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中央教育審議会大学分科会

2002/02/08 議事録
中央教育審議会大学分科会法科大学院部会(第10回)


中央教育審議会大学分科会法科大学院部会(第10回)
   
1   日   時 平成14年2月8日(金)10:30〜13:30
         
2   場   所 三田共用会議所   第3特別会議室
     
3   出席者 ( 委  員 ) 佐藤幸治(部会長)、高木 剛の各委員
  ( 臨時委員 ) 石 弘光、濱田道代の各委員
  ( 専門委員 ) 磯村 保、川端和治、黒川弘務、小島武司、舘 昭、ダニエル・フット、藤川忠宏、藤田宙靖、牧野純二の各委員
  (文部科学省) 御手洗文部科学審議官、工藤高等教育局長、清水高等教育局審議官、板東高等教育企画課長、合田大学課長、山根私学行政課長   他
 
 
4   議   題
      (1)   法科大学院の設置基準等について/中間まとめに向けた検討
      (2)   その他
   
5   配付資料
  資料1 法科大学院部会(第9回)議事要旨(案) (略)
  資料2−1 目的による大学評価の類型例
(中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第5回)資料2)
  資料2−2 大学の教育研究の質の保証のためのトータルシステムに係る主な論点
(中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第5回)資料3)
  資料2−3 設置認可と第三者評価等によるトータルシステムの例(PDF)
(中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第5回)資料4)
  資料2−4 大学の質の保証に係るトータルシステムのイメージ(案)(PDF)
(中央教育審議会大学分科会将来構想部会(第5回)資料5)
  資料3 諸外国における大学のアクレディてーションについて(PDF)
  資料4 司法制度改革推進本部法曹養成検討会(第3回)配付資料
(資料1 現行司法試験について、資料2 新司法試験等について(骨子)、資料3 新司法試験等について)
  資料5 大学分科会の今後の日程について
 
(参考資料)
       法科大学院の教育内容・方法等に関する中間まとめ
    (法科大学院の教育内容・方法等に関する研究会中間まとめ、司法制度改革推進本部法曹養成検討会(第2回)資料3)

6   議   事
   
   以下の事項について事務局から説明があった後、質疑応答、意見交換が行われた。
   (○:委員、●:事務局)
   
【法科大学院の第三者評価(適格認定)について】
        
   どのようにアクレディテーション機関の財政的基盤を保障するのか。アクレディテーション機関に加盟している大学から会費等を集めるというシステムにした場合、不適格などの評価をすると会員が減るということから、難しいのではないか。アクレディテーション機関は公共的機関であるので国が財政的支援をしてもいいのではないか。
   
   将来構想部会においても、アクレディテーションの経費をどのような形で誰が出すのかについての意見はいただいている。アメリカではアクレディテーション機関が基本的にボランタリーな団体であるということもあり、会員校がお金を出し合っており、州政府や連邦政府は原則として財政的支援をしていないということである。ドイツの場合も6つのアクレディテーション団体すべてに財政的支援があるわけではなく、基本的には会費とアクレディテーションを実施する際の手数料を徴収しており、これらがどの団体も基本的な収入源になっているということである。
   
   ドイツの場合、すべてが政府の財政的な支援ではないという背景には何かあるのか。
   
   アクレディテーションというのは、ボランタリーに任意的に各団体が集まり、自分たちの教育研究水準を向上させようという自発的な発意で開始されたものであり、政府の規制を受けない自主的な活動であるというところから、経費についても自主的に集めているということである
        
   将来構想部会ではどのような議論になっているのか。また今後のスケジュールはどのようになっているのか。
   
   評価に係る費用の問題については、国の財政的支援の可能性も含め議論を集約していく必要があると思っている。今後のスケジュールとしては、総合規制改革会議の第1次答申で、大学設置認可の在り方とアクレディテーションシステムの導入という点について、14年度中に結論を出すことになっていることを踏まえ、3月中に中間的な形で将来構想部会としての議論を取りまとめ、6、7月ぐらいに中教審の答申に向けて取りまとめを考えている。その審議結果を受けて、制度的な手当てを講じていきたい。
   
   評価の費用の問題については、米国のABAのプロボノ活動による評価の運営の例なども参考にすることも考えられる。
   
   コスト負担の関係でアクレディテーションの公平さを疑われたり、透明性がなくなるということでは困るので、評価に係る費用を誰が負担するかについては慎重に議論する必要があると思う。
   
   アメリカのプロボノ活動によるアクレディテーションは、アメリカ独自の歴史的な背景やマーケットの必要性などの様々な事情により行われているのではないか。そのようなものを日本に根づかせるためには、政府が市場での競争がうまく働くような格好でのインセンティブを与えていく必要があるのではないか。
   
   アクレディテーションは司法試験の受験資格の付与と結びつくという大きな効果を伴うが、諸外国ではアクレディテーション自体のシステムに対して異議を申し立てる手続などがあるのか。
   
   諸外国では、アクレディテーション団体の内部でそのような手続を独自に整備しており、当事者は当該アクレディテーション団体であるという状況であり、国は必ずしも関与していないようである。アメリカの場合、アクレディテーション団体の認定基準を連邦教育省規則で定めているが、それによると適格認定自体が大学関係者だけではなく、様々な機関の関係者で構成されなければならないということ、適格認定の透明性の確保、適格認定に対する不服申し立ての手続、認定の基準自体についての事前告知や意見聴取の機会など、事前・事後の手続きについて透明性を確保することが求められている。ドイツの場合、団体自体を認定するためのガイドラインが学長会議で定められており、そこには独立性の問題として、例えば高等教育機関、経済団体、職能団体などからも独立しているという要素も加えて、意思決定機関の構成や運営の在り方や、これらの質を維持することを要件としている。
   
   設置認可が自由化されて、質の担保の比重がアクレディテーションにかかるとすると、設置認可はされたがアクレディットされない大学が当然出てくると思うが、そのギャップがあまりに大きいと、例えば学生の処理などでいろいろ問題が生じることから、実際問題としてアクレディットしないという決定がしにくくなるのではないか。法科大学院についてもアクレディテーションシステムを導入した場合、最初の段階で自由に設立された法科大学院が、その後に公正にアクレディットされない恐れがあることを懸念している。逆に非常に厳格にアクレディテーションをやると、大量の学生に不利益を与えることになるということも考えられるが、この点についてはどのような議論をしているのか。
   
   入り口の設置認可の段階でも、現在必ずしも十分に運用されていないということがあるので、質の保証を十分に行い大学の国際的通用性を確保するためには、一挙に自由化あるいは緩和するのではなく、例えば設置認可の際に総量規制的あるいは分野規制的な側面がある点を整理して基準を明確にし、その基準を満たせば認可されるという準則主義的な点を徹底するということが、総合規制改革会議の大きなポイントとなっている。単純に基準を一方的に緩めれば競争原理が自由に働きうまくいくという考えではないということで、トータルシステムを非常に重要視されているということだと理解しており、現在の実態にあわせて考えながら、今後、アクレディテーションの育ち方とか大学自らの評価の在り方も含め、品質保証全体のシステムを成長させていくことが重要であると考えている。
   
   アメリカでは、設置認可の取消しの前段階で様々な警告が行われることにより、大学の改善が行われるというシステムとして動いている感じがする。このようにして評価が将来に向けて改善し、大学として十分再生できるという健全化の一環として評価が行われるというものであれば、評価機関もそれにふさわしい、開かれた運営ができるものにしていく必要があるのではないか。また、認定基準の事前告知、意見収集の機会などの事前手続や意思決定についての不服申立て、苦情などの事後手続を透明化し、各関係者の対応の中で大学の改善が行われていくことにより、大学だけではなく、評価機関の評価の在り方自体も問われていくことにより、評価機関が評価基準などについて自己反省なども行われるのではないか。
   
   ヨーロッパの場合は、国王によるチャータリングであり、アメリカは自分で国を建てたという国民性から、任意による設置やアクレディテーションが中心である。日本の場合は、戦後、アメリカの制度にならって導入したアクレディテーションが根付きにくく、その後、設置認可については国が中心に関与することとなり、他方で、社会の中で様々な評価はあるものの、大学人の間で切磋琢磨していこうというムーブメントは必ずしも育たなかった。今後は、できるだけ国の関与を少なくしつつ大学のステータスを高めていくという方向性の中で、事後的なアクレディテーションを自発的にやってもらうということなので、その際に、アクレディテーションを国の下請けで行うのだから財政的支援もなされるべきだという意識では大学が育たない。これに加えて、今後、法科大学院を専攻やコースといった形で設置する場合には、これらの認可は従来の研究科の組織としての認可では限界があり、例えば、教育のプログラムに着目して認可するということなども考えられるのかもしれない。
   
   法科大学院のアクレディテーションは司法試験の受験資格と関連しているが、将来構想部会における大学全般に関する評価システムと法科大学院に対する評価システムとの関係はどのように考えているのか。
   
   通常、国家試験の受験資格という場合には、個人に着目し、個人と学校制度とのリンクとなり、例えば、医師国家試験の場合では、学校教育法における医学の課程を修了したというアプローチの制度設計であるが、法科大学院の場合は、第三者評価における適格認定が受験資格との関わりでどのように構成されるかということであり、適格認定を受けた法科大学院の修了者という部分をどのように位置付けて行くかということが問題だと思う。
   
   第1段階としては昭和24年にアメリカ流のアクレディテーション機関として、大学基準協会がつくられたが、あまりうまく機能しなかったため、設置認可の職務が大学設置・学校法人審議会に移り、純粋な意味でのアクレディテーションだけが基準協会によって行われてきた。第2段階として4、5年前から改めて第三者評価というものを大学の運営をアクレディットしていく仕組みとして構築しようということになり、まず、一般的な第三者評価というものを各大学に実施してもらうことになり、さらに国立大学の法人化が行われたときに、第三者評価を大学評価・学位授与機構が行うことにほぼ決まっている。第3段階として、国家試験を伴う資格を持つ人たちを教育する新しい大学院についての認定をする必要があるということになった。この3種類の第三者評価を、将来において、50年前の理想の姿を持った、一本化されたものに持っていくのか、あるいは専門化した第三者評価にしていくのかということについて考える必要があると思う。
   
   アメリカのロースクールに関するアクレディテーションの制度は、大きく分けてミニマムスタンダードの担保、ロースクールの改善の両面があると思う。設置認可が取り消されるという心配のないロースクールであっても、再認定を軽視するわけではなく、問題点・改善点を事前に自己点検して、再認定のコミッティーに結果を報告している。また、アクレディテーション機関はロースクールの授業等を観て、インタビューを通じて改善のアドバイスを行うとともに、それに参加する委員も自分が所属する法科大学院の改善にその結果を生かしている。このように、アメリカのアクレディテーションシステムでは改善を促すという役割が重要になっていると思う。
   
【新司法試験等について】
   
   新司法試験がどのようになるのかによって、法科大学院がどうなるかが決まってくると言っても過言ではない。現在の司法試験は、一発式のペーパー試験で実施していることから、思考力や分析能力が弱く、断片的な知識しか持っていない学生しか選抜できないという弊害があったため、プロセスによる法曹養成が必要だということをずっと言われてきたが、法曹養成検討会ではそのことが全く理解されておらず、新司法試験においても現在の司法試験と同様のものをやろうとしていることが如実にあらわれている。新司法試験の概要では、例えば短答式の問題について、実施することができる余地も残しておくべきとしているが、これは、六法全書を調べればすぐにわかることを新司法試験で調べるということであり、プロセスとしての法曹養成についてどのように理解しているのか非常に危機感を持っている。また、法曹倫理の問題について、被害者の傷みがわかる人格的に優れた人間をつくることが法科大学院のねらいであるにも関わらず、それは試験が難しい、あるいは正解がないからということで省いてしまっている。倫理というのは正解がないことがまさに倫理の問題であり、それについて悩んでいるという姿勢が出ているかどうかということは、答案で書きようがあると思う。さらに、予備的な試験による、バイパスをつくるかどうかということについては、新司法試験の案を見ると非常に幅の広い形で第2の道とし明確に位置づけているが、意見書では、経済的事情や既に社会で十分な経験を積んでいるなどの事由により法科大学院を経由しない者にも法曹の途を確保するという、非常に限定的で例外的なケースであるという理解であった。このような意見書の趣旨を没却する形で予備的な試験の受験資格を無制限にすると、相変わらず予備校に通い予備試験のための勉強ばかりをしてきた人が受かるということも出てくるのではないか。中教審の所掌事務の中に、法科大学院の在り方について調査・審議することになっていることから、司法試験がこの法科大学院の健全な成長を妨げないように司法試験についても部会で議論し、法曹養成検討会に対して意見ぐらい言えるのではないか。
   
   意見書の出発点が何であったかということが一番大事だと思う。法科大学院においてプロセスを経た者が法曹になっていくということをいかに制度的に担保するかということを検討すべきである。予備的な試験についての幅が非常に広いということは、極端に言うと法科大学院に合格した者が同時に予備試験を受けるということにもなりかねない。それをチェックすることは最低限必要だと思うが、それは現行司法試験を法科大学院入学者が受験できるかどうかということにもつながっていく。すなわち、現行司法試験については受験資格の制限がないが、こういう法科大学院制度を立ち上げるということは本来望ましい制度はこれであって、いきなり現行司法試験を止めるということは受験生に対する制度的な保障ができないということであり、そういう意味での移行措置を一定期間設けるということなので、可及的に法科大学院制度を経た者が法曹になっていくということを担保するということが必要だろうと思う。そういう点で予備的な試験の枠をどうするか、あるいは現行司法試験と新司法試験へのルートを目指そうとする法科大学院の入学者の関係をどうするかというのは非常に慎重に検討すべき問題であると考えている。
        
   予備的な試験の部分には絶望感を感じている。予備的な試験は例外的な狭い道であると理解していたが、新司法試験の案では無制限に予備的な試験はだれでも何回でも受けられるというものであり、無制限に予備的な試験を経た人たちが受験資格を持つということで、場合によってはますます合格率が低くなることも考えられる。そのようなことになれば、法科大学院に入っている学生も最初から予備校に通い、新司法試験の受験勉強をせざるを得なくなるのではないか。新司法試験の案では予備的な試験は法科大学院で幅広く学習を行った者と同一の本試験を受けるのにふさわしい学識・教養の有無を問うものとするのが相当と思われるとなっており、他方意見書では幅広い法分野について基礎的な知識・理解を問うとともに、法科大学院の教育に対置し得る資質・能力を適切に審査する機会を検討することとなっている。学識・教養と資質・能力とは相当異なるという理解をしているが、法科大学院では学識・教養、幅広い物の考え方、分析の仕方、物の調べ方などを教育するはずであるのに、予備的な試験ではその中の学識・教養だけしか問わないことになっていることから、結局、知識中心の試験のままなのではないかという懸念がある。
   
   短答式試験を法科大学院の修了時に行うということになると、法科大学院での理想の教育というのはほぼあきらめた形になり、学生もこれに向けた勉強をする事も考えられると同時に、大学院側としても無視できない圧力になり、法科大学院の理想としている教育は飛んでしまうのではないかと懸念している。予備的な試験について、受験資格を制限することは相当ではないということについてびっくりしたところである。質的にどのように制限するかということは検討する必要があると思う。受験資格を無制限とすることはできないということについては、法務省の案でも書かれており、また再受験の許容との関係から見ても、受験回数制限に伴う形の制限だけは最低限行われるということになるのではないか。何らかの形でチェックが入る仕組みをつくらなければならないはずであるにも関わらず、現行司法試験との関係では、出願者が法科大学院経由者でないと確認することは事実上不可能であるから、これを欠格事由としないというところはそもそも矛盾しているのではないかと不信感を抱いている。
   
   今回の司法試験改革案には大変がっかりした。企業では、従来は年功序列や人間関係などによるあいまいな評価でやってきたが、それが非常に行き詰まり、企業にとって欲しい人材、昇格させたい人材というのはどういうものかということを社内的に多く議論し、専門知識・能力、想像力、決断力などの評価項目を決めた。これらの評価は大変難しいが、社内でそれを評価する人を教育したり、マニュアル化するなどのシステムをつくり上げた。弁護士についても単なる民法、刑法の知識で測るのではなく、弁護士としてどのような能力を期待されているのかを明確にした上で、その能力を身につけさせるためにどのような評価を行うべきかをもう少し議論してほしかった。
        
   言うまでもなく、新司法試験の内容は、法科大学院の中身を決定的に決める要素であるが、特色ある分野に重点を置いたような法科大学院であっても司法試験に合格できるような配慮が必要であり、必修科目と選択科目のバランスが重要である。つまり、今後、知的財産権、技術、医療、環境など多様な分野でそれを売りにする法曹が出てきてしかるべきであり、自分なりに目標の分野を定めて勉強したいという学生が新司法試験に合格できるという配慮をしてほしい。
   
   新司法試験の案は、せっかくプロセスとしての教育を言っていながら、全プロセスが終わったときに一発勝負の試験をするということになっている。3年間のプロセスを法科大学院の教育の中で踏んでいくわけであり、ある種の想定されたプロセスごとの能力判定も考えられるのではないか。すなわち、様々なカリキュラムについて広範なテストがそれぞれ用意されており、かつ、途中の段階で1つずつ自分の目標をクリアしていくというやり方も考えられるのではないか。
   
   このままでは、大学法学部が第1次予備校、プロフェッショナル養成を目的として職業にアプローチするステージであるはずの法科大学院が第2次予備校ということになってしまう。新司法試験は、なぜ今回、このような改革をするのかという本質を見失わないでほしい。
     
   司法試験の在り方についての結論は、この部会で出すものではないが、多大なエネルギーと資力を使ってつくろうとしている法科大学院が本当に育つかどうかということに決定的にかかわっている問題である。
   
   司法試験の在り方が、法科大学院の指導内容、教育内容に大きな影響を与えるということをしっかり認識して、これからの制度設計を考えていくべきである。まず、法科大学院においては、厳格な成績評価や修了認定が行われることによって、修了までの間に質及び量の双方の観点で学生の十分な選抜が行われることが、プロセスとしての法曹養成の大きな前提になっているはずであるが、一方、日本の風土として入るは難しく出るは易くということが教育の実情ではないかという印象があるため、厳格な成績評価や修了認定を行うことが本当にできるのかという素朴な疑念を国民が持つ可能性は非常に大きいのではないか。法科大学院でのプロセスとしての法曹養成という以上、やはり成績評価、修了認定をきっちりやっていくシステムづくりが一番ではないか。それに対する評価が定まれば、司法試験のありようも相当変わってくるのではないか。また、法的思考力を養成することが法科大学院教育の第1の目標であり、知識は本人の自学自習に委ねられるということはわかるが、知識無しでは法的思考力の養成にはつながらないのではないかという素朴な感じもある。短答式試験ついても、法科大学院における評価を全国的に統一的にチェックするという意味で、従来のイメージとはかなり変わってくると思うが、そのような制度として短答式試験が必要か、不要かについては十分議論の余地があるのではないか。
   
   新司法試験案では、予備試験の基本的性格について、法科大学院において幅広く学習を行った者と同一の本試験を受けるのにふさわしい学識・教養の有無を問うものとなっているが、審議会意見書では、非常に慎重に書かれており、法科大学院における教育に対置し得る資質・能力が備わっているか適切に審査するとされている。その意味で、法科大学院が目指しているものは、学識・教養ではなく、資質・能力まで含めた訓練的なものであり、予備試験ではこのようなことを法科大学院の教育と同等なこととして審査すべきと思うので、意見書の書き方に沿った試験がどういう形でできるのかということを是非検討してほしい。
   
   部会が始まったときは、現実的な議論をしつつも理念・理想は忘れないようにしようということが強調されたが、検討会では現実的な議論だけしか行われていないという気がする。今の司法試験で選ばれている人たちが、実際の社会で求められている法律家とズレがあるからこそ、法曹養成制度を改革しなければいけないとされていたにもかかわらず、現行司法試験で優秀な成績を取った人達が改革案を作ること自体が、自己矛盾ではないかという気がするぐらいである。アメリカのエリート校の教育では、調べればすぐにわかったり弁護士になっても、解決できるような法律のルールは重要視されておらず、法的分析能力と、企業行動が社会でどう受け取られるかをきちんと把握する能力が重要視されていると聞いている。それとは逆のことを新司法試験が法科大学院に強制してしまうのではないか。
   
   新司法試験案は、まず司法試験ありきという発想に立っている。今まで議論されてきたのは、まずプロセスとしての法曹養成としての法科大学院があり、その仕上がりとして司法試験があるということであったが、観点が逆になっているのではないか。過激な意見ではあるが、法科大学院構想が理想的な形で実現していくならば、司法試験や司法研修所は不要になるはずである。すなわち、ロースクールではやらない実務の細かいことについては、ロースクールを出た後の各裁判所や弁護士事務所などの実務において学べば済むし、司法試験についても3,000人の定員を定める必要もなくなるはずである。一発勝負で全部の科目について、合格か不合格か決めるのではなく、一つ一つの専門の分野について、大学におけるプロセスとしての教育の中で単位の積み重ねにより修得するという方法だってあり得ないわけではない。このように考えると、受験者が増えるから短答式による試験も必要であるという発想は出てこないのではないか。また、実績もないロースクールがどのようなものであるかが心配だという意見もあるが、そのために司法試験や司法修習の制度はとりあえず残しておくとロースクールの方も成長しなくなるので、ロースクールの成長の方にかけようという考え方もある。
   
   新司法試験案は、従来の流れの中では急激に異なる急流に差しかかったという感がある。第1に、新司法試験案は、審議会の意見書と完全に矛盾するものであり、法科大学院を中核とした全体システムにとって自己崩壊を招く種のようなものであり、必ずそれが実を結ぶのではないかと心配である。第2に、法曹養成の考え方の精髄をこれまで議論してきたつもりだが、その議論と今回の新司法試験との間には大きな矛盾があるように思える。今後徹底的に議論するならば9割以上は認識が一致する問題だと思う。養成の根底にあるべきものが何であるかということについて表では相当対立があるが、根本的なところでは8割以上の方が合意している力強いものと確信している。第3は、法曹のあるべき姿から考えて、この新司法試験案には正当化できないものが数多く存在するのではないかと思う。例えば、知識を重視するかどうか、確実な知識は実務の現場からすれば絶対に重要なものであるが、これをどのような形で学生に修得させるべきか、その基本的な知識のチェックがなされないために、弁護過誤や誤判の問題が起きないよう、法律業務の現場の中で対応されてきている。このような様々な問題も法科大学院を成長させていくプロセスの中で解決できるのではないか。
   
   法科大学院部会のマンデートではないかもしれないが、新司法試験について、これだけの議論をしたということについて、法科大学院部会と法曹養成検討会の委員を兼ねている委員の方々が意見を反映すればいいのかもしれないが、国民に対してもっと知ってほしいというアピールの意味で何らかの意見表明ということは考えられないか。
   
   法科大学院ができる前から信頼してくださいと言われても、そう簡単にできるのかという気持ちはわかるが、新しい構想を本格的にエネルギーを使ってつくろうとしているときには、それを助長する方向でものを考えていただきたい。そうでないと、結局中途半端な改革しかできないという今の日本の直面している大きな問題状況を解決できない。そのような問題状況を本格的に突破しようとしたのが、改革審議会意見書の打ち出した考え方である。法科大学院を育成するという観点から、法科大学院部会においても、この問題がとらえられることが必要であり、検討会の委員も兼ねている委員には、今回の議論・意見をそれぞれの立場で法曹養成検討会に是非伝えていただきたいと思う。
   
7   次回の日程
   次回は、3月1日(金)に開催することとなった。




(高等教育局高等教育企画課)


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