1999年12月8日 日本弁護士連合会 会長 小堀 樹 |
- 1.はじめに
- 2.弁護士の使命と司法改革
- 3.これからの社会のあり方と司法改革の基本思想
- 4.司法改革の方向性
- 5.司法改革の具体的提言-市民の司法へ
- (1)弁護士に関する改革
- (2)「市民による司法」-法曹一元と陪・参審の実現
- (3)「市民のための司法」制度の整備
- 6.おわりに
[添付資料]
1.参考資料
2.「司法改革実現に向けての基本的提言」(1999年11月19日)
3.パンフレット「あたらしい正義のしくみ」
1999年12月8日 日本弁護士連合会 |
1 はじめに
司法制度改革についての日弁連の考え方を、①「弁護士の使命と司法改革」、②「これからの社会のあり方と司法改革の基本思想」、③「司法改革の方向性」、④「司法改革の具体的提言」の4点にわけて申し述べる。
2 弁護士の使命と司法改革
国家機関たる裁判所は一人一人の国民の幸福追求のためにある。
弁護士は、①依頼者たる国民の権利・自由をいかんなく代弁しその実現を図るとともに、②裁判所および裁判のあり方が国民の幸福追求に奉仕するものとなるようこれに働きかけることが求められている。
3 これからの社会のあり方と司法改革の基本思想
(1)これからの社会のあり方
個人の自立と自己責任の原則を21世紀における個人のあり方の基本理念にするためには、個人の「自立」を促し支える仕組みが用意されなければならず、また、「自立」の過程で生ずる被害や不利益から国民が身を守り、これが救済される仕組みも整備されなければならない。その制度が参加と分権である。
司法制度は、統治の視点からではなく、いかにして利用者である国民の具体的な「幸福追求」(憲法13条)に役立つものとなるかという視点から、参加と分権の思想に基づき、これを「生活の質の向上や個性的で多様性に富んだ国民生活の実現に資するシステム」としなければならない。
弁護士は、いついかなるときも裁かれる側の身近にあってその傍らに立ち、地域社会に根付いてそこでの正義の確立のために不断に闘う法律実務家として、自らを改めて定義する。
弁護士は単なる法律実務家たる自由業者としての立場を去り、本来負っている公的責務を自覚しこれを果敢に遂行する。
(2)司法改革と自己改革
司法改革の10年は、日弁連とその会員が徹底して自己のあり方を見つめ直す作業の過程でもあった。
今の司法によって権利は十分には護られていない、社会的責務も十分に果たしているとはいえない、との国民の声に弁護士が応えきれているとはいえない。
日弁連の自己改革の方向性は定まり、しかも確実にその一歩が踏み出された。
日弁連の自己改革の道程と司法改革の道程とはまさに一体のものであり、両者は共鳴し相乗して、必ずや次代と世界に誇りうる「あたらしい正義のしくみ」を創り出すものと確信する。
4 司法改革の方向性
裁判官が利用者たる国民本位で裁判を行うことを、裁判官個人の自覚と努力に任せずに制度的に確保することが今日の司法改革の根本的な課題。
日弁連の提唱する「市民の司法」は、中央集権型の官僚組織による司法を改め、地域に根ざし、地域社会と手を結び合った、地域市民による地方分権型の司法を目指す。
5 司法改革の具体的提言-市民の司法へ
(1)弁護士に関する改革
「国民の必要とする弁護士人口の増加と質の確保」。
隣接業種との協力・協働関係の構築。
公益的活動の拡充、弁護士の資質と業務能力の向上、倫理の確立。
(2)「市民による司法」-法曹一元と陪審・参審の実現
(3)「市民のための司法」制度の整備
①裁判官・検察官の増員と国の司法予算の大幅増額、②法律扶助制度の抜本的拡充、③国費による被疑者弁護制度の実現、④行政に対する司法審査の強化などの改革。
より良質の法曹をより多く確保するための法曹養成制度の再構築。
1999年12月8日 日本弁護士連合会 |
1 はじめに
日本弁護士連合会会長の小堀樹であります。
司法制度改革審議会で、日本弁護士連合会の意見を表明する機会を与えられましたことを感謝いたします。
日弁連は去る11月18日、創立50周年の記念式典を挙行しました。改めてその社会的使命を自覚し、わが国社会の発展に全力をあげて寄与していく覚悟を新たにしたところであります。
さて、私は、司法制度改革についての日弁連の考え方を、以下4項に分けて申し上げたいと存じます。
最初に「弁護士の使命と司法改革」、第2に「これからの社会のあり方と司法改革の基本思想」を、第3に「司法改革の方向性」について、そして最後に「司法改革の具体的提言」として弁護士改革、法曹一元、陪審・参審、そして市民のための司法における諸制度の順で申し上げてまいりたいと存じます。
2 弁護士の使命と司法改革
まず弁護士の使命と司法改革について、申し上げることにいたします。
自由と正義―これは、私ども日弁連の機関誌の誌名ですが、この言葉ほど私たち弁護士が心動かされるものはありません。
新しい世紀においても、この言葉は弁護士を支え導くものと思います。
自由と正義と言うとき、「自由」を真っ先に掲げるのは、基本的人権の享有(憲法11条)と個人の尊厳・幸福追求の権利(憲法13条)を掲げる現行憲法の基本的な思想に対応するからであります。
英国政府の作成にかかる「英国の裁判」という書物に、
「個人の自由と国家の利益のどちらを優先させたらよいか疑わしい場合は、英法は今なお個人の自由を優先させる。」
というくだりがあります。
現行憲法はまさに、こうした立場を基に制定されているものであります。国家は個人の幸福追求のためにある、これが私ども弁護士が理解する現行憲法の思想です。
そうであるならば、国家機関たる裁判所もまた、一人一人の国民の幸福追求のためにあると考えざるをえません。
このように考えますならば、裁判所による民事・刑事の裁判権の行使に関わる私ども弁護士には、①依頼者たる国民の権利・自由をいかんなく代弁しその実現を図るとともに、②裁判所および裁判のあり方が国民の幸福追求に奉仕するものとなるようこれに働きかけることが求められているのだと言わねばなりません。後者を現在の言葉でいいかえれば、「市民の司法」とするために「法律制度の改善」(弁護士法1条2項)を図る責務ということであります。
次に、自由と正義というときの正義とは、社会的なつまり客観性のある、倫理的基盤をもつ規範であります。弁護士が、依頼者たる国民の権利・自由の確保だけでなく、社会すなわち何らかの共通の属性を持った人の共同体の利益に奉仕することを意味します。ここから、私どもにとっていわゆる公益に奉仕する責務が導かれます。
自由と正義のこうした理解から、司法改革の責務とその方向性を定立させることができるのであります。
日本弁護士連合会会則(1949年7月9日制定)の第1章「総則」の第2条は、次のように定められています。
「第2条本会は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現する源泉である。」
日本弁護士連合会が「源泉」であるという表現は印象的であります。これについては、1950年当時の機関誌「自由と正義」の巻頭言である「弁護士法施行一周年を迎う」には、会則第2条について、「連合会の理想を表明したものであつて、茲にいう『源泉』とは、基本的人権の擁護、社会正義の実現に当る司法職員全体が、本会を母胎として生い立つべきものであるという意味である。吾人の理想とするところは、日本弁護士連合会は司法の基盤であって判検事も弁護士もみな本会の会員として、その公的生活の一歩を踏み出すようにすることである。…」と述べています。
このように自由と正義の理念は、弁護士法制定当時から、「司法の一元化」すなわち法曹一元とは分かち難く結びついたものとして認識されておりました。現行憲法のもとでは、裁判官・検察官を含む、すべての法律実務家は自由と正義の担い手たるべきであり、弁護士はその基盤であり母胎となる存在であるということであります。
私たち弁護士が今、問わなければならないのは、そして現に問われているのは、新しい時代において自由と正義はどのような姿をとっていくのか、その中で裁判制度および法律実務家は、一人一人の国民の幸福追求のためにどうあらねばならないのか、そしてそれに対応するために私たち弁護士はどのような準備しなければならないのか、ということだと考えます。
3 これからの社会のあり方と司法改革の基本思想
次にこれからの社会のあり方と司法改革の基本思想について申し述べます。
21世紀を目前にした今日、個人の自立と自己責任の原則のもとに社会のシステムをあらゆる面から見直そうとする動きが強まり、政治、経済、行政など社会の構造にかかわる改革が、各方面で叫ばれ、実行に移されつつあります。
これにともなって、司法制度も新しい世紀に向けて激変する社会の状況に十分に対応しうるものに改革する必要が緊急の課題とされています。その意味で、いま求められているのは、広く司法全体の仕組みとそのあり方の検討と、司法に携わる者すべてが自らを点検し改革することであります。
他方、私たちは、このような社会的改革の基本的視点について、こういう疑問を持っています。国民に「自立せよ」と説くことはたやすい。しかし自立せよと説くだけで現に自立できるわけではない。それは弱い立場にある者に犠牲を強いる口実になりはしないかということであります。
それゆえ、国民に「自立せよ」と説くときには、「自立」を促し支える仕組みが用意されなければならず、また、「自立」の過程で生ずる被害や不利益から身を守り、これを救済する仕組みも整備されなければならないと考えます。司法はまさに、そのための基本的な制度であります。
では、いかなる制度であるべきかであります。
司法制度改革審議会設置法が成立した約1ヶ月後の本年7月8日、「地方分権の推進を図るための関係法律の整備等に関する法律」が成立しました。この法律は、「地方分権の推進は、二十一世紀を迎えるに当たって、新しい時代にふさわしい我が国の基本的な行政システムを構築しようとするもの」であって、「これまでの行政システムは、全国的統一性、公平性を重視したものであり、我が国の近代化、第二次大戦後の復興や経済成長を達成するために一定の効果を発揮してきたものでありますが、今日においては、国民の意識や価値観も大きく変化し、生活の質の向上や個性的で多様性に富んだ国民生活の実現に資するシステムの構築が強く求められています。」と指摘されました。
この指摘には、重く受け止められるべき考え方が含まれていると思います。
司法制度改革審議会設置法と地方分権法とがほぼ同じ時期に相次いで成立したのは、司法改革の基本思想を確認するうえで単なる偶然と考えるべきではないでしょう。
司法制度改革審議会設置法と衆参法務委員会の附帯決議は、国民の司法参加をうたっています。
参加とは「なかまになること。行事・会合に加わること。」です。
では、国民はどこに加わるのでしょうか。もちろん、自らの生活領域に存在する「司法」です。那覇に住んでいる人が、札幌の「司法」に参加するようなことは誰も考えません。人が自らの住む地域社会に存在する裁判所の活動に加わることが司法参加の基本的なあり方といえるでしょう。その意味で実質的・実効的な司法参加は分権と自治の思想に立脚していると考えます。
ここに先ほど申し述べた個人の自立を説くだけでよいのかという問いへの答えがあります。「自立」を促し支える仕組みの中核にあるのが「参加」の制度であり、参加を実質化・実効化するのは「分権」であります。そして参加と分権は権利の保全や救済を実質化・実効化させます。
司法制度改革審議会設置法の趣旨は、「司法の機能を社会のニーズにこたえ得るように改革する」こととされ、また、参議院法務委員会附帯決議において「特に、利用者である国民の視点に立って、多角的視点から司法の現状を調査・分析し、今後の方策を検討すること。」とされていることを踏まえると、司法制度も、統治の視点からではなく、いかにして利用者である国民の具体的な「幸福追求」(憲法13条)に役立つものとなるかという視点から、そのあり方が全面的に見直されなければなりません。
その意味で、分権の思想のもとに、「生活の質の向上や個性的で多様性に富んだ国民生活の実現に資するシステム」とすべきなのは行政だけではありません。裁判制度もそして弁護士の制度もそうあらねばなりません。弁護士は、いついかなるときも裁かれる側の身近にあってその傍らに立ち、地域社会に根付いてそこでの正義の確立のために不断に闘う法律実務家として、自らを改めて定義すべきであると考えます。
そのことは当然に、弁護士が単なる法律実務家たる自由業者としての立場を去り、日本の弁護士が本来負っている公的責務を自覚しこれを果敢に遂行することを意味します。
私たちは、そのために必要な改革は進んで受け入れ、率先してこれを実践する覚悟が必要であることを痛感しています。
司法改革を唱えたとき、すでに、日弁連は、呵責のない自己点検が必要であると考えました。この場におられる中坊公平委員はその当時の日弁連の会長として、「市民の利用しやすい司法」を提唱するとともに、「自己改革」を会員に訴えました。
司法改革を提唱して10年になろうとしていますが、今日振り返れば、日弁連とその会員が徹底して自己のあり方を見つめ直す、批判と吟味の作業の過程であったといえると思います。
われわれ弁護士は、一市民から中小の企業、さらには大企業を依頼者として、その法的利益を守り、これを拡張するために日夜活動しています。
私は、同僚の弁護士が、その業務を遂行するために、まことの職業的良心にしたがい、名利を離れた努力をしていることを知っています。その中で凶刃に倒れ、また家族を失った会員もいます。体を壊し再起の途を失った会員もいます。われわれ弁護士の心中には受任事件を遂行するために自らと、ときには家族までを危険に曝しているという解けがたい緊張感があります。
そういう思いを持ちながらも、否、そういう思いがあるからこそ、われわれはあえて自らを厳しく問い直すことにしたのです。われわれは、利用者の尺度に代えて自らの尺度で自らの存在とそのあり方を問うことで満足しているのではないか。裁判所および裁判のあり方が国民の幸福追求に奉仕するものとなるようこれに働きかける責務は十分に果たされたか。現在の司法を批判しながらも、それを市民のものに改革するための努力に欠けるところはなかったのか。
その観点からいくつかの自己改革の取り組みが進められてきました。
私たちは、1990年、刑事裁判における弁護人の活動を改善するため、刑事弁護センターをつくり、全国どこの警察でも逮捕、勾留された被疑者から呼び出しがあれば、48時間以内に弁護士が無料で面会する制度をつくりました。
この制度は、裁判所や検察庁などのご協力をいただいて全国弁護士会に発展し、そして、今日ではこの制度が契機となって国費による被疑者弁護の制度化が検討されようとしていることは、ご存知のとおりです。
また、私たちは、市民がいつでも、どこでも安心して弁護士に対し法律相談をし、事件を依頼することができるようにするため、法律相談センターの拡充に努めてきました。裁判所の本庁、支部のあるすべての地域に設置することを目標にして、現在までに設置したのは130地域153か所になります。日弁連は来週の12月16日に臨時総会を開催し、「弁護士過疎・偏在対策のための特別会費の徴収」を決定する予定です。会員が拠出する特別会費の合計10億9500万円を、各弁護士会における法律相談センター事業と、間もなく実現する公設法律事務所の開設援助にあてる予定です。
法律扶助につきましても、弁護士がその経費と人的体制を提供して、今日まで最大の努力をしていることはご存知のとおりです。
そして、昨年11月、日弁連は「司法改革ビジョン」を作成し、司法改革の全容の点検を試みました。私たちとしては、積極的に司法改革を目指す運動に取り組んできましたが、私たちの力には自ら限界もあり、全体としての司法改革が必ずしも所期の目標を達成できていないことは、極めて遺憾というほかはありません。
平野龍一博士が1985年(昭和60年)の「現行刑事訴訟の診断」という論文の中で「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」と評した状況はまだ改善されていないという声は弁護士の中に根強くあります。捜査過程の改革にも十分な前進が見られません。
あるいは民事裁判においては、民事訴訟法が改正され、各地で裁判所と弁護士会の間で協議して裁判の運用改善の努力をしていますが、しかし、裁判を支える人的物的体制には手がつけられておりません。具体的には、裁判官、書記官などの増員や裁判所の施設の拡充、さらには弁護士の増員と業務体制の改善などです。こうした人的物的体制に手をつけないまま裁判の迅速化、効率化を追い求めた結果、裁判を受ける当事者からは、十分自分の意見を聞いてくれないとか、判決や和解での解決のしかたが強引であるとか、社会の常識にあっていないなど、内容的な適切さ、納得性の問題について指摘されているのはご存知のとおりです。
さらに、行政訴訟や憲法上の判断が求められる裁判などについて裁判所が十分機能を果たしていないことは、すでに各界から指摘されているところです。それが、行政事件訴訟法などの法律の不備、裁判官の消極性にも原因があることはもちろんですが、弁護士の側でも勝訴の可能性が少なく、経済的にも引き合わない行政事件を手がけようとしないところにも問題があるのではないかとの指摘があることも事実であります。
さまざまなことを申し上げてきましたが、要するに、私たち弁護士は、この当然の権利保障や権利主張がいまの司法によって受け容れられない、という市民の声に応えきれていないのではないか。ここに反省すべき点があります。
弁護士の専門家としての能力と活動は、わが国社会と地域住民のためにこそ活用されるべきものであり、その意味で弁護士は社会全体への奉仕者でなければならず、公共的、公益的な活動を行う責務を有するものであります。
では、これまでのそして現在の私たちのあり方は自らの社会的責務を十分に果たすものであったか、公益的な活動はわれわれ全員の血肉となっているか、目指すところとの懸隔はなお大きいとの誹りを受ける余地はないか。日弁連あげてのこうした自己点検と意識改革の取り組みは、会内に峻烈な対立をはらむ、予想以上に厳しいものがあり、率直に申し上げれば、未だ道半ばではあります。
それでも本日ここに私が出席させていただき、縷々申し上げましたのは、われわれ日本の弁護士の自己改革の方向性は既に定められたこと、しかも確実にその一歩が踏み出されていることを、司法制度改革審議会の委員の方々にご理解いただき、われわれの自己改革の道程と司法改革の道程とはまさに一体のものであり、両者は共鳴し相乗して、必ずや次代と世界に誇りうる「あたらしい正義のしくみ」を創り出すものであることを、確認させていただきたいと念願しているからであります。
弁護士と弁護士会は、希わくば「21世紀改革の旗手」として、司法改革を担い、これを完遂する決意を有するものであります。
4 司法改革の方向性
司法改革の方向性について申し上げます。
翻って、政治・経済・行政の各分野にわたってこれまで行われ、あるいは現在も進行している各種の改革は、少なくともその一側面でそれぞれの分野における官僚主導のありかたを民間主導に改めようとする指向性をもつものであったと言って差し支えないでありましょう。
さきの行政改革会議の最終報告には、「日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に決別し、自律的個人を主体として自らの責任を負う国柄への転換をはかる」との記載があります。このたびの司法改革もこの流れの中にあることは異論のないことと存じます。
三淵忠彦・初代最高裁長官は、かつて戦後の裁判所改革にあたり、旧憲法下では裁判官は「官僚的な地位」「一官僚たる地位」にあったとし、新憲法は、「従来の官僚的な地位を完全に否定し去ること」、「従来の日本の裁判官の地位と全く異なる」地位を確立することを求めていると指摘しました。裁判官の官僚性を払拭することが戦後改革における裁判官制度改革の課題だったのです。
現行憲法は最高裁判所への権限集中制度を採っているわけですが、この制度の下で、裁判所内部の組織体制や人事制度に官僚制を採用しますと、まさに最高裁判所を頂点とする確乎とした官僚裁判官制度が立ち現れることになり、それに組み込まれた裁判官が「従来の官僚的な地位を完全に否定し去ること」は不可能なこととならざるをえません。逆にいえば現行憲法は、裁判所内部の組織体制や人事制度のあるべき姿として、昇進や昇級などのない非官僚的なそれを予定しているといえるのではないでしょうか。そうでなければ裁判官の独立に格段の意を用いていることとの不整合さが否めないからです。
なぜ、裁判官が「官僚的な地位」にあってはならないのでしょうか。
ここで、本日、冒頭で申し述べましたとおり、裁判所は、国家機関ではあっても、国家のためにあるのではなく、一人一人の国民の幸福追求のためにある、裁判の運営とその結果として行われるあらゆる裁断は国民の幸せの実現に資するものでなくてはならない、それが現憲法が司法および法律実務家に命じていることの核心と言うべきです。
では、裁判官がこの精神で裁判を行うことを制度的に保障するためにはどうするか。
裁判官が思わず知らずのうちに国家の官吏として個人の権利・自由よりも国家の利益を優先する思考に陥り、結果として個人の権利・自由を軽んずるような事態が生じないようにしなければなりません。本人としては自覚していない、「官僚的な地位」に由来する、そのうちなる官僚性が裁判の公正さを浸食し、正義を形骸化させるのです。三宅正太郎大審院判事が、その「裁判の書」のなかで、現在の判事は社会で鍛えられていない醇乎たる裁判官であるから、少しでも油断すると自ら高しとする誘惑に陥りやすく、かつその油断する機会は極めて多いと指摘し、キャリアシステムの裁判官について「意識の下の私の心」への警戒と、自己点検、そして「他人に揉まれる地位に身を置くこと」を求めています。
裁判官が、利用者たる国民本位で裁判を行うように、裁判官個人の自覚と努力に任せず制度的に確保すること、裁判官の官僚性を根本的に排除すべきであるとする所以は、ここにあるのです。
今日、わが国の司法制度のありかたが社会の動きに著しく立ち遅れ、国民の要求、社会の需要に応えることが不十分であると、政界や財界、あるいは労働団体、消費者団体などからもこのことを指摘されるのは、このことにその一因があります。
わが国の裁判官はその勤勉さや清廉さにおいて高く評価されるべきであります。そのような裁判官のいわば犠牲の上に、管理と効率化が強調され、結果として、司法の機能の面でも、構成の面でも、いわゆる「小さな司法」となっていたことは否定することはできません。
そこで、今回の司法制度改革は、これまでの官僚司法制度を改め国民の手による司法を実現することにその中心的な意義を有するものと考えるものであります。日弁連は官の司法から民の司法への転換を司法改革の中心に位置づけ、また、中央集権の司法から地方分権の司法を目指すべきものと考えます。
すなわち、わが国のいまの司法が中央集権型の官僚組織による司法であったのを改め、地域に根ざし、地域社会と手を結び合った、地域市民による地方分権型の司法を目指すべきものであります。市民の司法および地方分権型の司法、総じてこれからの司法を「市民の司法」と呼びうるものとすべきだと考えるものであります。
5 司法改革の具体的提言-市民の司法へ
次に、司法改革の具体的提言について述べます。
日弁連は、今次の改革にあたって、司法を「市民の司法」として位置づけた改革を徹底すべきであると考えるものであります。
この道すじを明らかにするために日弁連は11月19日、理事会の決議をもって「司法改革実現に向けての基本的提言」を決定いたしました。別途審議会に提出致しますのでご覧いただきたいと思います。
その骨格をまず明らかにすることと致します。
日弁連は、この改革の基本的枠組を「市民による司法」として設定しています。これは主権者としての市民が司法の担い手として直接・間接に参加することを指しています。
そして、「市民による司法」実現のためには、市民に役立ち市民の求めに応える司法、すなわち「市民のための司法制度」の整備、充実が必要であります。
「市民のための司法制度」を充実し、「市民による司法」の基盤ができ上がるときに、司法は市民にとって身近な頼りがいのあるものとなります。これが「市民の司法」の実現であります。
これからの司法としての「市民の司法」の根幹をなすものは、いわゆる法曹一元、陪・参審の実現、市民の司法を支える実務法律家(いわゆる法曹)の養成と法学教育の改革、法曹人口の増加であり、この四つを不可分一体とするものであります。そして、この「市民の司法」実現のためにも、弁護士の自己改革を推し進めるものとしています。
なお、それぞれの改革課題については、日弁連として詳細な検討を試みておりますが、本日は時間の都合もありますので、概要のみを申し上げることにします。
(1)弁護士に関する改革
まず、弁護士に課せられた改革課題を、次のとおり考えております。
従来の弁護士・弁護士会が市民の法的側面における要求と期待に十分に応え切れていないことを考えますと、中心的な課題は、国民のすべての階層にわたり、かつ全国のすみずみまで弁護士に対するニーズに応じられるようにすることであります。日弁連は、これまで弁護士過疎といわれる地域をふくむ各地の法律相談センターの開設・当番弁護士制度の全国展開・法律扶助事業の拡大等のさまざまの努力を重ねて来ましたが、たとえば公設法律事務所の設置促進や、国費による被疑者弁護制度を契機にして、援助の必要なすべての被疑者に弁護人を付することなど、今後とも地域的にも業務の上でもあらゆる分野に法的サービスを行きわたらせることに力を尽くす決意です。
これらのことを実効的に行うためには、これに必要な、社会のニーズに対応することのできる質を備えた弁護士数を確保することが必要です。日弁連は、地域住民や消費者、企業など各層の要求に応えられるだけの弁護士数を社会に送り出しつづけるため、「国民の必要とする弁護士人口の増加と質の確保を実現」していくことを、今次の「基本的提言」で明らかにいたしました。
弁護士の法律事務の独占についてさまざまな批判があります。本来、弁護士法72条の趣旨とするところは、無資格者による法律事務取扱の被害を防止するためのもので、何よりも利用者の利益の面から考えるべきことであります。ご批判にあるような、私ども弁護士の職業的利益、経済的な得失に結びつけてこれを考えてはおりません。日弁連は、利用者の利益が確保されることを第一義に考えており、その改革にあたっては72条の趣旨とするところに照らして十分に検討されるべきであると考えています。当面、独占にともなう弁護士の責務を改めて自覚し、法的需要に応える方策を一層強力に推し進めるとともに、隣接業種との協力、協働関係の推進をその観点から推し進めていきます。
当番弁護士、法律扶助や国選弁護などは弁護士の公益的活動と位置づけられていますが、これら公益的活動の充実については、これについての弁護士の意識改革をさらに推し進め、さらには弁護士会会則の改正や法改正をもって弁護士に公益活動を義務づけることも視野に入れて取り組んでいるところであります。
日弁連は、市民の負託と信頼に応えるべく弁護士の資質と業務能力の向上を図り、また弁護士の倫理を確立するための手だてについても急ピッチで作業をすすめています。
(2)「市民による司法」-法曹一元と陪・参審の実現
次に「市民による司法」-法曹一元と陪・参審の実現についてでありあます。
日弁連は、法曹一元と陪審・参審の実現をもってわが国司法の「市民による司法」への転換を図るべきものであると考えます。
日弁連が提唱する法曹一元制度は、地域市民が重要なメンバ-として加わった裁判官推薦委員会が社会経験の豊かな実務法律家の中から最も適切と考える人を裁判官に推薦しようとする制度であって、「市民による司法」実現のかなめをなすものであります。
この法曹一元制度は、「市民による司法」を体現するものとして2つの意味を持っています。
その第一は、法曹一元裁判官はその資質において市民感覚を備えたものであることが求められます。その市民感覚は市民の中で活動する法曹有資格者の社会的体験から得られるものであり、また裁判を受ける立場に立った経験によって裁判をする者の豊かな認識能力は得られるものであります。
キャリアシステムのもとで司法研修所の門から直ちに裁判所にはいり、事件処理を通してしか世の中のことをみない裁判官が判決の内容や裁判の運営を市民感覚からかけ離れたものにして来たのではないでしょうか。各界からいまの裁判所に向けられる批判も実にこのことに原因しています。この弊害を除去するために市民とともに生活し、その利益を理解し、裁判において当事者代理人として経験を積んできた者の中から裁判官を選ぶ法曹一元制度が必要なのであります。
つぎにその第二は、法曹一元裁判官は市民が選ぶという選出方法において「市民による司法」を実現するものであります。
具体的な制度の構想は、なお検討を要するでありましょうが、裁判官選出機関として裁判官推薦委員会によるべきものと考えます。検察審査会のように高裁所在地あるいは都道府県単位に設置され、委員の過半数をその地域の市民の参加を得て構成し、裁判官候補者の裁判官としての適格性を判定しようとするものであります。
ついで、日弁連は市民の司法への直接的参加の方法として陪審および参審の導入を提唱いたします。
陪審制度は、裁判の事実認定を市民から選出された陪審員の手に委ねるもの、参審制度は市民が職業裁判官とともに審理を進めるもの、であって、共に「市民による司法」の一形態であります。これによって、文字通り市民が参加した裁判を実現することができるのです。
具体的には、まず刑事の重罪事件や国や自治体に対する損害賠償請求などの一定の民事事件に陪審を、少年事件に参審制の導入を検討し順次広げていくことを考えていきます。わが国が戦前に刑事陪審の経験をもっていることは、その実現を比較的容易なものにするでしょう。
(3)「市民のための司法」制度の整備
終わりに、「市民のための司法」制度の整備について述べます。
日弁連は「市民のための司法」制度の整備のために、司法の人的および物的インフラ整備が必要だと考えています。その中でもとくに緊急なものとして、すでに弁護士に関する改革課題として述べたほか、第1に、司法制度の整備充実のために裁判官・検察官の増員と国の司法予算の大幅増額が必要です。第2に、中間所得層までを対象にした法律扶助制度、第3に、国費による被疑者弁護制度とその実現までの間、当番弁護士活動への国の資金負担の実現、第4に、行政に対する司法審査を強化することによって国や自治体を相手として行政の適正化を確保し、市民が救済を求めることを容易にするなどの提言を、「司法改革実現に向けての基本的提言」に掲げました。さらに、かように「市民のための司法」制度を担い、かつ市民に奉仕していくべき実務法律家(法曹)の層を厚くしていくことが不可欠です。それには、法曹の質を確保していくための大学・大学院から実務教育、生涯教育までの一貫した理念に基づく法曹養成システムの確立を急ぐ必要があります。日弁連は、大学法学部とロースクール(法科大学院)構想との連携を視野に入れながら、これからの法曹の中核となる弁護士養成の必要に鑑みて、弁護士会も責任をもった制度づくりを早急に進めたいと考えます。
司法試験制度と司法修習制度も、新しい時代の新しい法曹像に合ったものにするために大きい視点から見直すべきです。
新しい制度実現までの過程にあっても、養成すべき弁護士数の比重の大きさも考え、いまの段階から司法研修所の運営にも弁護士会として責任をもって参加し、修習終了後の研修弁護士制度をつくるなど市民の要求に応えうる法曹を養成するように努めていきます。
6 おわりに
今から70年も前に、穂積陳重博士が、陪審制度の施行についてですが、つぎのように発言しておられるということです。
「現時の社会は過去の結果とも見ることができるし、また将来の原因とも見ることができます。
もし現在を過去の「果」と見ますればあるいは今日の陪審法は国民の要望にあらずということができましょう」「これに反し現在を将来の「因」と見ますれば立法における選挙権、行政における自治権と相並んで司法参与の要望が国民全体の胸中に潜在し、潜勢力の状態において存在することは明らかであります。故に過去の「果」たる現在のみに着目して国民の要望にあらずというは、楯の一面のみを見た偏見であると言わねばなりませぬ。すべて立法は将来のためにするものであります」(武田宣英日本陪審法論から)
司法制度改革はこのように将来を見通して、将来の社会と国民にとってどのような制度がもっとも望ましいものかを洞察することによって行われることが何よりも必要だと考えます。
審議会委員各位に対し、明日のより良き司法実現のための明確な道すじを示されるよう、一層のご尽力をお願いして日本弁護士連合会の意見表明を終わります。
以上