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中央教育審議会大学分科会

2001/10/26 議事録
中央教育審議会大学分科会法科大学院部会(第4回)次第

中央教育審議会大学分科会
法科大学院部会(第4回)次第
 
日   時 平成13年10月26日(金)14:00~16:00
     
場   所 文部科学省別館大会議室(郵政事業庁庁舎11階)
   
議   題
  (1) 法科大学院独自の学位(専門職学位)
  (2) 課程
  (3) 教育内容・方法等
  (4) 課程の修了要件
   
配付資料
 
資料1 法科大学院部会(第3回)議事要旨(案)(略)
資料2-1 舘委員説明資料
資料2-2 学位制度の主な変遷について
資料2-3 各国の法曹資格と学位(課程)の関係
資料3-1 課程と学位の対応関係
資料3-2 法科大学院(仮称)の名称
資料3-3 法科大学院の目的
資料3-4 法科大学院の公平性、開放性、多様性を確保するための履修形態について
資料3-5 通信制の法科大学院について(遠隔授業も含む)
資料4-1 法科大学院の教育内容・方法について
資料4-2 厳格な成績評価及び修了認定
資料5 大学院の標準修業年限と修了要件の比較
資料6 大学分科会の今後の日程(略)
   
(参考)
参考1 専門大学院制度と法科大学院構想の比較
参考2 法科大学院(仮称)の設置に関する検討状況の調査について(依頼)
(内閣官房司法制度改革推進準備室)


    出席者  (委員) 佐藤幸治(部会長)、高木剛の各委員
(臨時委員) 濵田道代委員
(専門委員) 磯村保、井上正仁、太田茂、奥田隆文、川端和治、小島武司、舘昭、
ダニエル・フット、藤川忠宏、藤田宙靖、牧野純二の各委員
(文部科学省) 結城官房長、工藤高等教育局長、清水高等教育局審議官、
板東高等教育企画課長、合田大学課長      他
    議事

(○:委員、□:説明者、●:事務局)

(法科大学院独自の学位(専門職学位))

   前回に引き続き、法科大学院独自の学位(専門職学位)について、まず事務局からWTO(世界貿易機関)における資格の相互承認と学位の関係の議論について報告があった後、舘委員より報告があり、質疑応答・意見交換が行われた。

   前回の議論の中でWTOにおいて学位の議論があるかとの質問があり調べたところ、WTOにおいては、弁護士を含むいわゆる自由職業サービス全体に適応される資格の相互承認要件等について検討が行われている。その手始めとして、会計士については会計士の国内規制に関する会計の規律が作成され、現在その規律を他の自由職業サービス分野へ拡大するため検討中である。また、その規律においては、取得された資格については教育等の同等性については議論になっているが、学位の相互承認が議論の対象にはなっていない。

【舘委員(大学評価・学位授与機構評価研究部教授)の報告及び質疑応答】
  報告事項:「法科大学院で授与する学位について」

   今議論されるべき学位というのは、法曹としての職業的な法律家としての高度な法務を実践できる基礎能力を持つものであることを証明する、欧米で言われているprofessionaldegree、これを日本語に訳すと専門職学位と訳さざるを得ない。これを日本でどういう名称にするかは検討する必要があるということであるが、想定されるものが、アメリカで専門職学位として法曹の高度な法務を実践できる基礎能力を証明するという意味での学位にあたるJurisDoctorに相当するものを考えているので、仮にJ.D.学位と呼ぶ。学位には日本流でいう学部段階レベルと大学院レベルと両方あるが、大学院レベルの学位の場合、研究者養成の系列の学位と高度専門職業人養成の系列の学位があり、日本では主に今まで研究者養成と考えられてきて、高度専門職業人養成の学位についても修士等で検討されてきて広がってきているが、その証明する能力は異なるものだと認識されている。
   JD学位は後者の系列の学位にあたり、法曹として高度な法務を実践できる基礎能力ということで、研究者の研究能力とイコールのものではないと考えられ、それを用意する教育課程を修了した者(サクセスコンプリートという言い方をするが)に対して授与される課程はJ.D.課程プログラムと位置づけられると思う。
   学位の問題が議論される場合学位だけを取り上げることはなく、教育課程と結びついて議論される。日本では教育課程があってその修了者に学位を授与する、と学位だけを取り上げるが、欧米ではそういう形では多分議論しない。学位の名称は大学が保証する能力の証明であり、J.D.の学位の場合、専門職学位として創設する際に重要と考えられるのは、学位と大学の関係をアメリカのdegreeに近づけてとらえる必要があるのではないか。つまりdegreeは大学が保証する特定能力の証明で、その能力は、大学が準備している教育課程によって養成される。つまり、degreeの名称はどのような能力を持つものかを表すものでなければならない。またdegreeは大学の発行する最重要の能力証明であるから、サティフィケートや色々なものを出す。ランクとしてはBachelor等あるが、どの場合も大学の発行する最重要の能力証明ということであり、その教育課程は日本流でいう正規課程に位置づけられて、degreeの名称を冠して呼ばれる。日本では正規課程というところをアメリカでは学位課程と言う。
   そういうことから、法科大学院が出す学位は、国際的通用性なども考えると、専門職学位と教育課程の名称と一致させて出す必要があるが、そのことはイコール法科大学院という入れ物(教育施設)自体が専門職学位だけを出さなければいけないということは意味しないのではないか。現実にアメリカのロースクール(法律学校)では、その主力がJ.D.学位であって研究者養成の学位も併せてLL.MやS.J.D(法律科学博士)というのを出す。したがって、入れ物自体はいくつかの課程を持っていて、当然ロースクールの場合は専門職学位のJ.D学位課程が主軸であるが、研究者養成をしないという意味ではない。しかし、学位が証明する能力を養成する課程としてはJ.D課程としてはっきり区別されている。つまり、法科大学院でも研究者養成をするということが議論にあったが、その場合は学生が学習するプログラムとしては、構想されているJ.D課程と区別しないと専門職学位課程としての徹底がなされないのではないかと思うが、大学院イコール1つの学位ということではない。
   また、J.D.に相当する学位と修業年限との関係であるが、構想している学位の水準をJ.D.に匹敵するものとする場合、国際的な通用力の面からみると学位課程を3年とするのが妥当だと思われる。この場合、2年でよしとする意味をよく考える必要があると思う。学部段階で法律学を学んでいない者は3年、学んだ者は2年という構想がされているが、前者の場合は、他の分野を学び学士を取り、他の分野の事を学んでいるのでトータルで形成される能力は後者の場合と違ったものになってくるのではないか。そういう場合学位の点から見た場合、最終的には違った能力水準を期待する形になると思われる。
   J.D.学位は博士なのか修士なのかあるいは新しい学位の名前の創造が必要なのかという問題があるがJ.D.はJurisDoctorであり、そのDoctorは、研究者の基礎能力の証明であるPh.D.(DoctorofPhilosophy)のDoctorと同一語なので博士にすればよいと考えることは単純に言えばそう思われるが、問題がある。英語のDoctorは、特になにも付けなければ辞書を引くとはじめにお医者さんという意味が出てくる。Doctorはイコール博士ではない。事実アメリカの医師は専門職学位としてM.D.を保持している。これに対して日本では医師をカタカナでドクターと呼ぶが医学博士を取得するには研究者になることが求められる。つまりドクターと博士は違う意味で使われている。
   求められる日本のJ.D.は医療面での医療ドクターに対応する法務面での法務ドクターと言える気がするが、そうすると博士という言い方がふさわしいのかどうか。日本語の博士はいわゆる学者、研究者の称号という意味が強い。また、俗に末は博士か大臣かといわれるように律令制度のもとでの学者官僚の身分からきているので雲の上の存在というイメージがある言葉で、期待される実務家のイメージからは遠い名称であると思われる。また、新しい名前を使わずに修士、博士のいずれかを冠した名前を付けるとするとイメージと離れて、制度として博士、修士との関係を考えても問題が残る。博士課程の目的は研究者養成か、職業人の場合でも高度な研究能力の証明であって、本来的な意味での専門職学位の性格を持たない。修士課程の目的は高度専門職業人養成を含むようにされてきているが、設置基準では研究指導を必要とするなど研究者養成に主眼がおかれている形の設置基準になっている。さらに、日本の学位を修士とした場合にそれをJ.D.と英訳することができるのかという問題もある。
   ただし、この課程が2年でもよしとされて、実質2年制で運用されるとすると修士もあり得るとは思う。ただ一方で、一応法務ということ、何か実践的なイメージに冠して法務博士とすることもメリットがあるかと思う。そういう問題があるにしても、新しい何とか士というものをつくってそれがイメージのDoctorになるかはわからないが法務博士のような名前を作ってその博士の意味を定着させていく努力をすることもよいかもしれない。
   現在大学で学士がどう訳されているかというと、医学(学士)で英訳の時にMedicalDoctorとしDoctorと訳しているところがかなりある。一方で法学はBachelorと訳している。博士では医学はM.D.という表現はなくて、アメリカ流のMedicalScienceやPh.D.という。法学にはJ.D.のような表現はない。また英語のDoctorは教師に由来する。日本語の場合は先ほどのような語源があるということ、あるいは専門職学位と研究者学位の区別を相当はっきり立てているということの説明があるので参考にしてもらいたい。

   他の学士号を持った上で3年課程を修了した者と法学を学び2年課程を修了した者とでは、形成されるはずの能力は違ってくるということは非常に重要であり、そのような能力を反映させるとすれば、3年課程の卒業修了者と2年課程の修了者で学位を変えるという考え方も有り得るのではないか。つまり、3年制はJ.D.で、2年制はJ.M.に。そうしないと同じ資格を得るのに3年課程と2年課程があるとなれば、2年課程で簡単に取りたいという人が増える可能性があり、2年課程のような安易な構想がはびこりかねないかと懸念しているが、得られる学位が違うということになれば、J.Dという国際的に通用する学位を与えるために3年制中心で法科大学院を構想し学生を集めることのできるような、望ましい政策的な誘導ができるのではないかと思うが、そういう方法は制度上可能か。

   制度上可能かは厳密にはわからないが、課程ごとに学位の名称がつくべきでないか、あるいはプロフェッショナルスクールという入れ物に置かれる課程という形で考えるという考え方が出ているが、専門大学院は専門大学院の修了年限という言い方に、学部も大学の修了年限と言ってしまい、学士課程という概念なしに言うので非常に分かりにくい。また、考え方は大学院も大学ではないのかという話しになると非常に分かりにくくなり、学位を課程ごとに置くという発想が出来なくなる。法科大学院の学位も大学としての能力証明、勉強した内容を反映したものであればJ.M.とJ.D.というレベルで分けるということもあると思うが、考え方としては両方ともDoctorということであるが違う名称が付いている。やはり違う勉強を課した場合は違う名称の学位を出した方が社会的な信用度が増すのではないかと思う。

   意見書では、法曹養成のあり方として3年制、2年制のどちらが原則だという考え方は必ずしも取っていない。法科大学院というのはあくまで法律専門家としての素養能力を身につけさせるということであって、他の分野を余計に学んでいることがプラスして初めて法曹としての能力があるという構想ではない。この構想の一番の基本は、今の司法試験が過度の受験競争になっていて、受験勉強的なことしかせず、その法制度の基礎的な理解、体系的な理解すら欠いており、そのために応用力等も欠けているということで、法曹としてのレベルアップを考えなければいけないということが基本にあったと思う。現行の司法試験制度はオープンで色々な人が試験を通って法曹になれ、その面を更に伸ばすべきではないかということで多様なバックグラウンドの人も入ってきてもらい、そういう方と法律を基礎で勉強してきた人とが一緒になって勉強することによって多様性をもたせようというものであるので、課程として一緒に勉強するということが基本にあったと思う。1つの教育プログラムに対応した1つの学位ということであり、2つに分けるのは制度としておかしいのではないか。必ずしも学部を卒業しているということを前提にはしていない。現行制度上も大学院において同等の能力が認められれば大学院に入れることになっており、制度上未来的に閉ざしてしまうのはおかしいのではないかと思う。法科大学院の中に研究者養成コースを設けて教育課程を分けてLL.M.という学位を出すという発想だが、専門大学院が旧来の研究者養成中心の大学院の中に別の教育プログラムを作ることにより専門大学院ということが出来るという理解なのだと思うが、それと同じように従来の研究者養成コースの大学院の中にLL.M.やDoctorの課程とは別に法曹養成に特化した課程を設けることによって別の学位を出すことが論理的に言えば可能なように思うが、学位の英訳の関係で、医学部の場合に学士でありながらM.D.(MedicalDoctor)を用いているところがあると思うが、英訳はそれほど公に定められたものでないとすると、修士についてJ.D.と訳すのは難しくなるということは分からなくはないが、できないということでもないのではないか。

   英訳の際に、修士レベルであってもJ.D.と訳すことは実際上実例があるように可能だと思う。国際的に名称の議論はないと思うが、学位であれば良いと思う。正規課程だということを言うために学位課程だという言い方をするが、学位は名称ではなく、どういう中身を用意してどういう能力を身につけているかを見るためのもので、名称はその国によって違い、一番通用している外国語がそれにあたるということで使うということは出来ると思う。

   法科大学院の中に研究者養成コースを設けてそれについてはLL.M.という学位を出すことが可能だろうと、しかしその場合には教育課程を分けなさいという話であるが、今専門大学院が旧来の研究者養成中心の大学院の中に別の専攻ないし独立研究科でもいいが、課程を別にして専門大学院ということができるという理解なのだと思うが、それと同じように従来の研究者養成コースのLL.M.やDoctorの課程とは別に課程を全く別にして同じ箱の中に法曹養成に特化した課程を設けることによって別の学位を出すことは論理的に言えば可能なように思うが、そういう理解でよいか。

   論理的に可能だが、入れ物の設置基準自体が変わってくると思う。法科大学院の基本的な設置基準と大学院の設置基準が違ってくると思う。何をJ.D.学位課程を定義する仕方により可能になると思う。アメリカのロースクールの場合は要するに学部がない。
アメリカのプログラムとなるとこれは学生が取る課程という意味であるので、授業は研究者養成の方も実務家の方も一緒にとる授業があってもいい。結果として研究者養成を目的とする課程の取り方と実務家養成の者の課程取り方が違うので、課程はしっかり区別する必要があると思う。

   設置基準の点についてはすでに専門大学院の方で基準が違うので、同じ入れ物の中でも可能であり、そこは必ずしも障害にならないのではないかと思う。

   法曹資格というのは司法試験に受かって修習を経て、法曹になる資格として全く別に決められる。学位については、どういうプログラムで学んだかを反映させる学位をつければ良いと思う。だから3年課程はまさにアメリカのJ.D.プログラムに該当し、その短縮型をアメリカのJ.D.課程とするのは、2年課程と3年課程とでは大きな壁であり問題があるようなのでJ.M.とする。そうすればJ.D.というより困難なコースに色々な制度設計を誘導していく上でも少しは役に立つのではないかと思う。

   学位を2年課程と3年課程によって分けることは、政策的な色彩が強すぎ、制度を設計する時に政策的な考慮を滲ませすぎるのは問題があると思う。入学の時点で両者の法学に関する基礎知識は違うが、最終的なプロダクトとしての卒業生は同質になるものとして法科大学院は存在すべきものであるということから、学位を分けるということについてはやはりそぐわないと思う。どのような名称を統一的なものとして用いたら良いかという点についてはもう少し広い裾野からこの問題を考えて結論がどうなるかというのを自由に考えるべきと思う。名称としては一応J.D.が良いと思うが、国際的な学位についての実状をどう理解すべきかという点と関係する。アメリカについては既にJ.D.という動きでほぼ定着している。ただこれはそんなに古いことではなく比較的新しいことではないかと思う。そして政策的考慮によっていわばリーダープロフェッションの地位向上ということと若干関係があったのではないかと思う。重要な事実は現在世界の法曹の4分の3がアメリカの弁護士が占めていて、それが全世界に活動していて、世界的に1つのリーガルカルチャーを形成しているという事実は相当重く考えるべきである。もう1つ重要な問題はここ10年くらいで一般的な感覚は格段に違ってきて大学院修士課程使う可能性が非常に大きいと予想される。その辺りのことも一応は読みきってそれをどう評価するかを決定した上で考るべきではないか。

   2年課程と3年課程とで学位を分けることには基本的に反対である。あくまで標準修業年限は3年であり、2年課程でも同等の教育が可能な者について短縮を認めるということなのだから、学位を与える対象に差があるのではない。ところで舘委員の報告ペーパー1頁に「法曹としての高度な法務を実践できる基礎能力を形成し得るものとして用意された教育課程」とあるが、この点は改革審意見書の72頁が「十分にその教育内容を修得した法科大学院の修了者に新司法試験実施後の司法修習を施せば、法曹としての活動を始めることが許される程度の」とされていることと整合しておらず、その点を論理的にどう説明するかが問題と思う。この観点からは、カナダの場合、ロースクールを卒業後、実務修習が必要とされており、むしろカナダのロースクールの学位がどうなっているかが、参考となるのではないか。

   一緒に勉強することが前提であるから違う学位を付すのはおかしいという議論は成り立たないと思う。アメリカでもJ.D.とLL.M.コースのものと一緒に授業をしているが、違う学位を出している。もっとも2年課程と3年課程の扱いに関しては、個々の大学サイドの計画とは別に全国的にどうすべきかという議論がなされるべきである。その中で学位の問題も絡んでくることになるかもしれないが、学位の問題の方から2年課程と3年課程の問題を議論すると、少し話の道筋がずれてくる懸念もある。学位自体の問題としては、新しい称号を作ると社会的な定着にも困難が予想されるので控えた方がよいという指摘がされているが、一般論としてはそうかもしれないが、法科大学院に関しては、まったく新しいものを作ろうとしているのであるから、まったく新しい称号を作ることも考えられ得るのではないか。

   法律家を採用している立場から言えば、学位は全然気にしていない。JurisDoctorだから良い弁護士だろうと思って採用しているわけではない。インタビューして仕事を少しやってみてもらい判断しているので学位がどうであるかというのはそれほど重要ではない。

   法科大学院の学位は高度な法務を実践できる基礎能力を持った者に出すのか、それとも法曹としての活動をはじめることができる者に出すのか、また、学位は結果で見るのか、それとも法科大学院での学習の課程を大学が証明するということなのか、どちらの問題なのかというところで今の話が違ってくると思う

   基礎能力という表現は一般的に使ったもので、法科大学院修了後に司法修習があるか等そこまで厳密に考えて使ってはいない。日本の場合も教育課程として面倒見る所はとりあえずここまでだという一般的な意味で使っている。

   学問の世界、学位の世界、研究者の世界、教育の世界、そこでも起こっている問題で法曹養成の分野でも起こっている共通の問題があると思う。それはトレビアリズム、瑣末化と訳すが、それは1人1人の専門があまりにも狭くなっていって、深くなるのは良いのだが狭くなって広い視野で物が見られなくなっているという問題であると思う。
   この司法制度改革で法曹養成の問題としては、やはり広い意味での人間あるいは社会、それが理解できる人たちが法曹の1番大事な条件なのだということを何度も議論してきた。あらゆる教養を身につけていること、自分が研究対象とした問題の背景にある研究の歴史全体をレビューしてみるということ、その上で研究を遂行する能力を持っていて一定の成果をあげてそれがネットコントリビューションを学会に寄与したこと、これが学位をやることの意味であった。そう考えてみると今回の司法制度改革で法曹に求められるものというのは視野の広さ、それが保証されるということを基本に考えて学位を考えるべきである。

   法曹としての高度な法務を実践できる基礎能力という部分で、司法試験との関係も良く考えておく必要がある。法科大学院の課程を修了し卒業する人の中からこれまでとは比較にならないくらい相当高い割合で合格するという制度が考えられているが、不合格の者も同じ学位を取得することで、本来司法試験に合格する人たちが取得すべき学位の価値を下げることになってしまわないだろうか。学位を普及させる努力をすることは、これも法科大学院で修得すべき能力がどういうものになるのか、その実質がいわば学位の価値を決めるわけで、先に何か形があってそれを普及していくのは何か議論が逆のものになると思う。

   卒業時には同質になるということがロースクールを巡る議論で一番本質的なことだと思う。そういう意味で2年課程をやめて3年課程にするように改善するというのが本質的な議論の始まりだと思う。司法試験を通るという意味では同レベルになるかもしれないが、それ以外の1年の間に司法試験では問わないような人間性なども身につけた者が法曹になることを求めていかなければならないのではないか。その辺の本質的な議論をどうするかによってこれを単に学位の問題だけでない法曹養成の本質論のようなものが関わっているのではないかと思う。


(課程、教育内容・方法等、修了要件)
   事務局から資料の説明があった後、民事法、刑事法及び公法カリキュラム・モデル案の概要について磯村委員及び事務局より報告がありその後、質疑応答・意見交換が行われた。

     カリキュラムの内容、単位をどう考えるかについては、次回のヒアリングを踏まえて詳細を議論したいと考えており、今回は、おおよその論点を整理するということで理解していただきたい。

   現行の大学設置基準によると、講義及び演習については15時間から30時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもって1単位とするとされており、何を想定してモデル案が作成されているかにより学生のスタンスが異なってくるが、この点はどのように考えているのか。

   民事法、刑事法のモデル案を作った際の単位の基準は、1コマを90分ないし100分という前提で考えた。これを50分の2つに分けることを排除しているわけではないが、従来の学部における単位数の計算がそのようなベースになっているので、それと対応しやすい時間計算を採用した。

   その前提に立って報告書にある単位数を計算すると、1年次については民事法26単位、刑事法12単位、公法6単位で44単位が必須となり、2学年目についても民事法16単位、刑事法10単位、公法6単位で32単位必須となり、学生が絶えられるような単位設定とはならないのではないか。

   これは1つのモデルであり、場合によってはその単位数が変動するという可能性が含まれている。また、この民事法、刑事法モデル案を考えた際は、公法系の単位も含めカリキュラム全体としてどのようなものになるかを十分に意識していなかった。トータルでどうのような調整をするかについては今後別途に検討する必要がある。

   理論と実務の架橋という法科大学院の目的からして、アメリカのロースクールの1年次で採用されているリーガル・リサーチ・アンド・ライティングやプロフェッショナル・リスポンシビリティー(法曹の専門職責任)などの科目が必置であり強調されるべきであるにもかかわらず、実務関連の科目も含め、これらの科目がモデル案では全く書かれていないようであるが、このことについても別途検討する必要があるという点は同様であるか。

   本モデル案は、法科大学院におけるカリキュラムのあり方を総合的に研究したものではなく、民事法、刑事法に限って検討したものであることをご理解を頂きたい。ご指摘の実務関連の科目やリーガル・リサーチ・アンド・ライティングの必要性を看過しているという趣旨では全然なく、そのような科目をどの学年にどのように位置づけるかについては、法科大学院のカリキュラム全体の問題として当然考慮すべきであると認識している。

   全くそのとおりであり、全体のカリキュラムの姿については、次回のヒアリングの際にさらなる議論をしていただきたい。

   単位制度上、1単位とは45時間分の学習、すなわち、1日8時間、土曜日5時間として1週間分の標準的な学習量を指している。このため、1単位45時間のうち15時間を講義の受ける部分として、講義時間だけで必要単位数を計算すると、それが多く積み上がるが、実習時間も含めた授業単位数の計算は、1学期に15単位くらいしか設定できないということとなる。実習時間を減らして講義の時間を増やすなどの調整はあるだろうが、1週間につき1単位分の勉強量が要求されているという前提に立たたないと、単位計算が非常に混乱する。

   1セメスターが15週ということであれば、1年間は2セメスターで30週であるから、30単位が1年間の科目履修の上限とならなければ、1単位が45時間分の学習であるという基準を満たさないという理解でよいか。

   一般論ではあるが、日本の学部教育の現状として、講義や演習について45時間のうち15時間で1単位を与えており、学生の学習量を考えていないことがある。その結果、過剰登録等の問題が起き、履修単位数の上限設定が必要になってしまった。どのような単位制度をつくるにせよ、学生は1日8時間程度の時間で勉強するように単位を組むべきであり、1学期を15週として考えるのであれば、授業、実習も含め1学期には15週分の学習量しか課せないのではないかと考える。

   アメリカのロースクールでは、大変密度の濃い教育を行うため、セメスター制であれば1セメスター当たり15単位の履修が限度であると考えられおり、15単位以上の科目を履修すると予習時間を確保できない。例えば、ハーバード大学の学生は15単位しか履修していなくても皆真夜中まで勉強している。日本のロースクールにおいてもこのような密度の濃い教育を想定しているのであれば、モデル案における単位数の履修は難しいのではないか。また、モデル案では法哲学や比較法、法制史などの基礎法学が盛り込まれておらず、これはおそらく3年次のカリキュラムに入ることを想定しているのであろうが、実際上3年次では、学生はプラクティスの方に目を向け先端的科目を重視するであろうから、結果として基礎法学がどれだけ履修されるかは疑わしい。このような点についても、カリキュラムの検討の中で考慮してほしい。

   モデル案の検討時においては、それぞれの科目毎に必要な教育内容を考え単位数として積み上げていった結果、多くの単位数になってしまったということがあるが、今後、カリキュラムの全体像が示された時には、比較的リーズナブルな単位数になっているのではないかと考える。また、基礎法学については、必ずしもアメリカのロースクールの1年目で開講しているわけではないし、個人的には、基礎法学として独立させた科目を設けるよりは、実定法科目の中に基礎法学的な側面を盛り込んでいくべきではないかと考える。なお、全体の単位数については、現場で教育している実感からすると、あまり少なくしてしまうと最近の学生は流行的なところへ行ってしまうこともあるので、ある緊張を持たせながら十分勉強してもらうために、1日に2科目程度設定することが適当ではないか。

   アメリカのロースクールの教育のように、学生が授業以外の時間は食べる時間と寝る時間を除いてすべて図書館にこもって勉強したり、必死になって勉強した結果がその後の自信に繋がっていくような密度の濃い授業を、法科大学院で実際にどの程度行うかが重要である。日本の現在の学部の講義や演習の焼き直しで法科大学院を作るのではなく、理想的なプロフェッショナルスクールを作るという決意を示しながら、今後議論してほしい。

   民法に関しては、モデル案では基礎科目として12単位という設定をしているが、現在の法学部では、2年生から3年生の後半くらいまでに4単位科目を5つ、合わせて20単位を履修することとなっている。すなわち、法科大学院では、法学部における20単位分を1年次において12単位程度でカバーしようとするため、かなりインテンシブな形で工夫して教育を行う必要があるということである。モデル案の検討をそのような前提に立って行ってきたが、1年次においては少人数教育の利点を生かしながら相互にディスカッションをするような教育を行うということで、12単位で適当なのではないかということになった。

   法科大学院の基本的考え方として、法律の体系的理解、法的思考力、リサーチの能力が求められることがあるが、現在の法学部の卒業程度として要求されている水準としての体系的理解はどの程度であり、それが法科大学院においても全て必須として要求されるのか。

   体系的理解については、その基礎的なものとして、例えば、民法の中でどのような問題がどのように位置づけられるか、どのようなことをすれば問題解決を導く事が出来るかという整理をしっかり出来るということがおおよそのイメージであると理解しているが、そのような法学部教育の理想と現在の法学部学生の水準の現実は乖離しており、現在の平均的な法学部の卒業生の知識というのは法学部教育に求められる水準には達していない。

   カリキュラムの内容として何をどれだけ教えるのかという問題があるが、これについては設置基準でどこまで定めることとするのか。また、法科大学院ではどこまでを検討すれば良いのか。

   基本的な基準についてはできるだけミニマムにすべきであるが、それを決める前提として、どのようなカリキュラムの形になるかは理解しておく必要がある。法科大学院では、知識を多く詰め込むのではなく、考え方を鍛えることを前提として予習や復習により徹底的にしぼるような教育をすべきであるので、単位数は欲張らない方が良いと考える。これについてどの程度のものが適当かは、次回のヒアリングを踏まえ、各自にさらに考えてほしい。

   設置基準に加え、法科大学院としての最低限の質を維持するためには第三者評価基準が必要であり、最低限教えないと行けない教育内容などについては第三者評価の問題となると聞いているが、設置基準と第三者評価基準の両者が全く無関係ではなく密接に結びついており、授業の単位の具体的中身を把握しなければ設置基準を決めるわけにはいかないので、各科目の単位数などが今回の議論に上がっていると思っている。

   文部省の検討会議のときからの問題であるが、1年次の基礎科目と2年次の基幹科目に分ける発想が、単位数を肥大化させる1つの原因になっているのではないか。すなわち、法学既修者として2年次から入ってくる者が、学部で密度の濃い双方向的な授業を受けているとは限らないために、基幹科目として密度の濃い授業を受けさせる必要があるという発想でカリキュラムを組み立てようとすると無理が生じてくる。アメリカのロースクールでは、1学年目に、実定法科目の集中的な教育を行い法的なものの考え方を叩き込んだ上で、2年目3年目は自由に幅広い選択をさせる教育をおこなっているが、日本の法科大学院制度についてもそれに対応するような事を考えなければいけない。標準修業年限として3年が設定されていることは、このような教育を行うためには3年必要であるからであるという原点を忘れないような設計が必要である。また、マックレート・レポートには、アメリカの法曹にとって要求される能力としての基本的なロイヤリング技能と法律家の基本的価値観を身に付けるための必要事項が盛り込まれているが、日本の法科大学院が行おうとしているのはこの一部でしかない。司法制度改革審議会意見書に書かれている法科大学院の目的と教育理念についても、制度的に位置づけてほしい。

   単位数については、各系統からの要望ベースで積み上げると全体が膨らみ過ぎてしまうことになりがちであるが、問題は、すべての法科大学院について、スタートの時点から、一律に必要とされる単位数としてどれだけのものを要求するのか、ということではないかと思う。ところで、議論の仕切りについてであるが、カリキュラムについてどのような実質的な内容のものが要求されるかということは、設置基準の問題でなく、基本的に第三者評価基準の問題であり、司法制度改革推進体制の方において、国民の意見を幅広く聞きつつ決めていくことである。ただ、この部会においても、そのような実質的な内容についての議論をせずに、抽象的に学生・教員比率等を議論しても意味が無いので、このような議論がなされているものと理解している。
   設置基準という観点から、資料にもあるように、夜間大学院、昼夜開講制、通信制などについては、大いに検討していただきたいと思うが、更に、是非検討願いたいことは、法科大学院の公平性・開放性・多様性を確保するための設置形態として、連合や連携の問題である。法科大学院が小人数教育で教員を十分確保して教育をしようとする場合、マクロ的に見れば、多数の法科大学院を設立しようとする動きが限られた教員の人的資源の奪い合いになり、結局は各個の法科大学院の教育体制の水準を低下させてしまい、水増しされたような状態になってしまうおそれもあるのではないか。
   今後、法科大学院はすべて個々の単体としての設置という発想ではなく、地域における連合や、場合によっては、国立と私立とを跨いだ連携的な協力関係も制度的に可能となるなど、従来の発想にとらわれない仕組みも積極的に検討すべきではないか。

   法科大学院がどのようなもので実質を基本としてあるべきかについては相当程度共通認識が形成されていることを感じているが、どこまで深く本当の意味でそれを共有するかについては課題であり、最終的な調整は困難であり容易に考えてはならないということを関係者が理解しつつ、今後徹底的に絞り込んでいくという姿勢が必要である。そのためには、基本的なこととして、法的なものの考え方、リーガルプロフェッションがどのようなことをする職業なのか、クライアントのニーズなどに立ち返って行かざるを得ないが、生じうる具体的な問題としては、議論によく出てきている体系という言葉が、色々なところで色々な形で援用され、その実質的な理解が失われることは、法科大学院の基本的理解というものを引き裂くような形に左右しかねない重要な問題を孕んでいるということがある。なお、小規模の大学であっても、教育の質においても教員本人の満足度においても極めて最高の水準に達し得るということも認識しておく必要があるのではないか。

   標準修業年限は3年であり2年制のみの法科大学院は認められないことは明確であるが、実際の姿として2年制と3年制のどちらが原則で例外かについては、議論を避けたいと考えており理解してほしい。学位については、何か新しいものを打ち出す方向で検討してはどうかと考えている。次回については、法科大学院について検討をしてきた京都大学の田中成明教授に来ていただき、ヒアリングを行うので、その際に更なる検討をお願いしたい。

    次回の日程
次回は、11月12日(月)に開催することとなった。

 

(高等教育局高等教育企画課)

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