中で言えば一番悪いとは言わんけれども、まず一番大きな問題があったのは、私は弁護士制度そのものであったと。そこを我々弁護士がどう自己改革していくのかということについて、弁護士会も私は考えてほしい。

 だから、私はかねて言いましたように、第1回目のときに言いましたように、私は弁護士会から推薦されて出ているわけじゃない。だから、弁護士会がどう思おうがこう思おうが、一人の国民として選ばれた者として、この委員の立場から言うていかなければいけないと、こういうふうに思っています。

【藤田委員】 勿論、改革不要とは思っていません。反省がないというわけでもない。だから、国民が求めているような改革はしなきゃならんという前提ですよ。

【髙木委員】 みんな根っこのところではつながってくるんだろうと思うんですが、例えば分権の中での公正、公平の担保の仕方が問題。それがゆえに集権論で来たというように、藤田委員が御主張のように思うわけですが、集権というのは、どんな組織でも一元的な判断を、御当人は強制していないと言ったって、その構成員に心理的に強制する社会になってしまいます。そういう制度を何十年も続けていたら、そういう風土ができて当然で、当然その風土を守るための官僚制も跋扈するというのが宿命だろうと思うんです。

 そういう意味で、今、藤田さんも反省がないわけではないという話もされましたが、この仕組みは絶対に守らなければいけないのだ、この仕組みは運営も含めて絶対的に間違ってないんだ、ということで議論をスタートさせたら、議論にならないと私は思います。中坊さんも弁護士会の代表ではないと言ったけれども、だれもそうは思いません。やはり弁護士会のことを思うんだろうと思います。

 私なども率直に言って、いろんな事件に関わっていて、この弁護士さんを、本当に弁護士法の趣旨に合っている弁護士さんかなと、辞めさせてもらいたいと思う方もいます。弁護士会で懲罰委員会か何かお持ちだそうですけれども、そこへ掛けてくださいと、中坊さんにお願いに行きたい人がいるんですよ。だから、そういうことも含めまして、せっかく議論をこれから始めるわけですから、余りタブーを作らずに議論しなければならないと思います。

【佐藤会長】 それぞれの立場で、そのような問題を認識しているところが少しずつ違うことはしょうがないことですから、それを踏まえた上で、全体としてどうすべきかということを議論するのが、この審議会の任務であり、各位が皆そう思っていらっしゃると思いますので、その辺は、これからいろいろ議論していってよろしいんじゃないかと思います。

【髙木委員】 タブーを作らないでやりましょう。

【佐藤会長】 私もそのとおりだと思います。タブーを作るようなことにならないように、私も努力いたします。

【石井委員】 今まで何回か審議会が開かれてきましたが、そういう中でこれから先どのように展開していくべきかということをいつも考えておりました。今までのようにいろいろお話を伺っていくのも、勿論、大変有益なんですけれども、もうちょっと積極的な意味で物を考えなくてはいけないと思っておりまして、適当な時点で審議項目などについて、スケルトンを作ることを御提案した方がいいかなと思っていたところ、今日、中坊先生に先を越されて、おまけにスケルトンどころではなくて、内容まで全部がっちりできており、さすがに大したものだと大いに感心した次第です。そういうことで、今後こういうスケルトンをまず作り、それに具体化したものを肉付けしていくというのが大変重要だと思いますので、そういう方針もお考えに入れていただけたらと思っております。

【佐藤会長】 論点整理というのはまさにその問題です。論点整理をするについては、今まで国民の各層から既にいろんな意見・提案が出ていますでしょう。それを事務局で整理してもらうと同時に、今日、最初のスタートなんですけれども、各委員からいろいろ意見を言っていただいて、そしてペーパーも出していただく。その上で全体を整理したいというように思っています。

 さっき中坊さんがおっしゃったことで大事だと思いますのは、個別的に、こんな問題がある、あんな問題があるというように、論点を列記するだけでは余り意味がないという点です。それでは国民も何のことかよくわからないだろうと思います。論点整理の段階でどこまでできるかは問題ですけれども、できるだけ全体の、ナラティブを明らかにしたい。全体のナレーションがあって、一つ一つの問題が意味付けが与えられるわけで、そのナレーションというものもかなり意識して論点整理をしたいと思っております。ですから、今日の中坊委員のペーパーのように、お考えのところを率直に述べていただきたいと思います。

 そして、そのペーパーも濃淡さまざまあってよろしいと思います。詳しいのもあっていいし、これは行革のときもそうでしたけれども、簡潔なペーパーもあれば、何十ページにわたる大論文もあっていい。それはもう自由にお考えいただいて結構だと思います。是非それを出していただいて、ペーパーと御議論と、そして、国民各界のいろんな意見を集約したものと突き合わした上で論点整理をしたいと思っております。スケジュールもこの間から御相談してきたように、今年中に発表しないといかんということは、これは決めたことでもありまして、そうでもしないと先へ進みませんので、少なくとも12月の初めの審議会で素案みたいなものをお示しすることにならないと難しいと思います。12月の2回目は21日でしたか。

【事務局長】 そうです。

【佐藤会長】 21日でぽっと出して、いかがでしょうかというわけにはいきませんので、その辺をお汲み取りいただいて、11月の遅くても半ばごろまでにペーパーをお出しいただけないかと思っております。

 そのペーパーを公開の対象にするのかどうかという問題もございまして、それぞれの意見を出したんだから出ていってもいいじゃないかとお考えいただくか、あるいはそれは内部的な検討だとして内部だけでとどめておくと考えるのか、その辺も今日できれば御感想みたいなものを伺っておきたいんですけれども、その辺はいかがでしょうか。繰り返し申しますが、精粗さまざまあってよろしいと思います。司法事務に携っておられる人はよく実情を知っておられるでしょうから詳しくなるでしょうし、そうでない方は、今、外からどう見ているかを率直にお書きいただくということでもいいと思います。それはさまざまであってよいと思います。

【井上委員】 それで結構だと思うのですけれども、最初の回でちょっと申し上げたように、やはり我々それぞれが議論していくうちに、考え方も変わっていかなければならない。そうあるべきだと思うのです。ですから、今度出すペーパーというものも、あくまでもその時点で問題がこう見えたということに過ぎない、そのようなものとして外の方にも受け取っていただきたいと思うのです。それに余り縛られますと、建設的な議論ができなくなってしまいますから。

【佐藤会長】 そうそう。意見が変わると、下手すると変節だとかいうことで責められると非常に困るんで、それでは、審議するということの意味がなくなってしまいます。

【井上委員】 もう一つ、論点の柱書きなのですけれども、先ほどの議論でも出ましたように、司法の問題点につき、多くの人がそういうことを言ってこられたので、この審議会が出発したということはそのとおりだと思うのですけれども、それらの点も本当にそのとおりなのかということも現実に照らして確認していくべきである。藤田さんが先ほど言われたのも、そのような御趣旨だと思うのです。ですから、そこのところも踏まえた書き方にしていただければと思います。

【北村委員】 一つ疑問点があるんですけれども、先ほどいらしていただいた方の報告の中にも、司法予算の問題等々が出てきているんです。例えば裁判所の部屋が足りないとか何とかという非常に物理的なこと、そういうことというのは予算を増やせばできる状態にあったのであって、ほかの制度に関わる問題ではないと思うんです。それが何故これまでできてこなかったのか。ということは、一体政治をつかさどるところの者が意識してなかったがためなのか。あるいはそういうような予算を増やすということについて何かの反対があったのか。そこのところをちょっと教えていただきたいと思うんです。

 会計学などをやっていますと、数字を増やせばいいと言ったときには、何かを削ってこちらに持ってくるんですけれども、割と簡単にできるんじゃないかという思い込みがあるんですが、それが例えば法曹人口に関係するからできなかったとかというんだったらわかるんです。ところが、そういう物理的な問題についてのものとかというのが何故できてこなかったかというのが、昭和三十何年ですか、あれがあったからでも、多少裁判官が増えたとか何とかという面での予算の増加はあったようですけれども、そこのところはどういうふうに解釈すればよろしいんでしょうか。

【佐藤会長】 それはある種、難しいところですけれども、これから法曹三者のヒアリングを予定しておりますので、そういうところでそれぞれの立場でお答えになると思います。

【北村委員】 もう一点なんですけれども、これで我々2年間、自分の時間を多少削りまして、一生懸命これをやっていく、その途中にあるわけですけれども、これで司法制度改革審議会の報告書が出ますね、それはなるべく実施していただく項目が多い方がいいと思うんです。先ほど井上先生がおっしゃったと思うんですけれども、法曹三者だけではなくて、ほかのものも入れるような形のものを考えていく必要があるんじゃないか。 だから私は、この報告書の中にそれを実施しやすくするようなものというのも、改革の一つの要因として入れればどうかなというのが希望なんです。

 もう一つは、中坊先生の論点の中にも、法曹人口の増大ということが出ています。これは確かに私も必要だと思っているんですが、法曹人口の増大と言ったときに、今の司法試験制度等々の関係もあって、非常にドラスティックにここで変わることになると思うんです。変わった場合に、毎年何人ずつ出していきますよというのはわかるんですが、トータルで何万人にしますという、これというのは非常に怖い議論だなという気がするんです。その何万人になったときに、では、もうやめましょうかと。要するに、法曹から抜けていく人と入ってくる人とのバランスが悪くなったときに、では、また今度絞りましょうと。改革というのがドラスティックに行われるのはいいんですけれども、それがある程度持続しないとおかしいですね。特に非常に変えられにくい部分というのも確かにあると思うんです。そこのところをどういうふうに考えていけばいいのかなと思います。中坊先生、6万人というふうな形でお出しになりましたが、それはどういうふうに考えているんでしょうか。

【中坊委員】 私は少なくともこの審議会、これは公開されてもやむを得ないと思って言っているんですけれども、確かに今髙木さんのおっしゃったように、私は弁護士会の代表ではありませんと言っても弁護士会を代表しているように皆さんがお取りになるわけでしょう。 Z むしろ率直に言って、日本弁護士連合会の数多くの会員は、数が少ない方が自分たちの生活が安定するし、それがいいと思っているから、先ほど言われたように、まさに自治というんだったら、職業のエゴ集団になりませんかということを指摘されているわけです。

 そういうところに私が位置づけされておるということを意識してあえて言っているだけであって、そこを抽象的に言えば、「中坊さん、実はそう言っているけれども、言葉だけのことでほんまは何も思ってへんのや」と、こういうことになりかねないということをおもんぱかって言っているだけで、私も何も6万人という数字にはこだわりません。

 ただ、一つで言えることは、私は今のアメリカ型の、今は何しろアメリカさんが偉いから、グローバリズムでばんと言うてきはる。それにはおっしゃるように、今100 万人の弁護士がおるわけです。それでいくと、日本の人口で割ると半分としても、50万人いるわけです。50万人と2万人では余りにも格差がある。それでは、50万人が正しいのかということについては、私たちも大しては知りませんけれども、アメリカの社会の在り方、あるいは弁護士の在り方、特にその中でのプロフェッション性というよりかはビジネス性というのが非常強くなってきているアメリカの現状などを私も多少弁護士会におりまして、そういうことを聞いてきたり、調べに行ったりしましたから、そういうことを考え合わせたときに、それは人口をただ爆発的に増やせばよいという問題でもなかろうと思うんです。

 それでは、2万人では足らぬと言ったときに、私は何も6万人が正しいと言っているんじゃなしに、ここで審議するためには、多少そういうことを言わないと、私が自ら言わないと、弁護士会の代表ではないかととられかねないから言うているだけで、先ほど井上さんのおっしゃったように、いつでも変説しますので、数は幾らでも平気で減らしますから、大して意味があるわけじゃない。

【佐藤会長】 今の問題は、法曹養成あるいは法学教育の問題です。一気に6万人にしましょう、極端に例えば来年から6万人だとか言っても、できる話じゃないと思います。積み重ねの努力、そのための議論が必要だと思います。

 まだ議論は尽きないと思いますが、時間もなくなってきましたので、今日は初回でもう少し御議論いただきたいところでございますけれども、この辺で今日は終わらさせていただきたいと思います。

 さっきも申しましたことですけれども、各委員からペーパーを遅くても今月中に。それは資料として公開されるということでもよろしゅうございますか。そういうふうに割り切ってよろしゅうございますか。ありがとうございます。

【藤田委員】 審議項目についてのスケルトンみたいなものを考えていたんですけれども、中坊さんみたいなこんな格調高いものでは。

【佐藤会長】 スケルトンでも結構でございます。
 では、どうもありがとうございました。何か事務局の方からありますか。

【事務局長】 第2回の法曹三者の施設の見学は10月20日ですので、残りの7人の委員の方、御案内のとおりでよろしくお願いいたします。

【佐藤会長】 以上で今日の会は終わらせていただきます。

別紙 第4回司法改革審議会へのメモ